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崇禎帝 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

たかしただしみかど

维基百科ひゃっか自由じゆうてき百科ひゃっかぜん
あかりおもえむね
明朝みんちょうだい16だい17にん皇帝こうてい
統治とうち1627ねん10がつ2にち1644ねん4がつ25にち殉國じゅんこく
(16ねん206てん
前任ぜんにんあかり熹宗しゅゆかりこう
つぎにん明朝みょうちょう灭亡
弘光ひろみつみかどしゅゆかり崧(南明なんめいせい权)
きよし爱新觉罗·ぶく临(清朝せいちょう
もうかきみしゅ慈烺
しんおう
統治とうち1622ねん-1627ねん
前任ぜんにんあきら熹宗はじめふう
つぎにん繼承けいしょうだいみつる
出生しゅっしょうまんれきさんじゅうはちねん十二月じゅうにがつじゅうよんにち
(1611-02-06)1611ねん2がつ6にち
大明だいめいきたちょく顺天むらさき禁城きんじょう
逝世たかしただしじゅうななねんさんがつじゅうきゅうにち
1644ねん4がつ25にち(1644さい—04—25)(33さい×
大明だいめいきたちょく顺天むらさき禁城きんじょうまん岁山(いま北京ぺきん西城にししろ景山かげやま公園こうえん
やすそう
おうきさきそうれつ皇后こうごう
すめらぎとうと袁貴ひとし

きょう7にん
おんな
きょう6にん
年號ねんごう
たかし
谥号
绍天绎道刚明つとむ俭揆ぶん奋武あつしじん懋孝れつ皇帝こうてい南明なんめい谥)
欽天守道もちさとしあつしあつし弘文こうぶんじょう武體ぶたいじん致孝はし皇帝こうてい清朝せいちょうはつおくりな
そうれつ皇帝こうてい清朝せいちょうあらため谥)
庙号
おもえむね[1]弘光ひろみつはつうえ)→
あつしそう弘光ひろみつあらためじょう)→
むねりゅうたけしじょう
ふところむねきよし廷上,びょうごう
父親ちちおや明光めいこうむねしゅつねらく
母親ははおやこう皇太后こうたいごうりゅう淑女しゅくじょついみこと
皇宮こうぐうむらさき禁城きんじょう
簽名:

あかりおもえそうしゅゆかり(1611ねん2がつ6にち—1644ねん4がつ25にち),とく[2]明光めいこうむねだいあかり熹宗异母おとうと[3]中国ちゅうごく明朝みょうちょうてき16及最きさきいち皇帝こうてい,于公もと1627ねんいたり1644ねん在位ざいいねんごうたかし”。

しゅゆかり检在其兄弟きょうだいちゅうはいぎょうだいさんさい,其母りゅうざいときため太子たいしてきひかりむねれいつえころせねんようてきしゅゆかり检随そく交由庶母西にし撫養むやすうねんあらためよし另一庶母东李撫養むやいたり成人せいじんきさき於天启ねん(1622ねん其兄ちょうあかり熹宗さつふう為信ためのぶおう。1627ねん9がつあきら熹宗くずしゆかり于没有子ゆうこ嗣,しゅゆかり检受遗命于同がつのぼりはじめつぎねん改元かいげんたかしただし[4]

たかし祯帝一生いっしょうみさおろうにち以繼よるてき批閱そうあきら,节俭自律じりつきん女色じょしょく[5]たかし祯年あいだてきつとむ奮,あずかまんれき天啟てんけいあい较,朝政ちょうせいゆうりょうあかり显改观。即位そくいはつ就大りょく铲除阉党,曾ろくしも诏罪おのれ,惜其せいせい猜忌さいきうたぐ畢生ひっせいどく攬大けんぜんあずか官員かんいん放心ほうしん合作がっさく[6]无法挽救はしこう穷途末路まつろてき明朝みんちょうたかし祯时国内こくないみんへんあずか自然しぜん灾害不断ふだん,关外きさききんせい权虎视眈眈たんたんやめ处于ない外患がいかんてき境地きょうちたかしじゅうななねん(1644ねん),おこり义军领袖なりおさむやぶ都城みやこのじょう北京ぺきんたかし祯帝于四面楚歌之中在皇宫北侧的すすやま殉國じゅんこく[7],终年さんじゅう岁(しゅうとし33さい[8],其所统治てき明王みょうおうあさ也随そく灭亡。

たかし祯帝きさき南明なんめいせい权予其庙号おもえむね」,きさきあらためあつしむね」、「むね」,南明なんめい弘光ひろみつみかど为其じょう谥号「绍天绎道刚明つとむ俭揆ぶん奋武あつしじん懋孝れつ皇帝こうてい」。きさき清朝せいちょうつい谥其「钦天守道もちさとしあつしあつし弘文こうぶんじょう武体ぶたいじん致孝はし皇帝こうてい」,庙号「怀宗」;きさき庙号,あらため谥为「しょうれつ皇帝こうてい」,其被そうおもえりょう[9]

人物じんぶつ生平おいだいら[编辑]

早期そうき经历[编辑]

しゅゆかりけんせいまんれきさんじゅうはちねん十二月じゅうにがつじゅうよんにち(1611ねん2がつ6にちとらてき父親ちちおや明光めいこうむねしゅつねらく雖早ざいまんれきじゅうきゅうねん(1601ねんだてため太子たいしただしひかりむね父親ちちおや明神みょうじんむね其實いちしんそうりつさんしゅつねまことため太子たいしいんため群臣ぐんしん國本こくほんそうざい勉強べんきょうじゅうりょうしゅつねらくもうかきみてきたからしゅつねらく一直得不到明神宗歡心。しゅゆかりけんはは刘氏のりしゅつねらくてき婢女またとくしゅつねらくてき歡心かんしん祖父そふ討厭父親ちちおや父親ちちおや討厭母親ははおや所以ゆえんしゅゆかり检幼ねん并不幸福こうふく岁时,しゅゆかりけん母親ははおやりゅうとくざい父親ちちおやしゅつねらくれいつえ杀,これはたしゅゆかり检交よし庶母西にし抚养。すうねんきさき西にしなまりょうじょ儿,あきらかん过来,あらためよし另一庶母东李抚养いたり成人せいじん。及至しゅゆかり检长だいざいてんねん(1622ねん),當時とうじやめつぎためみかどてき哥哥あかり熹宗しゅゆかりこうふう为信おう,刘氏ついふう为贤

てんろくねん(1626ねんろくがつあきら廷选しゅう为信王妃おうひ十一月じゅういちがつしゅゆかり檢出けんしゅつきょしんていつぎねんがつはつさんあずかあまね正式せいしきかんこんしゅゆかりけんいんためためじんさとしさとしつくり言笑げんしょうまた曾經ためりょうおぎなえ邊境へんきょう軍需ぐんじゅまた辭去じきょ自己じこ贍田てき地租ちそぎんりょう[10]而朱よしけんざい做信おう便びんゆう很好てき名聲めいせい[11]しゅゆかりけんかえしんおう就遭到ちゅうけん猜疑さいぎ而時つね深居ふかいしんおうてい不出ふしゅつしょうびょうあさ[12]

とう上帝じょうてい[编辑]

天啟てんけいななねん(1627ねん),ねん僅廿さいてきあかり熹宗しゅゆかりこうくずれゆかり於朱よしこう三名兒子皆早夭,しゅゆかりけんさく为他ただ一在世的弟弟繼承皇位。當時とうじしゅゆかりけんねんじゅうろくさいためたかしただしみかど[13][14]最初さいしょちゅうけん曾在熹宗びょう逝前打算ださんたれすだれ攝政せっしょうただしざいほどこせ鳳來ほうらいてき反對はんたいやめきゅう[15]後來こうらいちゅうかしこまた一度打算借助提督忠勇營的太監塗文輔發動政變,ただしちぇていしゅう以「おそれがいゆう義兵ぎへいすすむとめ[16][17]しゅゆかりけんざいもり期間きかんごく謹慎きんしん聽從ちょうじゅうりょうけいあによめちょう皇后こうごうてき建議けんぎため避免ひとどく毒害どくがいいれ宮前みやまえ偷偷丈人たけとしゅう家中いえじゅう製作せいさくてきむぎもちぞうざいころも內,ども皇宮こうぐうちゅう提供ていきょうてきにんなん飲食いんしょく[18][19][20]ちょくいたりしゅゆかりけん即位そくい閹黨かず朝野ちょうや官員かんいんだいちゅうけんはいぞうやめげん纷纷開始かいしためしさがせたかしただしみかどてき態度たいどちゅう賢也けんや惶惶懼而請辭任じにん職務しょくむたかしただしみかど雖心いやちゅうけん不動ふどう聲色こわいろたい其請ぬるむねまこと[21]後來こうらい陸續りくぞくゆう大臣だいじん楊維かき彈劾だんがい閹黨骨幹こっかん成員せいいんちぇていしゅうたかしただしみかどとく以借逐步そぎじゃくちゅうけんてき權力けんりょく[22][23]

天啟てんけいななねん(1627ねんじゅういちがつたかし祯帝ざい铲除ちゅう贤的羽翼うよくちぇてい秀之ひでゆききさき陸續りくぞくゆうちょうちゅう官員かんいんかずよしみきょうみつぎせいせんよしみちょう彈劾だんがいちゅうけんじゅう大罪だいざいたかし祯帝ずい後便こうびんちゅう贤贬いたり凤阳[24]いたりちょく阜城ちゅう贤得大勢おおぜいやめとげあずか一名太监自缢而亡[25][26]。此后たかしただしみかどまた誅殺ちゅうさつきゃく,逼崔ていしゅう自盡じじんなみひらたはん冤獄つい恤了許多きょた在天ざいてんけい年間ねんかんふとしかんちゅうけん逼害致死ちしてきひがしりんとう官員かんいん[27]あずか此同时,たかし祯帝また召回りょうさきあさ大學だいがくかん擔任たんにん內閣くび[28],并提拔了しるべせんりゅうすずとう進入しんにゅう內閣[29][30]また任用にんようりょうりゅうそうあまねおうひろし曹于汴なに如寵たかしまことますとうゆうひがしりんとう背景はいけいてき官員かんいん擔任たんにん朝廷ちょうてい主要しゅよう職位しょくいたかし祯帝也起ようりょう袁崇焕かけ兵部ひょうぶなお,赐予ひさしかたたからとくあざみりょうけんとくとう、萊、天津てんしん軍務ぐんむたくづけおさむ复全てき重任じゅうにん[31][32][33]

閹黨成員せいいん也在ひがしりん內閣主持しゅうもち開始かいしさがせかん爌和ひがしりん內閣本來ほんらいこうさがせじゅ怨」,いん而只提供ていきょうりょうよんじゅうにんさがせめいたんただしたかしただしみかどみとめため人數にんずうふとしょう而不だかきょう兩方りょうほうすうらいすうかいたかしただしみかど後來こうらいしたれいぎゃくあんざいぶんろくとうさんみちびけよう戴、頌美、ほこら頌、諂附とう),并把諂附ちゅうけんてき內侍ふとしかん也一并追究ついきゅう最終さいしゅう欽定きんていぎゃくあん中名なかのみょうれつりょうひゃくろくじゅうにん[34][35]。閹黨主要しゅよう成員せいいんちぇていしゅう顧秉けんなんじこうふとしかんえいさだひとし後來こうらい也被陸續りくぞくせきぼつ家產かさん,以助[36][37][38][39][40][41][42][43]

めん对困きょく[编辑]

たかしただし元年がんねん(1628ねんおこり中國ちゅうごく北方ほっぽうだいひでり[44]赤地あかじ千里せんりすんくさせい,《汉南续郡こころざし》记,“たかし祯元ねんちょんてんあか如血”,陕西年年ねんねんゆう大旱たいかん百姓ひゃくしょう流離りゅうりしつしょ天災てんさい以外いがい天啟てんけいすえねん以來いらい朝廷ちょうていざいちゅうけんらんせい出現しゅつげんりょうへいきゅう、餉窮、みんきゅうざいきゅうてきこまさかい[45]ただし財政ざいせい虧空巨大きょだい[46][47][48][49],而且地方ちほう也廣泛出現しゅつげん百姓ひゃくしょう流亡りゅうぼう盜賊とうぞくたかし斥」和民かずたみへん烽起てき情況じょうきょう[50][51][52][53][54]ちゅう賢也けんや造成ぞうせいきゅうへんあたり鎮拖かけぐん餉情きょう嚴重げんじゅうかく鎮拖のべいく個月かげつ以至十數個月軍餉的情況比比皆是[55][56][57][58][59]しるべ致崇祯皇帝こうていつよし即位そくい便びんようめんやすしとおへいへん[60][61]あざみもんへいへん[62][63]にしきしゅうぐんとうただれ攤子[64][65]

しゅゆかりけんためじん節儉せっけん[66][67][68]つとむ于政务[69][70]こと必躬亲[71]いた後來こうらいいん偶感ぐうかん微恙びよう”而临时传めん早朝そうちょう而遭辅臣批评たかしただし也會れんせわし自我じが檢討けんとうねがい治之はるゆきぬしためりょう解決かいけつあかり熹宗以後いご「帑藏そら虗」かずくらぞう如洗」てき局面きょくめん[72]たかしただしみかど聽從ちょうじゅう輔臣りゅうひろしくん建議けんぎ[73][74]任用にんようりょう畢自げん擔任たんにん戶部とべ尚書しょうしょ[75][76],推動「かく逋賦,とく屯田とんでんいむこうなり,汰冗そつとう工作こうさく,并修あらためりょう賦役ふえき全書ぜんしょかず成功せいこうぞう加商かしょうぜい增加ぞうか財源ざいげん[77]たかしただし初年しょねんてき財政ざいせい情況じょうきょういん而稍ゆう好轉こうてんせっしるまたざいひがしりん黨人とうじん瞿式耜推薦すいせん[78]起用きようくにはなため兵部ひょうぶさむらいろうきょうきょうえびすまさし成功せいこう「汰京ぐんきょおかせしゃよんせんじゅう餘人よにんあずか老弱ろうじゃくせんにんはららいきょう每年まいとしひらけささえまいいちひゃくろくじゅうまんせきくにはなぶししょういたりいちひゃくよんじゅうよんまんせき成功せいこう使とくきょう營「營帑とげひろし」、「えびすまさしだい釐」[79]またゆうかん此天けい以來いらいおかせがくきょ耗」てき嚴重げんじゅう情況じょうきょう[80][81]とく袁崇煥ため減少げんしょう軍費ぐんぴ支出ししゅつ保證ほしょう朝廷ちょうてい財政ざいせいのう長期ちょうき負擔ふたんたいあざみりょうとう、萊、天津てんしん進行しんこうりょう三次裁兵減餉,ていそうへいすうためじゅうまんさんせんいちひゃくはちじゅういんうまはちまんいちせんろくひゃくれいさんひき每年まいとしふししょう餉銀いちひゃくじゅうあまりまんりょう[82]

たかしただしみかどはやたいもうぶんりゅう溢額請餉ゆう不滿ふまん[83][84],袁崇煥逐ためさいへいげん餉而ざいせんりゅうすず默許もっきょ誅殺ちゅうさつぶんりゅう[85][86]ただしひさ後金あときん便びんへいぶん三路從繞道蒙古突破邊關,ころせにゅう京畿けいきだい肆擄かすめ人口じんこうざい帛錢かてしょうおのれへん,這不ただししるべちょうりつきょう滿まんかつらまごことぶきとう明朝みんちょう名將めいしょう先後せんごじんほろびさら直接ちょくせつ蹂躪破壞はかいりょうきたちょく地區ちくてき生產せいさん畢自げん整頓せいとん財政ざいせいてき努力どりょく[87]。如僅僅きんきんざいたかしただしねんじゅうがつまついたりじゅうがつまつため應對おうたい金入かねいれおかせ朝廷ちょうていみじかたん兩個りゃんこ月間げっかん就花りょう白銀はくぎん105まん1984りょう[88]後續こうぞく驅逐くちく後金あときん軍隊ぐんたいさら糜費なんさん[89]だいだい擴大かくだいりょうたかしただし年間ねんかんてき財政ざいせいかけこうきょうじょうてき百姓和大臣都因突如其來遭受戰禍而埋怨誹謗,ゆび袁崇煥是「たててきようへい」,たかしただしみかど本來ほんらい就討いや袁崇煥辦ごと獨斷どくだん專行せんこう,如今またざい暴怒後金あときんてき反間はんかんけい煽動せんどう而殺袁崇煥[90],這導致了大壽だいずとう遼東りゃおとんぐんざいおどろきこわこれつぶせひがしはし[91][92]後續こうぞくたかしただしみかど起用きようりょうとくだかもちじゅうてききゅうまごうけたまわむね招撫遼東りゃおとんぐん[93],并收ふく遵、えいよんしろ[94]しょう遵永大捷たいしょう。此外,ひがしりん內閣有東うとうりん背景はいけいてき高官こうかん也由於在おのれへんちゅう應對おうたいちから而在たかしただしさんねん陸續りくぞくたおせだい[95][96][97][98][99],此後たかしただし年間ねんかん內閣主要しゅようゆかり周延しゅうえんゆたかたいひとし薛國かんひとししゅせいちょくいたり滅亡めつぼう

