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瑜伽行唯識學派 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

瑜伽ゆがぎょう唯識ゆいしき學派がくは

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重定しげさだこうただ识学

瑜伽ゆがぎょう梵語ぼんごयोगाचारYogācāra),またたたえ唯識ゆいしき梵語ぼんごविज्ञानवादVijñānavāda)、唯識ゆいしきむね唯識ゆいしき瑜伽ゆがぎょう法相ほうしょうむねおうえんじつむね印度いんど大乘だいじょう佛教ぶっきょうてきりょうだい主要しゅよう學派がくはいち,推尊彌勒みろくため始祖しそちょおや時正ときまさしき建立こんりゅう唯識ゆいしき學派がくは主張しゅちょうさかいそら識有,まんほう唯識ゆいしき」,以おもねよりゆき耶識ためまんほうしょゆかりさん自性じしょう成立せいりつ一切いっさいほう。其修行方ゆくえほう妄分べつてきゆうさえぎそとさかいてきゆうさいそとさかいてきゆうりょうさとる識也不可ふかとくさかいそらこころさびちぎりいれ真如しんにょ

此派根本こんぽん經典きょうてんためかいふかみつけいかず瑜伽ゆがろん》,重要じゅうようてきろんかえゆうちん護法ごほうあんとしほうしょうひとしただれ陀寺一度いちど根據地こんきょち,此學ぶんため如來にょらいぞう學派がくは合流ごうりゅうてきなり為真ためざにしんたんため妄心つてにゅう中國ちゅうごくぶんためさんろん真心まごころ)、ろん(妄心こう真心まごころてき過渡かと[1]唯識ゆいしき(妄心[2]

唯識ゆいしき學派がくはあずかちゅうかん學派がくは並列へいれつため大乘だいじょう佛教ぶっきょうてき理論りろん基礎きそいちざいかんでん佛教ぶっきょうてき傳統でんとうばん教理きょうりろんちゅう唯識ゆいしき學派がくはしょうためゆうむね[3]法相ほうしょうむね[4],而ちゅうかん學派がくはしょうためそらむねあるやぶあいむね”。しるし順法じゅんぽうしょう唯識ゆいしき學派がくは(妄心ため虛妄きょもう唯識ゆいしきろんぞうでん佛教ぶっきょうたたえため廣行ひろゆき廣大こうだいぎょうぞう:རྒྱ་ཆེན་སྤྱོད་བརྒྱུད,rgya-chen spyod brgyud;梵語ぼんご(かいやく):Udāra-carita paramparā)[5]

名稱めいしょう[编辑]

瑜伽ゆがぎょう[编辑]

瑜伽ゆがため相應そうおうそくざい禪定ぜんじょう修行しゅぎょうなか心境しんきょう相應そうおう印度いんどきょうちゅう修行しゅぎょう方法ほうほういち根據こんきょうすとぎ梵歌》,瑜伽ゆが一種個人靈魂與宇宙靈魂合一(梵我)てき修行しゅぎょう方法ほうほうざい印度いんど宗教しゅうきょうちゅうゆかり奧義おうぎしょあずかうすとぎ梵歌傳統でんとう發展はってん瑜伽ゆがかちろんあずかすうろんとう

佛教ぶっきょう沿用此名,作為さくい禪定ぜんじょうある止觀しかんてき代名詞だいめいし所謂いわゆる瑜伽ゆがぎょう梵語ぼんごयोगाचारYogācāra),就是修行しゅぎょう種種しゅじゅ禪定ぜんじょうかんぎょう,其中さい常用じょうようしゃため上座かみざしょ修之のぶゆきかずいきかんあずか不淨ふじょうかん修習しゅうしゅう種種しゅじゅかんぎょうてき佛教ぶっきょう僧侶そうりょしょうため瑜伽ゆがあるかんぎょう,這些瑜伽ゆが行者ぎょうじゃそく唯識ゆいしき學派がくはてき前身ぜんしん佛教ぶっきょう時期じきせつ一切いっさいゆうなか出現しゅつげんしょうため瑜伽ゆがてき流派りゅうはずい出現しゅつげんりょう瑜伽ゆがぎょう,以《瑜伽ゆがろんため根本こんぽんろんしょ創始そうし祖師そし相傳そうでんため彌勒みろく

唯識ゆいしき學派がくは[编辑]

瑜伽ゆがぎょうずいためちょ繼承けいしょうざいちょこれ,其弟おやあずか弟子でし無性むしょうとうじん繼續けいぞく發展はってんてき學說がくせつ繼承けいしょうかいふかみつけいあずか大乘だいじょうろんてき傳統でんとう,以唯識ゆいしき境為さかため根本ねもと宗義むねよし唯識ゆいしき學派がくはいん此得めい[6][7][8]

法相ほうしょうむね[编辑]

印度いんどただれ陀寺ちゅうぞく瑜伽ゆがぎょう唯識ゆいしき學派がくはゆうむねこれ護法ごほう戒賢とうひとかいふかみつけいあずか瑜伽ゆがろんとう經典きょうてん建立こんりゅう法相ほうしょうむね;而屬ちゅうかん學派がくはそらむねこれしんべん智光ともみつとうひと建立こんりゅうやぶあいむねそらゆうむね形成けいせいただれ陀寺ちゅうてきりょう大宗たいそう,這個分類ぶんるいずいつてにゅう中國ちゅうごく[4]

歷史れきし[编辑]

瑜伽ゆがぎょうてき歷史れきし起源きげん不明ふめいせつ一切いっさいゆうだい毗婆すなろん記載きさいりょういちしょう流派りゅうは,這個學派がくはてき成員せいいんしょうため瑜伽ゆが瑜伽ゆがてき見解けんかいぞく上座かみざ傳統でんとうあずかたとえ喻師相近すけちか,其流傳りゅうでん地區ちくざい西北せいほく印度いんど一帶いったい學者がくしゃ一般將他們視為在說一切有部之下獨立發展的流派,ただし們有份學せつあずかぶん别說相近すけちか現代げんだい學者がくしゃ,如印じゅんとうじん比較ひかくりょうだい毗婆すなろんちゅう記載きさいてき瑜伽ゆが學說がくせつあずか瑜伽ゆがろんちゅうてき學說がくせつ一致いっちいん此認ため瑜伽ゆがため瑜伽ゆがぎょうてき前身ぜんしん

瑜伽ゆがなん發展はってんため瑜伽ゆがぎょう,其歷不明ふめい瑜伽ゆがぎょうてき主要しゅよう學說がくせつざい瑜伽ゆがろん出現しゅつげん完成かんせい,《瑜伽ゆがろんいん此被みとめため瑜伽ゆがぎょうてき根本こんぽんろん傳統でんとうじょうみとめため瑜伽ゆがろんゆかり彌勒みろくでんきゅうちょ由無よしなちょうつしなり彌勒みろく也因此被とうとため瑜伽ゆがぎょう古代こだい相傳そうでん彌勒みろくそく彌勒みろく菩薩ぼさつちょざい禪定ぜんじょう中上なかがみますかぶとりつてん內院彌勒菩薩みろくぼさつこうがくかい世間せけんうつしなり瑜伽ゆがろん[9]日本にっぽん僧侶そうりょ學者がくしゃ宇井うい伯壽はくじゅみとめためちょなみ釋迦牟尼しゃかむに時代じだいてき彌勒みろく,而是後世こうせいちゅう印度いんどてき同名どうめいろん真實しんじつ存在そんざいてき歷史れきし人物じんぶついんため同名どうめい,而訛傳かでんため彌勒菩薩みろくぼさつ本人ほんにん[10]ただしおもんみ曰雜なんけい記載きさいゆう阿羅漢あらかんぐういたとも菩薩ぼさつといなん,於定ちゅう神通じんずううえますかぶとりつてんおやもとめきょう彌勒みろくてき傳說でんせつ[11]いんしるし順法じゅんぽうみとめため們也ゆう可能かのう經由けいゆ宗教しゅうきょう神秘しんぴ體驗たいけん傳承でんしょう[らいみなもと請求せいきゅう]現代げんだい學者がくしゃ考證こうしょう,《瑜伽ゆがろんなみいちにん一時いちじこれさく,而是よしろんしゅうからだ創作そうさく歷代れきだい集結しゅうけつ而成,いたりょう彌勒みろくあずかちょ時代じだい正式せいしきてい稿こう

