瑜伽 ゆが 行 ぎょう 派 は (梵語 ぼんご :योगाचार ,Yogācāra ),又 また 稱 たたえ 唯識 ゆいしき 派 は (梵語 ぼんご :विज्ञानवाद ,Vijñānavāda )、唯識 ゆいしき 宗 むね 、唯識 ゆいしき 瑜伽 ゆが 行 ぎょう 派 は 、法相 ほうしょう 宗 むね 、應 おう 理 り 圓 えん 實 じつ 宗 むね ,印度 いんど 大乘 だいじょう 佛教 ぶっきょう 的 てき 兩 りょう 大 だい 主要 しゅよう 學派 がくは 之 の 一 いち ,推尊彌勒 みろく 為 ため 始祖 しそ ,無 む 著 ちょ 、世 よ 親 おや 時正 ときまさ 式 しき 建立 こんりゅう 唯識 ゆいしき 學派 がくは ,主張 しゅちょう 「境 さかい 空 そら 識有,萬 まん 法 ほう 唯識 ゆいしき 」,以阿 おもね 賴 よりゆき 耶識為 ため 萬 まん 法 ほう 所 しょ 依 よ ,由 ゆかり 三 さん 自性 じしょう 而成立 せいりつ 一切 いっさい 法 ほう 。其修行方 ゆくえ 法 ほう 是 ぜ 依 よ 妄分別 べつ 識 的 てき 有 ゆう ,遮 さえぎ 遣 や 外 そと 境 さかい 的 てき 非 ひ 有 ゆう ;再 さい 依 よ 外 そと 境 さかい 的 てき 非 ひ 有 ゆう ,了 りょう 悟 さとる 識也不可 ふか 得 とく ─境 さかい 空 そら 心 こころ 寂 さび ,契 ちぎり 入 いれ 真如 しんにょ 。
此派根本 こんぽん 經典 きょうてん 為 ため 《解 かい 深 ふか 密 みつ 經 けい 》和 かず 《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん 》,重要 じゅうよう 的 てき 論 ろん 師 し 還 かえ 有 ゆう 陳 ちん 那 な 、護法 ごほう 、安 あん 慧 とし 、法 ほう 稱 しょう 等 ひとし ,那 な 爛 ただれ 陀寺一度 いちど 是 ぜ 其根據地 こんきょち ,此學派 は 後 ご 分 ぶん 為 ため 二 に ,和 わ 如來 にょらい 藏 ぞう 學派 がくは 合流 ごうりゅう 的 てき 成 なり 為真 ためざに 心 しん 派 は ,反 たん 之 の 為 ため 妄心派 は 。傳 つて 入 にゅう 中國 ちゅうごく 分 ぶん 為 ため 三 さん 派 は :地 ち 論 ろん 師 し (真心 まごころ 派 は )、攝 と 論 ろん 師 し (妄心派 は 向 こう 真心 まごころ 派 は 的 てき 過渡 かと )[1] 、唯識 ゆいしき 師 し (妄心派 は )[2] 。
唯識 ゆいしき 學派 がくは 與 あずか 中 ちゅう 觀 かん 學派 がくは 並列 へいれつ ,為 ため 大乘 だいじょう 佛教 ぶっきょう 的 てき 理論 りろん 基礎 きそ 之 の 一 いち 。在 ざい 漢 かん 傳 でん 佛教 ぶっきょう 的 てき 傳統 でんとう 判 ばん 教理 きょうり 論 ろん 中 ちゅう ,唯識 ゆいしき 學派 がくは 被 ひ 稱 しょう 為 ため 有 ゆう 宗 むね [3] 、法相 ほうしょう 宗 むね [4] ,而中 ちゅう 觀 かん 學派 がくは 被 ひ 稱 しょう 為 ため “空 そら 宗 むね ”或 ある “破 やぶ 相 あい 宗 むね ”。印 しるし 順法 じゅんぽう 師 し 稱 しょう 唯識 ゆいしき 學派 がくは (妄心派 は )為 ため 虛妄 きょもう 唯識 ゆいしき 論 ろん 。藏 ぞう 傳 でん 佛教 ぶっきょう 稱 たたえ 為 ため 廣行 ひろゆき 派 は 、廣大 こうだい 行 ぎょう 派 は (藏 ぞう 語 ご :རྒྱ་ཆེན་སྤྱོད་བརྒྱུད,rgya-chen spyod brgyud;梵語 ぼんご (回 かい 譯 やく ):Udāra-carita paramparā)[5] 。
名稱 めいしょう [ 编辑 ]
瑜伽 ゆが 行 ぎょう 派 は [ 编辑 ]
瑜伽 ゆが ,意 い 為 ため 相應 そうおう ,即 そく 是 ぜ 在 ざい 禪定 ぜんじょう 修行 しゅぎょう 中 なか ,心境 しんきょう 相應 そうおう ,是 ぜ 印度 いんど 教 きょう 中 ちゅう 修行 しゅぎょう 方法 ほうほう 之 の 一 いち 。根據 こんきょ 《薄 うす 伽 とぎ 梵歌 》,瑜伽 ゆが 是 ぜ 一種個人靈魂與宇宙靈魂合一(梵我)的 てき 修行 しゅぎょう 方法 ほうほう 。在 ざい 古 こ 印度 いんど 宗教 しゅうきょう 中 ちゅう ,由 ゆかり 奧義 おうぎ 書 しょ 與 あずか 薄 うす 伽 とぎ 梵歌傳統 でんとう ,發展 はってん 出 で 瑜伽 ゆが 派 は 、勝 かち 論 ろん 派 は 與 あずか 數 すう 論 ろん 派 は 等 とう 。
佛教 ぶっきょう 沿用此名,作為 さくい 禪定 ぜんじょう 或 ある 止觀 しかん 的 てき 代名詞 だいめいし 。所謂 いわゆる 瑜伽 ゆが 行 ぎょう (梵語 ぼんご :योगाचार ,Yogācāra ),就是修行 しゅぎょう 種種 しゅじゅ 禪定 ぜんじょう 觀 かん 行 ぎょう ,其中最 さい 常用 じょうよう 者 しゃ ,為 ため 上座 かみざ 部 ぶ 部 ぶ 派 は 所 しょ 修之 のぶゆき 數 かず 息 いき 觀 かん 與 あずか 不淨 ふじょう 觀 かん 。修習 しゅうしゅう 種種 しゅじゅ 觀 かん 行 ぎょう 的 てき 佛教 ぶっきょう 僧侶 そうりょ ,被 ひ 稱 しょう 為 ため 瑜伽 ゆが 師 し 或 ある 觀 かん 行 ぎょう 師 し ,這些瑜伽 ゆが 行者 ぎょうじゃ ,即 そく 是 ぜ 唯識 ゆいしき 學派 がくは 的 てき 前身 ぜんしん 。部 ぶ 派 は 佛教 ぶっきょう 時期 じき ,說 せつ 一切 いっさい 有 ゆう 部 ぶ 中 なか ,出現 しゅつげん 被 ひ 稱 しょう 為 ため 瑜伽 ゆが 師 し 的 てき 流派 りゅうは ,隨 ずい 後 ご 出現 しゅつげん 了 りょう 瑜伽 ゆが 行 ぎょう 派 は ,以《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん 》為 ため 根本 こんぽん 論 ろん 書 しょ ,創始 そうし 祖師 そし 相傳 そうでん 為 ため 彌勒 みろく 。
唯識 ゆいしき 學派 がくは [ 编辑 ]
瑜伽 ゆが 行 ぎょう 派 は 隨 ずい 後 ご 為 ため 無 む 著 ちょ 繼承 けいしょう 。在 ざい 無 む 著 ちょ 之 これ 後 ご ,其弟世 よ 親 おや 與 あずか 弟子 でし 無性 むしょう 等 とう 人 じん ,繼續 けいぞく 發展 はってん 他 た 的 てき 學說 がくせつ ,繼承 けいしょう 《解 かい 深 ふか 密 みつ 經 けい 》與 あずか 《攝 と 大乘 だいじょう 論 ろん 》的 てき 傳統 でんとう ,以唯識 ゆいしき 無 む 境為 さかため 根本 ねもと 宗義 むねよし ,唯識 ゆいしき 學派 がくは 因 いん 此得名 めい [6] [7] [8] 。
法相 ほうしょう 宗 むね [ 编辑 ]
印度 いんど 那 な 爛 ただれ 陀寺中 ちゅう ,屬 ぞく 瑜伽 ゆが 行 ぎょう 唯識 ゆいしき 學派 がくは (有 ゆう 宗 むね )之 これ 護法 ごほう 、戒賢 等 とう 人 ひと ,依 よ 《解 かい 深 ふか 密 みつ 經 けい 》與 あずか 《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん 》等 とう 經典 きょうてん ,建立 こんりゅう 法相 ほうしょう 宗 むね ;而屬中 ちゅう 觀 かん 學派 がくは (空 そら 宗 むね )之 これ 清 しん 辯 べん 、智光 ともみつ 等 とう 人 ひと ,建立 こんりゅう 破 やぶ 相 あい 宗 むね 。空 そら 、有 ゆう 二 に 宗 むね ,形成 けいせい 那 な 爛 ただれ 陀寺中 ちゅう 的 てき 兩 りょう 大宗 たいそう 派 は ,這個分類 ぶんるい 隨 ずい 後 ご 傳 つて 入 にゅう 中國 ちゅうごく [4] 。
歷史 れきし [ 编辑 ]
瑜伽 ゆが 行 ぎょう 派 は 的 てき 歷史 れきし 起源 きげん 不明 ふめい ,說 せつ 一切 いっさい 有 ゆう 部 ぶ 《大 だい 毗婆沙 すな 論 ろん 》記載 きさい 了 りょう 一 いち 個 こ 小 しょう 流派 りゅうは ,這個學派 がくは 的 てき 成員 せいいん ,被 ひ 稱 しょう 為 ため 瑜伽 ゆが 師 し 。瑜伽 ゆが 師 し 的 てき 見解 けんかい 屬 ぞく 於上座 かみざ 部 ぶ 傳統 でんとう ,與 あずか 譬 たとえ 喻師相近 すけちか ,其流傳 りゅうでん 地區 ちく 在 ざい 西北 せいほく 印度 いんど 一帶 いったい ,學者 がくしゃ 一般將他們視為在說一切有部之下獨立發展的流派,但 ただし 他 た 們有部 ぶ 份學說 せつ 與 あずか 分 ぶん 别說部 ぶ 相近 すけちか 。現代 げんだい 學者 がくしゃ ,如印順 じゅん 等 とう 人 じん ,比較 ひかく 了 りょう 《大 だい 毗婆沙 すな 論 ろん 》中 ちゅう 記載 きさい 的 てき 瑜伽 ゆが 師 し 學說 がくせつ ,與 あずか 《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん 》中 ちゅう 的 てき 學說 がくせつ 一致 いっち ,因 いん 此認為 ため 瑜伽 ゆが 師 し 為 ため 瑜伽 ゆが 行 ぎょう 派 は 的 てき 前身 ぜんしん 。
瑜伽 ゆが 師 し 何 なん 時 じ 發展 はってん 為 ため 瑜伽 ゆが 行 ぎょう 派 は ,其歷史 し 不明 ふめい ,瑜伽 ゆが 行 ぎょう 派 は 的 てき 主要 しゅよう 學說 がくせつ ,在 ざい 《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん 》出現 しゅつげん 後 ご 完成 かんせい ,《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん 》因 いん 此被認 みとめ 為 ため 是 ぜ 瑜伽 ゆが 行 ぎょう 派 は 的 てき 根本 こんぽん 論 ろん 。傳統 でんとう 上 じょう 認 みとめ 為 ため 《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん 》由 ゆかり 彌勒 みろく 傳 でん 給 きゅう 無 む 著 ちょ ,由無 よしな 著 ちょ 寫 うつし 成 なり ,彌勒 みろく 也因此被尊 とうと 為 ため 瑜伽 ゆが 行 ぎょう 派 は 之 の 祖 そ 。古代 こだい 相傳 そうでん 彌勒 みろく 即 そく 是 ぜ 彌勒 みろく 菩薩 ぼさつ ,無 む 著 ちょ 在 ざい 禪定 ぜんじょう 中上 なかがみ 升 ます 兜 かぶと 率 りつ 天 てん 內院 聽彌勒菩薩 みろくぼさつ 講 こう 學 がく ,回 かい 世間 せけん 後 ご ,寫 うつし 成 なり 《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん 》[9] 。日本 にっぽん 僧侶 そうりょ 學者 がくしゃ 宇井 うい 伯壽 はくじゅ 認 みとめ 為 ため ,無 む 著 ちょ 之 の 師 し 並 なみ 不 ふ 是 ぜ 釋迦牟尼 しゃかむに 時代 じだい 的 てき 彌勒 みろく ,而是後世 こうせい 中 ちゅう 印度 いんど 的 てき 同名 どうめい 論 ろん 師 し ,是 ぜ 真實 しんじつ 存在 そんざい 的 てき 歷史 れきし 人物 じんぶつ ,因 いん 為 ため 同名 どうめい ,而訛傳 かでん 為 ため 彌勒菩薩 みろくぼさつ 本人 ほんにん 。[10] 但 ただし 《惟 おもんみ 曰雜難 なん 經 けい 》記載 きさい 有 ゆう 阿羅漢 あらかん 遇 ぐう 到 いた 世 よ 友 とも 菩薩 ぼさつ 問 とい 難 なん 時 じ ,於定中 ちゅう 以神通 じんずう 上 うえ 升 ます 兜 かぶと 率 りつ 天 てん 親 おや 自 じ 求 もとめ 教 きょう 於彌勒 みろく 的 てき 傳說 でんせつ [11] ,因 いん 此印 しるし 順法 じゅんぽう 師 し 認 みとめ 為 ため 他 た 們也有 ゆう 可能 かのう 是 ぜ 經由 けいゆ 宗教 しゅうきょう 神秘 しんぴ 體驗 たいけん 而傳承 でんしょう 。[來 らい 源 みなもと 請求 せいきゅう ] 現代 げんだい 學者 がくしゃ 考證 こうしょう ,《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん 》並 なみ 不 ふ 是 ぜ 一 いち 人 にん 一時 いちじ 之 これ 作 さく ,而是由 よし 論 ろん 師 し 集 しゅう 體 からだ 創作 そうさく ,歷代 れきだい 集結 しゅうけつ 而成,到 いた 了 りょう 彌勒 みろく 與 あずか 無 む 著 ちょ 時代 じだい ,正式 せいしき 定 てい 稿 こう 。
瑜伽 ゆが 行 ぎょう 派 は 的 てき 學說 がくせつ ,貫通 かんつう 部 ぶ 派 は 佛教 ぶっきょう 與 あずか 大乘 だいじょう 佛教 ぶっきょう 。《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん 》中 ちゅう 的 てき 〈本地 ほんじ 分 ぶん 〉主要 しゅよう 引用 いんよう 《雜 ざつ 阿 おもね 含經》,〈聲聞 しょうもん 地 ち 〉中 ちゅう 討論 とうろん 了 りょう 部 ぶ 派 は 佛教 ぶっきょう 的 てき 阿 おもね 毗達摩 ま 論 ろん 典 てん ,但 ただし 到 いた 了 りょう 晚期 ばんき 加入 かにゅう 的 てき 〈攝 と 決 ぎま 擇 よ 分 ぶん 〉中 ちゅう ,則 のり 引用 いんよう 了 りょう 大乘 だいじょう 佛教 ぶっきょう 的 てき 《解 かい 深 ふか 密 みつ 經 けい 》。在 ざい 瑜伽 ゆが 行 ぎょう 派 は 學說 がくせつ ,經 けい 無 む 著 ちょ 及其弟 おとうと 世 よ 親 おや 整理 せいり 及發揚 はつよう 後 ご ,成 なり 為 ため 一 いち 個 こ 純粹 じゅんすい 大乘的 だいじょうてき 宗派 しゅうは 。世 よ 親 おや 將 しょう 唯識 ゆいしき 無 む 境 さかい 作為 さくい 根本 ねもと 宗義 むねよし ,此後,這個宗派 しゅうは 開始 かいし 被 ひ 稱 しょう 為 ため 唯識 ゆいしき 派 は ,與 あずか 中 ちゅう 觀 かん 派 は 並 なみ 舉,成 なり 為 ため 大乘 だいじょう 佛教 ぶっきょう 中 なか 的 てき 兩 りょう 大 だい 主流 しゅりゅう 學派 がくは 。
在 ざい 無 む 著 ちょ 及世親 おや 之 これ 後 ご ,其學說 せつ 傳承 でんしょう 的 てき 情況 じょうきょう 也不是 ぜ 很清楚 すわえ 。無 む 著 ちょ 與 あずか 世 よ 親 おや 之 これ 後 ご ,有 ゆう 陳 ちん 那 な 、法 ほう 称 しょう ,發展 はってん 因明 いんみょう 學 がく ,並 なみ 以因明 いんみょう 學 がく 來 らい 解釋 かいしゃく 唯識 ゆいしき 。玄 げん 奘至 いたり 印度 いんど 留學 りゅうがく 時 じ ,那 な 爛 ただれ 陀寺成 なり 為 ため 唯識 ゆいしき 學 がく 研究 けんきゅう 的 てき 重鎮 じゅうちん ,當時 とうじ 已 やめ 有 ゆう 十 じゅう 大 だい 論 ろん 師 し ,透過 とうか 為 ため 世 よ 親 おや 《唯識 ゆいしき 三 さん 十 じゅう 論 ろん 頌 》作 さく 釋 しゃく 論 ろん 而確立 かくりつ 了 りょう 各自 かくじ 的 てき 學說 がくせつ [12] 。十 じゅう 大 だい 論 ろん 師 し 中 ちゅう ,被 ひ 區分 くぶん 為 ため 古學 こがく ,與 あずか 今 こん 學 がく 兩 りょう 大 だい 派 は ,古學 こがく 派 は 是 ぜ 以解說 かいせつ 無 む 著 ちょ 、世 よ 親 おや 學說 がくせつ 為 ため 主 ぬし ,而今學則 がくそく 是 ぜ 以新引入的 てき 因明 いんみょう 學 がく 來 らい 推衍、闡述[13] ,並 なみ 逐步與 あずか 如來 にょらい 藏 ぞう 學派 がくは 合流 ごうりゅう 。