あずか此同やめゆう一批官僚較早期便察覺出崇禎帝諸如急功近利、つよしふくようとうびょうれいりゅうそうあまね便びんしん諫說「しか(たかしただしみかど)ほどこうきゅうめんしょう而慕きんこう...にちしょぶんまわしぶんまわし於小利者きけもの理財りざい也。民力みんりょくやめ竭,つかさみのりつげ匱,而一時所講求者皆聚斂之術,みずひでりわざわいきず一切いっさい不問ふもん有司ゆうし以掊剋為循良,而撫せいぜっだい吏以催科ため殿どのさい,而黜のぼるこれほうほろび赤子あかごやすしとし矣」,河南かなん推官ひらけどお也進諫說「すめらぎじょうきゅう於求しょしんすくいきゅう...すめらぎじょうある以薦舉不當ふとううたぐ其黨徇...すめらぎじょうまた執奏しっそううつりうたぐ其藐こう...こんしょしん怵於さんばついむ一切いっさいおびせいあまりせいぎょうみん矣。みんきゅうそくえきあずかためらん...」[100]。此外,よりどころ韓國かんこく史料しりょうちょう實錄じつろく記載きさい,儘管たかしただしみかどざい剷除ちゅうけん,其名ごえやめあげ於中がい[101]人人ひとびとみとめため皇帝こうていひじりあきらはた中興ちゅうこう國家こっかただし事實じじつじょう其手下宮したみや宦、官員かんいん仍然むさぼふうなんとめ[102],而且たかしただしみかどためじん剛愎ごうふく苛察[103]頗為朝鮮ちょうせん君臣くんしんしょ詬病。

うち外患がいかん[编辑]

たかしただし元年がんねん陝西せんせい就曾いんため朝廷ちょうてい稅收ぜいしゅう而「ながれぞく大起だいき」,ふんかすめ鄜州、のべやすいた明年みょうねんしょぞくまた繼續けいぞくほしいままかすめせきちゅう[104]かたげん出現しゅつげん逃兵劫掠ごうりゃく涇陽[105]たかしねんがつためりょう減少げんしょう財政ざいせいひらけささえたかしただしみかどざいきゅうごとちゅうりゅう建議けんぎ顧韓爌、畢自いむひとしじん反對はんたい大力だいりきさいげん陝北えき[106][107]えき站兵なりいん而失业,也造成ぞうせい大量たいりょうえきそつしたがえぞく後來こうらい陝西せんせいりゅうぞくさら蜂起ほうき。另外,いんため朝廷ちょうてい長期ちょうきちゅうじゅうりょうごと而不ざい乎陝西にし薩爾滸之せんてきつぶせ兵長へいちょうとく朝廷ちょうてい招撫而流ほろびいた陝西せんせいのべ,這逼使後來こうらい大部たいぶ份落くさため寇,なりため明朝みんちょうてき一大いちだい強敵きょうてき[108]いたたかしさんねん(1630ねん),陝西せんせいまた出現しゅつげんだいひだる陝西せんせいめぐうま懋才ざい備陳だいひだるうえせつ百姓爭食山中的蓬草,よもぎくさどもかん,剝樹がわども樹皮じゅひどもかんただのうども觀音かんのんさい後腹あとばら脹而[109]たかしただしよんねんたかしただしみかど雖派じゅうまんりょうにぎわいずみわざわいみん[110]ただしうたぐはい水車みずぐるまたきぎ賊黨ぞくとう解散かいさん又重またしげしん聚集おこりらいところあららんゆう甚,けん中之なかのみんはんためぬすめいん饑饉ききん人心じんしん洶洶……しろ十里外皆是賊巢」[111]

たかしただしよんねん十二月じゅうにがつたかしただしみかどざいこう選科せんかどう官員かんいん開始かいし設立せつりつこうかく地方ちほう在任ざいにん官員かんいんちょう稅收ぜいしゅうてき制度せいど地方ちほう官員かんいんわか無法むほう徵收ちょうしゅうあし夠的せいぜい和金わきんはなぎん(うえきょういた內庫てきぎんりょう),就不能ふのう參加さんかこうせん[112]。這使とく戶部とべ尚書しょうしょ畢自げん後來こうらいいんていともげん一案いちあん而被下獄げごく[113],而天官員かんいん也自此變どくこうせんはた及,さきかくぜいかて不問ふもんなでせん於催[114]ひらけどおざいたかしただし五年時就指出很多能臣如ひだりおうせんえびすりょううまおもえこうとういんため一些小誤小錯就動輒被崇禎帝褫革重罰,使つかいどく大量たいりょう官員かんいんはいこころ敢任ごと[115]

たかしろくねんぜん繼續けいぞく出現しゅつげんひでりいなご耀州きよしじょういち带,百姓ひゃくしょう死亡しぼう过半。ゆたかたいひとし擔任たんにん內閣くび輔主せいさら一意いちいこびじょう[116][117]いむ為政いせい[118][119][120]使つかいとく地方ちほう官員かんいんただのうさら严苟たい百姓ひゃくしょうよこちょう暴斂,以免いんためちょう輸不及而ざい[121]たかしななねんいえじゅう河南かなんてきぜん兵部ひょうぶなお吕维祺上書うわがき朝廷ちょうてい:“盖すう年来ねんらいしん乡无岁不あら,无月へい,无日輓输。庚午こうごたかしさんねんひでりからしひでりみずのえさる大旱たいかん无青くさじゅうしつきゅうそら。……むら无吠けんなお敲催せい门;树有啼鹃,つき洒鞭扑之ほこり赤地あかじ,乡乡几断じんけむり白骨はっこつあおりん夜夜よよ鬼哭きこくよく使穷民为盗,不可ふかとく也”。ひでりわざわいまた引起いなごわざわい使つかいとくわざわいじょうさら擴大かくだい河南かなん於崇ただしじゅうねんじゅういちねんじゅうねんじゅうさんねんみなゆういなごひでり,“人相にんそうしょく草木くさき俱盡,寇並おこり[122],其飢みんしたがえ“闖王”なり

たかしじゅうさんじゅうよんねん,“南北なんぼく大荒おおあら……死人しにん弃孩,みつるかわふさがみち。”[123]ひだり懋第とく催漕うん便びんざい途中とちゅう上書うわがきせつ:“しん靜海しずみ臨清人民じんみん飢死うえじにしゃさん,疫死しゃさんためぬすめしゃよんべいせきぎんじゅうよんりょうにん以食。おもんみひじりあきらたれねん。”[124]じょうめぐなでじょしるべ入京にゅうきょうせつ:“しんこう淮來すう千里せんり見城けんじょうおちいしょかたとろけしかいちそらそくゆうかんじょうまた僅餘よんかべじょう隍,ものりょくやめつき,蹂躪あまりよもぎ蒿滿,雞犬無音むおんぐういちこうしゃなりなん世界せかい”這時華北かほく各省かくしょうまた疫疾大起だいきちょうはつゆう。“いたりいち內,百姓ひゃくしょうおどろき逃,じょう為之ためゆきそら[125]たかしただしじゅうよんねんなながつ,疫疾したがえ河北かほく地区ちく傳染でんせんいたり北京ぺきんたかしじゅうろくねん北京ぺきん人口じんこう死亡しぼうきんよんなり[126]じゅうしつきゅうそら[127]

江南こうなんざいたかしじゅうさんねん大水おおみずじゅうよんねんゆうひでりわざわいあずかいなごわざわい并發,じゅう五年持续发生旱灾和流行だい地方ちほう社会しゃかい处在りょうじゅうふん脆弱ぜいじゃくてきじょう态,ながれぞく興起こうき遊民ゆうみんさら加入かにゅう陣營じんえい各地かくちみん不断ふだんばく发。

たかし祯帝さきよう楊鶴なで恤變みんようひろしうけたまわさいよう曹文みことのりさいようちんふくようひろしうけたまわ疇,さいようぞうのぼるさいよう楊嗣あきらさいようくまぶんまたもちい楊嗣あきらじゅう三年中頻繁更換討伐流賊的將領。這其ちゅうじょぐまぶん燦外,其他表現ひょうげんりょう出色しゅっしょくてき才幹さいかんしかみなこう虧一簣。りゅうぞく闖王なりすう大難だいなん不死ふし河南かなん聚眾發展はってん

此时北方ほっぽう滿まんじんすめらぎふとしまた不断ふだん骚扰いれおかせあきら廷苦於两线作战,每年まいとしてき军费「さん」开支だか达两せんまん两以じょう国家こっか财政はややめにゅうじきかけ饷的情況じょうきょう普遍ふへんつね导致あかり军内骚乱哗变。うえたかし祯帝もとめこころきりなませいうたぐ,刚愎もちいいん此在朝政ちょうせいちゅうしばしば铸大错:前期ぜんき铲除专权宦官かんがんきさきまた重用じゅうよう宦官かんがん,《春明しゅんめい梦余录》记述:“たかしねんじゅういちがつ,以司れい监太监沈りょうじゅう提督ていとくきゅうすめらぎじょう门,以司れい监太监李凤翔总督忠勇ちゅうゆうたかし祯帝せつ:“ちん禦極はつかえ內鎮,舉天大事だいじ悉以大小だいしょうしんこうしゃ營私いんきょうみん艱,れんどおりしゃまた遷疏どおりおのれやめふゆきょうじょうおさむむねしゃふるえおどろき,此士大夫たいふ國家こっか也”。せい修明のぶあき说崇祯帝ちゅうきさききんはん间计,毁长じょう,冤杀袁崇焕でんすめらぎ太極たいきょくほどこせはんあいだけい捕捉ほそくりょうめいあきらみやふとしかんしかこう故意こいゆずる兩人りょうにん以為聽見滿まんきよし將軍しょうぐんあいだてき耳語じごいい袁崇煥與滿まんひとゆう密約みつやくすめらぎ太極たいきょくさい其中いちめいふとしかんかいきょうたかし祯帝ちゅうけい,以為袁崇煥謀反ぼうほん。這種こうほうおわりあかり並無ならびなところほん,僅流行りゅうこういぬいたかしこれ。一些學者傾向於相信崇祯帝殺袁崇煥,なみすめらぎ太極たいきょくてき反間はんかんけいとくたくましよし於袁たかし煥是しゅうきん半年はんとしざいしょてきだい可能かのういんいち激憤げきふん誤殺ごさつ事實じじつじょうたかし祯帝せいせいうたぐ所以ゆえん僅擅ころせもうぶんりゅう一事いちじ便びんあし以使たかし祯帝しんそん忌憚きたんさいしゃぶんりゅうきゅうだい誤認ごにんため皇帝こうていようころせぶんりゅう,於是怨恨えんこん轉移てんいいた皇帝こうてい身上しんじょうだい舉譁へん造成ぞうせい一連いちれんくし悲劇ひげき事件じけんてき發生はっせいおわり於致使前線ぜんせん態勢たいせい一發いっぱつ不可ふか收拾しゅうしゅう。袁崇煥不能ふのう不為ふため此負せめ

ずいちょきょくぜいてきえきいむたかしたかし祯帝てき濫殺也日趨嚴重げんじゅうそうそう以重てん治世ちせい[註 1]總督そうとくちゅう誅者ななにん[註 2]じゅんなで戮者じゅういちにん[註 3]れんようゆう崇高すうこう地位ちいてき內閣くび辅也不能ふのうこうまぬかれころせにん[註 4],而其かくきゅう文官ぶんかん武將ぶしょうさらかちすう不能ふのうしょうれつたかし祯帝また不能ふのう兩面りょうめん作戰さくせんわたしそこ同意どういただし明朝みんちょう大夫たいふ鑒於みなみそうてき教訓きょうくんみな以為あずか滿まんひと和談わだんためはじよし此崇祯帝たい和議わぎこと始終しじゅう左右さゆうためなん暗中あんちゅう同意どうい杨嗣あきらてき议和ぬし张,ただし一旁的盧象昇立即告訴皇帝說:「陛下へいかいのちしんとく师,しんただ战斗而已!」,たかし祯帝ただ能辯のうべんしょう根本こんぽん就没ゆう议和こと[128]ぞうのぼり最後さいご戰死せんしすなじょう明朝みんちょうまつねん就在和戰わせんりょうなんあいだ走入はしり滅亡めつぼう[129]

たかしただしじゅうねん(1642ねん),松山まつやま锦州しつもりひろしうけたまわくだきよしたかし祯又そう满清议和而和兵部ひょうぶ尚書しょうしょちんしんかぶと暗中あんちゅう商議しょうぎけい劃,後來こうらいちんしんかぶといん失陷しっかんじょう寨之ごとたかし祯處[130]與清ともきよへい最後さいごてき機會きかい破滅はめつりょうたかしただしじゅうななねん(1644ねん明王みょうおうちょうめん临灭顶之灾,たかし祯帝召見かくしん悲嘆ひたんどう:“われ亡国ぼうこくきみなんじみな亡国ぼうこくしんわれまちまたすすき今日きょういたり此,群臣ぐんしんなん无一人相にんそう从?”ざいひねえんじひかりとおるひとしはん对和じょうねがいせめしものう决心迁都南京なんきん[註 5][註 6]事後じごたかしただしみかどゆびせめひかりとおる:“阻朕みなみ遷,ほんおうしょしゅうとにょう這遭。”[131]後來こうらいたかしただしさいつぎあきらかずひだりくにはなふくみなみ遷的けい劃,なみよう大學だいがくひねえんじ擔當たんとう責任せきにんひねえんじじょうねがい,於是ざいひさ罷職ひしょく[132]だい二次南遷計劃失敗後,たかしただしゆずる駙馬鞏永かただいくち要求ようきゅう重臣じゅうしんもり京師けいしなみ以“せいみなみじゅんせいへいおや討」ためよしきょうしょしんただおそれ自己じこいん皇帝こうてい在京ざいきょうじょう變成へんせい農民のうみん军發泄怒てきがえおに[133]依然いぜんゆずるたかしただし離京りきょう[134]

いたり此,りゅう寇叛へんやめじゅう多年たねん,从北京ぺきんこうみなみ南京なんきんこうきた,纵横すう千里せんり间,白骨はっこつ满地,にんけむりだん绝,行人こうじん稀少きしょうたかし祯帝召保じょうじゅん抚徐标入京にゅうきょう觐见,じょ说:“しん从江淮而らいすう千里地内荡然一空,そく使有城あるきてき地方ちほう,也仅そんよんしゅう围墙,一眼望去都是杂草丛生,听不见鸡鸣狗さけべ见一个耕田种地之人,ぞう这样陛下へいかはた怎么天下でんか呢?”たかし祯帝听后,潸然さんぜんなみだ,叹息とめ。于是,为了祭祀さいし阵亡将士しょうしかか难民かず殉國じゅんこくてきかく亲王たかし祯帝便びんざい宫中だいさく功德くどく法會ほうえらいいのりもとめ天下でんか太平たいへい,并しも诏罪おのれ催促さいそくとく孙传にわ赶快围剿农民军[135]

縊殉こく[编辑]

景山かげやまてきあかりおもえそう殉國じゅんこくしょたてゆう碑文ひぶん

たかしただしじゅうろくねん正月しょうがつなりかつじょう荊州とくやすうけたまわてんとうちょうけんじただしおちい蘄州あきらしょうひだりりょうだま逃至安徽あんき池州いけすたかしただしじゅうななねん(1644ねんがつはつはちにちなりぐんおさむおちいふとはら山西さんせいじゅんなで蔡懋とく[136]たかしただしじゅうななねん(1644ねんさんがついちにち大同だいどう失陷しっかん大同だいどうじゅんなでまもるけいあずかそうへいしゅさんらくとう殉國じゅんこく北京ぺきん危急ききゅう[137]はつよんにちたかしただしにんさんかつら為平ためひら西伯さいはく飛檄ひげき三桂入衛京師,起用きようじょう提督ていとくきょう營。六日むいかなりおちいせんふとしかんもりくん投降とうこうせんじゅんなでしゅ殉國じゅんこく[138]じゅうさんにちきょいさおせきしつもりそうへいとうどおりつかさあやふとしかんもりとうむかえ[139]じゅうにちだい學士がくしたてやすし投降とうこうなり開始かいし包圍ほうい北京ぺきん三月さんがつじゅうろくにち昌平しょうへいしつもりじゅうななにちかこえおさむ北京ぺきんじょう三月さんがつじゅうはちにちなりぐん以飛はしごおさむ西にしただしひらのりとくしょうしょもんもりぐんある逃、あるくだしたうま,曹化じゅんひらけあきらもん[140]一說いっせつじゅうはちにちぞくおさむこうやすしもんきゅうぐんかい倡亂開門かいもん外城とじょうとげおちいつぎぞくひがし直門じきもんかくろうえんじょう而上,大城おおしろとげおちい[141]一說いっせつじゅうきゅうにちおうしょうひらけせん武門ぶもん,另ちょう縉彥もりせいもんしゅじゅんしんもり朝陽あさひもん一時いちじ俱開,二臣迎門拜賊,ぞく登城とじょうころせ兵部ひょうぶさむらいろう王家おうけ於城ろう刑部おさかべさむらいろうはじめちょうさち於城門下もんか[142]),なりぐんおさむいれ北京ぺきんふとしかんおうれん急告きゅうこく皇帝こうていたかし祯帝ざい宫中饮酒长叹:“にがわがみん尔!”ふとしかんちょういんすすむ皇帝こうてい投降とうこういちけんとげたかし祯帝いのちじんぶんおく太子たいしながおうていおういたくんしゅうひろぐういえまたしゅうきさき杀,袁妃)、長平ながだい公主こうしゅ)、昭仁あきひと公主こうしゅ[143][144][145]

