またしつ

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またしつおんなぶんi ʃï xa[1][2];?—?),かんめいえきしん明朝みょうちょう初期しょき宦官かんがん探險たんけん活躍かつやく中國ちゅうごく東北とうほく地區ちくまたしつ哈曾つぎたてまついのちぜんまつ花江はなえ黑龍江こくりゅうこう流域りゅういき[3]なみざい黑龍江こくりゅうこう入海いりうみこう地區ちく建立こんりゅうりょうりょう佛教寺ぶつきょうじびょう——えいやすしてらはつけんじゅうけん)。[4]

生平おいだいら[编辑]

またしつ哈本うみ西にしおんなしんひと[3][5]やくざい14世紀せいき末期まっきあかりぐん俘虜ふりょ,閹割なみおくいれつばめきょうとう宦官かんがん[3]根據こんきょ現代げんだい學者がくしゃてき推測すいそくまたしつ可能かのう通過つうか招撫おんな而得いた明成めいせいてき重用じゅうよう[6]あきら实录》えいそうただしじゅう四年十二月壬子有简要记载称:またしつ哈,汉名えきしんじうみ西にしおんな真人しんじん初任しょにん职宫廷为ないかんきさきます为都监太监。ざいあきらえいむね在位ざいい期間きかん曾是おう吉祥きっしょうてき爪牙そうがざい清朝せいちょう年間ねんかん編纂へんさんてきあかり·宦者でんちゅうれつ舉王てきとうゆうちんば儿干またしつ哈、韦力转ぎゅうたまとうひと[7][8]

黑龍江こくりゅうこう探險たんけん[编辑]

明朝みんちょう永樂えいらく年間ねんかん大型おおがた探險たんけん活動かつどう路線ろせんてきしめせ意圖いと藍色あいいろ線條せんじょう表示ひょうじまたしつ哈船たいてき路線ろせん黑色こくしょく線條せんじょう表示ひょうじていかず船隊せんたいてき路線ろせん綠色みどりいろ線條せんじょう表示ひょうじちんまことてき路線ろせん

またしつ哈曾ざい明成めいせい在位ざいい期間きかんたい黑龍江こくりゅうこう流域りゅういき進行しんこう探險たんけん。這個地方ちほう也是1260ねんいたり1320ねん元朝がんちょうせいひがし元帥げんすいてき所在地しょざいち。其首府しゅふ於今にわか哈巴おっと斯克邊疆へんきょうがらす斯基てきとくりん附近ふきん[4]あずか此同明成めいせいかえ派遣はけんていかずしも西洋せいようちんまこと使じょう帝國ていこくてき首都しゅと赫拉とく[9]

1409ねん明成めいせいざいうみ西にしおんなしんけんしゅうおんなしん居住きょじゅうてき中國ちゅうごく東北とうほく設立せつりつやつみやこつかさひさ派遣はけんまたしつ哈率舰队ぜん黑龍江こくりゅうこうゆう地區ちくさがせ险,要求ようきゅう當地とうちてき野人やじんおんなしんかえり明朝みょうちょう羁縻),以便明朝みんちょうざい遠征えんせい韃靼だったんこれぼつゆう後顧こうこ[10][3]

經過けいか兩年りょうねんてき準備じゅんびこれまたしつ哈於1411ねんりつりょう1000にん分乘ぶんじょう25せきせん[3]したがえ今日きょうてき吉林きつりん[3]出發しゅっぱつ,沿著まつ花江はなえ而下進入しんにゅう黑龍江こくりゅうこうおこりはつ野人やじんおんなしん部落ぶらくてききょみん們與あかり军舰队有些對立たいりつ情緒じょうちょただしまたしつ哈用大量たいりょうゆたかあつ禮物れいもつおさむかいりょう部落ぶらく首領しゅりょうざい地區ちく設立せつりつやつ指揮しき使[11][3]這次またしつ哈的さがせ险舰队經過けいかりょうまつ花江はなえがらす里江さとえがらすなんじまいかわ牡丹ぼたんこう嫩江[5]野人やじんおんな派遣はけんよし178にん組成そせいてき進貢しんこう使だん,跟隨またしつ哈回いた北京ぺきん[12][13][3]

