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清康 きよやす 熙三 さん 年 ねん (1664)《水 みず 滸後傳 でん 》刊本 かんぽん 書 しょ 影 かげ ,早稻田大学 わせだだいがく 图书馆藏。
《水 みず 滸後傳 でん 》,中國 ちゅうごく 清 しん 初 はつ 章 あきら 回 かい 小說 しょうせつ ,40回 かい ,《水 みず 滸傳 》續 ぞく 書 しょ ,作者 さくしゃ 明 あきら 遺 のこ 民 みん 陳 ちん 忱 まこと 。故事 こじ 講述 こうじゅつ 倖存的 てき 梁 やな 山 さん 英雄 えいゆう 卅多人 じん 抗 こう 金 きむ 衛 まもる 國 こく ,到 いた 海外 かいがい 暹羅 しゃむ 國 こく 開基 かいき 立業 たちわざ ,李 り 俊 しゅん 登 のぼり 基 はじめ 為 ため 王 おう ,建立 こんりゅう 新 しん 政權 せいけん ,有 ゆう 烏 がらす 托 たく 邦 くに 與 あずか 避走他方 たほう 的 てき 思想 しそう ,寄託 きたく 了 りょう 滿 まん 清 きよし 統治 とうち 下 か 明 あきら 遺 のこ 民 みん 的 てき 悲哀 ひあい 與 あずか 願望 がんぼう 。小說 しょうせつ 偶有 ぐうゆう 佳 よ 筆 ひつ ,藝術 げいじゅつ 成就 じょうじゅ 瑕 きず 瑜互見 み ,影響 えいきょう 了 りょう 19世紀 せいき 的 てき 日本 にっぽん 文學 ぶんがく 。
《水 みず 滸後傳 でん 》作者 さくしゃ 為 ため 明 あきら 末清 すえきよ 初 はつ 浙江 せっこう 烏 がらす 程 ほど 人 ひと 陳 ちん 忱 まこと [1] :102 。陳 ちん 忱 まこと 不 ふ 曾參與 さんよ 科 か 舉 ,抗拒 こうきょ 滿 まん 清 きよし 政府 せいふ ,支持 しじ 並 なみ 參與 さんよ 反 はん 清 きよし 運動 うんどう ,對 たい 異 こと 族 ぞく 統治 とうち 感 かん 到 いた 痛苦 つうく 失望 しつぼう ,加入 かにゅう 明 あかり 遺 のこ 民 みん 組成 そせい 的 てき 「驚 おどろき 隱 かくれ 詩 し 社 しゃ 」,成員 せいいん 尚 なお 有 ゆう 顧炎武 たけし 、歸 かえり 莊 そう 、吳 ご 炎 えん 等 ひとし 。1664年 ねん ,《水 みず 滸後傳 でん 》首 くび 次 じ 出版 しゅっぱん [2] :155 。陳 ちん 忱 まこと 自稱 じしょう 發現 はつげん 佚名「古 こ 宋 そう 遺 のこ 民 みん 」於元初 はつ 所 しょ 著 ちょ 的 てき 《水 みず 滸後傳 でん 》,自己 じこ 則 そく 取 と 「雁 かり 宕山樵 きこり 」為 ため 筆名 ひつめい ,以評點者 てんじゃ 的 てき 身 み 份現身 うつせみ [3] :242 。
《水 みず 滸後傳 でん 》共 きょう 40回 かい ,分 ふん 兩部 りょうぶ 份,其中情 じょう 节与《水 みず 浒传》有 ゆう 所 しょ 出入 でいり 。前 ぜん 30回 かい 主要 しゅよう 描寫 びょうしゃ 中國 ちゅうごく 國 こく 內的混亂 こんらん 局 きょく 勢 ぜい ,梁 やな 山 さん 好漢 こうかん 陸續 りくぞく 聚集,在 ざい 第 だい 29回 かい 人數 にんずう 達 たち 到 いた 32人 にん 。後 こう 10回 かい 寫 うつし 梁 やな 山 さん 英雄 えいゆう 決定 けってい 到 いた 異國 いこく 他鄉 たきょう ,該地君主 くんしゅ 英明 えいめい 而百姓 ひゃくしょう 善良 ぜんりょう ,結局 けっきょく 皆 みな 大 だい 歡喜 かんき 。[2] :156