さんがつじゅうきゅうにち拂曉ふつぎょう大火たいかよんおこりしろがいやめ经是こううつてん。此時てんしょくはたあきらたかし祯在ぜん殿しんがり鸣钟召集しょうしゅう百官ひゃっかん,却无いち人前にんまえらいたかし祯帝せつ:“诸臣误朕也,くにくん社稷しゃしょくひゃくななじゅうななねん天下てんか一旦いったん弃之,みな奸臣かんしんしょ误,以至于此。”最後さいござい景山かげやまろうひずみ脖子树上缢身ほろび时光ひだりあしみぎあし穿ほじいちただ红鞋。於崇ただしかぶとさるさんがつじゅうきゅうにちうし,时年33岁。边仅ゆう提督ていとくふとしおううけたまわおん陪同。うえつるしぜん于蓝しょくほうふく上大かみおお书其のこみことのり

さんがつじゅういちにち屍體したい發現はつげんだいじゅんぐんはたたかし祯帝あずかしゅう皇后こうごうてきかばねかん移出いしゅつみやきんざいひがしはなもんしめせ眾,也允許いんきょ投降とうこうてきしょしんぜん往送そうただ人數にんずう,“しょしん哭拜しゃさんじゅうにんはい而不哭者ろくじゅうにんみな睥睨へいげいこれ”,ただゆう主事しゅじりゅうようさだごく其悲つう[122]あずさみや暫厝ざいむらさき禁城きんじょう北面ほくめんてき河邊かわべ[146]

たかし祯帝死後しご杀官いんゆう户部なお倪元璐こうなお范景ぶんひだりくにひだりふくほどこせくに、协理きょう营兵みぎさむらいろう王家おうけだいてらきょうしのげ义渠ふとしつねてらきょう麟徵ひだりちゅうまこと刘理顺刑部おさかべみぎさむらいろうはじめちょうさちぜんきゅうごとちゅうあま武庫むこ主事しゅじ成德しげのり兵部ひょうぶ主事しゅじきむひだりさとしとく马世檢討けんとうひろしえらみぎ庶子しょししゅうおおとりしょうふとぼくてらすすむさるけいたね、吏部いん外郎ういろうもとじき戶部とべいん外郎ういろうやすしうけたまわれつひかりろくてらしょすすむ于腾くもふく兵馬へいば使姚成中書ちゅうしょ舍人とねりそうたかしあきら滕之しょ阮文とうとかん察御おうあきらちんりょうちん纯德經歷けいれきちょうおうせんじゅんてん府知事ふちじ陈貞たちひとし外戚がいせき驸马じょう巩永かたしんらくはくりゅうぶんめぐみやすはくちょうけいせんじょうはくまもる時春ときはるにしきころもまもる指揮しき使王國おうこくきょう自殺じさつふとし监自杀者以ひゃく计,战死ざいせんにん以上いじょう。宫女杀者さんひゃく余人よにん。绅生せい员等なな百多家举家自杀[147]よんがつよんにち昌平しょうへいしゅう吏趙一桂等人將崇禎與皇后葬入昌平縣田貴妃的墓穴之中,清朝せいちょう以“みかどれい改葬かいそうれい臣民しんみんため服喪ふくもさんにちおくりな曰莊れつ皇帝こうていりょう曰思りょう”。

びょう諡號しごう及陵[编辑]

あかりおもえりょうそうあかりじゅうさんりょう其它みかどりょうおもえりょう规制最小さいしょうおううけたまわおん陪葬ざい左下ひだりした

順治じゅんじ元年がんねんがつはつろくにち攝政せっしょうなんじあきらためれいさむらいろうせめだいくだり皇帝こうていてき諡號しごうさいそうごとむべなずらえじょう先帝せんてい諡號しごう欽天守道もちさとしあつしあつし弘文こうぶんじょう武體ぶたいじん致孝はし皇帝こうていびょうごうふところむね[148][149],并建議けんぎ改葬かいそうあずさみやこういんたかし祯帝あずさみややめいれそうきょうよしはしめぐみせいふところすめらぎとうとまとえん便びんさい遷葬,あらためえんためおもえりょう[150][151]

順治じゅんじじゅうろくねんじゅういちがつ,以“きょうあさおくりな前代ぜんだいきみれいしょうむねためゆかりふところむねびょうごうあらためおくりなそうれつ皇帝こうてい[152][148][149]いん而清だい史書ししょ簡稱ためそうれつみかどあるあかり愍帝

欽定きんてい古今ここん圖書としょ集成しゅうせい·かた輿こし彙編·職方しょくかたてん·じゅんてん雜錄ざつろくじゅういち》、《欽定きんてい日下くさか舊聞きゅうぶんこう·まきいちひゃくさんじゅうなな》、《讀禮どおりこう·まききゅうじゅうさんさんしょひとし引《肅松ろくかずきたゆうおさむかた》,しょうおもえりょうかみぱいだいため大明だいめい欽天守道もちさとしあつしあつし弘文こうぶんじょう武體ぶたいじん致孝そうれつ皇帝こうてい”,また引《きたゆうおさむかたしょうおもえりょうかみ主題しゅだいため大明だいめいふところむね欽天守道もちさとしあつしあつし弘文こうぶんじょう武體ぶたいじん致孝そうれつはし皇帝こうてい”,また引《肅松ろくしょうおもえりょうたてゆうそうれつ皇帝こうていりょうてき石碑せきひ。《あきら綜·まきいちのりしょうしんぱいよし順治じゅんじ初年しょねんじょうてきいちじゅうろくじょうあらためしょてきそうれつ皇帝こうてい組合くみあい而成。神主かんぬし甚至またあらため“愍”ためはし”,なみ仍題びょうごうふところむねかん熙年あいだてきおもえりょうかみぱい神主かんぬしよし順治じゅんじ年間ねんかん兩次りょうじおくりなたかしただしみかどてきびょう諡號しごう混雜こんざつ而成。《たかしただし長編ちょうへん·まきいちさくはてあつしあつし弘文こうぶんじょう武體ぶたいじん致孝そうれつ皇帝こうてい”,とう是清これきよ廷所きゅう諡號しごうざいつてしょう中產ちゅうさんせいりょうなまりあやま

みなみあきらあんはじめこれ大臣だいじんちょうまことげんはつたかしただしみかどびょう諡號しごうためれつそうさとし皇帝こうてい”,こうひろし拟庙ごうおもえむね”,顧錫疇びょうごういぬいはじめ[153]。赵之龙上疏弹劾高ひろ图议庙号しつしょうおもえ为下谥”。顧錫疇又拟庙ごう正宗まさむねただし採用さいよう最終さいしゅうざいたかしただしじゅうななねん六月定先帝谥號為紹天繹道つよしあきらつとむ儉揆ぶん奮武あつしじん懋孝れつ皇帝こうてい,庙号おもえむね

弘光ひろみつ元年がんねんきよしうえ疏请あらためおもえそう庙号,つぎじょう疏皆駁回。かん紹寧なずらえけいむねかずあつしむねりょうごう備選[154]どう時又ときまた有人ゆうじんじょう請求せいきゅうあらためためれつそうただし皇帝こうてい[142]弘光ひろみつ元年がんねん二月丙子改上廟號あつしむね[155],谥号あらため唐王とうのう监国,あらためおもえむねためむね[156]

人事じんじ任命にんめい[编辑]

おさむ[编辑]

將領しょうりょう[编辑]

宦官かんがん[编辑]

  • ちゅうけんつかさあやかん筆太ふでぶとかんけん宦,人稱にんしょうきゅうせんさいざいたかしただし早年そうねんふく誅。
  • ちょうつねけんつかさあやふとしかんおごたて頗受ちょうしん
  • りゅうもとあきらたかしただしにんかんぐんふとしかんざい南陽なんようたたかえ大敗たいはいりつぐんさき逃,たてぐんだいかすめこう被彈ひだん劾而ふく[157]
  • こうおこりせんざい內侍ちゅう,以知へいしょうたかしただしまつねんにんせきあざみやすしどおかんぐんふとしかん後來こうらいざい棄關遁走とんそう在江あるえみなみ投降とうこうだいきよし[158]
  • もりくんたかしただしまつねんにんせんかんぐんふとしかん後來こうらいくらどおりなり,曾勸たかしただしみかどへりくだくらい投降とうこう[159]
  • さるしばしげるたかしただしためもりりょうふとしかん後來こうらいざい昌平しょうへい投降とうこうなり,曾勸たかしただしみかどへりくだくらい投降とうこう[160]
  • もりたかしただしまつねんにんきょいさおせきかんぐん後來こうらいずいとうどおりむかいなり投降とうこう,并為なり軍隊ぐんたい引導いんどう搜索そうさくたかしただしみかど[161]
  • おう德化とっかたかしただしためつかさあやふとしかん後來こうらいひらけとくかちもんむかえなり[162]
  • おうしょうたかしただしまつねんにん守門すもんふとしかんひらきせん武門ぶもんむこうなり投降とうこう[163]
  • 方正ほうせいたかしただしためつかさあやふとしかんたかしただしまつねんにんじょうていかんぐんふとしかんしろおちいとき,雖擊ころせすうじゅうにん,仍遭砍殺ほろび
  • おううけたまわおん:曹化じゅん名下みょうげるいかんつかさあやかん筆太ふでぶとかんずいたかしただし皇帝こうてい縊其
  • おうしんたかしただしまつねん舊東きゅうとうしょう提督ていとくつかさあやかんてのひらしるしふとしかんきょあいだじゅう[164]たかしただしみかど以其さいとみ請求せいきゅう捐銀じょ餉,ただしこれこころ以家ひん僅輸いちまんりょう後來こうらい一說被李自成拷夹錢財而死[165][166]一說いっせつ在家ありいえ缢死殉國じゅんこく[167]
  • おうひさしたかしただしちょう宦官かんがんたかしただしまつねんけんじぎん一百萬於李自成賄脫免死[168]
  • 曹化あつしたかしただしちょう宦官かんがん。一說崇禎末年開彰義門向なり投降とうこう[169],一說崇禎末年時已告老還鄉不在北京。
  • ぐりそうあまねたかしただしちょう宦官かんがんたかしただしまつねんせめあきらりょう太子たいしあずか諸王しょおう逃。ただししろやぶのち太子たいしとうけんじきゅうなり[170],并獻ぎんさんまんりょうめんまかなえだっ[171]


人物じんぶつ評價ひょうか[编辑]

あずか其他朝代あさしろてき亡國ぼうこくきみ不同ふどうたかしただしみかどいち普遍ふへん同情どうじょうてき皇帝こうていたかしただしみかどいちちょくつとむせい,以力挽救過去かこやから皇帝こうていてき過失かしつたかしただしみかど即位そくいせい國家こっか內憂外患がいかんさい,內有黃土おうど高原こうげんうえひゃくまん農民のうみん造反ぞうはん大軍たいぐんそとゆう滿まんしゅう鐵騎てっき虎視こしふけふけたかしただし元年がんねん(1628ねん)陕西镇的へい饷积かけいた30つき[172]ねんがつのべ绥、宁夏、かたげん三镇皆告缺饷达36がつひさし[173]うえたかしただしみかど個人こじん才幹さいかんこうざい內外交困しも最終さいしゅう無力むりょく回天かいてん

推翻明朝みんちょうてきなり登極とうきょくみことのり》也說“きみ甚闇,孤立こりつ而煬灶恆しんつきくだりわたしとう而公ちゅうぜっしょう。”

たかしただしみかどてき性格せいかく相當そうとう複雜ふくざつざいじょちゅうけんとき表現ひょうげんどくごくため機智きちただしざい處理しょり袁崇煥一事いちじ,卻又表現ひょうげんどく相當そうとう蠢,《あかりせつ:「せいうたぐ而任察,こう刚而なお气。にん察则苛刻寡恩,なお气则急遽きゅうきょしつ措。」[174]

  • 张岱认为「おもえむね焦心しょうしんもとめ,旰食よいころもきょう俭辛つとむまんつくえ无旷。そくいにしえちゅう兴令ぬし无以过之。」しか而,おもんみ务节しょう」,以至「九边军士数年无饷,たい无完ころも」;また「渴于用人ようにん,骤于行法ぎょうほう」,以至「天下てんかこれにん,无所不用ふよう。及至危及存亡そんぼうあき,并无一人为之分忧宣力。」[175]
  • あかり評價ひょうかたかしただしみかど:「みかどうけたまわかみこれ慨然がいぜん有為ゆうい即位そくいはつ,沈機獨斷どくだんかりじょ奸逆,天下てんか想望そうぼう治平じへい。惜乎大勢おおぜいやめかたぶけせき習難挽。在廷ざいていそく門戶もんこ糾紛,疆埸そくはたおごそつ惰。へいあらよんつげりゅう蔓延まんえんとげいたりつぶせただれ而莫すくえいい不幸ふこう也已。しか在位ざいいじゅうゆうななねん邇聲しょくゆうすすむ惕勵,殫心。臨朝ひろし歎,慨然がいぜんおもえ非常ひじょうざい,而用匪其じんえき以僨ごと。乃復信任しんにん宦官かんがんぬのれつ要地ようち,舉措失當しっとうせいおけ乖方。祚訖うんうつりかかわざわいへんあにすう使しか哉。迨至大命たいめいゆう,妖氛つき掃,而帝とくおくりなけんりょう典禮てんれいゆうあつ是則これのりひじりあさ盛德せいとくえつ千古せんこまた以知みかどこうむなん而不はずかしめ其身,ため亡國ぼうこく義烈ぎれつ矣。」
  • 順治じゅんじみかど評價ひょうかたかしただしみかど:「本朝ほんちょうにゅう关定かなえしゅ为崇祯帝、きさき发丧,营建かそけ宫,为万古未闻之义举。」1657ねん,顺治谕工曰:「ちんねんあきらたかし祯帝孜孜ししもとめ社稷しゃしょくわか不急ふきゅう为阐扬,おそれ于千载之,竟与しつとく亡国ぼうこくしゃどう类并观,ちんようとくせい碑文ひぶん一道いちどう,以昭悯恻。」谒崇祯陵てき时候,顺治大呼たいこ说:「だい哥大哥,わがあずかわかみなゆうくん无臣[176]。」顺治对崇祯的书法さら高度こうど赞赏。书记载,そうひろ觉向顺治さく,顺治说:「ちんなんそくなおたかし祯帝乃佳みみ。」说完さけべじん一并拿来八九十幅崇祯的字,いちいち展示てんじ,“うえようむご戚,默然もくぜん语”。完了かんりょう,顺治说:「如此明君めいくん婴巨祸,使つかいじん觉酸すわえみみ。」また说:「きんおさむあかり》,ちん敕群こうとく妄议たかし祯帝。」顺治てき话,连弘觉都给感动了:「先帝せんていなん修得しゅうとくわがすめらぎ为异世知せちおのれ哉!」顺治うつし给崇祯的碑文ひぶん:「しょうれつ皇帝こうてい励精图治,よい旰焦しんはらしつ德之のりゆきぬしりょうゆかりゆうくん无臣,孤立こりつ于上,はた帅拥へい而不战,ぶん吏噂くつ而营わたし。……逮逆みぞはん阙,くに势莫ささえみかどとげ捐生以殉社稷しゃしょく。……[177]
  • だんくに榷》しょう:“先帝せんていたかしただし患,ざい於好めい而不于實,めいあいみん而適痡之,めい聽言而適こばめこれめい亟才而適市之いちのさと于始,愎于おわり舉朝いち人足ひとあしにんしゃたく奄尹,貽伊戚,いんしいたげ昏懦,而卒あずかはたずいひらたけんじきょうあきらなみ而語也,かちつう哉!”
  • 歷史れきしがくはじめもりせつ:“おもえそう而在まんれき以前いぜん亡國ぼうこくきみざい天啟てんけいこれのり必亡而已矣!”。たかし祯帝雖有こころため,卻無治國ちこくかた,以致釀成じょうせい亡國ぼうこく悲劇ひげき未必みひつはじめもり也說たかし祯帝“苛察もちい知人ちじんあきら”、“不知ふち恤民”。たかし祯帝用人ようにんあきら疑心ぎしん過重かじゅう、馭下太しもふとげんしょうたかしただしじゅうそう”(在位ざいいじゅうななねんさらかわじゅう內閣だい學士がくしくび[註 7],卻加そくりょう明王みょうおうあさてきくつがえほろび
  • くさりみどり山人さんじんざいあかりほろびじゅつりゃくちゅう評價ひょうかたかしただしみかど,“そうれつみかどいさむ於求此前亡國ぼうこくきみしかうけたまわかみはじめ、熹宗しつとくまたこうもちい知人ちじん識。君子くんし修身しゅうしんひとしむべぼう好惡こうおくせ,而況ひら天下てんか乎?雖當時とうじりゅうぞく蹂躪うみ內,而明ほろび也決矣。”
  • 南明なんめい大臣だいじんそくたかしただしみかど抬舉到千古せんこひじりぬしてき地步ちほ,如禮さむらいろうざいあらためたかしただしみかどびょうごうどきせつ:“先帝せんていたかしただしみかど英明えいめい神武じんむにんしょども欽,而內聲色こわいろいぬこうそと神仙しんせん土木どぼく營,臨難慷慨こうがいごうこくくん社稷しゃしょく千古せんこゆうせいあるじむべみこと以千古未有之徽稱。”[178]
  • かん熙帝みとめためたかしただしみかどてき複雜ふくざつ性格せいかくあずか成長せいちょう環境かんきょうゆうせき:“あきら所行しょぎょう迂闊うかつわらいけんきょく殿どのかいせきこうあつしすうたけほうせい一塊ひとかたまり,其費貲,かい搬運いたりきょう不能ふのう舁入うまもんうんせきふとしかんさんそう此石肯入うまもん,乃命しょうせき捆打ろくじゅう棍。たかしただし嘗學乘馬じょうば兩人りょうにんくつわ兩人りょうにんささげとう兩人りょうにん扶秋,はじめじょう,輒已墜馬,乃責よんじゅうはつえきとううまなおゆう知識ちしきせきなんしょ?如此舉動,あに不發ふはつ噱?そうよしせい於深みやちょう於阿保之やすゆきしゅ不知ふち人情にんじょう物理ぶつり也。”[179]

