此條
目 め 介 かい 紹的
是 ぜ 1624
年 ねん 荷 に 蘭 らん 在 ざい 澎湖
與 あずか 明朝 みょうちょう 的 てき 戰爭 せんそう 。关于其他
發生 はっせい 在 ざい 澎湖
的 てき 戰爭 せんそう ,请见「
澎湖之 の 役 やく 」。
澎湖之 の 战 (另稱明 あかり 荷 に 澎湖戰役 せんえき 、風 ふう 櫃 ひつ 圍 かこえ 城 じょう 戰 せん )是 これ 明朝 みょうちょう 和 わ 荷 に 蘭 らん 發生 はっせい 於明朝 みょうちょう 天啟 てんけい 四 よん 年 ねん (1624年 ねん )澎湖 的 てき 一場 いちじょう 戰 せん 事 ごと 。
荷 に 蘭 らん 東 ひがし 印度 いんど 公司 こうし 在 ざい 天啟 てんけい 二 に 年 ねん (1622年 ねん )從 したがえ 巴 ともえ 達 いたる 維亞派遣 はけん 艦隊 かんたい 與 あずか 英國 えいこく 聯 れん 軍 ぐん 共 ども 8艘 そう 船艦 せんかん ,於7月 がつ 前 まえ 往澎湖 こ ,此時明海 あけみ 軍 ぐん 季 き 節 ぶし 性 せい 汛防澎湖的 てき 游 ゆう 兵 へい 回航 かいこう ,荷 に 英 えい 聯 れん 軍 ぐん 便 びん 未 み 戰 たたかえ 即 そく 拿下澎湖,並 なみ 在 ざい 風 ふう 櫃 ひつ 尾 お 的 てき 蛇 へび 頭山 つむりやま 築城 ちくじょう (風 ふう 櫃 ひつ 尾 お 荷 に 蘭 らん 城 じょう )。天啟 てんけい 四 よん 年 ねん (1624年 ねん ),時任 ときとう 福建 ふっけん 巡 じゅん 撫 なで 南居 なご 益 えき 對 たい 私 わたし 佔澎湖 みずうみ 的 てき 荷 に 蘭 らん 發動 はつどう 戰爭 せんそう ,明 あかり 軍 ぐん 歷 れき 時 じ 半年 はんとし 多 た 仍久攻 おさむ 不 ふ 下風 かふう 櫃 ひつ 城 じょう ,最終 さいしゅう 是 ぜ 靠 もたれ 留 とめ 日 にち 漢 かん 人海 じんかい 商 しょう 李 り 旦 だん 居中 きょちゅう 斡旋 あっせん ,荷 に 蘭方 らんぽう 才 ざい 同意 どうい 撤軍、歸還 きかん 澎湖,並 なみ 拆毀風 ふう 櫃 ひつ 城 じょう ,轉 てん 往福 ぶく 爾 なんじ 摩 ま 沙 すな 發展 はってん ,開 ひらき 啟 けい 臺灣 たいわん 荷 に 蘭 らん 統治 とうち 時期 じき 。[ 2] [ 3] [ 4]
東亞 とうあ 海域 かいいき 自 じ 十 じゅう 世紀 せいき 後 ご ,福建 ふっけん 海 うみ 商 しょう 與 あずか 非 ひ 洲 しゅう 東岸 とうがん 、波 なみ 斯灣 、印度 いんど 和 かず 南洋 なんよう 諸國 しょこく 等 とう 海上 かいじょう 貿易 ぼうえき 已 やめ 十 じゅう 分 ふん 普遍 ふへん ,並 なみ 皆 みな 有留 ありどめ 存 そん 下 か 文獻 ぶんけん 紀 き 錄 ろく 。但 ただし 因 よし 應 おう 日本 にっぽん 倭 やまと 寇海 うみ 盜 ぬすめ 活動 かつどう 日 び 益 えき 猖獗 しょうけつ ,自明 じめい 朝 あさ 開國 かいこく 皇帝 こうてい 朱 しゅ 元 もと 璋 あきら 建國 けんこく 後 ご ,諸事 しょじ 繁忙 はんぼう ,便 びん 採取 さいしゅ 消極 しょうきょく 應 おう 付 づけ 的 てき 政策 せいさく ,於洪 ひろし 武 たけ 元年 がんねん (1368年 ねん )頒布 はんぷ 「海 うみ 禁 きん 」、朝廷 ちょうてい 後 ご 又 また 為 ため 壟斷 ろうだん 對外 たいがい 貿易 ぼうえき ,在 ざい 洪 ひろし 武 ぶ 七 なな 年 ねん (1374年 ねん )廢除 はいじょ 唐 とう 代 だい 便 びん 設置 せっち 的 てき 「市 し 舶司 」制度 せいど 。[ 5] [ 6] [ 4] :22-25
歐 おう 洲 しゅう 諸國 しょこく 與 あずか 東亞 とうあ 之 の 間 あいだ ,陸上 りくじょう 交易 こうえき 路線 ろせん 的 てき 起源 きげん 淵 ふち 遠流 おんる 長 ちょう [ 7] ,但 ただし 自公 じこう 元 もと 1453年 ねん 起 おこり ,土 ど 耳 みみ 其人攻 おさむ 陷 おちい 君 きみ 士 し 坦 ひろし 丁 ちょう 堡 、拜 はい 占 うらない 庭 にわ 帝國 ていこく 滅亡 めつぼう ,鄂圖曼帝國 こく 順 じゅん 勢 ぜい 接 せっ 管 かん 君 くん 士 し 坦 ひろし 丁 ちょう 堡(後 こう 易 えき 名 めい 為 ため 伊 い 斯坦堡 ),由 ゆかり 於該城 じょう 堡地理 ちり 位置 いち 可 か 箝制歐 おう 洲 しゅう 、亞 あ 洲 しゅう 交界,導 しるべ 致固有 こゆう 陸上 りくじょう 貿易 ぼうえき 路線 ろせん 中斷 ちゅうだん ,西方 せいほう 諸國 しょこく 為 ため 延 のべ 續 ぞく 