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あかり熹宗

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あかり熹宗
国立こくりつ博物はくぶついんぞう熹宗悊皇帝こうていよう
明朝みんちょうだい15だい16にん皇帝こうてい
統治とうち1620ねん9がつ26にち-1627ねん9がつ30にち(7ねん4てん
前任ぜんにん明光めいこうむねしゅつねらく
つぎにんあかりおもえむねしゅゆかり
出生しゅっしょうまんさんじゅうさんねんじゅういちがつじゅうよんにち
(1605-12-23)1605ねん12月23にち
明朝みょうちょうきたちょく顺天むらさき禁城きんじょう慈庆宫
逝世てんななねんはちがつじゅうにちおつ[1]
1627ねん9がつ30にち(1627さい—09—30)(21さい
明朝みょうちょうきたちょくじゅんてんむらさき禁城きんじょういぬいきよし
やすそう

きょう3にん
おんな
きょう3にん
年號ねんごう
てん
谥号
いたるてん闡道あつしこうあつ友章ともあきぶんじょうたけやすしきよしそうつとむあきら皇帝こうていたかしただしみかどはつおくりな
いたるてん闡道あつしこうあつ友章ともあきぶんじょうたけやすしきよしそうつとむ皇帝こうていたかしただしみかどあらためおくりな[2]
庙号
熹宗
父親ちちおや明光めいこうむねしゅつねらく
母親ははおや孝和こうわ皇太后こうたいごうおう

あかり熹宗しゅゆかりこうjiào[3](1605ねん12月23にち—1627ねん9がつ30にち),あるしょう天啟てんけいみかどひかりむね長子ちょうし明朝みょうちょうだい16にん皇帝こうてい在位ざいい時間じかんため1620ねん-1627ねんねんごう天啟てんけいひかりむね即位そくいいちがつ便びん驾崩,使つかいしゅゆかりこう匆匆そうそうのぼりはじめためみかどしゅゆかりこう當時とうじねんじゅうよんさい曾被りつ太子たいし接受せつじゅ正規せいきてきもうかきみ教育きょういく天啟てんけいみかど在位ざいいめん後金あときんいむたかしてき挑戰ちょうせんえき劇的げきてき社會しゃかい危機きき早期そうき任用にんようりょうひがしりんとうひとぬしせいただしちゅう後期こうき發生はっせいりょうひがしりん黨爭とうそうちゅうけんらんせいとう事件じけん後世こうせい中外ちゅうがい史家しか普遍ふへんたい天啟てんけいみかどきゅう相當そうとうあくれつてき評價ひょうか[4]

生平おいだいら

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匆忙即位そくい

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まんれきさんじゅうさんねん(1605ねん)じゅういちがつじゅうよんにち[5]しゅゆかりこう誕生たんじょうひだり顴生しろ[6]宮門きゅうもんふう閉,かえこれ太子たいしてき其父しゅつねらく派遣はけんろうみやおんな赴仁とくもん外報がいほう,而太こう也因つくり不安ふあん而獨自在じざい宮殿きゅうでん的石まといしかい徘徊はいかいとまちょくいたり傳來でんらい明神みょうじんむねこうてい皇太后こうたいごう大喜だいぎてき消息しょうそくしゅつねらくざい放下ほうかしんらいしゅゆかりこう母親ははおやおう也隨ふうため太子たいし才人さいじん[7]

值得いちひさげてき,其父しゅつねらく一向不為朱由校的祖父明神みょうじんむねところしゅゆかりこうまたぼっゆうかみむね重視じゅうしいん此其ちちただのうゆずるとも读太かん吴进ちゅう便びんわたし给朱よしこう诵书习字[8]。其次,ちゅうけん(早期そうきめいすすむただしこうあらためすすむただし[9]) かず乳母うばきゃく也是ざい時期じき便びん開始かいしあきら顧朱よしこうてき飲食いんしょく起居ききょ[10]而二人在朱由校即位後以「あおみやきゅうろうごくしゅゆかりこうてきちょうしん[11][12][13]後來こうらいきゃくいん「擅寵」而被群臣ぐんしん請求せいきゅうみやしゅゆかりこうさらいんたいきゃく思念しねん而流なみだいたにちしょくやめばん也不ねがいしんしょく其受ちょうてき程度ていど[14]

まんれきよんじゅうはちねん(1620ねん),明神みょうじんむねくずし,其父しゅつねらくつぎため明光めいこうむねかみはじめくずし大臣だいじん代言だいげんてきのこしょく:「すめらぎちょうまごむべ即時そくじ冊立さくりつ進學しんがく」,這顯示けんじ當時とうじやめじゅう四歲的朱由校從未正规進學。明光めいこうむね即位そくいげん九月初九冊立朱由校為東宮,并在明年みょうねんざい正式せいしきためしゅゆかりこう開講かいこう授課[15]おもんみ明光めいこうむねきゅうがつはついち便びんいんべにまるあん而暴斃,あかり熹宗れん一天正式教育都未接受,便びんとうじょう帝位ていい,如不けい開國かいこくてきふとししゅもとあきら,此為有明ありあけいちだいだいいちにん,其情きょう其父こうむね勉強べんきょうずい其他皇子おうじかく讀書どくしょ,而非正統せいとうてき太子たいし教育きょういく方式ほうしきかえようさらあくれつ,且父子ふし倆在つぎぜんかんこく輔政經驗けいけん

りょうみかど大葬たいそう及移みやあん

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まんれきよんじゅうはちねん(1620ねん),明朝みんちょう立國りっこく以來いらいしょぐういたぜんところゆうてき情況じょうきょうあかり熹宗てき嫡祖ははこうはしあらわ皇后こうごう祖父そふ明神みょうじんむねあずか父親ちちおや明光めいこうむねあいつぎざいどういちねんくずれ明神みょうじんむねくずしこうはしあらわ皇后こうごうくずしざいさんがつ,而明光めいこうむねくずし明神みょうじんむねくずしいち個月かげつじつぞく罕見。而明神みょうじんむねあずかこうはしあらわ皇后こうごうてき大葬たいそうひさし完成かんせいいん此明廷在討論とうろん決定けっていさきため明神みょうじんむねあずかこうはしあらわ皇后こうごう辦理大葬たいそう結束けっそくさいため明光めいこうむね辦理大葬たいそう

熹宗即位そくいはつ撫養むや皇帝こうていてきせんさむらい利用りよう皇帝こうてい年少ねんしょう無知むちざい明光めいこうむね仍然佔據いぬい清宮きよみや意圖いとしょうせいたれすだれ把持はじ朝政ちょうせいひがしりんとうひだりこう[16]楊漣とう反對はんたい[17]ゆずるせんさむらいあずか皇帝こうていどうじゅうさこ使つかい她移しょためうつりみやあん。此事內侍ちゅうけんひさげ拔為つかさあやかん筆太ふでぶとかん

一般來說新君即位必定沿用舊君年號ねんごういたり明年みょうねんざい改元かいげんただし當時とうじためりょうねん逝的明光めいこうむねざい廷臣ていしんひだりこう建言けんげん[18]朝廷ちょうてい特別とくべつやぶれい以萬れきよんじゅうはちねんはちがつ以後いごためやすしあきら元年がんねん,以明ねんため天啟てんけい元年がんねん[19]。此外,熹宗また鑄造ちゅうぞうやすしあきらぜにいためん流通りゅうつう,以紀ねん其父[20][21]

ひがしりん黨勢とうせいおこり

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ひがしりんとうつう过晚あきらさんだいあん獲得かくとく強大きょうだいてき政治せいじ資本しほんざい成功せいこう排斥はいせきかたしたがえあきらややゆうどくてのひら朝政ちょうせいいきおい[22]時人じじんいい“眾正みつるあさ”。熹宗またゆうかんひがしりん黨人とうじんゆうしたがえりゅうこう[23]たい們大つつみ起用きよう任用にんよう,如ちょう南星なんせいこうよじりゅう鄒元しるべとうひがしりん領袖りょうしゅういち起用きよう於朝[24][25]また召回向高むこうたかとうさきあさ老臣ろうしん擔任たんにん內閣くび[26]とう其時朝廷ちょうてい重要じゅうよう職務しょくむよしひがしりん黨人とうじん擔任たんにんひとしすわえ浙黨てきとうはね貶斥[27]孙承むね也得以ひだり庶子しょしてき份充当日とうじつ讲官为熹むね讲课[28],熹宗每次まいじ听孙承むね讲课,说:“很受启发”,于是对他とく别殷きり[29]。熹宗雖「なませいこう靜坐せいざ讀書どくしょ[30]ただし即位そくいはつ熱心ねっしん於書ほう而且學習がくしゅうつとむ奮,頗受廷臣ていしんたたえほまれ[31]

ざい“眾正みつるあさ時期じき,熹宗屢發內帑犒勞將士しょうしはつきゅうへんかけ餉,如即位そくいはつ便びんはつ一百八十萬帑金以勞邊,帑金五十萬以給光宗陵工,じゅんはつ帑五じゅう萬作解發以發兵餉,またこたえまこと兵部ひょうぶ再發さいはつ帑金一百萬以佐急需,せっちょ不足ふそく一年又因首輔向高むこうたかところ請而はつ帑金ひゃく萬為東西兵餉之用[32]。熹宗ざいはつ內帑ろうぐん,曾向へい二部批覆要嚴核兵額、避免おかせりょう[33],也曾就大臣だいじんじょう疏太虛言きょげん提出ていしゅつ批評ひひょう[34][35]。其又曾經以軍興和こうわ天災てんさいげんけい朝廷ちょうていざい地方ちほうづくみつぎ瓷燒づくりみつぎきむかず稅收ぜいしゅうてき徵收ちょうしゅうとう[36][37][38][39][40][41],并要求ようきゅう地方ちほう官員かんいん嚴禁げんきん耗、くだり善政ぜんせい[42]并非毫無ぬしこれぬし

內政じょう,熹宗任用にんよう吏部尚書しょうしょちょう南星なんせいきよししん吏治,改革かいかくりょうひとつとむ奔競,つと苴恣ぎょうてき風氣かざけ使つかいとく政府せいふちゅうてきだいぞくとくさいこう吏部賄賂わいろ請託せいたく而得以晉ます[43][44][45]時任ときとうてきひだり鄒元しるべ考察こうさつ地方ちほう官員かんいん,也抱ちょとめおもんみこうてき態度たいど,并批評ひひょうぞくちゅう辦事ゆう爭議そうぎてき[46]めんたい財政ざいせい緊張きんちょう,户部尚書しょうしょひろしおうみずち謹慎きんしん處理しょりひらけささえ杜絕とぜつりょう必要ひつようてき浪費ろうひ,并提出ていしゅつりょうざつこうしん餉」以增加ぞうか收入しゅうにゅう[47]使つかいとく財政ざいせい情況じょうきょうややゆう好轉こうてん[48]屯田とんでん和水わすい利上りあげちょうまことげん倡議おさむ天津てんしん屯田とんでん[49],熹宗いん而提拔了ただしおう主持しゅうもち天津てんしんいたり山海さんかいてき屯田とんでん工作こうさく使つかい其招しゅう遼東りゃおとん難民なんみんいちまんさんせん於順てんひさしひらめ河間こうまてい屯田とんでん開田かいだじゅうはちまんうね,一年便收得黍麥谷五萬五千餘石[50]ちょく隸巡按ひだりこうざいじゅんえいたもてかわ四府設立武學以培養將材,またざい河間こうま天津てんしんしつらえたむろがく收錄しゅうろく學生がくせいなみきゅう荒田あらだ百畝使其自耕, 田地でんちごと年收ねんしゅう一部份糧食後返還補助學校[51][52]廣西ひろせじゅんなでただしもとにん內大舉興おさむ水利すいりいちねん便びん修築しゅうちくりょう陂塘、圩岸とうさんせんひゃくはちじゅうさんしょ[53]制度せいど改革かいかくじょうざい輔臣なにむねしゅこく建議けんぎ,也使とく宗室そうしつ子弟していのう夠第いち參與さんよ舉,并被授予官職かんしょく[54][55]。而在きゅうごとちゅう甄淑提議ていぎたけてきたけ進士しんしたけし舉人們也いたりょう和文わぶん進士しんし舉人いちようてき待遇たいぐう,并完ぜんりょう相關そうかんてきたけ授官せい[56][57]ひがしりんしゅせい期間きかんざいちん大道だいどう上書うわがき向高むこうたか[58]鄒元しるべとう大臣だいじん首肯しゅこう[59][60]ちょうきょただし也得以在天啟てんけい初年しょねん恢復かいふく名譽めいよさいそう[61]

軍事ぐんじじょうさき浙黨姚宗ぶん屢屢彈劾だんがい經略けいりゃくくま廷弼[62][63][64][65]れいくま廷弼去而改ゆかり袁應やすし經略けいりゃく遼東りゃおとんただしずいあかりぐんざいりょう瀋之戰中せんちゅう大敗たいはい。於是しゅうそうけんりゅういちこう秉謙とうちからげんぐま廷弼具有ぐゆうざいきも識,いさおちょそんりょう最終さいしゅう使とく熹宗ざい渾河たたかえこう同意どうい起用きようぐま廷弼[66][67]ただし後來こうらい經略けいりゃくくま廷弼あずかじゅんなで王化おうかさだ互相かたぶけぎし[68],「けいなで不和ふわてき局面きょくめんしるべおんなしん首領しゅりょうつとむなんじ哈赤趁機おさむ瀋陽しんよう奪取だっしゅ遼東りゃおとん地區ちくこえぜいたかし天啟てんけいねん遼東りゃおとん遭廣やすしへいはいあかりぐん退すさちぢみ山海さんかいせき遼東りゃおとんつきしつ王化おうかさだくま廷弼二人ふたりいん下獄げごくろんめんたい內外交困てき情況じょうきょう,熹宗ざいひがしりん黨人とうじんてき建議けんぎ迅速じんそくひさげまごうけたまわむね[69]袁可りつ袁崇煥[70]鹿しかぜんままし[71]もうぶんりゅう[72]滿まんかつら大壽だいずとうひとぼうあたりまごうけたまわむねとげ修復しゅうふくやすしとおとう大城おおききゅう、堡四じゅう練兵れんぺいじゅういちまんつぶせよんひゃく屯田とんでんせんころ[73]屯田とんでん所得しょとくいたりぎんじゅうはちまんりょう[74]しょううけたまわそういずる鎮,關門かんもんいき警,ちゅうちょうえんしかふく以邊ごとためおもんばか矣」[75]とう萊巡なで袁可りつ簡汰かんへい修練しゅうれんせんせん成功せいこうあずかもうぶんりゅうおさむふくきんしゅう旅順りょじゅんぶたしゅうとうりょうみなみすうひゃく[76]まごうけたまわむねひさげ拔的滿まんかつらげきはいこうむ部落ぶらく劫掠ごうりゃく,并操たて們向大明だいめい臣服しんぷく使つかいとくやすしとおげんやぶはいてきがいかこえ恢復かいふくしょういたり軍民ぐんみんまんいえたむろしゅどおいたりじゅうさと[77]南居なごえきめぐなで福建ふっけん最終さいしゅうざい澎湖たたかえちゅう成功せいこう逼使らん歸還きかん澎湖。おこりもとためさんへん總督そうとく整頓せいとんぼう成功せいこうげきはい西にしはんてきぎん[78]くにはなため天津てんしんじゅんなで,躬勘海道かいどう要害ようがい極力きょくりょく軍務ぐんむ[79]のべ綏巡なで佘自きょうきよしかわ冗兵,せいごえ翕然きゅうぜん[80]廣西ひろせじゅんなでなにすすむ在任ざいにん內屢くじけえつみなみてき侵犯しんぱん[81]山東さんどうじゅんなでちょう重用じゅうよう楊國とう楊肇もとひとし迅速じんそく平定へいてい山東さんとうじょ鴻儒こうじゅみだれ[82],其接にん兵部ひょうぶ尚書しょうしょまた懲治はた剋扣ぐん餉、おかせ軍馬ぐんばとう積弊せきへい。此外,じょひかりけいひとしまた進言しんげん引入西洋せいようだい炮,いん而得以加きょう防禦ぼうぎょ[83][84]。於是ざい諸人もろびとてき努力どりょく明朝みんちょうとく以稍挽頹ぜい

ただしあずか此同ひがしりん黨人とうじんこうどうあくこと[85][86]またこう以鄉里分さとぶんどうとう[87][88]而為ひとしすわえ浙黨及小じんしょふかわる[89][90][91]ちゅうけんあずか熹宗皇孫こうそん時代じだいそくゆい識的舊識きゅうしきちゅうけんじょうゆい交朱よしこう乳母うばきゃく兩人りょうにんとげ狼狽ろうばいため[92]ちゅう賢也けんやとく以借あずかひがし林相りんそうぜんてきふとしかんおうやすし縊殺[93]ちゅうけん後來こうらい也曾けい嘗試ともえゆいひがしりん黨人とうじんただし拒絕きょぜつ并因其惡ぎょう而受到大臣だいじん彈劾だんがい,於是也これや痛恨つうこんひがしりん黨人とうじんおこりらい[94]ずいちょ時間じかん,熹宗逐漸放任ほうにんちゅうけん勢力せいりょく做大[95]ひがしりん內「げき內派」てき楊漣ひだりこうとう也壓調和ちょうわてき意見いけんむかいたかしちゅうけん發起ほっき政治せいじそうおさむ[96][97][98]おもんみ攻勢こうせいざいきゃくかずてのひらしるしふとしかんおうからだいぬいこう熹宗進言しんげんかい[99],而魏ちゅうけんとげ集合しゅうごうひとしすわえ、浙黨及不ひがしりんせっおさめてき大夫たいふ形成けいせい閹黨以圖向東むかいひがしりん反攻はんこうたおせさん[100][101][102][103]

