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准三宮 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

じゅんさんみや

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じゅんさんみやまたたたえじゅん三后さんこうじゅんきさきひとしひとし日本にっぽん過去かこ授予皇族こうぞく貴族きぞくてき一種いっしゅさかえ銜。ざい明治維新めいじいしん以前いぜん皇后こうごう皇太后こうたいごう太皇太后たいこうたいこうごうしょう三宮さんのみや」,じゅん三宮即指人臣之待遇相當於三宮者。

871ねん清和せいわ天皇てんのうしもみことのりたまもの其外祖父そふ藤原ふじわらりょうぼうじゅんさんみやきゅうねんかんとし爵、ふう隨身ずいじん兵仗ひょうじょう[1],這是じゅんさんみやはじめとしかんゆび諸國しょこくいちにんいちにん史生ふみおさんにんねん爵指したがえ一人ひとり[2]

其後藤原基經ふじわらのもとつねまたじゅんさんみや使つかいいちさかえ制度せいど。此榮銜常頒與天皇てんのうはは外戚がいせき內親おうある出家しゅっけてき后妃こうひ女院にょいん法親王ほうしんのうひとし日本にっぽん南北なんぼくあさ時期じき北畠きたばたけ親房ちかふさだい一個皇室與外戚以外的身份而獲頒此榮銜者。

じゅんきさきれつひょう

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宣下せんげ 时任天皇てんのう 授予しゃ 出身しゅっしん地位ちい 備考びこう
さだかん13(871)ねん4がつ10日とおか 清和せいわ 藤原ふじわらりょうぼう 藤原ふじわらふゆ嗣子しし嗣、摄政太政大臣だじょうだいじん じゅん三宮授于最先例
もとけい6(882)ねん2がつ1にち 陽成ようぜい 藤原基經ふじわらのもとつね 藤原ふじわらちょう良子りょうこ嗣、摄政太政大臣だじょうだいじん 仁和にわ4(888)としさい宣下せんげ
てんけい2(939)ねん2がつ28にち 朱雀すじゃく 藤原ふじわら忠平ちゅうへい 藤原基經ふじわらのもとつね嗣、摄政太政大臣だじょうだいじん
てんれき8(954)ねん3がつ18にち 村上むらかみ 康子やすこ内親王ないしんのう 醍醐天皇だいごてんのう皇女おうじょ藤原ふじわら輔妻しつ 内親王ないしんのう授准三宮さんのみやさい先例せんれい
てんろく3(972)ねん12月16にち 圓融えんゆう 資子もとこ内親王ないしんのう 村上むらかみ天皇てんのう皇女おうじょ
貞元さだもと2(977)ねん11月4にち 圓融えんゆう 藤原ふじわらけんどおり 藤原ふじわら輔子嗣、関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん
永観えいかん2(984)ねん12月1にち 花山はなやま 惠子えこ女王じょおう だいあかり親王しんのう王女おうじょ藤原ふじわらいん妻室さいしつ

藤原ふじわらふところ花山はなやま天皇てんのう生母せいぼはは

寛和ひろかず2(986)ねん8がつ25にち いちじょう 藤原ふじわらけん 藤原ふじわら輔子嗣、摄政ぜん右大臣うだいじん せいこよみもと(990)としさい宣下せんげ
寛弘かんこう4(1007)ねん1がつ20日はつか いちじょう おさむ内親王ないしんのう 一條天皇いちじょうてんのう皇女おうじょ
寛弘かんこう8(1011)ねん6がつ2にち いちじょう あつしかん親王しんのう 一條天皇いちじょうてんのう皇子おうじ 親王しんのう授准三宮さんのみやさい先例せんれい

ぞく親王しんのう授准三宮さんぐうただいちれい

長和おさわ4(1015)ねん12月27にち 三條さんじょう 禎子さだこ内親王ないしんのう陽明ようめいもんいん 三條さんじょう天皇てんのう皇女おうじょこう朱雀すざく天皇てんのう皇后こうごう

後三條ごさんじょう天皇てんのう生母せいぼ

ちょうこよみもと(1037)ねん立后りっこう

れき5(1069)ねん院号いんごう宣下せんげ

長和おさわ5(1016)ねん6がつ10日とおか こういちじょう 藤原ふじわら道長みちなが 藤原ふじわらけん家子いえこ嗣、摄政左大臣さだいじん

一条いちじょうこういちじょう三条さんじょう天皇てんのう外祖父がいそふ

寛仁かんじん3(1019)としさい宣下せんげ
みなもと倫子ともこ みなもと雅信まさのぶおんな藤原ふじわら道長みちなが妻室さいしつ

一条いちじょうこういちじょう三条さんじょう天皇てんのう外祖母がいそぼ

天皇てんのう后妃こうひ皇族こうぞく女性じょせい授准三宮さんのみやさい先例せんれい
ながもと3(1030)ねん11月20にち こういちじょう 章子あきこ内親王ないしんのうじょういん 後一條天皇ごいちじょうてんのう皇女おうじょ後冷泉天皇ごれいぜいてんのう皇后こうごう ながうけたまわもと(1046)ねん立后りっこう

延久のべひさ6(1074)ねん院号いんごう宣下せんげ

ながもと4(1031)ねん12月16にち こういちじょう かおる内親王ないしんのう 後一條天皇ごいちじょうてんのう皇女おうじょ後三條ごさんじょう天皇てんのう皇后こうごう 延久のべひさもと(1069)ねん立后りっこう
ちょうこよみ4(1040)ねん11月23にち こう朱雀すじゃく 祐子ゆうこ内親王ないしんのう こう朱雀すざく天皇てんのう皇女おうじょ
ひろしとく2(1045)ねん1がつ10日とおか こう朱雀すじゃく 良子りょうこ内親王ないしんのう こう朱雀すざく天皇てんのう皇女おうじょ
時期じき不明ふめいひさしうけたまわ5(1050)-てんもと(1053)あいだ 後冷泉ごれいぜい 藤原ふじわら生子いくこ 藤原ふじわらきょうどおりおんなこう朱雀すざく天皇てんのう女御にょうご
ながうけたまわ6(1051)ねん7がつ10日とおか 後冷泉ごれいぜい 藤原ふじわら歡子 藤原ふじわらきょうどおりおんな後冷泉天皇ごれいぜいてんのう皇后こうごう れき4(1068)ねん立后りっこう
れき3(1067)ねん10がつ7にち 後冷泉ごれいぜい 藤原ふじわら頼通よりみち 藤原ふじわら道長みちなが嗣、関白かんぱくぜん太政大臣だじょうだいじん
延久のべひさもと(1069)ねん6がつ19にち 後三條ごさんじょう 聰子さとこ内親王ないしんのう 後三條ごさんじょう天皇てんのう皇女おうじょ
延久のべひさ4(1072)ねん12月1にち 後三條ごさんじょう みなもと基子もとこ みなもとはじめひらおんな後三條ごさんじょう天皇てんのう女御にょうご