陳 ちん 那 な 弟子 でし 護法 ごほう 為 ため 那 な 爛 ただれ 陀寺住持 じゅうじ ,與 あずか 安 あん 慧 とし 、清 しん 辯 べん 同時 どうじ ,清 しん 辯 べん 反對 はんたい 護法 ごほう 所說 しょせつ 的 てき 「於有及無總說 そうせつ 無性 むしょう 」[14] ,與 あずか 護法 ごほう 進行 しんこう 了 りょう 空 そら 、有 ゆう 諍 いさかい 論 ろん [3] ,清 しん 辯 べん 曾希望 きぼう 當面 とうめん 辯論 べんろん ,但 ただし 被 ひ 拒絕 きょぜつ 。在 ざい 護法 ごほう 之 これ 後 ご ,其弟子 でし 戒賢 ,續 ぞく 掌 てのひら 那 な 爛 ただれ 陀寺,依 よ 三 さん 時 じ 教 きょう 而立 じりつ 法相 ほうしょう 宗 むね 。
玄 げん 奘至 いたり 印度 いんど 求 もとめ 學 がく 時 じ ,初 はつ 師事 しじ 戒賢,後 ご 受學於勝軍 ぐん 二 に 年 ねん ,並 なみ 為 ため 探究 たんきゅう 關 せき 於《瑜伽 ゆが 論 ろん 》的 てき 問題 もんだい 而要去 さ 斯里蘭 らん 卡 參學 さんがく ,卻因斯里蘭 らん 卡內亂 らん 而止步 ふ 於印度 いんど 最南端 さいなんたん 的 てき 建 けん 志 こころざし 城 じょう [15] 。在 ざい 月 つき 官 かん 之 これ 後 ご ,唯識 ゆいしき 學派 がくは 在 ざい 印度 いんど 本土 ほんど 衰微 すいび 。
外傳 がいでん [ 编辑 ]
漢 かん 傳 でん 佛教 ぶっきょう 中 ちゅう ,最早 もはや 傳 つて 布 ぬの 唯識 ゆいしき 學派 がくは 的 てき 人為 じんい 菩提 ぼだい 留 とめ 支 ささえ 、真諦 しんたい 譯 わけ 師 し 等 とう 人 じん [16] 。其師承 ししょう 不 ふ 詳 しょう ,但 ただし 其學說 せつ 主要 しゅよう 是 ぜ 唯識 ゆいしき 古學 こがく ,與 あずか 安 あん 慧 とし 相近 すけちか ,稱 しょう 為 ため 古 いにしえ 譯 やく 派 は 或 ある 古學 こがく 。此派在 ざい 中國 ちゅうごく 形成 けいせい 了 りょう 地 ち 論 ろん 宗 むね 、攝 と 論 ろん 宗 むね ,影響 えいきょう 了 りょう 華嚴宗 けごんしゅう 、天台宗 てんだいしゅう 與 あずか 禪宗 ぜんしゅう 。
真諦 しんたい 之 これ 後 ご ,玄 げん 奘至印度 いんど 那 な 爛 ただれ 陀留學 がく ,師 し 從 したがえ 戒賢,將 はた 戒賢一系的唯學今學傳布中國。玄 げん 奘弟子 でし 有 ゆう 大乘 だいじょう 基 もと 等 とう 人 ひと 形成 けいせい 慈恩 じおん 宗 むね ,稱 しょう 新譯 しんやく 派 は 或 ある 新 しん 學 まなべ ,吸納了 りょう 舊 きゅう 有 ゆう 地 ち 論 ろん 宗 むね 、攝 と 論 ろん 宗 むね 成 なり 為 ため 中國 ちゅうごく 的 てき 唯識 ゆいしき 學 がく 正宗 まさむね ,但 ただし 因 よし 受會 かい 昌 あきら 毀佛影響 えいきょう ,唐 から 朝 あさ 之 これ 後 ご ,慈恩 じおん 宗 むね 的 てき 傳承 でんしょう 衰微 すいび ,相關 そうかん 著作 ちょさく 散 ち 失 しつ 。
日本 にっぽん 奈良 なら 時代 じだい ,日本 にっぽん 學僧 がくそう 將 はた 慈恩 じおん 宗 むね 相關 そうかん 經典 きょうてん 及學說 せつ 由 ゆかり 中國 ちゅうごく 帶 たい 往日 おうじつ 本 ほん ,成 なり 為 ため 南都 なんと 六 ろく 宗 むね 之 これ 一 いち ,其傳承 でんしょう 因 いん 此在日本 にっぽん 流傳 りゅうでん 下 か 來 らい 。
中國 ちゅうごく 明 あかり 末 まつ 憨山德 とく 清 きよし 一度 いちど 想 そう 復興 ふっこう 慈恩 じおん 宗 むね ,作 さく 《性 せい 相 しょう 通說 つうせつ 》簡述其宗義 しゅうぎ ,但 ただし 受限於典籍 せき 不足 ふそく ,沒 ぼつ 有 ゆう 進 しん 一 いち 步 ほ 發展 はってん 。清朝 せいちょう 末 まつ 年 ねん ,楊仁山 やま 至 いたり 日本 にっぽん 取 と 回 かい 法相 ほうしょう 宗 むね 經典 きょうてん ,引起學術 がくじゅつ 界 かい 的 てき 風潮 ふうちょう 。民 みん 國 こく 時代 じだい ,歐 おう 陽 ひ 竟無領 りょう 導 しるべ 的 てき 支 ささえ 那 な 內學院 いん ,在 ざい 中國 ちゅうごく 南方 なんぽう 復興 ふっこう 唯識 ゆいしき 學 がく 研究 けんきゅう ,韓 かん 清淨 せいじょう 在 ざい 北方 ほっぽう 也起而倡導 みちびけ ,使 つかい 唯識 ゆいしき 學派 がくは 在中 ざいちゅう 國重 くにしげ 新 しん 恢復 かいふく 。支 ささえ 那 な 內學院 いん 的 てき 研究 けんきゅう ,利用 りよう 日本 にっぽん 傳 でん 回 かい 的 てき 慈恩 じおん 宗 むね 著作 ちょさく ,加 か 上 じょう 藏 ぞう 傳 でん 佛教 ぶっきょう 著作 ちょさく ,以及歐 おう 美的 びてき 梵文 ぼんぶん 佛教 ぶっきょう 研究 けんきゅう 成果 せいか ,使 つかい 唯識 ゆいしき 學 がく 研究 けんきゅう 現代 げんだい 化 か ,其影響 えいきょう 最 さい 為 ため 深遠 しんえん 。
藏 ぞう 傳 でん 佛教 ぶっきょう ,主要 しゅよう 以安慧 とし 學說 がくせつ 為 ため 主 ぬし 。安 あん 慧 とし 的 てき 核心 かくしん 論 ろん 書 しょ ,沒 ぼつ 有 ゆう 被 ひ 傳 つて 譯 やく 到 いた 汉族地区 ちく ,但 ただし 在 ざい 中国 ちゅうごく 西藏 にしくら 地区 ちく 被 ひ 保留 ほりゅう 下 か 來 らい 。
主 しゅ 要理 ようり 论[ 编辑 ]
唯 ただ 识学派 は 的 てき 主要 しゅよう 理論 りろん 有 ゆう 三 さん 自性 じしょう (遍 あまね 計 けい 所 ところ 執 と 性 せい 、依 よ 他 た 起 おこり 性 せい 、圓 まどか 成 しげる 實 み 性 せい )、三 さん 無性 むしょう (相 あい 無 む 自性 じしょう 、生 なま 無 む 自性 じしょう 、勝義 まさよし 無 む 自性 じしょう )學說 がくせつ ,一切 いっさい 種子 しゅし 心 こころ 即 そく 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識和 かず 染 しみ 污意即 そく 第 だい 七 なな 識 ,它們分別 ふんべつ 為 ため 意識 いしき 的 てき 種子 しゅし 依 よ 和 わ 俱有依 よ [17] ,還 かえ 有 ゆう 唯識 ゆいしき 無 む 境 さかい 和 わ 唯識 ゆいしき 四 よん 分 ふん 等 ひとし 。
瑜伽 ゆが 行 ぎょう 唯識 ゆいしき 學派 がくは 在 ざい 其阿 おもね 毘達磨 だるま 體系 たいけい 中 ちゅう 承 うけたまわ 襲 かさね 了 りょう 十 じゅう 八 はち 界 かい 理論 りろん ,並 なみ 將 はた 其“十 じゅう 一 いち 識”學說 がくせつ 配 はい 入 いれ 十 じゅう 八 はち 界 かい 中 ちゅう 。無 む 著 ちょ 《攝 と 大乘 だいじょう 論 ろん 》[18] :
“
此中何者 なにもの 依 よ 他 た 起 おこり 相 しょう ?謂 いい :阿 おもね 賴 よりゆき 耶識為 ため 種子 しゅし ,虛妄 きょもう 分別 ふんべつ 所 しょ 攝 と 諸 しょ 識。此復云 うん 何 なに ?謂 いい :身 み 、身 み 者 しゃ 、受者識,彼 かれ 所 しょ 受識(應 おう 受識),彼 かれ 能 のう 受識(正 せい 受識),世 せい 識,數 すう 識,處 しょ 識,言說 げんせつ 識,自他 じた 差別 さべつ 識,善 ぜん 趣 おもむき 惡趣 あくしゅ 死生 しせい 識。 此中若 わか 身 み 、身 み 者 しゃ 、受者識,彼 かれ 所 しょ 受識,彼 かれ 能 のう 受識,世 せい 識,數 すう 識,處 しょ 識,言說 げんせつ 識,此由名言 めいげん 熏習種子 しゅし 。若 わか 自他 じた 差別 さべつ 識,此由我見 がけん 熏習種子 しゅし 。若 わか 善 ぜん 趣 おもむき 惡趣 あくしゅ 死生 しせい 識,此由有 ゆう 支 ささえ 熏習種子 しゅし 。由 よし 此諸識一切界趣雜染所攝。…… 此中身 なかみ 、身 み 者 しゃ 、受者識,應 おう 知 ち 即 そく 是 ぜ 眼 め 等 とう 六 ろく 內界 。彼 かれ 所 しょ 受識,應 おう 知 ち 即 そく 是 ぜ 色 しょく 等 とう 六 ろく 外界 がいかい 。彼 かれ 能 のう 受識,應 おう 知 ち 即 そく 是 ぜ 眼 め 等 とう 六 ろく 識界 。其餘諸 しょ 識,應 おう 知 ち 是 ぜ 此諸識差別 さべつ 。
”
眼 め 等 とう 五 ご 內界對應 たいおう “身 み 識”,六 ろく 識界對應 たいおう “能 のう 受識”,意 い 界 かい 與 あずか “身 み 者 しゃ 識”、“受者識”二 に 者 しゃ 的 てき 關係 かんけい ,有 ゆう 兩 りょう 種 たね 學說 がくせつ :
此二釋 しゃく 論 ろん 之 の 間 あいだ 的 てき 不同 ふどう 體現 たいげん 了 りょう 唯識 ゆいしき 古學 こがく 和 わ 唯識 ゆいしき 今 いま 學 がく 之 の 間 あいだ 的 てき 根本 こんぽん 分 ぶん 歧,導 しるべ 致了第 だい 七 なな 識是 これ 阿 おもね 陀那識還 かえ 是 これ 末 すえ 那 な 識等 とう 諍 いさかい 論 ろん 。漢 かん 傳 でん 法相 ほうしょう 宗 むね 採用 さいよう 了 りょう 無性 むしょう 論 ろん 師 し 的 てき 學說 がくせつ [19] 。意 い 界 かい 二 に 分 ふん ,其中“第 だい 六意識所依意界”即 そく 意 い 根 ね 末 すえ 那 な 識 ,對應 たいおう “受者識”;眼 め 等 とう 五識所依意界對應“身 み 者 しゃ 識”,即 そく 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識[20] 。
五 ご 位 い 百 ひゃく 法 ほう [ 编辑 ]
根 ね 据 すえ 《百 ひゃく 法 ほう 明 あきら 门论》,唯 ただ 识学派 は 对一切 いっさい “万有 ばんゆう 诸法”进行的 てき 分 ぶん 类,简称“五 ご 位 い 百 ひゃく 法 ほう ”。其分为五类:心 しん 法 ほう 、心 しん 所 しょ 法 ほう 、色 いろ 法 ほう 、心 こころ 不 ふ 相 あい 应行法 ほう 、无为法 ほう 。共 きょう 计有百 ひゃく 种法,所以 ゆえん 称 しょう 为“五 ご 位 い 百 ひゃく 法 ほう ”[21] [22] [23] [24] 。
支 ささえ 派 は [ 编辑 ]
現代 げんだい 研究 けんきゅう [2] 稱 しょう 對 たい 於阿賴 よりゆき 耶識的 てき 性質 せいしつ ,唯識 ゆいしき 學 がく 中 ちゅう 又 また 分 ぶん 兩派 りょうは :
接近 せっきん 大 だい 眾部 、分別 ふんべつ 說 せつ 部 ぶ 的 てき 真心 まごころ 派 は ,如地 ち 論 ろん 師 し 等 ひとし ,主張 しゅちょう 不 ふ 生 なま 不滅 ふめつ 與 あずか 生滅 しょうめつ 和合 わごう ,非 ひ 一 いち 非 ひ 異 い ,名 めい 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識 ,許 もと 真如 しんにょ 隨 ずい 熏和合 わごう ,成 なり 此本識,能生 のう 萬 まん 法 ほう (如來 にょらい 藏 ぞう 緣起 えんぎ )[1] 。南北 なんぼく 朝 あさ 真諦 しんたい 三藏 さんぞう 據 よりどころ 安 あん 慧 とし [25] 學說 がくせつ 建立 こんりゅう 的 てき 攝 と 論 ろん 宗 むね 是 ぜ 妄心派 は 向 こう 真心 まごころ 派 は 的 てき 過渡 かと ,主 しゅ 張 ちょう 賴 よりゆき 耶通真 ま 妄,「依 よ 他 た 性 せい 」的 てき 識是由 よし 種子 しゅし 所生 しょせい (種子 しゅし 緣起 えんぎ ),其「解 かい 性 せい 賴 よりゆき 耶」只 ただ 指 ゆび 心 こころ 真如 しんにょ 性 せい ,沒 ぼつ 有 ゆう 生起 せいき 無 な 漏 も 清淨 せいじょう 法的 ほうてき 功 こう 能 のう [1] 。當 とう 經由 けいゆ 修行 しゅぎょう [26] ,阿 おもね 賴 よりゆき 耶識與以其為 ため 根本 こんぽん 的 てき 諸 しょ 煩惱 ぼんのう 染 しみ 雜 ざつ 俱滅之 の 後 のち [27] ,修行 しゅぎょう 者 しゃ 能 のう 夠證得 どく 「心性 しんせい 本 もと 淨 きよし 」[28] 的 てき 心 こころ 真如 しんにょ [29] ,即 そく 阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識 ,最終 さいしゅう 可 か 究竟 くっきょう 成佛 じょうぶつ [30] 。
接近 せっきん 說 せつ 一切 いっさい 有 ゆう 部 ぶ 的 てき 妄心派 は ,唐 から 朝 あさ 玄 げん 奘三藏 さんぞう 據 よりどころ 護法 ごほう [31] 學說 がくせつ 建立 こんりゅう 的 てき 法相 ほうしょう 宗 むね 屬 ぞく 於此派 は ,以虛妄 きょもう 心 こころ 為 ため 染 しみ 淨 きよし 的 てき 所 しょ 依 よ ,清淨 せいじょう 法 ほう 是 ぜ 附屬 ふぞく 的 てき 。他 た 們主張 しゅちょう 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識唯 ただ 妄非真 しん ,其中包 つつみ 涵的種子 しゅし 開發 かいはつ 萬 まん 法 ほう [32] 。從 したがえ 有 ゆう 漏 も 的 てき 種子 しゅし 開 ひらき 顯 あきら 迷界,從 したがえ 無 む 漏 も 的 てき 種子 しゅし [33] 開 ひらけ 顯 あらわ 悟 さとる 界 かい 。淨化 じょうか 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識,善 ぜん 淨 きよし 第 だい 八 はち 識成大圓 だいえん 鏡 かがみ 智 さとし ,則 のり 可 か 最終 さいしゅう 成佛 じょうぶつ 。妄心派 は 認 みとめ 為 ため 真如 しんにょ 不變 ふへん 凝然 ぎょうぜん 不動 ふどう ,不 ふ 許 もと 真如 しんにょ 隨 ずい 緣 えん ,亦 また 不 ふ 許 もと 真如 しんにょ 受熏。
流傳 りゅうでん 與 あずか 爭論 そうろん [ 编辑 ]
相 あい 关条目 め [ 编辑 ]
注 ちゅう 释[ 编辑 ]
^ 1.0 1.1 1.2 釋 しゃく 聖 きよし 凱. 印 しるし 順 じゅん 導師 どうし 對 たい 攝 と 論 ろん 學派 がくは 的 てき 詮 かい 釋 しゃく ——「中 ちゅう 間 あいだ 路線 ろせん 」的 てき 堅持 けんじ 與 あずか 游 ゆう 離 はなれ (PDF) . 玄 げん 奘佛學 がく 研究 けんきゅう . 2006.