1413ねんいたり1414ねん期間きかんまたしつ哈第二次前往黑龍江下游探險,なみざいとくりん逗留とうりゅうりょうはたきんいちねん[14][6]ざいとくりん海岬かいざきじょうたてりょう一座いちざめいさけべえいやすしてらてき佛教ぶっきょう寺院じいん供奉ぐぶ觀世音菩薩かんぜおんぼさつなみよう漢文かんぶんこうむ古文こぶんおんなぶん豎立石碑せきひ以記其事。[15][3]這塊しょうさくえいやすしてら》。またしつ哈在1413ねん也曾ぜん黑龍江こくりゅうこう入海いりうみこうしょ海外かいがいてきくらぺーじとうまと北半きたはんあまおっと赫人鄂罗克人かつとてき居住きょじゅう沿海えんかい一帶いったいさつふう當地とうち酋長しゅうちょうため明朝みんちょう官員かんいん羁縻卫所[5]

ざいこれてき永樂えいらく年間ねんかんやつてき野人やじんおんなしん部落ぶらくあずか明朝みょうちょうてき朝貢ちょうこう貿易ぼうえきさら頻繁ひんぱんまたしつ哈又三次前往奴兒干。[3]

明成めいせいこれつぎにんてき明仁あきひとむねあかりせんむねのべぞくりょうたい中國ちゅうごく東北とうほく地區ちく野人やじんおんなしんてき招抚怀柔政策せいさく。1425ねんりょう指揮しきりゅうきよしたてまついのち建造けんぞうせんせきねんまたしつ哈再りつ舰队ぜん往奴[16][17][18][19][20][21][22][3]

1432ねんまたしつ哈最いち使やつせん佈退きゅうなみ任命にんめい其子ためつぎにんしゃ。這次航行こうこうてき目的もくてき任命にんめい明朝みんちょうざい當地とうちてき長官ちょうかんなみきゅう當地とうち酋長しゅうちょうおびりょうゆたかあつ禮物れいもつ[23][3][24]這次またしつ哈率护卫へい2000にんじょうすわ50そう大船おおぶねじゅんゆうやつ地区ちく[6]

またしつ哈發現在げんざい1413ねん建立こんりゅうてきえいやすしてらやめけい毀,とげじゅうたてりょう該寺。[25]根據こんきょ現代げんだい考古こうこ研究けんきゅうまたしつ哈第二次建的永寧寺並非位於其第一次建的地方,而是もとだいてきえいやすし寺原てらばらじょう考古こうこ發掘はっくつ顯示けんじ,1413ねんてきえいやすしてら於特りん海岬かいざきいただき以西いせい90まいしょ,而1432ねんてきえいやすしてらそく於海みさきてきいただき[4]またしつ哈在じゅうけんてきえいやすしてらつくり也豎りつりょう石碑せきひ。這塊しょうためじゅうけんえいやすしてら》。

根據こんきょ現代げんだい歷史れきしがくてき考證こうしょうまたしつ哈巡ゆう黑龍江こくりゅうこう流域りゅういきゆうそう時間じかんちょうたちきゅうねん[26][27][5]

後期こうき事蹟じせき[编辑]

1430年代ねんだいあかりせんむね決定けってい停止ていしこう中國ちゅうごく東北とうほく地區ちく派遣はけん船隊せんたいまたしつ哈探访招抚女かく部落ぶらく及其部族ぶぞくてきこと宣告せんこく結束けっそく[28][29]やつ儿干つかさせんとくきゅうねん(1434ねん正式せいしき废弃,きょう续25ねん[30]1435ねんまたしつ哈被調しらべ鎮守ちんじゅ遼東りゃおとんたち15ねんひさ[3]

