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明鄭 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

あきらてい

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あきらてい
1628ねん—1683ねん
明鄭鄭氏令旗
ていれいはた
明鄭鄭氏家徽
てい
郑成功时期明郑的势力范围
成功せいこう时期あかり郑的势力范围
地位ちいうみしょうしゅう(1628ねん—1646ねん
割據かっきょ势力(1646ねん—1662ねん
殘存ざんそん國家こっか(1662ねん—1683ねん
首都しゅとすすむけん安平あびらすえ,1628ねん—1655ねん
おもえあきらしゅうすえ,1655ねん—1662ねん
うけたまわてん安平あびら(1662ねん—1683ねん[1]
常用じょうよう语言閩南あきらしんかん
政府せいふ軍事ぐんじ獨裁どくさいせい
くび领/君主くんしゅ 
• 1628ねん—1646ねん
ていしばりゅうみなみやすはく ひらとりここう たいらこくおおやけ
• 1646ねん—1662ねん
てい成功せいこう忠孝ちゅうこうはく とおこう → 漳國こう のべたいらおう
• 1662ねん—1681ねん
ていけいのべたいらおう
• 1662ねん
ていかさねまもる → 东都ぬし
• 1681ねん
ていかつ𡒉かんこく
• 1681ねん—1683ねん
ていかつのべたいらおう
历史时期地理ちりだい發現はつげん
• ていしばりゅう归顺明朝みょうちょう
1628ねん9がつ—10がつ
1657ねん—1659ねん
1661ねん—1662ねん
1673ねん—1681ねん
1683ねん7がつ10日とおか—16にち
• ていかつ塽降きよし
1683ねん10がつ8にち
货币えいれき通寶つうほう
西にしはんきばぎんえん
宽永通宝つうほう
こんぞく 中華民國ちゅうかみんこく
 ちゅう人民じんみん共和きょうわこく
中國歷史
中国ちゅうごく历史系列けいれつ條目じょうもく
ふみぜん時代じだい
舊石器時代きゅうせっきじだい
ちゅう石器せっき時代じだい
しん石器せっき時代じだい
いにしえこく時代じだい
さんすめらぎみかど
どうせきなみよう時代じだい
黄河こうが文明ぶんめい长江文明ぶんめい辽河文明ぶんめい珠江たまえ文明ぶんめい
なつ
ぜん21世紀せいきまえ17せい
しょう
ぜん17世紀せいきまえ11世紀せいき
しゅう
ぜん11世紀せいき

ぜん256ねん
西にしあまね ぜん11世紀せいきまえ771ねん
东周
ぜん770ねんまえ256ねん
春秋しゅんじゅう ぜん770ねんまえ5世紀せいき
戰國せんごく ぜん5世紀せいきまえ221ねん
はた
ぜん221ねんまえ207ねん

ぜん202ねん

220ねん
西にしすわえ まえ206ねんまえ202ねん
西にしぜん202ねん—9ねん
しん 9ねん—23ねん
更始こうし政權せいけん 23ねん—25ねん
东汉 25ねん—220ねん
さんこく
220ねん—280ねん
たかし
220ねん—266ねん
しょくかん
221ねん—263ねん

229ねん—280ねん
すすむ
266ねん—420ねん
西にしすすむ 266ねん—316ねん
东晋
317ねん—420ねん
えびすじゅうろくこく
304ねん—439ねん
みなみ
きた
あさ

420ねん

589ねん
そう 420ねん—479ねん きたたかし
386ねん—534ねん
479ねん—502ねん
りょう 502ねん—557ねん 西にしたかし
535ねん—557ねん
东魏
534ねん—550ねん
ひね 557ねん—589ねん きたあまね
557ねん—581ねん
きた
550ねん—577ねん
ずい 581ねん—619ねん
とう 618ねん—907ねん
武周ぶしゅう 690ねん—705ねん

だい
じゅう
くに

907ねん

979ねん
こうはり
907ねん—923ねん
じゅうこく
みなみとう
えつ
ぜんしょくこうしょく
荆南すわえ
みなみきた
907ねん—979ねん

ちぎり

916ねん—1125ねん

西にし
1124ねん—1218ねん
こうとう
923ねん—937ねん
こうすすむ
936ねん—947ねん
こうかん
947ねん—951ねん
こうしゅう
951ねん—960ねん
そう
960ねん

1279ねん
きたそう
960ねん—1127ねん
西にしなつ
1038ねん—1227ねん
みなみそう
1127ねん—1279ねん
きむ
1115ねん—1234ねん
だいこうむくに 1206ねん—1368ねん
もと 1271ねん—1368ねん
北元きたもと 1368ねん—1388ねん
あきら 1368ねん—1644ねん
南明なんめい 1644ねん—1662ねん
後金あときん 1616ねん—1636ねん
きよし 1636ねん/1644ねん—1912ねん
中華民國ちゅうかみんこく
だい陆时 1912ねん—1949ねん
中華人民共和國ちゅうかじんみんきょうわこく
1949ねんいたりいま
中華民國ちゅうかみんこく
臺灣たいわん時期じき 1949ねんいたりいま
あい关条
中国ちゅうごく历史年表ねんぴょう

あきらてい(1628ねん—1683ねん),1662ねん成功せいこうおさむうらない台湾たいわん西南せいなんきさきまたしょうさく东都东宁海上かいじょう[2]てい成功せいこう家族かぞくりょうしるべてき軍政ぐんせい勢力せいりょくみことたてまつ明朝みょうちょうせいついたち[1][3]統治とうち範圍はんいへん中国ちゅうごくだい東南とうなん沿海えんかい台湾たいわん岛西南部なんぶ地區ちく[4]

歷史れきし

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崛起

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ていしばりゅうはらため東海とうかい南海なんかい一帶海域勢力最大的海盜,於あきらたかしただし元年がんねんきゅうがつ(1628ねん9がつ27にち-10がつ26にち接受せつじゅ朝廷ちょうてい招安たまものにん海防かいぼうゆうごうとらゆうげき將軍しょうぐん」。其於朝廷ちょうてい認可にんか經營けいえい海運かいうん貿易ぼうえきせいさら如日中天ちゅうてんなりためりょう東海とうかいいたる南海なんかいてき海上かいじょう霸主。其隻しゅさえぎてん程度ていど於史敘述いちむら:「凡海舶不とくていれいはたしゃ不能ふのう來往らいおうまい舶例いれさん千金せんきん歲入さいにゅうせんまんけい,以此とみ敵國てきこく築城ちくじょう安平あびら[5];「したがえ此海氛頗いき通販つうはんよう貨,內客外商がいしょうみなようていはたごう儆無おそれ商賈しょうこゆうじゅうばいしばりゅうつき以海交通こうつうあさとうと,寖以だいあらわ」、「八閩以鄭氏為長城」,いたり此,あきらてい勢力せいりょくてき通商つうしょう範圍はんいこう及:だいどろ、浡尼、うらないじょうりょそう魍港北港ほくこうだいいん平戶ひらど長崎ながさきはじめかいまん舊港きゅうみなとともえいたる維亞六甲ろっこう柬埔寨暹羅しゃむ[6][7]。其勢力せいりょくつよ甚至のうてのひらひかえおうしゅう列強れっきょうらんひがし印度いんど公司こうしてきたいはな貿易ぼうえき地方ちほうしょう貿周ずみ不順ふじゅん甘受かんじゅせいじんてきらんじん聯合れんごうはな人海じんかいぬすめ攻擊こうげきていしばりゅうただし遭其於りょうわん海戰かいせんいち舉擊つぶせ

こうきよし

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あかりまつ烽煙よんおこり,內有りゅう寇作みだれそとゆう滿まんきよし覬覦中原なかはら。1644ねん4がつ25にちあきらたかしただしじゅうななねんさんがつじゅうきゅうにちきのえさるへんだいじゅんなりおさむおちい明朝みょうちょう首都しゅと北京ぺきんあかりおもえむねしろやぶのち縊煤さん明朝みんちょう滅亡めつぼう明朝みんちょう遺臣いしんさんかつらいん此引しんぐんいれせきげきはいだいじゅんぐんただし滿まんきよしいれぬし北京ぺきんいん兵力へいりょく不足ふそく,暫放慢腳あらため「以漢せいかん戰略せんりゃくなみゆうりつそく進取しんしゅ華南かなん明朝みんちょう遺臣いしんとく以南いなん遷並ざい南京なんきん擁立ようりつあかり宗室そうしつぶくおうしゅゆかり建立こんりゅうへんやす政權せいけん南明なんめい聯合れんごう各地かくちかんぞくこうきよし先後せんごよしやすむね弘光ひろみつみかどぶくおう)、かんこく魯王、紹宗りゅうたけしみかど唐王とうのう)、紹武みかどしょう唐王とうのう)、あきらむねえいれきみかどかつらおうとう君主くんしゅてのひら