^ 2.0 2.1 印 しるし 順 じゅん 《唯識 ゆいしき 學 がく 探 さがせ 源 げん 》自序 じじょ :「在 ざい 印度 いんど 大乘 だいじょう 佛教 ぶっきょう 的 てき 開 ひらき 展 てん 中 ちゅう ,唯心 ゆいしん 論 ろん 有 ゆう 真心 まごころ 派 は 與 あずか 妄心派 は 二 に 大流 おおりゅう 。傅 でん 到 いた 中國 ちゅうごく 來 らい ,即 そく 有 ゆう 地 ち 論 ろん 師 し 、攝 と 論 ろん 師 し 、唯識 ゆいしき 師 し 三 さん 派 は 。此兩大流 おおりゅう ,真心 まごころ 派 は 從 したがえ 印度 いんど 東方 とうほう (南 みなみ )的 てき 大 だい 眾分別 べつ 說 せつ 系 けい 發展 はってん 而來;妄心派 は 從 したがえ 印度 いんど 西方 せいほう (北 きた )的 てき 說 せつ 一切 いっさい 有 ゆう 系 けい 中 ちゅう 出來 でき 。在 ざい 長期 ちょうき 的 てき 離合 りごう 發展 はってん 中 ちゅう ,彼此 ひし 關 せき 涉 わたる 得 とく 很深;然 しか 兩 りょう 大體 だいたい 系 けい 的 てき 不同 ふどう ,到底 とうてい 存在 そんざい 。大體 だいたい 的 てき 說 せつ :妄心派 は 重 じゅう 於論典 てん ,如無著 ちょ 、世 よ 親等 しんとう 的 てき 著作 ちょさく :重 じゅう 思辨 しべん ,重 じゅう 分析 ぶんせき ,重 じゅう 事相 じそう ,重 じゅう 認識 にんしき 論 ろん ;以虛妄 きょもう 心 こころ 為 ため 染 しみ 淨 きよし 的 てき 所 しょ 依 よ ,清淨 せいじょう 法 ほう 是 ぜ 附屬 ふぞく 的 てき 。真心 まごころ 派 は 重 じゅう 於經典 きょうてん ,都 と 編集 へんしゅう 為 ため 經典 きょうてん 的 てき 體裁 ていさい :重 じゅう 直覺 ちょっかく ,重 じゅう 綜合 そうごう ,重 じゅう 理性 りせい ,重 じゅう 本體 ほんたい 論 ろん ;,以真常 つね 心 しん 為 ため 染 しみ 淨 きよし 的 てき 所 しょ 依 よ ,雜 ざつ 染 しみ 是 ぜ 外 がい 鑠的。」
^ 3.0 3.1
圓 えん 測 はか 《佛說 ぶっせつ 般若 はんにゃ 波羅蜜 はらみつ 多 た 心 しん 經 けい 贊 さん 》:「親光 ちかみつ 釋 しゃく 曰:千 せん 年 ねん 已 やめ 前 まえ ,佛法 ぶっぽう 一味 いちみ ,過 か 千 せん 年 ねん 後 ご ,空 そら 有 ゆう 乖諍。佛滅 ぶつめつ 沒 ぼつ 已 やめ ,一 いち 千 せん 年 ねん 後 ご ,南 みなみ 印度 いんど 界 かい 健至 けんじ 國 こく 中 ちゅう ,有 ゆう 二 に 菩薩 ぼさつ ,一時 いちじ 出世 しゅっせ ,一 いち 者 しゃ 清 しん 辨 べん 、二 に 者 しゃ 護法 ごほう ,為 ため 令 れい 有情 うじょう 悟入 ごにゅう 佛法 ぶっぽう ,立 たて 空 そら 有 ゆう 宗 むね ,共成 きょうせい 佛 ふつ 意 い 。清 しん 辨 べん 菩薩 ぼさつ ,執 と 空 むなし 撥 ばち 有 ゆう ,令 れい 除 じょ 有 ゆう 執 と ,護法 ごほう 菩薩 ぼさつ ,立 たて 有 ゆう 撥 ばち 空 そら ,令 れい 除 じょ 空 むなし 執 と 。……故 こ 今 こん 略述 りゃくじゅつ 二 に 種 しゅ 觀 かん 門 もん :一 いち 者 しゃ 、清 しん 辨 べん 依 よ 諸 しょ 《般若 はんにゃ 》,及龍 りゅう 猛 たけし 宗 そう ,立 たて 一 いち 觀 かん 門 もん ,謂 いい 歷 れき 法 ほう 遣 や 相 あい 觀 かん 空 そら 門 もん ,立 たて 一切 いっさい 法 ほう ,皆 みな 悉是空 そら ,無 む 生 なま 無 む 滅 ほろび ,本來 ほんらい 寂靜 じゃくじょう ,自性 じしょう 涅槃 ねはん 。……
二 に 者 しゃ 、護法 ごほう 依 よ 《深 ふか 密 みつ 》等 とう ,及彌勒 みろく 宗 そう ,立 たて 一 いち 觀 かん 門 もん ,謂 いい 在 ざい 識遮境 さかい 辨 べん 空 そら 觀 かん 門 もん ,立 たて 一切 いっさい 法 ほう ,通有 つうゆう 及無,遍 へん 計 けい 所 しょ 執 と 情 じょう 有理 ゆうり 無 な ,依 よ 他 た 起 おこり 性 せい 因緣 いんねん 故 こ 有 ゆう ,圓 えん 成 なり 實 み 性 せい 理 り 有 ゆう 非 ひ 無 む 。
故 こ 《深 ふか 密 みつ 》說 せつ :『依 よ 所 ところ 執 と 故 こ ,說 せつ 一切 いっさい 法 ほう 皆 みな 無 む 自性 じしょう 。』
《寶積 ほうしゃく 經 けい 》說 せつ :『若 わか 撥 ばち 諸法 しょほう 皆 みな 無性 むしょう 者 しゃ ,我 が 說 せつ 彼 かれ 為 ため 不可 ふか 治者 ちしゃ 。』
《瑜伽 ゆが 》等 とう 曰:『依 よ 所 ところ 執 と 性 せい 故 こ ,契 ちぎり 經 けい 說 せつ 一切 いっさい 諸法 しょほう 皆 みな 無 む 自性 じしょう 。』
《辨 べん 中 ちゅう 邊 あたり 論 ろん 頌》:『虛妄 きょもう 分別 ふんべつ 有 ゆう ,於此二 に 都 と 無 な ,此中唯 ただ 有 ゆう 空 そら ,於彼亦 また 有 ゆう 此。故 こ 說 せつ 一切 いっさい 法 ほう ,非 ひ 空 そら 非 ひ 不空 ふくう ,有無 うむ 及有故 こ ,是 ぜ 故 こ 契 ちぎり 中道 ちゅうどう 。』
如是 にょぜ 等 とう 文 ぶん ,誠 まこと 證 しょう 非 ひ 一 いち ,是 ぜ 故 こ 《二 に 十 じゅう 唯識 ゆいしき 》等 とう 曰:『非 ひ 知 ち 諸法 しょほう 一切 いっさい 種 たね 無 な ,乃得名 めい 為 ため 入 いれ 法 ほう 無我 むが ,然 しか 達 いたる 愚 ぐ 夫 おっと 遍 あまね 計 けい 所 ところ 執 と ,自性 じしょう 差別 さべつ 諸法 しょほう 我 わが 無 む ,如是 にょぜ 乃名入 いれ 法 ほう 無我 むが 。』」
圓 えん 測 はか 《解 かい 深 ふか 密 みつ 經 けい 疏 》:「世 よ 親 おや 菩薩 ぼさつ 《三 さん 十 じゅう 唯識 ゆいしき 》,作 さく 此頌言 ごと :『即 そく 依 よ 此三性 せい ,立 たて 彼 かれ 三 さん 無性 むしょう ,故 こ 佛 ふつ 密 みつ 意 い 說 せつ ,一切 いっさい 法 ほう 無性 むしょう 。』護法 ごほう 釋 しゃく 云 うん :『於有及無,總說 そうせつ 無性 むしょう ,故 こ 名 めい 密 みつ 意 い 。』」
玄 げん 奘 《成 なり 唯識 ゆいしき 論 ろん 》:「即 そく 依 よ 此前所說 しょせつ 三 さん 性 せい ,立 たて 彼 かれ 後 ご 說 せつ 三 さん 種 しゅ 無性 むしょう ,謂 いい 即 そく 相 しょう 、生 なま 、勝義 まさよし 無性 むしょう 。『故 こ 佛 ふつ 密 みつ 意 い 說 せつ :一切 いっさい 法 ほう 皆 みな 無 む 自性 じしょう 。』非 ひ 性 せい 全 ぜん 無 む ,說 せつ 『密 みつ 意 い 』言 げん ,顯 あらわ 非 ひ 了 りょう 義 ぎ 。謂 いい 後 ご 二 に 性 せい ,雖體非 ひ 無 む ,而有愚 ぐ 夫 おっと ,於彼增益 ぞうえき 妄執 もうしゅう ,實 じつ 有我 ありが 、法 ほう 自性 じしょう ,此即名 めい 為 ため 遍 あまね 計 けい 所 ところ 執 と 。為 ため 除 じょ 此執故 こ ,佛 ふつ 世尊 せそん ,於有及無,總說 そうせつ 無性 むしょう 。云 うん 何 なに 依 よ 此而立 じりつ 彼 かれ 三 さん ?