白河天皇しらかわてんのう皇太子こうたいしじつじん親王しんのう生母せいぼ

うけたまわ2(1075)ねん12月28にち 白河しらかわ 藤原ふじわら道子みちこ 藤原ふじわらのう長女ちょうじょ白河天皇しらかわてんのう女御にょうご
うけたまわこよみ2(1078)ねん3がつ16にち 白河しらかわ 媞子内親王ないしんのういくよしもんいん 白河天皇しらかわてんのう皇女おうじょ堀河ほりかわ天皇てんのうじゅんはは 寛治かんじ5(1091)ねん尊称そんしょう皇后こうごう

寛治かんじ7(1093)ねん院号いんごう宣下せんげ

うけたまわこよみ3(1079)ねん8がつ17にち 白河しらかわ 篤子あつこ内親王ないしんのう 後三條ごさんじょう天皇てんのう皇女おうじょ堀河ほりかわ天皇てんのう皇后こうごう 寛治かんじ7(1093)ねん立后りっこう
えい3(1083)年頃としごろ 白河しらかわ あかり親王しんのうせいしん入道にゅうどう親王しんのう 三條さんじょう天皇てんのう皇子おうじ仁和寺にわじ御室おむろ 僧侶そうりょ授准三宮さんのみやさい先例せんれい
おう徳元とくもと(1084)ねん11月14にち 白河しらかわ 令子れいこ内親王ないしんのう 白河天皇しらかわてんのう皇女おうじょ鳥羽天皇とばてんのうじゅんはは よしみうけたまわ2(1107)ねん尊称そんしょう皇后こうごう
寛治かんじもと(1087)ねん4がつ12にち固辞こじ 堀河ほりかわ 藤原ふじわら 藤原ふじわら頼通よりみち嗣、摄政ぜん左大臣さだいじん
かんかずもと(1099)ねん10がつ20日はつか 堀河ほりかわ 善子よしこ内親王ないしんのう 白河天皇しらかわてんのう皇女おうじょ
かんかずもと(1099)ねん10がつ20日はつか 堀河ほりかわ 禛子内親王ないしんのう 白河天皇しらかわてんのう皇女おうじょ
保安ほあん3(1122)ねん8がつ24にち 鳥羽とば 禧子よしこ内親王ないしんのう 鳥羽天皇とばてんのう皇女おうじょ
時期じき不明ふめい ? 妍子内親王ないしんのう[3] 鳥羽天皇とばてんのう皇女おうじょ すめらぎたね绍运录》中有ちゅううじゅんきさきてき注解ちゅうかい
大治おおはる2(1127)ねん4がつ6にち たかしとく 統子もとこ内親王ないしんのう上西かみにしもんいん 鳥羽天皇とばてんのう皇女おうじょ

後白河天皇ごしらかわてんのうじゅんはは

もと3(1158)ねん尊称そんしょう皇后こうごう

平治へいじもと(1159)ねん院号いんごう宣下せんげ

ながうけたまわ3(1134)ねん3がつ2にち たかしとく 藤原ふじわら泰子やすここういん 藤原ふじわら忠實ちゅうじつおんな鳥羽天皇とばてんのう皇后こうごう 同年どうねん立后りっこう

のべ5(1139)ねん院号いんごう宣下せんげ

のべ3(1137)ねん4がつ12にち たかしとく あきら内親王ないしんのう 鳥羽天皇とばてんのう皇女おうじょ
のべ6(1140)ねん6がつ5にち たかしとく 藤原ふじわら忠實ちゅうじつ 藤原ふじわら通子みちこ嗣、ぜん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん
のべ7(1141)ねん3がつ7にち たかしとく 藤原ふじわら得子とくこ 藤原ふじわらおさむじつおんな鳥羽天皇とばてんのう皇后こうごう

近衞天皇このえてんのう生母せいぼ

同年どうねん立后りっこう

久安ひさやす5(1149)ねん院号いんごう宣下せんげ

久安ひさやす2(1146)ねん4がつ16にち 近衞このえ 暲子内親王ないしんのうはちじょういん 鳥羽天皇とばてんのう皇女おうじょ

二條天皇にじょうてんのうじゅんはは

おうもと(1161)ねん院号いんごう宣下せんげ
久安ひさやす5(1149)ねん10がつ16にち 近衞このえ 藤原ふじわら宗子むねこ 藤原ふじわらはじめどおりおんな藤原ふじわらただしどおり妻室さいしつ

藤原ふじわら聖子せいこ崇徳天皇すとくてんのう皇后こうごうはは

久安ひさやす6(1150)ねん1がつ22にち 近衞このえ 藤原ふじわら全子まさこ 藤原ふじわらしゅんおんな藤原ふじわらどおり妻室さいしつ

藤原ふじわら忠實ちゅうじつはは

もと2(1157)ねん1がつ23にち こう白河しらかわ 姝子内親王ないしんのう高松たかまついん 鳥羽天皇とばてんのう皇女おうじょ二條天皇にじょうてんのう皇后こうごう もと4(1159)ねん立后りっこう

おう2(1162)ねん院号いんごう宣下せんげ

じんやす2(1167)ねん11月18にち ろくじょう たいら盛子もりこ 平清盛たいらのきよもりおんな近衞このえはじめじつ妻室さいしつ

高倉天皇たかくらてんのうじゅんはは

うけたまわ4(1180)ねん6がつ10日とおか 安徳あんとく 平清盛たいらのきよもり 平忠盛たいらのただもり嗣、ぜん太政大臣だじょうだいじん

安徳天皇あんとくてんのう外祖父がいそふ

平時子たいらのときこ 平時へいじ信女しんにょ平清盛たいらのきよもり妻室さいしつ

安徳天皇あんとくてんのう外祖母がいそぼ

うけたまわ5(1181)ねん2がつ17にち 安徳あんとく 藤原ふじわら通子みちこ 藤原ふじわらはじめじつおんな高倉天皇たかくらてんのう後宮こうきゅう

安徳天皇あんとくてんのうじゅんはは

文治ぶんじ5(1189)ねん11月19にち 後鳥羽ごとば 式子内親王しきしないしんのう 後白河天皇ごしらかわてんのう皇女おうじょ
文治ぶんじ5(1189)ねん12月5にち 後鳥羽ごとば 覲子内親王ないしんのうせんもんいん 後白河天皇ごしらかわてんのう皇女おうじょ たてひさ2(1191)ねん院号いんごう宣下せんげ
たて久元ひさもと(1190)ねん4がつ19にち 後鳥羽ごとば 藤原ふじわらふえななじょういん 藤原ふじわら信隆のぶたかおんな高倉天皇たかくらてんのう典侍てんじ

こう高倉たかくらいんもりさだ親王しんのう生母せいぼ

げん久元ひさもと(1204)ねん院号いんごう宣下せんげ
たてひさ6(1195)ねん10がつ22にち 後鳥羽ごとば 範子のりこ内親王ないしんのう坊門ぼうもんいん 高倉天皇たかくらてんのう皇女おうじょ

