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そんしん

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重定しげさだこうそんしん
そんしん
昵称そんしんきゅうふとし
出生しゅっしょうひねしゅうあておかけんいま河南かなんしょう淮陽
逝世かそけしゅう
国籍こくせきかんぞく
こういのちこうとう
罕之かつようそんつとむ
军种步兵ほへい騎兵きへい
军衔檢校けんぎょうひだりぼくしゃ
左右さゆうひさしぐん指揮しき使
しげるかん指揮しき使
忻州刺史しし
しげるかんふくそうかん
安國やすくにぐん節度せつど使
よこうみ節度せつど使
はくぐん指揮しき使
どう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと
內外しげるかんうまあゆみそうかん
さむらいちゅう
りゅう節度せつど使
檢校けんぎょうたい
中書ちゅうしょれい
尚書しょうしょれい
ぐんぎんやりこうぶしぐんしげるかんうまあゆみだい
统率ふみけんおうけん
参与さんよ战争やぶしゅあつし退すさちぎりかいかそけしゅう及同しゅうかこえじょう
获得勋章はたおうただしれつ扶天啟運けいうん功臣こうしん

そんしん(862ねん—924ねん),本名ほんみょうそんとくさちひねしゅうあておかけんいま河南かなんしょう淮陽にん[1]中國ちゅうごくだい時期じきてきこうとう軍事ぐんじ將領しょうりょう,一生經歷百餘次戰役而未嚐敗績,曾經つぎあずかこうはり交戰こうせんなみ擊破げきはしゅあつし驅逐くちくきたばくちぎりあずかどうほうしゅういさおたけしひとしめい[2]よしためすすむおうかつようおさむため義子ぎしたまものこくせいいん部分ぶぶんさつまたためそんしんいたこうからあかりむね嗣源其子復歸ふっき舊姓きゅうせいざいおうおさむところせんしんだい列傳れつでんちゅうただ一得以保留原本姓氏的人,其餘授國せいてき眾人みなためせい

生平おいだいら

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出身しゅっしん

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そんしん父親ちちおやすわえばんとうてきひねしゅうきばはた統率とうそつやく5,000兵馬へいば[3]ただしいえさかいなみ富裕ふゆうそんしん少年しょうねん性格せいかくごう邁,じゅう俠義精神せいしん;而且機智きちはかりごと歡談かんだんろん兵法ひょうほうせんごと[4]とうまついぬいななねん(879ねん朝廷ちょうていおとろえはい河南かなん一帶いったい強盜ごうとうよんおこりねん僅約18さいなま亂世らんせいてきそんしん糾集附近ふきん土豪どごうあおたけしりつりょう守衛しゅえいえん[5]

其後そんしんとうぐん追隨ついずい光州こうしゅう刺史しし罕之うえすなじょう中和ちゅうわねん(885ねん罕之不敵ふてき「蔡州皇帝こうていはたはじめけん放棄ほうき領地りょうちとう奔風ひょう甚佳てきしょかずら[6]そんしん也跟したがえいた河陽かわよう擔當たんとうしょうこういちしょく,屢戰蔡寇有功ゆうこう[7]惜諸かずら爽死罕之いん性情せいじょう暴戾ぼうれい不能ふのうふく眾,ぞく便びんざいふところしゅう紛紛ふんぷん四散しさんつよし滿まん23さいてきそん審也しんやざい此時さいすすむおう獨眼龍どくがんりゅうかつようため君主くんしゅ展開てんかい其南せいきたてき將領しょうりょう生涯しょうがい[8]

早年そうねん戰績せんせき

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加入かにゅうすすむぐんそんしん獲得かくとくかつようじゅうたまもの授姓めい及收ため養子ようしなりためじゅうさんふとしこれいちまた受命じゅめいてのひらかんぐん[9][10]よし於符そんしんしょうざい軍旅ぐんりょ長大ちょうだいすなじょうじょう機知きちへん行軍こうぐんほういのちいむあきら如山,又喜またき歡用へいせいしょう從來じゅうらいぼつゆう戰略せんりゃくしつあやま[11]じょう其品せいあつしあつ低調ていちょう謹言きんげんまきこういん而侍ぐうたかし[12]特別とくべつ跟隨かつよう討伐とうばつ吐谷渾族てき赫連鐸どき表現ひょうげん勇猛ゆうもうおかせたたかえりゅうみつるそで」,かつようおやため治療ちりょう傷口きずぐちなみ日夕にっせき慰問いもん[13]