家庭かてい[编辑]

先祖せんぞ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖父こうそふむね皇帝こうていしゅあつし
 
 
 
 
 
 
 
曾祖父そうそふきよしそうそう皇帝こうていしゅ载坖
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高祖母こうそぼついみことこうつとむ皇后こうごう杜氏とうじ
 
 
 
 
 
 
 
祖父そふかみはじめ皇帝こうていしゅ翊钧
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖父こうそふたけきよしはく
 
 
 
 
 
 
 
曾祖母そうそぼこうてい皇太后こうたいごう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと高祖母こうそぼたけきよしはく夫人ふじん
 
 
 
 
 
 
 
ちちひかりむね皇帝こうていしゅつねらく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖父そうそふつい赠)えい宁伯王朝おうちょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祖母そぼついみことこうやすし皇太后こうたいごうおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そと曾祖母そうそぼつい赠)えい宁伯夫人ふじんかずら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
おもえそうれつ皇帝こうていしゅゆかりけん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖父がいそふついふう)瀛国こう刘应もと
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ははついみことこう皇太后こうたいごう刘氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外祖母がいそぼついふう)瀛国太夫たゆうじんじょ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

后妃こうひ[编辑]

  1. こうぶしさだ肅淵きょうそうあつし奉天ほうてんやすしひじりれつ皇后こうごうしゅう,1644ねんあきらほろびこれさいたかしただしみかどめいじざいひつじさるやすしみや自盡じじん而死。せい順治じゅんじみかどおくりなしゅう皇后こうごうためこうけいさだれつ慈惠じえそうさとうけたまわてんはいせいはし皇后こうごうあずかたかしただしみかどどうそうとうとえんそくあかりじゅうさんりょうてきおもえりょう順治じゅんじじゅうろくねんじゅういちがつあらためおくりなしゅう皇后こうごうためそうれつ皇后こうごう,而弘光ひろみつみかどのりついおくりなためこうぶしさだ肅淵きょうそうあつし奉天ほうてんやすしひじりれつ皇后こうごう
  2. すめらぎとうと,1642ねん病死びょうしおくりなきょうよしはしめぐみせいふところすめらぎとうと[註 8]そう昌平しょうへい天寿てんじゅやまおもえりょう
  3. 袁氏,1644ねん明朝みょうちょう亡國ぼうこくさいたかしただしみかどいのち縊卻清朝せいちょういれせきいん其為たかしただしみかど最後さいごてきのこ孀,とくいたきよし廷之あい憐與尊重そんちょうなみよしきよし廷贍やしなえ終身しゅうしん
  4. じゅんおうはらためせんさむらい
  5. 沈妃[180]
  6. 王妃おうひだいいち[180]
  7. 王妃おうひだい[180]
  8. りゅう[180]
  9. ほう[180]
  10. ゆう[180]
  11. 范選さむらいはいとうとためがくきん[181]
  12. 薛選さむらいはいとうとためがくきん[181]
  13. やしなえ豔姬はらため宮中きゅうちゅうらくおんなあきらほろび出家しゅっけためみちしゅうと[182][183]
  14. 婉玉ふとしかんきょうこれめいおんなはらため宮中きゅうちゅうらくおんなあきらほろび出家しゅっけためどうしゅうと[182][183]

兄弟きょうだい[编辑]

  1. 熹宗しゅゆかりこう
  2. 简怀おうしゅゆかり
  3. 齐思おうしゅゆかりかじ
  4. 怀惠おうしゅゆかり
  5. 湘怀おうしゅゆかり
  6. めぐみあきらおうしゅゆかり

子女しじょ[编辑]

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  1. けんじ太子たいししゅ慈烺ははこう节烈皇后こうごうしゅうたかしただしねん(1629ねんがつはつよんにちせいざいなり敗退はいたい不知ふちしょおわり
  2. ふところかくれおうしゅ慈烜ははこう节烈皇后こうごうしゅうたかしただしねんじゅうがつはつさんせいひさ薨,たかしただしさんねんがつはつにちいのちれいじょう諡號しごうついふうじたかしただしねん正月しょうがつじゅうにちそうみどりほろやまこれはら[184]
  3. ていあいおうしゅ慈炯ははこう节烈皇后こうごうしゅう,1644ねん不知ふちしょおわり
  4. えい悼王しゅ慈炤ははきょうよしはしめぐみせい怀皇贵妃,1644ねん不知ふちしょおわり
  5. 悼靈おうしゅ慈煥(1633ねん-1637ねん),ははきょうよしはしめぐみせい怀皇贵妃たかしただしみかどだい民間みんかん所謂いわゆるしゅさん太子たいし」,のりはたしゅ慈煥あやまとうしゅ慈炯,傳言でんごんかつちょしんへいいれせきこれ許多きょたじん假借かしゃくてき名義めいぎおこりごと意圖いとはんせいふくあきら造成ぞうせいしん政府せいふてき統治とうち難題なんだい
  6. 悼懷おうしゅ慈燦ははきょうよしはしめぐみせい怀皇贵妃たかしただしじゅう年生ねんせいたかしただしじゅうねんさんがつじゅうななにちそつついふう悼懷おう同年どうねん九月十六日葬翠微山之原[185]
  7. 悼良おうははきょうよしはしめぐみせい怀皇贵妃さんさい[186]

おんな[编辑]

  1. ひつじさる仪公ぬしめい不詳ふしょう)(?-?),ははそうれつ皇后こうごうしゅうはや夭。
  2. ひつじさる兴公ぬしめい不詳ふしょう)(1630-1646),しゅう皇后こうごう所出しょしゅつ公主こうしゅ生母せいぼ为王顺妃说法实为1996ねん台湾たいわん作家さっかりん佩芬しょうつしてきてん问·あかりまつ春秋しゅんじゅう》一书中的杜撰情节,ただしきさきらい却被つぎ引用いんよう。而公主こうしゅねん纪,“きのえさるねんじゅうろくてき说法仅仅存在そんざい于《あかり·公主こうしゅでん》,其余史籍しせきひとしさくかぶとさるねんじゅう,并都うつしあかり为周皇后こうごう所出しょしゅつあずかたかしただし長編ちょうへん記錄きろく公主こうしゅせい於「たかしただしさんねん(1630ねん),中宮なかみやいずるあい[187]よし此明应是记错りょう公主こうしゅねん龄,公主こうしゅ实际应为1630ねん出生しゅっしょう
  3. 昭仁あきひと公主こうしゅめい不詳ふしょう)(1639-1644),1644ねんたかし祯帝杀死。
さんじょみな逝,无考。

轶事典故てんこ[编辑]

たかし祯帝けいこれきさきざい身上しんじょうてき遗言つくり边又ゆういちぎょう书曰:“文武ぶんぶ百官全都到东宫行在去。”はららいたかし祯帝以为ない阁诸しんやめ经看いたりょう他所よそうつしてきしゅ书,却不知道ともみち实际上内うえうち传将しゅ书送入内じゅだい阁时,大臣だいじん们早やめ四散しさん逃命りょう内侍ないしざい桌子うえ便びんはしりょういん文武ぶんぶ群臣ぐんしん并没ゆう一个人知道此朱书。当初とうしょ大内おおうち中有ちゅうういち间密しつかんてきじゅうふん严密,そう传其中有ちゅうう诚意はくりゅうはくぬる所藏しょぞうてき记在ない,说没ゆう重大じゅうだい变故不能ふのう随意ずいい开启。いた此时,事情じじょう紧迫,众人开启らいいたいちふく绘图さん轴,さいすえ一轴图像酷似崇祯帝模样,穿ほじしろしんひかりひだりあし,披头散发悬ざい空中くうちゅうあずかうわつるしきさきてきたかし祯帝てきじょう况没ゆうにんなん[188]

明代あきよ冯梦龙せんつばめ记》记载,なりおさむおちい北京ぺきんぜんゆう大廈たいかはたかたぶけこれさいたかし祯帝ねん及魏ちゅう贤昔てきことこうざいふとし曹化あつしけん议下,おさむそうちゅう贤的遗骸于香山かやまあおうんてらきさきかんよんじゅうねんそく1701ねん捣毁)[189]ただし根據こんきょにちさむらい先皇せんのう(たかしただしみかど)左右さゆうてきにしきころもまもる指揮しき僉事おうとく著作ちょさくたかしただしのころく考證こうしょう指出さしで野史やしゆうじょう(たかしただしみかど)いのちおさむちゅうけん骸骨がいこつ一事いちじあら不足ふそく致辨。」[190]時任ときとうひだりさとしとくてき楊士さとし也對此說反駁はんばく指出さしで當時とうじ曹化あつし就閒じゅう在京ざいきょうじょうたかしただし皇帝こうていまた如何いか接受せつじゅ曹化じゅんめんそう? 楊士さとししょう這偽せついち逢迎時局じきょくしゃ所為しょい[191]。而且根據こんきょ明朝みんちょう宦官かんがんりゅうわかてきしゃくちゅうこころざしまき九正监蒙难纪略》,とうちゅう記載きさい曹化あつしせいちゅうけん逼害てきおうやすしきゅうぞくいん此魏ちゅうけんとくぜい時間じかん曹化あつし也深受逼がい而曹じゅんためちゅうけんせつじょうてき可能かのうせい較低。

信仰しんこう[编辑]

明朝みょうちょう文化ぶんかさんきょう合一ごういつ天子てんしだい篤信とくしん佛教ぶっきょう道教どうきょう,也力儒家じゅかてき弟子でしたかしただし年間ねんかん,受じょひかりけいわかもちてき影響えいきょう皇帝こうていたいうま天主教てんしゅきょうゆうしょ了解りょうかい滿まんじん屢次はんあたりながれ兵事へいじまたやすしせい有人ゆうじん趁機すすむせつ皇帝こうてい撤去てっきょみや內神ぞうあずか佛像ぶつぞうあらためしん耶穌皇帝こうていきゅう于圖,聞言ゆうしょどうこういくねんさとし其言またふくたかし儒(1939ねん中華民國ちゅうかみんこく論文ろんぶんたかしただしみかど撤像及信仰しんこう》)。

文字もじ作品さくひん[编辑]

小說しょうせつ[编辑]

漫畫まんが[编辑]

かげ形象けいしょう[编辑]

电视剧[编辑]

かげ作品さくひん かざりえんじたかしただしみかどてきえんじいん
1976ねん香港ほんこんうららてきでんRTV电视剧《十大刺客之費貞娥刺虎 ひねはな
1977ねん香港ほんこんけいげいでん电视剧《あおけん 馮淬
1977ねん香港ほんこんTVB电视剧《みん间传みかどおんなはな
1981ねん香港ほんこんうららてきでんRTV电视剧《たけ侠帝おんなはな 张瑛
1981ねん韓國かんこくKBS大河たいが剧《大命たいめい じょえいすすむ
1985ねん香港ほんこんTVB出品しゅっぴん电视剧《あお 英才えいさい
1987~1992ねん香港ほんこん亚洲电视公司こうし出版しゅっぱん电视剧《满清じゅう三皇朝之皇太极》 刘宗もと
1987ねん中国ちゅうごくだいひねりんはく电视剧《袁崇煥 おうこころざしはな
1988ねん香港ほんこん电视剧《きょう 吕良伟
1989ねん台湾たいわんちゅう视电视剧《陈圆圆 もと
1992ねん台灣たいわんちゅう视电视剧《いちだい皇后こうごう大玉おおだま こうおき
1993ねん台灣たいわん电视剧《だいふとし监与小木おぎたくみ
1994ねん台湾たいわん电视剧《みかどおんなはな かみなりあきら
1995ねん香港ほんこん电视剧《しろ发魔おんな
1996ねん台湾たいわん电视剧《しんりゅうもんきゃく かくすすむやす
1998ねん中国ちゅうごくだい張子はりこおんはく电视剧《風雨ふうういち世情せじょう りゅうしん
1999ねん中国ちゅうごくだいひねえらはく电视剧《袁崇煥傳 ちょうひがし
2000ねん香港ほんこん电视剧《あお おう
2001ねん中国ちゅうごくだいしゅけんしんはく电视剧《たましいだんしん 谢东
2002ねん中国ちゅうごくだいおうしずはく电视剧《ふとし极王》/《ふとし英雄えいゆう 罗刚
2003ねん香港ほんこん电视剧《みかどおんなはな 陈豪
2003ねん中国ちゅうごくだい陈家りんはく电视剧《江山えやま风雨じょう つよし
2003ねん中国ちゅうごくだい陆电视剧《こうしょう秘史ひし 孙强
2005ねん中国ちゅうごくだい张黎はく电视剧《锦衣卫 おう劲松
2005ねん中国ちゅうごくだい陆电视剧《あかりまつ风云江山えやま风云》 邓超
2006ねん中国ちゅうごくだい陆电视剧《あきらまつ风云Ⅱ谁主中原なかはら 聂远
2006ねん中国ちゅうごくだい陆电视剧《さんてき 姚向阳
2007ねん中国ちゅうごくだい陆电视剧《あお 高虎たかとら
2006ねん中国ちゅうごくだい吴子うしはく电视剧《大明だいめい天下でんか そうみねいわ
2008ねん中国ちゅうごくだい陆拍电视剧《はた淮悲 でんひさし
2009ねん中国ちゅうごくだい陆京剧《袁崇焕》 おうこころざし
2010ねん中国ちゅうごくだい翰韬はく电视剧《侠隐记 あきら
2012ねん中国ちゅうごくだいしょうなみはく电视剧《あかりたまゆう 刘淼淼
2018ねん中国ちゅうごくだい唐國からくにきょうはく电视剧《袁崇焕 こうあずさ

电影[编辑]

かげ作品さくひん かざりえんじたかしただしみかどてきえんじいん
1959ねん及1976年版ねんばん粤剧电影《みかどおんなはな 靚次はく
1960年版ねんばん粤剧电影《さだ娥刺とら ちょうせい
1984ねん中国ちゅうごくだいちんふところはく电影《そうゆうかい 俞立ぶん
1991ねん中国ちゅうごくだい戴家乐はく电影《はた淮八艳之陈圆圆 韩剑嵘
2013ねん中国ちゅうごくだいおうはく电影《大明だいめいこう しょうぐん
2014ねん中国ちゅうごくだいみちはく电影《繡春がたな こうあきら
2017ねん中国ちゅうごくだいみちはく电影《繡春がたな2:修羅しゅら戰場せんじょう りゅうはしはし

ちゅう[编辑]

