あきらしん战争

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あきらしん战争
清朝せいちょう開國かいこく戰爭せんそうてきいち部分ぶぶん

一片いっぺんせきあきらしん戰爭せんそうてき重要じゅうよう战役いち
にち1618ねん-1683ねん
地点ちてん
辽东中原なかはら等地とうち
结果 清朝せいちょういれぬし中原なかはら
まいり战方
大明だいめい帝國ていこく南明なんめいあきらてい 後金あときんこくだいきよし帝國ていこく
ゆび挥官あずか领导しゃ
明神みょうじんむね
明光めいこうむね
あかり熹宗
あかりおもえむね
あきらあんはじめ
あかり紹宗
あきらあきらむね
袁崇焕
ふみほう
こうすぐる
ちょう名振なぶり
定國さだくに
しろ文選ぶんせん
ちょう煌言
てい成功せいこう
ていけい
ていかつ
せいふとし
せいふとしむね
きよし
せいきよし
なんじ

济尔哈朗
ひろしうけたまわ
さんかつら
あな有德うとく
なお
耿仲あきら
兵力へいりょく
すうじゅうまんにん 12まん以上いじょう
伤亡あずか损失

あきらしん战争,交战双方そうほう明朝みょうちょう(含南明なんめい[註⁠ 1]きさききんきさきあらため国号こくごう为“だいきよし”,そく清朝せいちょう)。1589ねんおんなしんあいしんさとし部首ぶしゅりょうつとむなんじ哈赤統一とういつけんしゅうおんなしん,1616ねん建立こんりゅう後金あときん。1644ねんきよしへいいれ山海さんかいせき时,仅控せい辽东河北かわきた附近ふきん与清ともきよちょう并存てき主要しゅようゆう三股みつまた勢力せいりょく南京なんきんてき南明なんめい弘光ひろみつみかど、陕西てきなり四川しせんてき张献ただし清朝せいちょうはた們逐擊破げきは最後さいご一個奉明正朔的政权あきらてい結束けっそく於1683ねん

明朝みんちょうてき支持しじしゃ们没ゆう彻底しょう灭,們转入地いりじかつ动,形成けいせい天地てんちかいひろしひとしはんきよし复明てき秘密ひみつ结社。戰爭せんそう過程かていちゅうしんぐん屠殺とさつしょれいあげしゅうじゅうにちよしみていさんほふ大同だいどうほふ、以及かのえとらこう,而大西にしぐん及明ぐんまたゆう軍紀ぐんきはい壞及參與さんよほふしょくとう屠殺とさつてき記載きさい[まいり⁠ 1][まいり⁠ 2]

背景はいけい[编辑]

くらい於現いま中國ちゅうごく東北とうほくてきおんなしんぞく其中以先祖せんぞ为渤海人あまてきけんしゅうおんなしん[まいり⁠ 3]さいため強大きょうだい明朝みょうちょうおさむけんしゅうおんなしんためはんぞくさつふうおもね哈出ためけん州都しゅうと指揮しき使もう哥帖ためけんしゅうまもるひだりとくもう哥帖ざい野人やじんおんなしんところころせ,其弟凡察あずかただしさんせり南移みなみうつし最後さいごていきょ赫圖おもねひしげいま辽宁しんまろうど),併入けんしゅうまもる[まいり⁠ 4]。1442ねん明朝みょうちょうけんしゅうひだりまもる分立ぶんりつみぎまもる,以凡察領しるべみぎまもるただし山領やまりょうしるべひだりまもる形成けいせいけんしゅうさんまもる[註⁠ 2]

よし於建しゅう三衛屡次犯边抢掠[まいり⁠ 5] ,1467ねん明朝みょうちょう聯合れんごう朝鮮ちょうせん制裁せいさいけんしゅうさんまもるなみ且於遼東りゃおとんかいきょうけん長城ちょうじょう明朝みんちょうまんれき初年しょねんただしやまてき後代こうだいさとしあきらやすあずか其子とうかつ偕同明朝みんちょう遼東りゃおとんそうへいしげるはり,以建しゅうみぎまもるおう叛亂はんらんためよしおさむめつおう杲與其子おもねだいしか而覺あきらやす父子ふし也在混戰こんせんちゅう死亡しぼう。1586ねんあきら廷襲ふうとうかつ之子ゆきこつとむなんじ哈赤ため指揮しき使作為さくい補償ほしょうつとむなんじ哈赤以祖、ちち遺留いりゅうてきじゅう三副遺甲崛起,すべ一建州女真後陸續併吞女真各部[註⁠ 3]なみあずかばくみなみこうむふる友好ゆうこう[まいり⁠ 4]

けんしゅうおんな國力こくりょくもり,1616ねんつとむなんじ哈赤ざい建立こんりゅうはちはた制度せいどこう於赫おもねひしげしょうきょうきょうしょうあせ立國りっこくそく後金あときんあせこく兩年りょうねん以「ななだいため由起ゆきへいはんあかりつとむなんじ哈赤ざい1619ねんてき薩爾滸之せんなかげきはい楊鎬指揮しきてきあかりぐんあさ鮮與れんぐんせっれん佔領瀋陽しんようりょうなでじゅんとう遼東りゃおとん城市じょうしずいせんごと集中しゅうちゅう於遼西にし地區ちくたたかえかちてきつとむなんじ哈赤最後さいご於1626ねんてきやすしどお戰役せんえきちゅう袁崇煥的べにころもだいげきはいひさ逝世[註⁠ 4]だいはちすめらぎ太極たいきょくれきけい權力けんりょく鬥爭後繼こうけい[まいり⁠ 4]