謂 いい 依 よ 此初遍 あまね 計 けい 所 ところ 執 と ,立 だて 相 しょう 無性 むしょう ,由 ゆかり 此體相 しょう ,畢竟 ひっきょう 非 ひ 有 ゆう ,如空華 はな 故 ゆえ 。
依 よ 次 じ 依 よ 他 ほか ,立 たて 生 なま 無性 むしょう ,此如幻 まぼろし 事 ごと ,託 たく 眾緣生 せい ,無 む 如妄執 もうしゅう 自然 しぜん 性 せい 故 こ ,假說 かせつ 無性 むしょう ,非 ひ 性 せい 全 ぜん 無 む 。
依 よ 後 のち 圓 えん 成 なり 實 み ,立 たて 勝義 まさよし 無性 むしょう ,謂 いい 即 そく 勝義 まさよし ,由 よし 遠 とお 離 はなれ 前 まえ 遍 あまね 計 けい 所 ところ 執 と 我 わが 、法 ほう 性 せい 故 こ ,假說 かせつ 無性 むしょう ,非 ひ 性 せい 全 ぜん 無 む ;如太虛空 こくう ,雖遍眾色,而是眾色無性 むしょう 所 しょ 顯 あらわ 。雖依 よ 他 た 起 おこり 非 ひ 勝義 まさよし 故 こ ,亦 また 得 とく 說 せつ 為 ため 勝義 まさよし 無性 むしょう ,而濫第 だい 二 に 故 こ ,此不說 せつ 。此性即 そく 是 ぜ 諸法 しょほう 勝義 まさよし ,是 ぜ 一切法勝義諦故。」
^ 4.0 4.1
《深 ふか 密 みつ 解脫 げだつ 經 けい 》:「世尊 せそん !此第二 に 轉 てん 法輪 ほうりん ,說 せつ 上 じょう 法相 ほうしょう ,可 か 入 いれ 法相 ほうしょう ,分別 ふんべつ 彼 かれ 諸 しょ 不 ふ 了 りょう 義 よし 修多羅 すたら ,為 ため 住 じゅう 大乘 だいじょう 眾生,說 せつ 於諸法 ほう ,無 む 有體 ありてい 相 しょう ,諸法 しょほう 不 ふ 生 せい ,諸法 しょほう 不滅 ふめつ ,諸法 しょほう 寂靜 じゃくじょう ,諸法 しょほう 自性 じしょう 涅槃 ねはん 。……世尊 せそん !此是第 だい 三 さん 轉 てん 法輪 ほうりん ,為 ため 住 じゅう 一切 いっさい 大乘 だいじょう 眾生,說 せつ 諸法 しょほう ,無體 むたい 相 しょう ,不 ふ 生 なま 不滅 ふめつ ,寂靜 じゃくじょう ,自性 じしょう 涅槃 ねはん ,善 ぜん 說 せつ 四諦 したい 差別 さべつ 之 これ 相 しょう 。」
《解 かい 深 ふか 密 みつ 經 けい 》:「世尊 せそん 在 ざい 昔 むかし 第 だい 二 に 時 じ 中 ちゅう ,惟 おもんみ 為 ため 發 はつ 趣 おもむき 修 おさむ 大乘 だいじょう 者 しゃ ,依 よ 一切 いっさい 法 ほう ,皆 みな 無 む 自性 じしょう ,無 む 生 なま 無 む 滅 ほろび ,本來 ほんらい 寂靜 じゃくじょう ,自性 じしょう 涅槃 ねはん ,以隱密 おんみつ 相 しょう 轉 うたて 正 せい 法輪 ほうりん 。……世尊 せそん 於今第 だい 三 さん 時 じ 中 ちゅう ,普 ひろし 為 ため 發 はつ 趣 おもむき 一切 いっさい 乘 じょう 者 しゃ ,依 よ 一切 いっさい 法 ほう ,皆 みな 無 む 自性 じしょう ,無 む 生 なま 無 む 滅 ほろび ,本來 ほんらい 寂靜 じゃくじょう ,自性 じしょう 涅槃 ねはん ,無 む 自性 じしょう 性 せい ,以顯了 りょう 相 しょう 轉 うたて 正 せい 法輪 ほうりん 。」
賢 けん 首 くび 法藏 ほうぞう 《十 じゅう 二門論宗致義記 》:「中 ちゅう 天竺 てんじく 三藏 さんぞう 法師 ほうし ,地 ち 婆 ばば 訶羅 ,唐 から 言 げん 日照 ひでり ,說 せつ 云 うん :近代 きんだい 中 ちゅう 天竺 てんじく 那 な 爛 ただれ 陀寺 ,同時 どうじ 有 ゆう 二 に 大德 だいとく 論 ろん 師 し ,一 いち 名 めい 戒賢 ,一 いち 名 めい 智光 ともみつ ,並 なみ 神 しん 解 かい 超 ちょう 倫 りん ,聲高 こわだか 五 ご 印 しるし ,六 ろく 師 し 稽顙,異 こと 部 ぶ 歸依 きえ ,大乘 だいじょう 學 がく 人 じん ,仰 おおせ 之 の 日月 じつげつ 如。天竺 てんじく 獨步 どっぽ ,軌範 きはん 成 なり 規 ぶんまわし ,遂 とげ 各 かく 守 もり 一 いち 宗 むね ,互為矛盾 むじゅん 。謂 いい 戒賢 ,則 のり 遠 とお 承 うけたまわ 彌勒 みろく 無 む 著 ちょ ,近 きん 踵 かかと 護法 ごほう 難 なん 陀 ,依 よ 《深 ふか 密 みつ 》等 とう 經 けい ,《瑜伽 ゆが 》等 とう 論 ろん ,明 あきら 法相 ほうしょう 大乘 だいじょう ,廣 こう 分 ぶん 名數 めいすう ,用 もちい 三 さん 教 きょう 開 ひらき 宗 むね ,顯 あらわ 自 じ 所 ところ 依 よ 為真 ためざに 了 りょう 義 ぎ 。……第 だい 二 に 時 じ 中 ちゅう ,雖依遍 あまね 計 けい 所 ところ 執 と ,而說諸法 しょほう 自性 じしょう 皆 みな 空 そら ,翻 こぼし 彼 かれ 小乘 しょうじょう ,然 しか 於依他 た 、圓 まどか 成 しげる ,猶 なお 未 み 說 せつ 有 ゆう 。第 だい 三 さん 時 じ 中 ちゅう ,就大乘 だいじょう 正 せい 理 り ,具 ぐ 說 せつ 三 さん 性 せい 、三 さん 無性 むしょう 等 とう ,方 ぽう 為 ため 盡 つき 理 り 。……二 に 智光 ともみつ 論 ろん 師 し ,遠 とお 承 うけたまわ 文殊 もんじゅ 龍 りゅう 樹 いつき ,近 きん 稟青 あお 目 め 清 しん 辨 べん ,依 よ 《般若 はんにゃ 》等 とう 經 けい ,《中 ちゅう 觀 かん 》等 とう 論 ろん ,顯 あらわ 無 な 相 あい 大乘 だいじょう ,廣 こう 辨 べん 真空 しんくう ,亦 また 以三教 きょう 開 ひらき 宗 むね ,顯 あらわ 自 じ 所 ところ 依 よ 真 ま 為 ため 了 りょう 義 ぎ 。……次 じ 於第二 に 時 じ ,為 ため 中根 なかね ,說法 せっぽう 相 しょう 大乘 だいじょう ,境 さかい 空 そら 心 しん 有 ゆう ,則 のり 唯識 ゆいしき 義 ぎ 等 とう ,以根猶 なお 劣 れつ 故 こ ,未 み 能 のう 全 ぜん 入 いれ 平等 びょうどう 真空 しんくう ,故 こ 作 さく 是 ぜ 說 せつ 。於第三 さん 時 じ ,方 ぽう 為 ため 上根 じょうこん ,說 せつ 此無相 しょう 大乘 だいじょう ,顯 あらわ 心境 しんきょう 俱空,平等 びょうどう 一味 いちみ ,為真 ためざに 了 りょう 義 ぎ 。……次則 つぎのり 為 ため 破 やぶ 小乘 しょうじょう 實 じつ 有 ゆう ,說 せつ 此緣生 せい ,但 ただし 是 ぜ 假 かり 有 ゆう ,以恐彼 かれ 怖 こわ 畏 かしこ 此真空 しんくう ,故 こ 猶 なお 存 そん 有 ゆう 而接引之。第 だい 三方就究竟大乘,說 せつ 此緣生 せい 即 そく 是 ぜ 性 せい 空 そら ,平等 びょうどう 一 いち 相 そう 。此亦是 ぜ 入 いれ 法 ほう 之 の 漸次 ぜんじ 也。……此三 さん 教 きょう 次第 しだい ,智光 ともみつ 法師 ほうし 《般若 はんにゃ 燈 とう 論 ろん 釋 しゃく 》中 ちゅう ,引《大乘 だいじょう 妙 みょう 智 さとし 經 けい 》所說 しょせつ 。」
法 ほう 雲 くも 《翻譯 ほんやく 名義 めいぎ 集 しゅう 》:「性 せい 相 しょう 二 に 宗 むね ,肇 はじめ 分 ぶん 於竺國 こく 。南北 なんぼく 之 の 黨 とう ,彌 わたる 盛 もり 於齊 おさい 朝 ちょう 。故 こ 西域 せいいき 那 な 爛 ただれ 陀寺戒賢 大德 だいとく ,遠 とお 承 うけたまわ 彌勒 みろく 無 む 著 ちょ ,近 きん 踵 かかと 法 ほう 護 まもる 難 なん 陀 ,依 よ 《深 ふか 密 みつ 》等 とう 經 けい ,《瑜伽 ゆが 》等 とう 論 ろん ,立法 りっぽう 相 しょう 宗 むね 。言 げん 法相 ほうしょう 者 しゃ ,唯 ただ 齊 ひとし 八 はち 識業相 しょう ,以為諸法 しょほう 生起 せいき 之 の 本 ほん ,故 こ 法相 ほうしょう 宗 むね ,以識相 しょう 行 ぎょう 布 ぬの 為 ため 旨 むね 。其寺同時 どうじ 智光 ともみつ 大德 だいとく ,遠 とお 稟文殊 もんじゅ 龍 りゅう 樹 いつき ,近 きん 遵青 あお 目 め 清 しん 辯 べん ,依 よ 《般若 はんにゃ 》等 とう 經 けい ,《中 ちゅう 觀 かん 》等 とう 論 ろん ,立法 りっぽう 性 せい 宗 むね 。言 げん 法 ほう 性 せい 者 しゃ ,以明真如 しんにょ 隨 ずい 緣 えん ,為 ため 染 しみ 淨 きよし 之 これ 本 ほん ,故 こ 一 いち 性 せい 宗 むね ,以真理 しんり 融 とおる 觀 かん 為 ため 門 もん 。」
^ 薩爾吉 きち . 略 りゃく 論 ろん 《菩提 ぼだい 道 みち 炬論》涉 わたる 及的相關 そうかん 問題 もんだい 及其對 たい 西藏 にしくら 佛教 ぶっきょう 的 てき 影響 えいきょう . [2020-07-02 ] . (原始 げんし 内容 ないよう 存 そん 档 于2020-10-20). 據 よりどころ 長尾 ながお 雅人 まさと 先生 せんせい 研究 けんきゅう ,甚深廣大 こうだい (Gambhīrodāra或 ある Gambhīryaudārya)在 ざい 一般大乘佛教的論典中是作為一個詞來使用的,這個詞 し 在 ざい 後世 こうせい 的 てき 哲學 てつがく 中 ちゅう 逐漸分離 ぶんり ,並 なみ 使用 しよう 「觀 かん 」和 かず 「行 くだり 」兩 りょう 字 じ 使 し 之 の 分裂 ぶんれつ 為 ため 兩個 りゃんこ 詞 し 。至 いたり 於明確 かく 地 ち 用 よう 「甚深見 ふかみ 」(Gambhīradarśana,zab-mo-lta-ba)和 かず 「廣大 こうだい 行 ぎょう 」(Udārācārita,rgya-chen-spyod-pa)來 らい 稱呼 しょうこ 以龍樹 じゅ 、提 つつみ 婆 ばば 為 ため 代表 だいひょう 的中 てきちゅう 觀 かん 系統 けいとう 和 わ 以無著 ちょ 、世 よ 親 おや 為 ため 代表 だいひょう 的 てき 瑜伽 ゆが 行 ぎょう 系統 けいとう ,可能 かのう 最 さい 早見 はやみ 於西藏 ぞう 的 てき 「宗 そう 輪 わ 」類 るい 著作 ちょさく 。
^ 《解 かい 深 ふか 密 みつ 經 けい 》:「慈氏菩薩 ぼさつ 復 ふく 白 しろ 佛 ふつ 言 ごと :世尊 せそん !諸 しょ 毘鉢舍 しゃ 那 な 三 さん 摩 ま 地 ち 所行 しょぎょう 影像 えいぞう ,彼 かれ 與 あずか 此心當 とう 言 げん 有 ゆう 異 こと ?當 とう 言 げん 無 む 異 こと ?佛 ふつ 告 つげ 慈氏菩薩 ぼさつ 曰:善男 ぜんなん 子 こ !當 とう 言 げん 無 む 異 こと 。何 なに 以故?由 ゆかり 彼 かれ 影像 えいぞう 唯 ただ 是 ぜ 識故。善男 ぜんなん 子 こ !我 わが 說 せつ 識所緣 えん 唯識 ゆいしき 所 しょ 現 げん 故 ゆえ 。」
^ 《攝 と 大乘 だいじょう 論 ろん 》:「於定心中 しんちゅうの 隨所 ずいしょ 觀 かん 見 み 諸 しょ 青 あお 瘀等所 しょ 知 ち 影像 えいぞう ,一切無別青瘀等事,但 ただし 見 み 自 じ 心 しん 。由 よし 此道理 どうり ,菩薩 ぼさつ 於其一切 いっさい 識中,應 おう 可 か 比 ひ 知 ち 皆 みな 唯 ただ 有識 ゆうしき ,無 む 有 ゆう 境界 きょうかい 。」
^ 世 よ 親 おや 《唯識 ゆいしき 三 さん 十 じゅう 論 ろん 》:「安立 あだち 大乘 だいじょう 三界 さんがい 唯識 ゆいしき ,以契經 けい 說 せつ :三界 さんがい 唯心 ゆいしん ,心 しん 、意 い 、識、了 りょう ,名 めい 之 の 差別 さべつ 。」
^ 《婆 ばば 藪 やぶ 盤 ばん 豆 まめ 菩薩 ぼさつ 傳 でん 》:「慈氏菩薩 ぼさつ 隨 ずい 無 む 著 ちょ 機 き ,恆 つね 於夜分 ぶん ,從 したがえ 知足 ちそく 天 てん 降 くだ 於禪省 しょう 。為 ため 說 せつ 五 ご 論 ろん 之 の 頌:一 いち 、瑜伽 ゆが 論 ろん ,二 に 、分別 ふんべつ 觀 かん 行 ぎょう 名分 めいぶん 別 べつ 瑜伽 ゆが 論 ろん ,三 さん 、大 だい 莊嚴 しょうごん 論 ろん ,四 よん 、辨 べん 中 ちゅう 邊 あたり ,五 ご 、金 きむ 剛 つよし 般若 はんにゃ 。于時門人 もんじん ,或 ある 見 み 光明 こうみょう ,不 ふ 見 み 相好 そうごう ,不 ふ 聞教授 きょうじゅ ;或 ある 見 み 相好 そうごう ,不 ふ 聞教法 ほう ;或 ある 見聞 けんぶん 者 しゃ 。」
^ 宇井 うい 伯寿 はくじゅ :《彌勒菩薩 みろくぼさつ と彌勒 みろく 論 ろん 師 し 》,《印度 いんど 学 がく 佛教 ぶっきょう 学 がく 研究 けんきゅう 》1卷 かん 1号 ごう ,1952年 ねん 7月 がつ 。
^ 三國吳支謙譯《惟 おもんみ 日 び 雜 ざつ 難 なん 經 けい 》:「有 ゆう 菩薩 ぼさつ 字 じ 和 わ 須蜜,難 なん 一 いち 阿羅漢 あらかん 經 けい ,阿羅漢 あらかん 不 ふ 而解,便 びん 一心生意上問彌勒。已 やめ 問 とい ,便 びん 報 ほう 和 わ 須蜜言 ごと :卿 きょう 所 しょ 問 とい 事 ごと ,次第 しだい 為 ため 解 かい 之 の 。和 わ 須蜜覺 さとし 知 ち ,便 びん 詰 つめ 阿羅漢 あらかん ,卿 きょう 適 てき 一心上問彌勒耶。阿羅漢 あらかん 實然 じつねん 。」
^
窺基 《成 なり 唯識 ゆいしき 論述 ろんじゅつ 記 き 》:「慧 とし 愷法師 し 《俱舍序 じょ 》云 うん ,佛滅 ぶつめつ 已 やめ 後 ご ,千 せん 一 いち 百 ひゃく 年 ねん ,天 てん 親 おや 菩薩 ぼさつ 出生 しゅっしょう 造 づくり 論 ろん ,依 よ 今 こん 所傳 しょでん ,諸 しょ 部 ぶ 說 せつ 異 こと 。今 いま 依 よ 大乘 だいじょう ,九 きゅう 百 ひゃく 年間 ねんかん ,天 てん 親 おや 菩薩 ぼさつ 出世 しゅっせ ,造 みやつこ 此頌本 ほん 。……同時 どうじ 唯 ただ 有 ゆう 親 おや 勝 しょう 、火 ひ 辨 べん 二 に 大 だい 論 ろん 師 し ,造 みやつこ 此頌釋 しゃく 。千 せん 一 いち 百 ひゃく 年 ねん 後 ご ,餘 よ 八 はち 論 ろん 師 し ,方 ぽう 造 づくり 斯釋。……釋 しゃく 此本頌,有 ゆう 十 じゅう 論 ろん 師 し 。」