瑜伽ゆがぎょうてき學說がくせつ貫通かんつう佛教ぶっきょうあずか大乘だいじょう佛教ぶっきょう。《瑜伽ゆがろんちゅうてき本地ほんじぶん主要しゅよう引用いんようざつおもね含經》,〈聲聞しょうもんちゅう討論とうろんりょう佛教ぶっきょうてきおもね毗達ろんてんただしいたりょう晚期ばんき加入かにゅうてきぎまぶんちゅうのり引用いんようりょう大乘だいじょう佛教ぶっきょうてきかいふかみつけい》。ざい瑜伽ゆがぎょう學說がくせつけいちょ及其おとうとおや整理せいり發揚はつようなりためいち純粹じゅんすい大乘的だいじょうてき宗派しゅうはおやしょう唯識ゆいしきさかい作為さくい根本ねもと宗義むねよし,此後,這個宗派しゅうは開始かいししょうため唯識ゆいしきあずかちゅうかんなみ舉,なりため大乘だいじょう佛教ぶっきょうなかてきりょうだい主流しゅりゅう學派がくは

ざいちょ及世おやこれ,其學せつ傳承でんしょうてき情況じょうきょう也不很清すわえちょあずかおやこれゆうちんほうしょう發展はってん因明いんみょうがくなみ因明いんみょうがくらい解釋かいしゃく唯識ゆいしきげんいたり印度いんど留學りゅうがくただれ陀寺なりため唯識ゆいしきがく研究けんきゅうてき重鎮じゅうちん當時とうじやめゆうじゅうだいろん透過とうかためおや唯識ゆいしきさんじゅうろんさくしゃくろん確立かくりつりょう各自かくじてき學說がくせつ[12]じゅうだいろんちゅう區分くぶんため古學こがくあずかこんがくりょうだい古學こがく解說かいせつちょおや學說がくせつためぬし,而今學則がくそく以新引入てき因明いんみょうがくらい推衍、闡述[13]なみ逐步あずか如來にょらいぞう學派がくは合流ごうりゅう

ちん弟子でし護法ごほうためただれ陀寺住持じゅうじあずかあんとししんべん同時どうじしんべん反對はんたい護法ごほう所說しょせつてき「於有及無總說そうせつ無性むしょう[14]あずか護法ごほう進行しんこうりょうそらゆういさかいろん[3]しんべん希望きぼう當面とうめん辯論べんろんただし拒絕きょぜつざい護法ごほうこれ,其弟子でし戒賢ぞくてのひらただれ陀寺,さんきょう而立じりつ法相ほうしょうむね

げんいたり印度いんどもとめがくはつ師事しじ戒賢,受學於勝ぐんねんなみため探究たんきゅうせき於《瑜伽ゆがろんてき問題もんだい而要斯里らん參學さんがく,卻因斯里らん卡內らん而止印度いんど最南端さいなんたんてきけんこころざしじょう[15]ざいつきかんえいChandragominこれ唯識ゆいしき學派がくはざい印度いんど本土ほんど衰微すいび

外傳がいでん[编辑]

かんでん佛教ぶっきょうちゅう最早もはやつてぬの唯識ゆいしき學派がくはてき人為じんい菩提ぼだいとめささえ真諦しんたいわけとうじん[16]。其師承ししょうしょうただし其學せつ主要しゅよう唯識ゆいしき古學こがくあずかあんとし相近すけちかしょうためいにしえやくある古學こがく。此派ざい中國ちゅうごく形成けいせいりょうろんむねろんむね影響えいきょうりょう華嚴宗けごんしゅう天台宗てんだいしゅうあずか禪宗ぜんしゅう

真諦しんたいこれげん奘至印度いんどただれ陀留がくしたがえ戒賢,はた戒賢一系的唯學今學傳布中國。げん弟子でしゆう大乘だいじょうもととうひと形成けいせい慈恩じおんむねしょう新譯しんやくあるしんまなべ,吸納りょうきゅうゆうろんむねろんむねなりため中國ちゅうごくてき唯識ゆいしきがく正宗まさむねただしよしかいあきら毀佛影響えいきょうからあさこれ慈恩じおんむねてき傳承でんしょう衰微すいび相關そうかん著作ちょさくしつ

日本にっぽん奈良なら時代じだい日本にっぽん學僧がくそうはた慈恩じおんむね相關そうかん經典きょうてん及學せつゆかり中國ちゅうごくたい往日おうじつほんなりため南都なんとろくむねこれいち,其傳承でんしょういん此在日本にっぽん流傳りゅうでんらい

中國ちゅうごくあかりまつ憨山とくきよし一度いちどそう復興ふっこう慈恩じおんむねさくせいしょう通說つうせつ》簡述其宗義しゅうぎただし受限於典せき不足ふそくぼつゆうしんいち發展はってん清朝せいちょうまつねん楊仁やまいたり日本にっぽんかい法相ほうしょうむね經典きょうてん,引起學術がくじゅつかいてき風潮ふうちょうみんこく時代じだいおう竟無りょうしるべてきささえ內學いんざい中國ちゅうごく南方なんぽう復興ふっこう唯識ゆいしきがく研究けんきゅうかん清淨せいじょうざい北方ほっぽう也起而倡みちびけ使つかい唯識ゆいしき學派がくは在中ざいちゅう國重くにしげしん恢復かいふくささえ內學いんてき研究けんきゅう利用りよう日本にっぽんでんかいてき慈恩じおんむね著作ちょさくじょうぞうでん佛教ぶっきょう著作ちょさく,以及おう美的びてき梵文ぼんぶん佛教ぶっきょう研究けんきゅう成果せいか使つかい唯識ゆいしきがく研究けんきゅう現代げんだい,其影響えいきょうさいため深遠しんえん

ぞうでん佛教ぶっきょう主要しゅよう以安とし學說がくせつためぬしあんとしてき核心かくしんろんしょぼつゆうつてやくいた汉族地区ちくただしざい中国ちゅうごく西藏にしくら地区ちく保留ほりゅうらい

しゅ要理ようり[编辑]

ただ识学てき主要しゅよう理論りろんゆうさん自性じしょうあまねけいところせいおこりせいまどかしげるせい)、さん無性むしょうあい自性じしょうなま自性じしょう勝義まさよし自性じしょう學說がくせつ一切いっさい種子しゅしこころそくおもねよりゆき耶識かずしみ污意そくだいなな,它們分別ふんべつため意識いしきてき種子しゅし俱有[17]かえゆう唯識ゆいしきさかい唯識ゆいしきよんふんひとし

瑜伽ゆがぎょう唯識ゆいしき學派がくはざいおもね達磨だるま體系たいけいちゅううけたまわかさねりょうじゅうはちかい理論りろんなみはた其“じゅういち識”學說がくせつはいいれじゅうはちかいちゅうちょ大乘だいじょうろん[18]

とう內界對應たいおう識”,ろく識界對應たいおうのう受識”,かいあずかしゃ識”、“受者識”しゃてき關係かんけいゆうりょうたね學說がくせつ

此二しゃくろんあいだてき不同ふどう體現たいげんりょう唯識ゆいしき古學こがく唯識ゆいしきいまがくあいだてき根本こんぽんぶん歧,しるべ致了だいななこれおもね陀那識かえこれすえとういさかいろんかんでん法相ほうしょうむね採用さいようりょう無性むしょうろんてき學說がくせつ[19]かいふん,其中“だい六意識所依意界”そくすえ對應たいおう“受者識”;とう五識所依意界對應“しゃ識”,そくおもねよりゆき耶識[20]

ひゃくほう[编辑]

すえひゃくほうあきら门论》,ただ识学一切いっさい万有ばんゆう诸法”进行てきぶん类,简称“ひゃくほう”。其分为五类:しんほうしんしょほういろほうこころあい应行ほう无为ほうきょう计有ひゃく种法,所以ゆえんしょう为“ひゃくほう[21][22][23][24]

ささえ[编辑]