自身 じしん 商業 しょうぎょう 利益 りえき ,葡萄 ぶどう 牙 きば 、西 にし 班 はん 牙 きば 、英國 えいこく 和 わ 荷 に 蘭 らん 等 とう 各國 かっこく 相 しょう 繼 つぎ 組織 そしき 艦隊 かんたい ,轉 てん 往海路 ろ 發展 はってん 、探索 たんさく 通 どおり 往世界 かい 各 かく 處 しょ 的 てき 航 こう 線 せん ,此為十 じゅう 五世紀期間歐洲邁入大 だい 航海 こうかい 時代 じだい 的 てき 契機 けいき ,亦 また 為 ため 日 び 後 ご 歐 おう 洲 しゅう 諸國 しょこく 競 きおい 相 しょう 在 ざい 中國 ちゅうごく 東南 とうなん 沿海 えんかい 設立 せつりつ 貿易 ぼうえき 據點 きょてん 的 てき 背景 はいけい 。[ 4] :44-47
十 じゅう 五世紀時值明代中葉,明代 あきよ 朝 ちょう 廷仍施行 しこう 海 うみ 禁 きん 政策 せいさく ,直 ちょく 到 いた 隆 りゅう 慶 けい 元年 がんねん (1567年 ねん ),明 あきら 穆 きよし 宗 むね 開放 かいほう 福建 ふっけん 省 しょう 漳州府 ふ 海 うみ 澄 きよし 縣 けん 月 つき 港 こう 通商 つうしょう ,史 し 稱 しょう 「隆 りゅう 慶 けい 開 ひらき 關 せき 」,才 さい 稍 やや 有 ゆう 轉變 てんぺん 。不 ふ 過 か 綜觀明 あきら 初 はつ 種種 しゅじゅ 禁令 きんれい ,其實對 たい 東南 とうなん 沿海 えんかい 如浙江 せっこう 、福建 ふっけん 、廣東 かんとん 等 とう 百姓 ひゃくしょう 的 てき 生計 せいけい 嚴重 げんじゅう 不利 ふり ,被 ひ 迫 せり 移 うつり 居 きょ 外 がい 鄉 きょう ,不 ふ 少 しょう 商賈 しょうこ 突破 とっぱ 海 うみ 禁 きん ,開拓 かいたく 非 ひ 法 ほう 貿易 ぼうえき 、海外 かいがい 走 はし 私 わたし 等 とう 事業 じぎょう ,也漸漸 やや 發展 はってん 成 なり 三 さん 種 しゅ 勢力 せいりょく :一 いち 為 ため 赴往南洋 なんよう ,延 のべ 續 ぞく 西洋 せいよう 的 てき 貿易 ぼうえき 路線 ろせん 、二 に 為 ため 僑居日本 にっぽん 九州 きゅうしゅう ,當時 とうじ 長崎 ながさき 為 ため 日本 にっぽん 和 わ 明朝 みんちょう 少數 しょうすう 合法 ごうほう 通商 つうしょう 的 てき 港口 こうこう ,故 こ 吸引 きゅういん 不 ふ 少 しょう 閩籍商人 しょうにん 集結 しゅうけつ 、三為在台灣海域出沒的武裝集團;這三股 みつまた 勢力 せいりょく 既 すんで 獨立 どくりつ 發展 はってん ,亦 また 相互 そうご 交錯 こうさく ,儼然 げんぜん 形成 けいせい 一股盤根錯節的非官方勢力,甚至足 あし 以與十 じゅう 五世紀的西洋人在東亞海域以武力抗衡。[ 5] [ 8] [ 4] :25-27
荷 に 蘭 らん 所在 しょざい 的 てき 尼 あま 德 とく 蘭 らん 地區 ちく 原 げん 屬 ぞく 西 にし 班 はん 牙 きば 統治 とうち (西 にし 屬 ぞく 尼 あま 德 とく 蘭 らん ,荷 に 蘭 らん 語 ご :Spaanse Nederlanden ),在 ざい 十 じゅう 六世紀時不僅已是歐洲商貿高度發達的地區,其造船 ぞうせん 技術 ぎじゅつ 和 わ 造船 ぞうせん 業 ぎょう 亦 また 十分 じゅうぶん 蓬 よもぎ 勃。約 やく 莫於1560年代 ねんだい ,荷 に 蘭 らん 地區 ちく 不滿 ふまん 西 にし 班 はん 牙 きば 腓 こむら 力 りょく 二 に 世 せい 高 こう 壓 あつ 統治 とうち 與 あずか 宗教 しゅうきょう 迫害 はくがい ,自 じ 行 くだり 籌組聯合 れんごう 省 しょう 共和 きょうわ 國 こく (荷 に 蘭 らん 語 ご :Republiek der (Zeven) Verenigde Provinciën ),並 なみ 在 ざい 1648年 ねん (南明 なんめい 永 えい 曆 れき 二 に 年 ねん 、清 きよし 順治 じゅんじ 五 ご 年 ねん )正式 せいしき 獨立 どくりつ 。[ 4] :94-95