故事 こじ 從 したがえ 《水 みず 滸傳》結局 けっきょく 阮小七 なな 因 いん 穿 ほじ 起 おこり 方 かた 腊丢下 か 的 てき 龙袍,被 ひ 奸臣 かんしん 童 わらわ 贯、蔡京誣陷謀反 ぼうほん ,回 かい 到 いた 石 いし 碣村打 だ 渔为生 せい 說 せつ 起 おこり 。阮小七祭奠宋江等人時,得 とく 罪 ざい 蔡京黨 とう 羽 わ 張 ちょう 幹 みき 辦,被 ひ 後者 こうしゃ 率 りつ 兵 へい 抓 つめ 捕 ど ,阮小七 なな 一怒之下殺死張幹辦。在 ざい 逃亡 とうぼう 路上 ろじょう ,阮小七遇上昔日梁山好漢以及扈成、欒廷玉 だま 等 とう 人 じん ,眾好漢 こうかん 重 おも 新 しん 落草。另一方面 ほうめん ,李 り 俊 しゅん 等 とう 七人對國內現狀不滿,乘船 じょうせん 出海 でうみ ,到 いた 海外 かいがい 暹羅 しゃむ 國 こく ,攻 おさむ 克 かつ 金 きん 鰲島,與 あずか 王室 おうしつ 結 ゆい 為 ため 好 こう 友 とも ,其中一人並跟暹羅公主成婚。在 ざい 故國 ここく ,存 そん 活 かつ 的 てき 梁 やな 山 さん 好漢 こうかん 共有 きょうゆう 32人 にん ,分別 ふんべつ 加入 かにゅう 山東 さんとう 和 かず 河北 かほく 的 てき 兩個 りゃんこ 強盜 ごうとう 山 やま 寨。當時 とうじ 北 きた 宋 そう 覆滅 ふくめつ ,局 きょく 勢 ぜい 混亂 こんらん 不堪 ふかん ,大 だい 伙聽說 せつ 李 り 俊 しゅん 執 と 掌 てのひら 暹羅 しゃむ 國 こく ,決定 けってい 乘船 じょうせん 前 ぜん 往,抵達時正 ときまさ 值攻城 じょう 之 の 戰 たたかえ ,暹羅 しゃむ 國主 こくしゅ 马赛真 ま 被 ひ 奸相共 ども 涛所弑,篡了王位 おうい ,大 だい 伙一起協助李俊消滅奸相共濤和叛黨。鋤 すき 奸後,李 り 俊 しゅん 得 え 到 いた 暹羅 しゃむ 王位 おうい 的 てき 禪讓 ぜんじょう ,登 のぼり 基 はじめ 不 ふ 久 ひさ ,聽聞 ちょうもん 南 みなみ 宋 そう 皇帝 こうてい 高 こう 宗 はじめ 在 ざい 暹羅 しゃむ 國 こく 附近 ふきん 遇 ぐう 險 けわし ,出 で 手 しゅ 救 すくい 了 りょう 高 だか 宗 むね 性 せい 命 いのち ,把 わ 他 た 送 おく 回 かい 京 きょう 城 じょう 杭州 こうしゅう 。高 こう 宗 むね 感謝 かんしゃ 之 の 餘 よ ,就朝廷曾對 たい 梁 やな 山 さん 英雄 えいゆう 的 てき 不 ふ 公 おおやけ 請求 せいきゅう 原 はら 諒 りょう ,下 しも 詔 みことのり 冊立 さくりつ 了 りょう 暹羅 しゃむ 王 おう 及四十 じゅう 三 さん 好漢 こうかん 。李 り 俊治 しゅんじ 下 か ,暹羅 しゃむ 國 こく 受中國 ちゅうごく 影響 えいきょう 愈 いよいよ 來 き 愈 いよいよ 深 ふか ,并且與高麗 こうらい 國王 こくおう 結 ゆい 拜 はい 。32個 こ 好漢 こうかん 都 と 在 ざい 異國 いこく 成家 なるいえ 立 りつ 室 しつ ,生活 せいかつ 幸福 こうふく 美 び 滿 まん 。[2] :155-156
