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净土宗祖しゅうそ

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净土むねじゅう
はつ
さん
よん
ろく
なな
はち
きゅう
じゅう
じゅういち
じゅう
じゅうさん
じゅうよん
じゅう

净土宗祖しゅうそ,描述大乘だいじょう佛教ぶっきょう淨土じょうど崇拜すうはいかんでん佛教ぶっきょう淨土宗じょうどしゅう及其海外かいがい衍生宗派しゅうはてきいく祖師そし

浙江せっこう天台てんだいそうざい《乐邦文ほうぶん类》まきだいさん中立ちゅうりつ净土ろくとしぜんほうあきらしょうやすししょうつねそうろくにん。其后そう弟子でしこころざしいわざい佛祖ぶっそ统纪》ちゅうあらためりつとし远、ぜん导、うけたまわほうあきらしょうやすし延寿えんじゅはぶけつねななにんしんだいさとるざい《莲宗せい传》中增なかまし蕅益しょうあん彻悟みんこくしるしこうざい《净宗じゅう赞》ちゅうまたあらため截流じゅうしるしこう往生おうじょう以后,其门じんまた推其为じゅうさん。这就现在中国ちゅうごく佛教ぶっきょうかい通行つうこうてき「净土じゅうさん」说。

师者はじめ也,はじめ立法りっぽう为人师表しゃしか而作为念佛法ぶっぽう门的开创しゃ中国ちゅうごく北方ほっぽうげん中寺なかでらてき昙鸾みちのうれついれきわむ其本げん,给净むねはいてきむね晓与こころざしいわみな浙江せっこう天台宗てんだいしゅうそう所以ゆえんざいじゅうさんちゅう天台宗てんだいしゅうたちよんにんよし其他宗派しゅうはてきじんらい确立净土师,评选しゃ难免ゆう个体てき倾向せい宗派しゅうはせい;其次,佛教ぶっきょう中心ちゅうしんずいみなみそう迁都临安こん杭州こうしゅう),净土宗祖しゅうそ师多长江流域りゅういき区域くいきてきそうじんぼつゆうぜんきさき师承关系,标准てき公正こうせい、继承せい就值とくしょう榷;さいきさきだいからきさき禅宗ぜんしゅう流行りゅうこう念佛ねんぶつてき目的もくてき为了以求开悟,さく为即こころそくふつ方便ほうべん

龙树菩萨[编辑]

龙树菩萨(150-250),みなみ印度いんどひと大乘だいじょう佛教ぶっきょう史上しじょうだいいち伟大论师,ゆうせん论主”てきたたえほまれざい印度いんど佛教ぶっきょう史上しじょうほまれ为“だいだい释迦”,也是汉传佛教ぶっきょうぞう佛教ぶっきょう共同きょうどうてき师。龙树菩萨《十住毗婆沙论》说明菩萨欲求よっきゅうおもね毗跋致(そく退すさ转法)ゆう难行、えきぎょう二道ふたみちざいこれせい无佛时求おもね毗跋致名为难行道ぎょうどうただし以信ふついん缘愿せい净土,ゆかり佛力ぶつりき住持じゅうじにゅう大乘だいじょうせい定之さだゆき聚名为易行道ぎょうどう。这就说,ざい无佛ただ自力じりき,无他力持ちからもち”,难得おもね毗跋致,たとえ如在陆路步行ほこう则苦,めい为难行道ぎょうどうはんこれじょうふつてきもとすなおりょく往生おうじょう净土,そく他力たりき而得おもね毗跋致,たとえ如在水路すいろじょう上船じょうせん则乐,めい为易行道ぎょうどう。龙树菩萨とく别标举的しん受弥陀本すなお他力たりきすくいてき一心归命称名念佛行。说:“阿弥陀あみだふつもとすなお如是にょぜ若人わこうどねんわが称名しょうみょう归,そくにゅう必定ひつじょうとくおもね耨多罗さんさん菩提ぼだいつね应忆ねんいん十方じっぽう众生ただしのうしん受弥陀救すなおなまわたる陀净,专称わたる陀佛めい”,必能とうなま进入必定ひつじょう成佛じょうぶつ绝不退すさ转之地位ちい。”

てん亲菩萨[编辑]

てん亲菩萨(320-380),きた印度いんどひとあずか其兄无著どう为印瑜伽ゆがぎょうただ识学创始じんきさきらい受兄长无ちょ菩萨てききょう诲,开始ひろ大乘だいじょうみやつこりょうちょうひゃくてき大乘だいじょう论,并且おさむ证到接近せっきんはつてきじゅう回向えこうてん亲其しょちょ《无量寿ことぶき经优ばばひさげしゃすなおなま》(《往生おうじょう论》),论《无量寿ことぶき》经义而造すなおなま于安乐国てきぶん。该论印度いんど圣境唯一ゆいいつてき净土论述,ゆかりきた菩提ぼだいりゅうささえ译出。《无量寿ことぶき经优ばばひさげしゃすなおなまかんむり头亦以:“世尊せそんわが一心いっしん,归命つきじゅうぽう,无碍こう如来にょらいすなおせいやす乐国。”深深ふかぶか吐露とろ其净信仰しんこう继龙树菩萨之きさき推崇为净きょう师。