てい成功せいこう焚青ころもしょ

1645ねん滿まんきよしおう舉兵南下なんかなみとりこぶくおう弘光ひろみつ政權せいけん瓦解がかいていしばりゅう旋即於其根據地こんきょち福建ふっけん擁立ようりつ紹宗りゅうたけしみかど唐王とうのう繼續けいぞくこうきよしなみ於1644ねん-1645年間ねんかん先後せんご授予みなみやすはくみなみやすこうひらとりここう和平わへいこくおおやけとう爵位しゃくいなみけん戶部とべ兵部ひょうぶこうさん尚書しょうしょしか而1646ねん12がつていしばりゅうおわりため滿まんひと高官こうかんあつ祿ろくさそえ;其子てい成功せいこうすすむ父親ちちおやなりただこうりつりょうやく十餘人到南安あなびょうまつりあな,焚燒儒衣むかい孔子こうし痛哭つうこくはつちかいせつ:「むかしため孺子じゅしこんためしん向背こうはいとめ各行かくこう其是,謹謝儒衣,いのり先師せんしあきら鑒。」[8]てい成功せいこうとうひつしたがええびす,且他てき誓詞せいし相當そうとう公開こうかいあずかていしばりゅう劃清界線かいせん,於是りつ出走しゅっそうかねもんていしばりゅうほん以為くだ清後せいごとく家業かぎょうかんすすむ爵;りょうきよしぐんせい閩主そちひろしらくやくはたていしばりゅうあずか諸子しょし一同挾往燕京,さら出兵しゅっぺいおさむてい故鄉こきょうてい成功せいこうはは田川たがわ當時とうじつよししたがえ日本にっぽん搬至福建ふっけん一家團聚不久即碰上此次劫難,於戰亂せんらんちゅう自殺じさつ[9]てい成功せいこう得知とくち母親ははおや死後しごさらけんていこうきよし決心けっしん

同年どうねんはちがつしんぐんおさむかつ浦城うらしろ霞浦かすみうらりゅうたけしみかど出奔しゅっぽん江西えにしざいなぎさしゅう遭清ぐん俘虜ふりょこれ絕食ぜっしょく不屈ふくつ而亡。南明なんめいみかどけい旋由かつらおうしゅゆかり繼承けいしょう明年みょうねん改元かいげんえいれきりゅうたけし政權せいけん滅亡めつぼうてい成功せいこう避走かねもんしかこう開始かいし沿海えんかい各地かくち招兵かいおさむへんていしばりゅうてききゅうさらざいみなみ募集ぼしゅうりょうすうせん兵力へいりょく[註 1]りゅうたけしねん(1646ねん十二月じゅうにがつおおやけれきため隔年かくねん1がつ),てい成功せいこうざい小金こがねもん今日きょうきむもんけんれつ嶼鄉),以「忠孝ちゅうこうはく招討大將軍だいしょうぐんざいしんこくせいめいちかいはんきよし

りゅうたけしさんねん(1647ねん明永みょうえいれき元年がんねんせい順治じゅんじよんねんなながつてい成功せいこう會同かいどうていあや部隊ぶたいおさむうみきよし失敗しっぱいはちがつ成功せいこうまたあずかていひろしごうかこえ泉州せんしゅうしろきよし漳州副將ふくしょうおうすすむりつ援軍えんぐんいたりていぐん不敵ふてき敗退はいたい

りゅうたけしよんねん(1648ねん明永みょうえいれきねんせい順治じゅんじねん),はら浙江せっこうじゅんなでわかあがとうひとらいてい成功せいこう蓄積ちくせき實力じつりょくさいつぎ出擊しゅつげきおさむかつどうやすけん五月ごがつていぐんかこえおさむ泉州せんしゅうなながつせいやすしみなみ將軍しょうぐんちんやすし、浙閩總督そうとくちんにしき福建ふっけん提督ていとくちょうこく祚等てん而攻げきどうやすていぐん不敵ふてき守將しゅしょう軍民ぐんみん死傷ししょう無數むすうひさきよし援軍えんぐん抵達泉州せんしゅうてい成功せいこう乃解泉州せんしゅうかこえ退すさかい海上かいじょう

同年どうねんきよし江西えにしそうへいかねごえおうとくひとし於江西にしおこりへいはんきよしきよし廣東かんとん提督ていとくしげるとうまたなげこう明永みょうえいれき朝廷ちょうてい使つかいはんせいふくあきらてきこえぜいいちだいみなぎただしかくかたはんきよし勢力せいりょくざい彼此ひしぼつゆう默契もっけい各自かくじ為政いせいてき情況じょうきょうだい淪為地方ちほう性的せいてき抗爭こうそうひさきよし廷壓せいりょう江西えにしてきかねごえ桓、おうとくじん勢力せいりょく廣東かんとんしげるとうぐんまた於隔ねん滅亡めつぼう

よりどころぞく明紀あきのりごと本末ほんまつまきなな記載きさい绍武みかど死後しごかつらおうしゅゆかり於1646ねんつぎにん帝位ていい年號ねんごうながれき),ただしてい成功せいこう不知ふちりゅう武四たけし年春としはる正月しょうがつ擁立ようりつしゅつねきよしためかんこく。八月林察航海成功後鄭成功始知永曆帝已即位。しゅゆかり榔的使節しせつざいじゅうがついたすすむますてい成功せいこうとおこうてい成功せいこうたてまつついたち改稱かいしょうながれき,淮王へりくだくらい取消とりけしかんこく及年ごう

しお廈之やく

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閩南へい荒馬あらうまみだれじょあかりきよしてき官軍かんぐん以外いがいいたしょゆう土豪どごう山賊さんぞくようよりどころじょう寨,相互そうごそう併,なみ且就ちかこう百姓ひゃくしょうおさむ稅金ぜいきんあて軍閥ぐんばつしょう較於這些地方ちほう勢力せいりょくてい成功せいこうようゆう較完ぜんてき軍備ぐんびただし卻也いんため軍隊ぐんたいふとし龐大,而領ふとししょうめん臨籌しゅうかて餉的重大じゅうだい問題もんだいえいさんねん(1649ねんせい順治じゅんじろくねんなながつすすむ漳國こう同年どうねんじゅうがつてい成功せいこう決定けってい揮兵南下なんかじょ打擊だげき閩南きよしぐんがい,也打算ださん沿路えんろおさむふく各地かくちてきしろ寨以ためかてげん一個いっこ月下げっからいしたがえきよし軍手ぐんてうえおさむ漳浦くも等地とうちまた平定へいていりょうたちほりかすみとう寨;じゅういちがつていぐんおさむみことのりやすかつ,乃決定けってい轉入てんにゅう粵東けい分水ぶんすいせきいたるうしおしゅう一帶いったい征討せいとう合作がっさくてきれいほし勢力せいりょくいたり隔年かくねんがつあいだまた次第しだいおさむふくりょううしおよう以及周邊しゅうへん許多きょたやま寨。うしおしゅう守將しゅしょう郝尚ひさし雖已于隆よんねん(1648ねんずいしげるとうはんきよしただし曾襲げきほどこせ琅、ていひろし逵等,也曾拒絕きょぜつてい成功せいこうれんぐんてき要求ようきゅうなみざいていぐんおさむしん墟寨派兵はへいあずかこれためなんあずかてい成功せいこうもとゆういやすきながれきよんねん(1650ねんろくがつてい成功せいこう軍隊ぐんたいぎょう抵潮しゅう便びん郝尚ひさし立場たちばしん不明ふめいためゆかり出兵しゅっぺいげき;郝部不敵ふてき退すさもりじょう,揭陽、ひろしやすしめぐみらいとうけんつきにゅうていぐんひさしんぐんさいつぎおさむにゅう廣東かんとん;郝尚ひさはら受敵くだきよし,引清ぐんいれうしおしゅうじょう以抗ていぐんていぐんかこえこまうしおしゅうじょうさんがつかつ士氣しき低落ていらくまためん臨糧餉接ずみ問題もんだいただとく於八月解潮州圍退回閩南。

福建ふっけん廈門なみ屿鄭成功せいこう雕像

えいれきよんねん(1650ねんせい順治じゅんじななねん),てい成功せいこうぞく叔(一說いっせつぞくけい[註 2]ていあやていれんてき軍隊ぐんたい領有りょうゆう廈門。てい成功せいこう退すさかい閩南これためりょうつぶせてん實力じつりょく乃藉こうていれんざい廈門よこちょう暴斂、使つかいみん聊生;採取さいしゅほどこせ琅的獻策けんさくもちいけい廈門。ながれきよんねん中秋ちゅうしゅうぶしてい成功せいこう趁著ていあやはなれひらき廈門てき時機じきぜん往廈もんはいおとずれていれんていれん大意たいいなみ未設みせつぼうむご刺殺しさつほろびひさていあや得知とくちていれんてき訊更敢與てい成功せいこうさくたいかい廈門後便こうびんりつそく交出兵權へいけんてい成功せいこう接收せっしゅうりょうていあやていれんだい部分ぶぶんてき部隊ぶたいなみ且實ぎわ取得しゅとく廈門、きむもん作為さくい根據地こんきょち

同年どうねんじゅういちがつきよしひらみなみやすしみなみ二王率數萬鐵騎攻入廣州こうしゅうてい成功せいこうたてまつ南下なんか勤王きんのうれい叔父おじていしばふとい留守るす廈門。十二月じゅうにがつてい成功せいこう抵廣ひがしうしおしゅう揭陽,あずかていひろし逵會兩人りょうにんしょう討後,決定けっていよしてい成功せいこう繼續けいぞくりつぐん南下なんか勤王きんのう,而鄭おおとり逵則うつり往廈もんきょうぼう同年どうねん,魯王ざいかく曾櫻とうひと陪同いた廈門とうもたれてい成功せいこう安置あんちざいかねもん

