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重定しげさだこうじょとも
かられつ
統治とうち937ねん-943ねん
つぎにんみなみから元宗もとむね
出生しゅっしょう(888 -01-07)888ねん1がつ7にち
逝世943ねん3がつ30にち(943さい—03—30)(54さい
やすそう
年號ねんごう
のぼりはじめ:937ねんじゅうがつ-943ねんがつ
谥号
ひかりぶん肅武こうだか皇帝こうてい
庙号
れつ
せいみなみとう

みなみかられつbìan(889ねん1がつ7にち—943ねん3がつ30にち),せいりん小字こあざ彭奴だいじゅうこく時期じきみなみとう開國かいこく皇帝こうていじょしゅうひと原名げんめいじょともみなみくれ權臣けんしんじょあつし養子ようしみなみとうだい1にん國主こくしゅけん開國かいこく皇帝こうていのぼりはじめ後便こうびん励精图治,使つかいみなみとうてき國力こくりょくだいためひさげます

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关于昪的,历史上しじょう众说纷纭,莫衷いち宋朝そうちょうつかさ马光资治どおり鉴考异》就收录了四种不同的说法[1]

其中一种观点认为李昪是唐朝皇族后裔,这种观点しゃ以私修史しゅうしちょ及杂稗史はいしきょおお[2]すえじゅうこく春秋しゅんじゅう》总结,みなみから灭亡きさきみなみから旧臣きゅうしんじょさく江南こうなん》记录みなみから历史,其中就提出ていしゅつ昪是から宪宗だいはちけんおうつとむてきげん孙,释文莹たま壶清话》さいようりょう这种说法[3]昪之孙从浦はかこころざし铭《そうひだり龙武卫大将たいしょう军李こうはかこころざし铭》也自称じしょうけんおうつとむてききさき[4]陆游みなみから书》进一步提出了具体的世系是李恪生李超,ちょうなま荣,荣生[5]龙衮江南こうなん野史やし马令みなみから书》けい谱与陆游书类ただし认为ちょう仅仅つとむてききさき裔而儿子[6][7]赵世のべみなみから书序》,陈霆とうあまり纪传》沿袭りょう这种观点;ひろししょくきさきぬし实录》记载昪是曾任岭南节度使てき嗣薛おうともやわら之子ゆきこ[8]郑文たからこうおもてこころざし》认为昪是からあさ郑王てき疏属ささえ[9]陈彭ねん江南こうなん别录》仅称为唐宗室そうしつぼつゆうゆびあかり谁的きさきだい[10],《きゅうだい》则记载李昪自称じしょうからげんむね之子ゆきこながおうてききさきだい[11]自称じしょうからあさ皇室こうしつきさき裔,ざい五代十国时期就受到诟病,钱元瓘あずか沈韬ぶん曾出げん讽刺[12]

而宋だい以来いらい另有一种观点认为李昪祖先不过是平民,正史せいし所持しょじ这种观点。《きゅうだい》记载昪仅仅是“自称じしょうからあさ皇室こうしつきさき[11],《しんだいどう样是记载昪“自称じしょうけんおうつとむてきげん[13],且称其出身しゅっしんほろ[14],而《资治どおり》记载打算ださん吴王つとむ为祖さき时曾ゆう部下ぶかけん议以郑王もと为祖さき昪下れいゆう关部门考察こうさつつとむかずもと懿的きさきだいいんつとむてき孙子曾有军功,祎的儿子また做过宰相さいしょう,于是昪才以つとむ为祖さき自称じしょう岘下传五世到李昪的父亲李荣,这五世的名字大部分都是杜撰出来的,昪又觉得とうあさ经历りょうじゅう九个皇帝历时三百年,怀疑自己じこてきけいじゅう代人だいにんふとしょうゆう关部门奏しょういち代人だいにんさんじゅうねん,而李昪出生しゅっしょうから僖宗文德ふみのりとし间,やめ经五じゅうねんりょう昪于从了[15]

