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おか

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邱橓
だい明太子めんたいこふとし南京なんきん吏部尚書しょうしょ
せきぬき 山東さんとうしょぐすくけん
ぞく かんぞく
ごう 茂實しげみごうがつりん
諡號しごう 簡肅
出生しゅっしょう 正德まさのりじゅういちねん(1516ねん
山東さんとうしょぐすくけん
逝世 まんれきじゅうさんねん(1585ねん
南京なんきん
おやぞく おか雲章うんしょう、(嗣子ししおかくもはじめ
出身しゅっしん
  • よしみやすしじゅうねんみずのと舉人
  • よしみやすしじゅう九年庚戌科進士出身
著作ちょさく

れい摘訓》、《四書ししょ摘訓》

邱橓(1516ねん—1585ねん),茂實しげみごうつきりん山東さんとうしょしろ明朝みょうちょう政治せいじ人物じんぶつ進士しんし出身しゅっしん

生平おいだいら

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おか橓自ようひん篤行とっこう好學こうがくよしみやすしじゅうねん(1543ねん)舉鄉ためしだいよしみやすしじゅうきゅうねん(1550ねん殿どのためしちゅう進士しんしため行人こうじん行人こうじん[1]よしみやすしさんじゅうさんねんますけいきゅうごとちゅう

よしみやすしさんじゅうよんねんなながつやまとろくなな十人在道路上流竄搶劫,したがえ太平おうひらあさ南京なんきんすすむはん南京なんきん兵部ひょうぶ尚書しょうしょちょうとおるとうひとせき閉城もん敢出せんりょうてんはなれひらききゅうごとちゅうかん察御紛紛ふんぷん彈劾だんがいはりてっとうもりじょう官員かんいん罪過ざいかちょうてっじょう解釋かいしゃく閃爍言辭げんじおか橓上疏彈劾其欺騙,ちょうてっさむらいろうひね洙被罷免ひめん當時とうじよしみやすしみかど長期ちょうきあさ,而いむたかしてのひらひかえ國事こくじおか彈劾だんがい大臣だいじん獨斷どくだんあさつなはいたゆ招致しょうちいむたかし恨。ひさ彈劾だんがいいむたかしとうやすしなつじゅんなでしゃおうてんいんはじめ貪婪どんらんしゃ淮被罷免ひめん同年どうねんいむたかしまた罷免ひめんおか橓彈劾從いむたかしところすすむますてきじゅんてんじゅんなでじょしんとうにんよしみやすしみかど罷免ひめんりょう其中さんにん[2]

よしみやすしよんじゅうねん擔任たんにんみぎきゅうごとちゅう[3]よしみやすしよんじゅういちねんにんれいみぎきゅうごとちゅう[3]けいひだりきゅうごとちゅう[4]兵科へいかきゅうごとちゅう彈劾だんがい南京なんきん兵部ひょうぶ尚書しょうしょとげ鎮守ちんじゅりょうひろ平江ひらえはくひねおうにしきころもまもる指揮しき使だいけいとうじんむさぼもとめすすむますきさき吏部考察こうさつひねおう謨被かわしょくひさまた劾罷浙江せっこうそうへいかん當時とうじこうむふるすすむはんとおりしゅう總督そうとく楊選とうひと逮捕たいほざいこうむ撤退てったいきさきおか橓率りょう同僚どうりょう陳述ちんじゅつぜん後事こうじよろし,并指邊疆へんきょう防衛ぼうえいへいはしよしみやすしみかどみとめためおか橓不彈劾だんがい楊選,ばっろくじゅうつえけい,斥為みん,其餘官員かんいん邊疆へんきょうあるざつしょくおか歸鄉ききょうただゆういち篋衣ふくいちたば圖書としょ而已。

りゅうけい初年しょねんおこりためれいきゅうごとちゅう[5]ぼつゆう赴任ふにんずい,擢南京太きょうたつねしょうきょう[6]すすむだいしょうきょういんびょう罷免ひめん[7]

まんれきみかど即位そくいきさき官員かんいん交相推薦すいせんちょうきょせいみとめためおか橓的行為こういかいぎょう」,「けい德也とくや」,竟不召用。[8]

ちょうきょただし死後しごまんれきじゅういちねん(1583ねんあきおこりおか橓為みぎどおりせい[9]かえうえにん就被擢為ひだりふく[10]すわいちしばしゃ赴任ふにんざい入朝にゅうちょうきさき陳述ちんじゅつ吏治積弊せきへいはちけん事情じじょう[11]