じゅうたてむらさき禁城きんじょうさん大殿おおいどのしゅゆかりこう歡钻けん木工もっこう[104]また沉迷於刀のこ斧鑿ふさくちゅうけんそう趁他木工もっこう做得ぜんかみぬきちゅう,拿重要じゅうようてきそうしょう請他批閱,熹宗ずい口說くぜつ:「ちんやめ悉矣!なんじやからこう為之ためゆき。」ちゅうけんとげ逐漸專權せんけん[105][106][107]熹宗ためじんぜん[108]ちゅうけんいん而得以利用りようちゅうむね[109][110][111],竊奪ぶく[112]かたぶけがい正人まさとちゅうかしこまたひかえせいしょうまもる,勾結こうほろとうちょうちゅう大臣だいじん以「蔑主冲幼,结党擅权」挑撥ちょうはつ煽動せんどう熹宗たいひがしりんてき不滿ふまん[113][114][115]使つかい閹黨とく以逼はし向高むこうたか[116]かん[117]しゅこくただし[118]とう內閣大臣だいじんちょう南星なんせいこうよじりゅうとうひがしりん領袖りょうしゅう[119][120],并成功せいこう誣蔑殺害さつがい包括ほうかつひがしりんろく君子くんしひがしりんななけんひとし正直しょうじきてき大夫たいふ[121][122]。而ちぇていしゅうこうほろ倪文煥なんじこうもとあらわじゅんとうけんじこびひとそく逐漸いたちゅうけんてきひさげ重用じゅうようりょうきょうとうちゅうけんおや侄更濫封いたりおおやけこうくらい[123][124][125][126],致使朝政ちょうせいはい[127]ひがししょう橫行おうこう[128]在外ざいがいとくてきまごうけたまわむね聽聞ちょうもんちゅうけんらんせい,曾一度計劃入京親自向天啟帝進諫[129]ただし最終さいしゅうちゅうけんしん䜛挫はい[130][131]まごうけたまわそう後續こうぞく便びんいん柳河やなかわこれはい而被大造たいぞう文章ぶんしょうだん劾去しょく

したがえただかしこどくてのひら大權たいけん以後いごきゅうへん拖欠ぐん餉的情況じょうきょう嚴重げんじゅう惡化あっか[132]ざいちゅうけんてのひらけん以前いぜん,九邊拖欠軍餉的情況從天啓元年拖欠119萬兩改善至天啓四年只拖欠1まん6せんりょうただしちゅう賢主けんしゅせい天啓てんけいねん拖欠きゅうへん27まん4せんりょうろくねん拖欠237まん2せんりょうななねん拖欠200まん9せんりょうたんたんさんねん便びん累積るいせき拖欠きゅうへんぐん餉逾465まんりょう[133]ざい這情きょう各地かくちとくなでさけべれんてん,如陝西にしじゅんなでえびす廷宴就指當時とうじかくぐんはじめなおてんころもうりこんのり鬻子つまはじめなお沿街乞食こじきこんのりはなれせん逃,はじめなおすなちゅう偶語ぐうごこんのり公然こうぜん噪喊矣」[134]山西さんせいじゅんなで曹爾楨也だき怨「三關みつせき (そくかたせき龍泉りゅうせんせきたおせせき)兵士へいしじゅうがつかて...」[135]遼東りゃおとんじゅんなで袁崇煥上書うわがきつげきゅうゆびやすしとおべいかてひさかけぐんつげかつえ[136]のべ綏巡なでしゅ童蒙どうもう上書うわがきごとのべ綏軍餉拖かけやめたちさんじゅうあまりまん,該鎮「ぐんかけ餉,嗷嗷つげかつえ[137]。而根據こんきょやすしなつじゅんなでふみ永安えいあん上書うわがきやすしなつ出現しゅつげんかけ餉缺てき情況じょうきょうやすしなつかくまもる營屯堡可以堪せんてき馬匹ばひつ竟只ゆう78ひき[138]じゅんてんじゅんなでりゅうみことのり反映はんえいせつはんぐんかずあざみ鎮(ひさしひらめ昌平しょうへい密雲みつうん)ひとし出現しゅつげんかけ餉無かててき境地きょうち[139]。甚至れんちゅうけん派出はしゅついた各地かくちかんぐんてきふとしかん,也屢屢指あたり鎮缺かててきこまさかい,如鎮守ちんじゅせんだいふとしかんかずらきゅうおもえ提出ていしゅつせん鎮缺かてすうがつ[140]鎮守ちんじゅ遼東りゃおとんたいかんよう也指りょう鎮「亟缺かてりょう[141]。熹宗皇帝こうていざい批覆各地かくちとくなで,也承認しょうにん當時とうじあたり镇廣泛出現しゅつげんかつえぐんまち哺,へんもうかおおせ」、「军士枵腹まち哺,じょう急迫きゅうはく」、「あざみ永二えいじ鎮缺餉多山海さんかいくら查無顆粒かりゅうとうじょう[142][143][144]以上いじょうちゅうけんせん政所まんどころ造成ぞうせい餉短かけてきあく劣情れつじょうきょう,這也ため後來こうらいやすしとおへいへんとううめ禍根かこん。而在ちゅうけんせん擅下,甚至在天ざいてんけいななねんせっ連取れんしゅとくやすしとおこれせんやすし錦之にしきのせん勝利しょうりてき袁崇煥排斥はいせき而去[145][146][147][148]

あずか此同ちゅうけんてのひらせい時期じき儘管天災てんさい頻繁ひんぱん[149]ただし阉党しん僚卻鮮少せんしょうざいそう疏提及災じょうにぎわいずみ工作こうさく[150]。如無すず連續れんぞくすうねんだいわざわいかん卻無しょ作為さくい,以致於「ある夫婦ふうふ臨田だい哭,攜手おぼれかわある哭罷閉門へいもん縊;ある聞鄰自盡じじんそうあずかこうゆう[151]ざい這情きょうちゅうけん仍然ざい地方ちほうよこせい暴敛,致使「ひと不堪ふかんやく,则先卖其うし、弃其久之ひさゆき而其じんまた逃矣...此被すわこれざい富者ふしゃ犹捐橐以偿,いたり贫者则尽弃户而去」[152]各地かくちてき官員かんいんためりょうきょくけんじこび惜侵佔百姓田墓以在地方建立「しょう臣生しんせいほこら」,如開封かいふう就拆毁了みんしゃせんしょらいぶたせいほこらあざみりょう總督そうとく閻鳴たい也花りょうすうじゅうまんりょうけんほこらななしょ,一些無恥的官員甚至向魏忠賢木像行五拜三叩頭[153][154][155]ちゅうけんてきとうたかしおうかぶとめぐなで陝西せんせいにん內「むさぼこえ大著たいちょ」、「けがれあと多端たたん」、「げん清行きよゆきにご」、「聞者よく嘔」[156]ゆう搶劫てき百姓請求捉捕賊人,たかしおうかぶと竟然はんこうしつぬしさく千金せんきん,致使盜賊とうぞくたかし橫行おうこう[157][158]南京なんきんもりりょうふとしかん楊國みずちゅうけんてきいぬい每次まいじ辦工轉移てんい文書ぶんしょ都會とかい囂張こう南京なんきん戶部とべさくとしれいぜにかてとう公費こうひ作為さくい報酬ほうしゅう[159]以上いじょうらんせいしるべ致天けい年間ねんかん流民りゅうみんげきぞうみんへん烽起[160][161]

此外,ちゅうかしこためりょう完成かんせいさん大殿おおいどのてき工程こうていただし強行きょうこう攤派大小だいしょう文武ぶんぶ百官ひゃっかん地方ちほう官吏かんりそうはんひとし捐俸捐助きん83まんりょう[162][163]さられい摉括地方ちほう榷關、かくしゅうけん貯官ぎん,如各かんしばただしぎん,鎮江府こうふ海防かいぼうぎんさん備倭ぎんじょしゅうぐん便びんぎんあげしゅうみさお餉銀、みなみ贛賞こうぎん蘇州そしゅうおおとり陽二ようじ府馬ふまぎんしおうん募兵ぼへいぎん、貯庫ぎん、挖河ぎん福建ふっけんはんつかさ西にし備用ぎんりょう淮運ぜにかてとう地方ちほう經費けいひいん而被さがせくくいちそらちゅうけん甚至こげかて及倉たむろかて也賣りょうじょこうしるべ地方ちほう空虛くうきょ,也間接かんせつしるべ致三くれ長江ちょうこう盜賊とうぞくみみずくちょううみぬすめ以縱よこ嘯聚[164]。三大殿工程直至天啟七年八月完工,朝廷ちょうていいちきょうはなりょう595まん7せんりょうただし仍拖かけちょ工匠こうしょうみん伕13まんりょう工錢こうせん,而魏ちゅうけんとうてきこう尚書しょうしょじょ大化たいかむさぼほしいままかつ扣工ぜにわたし受銅しょうあつまかない,挪借惜薪ぜにかてじゅうまんりょう[165][166][167][168]じょ此以がいざいちゅうけんてのひらけん時期じきてきにしきころもまもるあずか內廷出現しゅつげんりょうこう泛的冗員じょういんおかせ濫,閹黨けんたかてきおとうとめいおやぞく們大りょうかけしょくりょう[169]にしきころもまもるかんはたとうしたがえまんれきよんじゅうはちねん僅17760いん暴增いたり36360いんぶんおもえいんたくみかんゆかりはららいただゆう752にん暴增いたり5288いんおおとり臚寺おび俸序はん也由173いん增加ぞうかいた527いんいくこうおこりらい每年まいとし就要がくがいひらけささえ俸米25まんせき[170][171]。而根據こんきょ史書ししょ記載きさいちゅうけん執政しっせい期間きかん也大りょうぬすめ竊京南京なんきんてきめずらし寶和ほうわ內帑金銀きんぎんとうしるべ後來こうらい出現しゅつげん「內外匱竭」てき情況じょうきょう[172][173][174][175]

天啟てんけいまつねんふとしくらろう库匱ともただあましも11まん4せんりょう,户部なおかくまことあつし上書うわがき直言ちょくげんせき貯之府所ふどころあまり僅爾,匱乏ぞうふかあし惊心」[176]。此外,かくまことあつし也坦ごとふとしくら歲入さいにゅうさんひゃくさんじゅうまん,而歲出さいしゅつ該五ひゃくあまりまんしんおもえ而無さく也。しょう直之なおゆきとしちょうさんひゃくさんじゅうまん,而九邊之歲支已該三百二十萬,しんおもえ而無さく也...ようざいしゃもりなまざいしゃもん,而臣伎倆ぎりょうきゅう矣...」[177]。吏部尚書しょうしょおう紹徽也言「こんものりょくすんでつたなしげるおこり,以致百姓ひゃくしょう流亡りゅうぼう盜賊とうぞくたかし斥。」[178]時人じじんそうゆい天啟てんけいまつねんしょ於「へいきゅう、餉窮、みんきゅうざいきゅうてきこまさかい[179]

儘管財政ざいせい匱乏,ちゅうかしこためりょうおさむ賣人ばいにんしんおん商人しょうにんかえこれ潼关、咸阳、だい庆、庆阳、凤翔、汉中、临洮、西安しーあん三原みはらてきしょうぜい一切いっさい罷免ひめん,致使國家こっか損失そんしつ大量たいりょう稅收ぜいしゅう[180]じょりょう陝西せんせい以外いがい,浙直也有やゆう商人しょうにんおうもととういんためちゅうけん減免げんめん們的しょうぜい,而為ちゅうけんこう頌德,捐資けんぼう[181]。此外,りょうこう總督そうとくなにすすむ雖是ひがしりん黨人とうじんただし徵收ちょうしゅうしょうぜいらい抵補りょういくわ[182][183]しょうきょうとくさんじゅう万金抵解辽饷,而民间竟不知ふち有加ゆか[184]ただし後來こうらい卻被阉党誣衊しるしまかないじょ餉」、「うつり赋额」,最終さいしゅうやめかん免職めんしょく,熹宗かえざい批示ちゅう表示ひょうじ商人しょうにん困苦こんくじょう毙昭しか甚悉,ちゃくそくあずかあらため归田亩,あきらちょう输以抵辽饷」[185]

甚至ちゅうけんてきとう羽太はぶとかんおうさとしせいえびす良輔りょうすけ使朝鮮ちょうせんとき們剛いた當地とうち就大肆搜くくぎんりょう和人わじん[186][187][188][189]僅僅きんきんひらけ讀詔しょいちこう就索もとめいちまんせんりょう[190]またこう朝鮮ちょうせんさくもとめとらがわひょうがわうみ獭皮、かおる鹿しかがわうみいぬ肾、やまとがたなとうちん贵之ぶつ[191],催督きゅう於烈[192]ややゆうしたがえどう輒發いか[193][194],搞的あさ君臣くんしんこげ头烂额,朝鮮ちょうせん也不とくこう百姓加稅來接待他們[195]朝鮮ちょうせん在京ざいきょうじょう就被逼花りょうぎんじゅうまんななせんりょう人參にんじん千一百餘斤等接待兩太監[196]黃海こうかいどうはなりょうきんまんりょう[197]平安へいあんどうのりはなりょうまんはちせんりょう[198]當地とうちてき百姓因而都很怨苦[199][200]。而にん回國かいこくまえ,甚至迎賓館げいひんかんてきしきひね器具きぐ全部ぜんぶ拿走[201],一路經過朝鮮州縣又向當地勒索「はしぎんりょう[202]而在朝鮮ちょうせん風評ふうひょうきょく[203]

おうきょうしょうだいばく

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天啟てんけいろくねんがつはつろく(1626ねん5がつ30にち北京ぺきん西南せいなんすみてきこうおうきょう厂火药库發生はっせいだいばく炸,たおせ塌1まん930あまりあいだ[204]死傷ししょう2まんじん[205]人稱にんしょうためゆうわざわい[206]おもんみ原因げんいんなんこう當時とうじざい天人てんにん感應かんおうてき思想しそう,這事件じけんしるべ致了逼害ひがしりん黨人とうじんてき閹黨うけたまわ受了巨大きょだいてき政治せいじ壓力あつりょく[207][208],熹宗いん而下りょう一道いちどうざいおのれみことのり公告こうこくようつう修身しゅうしん反省はんせいげんぜん撤樂,つげ誡大しょうしんこうつとむよう竭慮洗心せんしん辦事,つう反省はんせい」。ざい戶部とべ尚書しょうしょおこりもと請求せいきゅうにぎわいずみわざわいみん,熹宗またしもむねはつりょう御前ごぜんぎん1まんりょうにぎわいわざわい[209]

おうきょうしょうだいばく也一定程度上誘發了天啟末年閹黨てき分裂ぶんれつ,閹黨成員せいいん們雖支持しじちゅうけん打擊だげきひがしりん黨人とうじんただし也不希望きぼう放任ほうにんちゅうけん破壞はかい制度せいどかずちょうきょく閹黨成員せいいんもちようおうきょうしょうだいばく一事來重新平衡朝局[210]だい學士がくし顧秉けん、吏部尚書しょうしょおう紹徽れい尚書しょうしょおもえまこと兵部ひょうぶ尚書しょうしょおう永光ながみつこう尚書しょうしょじょちょうさきがけとう紛紛ふんぷん批評ひひょう這次わざわいへんげん於「あさゆう紕政,ゆう憸人,顛倒てんとうもと謬」,なみ批評ひひょう熹宗てきおさむしょうきょぶんまた請求せいきゅうげんけいざいしゅうてきひがしりん黨人とうじん刑罰けいばつ提出ていしゅつ一些改進時政的措施等。 おもんみ熹宗採納さいのうなみ警告けいこく閹黨大臣だいじん們道「疏內以危げんげき聒,あきらかなめくんためくびてきしゅうときわむ。」[211]また叱責しっせき進言しんげんてき大臣だいじんにんくん[212]ちゅうけんてきとうちぇていしゅうとう也指「ゆうくらあい指摘してきしゃ[213]最終さいしゅう閹黨成員せいいんかんしょく[214][215][216][217]

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明德めいとくりょうあきら熹宗冢。2019ねんはく

天啟てんけいななねん(1627ねんがつじゅうはちにち,熹宗またあずか宦官かんがんちゅうけんおうからだいぬいひとし西にしえん深水ふかみしょ泛舟,卻因ふうきょう小舟こふねこぼしくつがえ皇帝こうてい落水おちみず,雖然ずいそくすくえただししたがえ此驚不堪ふかんとめ病根びょうこんこう逐漸びょうじゅう[218]尚書しょうしょ霍維はなけんじれいいん」,以五穀ごこくふけ而成,きよし甜可こう[219]ただしいく個月かげつびょうじょうげき渾身こんしん浮腫ふしゅ[220]八月はちがつじゅういちにち,熹宗召見しんおうしゅゆかりけん[221][222]しんおうやまし,熹宗びょう榻前顧命曰:“われおとうととう为尧しゅん”,しんおう恐懼きょうく而不敢应良久よしひさ後來こうらいまた回答かいとうせつしん死罪しざい陛下へいか为此げんしん应万”,熹宗慰勉またせつこうこうたいまち皇后こうごうちゅうけん繼續けいぞく任用にんよう[223][224]二十日はつか,熹宗皇帝こうていはなちゅう噴出ふんしゅつ鮮血せんけつ一縷いちるたんたんしこり结如すじ[225]じゅうにち,熹宗くずし[226]。熹宗諸子しょしみな夭,のこみことのり五弟信王朱由檢即皇帝位,ためあかりおもえむねねん改元かいげんたかしただしれいてい謚號曰「あきら皇帝こうてい」,おもえそう宸墨おやあらためため「悊」。

熹宗のこみことのり

評價ひょうか

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あかり實錄じつろく》:「うえねんこうすめらぎ大業おおわざきわむ雅志まさしつぎじゅつ踐祚せんそはつ委任いにん老成ろうせい,摉羅のこいっさぎたかしにわしょうもり焉。とき四方しほうおおゆえうえよい旴靡遑,りょうひだり及滇黔相つぎ請帑,たておう大臣だいじんぎょうあたりおんれい優渥ゆうあく將士しょうしおちいじん恤典りつ頒,またおもんばかるいまいゆうみことのりさとし諄諄じゅんじゅん戒守れいなで毋重こまわれみん。其軫ねんみん碞如此,のう收拾しゅうしゅう人心じんしん挽回ばんかいてん,雖有煬灶かりくさむら奸而とくじんづけたく社稷しゃしょくながかた於苞くわびょうごう曰熹,ぶたしょう有功ゆうこうやすじんうん。」