《水 みず 滸後傳 でん 》沉痛寄託 きたく 陳 ちん 忱 まこと 亡國 ぼうこく 之 の 思 おもえ ,乃「泄憤之 これ 書 しょ 」,描寫 びょうしゃ 北 きた 宋 そう 亡國 ぼうこく ,借 か 題 だい 發 はつ 洩 も 作者 さくしゃ 亡國 ぼうこく 隱 かくれ 痛 つう [4] :755、759、760 。小說 しょうせつ 繼續 けいぞく 發揚 はつよう 以造反 ぞうはん 體現 たいげん 忠義 ちゅうぎ ,抵禦外侮 がいぶ 的 てき 主題 しゅだい 。水 みず 滸英雄 えいゆう 在 ざい 暹羅 しゃむ 的 てき 烏 がらす 托 たく 邦 くに ,與 あずか 梁山泊 りょうざんぱく 大 だい 為 ため 不同 ふどう :減少 げんしょう 暴力 ぼうりょく ,享受 きょうじゅ 家庭 かてい 之 の 樂 らく ,實現 じつげん 文官 ぶんかん 政體 せいたい ,有 ゆう 反 はん 諷意味 いみ 。小說 しょうせつ 通過 つうか 倖存梁 やな 山 さん 英雄 えいゆう 的 てき 英 えい 勇 いさみ 事蹟 じせき ,包括 ほうかつ 抗 こう 金 きむ 衛 まもる 宋 そう ,在 ざい 暹羅 しゃむ 建 たて 基 はじめ 立業 たちわざ ,寄 よせ 托 たく 明 あかり 遺 のこ 民 みん 的 てき 冀望、憂 ゆう 懼和悲哀 ひあい ,反 はん 清 せい 復 ふく 明 あきら 運動 うんどう 或 ある 可 か 借 か 外力 がいりょく 得 とく 一線 いっせん 生 せい 機 き [3] :242-243 ,所 しょ 述 じゅつ 勤王 きんのう 的 てき 豪傑 ごうけつ 雖出於虛構 きょこう ,卻代表 だいひょう 了 りょう 當時 とうじ 的 てき 人心 じんしん [4] :761 。小說 しょうせつ 亦 また 寄寓 きぐう 避走他方 たほう 之 の 意 い [1] :102 ,書中 しょちゅう 詩歌 しか 流露 りゅうろ 在 ざい 清朝 せいちょう 統治 とうち 下 か 的 てき 失意 しつい 及想去 さ 異域 いいき 的 てき 願望 がんぼう ,小說 しょうせつ 中 ちゅう 的 てき 烏 がらす 托 たく 邦 くに 或 ある 許 もと 暗示 あんじ 鄭 てい 成功 せいこう 在 ざい 臺灣 たいわん 的 てき 政權 せいけん [5] 。
根據 こんきょ 文中 ぶんちゅう 描述打 だ 败方 ほう 腊后 きさき ,李 り 俊 しゅん 及費保 ほ 四 よん 人 にん 等 とう ,从太仓港出海 でうみ 。李 り 俊 しゅん 出海 でうみ 稱 しょう 王 おう 來 らい 到 いた 了 りょう 暹羅 しゃむ 囯,占據 せんきょ 了 りょう 二 に 十 じゅう 四 よん 個 こ 島嶼 とうしょ ,其中有 ちゅうう 四個島最爲强大,作爲 さくい 暹羅 しゃむ 國 こく 的 てき 屏 へい 障 さわ 辅翼,書中 しょちゅう 的 てき 暹羅 しゃむ 應 おう 當 とう 屬 ぞく 於當時 とうじ 的 てき 真 ま 臘 囯,其囯法律 ほうりつ 分 ぶん 爲 ため 唐人 とうじん 與 あずか 番人 ばんにん 之 の 等 ひとし [6] 。真 ま 臘東部 ぶ 臨海 りんかい ,西部 せいぶ 接 せっ 壤蒲 がま 甘 あま ,南部 なんぶ 連接 れんせつ 加 か 羅 ら 希 のぞみ ,北部 ほくぶ 抵達占 うらない 城 じょう 國 くに [7] 。南 みなみ 宋 そう 淳 じゅん 熙三 さん 年 ねん ,史書 ししょ 曾記載 きさい 了 りょう 吉 よし 陽 よう 軍 ぐん 襲擊 しゅうげき 真 ま 臘,以舟侵入 しんにゅう 至 いたり 真 ま 臘國都 と ,平 ひら 息 いき 政變 せいへん 的 てき 事情 じじょう [7] 。