荷 に 蘭 らん 在 ざい 與 あずか 西 にし 班 はん 牙 きば 進行 しんこう 獨立 どくりつ 戰爭 せんそう 的 てき 期間 きかん ,並 なみ 未 み 停 とま 下 しも 海外 かいがい 商 しょう 貿的腳步,在 ざい 相對 そうたい 於葡萄 ぶどう 牙 きば 在 ざい 1526年 ねん (嘉 よしみ 靖 やすし 五 ご 年 ねん )開始 かいし 經略 けいりゃく 澳門 まかお ,西 にし 班 はん 牙 きば 在 ざい 1565年 ねん 占領 せんりょう 菲律賓 まろうど 、1571年 ねん 控 ひかえ 制 せい 馬 うま 尼 に 拉 ひしげ ,荷 に 蘭 らん 人 じん 直 ちょく 到 いた 1595年 ねん 才 ざい 第 だい 一次派遣艦隊前往亞洲 。荷 に 蘭 らん 鑒於商船 しょうせん 造 づくり 價 か 高 こう 昂 のぼる 、成本 なりもと 昂 のぼる 貴 たか ,且航行 こうこう 風 ふう 險 けん 高 だか ,民間 みんかん 獨立 どくりつ 船隊 せんたい 如遠方 かた 貿易 ぼうえき 公司 こうし (荷 に 蘭 らん 語 ご :Compagine van Verre )、老 ろう 牌 ぱい 公司 こうし (荷 に 蘭 らん 語 ご :de Oude Compagine )等 とう 行動 こうどう ,無力 むりょく 對抗 たいこう 西 にし 班 はん 牙 きば 和 わ 葡萄 ぶどう 牙 きば 人的 じんてき 南洋 なんよう 勢力 せいりょく ,荷 に 蘭 らん 國家 こっか 議會 ぎかい (荷 に 蘭 らん 語 ご :Staten-Generaal )遂 とげ 決議 けつぎ 聯合 れんごう 各 かく 家 いえ 公司 こうし 船隊 せんたい ,在 ざい 1602年 ねん 3月 がつ 20日 はつか 正式 せいしき 成立 せいりつ 「荷 に 蘭 らん 東 ひがし 印度 いんど 公司 こうし (荷 に 蘭 らん 語 ご :Vereenigde Oostindische Compagnie; VOC )」。[ 4] [ 9] :42
公司 こうし 成立 せいりつ 進入 しんにゅう 東亞 とうあ 後 ご ,除 じょ 了 りょう 襲擊 しゅうげき 葡萄 ぶどう 牙 きば 與 あずか 西 にし 班 はん 牙 きば 的 てき 據點 きょてん 之 の 外 そと ,也積極 せっきょく 尋 ひろ 找可以設立 せつりつ 商館 しょうかん 的 てき 據點 きょてん [ 9] :46 。1602年 ねん 6月 がつ ,韋麻郎 ろう 率 りつ 領 りょう 船隊 せんたい 到 いた 印 しるし 尼 あま 萬 まん 丹 に ,該年6月 がつ 進攻 しんこう 澳門 まかお 卻失敗 しっぱい [ 9] :46 。之 これ 後 ご 在 ざい 1604年 ねん ,韋麻郎 ろう 買 かい 通 どおり 福建 ふっけん 稅 ぜい 監 かん 高 だか 寀和後 ご ,於8月 がつ 7日 にち 占領 せんりょう 澎湖[ 9] :46 [ 1] :9 。之 これ 後 ご 韋麻郎 ろう 派 は 員 いん 到 いた 福建 ふっけん 請求 せいきゅう 互市 ごし ,但 ただし 福建 ふっけん 官員 かんいん 無 む 意 い 跟荷蘭 らん 進行 しんこう 貿易 ぼうえき ,且在得知 とくち 澎湖被 ひ 占領 せんりょう 後 ご ,派 は 都 みやこ 司 つかさ 沈有容 よう 帶 おび 兵船 へいせん 50艘 そう (約 やく 2千 せん 人 にん )前 ぜん 往澎湖 みずうみ [ 9] :46 。沈有容 よう 在 ざい 萬曆卅二年閏九月廿七日(1604年 ねん 11月18日 にち )抵達今 こん 澎湖馬 うま 公 こう 市 し 一帶 いったい ,於娘媽宮(澎湖天 てん 后 きさき 宮 みや )與 あずか 韋麻郎 ろう 會 かい 面談 めんだん 判 ばん ,要求 ようきゅう 退出 たいしゅつ 澎湖,可 か 改 あらため 前 ぜん 往東南東 なんとう 方 かた 的 てき 島嶼 とうしょ [ 9] :46 [ 1] :9 。韋麻郎 ろう 前 ぜん 往台灣 わん 探 さがせ 查。由 よし 於無法 ほう 達成 たっせい 通商 つうしょう 目標 もくひょう 且兵力 りょく 懸 かか 殊 こと ,韋麻郎 ろう 在 ざい 該年十 じゅう 月 がつ 廿 にじゅう 五 ご 日 にち (1604年 ねん 12月15日 にち )離 はなれ 開 ひらき 澎湖,事後 じご 乃立「沈有容 よう 諭 さとし 退紅 たいこう 毛 げ 番 ばん 韋麻郎等 ろうどう 」碑 いしぶみ 以表彰 ひょうしょう 沈有容 よう 的 てき 功績 こうせき [ 9] :46 [ 1] :9 。而雖然 しか 荷 に 蘭 らん 東 ひがし 印度 いんど 公司 こうし 未 み 能 のう 成功 せいこう 在 ざい 中國 ちゅうごく 設立 せつりつ 據點 きょてん ,但 ただし 在 ざい 安 やす 汶 、雅 まさ 加 か 達 たち 、平戶 ひらど 等地 とうち 設立 せつりつ 了 りょう 商館 しょうかん [ 9] :46 。