いぬいやすし元年がんねん(894ねんりゅう節度せつど使ただし屢犯河東かとうすすむおうおやせい反擊はんげきはん佔武しゅうかずしんしゅうただし籌見ぜいしょくたいはつへい堅守けんしゅきょいさおせき不出ふしゅつ,此時かつよう以少りょう騎兵きへいざい關前せきまえ擾敵,實則さねつね派遣はけんねんやく32さいてきそんしんにん先鋒せんぽうりょう步兵ほへいしたがえいちじょう夾擊きょうげき其背,結果けっかそんしん大敗たいはいかそけしゅうぐん,一舉攻下居庸關,ころせ及俘とりこてきかたまんにん[14]いぬいやすしねん(895ねん邠州守將しゅしょうおうこうれんどうかんけんしげる貞三ていぞう叛唐,かつようりつぐん勤王きんのうめんたいちょ邠州主力しゅりょくたむろ紮在龍泉りゅうせん寨,這個寨四めんゆう懸崖けんがい,而且石壁いしかべ險峻けんしゅんそんしんりょう九牛二虎之力才攻下龍泉寨,げきつぶせおうこう瑜,かい授予「檢校けんぎょうひだりぼくしゃ[15][16]

これ輔佐ほさ嗣昭さいおさむ汾州てき瑭,そんしんざい戰場せんじょうじょう瑭生とりこ,憑這功勞こうろうあらためにん左右さゆうひさしぐん指揮しき使[17]天祐てんゆうさんねん(906ねん),そんしんます遷「しげるかんうまあゆみふく指揮しき使出征しゅっせい潞州あずか嗣昭ざいうえとう降服こうふくひのとかい[18]またごうへいりゅう節度せつど使しゅういさおたけしざい夾城消滅しょうめつりゅうぞくさいふう檢校けんぎょうつかさ忻州刺史ししけんりょうしげるかん指揮しき使[19]

天祐てんゆうななねん(910ねんかつようやめ病死びょうしすすむおうくらいよし25さいてき長子ちょうしそんつとむからそうむね繼承けいしょうやめけい48さいてきそんしん作為さくいろう重臣じゅうしんふう檢校けんぎょうふとし兼任けんにんしげるかんふくそうかん[20]當時とうじすすむはりそう霸,そんつとむざいじゅうがつりつりょうすすむぐん南下なんかざい柏鄉かしわごうあずかはりぐん大戰たいせん鎮守ちんじゅふとしはらてき任務にんむ就交よしそんしんせめ[21]翌年よくねんさんがつ代替だいたいそんあきらぜん往晉はり交界じゅうちょうしゅう戍守。

やぶしゅあつし

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天祐てんゆうきゅうねん(912ねんりょうふとししゅあつしりつごうたたえじゅうまんてき大軍たいぐん進攻しんこう鎮州ていしゅう命令めいれい部將ぶしょう楊師あつおさむいれなつめつよしこう血腥ちなまぐさほふしろれん老人ろうじん孺也;而自己じこそくおやりつとくりんとうひとかこえおさむ蓨縣(こん河北かほくけいけん)。せいざい附近ふきんちょうしゅうちゅう紮的そんしんたい部下ぶかふみけん嗣肱(かつよう從弟じゅうていかつおさむ之子ゆきことう800にんすくいそんしんふか雙方そうほう兵力へいりょくゆうべつざい抵達しん後先あとさき奪取だっしゅはくきょう阻止そしはりぐん繼續けいぞく北上ほくじょうまたけん瑭、嗣肱りつ600捉拿がえはりぐんまきてきじん,俘獲すうひゃくにんすべすべ處刑しょけい,卻特ゆずるとうなかてきじゅうすうにん逃走とうそう些僥倖保いのちてきじんかい寨後おどろきたましい未定みてい紛紛ふんぷんさけべ嚷說すすむぐん主力しゅりょくやめけいあつじん使つかいいたはりぐん士卒しそつ人心じんしん惶惶。翌日よくじつそんしんよう經過けいかたかしそうてき600騎兵きへい突擊とつげきはりぐんだい營,ゆかり於他們全ちょはり軍旗ぐんきごうしゅあつしおそれゆういつわりしも損失そんしつ甚鉅,いたりはたばん份晉ぐんちょく殺到さっとうたいかた副將ふくしょうとくりん跟前,なみ放火ほうかしょう燬梁ぐんだい寨後かたざい撤退てったいしゅ溫見ぬくみおのれかたそんおり無數むすうじんぜい大亂たいらんただゆうとうそく拔寨連夜れんや遁逃,扶病かえしかい洛陽らくようこうひさ便びんしょころせ