昙鸾だい[编辑]

净土むね东土はつげん中寺なかでら昙鸾だい(476-542),かりひと(山西さんせいだい),いえちか五台山ごだいさんつね闻神迹灵异之ごと,10あまり岁即登山とざん出家しゅっけ。昙鸾擅长调心练气,以医术与神通じんずうめい满魏こうせいみかどしょうかみ鸾”;りょうたけしみかどしょうにく菩萨”。昙鸾ざいらく阳得授菩提ぼだいりゅう支所ししょ译的《观无りょう寿ことぶき》,此后ざい山西さんせいげん中寺なかでら致力于净理念りねんてきひろ扬。认为《观无りょう寿ことぶき经》ちゅうしょ说的じゅう六观想过于繁复,提出ていしゅつねん阿弥陀あみだほとけ名号みょうごうてき方法ほうほうさく为修行法ぎょうほう门。认为そく使恶人,ただよう阿弥陀あみだふつ也可以往いおうなま净土。ちゃくゆう调气论》、《无量寿ことぶき经优ばばひさげしゃすなおなまちゅう》(《往生おうじょう论注》)、《りゃく论安乐净》、《阿弥陀あみだふつとうざい往生おうじょう论注》ちゅう龙树てき十住毗婆沙论·えきぎょうひん提出ていしゅつ二道ふたみちりょく说”,はた修行しゅぎょう佛法ぶっぽう区分くぶん为依もたれ自力じりきてき难行どうあずかもたれ他力たりきてき易行道いぎょうどう认为ざい无佛そうよう循“ただ自力じりき,无他力持ちからもちてき难行どう难以成功せいこうてきただゆう倚靠阿弥陀あみだふつてき力量りきりょうらい修行しゅぎょうさいさい稳妥也最容易よういてきほう门。昙鸾ひさげ这种坚持专称ふつごうもたれ他力たりき往生おうじょうてき净土ほう门,なり为后净土むねてき根基こんきしも开道绰、ぜん导一けい

みち绰大师[编辑]

净土むね东土河西かさいみち绰大师(562-645),并州ぶんすいひと山西さんせいしょうぶんすい交城これ间),かつ动于南北なんぼくあさすえねんいたからあさ初年しょねん间的そうじん安居あんきょざい汶水石壁いしかべげん中寺なかでら时,いん为阅读寺ちゅうてき碑文ひぶん了解りょうかい昙鸾だい师的生平おいだいら及思おもえだい为钦ふく,于ずいだいねん(609ねんきさき开始专修净土。一心いっしん专念阿弥陀あみだふつ,观想礼拜れいはい精勤せいきん不断ふだん。并为しん众开讲“观无りょう寿ことぶき经”约ひゃくへんみち绰每自己じこ念佛ねんぶつ,以ななまんへん为限。并广劝道俗信ぞくしん众称ねん阿弥陀あみだふつめい,以麻まめとう记数,きさきまたきょうじん穿ほじ+患)さく数珠じゅず以为すうほう。于隋だいねん(608)ちょやす乐集かんけい继承龙树菩萨,昙鸾だい师之自力じりき难行、他力たりきえきぎょうてき思想しそう,进而ぶんばん佛教ぶっきょう为圣どう门与净土门,而劝じんしゃ圣道门归净土门,ざい论系统上确立りょう净土むねてき地位ちい。净土教理きょうりろうしかどくあきらほう针不紊。みち绰先はたわが们所处的时代,判定はんてい末法まっぽう时期。认为,ざい末法まっぽう时间,释迦牟尼其他てき教法きょうほう(圣教门),みな难以成就じょうじゅただいち稳妥ぎょうてき,就是净土ほう门,经由念佛ねんぶつ往生おうじょうとく解脱げだつみち绰的说法,きさき净土むね门人しょ接受せつじゅ,并以以宣扬。

ぜん导大师[编辑]