土御門天皇つちみかどてんのうじゅんはは

たてひさ9(1198)ねん尊称そんしょう皇后こうごう

たてひさしもと(1206)ねん院号いんごう宣下せんげ

たてひさ7(1196)ねん4がつ16にち 後鳥羽ごとば 昇子しょうこ内親王ないしんのう春華はるかもんいん 後鳥羽ごとば天皇てんのう皇女おうじょ うけたまわもと2(1208)ねん尊称そんしょう皇后こうごう

うけたまわもと3(1209)ねん院号いんごう宣下せんげ

正治しょうじもと(1199)ねん12月13にち 土御門つちみかど みなもとざいうけたまわあかりもんいん のうえんおんなみなもととおるしん養女ようじょ後鳥羽ごとば天皇てんのう後宮こうきゅう土御門天皇つちみかどてんのう生母せいぼ たてひとし2(1202)ねん院号いんごう宣下せんげ
げん久元ひさもと(1204)ねん6がつ23にち 土御門つちみかど 肅子内親王ないしんのう 後鳥羽ごとば天皇てんのう皇女おうじょ
げん久元ひさもと(1204)ねん6がつ23にち 土御門つちみかど 禮子あやこ内親王ないしんのう嘉陽かようもんいん 後鳥羽ごとば天皇てんのう皇女おうじょ けん2(1214)ねん院号いんごう宣下せんげ
うけたまわ元元もともと(1207)ねん6がつ7にち 土御門つちみかど 藤原ふじわら重子しげこ修明のぶあきもんいん 藤原ふじわらはんおんな後鳥羽ごとば天皇てんのう後宮こうきゅう

順徳天皇じゅんとくてんのう生母せいぼ

同年どうねん院号いんごう宣下せんげ
けん6(1218)ねん2がつ14にち 順徳じゅんとく 煕子ひろこ内親王ないしんのう 後鳥羽ごとば天皇てんのう皇女おうじょ
うけたまわひさし4(1222)ねん4がつ13にち こう堀河ほりかわ 藤原ふじわらひねきた白河しらかわいん 藤原ふじわらはじめおんなこう高倉たかくらいんもりさだ親王しんのう

こう堀河ほりかわ天皇てんのう生母せいぼ

同年どうねん院号いんごう宣下せんげ
ひろしもと(1229)ねん4がつ2にち こう堀河ほりかわ 利子りし内親王ないしんのうしきいぬいもんいん こう高倉たかくらいんもりさだ親王しんのう王女おうじょ

四條しじょう天皇てんのうじゅんはは

天福てんぷくもと(1233)ねん尊称そんしょう皇后こうごう

のべおうもと(1239)ねん院号いんごう宣下せんげ

さだえいはじめ(1232)ねん12月27にち 四條しじょう 藤原ふじわら掄子 西園寺さいおんじこうけいおんな九條くじょう道家どうか妻室さいしつ

藤原ふじわら竴子(四條しじょう天皇てんのう生母せいぼはは

ぶんれき2(1235)ねん2がつ3にち 四條しじょう 暐子内親王ないしんのう こう堀河ほりかわ天皇てんのう皇女おうじょ
よしみただし2(1236)ねん12月7にち 四條しじょう たい内親王ないしんのう明義あきよしもんいん 順徳天皇じゅんとくてんのう皇女おうじょ 同年どうねん院号いんごう宣下せんげ
よしみただし4(1238)ねん3がつ25にち 四條しじょう 近衞このえ 近衞このえはじめ通子みちこ嗣、ぜん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん
よしみただし4(1238)ねん4がつ24にち 四條しじょう 九條くじょう道家どうか 九條くじょうりょう經子けいこ嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
のべおうもと(1239)ねん7がつ27にち 四條しじょう ほうすけ 九條くじょう道家どうか嗣、仁和寺にわじ御室おむろ
じん3(1242)ねん12月18にち こう嵯峨さが 藤原ふじわら彦子宣仁のぶひともんいん 藤原ふじわらきょうじつおんな四條しじょう天皇てんのう女御にょうご じん4(1243)ねん院号いんごう宣下せんげ
ひろし元元もともと(1243)ねん4がつ27にち こう嵯峨さが さとし内親王ないしんのう正親町おおぎまちいん 土御門天皇つちみかどてんのう皇女おうじょ 同年どうねん院号いんごう宣下せんげ
ひろし元元もともと(1243)ねん7がつ24にち こう嵯峨さが 暉子てるこ内親王ないしんのう室町むろまちいん こう堀河ほりかわ天皇てんのう皇女おうじょ 同年どうねん院号いんごう宣下せんげ
けんちょう3(1251)ねん11月13にち こう深草ふかくさ 禯子内親王ないしんのう永安えいあんもんいん 順徳天皇じゅんとくてんのう皇女おうじょ 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
時期じき不明ふめいたて長年ながとしあいだ1249-1256) ? たいらとう たいらとうもとおんなこう嵯峨天皇さがてんのう典侍てんじ
けんちょう6(1254)ねん7がつ26にち こう深草ふかくさ 藤原ふじわら貞子さだこ 四條しじょうたかし衡女、西園寺さいおんじみのる妻室さいしつ

こう深草ふかくさ亀山天皇かめやまてんのう外祖母がいそぼ

けんちょう8(1256)ねん2がつ7にち こう深草ふかくさ からだ内親王ないしんのう神仙しんせんもんいん こう堀河ほりかわ天皇てんのう皇女おうじょこう嵯峨天皇さがてんのう後宮こうきゅう 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
ひろちょうもと(1261)ねん3がつ8にち 亀山かめやま 義子ぎし内親王ないしんのう和徳わとくもんいん 仲恭天皇ちゅうきょうてんのう皇女おうじょ 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
ひろちょう3(1263)ねん7がつ27にち 亀山かめやま 綜子内親王ないしんのうつきはなもんいん こう嵯峨天皇さがてんのう皇女おうじょ 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
ぶんなが4(1267)ねん6がつ26にち 亀山かめやま 愷子内親王ないしんのう こう嵯峨天皇さがてんのう皇女おうじょ
ぶんなが12(1275)ねん2がつ22にち こう宇多うた 藤原ふじわらしん陽明ようめいもんいん 近衞このえはじめひらおんな亀山天皇かめやまてんのう女御にょうご 同年どうねん院号いんごう宣下せんげ
弘安ひろやす7(1284)ねん2がつ28にち こう宇多うた 悦子えつこ内親王ないしんのうのべせいもんいん こう嵯峨天皇さがてんのう皇女おうじょ 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
せいおうもと(1288)ねん12月16にち 伏見ふしみ 藤原ふじわら愔子げんてるもんいん ほらいんじつゆうおんな後深草天皇ごふかくさてんのう後宮こうきゅう

