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足利あしかが義滿よしみつ

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足利あしかが義滿よしみつ
鹿苑寺ろくおんじぞう絹本けんぽん着色ちゃくしょく足利あしかが義滿よしみつぞう
つて飛鳥井あすかい雅親まさちかにち飛鳥井あすかい雅親まさちか和歌わかさん
室町むろまち幕府ばくふだい3だい征夷大將軍せいいたいしょうぐん
任期にんき
1369ねん2がつ7にち—1395ねん1がつ8にち
前任ぜんにん足利あしかが義詮よしあきら
继任足利あしかが義持よしもち
太政大臣だじょうだいじん
任期にんき
1395ねん1がつ16にち—1395ねん6がつ20日はつか
前任ぜんにん德大寺とくだいじみのるときにち徳大寺とくだいじみのるとき
继任久我くがどおりにち久我くがどおり
左大臣さだいじん
任期にんき
1393ねん2がつ7にち—1393ねん10がつ22にち
前任ぜんにん德大寺とくだいじみのるときにち徳大寺とくだいじみのるとき
继任一條いちじょうけいにち一条いちじょうけい
任期にんき
1382ねん2がつ9にち—1388ねん6がつ30にち
前任ぜんにんじょうにちじょう
继任德大寺とくだいじみのるときにち徳大寺とくだいじみのるとき
大臣だいじん
任期にんき
1381ねん8がつ13にち—1382ねん2がつ9にち
前任ぜんにん今出川いまでがわこうただし
继任德大寺とくだいじみのるときにち徳大寺とくだいじみのるとき
个人资料
出生しゅっしょう(1358-09-25)1358ねん9がつ25にち
のべぶんさんねんはちがつじゅうにち
逝世1408ねん5がつ31にち(1408さい—05—31)(49さい
おうひさしじゅうねんがつはつろくにち
時代じだい室町むろまち時代ときよ前期ぜんき
改名かいめい春王はるおう幼名ようみょう)、義滿よしみつみちゆうごう)、道義どうぎごう
諡號しごう鹿しかえんいん太上天皇だじょうてんのう日本にっぽん朝廷ちょうてい追贈ついぞう)、きょうけんじ明朝みんちょう追贈ついぞう[1]
戒名かいみょう鹿しかえんいん天山あまやま道義どうぎ
墓所はかしょ京都きょうと相國寺しょうこくじ鹿しかえんいん
朝廷ちょうてい官位かんいしたがえせいひだり馬頭めず征夷大將軍せいいたいしょうぐんしたがえよん參議さんぎひだり近衛このえ中將ちゅうじょうしたがえさんけん大納言だいなごんみぎ近衛このえ大將たいしょうしたがえみぎりょうかんしたがえいち大臣だいじん左大臣さだいじん藏人くろうど別當べっとうこう圓融えんゆういん別當べっとう源氏げんじ長者ちょうじゃじゅんさんみや淳和じゅんな獎學兩院りょういん別當べっとう太政大臣だじょうだいじん
氏族しぞく足利あしかが將軍家しょうぐんけにち足利あしかが将軍家しょうぐんけ
ちち足利あしかが義詮よしあきら
ははきの良子りょうこ
あに千寿せんじゅおう
おとうとかしわにわきよし滿まんかい廷用むねたからきょうてら殿どの
正室せいしつ日野ひのぎょう
繼室けいしつ日野ひの康子やすこ
側室そくしつ藤原ふじわら慶子けいこ春日局かすがのつぼねとうひと
みこと滿みつる義持よしもち義嗣よしつぐ義教よしのりほうみこととらやまえいたかし大覺寺だいかくじ義昭よしあき梶井かじいよしうけたまわとうひと
花押かおう足利義滿的花押
にちうつしほう
にち原文げんぶん足利あしかが 義満よしみつ
假名かめいあしかが よしみつ
平文へいぶんしき罗马Ashikaga Yoshimitsu

足利あしかが义满にち语:足利あしかが 義満よしみつあしかが よしみつ Ashikaga Yoshimitsu,1358ねん9がつ25にち—1408ねん5がつ31にち),日本にっぽん室町むろまち幕府ばくふだいさんにん征夷大將軍せいいたいしょうぐん(1368ねんいたり1394ねん在任ざいにん)。だいだい將軍しょうぐん足利あしかが义诠まと母親ははおや義詮よしあきらてき側室そくしつきの良子りょうこ