  1. ^ きむいさお《袁崇煥評でん》说崇祯“杀死ある逼得杀的とく师或总督,じょ袁崇焕外还有じゅうにん,杀死じゅんじゅういちにん、逼死いちにんじゅう四个兵部尚书中,おうひろししも狱死,张凤つばさりょう廷栋服毒ふくどく杨嗣あきら缢死,陈新かぶと斩首,でんはじめ张国维かわ职下狱,おうざいすすむくまあかりぐうかわ职查办。”
  2. ^ ていたかし袁崇煥りゅうさく楊一おおとりくまぶん范志かんちょうひかり
  3. ^ じゅう一名被殺的巡撫為:あざみおうおう山西さんせい耿如杞せんようとうまごもと大同だいどうちょうつばさあきらじゅんてんちんつとじょうちょう其平山東さんとうかおつぎ四川しせん邵捷はるえいたいらうましげるめいじゅんてんはんひさし,另外かえ有河あるがみなみじゅんなでせんおおとり自殺じさつ
  4. ^ 薛國かん周延しゅうえん
  5. ^ しゅゆかり检多召见ぬし张“みなみ迁图そんてきひだりちゅうまことあきら说:“ちんゆう此志ひさ矣,无人赞勷,迟至いまなんじあずかちんあいちんこころざし决矣。诸臣从,奈何いかん?尔且みつ。”(《ひら寇志》まきはち)。ただしひだりくに卻主张“すめらぎじょう自然しぜんもり社稷しゃしょく”(《すめらぎあきら忠文ただふみ先生せんせいしゅうまきろく);這時给事ちゅうひかりとおるゆび责“あきら睿南迁为よこしま说。”“ころせあきら睿,不足ふそく以安人心じんしん!”(蒋德璟:《悫书》まきじゅう大臣だいじんとげ敢議ろんみなみ遷之ごとむねざいあきらえびすまち访录》《建都けんとじょううん:“とう贼之围京师也,あつしむねまたよく南下なんか,而孤悬绝きたおと尘不贯,いち时既不能ふのうまた不能ふのう必达,とくやめ而身殉社稷しゃしょく。”
  6. ^ 中國ちゅうごく現代げんだい小說しょうせつ姚雪垠うつしなりいちしょ,一再批評這些言官“なりごと不足ふそくはいごと有餘ゆうよ”:“恨言かん與一よいち般文かん無知むちおもんみなお空談くうだんじゅう七年來許多事都壞在這幫烏鴉身上,ことため恨!”
  7. ^ たかし祯刚即位そくい时的ない大臣だいじんりつほどこせ凤来张瑞图こくひろしらい宗道そうどう杨景たつしゅうどうとう刘鸿训とうひともたれたてまつうけたまわとうそんかつらいてきこれ连受到弹劾,职而,也很なんせつ們真てきゆうにんなん作為さくい,甚至しゅうどうとうさら僅能以昏聩无のう形容けいようてい以偉ほどこくさちりゅう宇亮范復いき宗達そうたつほう逢年姚明きょうしゅんたてやすしほうたけしみつぎひとしあるかかわ于文すみ不通ふつうへんあるきもしょう怕事,へび其間,ところ建樹たけき晚期ばんきてきひねえんじあずかとく也是不堪ふかん任用にんよう真正しんしょうゆう能力のうりょくてきうち阁首辅ただゆうゆたかたいひとしあずか周延しゅうえんただしにん品行ひんこうはし。《あかり》说,とくざいけん备的じょひかりみやび负经济才,有志ゆうしよう。及柄ようねんやめおい,值周延しゅうえん儒、ゆたかたいじん专政,不能ふのうゆうしょ建白けんぱく。”
  8. ^ くにさくこう肅端としせいふところすめらぎとうと”。

参考さんこう文献ぶんけん[编辑]

引用いんよう[编辑]