净土むね东土さん光明こうみょうぜん导大师(613—681),临淄ひとやま临淄),10岁出,见西かた变相图,だい受感动,很早发愿せい西方せいほう,为净むねてき实际创始じん。641ねん跟随げん中寺なかでらみち绰学净土むね,习观无量寿ことぶき经,彻悟,曰:“此,にゅうふつようおさむぎょう业迂へき难成,おもんみ此法门速ちょう生死せいし。”645ねんぜん导转赴长やすざい慈恩寺じおんじもりひろし净土ほう门,げき僧俗そうぞく诸同おさむけん念佛ねんぶつもとめせい西方せいほう净土。ぜん自修じしゅう则“まい入室にゅうしつ长跪念佛ねんぶつ非力ひりき不休ふきゅう”;じん则“まい逢人そくえんじ说净ほう门”,さんじゅうねんいちにちごと传与きょう并举,以身さく则,つとむおのれ励人,专弘念佛ねんぶつほう门,ひろし众生共修きょうしゅう净土むねぜん念佛ねんぶつ时,つねゆう光明こうみょうずいこう而出,认为阿弥陀あみだふつてき化身けしん。681ねん示寂じじゃくきさき,其弟子でし长安たて灵塔かみ禾原かげんきさき于塔つくり创建こう积寺とうだかむね以师念佛ねんぶつくち出光いでみつあきらかみ异无”,赐额为“光明寺こうみょうじ”,きさきじんまたたたえ师为“光明こうみょう和尚おしょう”。ぜん导之著作ちょさく,现存てきしょうきゅうかん”:《观经よんじょう》(《观无りょう寿ことぶき经疏》)よんかん、《观念ほういちかん、《法事ほうじかん、《往生おうじょうれいいちかん、《般舟赞いちかん。其中てき观经よんじょう古今ここん大德だいとくみな尊称そんしょう为“楷定疏”ある“证定疏”,たてまつ为金だまりつけい如经てんしるしこう赞言:“净业行人こうじん指南しなん针”。 ぜん著作ちょさくしょとおる对释迦牟あまほとけいちだい教法きょうほうてき总结“虽说てい两门えきもちふつもとすなおざい众生,一向いっこう专称,わたる陀佛めい。”而其净宗宗旨しゅうし思想しそう:“ぜん凡夫ぼんぷとくせい报土,ただほんすなお称名しょうみょう念佛ねんぶつ。”

法然ほうねんだい[编辑]

日本にっぽん净土むね开山法然ほうねんだい(1133-1212),通称つうしょう黑谷上人くろだにしょうにん”、“吉水よしみず上人しょうにん”。谥号“圆光だい师”とう法然ほうねんせい美作みさく(冈山县),幼名ようみょう势至まる,9岁时丧父,13岁登睿山出家しゅっけうけたまわやすねん(1175)法然ほうねんもと于《观经疏ぜん义:“一心专念弥陀名号,ぎょうじゅうすわ卧不问时节久きん念念ねんねんしゃしゃめいせい定之さだゆき业,顺彼ふつすなお。”よう义,へん中国ちゅうごくはつからぜん导大师,いん此尊たてまつ其为净土むね高祖こうそ直接ちょくせつむかい武士ぶし庶民しょみん甚至女子じょし传播きょう义,关白きゅうじょうけん实、きさき白河しらかわ法皇ほうおうとう贵族也皈依门下。たてひさきゅうねん(1198)应兼实的请求せんうつしゆう选择もとすなお念佛ねんぶつしゅう》。ざい其所ちょ《选择もとすなお念佛ねんぶつしゅうちゅう:“おもえこれおっとほっそく离生ゆう种胜ほう。二种中可暂弃圣道门,选择にゅう净土门。よくにゅう净土门,则应于正杂二行中暂弃杂行而选择归于正行。よく行正ゆきまさぎょう,则应于正すけ业中,はたじょ放置ほうちいち边,而选择专修正しゅうせい定之さだゆき业。せい定之さだゆき业即しょう念佛ねんぶつめい称名しょうみょう念佛ねんぶつ必得往生おうじょうよし为是顺佛もとすなお。”ゆかり称名しょうみょう往生おうじょう阿弥陀あみだふつてきもとすなお所以ゆえんさけべもとすなお念佛ねんぶつ”。认为ただよう一心专念弥陀名号,阿弥陀あみだふつてきすなおりょく便びんのう往生おうじょう净土。

亲鸾だい[编辑]

日本にっぽん佛教ぶっきょう净土真宗しんしゅうはつ法然ほうねん弟子でし亲鸾だい(1173-1263),京都きょうとひと俗姓ぞくせい藤原ふじわらよう父母ちちはは,9岁入あお莲院慈圆门下发出たてひとし元年がんねん(1201)参拜さんぱい京都きょうとてきろくかくどうゆう缘遇いた法然ほうねんとげ法然ほうねん为师,而致りょく念佛ねんぶつ他力たりき门。たてひさしねん(1207)いんうけたまわもとほう难,亲鸾かぶ连流えつきさきげんひとし元年がんねん(1224),于つねこれ稻田いなだ草庵そうあんきょう行信ゆきのぶろくかんしゅ张“绝对他力たりき”。亲鸾认为《だい无量寿ことぶき经》てききょう义、念佛ねんぶつぎょう为、对阿弥陀あみだふつてき信仰しんこう往生おうじょう于极乐净てき证果,みやこただし阿弥陀あみだふつ回向えこう念佛ねんぶつ人的じんてき信仰しんこう阿弥陀あみだふつ并且こう唱“みなみ阿弥陀あみだほとけ”,就可以往いおうなま于净成佛じょうぶつただもたれ四十八愿中的第十八愿,以及观经ちゅうてき观点,そく使つかい五逆ごぎゃくじゅうこれにんざい临命终时ただよう对弥陀净ゆうあし够的信心しんじんすなおもち也能往生おうじょう。1262ねん,谥见だい师。