1622年 ねん ,雷 かみなり 爾 なんじ 生 せい (雷 かみなり 理 り 生 せい )被 ひ 任命 にんめい 為 ため 東 ひがし 印度 いんど 公司 こうし 評議 ひょうぎ 會 かい 特別 とくべつ 委員 いいん ,同時 どうじ 擔任 たんにん 艦隊 かんたい 司令 しれい [ 9] :47 ,於1622年 ねん 4月 がつ 10日 とおか ,率 りつ 同 どう 與 あずか 英國 えいこく 聯 れん 軍 ぐん 共 ども 8艘 そう 船 せん [ 註 1] ,共 きょう 計 けい 1024人 にん [ 註 2] )從 したがえ 巴 ともえ 達 たち 維亞出發 しゅっぱつ 前 ぜん 往中國 ちゅうごく 沿海 えんかい ,企圖 きと 建立 こんりゅう 與 あずか 明 あかり 國 こく 的 てき 自由 じゆう 貿易 ぼうえき 關係 かんけい ,並 なみ 封鎖 ふうさ 與 あずか 敵國 てきこく 澳門 まかお 、馬 うま 尼 に 拉 ひしげ 的 てき 航 こう 運 うん 貿易 ぼうえき [ 9] :47 [ 10] 。他 た 受命 じゅめい 先攻 せんこう 打 だ 澳門 まかお ,而如果 はて 可能 かのう 在 ざい 中國 ちゅうごく 沿海 えんかい (如澎湖 こ )等地 とうち 設立 せつりつ 據點 きょてん ,築 ちく 堡駐紮[ 9] :47 。
6月 がつ 下旬 げじゅん 攻 おさむ 打 だ 澳門 まかお 失敗 しっぱい 後 ご ,他 た 率 りつ 船 せん 於7月 がつ 11日 にち 抵達澎湖[ 9] :47 。7月27日 にち 他 た 又 また 聘請澎湖漁夫 ぎょふ 為 ため 嚮導 きょうどう 親 おや 自 じ 率 りつ 領 りょう 兩 りょう 艘 そう 船 せん 去 さ 福 ぶく 爾 なんじ 摩 ま 沙 すな 島 とう (臺灣 たいわん 島 とう )探 さがせ 勘 かん 港口 こうこう ,發現 はつげん 中日 ちゅうにち 兩國 りょうこく 人為 じんい 避開海 うみ 禁 きん ,多年 たねん 來會 らいかい 在 ざい 大 だい 員 いん 地區 ちく 進行 しんこう 貿易 ぼうえき [ 9] :47 。7月31日 にち ,雷 かみなり 爾 なんじ 生 せい 返 かえし 回 かい 澎湖,召開會議 かいぎ 討論 とうろん ,儘管雷 かみなり 爾 なんじ 生 せい 較屬意 い 台灣 たいわん ,議會 ぎかい 決議 けつぎ 認 みとめ 為 ため 比 ひ 起 おこり 福 ぶく 爾 なんじ 摩 ま 沙 すな 島 とう ,澎湖是 ぜ 更 さら 合 あい 適 てき 的 てき 據點 きょてん ,遂 とげ 決議 けつぎ 在 ざい 澎湖築城 ちくじょう [ 9] :47 。8月2日 にち 起 おこり ,在 ざい 風 ふう 櫃 ひつ 尾 お (荷 に 蘭 らん 人稱 にんしょう 為 ため 「教 きょう 堂 どう 灣 わん 」)建立 こんりゅう 城 じょう 堡,四個稜堡都架有大炮[ 9] :47 。在 ざい 築城 ちくじょう 期間 きかん ,荷 に 蘭 らん 人 じん 再 さい 次 つぎ 占領 せんりょう 澎湖的 てき 消息 しょうそく 為 ため 明朝 みんちょう 當局 とうきょく 所 しょ 知 ち ,有 ゆう 官員 かんいん 王 おう 守備 しゅび (Ongsoepie)與 あずか 商人 しょうにん 黃 き 明 あかり 佐 さ (Wangsan)[ 註 3] 前 ぜん 來 らい 交涉 こうしょう ,荷 に 方 かた 要求 ようきゅう 與 あずか 明方 あけがた 自由 じゆう 貿易 ぼうえき ,並 なみ 要求 ようきゅう 明方 あけがた 停止 ていし 與 あずか 馬 うま 尼 に 拉 ひしげ 的 てき 貿易 ぼうえき ;明方 あけがた 則 のり 要求 ようきゅう 荷 に 方 かた 退出 たいしゅつ 澎湖,並 なみ 表示 ひょうじ 如果為 ため 了 りょう 貿易 ぼうえき 而開戰 かいせん ,將 はた 遭到大軍 たいぐん 封鎖 ふうさ [ 11] :107 。
1622年 ねん 8月 がつ 2日 にち 起 おこり ,荷 に 蘭 らん 東 ひがし 印度 いんど 公司 こうし 開始 かいし 建造 けんぞう 澎湖堡壘 ほうるい ,期間 きかん 仍持續 じぞく 查獲明方 みょうがた 中國 ちゅうごく 東南 とうなん 沿海 えんかい 船 せん 隻 せき 出海 でうみ 前 ぜん 往敵國 こく 馬 ば 尼 あま 拉 ひしげ 貿易 ぼうえき 予 よ 以私 わたし 掠 かすめ 、尋 ひろ 求 もとめ 補給 ほきゅう 之 の 外 そと ,亦 また 不斷 ふだん 尋 ひろ 求 もとめ 和 かず 中國 ちゅうごく 之 の 貿易 ぼうえき 機會 きかい 。根據 こんきょ 首席 しゅせき 商務 しょうむ 員 いん 梅 うめ 爾 なんじ 德 とく 特 とく (Johan van Melderd)回 かい 憶,他 た 甫 はじめ 至 いたり 澎湖,便 びん 被 ひ 派 は 去 さ 廈門 交涉 こうしょう 通 どおり 商事 しょうじ 宜 よろし ,然 しか 似 に 因 いん 未 み 送 おく 禮 れい 而被當地 とうち 官員 かんいん 刁難,要求 ようきゅう 他行 たぎょう 下 か 跪叩首 くび 之 の 禮 れい 才 ざい 肯與之 の 會談 かいだん ,後 ご 又 また 被 ひ 打 だ 發 はつ 回 かい 澎湖等 とう 候 こう 通知 つうち ,自 じ 是 ぜ 半分 はんぶん 音 おと 訊也無 む 。[ 4] :111、115