足利あしかが義滿よしみつ在任ざいにん期間きかん南北なんぼくあさ獲得かくとく統一とういつ足利あしかが義滿よしみつたい勢力せいりょく較為強大きょうだいてき守護しゅご大名だいみょう進行しんこうりょう壓制あっせい改革かいかくせいせい,设“さんかんよん”,確立かくりつりょう幕府ばくふてき中央ちゅうおうしゅう同時どうじ建立こんりゅうりょう金閣寺きんかくじ鹿苑寺ろくおんじ),ため室町むろまち时代北山きたやま文化ぶんかてき代表だいひょうさく。其在任ざいにん時期じき室町むろまち時代じだい政治せいじ經濟けいざい和文わぶんさいためきょうもりてき時期じき

1378ねん足利あしかが義滿よしみつはた邸宅ていたく遷往りょう京都きょうとてき北小路室きたこうじむろまちざいうら建立こんりゅうりょうはな御所ごしょよし此義滿まん人稱にんしょうさく室町むろまち殿どの所謂いわゆる室町むろまち幕府ばくふ」就是よし此得めい

1383ねん受封为じゅんさんみや待遇たいぐうとうどう上皇じょうこう),これきさきまたかむ明朝みょうちょうさつふう为“日本にっぽん國王こくおう”。足利あしかが義滿よしみつ在任ざいにん期間きかん幕府ばくふ將軍しょうぐんてきけんくび完全かんぜん凌駕りょうが天皇てんのううえはた天皇てんのう變成へんせい傀儡かいらい

1394ねん让位其子足利あしかが义持自任じにん太政大臣だじょうだいじんきさき出家しゅっけ为僧,ただし掌握しょうあく實權じっけん

1408ねん足利あしかが义满えんさびきさき追贈ついぞう太上天皇だじょうてんのう院號いんごうにち院号いんごう鹿しかえんいん”。

生涯しょうがい

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早年そうねん生活せいかつ

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正平しょうへいじゅうさんねん / のべぶんさんねんはちがつじゅうにち(1358ねん9がつ25にち足利あしかが義滿よしみつ出生しゅっしょう當時とうじ恰好かっこう祖父そふ足利尊氏あしかがたかうじ逝世てきだい100てん義滿よしみつねんようてき時候じこう室町むろまち幕府ばくふどう南朝なんちょうてき戰爭せんそう仍在繼續けいぞくかんおう擾亂じょうらんこれ室町むろまち幕府ばくふ內部てきそうけんだついきおいさら激烈げきれつざいそうけんちゅうしつぜいてき細川ほそかわきよしひとし有力ゆうりょく武將ぶしょう先後せんごとう奔南あさ。1361ねん正平しょうへい16ねん / かんやすし元年がんねん),細川ほそかわきよし引導いんどう楠木くすのき正儀まさよしところりつてき南朝なんちょうぐんおさむ京都きょうとねんようてき足利あしかが義滿よしみつぜん赤松あかまつ則祐のりすけてき居城きょじょう播磨はりまこく白旗はっきじょう避難ひなん翌年よくねん室町むろまち幕府ばくふ北朝ほくちょうぐん奪回だっかいりょう京都きょうと足利あしかが義滿よしみつざいかいきょう途中とちゅうりょう攝津せっつこくてきいち地方ちほう可能かのう尼崎あまがさき),對當たいとうてき景色けしき歎為かんとめしたれい家臣かしん們把這裡てき景色けしき扛回京都きょうと家臣かしん們對此感いたまんふんおどろきいぶか。1367ねん正平しょうへい22ねん / 貞治さだはる6ねん),ちち義詮よしあきら逝世,10さいてき義滿よしみつつぎにん將軍しょうぐん