另一种观点则见于钱俨吴越备史》,其中称ちゅうしょう昪之ちち本姓ほんせいはんいん为被敌将神福かみふく掳走而成为李神福かみふくてきやつきさきじょあつしざい神福かみふく见到昪,对其じゅうふん惊异,とげ请求おさむ为养[1][16]刘恕じゅうこく纪年》认为昪附かい祖宗そそうとうあさ宗室そうしつきさき裔,过吴えつあずかみなみからかたき敌,《吴越备史》也非实。少年しょうねん时就遭遇そうぐう战乱なりりょう儿,其祖さきけい根本こんぽん无法得知とくちちょうこころざしてき名字みょうじあずかじょあつし曾祖そうそ祖父そふ同名どうめい完全かんぜん附会ふかい[17]

生平おいだいら

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昪,から朝光ともみつよんねん十二月じゅうにがつにち(889ねん1がつ7にちなまじん[18]小名しょうみょう彭奴。ちち性格せいかく谨厚,ゆう于佛てら彭奴六岁时其父於動亂中喪生,あずか伯父おじたま逃亡とうぼうほりしゅう久之ひさゆききさき生母せいぼ刘氏そつとげたく养于ほりしゅう开元てら

いぬいねん楊吳ふとし杨行みつおさむほりしゅうとく彭奴,相貌そうぼうよくおさむ养为おのれ,而杨ぎょうみつ诸亲以其ほろ贱,齿为兄弟きょうだい。杨行みつとげはた彭奴交给じょあつし为养とげ改名かいめい为徐誥。じょあつし妻子さいし以李彭奴あずかおのれ为同せい,甚为爱护。

楊吳時期じきじょとも誥因こうるいますのぼりしゅう防遏ぼうあつ使ろうせん使のぼりしゅう刺史ししうるうしゅうだんねり使、检校じょとも為政いせい寬仁かんじん[19]またのう節儉せっけんしょ,獎勵のうくわいん此府充實じゅうじつ當時とうじじょあつしきょのぼりしゅうなみ長子ちょうしじょともくんきょみなみくれ都城みやこのじょうあげしゅうひかえせいみなみくれ政權せいけん天祐てんゆうじゅうねん(918ねんじょともくんいん驕傲きょうごう荒淫こういんためしゅところころせじょとも誥就きんうるうしゅうわたし長江ながえひらたへんじょあつし乃以其为淮南ワイナン节度ぎょう副使ふくし内外ないがい马步副使ふくし代替だいたいじょともくんとめあげしゅう日常にちじょう政事せいじみなゆかりじょとも處斷しょだん

じょとも誥在あげしゅう一反いったんじょともくんてき作為さくい恭敬きょうけいごとたてまつくれおう楊隆えんじなみ且謙卑對まち大夫たいふたいまちぞく寬大かんだい生活せいかつ儉僕,なみそうひとしおかためはかりごと改革かいかく稅制ぜいせいいん此國ぜいややつよ人心じんしんたけ义元ねんじょとも誥拜为左仆射、まいり政事せいじ。顺义初年しょねんふうどうたいらあきらごと、领江しゅう观察使たてまつ军节使

みなみくれじゅんよしななねん(927ねんじょあつしじょとも誥與じょあつし親子おやこじょともそうけんじょとも誥趁じょとも入朝にゅうちょうてき機會きかいはた其扣とめ此完ぜん掌握しょうあくみなみくれ政權せいけんふとしさんねんじょとも誥升为太じょうちゅう书令、领镇うみ宁国诸军节度使ふう东海ぐんおう镇金りょうてん元年がんねん(935ねん),ふうなおちちふとし师、だい丞相じょうしょう天下てんかへい马大もと帅,进封齐王,以升しゅう、润州、せんしゅう池州いけす、歙州、つねしゅうしゅう、饶州、信州しんしゅううみしゅう为齐こくじょとも诰置百官ひゃっかん,以金りょう为西

しょうみかど

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てんさんねん(937ねん),じょとも誥改めいじょ誥。同年どうねん杨溥让位,みなみ吴亡。じょ誥即皇帝こうてい国号こくごうだい[20]あらため年號ねんごうのぼりはじめ,以昇しゅうきんりょうたてやすし)为西,扬州广陵こうみやこ)为东ついみことじょあつし为太たけ皇帝こうてい

