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足利あしかが義昭よしあき

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足利あしかが義昭よしあき
足利あしかが義昭よしあき坐像ざぞう等持院とうじいん靈光れいこう殿どのぞう
室町むろまち幕府ばくふだい15だい征夷大將軍せいいたいしょうぐん
任期にんき
1568ねん11月7にち—1588ねん2がつ9にち[1]
前任ぜんにん足利あしかが義榮よしひで
继任幕府ばくふにち幕府ばくふ[2]
个人资料
出生しゅっしょう(1537-12-15)1537ねん12月15にち
天文てんもんろくねんじゅういちがつじゅうさんにち
逝世1597ねん10がつ9にち(1597さい—10—09)(59さい
慶長けいちょうねんはちがつじゅうきゅうにち
日本にっぽん攝津せっつこくだい坂城さかきいま大阪おおさか大阪おおさか中央ちゅうおう大阪城公園おおさかじょうこうえん
時代じだい室町むろまち時代ときよ末期まっき戰國せんごく時代じだい)-安土あづち桃山ももやま時代じだい
改名かいめい千歳ちとせまるさとしけい法名ほうみょう)→足利あしかが義秋よしあき足利あしかが義昭よしあきあきら山道さんどうきゅう
戒名かいみょうれいいんあきら山道さんどうきゅう
墓所はかしょ京都きょうと京都きょうときた等持院とうじいん
朝廷ちょうてい官位かんいしたがえひだり馬頭めず參議さんぎひだり近衛このえ中將ちゅうじょう
征夷大將軍せいいたいしょうぐんしたがえさんけん大納言だいなごんじゅん三后さんこう
氏族しぞく足利あしかが將軍家しょうぐんけにち足利あしかが将軍家しょうぐんけ
ちち足利あしかが義晴よしはる
ははけいことぶきいん近衛このえしょうどおりこれおんな
養父ようふなおちち近衛このえ稙家
あに義輝よしてる
おとうとしゅう
側室そくしつさこのかた赤松あかまつ政秀まさひでこれおんな織田おだ信長のぶなが養女ようじょ)、しょう宰相さいしょうきょく大河内おおこうち)、いち對局たいきょく春日局かすがのつぼね大藏卿局おおくらきょうのつぼねしょう少將しょうしょうきょく
ひろ一色いっしきよしたかし?、永山ながやまよしざい?、矢島やじま秀行ひでゆき
養子ようし猶子ゆうしえんじじょうはれりょういき三宝さんぼういん門跡もんぜき
花押かおう足利義昭的花押

足利あしかが義昭よしあきにち语:足利あしかが 義昭よしあきあしかが よしあき Ashikaga Yoshiaki,1537ねん12月5にち—1597ねん10がつ9にちこれ日本にっぽん足利あしかが幕府ばくふ末代まつだい將軍しょうぐん前任ぜんにん將軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるこれおとうとねんかるとき曾遁いれそらもん法號ほうごうさとしけい足利あしかが義輝よしてる叛臣弒殺细川藤孝ふじたかとう擁立ようりつため將軍しょうぐん還俗げんぞく改名かいめい義秋よしあきこう改名かいめい義昭よしあき足利あしかが義昭よしあき曾經りゅう落於みなみ近江おうみてき六角ろっかく義賢よしかた若狹わかさてき武田たけだ義統よしむねあずか越前えちぜんてき朝倉あさくら義景よしかげひとし大名だいみょうしょあいもとめ幫助復興ふっこう室町むろまち幕府ばくふただしぼつゆう成功せいこう,而且蔑稱べっしょうため貧乏びんぼう公方くぼう」。後來こうらいざいざい尾張おわりてき織田おだ信長のぶなが幫助こう而得於1568ねん上洛じょうらく而正しきなりため室町むろまち幕府ばくふだいじゅうだい征夷大將軍せいいたいしょうぐん[3]

ただしのち織田おだ信長のぶなが便びん擅自擴大かくだい權力けんりょくなみげんせい足利あしかが義昭よしあきてき行動こうどう足利あしかが義昭よしあき便びんあずか甲斐かいてき武田たけだ信玄しんげん安藝あきてき毛利もうり元就もとなり越後えちごてき上杉うえすぎ謙信けんしん越前えちぜんてき朝倉あさくら義景よしかげきた近江おうみてき淺井あさい長政ながまさ攝津せっつ大坂おおさかてき本願寺ほんがんじ顯如けんにょとう大名だいみょう聯合れんごうはんせい織田おだ信長のぶなが形成けいせいはりたい織田おだ信長のぶながてき信長のぶなが包圍ほういもう;1573ねん叛臣織田おだ信長のぶなが信長のぶなが1559ねん出仕しゅっし室町むろまち幕府ばくふりつぐんはた足利あしかが義昭よしあき驅逐くちく京都きょうとなみ放逐ほうちくいたかわ三好みよし義繼よしつぎ居城きょじょう若江わかえじょう室町むろまち幕府ばくふいん反抗はんこう信長のぶなが而毀めつ