現代げんだい研究けんきゅう[2]しょうたい於阿よりゆき耶識てき性質せいしつ唯識ゆいしきがくちゅうまたぶん兩派りょうは

  • 接近せっきんだい眾部分別ふんべつせつてき真心まごころ,如ろんひとし主張しゅちょうなま不滅ふめつあずか生滅しょうめつ和合わごういちめいおもねよりゆき耶識もと真如しんにょずい和合わごうなり此本識,能生のうまんほう如來にょらいぞう緣起えんぎ[1]南北なんぼくあさ真諦しんたい三藏さんぞうよりどころあんとし[25]學說がくせつ建立こんりゅうてきろんむね妄心こう真心まごころてき過渡かとしゅちょうよりゆき耶通妄,「せいてき識是よし種子しゅし所生しょせい種子しゅし緣起えんぎ),其「かいせいよりゆき耶」ただゆびこころ真如しんにょせいぼつゆう生起せいき清淨せいじょう法的ほうてきこうのう[1]とう經由けいゆ修行しゅぎょう[26]おもねよりゆき耶識與以其ため根本こんぽんてきしょ煩惱ぼんのうしみざつ俱滅のち[27]修行しゅぎょうしゃのう夠證どく心性しんせいもときよし[28]てきこころ真如しんにょ[29]そくおもね最終さいしゅう究竟くっきょう成佛じょうぶつ[30]
  • 接近せっきんせつ一切いっさいゆうてき妄心からあさげん三藏さんぞうよりどころ護法ごほう[31]學說がくせつ建立こんりゅうてき法相ほうしょうむねぞく於此,以虛妄きょもうこころためしみきよしてきしょ清淨せいじょうほう附屬ふぞくてき主張しゅちょうおもねよりゆき耶識ただ妄非しん,其中つつみ涵的種子しゅし開發かいはつまんほう[32]したがえゆうてき種子しゅしひらきあきら迷界,したがえてき種子しゅし[33]ひらけあらわさとるかい淨化じょうかおもねよりゆき耶識,ぜんきよしだいはち識成大圓だいえんかがみさとしのり最終さいしゅう成佛じょうぶつ。妄心みとめため真如しんにょ不變ふへん凝然ぎょうぜん不動ふどうもと真如しんにょずいえんまたもと真如しんにょ受熏。

流傳りゅうでんあずか爭論そうろん[编辑]

  • おう竟無みとめため瑜伽ゆがぎょうでんいたるしるときちょくびそう法相ほうしょうむねあずか唯識ゆいしきむね。其中,おやところ繼承けいしょうてき唯識ゆいしきむねまと份,以《大乘だいじょうろんためぬしさとし繼承けいしょうりょう法相ほうしょうむね,以《大乘だいじょうおもね達磨だるましゅうろんためぬし[34]中國ちゅうごく舊譯きゅうやく,如真諦しんたいとうじん傳法でんぼうしょうむね傳承でんしょう,而以げん奘為代表だいひょうてき新譯しんやく傳承でんしょうてき唯識ゆいしき[35]
  • 太虛たいきょ法師ほうしみとめため法相ほうしょう必歸於唯識ゆいしき不用ふよう另外ぶんむね
  • しるしじゅん法師ほうしみとめため法相ほうしょうげん印度いんど西北せいほく上座かみざ傳統でんとうちょせつ一切いっさいゆう影響えいきょう形成けいせい法相ほうしょうむね;而無ちょおやもと大乘だいじょう佛教ぶっきょうてき見解けんかい形成けいせい唯識ゆいしきむね法相ほうしょうむね最終さいしゅうにゅう唯識ゆいしき[36]
  • ほう東美とうびみとめためちょ瑜伽ゆがろん》,立法りっぽうしょうむねおやいたり護法ごほう一系いっけいため唯識ゆいしきむねけいげんでんにゅう中國ちゅうごくあんとし彌勒みろくあずかちょてき思想しそう,以《べんちゅうあたりろん》及《大乘だいじょうろん思想しそう建立こんりゅう唯識ゆいしき學派がくは

あい关条[编辑]

ちゅう[编辑]