公 おおやけ 元 もと 1165年 ねん ,真 ま 臘國王 おう 耶输跋 ばつ 摩 ま 二 に 世 せい 被 ひ 一 いち 個 こ 權臣 けんしん 推翻,權臣 けんしん 被 ひ 稱 しょう 爲 ため 特 とく 里 さと 布 ぬの 婆 ばば 那 な 迭多跋 ばつ 摩 ま 宣 せん 稱 しょう 是 ぜ 真 ま 臘的囯王[8] :163 。
公 おおやけ 元 もと 1177年 ねん ,在來 ざいらい 自 じ 中國 ちゅうごく 海南 かいなん 的 てき 吉 よし 陽 よう 軍 ぐん 的 まと 帶 たい 領下 りょうげ ,組成 そせい 了 りょう 一支艦隊襲擊了真臘的國都,占 うらない 城 じょう 國 くに 入 いれ 侵 おかせ 了 りょう 真 ま 臘囯,篡位的 てき 國王 こくおう 被 ひ 剝奪了 りょう 王位 おうい 而死[9] [8] :166 。
公 おおやけ 元 もと 1181年 ねん ,經過 けいか 了 りょう 四年時間局勢再次平息,阇耶跋 ばつ 摩 ま 七 なな 世 せい 繼承 けいしょう 了 りょう 真 ま 臘國王位 おうい [8] :170 。
公 おおやけ 元 もと 1190年 ねん ,大越 おおこし 皇帝 こうてい 李 り 高 こう 宗 はじめ 保持 ほじ 中立 ちゅうりつ ,真 ま 臘對占 うらない 城 じょう 發動 はつどう 了 りょう 報復 ほうふく 與 あずか 反 はん 擊 げき [8] :170 。
胡 えびす 適 てき 認 みとめ 為 ため ,《水 みず 滸後傳 でん 》感情 かんじょう 真摯 しんし ,雖為第 だい 二流 にりゅう 小說 しょうせつ ,但 ただし 有 ゆう 些文章 ぶんしょう 如卷22「中 ちゅう 牟縣除 じょ 奸」卻是二流小說中絕無僅有的;書中 しょちゅう 記述 きじゅつ 燕 つばめ 青 あお 拜見 はいけん 宋 そう 徽宗一事 いちじ ,亦 また 寫 うつし 得 とく 哀 あい 艷 つや 感 かん 人 じん ,遠 とお 勝 がち 其他小說 しょうせつ [4] :765、767 。漢學 かんがく 家 か 魏 ぎ 愛 あい 蓮 はちす (Ellen Widmer)認 みとめ 為 ため 《水 みず 滸後傳 でん 》的 てき 文學 ぶんがく 價 か 值瑕瑜互見 み ,尚 なお 不足 ふそく 以列入 にゅう 一流 いちりゅう 經典 きょうてん 作品 さくひん 之 の 列 れつ 。作品 さくひん 直接 ちょくせつ 影響 えいきょう 十 じゅう 九 きゅう 世紀 せいき 日本 にっぽん 瀧澤 たきざわ 馬琴 ばきん 的 てき 小說 しょうせつ 《椿 つばき 說 せつ 弓張月 ゆみはりづき 》[5] 。
國王 こくおう 暹羅 しゃむ 囯四十 じゅう 三 さん 好漢 こうかん 參 まいり 見 み :
水 みず 浒后传 ·
水 みず 滸後傳 でん 暹羅 しゃむ 囯四十 じゅう 四 よん 好漢 こうかん