足利あしかが義昭よしあき信長のぶなが趕出京都きょうとただしてき將軍しょうぐんてき官位かんいなみ真正しんせい解除かいじょながれてき義昭よしあきぜん往投奔安藝あきてき毛利もうり輝元てるもと建立こんりゅう幕府ばくふにち幕府ばくふ,以将军身份继续进ぎょう统治。これなげもたれ羽柴はしば秀吉ひでよし平民へいみん出身しゅっしんてき羽柴はしば秀吉ひでよし曾經要求ようきゅうなりため足利あしかが義昭よしあき養子ようし,以便取得しゅとく武家ぶけ建立こんりゅう幕府ばくふ政權せいけんただし足利あしかが義昭よしあき拒絕きょぜつ(此历记载于《丰臣秀吉ひでよし谱》,实性ひさし确认)。1588ねん義昭よしあき出家しゅっけ辭去じきょ征夷大將軍せいいたいしょうぐんいちしょくじゅんさんみや宣下せんげ足利あしかが義昭よしあき於1597ねん逝世。

生平おいだいら[编辑]

將軍しょうぐんみち[编辑]

足利あしかが義昭よしあき室町むろまち幕府ばくふてきだい12だい將軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるてき次子じし,其母親ははおや近衛このえしょうどおりてき女兒じょじけいことぶきいん也是だい13だい將軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるてき同胞どうほうおとうとおとうと足利あしかが義昭よしあき出生しゅっしょう外祖父がいそふ近衛このえしょうどおりおさむため猶子ゆうし;而兄ちょう義輝よしてるやめたてため嗣子しし根據こんきょ當時とうじ足利あしかが將軍家しょうぐんけてき慣例かんれいのう獲得かくとく嗣子しし地位ちいてき將軍しょうぐん之子ゆきこよう出家しゅっけいん此被おくにゅう佛門ぶつもん進入しんにゅう興福寺こうふくじてき一乘院いちじょういん法名ほうみょうさとしけい

さとしけい法師ほうしざい興福寺こうふくじ擔任たんにんけんしょう僧都そうずてき高級こうきゅう官職かんしょく本來ほんらい一生應該是在擔任高級僧官中度過的。ただしざい1565ねんえい祿ろく8ねん發生はっせいりょうえい祿ろくへんだい13だい將軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてるれんどう其母けいことぶきいん一起かずき松永まつなが久秀ひさひで三好みよしさんにん弑殺;擔任たんにん鹿しかえんいん院主いんじゅてきおとうとおとうとしゅう也被久秀ひさひでさそえころせよし於害怕殺害さつがいさとしけいかい引發興福こうふく寺僧じそう眾的敵對てきたい情緒じょうちょ松永まつなが久秀ひさひでぼつゆうりつこく殺害さつがいさとしけい,而是はた其暫監禁かんきんざい興福寺こうふくじただし久忠ひさただ足利あしかが義輝よしてるてき一色いっしょくふじちょう和田わだ惟政これまさ仁木にき義政よしまささんふちふじすぐる細川ほそかわ藤孝ふじたか,以及大覺寺だいかくじ門跡もんぜきよししゅん近衛このえしょうどおり之子ゆきことう幫助さとしけい逃出りょうかんろう

ざい此期あいだてき文書ぶんしょちゅうさとしけいしょうさく將軍家しょうぐんけてき當主とうしゅ」、「矢島やじまてき武家ぶけ御所ごしょとう。1566ねん4がつ21にち敘為したがえひだり馬頭めずてき官位かんい經過けいか奈良なら木津川きづがわ逃到伊賀いが伊賀いがこくてき守護しゅご將軍しょうぐんてき近臣きんしん仁木にき義政よしまさ,該國國人くにびと服部はっとり後來こうらい追隨ついずい義昭よしあき),通過つうかみなみ近江おうみてき六角ろっかく義賢よしかたてき許可きょかざい暫時ざんじ居住きょじゅうざいりょう甲賀こうがぐんてき和田わだしろ和田わだ惟政これまさてき居城きょじょう伊賀いがかず近江おうみ交界しょ)。

さとしけいためし恢復かいふく衰弱すいじゃく不堪ふかんてき足利あしかが將軍家しょうぐんけてき實權じっけんえい祿ろく9ねん(1566ねん)2がつ17にちさとしけい還俗げんぞく改名かいめい足利あしかが義秋よしあきざい和田わだ惟政これまさ甲賀こうが住人じゅうにん仁木にき義政よしまさ伊賀いが住人じゅうにんてき斡旋あっせん六角ろっかく義賢よしかた義治よしはる父子ふし同意どういゆずる足利あしかが義秋よしあき野洲やすぐん矢島やじまむらいま守山もりやま矢島やじままちため住所じゅうしょ