ずいじょう疏,たたえとう時給じきゅうごとちゅうあきら周世すせせんちょうふくいん忤逆こう貶,文選ぶんせんろうえびすなんじかつら以忤尚書しょうしょかたぶけおうとう甄別ろくよう于應あきら誣陷りゅうだいあずかおうはじめ同罪どうざいおうはじめ戍變而應あきらぼつゆうやめかんろうこらえめぐなで福建ふっけんころせさむらいろうひろしちょうせんちょういちかんおうてんきょうこころみおうおうかなえ藉機ちゅうしきぜにかん廣鄉ひろさとためしさき請張せい少子しょうし就試,恰逢ちょうきょただしとげわたし選擇せんたくおう篆子おう衡中しき曹一夔きょ監察かんさついんもりしょう馮保ため顧命大臣だいじんしゅのりゆい馮保ためちちゆうななためけい。此すうにんおうとうじゅうしん定位ていい才能さいのうせい朝廷ちょうていつなひさますにん刑部おさかべみぎさむらいろう[12];萬曆帝起用魏時亮、周世すせせんちょう檟、ふく聘、えびすなんじかつらそぎ于應あきらろうこらえちょういち鯤、曹一夔、しゅ璉籍,貶錢岱さんきゅうひさ,跟隨ちゅうかんちょうまことぜん往張きょせいしょう五月ごがつはついたりりょうちょうやめ餓死がしじゅうくちじん[13]官員かんいんいたりはり锱铢必究,取出とりで黄金おうごんまんあまり两,しろ银十あまりまん两,所得しょとく财产ひさし及预计的じゅうふんいちおか不滿ふまんかえよう张家招出よせそんたく外的がいてきひゃくまん银两,拷問ごうもんとうなか,张居せい之子ゆきこ张敬おさむかちけい,“誣服よせさんじゅう萬金まんきん於(曾)省吾しょうご、(おう)篆及でんさくふねとう”,缢身ほろび[14]张敬おさむぜんとめいちふう书,ゆび责邱橓等じん“含沙以架祸,载鬼以起だい狱,此古今ここん宇宙うちゅう稀有けうこと。”かえちょくよび“邱侍ろうかつ阎王”,“奉天ほうてんいのち而来,如得其情,则哀矜勿可也かなりなにしのべおちいひと如此酷烈こくれつ!三尺童子亦皆知而怜之,いまとくやめ,以死あかりしん。”[15]于慎ぎょう曾給辦案てき邱橓うつししん:“とう其柄せい,舉朝そう頌其こう而不敢言其過,今日きょうすんではい,舉朝そうさく其罪而不敢言其功,みな情實じょうじつ也。……またこうりょう太夫たゆうじんざいどうはちじゅう老母ろうぼるいしか诸子みな书生,わたる世事せじせきぼつきさき必至ひっし落魄らくはくりゅう离,为酸すわえ。”[16]劝他不要ふようこう报私かたき

おか橓返きょうきさき擔任たんにん刑部おさかべひだりさむらいろう增俸ぞうほういち秩。[17]これあらためため南京なんきん吏部尚書しょうしょまんれきじゅうさんねん十二月じゅうにがつそつ於任內。[18]おく太子たいしふとしたもておくりな簡肅。てき清廉せいれん氣節きせつため當時とうじ輿論よろんしょ稱讚しょうさん[19]

延伸えんしん阅读

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维基文库中的相关文本:あかりまきひゃくじゅうろく》,出自しゅつじあかり