のぼりもとさんねん(939ねん正月しょうがつかのえいぬこうおうじょとも、饶王じょとも上奏じょうそう朝廷ちょうていきょう请徐誥恢復原ふくげんせいじょ誥不じゅんそう正月しょうがつみずのとひだり丞相じょうしょうそう齐丘とうひとさいつぎ上書うわがきじょ誥乃じゅんがつおつじょ自稱じしょうからあさ宗室そうしつあらため国号こくごうだいとうあらためじょあつし庙号为义。复李せいはつあらためめい为昂,はんからぶんむねめい讳;旋改めいあきらまた其与きさきはりふとししゅあつし同名どうめいまた改名かいめい为旦,はんから睿宗せいいみなさい改名かいめい为昪。昪下れいたて天子てんしなな庙,以から高祖こうそからふとしむね、以及みなみから义祖じょあつし为不迁之昪由於家族かぞくけいしょうまたようあずかからあさ皇室こうしつよじ關係かんけいよく以唐あさ吴王つとむ为远大臣だいじんそうつとむちょうまごしぼ如以郑王もと为祖。昪乃れい大臣だいじんこう二王におう苗裔びょうえいつとむ孙李祎有功ゆうこう祎之岘为宰相さいしょうとげつとむ为祖。昪於创家谱,曰生ちち荣,荣之ちちこころざしこころざしちちちょうちょうこれ为李岘。其名字みょうじあずかかん衔皆杜撰ずさん当年とうねんさんがつ昪下诏尊十世祖李恪为定宗孝静皇帝,曾祖そうそちょう为成そう孝平たかひら皇帝こうていこころざし为惠そう孝安たかやす皇帝こうていちち荣为庆宗孝德たかのり皇帝こうてい[21]

昪欽りょう内部ないぶ

昪登帝位ていいあらためきゅうやしき为崇とく宫,せい厅为こう庆殿。またあらため东都文明ぶんめい殿どの为乾もと殿しんがり英武ひでたけ殿どの为明こう殿どの、应乾殿どの为垂拱殿、あさ阳殿为福あきら殿どの、积庆宫为崇道すどう宫;あらため西都さいとたかしえい殿でん为延すぐる殿どのしこり华前殿どの为昇もと殿しんがりきさき殿どの为雍かず殿どの、兴祥殿どの昭德あきのり殿どの、积庆殿どの为穆きよし殿どの昪勤於政事せいじなみきょうじょへい變更へんこう舊法きゅうほうさかいやすみんあずかみん休息きゅうそくまたあずかえつ和解わかいのぼりもとねん吴越こく大火たいか群臣ぐんしん请趁つくえおさむ,而李昪称“奈何いかんじん灾!”使つかいあつ赠金帛慰问。吴越すい灾,其民就食于南から境内けいだい昪也遣かん员赈济。

しか而李昪崇尚道なおみち术,いん服用ふくようやく中毒ちゅうどく個性こせいへんとく暴躁えきいかのぼりもとななねん(943ねん),昪服しょくかたふみもり冲所けんじきむまこと”,上生わぶかさひさびょうじょう惡化あっかざいのぼりはじめ殿どの,终年じゅうろく岁。临终ぜん召子齐王しょく曰“とくあきら宫储えびすきんななひゃくあまりまんなんじ守成しゅせい业,むべぜん交邻こく,以保社稷しゃしょくわれふく金石かねいし欲求よっきゅうのべねんはん以速なんじむべ视以为戒”;また啮齐おう手指しゅし出血しゅっけつしょう他日たじつ北方ほっぽう有事ゆうじ,勿忘われげん”。璟繼うえ谥号ひかりぶん肅武こうだか皇帝こうていびょうごうれつそうえいりょうきさきあらためりょうごう为钦りょう)。