居住きょじゅうざい矢島やじま御所ごしょてき足利あしかが義秋よしあき積極せっきょくどう管領かんりょうはたけ山高やまたかまさし關東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ輝虎てるとら能登のと守護しゅご畠山はたけやまよしつな居住きょじゅうざい近江おうみ滋賀しがぐん取得しゅとく聯絡れんらく希望きぼういた支持しじかわ內國まと畠山はたけやまだかせい積極せっきょく支持しじ義秋よしあき,其弟おとうと秋高あきだか表示ひょうじ支持しじ得知とくち此事三好みよしさんにんりつ3000襲擊しゅうげきりょう矢島やじま御所ごしょ大草おおくさひとし奉公ほうこう將軍しょうぐん親衛隊しんえいたいよく奮戰ふんせん擊退げきたいりょう襲擊しゅうげきただし義秋よしあき發現はつげん自己じこため心腹しんぷくてきみなみ近江おうみ國主こくしゅ六角ろっかく義治よしはる暗中あんちゅう與三よそうこうさんにん眾勾ゆい義秋よしあきただざい8がつまえ若狹わかさとうもたれ武田たけだ義統よしむね,。ただし當時とうじ若狹わかさ武田たけだせいしょ於家とく爭奪そうだつ重臣じゅうしん謀反ぼうほんてき內亂ちゅう無力むりょく支援しえん義秋よしあき上洛じょうらく武田たけだ義統よしむね僅派りょうおとうとおとうと武田たけだ信景さだかげぜん往幫じょ義秋よしあき足利あしかが義秋よしあきただぜん越前えちぜんあいもとむ朝倉あさくら義景よしかげ仁木にき義政よしまさてき親族しんぞく出兵しゅっぺい上洛じょうらく足利あしかが義秋よしあき上奏じょうそう朝廷ちょうていはた義景よしかげてき母親ははおやふうためしたがえ官位かんいただし義景よしかげただゆうたい足利あしかが將軍家しょうぐんけてき連枝れんしくらたに公方くぼう足利あしかが嗣知足利あしかが義嗣よしつぐてき子孫しそん)扶上將軍しょうぐんくらいゆう興趣きょうしゅたい還俗げんぞくてき義秋よしあきてん興趣きょうしゅ也沒ゆう足利あしかが義秋よしあき長期ちょうき滯留たいりゅう越前えちぜん上野うえの清延きよのぶ大館おおだてはれただしとう幕府ばくふ遺臣いしん紛紛ふんぷんぜん往越ぜんさん將軍しょうぐん

えい祿ろく11ねん(1568ねん)4がつ15にち足利あしかが義秋よしあきざい越前えちぜん舉行元服げんぷくれいゆかり朝倉あさくら義景よしかげ擔任たんにん加冠かかんやく同時どうじよし於「あき吉利よしとし改名かいめい義昭よしあき在朝ざいちょうくら重臣じゅうしん明智あけち光秀みつひでてきかい紹下,ぜん尾張おわり請求せいきゅう管領かんりょう斯波しばてき有力ゆうりょく家臣かしん織田おだ信長のぶながてき幫助。

再興さいこう幕府ばくふ[编辑]

足利あしかが義昭よしあき木像もくぞう等持院とうじいんくら

えい祿ろく11ねん(1568ねん)9がつ織田おだ信長のぶなが擁護ようご足利あしかが義昭よしあき上洛じょうらく途中とちゅうまた受到きた近江おうみ淺井あさいてき支持しじざい織田おだ信長のぶなが淺井あさい長政ながまさとう警護けいご進軍しんぐん京都きょうとざい途中とちゅう受到みなみ近江おうみろくかく六角ろっかく義賢よしかた六角ろっかく義治よしはる父子ふしてき阻礙,ただしよしろくかく不敵ふてき織田おだまとぐんりょく而向伊賀いが撤退てったい觀音寺かんおんじじょうたたかえ),ざい父親ちちおや足利あしかが義晴よしはるところけんてき桑實寺そうじつでらちゅう紮,じゅん到達とうたつ京都きょうと三好みよしさんにん退出たいしゅつ京都きょうと。10月18にち朝廷ちょうていふう足利あしかが義昭よしあきため征夷大將軍せいいたいしょうぐん同時どうじしたがえよん參議さんぎけんひだり近衛このえけん中將ちゅうじょうてき官位かんい

就任しゅうにん將軍しょうぐんてき義昭よしあきれいはたたい弒殺けい長義ながよしてるたて容態ようだい、慫恿天皇てんのうはたふう足利あしかが義榮よしひでため將軍しょうぐんてき近衛このえぜんひさながれなみゆずるじょうはれりょうふくにん關白かんぱくこれしょく義昭よしあきまたはた自己じこてきへんいみな授予管領かんりょう細川ほそかわあきらもと畠山はたけやまあきらだか,以及關白かんぱくてき二條にじょうあきらためし鞏固きょうこ自己じこてき統治とうち掌握しょうあくりょうけい長義ながよしてるしょようゆうてき山城やましろこく御料ごりょうしょ同時どうじざい山城やましろこく設置せっち守護しゅごれいさんふちふじすぐるよりどころもり伏見ふしみじょうざい政務せいむじょう義昭よしあきどうあに長義ながよし輝一きいちさま任命にんめい攝津せっつはれもんため政所まんどころ執事しつじ任命にんめい飯尾いいおあきられん松田まつだふじひろしひとしため奉公ほうこう再開さいかい幕政ばくせいこれぜんいんはん叛兄ちょう義輝よしてる而被めつてき伊勢いせ,其末裔まつえい伊勢いせさだきょう義昭よしあき允許いんきょふく任官にんかんしょく