えいれきねん(1651ねんせい順治じゅんじはちねん正月しょうがつてい成功せいこう抵南澳。がつじゅうにち西曆せいれき4がつ14にち),てい軍艦ぐんかんたい於鹽しゅうみなと附近ふきん遭遇そうぐうふう暴,てい成功せいこうてきあるじせんけん解體かいたいこぼしくつがえいく所有しょゆう船上せんじょう器具きぐ包括ほうかつかなえ灶都いち併丟しつよりどころ記載きさい當時とうじ船上せんじょう甚至れん食物しょくもつ無法むほう準備じゅんびてい成功せいこう本人ほんにん也連かつえりょう餐。ちょくいたへだた天下てんかうま風雨ふううやや歇,てい成功せいこうてきしゅふくせんざいとく以回いた岸邊きしべあずか艦隊かんたい會合かいごう。此乃てい成功せいこう本人ほんにん於海じょう遭遇そうぐう最大さいだいてきいちきょうけわし事後じごてい成功せいこう也重しょうおもふくちゅう軍船ぐんせんてきりょう駛。

同年どうねんさんがつていぐん抵達廣東かんとん大星おおぼししょいま廣東かんとんめぐみひがし)。另一方面ほうめんきよし福建ふっけんじゅんなでちょうまなぶきよし得知とくちてい成功せいこうてき主力しゅりょく軍隊ぐんたいやめけいぜん往廣ひがし,廈門ぼうつとむ有可ゆか趁之;乃命令めいれいとくこうおう邦俊くにとしとう趁虛攻擊こうげき廈門。うまとくこうはさみざいみなみやすてきていしばひょういのち其交出船しゅっせんかんわたりしんぐん往廈もんなみ且順ざい海面かいめんじょうげきはいていぐんめんたいしんぐん來襲らいしゅうせめ廈門ぼうつとむてきていしばふといせんさきおびえただ顧著はた財物ざいぶつ搬運いたり私人しじん船上せんじょう逃亡とうぼう使とくきよしぐん相當そうとうけい就攻やぶ廈門,なみはたていてきせき蓄、裝備そうび掠奪りゃくだついちそらよし於事突然とつぜんただし夫人ふじんあずかてい成功せいこう長子ちょうしていけい只來ただらいとく及攜たい祖宗そそうぱい避於海上かいじょう逃過いちこうしんぐん僥倖ぎょうこう偷襲とくたくましこれ,卻沒打算ださんとめざい廈門あずかていぐん決戰けっせん,於是滿載まんさい戰利せんりひんそくかえしかい內陸。這時趕赴廈門支援しえんてきていひろし逵,せいこう於海めん遭遇そうぐうかえしこううまとくこう部隊ぶたいはた其圍こま,卻被とくこうおびえはたがい其母、あにていしばりゅうせいいのち奈之ただこうはしうまとくこうひさてい成功せいこう於廣あずま得知とくちりょう廈門遭襲げきてき訊息;原本げんぽん堅持けんじ繼續けいぞく南下なんか勤王きんのうただしおわりいん上下じょうげ將士しょうしおもえ,哭聲へん聞,乃不とくやめはんかい廈門おさむふく廈門てい成功せいこう追究ついきゅうおこり責任せきにんはたおびえせん以逃てき叔父おじていしばふとい斬首ざんしゅ;而放はしうまとくこうてきていひろし逵則交出兵權へいけん請退かくれ东石镇しろすなさいとい政事せいじ

同年どうねんがつていぐん大將たいしょうほどこせ擅自處決しょけつてい成功せいこう麾下きか部將ぶしょう曾德,てい成功せいこう以此ためよしよく誅施琅全ほどこせ琅雖ざい友人ゆうじん幫助逃脫,ただし父親ちちおや、胞弟ひとし遭處けい事件じけんほどこせ琅與てい成功せいこうゆい下大しもおおかたき,乃再度さいどくだきよし

漳澄やく

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えいれきねん(1651ねんせい順治じゅんじはちねんしも半年はんとしていぐんざい閩南しょうみつるみねうみきよしいま龙海等地とうちせん鬥,獲得かくとくりょう磁灶戰役せんえき钱山戰役せんえきしょうみつる岭戰やくてき勝利しょうり克復こくふく平和へいわ漳浦みことのりやすみなみやすし等地とうちとしそこ包括ほうかつてい西にしこうちょう名振なぶりとうひとみならいなげもたれ使つかいていぐんてきこえぜいいよいよかたちだかみなぎ

翌年よくねんながれきろくねん,1652ねんせい順治じゅんじきゅうねん正月しょうがつ清海きよみきよし守將しゅしょう赫文きょうむかいてい成功せいこう投降とうこうがつていぐんおさむちょうやすし清朝せいちょう派遣はけんちんにしきりつ大軍たいぐんぜん救援きゅうえんりょうぐん江東こうとうきょう展開てんかい大戰たいせんてい成功せいこう仗著たい閩南地形ちけい較為じゅく識,ざい江東こうとうきょう附近ふきんやすはいりょう許多きょた伏兵ふくへい大敗たいはいちんにしき殲滅せんめつ多數たすうきよしぐん取得しゅとく江東こうとうきょう戰役せんえきてき胜利。ひさそくおさむ下長しもながたい

おさむかつちょう泰之やすゆきてい成功せいこう集結しゅうけつ大軍たいぐん進攻しんこう漳州じょう將之まさゆきそうそう包圍ほういよんがつしんぐんためかい漳州かこえ,於是募集ぼしゅう百艘船艦進犯廈門,おさむてい成功せいこうしょ必救。てい成功せいこうとげちんあきらしゅうみずほとうりつりょうひゃくそう戰艦せんかん迎擊げいげき,於たかしたけ大敗たいはいしんぐん取得しゅとくたかしたけ戰役せんえきてき胜利。ていぐんざい海上かいじょう大捷たいしょういん而對漳州じょうてきほどこせあつぼつゆうややげん清福せいふくけんじゅんおうおうもと記載きさいどう[11]

はちきゅうりょうがつまいいし米價べいかいたりひゃくじゅうりょう草根そうこん木葉このはねずみすずめ牛馬ぎゅうば搜索そうさく食盡しょくじんまましこれにんにく父子ふししょうしょく,爨不煙火えんかしゃ月餘げつよ病死びょうし餓死がしとうすいとう繯而へいちょうたけし強奪ごうだつ箠楚而死,にち以千ひゃくけい

えいれきろくねん(1652ねんせい順治じゅんじきゅうねんきゅうがつしんぐん將領しょうりょう固山こやまがくしんみやこみつるきむりつりょう萬人大軍開抵福建,進入しんにゅう泉州せんしゅう[12]てい成功せいこうれい解除かいじょ漳州かこえてい成功せいこうはた部隊ぶたい佈置於江東こうとうよくようげきはいちんにしきてき同樣どうよう方式ほうしきらいふくげききん礪軍,ただし卻遭きん礪識破,りょうぐん展開てんかい混戰こんせんていぐん提督ていとくやまれいたけちんみぎ先鋒せんぽう廖敬おやひのとかく護衛ごえいみぎひろしうけたまわちょうざい激戰げきせんちゅうじんほろびていぐん交戰こうせんしつただのう撤退てったい確保かくほうみきよし、廈門てき安全あんぜん[13]しんぐん趁勝おさむふくみなみやすし、漳浦、平和へいわみことのりやすよんけん

えいれきななねん(1653ねんせい順治じゅんじじゅうねんよんがつきむ礪進はんうみきよしあずかてい成功せいこう展開てんかい激烈げきれつせん鬥,雙方そうほうじゅう作為さくい主戰しゅせん武器ぶきざいしんぐんてき猛烈もうれつ砲火ほうかしたてい成功せいこう部隊ぶたい損失そんしつむごおも許多きょた部將ぶしょう戰死せんしてい成功せいこう軍隊ぐんたい士氣しき低落ていらく親臨しんりんじんぜん喊話,也險遭砲げき五月ごがつはつななにち西曆せいれき6がつ2にち五更ごこうきむ礪下れい以空炮掩護えんごみどり營打あたまじんはたへい後續こうぞくはまかわよじしがらみはちよう而來,企圖きといち登城とじょうてい營所こばめてんあきら以后,てい成功せいこう知清ちせいぐん火藥かやくぜにかてつぎ,於是さそえてき決戰けっせん,趁清ぐんだい渡河とかさい,以火おさむ大破たいはきん礪,取得しゅとくうみきよし战役てき胜利,うみきよしとく安全あんぜんうみきよし戰役せんえき以后,きむ礪被きよし廷召かい京師けいし雙方そうほう再度さいどしょ於相局面きょくめん

與清ともきよ

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中國ちゅうごく歷史れきし博物館はくぶつかんくらてい成功せいこうぞう