1368ねん舉行評定ひょうじょうはじめ陰曆いんれき4がつ元服げんぷく,以管領かんりょう細川ほそかわよりゆきこれため烏帽子えぼしおやつぎねん正式せいしき授予征夷大將軍せいいたいしょうぐんてき稱號しょうごうよし於義滿まんとしよう細川ほそかわ一門獨攬了室町幕府的大權。細川ほそかわよりゆき實施じっしおうやす大法たいほう強化きょうかりょう土地とちてき支配しはいなみたい京都きょうと鐮倉てき五山ごさん制度せいど進行しんこう整備せいび強化きょうかりょうたい宗教しゅうきょうてき統治とうち同時どうじこう南朝なんちょうてき勢力せいりょくけん九州きゅうしゅうとう派遣はけん今川いまがわ貞世さだよ了俊りょうしゅん)、だい內義ひろし弱化じゃっかりょう南朝なんちょうざい這些地區ちくてき統治とうち。1374ねん文中ぶんちゅう3ねん / おうやす7ねん),足利あしかが義滿よしみつむかい日野ひのぎょうため妻室さいしつ

ためりょう強化きょうかたい京都きょうとてき支配しはいけん,1370ねんおうやす3ねんきゅうりょう朝廷ちょうていたい山門やまかど公人きみと延曆寺えんりゃくじ及其支配しはいてきしょ勢力せいりょくてき取締とりしまりけん。1378ねん遷往室町むろまちてきはな御所ごしょ居住きょじゅう人稱にんしょう室町むろまち殿どの

1385ねん參拜さんぱい东大てら興福寺こうふくじ,1388ねん遊覽ゆうらん富士山ふじさん,1389ねん參拜さんぱい安藝あきてき嚴島いつくしま神社じんじゃ等地とうち。這一系列視察同時增強了自己的威信。

權力けんりょく強化きょうかあずか南北なんぼくあさ統一とういつ

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1379ねん反對はんたい細川ほそかわよりゆきこれてき守護しゅご大名だいみょう斯波しばよししょう土岐とき賴康よりやす包圍ほういりょう義滿よしみつてき邸宅ていたく要求ようきゅう罷免ひめんよりゆきこれよし此賴まぬかれりょう管領かんりょういちしょく,以斯波しばよししょうだい。(かんれき政變せいへん)此後幕府ばくふちゅうてき人事じんじぜん斯波しば一派いっぱだい斯波しばよししょう下達かたつりょう討伐とうばつよりゆきこれてき命令めいれいただし足利あしかが義滿よしみつ卻在翌年よくねん以賴元老げんろうためよし赦免しゃめんりょうゆずる細川ほそかわかず斯波しば兩派りょうは並存へいそん互相牽制けんせい增強ぞうきょうりょう將軍しょうぐんてき權力けんりょく。1390ねん土岐とき賴康よりやす美濃みのこくてき土岐ときおちいにゅうりょう內亂,義滿よしみつれい討伐とうばつ土岐とき土岐とき康行やすゆきみだれ)。

1391ねん足利あしかが義滿よしみつまた介入かいにゅうりょう山名やまなてき內部紛爭ふんそう當時とうじ山名やまな兼任けんにん11こく守護しゅごしょく人稱にんしょうためろくふんいち殿どの」。義滿よしみつ巧妙こうみょうゆずる山名やまな氏清うじきよおこりへい同年どうねん12がつ派兵はへい討伐とうばつしょう明德めいとくみだれ

而且義滿よしみつざい1378ねん陰曆いんれき3がつ兼任けんにんみぎ近衛このえ大將たいしょう個月かげつ兼任けんにんけん大納言だいなごん,受到りょう關白かんぱく二條にじょう良基よしもとてき支持しじ積極せっきょく參加さんか朝廷ちょうていてき事務じむ翌年よくねん就發せいりょう興福寺こうふくじそう眾抬ちょ春日大社かすがたいしゃてき神木しんぼく入京にゅうきょう強訴ごうそてき事件じけんよし於春日大にちだい社是しゃぜ藤原ふじわらまとてらちょうちゅうてき藤原ふじわら公卿くぎょうじゅうふんかしこ懼,敢入みやきょうしょく義滿よしみつみとめため自己じこみなもと後人こうじんきゅう出仕しゅっし如前。此後義滿よしみつ扶持ふち朝廷ちょうていたい寺社じしゃ勢力せいりょく進行しんこうげん厲打げき