あかりしょ史官しかんさん曰:「むかし聞帝其智慧ちえうんたくみおもえせいこう木工もっこうみさお斧鑿ふさくうんなりふうそくいんぜん忘,さむあつ罔覺。嗣好うるしこうせいぜっのうはせためしけんまいかく獐狼きつねうさぎ以為らくゆだねぶとおもね於逆閹(ゆびちゅうけん),受煬灶於いん姆(ゆびきゃく),天下てんかいたり崩壞ほうかい不可ふかおさむ捨,使つかいふところむね(たかしただしみかど)うけたまわこれふところむね不幸ふこうてき逢其かい矣,悲夫。」

あかり》:「むね而後,綱紀こうき以陵えびすかみはじめまつねんはい壞極矣。雖有つよしあきらえい武之たけゆきくんやめなんふく。而重以帝いさお懦,てら竊柄,濫賞いんけい忠良ただよし慘禍さんか億兆おくちょうはなれしん,雖欲ほろびなにとく哉。」

でん維鱗:「熹宗にん閹人,あさつなみだれくに頹。」[227]

じょうりょうちゅうりゃく》:「以熹むねいちにんまた前後ぜんごわかりょう截焉。」

はじめもり:「熹宗,亡国ぼうこくきみ也,而不遽亡,泽犹つき也。」[228]

だん:「閹尹わざわいげき於熹びょう,并边徽而これ。……きずとく矣。」

おうとく:「熹宗在位ざいいななねんはたかみむね四十餘年蓄積搜括無餘。へいきょう以來いらい,帑藏空虛くうきょ。」[229]

ぶん:「てん祚明,不在ふざい於震おどろききゅうびょう、闖逆はんじゅんあき; 而萌於慘戮多けん、璫黨あふしいたげこれさい。」[230]

たにおうやすし:「而況だいくだりとう凴几にちかん邀橫はいおんゆみ裘不おに蜮仍しろしゃやめ摧,きつねねずみなおよりどころ。」[231]

けんきょう中國ちゅうごく明代あきよ》:「天啟てんけいあさ中國ちゅうごくれき史上しじょうてき災難さいなん時期じきざい明朝みんちょうぼついきてき統治とうちしゃちゅう天啟てんけい皇帝こうていてき名聲めいせいさい壞。」

ちょう實錄じつろく》:「(天啓てんけいねん)ちゅう朝政ちょうせいみだれ, けん於宦てら, ふとしかんおうさとしせいえびす良輔りょうすけそくこう宦魏ちゅうけんとうたてまつみことのりひがしらい, 而其せんざいぎん蔘, さきごえ纔到, 擧國きょこくしつしょく。」「(天啓てんけいななねん)朝廷ちょうてい擧措きょそ, 雖未とく其詳, 而內宦專けん, けん斥, げんかんそぎせきあさしゃ, にちこれ。」

みんこく直系ちょっけい將領しょうりょう佩孚みとめためあかり熹宗ちょうしん閹黨,濫殺ひがしりんろく君子くんしひがしりんななけんざい明朝みんちょう亡國ぼうこくてき主因しゅいんさら甚於まんれき。其恩おう紹勛あずかくれ佩孚ひさげ明神みょうじんむねだるせいさんとき感歎かんたん曰:「無為むい而治兮不必生いちかみむねさん秩」,佩孚居然きょぜんりつこくおうごえたい:「有明ありあけほろび矣莫ころせろく君子くんしななけん」。

明朝みょうちょうりゅうわかしゃくちゅうこころざし》对熹むね评价较高,“先帝せんていあきら熹宗)なませい虽不こう静坐せいざ读书,しかのうとめこころ大体だいたいまい一言ひとこといち,迥出臣子しんし意表いひょう”;熹宗ざい宁锦だい战中“日夜にちやこげおもえ遑自やす”,おう永光ながみつてき题疏ちゅう曾有“ようしょう宁远城中じょうちゅう红夷だい炮撤归山海さんかい关”,あきら熹宗批示:“此炮如撤,人心じんしん必摇”,表明ひょうめいゆう一定いっていてき政治せいじ决断りょくとうきさききん军队再犯さいはん锦州、宁远时,“さら愤激ふか虑”,对魏ちゅう贤和乳母うばきゃく也怒骂咒恨,かたち于颜しょくどう时,熹宗またまたごくこうさくすいおどけよう大木たいぼくおけだいどう缸之るい,鑿孔そうけい閉灌輸,あるゆう瀉如噴珠,ある澌流如瀑ぬのある使つかいふく於下おした水力すいりょくおきようえんだま如核ももだいしゃ,於水ゆう大小だいしょうばん旋宛てんずいだかずいひさ而不墮,ためうれしわらいみなじん意表いひょう。」。曾親自在じざいにわいんちゅうづくりりょう一座いちざしょう宮殿きゅうでん形式けいしき仿乾清宮きよみやこうさんよんしゃく,卻曲折きょくせつ微妙びみょうたくみだつ天工てんこう见刘わか对明熹宗てき评价颇高。ただしりゅうわか也指熹宗在位ざいい前後ぜんこうてきむねぶんふう作為さくい異性いせい極大きょくだい記錄きろくりょう當時とうじ「凡先帝せんていいちおうちょうむねちょうきよしさとし,迥與みずのと(天啟てんけいさんねん)以前いぜんぶん不同ふどうにん頗駭こと」。

軼事いつじ

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喜好きよし飲食いんしょく

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あかり熹宗平日へいじつさい愛飲あいいんよう鮮蓮[232],也喜歡進しょくあぶはまぐり蜊、鮮蝦、つばめさいはぜ翅等海鮮かいせんゆうさらかいかくいろ海鮮かいせんこえ雞、豬蹄すじとうどもなます而食[233][234]。而奉せい夫人ふじんきゃくさらいんため經常けいじょう美食びしょくじょうみつぎあかり熹宗而得いたちょうしん[235][236],熹宗平日へいじつしょ飲用いんようてきさけすいみなゆかりちゅうけんそと宅造たくぞう辦,さけてき款色ゆうかねばん」、「君子くんし」、「らんはないんとうろくななじゅうしゅ[237]

あい武事ぶじ

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熹宗平日へいじつあい武事ぶじ歡騎おどけ[238][239][240]さらかいざいいぬいきよし殿中でんちゅうまい刀劍とうけんちゅうよる不休ふきゅう[241]。熹宗也喜あい騎馬きばしゃじゅう經常けいじょうざい宮中きゅうちゅう學校がっこう鳥銃ちょうじゅう射擊しゃげき,曾有ふとしかんおうすすむざい熹宗面前めんぜんじゅうりょうじゅうかん炸膛,一點便殃及一旁觀看的熹宗皇帝[242][243]。此外,熹宗こう察邊じょう經常けいじょうかい派遣はけんひがししょう緹騎いた關門かんもん探訪たんぼう,并讓們把いたてきことじょうじょうむくいごうしょう「較事」[244]

ちゅう賢也けんやいん熹宗喜好きよし武事ぶじいん進言しんげん誘導ゆうどう熹宗以「拱護ちん躬、肅清しゅくせいむらさききんためゆかりざいみや設立せつりつ「內操」[245]そく以槍炮馬匹ばひつ訓練くんれんふとかん人數にんずうたちいたまんにん[246],雖然廷臣ていしんだい反對はんたいただし熹宗[247]

兄弟きょうだい情深なさけぶか

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しんおうしゅゆかりけん (そく後來こうらいてきたかしただしみかど)雖然熹宗皇帝こうていてき異母弟いぼていただし二人自小就感情甚好[248]いちねんようてきしゅゆかりけんこう熹宗皇帝こうていといどう「你這かんわが以後いご也可以做嗎?」,熹宗皇帝こうてい也不けい僭越せんえつてきだい不敬ふけいはん回答かいとうせつひとしわがいくねん就讓きゅう你做」 ,ぼつ想到そうとう後來こうらい竟然なりりょう[249]後來こうらい,熹宗ざい臨近びょう逝而召見しんおうしゅゆかり檢問けんもんやすまたいんためしゅゆかりけん狀態じょうたいけい而叮しょくせつおとうとおとうとなん瘦?須自じゅう[250]しんおうしゅゆかりけんため熹宗皇帝こうていいのりまたせつ願意がんいゆずる熹宗てき疾病しっぺい轉移てんいいた自己じこ份,熹宗聽聞ちょうもん後便こうびん感嘆かんたんせつおとうとおとうとあい[251]足見たるみ兄弟きょうだいにん情深なさけぶか

皇帝こうてい沉迷木工もっこう雕刻せつ

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清道きよみち光年こうねんあいだだきせいきのえさるあさことしょう》,みとめためしゅゆかりこう沉迷於木こう放任ほうにんちゅうけん矯詔、管理かんり朝政ちょうせいてき行為こういためむさぼ玩而ちょうすすむ史書ししょてきかくゆうまたこうあぶらうるし凡手ぼんしゅよう器具きぐみな為之ためゆき。」、「せいまたきゅう躁,ゆう所為しょいあさおこりゆうそく期成きせいなり而喜,ひさ而棄;棄而またなりいや倦也。且不あいなり惜改毀,ただかいいち。」反覆はんぷく琢磨たくま技術ぎじゅつきのろく皇帝こうてい朝夕ちょうせき營造えいぞう」、「まい營造えいぞう得意とくいそくぜんいん忘,さむあつ罔覺」てき情景じょうけい[252]

此外,しゅゆかりこうしょう作木さくぎたくみ皇帝こうてい所謂いわゆる沉迷於雕こく木材もくざい,很有可能かのういんためたい宮殿きゅうでん藝術げいじゅつゆうしょ追求ついきゅうざい引發てきゆかり於前兩次りょうじ主要しゅよう工程こうてい人員じんいん蒯祥みなためりょうさん大殿おおいどののう復原ふくげんしゅゆかりこう特別とくべつちゅうじゅうさく部分ぶぶんとうことゆういんなみただいんため個人こじん興趣きょうしゅ而不理會りかい朝政ちょうせい當時とうじよし南京なんきんさん大殿おおいどのはややめ燒失しょうしつきた京紫きょうし禁城きんじょう三大殿於萬曆年間亦燒燬,しゅゆかりこうこうほうふとしおや監督かんとくさん大殿おおいどのじゅうけん計畫けいかく聽從ちょうじゅうおう大年おおとし节俭てきけん[253]ざいかい鑽研たくみ手藝しゅげい,而清あさいたり近代きんだいてき史觀しかん很長時間じかん明朝みょうちょう混亂こんらんてき朝政ちょうせい過度かどとがめ於各皇帝こうてい沉迷於個じん喜好きよしこれじょうしゅゆかりこうてき木工もっこうづくりげいまた例外れいがい

任用にんよう官吏かんり

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おさむ

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あかり熹宗あさふくぞう

名將めいしょう

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ふとしかん

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家族かぞくなり

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あかり熹宗家族かぞく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖父こうそふむね皇帝こうていしゅあつし
 
 
 
 
 
 
 
曾祖父そうそふきよしそうそう皇帝こうていしゅ载坖
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖母こうそぼついみことこうつとむ皇后こうごう杜氏とうじ
 
 
 
 
 
 
 
祖父そふかみはじめ皇帝こうていしゅ翊钧
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふたけきよしはく
 
 
 
 
 
 
 
曾祖母そうそぼこうてい皇太后こうたいごう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖母こうそぼたけきよしはく夫人ふじん
 
 
 
 
 
 
 
ちちひかりむね皇帝こうていしゅつねらく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖父そうそふえい宁伯王朝おうちょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祖母そぼついみことこうやすし皇太后こうたいごうおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖母そうそぼえい宁伯夫人ふじんかずら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
熹宗悊皇帝こうていしゅゆかりこう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖父がいそふついふう新城しんじょうはくおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ははついみこと孝和こうわ皇太后こうたいごうおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖母がいそぼついふう新城しんじょうはく夫人ふじん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

妻妾さいしょう

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  • 懿安皇后こうごうちょう天啟てんけい元年がんねん(1621ねん)二月禮部請選淑女以正宮,したがえせんにんちゅう入選にゅうせん清紀きよのり昀《懿安皇后こうごうでん》),よんがつさつため皇后こうごうみやしょう其體貌豐腴凝ただしたかしただしじゅうななねん(1644ねん),なりおさむおちい都城みやこのじょう明朝みんちょう亡國ぼうこく當日とうじつなり進入しんにゅう皇宮こうぐうしたがえ此再下落げらく。《あかりこれやめざい自己じこてき宮中きゅうちゅうじょうつるし自殺じさつほろび殉國じゅんこくあかりぶしきよし順治じゅんじ元年がんねん順治じゅんじみかどいのちはたちょう和明かずあき熹宗ごうそう於德りょうみなみ明弘あきひろこう元年がんねん(1645ねんさんがつかぶとさるついたちおのれじゅうろくにち弘光ひろみつみかどじょう懿安皇后こうごう謚曰こうあい慈靖きょうめぐみゆたかさだ偕天きょうせい皇后こうごう
  • ひろしちょうはらみやおんな天啟てんけいさんねん(1623ねん)五月因受召幸懷胎將產冊為裕妃,懷胎かいたいじゅうさん個月かげつなお分娩ぶんべんきゃく以欺くんつみ同年どうねん八月被废黜并饿死[256]
  • りょうおう,《くにさくすめらぎとうと
  • とし范氏きさき为皇贵妃。
  • なりてんさんねん(1623ねん十二月じゅうにがつさつ为成曾为范慧乞怜,また为客、しょおちいがいかそけ闭别宫,また绝其すいまいおけ其于死地しちただしなりはややめゆう备,预先ざい别宫ちゅうあまねぞう食物しょくもつ,饮水,半月はんつきほろびとげ废为宫人。たかし祯初,复其ごうたかしじゅうねん薨。
  • ようつとむきさき为皇とうと
  • じゅんだんだん于天启元ねん(1621ねんがつさつ为纯たかしねん(1629ねんがつ,纯妃だん薨。
  • 馮貴じんたい宦官かんがんちゅうけん擅權じゅうふんいやあく,曾勸あかり熹宗取消とりけし內操。ふとしかんざい宮中きゅうちゅう授甲みさおねりしょうため內操。ちゅうけんだいいか,矯旨せつ馮貴じん誹謗ひぼう朝廷ちょうていはた馮貴じんたまもの
  • えびす貴人きじん怨恨えんこん專權せんけんてきあかり熹宗乳母うばきゃく所以ゆえんつねあずか他人たにんげんこう天啟てんけいさんねんじゅういちがつはついちにち逝世。よりどころしょうとく急病きゅうびょう而死。楊漣上書うわがき彈劾だんがい宦官かんがんちゅうけんひっさげいた此事,指出さしできゃくてきどうとうちゅうけん借着かりぎしゅゆかりこうみやさいてんてき機會きかいじん殺害さつがいえびす貴人きじんしか後向うしろむき皇帝こうていほうしょう暴疾而亡。

兄弟きょうだい

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  1. 簡懷おうしゅゆかり
  2. ひとしおもえおうしゅゆかりかじ
  3. ふところめぐみおうしゅゆかり
  4. 湘懷おうしゅゆかり
  5. あかりおもえむねしゅゆかりけん
  6. としあきらおうしゅゆかり

子女しじょ

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  1. ふところおき太子たいししゅ慈燃ははこうあい皇后こうごう张氏,胎。
  2. 悼懷太子たいししゅ慈焴ははすめらぎとうと范氏,はや夭。
  3. けんじふところ太子たいししゅ慈炅ははすめらぎ贵妃つとむおうきょうしょうだいばく时惊

おんな

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  1. えいやすし公主こうしゅしゅよし娥,ははすめらぎとうと范氏,天啟てんけいさんねん十二月じゅうにがつじゅうにち薨,そう金山かなやまはら
  2. ふところやすし公主こうしゅしゅよし[257]ははなり天啟てんけいよんねん十二月じゅうにがつじゅうにち薨,そう金山かなやまはら
  3. さん公主こうしゅはや薨。[258]

艺术形象けいしょう

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电视剧

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以下いかれつ曾飾えんじあきら熹宗」てきえんじいん,以及げきちゅう演出えんしゅつあきら熹宗」てき电视剧:

えんじいん とし かげ作品さくひん 備註
ひろし 1980ねん しろ发魔おんな 香港ほんこん电视剧
しげるあきら 1988ねん きょうりゅう 香港ほんこん电视剧
邓兆みこと 1995ねん しろ发魔おんな 香港ほんこん电视剧
邱心こころざし 1993ねん だいふとし监与小木おぎたくみ 台湾たいわん电视剧
ほう 2000ねん しょう迷糊闯江湖こうこ
おうしげるつぼみ 2001ねん しんおんな駙馬
赵阳 2002ねん 英雄えいゆう 黄海こうかい冰、宁静、张静はつ主演しゅえん电视剧,居中きょちゅうてきあかり熹宗为“しょうおさむ”。
孙岩 2002ねん ふとし英雄えいゆう ちゅう华太极拳历史てきそうへん
陈道あきら 2003ねん 江山えやま风雨じょう
ほうすすむ 2004ねん 天下てんかだいいちなかだちばば
刘小锋 2004ねん 江山えやま风云
おう亚楠 2006ねん 大明だいめい天下でんか 历史政治せいじ惊险悬疑へん
文章ぶんしょう 2006ねん 锦衣卫 马伊琍主演しゅえん电视剧
陆诗 2006ねん 谁主中原なかはら そう爱情电视剧
おうただし 2006ねん さん揭皇榜 そうげんじょう轻喜剧
ほうさち 2007ねん あかり宫谜あん そう悬疑
きむあきら 2009ねん だい祠堂しどう そうたけ侠言じょう
2010ねん いかうみ雄心ゆうしん そうたけ侠言じょう
ぶん俊輝としてる (わらわねん) 2010ねん 大明だいめい嬪妃 そうげんじょう
きょうすすむ 2011ねん 侠隐记 そうたけ侠言じょう
そうひろし 2012ねん あかりたまゆう 古代こだい宫廷轻喜剧