當時とうじ足利あしかが義昭よしあき暫時ざんじ山城やましろこく本圀寺ほんごくじ於今京都きょうと京都きょうと山科やましなため居住きょじゅうえい祿ろく12ねん(1569ねん正月しょうがつとう信長のぶながりつぐんかえしかい美濃みの尾張おわりとき三好みよしさんにん趁機はんなぐ,突襲本圀寺ほんごくじ本圀寺ほんごくじへん)。奉公ほうこう眾和明智あけち光秀みつひでところりつてき織田おだぐん奮勇抵抗ていこうきた近江おうみてき淺井あさい長政ながまさ以及攝津せっつてき池田いけだ勝正かつまさ和田わだ惟政これまさとう奮戰ふんせん擊退げきたいりょう三好みよしさんにん眾的進攻しんこう

這次事件じけん暴露ばくろりょう本圀寺ほんごくじ守備しゅび不足ふそくてき現狀げんじょういん足利あしかが義昭よしあきむかい信長のぶなが請求せいきゅうじゅうたてりょう足利あしかが義輝よしてる建造けんぞうてき烏丸からすま中御門なかみかどだいきゅう二條城にじょうじょう),以之ため將軍しょうぐんていじゅうおさむてき烏丸からすま中御門なかみかどだいしん挖了兩道りょうどうまもるじょうかわなみこぼしおさむだかりょう石垣いしがき增強ぞうきょうりょう防禦ぼうぎょ機能きのうただゆう世代せだい擔任たんにん室町むろまち幕府ばくふ奉公ほうこうてき武士ぶし高級こうきゅう守護しゅご大名だいみょう才能さいのう進入しんにゅう拜見はいけん

あずか信長のぶながてき對立たいりつ[编辑]

槇島まきしまじょう的石まといししるべ

足利あしかが義昭よしあき依據いきょ當初とうしょてき許諾きょだく就任しゅうにん將軍しょうぐんこれざい10がつ24にちきゅう信長のぶながちち織田おだ彈正だんじょうちゅう信長のぶなが殿どのてき尊稱そんしょう,以請求せいきゅう信長のぶながたい幕府ばくふてき支持しじ

信長のぶながはた義昭よしあき扶上將軍しょうぐんくらい義昭よしあきたい其他武將ぶしょう論功行賞ろんこうこうしょう池田いけだ勝正かつまさ任命にんめいため攝津せっつ守護しゅごはたけ山高やまたかまさし三好みよし義繼よしつぎかくふうためかわはんこく守護しゅご

足利あしかが義昭よしあき提出ていしゅつゆずる信長のぶなが擔任たんにん和泉いずみ守護しゅご,甚至管領かんりょうだいふく將軍しょうぐんてき職務しょくむなみ繼承けいしょう斯波しばただし信長のぶなが推辭りょう,僅接受せつじゅ義昭よしあき推舉ため彈正だんじょうちゅう

しか足利あしかが義昭よしあき一心いっしんおもえよう復興ふっこう足利あしかが幕府ばくふ,而信長のぶながのり有用ゆうよう武力ぶりょく統一とういつ天下でんかてき野心やしんいん此兩しゃ最終さいしゅう關係かんけい逐漸惡化あっか信長のぶながためりょうげんせい將軍しょうぐんてき權力けんりょく,於永祿ろく12ねん(1569ねん正月しょうがつ頒佈りょう殿中でんちゅうおきて》9じょう[4]なみ逼迫ひっぱく義昭よしあき承認しょうにん。這使幕府ばくふ將軍しょうぐんてき行動こうどう受到りょう很大てき制約せいやく翌年よくねん正月しょうがつまた追加ついかりょう5じょう信長のぶなが更進こうしん一步限制了幕府的權力。もとかめ元年がんねん(1570ねん)4がつ織田おだ信長のぶなが討伐とうばつ越前えちぜん大名だいみょう朝倉あさくら義景よしかげただし就在此時織田おだてき同盟どうめい淺井あさい長政ながまさはん叛信ちょうしるべ致信ちょう大敗たいはい同年どうねん足利あしかが義昭よしあきあずか織田おだ信長のぶなが一同參加野田福島城之戰,なみざい志賀しか陣中じんちゅうあずか朝廷ちょうてい斡旋あっせん織田おだ信長のぶなが朝倉あさくら義景よしかげてき和談わだん