^ 呂 りょ 澂《西藏 にしくら 佛學 ぶつがく 原論 げんろん 》〈論 ろん 莊嚴 しょうごん 經論 きょうろん 與 あずか 唯識 ゆいしき 古學 こがく 〉:「於此宜 むべ 知 ち ,唯識 ゆいしき 有 ゆう 古今 ここん 學 がく 之 の 別 べつ 。此言古今 ここん ,非 ひ 以無著 ちょ 、世 よ 親 したし 或 ある 陳 ひね 那 な 相 しょう 望 もち 之 の 先後 せんご 而判也。如以先後 せんご 判 ばん ,則 のり 應 おう 無 む 著 ちょ 古學 こがく ,而世親 おや 今 いま 學 がく 。又 また 應 おう 世 よ 親 おや 古學 こがく ,而陳那 な 今 いま 學 がく ,此將淆亂,不 ふ 得 とく 定 てい 稱 しょう 。實則 さねつね ,無 む 著 ちょ 、世 よ 親 おや 唯識 ゆいしき 之 の 學 まなべ ,先後 せんご 一貫 いっかん 。古 こ 謂 いい 順 じゅん 從 したがえ 舊 きゅう 說 せつ ,今 こん 謂 いい 推衍新說 しんせつ ,此其大 だい 挍也。於印度 ど 十 じゅう 大 だい 論 ろん 師 し 求 もとめ 之 の ,親 おや 勝 しょう 、火 ひ 辨 べん 、難 なん 陀三 さん 家 いえ ,古學 こがく 也。護法 ごほう ,今 いま 學 がく 也。安 あん 慧 とし 則 のり 折衷 せっちゅう 兩者 りょうしゃ 之 の 間 あいだ 。於東 おひがし 土 ど 唯識 ゆいしき 譯 やく 家 か 求 もとめ 之 の ,則 のり 真諦 しんたい ,古學 こがく 也,玄 げん 奘,今 いま 學 がく 也。」
^
圓 えん 測 はか 《仁王 におう 經 けい 疏 》:「問 とい :此無相輪 そうりん ,三 さん 性 せい 中 ちゅう 遣 や 何等 なんら ?此三 さん 無性 むしょう 中 ちゅう ,依 よ 何 なに 無性 むしょう ?解 かい 云 うん :西方 にしかた 諸 しょ 師 し ,分 ふん 成 なり 兩 りょう 釋 しゃく 。一 いち 者 しゃ 、清 しん 辨 べん 其遣三 さん 性 せい ,以立為 ため 空 そら ,即 そく 說 せつ 空理 くうり ,以為無 む 相 そう ,具 ぐ 如《掌 てのひら 珍 ちん 》。二 に 者 しゃ 、護法 ごほう 但 ただし 遣 や 所 ところ 執 と ,以為無 む 相 しょう ,如《深 ふか 密 みつ 》等 とう 。……真諦 しんたい 三藏 さんぞう ,……於一真如 しんにょ ,遣 や 三 さん 性 せい 故 こ ,立 たて 三 さん 無性 むしょう ,具 ぐ 如《三 さん 無性 むしょう 論 ろん 》。是 ぜ 故 こ 真諦 しんたい 大同 だいどう 清 しん 辨 べん ,而差別 さべつ 者 しゃ ,清 しん 辨 べん 菩薩 ぼさつ ,立 たて 而無當 とう ;真諦 しんたい 師 し ,意 い 存 そん 三 さん 無性 むしょう ,非 ひ 安立 あだち 諦 たい 。」
^
慧 とし 立 りつ 《大 だい 慈恩寺 じおんじ 三藏 さんぞう 法 ほう 師傳 しでん 》:「是 ぜ 時 じ 聞海中有 ちゅうう 僧 そう 伽羅 きゃら 國 こく (此云執 と 師 し 子 こ 也),有明 ありあけ 上座 かみざ 部 ぶ 三藏 さんぞう 及解《瑜伽 ゆが 論 ろん 》者 しゃ ,涉 わたる 海路 かいろ 七 なな 百 ひゃく 由旬 ゆじゅん 方 かた 可 か 達 たち 彼 かれ 。……建 たて 志 こころざし 城 じょう 即 そく 印度 いんど 南海 なんかい 之 の 口 くち ,向 こう 僧 そう 伽羅 きゃら 國 こく 水路 すいろ 三 さん 日 にち 行 ぎょう 到 いた 。未 み 去 さ 之 これ 間 あいだ 而彼王 おう 死 し ,國 くに 內飢亂 らん 。有 ゆう 大德 だいとく 名 めい 菩提 ぼだい 迷祇(抑 そもそも 鷄 にわとり 反 はん )濕 しめ 伐 き 羅 ら (此云自在 じざい 覺 さとし 雲 くも ),阿 おもね 跋 ばつ 耶鄧瑟[唸 うな -今 いま +折 おり ]羅 ら (此云無 む 畏 かしこ 牙 きば ),如是 にょぜ 等 とう 三 さん 百 ひゃく 餘 あまり 僧 そう ,來 らい 投 とう 印度 いんど ,到 いた 建 けん 志 こころざし 城 じょう 。法師 ほうし 與 あずか 相 あい 見 み 訖,問 もん 彼 かれ 僧 そう 曰:「承 うけたまわ 彼 かれ 國 こく 大德 だいとく 等 とう 解 かい 上座 かみざ 部 ぶ 三藏 さんぞう 及《瑜伽 ゆが 論 ろん 》,今 こん 欲 よく 往彼參學 さんがく ,師 し 等 とう 何 なん 因 いん 而來?」報 ほう 曰:「我 わが 國王 こくおう 死 し ,人 にん 庶飢荒 あら ,無 む 可 か 依 よ 仗。聞贍部 ぶ 洲 しゅう 豐樂 ほうらく 安 やす 隱 かくれ ,是 ぜ 佛 ふつ 生 せい 處 しょ ,多 た 諸 しょ 聖跡 せいせき ,是 ぜ 故 こ 來 らい 耳 みみ 。又 また 知 ち 法 ほう 之 の 輩 やから 無 む 越 えつ 我 わが 曹,長老 ちょうろう 有 ゆう 疑 うたぐ ,隨意 ずいい 相 しょう 問 とい 。」法師 ほうし 引《瑜伽 ゆが 》要 よう 文 ぶん 大 だい 節 ふし 徵 ちょう 之 の ,亦 また 不能 ふのう 出 で 戒賢之 の 解 かい 。」
^
圓 えん 測 はか 《解 かい 深 ふか 密 みつ 經 けい 疏 》:「今 いま 依 よ 大乘 だいじょう ,自 じ 有 ゆう 兩 りょう 釋 しゃく 。一 いち 、龍 りゅう 猛 たけし 等 とう ,但 ただし 說 せつ 六 ろく 識,……。二 に 、彌勒 みろく 宗 むね ,依 よ 《金光 かねみつ 明 あきら 》等 とう ,具 ぐ 立 りつ 八 はち 識。然 しか 依 よ 此宗,西方 にしかた 諸 しょ 師 し ,有 ゆう 其三說 せつ 。一 いち 、菩提 ぼだい 留 とめ 支 ささえ 《唯識 ゆいしき 論 ろん 》云 うん :『立 だて 二 に 種 しゅ 心 しん :一 いち 、法 ほう 性 せい 心 こころ ,真如 しんにょ 為 ため 體 たい ,此即真如 しんにょ 心 こころ 之 これ 性 せい 故 こ ,名 めい 之 の 為心 いしん ,而非能 のう 緣 えん 。二 に 、相應 そうおう 心 しん ,與信 よしん 貪 むさぼ 等 とう 心 しん 所 しょ 相應 そうおう 。』……二 に 、真諦 しんたい 三藏 さんぞう ,依 よ 《決定 けってい 藏 ぞう 論 ろん 》,立 たて 九 きゅう 識義。……依 よ 安 あん 慧 とし 宗 むね ,作 さく 如是 にょぜ 說 せつ :『第 だい 九阿摩羅識,此云無垢 むく 識,真如 しんにょ 為 ため 體 たい 。於一真如 しんにょ ,有 ゆう 其二 そのじ 義 よし ,一 いち 所緣 しょえん 境 さかい ,名 めい 為真 ためざに 如及實際 じっさい 等 とう ;二 に 能 のう 緣 えん 義 ぎ ,名 めい 無垢 むく 識,亦 また 名 めい 本 もと 覺 さとし 。』具 ぐ 如九識章,引《決定 けってい 藏 ぞう 論 ろん 》九 きゅう 識品中 ちゅう 說 せつ 。三 さん 、大 だい 唐 から 三藏 さんぞう ,依 よ 《楞伽》等 とう ,及護法 ほう 宗 むね ,唯 ただ 立 りつ 八 はち 識,不 ふ 說 せつ 第 だい 九 きゅう 。……准 じゅん 經 けい 可知 かち ,無垢 むく 識者 しきしゃ ,即 そく 是 ぜ 淨 きよし 分 ぶん 第 だい 八 はち 識也。又 また 《決定 けってい 藏 ぞう 論 ろん 》,即 そく 是 ぜ 《瑜伽 ゆが 》,彼 かれ 論 ろん 本 ほん 無 む 九 きゅう 識品也。」
^
《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん ·本地 ほんじ 分 ぶん 》:「何等 なんら 名 めい 為 ため 五識 ごしき 身 み 耶?所謂 いわゆる :眼識 がんしき 、耳 みみ 識、鼻 はな 識、舌 した 識、身 み 識。云 うん 何 なん 眼識 がんしき 自性 じしょう ?謂 いい 依 よ 眼 め 了 りょう 別 べつ 色 しょく 。彼 かれ 所 しょ 依 よ 者 しゃ ,俱有依 よ ,謂 いい 眼 め ;等 とう 無 む 間 あいだ 依 よ ,謂 いい 意 い ;種子 しゅし 依 よ ,謂 いい :即 そく 此一切 いっさい 種子 しゅし 、執 と 受所依 よ 、異 い 熟 じゅく 所 しょ 攝 と 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識。如是 にょぜ 略說 りゃくせつ 二 に 種 しゅ 所 しょ 依 よ ,謂 いい :色 いろ 、非 ひ 色 いろ ,眼 め 是 ぜ 色 しょく ,餘 よ 非 ひ 色 いろ 。眼 め ,謂 いい 四 よん 大 だい 種 たね 所 しょ 造 づくり 、眼識 がんしき 所 しょ 依 よ 淨 きよし 色 しょく ,無 む 見 み 有 ゆう 對 たい 。意 い ,謂 いい 眼識 がんしき 無 む 間 あいだ 過去 かこ 識。……云 うん 何 なん 意地 いじ ?……云 うん 何 なん 意 い 自性 じしょう ?謂 いい :心 こころ 、意 い 、識。心 こころ ,謂 いい :一切種子所隨依止性,所 しょ 隨 したがえ (依 よ 附 ふ 依 よ 止 とめ )性 せい ,體 たい 能 のう 執 と 受,異 い 熟 じゅく 所 しょ 攝 と ,阿 おもね 賴 よりゆき 耶識。意 い ,謂 いい 恒行 つねゆき 意 い ,及六識身無間滅意。識,謂 いい 現前 げんぜん 了 りょう 別 べつ 所緣 しょえん 境界 きょうかい 。彼 かれ 所 しょ 依 よ 者 しゃ :等 とう 無間 むげん 依 よ ,謂 いい 意 い ;種子 しゅし 依 よ ,謂 いい 如前說 せつ 一切種子阿賴耶識。」
玄 げん 奘 《成 なり 唯識 ゆいしき 論 ろん 》:「諸 しょ 心 しん 、心 しん 所 しょ ,皆 みな 有 ゆう 所 しょ 依 よ ,然 しか 彼 かれ 所 しょ 依 よ ,總有 そうゆう 三 さん 種 しゅ :一 いち 、因緣 いんねん 依 よ ,謂 いい :自 じ 種子 しゅし ,諸 しょ 有為 ゆうい 法 ほう ,皆 みな 託 たく 此依,離 はなれ 自 じ 因緣 いんねん 必不生 せい 故 ゆえ 。二 に 、增 ぞう 上 じょう 緣 えん 依 よ ,謂 いい :內六 ろく 處 しょ ,諸 しょ 心 しん 、心 しん 所 しょ ,皆 みな 託 たく 此依,離 はなれ 俱有根 ね 必不轉 てん 故 ゆえ 。三 さん 、等 ひとし 無 む 間 あいだ 緣 えん 依 よ ,謂 いい :前 ぜん 滅 めつ 意 い ,諸 しょ 心 しん 、心 しん 所 しょ ,皆 みな 託 たく 此依,離 はなれ 開 ひらき 導 しるべ 根 ね 必不起 おこり 故 ゆえ 。唯心 ゆいしん 、心 しん 所 しょ ,具 ぐ 三 さん 所 しょ 依 よ ,名 めい 有 ゆう 所 しょ 依 よ ,非 ひ 所 ところ 餘 あまり 法 ほう 。初 はつ 種子 しゅし 依 よ ,……如是 にょぜ 八 はち 識,及諸心 しん 所 しょ ,定 てい 各 かく 別 べつ 有 ゆう 種子 しゅし 所 しょ 依 よ 。次 つぎ 俱有依 よ ,
(1)有作 ゆうさく 是 ぜ 說 せつ :眼 め 等 とう 五識 ごしき ,意識 いしき 為 ため 依 よ ,此現起 おこり 時 じ 必有彼 かれ 故 こ ,無 む 別 べつ 眼 め 等 とう 為 ため 俱有依 よ ,眼 め 等 とう 五根 ごこん 即 そく 種子 しゅし 故 ゆえ 。《二 に 十 じゅう 唯識 ゆいしき 》伽 とぎ 他 た 中 ちゅう 言 げん :『識從自 じ 種生 たなお ,似 に 境 さかい 相 しょう 而轉,為 ため 成 なり 內外處 しょ ,佛說 ぶっせつ 彼 かれ 為 ため 十 じゅう 。』……《觀 かん 所緣 しょえん 論 ろん 》亦 また 作 さく 是 ぜ 說 せつ :『識上色 しょく 功 こう 能 のう ,名 めい 五根 ごこん 應 おう 理 り ,功 こう 能 のう 與 あずか 境 さかい 色 しょく ,無 む 始 はじめ 互為因 いん 。』……第 だい 七 なな 、八 はち 識,無 む 別 べつ 此依,恒 つね 相續 そうぞく 轉 てん ,自力 じりき 勝 しょう 故 こ 。第 だい 六 ろく 意識 いしき ,別 べつ 有 ゆう 此依,要 よう 託 たく 末 すえ 那 な 而得起 おこり 故 ゆえ 。
有 ゆう 義 よし 彼 かれ 說 せつ 理 り 教 きょう 相違 そうい 。……是 ぜ 故 こ 應 おう 言 ごと :(2)前 ぜん 五 ご 轉 てん 識,一一定有二俱有依,謂 いい :五色 ごしき 根 ね 、同時 どうじ 意識 いしき 。第 だい 六 ろく 轉 てん 識,決定 けってい 恒 つね 有 ゆう 一 いち 俱有依 よ ,謂 いい 第 だい 七 なな 識,若 わか 與 あずか 五識 ごしき 俱時起 おこり 者 しゃ ,亦 また 以五識為俱有依。第 だい 七 なな 轉 てん 識,決定 けってい 唯 ただ 有 ゆう 一 いち 俱有依 よ ,謂 いい 第 だい 八 はち 識。唯 ただ 第 だい 八 はち 識,恒 つね 無 む 轉變 てんぺん ,自 じ 能 のう 立 りつ 故 こ ,無 む 俱有依 よ 。
有 ゆう 義 ぎ 此說猶 なお 未 み 盡 つき 理 り 。……(3)是 ぜ 故 こ 藏 ぞう 識,若 わか 現 げん 起 おこり 者 しゃ ,定 てい 有 ゆう 一 いち 依 よ ,謂 いい 第 だい 七 なな 識,在 ざい 有色 ゆうしょく 界 かい ,亦 また 依 よ 色 いろ 根 ね 。若 わか 識種子 しゅし ,定 てい 有 ゆう 一 いち 依 よ ,謂 いい 異 い 熟 じゅく 識,初 はつ 熏習位 い ,亦 また 依 よ 能 のう 熏,餘 あまり 如前說 せつ 。
有 ゆう 義 ぎ 前說 ぜんせつ 皆 みな 不 ふ 應 おう 理 り 。……(4)由 ゆかり 此五識 ごしき ,俱有所 しょ 依 よ 定 てい 有 ゆう 四 よん 種 しゅ ,謂 いい 五 ご 色 しょく 根 ね 、六 ろく 、七 なな 、八 はち 識,隨 ずい 闕一種必不轉故,同 どう 境 さかい 、分別 ふんべつ 、染 しみ 淨 きよし 、根本 こんぽん 所 しょ 依 よ 別 べつ 故 ゆえ 。聖教 せいきょう 唯 ただ 說 せつ 依 よ 五根 ごこん 者 しゃ ,以不共 ども 故 こ ,又 また 必同境 さかい 、近 きん 、相 そう 順 じゅん 故 ゆえ 。第 だい 六 ろく 意識 いしき ,俱有所 しょ 依 よ 唯 ただ 有 ゆう 二 に 種 しゅ ,謂 いい 七 なな 、八 はち 識,隨 ずい 闕一種必不轉故,雖五識俱取境明了,而不定 ふてい 有 ゆう 故 こ ,非 ひ 所 しょ 依 よ 。聖教 せいきょう 唯 ただ 說 せつ 依 よ 第 だい 七 なな 者 しゃ ,染 しみ 淨 きよし 依 よ 故 こ ,同 どう 轉 てん 識攝、近 きん 、相 そう 順 じゅん 故 ゆえ 。第 だい 七 なな 意識 いしき ,俱有所 しょ 依 よ 但 ただし 有 ゆう 一 いち 種 しゅ ,謂 いい 第 だい 八 はち 識,藏 ぞう 識若無 む 定 じょう 不 ふ 轉 てん 故 ゆえ 。如伽他 た 說 せつ :『阿 おもね 賴 よりゆき 耶為依 よ ,故 こ 有末 ありすえ 那 な 轉 てん ,依 よ 止 とめ 心 こころ 及意,餘 よ 轉 てん 識得生 せい 。』阿 おもね 賴 よりゆき 耶識,俱有所 しょ 依 よ 亦 また 但 ただし 一 いち 種 しゅ ,謂 いい 第 だい 七 なな 識,彼 かれ 識若無 む 定 じょう 不 ふ 轉 てん 故 ゆえ 。《論 ろん 》說 せつ :『藏 ぞう 識恒與 あずか 末 すえ 那 な 俱時轉 てん 故 ゆえ 。』又 また 說 せつ :『藏 ぞう 識恒依 よ 染 しみ 污。』此即末 すえ 那 な 。……