伏見天皇ふしみてんのう生母せいぼ

同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
せいおう2(1289)ねん12がつ10日とおか 伏見ふしみ 懌子内親王ないしんのう五條ごじょういん こう嵯峨天皇さがてんのう皇女おうじょ亀山天皇かめやまてんのう後宮こうきゅう 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
せいおう3(1290)ねん1がつ19にち 伏見ふしみ 藤原ふじわら相子あいこ 西園寺さいおんじこうしょうおんな後深草天皇ごふかくさてんのう後宮こうきゅう
せいおう4(1291)ねん4がつ6にち 伏見ふしみ 久子ひさこ内親王ないしんのうえいようもんいん 後深草天皇ごふかくさてんのう皇女おうじょ えいひとし2(1294)ねん院号いんごう宣下せんげ
えいひとし2(1294)ねん2がつ29にち 伏見ふしみ 媖子内親王ないしんのうとくもんいん 後深草天皇ごふかくさてんのう皇女おうじょ 正安まさやす4(1302)ねん院号いんごう宣下せんげ
えいひとし3(1295)ねん8がつ15にち 伏見ふしみ 譽子たかこ内親王ないしんのう章義あきよしもんいん 伏見天皇ふしみてんのう皇女おうじょ 徳治とくじ2(1307)ねん院号いんごう宣下せんげ
えいひとし4(1296)ねん8がつ11にち 伏見ふしみ 憙子内親王ないしんのうあきらけいもんいん 亀山天皇かめやまてんのう皇女おうじょ 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
えいひとし5(1297)ねん12月28にち 伏見ふしみ 永子えいこ内親王ないしんのうあきらぜんもんいん 後深草天皇ごふかくさてんのう皇女おうじょ のべけい2(1309)ねん院号いんごう宣下せんげ
正安まさやす3(1301)ねん3がつ19にち こうじょう 藤原ふじわら瑛子えいこあきらくんもんいん 西園寺さいおんじみのるけんおんな亀山天皇かめやまてんのう後宮こうきゅう

常磐ときわ井宮いのみや恒明つねあき親王しんのう生母せいぼ

同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
正安まさやす3(1301)ねん7がつ20日はつか こうじょう 藤原ふじわら忠子ただこだんてんもんいん 藤原ふじわらただしつぎおんな藤原ふじわらつぎ養女ようじょこう宇多天皇うだてんのう典侍てんじ後醍醐天皇ごだいごてんのう生母せいぼ ぶん2(1318)ねん院号いんごう宣下せんげ
正安まさやす4(1302)ねん1がつ20日はつか こうじょう 瑞子みずこ女王じょおうえい嘉門かもんいん 宗尊親王むねかたしんのう王女おうじょこう宇多天皇うだてんのう後宮こうきゅう 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
よしみ元元もともと(1303)ねん12月14にち こうじょう みちげん 二條にじょうりょう實子じっし嗣、あおれんいん門跡もんぜき
時期じき不明ふめい ? 掄子女王じょおう 宗尊親王むねかたしんのう王女おうじょこう宇多天皇うだてんのう後宮こうきゅう
時期じき不明ふめい ? みち 二條にじょうりょう實子じっし嗣、ほうじゅうてら門跡もんぜき
のべけいもと(1308)ねん12月2にち 花園はなぞの みなもと基子もとこ西にしはなもんいん 久我くがもりおんな久我くがはじめ養女ようじょこう宇多天皇うだてんのう後宮こうきゅうこう二條天皇にじょうてんのう生母せいぼ 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
のべけい2(1309)ねん6がつ27にち 花園はなぞの 璹子内親王ないしんのうさくひらもんいん 伏見天皇ふしみてんのう皇女おうじょ 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
時期じき不明ふめいのべけい年間ねんかん1308-1311) 花園はなぞの 藤原ふじわら經子けいこ 五辻いつつじけいおんな伏見天皇ふしみてんのう典侍てんじ

こう伏見天皇ふしみてんのう生母せいぼ

のべけい2(1309)ねん1がつ13にち 花園はなぞの 藤原ふじわら寧子やすこ廣義こうぎもんいん 西園寺さいおんじこう衡女、こう伏見天皇ふしみてんのう女御にょうご

ひかりげん天皇てんのう光明こうみょう天皇てんのう生母せいぼ

同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
おうちょうもと(1311)ねん8がつ10日とおか 花園はなぞの 延子のぶこ内親王ないしんのうのべあかりもんいん 伏見天皇ふしみてんのう皇女おうじょ 正和しょうわ4(1315)ねん院号いんごう宣下せんげ
もとおう2(1320)ねん2がつ26にち 後醍醐ごだいご 藤原ふじわら頊子まんあきもんいん 一條いちじょうみのるけいおんなこう宇多天皇うだてんのう後宮こうきゅう 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
もとおう2(1320)ねん8がつ23にち 後醍醐ごだいご 㛹子内親王ないしんのうことぶきしげるもんいん こう二條天皇にじょうてんのう皇女おうじょ 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
正中せいちゅう3(1326)ねん2がつ7にち 後醍醐ごだいご 藤原ふじわら季子としこあらわおやもんいん ほらいんじつゆうおんな伏見天皇ふしみてんのう後宮こうきゅう

花園天皇はなぞのてんのう生母せいぼ

同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
よしみれき3(1328)ねん1がつ30にち 後醍醐ごだいご とうとちん法親王ほうしんのう 亀山天皇かめやまてんのう皇子おうじ聖護院しょうごいん門跡もんぜき
元弘もとひろもと/もととく3(1331)ねん1がつ12にち 後醍醐ごだいご 懽子内親王ないしんのう宣政のぶまさもんいん 後醍醐天皇ごだいごてんのう皇女おうじょひかりげん天皇てんのう後宮こうきゅう たてたけし2(1335)ねん院号いんごう宣下せんげ
時期じき不明ふめい ? 欣子きんこ内親王ないしんのう[3] 後醍醐天皇ごだいごてんのう皇女おうじょ 前田まえだほん日本にっぽんみかどすめらぎけい图》、《作者さくしゃ类》とうゆうじゅん三后さんこうてき注解ちゅうかいざい实录ちゅう参考さんこう
元弘もとひろもと/もととく3(1331)ねん10がつ25にち ひかりげん 禖子内親王ないしんのうたかしあかりもんいん こう宇多天皇うだてんのう皇女おうじょくにりょう親王しんのう 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
元弘もとひろ2/せいけいもと(1332)ねん12月13にち ひかりげん 藤原ふじわら實子じっし宣光のぶみつもんいん 正親町おおぎまちみのるあきらおんなほらいんおおやけもり養女ようじょ花園天皇はなぞのてんのう後宮こうきゅうたかしこう天皇てんのう皇太子こうたいしちょくじん親王しんのう生母せいぼ のべもと3/たてたけし5(1338)ねん院号いんごう宣下せんげ
たてたけし2(1335)ねん4がつ26にち 後醍醐ごだいご 藤原ふじわられんしんまちけんもんいん 阿野あのこうれんおんなほらいんおおやけけん養女ようじょ後醍醐天皇ごだいごてんのう後宮こうきゅう後村上天皇ごむらかみてんのう生母せいぼ 正平しょうへい6/かんおう2(1351)ねん以前いぜん皇太后こうたいごう宣下せんげ