參考さんこう

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  1. ^ くにあされつきょう ,9さつ136かん ,156
  2. ^ 漢籍かんせき電子でんし文獻ぶんけん資料しりょう-あかり列傳れつでん ,226かん ,5933-5937:おか橓,茂實しげみしょしろじんよしみやすしじゅうきゅうねん進士しんしよし行人こうじん擢刑きゅうごとちゅうさんじゅうよんねんなながつやまとろくななじゅうにんしつどうりゅうこう太平たいへいちょく南京なんきん兵部ひょうぶ尚書しょうしょはりてっとう閉城敢出,閱にち引去ひきさきゅうごと劾時てっ守備しゅびしょしんざいとおるまたうえ其事,かくれまもる。橓劾其欺罔,とおる及侍ろうひね洙皆やめみかどひさしあさいむたかしせん國柄くにがら。橓言權臣けんしんむべどくにんあさつなよろしひさしたゆいむかさみふかし憾之。やめ,劾嵩 とうやすしなつじゅんなでしゃ淮、おうてんいんはじめ淮貪黷,しゃ淮坐めんねんかさみはい,橓劾ゆかりかさみすすむしゃじゅんてんじゅんなでじょしんとうにんみかどため黜其さん
  3. ^ 3.0 3.1 あかり實錄じつろくむね實錄じつろく ,507かん ,8359
  4. ^ あかり實錄じつろくむね實錄じつろく ,514かん ,8433
  5. ^ あかり實錄じつろくきよしそう實錄じつろく ,7かん ,200
  6. ^ あかり實錄じつろくきよしそう實錄じつろく ,18かん ,520
  7. ^ あかりごと ,おのれくじ10かん ,606
  8. ^ 漢籍かんせき電子でんし文獻ぶんけん資料しりょう-あかり列傳れつでん ,226かん ,5933-5937:遷兵きゅうごとちゅう。劾南京なんきん兵部ひょうぶ尚書しょうしょとげ鎮守ちんじゅりょうこう平江ひらえはくひねおう謨、にしきころも指揮しきだいけい咸以まかないすすむだいけい吏,おう謨革にんやめまた劾罷浙江せっこうそうへいかん鏜。寇犯どおりしゅう總督そうとく楊選逮。及 寇退,橓偕其僚ちんよし後事こうじよろし指切ゆびきりへいみかど以橓はや劾選,つえろくじゅう,斥為みん謫邊かたざつしょく。 橓歸,敝衣へいいいち篋,圖書としょいちたば而已。りゅうけいはつおこりにんれいいたりひろ擢南京太きょうたつねしょうきょうしんだいしょうきょうやまいめんかみはじめりつげんかん交薦。ちょうきょせいあく召。
  9. ^ あかり實錄じつろくかみはじめ實錄じつろく ,140かん ,2603
  10. ^ あかり實錄じつろくかみはじめ實錄じつろく ,142かん ,2641
  11. ^ 漢籍かんせき電子でんし文獻ぶんけん資料しりょう-あかり列傳れつでん ,226かん ,5933-5937:萬曆十一年秋起右通政。うえ,擢左ふく,以一しばしゃ就道。すんで入朝にゅうちょうちん吏治積弊せきへい八事やごとげんしんくにじゅうねん士風しふうやや靡,吏治てん汙,遠近えんきん蕭條しょうじょうにち甚一じんいち。此非うんてきしかよしふう 不振ふしん也。如京かんこう滿まん河南かなんどうれいしょしょうしょくそと吏給ゆかりなで按官がいあずか保留ほりゅう。以朝廷甄 べつてんため人臣じんしん交市。敢徇わたし而不敢盡ほうあくしょ懲,かしこまたあんすすむ。此考績之積弊せきへい一也かずやじゅんかたはなれこくもん,而密ぞく姓名せいめいやめみつるわたし牘。はじめ臨所,而請ごと竿ざお牘,また滿まん くだりだい。以豸かんむりおのたばしゅ俯眉,聽人頤指いし。此請たく積弊せきへい也。 なで按定かんこう,必託有司ゆうし有司ゆうしそく是非ぜひ,侈加ぜんかんがえかんつかさいさお且畏かれ結納ゆいのう上下じょうげぶんとろけしか。其考もりれい也,また如是にょぜ。此訪察之積弊せきへい三也みつやむさぼぼくしげるふうなまみん塗炭とたん,而所劾罷しゃだいたんかん輭弱これりゅう。苟ひゃくそくむしでんつばさとらそく贓穢おおかみせきかえとうこも剡。いむしょう吏而寬大かんだい吏,しょうにん而略にん。此舉劾之積弊せきへいよん也。 懲貪ほうざいひさげとい。乃豺おおかみのこ狐狸こりとえゆう其名。