後 こう 開 ひらけ 導 みちびけ 依 よ 。……」
窺基 《成 なり 唯識 ゆいしき 論述 ろんじゅつ 記 き 》:「次第 しだい 二依有四師解。……此即難 なん 陀等 とう 義 ぎ 。……即 そく 安 あん 惠 めぐみ 等 ひとし 諸 しょ 師 し 所說 しょせつ 。……自 じ 下 した 第 だい 三 さん 淨 きよし 月 がつ 等 とう 師 し 復 ふく 非 ひ 前 ぜん 義 ぎ 。……自 じ 下 した 第 だい 四 よん 護法 ごほう 菩薩 ぼさつ 解 かい 。」惠 めぐみ 沼 ぬま 《成 なり 唯識 ゆいしき 論 ろん 了 りょう 義 ぎ 燈 とう 》:「釋 しゃく 俱有依 よ 中 なか 。本 ほん 判 ばん 為 ため 四 よん 。第 だい 二 に 即 そく 是 ぜ 安 あん 惠 めぐみ 師 し 等 とう 。西明 さいみょう 判 はん 云 うん :第 だい 二 に 火 ひ 辨 べん 。」
^
北 きた 魏 たかし 佛陀 ぶっだ 扇 おうぎ 多 おお 譯 わけ 無 む 著 ちょ 《攝 と 大乘 だいじょう 論 ろん 》:「是 ぜ 中 ちゅう 何者 なにもの 他 た 性 せい 相 しょう ?所有 しょゆう 阿 おもね 犁耶識種子中 こなか ,虛妄 きょもう 分別 ふんべつ 所 しょ 攝 と 識。彼 かれ 復 ふく 何 なん 等 とう ?身 み 與 あずか 受用 じゅよう 識,彼 かれ 所 しょ 受用 じゅよう 識,受用 じゅよう 識,時 じ 識,數 すう 識,方處 ほうしょ 差別 さべつ 、假 かり 意識 いしき ,自他 じた 分別 ふんべつ 、善道 ぜんどう 惡道 あくどう 生滅 しょうめつ 識。是 ぜ 中 ちゅう 所有 しょゆう 身 み 與 あずか 受用 じゅよう 識,及彼所用 しょよう 識,及受識、所有 しょゆう 時 じ 、數 かず 、分別 ふんべつ 、假 かり 識者 しきしゃ ,彼 かれ 語 ご 言 げん 習種子 しゅし 因 いん 生 せい 故 こ ;所有 しょゆう 自他 じた 分別 ふんべつ 識,彼 かれ 身 み 見習 みならい 種子 しゅし 因 いん 故 こ ;所有 しょゆう 善道 ぜんどう 惡道 あくどう 生死 せいし 者 しゃ ,彼 かれ 為 ため 因緣 いんねん 習種子 しゅし 因 いん 故 こ ;此諸識一切 いっさい 塵 ちり 、一切道煩惱所攝。……是 ぜ 中身 なかみ 與 あずか 受用 じゅよう 識等,六內眼等塵應知;彼 かれ 所 しょ 受用 じゅよう 識者 しきしゃ ,六外塵色等應知;彼 かれ 能 のう 受用 じゅよう 識者 しきしゃ ,六種眼識等塵應知;此諸識餘識差別 さべつ 應 おう 知 ち 。」
^
玄 げん 奘 《成 なり 唯識 ゆいしき 論 ろん 》:「又 また 相等 そうとう 四 よん 法 ほう 、十 じゅう 一 いち 識等論 ろん ,皆 みな 說 せつ 為 ため 依 よ 他 た 起 おこり 攝 と 故 こ 。」窺基 《成 なり 唯識 ゆいしき 論述 ろんじゅつ 記 き 》:「十 じゅう 一 いち 識者 しきしゃ ,一身 いっしん ,二 に 身 み 者 しゃ ,三 さん 受者,四 よん 彼 かれ 所 しょ 受,五彼能受,六 ろく 世 せい ,七 なな 數 すう ,八 はち 處 しょ ,九 きゅう 言說 げんせつ ,十 じゅう 自他 じた 別 べつ ,十 じゅう 一善惡趣死生識。眼 め 等 とう 五根 ごこん ,名 めい 身 み 。五識所依意界,名 めい 身 み 者 しゃ 。第 だい 六意識所依意界,名 めい 受者識。……」
^
圓 えん 測 はか 《解 かい 深 ふか 密 みつ 經 けい 疏 》:「故 こ 《攝 と 大乘 だいじょう 》云 うん 。論 ろん 曰:此中何者 なにもの 依 よ 他 た 起 おこり 相 しょう 。謂 いい 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識為 ため 種子 しゅし 。虗妄分別 ふんべつ 所 しょ 攝 と 諸 しょ 識。……然 しか 此諸識有差別 さべつ 者 しゃ 。
若 わか 依 よ 無性 むしょう :眼 め 等 とう 五識所依意界,名 めい 身 み 者 しゃ 識;第 だい 六意識所依意界,名 めい 受者識。解 かい 云 うん :無性 むしょう 論 ろん 意 い ,眼 め 等 とう 五識所依意界,即 そく 是 ぜ 賴 よりゆき 耶,名 めい 身 み 者 しゃ 識;第 だい 六意識所依意界,即 そく 是 ぜ 末 まつ 那 な ,名 めい 受者識。
若 わか 依 よ 世 よ 親 おや ,與 あずか 此相翻 こぼし :第 だい 七 なな 末 まつ 那 な ,名 めい 身 み 者 しゃ 識;第 だい 八 はち 賴 よりゆき 耶,名 めい 受者識。故 こ 彼 かれ 論 ろん 云 うん :身 み 者 しゃ ,謂 いい 染 しみ 汙意;受者,謂 いい 意 い 界 かい 。
又 また 此諸識,數 すう 有 ゆう 差別 さべつ 。若 わか 依 よ 《梁 はり 論 ろん 》及《成 なり 唯識 ゆいしき 》,皆 みな 云 うん 十 じゅう 一 いち ;若 わか 依 よ 《攝 と 大乘 だいじょう 》,自 じ 有 ゆう 兩 りょう 文 ぶん ,前文 ぜんぶん 十 じゅう 一 いち ,後 ご 文 ぶん 十 じゅう 二 に ,謂 いい 開 ひらき 善 ぜん 趣 おもむき 惡趣 あくしゅ 死生 しせい 識,以為二 に 故 こ ,一善趣惡趣識,二 に 死生 しせい 識。故 こ 彼 かれ 論 ろん 云 うん :業 ぎょう 果 はて 異 い 熟 じゅく 無 む 數量 すうりょう 故 こ ,所 しょ 受死生 せい 無 む 數量 すうりょう 故 ゆえ 。無性 むしょう 釋 しゃく 云 うん :善 ぜん 趣 おもむき 惡趣 あくしゅ 及與死生 しせい 。解 かい 云 うん :說 せつ 故 こ 及言,故知 こち 十 じゅう 二 に ;世 よ 親 おや 不 ふ 釋 しゃく ,故 こ 為 ため 十 じゅう 一 いち ,於理無 む 違 たがえ 。」
^ 《成 なり 唯 ただ 识论》(卷 まき 七 なな )
^ 《大乘 だいじょう 阿 おもね 毗达磨 すり 杂集论》(卷 まき 二 に )
^ 《大乘 だいじょう 百法明门论疏》
^ 《大乘 だいじょう 百法明门论解》
^ 圓 えん 測 はか 《解 かい 深 ふか 密 みつ 經 けい 疏 》:「真諦 しんたい 三藏 さんぞう 。依 よ 《決定 けってい 藏 ぞう 論 ろん 》。立 だて 九 きゅう 識義。如九識品說 せつ 。言 げん 九 きゅう 識者 しきしゃ 。眼 め 等 とう 六 ろく 識。大同 だいどう 識論。第 だい 七 なな 阿 おもね 陀那。此云執 と 持 じ 。執 と 持 じ 第 だい 八 はち 為 ため 我 わが 我 が 所 しょ 。唯 ただ 煩 はん 惱障。而無法 ほう 執 と 。定 てい 不 ふ 成佛 じょうぶつ 。第 だい 八阿梨耶識。自 じ 有 ゆう 三 さん 種 しゅ 。一 いち 解 かい 性 せい 梨 なし 耶。有 ゆう 成佛 じょうぶつ 義 ぎ 。二 に 果報 かほう 梨 なし 耶。緣 えん 十 じゅう 八 はち 界 かい 。故 こ 《中 ちゅう 邊 あたり 分別 ふんべつ 》偈 げ 云 うん 。根 ね 塵 ちり 我 わが 及識。本 ほん 識生似 に 彼 かれ 。依 よ 彼 かれ 論 ろん 等 とう 說 せつ 。第 だい 八 はち 識緣十 じゅう 八 はち 界 かい 。三染汙阿梨耶。緣 えん 真如 しんにょ 境 さかい 。起 おこり 四 よん 種 しゅ 謗 そし 。即 そく 是 ぜ 法 ほう 執 と 。而非人 じん 執 と 。依 よ 安 あん 慧 とし 宗 むね 。作 さく 如是 にょぜ 說 せつ 。第 だい 九 きゅう 阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識 。此云無垢 むく 識。真如 しんにょ 為 ため 體 たい 。於一真如 しんにょ 。有 ゆう 其二 そのじ 義 ぎ 。一 いち 所緣 しょえん 境 さかい 。名 めい 為真 ためざに 如及實際 じっさい 等 とう 。二 に 能 のう 緣 えん 義 ぎ 。名 めい 無垢 むく 識。亦 また 名 めい 本 もと 覺 さとし 。具 ぐ 如《九 きゅう 識章》。引《決定 けってい 藏 ぞう 論 ろん 》九 きゅう 識品中 ちゅう 說 せつ 。」
^ 真諦 しんたい 譯 わけ 《顯 あらわ 識論 》(從 したがえ 《無 む 相 そう 論 ろん 》出 だし ):「佛 ふつ 於《解 かい 節 ぶし 經 けい 》中 ちゅう 說 せつ 偈 げ 言 ごと :『顯 あらわ 識起分別 ふんべつ 。分別 ふんべつ 起 おこり 熏習。熏習起 おこり 顯 あらわ 識。故 こ 生死 せいし 輪轉 りんてん 。』所 しょ 言 げん 熏習者 しゃ ,一執著分別性,二 に 觀 かん 習真實 しんじつ 性 せい ,以此二 に 義 ぎ 故 こ 名 めい 熏習。第 だい 一 いち 熏習者 しゃ ,增長 ぞうちょう 阿 おもね 梨 なし 耶識,阿 おもね 梨 なし 耶識被 ひ 增長 ぞうちょう ,具足 ぐそく 諸 しょ 能 のう ,能生 のう 六道受生諸識,以是義 よし 故 こ 生死 せいし 圓滿 えんまん 。第 だい 二 に 熏習者 しゃ ,名 めい 觀 かん 習真實 しんじつ 性 せい ,此熏習能除 じょ 執 と 著 しる 分別 ふんべつ 性 せい ,是 ぜ 第 だい 一 いち 熏習被 ひ 損壞 そんかい 故 こ ,阿 おもね 梨 なし 耶識亦 また 被 ひ 損 そん ,阿 おもね 梨 なし 耶識既 すんで 被 ひ 損 そん ,受生識亦被 ひ 損 そん ,以阿梨 なし 耶識能生 のう 三界 さんがい ,由 ゆかり 被 ひ 損 そん 故 こ 得 とく 三界 さんがい 轉 てん ,依 よ 此轉 うたて 依 よ 義 ぎ 具 ぐ 五 ご 種 しゅ ,如《滅 めつ 差別 さべつ 相 しょう 》中 ちゅう 解說 かいせつ 。」
^
真諦 しんたい 譯 わけ 《轉 うたて 識論 》(從 したがえ 《無 む 相 そう 論 ろん 》出 だし ):「起 おこり 種種 しゅじゅ 分別 ふんべつ 等 とう 者 しゃ ,一一識中皆具能所,能 のう 分別 ふんべつ 即 そく 是 ぜ 識,所 しょ 分別 ふんべつ 即 そく 是 ぜ 境 さかい 。能 のう 即 そく 依 よ 他 た 性 せい ,所 しょ 即 そく 分別 ふんべつ 性 せい ,故 こ 云 うん 起 おこり 種種 しゅじゅ 分別 ふんべつ 及所分別 ふんべつ 也。由 よし 如此義 よし ,離 はなれ 識之外 がい 無 む 別 べつ 境 さかい ,但 ただし 唯 ただ 有識 ゆうしき 義成 よしなり 。既 すんで 未明 みめい 遣 や 識,惑亂 わくらん 未 み 除 じょ ,故 こ 名 めい 不淨 ふじょう 品 ひん 也。問 とい :遣 や 境 さかい 在 ざい 識,乃可稱 しょう 唯識 ゆいしき 義 ぎ 。既 すんで 境 さかい 識俱遣,何 なに 識可成 なり 。答 こたえ :立 たて 唯識 ゆいしき 乃一往遣境 さかい ,留 とめ 心 しん 卒 そつ 終 おわり 為 ため 論 ろん 。遣 や 境為 さかため 欲 よく 空 そら 心 しん ,是 ぜ 其正意 い ,是 ぜ 故 こ 境 さかい 識俱泯,是 ぜ 其義成 なり 。此境 さかい 識俱泯即 そく 是 ぜ 實 み 性 せい ,實 み 性 せい 即 そく 是 これ 阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識 ,亦 また 可 か 卒 そつ 終 おわり 為 ため 論 ろん 是 ぜ 摩 ま 羅 ら 識也。」
^
真諦 しんたい 譯 わけ 龍 りゅう 樹 いつき 《十 じゅう 八 はち 空論 くうろん 》:「問 とい :若 わか 爾 なんじ 既 すんで 無 む 自性 じしょう 不淨 ふじょう ,亦 また 應 おう 無 む 有 ゆう 自性 じしょう 淨 きよし ,云 うん 何 なん 分 ふん 判 ばん 法界 ほうかい 非 ひ 淨 きよし 非 ひ 不淨 ふじょう 。答 こたえ :阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識是 これ 自性 じしょう 清淨 せいじょう 心 しん ,但 ただし 為 ため 客 きゃく 塵 ちり 所 しょ 污故名 めい 不淨 ふじょう ,為 ため 客 きゃく 塵 ちり 盡 つき 故 こ 立 たて 為 ため 淨 きよし 。」「明 あきら 唯識 ゆいしき 真實 しんじつ ,辨 べん 一切諸法唯有淨識。無 む 有能 ゆうのう 疑 うたぐ ,亦 また 無 む 所 ところ 疑 うたぐ ,廣 こう 釋 しゃく 如《唯識 ゆいしき 論 ろん 》。但 ただし 唯識 ゆいしき 義 ぎ 有 ゆう 兩 りょう ,一 いち 者 しゃ 方便 ほうべん ,謂 いい 先 さき 觀 かん 唯 ただ 有 ゆう 阿 おもね 梨 なし 耶識 ,無 む 餘 よ 境界 きょうかい ,現 げん 得 とく 境 さかい 智 さとし 兩 りょう 空 そら ,除 じょ 妄識 已 やめ 盡 つき ,名 めい 為 ため 方便 ほうべん 唯識 ゆいしき 也。二 に 明正 めいせい 觀 かん 唯識 ゆいしき ,遣 や 蕩 とろけ 生死 せいし 虛妄 きょもう 識心,及以境界 きょうかい ,一 いち 皆 みな 淨 きよし 盡 つき ,唯 ただ 有 ゆう 阿 おもね 摩 ま 羅 ら 清淨 せいじょう 心 しん 也。」
^
菩提 ぼだい 流 りゅう 支 ささえ 譯 わけ 《深 ふか 密 みつ 解脫 げだつ 經 けい 》:「真如 しんにょ 有 ゆう 七 なな 種 しゅ ,何等 なんら 為 ため 七 なな :所謂 いわゆる 無 む 始 はじめ 有為 ゆうい 行 ぎょう 相 しょう 真如 しんにょ ;相 しょう 真如 しんにょ ,所謂 いわゆる 我 わが 空 そら 法 ほう 空 そら ;唯識 ゆいしき 真如 しんにょ ,知 ち 有為 ゆうい 行 ぎょう 惟 おもんみ 是 これ 心 こころ ;執 と 著 しる 真如 しんにょ ,所謂 いわゆる 我 わが 說 せつ 苦 く 諦 たい ;邪 よこしま 行 ぎょう 真如 しんにょ ,所謂 いわゆる 我 わが 說 せつ 集 しゅう 諦 たい ;清淨 せいじょう 真如 しんにょ ,所謂 いわゆる 我 が 說 せつ 滅 めつ 諦 たい ;正 せい 修行 しゅぎょう 真如 しんにょ ,所謂 いわゆる 我 わが 說 せつ 道 どう 諦 たい 。」
真諦 しんたい 譯 わけ 龍 りゅう 樹 いつき 《十 じゅう 八 はち 空論 くうろん 》「《解 かい 節 ぶし 經 けい 》明 あきら 佛說 ぶっせつ 有 ゆう 七 なな 種 しゅ 真如 しんにょ :一生 いっしょう 、二 に 相 そう 、三 さん 識、四 よん 依 よ 止 とめ 、五 ご 邪 よこしま 行 ぎょう 、六 ろく 清淨 せいじょう 、七 なな 正行 まさゆき 。……三 さん 識真如 しんにょ 者 もの ,謂 いい 一切 いっさい 有為 ゆうい 唯 ただ 有識 ゆうしき 。……三 さん 識真如 しんにょ 者 もの ,但 ただし 唯 ただ 有識 ゆうしき ,無 む 有 ゆう 境界 きょうかい ,境界 きょうかい 不 ふ 成 なり 故 こ ,識亦不 ふ 成 なり 。此則能 のう 緣 えん 、所緣 しょえん ,同 どう 是 ぜ 不可 ふか 得 とく 性 せい 故 こ ,名 めい 識真如也。……」