えいれきななねん(1653ねんせい順治じゅんじじゅうねんがつしんぐん兩度りょうど大敗たいはい順治じゅんじみかど敕封てい成功せいこうためうみきよしおおやけ」,てい成功せいこう接受せつじゅはちがつ雙方そうほういずみやすし報恩寺ほうおんじ內議ていぐんとく以休へい籌措かて餉,ややこと整頓せいとん十一月じゅういちがつ順治じゅんじみかど再度さいど敕封[14]なみ承諾しょうだくきゅう泉州せんしゅう安置あんちへいはた

えいれきはちねん(1654ねんあきらせい順治じゅんじじゅういちねん),てい西にしこうちょう名振なぶりきよしぐんやめ將軍しょうぐんりょく集中しゅうちゅう於福おふくけんのりこう等地とうちぼうつとむぜい空虛くうきょ;於是乃向てい成功せいこう請師,りつりょうひゃくそう戰艦せんかん北上ほくじょう江南こうなん地區ちくちょう名振なぶりてききたこれ沿長江ちょうこう進攻しんこうじきたち金山寺きんざんじおびえこうやすししろただしよし後援こうえんせっずみ及,ただとくかいがつきよし廷再使つかいあずかてい成功せいこう承諾しょうだくきゅうきょういずみしおよんぐんため封地ほうちてい成功せいこう接受せつじゅうみきよしおおやけしるしただし剃髮ていはつ同時どうじ以「兵馬へいば繁多はんたすうしょう不足ふそくやす插」ためゆかりはた觸角しょっかくのべ及福しゅう浙江せっこう紹興しょうこう一帶いったい要求ようきゅう浙、閩、ひがし粵近沿各ぐん接受せつじゅていぐんやすはい支援しえんていぐんかて餉,ざい福建ふっけんおさむいた良好りょうこう效果こうかただしざい廣東かんとん遭到きよし碣石そうへいとしうしおしゅうそうへいりゅうはく祿ろくみずそうへいもとりゅうひとし人的じんてき抵制。りゅうはく祿ろく上奏じょうそうしょう[15]

あきらとくうみきよしおおやけ佔據福建ふっけん島嶼とうしょ,距潮しゅう甚近,べにあたまへい結黨けっとうゆいおびただしせっれん不斷ふだん,且差そうへいらいしお,塘報頻繁ひんぱんいん不知ふち意圖いと人心じんしん浮動ふどう

はちがつきよし最後さいご一次遣使往議,順治じゅんじみことのりさとし

識時俊傑しゅんけつぐう推誠待人まちびとおも,披肝とうじゅんちゅう勿二……こん如遵あきら所領しょりょう敕印,剃髮ていはつ歸順きじゅんそくやめ;如不歸順きじゅんしか熟思じゅくししん,毋貽後悔こうかい

てい成功せいこうてきおやおとうとていわたるていかげ也在使節しせつこれちゅう。二人跪求鄭成功答應,ただしてい成功せいこう卻說きよし廷沒ゆう誠意せいいなみいいわがいちにち受詔,ちちいちにち在朝ざいちょう榮耀えいようわがわか茍且受詔そぎかみのり父子ふし俱難りょう也」,またいち拒絕きょぜつ清朝せいちょう提出ていしゅつてき條件じょうけん

きゅうがつ南明なんめいまごもちよく叛變,西にしやすしおう定國さだくにたてまつみことのりあずかてい成功せいこう緊急きんきゅうれん繫,希望きぼう合力ごうりょく進攻しんこう廣東かんとんさい沿長江北こうほくおさむ各省かくしょうかえ提出ていしゅつ女連うなつら姻。じゅうがつてい成功せいこうはやししゅうみずほとくぐん西進せいしんはいじゅう個月かげつぐんかて

同年どうねんじゅういちがつきよし漳州きょうもりりゅうこくのきむかいてい成功せいこう投降とうこう,引鄭ぐん進入しんにゅう漳州しろ;漳州そうちょう耀見大勢おおぜいやめあずか以下いか官員かんいんつきみなこうていぐん投降とうこう

ていきよし再戰さいせん

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十二月じゅうにがつしんぐん決定けってい放棄ほうきたいていぐんてき招撫政策せいさくいのちすみなんじ哈朗世子せいし濟度さいどたかしてい遠大えんだい將軍しょうぐん發動はつどうせい剿。ていぐんぶんへい進擊しんげき,拿下どうやすみなみやすめぐみやすあんけいえいはる德化とっかしょけん進入しんにゅうきょう地方ちほう

えいれききゅうねん(1655ねんせい順治じゅんじじゅうねんよんがつながれきみかどさつふうてい成功せいこうためのべたいらおう[註 3]したがえ此亦有人ゆうじんしょう成功せいこうためていのべたいら」。よし為永ためながれきみかどてい成功せいこう勢力せいりょくしょうへだた遙遠ようえんとくじゅんてい成功せいこう設置せっちろくかん及察ごとうけたまわせん審理しんりとうかん方便ほうべん施政しせい同時どうじ允許いんきょ委任いにん官職かんしょく武官ぶかんたちいちひんぶんしょくたちろく主事しゅじてい成功せいこう每次まいじはいふう官員かんいん請寧やすしおうしゅじゅつかつらとうあかり宗室そうしつざいつくりかんれい,以示尊重そんちょう體制たいせい[16]てい成功せいこう同時どうじはた廈門(當時とうじしょうちゅうひだりしょ改名かいめいためおもえあきらしゅうなみ建造けんぞう演武えんぶてい,以便てい成功せいこうおやとく察官へいみさおねり

定國さだくに克復こくふくはじめけいひとしいた援軍えんぐん,於廣州こうしゅうじょうがい戰敗せんぱい退すさにゅう廣西ひろせ五月ごがつはやし察等かいほうたたえ應援おうえん及,てい成功せいこうだいいか一度いちどほしにんてい成功せいこうよせしんしょう使つかい醜類しゅうるい長驅ちょうくぼうじつ有罪ゆうざい焉。やめしょうすいあつしかく將領しょうりょう,鑒定功罪こうざい重行しげき綑責。乃念其有功ゆうこうしかやめ正法しょうぼう矣。」建議けんぎさいつぎかい廣東かんとんただし計畫けいかく最終さいしゅう落空。[17]

なながつてい成功せいこうひろしあさひためすい總督そうとくあまてるためりく總督そうとくひねろくためそうせいぐんえびすせいはつぎんいちまんりょうりょうぐんきた。這隻軍隊ぐんたい紀律きりついむあきらぎょういたり湄洲きた鎮,ゆう一兵取水時拾人一雞,かん營押かい梟首きょうしゅしめせ眾,づけつばさつかさ哨隊捆責,あまてる認罪にんざい請罰,せめじゅう棍。[18]

同年どうねんきゅうがつ濟度さいどりつさんまん大軍たいぐんにゅう閩,會同かいどうちゅう閩清ぐん準備じゅんび進攻しんこう廈門。てい成功せいこう決定けってい放棄ほうきやめ佔領てき漳州、泉州せんしゅうりょうぞく邑,なみ拆毀じょう牆讓きよしぐんしょたむろ紮,藉此鞏固きょうこきんもん、廈門てき防禦ぼうぎょあずか此同かえ派遣はけん部將ぶしょうりつりょうふねりょうみち進擊しんげきいち北上ほくじょう浙江せっこういち南下なんか廣東かんとんれいしんぐん腹背ふくはい受敵、なん以兼顧頭北上きたかみていぐん連戰れんせんみなとしおさむいれ舟山ふなやま南下なんかていぐん雖一度攻取揭陽,卻遭到きよし援軍えんぐんげきつぶせ死傷ししょうむごおもみなみせいぶねかえしかい廈門,てい成功せいこうしょ敗戰はいせんつみ原本げんぽんようしょしげるもりてるただしざい眾將跪地もとめじょうしたてい成功せいこう決定けっていはたしげる一人ひとり斬首ざんしゅもりそく戴罪贖。こうてい成功せいこういのち鎮守ちんじゅうみきよしかえ特別とくべつしょく咐黃梧以戴罪應力おうりょくたていさおただし梧知どうてい成功せいこう一向治軍嚴苛,がい自己じこ一旦再犯錯就會送命,於是便びんあずか副將ふくしょうあきら商議しょうぎ決定けっていこう清朝せいちょう投降とうこうけんじうみきよしけんじょううみきよしてい成功せいこう年來ねんらいなげちゅうりょう相當そうとう人力じんりきものりょく建造けんぞうおこりらいてき堅固けんご堡壘ほうるい梧的投降とうこううたぐきゅうりょうてい成功せいこういちだい打擊だげきあまてるざいためてい成功せいこうだんてき過程かていちゅうそう攻略こうりゃくうみきよしじゅんぜいおさむ閩安、ゆたかだいやすしとくもうしょうおもねかつじょうこえ大震たいしんこれさら濟度さいど北上ほくじょうていぐんじゅうせい旗鼓きこよんしょ征戰せいせん

えいれきじゅうねん(1656ねんせい順治じゅんじじゅうさんねん),ていぐん以廈、きむため基地きちざい華南かなん與清ともきよぐん頻繁ひんぱん交戰こうせん[19]てい成功せいこう完全かんぜんひかえせいりょううみけん,一方面深入內陸廣設商業據點“やましょう”,開闢かいびゃく貨源以和外國がいこくじん貿易ぼうえきはしわたしらい累積るいせき資金しきんいち方面ほうめん以此募兵ぼへい包含ほうがん日本人にっぽんじん南島なんとうじん白人はくじん黑人こくじん等外とうがいせき傭兵ようへい)及進こう盔甲、銃砲じゅうほう刀劍とうけんとう武器ぶきらい籌備ぐんりょく軍備ぐんびまた以內りくてき商業しょうぎょう據點きょてんためもと發展はってんはんせいふくあきらてき情報じょうほう組織そしきひろしもん