家庭かてい

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妻妾さいしょう

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  • おうもとはいついふう顺妃
  • そうぶくきん,继室,そくもとけい皇后こうごう
  • 种时こうこうおうけい逷母
  • あきらようよし(912ねん-945ねん),東海とうかい朐山じん曾祖そうそきちちょうろうしゅうりゅうよう縣令けんれいことぶきよう縣令けんれいきちとうてき孙女,うみしゅう怀仁县令きち彦辉てきおんな儿。だいさんねんあきなながつはつにち薨,ねんさんじゅうさん岁。[22]
  • なんじみなみこおりくんしゅうだいさんねん(945ねん),ゆかり璟追ふう许国たい[23]
  • たいらあきらぐんくんはじめ(883ねん-926ねんはじめ及的おんな儿。どうひかりよんねんがつじゅうゆうきゅうにちたいらあきらぐんくんぼつ於大おだいない别院,享年きょうねんよんじゅうさん[24]

子女しじょ

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昪有おんな儿有查为ななにん

ちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 1.0 1.1 《资治どおり鉴考异·まきさんじゅう》:こう异曰:周世すせむね实录及薛しょう昪唐げんむねだい六子永王璘曲裔,江南こうなん录云宪宗だい八子建王恪之玄孙。ひろししょくきさきぬし实录うん:「から嗣薛おうたすくやわら为岭みなみ节度使そつ于官,其子诰流落江淮,とげ为徐ゆたか养子。」《吴越备史》うん:「昪本はんみずうみしゅう安吉やすよしじんちち为安きちとりでしょう。吴将神福かみふくおさむころも锦军,过湖しゅう,虏昪归,为仆隶。じょあつし尝过神福かみふく,爱其谨厚,もとめ为养。以谶うん『东海鲤鱼飞上天じょうてん』,昪始ごと神福かみふくきさき归温,おかせ以应谶。」刘恕以为昪复せい附会ふかい祖宗そそうかた,而吴えつあずか唐人とうじんかたき敌,また实录。昪少遭乱,莫知其祖けい;昪曾祖そうそちょうこころざし,乃与义祖曾祖そうそ同名どうめい其皆附会ふかい也。
  2. ^ 邹劲风 《みなみ唐国からくに南京なんきん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ 2000ねん6がつ ISBN 7-305-03579-3 57-58页
  3. ^ たま壶清话·まききゅう》:さきぬし昪,せい伦,から宪宗だい八子建王恪之元孙。
  4. ^ ぜんそうぶん·まきよんじゅうなな》:おおやけ讳从うらだい本名ほんみょうはつ谦,宪宗だい八子建王恪之后,みなみかられつ孙,もとそう之子ゆきこきさきぬし贵介おとうとこうひだりけい公子こうし也。
  5. ^ 陆游《みなみから书·まきいち·れつほん纪》:れつこうぶん肃武こうだか皇帝こうていめい昪,せい伦。小字こあざ彭奴。じょしゅうじんせいから宪宗だい八子建王恪之玄孙。つとむなまちょうはやそつちょうなまこころざしつかまつ为徐しゅうばんそつかんいん焉。こころざしせい荣。荣性谨厚。浮屠ふとゆうみそ迹精しゃ。时号道者どうしゃみかど以光启よんねん十二月じゅうにがつにちせい于彭じょう
  6. ^ 江南こうなん野史やし·まきいち》:さきぬしせいめい昪,せい伦。其先から宪宗之子ゆきこたておうつとむきさき
  7. ^ 马令 《みなみから书·まきさんじゅう·けい谱》:宪宗けんおうつとむさきぬし始祖しそ也,つとむ元和げんなもと年始ねんしふうじ,时淄あお节度使师古,其弟师道丐符节,诏恪为鄆しゅうだいとくひら卢军淄青とう节度大使たいし,长庆元年がんねん薨,无子,以宗しつ嗣。亾其めい。其后ゆうちょうしゃある以为けんおうきさき,懿僖时,宗室そうしつ远,とげあずか异姓しん杂而宦,いたりある流落ながれおちみん间。ちょう之子ゆきここころざし为徐しゅうばんなま荣,ごう道者どうしゃ,荣生さきぬし即位そくい为南とう