元城もとしろ會戰かいせん

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天祐てんゆうじゅうねん(915ねん夏季かき年少ねんしょうつぎためすすむおうてきそんつとむからそうむね決定けってい進攻しんこう河北かほくはくてんゆうなみそんしんにんぜんほこさきおさむふく臨清はちがつそんしん盤踞ばんきょけんあずか僅僅きんきんあいへだたさんじゅうさとてきはりぐんりゅうそういちにちすうせん,互不しょうゆずるきゅうがつちゅうりつせん平定へいていかいしゅうてきちょうみなもといさおまたあずかおうけん及合へいよう騎兵きへい千突襲敵陣側翼,擊退げきたいりゅう鄩的援軍えんぐんいちまんにん翌年よくねんさんがつりゅう鄩軍おわり於按捺不じゅう全力ぜんりょくはんさかいしゅうやめけい會合かいごうそうむねてきそんしんまたりつ大軍たいぐん截斷せつだん其退さこ使つかい雙方そうほうざい元城もとしろ舊址きゅうし開戰かいせんはりぐんつぶせはい,而符そんしんじょうかち追擊ついげき,趁勢さいおさむふくりょう澶、まもる、磁、洺州。じきとういた秋涼しゅうりょう時節じせつ邢州てき守將しゅしょう閻寶またこうそんしん請降。そうむね以收ふくしゅうこう,授予そんしん安國やすくにぐん節度せつど使兼任けんにん邢洺磁等しゅう觀察かんさつ使じゅうがつ戴思とお得知とくちそんしんへい滄州たてこく聞風而逃,じょうすすむもうあきらのり開城かいじょう投降とうこうそうむね大喜だいぎ授符そんしん檢校けんぎょうふとでんよこうみ節度せつど使けんりょうはくぐん指揮しき使」。翌年よくねんさいどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとこれしょく

わたうら裹針退すさちぎり

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天祐てんゆうじゅうよんねん(917ねん),ちぎりさんじゅうまん大軍たいぐんかこえこまかそけしゅう今北いまきたきょうてきしゅういさおゆかり於另一邊廂正與梁軍相持不下,そうむね非常ひじょう苦惱くのう該如なんこのみそうはつへいすくいかそけしゅうじょう兵力へいりょく不足ふそく,如果ぶんへいふとしのりゆう危險きけんただし如果援兵えんぺいまた怕幽しゅう全面ぜんめん失陷しっかん[22]便びんといさく於帳しょしょうとうちゅうただゆうそんしんみとめためかそけしゅう不可ふかすくえさらねがい請纓せつ:「請借わがせん騎兵きへい就夠りょう!」[23]そうむねそんしんつげ奮勇,就讓あずか嗣源、閻寶りつぐんななまんすくい。而符そんしんまたまけしょたくきゅうがつにちさんにんざいえきしゅうごうへい,九月十二日符存審先用鹿角陣大敗契丹的騎兵前鋒。にゅうふゆりょうぐん主力しゅりょく開戰かいせんそんしん採用さいようわたうら裹針」けいころせやぶてきしょうやす彥之,一舉擊潰契丹軍;ちぎりぬしぐん受重そうざんぐん倉皇そうこうむかい北山ほくざん方向ほうこう逃竄,輜重しちょうかて餉遍すすむぐんまたさい追擊ついげき,俘獲てきぐんじょうまんにんみな處刑しょけいとげかいかそけしゅうかこえ

天祐てんゆうじゅうねん(918ねん)二月初參與進攻楊劉城。じゅうがつすすむぐんちゅう於麻わたりそんしんしん諫莊むね當時とうじてきそうむね年少ねんしょうもりいさむ接戰せっせん經常けいじょう受不じゅう敵營てきえいさけべ囂輕而出,そんしん每次まいじいた必定ひつじょう叩馬しん諫:「おうじょう你身繫光ふくとうしつ社稷しゃしょくてき大任たいにんおう該為りょう天下でんか蒼生そうせい愛惜あいせき自己じこてき軀。接受せつじゅたいかたてき舉旗挑戰ちょうせんただ放任ほうにん刀劍とうけんてきいちかいたい於聖じょう你的ひんとく甚益しょかえ請交かいほろしんこうろう古人こじんぐうじょう盜賊とうぞくなお且不かいよし上司じょうし父親ちちおや抵抗ていこう,而今わが雖無將帥しょうすいざいただし敢不擔君ゆう[24]そうむね聽後通常つうじょう也從ぜん如流,及時かいだい營。