もとかめ3ねん(1572ねん)10がつ信長のぶながむかい義昭よしあき送達そうたつりょう17じょうせめといじょう批評ひひょうりょう義昭よしあきてきいち些舉措。[5]此時東方とうほうてき武田たけだ信玄しんげんりつへい進軍しんぐん京都きょうと,12月22にちざい三方みかた原之はらのせんちゅうげきはいりょう信長のぶながてき盟友めいゆう三河みかわてき德川とくがわ家康いえやす信長のぶながおちいにゅう窘境。足利あしかが義昭よしあき趁機任命にんめい寵臣ちょうしん山岡やまおかけいとも六角ろっかく義賢よしかたてき重臣じゅうしん以及幕府ばくふてき奉公ほうこうため山城やましろなかば國守くにもりまもる正式せいしきかず信長のぶなが決裂けつれつ翌年よくねん正月しょうがつ信長のぶながよく入質にゅうしち於義あきら以求和解わかいただし遭義あきらてき拒絕きょぜつ足利あしかが義昭よしあきざい近江おうみてき今堅田いまかたたじょう石山いしやまじょうため幕府ばくふぐんてき據點きょてん,舉起反對はんたい信長のぶながてき旗幟きしただし數日すうじつ兩城りょうじょうみなおさむおちい同時どうじ東方とうほう戰線せんせんてき武田たけだ信玄しんげんざい上洛じょうらくまと途中とちゅうびょうじゅう武田たけだぐん於4がつ開始かいし撤回てっかい本國ほんごく甲斐かい,12にち信玄しんげんざい回國かいこくてき途中とちゅうざい信濃しなの駒場こまばびょう逝。

信長のぶながころせにゅう京都きょうとざいおんいん佈開じんぜい幕臣ばくしん細川ほそかわ藤孝ふじたか攝津せっつ豪族ごうぞく荒木あらき村重むらしげとうひと投降とうこう織田おだ信長のぶながただし不知ふちどう武田たけだ信玄しんげんやめけいびょう逝的足利あしかが義昭よしあきかえ蠢的死守ししゅざい自己じこてき居城きょじょう烏丸からすま中御門なかみかどだいそう繼續けいぞく抵抗ていこう信長のぶながさいつぎ提出ていしゅつ和解わかいただし義昭よしあきみとめため信長のぶながぼつ有信ありのぶよう斷然だんぜん拒絕きょぜつ信長のぶながたけしおびえ幕臣ばくしん以及義昭よしあきてき支持しじしゃこえしょうわか投降とうこう自己じこしょうかいおさむ上京じょうきょうなみはた此整地區ちく焚為焦土しょうど同時どうじ包圍ほういりょう義昭よしあきてき居城きょじょう烏丸からすま中御門なかみかどだい。另一方面ほうめん信長のぶながひろもとめ朝廷ちょうていてき支持しじ,4がつ5にちざい正親町おおぎまち天皇てんのう敕命雙方そうほう講和こうわ

ただし足利あしかが義昭よしあき於7がつ3にちせん佈背棄和やくざいさんふちふじすぐる伊勢いせさだきょう以及公家くげ奉公ほうこう眾的護衛ごえい逃往南山城みなみやましろてき要害ようがい槇島まきしましろ山城やましろこくてき守護しゅごしょ)舉兵。槇島まきしまじょうけんざい宇治川うじがわきょむく水系すいけい交叉こうさしょてき島上しまがみ足利あしかが義昭よしあき近臣きんしん木島きしま昭光あきみつてき居城きょじょうため兵家へいか必爭烏丸からすま中御門なかみかどだいてきもりぐん於3にち投降とうこうりょう信長のぶなが信長のぶながりつ7萬大軍包圍了槇島城。7月18にち織田おだぐん開始かいしおさむじょう槇島まきしましろてき建築けんちく破壞はかい足利あしかが義昭よしあき自己じこてきひろため人質ひとじちむかい信長のぶなが乞降。

逐出京都きょうと[编辑]

信長のぶながすすむ足利あしかが義昭よしあき逐出京都きょうとなみはた足利あしかが將軍家しょうぐんけざい山城やましろ丹波たんば近江おうみ若狹わかさとうてき御料ごりょうしょよりどころためおのれゆう信長のぶなが以天下人げにん掌握しょうあく日本にっぽん實權じっけんてきじんはさみ幕府ばくふ將軍しょうぐん天皇てんのう支配しはい京都きょうと周圍しゅういてき地區ちくなみ充當じゅうとう各地かくち大名だいみょう紛爭ふんそうてき調停ちょうていじん放逐ほうちく將軍しょうぐん信長のぶなが保持ほじりょう天下でんか人的じんてき地位ちい[6]現在げんざい日本にっぽんてき歷史れきし教科書きょうかしょ一般認為此時足利あしかが幕府ばくふやめ滅亡めつぼうただし事實じじつじょう根據こんきょ公卿くぎょう補任ほにんてき記載きさい,此後てき義昭よしあき依然いぜん長期ちょうき保持ほじちょ征夷大將軍せいいたいしょうぐんてき官位かんい天正てんしょう元年がんねん8がつそく1573ねんもとかめ4ねん7がつ28にち改元かいげん天正てんしょう),織田おだ信長のぶなが毀滅越前えちぜん朝倉あさくら,9月毀滅きた近江おうみ淺井あさい信長のぶなが包圍ほういもう完全かんぜんくずしかい信長のぶなが於次ねん任命にんめいはなわ直政なおまさため山城やましろ大和やまと守護しゅご鞏固きょうこりょう織田おだざい近畿きんき內的支配しはいけん