よんがつ濟度さいど調ちょうしゅうかくみちすい進攻しんこう廈門,於かこえあたま海域かいいき遭鄭ぐん痛擊つうげきしんぐん大敗たいはい而歸。ていぐん取得しゅとく泉州せんしゅう戰役せんえきてき勝利しょうり

よし於荷らんじん西にしはんきばじん搶劫ていぐん商船しょうせん殺害さつがい中國人ちゅうごくじんてい成功せいこうろくがつれい封鎖ふうさ台灣たいわん海峽かいきょうらんじん無法むほうひらけてんてんこう貿易ぼうえき收入しゅうにゅう遽降。[20]

じゅうがつてい成功せいこうりつぐん南下なんかよくおさむめぐみしゅううしおしゅうおうたいしんぐんとしもとりゅう勢力せいりょくざいちんひょう建議けんぎてい成功せいこうおさむ鷗汀(ぞくしおしゅう),分派ぶんぱしょしょうおさむ揭陽、うしおよう自己じこかい廈門。廷以もとりゅう部下ぶかため內應,おさむかつ鷗汀,もとりゅう本部ほんぶ南洋なんよう遭到毀滅せい打擊だげきよりどころうしおしゅうこころざし記載きさい[21][22]

廷令づくりぱいさえぎ,以鐵鍫掘寨脚,堆積たいせき火藥かやく地雷じらいはつ寨崩じゅうあまりたけ,而甘てるやく寨中人爲じんい内應ないおう,寨遂おちいほふ男女だんじょろくまん餘人よにんかつしゃひゃく餘人よにん

ふゆてい成功せいこう​​だい舉北十二月じゅうにがつ取得しゅとく護國ごこくみね戰役せんえきてき勝利しょうり期間きかんゆうていぐんざいぶくやす劫掠ごうりゃくつてきょう利勝としかつ(Victorio Riccio,1621-1685)記載きさいどう[23]

だい大小だいしょうしょう超過ちょうか3000そうてきこくせいてき舢板したがえうみこうさかのぼぶくやすかわ而上。とう們剛いちちょりく,這些うみ寇們りつそく開始かいし蠻橫あらいこう該地。們搶だつ一切いっさい東西とうざいぶん男女だんじょ老幼ろうよう肆意しい殺戮さつりく強姦ごうかん婦女ふじょつめ壯丁そうてい最後さいご們放火燒ひたき毀了許多きょたむら鎮。とおどお就能望見ぼうけん陸地りくちうえれいじんこわてきけむり

わかあがいきどお作詩さくし曰:「ひとげんえびすとりこ長蛇ちょうだあにあくきゃくたんまむし!」てい成功せいこうつげ誡部ぞくせつ:「勞苦ろうく征戰せいせんじゅう有餘ゆうよねん所為しょい何事なにごとそうため報國ほうこく救民きゅうみんおこり。」

此次ていぐん滯留たいりゅう閩東ちょうたちじゅう個月かげつちょくいたながれきじゅういちねん(1657ねんなつざい撤出。らんじん3がつなにあきらいた廈門けんじ琛覲てい成功せいこうざい6がつ同意どうい恢復かいふく貿易ぼうえきらん文獻ぶんけん記載きさいてい條件じょうけんぜんまち中國ちゅうごく商人しょうにん允許いんきょてい商船しょうせんいた暹羅しゃむ、佔碑、舊港きゅうみなととう貿易ぼうえき,而中國ちゅうごく文獻ぶんけん記載きさいそくためらんとし輸銀ゆぎんせんりょうじゅうまんせき,硫磺せん擔」。[20]

きた

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南明なんめいえいれきじゅういちねん(1657ねんせい順治じゅんじじゅうよんねん),反抗はんこうしんぐんてきかくきゅう將領しょうりょうかんへい聚集ざい福建ふっけん選擇せんたくきた目標もくひょうてい成功せいこう選擇せんたくおさむふく南京なんきん-這是ひろしたけ皇帝こうていしゅもとあきら建國けんこく選擇せんたくてき都城みやこのじょう自然しぜんかいゆう大量たいりょうてきはんきよし人口じんこう南京なんきん同時どうじ也是いち重要じゅうようてき戰略せんりゃく要地ようちながれきじゅうねん(1658ねんせい順治じゅんじじゅうねんがつてい成功せいこうりつりょう10まん陸軍りくぐん、290そう艦艇かんてい組成そせいてきみずあずかちゅうぐん於浙江東こうとう海域かいいきてきちょう煌言將軍しょうぐんかい一同いちどうおさむ南京なんきん,僅留しょう部分ぶぶん兵力へいりょく保衛やすえ廈門

えいれきじゅういちねん(1658ねんせい順治じゅんじじゅうねんなながつてい成功せいこうりつぐんきた行軍こうぐんぜんゆうれい

じゅん姦淫かんいん、擄掠婦女ふじょ。如有たがえほんはんりつそくふくろうしめせ大小だいしょう將領しょうりょういち併連ざいじゅん擄掠男子だんしためおびただしへい,如有たがえほんはんふくろうしめせ將領しょうりょうれんざい。敢有擅動民間みんかんいちくさ一木ひとつきしゃほんはんふくろうしめせ大小だいしょう將領しょうりょういち併連ざい[24]

はちがつていぐん入海いりうみもんうてなしゅう九月くがつ天台てんだい太平たいへいうみ門衛もんえいしょうりつただし浙閩總督そうとくりつたい偵知ていぐん精銳せいえい北上ほくじょうじょうぶんへいおさむおちいほしとう閩安鎮。てい成功せいこう擔心兩島りょうしまゆうしつ後方こうほう震動しんどう影響えいきょうぐんこころただとく暫時ざんじかい

えいれきじゅうねん(1658ねんせい順治じゅんじじゅうねん),てい成功せいこう統率とうそつ水陸すいりくぐんじゅうななまんあずか浙東ちょう煌言かいだい舉北大軍たいぐん進入しんにゅう長江ちょうこうぜん不幸ふこう於羊山島やましま海域かいいき遭遇そうぐう颶風ぐふうきずほろびはちせん餘人よにん、沉沒軍艦ぐんかんよんじゅうそう,倖存しゃひとし全數ぜんすう受損,程度ていど不一ふいつてい成功せいこうただゆうれい暫時ざんじ停止ていし推進すいしんなみ修整しゅうせい艦隊かんたいとう待合まちあいてきてき攻擊こうげき時機じきあずか此同しんぐん開始かいしきょうたかし明島あからじま福建ふっけんさん泉州せんしゅう鎮江しゅうてき防禦ぼうぎょ在江あるえめんじょうしきしつらえ鐵索てっさくたぎこうりゅうなみ建造けんぞういかだちゅう紮士へい和大かずひろほうてい成功せいこう命令めいれいへいようおのあたま砍斷てつ鍊,なみ放火ほうかしょうてき人的じんてきいかだ

えいれきじゅうさんねん(1659ねんせい順治じゅんじじゅうろくねん),てい成功せいこうさいつぎりつりょう大軍たいぐんきたじゅん進入しんにゅう長江ちょうこうかいちょう煌言所部ところぶおさむかつていうみふりしゅう鎮江等地とうちてい軍勢ぐんぜい如破ちく,僅派よんめいとらまもるはた、四名哨兵就收復了江浦,ひゃくしんへい遁逃,しょうてい成功せいこう長江ちょうこうこれやく[25]ちょう煌言またおさむふくかぶらみずうみ一帶いったいじゅうすう府縣ふけん江南こうなん一時いちじ震動しんどう,百姓紛紛剪去髮辮脫去旗袍並哭聲言道:「ときひさし大明だいめい衣冠いかん矣!」りょうきょう官民かんみんざいとうまちかちてき一方いっぽうしたがえいち北京ぺきん官員かんいんきゅう自己じこ家人かじん另一名相識的南京官員往來的信件中可以看到,這位北京ぺきんてき官員かんいんざいしん中稱ちゅうしょう南京なんきん北京ぺきんあいだてき一切往來都已經被切斷,よし於鄭成功せいこう及其軍隊ぐんたいざい南京なんきん附近ふきんだい規模きぼ成功せいこうてき軍事ぐんじ活動かつどう清朝せいちょう政府せいふ打算ださん放棄ほうき南京なんきん北京ぺきんはた首都しゅと撤離いた很遠てき地區ちく,這反映はんえいりょう清朝せいちょう北京ぺきん政府せいふ所感しょかん受到てきいむたかし形勢けいせい。這位官員かんいん告訴こくそざい南京なんきんてき子女しじょ準備じゅんびとう奔鄭成功せいこう,而他自己じこ也正準備じゅんびとう奔鄭成功せいこう。這些しんけんひとしためていぐんしょ截獲,てい成功せいこう讀後どくご可能かのうかい開始かいし後悔こうかいため決戰けっせん故意こい拖延放棄ほうき突襲南京なんきんてき決定けってい[まいり⁠ 1]