義滿よしみつちょうこしりょう祖父そふ尊氏たかうじ父親ちちおや義詮よしあきら先後せんご昇任しょうにん大臣だいじん左大臣さだいじん。而1382ねんこう圓融天皇えんゆうてんのう退位たいいおや義滿よしみつてきこう小松こまつ天皇てんのう即位そくいこう圓融えんゆう名義めいぎじょう開設かいせつ院政いんせいただし實權じっけん義滿よしみつてのひら。1383ねん擔任たんにん源氏げんじ長者ちょうじゃ兼任けんにん淳和じゅんな獎學兩院りょういん別當べっとう,受封「じゅん三后さんこうてき稱號しょうごうなりためりょう公家くげ武家ぶけ雙方そうほう勢力せいりょくてき首領しゅりょう朝廷ちょうていちゅういく乎沒ゆう反對はんたい義滿よしみつてき勢力せいりょく

1392ねん南朝なんちょうてき勢力せいりょく不斷ふだん衰退すいたい南北なんぼくあさすべ一已成為必然發生的事情。ざいだい內義ひろ的中てきちゅうかい足利あしかが義滿よしみつあずか南朝なんちょう談判だんぱん最終さいしゅう持明院じみょういんみつる大覺寺だいかくじみつる交替こうたい繼承けいしょう帝位ていいため條件じょうけん南朝なんちょうてきこう龜山天皇かめやまてんのう退位たいいなみしょうさん神器じんぎ交給北朝ほくちょうてき小松こまつ天皇てんのう南北なんぼくあさ統一とういつ小松こまつ天皇てんのういたさん神器じんぎせん佈由自己じこてき皇子おうじじつじん親王しんのう繼承けいしょう皇位こういだつりょう神器じんぎてき南朝なんちょう也只のう屈服くっぷく於北あさてき統治とうち

1393ねんあずか足利あしかが義滿よしみつ不和ふわてきこう圓融えんゆう上皇じょうこう逝世,義滿よしみつてき權力けんりょく完全かんぜん鞏固きょうこつぎねん義滿よしみつはた將軍しょうぐんしょくゆずるきゅうりょう足利あしかが义持自己じこそく隱居いんきょ繼續けいぞくてのひら政治せいじ同年どうねんのぼりしたがえいち太政大臣だじょうだいじん翌年よくねん出家しゅっけ法號ほうごう道義どうぎ義滿よしみつ出家しゅっけためりょうさら有力ゆうりょくひかえせい寺社じしゃ勢力せいりょくざい義滿よしみつ出家しゅっけさい,以斯波しばよししょうおびあたますくな武家ぶけ公家くげてきあたまめん人物じんぶつ追隨ついずい出家しゅっけ

1395ねん足利あしかが義滿よしみつ罷免ひめんりょうのう獨自どくじてのひらかん地方ちほう政務せいむてき九州きゅうしゅう探題たんだい今川いまがわ貞世さだよ。1399ねんだい內義ひろしざい西國さいごく舉兵,義滿よしみつはつへい鎮壓ちんあつ应永みだれ)。此後義滿よしみつ徹底てってい排除はいじょりょう西日本にしにほん地區ちくてき反對はんたい勢力せいりょく

勘合かんごう貿易ぼうえき與北よぎたさん文化ぶんか

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金閣寺きんかくじ 舍利しゃり殿どの

足利あしかが義滿よしみつ在任ざいにん期間きかんいちちょく非常ひじょうもちどう明朝みんちょう進行しんこう貿易ぼうえき1374ねんおこりすうむかい明朝みょうちょう派遣はけん使節しせつ。1374ねん1380ねん足利あしかが義滿よしみつ以「日本にっぽんせいえびす將軍しょうぐんみなもと義滿よしみつてき名義めいぎこう明朝みんちょう朝貢ちょうこう要求ようきゅうあずか明朝みょうちょう貿易ぼうえきしか而明あさ拒絕きょぜつりょう室町むろまち幕府ばくふてき要求ようきゅう理由りゆう明朝みょうちょうみとめため大覺だいかくけいてき日本にっぽん國王こくおうふところりょう」(あるさくりょうふところざい日本にっぽん正統せいとう君主くんしゅ,而「もちあかりけいのり亂臣らんしん足利あしかが義滿よしみつもちあかりけいてきぐんかんさらおうあずかこれ通交つうこうよし此在明太めんたい在位ざいい期間きかん明朝みんちょう拒絕きょぜつりょう同室どうしつまち幕府ばくふてき貿易ぼうえき[1]