正平しょうへい6/かんおう2(1351)ねん院号いんごう宣下せんげ

のべ元元もともと/たてたけし3(1336)ねん4がつ2にち 後醍醐ごだいご 璜子内親王ないしんのうあきらとくもんいん こう伏見天皇ふしみてんのう皇女おうじょ 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
のべ元元もともと/たてたけし3(1336)ねん1がつ28にち 光明こうみょう 道昭みちあき 一條いちじょう經子けいこ嗣、常住じょうじゅういん門跡もんぜき
のべもと2/たてたけし4(1337)ねん2がつ7にち 光明こうみょう 壽子ひさこ内親王ないしんのう(徽安もんいん 花園天皇はなぞのてんのう皇女おうじょひかりげん天皇てんのう後宮こうきゅう 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
時期じき不明ふめい ? りょうげん なつけ親王しんのう王子おうじ一乘院いちじょういん門跡もんぜき *出身しゅっしんゆうかく种说ほうただしざい实录ちゅう怀良亲王之子ゆきこ

二條にじょう良基よしもと猶子ゆうし

時期じき不明ふめい ? みこときょう 常磐ときわ井宮いのみや満仁まに親王しんのう王子おうじ勸修寺かんしゅうじ門跡もんぜき
時期じき不明ふめい ? 桓(よし 常磐ときわ井宮いのみやぜんあかり親王しんのう王子おうじ實相院じっそういん門跡もんぜき
正平しょうへい6/かんおう2(1351)ねん11月 こう村上むらかみ 北畠きたばたけ親房ちかふさ 北畠きたばたけ重子しげこ嗣、大納言だいなごん後村上天皇ごむらかみてんのう皇后こうごうちちこう龜山天皇かめやまてんのう皇后こうごう祖父そふ
正平しょうへい7/文和ふみかずもと(1352)ねん10がつ29にち 後光ごこうげん 藤原ふじわら秀子ひでころくもんいん 三條さんじょう公秀きんひでおんなひかりげん天皇てんのう典侍てんじ

たかしこう天皇てんのう後光ごこうげん天皇てんのう生母せいぼ

同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
時期じき不明ふめい文中ぶんちゅう3/おうやす7(1374)ねん以前いぜん 後光ごこうげん 治子はるこ内親王ないしんのう 後光ごこうげん天皇てんのう皇女おうじょ
天授てんじゅ2/永和えいわ2(1376)ねん1がつ1にち こう圓融えんゆう 二條にじょう良基よしもと 二條にじょうみち平子ひらこ嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
天授てんじゅ6/かんれき2(1380)ねん1がつ28にち こう圓融えんゆう きの仲子なかこたかしけんもんいん どおりきよしおんな後光ごこうげん天皇てんのう典侍てんじ

こう圓融天皇えんゆうてんのう生母せいぼ

弘和こうわ3/えいいさお3(1383)ねん院号いんごう宣下せんげ
弘和こうわ3/えいいさお3(1383)ねん6がつ26にち こう小松こまつ 足利あしかが義満よしみつ 足利あしかが義詮よしあきら嗣、室町むろまち幕府ばくふさんだい将軍しょうぐん
もとなか7/明徳めいとくもと(1390)ねん12月24にち こう小松こまつ りょう瑜(せいすけ じょうけん基子もとこ嗣、實相院じっそういん
おうなが2(1395)ねん4がつ9にち こう小松こまつ 藤原ふじわらいわおつうもんいん 三條さんじょうこうちゅうおんなこう圓融天皇えんゆうてんのう後宮こうきゅう

こう小松こまつ天皇てんのう生母せいぼ

おうなが3(1396)ねん院号いんごう宣下せんげ
おうなが13(1406)ねん12月27にち こう小松こまつ 藤原ふじわら康子やすこ北山きたやまいん 日野ひのかんおんな足利あしかが義満よしみつ妻室さいしつ

こう小松こまつ天皇てんのうじゅんはは

おうなが14(1407)ねん院号いんごう宣下せんげ
時期じき不明ふめい ? 道意どうい 二條にじょうりょう基子もとこ嗣、聖護院しょうごいん門跡もんぜき
おうなが19(1412)ねん4がつ16にち こう小松こまつ ほうみこと 足利あしかが義満よしみつ嗣、仁和寺にわじ門跡もんぜき
おうなが21(1414)ねん5がつ22にち しょうこう 義圓ぎえん 足利あしかが義満よしみつ嗣、あおれんいん門跡もんぜき
おうなが21(1414)ねん8がつ9にち しょうこう 義昭よしあき 足利あしかが義満よしみつ嗣、大覚寺だいかくじ門跡もんぜき
おうなが22(1415)ねん11月28にち しょうこう 一條いちじょうけい 二條にじょうりょう基子もとこ嗣、関白かんぱくぜん左大臣さだいじん
おうなが27(1420)ねん11月20にち しょうこう 桓教 二條にじょうりょう基子もとこ嗣、じょういん
おうなが29(1422)ねん12月8にち しょうこう まん 二條にじょうりょう基子もとこ嗣、聖護院しょうごいん門跡もんぜき
おうなが32(1425)ねん7がつ29にち しょうこう 藤原ふじわら資子もとこ光範みつのりもんいん 日野西ひのにしこくおんな日野ひのきょう養女ようじょこう小松こまつ天皇てんのう典侍てんじしょうこう天皇てんのう生母せいぼ 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
おうなが35(1428)ねん4がつ20日はつか しょうこう まんすみ 藤原ふじわら冬子どんこ嗣、三宝さんぼういん門跡もんぜき
えいとおるもと(1429)ねん12月15にち こう花園はなぞの つうみことみことけい 九條經教子嗣、常住じょうじゅういん門跡もんぜき
えいとおる2(1430)ねん こう花園はなぞの べん 足利あしかがみつるかい嗣、浄土寺じょうどじ門跡もんぜき
時期じき不明ふめい ? 良昭よしあき 近衞このえみち嗣子しし嗣、一乘院いちじょういん門跡もんぜき
時期じき不明ふめい ? ぞうかいよしうん 足利あしかがみつるかい嗣、實相院じっそういん門跡もんぜき
嘉吉よしきちもと(1441)ねん8がつ30にち こう花園はなぞの うけたまわ 足利あしかが義満よしみつ嗣、梶井かじい門跡もんぜき
嘉吉よしきち2(1442)ねん6がつ17にち こう花園はなぞの ぞううん 近衞このえぼう嗣子しし嗣、實相院じっそういん門跡もんぜき
ぶん安元やすもと(1444)ねん4がつ26にち こう花園はなぞの みなもと幸子さちこじきせいもんいん 庭田にわたけいゆうおんな伏見ふしみみやさだなり親王しんのう妻室さいしつ