足利あしかが義昭よしあき放逐ほうちく退すさ往枇杷莊(いま京都きょうと城陽じょうよう),ざい本願寺ほんがんじ顯如けんにょてきかい紹下,信長のぶなが家臣かしん羽柴はしば秀吉ひでよし護送ごそういたかわ三好みよし義繼よしつぎてき居城きょじょう若江わかえじょう足利あしかが義昭よしあき仍然ざい開設かいせつ幕政ばくせい,以伊勢いせこう一色いっしき上野うえの細川ほそかわ大館おおだて飯尾いいお松田まつだ大草おおくさとう勢力せいりょくため幕府ばくふてき中樞ちゅうすう組成そせいりょう奉公ほうこう奉行ぶぎょうなみ授予近臣きんしん大名だいみょう室町むろまち幕府ばくふちゅうてき官職かんしょく[7]じょりょう近畿きんき周邊しゅうへんてき信長のぶなが勢力せいりょくけん以外いがい北陸ほくりく地方ちほう中國ちゅうごく地方ちほう九州きゅうしゅう地方ちほう),足利あしかが義昭よしあき依然いぜん保持ほじちょながれ以前いぜんてき權力けんりょく,甚至たい京都きょうと五山ごさんてき住持じゅうじかえゆう任命にんめいけんざい信長のぶながあずか三好みよし義繼よしつぎてき關係かんけい惡化あっか義昭よしあき於11がつ5にちうつりいた和泉いずみこくてきさかい足利あしかが義昭よしあき提出ていしゅつようかえしかい京都きょうとただし信長のぶなが提出ていしゅつおく交人ましとしつてき條件じょうけん最終さいしゅう交涉こうしょう破裂はれつ

1574ねんうつり紀伊きいこく興國寺こうこくじまたうつりはくじょう當時とうじ紀伊きい國是こくぜ管領かんりょう畠山はたけやまてき領地りょうち,值得いちひさげてきはたけ山高やまたかまさしてき重臣じゅうしん湯川ゆかわただしはるてき勢力せいりょくざい當時とうじ很強だいちょくはるてき父親ちちおや湯川ゆかわ直光なおみつ擔任たんにんかわ守護しゅごだいいちしょく

1576ねん天正てんしょう4ねん),足利あしかが義昭よしあきうつりいた毛利もうり輝元てるもと領地りょうち內的備後びんごこくてき。鞆是當年とうねん足利尊氏あしかがたかうじ接受せつじゅひかりげん上皇じょうこう追討ついとう新田にった義貞よしさだ院宣いんぜんてき地方ちほうたい足利あしかが將軍家しょうぐんけいいゆう淵源えんげんてき地方ちほうだいじゅうだい將軍しょうぐん足利あしかがよしざいざい此處ここ受到だい內家てき支持しじしたがえ而回いたりょう京都きょうとよし此此足利あしかが將軍家しょうぐんけとうさくよし祥之よしゆき。此後義昭よしあきざい此地開設かいせつ流亡りゅうぼう幕府ばくふしょう「鞆幕府ばくふ」。足利あしかが義昭よしあきざい鞆以備中びっちゅうこくてき御料ごりょう所所ところどころしんけんじてき年貢ねんぐ,以及足利あしかが將軍家しょうぐんけ任命にんめい京都きょうと五山ごさん住持じゅうじしょ獲得かくとくてきれいぜに維持いじ生活せいかつ同時どうじおさむいた宗家そうけ島津しまつ通過つうか明日あした貿易ぼうえき獲得かくとくてき財政ざいせい收入しゅうにゅう近畿きんき東海とうかい以外いがい支持しじ足利あしかが將軍家しょうぐんけてき武家ぶけ很多。鑒於此,足利あしかが義昭よしあきこう全國ぜんこく大名だいみょう下達かたつりょう討伐とうばつ信長のぶながてき內書天正てんしょう4ねん希望きぼう促成そくせい甲斐かいてき武田たけだ相模さがみこくてき北條ほうじょう越後えちごてき上杉うえすぎゆいため同盟どうめいただしなりこう甚微。

信長のぶながてき以及かいいた京都きょうと[编辑]

1577ねん上杉うえすぎ謙信けんしんざい手取川てどりがわこれせんげきはい織田おだぐんただしひさ上杉うえすぎ謙信けんしん就在1578ねん天正てんしょう6ねんびょう逝,上杉うえすぎ軍勢ぐんぜい退すさかい北陸ほくりくずい繼承けいしょうじんいん繼承けいしょう問題もんだい爆發ばくはつ內戰,そく御館みたてみだれしたがえ此上すぎ國力こくりょくだいきずさいあずか織田おだいち較高下之したの實力じつりょく