玄 げん 奘譯 わけ 《解 かい 深 ふか 密 みつ 經 けい 》:「如是 にょぜ 一切 いっさい 如所有性 ゆうせい 者 しゃ ,謂 いい 即 そく 一切染淨法中所有真如,是 ぜ 名 めい 此中如所有 しょゆう 性 せい 。此復七 なな 種 しゅ :一 いち 者 しゃ 流轉 るてん 真如 しんにょ ,謂 いい 一切 いっさい 行 ぎょう 無 む 先後 せんご 性 せい ;二 に 者 しゃ 相 しょう 真如 しんにょ ,謂 いい 一切法補特伽羅,無我 むが 性 せい 及法無我 むが 性 せい ;三 さん 者 しゃ 了 りょう 別 べつ 真如 しんにょ ,謂 いい 一切行唯是識性;四 よん 者 しゃ 安立 あんりゅう 真如 しんにょ ,謂 いい 我 わが 所說 しょせつ 諸 しょ 苦 く 聖 ひじり 諦 たい ;五 ご 者 しゃ 邪 よこしま 行 ぎょう 真如 しんにょ ,謂 いい 我 わが 所說 しょせつ 諸 しょ 集 しゅう 聖 ひじり 諦 たい ;六 ろく 者 しゃ 清淨 せいじょう 真如 しんにょ ,謂 いい 我 わが 所說 しょせつ 諸 しょ 滅 めつ 聖 ひじり 諦 たい ;七 なな 者 しゃ 正行 まさゆき 真如 しんにょ ,謂 いい 我 わが 所說 しょせつ 諸道 しょどう 聖 ひじり 諦 たい 。」
真諦 しんたい 譯 わけ 《三 さん 無性 むしょう 論 ろん 》(從 したがえ 《無 む 相 そう 論 ろん 》出 だし ):「真諦 しんたい 者 しゃ ,謂 いい 七 なな 種 しゅ 如如:一生 いっしょう 、二 に 相 そう 、三 さん 識、四 よん 依 よ 止 とめ 、五 ご 邪 よこしま 行 ぎょう 、六 ろく 清淨 せいじょう 、七 なな 正行 まさゆき 。……三 さん 識如如 者 もの ,謂 いい 一切諸行但唯是識。此識二 に 義 ぎ 故 こ 稱 しょう 如如:一 いち 攝 と 無 む 倒 たおせ ,二 に 無 む 變異 へんい 。攝 と 無 む 倒 たおせ 者 しゃ ,謂 いい 十 じゅう 二入等一切諸法但唯是識,離 はなれ 亂 らん 識外無 む 別 べつ 餘 あまり 法 ほう 故 こ ,一切 いっさい 諸法 しょほう 皆 みな 為 ため 識攝。此義決定 けってい 故 こ ,稱 たたえ 攝 と 無 む 倒 たおせ ,無 む 倒 たおせ 故 こ 如如,無 む 倒 たおせ 如如未 み 是 ぜ 無 む 相 あい 如如也。無 む 變異 へんい 者 しゃ ,明 あきら 此亂識,即 そく 是 ぜ 分別 ふんべつ 、依 よ 他 ほか ,似 に 塵 ちり 識所顯 あらわ ,由 よし 分別 ふんべつ 性 せい 永 ひさし 無 む 故 こ ,依 よ 他 た 性 せい 亦 また 不 ふ 有 ゆう ,此二無 む 所有 しょゆう ,即 そく 是 これ 阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識 ,唯 ただ 有 ゆう 此識獨 どく 無 む 變異 へんい 故 こ ,稱 しょう 如如。前 ぜん 稱 しょう 如如,但 ただし 遣 や 十 じゅう 二 に 入 いれ 。小乘 しょうじょう 所 しょ 辨 べん 一切 いっさい 諸法 しょほう ,唯 ただ 十 じゅう 二 に 入 いれ 非 ひ 是 ぜ 顛倒 てんとう ;今 こん 大乘 だいじょう 義 ぎ 破 やぶ 諸 しょ 入 いれ ,並 なみ 皆 みな 是 ぜ 無 な ,唯 ただ 是 ぜ 亂 らん 識所作 さく 故 こ ,十 じゅう 二 に 入 いれ 則 そく 為 ため 顛倒 てんとう ,唯一 ゆいいつ 亂 らん 識則非 ひ 顛倒 てんとう ,故 こ 稱 しょう 如如。此識體 たい 猶 なお 變異 へんい ,次 じ 以分別 べつ 依 よ 他 ほか ,遣 や 此亂識,唯 ただ 阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識是無 む 顛倒 てんとう ,是 ぜ 無 む 變異 へんい ,是 ぜ 真如 しんにょ 如也。前 まえ 《唯識 ゆいしき 義 よし 》中 ちゅう 亦 また 應 おう 作 さく 此識說 せつ ,先 さき 以唯一 いち 亂 らん 識,遣 や 於外境 さかい ,次 じ 阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識 ,遣 や 於亂識故,究竟 きゅうきょう 唯一 ゆいいつ 淨 きよし 識 也。……」
玄 げん 奘譯 わけ 《顯揚 けんよう 聖教 せいきょう 論 ろん ·成 なり 無性 むしょう 品 ひん 》:「復 ふく 次 じ 頌曰。宣 せん 說 せつ 我 わが 法 ほう 用 よう 。皆 みな 名 めい 為 ため 世俗 せぞく 。當知 とうち 勝義 まさよし 諦 たい 。謂 いい 七 なな 種 しゅ 真如 しんにょ 。論 ろん 曰。世 よ 俗諦 ぞくたい 者 しゃ 。當知 とうち 宣 せん 說 せつ 我 わが 法 ほう 作用 さよう 已 やめ 。如攝淨 きよし 義 ぎ 品 ひん 中 ちゅう 說 せつ 。勝義 まさよし 諦 たい 者 しゃ 。謂 いい 七 なな 種 しゅ 真如 しんにょ 。已 やめ 如攝事 ごと 品 ひん 中 ちゅう 說 せつ 。」
波 なみ 羅 ら 頗蜜多 た 羅 ら 譯 わけ 《大乘 だいじょう 莊嚴 しょうごん 經論 きょうろん 》:「偈 げ 曰。已 やめ 說 せつ 心性 しんせい 淨 きよし 。而為客 きゃく 塵 ちり 染 しみ 。不離 ふり 心 こころ 真如 しんにょ 。別 べつ 有心 うしん 性 せい 淨 きよし 。釋 しゃく 曰。譬 たとえ 如水 にょすい 性 せい 自 じ 清 きよし 而為客 きゃく 垢 あか 所 しょ 濁 にご 。如是 にょぜ 心性 しんせい 自淨 じじょう 而為客 きゃく 塵 ちり 所 しょ 染 しみ 。此義已 やめ 成 なり 。由 よし 是 ぜ 義 よし 故 こ 。不離 ふり 心 しん 之 の 真如 しんにょ 別 べつ 有 ゆう 異 い 心 しん 。謂 いい 依 よ 他 た 相 そう 說 せつ 為 ため 自性 じしょう 清淨 せいじょう 。此中應 おう 知 ち 。說 せつ 心 こころ 真如 しんにょ 名 な 之 の 為心 いしん 。即 そく 說 せつ 此心為 ため 自性 じしょう 清淨 せいじょう 。此心即 そく 是 ぜ 阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識 。」
^
真諦 しんたい 譯 わけ 《決定 けってい 藏 ぞう 論 ろん 》:「與 あずか 煩惱 ぼんのう 俱滅者 もの ,如是 にょぜ 阿 おもね 羅 ら 耶識 而是一切 いっさい 煩惱 ぼんのう 根本 こんぽん ,修 おさむ 善 ぜん 法 ほう 故 こ 此識則 そく 滅 めつ 。言 げん 修 おさむ 善 ぜん 者 しゃ ,諸 しょ 凡夫 ぼんぷ 人 じん 起 おこり 善 ぜん 思惟 しい ,而取諸 しょ 識以為 ため 境界 きょうかい ,進行 しんこう 安心 あんしん 初 はつ 觀 かん 諸 しょ 諦 たい ,若 わか 證 あかし 四諦得眼智明慧,則 のり 能 のう 破壞 はかい 阿 おもね 羅 ら 耶識,未見 みけん 四諦 したい 則 そく 不能 ふのう 破 やぶ 。何 なん 時 じ 能見 のうみ 阿 おもね 羅 ら 耶識,如是 にょぜ 進行 しんこう ,若 わか 諸 もろ 聲聞 しょうもん 入 にゅう 不 ふ 退 すさ 地 ち ,又 また 諸 しょ 菩薩 ぼさつ 入 にゅう 不 ふ 退 すさ 地 ち ,得 とく 通達 つうたつ 法界 ほうかい 則 そく 能 のう 得 とく 見 み ,於此識中即 そく 見 み 一切 いっさい 諸 しょ 煩惱 ぼんのう 聚,於內於外即 そく 見 み 己 おのれ 身 み 為 ため 煩惱 ぼんのう 縛 ばく ,於內見 み 身 み 而為三界麁惡煩惱諸苦所縛。一切行種煩惱攝者,聚在阿 おもね 羅 ら 耶識中 ちゅう 。得 とく 真如 しんにょ 境 さかい 智 さとし 增 ぞう 上 じょう 行 ぎょう 故 ゆえ ,修習 しゅうしゅう 行 ぎょう 故 ゆえ ,斷 だん 阿 おもね 羅 ら 耶識即 そく 轉 てん 凡夫 ぼんぷ 性 せい ,捨凡夫 ぼんぷ 法 ほう 阿 おもね 羅 ら 耶識滅 ほろび ,此識滅 ほろび 故 こ 一切 いっさい 煩惱 ぼんのう 滅 ほろび ,阿 おもね 羅 ら 耶識對 たい 治 ち 故 こ ,證 しょう 阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識 。阿 おもね 羅 ら 耶識是 ぜ 無常 むじょう ,是 ぜ 有 ゆう 漏 も 法 ほう ;阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識是 ぜ 常 つね ,是 ぜ 無 な 漏 も 法 ほう ,得 とく 真如 しんにょ 境 さかい 道 どう 故 こ ,證 しょう 阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識 。阿 おもね 羅 ら 耶識為 ため 麁惡苦 く 果 はて 之 これ 所 しょ 追 つい 逐;阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識無 む 有 ゆう 一切 いっさい 麁惡苦 く 果 はて 。阿 おもね 羅 ら 耶識 而是一切 いっさい 煩惱 ぼんのう 根本 こんぽん ,不為 ふため 聖 ひじり 道 どう 而作根本 こんぽん ;阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識亦 また 復 ふく 不為 ふため 煩惱 ぼんのう 根本 こんぽん ,但 ただし 為 ため 聖 せい 道 みち 得道 とくどう 得 とく 作 さく 根本 こんぽん ,阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識作 さく 聖 せい 道 みち 依 よ 因 いん ,不作 ふさく 生 せい 因 いん 。阿 おもね 羅 ら 耶識 於善無 む 記 き 不 ふ 得 とく 自在 じざい ,阿 おもね 羅 ら 耶識滅 めつ 時 じ 有 ゆう 異 い 相貌 そうぼう ,謂 いい 來世 らいせ 煩惱 ぼんのう 不善 ふぜん 因 いん 滅 ほろび ,以因滅 ほろび 故 こ ,則 のり 於來世 らいせ 五盛陰苦不復得生,現 げん 在世 ざいせい 中 ちゅう 一切煩惱惡因滅故,則 のり 凡夫 ぼんぷ 陰 かげ 滅 ほろび ,此身自在 じざい 即 そく 便 びん 如化,捨離一切 いっさい 麁惡果報 かほう ;得 とく 阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識之 これ 因 いん 緣故 えんこ ,此身壽命 じゅみょう 便 びん 得 とく 自在 じざい ,壽命 じゅみょう 因緣 いんねん 能 のう 滅 めつ 於身,亦 また 能 のう 斷 だん 命 いのち ,盡 つき 滅 めつ 無 む 餘 あまり ,一切 いっさい 諸 しょ 受皆得 とく 清淨 せいじょう ,乃至 ないし 如經廣 こう 說 せつ 。一切 いっさい 煩惱 ぼんのう 相 しょう 故 こ ,入 にゅう 通達 つうたつ 分 ぶん 故 こ ,修 おさむ 善 ぜん 思惟 しい 故 こ ,證 しょう 阿 おもね 摩 ま 羅 ら 識 。故知 こち 阿 おもね 羅 ら 耶識與 あずか 煩惱 ぼんのう 俱滅,如是 にょぜ 分別 ふんべつ 真實 しんじつ 解釋 かいしゃく 心 しん 意識 いしき 義 ぎ 。因 よし 此解釋 かいしゃく 心 しん 意識 いしき 故 こ ,於三界中得知一切煩惱之法,諸 しょ 清淨 せいじょう 法 ほう 。」
玄 げん 奘譯 わけ 《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん ·攝 と 決 ぎま 擇 よ 分 ぶん 》:「云 うん 何 なん 建立 こんりゅう 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識雜 ざつ 染 しみ 還 かえ 滅 めつ 相 そう ,謂 いい 略說 りゃくせつ 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識是 ぜ 一切 いっさい 雜 ざつ 染 しみ 根本 こんぽん 。……復 ふく 次 じ 此雜染 しみ 根本 こんぽん 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識,修 おさむ 善 ぜん 法 ほう 故 ふる 方 かた 得 とく 轉 てん 滅 めつ 。此修善 ぜん 法 ほう 若 わか 諸 しょ 異 こと 生 せい ,以緣轉 うたて 識為 ため 境 さかい 作意 さくい 方便 ほうべん 住 じゅう 心 しん ,能 のう 入 にゅう 最初 さいしょ 聖 ひじり 諦 たい 現 げん 觀 かん 。非 ひ 未見 みけん 諦 たい 者 しゃ 於諸諦 たい 中 ちゅう ,未 み 得 とく 法眼 ほうげん ,便 びん 能 のう 通達 つうたつ 一切種子阿賴耶識。此未見 みけん 諦 たい 者 しゃ 修 おさむ 如是 にょぜ 行 ぎょう 已 やめ ,或 ある 入 いれ 聲聞 しょうもん 正 せい 性 せい 離 はなれ 生 せい ,或 ある 入 いれ 菩薩 ぼさつ 正 せい 性 せい 離 はなれ 生 せい 。達 たち 一切 いっさい 法 ほう 真 ま 法界 ほうかい 已 やめ ,亦 また 能 のう 通達 つうたつ 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識。當 とう 於爾時 じ 能 のう 總 そう 觀察 かんさつ 自 じ 內所有 しょゆう 一切 いっさい 雜 ざつ 染 しみ ,亦 また 能 のう 了知 りょうち 自身 じしん 外為 がいため 相 しょう 縛 ばく 所 しょ 縛 ばく ,內為麁重縛 ばく 所 しょ 縛 ばく 。復 ふく 次 じ 修 おさむ 觀 かん 行者 ぎょうじゃ ,以阿賴 よりゆき 耶識是 ぜ 一切戲論所攝諸行界故,略 りゃく 彼 かれ 諸行 しょぎょう ,於阿賴 よりゆき 耶識中 ちゅう ,總 そう 為 ため 一 いち 團 だん 一 いち 積 せき 一 いち 聚,為 ため 一 いち 聚已。由緣 ゆえん 真如 しんにょ 境 さかい 智 さとし ,修習 しゅうしゅう 多 た 修習 しゅうしゅう 故 こ ,而得轉 うたて 依 よ ,轉 うたて 依 よ 無 む 間 あいだ ,當 とう 言 げん 已 やめ 斷 だん 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識,由 ゆかり 此斷故 こ ,當 とう 言 げん 已 やめ 斷 だん 一切 いっさい 雜 ざつ 染 しみ ,當知 とうち 轉 うたて 依 よ 由 よし 相違 そうい 故 こ ,能 のう 永 なが 對 たい 治 ち 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識。