电影

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以下いかれつ曾飾えんじあきら熹宗」てきえんじいん,以及げきちゅう演出えんしゅつあきら熹宗」てき电影:

えんじいん とし かげ作品さくひん 備註
陈伟 1988ねん 东厂ちょう
たてれん 2008ねん 十全じゅうぜんきゅう 历史原型げんけい为明熹宗
おうひとしくん 2017ねん 繡春がたな2:修羅しゅら戰場せんじょう

註釋ちゅうしゃくあずか参考さんこう资料

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  1. ^ あかりまき22「本紀ほんぎ 熹宗」
  2. ^ たかしただし長編ちょうへんまき二指熹宗最初謚號為達天禪道敦孝篤友章文襄武靖穆莊勤あきら皇帝こうていこうゆかりたかしただしみかどおやあらためあきらため。《せつぶんかい》:「悊,けい也。」《せつぶんかい》:「あきら知也ともや。悊,あきらあるしたがえしん。」
  3. ^ まんれき起居ききょちゅう》:“きょうなずらえ皇太子こうたいしだいいちめいゆかりぎょうこうきょこうきりなつ曰校,學名がくめいこうしゃきょう也,以教みんため義也よしや。”
  4. ^ ぶん評價ひょうかいちこう
  5. ^ あきら熹宗あきら皇帝こうてい实录じょ》:「熹宗悊皇帝こうてい讳,ひかりむね皇帝こうていだいいち也。于まんさんじゅうさんねんおつじゅういちがつじゅうよんにちせい。」
  6. ^ しゃくちゅうこころざし》:「先帝せんていひだり颧生しろゆう一年少暖殿孟兆祥者误拔去,先帝せんてい甚恚,よくしげる责处,赖逆贤竭りょくすくいかいはじめめん。」
  7. ^ しゃくちゅうこころざし》:「さんじゅうさんねんじゅういちがつじゅうよんにち人定じんてい先帝せんてい誕生たんじょう宮門きゅうもん扃矣。ひかりびょうねんろう宮人みやびとしばいさおじょ赴仁とくもん外報がいほうひかりびょう於星がつしも獨步どっぽ殿どの陛,つくり不安ふあんさきかんのりりつそうしんびょうそくてんそう慈聖皇太后こうたいごう,闔宮懽忭,しばいさおおんなかえむくいひかりびょう乃喜。」
  8. ^ しゃくちゅうこころざし》:先帝せんてい髫龀时,きょう习书仿者,ひかり庙伴读吴进忠也ちゅうや。宫中わたしこたえ应诵书习,刘良しょう也。
  9. ^ しゃくちゅうこころざし》:「けん先年せんねん原名げんめいすすむただしとげはた西にしむすめむすめ用事ようじすすむちゅうさんさくいちにん,以欺がい廷,其實みなあさ力也りきや...此時ぎゃくかしこなおめいすすむただしはじめとく專管せんかんきゃくごとしたがえ此無避忌矣。」
  10. ^ しゃくちゅうこころざし》:「ひかりびょうざいあおみやあわうす先帝せんていすんで誕之生母せいぼ才人さいじんおうろうむすめむすめ無人むじん辦膳,けんとげ夤緣にゅうみや,辦才じん先帝せんていぜん,其介紹引しんしゃ近侍きんじちょう。」
  11. ^ しゃくちゅうこころざし》:「天啟てんけい初年しょねんぎゃくけんそくてのひら惜薪、內府供用きょうようなおぜんかんしるしとく寶和ほうわとうてん天啟てんけいさんねんじゅうがつてのひらひがししょうしるし前後ぜんご獎敕すうじゅうみちぬるむねさん。」「先帝せんてい登極とうきょく月餘げつよきゃくちょうはじめ,曾欽たまものきゃく人參にんじんいちふくろやくじゅうさんじゅうきん。」
  12. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきさんじゅうろく》:「みことのり以太かんおうからだいぬいそうすすむすすむちゅうとうあおみやきゅうろう...」
  13. ^ 大明だいめい熹宗あきら皇帝こうてい實錄じつろくまき》:「ふく睹明むね一則かずのり,曰奉せい夫人ふじんきゃく保護ほごこうゆうろう績,しる戶部とべそくぎょうきゅうじゅうごろ,以為まもるふんこうこれよう。」
  14. ^ あかり. ほうしん暘傳》:「保姆ほぼたてまつせい夫人ふじんきゃくかた擅寵,あずかちゅうけん及大學士がくし沈紘しょう表裏ひょうりいきおい焰張甚。すんでみや,熹宗思念しねん流涕りゅうていいたり旰不しょくとげせんさとしふくいれ。」
  15. ^ 大明だいめいこうそうさだ皇帝こうてい實錄じつろくまき》:「さとし內閣,すめらぎ長子ちょうしねんなおようたいきよしじゃく明年みょうねんさき開講かいこう冊立さくりつよしのりきょうでんしめせ該部,まち禫服よし舉行。」
  16. ^ さん朝野ちょうや》(まき):「ひだりこう疏言:內廷ゆういぬいきよしなおそと廷之ゆうすめらぎきょくおもんみ皇帝こうていてんとくきょおもんみ皇后こうごうはいてんとくどもきょいませんさむらいすんで嫡母ちゃくぼまた生母せいぼ儼然げんぜんせいみや殿下でんか乃居慈慶,とくもり几筵,ぎょう大禮たいれいてんせい乖舛,名分めいぶん倒置とうちそく先皇せんのうとうと請,また在留ざいりゅうわたるこれさい,其意可知かち且行かつゆき先皇せんのうのり伉儷こうれいめいなおぎょう於殿のり尊卑そんぴたたえだんだん不可ふか。倘不けつはた撫養むやめいぎょう專制せんせいたけわざわい立見たちみ於今,ゆうにんげんしゃ!」
  17. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきよん
  18. ^ ひだりただしあつしおおやけしゅう》(年號ねんごう疏):「だいため年號ねんごう一事いちじしん于初五日已具小揭旋奉旨意會議...天下てんかごとじょうあずか而已。たいあきらいちがつまたきみ也。いちがつちゅう,而萬曆四十八年之美厚其終;天啟てんけいおく萬年之祥開其始。逾年改元かいげんゆう甚於逾年改元かいげんすんでやめなり先帝せんてい改元かいげんこれ,而又貽今じょう逾年改元かいげん所謂いわゆるれいずいおこりしゃ也。」
  19. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきいち》:「れいとうかん會議かいぎ年號ねんごうてい以萬歷四十八年八月以後為泰昌元年,明年みょうねんため天啟てんけい元年がんねんしたがえれいきゅうごとちゅうわかけい暴謙さだとう請也。」
  20. ^ しゃくちゅうこころざし》:「おもんみこうびょう在位ざいい,僅匝がつ先帝せんていおおせおもえ"やすしあきら年號ねんごう",なおぜにとげぶんあずか天啟てんけいぜになみ流通りゅうつうどう使つかい民間みんかんゆうきょう睹"やすしあきらぜに"而墮なみだしゃるいしんぞうゆう徽墨よんだいしゃくじゅうきんきんりょう甚佳,うえ摹"やすしあきら元年がんねんせい",そう是正ぜせいじん君子くんし曾蒙こうびょう召用,禮遇れいぐうしゃ藉此すみ以志忘也。」
  21. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきろく》:「天啟てんけい元年がんねんがつみずのえいぬ,頒泰あきらぜにしき
  22. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきよん》:「からしとりだい學士がくしかたしたがえあきら屢乞きゅううえ慰留いりゅういたりろくじょうはじめほうまこと。」
  23. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきよん》:「兵科へいかきゅうごとちゅう楊漣そう前月ぜんげつせんさむらいうつりみやじょうがたそと廷未必盡,請直ひね始末しまつ...うえよしみ其公正真しょうしんきりいのち文書ぶんしょかんでんさとし輔臣,楊漣此奏,ちん污塵かたあらいちょうつししゅ敕獎さとし,以風其直...楊漣當日とうじつ竭力いきどおそうこころざしやす社稷しゃしょく忠直ただなおよしみ...」
  24. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきよん》:「はらつとむ南京なんきん刑部おさかべ主事しゅじ鄒元しるべだいてらきょうしんいのちうえよしみ其忠讜不まこと
  25. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはち》:「起原きげん謫廣ひがし揭陽けんてんこうよじりゅうためこう祿ろくてらてらすすむはらつとむれいろうちゅうあわびおう鰲為れい祠祭しさい司郎しろうちゅう行人こうじん行人こうじんりゅうそうあまねためれいせい主事しゅじかたふるえ孺薦也。」「おこりますはらつとむ吏部ろうちゅうちょう南星なんせいためふとつねてら添注しょうきょう
  26. ^ 大明だいめい熹宗あきら皇帝こうてい實錄じつろくまきなな》:「はらつとむしょうけん太子たいしふとし、吏部尚書しょうしょけんきょく殿どのだい學士がくし向高むこうたかしんいのちうえ曰卿碩德せきとくひろし猷,さき皇祖こうそしげるちょちゅう勛 ,皇考こうこう簡注召還しょうかんやめれきさんなお就程,ちょ行人こうじんあつしおもむき遄發,ふくちんのべ佇,まき固辭こじ。」
  27. ^ あかり·ちょう南星なんせいでん》「ひがしりんいきおいもり,眾正みつるあさ南星なんせいえきさがせ舉遺佚,ぬの庶位。こうよじりゅう、楊漣、ひだりこう秉憲;あがよしちん于廷銓;大中だいなか、袁化ちゅう長科ながしなどうていさんしゅんくにはなまご居相いあいにょうしんおう寀輩悉置きょう。而四ぞく,鄒維璉、なつよしみぐうちょうひかりまえほどこくさちりゅう廷諫またみなみんほまれ中外ちゅうがい忻忻もち,而小じん側目そばめしげるよく南星なんせい。」、《あかり·向高むこうたかでん》「熹宗はつせいぐんけん滿まんあさ天下てんか欣欣きんきんもち。」
  28. ^ あきら熹宗あきら皇帝こうてい實錄じつろくまき》:「以詹ごとしょう詹事ぜにぞうひつじさるひだりはるかたひだり庶子しょしまごうけたまわむねみぎはるぼうみぎさとしとくしゅう炳謨、こうほろみぎちゅうまことひかりもとみぎさんぜんしめぎためこうかん
  29. ^ あかり·孙承むね传》:「熹宗そく往,以左庶子しょしたかしにち讲官。みかどごと听承むね讲,辄曰“こころ开”,眷注とくいん。」
  30. ^ しゃくちゅうこころざし》:「先帝せんていせいせい雖不こう靜坐せいざ讀書どくしょしかのうとめこころ大體だいたいまい一言一字迥出臣子意表。」
  31. ^ 大明だいめい熹宗あきら皇帝こうてい實錄じつろくまき》:「さき春寒しゅんかん輟講,うえ於煖かく中將ちゅうじょうかくしんひょうなずらえあきら疏親灑宸翰しんかん,批發すうつうかくしん書法しょほう日進にっしんきおいぜんしょううえ曰: てんかんさく較少,のうこう也,俟春おや筆硯ひっけんひさしゆうすすむえき。」
  32. ^ あきら熹宗實錄じつろく
  33. ^ あきら熹宗あきら皇帝こうてい實錄じつろくまき》:「みずのととりはつ內帑いちひゃくはちじゅうまんろう上諭じょうゆへいちんおもんみ登極とうきょく覃恩しょう賚各ぐんけいるいあさきゅうてんただし人數にんずう甚多,稽查不易ふえききん該禮そうぐんすうもくおそれ臨期增減ぞうげんかいぎんいたしるかく該巡按御げん行道ぎょうどうはたしつらえほうきよし查,按名きゅうつとむ使ざいしゃじん沾實めぐみ逃亡とうぼう事故じこしゃとくおかせりょうことかんしょうようぎんりょうてきすうほう查考,餘剩よじょうてきとめ抵戶ねんれい。其遼ひがしがくへい累年るいねん損傷そんしょうさん援兵えんぺいせきこう逃亡とうぼうさらおお,也著かんぐんふみげんかく,毋得つき憑將りょうひらき致滋きょおかせなんじさくそく通行つうこうかく一體いったい遵行,さとし。」
  34. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅうきゅう》:「だつさんがつ。甡以わざわいたたみいのりおさむしょう,內言うみ內民きゅうやめごく,乞蠲めんうえ曰:時事じじ艱,ちん嘗不とめねんしかまいしんこう並無ならびなしつらえしょへい餉之さくただ空言くうげんそく如蠲めん一事いちじ,屢行ひねそうぜんけい及近餉甡泛漫瀆そうしゅうとだつ俸。」
  35. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきさんじゅう》:「うえいのちしるじつすり舉行,毋以空言くうげんりょうごと。」
  36. ^ なつ明通あけどおりかん》(まきななじゅうはち):「天啟てんけいねんがつつちのえとらめん天下でんかたいちょうぜにかてねん及北畿加
  37. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅう》:「以浙江せっこうくいぐん火災かさい,蠲本年春としはるうんみやつこ。」
  38. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅう》:「以軍きょうつげ詘,じゅんまぬかれづくしん頒袍しきさんふんいち
  39. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅうさん》:「戊子ぼし浙江せっこう杭州こうしゅうふくわざわいしろ外延がいえん毀萬あまりなで按具聞。みことのりとまみやつこ
  40. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきろく》:「こうそうしょう供應きょうおう紅白こうはくさらけい吉凶きっきょう大典たいてんきゅう需續かいげんすうまんせんひゃくけんただしいま帑磬かか經費けいひつとむしたがえさいしょうむべげんはんみやつこ辦該いちまんいちせんひゃくはちじゅうはちふくけん,仍照れい南北なんぼくひとしづくりほう。」
  41. ^ あきら熹宗あきら皇帝こうてい實錄じつろくまき》:「蠲云みなみみつぎきんせんりょうじゅんなで沈敬炌言りょう餉督催甚きゅうみつぎきん措處維艱。うえ曰,先帝せんてい即位そくいはつ軫念いくしょう凋廢,ちょやめ稅務ぜいむ以蘇みんこまこんすんでしょう地方ちほうりょう餉措しょはんなんちんこころ憫惻,とくまことしょ請,じゅんはた每年まいとしみつぎきん蠲免せんりょう,仍進さん千兩以備成造各大典禮、ぜにかてきゅう需,以昭朝廷ちょうてい恤念しょうみんとく。」《あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅうはち》:「みずのえいぬだい學士がくしこう高等こうとうひね目前もくぜん切要せつよう事務じむ...雲南うんなんみつぎきん道路どうろやめぜっむべじゅんめんかい使つかい普天ふてん咸知ひじり明德あきのりけんあい戴之しんしょう攜貳こころざし...とくむねらんそう忠君ちゅうくん為國ためくに深謀遠慮しんぼうえんりょ...みつぎきんじゅん暫停
  42. ^ ひろしおうみずちけいそう疏》(だいためみんきゅうまんふん矜,まんとくやめこん乞聖明寛あきひろさとししょうみん暫供輸佐緩急かんきゅうさる飭有つかさたかしふしあい以裕催科,さら請躬さき儉德しゃくさいしょう以濟詘乏ごと):「たてまつ聖旨せいしらんそうこくけい匱乏,措處甚難。るいみんちん軫念,ただしふう多事たじ,百姓稍助糧餉亦自保身家,やや俟事やすしそくあずか蠲免...ちん宮中きゅうちゅうごとことぶししょうまた屢發帑金たかし餉,すめらぎきょく殿どのしきしつらえまたやめとままぬかれみなためみんとくおん。其金はなひかり祿ろくてら供應きょうおうとうこうきょう不可缺ふかけつ,以應きゅう需。なんじごとぎょうあずか地方ちほうかん嚴禁げんきん耗,くだり善政ぜんせいきょう拯民艱,たがえてきさんらい拏問重治しげはるとくようにん。欽此。」
  43. ^ あかり·ちょう南星なんせいでん》「とうにんつとむ奔競,つと苴恣ぎょうげんよこゆう甚。まい文選ぶんせんろう,輒邀半道はんみちためじんもとめかんとくすなわち以惡ごえある逐之...南星なんせいもとやまし其弊,銳意えいいきよしきよし獨行どっこうおのれこころざし政府せいふ及中とうとまたとくゆうしょ請,諸人もろびとはばか其剛いむ敢犯」
  44. ^ たかし祯长编》「南星なんせいじょうだか邑人,ちゅうまんねん进士...あらため吏部なお书。见部事大じだい坏,ゆうさい剖良しんとう疏,きん贿赂、绝请たく,调邹维琏刘廷谏なつよしみぐうにゅう铨曹,及用张光まえほどこくさちとうみな极一时时选...」
  45. ^ おうけい:〈ちょう南星なんせい改革かいかく思想しそうあずか實踐じっせん研究けんきゅう〉,《學術がくじゅつ探索たんさく》,だい 06,2010ねん
  46. ^ あかり·鄒元しめぎつたえ》「其年じゅう二月改吏部左侍郎。未到みとうかんはいひだり明年みょうねんてんがい察,とめおもんみこうはんなんじ楨、庭訓ていきん雅有まさあり物議ぶつぎ,及庭訓ていきん秩滿,なんじ楨注こう溢美いつびもとしるべ疏論りょう人並ひとなみ引疾
  47. ^ はやし美玲みれいばんあきらりょう研究けんきゅう》(だいさんしょうだいせつざつこうてき徵收ちょうしゅう)ぺーじ63いたり72
  48. ^ あかり·ひろしおうみずちでん》「おうみずちためじんあきらちょくゆうもりこく如家。謹出納すいとうもりきょ耗,くにけいよりゆきこれ。」