ざいせっ連取れんしゅとくていうみせき戰役せんえきふりしゅう戰役せんえき鎮江戰役せんえき勝利しょうりてい成功せいこうぜんほこさきろくがつじゅう六日抵達南京郊區;あずか此同ちょう煌言沿江而上佔領太平たいへいやすしこく池州いけす徽州とうよんさんしゅうじゅうけん,於なながつじゅう二日起完全包圍江寧府城(南京なんきん)。へい臨城下之したのきよしぐんろう廷佐むかいあきらてい提出ていしゅついつわりくだ以作なるへいけいただしてい成功せいこう最終さいしゅういん份輕てき同意どういぼつゆう及時おさむじょうさらきゅう滿まんきよし準備じゅんび充足じゅうそくてき時間じかん增援ぞうえん反擊はんげき。此導致鄭成功せいこう丟掉りょうのう發動はつどう突襲てき主動しゅどうけん根據こんきょ1671ねん一位法國傳教士的記載,てい成功せいこう如果たい清朝せいちょう佔領てき南京なんきん發動はつどう進攻しんこうはた切斷せつだんきょうくいだい運河うんがてき補給ほきゅうせん可能かのうしるべ北京ぺきん出現しゅつげんかつえあらしたがえ而迫使滿まんきよし考慮こうりょ退すさかいせきがい放棄ほうき中原なかはら[まいり⁠ 2]

ていぐんかこえ城南じょうなんきょうろくがつじゅうろくおこり持續じぞくきんさんほしただしていぐん規模きぼなみ不足ふそく以完ぜん包圍ほうい南京なんきんじょう,這使南京なんきんじょうのう獲得かくとく補給ほきゅう甚至增援ぞうえん——儘管はりたい南京なんきんもりぐんてき騎兵きへい攻擊こうげき甚至ざい增援ぞうえん到達とうたつぜん成功せいこうりょうなながつじゅうよんにち滿まんきよし援軍えんぐんおわり於抵たち南京なんきん城下じょうかなみ突襲ていぐんていぐん激戰げきせんりょうてんはんかのえあまてるまんれいはやしまさるちんいさおちょうすぐるひとしもうしょう戰死せんしぜんほこさき鎮、ひだり先鋒せんぽう鎮、援剿みぎ鎮、こう勁鎮、ぜん衝鎮、せんあつしひだり鎮、ひだりたけまもるひだりとらまもるとう陸軍りくぐん部隊ぶたい先後せんごおもつくある殲滅せんめつ,其他部隊ぶたい也有やゆうあるおおあるしょうきずほろび不一ふいつだい小船こぶねせき損失そんしつどもひゃくそう,僅やすすい勉強べんきょう擋住きよしぐんてき水上すいじょう攻勢こうせい掩護えんご殘餘ざんよ陸軍りくぐん撤回てっかい船上せんじょうめん於全ぐん覆沒ふくぼつ[まいり⁠ 3]。以每鎮的人數にんずうためりょうせんにんらい計算けいさんていぐんてき損失そんしついたりしょうざいりょうまんにん以上いじょう

なながつじゅうはちしんぐんざいおさむふく鎮江こう就撤かいりょう南京なんきんはちがつはつはちていぐん撤到たかし明島あからじま附近ふきん曾意おさむ作為さくい根據地こんきょちさいじん廈門等地とうち調しらべ援兵えんぺい,以圖さいおさむこうやすしただしたかしあかり戰中せんちゅうていぐん士氣しきこう不善ふぜんおさむじょうてき弱點じゃくてんさいつぎ暴露ばくろはつきゅうていぐんじょうすわりょう千餘艘船隻抵達崇明,ふんじゅうとうがん當時とうじもりじょうてききよしぐんただゆうみどり營軍さんせんにんただし其仍以火炮弓箭きゅうせんたいていぐん造成ぞうせい重大じゅうだい殺傷さっしょうさら主動しゅどう出擊しゅつげき繳獲りょうていぐんてき多門たもんべにえびすひさおさむかつてきていぐん最終さいしゅうただのう黯然あんぜん海路かいろ撤回てっかいきん廈,きた過程かていちゅうおさむふくてき領土りょうど全數ぜんすう棄守,孤立こりつ無援むえんてきちょう煌言也敗走はいそう浙東;此後南明なんめいさい與清ともきよぐん進行しんこう如此だい規模きぼてき會戰かいせん大勢おおぜいやめただあましも西南せいなん地區ちくてきこうきよし鬥爭也日えき黯淡,轉入てんにゅうていしお

南京なんきんたたかえせつてい成功せいこう生涯しょうがいとうちゅうさいてる煌及重要じゅうよういちやく,卻是さきもりおとろえ大敗たいはいおさむじょう使つかいてい成功せいこうはんきよし大業おおわざ受到重大じゅうだい挫折ざせつ

死守ししゅ廈門

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あきらてい艦隊かんたい於九月初七抵達廈門後,しんぐんよくじょう其喘いき未定みていおさむせい順治じゅんじじゅうななねん(1660ねん)5がつ10にちきよしぐんぶん進攻しんこう廈門。一路從同安渡海至廈門北部和西部灘頭登陸,擊退げきたい。另一路主力從海澄發水師進攻廈門鄭軍水師。10日とおかはやじょう8きよし軍水ぐんすい300そうせんじょうしお落順りゅう而下,こう廈門みなと進擊しんげきていぐんしょ於逆りゅうむかえせんてき不利ふり局面きょくめんてい成功せいこう利用りよううみうしお和風わふうこう順風じゅんぷう全面ぜんめん出擊しゅつげき壓制あっせいきよしぐんひとしみなぎ潮時しおどきていぐんじょうしおぜいごうげきよこおさむ焚殺,於福おふくけん海門かいもんこう殲滅せんめつしんしょうたちもとしょりつみずよんまん餘人よにんこえふくしょう廈門戰役せんえき

1661ねん2がつ5にちせい順治じゅんじみかどくずれすめらぎさんげんつぎていくだはたむかいきよし建議けんぎひらぞくさく」,内容ないよう包括ほうかつちょうたち20ねんてき遷界れい山東さんとういたる廣東かんとん沿海えんかい廿里とどり斷絕だんぜつてい成功せいこうてきけい貿財げん;毀沿海えんかいせんせきすんいたもと下水げすい同時どうじ成功せいこうちちていしばりゅうやすしとういま黑龍江こくりゅうこうしょう牡丹ぼたんりゅう徙處(一說いっせつ北京ぺきんさいこうなみ挖鄭ふん移駐いちゅうとうまことかんへいいたり內陸墾荒。

よりどころだい

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1659ねん7がつてい成功せいこうへいはいきむりょう城下じょうか後退こうたいもり東南とうなん沿海えんかい地區ちく,其時あきらていそんへいおりはたなん以與きよしぐんこう衡,不斷ふだん遭圍剿而勢力せいりょく範圍はんいやや縮小しゅくしょうためひろ找反きよしふくあかりてきちょうどお基地きち而於1661ねん毅然きぜん東征とうせい最終さいしゅう翌年よくねん2がつ1にちおさむおちいねつらんさえぎしろなみ成功せいこう征服せいふくぞく臺灣たいわん建立こんりゅう臺灣たいわん史上しじょうくび個個ここ華人かじん政權せいけんしかひさ旋即びょう逝。

てい成功せいこう於1662ねんびょう逝後,ていけい繼承けいしょう其官しょく爵位しゃくい繼續けいぞくたてまつながれきためただしついたち[註 4]並稱へいしょう「招討大將軍だいしょうぐん世子せいし」。らん萊頓大學だいがく圖書館としょかん保存ほぞんゆう《嗣封世子せいし劄致らん海王かいおうてきしんじしんちゅうていけい自稱じしょう「嗣封世子せいし」,たたえてい成功せいこうため先王せんおう」,表示ひょうじ願意がんいあずかかた和好かずよし通商つうしょう,「合力ごうりょく禦虜」。[29]陝西せんせい歷史れきし博物館はくぶつかん保存ほぞんちょいちみことながれきさんじゅうさんねん(1679ねんあきらてい铸造てき炮,炮身後部こうぶ铸有3ぎょう隶书与篆书铭文:「钦命招讨大将たいしょう军总统使世子せいしだい明永みょうえい历己仲秋ちゅうしゅうきちだんづくりはんぜんとくづくりもり备曾懋德」,其中「招讨大将たいしょう军总统使世子せいしそく郑经。[30]

西にしただし

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ていけい臺灣たいわんため基地きち堅持けんじこうきよしちょうたち20ねんひさ,其間さら於1673-1680年間ねんかんいち出兵しゅっぺい閩南ため南明なんめいおさむふく失地しっち

1673ねんさんはんみだれ爆發ばくはつ繼承けいしょうてい成功せいこう台灣たいわん建立こんりゅう政府せいふ體制たいせいてきのべたいらおうていけい接受せつじゅやすしみなみおう耿精ただし請援,りつぐんゆかり台灣たいわん西にしわたり福建ふっけんていけいさき調しらべへいまんにんふね百餘艘先行至廈門,耿軍じん往接。開始かいしていけいぐんようてい成功せいこう時代じだいたけしもり,耿精ちゅういち開始かいし甚為輕視けいしただしていけい廈門ため根據地こんきょち陸續りくぞくおさむ漳州泉州せんしゅうあずかうしおしゅうさんしん而攻交接こうせつてき重要じゅうよう據點きょてんめぐみしゅうていけい於攻城市じょうししょう請耿せいちゅう如約ばちせん地方ちほうやす插兵。耿精ただしこたえ雙方そうほう開始かいし交惡。