こう花園天皇はなぞのてんのう生母せいぼ

ぶんやす5(1448)ねん院号いんごう宣下せんげ
ぶんやす5(1448)ねん12月26にち こう花園はなぞの 義賢よしかた 足利あしかがみつるかい嗣、三宝さんぼういん門跡もんぜき
たから徳元とくもと(1449)ねん9がつ26にち こう花園はなぞの ゆういむ 一條いちじょうけい嗣子しし嗣、ずいしんいん門跡もんぜき
とおるとく2(1453)ねん6がつ26にち こう花園はなぞの 一條いちじょう兼良かねら 一條いちじょうけい嗣子しし嗣、ぜん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん
とおるとく2(1453)ねん9がつ10日とおか こう花園はなぞの うけたまわみち法親王ほうしんのう てらみやたいらおう王子おうじ仁和寺にわじ御室おむろ
長禄ちょうろく4(1460)ねん6がつ5にち追贈ついぞう こう花園はなぞの りょう 一條いちじょうけい嗣子しし嗣、曼殊まんしゅいん門跡もんぜき
時期じき不明ふめい ? せいさとし入道にゅうどう親王しんのう[3] てらみや邦康くにやす親王しんのう王子おうじ仁和寺にわじ御室おむろ 《诸门迹谱》うえゆうじゅん三后さんこうてき注解ちゅうかい
ひろしせい5(1464)ねん11月28にち こう土御門つちみかど 足利あしかが義政よしまさ 足利あしかが義教よしのり嗣、室町むろまち幕府ばくふはちだい将軍しょうぐん
ひろしせい6(1465)ねん12月7にち こう土御門つちみかど みちきょう 近衞このえぼう嗣子しし嗣、聖護院しょうごいん門跡もんぜき
文明ぶんめいもと(1469)ねん こう土御門つちみかど けいさとし 衣笠きぬがさけい平子ひらこ嗣、大乗だいじょういん門跡もんぜき
文明ぶんめい2(1470)ねん こう土御門つちみかど みことおう 二條持基子嗣、あおれんいん門跡もんぜき
文明ぶんめい3(1471)ねんうるう8がつ10日とおか こう土御門つちみかど 藤原ふじわら信子のぶこよしみらくもんいん 藤原ふじわらたかし長女ちょうじょ大炊おおい御門みかどしんむね養女ようじょこう花園天皇はなぞのてんのう後宮こうきゅうこう土御門天皇つちみかどてんのう生母せいぼ 文明ぶんめい13(1481)ねん院号いんごう宣下せんげ
文明ぶんめい6(1474)ねん10がつ5にち こう土御門つちみかど せいふか 鷹司たかつかさぼう平子ひらこ嗣、大覚寺だいかくじ門跡もんぜき
文明ぶんめい8(1476)ねん4がつ28にち こう土御門つちみかど きょうさとし 徳大寺とくだいじみのる盛子もりこ嗣、妙法みょうほういん門跡もんぜき
文明ぶんめい13(1481)ねん11月23にち こう土御門つちみかど いむたから 一條いちじょう兼良かねら嗣、ずいしんいん門跡もんぜき
ちょうとおる3(1489)ねん4がつ5にち こう土御門つちみかど 二條にじょうどおり 二條持基子嗣、ぜん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん
延徳えんとく2(1490)ねん7がつ5にち こう土御門つちみかど 足利あしかが義視よしみ 足利あしかが義教よしのり嗣、ぜん大納言だいなごん
延徳えんとく3(1491)ねん11月28にち こう土御門つちみかど 九條くじょうまさしもと 九條くじょうみつる教子きょうこ嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
あかりおうもと(1492)ねん7がつ20日はつか こう土御門つちみかど みなもと朝子あさこ 庭田にわたちょう賢女けんじょこう土御門天皇つちみかどてんのう典侍てんじ

こう柏原かしわばら天皇てんのう生母せいぼ

あかりおう6(1497)ねん4がつ16にち こう土御門つちみかど 近衞このえまさし 近衞このえぼう嗣子しし嗣、ぜん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん
えいただし15(1518)ねん12月28にち こう柏原かしわばら せいもり 二條にじょうまさし嗣子しし嗣、大覚寺だいかくじ門跡もんぜき
えいただし16(1519)ねん10がつ10日とおか こう柏原かしわばら 近衞このえしょうどおり 近衞このえまさし家子いえこ嗣、ぜん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん
時期じき不明ふめい ? ちゅうげん 九條くじょうまさし忠子ただこ嗣、ずいしんいん門跡もんぜき
だいなが6(1526)ねん5がつ20日はつか こう奈良なら 藤原ふじわら藤子とうこ豐樂ほうらくもんいん 勸修寺かんしゅうじきょうしゅうおんなこう柏原かしわばら天皇てんのう典侍てんじ

こう奈良なら天皇てんのう生母せいぼ

天文てんもん4(1535)ねん院号いんごう宣下せんげ
天文てんもん2(1533)ねん2がつ5にち こう奈良なら じょういんぼう 二條にじょうしょう基子もとこ嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
天文てんもん4(1535)ねん12月4にち こう奈良なら 近衞このえしょく 近衞このえしょう通子みちこ嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
天文てんもん8(1539)ねん4がつ14にち こう奈良なら よししゅんぜん 近衞このえしょう通子みちこ嗣、大覚寺だいかくじ門跡もんぜき
天文てんもん10(1541)ねん5がつ13にち こう奈良なら みちぞう 近衞このえしょう通子みちこ嗣、聖護院しょうごいん門跡もんぜき
天文てんもん11(1542)ねん1がつ7にち こう奈良なら 鷹司たかつかさけん 鷹司たかつかさ政平まさへい嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
天文てんもん20(1551)ねん9がつ3にち こう奈良なら 一條いちじょうぼうどおり 一條いちじょう冬良ふゆら嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
弘治こうじ3(1557)ねん8がつ28にち こう奈良なら さとしじょ こう奈良なら天皇てんのう皇子おうじ曼殊まんしゅいん門跡もんぜき
えいろく9(1566)ねん12月24にち 正親町おおぎまち じょうはれりょう じょういん房子ふさこ嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
もとかめ2(1571)ねん11がつ10日とおか 正親町おおぎまち ひじりしん 一條房通子嗣、勸修寺かんしゅうじ門跡もんぜき
天正てんしょう6(1578)ねん1がつ20日はつか 正親町おおぎまち 近衞このえぜんひさ 近衞このえしょく家子いえこ嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
天正てんしょう9(1581)ねん追贈ついぞう 正親町おおぎまち 藤原ふじわら房子ふさこ 萬里小路まりこうじしゅうぼうおんな正親町おおぎまち天皇てんのう典侍てんじ

陽光ようこういんまことじん親王しんのう生母せいぼ

時期じき不明ふめい ? みちきよし 近衞このえしょく家子いえこ嗣、聖護院しょうごいん門跡もんぜき
天正てんしょう13(1585)ねん7がつ12にち 正親町おおぎまち えんじ じょうはれ良子りょうこ嗣、三宝さんぼういん門跡もんぜき
天正てんしょう14(1586)ねん11月13にち こう陽成ようぜい ひかり 本願寺ほんがんじしょう如子嗣、本願寺ほんがんじ11せい
天正てんしょう14(1586)ねん11月20にち こう陽成ようぜい 藤原ふじわら晴子はるこしん上東門院じょうとうもんいん 勸修寺かんしゅうじはれみぎおんな陽光ようこういんまことじん親王しんのう