  49. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅういち》:「めぐ按御ちょうまことげん疏修舉天津てんしん屯田とんでん
  50. ^ あかり·ただしおう舉傳》「とげ擢應舉太ぼくきょうけん河南かなんどう經理けいり天津てんしんいたり山海さんかいたむろつとむおう舉以せめふとおもひねじゅうなんじゅうみかど悉敕所司しょししたがえこれ。乃分しょりょうじんまんさんせん於順てんひさしひらめ河間こうまじょう詔書しょうしょ褒美ほうびとげようおおやけろく千買民田十二萬余畝,ごう閑田凡じゅうはちまんうねこうつのこうしゃ,畀工廩、ぎゅうたね,浚渠ちくぼう教之のりゆきげいいね農舍のうしゃくら廨、圃、ふねしゃ畢具,まんろくせん,而所收しょしゅうきび麥谷むぎたにまんせんせき。」
  51. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅうろく》:「ちょく隸巡按左こう鬥以ちょく隸真じゅん廣大こうだい四府俱有武學,而順 、えいたもてかわよんどくかけ, 請照れい收錄しゅうろく武生たけお於文庠,以儲しょうざいしたがえこれひかり鬥又請於河間こうま天津てんしんしつらえたむろがく,其法凡願入學にゅうがくしゃためし文理ぶんりややつうけん騎射きしゃさるほんいん收錄しゅうろくきゅう武生たけおころもはば,授田百畝使自耕之,まいうねとしおさめいちせきよせがく...うえいのち該部くつがえくだり
  52. ^ あかりだいじゅうさん. しょく貨一》:「ひかり鬥更於河あいだ天津てんしんしつらえたむろがくためし騎射きしゃため武生たけお給田きゅうでんひゃくうね。」
  53. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきろくじゅう》:「じゅんなで廣西ひろせみぎ僉都ただしもと儒奏むくい天啟てんけいよんねん正月しょうがつおこりいたりじゅうがつ終止しゅうしかつらりんとう九府各州縣修築過陂塘、圩岸とうこうどもさんせんひゃくはちじゅうさんしょ。」
  54. ^ あかりこころざしだいよんじゅうろく せん舉二》:「ねんひらきむねしゅまことしぎなり進士しんししたがえそう彥、くに祚請,そく授中しょ舍人とねり。」
  55. ^ 明朝みんちょう小史しょうし》(まきじゅうろく天啟てんけい):「宗室そうしつひらきみかど在位ざいいしたがえだい學士がくしなんむね彥等そうとくちょため宗室そうしつひらきれい列聖れっせい以來いらいゆうこと也。」
  56. ^ 明通あけどおりかん》(まきろくじゅうろく):「これがつきゅうごとちゅう甄淑疏請文武ぶんぶいちれい殿どのためしなりちゅうふとしかんひろしちょく請武舉設,さとためしかいためし悉如進士しんしれいはてぎょういたりよしげんたけ舉中しきいちひゃくろく十人以本等巾服謝恩,職方しょくかた會同かいどうどう查明ねん貌、いさむつとむ技藝ぎげいとうこうちゅう本人ほんにん名下みょうげじゅうがつ上旬じょうじゅんどうれいかくひねしょのうさきあずかえんじためしそく於是がつもちすめらぎじょう臨軒さくとえかくしんあずか兵部ひょうぶ尚書しょうしょとうさむらいはんすめらぎじょう欽定きんていいちかぶとさんめい,授都僉事,かぶとさんじゅうめい守備しゅび,三甲百餘名以次各授出身,職方しょくかたぐうかけ便びんおぎなえじょうげんさんねんせんかんしたがえこれ
  57. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅうろく》:「吏科きゅうごとちゅう甄淑請武照文てるぶみいちれい殿どのこころみ,以辯ざいしょう所司しょし。」
  58. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅうなな》:「いたりちょうきょただしこれ恤典,のりすわえじん請之,しん(向高むこうたか)とうなずらえ功罪こうざいはらあい掩,褒貶ほうへんなにさまたげ並存へいそんもとしるべ不言ふげんしんかたふく其無成心せいしん...」
  59. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅうなな》:「ひだり鄒元しるべそうしんこころざしやめぎま,乃給ごとちゅうかくまことあつきょうしん體認たいにん...ちょうきょせいしょう幼君ようくんじゅうねん,昧人臣じんしん小心しょうしんむかし其非,しん私意しいこんろく其功,しんづけ公論こうろん...」
  60. ^ さん朝野ちょうや》(卷一けんいち):「鄒公やめねん高德こうとく劭,涵養かんよういきしかゆうおいろんこうりょうしゃおおやけどく曰:『こうりょうざいこう在天ざいてん』,ぜっ 以一己嫌怨參也。」
  61. ^ あかり》:「おわりまんれき敢白きょせいしゃ。熹宗廷臣ていしんややややついじゅつ。而鄒元しるべためまたたたえきょただしみことのりふくかん葬祭そうさい。」
  62. ^ あかり.かたしたがえあきらでん》:「したがえあきらどく秉國なりそつところただしすくいまたよう姚宗ぶん閱遼ひがし,齮經略けいりゃくぐま廷弼りょうとげしつ
  63. ^ あかり.おうまことなりでん》:「姚宗ぶん閱視りょうひだりあずかくま廷弼しょうしつかえり而鼓同列どうれつおさむこれ
  64. ^ あかり.のぞみあなでん》:「きゅうごとちゅう姚宗ぶん閱遼ひがしぐんはい經略けいりゃくぐま廷弼,まれあなれん疏劾
  65. ^ 大明だいめい熹宗あきら皇帝こうてい實錄じつろくまきなな》:「兵科へいかきゅうごとちゅうしょうもと極論きょくろん閱臣姚宗ぶんつみ...そうぶんあげ旌出せき不能ふのうぬのいちにんとく,以簡さがせぐんじつ乃搖くちびるしたきょうこと冰炭,使つかいぐま廷弼いちにち不能ふのうやす其位。
  66. ^ あかり.しゅうはじめたてつたえ》「なに,沈陽やぶそうけんせめ當事とうじ大臣だいじんえききゅういん破格はかく用人ようにん召還しょうかんぐま廷弼。」
  67. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはち》「山西さんせいみち史江ふみえ秉謙りょくひねぐま廷弼保守ほしゅ危遼こうげん才識さいしき膽略たんりゃくゆう大過たいかじんしゃ使つかいとくやす其位而展其雄かかえとう致敗壞若此,いん抹殺まっさつこう擠排ろうしん...」「だい學士がくしりゅういち燝言,びょう謨之しょうただざいようしゃとくじんそく如熊廷弼もりりょういちねんやつ酋未とく大志たいし不知ふち何故なぜくび驅除くじょ...いまとげゆう沈陽ことさく遼東りゃおとん按臣ちょう銓遺しょ長安ながやすいい今日きょうきゅうちょきゅう經略けいりゃくぐま廷弼不能ふのう辦此ごと...」
  68. ^ あかり.くま廷弼でん》「さだためじん騃而愎,もと習兵,輕視けいし大敵たいてきこう謾語。ぶん武將ぶしょう吏進諫悉不入ふにゅうあずか廷弼ゆう牴牾もどき...兩人りょうにんとげしょう怨,事事ことごと齟齬そご。」
  69. ^ たかしただし長編ちょうへんまきじゅうさん》:「はらつとむだい學士がくしまごうけたまわそう疏辯しんせんまことくじら劾,げんしんざいりんじゅうきゅうねんしたがえだんへい,偶值東西とうざい交訌,きょうてらこうよじりゅう鍾羽ただし馮從われひとしかく特薦とくせん天啟てんけい二年遂以臣入內閣,またいのちしん暫掌兵部ひょうぶごと...」
  70. ^ あかり.袁崇煥傳》:「天啟てんけいねん正月しょうがつあさ覲在ほうまこと破格はかくようとげ擢(袁崇煥)兵部ひょうぶ職方しょくかた主事しゅじ。」
  71. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきろく》:「みずうみこうかたふるえ孺請そく催新簡添ちゅう兵部ひょうぶさむらいろうしょしん...以臣管見かんけん調しらべ於北如鹿ぜんまましきのえ調しらべ於南如鄒維璉,召用而加銜以だいかん如熊あかりぐうくにはな。」
  72. ^ 大明だいめい熹宗あきら皇帝こうてい實錄じつろくまきなな》:「おのれだい學士がくし向高むこうたかそう: しん扶病出山でやまはつ聞遼へん人情にんじょうふるえ擾...おもんみぶんりゅう鎮江たたかえなでしん以為こうけいしん以為ざい意見いけんだいことしん竊謂國家こっかすうせんまん金錢きんせん,招十あまりまん士卒しそつ嘗損やつ酋分毫,而文りゅうひゃくにんとりこすうにんこう雖難ごとつみ於何ゆう?...”
  73. ^ あかり》(まき259):「さんねんきゅうがつうけたまわそうけつもりやすしとお。僉事萬有ばんゆうまことりゅうみことのりりょく阻,聽,いのち滿まんかつら偕崇煥往。はつうけたまわむねれい大壽だいずちくやすしとおじょう大壽だいずちゅうあさ不能ふのうとおもりちくじゅういち,且疏うす中程なかほどたかし煥乃定規じょうぎせいこうさんたけしゃく,雉高ろくしゃく廣三こうぞうたけうえたけよんしゃく大壽だいずあずかまいはた高見こうけんけんぶんとく明年みょうねんまでこうとげためせきがい重鎮じゅうちんかつらはた,而崇煥勤しょくちかいあずかしろ存亡そんぼうまたぜんなで將士しょうしたのしため盡力じんりょくよししょうたび輻輳ふくそうりゅううつり駢集,遠近えんきんもちため樂士がくし。」
  74. ^ たかしただし長編ちょうへんまきじゅうさん》:「其官へい屯田とんでんせんあまりごろかんたむろぎんいちじゅう萬有ばんゆうしおぜにぎんさんまんよんせんゆうあおしょう餉部ぎんじゅうはちまん。」
  75. ^ さん朝野あさのおさむ
  76. ^ 三朝みささりょう事實じじつろく
  77. ^ あかり·滿まんかつらつたえ》:「こうむ部落ぶらくちゅうまきやすし遠東とおひがしひなりょうみんらいしゃ悉遭劫掠ごうりゃくうけたまわそう患之。よんねんがつかつら及總へいゆう祿ろくかさねだいしのげかわしょ號泣ごうきゅう西にし竄,ひがしひな以寧。拱兔、はなおさむさいしょ受款而陰ふところはんがわかつらよし操縱そうじゅうしょ咸服,さいしょうなでしょうぎん貲。はつ城中じょうちゅうくるわがい一望いちぼうおか墟。いたり軍民ぐんみんまんいえたむろしゅどおいたりじゅうさと。」
  78. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきさんじゅう》:「ぎん酋兩ばと眾西はんかんへい迎擊げいげきついころせ先後せんご斬首ざんしゅさんひゃくじゅうあまりきゅうせま西にし總督そうとくおこりもと以聞,下兵しもへい知之ともゆき。」
  79. ^ あかり.くにはなつたえ》:「よんがつ,擢右僉都だい畢自げんじゅんなで天津てんしんぐん新立しんだて庶務しょむ草創そうそうくにはないたる極力きょくりょく飭,もんぐんとげためしょ鎮冠。」
  80. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい实录まきさんじゅう》:「おのれじゅん抚延绥余つよしじょうじょう边务よん款..かく营将领占马占军诸へいしんやめ严行きよしかわいたり于总镇正へいいち营,设官军四千一百余员名而各卿官占役至八百一十名,うらない粮至いちせんいちひゃくきゅうじゅうせき,几不可ふか问,こんきさき须尽すうきよし,归镇しん钤束训练...」
  81. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきさんじゅうろく》:「交酋はんじゅん廣西ひろせなでしんなんすすむとくりつかんへい屢敗とし聞。うえいのち所司しょしりょうぎょうろく敘。」
  82. ^ あかり·熹宗》:「〔天啟てんけいねんがつ丙午ひのえうま山東さんとう白蓮びゃくれんぞくじょ鴻儒こうじゅはんおちい鄆城。……〔じゅうがつからし官軍かんぐんふく鄒縣,とりこじょ鴻儒こうじゅとう山東さんとうぞくたいら。」
  83. ^ あかり·熹宗》:「さきこう祿ろくてらしょうきょう建議けんぎいいじょうもり火器かき必得西洋せいようだいじゅう練兵れんぺいしんじょひかりけいいんれい守備しゅびまごがく赴廣於香山こうざん嶴,購得よんじゅういたりかいきょう。仍令赴廣べにえびすどうじゅう及選つの慣造、慣放えびすしょう赴京。」
  84. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきさんじゅうさん》:「ひかり祿ろくてらしょうきょうかんこうすい司郎しろうちゅうごとごと制勝せいしょう莫先大器たいきしんおとずれ香山こうざん乃傳西洋せいようだいじゅうため猛烈もうれつ神器じんぎむべかん往購。ただし雖得其器,苟無其人ねりほうつててんこれじゅつ不盡ふじん。乞行文こうぶん粵中せい按將ねりえびす招諭らいきょう...」「兵部ひょうぶ尚書しょうしょただしかん儒等ごととお赴神きょうしんこころ竊嘉其忠じゅんまたいちいち閱其火器かき刀劍とうけんとう械,俱精。其大じゅうゆうしょう猛烈もうれつ神器じんぎわか一一仿其式樣精造,仍以いちきょうじゅう,以十きょうひゃく分列ぶんれつぎょうそつあずかぞくぐう於原,とう應手おうしゅ糜爛びらん矣。」
  85. ^ あかり.かつ纘傳》:「ほうひがしりんいきおいもり天下てんか清流せいりゅうゆう落然ことしゃ,詬誶ずい矣。」
  86. ^ あかり.倪元璐傳》:「ひがしりん天下てんかざいやぶ也,而或樹高きだかあきらのぼりなわじんこく持論じろんふとふかいいちゅうゆきすなわちいいきょう不可ふか
  87. ^ あかり.みこともとでん》:「而是ひがしはやしみつるあさ以鄉里分さとぶん朋黨ほうとう。」
  88. ^ あかり.大中おおなかつたえ》:「ひがしりんちゅうまたかく以地ぶん左右さゆう大中おおなか嘗駁まつじゅんなでおうぞうつね恤典,山東さんとうじんきょげんしゃ咸怒。及駁浙江せっこうじゅんなでりゅういち江西えにしじんまただいいかきゅうごとちゅうあきらまこと江西えにしじん也,せいゆう忮,嗾其どうかんでんかりひろし文言もんごんはつなん。」
  89. ^ あかり.みこともとでん》:「江西えにしあきらまこと儒、ちんりょうくんあずかだい中有ちゅううすき,而大ちゅうよく駁尚しょみなみなか恤典,しんじんまたえつ。」
  90. ^ あかり列傳れつでんだいいちひゃくさんじゅう》:「而是牴排ひがしりんしゃへいはいぽう恨南ぼしやからこつ。」
  91. ^ あかり列傳れつでんだいいちひゃくきゅうじゅうさん 宦官かんがん》:「あずかひがしりん忤者,眾目ためよこしまとう天啟てんけいはつはい斥殆つき識者しきしゃやめゆう其過激變げきへんせい。及忠けんぜいなり,其黨はてはかりごと倚之以傾ひがしりん。」
  92. ^ あかり·かたふるえ孺傳》:「熹宗嗣位,ぎゃく璫魏ちゅうけん內結きゃく...」
  93. ^ あかり·霍維はなでん》:「天啟てんけい元年がんねんろくがつちゅうかんおうやすしとうてのひらつかさあやかんしるしやましきょがいてい...やすあずかちゅうけんゆうすき,閹人りく藎臣しゃ,維華內弟也,偵知以告。維華あずかちゅうけんどうぐん交好,とげじょう劾安,ちゅうけん輒矯むねころせこれ
  94. ^ あかり.ちょう南星なんせいでん》:「ちゅうけんまさ重之しげゆき,嘗於みかどぜんしょう其(ちょう南星なんせい)にんごといちにち娣子でんおうぼしかいいち中書ちゅうしょにえ南星なんせい麾之。嘗並すわひろせいもんせんどおり政司せいじ參議さんぎせいいろちゅうけん曰:「主上しゅじょうおきよわい我輩わがはい內外臣子しんしよろしかく努力どりょくためぜん。」ちゅうけん默然もくぜんいかかたち於色。」
  95. ^ しゃくちゅうこころざし》:「さんねんふゆそう私宅したく閑住,ぎゃくけんてのひらひがししょう
  96. ^ はやしうららがつ《「げき內」そもそもある調和ちょうわ」?─試論しろんひがしりん領袖りょうしゅうてきせい宦策りゃく
  97. ^ あかり.こうよじりゅうつたえ》:「よんねんはちがつ,(こうよじりゅう)はいひだり。楊漣とうぐんげきちゅうけんいきおいやめ兩立りょうりつ。」
  98. ^ 兩朝りょうちょうしたがえしんろく》:「南京なんきん兵部ひょうぶとう衙門尚書しょうしょちんみちとおるさむらいろうたけもとこえとうろんけん璫公疏曰: しんとうとおざい南中なんちゅう近日きんじつ屢接ていほうひだりふく使つかい楊漣ゆうぎゃく璫怙ぜいさく專權せんけんらんせいいち疏,れつひがししょうふとしかんちゅうけん罪狀ざいじょう...しんとうえきよう凜凜あいじょう請,ふく乞皇じょう敕下かくしゅうどうしょしん將憲まさのりしん疏列ちゅうけん罪狀ざいじょう群臣ぐんしん疏論じょうぶし,逐款さん實情じつじょうざい。」
  99. ^ しゃくちゅうこころざし》:「つかさあやかんてのひらしるしおうからだいぬいやわら佞貪狠,じつとうぎゃくけん元凶げんきょうえびすくびぞくがいはじかみしんしゅめい國老こくろう也,あずかきゃくざい御前ごぜんさんぎゃくけんたくみほう庇護ひご,軟語乞憐,而秉ひつえいさだとうふく幫助。凡文武ぶんぶ大小だいしょうななじゅうあまり疏,がいおけ聽。」