  8. ^ しょくきさきぬし实录》:から嗣薛おうともやわら为岭みなみ节度使そつ于官,其子诰流落江淮,とげ为徐ゆたか养子。
  9. ^ こうおもてこころざし·まきじょう》:みなみから高祖こうそせい,讳知诰。なま于徐しゅうゆうから郑王疏属えだ泒。ちちこころざし荣俱つかまつ
  10. ^ 江南こうなん别录》:れつ讳昪,とう宗室そうしつ也。旧名きゅうめい诰,为义しょ养。
  11. ^ 11.0 11.1 きゅうだい·まきいちひゃくさんじゅうよん·僭伪れつ传一》:昪自うんからあかりすめらぎだい六子永王璘之裔。
  12. ^ てんちゅう记》:きむりょうよく以唐ごうこく,钱文きよしおう闻之曰:きむりょうおかせ氏族しぞく为巨とうまた骇人乎?沈韬ぶん曰:此可たとえ也。且如乡校间有せいあなしゃにん则云あな夫子ふうし,复何かい哉!おうだいわらい,赏卮しゅ
  13. ^ しんだい·まきろくじゅう·みなみからだい》:げんから宪宗けんおうつとむなまちょうちょうなまこころざし,为徐しゅうばんこころざしせい荣。乃自以为けんおうよんせい孙,あらため国号こくごう曰唐。
  14. ^ しんだい·まきろくじゅう·みなみからだい》:昪,せい伦,じょしゅうじん也。ほんほろ贱,ちち荣,ぐうとうまつみだれ不知ふち其所终。昪少りゅうぐうほり、泗间,杨行みつおさむほりしゅうとく其状貌,养以为子。
  15. ^ 《资治どおり鉴·まきひゃくはちじゅう·きさきすすむ纪三》:からしゅよく吴王つとむある曰:“つとむ诛死,わか郑王もと懿。”から主命しゅうめい有司ゆうしこう二王におう苗裔びょうえい,以吴おう孙祎有功ゆうこう,祎子岘为宰相さいしょうとげ吴王,うんせいいたりちち荣。其名りつみな有司ゆうししょせんとうぬしまた以历じゅうきゅうみかどさんひゃくねんうたぐじゅうせいふとししょう有司ゆうし曰:“さんじゅうねん为世,陛下へいかせい于文とくやめじゅうねん矣。”とげ从之。
  16. ^ 《吴越备史·まきさん》:昪本はんみずうみしゅう安吉やすよし县人。ちち为安きちとりでしょう。尝因淮将神福かみふくおかせわが吴兴,すえはん而去,とげ为神福家ふけやつじょあつし尝造神福かみふく,见而异之,もとめ为养いたり乃隐ほんぞく而冒じょせい焉。きさき尝致书于わが,以毗りょうもとめえき吴兴,仍引祊田为说,则本はんあかり矣。
  17. ^ じゅうこく春秋しゅんじゅう·まきだいじゅう·みなみとういち·れつほん纪》:按刘じょじゅうこく纪年うん:昪复せい附会ふかい祖宗そそうからきさき
  18. ^ じゅうこく春秋しゅんじゅう/まき015
  19. ^ ふみあつし《钓矶りつ谈》载:“以文艺自このみ,招徕儒俊,きょう论治たい”,また人司ひとしもり关徼,物色ぶっしょくきたらい衣冠いかん,凡形じょう伟者,必使引见。语有さいずいそくますよう。”《じゅうこく春秋しゅんじゅう》记徐诰“选用れん吏,修明のぶあき政教せいきょう,招延贤才,倾家赀无しょ爱,四方士大夫多归之”。
  20. ^ どおりかんじょとも誥即帝位ていいそく以大から為國ためくにごう;而しんだいきゅうだいみなみとうしょじゅうこく紀年きねんのり以徐誥原以大ひとし為國ためくにごうためじょひとしまち後來こうらい改名かいめい昪,さいためりょう附會ふかいからあさあらため國號こくごうだいとうためみなみとう
  21. ^ じゅうこく春秋しゅんじゅうみなみとういち·れつほん
  22. ^ ぜんからぶん まきはちひゃくはちじゅうなな あきらようよしこころざし Archive.isてきそんそん档日2013-06-24》
  23. ^ ぜんからぶん まきはちひゃくはちじゅう ついふう许国たいさつ Archive.isてきそんそん档日2013-06-24》
  24. ^ ぜんからぶん まきはちひゃくはちじゅうなな たいらあきらぐんくんはじめこころざし Archive.isてきそんそん档日2013-06-24》

外部がいぶ链接

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