1580ねん天正てんしょう8ねん一向いっこうそう本山もとやま石山いしやま本願寺ほんがんじ不堪ふかん長年ながねんかこえこま於城ちゅう最後さいご接受せつじゅ信長のぶなが方面ほうめんてき條件じょうけん退出たいしゅつ本願寺ほんがんじさい干涉かんしょう世俗せぞく實質じっしつじょうむかい信長のぶなが投降とうこう,一向宗一揆暴動就此瓦解。此時日本にっぽんてき經濟けいざい政治せいじ核心かくしん地帶ちたい周邊しゅうへんさいたい織田おだてきおびえ,其勢力せいりょくたちいたかなえもりなみけんゆび西方せいほう大國たいこく毛利もうり

しか而1582ねん天正てんしょう10ねん明智あけち光秀みつひで發動はつどう本能寺ほんのうじへん信長のぶなが及其嗣子しし信忠のぶただみな戰死せんし。此時足利あしかが義昭よしあきざい備後びんごこくてき鞆。而明智あけち光秀みつひで麾下きかてき家臣かしん,如伊勢いせさだきょう蜷川にながわさだしゅうひとしため昔日せきじつ室町むろまち幕府ばくふてき幕臣ばくしん

足利あしかが義昭よしあき趁此好機こうきよくかえしかい京都きょうとひろもとむ毛利もうり輝元てるもとてき支持しじ;另一方面ほうめんひろもとむ羽柴はしば秀吉ひでよし柴田しばた勝家かついえ支持しじじゅうかい京都きょうとただし1583ねん天正てんしょう11ねん毛利もうり輝元てるもと柴田しばた勝家かついえ德川とくがわ家康いえやす一度著手籌備支持義昭上洛卻又無果。同年どうねん毛利もうり輝元てるもと臣服しんぷく羽柴はしば秀吉ひでよし足利あしかが義昭よしあき也向九州的大名如島津義久、龍造寺りゅうぞうじせいとうじんひろもとめ支援しえんただし也無はて。1586ねん羽柴はしば秀吉ひでよしなりため關白かんぱく太政大臣だじょうだいじん。此後進入しんにゅうりょう關白かんぱく秀吉ひでよし將軍しょうぐん義昭よしあき並立へいりつてき2ねん時期じきざい此兩ねんうら豐臣とよとみ秀吉ひでよし逐漸統一とういつ天下でんか

1587ねん天正てんしょう15ねん),豐臣とよとみ秀吉ひでよしざい九州きゅうしゅう征伐せいばつ期間きかんけい備後びんごこく沼隈ぬまくまぐんてき郡村こおりむらざい田邊たなべてら訪問ほうもんりょう足利あしかが義昭よしあき二人ふたり交換こうかんりょう太刀たちつぎねん薩摩さつまこくてき島津しまつむかい秀吉ひでよし臣服しんぷく義昭よしあきかいいた京都きょうと,1588ねん2がつ9にち天正てんしょう16ねん1がつ13にちあずか關白かんぱく豐臣とよとみ秀吉ひでよし一起かずきまいりりょう正親町おおぎまち天皇てんのう辭去じきょりょう征夷大將軍せいいたいしょうぐんしょくなみ出家しゅっけ法號ほうごうあきらさん朝廷ちょうていきゅうりょうじゅん三后さんこうてき待遇たいぐう

晚年ばんねん[编辑]

豐臣とよとみ秀吉ひでよししょう山城やましろこくてき槇島まきしましろきゅうりょうとうさく居城きょじょうなみきゅうりょう義昭よしあきいちまんせきてき領地りょうちよし足利あしかが義昭よしあきぜん將軍しょうぐんてき緣故えんこ豐臣とよとみ秀吉ひでよしざいきゅう這樣だかてき待遇たいぐうざい豐臣とよとみ秀吉ひでよし侵略しんりゃく朝鮮ちょうせんとき義昭よしあきりつぐん200にんらいいた肥前ひぜん名護屋なごや參加さんかりょうせん鬥。

晚年ばんねんあずか斯波しばよしぎん山名やまな豐國ほうこくひとしなりためふとしかく豐臣とよとみ秀吉ひでよし御伽おとぎてき成員せいいん,受到ふとしかくてき親近しんきん。1597ねん慶長けいちょう2ねんざい大坂おおさか逝世,とおることぶき61さい

人物じんぶつあずか逸話いつわ[编辑]