  100. ^ 中國ちゅうごく通史つうし》(だいきゅうかん中古ちゅうこ時代じだい·あかり時期じき> おつへん綜述> だいよんしょう明朝みょうちょうてき滅亡めつぼう> だいよんせつひがしりん黨爭とうそう):「天啟てんけい初年しょねん,一些東林黨成員陸續被起用 。ちょう南星なんせいにん吏部尚書しょうしょ,鄒元しるべこうよじりゅうさき後任こうにんゆかり在野ざいや變成へんせい在朝ざいちょう天啟てんけいさんねん(1623),ちょう南星なんせいとう利用りようきょう察的機會きかい盡力じんりょく罷免ひめん浙、ひとしすわえ とう成員せいいん品行ひんこうこのみてき官員かんいんひがしりん黨人とうじん及正官員かんいんますいたり重要じゅうよう職位しょくいゆう些官いんよう於清りゅう便びんとうもたれ掌握しょうあく大權たいけんてき宦官かんがんちゅうけん後來こうらいひと們稱ため“閹黨”。此後 ,官僚かんりょう集團しゅうだん內部てき黨爭とうそうためひがしりん黨人とうじんあずか「閹黨」あいだてき鬥爭しょだい。」
  101. ^ あかり·ちぇていしゅうでん》:「ていしゅうだい窘,よるはしちゅう賢所かしこどころ叩頭こうとう乞哀,ことよじりゅう南星なんせいみなひがしりんはさみわたしはいおちいふく叩頭こうとう涕泣ていきゅう,乞為養子ようしとうちゅうかしこため廷臣ていしん交攻,いきどお甚,ぽうおもえとくがい廷為すけ。」
  102. ^ あかり·顧秉けんでん》:「ちゅうけん用事ようじげんかんしゅうそうけんとうくび劾之。ちゅうけん於是はかりごとゆいがい廷諸しん,秉謙及魏こうほろ率先そっせん諂附,霍維はなまごすぐるいたずらしたがえ而和。」
  103. ^ しゃくちゅうこころざし》:「けん既得きとく瓦全がぜん便びんしたがえ此改しんためあくしょ忌憚きたんじつ楊公此疏げき成之しげゆき也。」
  104. ^ 天啟てんけいみや》「うえこうろううるし,凡所使器具きぐみな御用ごようかん內官かん辦。すすむさくりょう上手じょうず為之ためゆきなり而喜,ひさ而棄,棄而またなりいや也。」
  105. ^ あかり宦官かんがんでん》:「みかど(熹宗皇帝こうてい)せい機巧きこうこうおやおののこ髹漆ことせきとし倦。まい引繩ひきなわそぎすみちゅうけんやから輒奏ごとみかどいや,謬曰:「ちんやめ悉矣,なんじやからこう為之ためゆき。」ちゅうけん以是ほしいままぶくおもんみおのれ。」
  106. ^ おういけきた偶談》:「ゆうろうみやかんうんあきら熹宗ざい宮中きゅうちゅう好手こうしゅせいしょう樓閣ろうかくおのきん不離ふりしゅ,雕縷せいぜっそうけんまい伺帝製作せいさくたけなわ,輒以しょいんあきらそうしんみかど輒麾曰,『好生よしお,勿欺わが,』閹權じゅう,而帝そつこれさとる。」
  107. ^ しゃくちゅうこころざし》:「而逆けん識字しきじ從來じゅうらい文書ぶんしょりゅう該正,しか頗有せいただざい御前ごぜんたたえあげうえとう徇私,ある危言ひや挑激きよしいか。 ”
  108. ^ 天啟てんけいみや》「うえ(熹宗皇帝こうてい)性善せいぜん忘,所用しょよう人為じんいきゃく擯斥ひんせきとげふく記憶きおくとい及。」
  109. ^ 明朝みんちょう小史しょうしまきじゅうろく天啟てんけい》:「ちゅうけんとうかたぶけおちい正人まさと,必先假借かしゃく(皇帝こうていてき)名號みょうごう。凡有起用きようどう曰中むね。」
  110. ^ 天啟てんけいみや》「けん擅政,かく衙門あきらそう俱不繇閣ひょう特用とくよう內旨。なまころせ予奪よだつおもんみけんあずかからだいぬい為之ためゆき。」
  111. ^ しゃくちゅうこころざし》(まきじゅうろく):「天啟てんけい甲子きのえね(よんねん)ふゆ...凡先帝せんていいちおうちょうむねちょうきよしさとし,迥與みずのと以前いぜんぶん不同ふどうにん頗駭こと。」
  112. ^ たまきょうしんたん》(まきろく):「楊漣疏略うん近日きんじつちゅうけんしん涿州,鐵騎てっきむらがよう如云...宮中きゅうちゅう府中ふちゅう大事だいじ小事しょうじ一不是忠賢專擅。そくたてまつそううえはんさとしすめらぎじょうためめいちゅうかしこため。且如前日ぜんじつちゅうかしこまた往涿しゅう矣,一切いっさい事情じじょう,必星よるはせ請意むねひょうなずらえ必忠けんいたはじめ敢發批。」
  113. ^ あかり.ちゅうけんでん》:「さんねんはる,引其私人しじんこうほろため大學だいがく。」
  114. ^ さきばちこころざしはじめ》「こうほろふか恨眾じん糾彈きゅうだん劾也,揣忠けん以應やま銜大中等ちゅうとうよしほしかたな剪除,とげあずかしゅう密謀みつぼう。以黨しゃにんぬしこれしょあく 也,乃於じょう曰:「楊、ひだり、袁、あずか在朝ざいちょうしょしん蔑主衝幼,結黨けっとう擅權,不盡ふじん竄殺,以明ぬし而服天下でんか輕蔑けいべつしん。」上意じょういとげうつりちゅうけんとく以肆ぎょうはいおちいはつなお挑激じょういかつてたてまつひょうなずらえ繼則つぐのりしたがえちゅうはつひょうづけかく謄進。 」
  115. ^ しゃくちゅうこころざし》「而逆けん識字しきじ從來じゅうらい文書ぶんしょりゅう該正,しか頗有せいただざい御前ごぜんたたえあげうえとう徇私,ある危言ひや挑激きよしいか。」
  116. ^ あかり. 向高むこうたかでん》「ちゅうけんすんでだま恨向だか,而其あさあずかちゅうけんこうしゃりつ倚向だかちゅうけん乃時舉細せめ向高むこうたか以困向高むこうたかすうもとめ...ちゅうけん雖憤,なお以外いがい廷勢もり加害かがい。其黨ゆうしるべ以興大獄たいごくしゃちゅうけんとげぎま。於是こうろうちゅう萬燝以劾忠賢廷杖,向高むこうたかりょくすくえしたがえつえなにりんなんじ翥亦以忤奄命廷杖。なんじ翥懼,とう遵化じゅんなでしょあるげんなんじ翥向だかおい也,ぐん奄圍其邸だい噪。向高むこうたか時事じじ不可ふかため,乞歸やめじゅうあまり疏,いたり請益りょく。乃命加太かだでん行人こうじんまもるしょきゅうたまもの彞典有加ゆかひろ聽辭ふとでん有司ゆうし月給げっきゅうまいせき輿こしおっとはち。」
  117. ^ 明通あけどおりかん》「ちゅうけん以楊さざなみ劾己,爌不為ふため援,ふか銜之。及向だかやめ,爌為くび輔,まいことただしためぜんるいしょ倚。しかこうこうゆうさとしじゅつ,攏絡ぐん閹,爌惟廉直れんちょくいきおい不能ふのうてき,而同かんこうほろまたふかむすぶちゅうけんへん引邪とうちゅうけんかりかい推事逐南ぼしこうよじりゅう...いくまた逐楊さざなみひだりこうちん于廷,朝政ちょうせい大變たいへんちゅうけんぜいえきちょう...ちゅうむねせめ爌歸於上,悻悻もとめ,聽還せき... 」
  118. ^ あかり. かん爌傳》「爌去,しゅこくただしためくび輔。しげるおさむこれ,顧秉けんだい其位。公卿くぎょう庶僚,みなちゅうけん私人しじん矣。」
  119. ^ あかり. ちょう南星なんせいでん》「ちゅうけんだいいか,矯旨黜大ちゅうよしみぐう,并黜きゅう疇,而責南星なんせいとうともはかりごと結黨けっとう南星なんせい遽引ざいもとめちゅうけんふく矯旨きりせめ明日あしたよじりゅうまた引去ひきさきゅうごとちゅう沈惟炳論すくえまたこれがいにわか以會推忤ちゅうけんなみ斥于廷、さざなみひかりちゅう,引南ほししょ擯徐ちょうさきがけたかしおうかぶとおう紹徽とうおけ要地ようち小人こどもきおいすすむ天下てんか大柄おおがらつきちゅうけん矣。」
  120. ^ あかり.薛國かんでん》:「ちゅうけん擅權,ちょうそうげきひがしりん
  121. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつだいななじゅう一卷魏忠賢亂政》「がつだいてらすすむじょ大化たいか劾楊さざなみひだりこう黨同伐異とうどうばつい,招權おさめまかないいのち俟汪文言もんごん逮至鞫之。そぎふみしゅうそうけんおうのぼりみこともとちょうまことげんせきこう主事しゅじ曹欽ほどふく劾趙南星なんせいしゅうそうけんちょうまことげんおうますこうよじりゅうみこともと、鄒維さざなみ大中だいなか大約たいやく誣以受熊廷弼まいない,以汪文言もんごん為之ためゆきしょう。」
  122. ^ さきばちはじめ》:「楊、ひだりすんで逐,奸黨えき忌憚きたんとげ肆行誣陷。」
  123. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきろくじゅうきゅう》「とくふうちゅうけん太子たいしふとしひだりとくりょうきょうため肅寧はく
  124. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅうなな》「おん三等原封太子太保肅寧侯魏良卿晉封寧國公世襲」
  125. ^ たまきょうしんたんまきじゅう》:「あずか奸黨ちぇていしゅうせんはかりごと,妄謂おや侄當とおるだいたか,徼旨おかせふうこくおおやけ,其侯、はく以下いかおかせ官爵かんしゃくけい其數。」
  126. ^ ちょう實錄じつろく》:「 ちゅうけんめい, 以功ふうはく, 且賜せんごろ, おうゆめいんろん, かたり謫云。」
  127. ^ あかり向高むこうたかでん》:「向高むこうたかすんでやめかん爌、しゅこくただししょうまましためくび輔,ひさみなやめきょ政府せいふしゃみな小人こども清流せいりゅうしょ倚。ちゅうけんくび誣殺さざなみひかりとう次第しだい戮辱,貶削あさおのれしゃぜんるいためいちそらくも。」
  128. ^ あかり宦官かんがんでん》:「とうひがししょうばんやく橫行おうこうしょ緝訪無論むろん虛實きょじつ糜爛びらん。戚臣うけたまわおんしゃやすしやす大長おおちょう公主こうしゅ也,家藏かぞう公主こうしゅたまものちゅうけん誣以とうじょう輿こしふく御物ぎょもつろん...民間みんかん偶語ぐうごあるさわちゅうけん,輒被とりこ僇,甚至剝皮、刲舌,しょころせ不可ふかかちすう道路どうろ以目。」
  129. ^ あかり. まごうけたまわそうつたえ》:「かいちゅうけん逐楊さざなみちょう南星なんせいこうよじりゅうとううけたまわ宗方むなかた西にしじゅんあざみあきらねんこう疏帝未必みひつおやらん,往在講筵こうえんまいそうたい輒有いれ,乃請以賀聖壽せいじゅ入朝にゅうちょうめんそう機宜きぎよくいんろん其罪。」
  130. ^ あかり. まごうけたまわそうつたえ》:「こうほろ聞之,奔告ちゅうけん:「うけたまわそうようへいすうまんはたきよしくんがわ兵部ひょうぶさむらいろうくにはなため內主,公立こうりつ齏粉矣!」ちゅうけん悸甚,にょう御床みとこ哭。みかどまた為心いしんどうれい內閣なずらえむねつぎ輔顧秉謙奮筆曰:「むねはなれしん祖宗そそうほうたがえしゃなだめ。」よるけい禁門きんもん召兵尚書しょうしょいれれい三道飛騎止之。」
  131. ^ さきばちはじめ》:「ぶただか德望とくぼうもとため內廷しょげんはばか,而熹びょう於高けんじかえまい嘉納かのうとき朝政ちょうせい一變いっぺんけん倒置とうちこうなずらえ陛見つうひね利害りがい,冀悟くんしん,其非すすむ也。嫉者いいだかたいかぶとせんよくきよしくんがわひだりくるるくにはなみのる召之,內外あいはかりごとてい矣。ぎゃくけんきゅうそう熹廟,而顧秉謙よくじょうあいだ以圖くび揆,とげなずらえさとし以進。こうとくさとしそく日東にっとうゆきくにはな引疾かいせきつぎねんぎゃくけんそく分遣ぶんけん內閹鎮守ちんじゅかくあたり,以奪しょだい吏之けんくも。」
  132. ^ あかり畢自いむつたえ》:「さきちゅうけんらんせいへん餉多かけ
  133. ^ ささえそう.せつひねぶしかけかくあたりねんれいぜにかてすうもく疏》
  134. ^ たかしただし長編ちょうへん天啟てんけいななねんはちがつかぶとうまついたち
  135. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅういち》:「山西さんせいじゅんなで曹爾楨言,三關さんのせき兵士へいしじゅうがつかて,乞敕下戶げこはた本省ほんしょう天啟てんけいろくねん抽扣とうざつこうぎんども五萬九千二百五十八兩俯准留發三關鎮,抵充きょううん未發みはつねんれいすう
  136. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅういち》「遼東りゃおとんじゅんなで袁崇煥題,げんべいかてひさかけぐんつげかつえ,乞速たまものせっずみ
  137. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅう》「のべ綏巡なでこんちょうゆうしゅ童蒙どうもうげんのべ綏六年分京運欠三十餘萬,ぐんかけ餉,嗷嗷つげかつえ...
  138. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅう 》「今行いまゆくかくみち分別ふんべつてんけんこらえせん不堪ふかんせん其報こらえせんしゃごう僅有ななじゅうはちひき空虛くうきょいたり此,ふう疆之ごとまことゆう不可測ふかそくしゃ...
  139. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅうさん》「かのえじゅんてんじゅんなでりゅうみことのりごとあざみ鎮班ぐんよんがつかて,洶洶なんまてえいひそかあきら三鎮餉缺大略相類...とくむね...あたりこうただしきゅうはんぐん枵腹,這薊鎮未はつよんがつ餉銀,ちょこくうんはつ以濟もえまゆ,其永みつあきら三鎮缺餉一並速發...」
  140. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅうろく》「鎮守ちんじゅせんだいふとしかんかずらきゅうおもえだいせん鎮缺かてすうがつ,乞亟催うん以杜だつはばとくむねらんそうせん鎮戍ぐんまちすうがつ...」
  141. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅうろく》「鎮守ちんじゅ遼東りゃおとんたいかんようだい亟缺かてりょう,乞速たまものせっずみ...」
  142. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅうろく》「じゅんなで山西さんせい牟志夔題,衝邊かけ餉難ささえ,乞發きょううん以保危疆。とくむねらん三關京運累年缺額數多, そく天啟てんけいろく、七兩年欠軍餉個多月,而西なでしょうゆうため措,かつえぐんまち哺,へんもうかおおせはたなに以濟?
  143. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅうよん》「きよしさい淂旨...乃餉かてじきあざみ永二えいじ鎮缺餉多山海さんかいくら查無顆粒かりゅう,枵腹眾何以荷ほこ?」
  144. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅういち》「うえでん與戶よとやすしどおかけかてぐん枵腹,まち情實じょうじつ急迫きゅうはく。」
  145. ^ あかり.袁崇煥傳》「ちゅうけんいん使其黨ろんたかし煥不すくいにしきしゅうためくれたかし煥遂乞休。ちゅう外方そっぽそう頌忠けんたかし煥不とくやめまた請建ほこらおわり不為ふためしょなながつとげまこと其歸,而以おうしんだいためとくけん遼東りゃおとんじゅんなでちゅうやすしとお。及敘こう文武ぶんぶぞう秩賜廕者すうひゃくにんただし賢子さとこまたふうはく,而崇煥止ぞういち秩。」
  146. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅうろく》「とくむね近日きんじつやすしにしき危急ききゅうよりゆきしょうしん調度ちょうど以奏奇功きこう說得せっとく袁崇煥暮氣難きむずかしつづみ物議ぶつぎしげるいたりやめじゅん其引やましもとめ...」
  147. ^ 廣東かんとんどおりこころざしまきよんじゅう》「へいとら正月しょうがつ固守こしゅやすし逺,いく,遽擢じゅんなでせい廕巨璫魏ちゅうけんもとたかし煥,㑹崇煥固請終せいとげやめ。」
  148. ^ せい史紀ふみのりごとほん末卷まっかんさん》「あきなながつちゅうけん使じん劾袁たかし煥不すくいにしきしゅうざいたかし煥乞きゅう,以王しんだい。」
  149. ^ あかりほん纪第じゅう—熹宗》「ろくねん五月ごがつつちのえさるおうきょう厂灾,死者ししゃ甚众。六月ろくがつへいきょう地震じしんみずのえうまかわ决广なつきょう师大すい江北こうほくやま东旱いなごあき江北こうほく大水おおみず河南かなんいなご十二月じゅうにがつつちのえさる南京なんきん地震じしん。」
  150. ^ なえ棣《いさおじん治国ちこく——ちゅう贤专权研究けんきゅう》:「ただしちゅうけん政府せいふ顯然けんぜん根本こんぽん就沒すくいわざわい工作こうさくひっさげいたほどうえらいあまね查天けいねんいたりななねんてき實錄じつろく》,閹黨しん僚在そう疏中報告ほうこくかくしょわざわいじょうてき相當そうとうしょう偶有ぐうゆう論及ろんきゅうしゃのり多數たすうただほう聞而やめ當局とうきょくしゃ極少きょくしょう拿出積極せっきょくてき處理しょり意見いけん 。」
  151. ^ あきらきたりゃくだい五卷崇禎二年己巳》
  152. ^ おうろうやまどうしゅう