1449ねんこうむふとし也先りつかわら軍隊ぐんたいへいぶんよんしゅ动进おさむ明朝みんちょう到達とうたつこうやすしだつだつはな兀良哈さん出兵しゅっぺい进军辽东,あきら军丧师丧またしつ[31][32]さく不利ふり禁止きんし官軍かんぐん出擊しゅつげき,遭山东巡按御りゅうつとむ彈劾だんがいゆび责其义男、ひゃくてきほどこせたいとうもたれかわら,并认ためだつだつはなつう於亦しつ哈。1450ねんあかりぐん主力しゅりょくざい土木どぼくぜんぐん覆沒ふくぼつ,百戶施帶兒逃回明朝。めぐ按御りゅうつとむ彈劾だんがいほどこせたいやわまたしつ哈,ただしけいたいみかどただはたほどこせたいしょ,卻并かぶ连亦しつ哈,而只はた其召かいきょう师。[33]此後またしつ哈就ざい史料しりょうちゅうしつりょう記載きさい[3][8]

よし清朝せいちょう統治とうちしゃ滿まんぞく人的じんてき原因げんいん,为了避免わたるつとむなんじ哈赤曾經ため明朝みんちょう官員かんいんてき份、以及为了かくれ藏滿くらみつじんこれまえてきけんしゅうおんなしんひと)曾為明朝みんちょうしんぞくてき關係かんけいなりしょ於清あさ期間きかんてきあかりなみぼつ有為ゆうい明朝みんちょうてきおんな真人しんじんたてつて,而是有意ゆういあわ、隐匿这段历史。

えいやすしてらてき石碑せきひげん海參いりこ崴的おもねしかしゃあま耶夫博物館はくぶつかん內,上面うわつらてき碑文ひぶん稱讚しょうさん當地とうちてききょみんぜん於射さかな們的衣服いふくようぎょかわせいなりてき[34]根據こんきょざい黑龍江こくりゅうこうしょうあららぎけん發現はつげんてき印章いんしょう表明ひょうめいぬの罗克ごう斯和かのうおっと龙百词典[35]以及とくこく探險たんけんひしげぶん斯泰いんえいErnst Georg Ravensteinてき文章ぶんしょう,19世紀せいき中葉ちゅうようてきとくりん地區ちくあまおっと赫人(乞里迷)てき居住きょじゅう[36]とくりんじょうゆうのり居住きょじゅうちょがらすなんじ奇人きじん[37] またじゅうけんえいやすしてらてき石碑せきひ目前もくぜん也被存在そんざい海參いりこてきおもねしかしゃあま耶夫博物館はくぶつかんうら[38][39]

相關そうかん條目じょうもく[编辑]

參考さんこう資料しりょう[编辑]