こう陽成ようぜい天皇てんのう生母せいぼ

慶長けいちょう5(1600)ねん院号いんごう宣下せんげ
天正てんしょう16(1588)ねん1がつ13にち こう陽成ようぜい 足利あしかが義昭よしあき 足利あしかが義晴よしはる嗣、室町むろまち幕府ばくふじゅうだい将軍しょうぐん
天正てんしょう16(1588)ねん2がつ18にち こう陽成ようぜい 九條くじょうけんこう じょうはれ良子りょうこ嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
慶長けいちょう3(1598)ねん7がつ16にち こう陽成ようぜい みことぜい 近衞このえぜん久子ひさこ嗣、一乘院いちじょういん門跡もんぜき
慶長けいちょう10(1605)ねん8がつ24にち こう陽成ようぜい 二條にじょうあきら じょうはれ良子りょうこ嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
慶長けいちょう10(1605)ねん8がつ28にち こう陽成ようぜい 近衞このえしんいん 近衞このえぜん久子ひさこ嗣、関白かんぱくぜん左大臣さだいじん
元和がんわ6(1620)ねん6がつ2にち こう水尾みずお 藤原ふじわらぜん中和ちゅうわもんいん 近衞このえぜん久女ひさじょ豊臣とよとみ秀吉ひでよし養女ようじょこう陽成ようぜい天皇てんのう女御にょうご後水尾天皇ごみずのおてんのう生母せいぼ 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
寛永かんえい6(1629)ねん10がつ29にち こう水尾みずお 清子きよこ内親王ないしんのう こう陽成ようぜい天皇てんのう皇女おうじょ鷹司たかつかさしんなお妻室さいしつ 降嫁こうかぼつゆう記載きさいざい实录
うけたまわおう3(1654)ねん8がつ18にち 後光ごこうあきら 藤原ふじわら光子みつこ壬生みぶいん えんもとにんおんな後水尾天皇ごみずのおてんのう後宮こうきゅう

こう光明こうみょう天皇てんのう生母せいぼ

同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
のべたから5(1677)ねん7がつ5にち れいもと 藤原ふじわら國子くにこしん廣義こうぎもんいん えん基音きおんおんな後水尾天皇ごみずのおてんのう後宮こうきゅう

れいもと天皇てんのう生母せいぼ

同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
天和てんわ2(1682)ねん12月7にち れいもと 藤原ふじわら房子ふさこしん上西かみにしもんいん 鷹司たかつかさきょうひらおんなれいもと天皇てんのう皇后こうごう 天和てんわ3(1683)ねん立后りっこう

貞享ていきょう4(1687)ねん院号いんごう宣下せんげ

貞享ていきょう2(1685)ねん5がつ17にち れいもと 藤原ふじわら隆子たかこ(逢春もんいん 櫛笥くしげたかし致女、後水尾天皇ごみずのおてんのうてのひらさむらい

こう西にし天皇てんのう生母せいぼ

同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
元禄げんろく2(1689)ねん1がつ29にち 東山ひがしやま 藤原ふじわら宗子むねこけい法門ほうもんいん 松木まつきはじめじょうおんなれいもと天皇てんのう典侍てんじ

東山ひがしやま天皇てんのう生母せいぼ

せい徳元とくもと(1711)ねん院号いんごう宣下せんげ
元禄げんろく5(1692)ねん6がつ11にち 東山ひがしやま 公海こうかい 花山院かさんのいんただし長子ちょうし嗣、王寺おうじ門跡もんぜき
宝永ほうえい4(1707)ねん5がつ3にち 東山ひがしやま 幸子こうじ女王じょおううけたまわあきもんいん 有栖川ありすがわみや幸仁ゆきひとしん王女おうじょ東山ひがしやま天皇てんのう皇后こうごう 宝永ほうえい5(1708)ねん立后りっこう

宝永ほうえい7(1710)ねん院号いんごう宣下せんげ

宝永ほうえい4(1707)ねん11月6にち 東山ひがしやま おおやけべん法親王ほうしんのう こう西にし天皇てんのう皇子おうじはなわ王寺おうじみや
宝永ほうえい7(1710)ねん3がつ26にち追贈ついぞう 中御門なかみかど 藤原ふじわら賀子かこあたらしたかしけんもんいん 櫛笥くしげたかしおんな東山ひがしやま天皇てんのう典侍てんじ

中御門天皇なかみかどてんのう生母せいぼ

同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
とおる5(1720)ねん1がつ20日はつか 中御門なかみかど 藤原ふじわら尚子しょうこしん中和ちゅうわもんいん 近衞このえひろしおんな中御門天皇なかみかどてんのう女御にょうご

さくらまち天皇てんのう生母せいぼ

同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
とおる10(1725)ねん6がつ26にち 中御門なかみかど 孝子こうし内親王ないしんのうれいなりもんいん こう光明こうみょう天皇てんのう皇女おうじょ 同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
とおる10(1725)ねん12月21にち 中御門なかみかど 近衞このえひろし 近衞このえはじめ煕子ひろこ嗣、ぜん摄政太政大臣だじょうだいじん
とおる16(1731)ねん8がつ27にち 中御門なかみかど おおやけひろし入道にゅうどう親王しんのう 東山ひがしやま天皇てんのう皇子おうじはなわ王寺おうじみや
もとぶん2(1737)ねん8がつ16にち さくらまち 近衞このえ家久いえひさ 近衞このえ煕子ひろこ嗣、ぜん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん
もとぶん5(1740)ねん5がつ27にち さくらまち 藤原ふじわらしゃあおあやぎぬもんいん じょうよしただしおんなさくらまち天皇てんのう女御にょうご

こうさくらまち天皇てんのう生母せいぼ

のべとおる4(1747)ねん皇太后こうたいごう宣下せんげ

寛延かんえい3(1750)ねん院号いんごう宣下せんげ

寛延かんえい2(1749)ねん7がつ13にち 桃園ももぞの おおやけ入道にゅうどう親王しんのう 中御門天皇なかみかどてんのう皇子おうじはなわ王寺おうじみや
寛延かんえい4(1751)ねん7がつ29にち 桃園ももぞの 一條いちじょうけんこう 一條いちじょうけん輝子てるこ嗣、ぜん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん
たかられき9(1759)ねん3がつ21にち 桃園ももぞの 藤原ふじわら富子とみこきょうれいもんいん 一條いちじょうけんこうおんな桃園ももぞの天皇てんのう女御にょうご

こう桃園ももぞの天皇てんのう生母せいぼ

明和めいわ8(1771)ねん皇太后こうたいごう宣下せんげ院号いんごう宣下せんげ
明和めいわ6(1769)ねん8がつ2にち追贈ついぞう こうさくらまち じょうよしただし 二條にじょうつな平子ひらこ嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
明和めいわ6(1769)ねん9がつ4にち こうさくらまち 一條いちじょうみち 一條いちじょうけん香子きょうこ嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
安永やすなが6(1777)ねん12月18にち こう桃園ももぞの 近衞このえないまえ 近衞このえ家久いえひさ嗣、関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん
安永やすなが8(1779)ねん6がつ3にち こう桃園ももぞの 藤原ふじわら維子もりもんいん 近衞このえないぜんおんなこう桃園ももぞの天皇てんのう女御にょうご 安永やすなが10(1781)ねん皇太后こうたいごう宣下せんげ