同年どうねんそうむねあずかのちはりぐん於胡やなぎ陂(こん河南かなん濮城西にし開戰かいせん戰況せんきょう異常いじょう激烈げきれつ辰巳たつみ份(ばんじょう7いたり11)另一員大將周德威戰死,せんきょう急轉直下きゅうてんちょっかそうむねてき部隊ぶたいややいち失神しっしんとまはりぐん就從四方しほうはちめん湧出ゆうしゅつらい[25]そうそうてきぐんしょ包圍ほうい一度いちどいきおい危,此時そんしん與三よそう彥圖出沒しゅつぼつざい敵陣てきじん沐血奮戰ふんせん[26]ちょくいたよく晨才あずかしゅぐん會合かいごうじゅうせいじんぜいなみ於午開始かいし逆轉ぎゃくてん形勢けいせい[27]いたり夕陽ゆうひ落後らくごそんしん麾下きかてきぎんやり部隊ぶたいざいおわり於在山下やました殲滅せんめつ所有しょゆうてきぐん[28][29]

天祐てんゆうじゅうろくねん(919ねんはるせっがえしゅういさおため「內外しげるかんうまあゆみそうかん」,於德かちこう分別ふんべつ建築けんちく南北なんぼくりょうじょう而據,人稱にんしょうため「夾寨」[30]なながつこうはりおうまたしたがえはじむ渡河とか竄擾澶州さそえせんそんしんこばめもり不出ふしゅつおう瓚退いた楊村渡口とぐちひかえせいじょうゆう此日よる交鋒,たいるい經年けいねん大小だいしょう凡百ぼんぴゃくせん未見みけんはい績。いたり此,昔日せきじつ一起追隨李克用並與之齊名的周德威已死,使つかいそんしんざいすすむぐんちゅうてき地位ちいさらがた重要じゅうよう[31]

なるしめせじゃく、伺隙

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天祐てんゆうじゅうななねん(920ねんはり大軍たいぐんしんはんどうしゅうそんしんようなるしめせじゃく、伺隙さくさとしかいどうしゅうかこえ當時とうじはりてきしゅともけん河中かわなかどうしゅうこん陝西せんせいだい荔)ため條件じょうけんほしこうそうむね投降とうこうはり朝廷ちょうていとく悉後ようりゅう鄩引じゅうへいしん逼同しゅうしゅともけん馬上もうえこうそうそうもとむすくえそうむね便びんたくそんしんあずか嗣昭ぜん救援きゅうえん九月くがつそんしんあずか嗣昭みち河東かわとう進軍しんぐん往河ちゅう河中かわなか一帶本來兵少且弱,はりぐんよし於過往多征服せいふく該地而相とう輕視けいしまたりょういたそんしん用兵ようへい神速しんそくやめ抵當ていとう[32]そんしん便びんとくざい自己じこてき營中挑選200めい精銳せいえい騎兵きへい夾雜きょうざつ當地とうち部隊ぶたいせんなみさき以河中部ちゅうぶたい採取さいしゅ佯敗てきさそえてき戰術せんじゅつとうはりへい出城でしろ追擊ついげき一段距離後即以200めいせい反擊はんげき果然かぜん大勝たいしょう而歸及俘てき甚多,とうはりぐん得知とくちたい份時みなだいおどろき[33]過當かとう河中かわなか一帶長期稱臣於後梁,其民眾對支持しじはりぐんあるすすむぐんりょうはし態度たいど上大かみおおぐん集結しゅうけつ河中かわなかてきぐんかて消耗しょうもう菲,嗣昭とう眾將怕情きょう反覆はんぷくあるとばり下起しもおこしらん提議ていぎそくせん速決そっけつ[34]