  1. ^ おんなぶん辭典じてん》,きむあきら編著へんちょ文物ぶんぶつ出版しゅっぱんしゃ1984ねん出版しゅっぱん,94ぺーじ
  2. ^ 滿まんちゅう意思いしまつかも”。まいり奕賡ちょきよしじん名譯めいやくかん》。
  3. ^ 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 Rossabi, Morris, Isiha, Goodrich, L. Carrington; Fang, Chaoying (编), Dictionary of Ming Biography, 1368–1644. Volume I (A-L), Columbia University Press: 685–686, 1976 [2012-02-12], ISBN 0-231-03801-1, (原始げんし内容ないようそん于2018-06-30) 
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  5. ^ 5.0 5.1 5.2 5.3 Tsai, Shih-Shan Henry, Perpetual Happiness: The Ming Emperor Yongle, University of Washington Press: 158–159, 2002 [2012-02-12], ISBN 0295981245, (原始げんし内容ないようそん于2021-02-05) 
  6. ^ 6.0 6.1 6.2 Tsai, Shih-Shan Henry, The Eunuchs in the Ming Dynasty, SUNY Press: 129–130, 1996 [2012-02-12], ISBN 0791426874, (原始げんし内容ないようそん于2020-08-03) 
  7. ^ あかりまき304列伝れつでん192宦官かんがんでん1,「其他宦者わかちんばみきまたしつやすし・韋力てんうしだまぞくりつきょうずる。……またしつ哈鎮遼東りゃおとんてきはんこうやすしまたしつ哈禁官軍かんぐん勿出げき。百戸施帯児降敵、ためだつだつはなどおり於亦しつ哈。正統せいとうじゅうよんねんふゆおび逃帰にげかえめぐ按御りゅうつとむなみ劾亦しつ哈及法事ほうじけいみかどいのち誅帯、而置またしつ哈不とい
  8. ^ 8.0 8.1 あかり·宦者传页面そん档备份そん互联网档あん)》
  9. ^ Tsai (2002), p. 161
  10. ^ 明太めんたいむね實錄じつろく永樂えいらくななねんうるうよんがつななにちおのれとり)「しつらえやつ指揮しき使はつ頭目とうもくゆるがせ剌冬やつとう來朝らいちょうやめたてまもるいたりふくそう其地衝要、むべたて元帥げんすいおけ以東いとうやすしまもる指揮しきかん旺為指揮しきどう、千戶王肇舟等為都指揮僉事、みつるぞく其衆。としみつぐかいあおとうぶつ、仍設いぬ遞送ていそう
  11. ^ みことのりおさむやつえいやすしてら』「永楽えいらく九年春特遣内官またしつとうりつ官軍かんぐんいちせん餘人よにん巨船きょせんじゅうそうふくいたり其国、開設かいせつやつむかしりょうきむ疇民やすゆえぎょうみなしょうけい曰:「□□今日きょうふく而服矣!」とげじょうあさ□□□みやこつかさ,而餘じんじょう授以官爵かんしゃくしるししんじたまもの以衣ふくしょう以布、鈔,だい賚而還。たてきょうまもるしょ收集しゅうしゅうきゅう人民じんみん使つかいあいすべぞく。」
  12. ^ 明太めんたいむね実録じつろく永楽えいらくじゅうねんはちがつじゅうよんにちへいとら)「やつ・乞里迷・ふくさと其・兀剌・嚢哈魯・しつ哈・兀失奚等処女しょじょちょく野人やじん頭目とうもくじゅんやつとうしつとうひゃくななじゅうはちにん来朝らいちょうみつげかたぶつおけただ蛮・兀剌・じゅんみん・嚢哈魯・まん涇・哈児蛮・とうてい・也孫りんどるおもえじゅう一衛かずえいのちじゅん奴等やつらため指揮しき千百戸賜誥印冠帯襲衣及鈔幣、ゆう
  13. ^ 明太めんたいむね実録じつろく永楽えいらくじゅうねんじゅうがつじゅうにちちょうしげる)「おけ遼東りゃおとんさかいがいまん涇等よんじゅう站。みことのり其提りょうはじめつねとう曰、朝廷ちょうていしつらえやつ并各まもる、凡使いのち往来おうらいしょけいきゅうゆう站赤しゃふくしつらえかく站頭悉恭いのち毋怠」