  1. ^ 1.0 1.1 1.2 しゃくきよし凱. しるしじゅん導師どうしたいろん學派がくはてきかいしゃく ——「ちゅうあいだ路線ろせんてき堅持けんじあずかゆうはなれ (PDF). げん奘佛がく研究けんきゅう. 2006. 
  2. ^ 2.0 2.1 しるしじゅん唯識ゆいしきがくさがせげん自序じじょ:「ざい印度いんど大乘だいじょう佛教ぶっきょうてきひらきてんちゅう唯心ゆいしんろんゆう真心まごころあずか妄心大流おおりゅうでんいた中國ちゅうごくらいそくゆうろんろん唯識ゆいしきさん。此兩大流おおりゅう真心まごころしたがえ印度いんど東方とうほうみなみてきだい眾分べつせつけい發展はってん而來;妄心したがえ印度いんど西方せいほうきたてきせつ一切いっさいゆうけいちゅう出來できざい長期ちょうきてき離合りごう發展はってんちゅう彼此ひしせきわたるとく很深;しかりょう大體だいたいけいてき不同ふどう到底とうてい存在そんざい大體だいたいてきせつ:妄心じゅう於論てん,如無ちょ親等しんとうてき著作ちょさくじゅう思辨しべんじゅう分析ぶんせきじゅう事相じそうじゅう認識にんしきろん;以虛妄きょもうこころためしみきよしてきしょ清淨せいじょうほう附屬ふぞくてき真心まごころじゅう經典きょうてん編集へんしゅうため經典きょうてんてき體裁ていさいじゅう直覺ちょっかくじゅう綜合そうごうじゅう理性りせいじゅう本體ほんたいろん;,以真つねしんためしみきよしてきしょざつしみがい鑠的。」
  3. ^ 3.0 3.1 えんはか佛說ぶっせつ般若はんにゃ波羅蜜はらみつしんけいさん》:「親光ちかみつしゃく曰:せんねんやめまえ佛法ぶっぽう一味いちみせんねんそらゆう乖諍。佛滅ぶつめつぼつやめいちせんねんみなみ印度いんどかい健至けんじこくちゅうゆう菩薩ぼさつ一時いちじ出世しゅっせいちしゃしんべんしゃ護法ごほうためれい有情うじょう悟入ごにゅう佛法ぶっぽうたてそらゆうむね共成きょうせいふつしんべん菩薩ぼさつむなしばちゆうれいじょゆう護法ごほう菩薩ぼさつたてゆうばちそられいじょむなし。……こん略述りゃくじゅつしゅかんもん
    いちしゃしんべんしょ般若はんにゃ》,及りゅうたけしそうたていちかんもんいいれきほうあいかんそらもんたて一切いっさいほうみな悉是そらなまほろび本來ほんらい寂靜じゃくじょう自性じしょう涅槃ねはん。……
    しゃ護法ごほうふかみつとう,及彌勒みろくそうたていちかんもんいいざい識遮さかいべんそらかんもんたて一切いっさいほう通有つうゆう及無,へんけいしょじょう有理ゆうりおこりせい因緣いんねんゆうえんなりせいゆう
    • ふかみつせつ:『ところせつ一切いっさいほうみな自性じしょう。』
    • 寶積ほうしゃくけいせつ:『わかばち諸法しょほうみな無性むしょうしゃせつかれため不可ふか治者ちしゃ。』
    • 瑜伽ゆがとう曰:『ところせいちぎりけいせつ一切いっさい諸法しょほうみな自性じしょう。』
    • べんちゅうあたりろん頌》:『虛妄きょもう分別ふんべつゆう,於此,此中ただゆうそら,於彼またゆう此。せつ一切いっさいほうそら不空ふくう有無うむ及有ちぎり中道ちゅうどう。』
    • 如是にょぜとうぶんまことしょういちじゅう唯識ゆいしきとう曰:『諸法しょほう一切いっさいたね,乃得めいためいれほう無我むがしかいたるおっとあまねけいところ自性じしょう差別さべつ諸法しょほうわが如是にょぜ乃名いれほう無我むが。』」
    えんはかかいふかみつけい》:「おや菩薩ぼさつさんじゅう唯識ゆいしき》,さく此頌ごと:『そく此三せいたてかれさん無性むしょうふつみつせつ一切いっさいほう無性むしょう。』護法ごほうしゃくうん:『於有及無,總說そうせつ無性むしょうめいみつ。』」
    げんなり唯識ゆいしきろん》:「そく此前所說しょせつさんせいたてかれせつさんしゅ無性むしょういいそくしょうなま勝義まさよし無性むしょう。『ふつみつせつ一切いっさいほうみな自性じしょう。』せいぜんせつみつげんあらわりょういいせい,雖體,而有おっと,於彼增益ぞうえき妄執もうしゅうじつ有我ありがほう自性じしょう,此即めいためあまねけいところためじょ此執ふつ世尊せそん,於有及無,總說そうせつ無性むしょううんなに而立じりつかれさん
    • いい此初あまねけいところだてしょう無性むしょうゆかり此體しょう畢竟ひっきょうゆう,如空はなゆえ
    • ほかたてなま無性むしょう,此如まぼろしごとたく眾緣せい妄執もうしゅう自然しぜんせい假說かせつ無性むしょうせいぜん
    • のちえんなりたて勝義まさよし無性むしょういいそく勝義まさよしよしとおはなれまえあまねけいところわがほうせい假說かせつ無性むしょうせいぜん;如太虛空こくう,雖遍眾色,而是眾色無性むしょうしょあらわ。雖おこり勝義まさよしまたとくせつため勝義まさよし無性むしょう,而濫だい,此不せつ。此性そく諸法しょほう勝義まさよし一切法勝義諦故。」
  4. ^ 4.0 4.1 ふかみつ解脫げだつけい》:「世尊せそん!此第てん法輪ほうりんせつじょう法相ほうしょういれ法相ほうしょう分別ふんべつかれしょりょうよし修多羅すたらためじゅう大乘だいじょう眾生,せつ於諸ほう有體ありていしょう諸法しょほうせい諸法しょほう不滅ふめつ諸法しょほう寂靜じゃくじょう諸法しょほう自性じしょう涅槃ねはん。……世尊せそん!此是だいさんてん法輪ほうりんためじゅう一切いっさい大乘だいじょう眾生,せつ諸法しょほう無體むたいしょうなま不滅ふめつ寂靜じゃくじょう自性じしょう涅槃ねはんぜんせつ四諦したい差別さべつこれしょう。」
    かいふかみつけい》:「世尊せそんざいむかしだいちゅうおもんみためはつおもむきおさむ大乘だいじょうしゃ一切いっさいほうみな自性じしょうなまほろび本來ほんらい寂靜じゃくじょう自性じしょう涅槃ねはん,以隱密おんみつしょううたてせい法輪ほうりん。……世尊せそん於今だいさんちゅうひろしためはつおもむき一切いっさいじょうしゃ一切いっさいほうみな自性じしょうなまほろび本來ほんらい寂靜じゃくじょう自性じしょう涅槃ねはん自性じしょうせい,以顯りょうしょううたてせい法輪ほうりん。」
    けんくび法藏ほうぞうじゅう二門論宗致義記》:「ちゅう天竺てんじく三藏さんぞう法師ほうしばば訶羅からげん日照ひでりせつうん近代きんだいちゅう天竺てんじくただれ陀寺同時どうじゆう大德だいとくろんいちめい戒賢いちめい智光ともみつなみしんかいちょうりん聲高こわだかしるしろく稽顙,こと歸依きえ大乘だいじょうがくじんおおせ日月じつげつ如。天竺てんじく獨步どっぽ軌範きはんなりぶんまわしとげかくもりいちむね,互為矛盾むじゅん
    いい戒賢のりとおうけたまわ彌勒みろくちょきんかかと護法ごほうなんふかみつとうけい,《瑜伽ゆがとうろんあきら法相ほうしょう大乘だいじょうこうぶん名數めいすうもちいさんきょうひらきむねあらわところ為真ためざにりょう。……だいちゅう,雖依あまねけいところ,而說諸法しょほう自性じしょうみなそらこぼしかれ小乘しょうじょうしか於依まどかしげるなおせつゆうだいさんちゅう,就大乘だいじょうせいせつさんせいさん無性むしょうとうぽうためつき。……
    智光ともみつろんとおうけたまわ文殊もんじゅりゅういつききんあおしんべん般若はんにゃとうけい,《ちゅうかんとうろんあらわあい大乘だいじょうこうべん真空しんくうまた以三きょうひらきむねあらわところためりょう。……於第ため中根なかね說法せっぽうしょう大乘だいじょうさかいそらしんゆうのり唯識ゆいしきとう,以根なおれつのうぜんいれ平等びょうどう真空しんくうさくせつ。於第さんぽうため上根じょうこんせつ此無しょう大乘だいじょうあらわ心境しんきょう俱空,平等びょうどう一味いちみ為真ためざにりょう。……次則つぎのりためやぶ小乘しょうじょうじつゆうせつ此緣せいただしかりゆう,以恐かれこわかしこ真空しんくうなおそんゆう而接引之。だい三方就究竟大乘,せつ此緣せいそくせいそら平等びょうどういちそう。此亦いれほう漸次ぜんじ也。……此さんきょう次第しだい智光ともみつ法師ほうし般若はんにゃとうろんしゃくちゅう,引《大乘だいじょうみょうさとしけい所說しょせつ。」
    ほうくも翻譯ほんやく名義めいぎしゅう》:「せいしょうむねはじめぶん於竺こく南北なんぼくとうわたるもり於齊おさいちょう西域せいいきただれ陀寺戒賢大德だいとくとおうけたまわ彌勒みろくちょきんかかとほうまもるなんふかみつとうけい,《瑜伽ゆがとうろん立法りっぽうしょうむねげん法相ほうしょうしゃただひとしはち識業しょう,以為諸法しょほう生起せいきほん法相ほうしょうむね,以識しょうぎょうぬのためむね。其寺同時どうじ智光ともみつ大德だいとくとお文殊もんじゅりゅういつききんあおしんべん般若はんにゃとうけい,《ちゅうかんとうろん立法りっぽうせいむねげんほうせいしゃ,以明真如しんにょずいえんためしみきよしこれほんいちせいむね,以真理しんりとおるかんためもん。」
  5. ^ 薩爾きち. りゃくろん菩提ぼだいみち炬論》わたる及的相關そうかん問題もんだい及其たい西藏にしくら佛教ぶっきょうてき影響えいきょう. [2020-07-02]. (原始げんし内容ないようそん于2020-10-20). よりどころ長尾ながお雅人まさと先生せんせい研究けんきゅう,甚深廣大こうだい(GambhīrodāraあるGambhīryaudārya)ざい一般大乘佛教的論典中是作為一個詞來使用的,這個ざい後世こうせいてき哲學てつがくちゅう逐漸分離ぶんりなみ使用しようかんかずくだりりょう使分裂ぶんれつため兩個りゃんこいたり於明かくよう「甚深見ふかみ」(Gambhīradarśana,zab-mo-lta-ba)かず廣大こうだいぎょう」(Udārācārita,rgya-chen-spyod-pa)らい稱呼しょうこ以龍じゅつつみばばため代表だいひょう的中てきちゅうかん系統けいとう以無ちょおやため代表だいひょうてき瑜伽ゆがぎょう系統けいとう可能かのうさい早見はやみ於西ぞうてきそうるい著作ちょさく 