  153. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつだいななじゅう一卷魏忠賢亂政》「かくきょくけんじこびつとむきゅう工作こうさく たくみ,攘民ひと樹木じゅもく發聲はっせい。」「ときりゅうみことのりじゅんなでじゅんてんぎょうけんいたり肅寧,叩首於忠けん。及謁ほこらちゅうけんぞう即行そっこうはいさん叩頭こうとう
  154. ^ 明通あけどおりかん》(まき八十やそ)「はんなんじ貞之さだゆきけんぎゃくほこら也,諸方しょほうこうゆういくへん天下でんかあざみりょう總督そうとく閻鳴たいつぎ請於內建ほこらななしょすうじゅうまん。其頌ちゅうけんゆう民心みんしんそく天心てんしんむこうじゅん開封かいふう毀民しゃ千所創宮殿九楹,如王しゃ...」
  155. ^ 明朝みんちょう小史しょうしまきじゅうろく天啟てんけい》「みかどちょうにんふとしかんちゅうけん,凡中がいしん僚,これしゃ甚眾,にせむねひょうほん,靡所不為ふためきょうしょうしゅう建立こんりゅうせいほこら,以為奉祀ほうしまいみやつこいちしょやくぜにかてはちせんゆう,其門ろう殿どのかくかか耀星京師けいしむかえぞうはたじょうたいれんうんいたりかみいたるきよしちゅう乾坤けんこん而立じりつきょくぶくことぶきどう日月じつげつ以常あかり。」
  156. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅうさん
  157. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「ぜんたかしおうかぶとなではたゆうぬすめしゃ請捕きのえ不問ふもんぬすめ而索しつぬし千金せんきんゆかりこれとうはつみな敢言,以故たかし橫行おうこう,刼奪攘攫...」
  158. ^ 《鄖陽こころざし》:「ながれぞく出入でいり隕陽始末しまつ曰,天啓てんけいまつちゅうけんとうたかしおうかぶとため陝西せんせいじゅんなでしゅわらわえらためのべ綏巡なでむさぼ黷不つめぬすめゆかりおこり。」
  159. ^ 畢自いむささえそう议》(はつおこりかん户部疏):「維時ぎゃく璫(ちゅうけん)擅權,さがせ刮天帑藏...且國みず(ゆびもりりょうふとしかん楊國みず)ためぎゃく璫乾まいゆうぶんうつりむこうさくとしれいぜにかて,炰烋こと甚...」
  160. ^ あかりほん纪第じゅう—熹宗》「ろくねんはちがつ陜西きょうせいりゅうぞくおこりゆかりやすしはん廣元ひろもと九月くがつまいりはた楊明てる齎敕招諭すい西にしぞくころせ十二月じゅうにがつ甲子きのえね,潯州ぞくころせ守備しゅび蔡人りゅうななねんさんがつ戊子ぼしきよししろみんへんころせけんちょう耀。なながつちょう海賊かいぞく寇廣ひがし。」
  161. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅうきゅう》「天啟てんけいろくねんじゅうがつ庚申こうしんじゅん按直隸御なにはやかなでこんとし風水ふうすい異常いじょういたりあきひでりいなご肆虐,飢饉ききんしょうもち盜賊とうぞく蠭起,はじめかわ一帶江海相連巨盜出沒...」
  162. ^ なえ棣《いさおじん治国ちこくちゅう贤专权研究けんきゅう》:「捐助实际对各级文武官ぶかん员的いち强行きょうこう摊派,てん启五年始ねんしすえてんろくねん正月しょうがつてき统计,やめ经收いたむねはん文武ぶんぶかん员捐けんじてきじょこう银83まん两。这时捐助てきかん员还主要しゅようきょうかんちゅう地位ちい较高てき大臣だいじん,捐款すう额也认捐しゃ自己じこしゃくじょうてきてんろくねんがつ皇帝こうていさいつぎ颁旨,要求ようきゅう在京ざいきょうなお书以在外ざいがいしゅう县正かん以上いじょう,俱捐俸薪いちねん。”[书目1,かんななじゅういちだい70さつだい3442页。]这就やめ经不捐助,而是あかり执杖しきてきかすめ夺。さいきさきぼつゆうにん现职てき在籍ざいせき乡绅也要せり捐献りょうかく官僚かんりょう本身ほんみことせい产,们捐じょ出来できてきじょうひゃく万两白银最终还是要落实到百姓头上,なり人民じんみんてきまたいち项巨だい负担。」
  163. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅういち》「捐俸じょこうかいてんよりどころ在京ざいきょう尚書しょうしょ以下いか在外ざいがいしゅうけんせいかん以上いじょう俱捐俸薪いち年餘ねんよ俱免捐」
  164. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろく》「ふとしかんりゅうぶん耀奉むね查核りょう淮運ぜにかていちひゃくじゅうまんじょこう...しおうん貯庫ぎんじゅうまんりょうちょかんどうあきらすう查收,以助大工だいく...」「ふとしかんえびす良輔りょうすけかいしんしおうんぎんじゅうまんりょうあげしゅうみさお餉銀及蘇しゅうおおとり二府馬價銀共十萬兩以助大工...」「かん捐俸じょこうかいてんよりどころ在京ざいきょう尚書しょうしょ以下いか在外ざいがいしゅうけんせいかん以上いじょう俱捐俸薪いち年餘ねんよ俱免捐」「甘肅かんせいじゅんなでわかほしすすむ摉括じょこうぎんせんはちひゃくきゅうりょうゆう」「ちょく隸巡按徐きちそうしん查備やまとぎん兩得りょうとくむねよりどころちぇていしゅうとうげんそう鎮江みる海防かいぼうぎんじゅう萬有奇如何止解三萬三千餘兩還著盡數摉括以助大工」「こう尚書しょうしょおこり元請もとうけ摉括貯官ぎんとくむね大工だいく緊急きんきゅう費用ひようひろししげる這贛しゅういりかんぎんさんまんりょうじょしゅうぐん便びんぎんよんまんりょう俱限ねんさんがつ內如すうしん其南贛巡なでしょうこうぎん久積ひさづみよう及各しょうちょくくら無礙むげかんしろがねちょ該撫按官つきすう查出」「ちんきん聞得しおうん每年まいとし募兵ぼへいぎんろく千兩每年有挖河銀六千兩實收在庫約有二十餘萬兩...必要ひつよう殫力きゅうおおやけつきこころ摉括...」「戶部とべしゃくうつり咨臣部將ぶしょう浙直こげかて及浦こうくらたむろかてかくあらためおりぎんりょうつきあらためきたおこりたかし餉」「兵部ひょうぶ尚書しょうしょおう永光ながみつくつがえちぇてい秀助ひですけこう請催各省かくしょうかけかんしばただしぎん兩得りょうとくむねしばはいじょうきょうきゅう需時こくなんなる著作ちょさくそくしん其百官柴薪既捐助大工宜行」「じゅんてんいん沈演疏稱ぜんため福建ふっけんみぎぬのせい使はんつかさ西にしゆう備用ぎんさんじゅうあまりまんじょこうとくむねちょこうさくそくかん會同かいどう該撫按盡すうおこり以助大工だいく」「おうてんじゅんなでいちさぎげんさんくれ長江ちょうこう盜賊とうぞくみみずくちょううみぬすめ縱橫じゅうおうまた紛紛ふんぷん嘯聚こうとしきょうずみ海防かいぼうぜにかてやめはた貯一じゅうまんさん千兩及續收一萬五千四百餘兩盡數解進助工向使協濟」
  165. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅうなな
  166. ^ さきばちはじめ》:「じょまさる,浙產也。占居せんきょ京師けいし,倡封疆之,以殺楊、ひだりとくちゅうけん歡心かんしんよしさん考察こうさつろうねん躐躋尚書しょうしょ,匯緣とく大工だいくかつめつぜにかてさん受銅しょうあつまかない惜薪內庫ぎんじゅうまん。」
  167. ^ たかしただし朝野あさのおさむだいいちかん》:「大化たいかはじめ以攻ぐま廷弼ためこび璫贄すんで而逢むかいひろほろ使つかいだい肆其はい擠之毒手どくしゅ,夤綠とく大工だいくにちたてまつちゅうけんしょくわらいかつげんこうぎんさん最後さいごわたし受銅しょうあつまかない,挪借惜薪ぜにかてじゅうまんりょうはらいちゅうけんやめれいあいだじゅう。」
  168. ^ あかり—閹黨でん》:ひろしんひだりふくれきこうひだりみぎさむらいろうすめらぎきょく殿どのなり尚書しょうしょむさぼほしいままちゅうかしこまたいや。」
  169. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「ぎゃく用事ようじのりにしきころもどうはんため廝飬くつどういたりみつるせんみつるひゃく,其糜金錢きんせん而濫名器めいき,莫此ため甚。」
  170. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「よりどころ主事しゅじちょうけんごく查下粮廳さつ,萬曆四十八年錦衣衛官旗等項僅一萬七十七百六十餘員名,ぎゃく璫亂せい以來いらいさんよん年間ねんかんぞういたりさんまんろくせんさんひゃくろくじゅうあまりいんめい,此前ぞういちまんはちせんろくひゃくあまりいんめいさいささえまいじゅう萬有ばんゆうぶんおもえいんたくみかんさつ僅有ななひゃくじゅうめいいまぞういたりせんひゃくはちじゅうはちめいさいささえまいさんまんせき。」
  171. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「くらじょう搃督蘓茂しょうげん在京ざいきょう官員かんいんささえりょう祿ろくまいおおとり臚寺たい俸序はん天啟てんけいよんねんじゅうがつさついちひゃくななじゅうさんいんいたりちゅうけんせいとげぞういたりひゃくじゅうなないんまい歲費さいひまいよんせんゆうさつひらききゃくちぇしょせい甚眾,其為奸党おかせ濫無うたぐ,請賜查汰,したがえこれ。」
  172. ^ あかり.こころざしだいじゅうしょく貨三》:「南京なんきん內庫頗藏金銀きんぎん珍寶ちんぽうちゅうけん矯旨すすむとう竊一そら。內外匱竭,とげいたり於亡。」
  173. ^ 天啟てんけい實錄じつろく》:「ちんきょく以來いらいふかおもえ,而有ぎゃくあくちゅうけん擅竊國柄くにがら,蠹盜內帑...」
  174. ^ たまきょうしんたんまききゅう》:「ちんまたおもえちゅうけんとうとめ窺攘名器めいき紊亂びんらんけいあきらはたわが祖宗そそう蓄積ちくせき貯傳こくめずらしたから金銀きんぎんとうぶつともぬすめ竊,いくいたりいちそら。」「また合同ごうどうきゃくはた內府財物ざいぶつじょう輿こしふく祖宗そそうあさ歷代れきだいでんこく鎮庫めずらしたかられい侄魏りょうきょうあずかきゃくおとここうこくきょう搬盜いちそら堆積たいせき私家しかはまたかしとうたてまつむねしょうぼつかくしろ陸續りくぞくしん內,さつせきよりどころ。」
  175. ^ たまきょうしんたんまきじゅう》:「またごうだいちょうたかしきもはた祖宗そそう內府ひゃくねん蓄積ちくせきくら貯傳こくめずらしたから金銀きんぎんとうぶつつうどうぬすめいちそらとうこうむせきぼつさきもちいだい騾車ろく輛,なみ扛夫無數むすう每日まいにちよる搬運やすし。」
  176. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅうはち
  177. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅうろく
  178. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅう
  179. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅう》:「けいきゅうごとちゅう兆先責成新輔,ことすめらぎじょう慎重しんちょうまいぼく,簡三新輔臣而任之語曰急...こん天下てんかまたきゅう甚,へいきゅう、餉窮、みんきゅうざいきゅうすくいきゅうへん莫若どおり...」
  180. ^ ささえそう议—题覆きょうちょう张条议疏》「いたり潼關一路為秦晉要途,龍車りゅうしゃ一寨當秦楚要害,商賈しょうこ輻輳ふくそう貨物かもつうろこしゅうあなどう便びん於營いき榷稅,えき於取みつるぜい大使たいしがくしつらえやめひさ歷數れきすうじゅうねんみんしょう厲 。 天啟てんけいななねん,偶緣ちぇたかし擅權,おん商賈しょうこ致令潼關、咸陽、大慶たいけいけいおおとりしょうかんちゅう、臨洮、西安しーあん三原みはらあいだ一切いっさいむくいやめ,而商賈熙攘之あまり不用ふよう以佐國家こっか 匱乏,まただいしつ筭矣」
  181. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅうよん》:「浙直とうしょ商人しょうにんおうもととう以鄚しゅうくすりおうびょうしょうぜいこうむしょうしんそうめん請許捐資けんぼう以彰じんもとぼうめい顯德けんとくりゅうかおる
  182. ^ ささえそう议—诰勑粤西あきらすうおこりかい辽饷疏》:「しょうろくまんきゅうひゃくあまり两,前任ぜんにん廵抚なんすすむ设处かく库之积余,めい为短饷;抽扣かくやくこうしょくめい为长饷。疏题なぞらえ,抵兌てん启三、よんろくななねん辽饷,なみ。」
  183. ^ とく庆州こころざし》:「よんねん增田ますだ赋,亩加银ななりんきさき二年总督何士晋以杂税抵补。」
  184. ^ ささえそう议—诰勑粤西あきらすうおこりかい辽饷疏》
  185. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅういち
  186. ^ ちょう實錄じつろく》:「ちゅう朝政ちょうせいみだれけん於宦てらふとしかんおうさとしせいえびす良輔りょうすけそくこう宦魏ちゅうけんとうたてまつみことのりひがしらい,而其せんざいぎん蔘,さきごえ纔到,擧國きょこくしつしょく。」
  187. ^ ちょう實錄じつろく》:「また送別そうべつれいたん銀子ぎんすいちまんななせんりょう於詔使, 他物たぶつしょう, 而詔使なおかいいか, 促出ぱいぶんうえ知事ちじきん藎國請留うけどめ, みことのり使たい曰: "多謝たしゃ國王こくおう厚意こういただし欽限やめさこ, 敢遲悞, とくりょうきょう" うんみことのり使しょ回禮かいれいぎん、蔘等ぶつ, 不可ふかかちすう。 且每勒捧銀子ぎんすいちまんりょうひとひゃくきん, 而党至孝しこうしょささげ, また於兩使。」
  188. ^ ちょう實錄じつろく》:「みことのり使また眞珠しんじゅよんひゃくじゅうあまり箇, きゅうほん, おりぎんせんろくじゅうりょう, こく促納, 府中ふちゅうこれにん, あるゆう縊者。」
  189. ^ ちょう實錄じつろく》:「みことのり使いたしゅう, きゅう眞珠しんじゅひゃく箇, 使つかいおりぎんさんせんりょう, またもとめなま鹿しか本道ほんどうかんげん以倉そつなん, のりみことのり使令しれいおりぎん, 厥數甚多。」
  190. ^ ちょう實錄じつろく》:「さくちょううし/みことのり使いた開城かいじょう, めい以開讀禮, しるしさくやめおくぎんいちまんせんりょう, なおゆう不滿ふまん, 儐使やく以到きょう添給。」
  191. ^ うけたまわせいいん日記にっき》:「ひとしさんねん6がつ11にち,以戶曹言けい曰,天使てんしもとめ請未及應ふくしゃ幾許ここらといけいごとつてきょう矣。とらがわいちひゃくちょう內,やめきゅうじゅうよんちょうひょうがわいちひゃくちょう鹿しかがわいちひゃくちょう大倭おおやまとがたないちひゃくくちしょうやまとがたないちひゃくくちしろからむしぬのひゃく疋,彩花あやかせきいちひゃくだて弓子ゆみこいちひゃくちょうのりやめためじゅんきゅうぎん粧刀ひゃく內,さんじゅうやめきゅう,其餘そくためはんほんしょくためはんやまと小刀こがたな追給ついきゅうごとげんのりかれまた肯許,すず粧刀よんひゃく內,やめきゅうひゃくきゅうひゃく,此則旬日じゅんじつ內,けつなん造作ぞうさく,其中さいなんとく而切もとめしゃ,乃海いぬじん海獺らっこがわ,而未のう覓得,かばがわまた以斑ただれゆう文者もんじゃもとめ,而亦覓得,ぽうため渴悶矣。」
  192. ^ うけたまわせいいん日記にっき》:「ひとしさんねん6がつ10日とおか天使てんしもとめ請之ぶつ,催督きゅう於烈,而不じゅん其數,のり輒生嗔怒,とくやめ措備以給,けいたん內,づけしるべ以啓矣。」
  193. ^ ちょう實錄じつろく》:「りょうみことのり使いか贈物おくりものうすりゃく, はたよくはつかえ, うえうけたまわむねきん尙憲, 請留うけどめ副使ふくしえびす良輔りょうすけ面責めんせきやくかん, 多發たはつ不遜ふそんげん, 且曰: "おれ內官, 當行とうこう無知むちこと。 且以此語, かいつげ國王こくおう" うん上使じょうしおうさとしせい, ざいはた無言むごん, 副使ふくしいかいい上使じょうし曰: "こうなんちょうとくげん耶?" 上使じょうし曰: "われほんくちども, 及發おおやけさきげん, われ以是默然もくぜん" うんぶた上使じょうし一言ひとこと及於徵求ちょうきゅう, 而受しょおく, あずか副使ふくしこと, ぶたためじんいつわり。」
  194. ^ ちょう實錄じつろく》:「副使ふくしえびす良輔りょうすけ, いかれいたんうすりゃく, 踏破とうはえんぜんうえれい曹判しょまことけん, 往解其怒。」
  195. ^ ちょう實錄じつろく》:「からしれい諸道しょどうごとよんゆいおさむぬのいちひき上納じょうのう,,ぶたため接待せったいみことのり使也。 はつ曹請ぎょう三結收布之令,うえ以爲みんきゅうざい竭,じゅう以饑あら,乃令ゆいおさむぬののり曹又請四ゆいおさむぬのうえとくやめしたがえこれみん甚怨。」