  14. ^ 朝鮮ちょうせん実録じつろくふとしむねじゅうよんねんがつかのえいぬ永吉ながよしみちやすなで使したがえしげるむくいかがみじょうじゅうにちほどもうじゅう兀良哈指揮阿ろう管下かんか千戸毛下也進言曰、おんなちょくごと也羅かいりつ中原なかはら数多すうた軍人ぐんじん、於前年ぜんねん正月しょうがつうんたむろかくれ出来でき正月しょうがついたり四月造大船及汲水小船、かくひゃくさんじゅうそう軍人ぐんじん泛自まつ渇江、れき愁下こうこう愁濱こうはたちくきょじょうけいげんかおる春城しゅんじょう以吾さと・兀良哈。うえ曰、此人とうごと以如此事らいつげうえ国之くにゆきへい雖来、あに以船てつみね乎。此必きょ也。そもそもある中原なかはらはた造船ぞうせん於此みみ
  15. ^ みことのりおさむやつえいやすしてら』「じゅういちねんあきぼくやつ西にしゆう站満みち、站之ひだり山高やまたか秀麗しゅうれいさきやめけん観音堂かんのんどう於其じょうこんみやつこてら塑仏、形勢けいせい優雅ゆうがつばらしかかん……」
  16. ^ あきらせんむね実録じつろくひろし熙元ねんじゅういちがつじゅうにちおつ)「みことのり遼東りゃおとんつかさたまものずいないかんまたしつとう往奴官軍かんぐんいちせんじゅうにん鈔有
  17. ^ じゅうおさむえいやすしてら』「せんとくはつふくふとかんまたしつしゅさいいたり、以当ねんせい天子てんしあずかてん同体どうたいあきら如日がつ仁徳にんとくだい恩沢おんたく渥、さとしなで其民悦服えっぷく。且整かざり仏寺ぶつじ大会たいかい而還」
  18. ^ あきらせんむね実録じつろくせんとくねんはちがつにち庚申こうしん)「遼東りゃおとんつかさ指揮しきどうやすし旺・こうろう兀等まもる指揮しき僉事かつとおるたむろかわとうまもる指揮しき僉事かお禿かぶろ遼東りゃおとんひがしやすしまもる指揮しききんこえとう来朝らいちょうすすむ及方ぶつ
  19. ^ あきらせんむね実録じつろくせんとくねんはちがつじゅういちにちへい)「いのちやつとうしょ来朝らいちょう野人やじんおんなちょく頭目とうもくしゃとく兀為れいかわまもる指揮しき僉事、儹卜ためどるひさげまもる指揮しき僉事、倶襲ちちしょく。斡冬哈僧じゅうせわし哈帖・哈傅剌察とう倶為ふくせん……たまもの賚有
  20. ^ あきらせんむね実録じつろくせんとくねんはちがつじゅうさんにちつちのえとら)「たまもの禿かぶろかわとうまもる指揮しき僉事だつ你哥・ぶくあまりまもる舎人とねりつとむかつやつつかさ指揮しきどうやすし旺・こうろう兀等まもる指揮しき僉事かつとおるたむろかわとうまもる指揮しき僉事かお禿かぶろあずまやすしとうまもる指揮しききんこえとう鈔綵ぬさ表裏ひょうりゆう
  21. ^ あきらせんむね実録じつろくせんとくねんきゅうがつじゅうにちおつ)「こうざい戸部とべ尚書しょうしょ夏原なつはらよしげん……またげん往奴官軍かんぐんさんせんにんひときゅうぎょうかてななせきすべまんいちせんせきむべ循例於遼東都とうと支給しきゅうしたがえこれ
  22. ^ あきらせんむね実録じつろくせんとくよんねん十二月じゅうにがつじゅうにちみずのえたつ)「召内かんまたしつひとしかえはついのちまたしつとうりつ官軍かんぐん往奴さき於松花江はなえ造船ぞうせんうんかてところ良重よしえ上聞じょうぶんさとしぎょうざいこうしん曰、造船ぞうせん不易ふえき使つかい遠方えんぽう無益むえき以此はん軍民ぐんみんとげみことのりそうへいかんとくみこ凱。凡またしつところ齎頒たまものがいえびす叚匹とうぶつ悉於遼東りゃおとんかんよせ貯、いのちまたしつとうかいきょう
  23. ^ あきらせんむね実録じつろくせんとくななねんがつきゅうにちへいとら)「以松花江はなえ造船ぞうせんぐん士多したかえみことのりうみ西にし地面じめん指揮しきとうしつおさめこたえ野人やじん指揮しき頭目とうもくかずらろう哥納とう曰、ちゅうかんまたしつひとし、往使やつとうしょれい指揮しきりゅうきよしりょうぐんまつ花江はなえ造船ぞうせんうんかてこんかくかんかえあさ而軍かえしゃひゃく餘人よにんちん以爾とう帰心きしん朝廷ちょうてい野人やじんおんなちょくまた遵法じゅんぽう未必みひつ誘引ゆういん藏匿ぞうとく、敕至そくためひろきわむひとおく遼東りゃおとんそうへいかんしょ、庶見なんじとうかえりむこうまこと
  24. ^ Tsai (1996) describes the person being retired as "the commissioner in chief Kang Wang"; one has to assume that it was a Chinese title, and Chinese name, bestowed to a local (probably, Nivkh) chief.