  6. ^ かいふかみつけい》:「慈氏菩薩ぼさつふくしろふつごと世尊せそんしょ毘鉢しゃさん所行しょぎょう影像えいぞうかれあずか此心とうげんゆうこととうげんことふつつげ慈氏菩薩ぼさつ曰:善男ぜんなんとうげんことなに以故?ゆかりかれ影像えいぞうただ識故。善男ぜんなんわがせつ識所えん唯識ゆいしきしょげんゆえ。」
  7. ^ 大乘だいじょうろん》:「於定心中しんちゅうの隨所ずいしょかんしょあお瘀等しょ影像えいぞう,一切無別青瘀等事,ただししんよし道理どうり菩薩ぼさつ於其一切いっさい識中,おうみなただ有識ゆうしきゆう境界きょうかい。」
  8. ^ おや唯識ゆいしきさんじゅうろん》:「安立あだち大乘だいじょう三界さんがい唯識ゆいしき,以契けいせつ三界さんがい唯心ゆいしんしん、識、りょうめい差別さべつ。」
  9. ^ ばばやぶばんまめ菩薩ぼさつでん》:「慈氏菩薩ぼさつずいちょつね於夜ぶんしたがえ知足ちそくてんくだ於禪しょうためせつろん頌:いち瑜伽ゆがろん分別ふんべつかんぎょう名分めいぶんべつ瑜伽ゆがろんさんだい莊嚴しょうごんろんよんべんちゅうあたりきむつよし般若はんにゃ。于時門人もんじんある光明こうみょう相好そうごう教授きょうじゅある相好そうごう聞教ほうある見聞けんぶんしゃ。」
  10. ^ 宇井うい伯寿はくじゅ:《彌勒菩薩みろくぼさつ彌勒みろくろん》,《印度いんどがく佛教ぶっきょうがく研究けんきゅう》1かん1ごう,1952ねん7がつ
  11. ^ 三國吳支謙譯《おもんみざつなんけい》:「ゆう菩薩ぼさつ須蜜,なんいち阿羅漢あらかんけい阿羅漢あらかん而解,便びん一心生意上問彌勒。やめとい便びんほう須蜜ごときょうしょといごと次第しだいためかい須蜜さとし便びんつめ阿羅漢あらかんきょうてき一心上問彌勒耶。阿羅漢あらかん實然じつねん。」
  12. ^ 窺基なり唯識ゆいしき論述ろんじゅつ》:「とし愷法《俱舍じょうん佛滅ぶつめつやめせんいちひゃくねんてんおや菩薩ぼさつ出生しゅっしょうづくりろんこん所傳しょでんしょせつこといま大乘だいじょうきゅうひゃく年間ねんかんてんおや菩薩ぼさつ出世しゅっせみやつこ此頌ほん。……同時どうじただゆうおやしょうべんだいろんみやつこ此頌しゃくせんいちひゃくねんはちろんぽうづくり斯釋。……しゃく此本頌,ゆうじゅうろん。」
  13. ^ りょ澂《西藏にしくら佛學ぶつがく原論げんろん》〈ろん莊嚴しょうごん經論きょうろんあずか唯識ゆいしき古學こがく〉:「於此むべ唯識ゆいしきゆう古今ここんがくべつ。此言古今ここん以無ちょしたしあるひねしょうもち先後せんご而判也。如以先後せんごばんのりおうちょ古學こがく,而世おやいまがくまたおうおや古學こがく,而陳いまがく,此將淆亂,とくていしょう實則さねつねちょおや唯識ゆいしきまなべ先後せんご一貫いっかんいいじゅんしたがえきゅうせつこんいい推衍新說しんせつ,此其だい挍也。於印じゅうだいろんもとめおやしょうべんなんさんいえ古學こがく也。護法ごほういまがく也。あんとしのり折衷せっちゅう兩者りょうしゃあいだ於東おひがし唯識ゆいしきやくもとめのり真諦しんたい古學こがく也,げん奘,いまがく也。」
  14. ^ えんはか仁王におうけい》:「とい:此無相輪そうりんさんせいちゅう何等なんら?此さん無性むしょうちゅうなに無性むしょうかいうん西方にしかたしょふんなりりょうしゃくいちしゃしんべん其遣さんせい,以立ためそらそくせつ空理くうり,以為そう如《てのひらちん》。しゃ護法ごほうただしところ,以為しょう,如《ふかみつとう。……真諦しんたい三藏さんぞう,……於一真如しんにょさんせいたてさん無性むしょう如《さん無性むしょうろん》。真諦しんたい大同だいどうしんべん,而差別さべつしゃしんべん菩薩ぼさつたて而無とう真諦しんたいそんさん無性むしょう安立あだちたい。」
  15. ^ としりつだい慈恩寺じおんじ三藏さんぞうほう師傳しでん》:「聞海中有ちゅううそう伽羅きゃらこく(此云也),有明ありあけ上座かみざ三藏さんぞう及解《瑜伽ゆがろんしゃわたる海路かいろななひゃく由旬ゆじゅんかたたちかれ。……たてこころざしじょうそく印度いんど南海なんかいくちこうそう伽羅きゃらこく水路すいろさんにちぎょういたこれあいだ而彼おうくに內飢らんゆう大德だいとくめい菩提ぼだい迷祇(そもそもにわとりはん)しめ(此云自在じざいさとしくも),おもねばつ耶鄧瑟[うな-いま+おり](此云かしこきば),如是にょぜとうさんひゃくあまりそうらいとう印度いんどいたけんこころざしじょう法師ほうしあずかあい訖,もんかれそう曰:「うけたまわかれこく大德だいとくとうかい上座かみざ三藏さんぞう及《瑜伽ゆがろん》,こんよく往彼參學さんがくとうなんいん而來?」ほう曰:「わが國王こくおうにん庶飢あら仗。聞贍しゅう豐樂ほうらくやすかくれふつせいしょしょ聖跡せいせきらいみみまたほうやからえつわが曹,長老ちょうろうゆううたぐ隨意ずいいしょうとい。」法師ほうし引《瑜伽ゆがようぶんだいふしちょうまた不能ふのう戒賢かい。」
  16. ^ えんはかかいふかみつけい》:「いま大乘だいじょうゆうりょうしゃくいちりゅうたけしとうただしせつろく識,……。彌勒みろくむね金光かねみつあきらとうりつはち識。しか此宗,西方にしかたしょゆう其三せついち菩提ぼだいとめささえ唯識ゆいしきろんうん:『だてしゅしんいちほうせいこころ真如しんにょためたい,此即真如しんにょこころこれせいめい為心いしん,而非のうえん相應そうおうしん與信よしんむさぼとうしんしょ相應そうおう。』……真諦しんたい三藏さんぞう決定けっていぞうろん》,たてきゅう識義。……あんとしむねさく如是にょぜせつ:『だい九阿摩羅識,此云無垢むく識,真如しんにょためたい。於一真如しんにょゆう其二そのじよしいち所緣しょえんさかいめい為真ためざに如及實際じっさいとうのうえんめい無垢むく識,まためいもとさとし。』如九識章,引《決定けっていぞうろんきゅう識品ちゅうせつさんだいから三藏さんぞう《楞伽》とう,及護ほうむねただりつはち識,せつだいきゅう。……じゅんけい可知かち無垢むく識者しきしゃそくきよしぶんだいはち識也。また決定けっていぞうろん》,そく瑜伽ゆが》,かれろんほんきゅう識品也。」
  17. ^ 瑜伽ゆがろん·本地ほんじぶん》:「何等なんらめいため五識ごしき耶?所謂いわゆる眼識がんしきみみ識、はな識、した識、識。うんなん眼識がんしき自性じしょういいりょうべつしょくかれしょしゃ,俱有いいとうあいだいい種子しゅしいいそく一切いっさい種子しゅし受所じゅくしょおもねよりゆき耶識。如是にょぜ略說りゃくせつしゅしょいいいろいろしょくいろいいよんだいたねしょづくり眼識がんしきしょきよししょくゆうたいいい眼識がんしきあいだ過去かこ識。……
    うんなん意地いじ?……うんなん自性じしょういいこころ、識。こころいい:一切種子所隨依止性,しょしたがえとめせいたいのう受,じゅくしょおもねよりゆき耶識。いい恒行つねゆき,及六識身無間滅意。識,いい現前げんぜんりょうべつ所緣しょえん境界きょうかいかれしょしゃとう無間むげんいい種子しゅしいい如前せつ一切種子阿賴耶識。」
    げんなり唯識ゆいしきろん》:「しょしんしんしょみなゆうしょしかかれしょ總有そうゆうさんしゅいち因緣いんねんいい種子しゅししょ有為ゆういほうみなたく此依,はなれ因緣いんねん必不せいゆえぞうじょうえんいい:內ろくしょしょしんしんしょみなたく此依,はなれ俱有必不てんゆえさんひとしあいだえんいいぜんめつしょしんしんしょみなたく此依,はなれひらきしるべ必不おこりゆえ唯心ゆいしんしんしょさんしょめいゆうしょところあまりほうはつ種子しゅし,……如是にょぜはち識,及諸しんしょていかくべつゆう種子しゅししょつぎ俱有
    • (1)有作ゆうさくせつとう五識ごしき意識いしきため,此現おこり必有かれべつとうため俱有とう五根ごこんそく種子しゅしゆえ。《じゅう唯識ゆいしきとぎちゅうげん:『識從種生たなおさかいしょう而轉,ためなり內外しょ佛說ぶっせつかれためじゅう。』……《かん所緣しょえんろんまたさくせつ:『識上しょくこうのうめい五根ごこんおうこうのうあずかさかいしょくはじめ互為いん。』……だいななはち識,べつ此依,つね相續そうぞくてん自力じりきしょうだいろく意識いしきべつゆう此依,ようたくすえ而得おこりゆえ
    • ゆうよしかれせつきょう相違そうい。……おうごと:(2)ぜんてん識,一一定有二俱有依,いい五色ごしき同時どうじ意識いしきだいろくてん識,決定けっていつねゆういち俱有いいだいなな識,わかあずか五識ごしき俱時おこりしゃまた以五識為俱有依。だいななてん識,決定けっていただゆういち俱有いいだいはち識。ただだいはち識,つね轉變てんぺんのうりつ俱有
    • ゆう此說なおつき。……(3)ぞう識,わかげんおこりしゃていゆういちいいだいなな識,ざい有色ゆうしょくかいまたいろわか種子しゅしていゆういちいいじゅく識,はつ熏習またのう熏,あまり如前せつ
    • ゆう前說ぜんせつみなおう。……(4)ゆかり五識ごしき,俱有しょていゆうよんしゅいいしょくろくななはち識,ずい闕一種必不轉故,どうさかい分別ふんべつしみきよし根本こんぽんしょべつゆえ聖教せいきょうただせつ五根ごこんしゃ,以不どもまた必同さかいきんそうじゅんゆえだいろく意識いしき,俱有しょただゆうしゅいいななはち識,ずい闕一種必不轉故,雖五識俱取境明了,而不定ふていゆうしょ聖教せいきょうただせつだいななしゃしみきよしどうてん識攝、きんそうじゅんゆえだいなな意識いしき,俱有しょただしゆういちしゅいいだいはち識,ぞう識若じょうてんゆえ。如伽せつ:『おもねよりゆき耶為有末ありすえてんとめこころ及意,てん識得せい。』おもねよりゆき耶識,俱有しょまたただしいちしゅいいだいなな識,かれ識若じょうてんゆえ。《ろんせつ:『ぞう識恒あずかすえ俱時てんゆえ。』またせつ:『ぞう識恒しみ污。』此即すえ。……