1401ねんおうひさしはちねん),足利あしかが義滿よしみつまた以「日本にっぽんこくじゅん三后さんこうみなもと道義みちよしためめい博多はかたてき商人しょうにんこえとみそうじんおもね赴明あさ當時とうじなつけ親王しんのう勢力せいりょくおとろえ落,けんぶんみかどふう義滿よしみつため日本にっぽん國王こくおう」,なみ要求ようきゅう足利あしかが義滿よしみつ取締とりしまりやまと[1] ざい使者ししゃかえしかい日本にっぽんさい明朝みんちょう發生はっせいりょうつばめおうしゅだつてきやすしなんへん

明成めいせいしゅ棣夺取帝位ていいきさき派遣はけん使臣ししんぶん四方しほうえい元年がんねん(1403ねん琉球りゅうきゅう日本にっぽん暹罗各国かっこく使节到中国ちゅうごくちょう贡,建立こんりゅうりょうむねはんあずかさつふう关系。1404ねんおうひさしじゅういちねん),足利あしかが義滿よしみつまた使つかい赴明,冊立さくりつ皇太子こうたいし當時とうじ對馬つしま壹岐いき一帶いったいてきやまと騷擾そうじょう明朝みんちょう沿岸えんがん明成めいせい要求ようきゅう足利あしかが義滿よしみつ進行しんこうつめ義滿よしみつはつへい殲滅せんめつやまと寇,けんじやまと寇首りょう20にん[1][2] 足利あしかが义满頻頻ひんぴん入貢にゅうこうどう时受明朝みんちょうふう赏,あずか明朝みょうちょう正式せいしき建立こんりゅうりょう外交がいこう关系。明朝みんちょうたい日本にっぽん頒發勘合かんごう(一種類似存物牌的證明),日本にっぽん以屬こくてき名義めいぎ对明あさ進行しんこう朝貢ちょうこう貿易ぼうえき明朝みんちょう足利あしかが义满“日本にっぽん國王こくおうきむしるしいちまい足利あしかが义满かい自称じしょう日本にっぽん国王こくおうしんげん义满”。[1]

勘合かんごう貿易ぼうえき促使中國ちゅうごくてき書籍しょせき茶器ちゃき大量たいりょうでんにゅうりょう日本にっぽん國内こくない,《すすむぜん》、《內訓とうひゃくほん儒家じゅか書籍しょせきでんにゅう日本にっぽん[1] 中國ちゅうごく茶器ちゃきてきつてにゅう促進そくしんりょう日本にっぽん茶道さどうてき發展はってん

1397ねんおうひさしよんねん),西園寺さいおんじはた京都きょうと北山きたやまてき北山きたやまだいけんじきゅう義滿よしみつ義滿よしみつざいうら舍利しゃり殿どのため中心ちゅうしん建立こんりゅう山莊さんそうしょうため北山きたやま殿どの」。後來こうらいまたはた北山きたやま殿どのあらため造成ぞうせい鹿苑寺ろくおんじ。此時代じだいてき文化ぶんか融合ゆうごうりょう武家ぶけ公家くげ禪宗ぜんしゅう文化ぶんかたたえため北山きたやま文化ぶんか

晚年ばんねんあずか死後しご

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おうひさしねん(1395ねん),義滿よしみつおおやけざい鹿苑寺ろくおんじ出家しゅっけ法名ほうみょう鹿しかえんいん天山あまやま道義どうぎおうひさしじゅうねんがつはつろくにち(1408ねん5がつ31にち),義滿よしみつおおやけいん突發とっぱつ疾病しっぺい而在京都きょうとやまい逝,享年きょうねんじゅうさいあし49さい),其遺こつざい等持院とうじいんはた骨灰こっかいやすそう相國寺しょうこくじ鹿しかえんいん。此后,相国寺しょうこくじなり供奉ぐぶ足利あしかがすすむ军家ぱいてき地方ちほうきさきらい在天ざいてん历大火中かちゅう为灰烬,此后便びんおとろえ落了。いたり于鹿えんいんざい明治めいじねん间的はん佛教ぶっきょう运动ちゅう遭到拆毁,ゆかり此也导致足利あしかが义满はかてき位置いち变得不明ふめい确,灵牌则被うつりいたりあずか足利あしかがすすむ军家ゆう深厚しんこう渊源てき临川てら供奉ぐぶいたりいま足利あしかが义满居住きょじゅうてき北山ほくざん殿どの部分ぶぶんけん筑在此后拆毁,包括ほうかつきん阁等けん筑留らい并被あらためけん为如いまてき鹿苑寺ろくおんじ,也称きん阁寺,其中收藏しゅうぞうゆう足利あしかが义满てき质坐ぞう及画ぞう死後しご朝廷ちょうてい追贈ついぞう鹿しかえんいん太上天皇だじょうてんのうてきふうごう,其子足利あしかが义持いん斯波しばよししょうてき強烈きょうれつ反對はんたい辭退じたいふうごうただし相國寺しょうこくじそく接受せつじゅふうごうしょう其為「鹿しかえんいん太上天皇だじょうてんのう」。じょ此之がい明朝みょうちょうえい皇帝こうていしゅ派遣はけん使臣ししんらいいた日本にっぽんつるし足利あしかが义满并赐きょうけんじ”谥号。