天明てんめい3(1783)ねん院号いんごう宣下せんげ

天明てんめい7(1787)ねん9がつ18にち ひかりかく 九條くじょうしょう 九條輔實子嗣、ぜん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん
天明てんめい8(1788)ねん4がつ7にち ひかりかく ちゅうほまれ入道にゅうどう親王しんのう 中御門天皇なかみかどてんのう皇子おうじ聖護院しょうごいん門跡もんぜき
寛政かんせい5(1793)ねん12月24にち ひかりかく 欣子きんこ内親王ないしんのうしん清和院せいわいん こう桃園ももぞの天皇てんのう皇女おうじょひかりかく天皇てんのう皇后こうごう

仁孝天皇にんこうてんのう養母ようぼ

寛政かんせい6(1794)ねん立后りっこう

天保てんぽう12(1841)ねん院号いんごう宣下せんげ

文化ぶんか5(1808)ねん7がつ2にち ひかりかく えいこう女王じょおう 中御門天皇なかみかどてんのう皇女おうじょ大聖寺だいしょうじ門跡もんぜき 尼僧にそう授准三宮さんぐうただいちれい

逝世きさき宣下せんげただしつい

文化ぶんか12(1815)ねん2がつ17にち ひかりかく 鷹司たかつかさまさし 鷹司たかつかさ輔平嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
文化ぶんか13(1816)ねんうるう8がつ13にち ひかりかく とうと入道にゅうどう親王しんのう 伏見ふしみみやさだけん親王しんのう王子おうじあおれんいん門跡もんぜき
文政ぶんせい3(1820)ねん12月26にち 仁孝にんこう 藤原ふじわらつなぎしんすめらぎ嘉門かもんいん 鷹司たかつかさまさし熈女、仁孝天皇にんこうてんのう女御にょうご 文政ぶんせい6(1823)ねん院号いんごう宣下せんげ
文政ぶんせい11(1828)ねん9がつ25にち 仁孝にんこう 一條いちじょう忠良ただよし 一條いちじょうあきら良子りょうこ嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん
文政ぶんせい11(1828)ねん10がつ28にち 仁孝にんこう しゅんじん入道にゅうどう親王しんのうおおやけ猷親おう 有栖川ありすがわみやじん親王しんのう王子おうじはなわ王寺おうじみや
文政ぶんせい13(1830)ねん5がつ22にち 仁孝にんこう 藤原ふじわら祺子しんついたちひらもんいん 鷹司たかつかさまさし熈女、鷹司たかつかさまさしどおり養女ようじょ仁孝天皇にんこうてんのう女御にょうご孝明天皇こうめいてんのう養母ようぼ ひろし4(1847)ねん皇太后こうたいごう宣下せんげ院号いんごう宣下せんげ
文政ぶんせい13(1830)ねん11月21にち 仁孝にんこう みつるじん入道にゅうどう親王しんのう 閑院みやのりじん親王しんのう王子おうじ聖護院しょうごいん門跡もんぜき 逝世きさき宣下せんげただしつい
天保てんぽう5(1834)ねん3がつ16にち 仁孝にんこう こうえんじ 鷹司たかつかさ輔平嗣、三宝さんぼういん門跡もんぜき
天保てんぽう15(1844)ねん2がつ13にち追贈ついぞう 仁孝にんこう 藤原ふじわら婧子東京とうきょうきょくいん 勸修寺かんしゅうじけいいっおんなひかりかく天皇てんのう典侍てんじ

仁孝天皇にんこうてんのう生母せいぼ

同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
よしみなが3(1850)ねん2がつ27にち 孝明たかあき 藤原ふじわら雅子まさこしんまちけんもんいん 正親町おおぎまちみのるこうおんな仁孝天皇にんこうてんのう典侍てんじ

孝明天皇こうめいてんのう生母せいぼ

同日どうじつ院号いんごう宣下せんげ
よしみなが6(1853)ねん5がつ7にち 孝明たかあき 藤原ふじわら夙子えいあきら皇太后こうたいごう 九條くじょうしょうちゅうおんな孝明天皇こうめいてんのう女御にょうご

明治天皇めいじてんのう嫡母ちゃくぼ

慶應けいおう4(1868)ねん皇太后こうたいごう宣下せんげ
安政あんせい2(1855)ねん3がつ27にち 孝明たかあき あきらふか 近衞このえけい煕子ひろこ嗣、大覚寺だいかくじ門跡もんぜき
安政あんせい3(1856)ねん8がつ8にち 孝明たかあき 鷹司たかつかさまさしどおり 鷹司たかつかさまさし熈子嗣、ぜん関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん
文久ぶんきゅう2(1862)ねん5がつ22にち 孝明たかあき 慈性入道にゅうどう親王しんのう 有栖川ありすがわみや韶仁親王しんのう王子おうじはなわ王寺おうじみや
文久ぶんきゅう3(1863)ねん10がつ28にち 孝明たかあき ぞうまもる 二條にじょうおさむ孝子こうし嗣、ずいしんいん門跡もんぜき
慶應けいおう2(1866)ねん4がつ22にち 孝明たかあき 淑子としこ内親王ないしんのうかつらみや 仁孝天皇にんこうてんのう皇女おうじょかつら宮家みやけ継承けいしょう
明治めいじもと(1868)ねん9がつ18にち 明治めいじ 九條くじょうしょうただし 二條にじょうおさむ孝子こうし嗣、ぜん関白かんぱく左大臣さだいじん

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 日本にっぽんさんだい實錄じつろく. [2010-12-13]. (原始げんし内容ないようそん于2009-03-10). 
  2. ^ 日本にっぽんていまなぶ稼著,黎明れいめい文化ぶんか臺北たいぺいみん66)
  3. ^ 3.0 3.1 3.2 しょりょう紀要きようだい36ごう じゅんさんみやについて―その沿革えんかく中心ちゅうしんとして―/樫山かしやま和民かずたみ (宮内庁くないちょうしょりょう/1984)
  • 天皇てんのう皇族こうぞく實録じつろく 1-136 (ゆまに書房しょぼう/2005-2019)
  • よん親王しんのう實録じつろく  (ゆまに書房しょぼう)
  • 国史こくし大系たいけい 公卿くぎょう補任ほにん前編ぜんぺん (経済けいざい雑誌ざっししゃ/1899)
  • ぐんしょ類従るいじゅう だいよんしょ門跡もんぜき/仁和寺にわじつて (経済けいざい雑誌ざっししゃ/1898)
  • 史料しりょう大成たいせい 17 へいはんさん (内外ないがい書籍しょせき/1936)
  • 系圖けいず綜覧そうらん だいいち (国書刊行会こくしょかんこうかい/1915)
  • しんおさむ有栖川ありすがわみや系譜けいふ : 高松宮たかまつのみや藏版ぞうはん [国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション]
  • 近代きんだい帝王ていおう系譜けいふ [国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション]
  • きゅうじょう [東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょデータベース]
  • 一条いちじょう [東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょデータベース]

まいり

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