    こうひらけみちびけ。……」
    窺基なり唯識ゆいしき論述ろんじゅつ》:「次第しだい二依有四師解。……此即なんとう。……そくあんめぐみひとししょ所說しょせつ。……しただいさんきよしがつとうふくぜん。……しただいよん護法ごほう菩薩ぼさつかい。」めぐみぬまなり唯識ゆいしきろんりょうとう》:「しゃく俱有なかほんばんためよんだいそくあんめぐみとう西明さいみょうはんうんだいべん。」
  18. ^ きたたかし佛陀ぶっだおうぎおおわけちょ大乘だいじょうろん》:「ちゅう何者なにものせいしょう所有しょゆうおもね犁耶識種子中こなか虛妄きょもう分別ふんべつしょ識。かれふくなんとうあずか受用じゅよう識,かれしょ受用じゅよう識,受用じゅよう識,識,すう識,方處ほうしょ差別さべつかり意識いしき自他じた分別ふんべつ善道ぜんどう惡道あくどう生滅しょうめつ識。ちゅう所有しょゆうあずか受用じゅよう識,及彼所用しょよう識,及受識、所有しょゆうかず分別ふんべつかり識者しきしゃかれげん種子しゅしいんせい所有しょゆう自他じた分別ふんべつ識,かれ見習みならい種子しゅしいん所有しょゆう善道ぜんどう惡道あくどう生死せいししゃかれため因緣いんねん種子しゅしいん;此諸識一切いっさいちり、一切道煩惱所攝。……中身なかみあずか受用じゅよう識等,六內眼等塵應知;かれしょ受用じゅよう識者しきしゃ,六外塵色等應知;かれのう受用じゅよう識者しきしゃ,六種眼識等塵應知;此諸識餘識差別さべつおう。」
  19. ^ げんなり唯識ゆいしきろん》:「また相等そうとうよんほうじゅういち識等ろんみなせつためおこり。」窺基なり唯識ゆいしき論述ろんじゅつ》:「じゅういち識者しきしゃ一身いっしんしゃさん受者,よんかれしょ受,五彼能受,ろくせいななすうはちしょきゅう言說げんせつじゅう自他じたべつじゅう一善惡趣死生識。とう五根ごこんめい。五識所依意界,めいしゃだい六意識所依意界,めい受者識。……」
  20. ^ えんはかかいふかみつけい》:「大乘だいじょううんろん曰:此中何者なにものおこりしょういいおもねよりゆき耶識ため種子しゅし。虗妄分別ふんべつしょしょ識。……しか此諸識有差別さべつしゃ
    • わか無性むしょうとう五識所依意界,めいしゃ識;だい六意識所依意界,めい受者識。かいうん無性むしょうろんとう五識所依意界,そくよりゆき耶,めいしゃ識;だい六意識所依意界,そくまつめい受者識。
    • わかおやあずか此相こぼしだいななまつめいしゃ識;だいはちよりゆき耶,めい受者識。かれろんうんしゃいいしみ汙意;受者,いいかい
    また此諸識,すうゆう差別さべつわかはりろん》及《なり唯識ゆいしき》,みなうんじゅういちわか大乘だいじょう》,ゆうりょうぶん前文ぜんぶんじゅういちぶんじゅういいひらきぜんおもむき惡趣あくしゅ死生しせい識,以為,一善趣惡趣識,死生しせい識。かれろんうんぎょうはてじゅく數量すうりょうしょ受死せい數量すうりょうゆえ無性むしょうしゃくうんぜんおもむき惡趣あくしゅ及與死生しせいかいうんせつ及言,故知こちじゅうおやしゃくためじゅういち,於理たがえ。」
  21. ^ なりただ识论》(まきなな
  22. ^ 大乘だいじょうおもね毗达すり杂集论》(まき
  23. ^ 大乘だいじょう百法明门论疏》
  24. ^ 大乘だいじょう百法明门论解》
  25. ^ えんはかかいふかみつけい》:「真諦しんたい三藏さんぞう決定けっていぞうろん》。だてきゅう識義。如九識品せつげんきゅう識者しきしゃとうろく識。大同だいどう識論。だいななおもね陀那。此云だいはちためわがしょただはん惱障。而無ほうてい成佛じょうぶつだい八阿梨耶識。ゆうさんしゅいちかいせいなし耶。ゆう成佛じょうぶつ果報かほうなし耶。えんじゅうはちかいちゅうあたり分別ふんべつうんちりわが及識。ほん識生かれかれろんとうせつだいはち識緣じゅうはちかい。三染汙阿梨耶。えん真如しんにょさかいおこりよんしゅそしそくほう。而非じんあんとしむねさく如是にょぜせつだいきゅうおもね。此云無垢むく識。真如しんにょためたい。於一真如しんにょゆう其二そのじいち所緣しょえんさかいめい為真ためざに如及實際じっさいとうのうえんめい無垢むく識。まためいもとさとし如《きゅう識章》。引《決定けっていぞうろんきゅう識品ちゅうせつ。」
  26. ^ 真諦しんたいわけあらわ識論》(したがえそうろんだし):「ふつ於《かいぶしけいちゅうせつごと:『あらわ識起分別ふんべつ分別ふんべつおこり熏習。熏習おこりあらわ識。生死せいし輪轉りんてん。』しょげん熏習しゃ,一執著分別性,かん真實しんじつせい,以此めい熏習。だいいち熏習しゃ增長ぞうちょうおもねなし耶識,おもねなし耶識增長ぞうちょう具足ぐそくしょのう能生のう六道受生諸識,以是よし生死せいし圓滿えんまんだい熏習しゃめいかん真實しんじつせい,此熏習能じょしる分別ふんべつせいだいいち熏習損壞そんかいおもねなし耶識またそんおもねなし耶識すんでそん,受生識亦そん,以阿なし耶識能生のう三界さんがいゆかりそんとく三界さんがいてんうたてしゅ,如《めつ差別さべつしょうちゅう解說かいせつ。」
  27. ^ 真諦しんたいわけうたて識論》(したがえそうろんだし):「おこり種種しゅじゅ分別ふんべつとうしゃ,一一識中皆具能所,のう分別ふんべつそく識,しょ分別ふんべつそくさかいのうそくせいしょそく分別ふんべつせいうんおこり種種しゅじゅ分別ふんべつ及所分別ふんべつ也。よし如此よしはなれ識之がいべつさかいただしただ有識ゆうしき義成よしなりすんで未明みめい識,惑亂わくらんじょめい不淨ふじょうひん也。といさかいざい識,乃可しょう唯識ゆいしきすんでさかい識俱遣,なに識可なりこたえたて唯識ゆいしき乃一往遣さかいとめしんそつおわりためろん境為さかためよくそらしん其正さかい識俱泯,其義なり。此さかい識俱泯そくせいせいそくこれおもねまたそつおわりためろん識也。」
  28. ^ 真諦しんたいわけりゅういつきじゅうはち空論くうろん》:「といわかなんじすんで自性じしょう不淨ふじょうまたおうゆう自性じしょうきよしうんなんふんばん法界ほうかいきよし不淨ふじょうこたえおもねこれ自性じしょう清淨せいじょうしんただしためきゃくちりしょ污故めい不淨ふじょうためきゃくちりつきたてためきよし。」「あきら唯識ゆいしき真實しんじつべん一切諸法唯有淨識。有能ゆうのううたぐまたところうたぐこうしゃく如《唯識ゆいしきろん》。ただし唯識ゆいしきゆうりょういちしゃ方便ほうべんいいさきかんただゆうおもねなし耶識境界きょうかいげんとくさかいさとしりょうそらじょ妄識やめつきめいため方便ほうべん唯識ゆいしき也。明正めいせいかん唯識ゆいしきとろけ生死せいし虛妄きょもう識心,及以境界きょうかいいちみなきよしつきただゆうおもね清淨せいじょうしん也。」
  29. ^ 菩提ぼだいりゅうささえわけふかみつ解脫げだつけい》:「真如しんにょゆうななしゅ何等なんらためなな所謂いわゆるはじめ有為ゆういぎょうしょう真如しんにょしょう真如しんにょ所謂いわゆるわがそらほうそら唯識ゆいしき真如しんにょ有為ゆういぎょうおもんみこれこころしる真如しんにょ所謂いわゆるわがせつたいよこしまぎょう真如しんにょ所謂いわゆるわがせつしゅうたい清淨せいじょう真如しんにょ所謂いわゆるせつめつたいせい修行しゅぎょう真如しんにょ所謂いわゆるわがせつどうたい。」
    真諦しんたいわけりゅういつきじゅうはち空論くうろん》「《かいぶしけいあきら佛說ぶっせつゆうななしゅ真如しんにょ一生いっしょうそうさん識、よんとめよこしまぎょうろく清淨せいじょうなな正行まさゆき。……さん真如しんにょものいい一切いっさい有為ゆういただ有識ゆうしき。……さん真如しんにょものただしただ有識ゆうしきゆう境界きょうかい境界きょうかいなり,識亦なり。此則のうえん所緣しょえんどう不可ふかとくせいめい識真如也。……」
    げんわけかいふかみつけい》:「如是にょぜ一切いっさい如所有性ゆうせいしゃいいそく一切染淨法中所有真如,めい此中如所有しょゆうせい。此復ななしゅいちしゃ流轉るてん真如しんにょいい一切いっさいぎょう先後せんごせいしゃしょう真如しんにょいい一切法補特伽羅,無我むがせい及法無我むがせいさんしゃりょうべつ真如しんにょいい一切行唯是識性;よんしゃ安立あんりゅう真如しんにょいいわが所說しょせつしょひじりたいしゃよこしまぎょう真如しんにょいいわが所說しょせつしょしゅうひじりたいろくしゃ清淨せいじょう真如しんにょいいわが所說しょせつしょめつひじりたいななしゃ正行まさゆき真如しんにょいいわが所說しょせつ諸道しょどうひじりたい。」
    真諦しんたいわけさん無性むしょうろん》(したがえそうろんだし):「真諦しんたいしゃいいななしゅ如如:一生いっしょうそうさん識、よんとめよこしまぎょうろく清淨せいじょうなな正行まさゆき。……さん識如如ものいい一切諸行但唯是識。此識しょう如如:いちたおせ變異へんいたおせしゃいいじゅう二入等一切諸法但唯是識,はなれらん識外べつあまりほう一切いっさい諸法しょほうみなため識攝。此義決定けっていたたえたおせたおせ如如,たおせ如如あい如如也。變異へんいしゃあきら此亂識,そく分別ふんべつほかちり識所あらわよし分別ふんべつせいひさしせいまたゆう,此二所有しょゆうそくこれおもねただゆう此識どく變異へんいしょう如如。ぜんしょう如如,ただしじゅういれ小乘しょうじょうしょべん一切いっさい諸法しょほうただじゅういれ顛倒てんとうこん大乘だいじょうやぶしょいれなみみなただらん識所さくじゅういれそくため顛倒てんとう唯一ゆいいつらん識則顛倒てんとうしょう如如。此識たいなお變異へんい以分べつほか此亂識,ただおもね識是顛倒てんとう變異へんい真如しんにょ如也。まえ唯識ゆいしきよしちゅうまたおうさく此識せつさき以唯いちらん識,於外さかいおもね於亂識故,究竟きゅうきょう唯一ゆいいつきよし也。……」