足利あしかが義持よしもちあずか足利あしかが義滿よしみつざいたい朝廷ちょうていたい公家くげたい守護しゅごだい名和なわたい明朝みんちょう貿易ぼうえきとう很多方面ほうめん相反あいはんてき意見いけんよし此義滿まん逝世,其政策せいさくだい部分ぶぶん義持よしもち廢除はいじょ北山きたやまだいじょりょうきんかく以外いがいてき建築けんちく也被義持よしもち拆毀。義滿よしみつ偏愛へんあいてき次子じし足利あしかが義嗣よしつぐせり出奔しゅっぽん義持よしもち謀反ぼうほんざい殺害さつがい義嗣よしつぐてき子孫しそん逃往越前えちぜんなりため世代せだいてきくらたに公方くぼう。此後,だいろくだい將軍しょうぐん義教よしのり恢復かいふく政策せいさくただしざい嘉吉よしきちみだれちゅうため赤松あかまつ滿祐みつすけところ暗殺あんさつ改革かいかく停止ていし。而第はちだい將軍しょうぐん義政よしまさ也曾ためし恢復かいふく政策せいさくただしいん應仁おうにんみだれてき爆發ばくはつ失敗しっぱい

皇位こうい篡奪暗殺あんさつせつ

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田中たなか義成よしなり今谷いまたにあきらとう學者がくしゃみとめため足利あしかが義滿よしみつゆう篡奪皇位こういてき企圖きと;而受到此說法的ほうてき影響えいきょう作家さっか海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろう井澤いざわもととうひとみとめため義滿よしみつよし於皇しつためりょう阻止そし其篡而被暗殺あんさつてき

日本にっぽんしたがえ平安へいあん時代じだいいた室町むろまち時代ときよ期間きかん,曾長流傳りゅうでんちょいちしゅめいさけべだいてき預言よげん相傳そうでん這首ゆかり中國ちゅうごく南朝なんちょうはり時期じきてき高僧こうそうたから禪師ぜんじ所作しょさ後來こうらいゆかり遣唐使けんとうし吉備真備きびのまきびおびいた日本にっぽん。該詩てき內容ため

東海とうかいひめこくひゃく世代せだい天工てんこうみぎため輔翼,衡主けんもとこうはつきょう法事ほうじおわりなりさい祖宗そそうほんえだしゅう天壤てんじょう君臣くんしんてい始終しじゅうたにはままごはしさかななますせいしょうかずら干戈かんかどうちゅうほろ子孫しそんあきら白龍はくりゅうゆうしつすい,窘急よせしろにわとり代人だいにんしょく黑鼠くろねずみくえうしちょう水流すいりゅうつき天命てんめいざいさんおおやけひゃくおうりゅう畢竭,さるいぬしょう英雄えいゆうほしりゅう野外やがい鐘鼓しょうこやかましこくちゅうあおたかしあずか赤土あかつち茫茫ぼうぼうとげためそら

這首預言よげん預言よげん日本にっぽん天皇てんのうでんいただい100だいしょうかい滅亡めつぼうさるいぬ擾亂じょうらん天下でんか,這就著名ちょめいてきひゃくおうせつ」。こう圓融天皇えんゆうてんのうけい當時とうじかんかた認定にんていてきだい100だい天皇てんのう[3]關東かんとうてき鐮倉公方くぼう足利あしかが氏滿うじみつなまあやかぞく足利あしかが義滿よしみつ自己じこせいあやかぞくいぬいん此義滿まん懷疑かいぎ自己じこ足利あしかが氏滿うじみつはただい天皇てんのうてき天下てんかなみ且就此「ひゃくおうせつ」這一問題もんだい諮詢しじゅんりょうぼうじょうしゅんにん吉田よしだけんあつしいたてき答案とうあんひゃく眾多てき意思いし」。