又 また 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識體 からだ 是 ぜ 無常 むじょう ,有 ゆう 取 と 受性;轉 うたて 依 よ 是 ぜ 常 つね ,無 む 取 と 受性,緣 えん 真如 しんにょ 境 さかい 聖 きよし 道方 みちかた 能 のう 轉 うたて 依 よ 故 こ 。又 また 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識 ,恒 つね 為 ため 一切 いっさい 麁重所 しょ 隨 ずい ;轉 うたて 依 よ 究竟 くっきょう 遠 とお 離 はなれ 一切 いっさい 所有 しょゆう 麁重。又 また 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識 ,是 ぜ 煩惱 ぼんのう 轉 てん 因 いん ,聖 ひじり 道 みち 不 ふ 轉 てん 因 いん ;轉 うたて 依 よ 是 ぜ 煩惱 ぼんのう 不 ふ 轉 てん 因 いん ,聖 ひじり 道 みち 轉 てん 因 いん ,應 おう 知 ち 但 ただし 是 ぜ 建立 こんりゅう 因 いん 性 せい ,非 ひ 生 なま 因 いん 性 せい 。又 また 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識 ,令 れい 於善淨 きよし 無 む 記法 きほう 中 ちゅう 不 ふ 得 とく 自在 じざい ;轉 うたて 依 よ 令 れい 於一切善淨無記法中得大自在。又 また 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識斷滅 だんめつ 相者 そうしゃ ,謂 いい 由 よし 此識正 せい 斷滅 だんめつ 故 こ 捨二 に 種取 たねとり ,其身雖住猶 なお 如變化 へんか 。所以 ゆえん 者 しゃ 何 なに ,當來 とうらい 後 ご 有 ゆう 苦 く 因 いん 斷 だん 故 こ ,便 びん 捨當來 とうらい 後 ご 有 ゆう 之 の 取 と ;於現法 ほう 中 ちゅう 一切煩惱因永斷故,便 びん 捨現法 ほう 一切雜染所依之取。一切麁重永遠離故,唯 ただ 有 ゆう 命 いのち 緣 えん 暫時 ざんじ 得 とく 住 じゅう 。由 ゆかり 有 ゆう 此故,契 ちぎり 經 けい 中 ちゅう 言 げん :爾 なんじ 時 じ 但 ただし 受身 うけみ 邊 べ 際 さい 受、命 いのち 邊 べ 際 さい 受,廣 こう 說 せつ 乃至 ないし 即 そく 於現法 ほう 一 いち 切所 せっしょ 受究竟 きゅうきょう 滅盡 めつじん 。如是 にょぜ 建立 こんりゅう 雜 ざつ 染 しみ 根本 こんぽん 故 こ ,趣 おもむき 入 にゅう 通達 つうたつ 修習 しゅうしゅう 作意 さくい 故 こ ,建立 こんりゅう 轉 うたて 依 よ 故 こ ,當知 とうち 建立 こんりゅう 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識雜 ざつ 染 しみ 還 かえ 滅相 めっそう 。」
《解 かい 深 ふか 密 みつ 經 けい 》:「佛 ふつ 告 つげ 曼殊 まんしゅ 室 しつ 利 り 菩薩 ぼさつ 曰:善男 ぜんなん 子 こ ! 若 わか 於諸地 ち 波羅蜜 はらみつ 多 た ,善 ぜん 修 おさむ 出離 しゅつり ,轉 うたて 依 よ 成 なり 滿 まん ,是 ぜ 名 めい 如來 にょらい 法 ほう 身 み 之 これ 相 しょう 。」
^ 圓 えん 測 はか 《解 かい 深 ふか 密 みつ 經 けい 疏 》:「大 だい 唐 から 三藏 さんぞう 。依 よ 《楞伽 》等 とう 及護法 ごほう 宗 むね 。唯 ただ 立 りつ 八 はち 識 。不 ふ 說 せつ 第 だい 九 きゅう 。破 やぶ 清 しん 辨 べん 云 うん 。所 ところ 立 りつ 量 りょう 中 ちゅう 。便 びん 有 ゆう 自 じ 教 きょう 相違 そうい 之 の 失 しつ 。《楞伽 》等 とう 經 けい 。皆 みな 說 せつ 第 だい 八阿賴耶故。」
^
《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん ·攝 と 抉 こじ 擇 よ 分 ぶん 》:「阿 おもね 賴 よりゆき 耶識是 ぜ 一切 いっさい 雜 ざつ 染 しみ 根本 こんぽん 。所以 ゆえん 者 しゃ 何 なに 。由 よし 此識是 ぜ 有情 うじょう 世間 せけん 生起 せいき 根本 こんぽん 。能生 のう 諸根 もろね 根 ね 所 しょ 依 よ 處 しょ 及轉識等故 ゆえ 。亦 また 是 ぜ 器 き 世間 せけん 生起 せいき 根本 こんぽん 。由 よし 能 のう 生起 せいき 器 き 世間 せけん 故 ゆえ 。亦 また 是 ぜ 有情 うじょう 互起根本 こんぽん 。一切有情相望互為增上緣故。所以 ゆえん 者 しゃ 何 なに 。無 む 有 ゆう 有情 うじょう 與 あずか 餘 よ 有情 うじょう 互相見 み 等 とう 時 じ 。不 ふ 生 なま 苦樂 くらく 等 とう 更 さら 相 しょう 受用 じゅよう 。由 よし 此道理 どうり 當知 とうち 有情 うじょう 界 かい 互為增 ぞう 上 じょう 緣 えん 。又 また 即 そく 此阿賴 よりゆき 耶識。能 のう 持 じ 一切 いっさい 法 ほう 種子 しゅし 故 ゆえ 。於現在世 ざいせい 是 ぜ 苦 く 諦 たい 體 たい 。亦 また 是 ぜ 未來 みらい 苦 く 諦 たい 生 なま 因 いん 。又 また 是 ぜ 現在 げんざい 集 しゅう 諦 たい 生 なま 因 いん 。如是 にょぜ 能生 のう 有情 うじょう 世間 せけん 故 ゆえ 。能生 のう 器 き 世間 せけん 故 ゆえ 。是 ぜ 苦 く 諦 たい 體 からだ 故 ゆえ 。能生 のう 未來 みらい 苦 く 諦 たい 故 こ 。能生 のう 現在 げんざい 集 しゅう 諦 たい 故 こ 。當知 とうち 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識是 ぜ 一切 いっさい 雜 ざつ 染 しみ 根本 こんぽん 。」
^
《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん ·攝 と 抉 こじ 擇 よ 分 ぶん 》:「復 ふく 次 じ 阿 おもね 賴 よりゆき 耶識所 しょ 攝 と 持 じ 順 じゅん 解脫 げだつ 分 ぶん 、及順決 けつ 擇 よ 分 ぶん 等 とう 善 ぜん 法 ほう 種子 しゅし 。此非集 しゅう 諦 たい 因 いん 。由 よし 順 じゅん 解脫 げだつ 分 ぶん 等 とう 善根 ぜんこん 與 あずか 流轉 るてん 相違 そうい 故 こ 。所 ところ 餘 あまり 世間 せけん 所有 しょゆう 善根 ぜんこん 。因 よし 此生故 こ 轉 てん 更 さら 明盛 めいせい 。由 よし 此因緣 えん 彼 かれ 所 しょ 攝 と 受自類 るい 種子 しゅし 。轉 てん 有功 ゆうこう 能 のう 轉 うたて 有 ゆう 勢力 せいりょく 。增長 ぞうちょう 種子 しゅし 速 そく 得 とく 成立 せいりつ 。復 ふく 由 よし 此種子 しゅし 故 こ 彼 かれ 諸 しょ 善 ぜん 法 ほう 轉 てん 明盛 めいせい 生 せい 。又 また 復 ふく 能 のう 感 かん 當來 とうらい 轉 てん 增 ぞう 轉 てん 勝 しょう 。可愛 かわい 可 か 樂 らく 諸 しょ 異 い 熟 じゅく 果 はて 。復 ふく 次 じ 依 よ 此一切種子阿賴耶識故。薄 うす 伽 とぎ 梵說。有 ゆう 眼界 がんかい 色 しょく 界 かい 眼識 がんしき 界 かい 。乃至 ないし 有意 ゆうい 界 かい 法界 ほうかい 意識 いしき 界 かい 。由 よし 於阿賴 よりゆき 耶識中有 ちゅうう 種種 しゅじゅ 界 かい 故 ゆえ 。又 また 如經說 せつ 惡 あく 叉 また 聚喻。由 よし 於阿賴 よりゆき 耶識中有 ちゅうう 多 た 界 かい 故 ゆえ 。」
^ 歐 おう 陽 ひ 竟無《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん 敘》:「部 ぶ 執 と 競 きおい 興 きょう ,眾生著 ちょ 有 ゆう ,龍 りゅう 樹 いつき 破 やぶ 執 と ,造 みやつこ 《中 ちゅう 論 ろん 》等 とう ,無 む 相 あい 教 きょう 立 りつ 。又 また 復 ふく 著 ちょ 空 そら ,是 ぜ 以無著 ちょ 上 じょう 請慈尊 みこと 親 おや 說 せつ 五 ご 論 ろん ,下 した 廣 こう 中道 ちゅうどう ,特 とく 創 そう 二 に 宗 むね 。創 そう 唯識 ゆいしき 宗 むね ,作 さく 《攝 と 大乘 だいじょう 》,傳 つて 於世親 おや ,創 そう 法相 ほうしょう 宗 むね ,作 さく 《集 あつまり 論 ろん 》本 ほん ,授師子 こ 覺 さとし 。」
^ 歐 おう 陽 ひ 竟無《瑜伽 ゆが 師 し 地 ち 論 ろん 敘》:「是 ぜ 故 こ 今 こん 義 ぎ 是 ぜ 唯識 ゆいしき 義 よし ,古 こ 義 ぎ 是 ぜ 法相 ほうしょう 義 ぎ 。」
^ 印 しるし 順 じゅん 〈辨 べん 法相 ほうしょう 與 あずか 唯識 ゆいしき 〉:「我 わが 從 したがえ 全體 ぜんたい 佛教 ぶっきょう 的 てき 立場 たちば ,想 そう 說明 せつめい 一 いち 點 てん ,即 そく 是 ぜ ,凡唯識必是 ぜ 法相 ほうしょう 的 てき ,法相 ほうしょう 却不必是唯識 ゆいしき 。」
延伸 えんしん 阅读[ 编辑 ]
Bayer, Achim (2012). Addenda and Corrigenda to The Theory of Karman in the Abhidharmasamuccaya, 2012 Hamburg: Zentrum für Buddhismuskunde.
Kalupahana, David J., The Principles of Buddhist Psychology, Delhi: ri Satguru Publications, 1992
Keenan, John P. (1993). Yogācarā . pp. 203–212 published in Yoshinori, Takeuchi; with Van Bragt, Jan; Heisig, James W.; O'Leary, Joseph S.; Swanson, Paul L.(1993). Buddhist Spirituality: Indian, Southeast Asian, Tibetan, and Early Chinese. New York City: The Crossroad Publishing Company. ISBN 0-8245-1277-4
King, Richard. Vijnaptimatrata and the Abhidharma context of early Yogacara . Asian Philosophy. 1998, 8 (1): 5–18 [2021-08-17 ] . doi:10.1080/09552369808575468 . (原始 げんし 内容 ないよう 存 そん 档 于2011-07-26).
Kochumuttom, Thomas A., A buddhist Doctrine of Experience. A New Translation and Interpretation of the Works of Vasubandhu the Yogacarin, Delhi: Motilal Banarsidass, 1999
Norbu, Namkhai (2001), The Precious Vase: Instructions on the Base of Santi Maha Sangha . Shang Shung Edizioni. Second revised edition. (Translated from the Tibetan, edited and annotated by Adriano Clemente with the help of the author. Translated from Italian into English by Andy Lukianowicz.)
Park, Sung-bae, Buddhist Faith and Sudden Enlightenment, SUNY Press, 1983
Shantarakshita & Ju Mipham (2005). The Adornment of the Middle Way Padmakara Translation of Ju Mipham's commentary on Shantarakshita's root versus on his synthesis.
Sponberg, Alan (1979). Dynamic Liberation in Yogacara Buddhism (页面存 そん 档备份 ,存 そん 于互联网档案 あん 馆 ), Journal of the International Association of Buddhist Studies 2(1), pp. 44–64.
Stcherbatsky, Theodore (1936). Mathyanta-Vibhanga, "Discourse on Discrimination between Middle and Extremes" ascribed to Bodhisattva Maiteya and commented by Vasubhandu and Sthiramathi, translated from the sanscrit, Academy of Sciences USSR Press, Moskow/Leningrad.
Timme Kragh, Ulrich (editor) 2013, The Foundation for Yoga Practitioners : The Buddhist Yogācārabhūmi Treatise and Its Adaptation in India, East Asia, and Tibet, Volume 1 Harvard University, Department of South Asian studies.
Zim, Robert (1995). Basic ideas of Yogacara Buddhism. San Francisco State University. Source: [1] (页面存 そん 档备份 ,存 そん 于互联网档案 あん 馆 ) (accessed: October 18, 2007).
外部 がいぶ 連結 れんけつ [ 编辑 ]