  196. ^ ちょう實錄じつろく》:「うえねんみことのり使, きょうちゅう所用しょよう銀子ぎんすじゅうまんななせんりょう人參にんじんせんいちひゃくきん, 其他各種かくしゅ需用じゅようもの, ごく其浩だい。 」
  197. ^ ちょう實錄じつろく》:「黃海こうかいかんけんつきおのれはせけい, ごくひねみことのり使むさぼ黷無いやこれじょう, 且言: "本道ほんどう所用しょよう銀子ぎんすかず, いくいたりまんりょう, りつしろだつ商賈しょうこ。 請令該曹打算ださん, かえつぐなえ其戶。" 曹從りゃくつぐなえこれ, 商人しょうにん怨。」
  198. ^ ちょう實錄じつろく》:「平安へいあんかんつかさ尙吉はせけい曰: "いましゃみことのり使去來きょらい, 本道ほんどうようぎん, つうどもまんはちせんいちひゃくはちじゅうりょうへいきょうはちねん, 民力みんりょくすんで竭之, ゆう此前古所ふるところへん, 民情みんじょう駭異, かえり朝廷ちょうてい, つぶせこれ患, あさそくゆう。 請令かん餉使, けいげん本道ほんどうみつぐまいり" うん
  199. ^ ちょう實錄じつろく》:「うえ曰: " さく接待せったいすり鍊, のりじん蔘太, おそれ民力みんりょく不能ふのうこらえ也。" 知事ちじ廷龜曰: "接待せったい天使てんしぶんまわし, こん不同ふどうのりただゆうささえきょうこと, こんのりまたゆうぎん蔘之へい, しょうくにぜいなんささえとう廢朝はいちょうりゅう、楊天使てんし, 雖曰學士がくし, 其時所用しょよう, いたりななまんりょう, きょういまふとしかん乎? 聞二太監通賄數萬銀於魏忠賢, はばか越海こしうみこれぎょう, 而跋涉ばっしょうまんさとしゃ, 其意ゆうざい昨日きのうすり鍊之すう, また不足ふそく也, はずかしめこく患, ふかおもんばか也。" じょう曰: "民力みんりょく竭矣, 十分じゅうぶん思量しりょう, おもんみ以省へい爲事しごと可也かなり。"」
  200. ^ ちょう實錄じつろく》:「みことのり使在京ざいきょう, よく銀子ぎんすせんりょう, かわひと蔘五ひゃくきん, 曹判しょ沈悅, 請令開城かいじょう貿給。 留守るす閔聖ちょう, けい所出しょしゅつ, とげ逐戶勒收, しゅう繫滿ごく, 怨呼てってん。 及詔使いたり, 枰納じん蔘五ひゃくきん, そく招譯かんちょうあやちゅう曰: "前日ぜんじつざいおうきょう, 凡所かわ貿之ぶつ, みな交還げんぎん, 國王こくおうけいきゃく也, いまいた此處ここら, 交還。 かえげんぎん, のり天使てんしためかい賣人ばいにん也", かえげんぎん, いちこれにん, ごう哭道じょう曰: "あに中原なかはら, ゆう大賊たいぞく?" うん。」
  201. ^ ちょう實錄じつろく》:「りょう使つかい始發しはつぎょう。 其所かんしきひね器具きぐみな取去とりさ。」
  202. ^ ちょう實錄じつろく》:「みことのり使いたわたりすいしょ, たく以無きょう, 必折ぎん以捧, 曰無きょうところけいしゅうぐん, 一時いちじとろけはい。」
  203. ^ うけたまわせいいん日記にっき》:「こん天使てんし我國わがくにぶつりょくやめ竭盡矣。うえ曰,不知ふちざいまえまたゆう如此こと,而天使(おうさとしせいえびす良輔りょうすけ)かた肆貪よく不能ふのう周旋しゅうせん而防これしゃまた我國わがくにぶんまわし耶?昉曰,卽今そっこん中原ちゅうげんやめへん,如古もとこく天使てんしぴつえだすみひのとまた取去とりさ,及至今日きょうはじめゆうちょうさく無理むりきょ矣。」
  204. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅういち》「よりどころそう塌房いちまんきゅうひゃくさんじゅうあまりあいだ...」
  205. ^ 381ねんまえ北京ぺきんおうきょう厂大ばく炸之谜 僵尸"裸体らたい". 中国ちゅうごく网. 2007-07-30 [2014-02-17]. (原始げんし内容ないようそん于2020-08-08) ちゅうぶん. 
  206. ^ しゅぶんきたぎょう
  207. ^ 曹珖《あいだおもえ往事おうじ》:「さき三朝みささかなめてんなりなずらえざいさんとうだい闢、えい戍、戍各若干じゃっかんいたりおうきょうしょうわざわい璫多ふるえおそれ,而《ようてんわざわいかい。」
  208. ^ しゃくちゅうこころざし》:「いたりがつはつろくにちよしおうきょうしょうへん,(えいさだ)懼而もとめ退ずさからだいぬいかた肯放,嗾逆けん先帝せんていてん 催永さだしょういよいよそく。」
  209. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅう》:「つちのえとら戶部とべ尚書しょうしょおこり元請もとうけ賑恤しんじゅつおうきょうしょう被災ひさいじん,乞發だい內銀ろくせんりょうとくむねおうきょうしょう一帶居民災傷甚苦,賑恤しんじゅつむべゆうよりどころろく千金せんきんあしよう茲特發御はつぎょぜんぎんいちまんりょうしる西城さいじょう會同かいどうかん一員照依查明被災人戶數目,酌量しゃくりょう攤,逐一ちくいちとう官給かんきゅうつとむ使ひとし沾實めぐみ,以昭ちん敬天けいてんあいみんいたり。」
  210. ^ りゅうこころざしつよし天變てんぺん與黨よとうそう天啟てんけい六年王恭廠大災下 てきあかりまつ政治せいじ
  211. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅういち》:「とくむねこん疆圉やすし,你部のう悉心うん籌,やす攘,そくがかりおさむしょうじつせいなに必合もとめやめ? きょう進言しんげん有體ありてい大臣だいじんゆうむべしょうまき,疏內以危げんげき聒,あきらかなめくんためくびてきしゅうときわむ。」
  212. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅう》:「みずのえうまひじりさとし上天じょうてん仁愛じんあいいちがつさんしめせ警戒けいかいちん夙夜ゆう惶,敬天けいてんいか...你每大臣だいじんにんじゅう股肱ここうみちたかし忠直ただなおわかみなごとにんくん...」
  213. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅういち》「おのれとく察工ほどちぇていしゅう楊夢袞俱以天變てんぺんちんげんゆうくらあい指摘してきしゃ疏求
  214. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅうさん》「ちょうしげる袁鯨さい紏塚しんおう紹徽...とくむねよりどころそうおう紹徽贓私狼藉ろうぜきちょかんむりたいあいだじゅう。」
  215. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅうさん》「とくむねじょ兆魁縱容司官吏書受賄賣法,ぜん不知ふち愧,而強餙辯...ちょかんむりたいあいだじゅう
  216. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅうさん》「太子たいしふとしでん兵部ひょうぶ尚書しょうしょおう永光ながみつさい乞休。(あきら熹宗)いのちきゅうでん以歸。」
  217. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅうろく》「だい學士がくし顧秉けん屢乞きゅううえしたがえしょ請...」
  218. ^ しゃくちゅうこころざし》:「先帝せんていななねんがつはつろくにち以後いご聖體せいたい便びんさとしいたりろくななはちがつあいだそうはなれ榻。」
  219. ^ しゃくちゅうこころざし》:「くるるしん霍維はな聞之,とげさんぎゃくけんかたくらい攘功さくしんけんじせんかたれいいんなみふけほう器具きぐぎゃくけんとげちょかん王朝おうちょうようあきら維華はらさま用金ようきんづくりなべこしきづけくすりぼう提督ていとくおう守安もりやすひとしあきらかたふけすすむふとし醫院いいん使つばさ儒等唯唯いい聽從ちょうじゅう,莫敢攔阻。先帝せんていはつしんふく數日すうじつまたさと甘美かんび,凡有あましゃそく頒賜おうからだいぬい等分とうぶんいん。」
  220. ^ しゃくちゅうこころざし》:「此之せい恙日ぞうげんにちやや浮腫ふしゅしょくすりしんえき失效しっこう。」
  221. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「いたり八月熹宗疾大漸,じゅういちにちいのち召帝(當時とうじ為信ためのぶおう)。」
  222. ^ しゃくちゅうこころざし》:「天啟てんけいななねんはちがつ先帝せんていやめひさじょう先帝せんていわたるとめさい,於八月十一日召今上至御榻旁,玉音ぎょくおん亹亹やめ。」
  223. ^ たかし祯长编》: うけたまわ召乃にゅうといやまし,熹宗憑榻顧帝曰:「らいわれおとうと當為とうい堯舜」。 みかど懼不敢應,良久よしひさそう曰:「しん死罪しざい陛下へいかため此言,しんおうまん。」熹宗慰勉いたりさい曰:「ぜん中宮ちゅうぐうちゅうけんにん也。」みかどえき懼,而與 ちゅうけんしょうろうわか甚溫,もとめ
  224. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつだいななじゅうかんたかしただし治亂ちらん》: 天啟てんけいななねんはちがつうえどきちゅうけんちょう甚,中外ちゅうがい危栗。 うえ召信おういれさとし以「われおとうと當為とうい堯舜きみ」。 しんおう惶恐敢當,ただしうん:「陛下へいかため此言,しんおうまん。」しんおううえくずし
  225. ^ しゃくちゅうこころざし》:「じゅうにちえいさだ御前ごぜんといやす畢,いた忠義ちゅうぎどうちょくぼう,於衣そで內取しろれんよんだいはないち,內有鮮血せんけつ一縷いちるちょうすんあまり,闊さんよんふんにくにくたんたんくも萬歲ばんざいじいはなちゅう出來できしゃ凝結ぎょうけつ如筋,とうあずかちょう紹呂及若とう遞視ゆう嗟嘆さたんなみだ落者。」
  226. ^ しゃくちゅうこころざし》:「天啟てんけいななねんはちがつじゅうにち先帝せんていまろうどてん
  227. ^ あかりしょ》:「熹宗にん阉人,あさ纲乱,くに颓。」
  228. ^ あかり讲义》
  229. ^ たかしただしのころく
  230. ^ さきばちこころざしはじめ
  231. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつだいななじゅう一卷魏忠賢亂政》
  232. ^ しゃくちゅうこころざし》:「立秋りっしゅうにち,戴楸どもはちすほおけはす,曬伏きょうしょう茉莉まり、桅子らん芙蓉ふようとうはな先帝せんていあい鮮蓮またこうよう鮮西ふりしゅほろ加鹽かしおあぶよう。」
  233. ^ しゃくちゅうこころざし》:「先帝せんていさいようあぶはまぐり蜊、鮮蝦、雞腿及筍雞脯,また海參いりこふぐぎょはぜぎょすじこえ雞、豬蹄すじども燴一しょ恆喜つねよしよう焉。」
  234. ^ 天啟てんけいみや》:「うえようあぶはまぐり、鮮蝦、つばめさいはぜ翅諸海味かいしゅうじゅうしゅきょうなますいちしょしょく。」
  235. ^ 天啟てんけいみや》:「きゃくこうむうえしょう甚渥,まい以滋あじえつじょううえ讚歎さんたんやめ。」
  236. ^ しゃくちゅうこころざし》:「每日まいにち先帝せんていしょ進之しんのぜんみなきゃく內官づくり辦,めい曰:ろうふとしぜんせい頗甘焉。」
  237. ^ しゃくちゅうこころざし》:「按先帝せんていしょ進之しんのしゅ,曰秋しろ,曰荷花蕊かずい,曰佛しゅ,曰桂はな醞,曰菊はな漿,曰芙蓉ふようえき,曰君子くんし,曰蘭はないん,曰金ばん名色なしきろくななじゅうしゅみなさきあさきゅう戚臣もちでんほうたすくぎゃくけんがい宅造たくぞうべん,而轉於御茶房さぼう進之しんの。」
  238. ^ しゃくちゅうこころざし》:「ぎゃくけんこう蹴鞠けまり跑馬。先帝せんていこうはせこうおどけ。」
  239. ^ 天啟てんけいみや》:「うえこう閱武おどけ,于懋つとむ殿どのしつらええんえんじたけ忠武ただたけ傳奇でんき》。いたりふうののししんひのきちゅうけん避之。」
  240. ^ 天啟てんけいみや》:「うえあずかちゅうけん俱好へんそちごと以馬すすむ御馬おんまかんどくもり于前だい。」
  241. ^ 天啟てんけいみや》:「みかど習舞刀劍とうけん于乾きよし殿どのちゅうよる不休ふきゅう。」
  242. ^ しゃくちゅうこころざし》:「またしるべ先帝せんていざい宮中きゅうちゅう習放鳥銃ちょうじゅう天啟てんけい元年がんねんしつ月日つきひゆう御前ごぜん煖閣おうすすむざい先帝せんていまえじゅうじゅう炸,はたすすむ左手ひだりて蹤,いく危聖あらためますおうすすむてんあん草場くさばじょう。」
  243. ^ 天啟てんけいみや》:「みかどこうはさみだんうまじゅう近侍きんじざい宮中きゅうちゅうまたみな習之。ねんゆうだん殿どのおうすすむざい御前ごぜんじゅうふるえきれ落左しゅいく危聖躬。」
  244. ^ あかり.まごうけたまわそうつたえ》:「みかどこう察邊じょうれいひがししょうひとまい關門かんもんごとじょうそうほうめい曰「較事」。」
  245. ^ 天啟てんけいみや》:「ちゅうけんしるべじょう以武,每月まいつき慫恿みさお內兵,しょう賚甚渥」
  246. ^ あかり.ちゅうけんでん》:「ちゅうけん乃勸みかどせんたけ閹、ねり火器かきため內操,みつゆいだい學士がくし沈紘ため援...ちゅうけんえき增置ぞうち內操まんにん,衷甲出入でいりほしいままためしいたげ。」
  247. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきさんじゅう》:「上諭じょうゆ內閣ちんらんあきら內,ゆう南道みなみどうりゅうおおとりそうやめ內操,ただし內操わたるろくぜにかてしつらえせい,引郊祀國學こくがくなみ朝夕ちょうせきだん。謁陵しょだい典禮てんれいざいそくきょう東西とうざい交變さい,其內備原ため拱護ちん躬,肅清しゅくせいむらさききんゆう他意たい,仍乃れんあきらるい牘欲內操,意欲いよくなんため? 且屢ゆう諭旨ゆしあらわ遵,必有主謀しゅぼうこれにんりゅうおおとりしゅうとふかきわむきょうとうでんしめせかくかん以後いごさいゆう瀆聒てき定行さだゆきじゅうしょけつ姑息こそくとくさとし。」
  248. ^ けいろくあきらきたりゃく》(ちゅうけん怒張どちょうきさき):「ちゅうけん誣后ちちはかりごとりつしんおうよくきょう大獄たいごくおうたいいぬい曰:うえ凡事憒憒,どく兄弟きょうだい夫婦ふうふあいだすすきだつゆうへん吾輩わがはい無類むるい矣。」
  249. ^ さんかき筆記ひっき》「熹宗はつ即位そくいうえなおざいややよわいゆるがせとい曰:這個かんわが做得? 熹宗曰:わがいくねんとう あずかなんじ做。ひと以其げんため諶。”
  250. ^ たかしただしみや》 「熹宗だいややぜん數日すうじつうえ跪床ぜんといやすいんごとおとうとおとうとなん瘦?須自じゅう。」
  251. ^ 《咏史らく》:「おう懼,もとめ禱:ねがい以身だいあずかちゅうけん,涕泗よこりゅう,熹宗聞之曰:おとうとおとうとあい。」
  252. ^ きのえさるあさことしょう
  253. ^ あきら熹宗实录》まき5:おっとちがやいばら阶,光照みつてるみかどとく,卑宫陋室,无间禹功。いまいちまちせき也,而费じゅうねん开斫,劳数万夫ばんぷ推挽すいばん,孰若りょう减其阔厚,轻省以奏功そうこう;顶石だいしゃまた为量减,于制无碍。いたりわかはなせききむ砖采运费烦,铁力とう召买艰难,以别项酌抵……。とくむね议。おもんみがいせき、顶石尺寸しゃくすん仍照旧例きゅうれい
  254. ^ しゃくちゅうこころざし》:「凡奏文書ぶんしょときかんごとぱいみな屏息へいそくとおさむらい敢近まえいたり一本いっぽん一本いっぽんこうそう姓名せいめいとうぎゃくともしゃおうからだいぬい也;幫助ぎゃくけん查姓めいえいさだ石元いしもとみやびぬりぶんさんにん也」
  255. ^ しゃくちゅうこころざし》:「凡內衙門及閣揭擬ひょう一應いちおうちゅうむねそうくさしゃおうからだえいさだぬりぶん輔也。」
  256. ^ さきばちはじめ》:「熹廟ちょうひろしゆう娠,しきみやさつれいやめ畢,ゆるがせとくざいきゃく,矯旨はた宮人みやびとつきくだりへい逐,絕食ぜっしょく而死,かわ其封ごう,如宮じんれい焚化。たたりただしふく其封ごう。」
  257. ^ くに榷》卷首かんしゅいち げん潢。註:字體じたい模糊もこ無法むほうぶんべん「媖」ある「嫫」
  258. ^ あかりしょまきじゅういち
あかり熹宗
出生しゅっしょう于:1605ねん12月23にち逝世於:1627ねん9がつ19にち
統治とうちしゃあたま
前任ぜんにん
ちち明光めいこうむねしゅつねらく
中国ちゅうごく皇帝こうてい つぎにん
おとうとあかりおもえむねしゅゆかり
明朝みょうちょう皇帝こうてい
1620ねん-1627ねん