1623年 ねん 1月 がつ 中旬 ちゅうじゅん ,雷 かみなり 爾 なんじ 生 せい 親 おや 自 じ 偕梅爾 なんじ 德 とく 特 とく 赴往廈門和 わ 當地 とうち 官員 かんいん 交涉 こうしょう ,由 ゆかり 於廈門 もん 官員 かんいん 不 ふ 敢擅作 さく 主張 しゅちょう ,遂 とげ 將 はた 雷 かみなり 爾 なんじ 生 せい 引薦至 いたり 福 ふく 州 しゅう ,拜 はい 訪 おとずれ 時任 ときとう 福建 ふっけん 巡 じゅん 撫 なで 商 しょう 周 しゅう 祚 。1月23日 にち ,雷 かみなり 爾 なんじ 生 せい 與 あずか 商 しょう 周 しゅう 祚在福 ふく 州 しゅう 商議 しょうぎ ,並 なみ 做出「停 とま 火 ひ 一 いち 年 ねん 」、「荷 に 方 かた 撤出澎湖」、「明方 あけがた 同意 どうい 荷 に 方 かた 在 ざい 台灣 たいわん 本島 ほんとう 進行 しんこう 貿易 ぼうえき 」等 とう 初步 しょほ 協議 きょうぎ 。
1623年 ねん 3月 がつ ,雷 かみなり 爾 なんじ 生 せい 派遣 はけん 商務 しょうむ 官 かん 前 ぜん 往大員 いん 一帶調查當地情勢、進行 しんこう 貿易 ぼうえき 活動 かつどう 、駐 ちゅう 紮當地 ち ,10月 がつ ,派遣 はけん 軍 ぐん 士 し 與 あずか 工 こう 人前 ひとまえ 往大員 いん 海 うみ 灣 わん 出口 でぐち 的 てき 南側 みなみがわ 沙 すな 洲 しゅう 上 じょう 興 きょう 建 けん 簡易 かんい 城砦 じょうさい 。
1623年 ねん (天啟 てんけい 三 さん 年 ねん )夏季 かき ,商 しょう 周 しゅう 祚遭撤換,南居 なご 益 えき 接 せっ 替 がえ 成 なり 為 ため 福建 ふっけん 巡 じゅん 撫 なで ,對 たい 荷 に 政策 せいさく 丕變,立 たて 即 そく 召集 しょうしゅう 兵 へい 勇 いさむ 於金 かね 門 もん 、廈門 海域 かいいき 操 みさお 練 ねり 。[ 4] :111-112
1623年 ねん 9月 がつ 底 そこ ,南居 なご 益 えき 下 か 令 れい 福建 ふっけん 沿海 えんかい 戒嚴 かいげん 。對 たい 此,澎湖堡壘 ほうるい 指揮 しき 官 かん 雷 かみなり 爾 なんじ 生 せい 寄 よせ 信 しん 予 よ 以福建 ふっけん 當局 とうきょく ,要求 ようきゅう 明朝 みんちょう 商船 しょうせん 不 ふ 得 とく 前 ぜん 往馬尼 あま 拉 ひしげ (西 にし 班 はん 牙 きば 人 じん 根據地 こんきょち )交易 こうえき ,並 なみ 允許 いんきょ 荷 に 蘭 らん 和 わ 明朝 みんちょう 自由 じゆう 貿易 ぼうえき 之 の 權利 けんり ,如若明朝 みんちょう 政府 せいふ 拒絕 きょぜつ 兩 りょう 項 こう 條件 じょうけん ,當 とう 即 そく 對 たい 明朝 みんちょう 政府 せいふ 宣戰 せんせん 。10月25日 にち ,雷 かみなり 爾 なんじ 生 せい 下 か 令 れい 高級 こうきゅう 商務 しょうむ 員 いん 福 ぶく 朗 ろう 克 かつ (Christiaan Francx、Christian Franszoon,又 また 譯 わけ 法 ほう 蘭 らん 西 にし 斯尊,法 ほう 蘭 らん 斯尊[ 12] )率 りつ 五 ご 艘 そう 船艦 せんかん 進發 しんぱつ 福建 ふっけん ,前 ぜん 往九 きゅう 龍 りゅう 江 こう 西 にし 溪 けい 支流 しりゅう -漳州河 かわ ,先 さき 懸 かか 掛 かけ 白旗 はっき 進入 しんにゅう 漳州河 かわ ,發 はつ 送信 そうしん 函 はこ 請求 せいきゅう 談判 だんぱん ,若 わか 無法 むほう 達成 たっせい 協議 きょうぎ 即 そく 與 あずか 明 あかり 國 こく 開戰 かいせん ,並 なみ 封鎖 ふうさ 前 ぜん 往馬尼 あま 拉 ひしげ 或 ある 任 にん 何 なん 交戰 こうせん 敵國 てきこく 貿易 ぼうえき 的 てき 船 せん 隻 せき 出海 でうみ 。此時明朝 みんちょう 政府 せいふ 向 こう 荷 に 蘭方 らんぽう 發出 はっしゅつ 協商 きょうしょう 邀約,延 のべ 請福朗 ろう 克 かつ 等 とう 在 ざい 鼓浪嶼 ころうしょ 上岸 かみきし 簽署協議 きょうぎ ,佛 ふつ 朗 ろう 克 かつ 依 よ 約 やく 於11月 がつ 14日 にち 率 りつ 領 りょう 兩 りょう 艘 そう 船艦 せんかん 駛入廈門。然 しか 在 ざい 11月 がつ 17日 にち 簽署協議 きょうぎ 後 ご ,福 ぶく 浙總 そう 兵 へい 官 かん 謝 しゃ 弘 ひろ 儀 ぎ 拘 かかわ 捕 ど 了 りょう 上岸 かみきし 的 てき 福 ぶく 朗 ろう 克 かつ 等 とう 三 さん 十 じゅう 餘人 よにん 。