  25. ^ じゅうおさむえいやすしてら』「ななねんうえいのちふとしかんまたしつ哈同指揮しき康政やすまさりつ官軍かんぐんせんきょ舡五じゅうさいいたりみんみな如故、どくえいやすしてら破毀はきもとゆう焉……とき衆議しゅうぎ西にしかく仍建げんてら、敢不ふく
  26. ^ あきらせんむね実録じつろくせんとくはちねんはちがつじゅうよんにちきのえうま)「やつつかさ指揮しきどうやすしぶく……とうみつぎ。……どるひさげまもるおんなちょく指揮しきどう仏家ぶっけやつとうじゅうななにんしたがえちゅうかんまたしつ、往奴かえみつげかたぶつたまもの綵幣表裏ひょうり絹布けんぷゆう
  27. ^ あきらせんむね実録じつろくせんとくきゅうねんがつじゅうよんにちみずのえさる)「兀者まもる指揮しき僉事もう哥禿とうさんにんずいないかんまたしつやつたまもの綵幣表裏ひょうりきん紵絲かさねころもとうぶつ
  28. ^ あきらせんむね實録じつろくせんとくねんはちがつにち庚午こうご)「みことのり指揮しきかん旺・おうはじめぶね・佟答剌哈仍往やつなで恤軍」
  29. ^ あきらせんむね實録じつろくせんとくねんじゅういちがつじゅうさんにちかのえいぬ)「やめまつ花江はなえ造船ぞうせんこれやくはついのち遼東りゃおとんうんかて造船ぞうせん於松花江はなえ使つかい往奴これ招諭いたり摠兵かんとくみこ凱奏とりこ寇犯うえ曰虜覘知らい鈔掠、いのち悉罷
  30. ^ あきらせんむね实录まきいちひゃくじゅう》:凡采造船ぞうせん运粮とうごと悉皆しっかい停止ていし凡带去物件ぶっけん悉于辽东かん库内よせおさむ其差内外ないがいかん员人とう俱令かいきょうかん军人とう各回かくかい卫所
  31. ^ あきらえいむね實録じつろくけいたい元年がんねんがつじゅうはちにち癸巳きし)「鎮守ちんじゅ遼東りゃおとんたいかんえきしんげんぐん中手なかてじゅうはつ、輒不つぎぞくやめ習知しゅうちまいじょうすきしんへい……」
  32. ^ あきらえいむね實録じつろくけいたい元年がんねんよんがつじゅうにち癸巳きし)「いのち遼東りゃおとんていりょう前衛ぜんえい指揮しき僉事なんうみしょ指揮しき僉事、備禦こうやすししたがえ鎮守ちんじゅふとしかんえきしん奏請そうせい也」
  33. ^ あきらえいむね實録じつろくけいたい元年がんねんがつじゅうにちつちのえうま)「召鎮もり遼東りゃおとんたいかんえきしんかえきょう陞羽りん前衛ぜんえい指揮しき使縉為州都しゅうと指揮しき僉事。ときけんしゅうまもるとくみつるじゅうせんどおりえびすとりことく剌塔へいひょうげかすめしょうけん兵部ひょうぶ尚書しょうしょ于謙、以信縉皆其親とうおそれ泄事、請密ため区処くしょゆういのち
  34. ^ Telin Stele页面そん档备份そん互联网档あん) (from: "Политика Минской империи в отношении чжурчженей (1402–1413 гг.)" (The Jurchen policy of the Ming Empire), in "Китай и его соседи в древности и средневековье" (China and its neighbors in antiquity and the Middle Ages), Moscow, 1970. にわかぶん
  35. ^ Тыр页面そん档备份そん互联网档あん) (Tyr in Brockhaus and Efron Encyclopedic Dictionary) にわかぶん
  36. ^ E.G.Ravenstein "The Russians on the Amur". Full text can be found on Google Books.
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  38. ^ A. R. Artemyev. Archaeological sites of Yuan and Ming epochs in Transbaikalia and the Amur basin页面そん档备份そん互联网档あん
  39. ^ Объекты туризма — Археологические. Тырские храмы页面そん档备份そん互联网档あん) (Regional government site explaining the location of the Tyr (Telin) temples: just south of the Tyr village) にわかぶん

延伸えんしん閱讀[编辑]