あるかげたて使つかいあるるい逮而 くだりある批駁以相のべある朦朧もうろう以幸めんそくあるおわり竟其ごとまた必博ちょうあつこれめい,而以つきほう いやつと苴或るいまんきん,而贓とめすわこれ銖黍。くさすがあるすうじゅういのち,而罰きず其毫釐。此提といせき へい也。 こも舉糾劾,しょ以勸儆有也。こんこもそく先進せんしん而舉かんゆう憑藉しゃあずか焉。劾則さき 舉監而進たてゆう訾議しゃ罕及焉。すすむせっせんけい出身しゅっしん。於是同一どういつかん也,敢接 せき而坐,比肩ひけん而行。諸人もろびと自分じぶんていのぼる,吏民かん瞻頓こと助成じょせいおごたてふう大喪たいそうけんごう。 此資格しかく積弊せきへいろく也。 しゅうけん雖卑,また臨民かん也,必待以禮,しかせめ以法。こん也役使譴訶,こと輿こし 隸。どくにん其污黷害みんくずきんれいあずかほうりょうしつ矣。學校がっこうしょく賢才けんさいしょせきこん不問ふもん 職業しょくぎょう,而一聽其所為しょい。及至考課こうかのり曰「此寒かん也」,がいあずかうわこう若輩じゃくはい上官じょうかんわが重也しげやのりいん自棄じき上官じょうかん必我憐也,またしたがえ而日偷。此處ここ教職きょうしょく積弊せきへいなな也。 じょうゆう門生もんせい座主ざすしょうわかじゅん按,舉劾其職也。乃劾しゃにん其怨,舉者どく おかせためおんみことため舉主,而以門生もんせいかたみ篚問のこ終身しゅうしんはいかりあかりあげてんひらき賄賂わいろもん惑乎清白すずしろ吏不がい於天也。方今ほうこんこくあずかみん俱貧,而官どくとみすんで以官而得とみかえ以富而市かん。此餽遺積弊せきへいはち也。 よう此八しゃはい壞之げん不在ふざい於外,したがえ轉移てんいまた不在ふざい於下おした也。むかしひとしおう烹一おもね大夫たいふふういちそくすみ大夫たいふ,而齊國大こくだい陛下へいかまこと大奮おふんいぬいつよしやめ懲吏へいのりふうぎょうくさ偃,天下てんかたて矣。疏奏,みかどしょうぜん。敕所司しょしなで奉行ぶぎょう如詔しゃつみ
  12. ^ あかり實錄じつろくかみはじめ實錄じつろく ,147かん ,2740
  13. ^ あなこうりょうこころざしあまりしょう:“長子ちょうしけいおさむ家人かじんしたがえ死者ししゃじゅう餘人よにん。”だんくに榷》:“橓得しょ不納ふのうじょうはいくつがえちょう甚慘。みことのり使いたりさきいのちもりれいろく人口じんこう子女しじょ避於そらしゃ及發しゃもんやめ錮,餓死がしじゅう餘人よにんいぬ啖之。”
  14. ^ しゅうきよしすわえたからまきさんちょうきょ正傳せいでんせつ:“長子ちょうしけいおさむ縊死いし家人かじん死者ししゃるいるい。”
  15. ^ あきらちょうたかしおさむ,《れいせい主事しゅじけいおさむ血書けっしょ》:“嗚呼ああ天道てんとう無知むちしつ好生よしおとく人心じんしんなんはか,罔恤盡瘁じんすいちゅう。嘆解もう無人むじん,嗟縲きずなつみ,雖陳ひゃく喙,きわむ莫釋おっとそし讒,おもんみちかい一死いっし,以申其冤うつ。竊先こう以甘ばんきゅう眷,簡在みつ勿,其じゅうねん輔理こうただ奠天於磐せきすんでもとめほまれまた恤毀,致有今日きょうわざわい;而敬おさむ以長嗣,かか茲閔きょうなに敢愛身命しんめい而寂一言ひとこと也。憶自よんがつじゅういちにち聞報,じゅうにちそくうつりきょ舊宅きゅうたく男女だんじょおどろき駭之じょうむごにんごといたりがつはつにち,邱侍ろういたはつ七日提敬修面審,其當事とうじうわさくつかたちあずか吏卒咆哮ほうこうけいみな生平おいだいらしょけい受者,而況からだせきさんしゅ戴幪はば乎!ざいけいおさむかた不足ふそく惜,どくこごめすわせんおおやけひゃくまんぎんすう不知ふちさきおおやけれきかん以來いらい清介せいすけこれごえ傳播でんぱうみ內,おもんみへんさん竭資不能ふのうかんそくこな碎骨またなんたかししゃ!且又よう誣扳曾確あんよせぎんじゅうまんおうすくなかたよせぎんじゅうまんでん大川おおかわよせぎんまんくもしたがえそくやめしたがえすなわち奉天ほうてんいのち行事ぎょうじ!”こわ嚇之ごとれいじんきも落。