  1. ^ 景山かげやまこう园"たかし皇帝こうてい缢处"为何あらため为"あかりおもえそう殉国じゅんこく". 北京ぺきん青年せいねん报. 2015-06-18. (原始げんし内容ないようそん于2021-01-02). 
  2. ^ きよし·おうはじめ,《きょぎょうどう文集ぶんしゅう》(まき19):“聞之ちょうけい蔚親れつ皇帝こうていしん主題しゅだいいみなとくやくぎょうなま於萬れきかのえいぬじゅうがつじゅうよんにちとらくずし於崇ただしかぶとさるさんがつじゅうきゅうにちうし。”
  3. ^ あかり まきじゅうさん ほん纪第じゅうさん》:“しょうれつ皇帝こうてい,讳由检,ひかりむねだい也,まんさんじゅうはちねんじゅうがつせいははけんりゅうはや薨。てんねんふうしんおう。”
  4. ^ あかり まきじゅうさん ほん纪第じゅうさん》:“明年みょうねんはちがつ,熹宗やましだい渐,召王いれ,受遗いのちちょうそく皇帝こうてい大赦たいしゃ天下でんか,以明ねん为崇祯元ねん。”
  5. ^ あかり·ほん记第じゅうよん》曰:“しか在位ざいいじゅうゆうななねんちかし声色こわいろ,忧劝惕励,殚心。”
  6. ^ 外在がいざいいんたい於丟掉江さんたかしただし皇帝こうてい自己じこ怎麼せつ?
  7. ^ あかり まきじゅうよん ほん纪第じゅうよん》:おのれなりいたりせん,监视ふとし监杜勋降,じゅん抚都しゅ冯等みずのととうどおりもり秩降于自なり,贼遂にゅう关。かぶとたつおちい昌平しょうへいおつ,贼犯きょう师,きょう营兵溃。丙午ひのえうまにち晡,外城とじょうおちいゆう皇后こうごうあまねくずし丁未ていみ昧爽まいそう内城うちじろおちいみかどくずしまん岁山,おううけたまわおん从死。书衣えり曰:“ちん凉德藐躬,うえ干天かんてんとがめしかみな诸臣误朕。ちん,无面祖宗そそうかんむり冕,以髮覆面ふくめんにん分裂ぶんれつ,无伤百姓ひゃくしょういちにん。”
  8. ^ かおるよう编著. 大明だいめい王朝おうちょう. 济南:やま科学かがくわざ出版しゅっぱんしゃ. 2017.02: 62–63. ISBN 978-7-5331-8798-9. 
  9. ^ 杨艳丽编ちょ. ちゅう上下じょうげせんねん. 北京ぺきん联合出版しゅっぱん公司こうし. 2018.10: 564. ISBN 978-7-5502-4729-1. 
  10. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅう》:「かのえとらしんおうけい地租ちそぎんりょうとくむねらんおうそう邊境へんきょうおそれ軍需ぐんじゅつげ匱,めんたから坻等けんなみ塌河地租ちそぎんろくせんさんひゃくりょうきょう時艱じかんふん猷國けいとくまことしょやめ,以遂ちゅう悃。」
  11. ^ おうとくたかしただしのころく》:「うえざいしんていそくゆう令名れいめい衣冠いかん不正ふせい內侍。すわ欹倚,つくりやましげん苟笑。」
  12. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「みかどはつおもんばか不為ふためちゅう賢所かしこどころようふか韜晦とうかいつねしょうびょうあさうけたまわ召。」
  13. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ》:「あきら熹宗くずれおとうとよしけん卽位そくい改元かいげんたかしただし。」
  14. ^ あかり》:「ちょうそく皇帝こうてい大赦たいしゃ天下でんか,以明ねんためたかしただし元年がんねん。」
  15. ^ あきらきたりゃく》:「じゅうきゅうにちちゅうけんあずか群臣ぐんしんたれすだれ宰相さいしょうほどこせ鳳來ほうらい曰:どお不可ふかかんがえ,且學とくちゅうけんえつ而罷。しょしん請信おういれやまし。」
  16. ^ たかしただしのころく》:「熹宗だいややうえにゅう內。忠勇ちゅうゆう營提とくぬりぶん輔,とう也,そちへい護衛ごえいこうぶん輔告じん曰,當日とうじつ天命てんめいあらためちゅうけん敢有ぎゃくはかりごといやのりおうめいじがか於俄ごろみみ。」
  17. ^ だん遷《くに榷》(まき八十八やそはち)
  18. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ 》(だいななじゅうかん):「ちゅうけん請王いれおう危甚,そで食物しょくもつ以入,敢食大官たいかん庖也。」
  19. ^ あきらきたりゃく》:「みかどそで𥻰糗以いれ嘗宮中食ちゅうじき。」
  20. ^ たかしただしみや》:「懿安召上いれまましだいすべみつ戒云:「勿食宮中きゅうちゅうしょく。」じょうしたがえしゅうすめらぎおや家作かさくむぎもちふところ以自餉。」
  21. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「ひがししょうふとしかんちゅうけん辭任じにんぬるむねまこと。」
  22. ^ あきらきたりゃく》:「ぎゃくけんはい,疏辭しるしつとむうえじゅんあいだじゅうとげだつつかさあや及廠しるしはつ白虎びゃっこ殿どのもりれいこう數日すうじつ,疏辭おおやけこうはくさん爵。うえじゅんあらためまた疏繳しん誥券たくちょ吏、こうさん查收。」
  23. ^ あかり.宦官かんがんでん》:「おうもとみのりちゅうけんあくふか儆備,其黨危。楊所おさむ、楊維かき先攻せんこうちぇていしゅう以嘗みかど主事しゅじりくきよしはらぜにもと愨,員外いんがいろう躬盛とげ交章ろんちゅうけんみかどなお未發みはつ。於是よしみきょうみつぎせいせんよしみちょう劾忠けんじゅう大罪だいざいいちなみみかど蔑后,さんろうへい,四無二祖列宗,剋削籓封,ろくきよしなな濫爵,はち掩邊こうきゅう朘民,じゅうつう關節かんせつ。疏上,みかど召忠けん使つかい內侍讀之。ちゅうけんだい懼,きゅう重寶ちょうほう啖信ていふとしかんじょおうもともとめかいおうもとちゅうけん博徒ばくと也。みかど知之ともゆき,斥應もと十一月じゅういちがつとげ安置あんちちゅうけん於鳳ひろいのち逮治。ちゅうけんぎょういたり阜城,聞之,あずかちょう欽偕縊死いし。」
  24. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「ひがし安置あんちふとかんちゅうけん於鳳さとし曰:ちん聞去あくつとむつき御世みよ大權たいけん人臣じんしんしょうゆう烔戒。ぎゃくあくちゅうけん先帝せんてい左右さゆうほろろうややかり恩寵おんちょうちゅうけんおもえ盡忠じんちゅう報國ほうこく,以酬たかしぐう專務せんむたくましわたしうえとうぬすめ竊威ぶくかわだつなりごう,含冤ゆき偪裕ちょうりつ致捐せいむねはた敢諫忠直ただなおしんそぎだつまた勾同心腹しんぷく酷刑こっけいげんたえ,誣捏賍私,たて斃多いのちわかあしなえ諤斃於杖やわらりょう殞於りつかせ臣民しんみんじゅうあし道路どうろ以目,而身受さん爵,たかしとうごく人臣じんしんゆうさかえつうどうきゃくひょううらため奸。先帝せんていわたるとめときなお叨恩すすむ秩,ほろび有紀ゆうききょくよりゆき祖宗そそう在天ざいてんれいてんいや其惡,かみだつ其魄,罪狀ざいじょう畢露,ほんとうすん殛,ねんあずさみやざい殯,しゅうとおけおおとりようはん家產かさんせき沒入ぼつにゅうかん。其濫おかせそう戚俱けむり瘴永戍。はつみかど神明しんめいみさおちゅうけんとうもり莫發其奸,楊維かきくび紏崔ていしゅうはじめあい携貳,なお剌忠賢也けんやりくきよしげんぜにもと愨直ざいちゅうけんいたりせんよしみちょうじゅう大罪だいざい疏上,乃詳つきちゅうけんかちいきどお,哭訴于帝,不動ふどうしんてい內監じょおうもとためみかどしょにんちゅうけんこごめごと,餽以たからゆいため兄弟きょうだいつげ以辭ひがししょうしるしおうもとはてためあいだいたりはじめ謫之,并籍其家,いく安置あんちおうもと於顯りょう。」
  25. ^ ちょう實錄じつろく》:「宦者ちゅうけんはつはいおおとりぎょういたり阜城,また縊死いし,幷其りょうきょう誅之,せきぼつ家財かざい。」
  26. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ》(だいななじゅうかん):「じゅういちがつちゅうけんきゃくふく誅罷。」
  27. ^ たかしただし實錄じつろく》(まきいち):「つい卹故ひだり鄒元しるべこうよじりゅうひだりふく楊漣、ひだり僉都ひだりこうこう尚書しょうしょ馮從われおうてんじゅんなでふみしゅうおこりもとさとしとく繆昌翰林かんりん檢討けんとうひのといぬいがくきゅうごとちゅう國華こくか大中だいなかふとぼくてらしょうきょうしゅうちょうみずひろしちゅうしゅうそうけんみこともとおうますなつこれれい、袁化ちゅう、吏部ろうちゅうつぎおう員外いんがいろうしゅうじゅんあきら刑部おさかべいん外郎ういろうちょう汶、こうろうちゅうまん燝、陝西せんせい按察副使ふくし顧大あきらあげしゅうりゅう鐸,かくおく廕有。」
  28. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「ちょうさとし吏部曰: きゅう輔韓爌忠謨直ぶしふち識宏ふか,劻勷あとちょ方今ほうこん時事じじ艱,ゆう斯良弼,あにちょうたがえきん? 茲特したがえかくしん及臺しょうしょしん請,以原かん起用きよう入閣にゅうかくとくせい揆席,しき燮之こうなんじそくかんいたりあつし請,こく就用,ふくちんがわせきのべ佇至。」
  29. ^ あかり.しめぎつたえ》:「そうれつみかど嗣位,(しるべ)そく拜禮はいれい尚書しょうしょけんひがしかく大學だいがくたかしただし元年がんねんさんがつ入朝にゅうちょう。」
  30. ^ あかり.ぜにりゅうすずでん》:「そうれつみかど即位そくい,以閣しんりつごくほどこせ鳳來ほうらいちょうみずほこく𣚴みなちゅう賢所かしこどころよう不足ふそく倚,みことのり廷臣ていしん推舉,れつじょうじゅうにんみかど仿古まいぼくてん,貯名きん甌,焚香肅拜,以次さがせしゅとくりゅうすずしめぎらい宗道そうどう、楊景たつ。輔臣以天おおゆえ,請益いちにんふくとくしゅうどうとうりゅうひろしくんなみ拜禮はいれい尚書しょうしょけんひがしかく大學だいがく明年みょうねんろくがつりゅうすず入朝にゅうちょうたてきょくとうよんにん俱先やめ宗道そうどうけいたつまた以是がつしるべためくび輔,りゅうすずおおとりくんきょうこころ輔理,朝政ちょうせいややきよし。」
  31. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「袁崇煥起陞兵尚書しょうしょけん察院みぎふく鎮行あたりとくあざみりょうとう萊、天津てんしんとうしょ軍務ぐんむ移駐いちゅう關門かんもん。」
  32. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「みずのととり廷臣ていしん及督袁崇煥于平臺ひらだいみかど慰勞いろうたかし煥甚いたりたかし煥銳しか以五年復遼成功自許,慷慨こうがい請兵械轉餉,凡吏用人ようにん兵部ひょうぶ指揮しき戶部とべ措餉、げん持論じろん,俱與しんしょう呼應こおうはじめ成功せいこうみかどいのちそくせき紓遼みんもちかくしんいん撤回てっかいおうしん滿まんかつらたまものけんたまもの...たまものたかし煥酒饌」
  33. ^ 朝鮮ちょうせんおう朝仁あさに實錄じつろく》:「うえ曰:"ちゅう朝政ちょうせいれい如何いか?"霶曰:"しん皇帝こうていかのえいぬせい也。ひとみなごと,勵精。且倚じゅう袁崇煥,召見於便殿どの,慰諭備至,たかし煥對曰:‘すめらぎじょうかりしん便宜べんぎのりねん東夷あずまえびすひらめちょんりょうふく。’すめらぎじょう曰:‘苟能ねんめつとりこちん惜封こうしょうきょう努力どりょく,以解天下でんかたおせがかこれ。’たい曰:‘謹遵あかりむね,鐫之肺腑はいふ。’すめらぎじょうとくたまもの蟒龍ころもたまたいぎんぬさうん。」
  34. ^ あかり.閹黨でん》:「ほうただしけんはいそうれつみかどおさめ廷臣ていしんごとはたていしたがえぎゃくあんだい學士がくしかん爌、しめぎぜにすずよくこうさがせじゅ怨,僅以よんじゅうにんじょうみかどしょうこれれい再議さいぎまた以數じゅうにんじょうみかど懌,れい以贊みちびけよう戴、頌美、諂附ため,且曰:「內侍どう惡者わるものまたとういれ。」爌等以不知ふち內侍たいみかど曰:「あにみな不知ふちとくかしこにん怨耳。」閱日,召入便殿びんでんあんゆうぬの囊,もりあきら疏甚おびただしゆび曰:「此皆奸黨頌疏,あんめい悉入。」爌等みかど不可ふかかい,乃曰:「しんとうしょくざい調ちょうむねさんしゃくほうしょ習。」みかど召吏尚書しょうしょおう永光ながみつとい永光ながみつ以不習刑めいたい,乃詔刑部おさかべ尚書しょうしょたかしまことますひだり曹于汴同ごと,於是あんめい羅列られつだっのこしゃたかしただしねんさんがつじょうみかどため詔書しょうしょ頒示天下でんか。」
  35. ^ たかしただしみや》:「うえすんで處分しょぶん奄,かくしん僅以よんじゅう人為じんいあまりとうれつあん以請。上諭じょうゆ以「しょう頌贊しるべそくためだいみなれついれかくしん以「そと不知ふち內事」たい。閱日,うえ召閣しんいれさきゆう累累るいるい指示しじ曰:「此皆べにほんこび璫實あと也。」于是あんしょ羅列られつしゃ甚廣。」
  36. ^ たまきょうしんたん》(まきはち)(僅京じょうぼうさん):「つかさあやかんふとしかんちょう邦治くにじそう為恭ためちかしんぎんりょうことたてまつ聖旨せいし:這逆はんちゅうけんそうぼうへんぎんさんまんきゅうせんひゃくよんじゅうきゅうりょうきゅうぜにふんちょ交進內庫,あきらすう查收。其未完みかんしょ,俟完另進。該部知道ともみち。」
  37. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「たかしただし元年がんねんじゅういちがつつちのえうまついたち戶部とべ疏報かくなでへんぎゃくほこらぎんまんせんひゃくさんじゅうはちりょうゆう。」
  38. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「みずのえうまちょく隸廵按卓邁疏むくいせきぼつちぇていしゅう資產しさんぎんななまんいちせんひゃくよんじゅうななりょうせんかねさんひゃくよんじゅうさんりょうせんはこひつさんひゃくれいななけんしょばこじゅうさんせきぼうじゅうろくしょ、討ななひゃくよんじゅうきゅうあいださんひゃくさんじゅうろくごろ。盖先かくれ慝,しょせき僅十いち。」
  39. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「じょうじゅんなでちょうおおとりつばさ疏報,にんおかけんせきぼつでんしかこう賍私ぎんじゅうはちまんよんせんはちひゃくろくじゅうりょうきむはなくびかざり杯盤はいばんとういちひゃくじゅうさんりょう銀器ぎんきとういちせんさんひゃくりょう銅錢どうせんじゅうよんまんはちせんはちひゃくぶんたまたいじゅういち、備金たいさんじょう金錢きんせんたいさんじょうしつにんおかななしょていしゅうしょ住宅じゅうたくいちしょ、五犀琥珀瑪瑙盃盤一百二十二件、たまかんむりいちこう。」
  40. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「誅罪かんえいさだせきぎんじゅうきゅう萬金まんきん
  41. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「おうてんじゅんなで曹文衡奉むねひらき顧秉けんあなぐらぞうれいこうともけんぐまひらけもとどうこんやまけん拯掘ぎんよんまんよんひゃくよんじゅうはちりょうぜにじょ秉謙おう輸各ねんぜにかていちせんよんひゃくじゅうよんさんぜにななふんしゃ抵作こんやましょうみんせいこうみかどれいかいこうよう
  42. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「きゅうごとちゅう楊時疏言,諸賢しょけんはい錮,よしちぇたかし而為...また如舊なでたかしおうさるむさぼけがれまんじょうとめとい賍銀いちまんりょう不為ふため追究ついきゅうこん雖訪さつやめそぎ其名,しか如此るいしゃなおとぼしじん...」
  43. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「中書ちゅうしょ范汝うえ南京なんきんもり,催顧秉謙あなぐらぎんさんまんはちせんはちひゃくりょうもとこころざしきち賍銀さんまんせんさんひゃくきゅうじゅうりょう...」
  44. ^ 近代きんだいゆう學者がくしゃみとめため明代あきよ末葉まつよう明神みょうじんむねまんれきじゅうはちねんいたりたかし祯帝たかしただしじゅうななねん進入しんにゅう中國ちゅうごく歷史れきしうえだいしょう冰河中國ちゅうごく歷史れきしじょうさい寒冷かんれいてき時期じきまんれき天啟てんけいたかしただし年間ねんかんひでりわざわいへんとく越來ごえくえつ頻繁ひんぱん大旱たいかんとしてき比率ひりつ也在增加ぞうか
  45. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅう
  46. ^ 畢自げんささえそう》(りょう餉不じきずみきゅう疏):「其出浮於歲入さいにゅうしゃじつ該銀いちひゃくじゅうまんせんひゃくりょう... ”
  47. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「ふくかんふとしぼくてらごとかくきょう會同かいどう廵視きょう營科どう查核つねみつるろうくら及東西二にしにそん貯銀僅一まんはちせんさんひゃくじゅういちりょう...」
  48. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅうはち》:「(ふとし倉庫そうこ)ろうくらいちこう天啟てんけい三年間查盤除折耗並追陪外,實在じつざいぎんはちまんせんよんひゃくはちじゅうよんりょう...しんふくねんせき貯之しょあまり僅爾,匱乏ぞうふかあしおどろきしん...」
  49. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅうろく》:「ふとしくら歲入さいにゅうさんひゃくさんじゅうまん,而歲出さいしゅつ該五ひゃくあまりまんしんおもえ而無さく也。しょう直之なおゆきとしちょうさんひゃくさんじゅうまん,而九邊之歲支已該三百二十萬,しんおもえ而無さく也...ようざいしゃもりなまざいしゃもん,而臣伎倆ぎりょうきゅう矣...」
  50. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅういち》:「總督そうとくあざみりょう閻鳴たいそうよりどころ密雲みつうんけんさるほんがつはつろくにち微震びしんはつ九日ここのかみにくときふく大震たいしん數日すうじつ內兩しめせ警,甚為變異へんい且目いなご蝻四盜賊とうぞく橫行おうこう...」
  51. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅう》:「こんものりょくすんでつたなしげるおこり,以致百姓ひゃくしょう流亡りゅうぼう盜賊とうぞくたかし。」
  52. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきはちじゅう》:「おうてんじゅんなでいちさぎげん,三吳長江盜賊鴟張,うみぬすめ縱橫じゅうおうまた紛紛ふんぷん嘯聚...」
  53. ^ あかりほん纪第じゅう—熹宗》「ろくねんはちがつ陝西せんせいりゅうぞくおこりゆかりやすしはん廣元ひろもと九月くがつまいりはた楊明てる齎敕招諭すい西にしぞくころせ十二月じゅうにがつ甲子きのえね,潯州ぞくころせ守備しゅび蔡人りゅうななねんさんがつ戊子ぼしきよししろみんへんころせけんちょう耀。なながつちょう海賊かいぞく寇廣ひがし。」
  54. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきななじゅうきゅう》「天啟てんけいろくねんじゅうがつ庚申こうしんじゅん按直隸御なにはやかなでこんとし風水ふうすい異常いじょういたりあきひでりいなご肆虐,飢饉ききんしょうもち盜賊とうぞく蠭起,はじめかわ一帶江海相連巨盜出沒...」
  55. ^ あかり.畢自いむつたえ》「さきちゅうけんらんせいへん餉多かけ
  56. ^ 畢自げんささえそう》(やすしねがいへいへんたば躬待ざい疏):「かくあたりきゅう餉亦ゆうおそいたりじゅうがつ...」