たむろへいあさ數日すうじつこうはりぐん逼向すすむぐん陣營じんえい當時とうじすすむぐん中有ちゅうう懂星しょうかんてんせつ西南せいなんかたかくれげん一股如鬥雞之狀的黑氣,とうゆう戰禍せんか發生はっせいそんしんかいおうせつ:「わが方正ほうせいおもえあずかてきけつ一死いっしせん,而今甚至したがえ氣象きしょうちゅう顯示けんじ出來できあに如有天助てんじょ嗎!」[35]じょうちょ士氣しきだいとうばんたてそくしん閱大ぐんなみ謹慎きんしん揮軍こうまえこうはりぐん接戰せっせん節節ふしぶし敗退はいたい損失そんしつせん餘人よにんしたがえ此便てん天守てんしゅざい堡壘ほうるいちゅう不出來ふできそんしんじょうそくたいつくりてき嗣昭せつ:「わが當初とうしょさい擔憂てきりゅう鄩佔よりどころ渭河眼下がんかてきふくぐんやめけい大敗たいはいわかしか你盡ふう掉他てき退路たいろりゅう鄩會恐懼きょうくわがよういち殲滅せんめつゆううんこましし以窮あくかさねじん不可ふか不當ふとうさくいちかいごとわが們不さまたげこくひらけいちかけこうきゅうとう撤退てったいさいほどこせ以伏げき這樣比較ひかく[36]。於是命令めいれい部下ぶかけんざいすなえん中牧なかまきむねざいれいたいかたたゆりゅう鄩、いんあきらせっほう暗暗あんあん竊喜,馬上もうえけい撤退てったいおうおさむきゅうだいたい記載きさい:「鄩以ためすすむぐん且懈,乃夜遁去」。其實そんしん此時やめけい派遣はけんおいへいざい渭河一帶突襲劉鄩,使つかい落得きん乎全ぐん覆沒ふくぼつどうしゅうかこえ便びんいん此煙しょう雲散うんさんよし此戰やくそんしんぜん於造ぜい,以攻こころためじょう活用かつよう兵法ひょうほう,這道なるしめせじゃくけい600多年たねんてきせいすすむなんじまたゆう仿傚,よう於藏するど於明ぐんふくげき闖王なり

鎮守ちんじゅ疆土

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天祐てんゆうじゅうはちねん(921ねん),叛將ちょうぶんれい謀殺ぼうさつ節度せつど使おうざい鎮州成德しげのりいま河北かわきたせいじょうわり自立じりつ嗣昭、そんしん先後せんご接戰せっせん卻相つぎじんほろび天祐てんゆうじゅうきゅうねん(922ねんそんしんりつ進攻しんこう叛軍はんぐん於鎮しゅう城下しろしたなみ以圍じょうさく使鎮州かてつき九月くがつちょうぶんれいはかりごとさいゆたか暗中あんちゅうおく款欲賄賂わいろそんしんそんしんおけ可否かひ,卻於當夜とうや暗中あんちゅう登城とじょうなまとりこちょうぶんれい之子ゆきこちょうしょちょうしょだまいちじんとう。鎮州就此そく平定へいてい捷報しょうほう獻上けんじょう朝廷ちょうていそんしんいんこうふうさむらいちゅう

天祐てんゆうじゅうねん(923ねん正月しょうがつそんしんかえしゅうそうそうちかし出城でしろ宴樂えんらく迎接げいせついくちぎりまたすすむはんつばめあざみそうむね心腹しんぷくかくたかし上奏じょうそう:「こうはりひさし平定へいていちぎり就率さき背叛はいはんわがほう,而捍まもる北方ほっぽうてき防禦ぼうぎょ重任じゅうにんたまき云云うんぬん眾將うらそんしん不可ふか[37]そうむね便びんちゅう使つかい召諭そんしん出征しゅっせいそんしん此時いんため作戰さくせん經年けいねん而積ろうなりやましだき恙在ただしかえ上奏じょうそう曰:「しん願意がんいぜん往效いのち敢託推諉,ただし老身ろうしんつうしょうれんれんぜっただおそれこらえ眼下がんか此戰これよう[38]そんしん於是ゆうりょうぐん迎擊げいげき此役,ただし仍奉むね兼任けんにんかそけしゅうりゅう節度せつど使,擔起守衛しゅえい北面ほくめん邊疆へんきょう重任じゅうにん

どうひかり元年がんねん(923ねんこうとうおわり消滅しょうめつこうはり並立へいりつこく遷都せんと洛陽らくよう朝廷ちょうています遷符そんしんため中書ちゅうしょれい及檢こうたい開府かいふどうさんつかさたまものしょくせんふうとうあさちゅうれつ扶天啟運けいうん功臣こうしん同時どうじ卻招惹朝ちゅういち些文かん詆譭,みとめためそんしんなみゆうじょ於收ふく中原なかはらぜんさかい。其時,そんしん身上しんじょうてききずきゅう患復はつじょう自責じせきため大將たいしょう卻未のう參與さんよにゅうはり戰役せんえき而鬱うつ歡,やまいきょうただとく要求ようきゅうにゅう覲尋なみ請求せいきゅう大臣だいじんかくたかし韜協すけただしかくたかし韜一こう自負じふ,而且いきどお功績こうせき和聲わせいもちみなざいそんしんしたいん而符そんしんごとゆうそうしょう要求ようきゅうめんきよし駁回。