雖然這首預言よげん如今認定にんていため偽作ぎさくただし根據こんきょ相關そうかん史料しりょうてき記載きさい足利あしかが義滿よしみつ可能かのうしんてきゆう篡位てき意圖いと足利あしかが義滿よしみつざい很早てき時候じこう就將自己じこてき花押かおうぶんため武家ぶけよう公家くげもちいりょうたね,其繼しつ日野ひの康子やすここう小松こまつ天皇てんのうふうためじゅんはは地位ちい相當そうとう天皇てんのうてき母親ははおや),ぞう皇族こうぞく女性じょせい一樣いちよう授予りょう北山きたやまいんてき院號いんごう朝廷ちょうていてき祭祀さいしけん人事じんじ任命にんめいけん悉歸足利あしかが義滿よしみつ管轄かんかつ義滿よしみつにゅうみや覲見以及出外ではずれ參拜さんぱい寺社じしゃ使用しようあずか上皇じょうこう同等どうとうてき待遇たいぐう

1408ねんおうひさし15ねん)3がつ小松こまつ天皇てんのう臨幸りんこう義滿よしみつてき居所きょしょ北山きたやまだいとき足利あしかが義滿よしみつしょすわてき榻榻まい當時とうじただゆう天皇てんのう和上わじょうすめらぎ才能さいのう使用しようてき繧繝うんげんみどり圖案ずあん。4月,義滿よしみつてき次子じし義嗣よしつぐざい宮中きゅうちゅう元服げんぷくどき享受きょうじゅりょう親王しんのうてき待遇たいぐうよし此可足利あしかが義滿よしみつゆう篡奪皇位こういてき野心やしん,而接受せつじゅ明朝みょうちょう政府せいふところ授予てき日本にっぽん國王こくおうふうごうのりためし假借かしゃく明朝みんちょうためがい援,也是篡位けい劃的いち環節かんせつ足利あしかが義滿よしみつけい脅迫きょうはく小松こまつ天皇てんのうぜんゆずる愛子あいこ足利あしかが義嗣よしつぐつぎにん天皇てんのうくらい自己じこそく以治てんきみてき統治とうち日本にっぽんただし當時とうじ公卿くぎょうてき日記にっきちゅうぼつゆう找到足利あしかが義滿よしみつはい擠篡けい劃的最大さいだい障礙しょうがい——皇太子こうたいし躬仁親王しんのうてき相關そうかん記錄きろく

よし足利あしかが義滿よしみつてき權力けんりょくやめけい完全かんぜん淩駕於天皇てんのううえ天皇てんのうなりためりょう傀儡かいらい;而且義滿よしみつまたゆう篡位てき意圖いといん朝廷ちょうてい決定けっていはた其剷じょじんどく義滿よしみつ毒死どくし井澤いざわもとみとめため暗殺あんさつしゃ很有可能かのう義滿よしみつしょ親近しんきんてき人物じんぶつ世阿彌ぜあみ二條にじょう良基よしもと。此外,也有やゆう可能かのう當時とうじてき幕府ばくふ將軍しょうぐん足利あしかが義持よしもちいんため義滿よしみつ寵愛ちょうあい義持よしもちてきおとうとおとうと足利あしかが義嗣よしつぐ,這使義持よしもちてき地位ちい受到おびえかんじいた非常ひじょう不安ふあん

しか當時とうじ公卿くぎょうてき日記にっきちゅう根本こんぽんぼつゆう發現はつげん義滿よしみつ暗殺あんさつてき相關そうかん記載きさいいん暗殺あんさつせつぼつゆう直接ちょくせつ證據しょうこ。而井さわもと彥認ため朝廷ちょうてい所以ゆえんざい足利あしかが義滿よしみつ死後しご追贈ついぞう其「太上天皇だじょうてんのうてき稱號しょうごうためりょう鎮撫ちんぶ暗殺あんさつてき義滿よしみつ怨靈おんりょう

經歷けいれき

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※()內為旧曆きゅうれき

家族かぞく

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  • 兄弟きょうだいあねいもうと
    • 千寿せんじゅ王丸おうまる
    • かしわにわきよし
    • 足利あしかが滿みつるかい
    • 廷用むね
    • 女子じょしたからきょうてら殿どのめぐみあきら?)