[ 13] :226 [ 14] [ 15] 中方 なかほう 送 おく 毒 どく 酒 しゅ 上船 じょうせん ,但 ただし 被 ひ 荷 に 方 かた 發現 はつげん 而未飲用 いんよう [ 14] 。是 ぜ 夜 よる ,守備 しゅび 王 おう 夢 ゆめ 熊 ぐま 率 りつ 五十艘載滿火藥的帆船衝撞荷蘭東印度公司艦隊,其中木 なかき 登 のぼる 號 ごう (Muyden)被 ひ 燒 やき 毀,伊 い 拉 ひしげ 斯穆斯號(Erasmus)順 じゅん 利 り 逃脫。總計 そうけい 荷 に 方 かた 8人 にん 被 ひ 殺 ころせ ,52人 ふたり 被 ひ 擒 とりこ 。福 ぶく 朗 ろう 克 かつ 與 あずか 參與 さんよ 談判 だんぱん 的 てき 商務 しょうむ 員 いん 等 とう 人 じん 被 ひ 押送 おうそう 北京 ぺきん ,明 あかり 熹宗 『祭 まつり 告 つげ 郊廟,御門 みかど 受俘,刑 けい 高 だか 文 ぶん 律 りつ 等 とう 於西市 し ,傳 つて 首 くび 各 かく 邊 あたり ,以昭示 しめせ 天下 でんか 』,將之 まさゆき 悉數處 しょ 死 し 。[ 4] :112 [ 16] :110-112
明朝 みょうちょう 政府 せいふ 令 れい 福建 ふっけん 巡 めぐ 抚南居 なご 益 えき 進軍 しんぐん 澎湖。此時海 うみ 商 しょう 鄭 てい 芝 しば 龍 りゅう 因 いん 荷 に 蘭 らん 人 じん 以澎湖 みずうみ 為 ため 基地 きち 時 じ ,搶奪了 りょう 懸 かか 有 ゆう 鄭 てい 芝 しば 龍 りゅう 令 れい 旗 はた 的 てき 二 に 艘 そう 商船 しょうせん ,接受 せつじゅ 明朝 みんちょう 福建 ふっけん 巡 じゅん 撫 なで 南居 なご 益 えき 的 てき 招安,攻擊 こうげき 荷 に 蘭 らん 人 じん 。 [來 らい 源 みなもと 請求 せいきゅう ]
根據 こんきょ 利 り 邦 くに 回 かい 憶錄所 しょ 述 じゅつ ,明 あかり 軍 ぐん 於1624年 ねん 1月 がつ 12日 にち 之 の 前 ぜん ,便 びん 已 やめ 有 ゆう 3000人 にん 從 したがえ 吉 よし 貝 かい 嶼進入 しんにゅう 澎湖海域 かいいき ,於澎湖 こ 「北面 きたも 島 とう 」築城 ちくじょう [ 16] :132 (築城 ちくじょう 地點 ちてん 為 ため 頂山 いただきやま 嶼 鎮海港 かいこう ,即今 そっこん 白 しろ 沙 すな 鄉 きょう 鎮海村 むら );1624年 ねん 2月 がつ 8日 にち (天啟 てんけい 四 よん 年 ねん 正月 しょうがつ 初 はつ 二 に ),明 あかり 軍 ぐん 於築造 づくり 石城 せきじょう 同時 どうじ 發動 はつどう 攻擊 こうげき ,守備 しゅび 王 おう 夢 ゆめ 熊 ぐま 率 りつ 軍 ぐん 進攻 しんこう 澎湖風 ふう 櫃 ひつ 尾城 おじろ ,逼荷蘭 らん 軍 ぐん 退 すさ 守 もり 城 じょう 內,此為明 あかり 軍 ぐん 第 だい 一 いち 次 じ 攻擊 こうげき ;間隔 かんかく 未 み 久 ひさ ,明 あかり 軍 ぐん 對 たい 風 ふう 櫃 ひつ 尾城 おじろ 發動 はつどう 第 だい 二 に 次 じ 攻擊 こうげき ,但 ただし 日 にち 期 き 不 ふ 詳 しょう ,總計 そうけい 明 あかり 軍 ぐん 兩次 りょうじ 攻擊 こうげき 行動 こうどう 皆 みな 未 み 打 だ 下風 かふう 櫃 ひつ 尾城 おじろ 。[ 4]
1624年 ねん 3月 がつ 下旬 げじゅん ,風 ふう 櫃 ひつ 尾城 おじろ 指揮 しき 官 かん 雷 かみなり 爾 なんじ 生 せい ,考慮 こうりょ 兵力 へいりょく 嚴重 げんじゅう 不足 ふそく 遭明軍 ぐん 圍 かこえ 攻 おさむ ,資源 しげん 無法 むほう 分散 ぶんさん 於澎湖 こ 、大 だい 員 いん 兩 りょう 地 ち ,下 した 令 れい 召回前 まえ 一 いち 年 ねん 1623年 ねん 10月 がつ 派 は 守 もり 大 だい 員 いん 的 てき 軍 ぐん 士 し ,拆毀城砦 じょうさい ,26名 めい 成員 せいいん 在 ざい 3月 がつ 28日 にち 返 かえし 回 かい 澎湖,包括 ほうかつ 傭兵 ようへい 利 り 邦 くに 在 ざい 內;利 り 邦 くに 曾在3月 がつ 30日 にち 率 りつ 兩 りょう 艘 そう 快 こころよ 艇 てい 、三艘帆船進攻明軍的鎮海堡壘,在 ざい 僅剩一砲距離時卻遇退潮,快 かい 艇 てい 擱淺沙 すな 洲 しゅう 達 たち 六 ろく 小 しょう 時 じ ,漲 みなぎ 潮 しお 後 ご 才 ざい 脫 ぬげ 困 こま ,安然 あんねん 返 かえし 回 かい 風 ふう 櫃 ひつ 尾城 おじろ 。[ 16] :133