  57. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「だい學士がくしこく𣚴うえごとしんとう連日れんじつせっすめらぎうえはつかくあたりあきらかなでみなためぐんかけ餉,せんふとまで陝西せんせいのべ綏哀籲,雖不同地どうち而告かつえ...近日きんじつ臺頭たいとう軍鼓ぐんこ譟,まこと以餉がくじき,而天津てんしんうん十数萬兩至今毫無措辨,また嘆矣。從來じゅうらいぐん什于百姓ひゃくしょう,而邊ぐんにがまた什于內軍人情にんじょういちにちさいしょくそくかつえかくぐんがつ粮、くだり粮既支給しきゅういきおい必展てんしょうかしいたり于賣妻子さいし、鬻衣かぶと以償,すわ使つかい銳氣えいき耗于かのえよび雄心ゆうしん銷于枵腹...」
  58. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「陝西せんせい廵撫えびす廷宴疏言,臨鞏餉缺いたりろくねんかずいたりじゅうあまりまんやすし鹵邊堡缺ねんさんねん不等ふとうかた鎮京うんまんれきよんじゅうななねんいたり天啟てんけいろくねんきょうかけぎんじゅうまんきゅうせんりょうかくぐんはじめなおてんころもうりこんのり鬻子つまはじめなお沿街乞食こじきこんのりはなれせん迯,はじめなおすなちゅう偶語ぐうごこんのり公然こうぜん噪喊矣。乞將ぜんかけぎんりょうそくはつ,以奠危疆。ほう聞。」
  59. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「くら總督そうとく戶部とべみぎさむらいろう南居なごえきとう疏言,九邊要害半在關中,芻餉需獨ばいしょう。邇因宇內多事たじつかさみのりつげ匱,のべ綏寧かたさん鎮額かてかけいたりさんじゅうろくがつ去歲きょさい闔省あらひでりへんかたまいよんせん軍民ぐんみん交困,囂然其樂せいしん窮極きゅうきょく思亂おもいみだれ大盜たいとう蜂起ほうき,刼殺へんざいざいつげ...」
  60. ^ あかり.袁崇煥傳》「これがつかわみずうみへい戍寧とおしゃ,以缺餉よんがつだい噪,あまりじゅうさん營起おうばく繫巡なで自肅じしゅくそうへいかんしゅうめつうばんちょうさかえ、推官涵淳於譙ろうじょう。」
  61. ^ たかしただし實錄じつろく》(まきいち)「きのえさる遼東りゃおとんやすしとおぐん嘩;以軍かてよんがつとくはついんだい噪,じゅんなでみぎ僉都自肅じしゅく自肅じしゅく嘗為奏請そうせい戶部とべこれはつ
  62. ^ たかしただしちょう编》(たかし祯元ねんはちがつ):「じゅんてんじゅんなでおうおう豸報,あざみもんかつえぐんなながつ十日鼓噪索餉,焚搶火藥かやくおおかた措處はじめかつ觧散,こん雖歸,請先發せんぱつかけさんがつ,以安ぐんしん。(たかしただしみかど)しも所司しょしそくぎょう
  63. ^ たかしただしちょう编》:「あざみ鎮亂へいふくほう,仍著しょうねんれいぎんりょう遵旨そくはつ,以濟ひだるぐん。」
  64. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ》(だいななじゅうかんたかしただし治亂ちらん):「じゅうがつおのれうし,召廷臣ていしん于平だい,以錦しゅうぐん嘩,袁崇煥請餉疏しめせかくしん。」
  65. ^ たかしただしちょう编》:「 おのれうし,召廷臣ていしん于文はな殿どの,以錦しゅうぐん譁,袁崇煥請餉疏しめせかくしんかくしんもとめまことはつみかどせめ戶部とべ尚書しょうしょ畢自げんまた曰:たかし煥前請汰へい减餉,いまなん仍之乎? 兵部ひょうぶ尚書しょうしょおうざいすすむ曰: 减汰當來とうらいとしかくしん請發じゅうまんきんれいさむらいろう周延しゅうえん儒曰:關門かんもんむかしぼうあたりこん且防へいぜんやすしどお譁即餉之,こんにしきしゅうこうゆうまた餉之,倘九邊各倣視其何以應?」
  66. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ》(だいななじゅうかんたかしただし治亂ちらん):「ふところそうたかしただしもと年春としはる正月しょうがつきんころもかざり侈僭及婦おんな金冠きんかんほうたいとうしたがえりょうたかしげん也。」
  67. ^ おうとくたかしただしのころく》:「うえきょうつとむ節儉せっけん,勵精かみむね以來いらいぜん羞日まんあまりきんうえいのちつきげんただしそんひゃくふんいち舊制きゅうせいかんほうくつくついちえきうえいのちがついちえきたま熙宮伶人れいじんたていのち黜散。」
  68. ^ たかしただしみや》:「うえ講筵こうえんしょうらころもそでほろそん,銜於がいうえ以手おさめこうかんぼうそう曰:ころも敝雖於儉,しかよし德也とくやなに必諱。」
  69. ^ あきらきたりゃく》:「れつ皇帝こうていつとむせいよいころもさんにちいちあさしもよん,輒出御殿ごてん。」
  70. ^ おうとくたかしただしのころく》:「うえ雞鳴而起,夜分やぶん寐,往往おうおうこげろうなりやまし宮中きゅうちゅうしたがえ宴樂えんらくごと。」
  71. ^ ちょう實錄じつろく》:「しん天子てんし聰明そうめい邁古,じゅうぎょうさつみな宸翰しんかん,摠攬けんつな天下てんか想望そうぼう太平たいへい。」
  72. ^ おうとくたかしただしのころく》:「熹宗在位ざいいななねんはたかみむね四十餘年蓄積搜括無餘。へいきょう以來いらい,帑藏空虛くうきょ。」
  73. ^ ひがしりん列傳れつでん》(まきじゅうはち):「なつがつ,召對平臺ひらだいおおとりくん以民せいこまゆかり吏治茍且,請以ひさにんため第一義だいいちぎいんこも南戶みなと尚書しょうしょ畢自いむ善治よしはる兵部ひょうぶ尚書しょうしょおうざいすすむぜん練兵れんぺいみかどみなおさめよう。」
  74. ^ あきら實錄じつろくたかしただし實錄じつろく》(まきいち):「おつとりさとし吏、へいさん曰:『さく召對きゅうきょうどうとうかん,輔臣りゅうひろしくんごと官員かんいんさら調ちょう甚速,わかくだりひさにんほうおわり鮮實こう」;またうんうみ內役しげるじゅう不可ふか」。ちんせつおもえこれさら調ちょうそくのりみんしげる擾;かんひさにんのり成功せいこう今後こんごはん、臬、ぐん、邑,つとむひと地相ちそうよろし,俱如舊制きゅうせいげんかんこも人才じんさい私市きさいちおん。吏部以薦疏成さつ,其後隳職僨事,舉主連坐れんざりょう、黔兵事へいじゆいやめはたしんきゅうへい餉造簡明かんめいさつ進呈しんていわか有司ゆうしわたしはぶけちょくなで、按即行そっこうさんしょさんしゃく俱在,だんなんじかしつかさみのり繫軍こく命脈めいみゃくせいいわおこころけいこれしんあにかち厥任!いたりしょこも畢自げんさいひんけんゆう;如戶尚書しょうしょかけ以自いむりょう其職』。とげ召自げんため戶部とべ尚書しょうしょ
  75. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「おこり陞畢げんため戶部とべ尚書しょうしょ
  76. ^ あかり.畢自いむつたえ》(まきじゅうはち):「たかしただし元年がんねん,召拜(畢自げん)戶部とべ尚書しょうしょ。」
  77. ^ あかりこころざしだいじゅうよん. しょく貨五》:「たかしただしはつ關稅かんぜいごとりょうぞういちぜにつうはちかんぞうまんりょうさんねんふくぞうせんおもんみ臨清僅半,而崇ぶんもん河西かさいつとむ俱如きゅう戶部とべ尚書しょうしょ畢自げんぞう南京なんきんせん稅額ぜいがくいちまんためさんまん。」
  78. ^ たかしただし長編ちょうへん》「きゅうごとちゅう瞿式耜言とうかみびょう初年しょねん...はらつとむ兵部ひょうぶさむらいろうくにはなはちめんゆうざいなでじつにょう經濟けいざい,舉朝不知ふち...」「おっとりょう彥與くにはなぐまあかりぐうひとしあたりざい...」
  79. ^ あかり·くにはなつたえ
  80. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろく》(まきはちじゅういち):「きゅうごとちゅうしゅうまれれい疏言,しんこうかくあたりゆうがくへいゆうがく餉,乃籍はんそら,內外相がいしょうおかせそくせんいち鎮,よりどころ紙上しじょうへい調ちょういちまんせん,鎮據ざいへいとめいちまんいちせん。」
  81. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろく》(まきはちじゅういち):「せき內見へい不滿ふまんさんまん,必足さん萬始可為關外之後勁。せきがいのりへいろくまんあまりうまさんまんはちせんあまりざいしゃ俱未ゆう此數(そく107300てきへいがく)。」
  82. ^ ちんたてひろしぐんかてきょう需與あきらきよし遼東りゃおとん戰爭せんそう(1618-1642)》
  83. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「(おう)ひろしそう近日きんじつ甘肅かんせい廵撫うめ煥裁へいいちせんめい,汰餉いちまんりょう,此是能これよし汰者。うえふく舉崇どう疏,まつだんぶんりゅう牽不なり牽、掣不なり掣,はついいじゅうまん不可ふかみちしんおう廷試勒令まんはちせん就,たっじゅうまんあまりわかぶんりゅうたっけつ肯去いちにんとう...
  84. ^ 朝鮮ちょうせんおう朝仁あさに實錄じつろく》:「且聞朝臣あそん以毛そちおかせ餉,ゆう上本うえほんしゃ平臺ひらだい召對てきはた使つかいけんじ俘,すめらぎじょう召兵尙書とい曰:‘ぶんりゅうけんじ俘,ある前者ぜんしゃおかせ餉亦,該部しょう査以聞。’於是,戶部とべちゅうしょくおう兵備へいび廷式、まご軍門ぐんもんこく楨皆曰:‘ぶんりゅうゆうぐんまんろくせんいちねん餉,殆十あまりまん,而不能收よしかずふくりょういちしゃく國家こっかきょいたり此,敕令兵部ひょうぶしゃくしょ。’うんもうそちわかとく如前おかせ受糧餉,のり其勢とくせめ辦於わが前頭まえがしら必有なんしょ患矣。」
  85. ^ たかしただし記聞きぶんろく》:「經略けいりゃく袁崇煥受かくしんぜにりゅうすずむね巡歷じゅんれき其地,俟彼にゅう謁軍もん而斬。聞錢こうまた受教於陳まゆこう,以為袪除うみ內一だい蠹,ため奇功きこう秘計ひけい也。厥後部下ぶか眾,とうとりこさくたかしあなともとくためゆうれつ不能ふのう不歸ふきとがめくびごとうん。」
  86. ^ おうとくたかしただしのころく》:「さき,袁崇煥密授大學士がくしぜにりゅうすずむね,紿殺そうへいぶんりゅう。」
  87. ^ ちんたてひろしぐんかてきょう需與あきらきよし遼東りゃおとん戰爭せんそう(1618-1642)》
  88. ^ 美芳みよし京師けいし戒嚴かいげんあずかかて餉肆おう:以崇ただしおのれへんため中心ちゅうしんてき討論とうろん》,《明代あきよ研究けんきゅう》 23 (2014/12) Pp. 91-125
  89. ^ たかしただし記聞きぶんろく》:「たかしただしさんねん北兵きたへいひさたむろなが平等びょうどうしょ朝廷ちょうていちょうかて甚急,しょうみんかち敲撲いんかてせん及修,各州かくしゅうけん俱封客船きゃくせんうんかて河中かわなか,甚至ふう及游せんだいため擾害。」
  90. ^ おうとくたかしただしのころく》:「さき,袁崇煥密授大學士がくしぜにりゅうすずむね,紿殺そうへいぶんりゅうちゅうぐんなんつよし曰:「いいさん不幸ふこう。」たかし煥問,曰:「なまぶんりゅうてん不幸ふこうようぶんりゅう朝廷ちょうてい不幸ふこうころせぶんりゅうおおやけ不幸ふこう。」いく京師けいしつげ警,たかし煥入援,召對平臺ひらだいたまものてん裘、䌽幣、銀牌ぎんぱいへいたむろ畿南,いち戰敗せんぱい績,ふく召詰うん:「しか擅殺だいそち,以至今日きょういままた不能ふのう患禦績,則平のりひら恢復かいふくげんなんざい?」いのちにしきころもまもる拿問。そうへいなんつよし大壽だいず聞之,引兵まえじゅん營獲いち木工もっこううんたかし謀反ぼうほん,以為諜,しも鎮撫ちんぶかんてのひらけい指揮しきわか璉鞫とく其枉,そうふくにしきころもまもる以為まこと。於是,喧嘩けんかたかし謀反ぼうほん人人ひとびときり。及行けい百姓ひゃくしょう臠食其肉。 たかし煥誤こくつみかたところ逃,以為はかりごと反則はんそく冤矣。」
  91. ^ あかり.袁崇煥傳》:「しかじん驟遭へい,怨謗まがえおこりいいたかし煥縱てきようへいちょういんまえどおり和議わぎ,誣其引敵おびえはたため城下じょうかめいみかど頗聞不能ふのう惑。かいわがだいきよししつらえあいだいいたかし煥密ゆう成約せいやくれいしょ宦官かんがん知之ともゆきかげたて使。其人奔告於帝,みかど信之のぶゆきうたぐ十二月じゅうにがつついたちさい召對,とげばくみことのりごく大壽だいずざいつくりせんぐりしつ措,そくようへい叛歸。」
  92. ^ あきら實錄じつろくたかしただし實錄じつろく》(まきふところむねはし皇帝こうてい):「遼東りゃおとんへいつぶせりょうへいもとかんたかし煥恩,滿まんかつらあずか大壽だいずまた互相うたぐ大壽だいず輙率へいかえりやすしとお遠近えんきんだい駭。」
  93. ^ おうとくたかしただしのころく》:「じゅういちがつおこりだい學士がくしまごうけたまわそう以原かんけん兵部ひょうぶ尚書しょうしょとくへいちゅうとおりしゅう...とき袁崇煥被逮,せきやすし兵馬へいばつきつぶせうけたまわそうひそか調ちょうりゅうなでさとしまたため大壽だいずべつしろうえいのち移駐いちゅう關門かんもん十二月じゅうにがつじゅうよんにち抵關,人心じんしん乃定。大壽だいず謁見えっけんれいところみつるさん萬於教場行誓師禮,沿海えんかいいれむくいちゅうちょうはじめせきやすし恙。」
  94. ^ おうとくたかしただしのころく》:「正月しょうがつまごうけたまわそう恢復かいふくよんしろぬの奏聞そうもん上告じょうこくびょう,佈告中外ちゅうがいうけたまわそうふとしでんかげ一子錦衣衛指揮僉事,世襲せしゅうたまもの白金はっきんせんりょうふく いちかさね此關せい一新いっしん。」
  95. ^ あかり.ていさんしゅんでん》:「京師けいしへい大臣だいじんだい譴。」
  96. ^ あかり.たかしまことますでん》:「ねんふゆわがだいしんへいうす都城みやこのじょうごくしゅうりゅうなかきんとうひゃくななじゅうにんやぶ械出,よく逾城,みかどふるえいかしたまことます及左さむらいろうえびすしょうつつみろう主事しゅじ敖繼さかえごくよくおけこれ...まことますはしかた廉直れんちょくあげれき中外ちゅうがい具有ぐゆうごえ績,以詿誤じゅう譴,天下てんか惜之」
  97. ^ あかり.おうひろしでん》:「ねんじゅうがつわがだいしんへいよし大安たいあんこういれ都城みやこのじょう戒嚴かいげんあまねきゅうせい四方しほうへいにゅうまもるとく袁崇煥,じゅんなでかい經傳けいでんかく琮,そうへいかん大壽だいずちょうりつきょう滿まんかつらほう祿ろくゆう、曹鳴かみなりとう先後せんごいたり不能ふのうこばめだいしんへいとげ深入ふかいりみかどゆう甚,十一月じゅういちがつ召對廷臣ていしんさむらいろう周延しゅうえん儒言:「ほん兵備へいび禦疏ゆるがせ調度ちょうど乖張。」檢討けんとうこう煜繼,且曰:「むねいちちょうなんじ夔,將士しょうしふるえ悚,強敵きょうてきよい遁。」みかど頷之,とげひろしごく,以左さむらいろうさるよう懋代。明年みょうねんよんがつひろし竟瘐ひろろんざいふくすわだい辟。」
  98. ^ あかり.かん爌傳》:「いたりじゅうがつだいしんへいにゅう畿甸,都城みやこのじょう戒嚴かいげんはつ,袁崇煥入朝にゅうちょう,嘗與ぜにりゅうすずあたりごとりゅうすずひがしりんとうさきがけ也,永光ながみつひとしはかりごといんたかし煥興大獄たいごくつきかたぶけひがしりん。倡言だいしんへいいれゆかりたかし煥殺ぶんりゅうしょ致。としとげくびおさむりゅうすず,逐之。明年みょうねん正月しょうがつ中書ちゅうしょ舍人とねりなおたからきょうげんだき故由ゆえよし輸貲すすむまた劾爌ぬし款誤こく,招寇欺君,ぐん邑殘やぶむねしゃ阽危,不能ふのうしつらえ一策いっさく,拔いちにん坐視ざし成敗せいばい,以人こく僥倖ぎょうこうむべあずかりゅうすずなみ斥。其言ぬし款者,以爌,たかし煥座ぬし也。みかどおも爌,貶抱秩。なにひだり庶子しょしちょうすすむ以遷擢愆怨爌,また劾之,而工主事しゅじ逢申劾疏つぎじょう。爌即さん疏引やましみことのりたまもの白金しろがねあやぬさはせえき行人こうじんまもる,悉如つねてん。」
  99. ^ あかり.畢懋りょうでん》:「かい京師けいし戒嚴かいげん尚書しょうしょちょうおおとりしょう以下いかみなざい,懋良とくばら致仕ちし。」
  100. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ 》(だいななじゅうかんたかしただし治亂ちらん)」
  101. ^ ちょう實錄じつろく》(たかしただし元年がんねん,1628ねん):「しん天子てんし卽位そくいゆうあらため紀之のりゆきごと引用いんようるい退すさ斥魏宦之とうあさちょ淸明せいめいうん。」
  102. ^ ちょう實錄じつろく》(たかしただし元年がんねん,1628ねん):「うえ(朝鮮ちょうせんじん)曰:しん天子てんしひじりあきらうんちゅうちょうことだい於前耶?たい曰:ひとみなしょう皇帝こうていひじりあきら,而玉かわかん需索ことばい前日ぜんじつ矣。
  103. ^ ちょう實錄じつろく》(たかしただし元年がんねん,1628ねん):「庚午こうご/うえ(朝鮮ちょうせんじん)こうしょでん》 《しゅんてんへんこう訖,引見いんけん登極とうきょく使かんなんじ溭、副使ふくし閔聖ちょう書狀しょじょう官金かんきん尙賓とううえ曰:しん皇帝こうていあきらせいうんちゅうちょう舊習きゅうしゅうひたすらへん乎?なんじ溭曰:於前しょ聞,凡錢貨皆にゅう內庫,且過於察察云矣。せいちょう曰:雖似察察,ことおお疎漏そろう關上せきじょう軍兵ぐんびょうせんきゅう餉,ぐんちゅうとげさくみだれ,袁帥らい其魁,こんのりややていうん矣。うえ曰:天啓てんけいゆうはいおけこれにんまたとくざいしゃこんのりつきれいかえあさ乎?なんじ溭曰:ゆうかんひろしゃにんみな倚重,而方はい黜于がいわかおこり而用のり必多さらはりにんみなもちうんうえ曰:中國ちゅうごく以新皇帝こうてい天啓てんけいのりなん如云耶?なんじ溭曰:あに於天けい乎?はつせいさき誅魏宦,にんみな想望そうぼう太平たいへいこんのりやや如初,失望しつぼううん矣。
  104. ^ あきら實錄じつろくたかしただし實錄じつろく》(まき):「陝西せんせいじゅんなでえびす廷宴、のべ綏撫だけ和聲わせいかくそうらくがわじゅん三水さんずいりゃく清水しみずなるけんかんじょうむべきみ中部ちゅうぶ石泉いしずみむべかわ、綏德、かや、耀、せいやすし、潼關、陽平ようへいせききむ鎮關諸處しょしょりゅうぞくほしいままかすめ。」
  105. ^ あきら實錄じつろくたかしただし實錄じつろく》(まき):「おのれかたげん逃兵かすめ涇陽。」
  106. ^ たかしただし長編ちょうへん》:「尚書しょうしょ畢自げんじゅつきゅうてんきんねんきり共濟きょうさいいん餉不きゅう,請旨會議かいぎ...しん去歲きょさい曾具じょうひねきんかわこんしんどうかんりゅう懋有じゅうふんさいろくこれ請,ふかとう聖心せいしんしたがえ驛逓えきてい庶有おこりしょくただしりんへい其太甚,矯枉おそれ其過じきぶんそんしつせつとらひつじどう鞟之歎,おそれ受裁夫役ぶやくたっささえおういよいよにが...」
  107. ^ あかり.かん爌傳》:「りょうごときゅう朝議ちょうぎ汰各鎮兵。また以兵きゅうごとちゅうりゅう懋疏,さいえきそつみかど以問爌,爌言:「汰兵とめとうきよしうらないおかせ增設ぞうせつ冗兵なんじ。衝地がくへい不可ふか汰也。驛傳えきでんつかれるいとうせめ按臣かくげん,以蘇みんこま,其所ぶししょう,仍還みん。」みかどしかこれ。」
  108. ^ 楊嗣あきら《楊文じゃく先生せんせいしゅう》:「ながれぞくわざわいおこり於萬れきおのれよんじゅうななねんいちろくいちきゅうねん)。遼東りゃおとんよん しんへいさんだいつぶせ,於是もりまつおうせんちょうゆめ麟部下之したのそつしょうりつ西にし逃。其時河南かなんなでしんちょうわがつづけみちしんおうけい邀擊ようげき於孟斬首ざんしゅじゅうきゅうとし 上聞じょうぶん。於是不入ふにゅう潼關,而走山西さんせい以至のべ綏,敢歸而落そうびょう堂之上どうのうえはついんりょうごとあなとげ精神せいしんぜんちゅう東方とうほうはたいい陜西きょうせいいち偶(すみ不足ふそく深慮しんりょ 調ちょう援不どめ,逃潰てん饑饉ききんこも臻,おびえしたがえわたる眾。ほしぼしいたりいまじゅうきゅうねん。」