    げんわけ顯揚けんよう聖教せいきょうろん·なり無性むしょうひん》:「ふく頌曰。せんせつわがほうようみなめいため世俗せぞく當知とうち勝義まさよしたいいいななしゅ真如しんにょろん曰。俗諦ぞくたいしゃ當知とうちせんせつわがほう作用さようやめ。如攝きよしひんちゅうせつ勝義まさよしたいしゃいいななしゅ真如しんにょやめ如攝ごとひんちゅうせつ。」
    なみ頗蜜わけ大乘だいじょう莊嚴しょうごん經論きょうろん》:「曰。やめせつ心性しんせいきよし。而為きゃくちりしみ不離ふりこころ真如しんにょべつ有心うしんせいきよししゃく曰。たとえ如水にょすいせいきよし而為きゃくあかしょにご如是にょぜ心性しんせい自淨じじょう而為きゃくちりしょしみ。此義やめなりよしよし不離ふりしん真如しんにょべつゆうしんいいそうせつため自性じしょう清淨せいじょう。此中おうせつこころ真如しんにょ為心いしんそくせつ此心ため自性じしょう清淨せいじょう。此心そくおもね。」
  30. ^ 真諦しんたいわけ決定けっていぞうろん》:「あずか煩惱ぼんのう俱滅もの如是にょぜおもね耶識而是一切いっさい煩惱ぼんのう根本こんぽんおさむぜんほう此識そくめつげんおさむぜんしゃしょ凡夫ぼんぷじんおこりぜん思惟しい,而取しょ識以ため境界きょうかい進行しんこう安心あんしんはつかんしょたいわかあかし四諦得眼智明慧,のりのう破壞はかいおもね耶識,未見みけん四諦したいそく不能ふのうやぶなん能見のうみおもね耶識,如是にょぜ進行しんこうわかもろ聲聞しょうもんにゅう退すさまたしょ菩薩ぼさつにゅう退すさとく通達つうたつ法界ほうかいそくのうとく,於此識中そく一切いっさいしょ煩惱ぼんのう聚,於內於外そくおのれため煩惱ぼんのうばく,於內而為三界麁惡煩惱諸苦所縛。一切行種煩惱攝者,聚在おもね耶識ちゅうとく真如しんにょさかいさとしぞうじょうぎょうゆえ修習しゅうしゅうぎょうゆえだんおもね耶識そくてん凡夫ぼんぷせい,捨凡夫ぼんぷほうおもね耶識ほろび,此識ほろび一切いっさい煩惱ぼんのうほろびおもね耶識たいしょうおもねおもね耶識無常むじょうゆうほうおもねつねほうとく真如しんにょさかいどうしょうおもねおもね耶識ため麁惡はてこれしょつい逐;おもねゆう一切いっさい麁惡はておもね耶識而是一切いっさい煩惱ぼんのう根本こんぽん不為ふためひじりどう而作根本こんぽんおもねまたふく不為ふため煩惱ぼんのう根本こんぽんただしためせいみち得道とくどうとくさく根本こんぽんおもねさくせいみちいん不作ふさくせいいんおもね耶識於善とく自在じざいおもね耶識めつゆう相貌そうぼういい來世らいせ煩惱ぼんのう不善ふぜんいんほろび,以因ほろびのり來世らいせ五盛陰苦不復得生,げん在世ざいせいちゅう一切煩惱惡因滅故,のり凡夫ぼんぷかげほろび,此身自在じざいそく便びん如化,捨離一切いっさい麁惡果報かほうとくおもねこれいん緣故えんこ,此身壽命じゅみょう便びんとく自在じざい壽命じゅみょう因緣いんねんのうめつ於身,またのうだんいのちつきめつあまり一切いっさいしょ受皆とく清淨せいじょう乃至ないし如經こうせつ一切いっさい煩惱ぼんのうしょうにゅう通達つうたつぶんおさむぜん思惟しいしょうおもね故知こちおもね耶識あずか煩惱ぼんのう俱滅,如是にょぜ分別ふんべつ真實しんじつ解釋かいしゃくしん意識いしきよし解釋かいしゃくしん意識いしき,於三界中得知一切煩惱之法,しょ清淨せいじょうほう。」
    げんわけ瑜伽ゆがろん·ぎまぶん》:「うんなん建立こんりゅうおもねよりゆき耶識ざつしみかえめつそういい略說りゃくせつおもねよりゆき耶識一切いっさいざつしみ根本こんぽん。……ふく此雜しみ根本こんぽんおもねよりゆき耶識,おさむぜんほうふるかたとくてんめつ。此修ぜんほうわかしょことせい,以緣うたてためさかい作意さくい方便ほうべんじゅうしんのうにゅう最初さいしょひじりたいげんかん未見みけんたいしゃ於諸たいちゅうとく法眼ほうげん便びんのう通達つうたつ一切種子阿賴耶識。此未見みけんたいしゃおさむ如是にょぜぎょうやめあるいれ聲聞しょうもんせいせいはなれせいあるいれ菩薩ぼさつせいせいはなれせいたち一切いっさいほう法界ほうかいやめまたのう通達つうたつおもねよりゆき耶識。とう於爾のうそう觀察かんさつ所有しょゆう一切いっさいざつしみまたのう了知りょうち自身じしん外為がいためしょうばくしょばく,內為麁重ばくしょばくふくおさむかん行者ぎょうじゃ,以阿よりゆき耶識一切戲論所攝諸行界故,りゃくかれ諸行しょぎょう,於阿よりゆき耶識ちゅうそうためいちだんいちせきいち聚,ためいち聚已。由緣ゆえん真如しんにょさかいさとし修習しゅうしゅう修習しゅうしゅう,而得うたてうたてあいだとうげんやめだんおもねよりゆき耶識,ゆかり此斷とうげんやめだん一切いっさいざつしみ當知とうちうたてよし相違そういのうながたいおもねよりゆき耶識。またおもねよりゆき耶識からだ無常むじょうゆう受性;うたてつね受性,えん真如しんにょさかいきよし道方みちかたのううたてまたおもねよりゆき耶識つねため一切いっさい麁重しょずいうたて究竟くっきょうとおはなれ一切いっさい所有しょゆう麁重。またおもねよりゆき耶識煩惱ぼんのうてんいんひじりみちてんいんうたて煩惱ぼんのうてんいんひじりみちてんいんおうただし建立こんりゅういんせいなまいんせいまたおもねよりゆき耶識れい於善きよし記法きほうちゅうとく自在じざいうたてれい於一切善淨無記法中得大自在。またおもねよりゆき耶識斷滅だんめつ相者そうしゃいいよし此識せい斷滅だんめつ種取たねとり,其身雖住なお變化へんか所以ゆえんしゃなに當來とうらいゆういんだん便びん當來とうらいゆう;於現ほうちゅう一切煩惱因永斷故,便びん捨現ほう一切雜染所依之取。一切麁重永遠離故,ただゆういのちえん暫時ざんじとくじゅうゆかりゆう此故,ちぎりけいちゅうげんなんじただし受身うけみさい受、いのちさい受,こうせつ乃至ないしそく於現ほういち切所せっしょ究竟きゅうきょう滅盡めつじん如是にょぜ建立こんりゅうざつしみ根本こんぽんおもむきにゅう通達つうたつ修習しゅうしゅう作意さくい建立こんりゅううたて當知とうち建立こんりゅうおもねよりゆき耶識ざつしみかえ滅相めっそう。」
    かいふかみつけい》:「ふつつげ曼殊まんしゅしつ菩薩ぼさつ曰:善男ぜんなん! わか於諸波羅蜜はらみつぜんおさむ出離しゅつりうたてなり滿まんめい如來にょらいほうこれしょう。」
  31. ^ えんはかかいふかみつけい》:「だいから三藏さんぞう楞伽とう護法ごほうむねただりつはちせつだいきゅうやぶしんべんうんところりつりょうちゅう便びんゆうきょう相違そういしつ。《楞伽とうけいみなせつだい八阿賴耶故。」
  32. ^ 瑜伽ゆがろん·こじぶん》:「おもねよりゆき耶識一切いっさいざつしみ根本こんぽん所以ゆえんしゃなによし此識有情うじょう世間せけん生起せいき根本こんぽん能生のう諸根もろねしょしょ及轉識等ゆえまた世間せけん生起せいき根本こんぽんよしのう生起せいき世間せけんゆえまた有情うじょう互起根本こんぽん。一切有情相望互為增上緣故。所以ゆえんしゃなにゆう有情うじょうあずか有情うじょう互相とうなま苦樂くらくとうさらしょう受用じゅようよし道理どうり當知とうち有情うじょうかい互為ぞうじょうえんまたそく此阿よりゆき耶識。のう一切いっさいほう種子しゅしゆえ。於現在世ざいせいたいたいまた未來みらいたいなまいんまた現在げんざいしゅうたいなまいん如是にょぜ能生のう有情うじょう世間せけんゆえ能生のう世間せけんゆえたいからだゆえ能生のう未來みらいたい能生のう現在げんざいしゅうたい當知とうちおもねよりゆき耶識一切いっさいざつしみ根本こんぽん。」
  33. ^ 瑜伽ゆがろん·こじぶん》:「ふくおもねよりゆき耶識しょじゅん解脫げだつぶん、及順けつぶんとうぜんほう種子しゅし。此非しゅうたいいんよしじゅん解脫げだつぶんとう善根ぜんこんあずか流轉るてん相違そういところあまり世間せけん所有しょゆう善根ぜんこんよし此生てんさら明盛めいせいよし此因えんかれしょ受自るい種子しゅしてん有功ゆうこうのううたてゆう勢力せいりょく增長ぞうちょう種子しゅしそくとく成立せいりつふくよし種子しゅしかれしょぜんほうてん明盛めいせいせいまたふくのうかん當來とうらいてんぞうてんしょう可愛かわいらくしょじゅくはてふく此一切種子阿賴耶識故。うすとぎ梵說。ゆう眼界がんかいしょくかい眼識がんしきかい乃至ないし有意ゆういかい法界ほうかい意識いしきかいよし於阿よりゆき耶識中有ちゅうう種種しゅじゅかいゆえまた如經せつあくまた聚喻。よし於阿よりゆき耶識中有ちゅううかいゆえ。」
  34. ^ おう竟無《瑜伽ゆがろん敘》:「きおいきょう,眾生ちょゆうりゅういつきやぶみやつこちゅうろんとうあいきょうりつまたふくちょそら以無ちょじょう請慈みことおやせつろんしたこう中道ちゅうどうとくそうむねそう唯識ゆいしきむねさく大乘だいじょう》,つて於世おやそう法相ほうしょうむねさくあつまりろんほん,授師さとし。」
  35. ^ おう竟無《瑜伽ゆがろん敘》:「こん唯識ゆいしきよし法相ほうしょう。」
  36. ^ しるしじゅんべん法相ほうしょうあずか唯識ゆいしき〉:「わがしたがえ全體ぜんたい佛教ぶっきょうてき立場たちばそう說明せつめいいちてんそく,凡唯識必法相ほうしょうてき法相ほうしょう却不必是唯識ゆいしき。」