李 り 旦 だん (天主教 てんしゅきょう 名 な :Andrea Dittis(拉 ひしげ 丁 ひのと 語 ご ),?-1625年 ねん )為 ため 泉州 せんしゅう 海 うみ 商 しょう 暨海盜 ぬすめ ,久居 ひさい 日本 にっぽん 平戶 ひらど ,以「中國 ちゅうごく 甲必丹 かぴたん 」之 の 名 めい 廣 こう 為 ため 人知 じんち 。李 り 旦 だん 原本 げんぽん 是 ぜ 旅 たび 居 きょ 馬 ば 尼 あま 拉 ひしげ 的 てき 中國 ちゅうごく 甲必丹 かぴたん ,西 にし 班 はん 牙 きば 在 ざい 1565年 ねん 占據 せんきょ 菲律賓 まろうど ,1571年 ねん 占領 せんりょう 擁 よう 有 ゆう 華人 かじん 社 しゃ 區 く 的 てき 馬 うま 尼 あま 拉 ひしげ ,利用 りよう 馬 ば 尼 あま 拉 ひしげ 華人 かじん 牽線、囤積貨物 かもつ ,並 なみ 傳 でん 揚 よう 天主教 てんしゅきょう 福音 ふくいん ,集中 しゅうちゅう 管理 かんり 不 ふ 信奉 しんぽう 天主教 てんしゅきょう 的 てき 華人 かじん 甚至加 か 以屠殺 とさつ ,李 り 旦 だん 在 ざい 馬 うま 尼 あま 拉 ひしげ 的 てき 財產 ざいさん 也因此被西 にし 班 はん 牙 きば 人 じん 侵 おかせ 占 うらない ,只 ただ 得 とく 逃往日本 にっぽん ,另起爐 ろ 灶。[ 17] [ 4] :28-29
李 り 旦 だん 因 いん 自身 じしん 和 わ 西 にし 班 はん 牙 きば 之 の 恩 おん 怨,外 そと 加福 かふく 建 けん 巡 じゅん 撫 なで 南居 なご 益 えき 押扣李 り 旦 だん 心腹 しんぷく 許 もと 心 こころ 素 もと 的 まと 兒 じ 子 こ ,故 こ 李 り 旦 だん 接受 せつじゅ 許 もと 心 こころ 素 す 請託 せいたく ,也為兼 けん 顧自身 じしん 貿易 ぼうえき 利益 りえき ,藉荷蘭 らん 和 わ 西 にし 班 はん 牙 きば 長期 ちょうき 夙怨發揮 はっき ,在 ざい 1624年 ねん (天啟 てんけい 四 よん 年 ねん )出面 でづら 調 ちょう 解明 かいめい 朝 あさ 和 わ 荷 に 蘭 らん 之 の 間 あいだ 的 てき 糾紛,引薦鄭 てい 芝 しば 龍 りゅう 出 で 任 にん 荷 に 方 かた 通譯 つうやく ,力 ちから 勸 すすむ 荷 に 蘭方 らんぽう 退出 たいしゅつ 澎湖、前 ぜん 往大員 いん (台灣 たいわん 本島 ほんとう )。[ 4] :114
1624年 ねん 5月 がつ 10日 とおか ,李 り 旦 だん 來 らい 到 いた 澎湖風 ふう 櫃 ひつ 尾 お ,並 なみ 帶 たい 兩 りょう 名 めい 使者 ししゃ 與 あずか 荷 に 蘭方 らんぽう 和談 わだん ,雙方 そうほう 展開 てんかい 談判 だんぱん 和 わ 起草 きそう 合 あい 約 やく ,往來 おうらい 約 やく 花 はな 了 りょう 一 いち 個月 かげつ ,期間 きかん 荷 に 蘭方 らんぽう 對 たい 李 り 旦 だん 懷 ふところ 有 ゆう 戒心 かいしん ,並 なみ 未 み 讓 ゆずる 李 り 旦 だん 等 とう 進入 しんにゅう 風 ふう 櫃 ひつ 尾城 おじろ 內。1624年 ねん 6月 がつ 6日 にち ,李 り 旦 だん 赴往大 だい 員 いん ,荷 に 蘭方 らんぽう 也隨之 これ 派 は 船艦 せんかん 去 さ 大 だい 員 いん 交易 こうえき 生絲 きいと ,期間 きかん 雖與明 あかり 軍 ぐん 對峙 たいじ ,也仍持續 じぞく 和 わ 明朝 みんちょう 的 てき 商船 しょうせん 進行 しんこう 貿易 ぼうえき 。[ 16] :132-134
1624年 ねん 6月 がつ 22日 にち (天啟 てんけい 四 よん 年 ねん 五 ご 月 がつ 初 はつ 七 なな ),時任 ときとう 福建 ふっけん 南 みなみ 路 ろ 副 ふく 總 そう 兵 へい 官 かん 俞咨皋 、福 ぶく 建水 けんすい 師 し 提 つつみ 標 しるべ 遊 ゆう 擊 げき 劉 りゅう 應 おう 寵 ちょう 帶 たい 來 らい 第 だい 三梯軍隊抵達澎湖。[ 13] :227 6月24日 にち (五 ご 月 がつ 初 はつ 九 きゅう ),明 あかり 軍 ぐん 在 ざい 娘 むすめ 媽宮(澎湖天 てん 后 きさき 宮 みや )布置 ふち 火砲 かほう ,跨 またが 海 うみ 對 たい 準 じゅん 風 ふう 櫃 ひつ 尾城 おじろ ,又 また 準備 じゅんび 火 ひ 舟 ふね 四散 しさん 蒔上澳(清 せい 領 りょう 時期 じき 嵵裡澳 ),包圍 ほうい 風 ふう 櫃 ひつ 尾城 おじろ ,一時 いちじ 之 の 間 あいだ ,風 ふう 櫃 ひつ 尾城 おじろ 遭到三 さん 側 がわ (北 きた 、西 にし 、南 みなみ )包圍 ほうい ,連 れん 汲水 きゅうすい 和 わ 取 と 薪 たきぎ 材 ざい 的 てき 途 と 徑 みち 都 と 被 ひ 阻斷,指揮 しき 官 かん 雷 かみなり 爾 なんじ 生 せい 只 ただ 得 え 向 こう 巴 ともえ 達 たち 維亞總 そう 部 ぶ 發送 はっそう 求 もとめ 援信函 はこ 。[ 4] :114