  109. ^ けいろく,《あかりきたりゃくまき
  110. ^ あかり.甡傳》:「たてまつめいじのべ綏饑,よしさとし賊黨ぞくとう
  111. ^ 吴甡:《柴庵さいあん疏集》,浙江せっこうせき出版しゅっぱんしゃ,1989ねんぺーじ143
  112. ^ あかり.くまひらけもとつて》:「ときゆうれい有司ゆうしせい及額しゃとくこうせん
  113. ^ あかり.畢自いむつたえ》:「ゆうみことのり縣令けんれい將行まさゆきしゃ戶部とべさきかく其錢こくはなていけんていとももとやめにゅうため先任せんにんあおうら,逋金はなぎんせんきゅうひゃくみかど以詰戶部とべげんげんとももとやめ輸十なな貯太くらみかどれいおもしゃかくゆうみかどいかせめげんげんかざりべんみかどえきいかとげげんごく使つかい逮友もと。」
  114. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ》(だいななじゅうかんたかしただし治亂ちらん):「十二月じゅうにがつこう選科せんかどうさらかく在任ざいにんちょう輸,於是戶部とべ尚書しょうしょ畢自げん下獄げごくくまひらけもとていともげん俱謫,吏科きゅうごとがおつぎじょう疏救。上切かみぎりせめこうせんはた及,さきかくぜいかて不問ふもんなでせん於催,此法せい一變いっぺん也。」
  115. ^ あかり.ひらけどおつて
  116. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ 》(だいななじゅうかんたかしただし治亂ちらん):「れいみぎさむらいろうひねたけし嘗謁だい學士がくしゆたかたいじんたいひとしもりしょう主上しゅじょう神聖しんせい臣下しんかむべ異同いどう。」
  117. ^ ちんめいたかしただし內閣ぎょうりゃく》:「たかしただしあさかくしんひさしざいゆう如體仁者じんしゃ小心しょうしん謹毖,兢兢きょうきょうすんであずか門戶もんこきょう,躭躭伺隙,とげぜっわたし交,しゃじょうめんいちおもんみ迎合げいごうじょうむね,以是じょうえき推重すいちょう。」
  118. ^ おうおっと《噩夢》:「ゆたかたいひとしぜんりょうじゅつ而加甚焉,有戶ありとしょまち問者もんじゃ為之ためゆき羽翼うよく,乃令推行府縣ふけんしるし官給かんきゅうよしみなぎょう戶部とべ比較ひかくにん內完かけとげ使牧民ぼくみんしゃただむちむち赤子あかごためつとむ,而究逋負山積さんせきげきなり大變たいへん所謂いわゆるのりなんえき矣」しゃしん矣。」
  119. ^ おうとくたかしただしのころく》:「ゆたかたいじん入閣にゅうかくひょうなずらえつとむしたがえ深刻しんこくゆかり此遂しつ人心じんしん論者ろんしゃいい亡國ぼうこくわざわいたいじん釀之,しか。」
  120. ^ あかり.ひらけどおつて》:「みかどみさおきりゆたかたいじん以刻うす上下じょうげ囂然。」
  121. ^ あかり.ちんりゅう正傳せいでん》:「時政ときまさなお綜核,中外ちゅうがいそうためふかぶん以避ざいひがししょう緝事ゆう冤濫。」
  122. ^ 122.0 122.1 れつすめらぎしょう識》
  123. ^ 陈龙ただし救荒きゅうこうさくかい
  124. ^ あかりまき295·ひだり懋第传》
  125. ^ しゅうどう,《瘟疫滅亡めつぼうてき明朝みんちょう
  126. ^ だき阳生ざいきのえさるあさことしょう计》まき6ちゅうひっさげいたたかしじゅうろくねんがつてき北京ぺきんじょう,“だい疫,にんおに错杂。薄暮はくぼじんへいくだり。贸易しゃとく纸钱,おけすいとうゆうごえ则钱,无声则纸。甚至はく日成いるそん阵,墙上及屋脊行はし揶揄やゆきょじん每夜まいよ痛哭つうこく咆哮ほうこう,闻有ごえ而逐ゆうかげ”。
  127. ^ 參考さんこう:《さんせんねん疫情》及相關そうかん條目じょうもく中國ちゅうごく瘟疫
  128. ^ 曾节あきらきのえさるさんひゃくねんさいまつりこれきゅう. [2007-12-07]. (原始げんし内容ないようそん于2018-10-01). 
  129. ^ おうそうけい雜記ざっき》:“當流とうりゅうぞく內亂とき,而胡とりこおかせなおのうささえ也。”
  130. ^ 弘光ひろみつ实录钞》まきさん
  131. ^ 清史きよしへんねん だいいちかん 順治じゅんじあさ
  132. ^ 清史きよしへんねん だいいちかん 順治じゅんじあさ》:“あきらみかどみことのり各地かくちへい赴京勤王きんのういのち廷臣ていしんせんまもり庶子しょしあきら睿與ひだりくにはなふくみなみ遷,なみ請先以太子たいしきょ南京なんきん,“ごう召東みなみともめつぞく”。たかしただし廷臣ていしん,其意ざい俟朝ども請而ぎょう自己じこ不承ぶしょう逃亡とうぼうただしだい學士がくしひねえんじとう肯負其責,たかしただしわたしたいひねえんじ曰:“此事よう先生せんせいいち擔。”ひねえんじ也不けつあきらみかど憾且忿,曰:“如事可知かちくにくん社稷しゃしょく義之よしゆき正也まさやちんこころざしけつ矣!"同時どうじもと太子たいし南下なんかかんぐんじゅう九日罷陳演大學士職。"
  133. ^ 顾诚,《あきらまつ农民战争》,だい228-229ぺーじ
  134. ^ 清史きよしへんねん だいいちかん 順治じゅんじあさ》:“あきらみかど廷臣ていしん寇"。駙馬鞏永かた請以重臣じゅうしんもり京師けいし,“せいみなみじゅんせいへいおや討",しょしん斥其誕妄。於是決定けっていよし內監及各かんぶんもり京師けいしきゅうもん禁止きんし百姓ひゃくしょう上城かみしろ。"
  135. ^ にん.《しん编中华历せんねん明朝みんちょう》.青海あおみ青海あおみ人民じんみん出版しゅっぱんしゃ,2002:だい677页—だい678页
  136. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ だいななじゅうきゅうかんかぶとさるへん》:「はつはちにちふうすな大起だいきぞくじょうふうよる登城とじょう,懋德、おうさく赴敵ちょうぬのせいもう副使ふくし及府けんかくかんよんじゅうろくいん咸死ぞくかばね於城。」
  137. ^ れつすめらぎしょう識》:「闖賊いたり大同だいどう軍民ぐんみんみなくだそうへいしゅさんらく自刎じふんじゅんなでまもるけい瑗、兵備へいびしゅつかまつかてもうかじょゆうごえみな。」
  138. ^ れつすめらぎしょう識》:「闖賊おちいせん,叛將しろこうおんさきうつりしょやくそうへいきょうじょうくだふとしかんもりくん出城でしろさんじゅうむかいぞく入城にゅうじょうじゅんなでしゅいち馮殺じゅん按霍たち逃。」
  139. ^ えんじゅいおり叢書そうしょ·よんへん·あかり實錄じつろく》:「さんがつはつじゅうにちとうどおりにゅう援,召對,しょう賚甚あつじゅうさんにちつうぐうぞく於居いさおせきいちせんそくはいはいそくくだきょうじょうしん懼,きゅうもんみな閉。」
  140. ^ 爝火ろく卷一けんいち:“あきらもん(「こうおこりせんでんさくこうやすしもん),みなげん曹化じゅんけんじこれある曰化あつしじつもりひがし直門じきもんまもりあきら。而化じゅん入國にゅうこくあさうえ疏奏べん甚力,倉卒そうそつ莫能明也あきや。”
  141. ^ たかしただしのころく
  142. ^ 142.0 142.1 れつすめらぎしょうまきはち
  143. ^ たかしじゅうななねんさんがつじゅうはちにち暝,都城みやこのじょうおちいみかど泣语きさき曰:“大事だいじ矣。”きさき顿首曰:“わらわごと陛下へいかじゅうゆうはちねんそつ听一语,いたりゆう今日きょう。”乃抚太子たいし二王におう恸哭,これ宫。みかどれいきさきたっきさき入室にゅうしつ阖户,宫人かなで,犹云“皇后こうごう领旨”。きさきとげ先帝せんていくずしみかどまたいのち袁贵缢,けい绝,久之ひさゆき苏。みかど拔剑斫其かたまた斫所すうにん,袁妃そつことあきら皇帝こうていていかなえ,谥后曰莊れつ皇后こうごうあずかみかどどうそう贵妃园,めい曰思りょうした所司しょし给袁居宅きょたく,赡养终其。(《あかり后妃こうひ列傳れつでん·そうれつみかど愍周皇后こうごう
  144. ^ あかりれつ传第きゅう曰:“长平公主こうしゅねんじゅうろくみかど选周显尚ぬしはたこん,以寇警暂停。しろおちいみかどにゅう寿ことぶき宁宫,しゅ牵帝ころも哭。みかど曰:‘なんじ何故なぜなま我家わがや!’以剑挥斫だんひだりひじまた斫昭じん公主こうしゅ于昭ひとし殿どのえつ五日いつか,长平ぬし复苏。だいきよし顺治ねんじょう书言:‘九死きゅうししんわらわ跼蹐きょくせきだかてんすなお髡缁そらおうややさる罔极。’诏不许,いのち显复なお故主こしゅ土田つちたていだいかね钱车马锡有加ゆかしゅ涕泣ていきゅう。逾年びょうそつ。赐葬广宁门外。”
  145. ^ なえ棣著. 大明だいめい亡国ぼうこく たかし皇帝こうてい传. 沈阳:辽宁人民じんみん出版しゅっぱんしゃ. 2014.01: 375. ISBN 978-7-205-07706-8. 
  146. ^ あきらきたりゃく
  147. ^ あかりほろび殉難じゅんなん人數にんずうしょあきら史紀ふみのりごとだいはちじゅうかん;《きのえさるでんしんろく》;《閩中りゃく》;《ぜんあかり忠義ちゅうぎ別傳べつでんまきさんじゅう.くにへんなんしん鈔》
  148. ^ 148.0 148.1 欽定きんていよん全書ぜんしょ·せんよんあさこれ<あきら姓名せいめい爵里いち·みかどけい>:そうれつ皇帝こうていいみなよしけんひかりむねだい五子初封信王,天啟てんけいななねん即位そくい改元かいげんたかしただし在位ざいいじゅうななねんおくりな曰欽天守てんしゅどうさとしあつしあつし弘文こうぶんじょう武體ぶたいじん致孝ふところむねはし皇帝こうていさらていそうれつ皇帝こうてい
  149. ^ 149.0 149.1 欽定きんていよん全書ぜんしょ·あかり綜》卷一けんいちみなみぶくはんしょうせいはるか上帝じょうていおくりな,曰紹てん繹道つよしあきらつとむ儉揆ぶん奮武あつしじん懋孝れつ皇帝こうていびょうごうおもえむねきさきおくりな曰孝ぶしさだ肅淵きょうそう奉天ほうてんやすしひじりれつ皇后こうごうひろあらため帝廟ていびょうごう曰毅むねからはんしょうせいふくあらためむねすめらぎあさ順治じゅんじはつさらおくりなみかど曰欽天守てんしゅどうさとしあつしあつし弘文こうぶんじょう武體ぶたいじん致孝ふところむねはし皇帝こうていきさき曰孝けいさだれつ慈惠じえそうさとうけたまわてんはいせいはし皇后こうごうすんで改稱かいしょうそうれつ皇帝こうてい。凡五易而後定焉。こんかみぱい所書ところがきそく順治じゅんじはつじょういちじゅうろくだい其下あらためしょそうれつ皇帝こうてい
  150. ^ ながれ寇長へんまきじゅうはち かぶとさるのここと 彭孫貽ながれ寇志まき十三じゅうざ
  151. ^ かん彦杰ちょ. 庙堂これだか江湖こうこ远. 北京ぺきん联合出版しゅっぱん公司こうし. 2019.04: 234. ISBN 978-7-5596-2919-7. 
  152. ^ きよし實錄じつろくまきいちひゃくさんじゅう:“(順治じゅんじじゅうろくねんじゅういちがつきのえさるうえちゅうさん屯營とんえいさとしれい:‘ぜんあかりたかしただしみかど,勵精じゅうゆうななねん不幸ふこう寇亂こくほろび社稷しゃしょくこう其生ひらめ甚失とく,遘茲やくうんことこらえ矜憫。むべ諡號しごう,以昭實行じっこうこんおくりなためそうれつ皇帝こうていなんじそく遵諭ぎょう。’”
  153. ^ 南明なんめいまきなな こころざしだい れい
  154. ^ さんかき筆記ひっきまき
  155. ^ よりどころひじりやすし皇帝こうてい本紀ほんぎ》,《みなみわたりろくひとしさくがつへい,《弘光ひろみつ實錄じつろくさくがつかのえたつ
  156. ^ 邓华,陈建华编ちょ. 历史あずか楹联. 贵阳:贵州人民じんみん出版しゅっぱんしゃ. 2006.06: 243. ISBN 7-221-07330-9. 
  157. ^ れつすめらぎしょう識》(まきよん):「ころせぶとかんりゅうもとあきらげんあきらかんこく討賊,ぞくざい陝雒,げんあきらとめとく敢進,たてへいだいかすめころせきこり汲者おかせこう。及論辟,とくむねそくそうべんうえいか誅之。」
  158. ^ しょう腆紀でん》:「いく王師おうし南下なんかほう;而起せんもと爵皆投降とうこう。」
  159. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ》(まきななじゅうきゅう):「さんがつなりおちいせんふとしかんもりくんむかえ...丙午ひのえうまぞくうすきあきらもんふとしかんもりくんすが城上じょうかみにゅうだい內,ちょうすめらぎぞくぜいかたりもり璫輩曰:「われとう富貴ふうき自在じざい也!」」
  160. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ》(まきななじゅうきゅう):「もりりょうふとしかんさるしばしげる昌平しょうへいくだぞくまたすがうわいれ,備述ぞくはんじょうみち,請遜うえいかしかこれ。」
  161. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ》(まきななじゅうきゅう):「寇自やなぎみぞ抵居いさおせきやなぎみぞてん塹,ひゃくにんもり,竟不設備せつびそうへいとうどおりふとしかんもり秩迎くだなでしんなんけんにせわたし遁。」「なりどうにせとくりゅうそうさとしとうすうじゅういれだい內,ふとしかんもり秩等りつとうためぜんしるべ。」
  162. ^ あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ》(まきななじゅうきゅう):「うし金星きんせい趨而しん曰:「ちゅう其下,とう中分なかぶん天下でんか。」なりとうゆみ而笑。つかさあやしるしふとしかんおう德化とっか以內いんさんひゃくにんさきむかいいさおかちもんれい舊任きゅうにん。」
  163. ^ れつすめらぎしょう識》(まきよん):「せん武門ぶもん守門すもんふとしかんおうしょう堯領內丁せんにん開門かいもんむかえぞくにせしょうりゅうそうさとしせい軍人ぐんじんぐんよう甚肅。」
  164. ^ きのえさるでんしんろく》(まきよん):「きゅうつかさあや监掌しるしふとし监王しんきゅうつかさあや监掌しるしふとし监,顺天じん。」
  165. ^ きのえさるでんしんろく》(まきよん):「がつじゅうにち廷議じょ餉,これこころあいだじゅうやめひさし,眾言こころとみじゅん甚,家藏かぞうげんぎんさんじゅうまんうえそく日召にっしょう さとしれい捐助,これこころ以連ねん家計かけいけしとぼしためつぎけんじぎんいちまんりょうなりいれつなぎついかすめさがせぎんじゅうまん馀,金銀きんぎん什器じゅうき緞疋さん。」
  166. ^ あきらきたりゃく》(だい十卷崇禎十七年甲申):「おうこころさいとみ上面うわつらさとしたい以家けいややとぼし,僅獻萬金まんきんしょ內官かく大書たいしょ於門 :「此房ぜっ兌」,複雜ふくざつただし諸物しょぶつちん於市以求售。 こうぞく拷夾おうしんついじゅうまん金銀きんぎん玩器しょう。 ”
  167. ^ おうとくたかし祯遺ろく》:「おうこころ缢死于家;凤翔、贾如皋、贾奕伦、どうせい、马应ふるえいち时俱。」
  168. ^ おうとくたかし祯遺ろく》:「贿脱:すめらぎ亲嘉ていはくしゅう奎献银ななじゅうまんふとし监王なが祚献银一ひゃくまん。」
  169. ^ きのえさるでんしんろく》(まきなな):「 ◎開門かいもんむかえいれつかさあやかんふとしかん曹化あつしはつさいこうにゅう自信じしんていしたがえりゅういたる禦前秉筆,おとうと併至とくしょ侄率世襲せしゅうにしきころもひろ以告きゅう罷職ひしょく。寇急,ふくおこりじゅんとくもりあきらもんみつるへいひゃく馀騎。じゅうはちにち昃,ぞく砲擊ほうげきじょう甚震。うえ趨化じゅん督戰とくせんそく於將至時よしときいつわり曰:「ぞく已上いじょうじょう矣!」しろそつ奔潰,とどろきこえ雷擊らいげき不可ふかどめじゅん開門かいもんむかえいれしろとげもりじゅん先驅せんくしるべ闖入ちんにゅうだい內焉。 じゅうきゅうにち,內城すんでおちいゆう鉅璫頭領とうりょう內兵千馀人出宣武門而去,璫有ずいこれしゃ,悉用砲擊ほうげきかいよしゆうごとせいざい其中しゃそう不知ふちなんもとじん也。」
  170. ^ おうとくたかしただしのころく》:「とき太子たいしねんじゅうろくじょうおうじゅうさんながおうじゅうたくふとかんおうしんぐりむねしゅうおうしゅんさんにんしろやぶこれこころむねしゅうこれしゅん けんじ太子たいし二王におう於賊」
  171. ^ おうとくたかしただしのころく》:「おう德化とっかぐりむねしゅうひとしほんせいおうしゅんしゅうれいうまくもほどずみみんかくけんじぎんさんまん不等ふとう。」
  172. ^ あかりまきろくよん南居なごえき传》。
  173. ^ ろく:《あきらきたりゃくまき
  174. ^ あかり·りゅう贼传》
  175. ^ いし匮书まきだいいち れつ皇帝こうていほん
  176. ^ きよし:《さんかき筆記ひっきちゅうたかしただし
  177. ^ やまこころざし
  178. ^ 南明なんめいまきなな こころざしだい れい
  179. ^ くに朝宮あさみやまき くんさとしかん熙四じゅうはちねんじゅういちがつじゅうにち上諭じょうゆ
  180. ^ 180.0 180.1 180.2 180.3 180.4 180.5 くに
  181. ^ 181.0 181.1 烬宫遗录
  182. ^ 182.0 182.1 塘子かんこころざし
  183. ^ 183.0 183.1 嶗山餐霞ろく
  184. ^ よりどころすめらぎあかりふところかくれおう壙志
  185. ^ よりどころすめらぎあかり悼懷おう壙志。
  186. ^ よりどころすめらぎだい七子悼良王壙志。
  187. ^ たかしただし長編ちょうへんまき39:「〔たかしただしさんねんじゅうがつきのえいぬすめらぎだい一女いちじょせい中宮なかみやいずるためひつじさる公主こうしゅ。」按「ひつじさるとうひつじさるきょうあやま
  188. ^ にん.《しん编中华历せんねん明朝みんちょう》.青海あおみ青海あおみ人民じんみん出版しゅっぱんしゃ,2002:だい685页
  189. ^ らいみなもと:凤凰网历作者さくしゃ:刘继兴 刘秉こう. たかし皇帝こうていすすやま自尽じじんぜんゆう为何秘密ひみつやすそうちゅう贤遗むくろ. 凤凰网>しんいき>中国ちゅうごく古代こだい>正文せいぶん. 2011ねん2がつ1にち [2011ねん2がつ1にち]. (原始げんし内容ないようそん于2020ねん6がつ8にちちゅうぶん(简体)). ;另《あかりきたりゃくまきじゅう記載きさいたかしただしじゅうななねんのうれきさんがつじゅうよんそくたかしただし自殺じさつまえにち,“みずのえとら南京なんきんこうりょうよる哭。さんがつはついちにちおこりにちしょくりょうしゅんひかりよる風色ふうしょく陰慘いんさんすなちり刮天。おこりきゅうつかさあやふとしかん曹化じゅん戴罪もりじょううえひそかむねおさむそうちゅうけん遺骸いがい。”
  190. ^ たかしただしのころく》:じゅうななねんかぶとさる野史やしゆうじょういのちおさむちゅうけん骸骨がいこつ一事いちじあら不足ふそく致辨。
  191. ^ きのえさるかくしんりゃく凡論》:「いち逢迎時局じきょくしゃ,乃稱曹化じゅんめんそう先帝せんていくもちゅうけん而在,こといたり此。(じゅんあいだじゅう在外ざいがい聞特召, 何處どこめんそう?-げん夾注)先帝せんてい嘆息たんそくつてむねおさむそう其骸。またたたえ先帝せんてい召對,ゆうこも楊維かき、霍維はなとうしゃ。此皆絕無ぜつむ影響えいきょうこと附會ふかいなりしょ公然こうぜんかんぬのさら かり歲月さいげつ,必將とうしょそう牘矣。」

らいみなもと[编辑]

外部がいぶ連結れんけつ[编辑]

まいり[编辑]

たかしただしみかど
出生しゅっしょう于:1611ねん2がつ6にち逝世於:1644ねん4がつ25にち
統治とうちしゃあたま
前任ぜんにん
胞兄あかり熹宗てん启帝
中国ちゅうごく皇帝こうてい
1627ねん10がつ2にち-1644ねん4がつ25にち
つぎにん
きよし顺治みかど
明朝みょうちょう皇帝こうてい
1627ねん10がつ2にち-1644ねん4がつ25にち
つぎにん
どうけい弘光ひろみつみかどしゅゆかり崧(南明なんめい