そんしん妻子さいしかく哭著つうかくたかし韜說:「てき夫君ふくん一直以來為國家奔馳效命,あずか你又份屬鄉里きょうり舊識きゅうしき現在げんざい你竟しかにんこころ棄他いた北方ほっぽう荒地あれちおく實在じつざいなんとうてき無情むじょうよし!」[39]かくたかし韜聽ひたぶるかん慚愧ざんきただし馬上もうえまた遷怒於符そんしんそんしん上奏じょうそうあきら全數ぜんすうもと請朝京師けいし

どうひかりねん(924ねんはるてんそんしんびょうじょうげき便びん上奏じょうそうこんもとめ最後さいご一次面見皇上莊宗,またもとそんしん伏在ふくざいゆか枕上まくらがみ歎曰:「ろうおっとれきごとりょう君主くんしゅいたりいまやめけいよんじゅうねんゆうこういま天見あまみしょういた天下てんか復歸ふっき,藉此機會きかいかん四方蠻夷都可以入朝覲見聖上;てきかた亡國ぼうこく喪主もしゅはた,也無はいたおせざい你的宮殿きゅうでんまえただしどくどくわが卻被排除はいじょ在外ざいがいあに命運めいうんろうじん!」[40]かくたかし韜思忖符そんしんすんでしかいのちひさ矣,此時也就怕他そうけんぽう奏請そうせい中央ちゅうおうゆずるいれ覲面ひじりどうひかりねんよんがつ朝廷ちょうてい本來ほんらいやめけいなずらえていよう授符そんしんせんぐん節度せつど使しげるかんぐんそうかん惜詔つげいたりそんしん五月十五日便卒於幽州官舍,ねんろくじゅうさん,及後そう於太ばら

そんしんてき遺言ゆいごん陳述ちんじゅつ聖上せいじょうめん覲,げん淒惋,そうむね聞訊後悔こうかい悼良ひさし廢朝はいちょうさんにちまた追贈ついぞう尚書しょうしょれい諡號しごうどうちゅうれつ扶天啟運けいうん功臣こうしん天成てんせい年間ねんかんはいきょうそう宗廟そうびょう廷,ついふうはたおうそんしん死後しご,其子嗣後裔こうえい三輩中再出了兩位藩王、さん皇后こうごう及諸將軍しょうぐんまたつぎあずかきたそうちょう宗室そうしつれん姻,使つかいなり為當ためとうちょうあらわ一時いちじてき名門めいもん豪族ごうぞく

逸事いつじ

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  • うら逃生

そんしん年少ねんしょう曾經俘,はたようざい郊外こうがい處決しょけつ,臨行けいぜんゆびちょ一堵危牆向對方說[41][42]:「請將わが於此めん牆下,こうとう些頹かきはいかわらくつがえぶたてき屍體したい,也算ためたましいづくりぶくいたり客死かくし異鄉いきょう無人むじんそう。」[43]小兵こひょう可憐かれんそうそんしんうつりいた牆下しょ。就在そんしん押動さいたいかた首領しゅりょうようちょ飲酒いんしゅせいそう個人こじん唱歌しょうかじょきょう[44]うた就向首領しゅりょう建議けんぎ:「俘虜ふりょ中有ちゅううさけべそんしんてき乃妾舊識きゅうしき如就ようげきてのひら伴奏ばんそう吧。」[45]首領しゅりょういち興起こうきとう就上釋放しゃくほうじんそんしんとく以大なん不死ふし[46]

  • 以鏃誡子

そんしんせいきゅう晚年ばんねん召各じん於廳どうくん曰:「わが本來ほんらいようかんねん少時しょうじたいじょう一把劍便隻身離鄉別井闖功名,よんじゅうねん時間じかん過去かこおわり於位ごく人臣じんしんはた入相いりあいとうちゅう經歷けいれき如履うす冰、萬死猶生般的凶險危難不下一次,剖開皮肉ひにくしたがえ傷口きずぐちちゅう取出とりであたまひゃく。」[47]これ就把曾經取出とりでらいてきあたまきゅう們看,なみ吩咐收藏しゅうぞうおこりらいよう以提醒他們:「你們這代出生しゅっしょうざい富貴ふうきなかさらおう銘記めいきちょ你們てき父祖ふそ當年とうねんおこり舉步維艱,家業かぎょうどくらい不易ふえきゆう其切奢侈しゃし。」其九個兒子亦緊記教誨,にちかくきょ朝廷ちょうてい要職ようしょくとうちゅうゆうよんおう彥卿聞名,なりためきたそう立國りっこく初期しょきてきあさちゅう巨擘きょはく,三個女兒亦分別成為皇后:周世すせむねせん皇后こうごう周太しゅうたきさきそうふとしむね懿德皇后こうごう