1680年代ねんだいはじめこう東平とうへいみなみおうなおこれしんじ福建ふっけんやすしみなみおう耿精忠相ただすけつぎためきよしぐんしょ平定へいてい雲南うんなんひら西にしおうさんかつらまたあきらてい勢力せいりょく敗退はいたい僅能もりじゅう廈門。1680ねんせいすすむまんせいしょくひと遊說ゆうぜいてい軍水ぐんすいふく總督そうとくしゅたかしたかはらため耿精ちゅう部將ぶしょうりつかん300そう將士しょうし2まん餘人よにんくだきよしていけい放棄ほうき廈門なみりつ殘餘ざんよ兵力へいりょくかいだいいたり此,あきらていざい閩南てき勢力せいりょく再度さいど消失しょうしつ[31]

滅亡めつぼう

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ていけい死後しごていかつ嗣延ひら王位おうい,仍稱「招討大將軍だいしょうぐん世子せいし」。[29]1683ねんかん熙帝以明ていくだはたほどこせため統帥とうすいおさむあきらていざい澎湖海戰かいせんげきはいゆかりりゅうこくのき統帥とうすいてきていぐん主力しゅりょくていかつ塽隨そく宣布せんぷ投降とうこう[32]あきらてい滅亡めつぼう

疆域

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1661ねんまえ,郑氏てき军政中枢ちゅうすうざい中国ちゅうごく东南沿海えんかいいち带的福建ふっけん厦门ざいおさむしも台湾たいわん成功せいこうあきら郑政权实际领导人郑经ざいはたせい中心ちゅうしん从厦门移往台湾たいわん,统治辖域仍包含ほうがん福建ふっけんてききん、厦两岛。

あかり有效ゆうこう统治区域くいきただゆういまたい南市みなみいち西部せいぶ以及よしみ义县あずかこう雄市ゆういちこれ沿海えんかい地区ちくあかり郑灭ほろび时其疆域人口じんこう仍未达到20まんよし此,台湾たいわん绝大部分ぶぶん地区ちく依然いぜんよし如大肚王こくとう原住民げんじゅうみん政權せいけんしょ掌握しょうあく统治。1664ねん4がつあきら郑于つぎ战役きさき,丧失きん厦,あきら郑势りょく于中国大こくだい消失しょうしつ,转以台湾たいわん为最きさきすえ同年どうねん兰人出兵しゅっぺいうらない领鸡笼(こんもとたかし),郑军ずいきさき也于1665ねん进驻淡水たんすいあずか军对峙。よし于补给困难,贸易也始终无进展,1667ねん印度いんど议会以损しつ兰盾はちまんげん为由,たっ决撤もとたかし翌年よくねん7がつはた所有しょゆう公司こうし职员せっかいともえ达维亚此荷兰人彻底弃夺かい台湾たいわん

あかり郑除りょう拥有台湾たいわん地区ちく部分ぶぶん领地がい,也于1673ねん-1680ねん三藩之乱期间,以军りょくうらない拥有对岸中國ちゅうごく大陸たいりく闽南地区ちくてき漳州泉州せんしゅう兴化かず广东てきうしおしゅうめぐみしゅうとう部分ぶぶん领土,きさきらい逐步沦丧[33]

政治せいじ

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たてまつ明正めいせいついたち

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てい政權せいけん一直堅持奉明為正朔[34][35][36]てい成功せいこうざいあずからん及其國家こっかてき往來おうらい交涉こうしょうちゅう一貫いっかん自稱じしょうため大明だいめい招討大將軍だいしょうぐんこくせい」,而明てい往後てき統治とうちしゃまたいちちょく沿稱「招討大將軍だいしょうぐん世子せいし」,したがえ自稱じしょうあずまやすし國王こくおう」;而荷かたそくたたえてい成功せいこうためくにせいじい閣下かっか」,表明ひょうめい們也認定にんていてい隸屬れいぞく于明あさてき官員かんいん[29]ただし學界がっかいたい於明ていただしぞく南明なんめい卻有歧見。

はたあきらていため南明なんめいてきゆう

しょうあきらていため南明なんめいてきゆう

  • 顾诚ざい著作ちょさく南明なんめいちゅうみとめためあきらていざい成功せいこうきさきぞく南明なんめい該書僅收ろくいたり1664ねん夔東じゅうさんいえ進攻しんこうじゅう慶之よしゆきやく及郑成功せいこうゆうてい成功せいこうおさむふく臺灣たいわんせんあきら
  • 王水おうすいきよしざい政治せいじ倫理りんり與國よこくぞくみとめどうちゅうみとめため郑經执政时的あかり宛然えんぜんいち獨立どくりつ國家こっか
  • つかさ琳的《南明なんめい》仅收录至鲁监こくびょう逝。


おもえあかりろくかん

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1646ねんていしばりゅう清朝せいちょう政權せいけんおもんみ其子てい成功せいこう繼續けいぞく支持しじ南明なんめい政權せいけんよし兩次りょうじ擊退げきたいしんぐん有功ゆうこうてい成功せいこうあかりあきらそう年號ねんごうながれき)敕封ためのべたいらおう。1655ねんいんためあきらそうとくじゅんてい成功せいこう設置せっちろくかん及察ごとうけたまわせん審理しんりとうかん方便ほうべん施政しせい同時どうじ允許いんきょてい任免にんめんかくかん武官ぶかんたちいちひんぶんしょくたちろく主事しゅじいたり此,てい成功せいこうようゆう閩浙分轄ぶんかつ民政みんせい軍事ぐんじとうけんてい成功せいこう每次まいじはいふう官員かんいんしゅじゅつかつらとう明朝みんちょう宗室そうしつざいつくりかんれい,以示尊重そんちょう體制たいせい[38]同時どうじてい成功せいこうしょうちゅうひだりもりせんしょあらためためおもえあきらしゅうなみ建造けんぞう演武えんぶてい,以便てい成功せいこうおやとく察官へいみさおねり

軍事ぐんじ

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あきらてい軍隊ぐんたいざいていしばりゅうしょ创立てき私人しじん军队てき基礎きそじょう間接かんせつ發展はってん出來できてきていしばりゅう投降とうこう清朝せいちょうてい成功せいこうせき逃往きんもんごう若干じゃっかん父親ちちおやきゅう,而後漸次ぜんじ擴張かくちょう實力じつりょくなみ曾於そお中國ちゅうごく南方なんぽう發動はつどう兩次りょうじ所謂いわゆるきた」。

てい成功せいこう雖然儒家じゅかふとしがくなま出身しゅっしんただしぐんじょう標準ひょうじゅんてき法家ほうか作法さほう賞罰しょうばつなみじゅうこうもとめ戰功せんこう;其治ぐん異常いじょうげん苛,たい於怯せんしゃかしこせんしゃむさぼもの叛逆はんぎゃくしゃころせ赦,而且常常つねづね誅連ぜんいえしたがえ1649ねんえいれきさんねんきゅうがつおこりいたり1661ねんながれきじゅうねんもとつきどめてい成功せいこうしょ誅殺ちゅうさつてきはた吏就ゆうななじゅういん,這些じんだい戰時せんじおびえせん戰敗せんぱいしゃ,黜降ある其他ばつせめゆうきゅういん,另外ゆう六件殺貪誅叛,受黜かわくだばっ、綑責しゃけい僅有さんじゅうあまりいんどう時期じきてき獎勵方面ほうめんはた吏的つつみのぼり、獎賞、爵賞,つつみ授共けいさんひゃくあまりいん

あきらてい軍隊ぐんたい戰時せんじ,以繩さく劃地ためかい退すさえつなわさく畏縮いしゅくまえれい後退こうたいしゃみな誅殺ちゅうさつ。另一方面ほうめんたい勇猛ゆうもう衝鋒、はた拔旗しゃ給與きゅうよ獎勵,てい成功せいこう本人ほんにんさら勇猛ゆうもう異常いじょう,其人ざい戰場せんじょうどもけいゆう七次險遭不測的記錄。其有「おびえしゃ敢獨退すさ勇者ゆうしゃ敢獨すすむきもいさむしげるれつ心力しんりょく俱齊」てき描述,ざい與清ともきよぐんてき對陣たいじんとう中勝なかがちりつきょくだかしか而,此嚴酷げんこく作風さくふうまた使つかいあきらていかんへい甚至宗室そうしつ攜眷降清風せいふう盛行せいこう,甚至最終さいしゅう滅亡めつぼうあかりていてき將領しょうりょうほどこせまたいん此降きよし[39][40] 1658ねん、1659ねんようゆう閩浙據點きょてんてきてい成功せいこう兩度りょうど攻擊こうげきしん政權せいけん浙江せっこう舟山ふなやまきむりょうりょう重要じゅうよう軍事ぐんじ據點きょてんおもんみひとし獲得かくとく決定けっていせい成功せいこう