嗟此さんいえみな怨府えんぷ,患由ちょうもん及之,而又以數じゅうまん爲寄ためよりなに其愚也!われさんいえたてむさぼ不能ふのうゆう此積,また不能ふのう完結かんけつ此事,われ後日ごじつなんめん目見まみ,且以けいおさむためなん人品じんぴん也。いままた以母、、叔、侄,おそれだん聚一しょゆうくしどおりへい,於初じゅうにちまたぱいおいれいへだたべつもとしょう聚接可憐かれんめいはいほろび骨肉こつにくぼし,且慮かいしんとききたえ鍊,みな不可測ふかそくにん木石ぼくせきあにのうこらえ此!こん幽囚ゆうしゅうくらしつ風雨ふうう蕭條しょうじょう青草あおくさかえるじつすけあまり悲悼みみつげ天地神明てんちしんめいけつ一瞑而萬世不愧。だん乎,にん孰不むさぼなまかしこ,而敬おさむ遭時如此,後日ごじつけつ生路いくじ!曠而かんあなせい也而かいけん也而ゆうじゅう泰山たいざんゆうけい鴻毛こうもうしゃ於此しんじゅく矣。如先こう在朝ざいちょうゆうくつ滿之まんしいやくらいゆう憂國ゆうこくおもんばかおもんみおもえ顧命おも,以身殉國じゅんこく不能ふのうさきいくとおがい,以至於斯,而其功罪こうざいあずか今日きょうりょうはん誣奏ごとゆう天下でんか後世こうせい公論こうろんざいけいおさむ必辯。どく其虛すわ本家ほんけぎん與三よそうよせみないちりょうこれあんのりなん敢欺てん罔人,以爲だっもとめせいけいとくやめ而託かたこうぞかじゆび以明剖心!此帖おく各位かくいとうみち一目いちもく,勿謂けいおさむため匹夫ひっぷ小節しょうせつ,而甘ためみぞ瀆之ぎょう也。祖宗そそう祭祀さいしあずか祖母そぼ老母ろうぼ饘粥,ゆうしょおとうとざいそく以承たてまつわれ可決かけつ矣。而吾ははもと辛苦しんく吾妻あづまもとまたけんよしつぎしつなおやや,俱有烈婦れっぷふう,聞予りょう不能ふのうゆうつうしゃわれゆうろくさい孤兒こじ,焭焭ざいかかえまた不能ふのうそんかつ也。
    五月初十日寫完此帖,以期必遂,而夢ちょうややよしいんなるじゅうにちかいしん,逼勒扳誣,懾以けい頤指いし使,聽其死生しせいみなよし含沙以架奇禍きかおに以起大獄たいごく,此古今ここん宇宙うちゅう稀有けうこと上司じょうし愚弄ぐろうじん,而又使わが叔侄なにしのべなににん
    おかさむらいろうにんなで按、かつ閻王!你也ゆう父母ちちはは妻子さいしねん奉天ほうてんいのち而來,如得其情,のりあい矜勿可也かなりなにしのべおちいひと如此酷烈こくれつ!三尺童子亦皆知而憐之,いまとくやめ,以死あかりしん嗚呼ああ,炯矣,黯如黑水くろみずちょう溘然,生平おいだいらやめ矣,やすし悲哉!
    ゆう便びん告知こくち山西さんせいかばのしゅうしょうおおやけちょうおおとりばんこんちょう家事かじやめ完結かんけつ矣,ねがい輔佐ほさせい明天子めいてんしおくまんねん也!”
  16. ^ 于慎ぎょう:〈あずかつかさ寇丘公論こうろんこうりょうごとしょ
  17. ^ あかり實錄じつろくかみはじめ實錄じつろく ,155かん ,2859
  18. ^ きよしちゅう:〈さきがい曾祖そうそ南京なんきん吏部なお書簡しょかん肅丘おおやけでん
  19. ^ 漢籍かんせき電子でんし文獻ぶんけん資料しりょう-あかり列傳れつでん ,226かん ,5933-5937:ころげん:「きゅうごとちゅうあきら周世すせせんちょう檟、ふく聘以忤高拱見黜,文選ぶんせんろうえびすなんじかつら 以忤尚書しょうしょかたぶけむべたまもの甄錄。于應あきら搆陷りゅうだいあずかおうはじめ同罪どうざいむね戍而おうあきらとめやめかんろうこらえめぐなで福建ふっけんころせさむらいろうひろしちょうせんはり一鯤監應天鄉試,おう篆子かなえ夤緣ちゅうしきぜに岱監 廣鄉ひろさとためしさき請居せい少子しょうしかえ就試,かいきょせいそつはてとげわたしちゅう篆子衡。曹一夔身居風 あきらせん、檟、ふく聘、なんじかつらかえそぎおうあきらこらえいち鯤、いち夔、璉籍,貶岱さん秩。いく, 偕中かんちょうまこと往籍ちょうきょせいかえうたてひだりさむらいろう增俸ぞうほういち秩。ひろはい南京なんきん吏部尚書しょうしょそつかんおく太子たいしふとしたもておくりな簡肅。橓強直きょうちょくこう搏擊,其清ぶしためしょしょううん