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  1. 長男ちょうなん彥超 北京ぺきん留守るすふとしはらいん、汾州刺史しし昭義あきよし節度せつど使
  2. 次男じなん彥饒 やなしゅううまぐん指揮しき使義成よしなり節度せつど使、耀州だんねり使
  3. 三男さんなん彦圖 驍騎將軍しょうぐん
  4. 四男よつお彥卿 おう大將軍だいしょうぐんふとしでんふとし
  5. 五男いつお彦能 すわえしゅう防禦ぼうぎょ使たてまつくに節度せつど使
  6. 六男むつお彦琳 金吾きんごじょう將軍しょうぐん太子たいしふとし
  7. なななん彦彝 武安たけやす節度せつど使
  8. 八男はちお彥倫 いむしゅうしゅうじょうどお節度せつど使
  9. きゅうなん彦昇 あきらけい節度せつど使

じゅうさんふとし

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こうとうたけすめらぎかつよう共有きょうゆうじゅうさんめい包括ほうかつ義子ぎし),俱列ふとしためじゅうさんふとし而名どういちそんしんざい其中はいぎょうだいきゅう

  1. だいふとし - 嗣源
  2. ふとし - 嗣昭
  3. さんふとし - そんつとむそうむね
  4. よんふとし - そんしん
  5. ふとし - そんすすむ
  6. ろくふとし - 嗣本
  7. ななふとし - 嗣恩
  8. 八太はった - そんあきら
  9. きゅうふとし - そんしん
  10. じゅうふとし - そんけん
  11. じゅう一太かずた - ふみけいおもえ
  12. じゅうふとし - かんくんりつ
  13. じゅうさんふとし - そんこう