1662ねんてい成功せいこうじょ固守こしゅきんもんすうまんみずそとおやりつりょうやく25,000めいあきらていへいおさむ台灣たいわんだいいんはいらんひがし印度いんど公司こうしてき部隊ぶたい展開てんかいたい台灣たいわんてき統治とうち

東征とうせいまえ

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東征とうせいまえてきあかりてい軍隊ぐんたい主要しゅよう使用しよう福船ふくふねまたたたえ大船おおぶね。這種せんゆう如此てき描述:「ためろうさんそうじょうふうおきげき不可ふか遏抑,其高わか墉,不可ふかそもそもおさむ;其堅わか鐵石てっせきせき不能ふのうつらぬけ,炬不可ふか爇」。當時とうじあきらてい中國ちゅうごく東南とうなん沿海えんかいゆうちょ絕對ぜったいてき制海權せいかいけんざい海上かいじょう以海ぬすめしきたい船舶せんぱく課稅かぜい」,ぼつ有向ゆうこうあきらてい繳交保護ほごてきにんなん商船しょうせんいく不可能ふかのう通行つうこう

曾攻南京なんきんてきあかりてい軍隊ぐんたい於未よりどころだいまえ,於1640年代ねんだい大本營だいほんえいそくちゅう於廈もん,其編制へんせいため內司鎮(藩主はんしゅ直轄ちょっかつぜん鎮、こう鎮、いち鎮、鎮、さん鎮、よん鎮、鎮、ろうせん鎮、ひだりみぎたけまもる營、ひだりみぎとらまもる營、驍騎鎮《騎兵きへい營》、神器じんぎ營(ほう兵營へいえい)、おやひのと鎮等。

よりどころだい

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おさむしも台灣たいわんてきあかりてい軍隊ぐんたいずいてい成功せいこう喪失そうしつきん廈據てんぐんりょく大幅おおはば受損,じょていけい閩南西にしせいしょ建立こんりゅうてき軍隊ぐんたいがい,以屯へい方式ほうしきためぬしてきあかりてい軍隊ぐんたい台灣たいわんなみ簡化成約せいやくすうまんめい,如ぐんえびすまさしぐんえびすつとむ)、總督そうとく軍務ぐんむかんぐん提督ていとく將軍しょうぐんおやぐんまもるりくみずかんぐんすう份。[41]

あきらてい於1683ねん覆滅ふくめつ,其軍たいかんへい悉數強制きょうせい內渡唐山からやま,而據《欽命ふとしけんたいらこうていみやつこほう官員かんいんへいみんせんせきそうさつ》,最後さいごぼうもり台灣たいわんてきあかりていかんへい共有きょうゆう37,500めい

統治とうちしゃ

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人物じんぶつ 肖像しょうぞう 称号しょうごう 谥号 父親ちちおや 王妃おうひ 在位ざいい時期じき 歷史れきし事蹟じせき
てい成功せいこう のべたいらおう うしおたけしおう ていしばりゅう ただし 1655ねん5がつある6月-1662ねん6がつ23にち 東征とうせいげきはいらんひがし印度いんど公司こうし取得しゅとく台灣たいわん岛西南部なんぶ澎湖れつ
ていけい のべたいらおう しおぶんおう てい成功せいこう とう 1662ねん6がつ29にち-1681ねん3がつ17にち 建設けんせつ臺灣たいわん,於さんはんみだれどき聯合れんごう西にしせい
ていかさね 护理 → 东都ぬし ていしばりゅう 1662ねん7がつ6にち-11がつ27にち あきらてい嗣位そうあずか世子せいしていけいそう失敗しっぱいくだきよし
ていかつ𡒉 监国 ていけい ちん 1681ねん3がつ17にち-19にち あずまやすしへんちゅう遭廢殺害さつがい
ていかつ のべたいらおう ていけい 馮氏 1681ねん3がつ20日はつか-1683ねん10がつ8にち あずまやすしへん政變せいへんだつくらい投降とうこう清朝せいちょう

ちゅう

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  2. ^ 臺灣たいわんがい》、《臺灣たいわんてい記事きじとう文獻ぶんけんしょうていあやていれんためてい成功せいこうぞくけい近年きんねん泉州せんしゅうてい成功せいこう研究けんきゅうかい根據こんきょぞく研究けんきゅう發現はつげん兩人りょうにんあずかてい成功せいこう叔姪關係かんけい[10]
  3. ^ 明朝みんちょうてきおう爵,いちおうごうため親王しんのう(如:ぶくおう),りょうおうごうためぐんおうてい成功せいこう受封てきのべたいらおうためぐんおう階級かいきゅうしょじょうつねしょう其為「のべ平郡へごおりおう」,ただし事實じじつじょうのべたいらおうざい是正ぜせい确的称呼しょうこてい成功せいこう受封のべたいらおうてき時間じかん各種かくしゅ史料しりょう記載きさいゆう出入でいり有永ありながれきさんねんななねんはちねんじゅういちねんじゅうねんとう說法せっぽう。如《南明なんめいだい3559页載ながれききゅうねんよんがつ、《ぞく明紀あきのりごと本末ほんまつまきななながれきじゅういちねんじゅうがつしゅのぞみちょていのべたいらおう受明官爵かんしゃくかんがえ綜合そうごうかくいえせつなみ排除はいじょ錯誤さくごしょみとめため其昭むね兩次りょうじ敕封てい成功せいこうのべたいらおうてき時間じかんだいいちとうざいながれきはちねんはちがつだい二次受封則在永曆九年四月。
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參考さんこう文献ぶんけん

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  11. ^ 順治じゅんじじゅうねんがつじゅう八日福建巡按おうおうもとだい本中ほんなかせつ:“はちねんがつはつなんはつぞくけん恙,軍需ぐんじゅのうおうじゅうがつ,漳浦、うみきよしやぶ而東みなみ矣。いたり扼江東之ひがしのきょうだんあさてんみねちょうやすしみなみやすししつ東北とうほく咽喉いんこう俱塞矣。しろ堡村寨盡ためぞくかすめ一城かずきちゅう四顧しこ無援むえん遷延せんえん七月猶搜括倉儲,しんみん以支われ。迨浙閩援へいつぎすすむ兵馬へいばみつるまん,芻糧ばいまえもうか蓄告匱,民力みんりょく罄竭。はちきゅうりょうがつまいいし米價べいかいたりひゃくじゅうりょう草根そうこん木葉このはねずみすずめ牛馬ぎゅうば搜索そうさく食盡しょくじんまましこれにんにく父子ふししょうしょく,爨不煙火えんかしゃ月余げつよ病死びょうし餓死がしとうすいとう繯而へいちょうたけし強奪ごうだつ箠楚而死,にち以千ひゃくけいかばねこつ山積さんせきけがれ聞數さと。嗟此ざんみん靡有孑遺矣。虎狼ころう士卒しそつあかつきよるかなえにえきむ帛珠だまこしまといさく滿まんなおゆうよいしゅたけなわ以娛其主將しゅしょうしゃぜんせんきさきもりしん使つかい大兵だいひょうややおそ數日すうじつのりじょうしゃ不為ふためおか墟,文官ぶんかん不為ふため齏粉しゃ鮮矣。”(《あきらしん史料しりょうひのとへんだい一本いっぽん
  12. ^ 順治じゅんじ九年十月福建巡按王應元揭帖中說,きん礪“于きゅうがつはつじゅうにちよししょうじょうふくしゅう進發しんぱつ,聞じゅう六日已直抵漳境矣”。(《あきらしん史料しりょうひのとへんだい一本いっぽん
  13. ^ 福建ふっけんじゅんなで佟國ざい順治じゅんじじゅうねんじゅうがつはつにち《三撫捷功奏疏》しょう為恭ためちかほう大兵だいひょう抵漳,かいかこえとしおおせ慰圣ふところごとだい本中ほんなかせつ:“おっと漳圍ほどけざい于順きゅうねんじゅうがつはつさんにち也。さき該各大人おとなりつへい臨泉,あずか楊提とくしょう進發しんぱつとげきゅうがつじゅうはちにち兵馬へいば抵漳。はつにちすすむ剿,はつさんにちぞく竄,かこえかい。”
  14. ^ 清史きよし稿こうまきいちひゃくろくじゅうはちひょうはちしょしんふう爵世ひょういち
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  21. ^ うしおしゅうこころざし》,大事だいじこころざしきよしだいじゅうぺーじ:「じゅう一月閩兵屠鷗汀,じゅうがつじゅうはちにち成功せいこうすべふね南下なんかじゅういちがつさくいたるみなみ澳,ちんひょう曰:『よくおさむめぐみしおぼうとしもとりゅう先取せんしゅ鷗汀。』乃以廷爲そちはやしまさるため先鋒せんぽうふんばちしょ鎭入揭陽、うしおよう,以分其勢,成功せいこう逐回厦門あもい十一月じゅういちがつじゅうさんにち廷令づくりぱいさえぎ,以鐵鍫掘寨脚,堆積たいせき火藥かやく地雷じらいはつ寨崩じゅうあまりたけ,而甘てるやく寨中人爲じんい内應ないおう,寨遂おちいほふ男女だんじょろくまん餘人よにんかつしゃひゃく餘人よにん。」
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