接受せつじゅ義滿よしみつへんいみなてき人物じんぶつ

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よし

滿みつる

登場とうじょう作品さくひん

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小說しょうせつ
かげげき
どう

附註ふちゅう

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  1. ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 あかり·日本にっぽんでん
  2. ^ 籌海へん記載きさい明成めいせいざい1404ねん郑和统督すい师10まんだし使日本にっぽんこう足利あしかが义满宣旨せんじ:“使つかい其自ぎょう剿寇,以本国之くにゆきほう”;いん足利あしかが義滿よしみつかしこ懼而剿滅そうめつやまと寇。這就ていかず東洋とうようせつ」。しか而鄭東洋とうようてき事蹟じせきざいあかり·なり本紀ほんぎ》、《あかり·ていかずでん》以及《あかり·日本にっぽんでんちゅうみな記載きさい;且也於任なん日本にっぽん史料しりょう。如此龐大てき軍事ぐんじ行動こうどう竟然ざい正史せいしちゅうぼつゆうにんなん記載きさいゆう學者がくしゃみとめためなみ史實しじつていかず東洋とうよう一事いちじ真實しんじつ目前もくぜん中國ちゅうごく學界がっかい存在そんざい大分おおいた歧。(→まいり論文ろんぶんがく术界对下东洋说的质疑」)。
  3. ^ 現在げんざい日本にっぽんかんかた認定にんていこう小松こまつ天皇てんのうため日本にっぽんてきだい100だい天皇てんのう,這與當時とうじてき正統せいとう天皇てんのうけい圖譜ずふゆうしょ出入でいり現在げんざいしょ認定にんていてき天皇てんのう弘文天皇こうぶんてんのう淳仁天皇じゅんにんてんのう仲恭天皇ちゅうきょうてんのう當時とうじ排除はいじょざい正統せいとう天皇てんのうそと;而在當時とうじ神功じんぐう皇后こうごうのりとうさくいち天皇てんのうまちさいじょう當時とうじ認定にんてい北朝ほくちょう一系いっけいため正統せいとういん此後圓融天皇えんゆうてんのう恰巧就是だい100だい天皇てんのう

參考さんこう文獻ぶんけん

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足利あしかが義滿よしみつ
かん
前任ぜんにん
今出川いまでがわこうただし
大臣だいじん
1381ねん8がつ13にち-1382ねん2がつ9にち
つぎにん
德大寺とくだいじみのるときにち徳大寺とくだいじみのるとき
前任ぜんにん
じょうにちじょう
左大臣さだいじん
1382ねん2がつ9にち-1388ねん6がつ30にち
1393ねん2がつ7にち-1393ねん10がつ22にち
前任ぜんにん
德大寺とくだいじみのるときにち徳大寺とくだいじみのるとき
そらかけ
した一位持有相同頭銜者:
一條いちじょうけいにち一条いちじょうけい
太政大臣だじょうだいじん
1395ねん1がつ16にち-1395ねん6がつ20日はつか
つぎにん
久我くがどおりにち久我くがどおり
军职
前任ぜんにん
足利あしかが義詮よしあきら
北朝ほくちょう
征夷大將軍せいいたいしょうぐん
1369ねん2がつ7にち-1395ねん1がつ8にち
つぎにん
足利あしかが義持よしもち
前任ぜんにん
宗良親王むねながしんのうあるいんりょう親王しんのう
南朝なんちょう
前任ぜんにん
德大寺とくだいじみのるとき
みぎ近衛このえ大將たいしょう
1378ねん9がつ19にち-1384ねん4がつ1にち
つぎにん
久我くがどおり
貴族きぞく爵位しゃくいあたま
前任ぜんにん
足利あしかが義詮よしあきら
足利あしかが將軍家しょうぐんけにち足利あしかが将軍家しょうぐんけだい3だい當主とうしゅ
1369ねん-1395ねん
つぎにん
足利あしかが義持よしもち
前任ぜんにん
久我くがどおり
源氏げんじ長者ちょうじゃ
1383ねん-1395ねん