1624年 ねん 8月 がつ 1日 にち ,明 あかり 軍 ぐん 在 ざい 鎮海堡聚集 しゅう 人數 にんずう 已 やめ 達 たち 4000人 にん ,船 ふね 150艘 そう 。明 あかり 軍 ぐん 為 ため 增加 ぞうか 武備 ぶび ,又 また 於紅木 き 埕處築城 ちくじょう ,搭建砲台 ほうだい ,即 そく 文 ぶん 澳天啟 けい 城 じょう 。[ 註 4] [ 18] 同 どう 一 いち 時期 じき ,宋 そう 克 かつ (荷 に 蘭 らん 語 ご :Maarten Sonck ,?-1625年 ねん )來 らい 到 いた 澎湖,接 せっ 替 がえ 雷 かみなり 爾 しか 生出 おいで 任 つとむ 澎湖風 ふう 櫃 ひつ 尾城 おじろ 的 てき 指揮 しき 官 かん ,在 ざい 8月 がつ 4日 にち 正式 せいしき 完成 かんせい 交接 こうせつ ,雷 かみなり 爾 なんじ 生 せい 隨 したがえ 即 そく 離 はなれ 開 ひらき 澎湖。[ 16] :135
8月 がつ 中旬 ちゅうじゅん ,新任 しんにん 指揮 しき 官 かん 宋 そう 克 かつ 眼 め 見明 みみょう 軍 ぐん 人數 にんずう 來 らい 到 いた 1萬 まん 人 にん ,船 ふね 200艘 そう ,業 ぎょう 已 やめ 做好三路進攻風櫃尾城的布置,便 びん 派 は 人 じん 求 もとめ 見 み 俞咨皋,請求 せいきゅう 談判 だんぱん 。[ 4] :114
天啟 てんけい 四 よん 年 ねん (1624年 ねん )9月 がつ ,經過 けいか 雙方 そうほう 的 てき 協議 きょうぎ ,荷 に 方 かた 同意 どうい 拆毀並 なみ 撤出風 ふう 櫃 ひつ 城 じょう ,明朝 みんちょう 政府 せいふ 則 そく 指 ゆび 引荷方 かた 轉 うたて 往當時 とうじ 為 ため 中國 ちゅうごく 版圖 はんと 之 の 外的 がいてき 大 だい 員 いん (今 こん 台灣 たいわん 南部 なんぶ ),並 なみ 且允諾 だく 派 は 中國 ちゅうごく 商船 しょうせん 前 ぜん 往貿易 ぼうえき ,終 おわり 於收復 ふく 澎湖。身 み 為 ため 荷 に 方 かた 通譯 つうやく 的 てき 鄭 てい 芝 しば 龍 りゅう 亦 また 藉此隨 ずい 同前 どうぜん 往大員 いん ,荷 に 方 かた 與 あずか 顏 かお 思 おもえ 齊 ひとし 、鄭 てい 芝 しば 龍 りゅう 等 とう 海 うみ 盜 ぬすめ 合作 がっさく ,委任 いにん 其懸掛 かけ 親王 しんのう 旗 はた 執行 しっこう 私 わたし 掠 かすめ 來往 らいおう 交戰 こうせん 敵國 てきこく 港口 こうこう 馬 ば 尼 あま 拉 ひしげ 的 てき 商船 しょうせん ,與 あずか 其平分 ぶん 私 わたし 掠 かすめ 所得 しょとく ,後來 こうらい 也與其合作 がっさく 招募運送 うんそう 漢 かん 人 じん 來 らい 台 だい 開墾 かいこん 。
此戰明 あかり 軍 ぐん 共 ども 計 けい 動 どう 用 よう 兵船 へいせん 二 に 百 ひゃく 隻 せき ,兵力 へいりょく 一 いち 萬 まん 人 にん ,交戰 こうせん 七 なな 月 がつ ,耗軍費 ひ 達 たち 十 じゅう 七 なな 萬 まん 七 なな 千 せん 餘 よ 兩 りょう ,原本 げんぽん 就民生 せい 凋蔽、貪 むさぼ 官 かん 汙吏橫行 おうこう 、早 はや 已 やめ 拮据的 てき 財政 ざいせい 更 さら 加 か 陷 おちい 入 にゅう 困 こま 境 さかい 。戰爭 せんそう 過 か 後 ご ,明朝 みんちょう 在 ざい 戰後 せんご 重 おも 新 しん 筑城,并设游 ゆう 击一,把 わ 总二,统兵三 さん 千 せん ,建立 こんりゅう 起 おこり 炮台以作守備 しゅび [ 19] 。而荷蘭 らん 則 そく 在 ざい 明朝 みんちょう 政府 せいふ 的 てき 指 ゆび 引下 ひきさげ ,轉 うたて 往大員 いん 發展 はってん ,並 なみ 在 ざい 當地 とうち 建立 こんりゅう 熱 ねつ 蘭 らん 遮 さえぎ 城 しろ ,開 ひらき 啟 けい 了 りょう 台灣 たいわん 史 し 上 うえ 近 きん 四 よん 十 じゅう 年 ねん 的 てき 荷 に 蘭 らん 統治 とうち 時期 じき 。
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1949年 ねん 前 まえ 1949-1979 1979-1996 1996-2008 2008-2016 2016至 いたり 今 いま