延伸えんしん阅读[编辑]

  • Bayer, Achim (2012). Addenda and Corrigenda to The Theory of Karman in the Abhidharmasamuccaya, 2012 Hamburg: Zentrum für Buddhismuskunde.
  • Kalupahana, David J., The Principles of Buddhist Psychology, Delhi: ri Satguru Publications, 1992 
  • Keenan, John P. (1993). Yogācarā. pp. 203–212 published in Yoshinori, Takeuchi; with Van Bragt, Jan; Heisig, James W.; O'Leary, Joseph S.; Swanson, Paul L.(1993). Buddhist Spirituality: Indian, Southeast Asian, Tibetan, and Early Chinese. New York City: The Crossroad Publishing Company. ISBN 0-8245-1277-4
  • King, Richard. Vijnaptimatrata and the Abhidharma context of early Yogacara. Asian Philosophy. 1998, 8 (1): 5–18 [2021-08-17]. doi:10.1080/09552369808575468. (原始げんし内容ないようそん于2011-07-26). 
  • Kochumuttom, Thomas A., A buddhist Doctrine of Experience. A New Translation and Interpretation of the Works of Vasubandhu the Yogacarin, Delhi: Motilal Banarsidass, 1999 
  • Norbu, Namkhai (2001), The Precious Vase: Instructions on the Base of Santi Maha Sangha. Shang Shung Edizioni. Second revised edition. (Translated from the Tibetan, edited and annotated by Adriano Clemente with the help of the author. Translated from Italian into English by Andy Lukianowicz.)
  • Park, Sung-bae, Buddhist Faith and Sudden Enlightenment, SUNY Press, 1983 
  • Shantarakshita & Ju Mipham (2005). The Adornment of the Middle Way Padmakara Translation of Ju Mipham's commentary on Shantarakshita's root versus on his synthesis.
  • Sponberg, Alan (1979). Dynamic Liberation in Yogacara Buddhism页面そん档备份そん互联网档あん), Journal of the International Association of Buddhist Studies 2(1), pp. 44–64.
  • Stcherbatsky, Theodore (1936). Mathyanta-Vibhanga, "Discourse on Discrimination between Middle and Extremes" ascribed to Bodhisattva Maiteya and commented by Vasubhandu and Sthiramathi, translated from the sanscrit, Academy of Sciences USSR Press, Moskow/Leningrad.
  • Timme Kragh, Ulrich (editor) 2013, The Foundation for Yoga Practitioners: The Buddhist Yogācārabhūmi Treatise and Its Adaptation in India, East Asia, and Tibet, Volume 1 Harvard University, Department of South Asian studies.
  • Zim, Robert (1995). Basic ideas of Yogacara Buddhism. San Francisco State University. Source: [1]页面そん档备份そん互联网档あん) (accessed: October 18, 2007).

外部がいぶ連結れんけつ[编辑]