  • いち日本にっぽんてき逸話いつわ記載きさい實現じつげん日本にっぽん統一とういつてき豐臣とよとみ秀吉ひでよしいん平民へいみん出身しゅっしん,曾要求ようきゅうなりため足利あしかが義昭よしあきてき養子ようし,以便取得しゅとく武家ぶけ建立こんりゅう幕府ばくふ政權せいけんただしため足利あしかが義昭よしあき拒絕きょぜつ。這個說法せっぽう最早もはや出自しゅつじ日本にっぽん儒學じゅがくはやし羅山らざんただしゆうまち考證こうしょう。2011ねんてき大河おおかわげきこう公主こうしゅ們的戰國せんごくちゅう採用さいようりょう這個傳說でんせつはた足利あしかが義昭よしあきしょうためさき將軍しょうぐん」 。
  • いち些以信長のぶなが及其家臣かしんため主人公しゅじんこうてき作品さくひんちゅう足利あしかが義昭よしあき描繪なり精神せいしん耗弱てきいち昏君。事實じじつじょう足利あしかが義昭よしあき身體しんたい健全けんぜん,而日えき壯大そうだいてき信長のぶなが包圍ほういもう顯示けんじてき政治せいじ水平すいへい
  • あにちょう足利あしかが義輝よしてる義昭よしあきざい幕臣ばくしんてき擁護ようごよんしょ流浪るろう信長のぶなが驅逐くちく京都きょうとこうよんしょ流浪るろうとうもたれしょ大名だいみょういん此被そし諷為「貧乏びんぼう公方くぼう」。
  • 足利あしかが義昭よしあき入京にゅうきょう就任しゅうにん將軍しょうぐんてき時候じこう,曾向朝廷ちょうてい奏請そうせいはた年號ねんごうあらためためもとかめただし信長のぶながみとめため這年ごう吉祥きっしょう反對はんたい改元かいげん正親町おおぎまち天皇てんのう最終さいしゅう也沒ゆう接受せつじゅ其改もと意見いけん[8]ただし足利あしかが義昭よしあきざい4がつ23にち織田おだ信長のぶなが出征しゅっせい討伐とうばつ越前えちぜん朝倉あさくらときはた年號ねんごうあらためためもとかめ

かんれき[编辑]

接受せつじゅ義昭よしあきへんいみな人物じんぶつ[编辑]

其他家臣かしん[编辑]

登場とうじょう作品さくひん[编辑]

小說しょうせつ
かげげき

相關そうかん條目じょうもく[编辑]

腳註[编辑]

  1. ^ 一般いっぱんてき日本にっぽん學界がっかいみとめため足利あしかが義昭よしあき於1573ねんかむ織田おだ信長のぶなが逐出京都きょうと室町むろまち幕府ばくふ就毀めつりょうただし足利あしかが義昭よしあき依然いぜん保持ほじ征夷大將軍せいいたいしょうぐん」這一稱號直到1588ねん
  2. ^ 足利あしかが義昭よしあきこれ足利あしかが一族就失去了征夷大將軍的官位。日本にっぽん歷史れきし上下じょうげ一任征夷大將軍身份有爭議。惟任これとう光秀みつひで明智あけち光秀みつひでざい1582ねん本能寺ほんのうじへんこうりつぐん上洛じょうらく,曾向朝廷ちょうてい請求せいきゅうさつふう自己じこため征夷大將軍せいいたいしょうぐん。而根據こんきょ明智あけち光秀みつひで公家くげ覺書おぼえがき記載きさい朝廷ちょうていさつふう明智あけち光秀みつひでためしたがえさん中將ちゅうじょう征夷大將軍せいいたいしょうぐん」。ただし學界がっかいたい明智あけち光秀みつひで真正しんせい擔任たんにん征夷大將軍せいいたいしょうぐんなお存在そんざい爭議そうぎ目前もくぜん公認こうにんてきした一任いちにん征夷大將軍せいいたいしょうぐん建立こんりゅう江戶えど幕府ばくふてき德川とくがわ家康いえやす
  3. ^ 國史こくしだい辭典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  4. ^ 2にち追加ついかりょう7じょう總計そうけい16じょう
  5. ^ 抄本しょうほん傳送でんそういたりょう日本にっぽん各地かくち寫本しゃほんざい各地かくちゆう發現はつげん
  6. ^ 戰國せんごく時期じきてき天下てんかかんまいり神田かんだ千里せんり織田おだ政權せいけん支配しはい論理ろんりかんするいち考察こうさつ」《東洋大学とうようだいがく文学部ぶんがくぶ紀要きよう》2002、どう戦国せんごく乱世らんせいきるちから中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、2002)。
  7. ^ はなれひらき京都きょうと仍然ようゆう統治とうち天下でんか權力けんりょくてき足利あしかが將軍しょうぐんかえゆう足利あしかが義詮よしあきら足利あしかが義尚よしなお足利あしかが義稙よしたね足利あしかが義晴よしはる足利あしかが義輝よしてるとうひと
  8. ^ さんねん信長のぶなが奏請そうせい改元かいげん天正てんしょう」。

参考さんこう文献ぶんけんあずか傳記でんき[编辑]

足利あしかが義昭よしあき
军职
前任ぜんにん
足利あしかが義榮よしひで
征夷大將軍せいいたいしょうぐん
1568ねん11月7にち-1588ねん2がつ9にち
そらかけ
した一位持有相同頭銜者:
德川とくがわ家康いえやす
貴族きぞく爵位しゃくいあたま
前任ぜんにん
足利あしかが義榮よしひで
足利あしかが將軍家しょうぐんけにち足利あしかが将軍家しょうぐんけだい15だい當主とうしゅ
1568ねん-1588ねん
斷絕だんぜつ