參考さんこう文獻ぶんけん及注腳

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  1. ^ そんしんとくしょうひねしゅうあて邱人
  2. ^ 功名こうみょうあずかしゅういさおしょうひきみな近代きんだいはた也。
  3. ^ ちちすわえ本州ほんしゅうきばしょう
  4. ^ そんしんしょうごう俠,さとしさんげんへい家事かじ
  5. ^ いぬいまつ河南かなんとうおこりそんしんばとりつごうみぎひさし捍州さと
  6. ^ かいぐんじん罕之おこり群盜ぐんとう,授光州こうしゅう刺史ししいん往依中和ちゅうわまつ,罕之ため蔡寇しょ逼,棄郡なげしょかずら
  7. ^ そんしんしたがえいたり河陽かわようためしょうこう,屢戰蔡賊有功ゆうこう
  8. ^ しょかずら爽卒,罕之ため部將ぶしょうしょ逼,ふところしゅう部下ぶか分散ぶんさんそんしん乃歸於武すめらぎ
  9. ^ たけすめらぎしょみぎしょくれい典義のりよしぐんたまもの姓名せいめい
  10. ^ すすむおう以為軍使ぐんしたまものせいめいそんしん
  11. ^ そんしんしょうざいぐんちゅう,識機知きちへん行軍こうぐん出師すいし法令ほうれいいむあきらけつさくせいしょうしたがえのこ
  12. ^ そんしんせい謹厚きんこうちょうぐうたかし
  13. ^ たけすめらぎ西にしせいそんしんつねしたがえところいたるたてこうしたがえ討赫れん鐸,おかせたたかえりゅうみつるそでたけすめらぎしゅふうかさ旦夕たんせき臨問。
  14. ^ いぬいやすしはつ,討ただし儔,そんしんまえぐん拔居いさおせき
  15. ^ 明年みょうねんしたがえ討邠しゅう邠之勁兵たむろ龍泉りゅうせん寨,四面しめん懸崖けんがい石壁いしかべけわしかたそんしん奮力拔之。
  16. ^ 旋,授檢こうひだりぼくしゃ
  17. ^ ふく嗣昭討李瑭於汾州,とりこ,以功あらため左右さゆうひさしぐん指揮しき使
  18. ^ 天祐てんゆうさんねん,授蕃かんうまあゆみふく指揮しき使あずか嗣昭くだひのとかい於上とう
  19. ^ したがえしゅういさおやぶぞく於夾じょう檢校けんぎょう,授忻しゅう刺史ししりょうしげるかん指揮しき使
  20. ^ 檢校けんぎょうふとしたもてたかししげるかんふくそうかん
  21. ^ そうむねげき汴人於柏きょうとめそんしんもりふとはら
  22. ^ すすむあずかはりしょうもち河上かわかみよくはつへいへいしょうよく勿救,懼失そうむねうたぐ,以問しょしょう,而存しんどく以為とうすくい
  23. ^ ねがいかりしん騎兵きへいせんそく矣!」
  24. ^ 王將おうしょうふくからむねしゃむべため天下でんか自愛じあい,搴旗挑戰ちょうせんいちけんにん無益むえき聖德せいとく,請責こう於臣。古人こじん以賊のこ君父くんぷしん雖不たけ,敢不だいくんゆう
  25. ^ 辰巳たつみあいだしゅういさお戰歿せんぼつ一軍いちぐん逗撓,はりぐんよんしゅう
  26. ^ そんしんあずか其子彥圖おかせ血戰けっせん出沒しゅつぼつぞくじんあずかそうむねぐんあい
  27. ^ 午後ごごふくしゅうげきはい汴人。
  28. ^ 十二月じゅうにがつせん於胡やなぎ。晡晚これそんしん引所ぎんやりこうぶしぐんはいはりぐん於土山下やました
  29. ^ したがえせんえびすやなぎ陂,すすむぐん晨敗,ほろびしゅういさおそんしんあずか其子彥圖力戰りきせんくれふくはいはりぐん於土やま
  30. ^ ちくかわ南北なんぼくため兩城りょうじょうすすむじんいい夾寨
  31. ^ そんしんためはた有機ゆうきりゃく大小だいしょうひゃくせん嘗敗衄,あずかしゅういさおひとしめいとくすすむきゅうしょうどくそんしんざい
  32. ^ 河中かわなかへいしょう而弱,はりじんもとえき,且不おそれすすむぐんこれそくいたり也。
  33. ^ そんしんせんせい百雜河中兵出擊掞壘,はい而走,掞兵おいすすむ反擊はんげき其騎へいじゅうはり人知じんち其晉ぐん也,みなだいおどろき
  34. ^ しか河中かわなかかてしょう而新くだ人心じんしん頗持兩端りょうたんすすむぐんたむろあさ邑,しょしょうみなほっそくせん
  35. ^ わがほうよく決戰けっせん,而形於氣象きしょうとくてんさん歟!」
  36. ^ われはつ懼劉鄩據渭河。へんすんではいかれわか退すさ,懼我かかときゅうじゅう搏人,勿謂無事ぶじひらき其歸しかつい奔。」
  37. ^ 「汴寇ひらめつぎ背叛はいはん北邊ほくへん捍禦,そんしん不可ふか」。
  38. ^ しんこうちゅう稟命,靡敢為かんいやめただし痾恙纏綿てんめんこらえ祗役」
  39. ^ われおっと於國,こうはせあずか公鄉くごううらおやきゅうおおやけにんれい北荒きたあらなに無情むじょう如是にょぜ!」
  40. ^ ろうおっとれきごとぬしたれよんじゅうねんこう而遇今日きょう天下てんか一家いっかとおえびすごくふさがみなとくめん覲彤墀,しゃかぎ祛之じん,孰不たてまつ觴丹陛,どく壅隔,あに非命ひめい哉!」
  41. ^ そんしんほろ,嘗為俘囚ふしゅう
  42. ^ はた就戮於郊がい,臨刑ゆび危垣いいぬししゃ
  43. ^ 「請就戮於此下,冀得壞垣くつがえかばねたびだましい幸也ゆきや。」
  44. ^ おもしゃあいためうつり焉。遷延せんえんさい主將しゅしょうよう而飲,おもえうたしゃ以助歡
  45. ^ 俘囚ふしゅうゆうそんしんしゃわらわ舊識きゅうしきまいれいげきぶし,以讚れい。」
  46. ^ 主將しゅしょう欣然きんぜんはせ而舍あに非命ひめい也!
  47. ^ ほんかんしょうしょう攜一けん而違鄉里きょうりよんじゅう年間ねんかんごくしょうしょう。其間たむろ危患なんくつほこさきおかせにゅう萬死ばんし而無一生いっしょう身方みかた及此,前後ぜんご中矢なかや僅百あまり。」