すめらぎ太極たいきょく即位そくいきさき,针对つとむ尔哈あか时期てき社会しゃかい矛盾むじゅん进行りょういち系列けいれつ改革かいかくしょうてん聪新せい”。すめらぎふとし极改ぶん馆为ない国史こくしいんうち书院、うち弘文こうぶんいん,这是清朝せいちょううちてき雏形。还继续完善和よしわ扩大こうむはちはた汉军はちはた,设立はんいんかんこうむふる等地とうちごと务。はた都城みやこのじょう瀋陽しんようえきめいもりきょう」,更改こうかいおんなしんぞくめいため滿まんしゅう」,1636ねんざいもりきょうしょうみかどあらため年号ねんごうたかしとく國號こくごうためだいきよし當時とうじ明朝みんちょうざいせき外的がいてき勢力せいりょくなおゆう袁崇煥守備しゅびてきにしきしゅうやすしとおあずか松山まつやまとう三城みきすめらぎ太極たいきょくためにょうどう避開此防せんしゅさき穩定根據地こんきょちさき脅迫きょうはく明朝みょうちょうもとめはてずい成功せいこう降伏ごうぶく西にしこうむふる察哈なんじかずひがし朝鮮ちょうせんせっちょすめらぎ太極たいきょくけい察哈なんじにょうどういれおかせ明朝みょうちょう首都しゅと北京ぺきん最後さいごたかしただしみかどなかりょうはんあいだけい殺害さつがい援救北京ぺきんてき袁崇煥,しょうおのれへん。這種藉由にょうどういれおかせてき作法さほう後來こうらいまた執行しっこうあずか明朝みょうちょう內部てきながれ一同いちどう消耗しょうもう明朝みんちょうてき經濟けいざいりょく。1642ねんしんぐんまつ錦之にしきのせんげきつぶせあかりぐんなみおさむくだひろしうけたまわとうひと奪取だっしゅ明朝みんちょうざいせき外的がいてき所有しょゆう堡壘ほうるいぼうせんうつりいたり山海さんかいせき[まいり⁠ 7]。1643ねんすめらぎ太極たいきょく病死びょうしだいきゅうぶく臨繼ため順治じゅんじみかどゆかり其叔なんじ攝政せっしょう[まいり⁠ 4]

过程[编辑]

关外鏖战[编辑]

後金あときん崛起[编辑]

明朝みょうちょうまつねん辽东总兵しげるはり利用りようおんなかく部落ぶらく间以及和其他民族みんぞく部落ぶらく间的矛盾むじゅん纵横捭阖,以控せいきょく势。まんねん(1574ねんけんしゅうみぎ卫指挥使おう不堪ふかん明朝みんちょう压迫,おこりへいはんあきら,战败杀。おう杲的儿子おもねたいとく以逃だつかいいた勒城(いましんうえ夹河镇古ろうむら)。おもねたいてき妻子さいしつとむ尔哈赤祖父あかそふ觉昌やすてき孙女、ちちとうかつてき侄女。

まんじゅういちねん(1583ねんしげるりょうおさむ勒寨。觉昌やすとうかつ进城さがせもちいん战事紧急围在寨内。けんしゅうおんな苏克もと浒河图伦じょう今新いまじん宾汤图乡)てき城主じょうしゅあまこらえがいざいしげるはりてきゆび挥下诱阿ふとし开城,おさむやぶ勒寨きさきほふしろ,觉昌やすとうかつ也未のうこうめんつとむ尔哈赤和あかわてきおとうとおとうと舒尔哈齐ざい败军なかいん仪表凡,しげるはりてき妻子さいしはしつとむ尔哈あか归途ちゅうぐういた额亦とうひと拥戴,ゆうじゅう三副盔甲作为装备。かいいたけんしゅうきさきじん质问明朝みんちょう为何杀害其祖、ちち明朝みんちょう归还つとむ尔哈あかちち遗体,并给敕书さんじゅうみち,马さんじゅうひきふう龙虎はた军,复给とく敕书”。

まんじゅうねん(1584ねんつとむ尔哈あかりつ领部众去おさむあまこらえがいかつ图伦あまこらえがい兰逃到鹅尔浑。1587ねんつとむ尔哈あかまたおさむかつ鹅尔浑,あまこらえがい兰逃到明朝みんちょう领地。つとむ尔哈あか请求辽东总兵しげるはり押还あまこらえがい兰,つとむなんじ哈赤处死あまこらえがい兰。同年どうねんざいけんしゅうろう营”てき废址じょうけんじょう,该城ざい1621ねんきさききん迁都辽阳きさきしょう赫图阿ひしげそくきゅうろうしろ”(こん辽宁しょうしん宾县ながりょう二道ふたみちむら)。つとむ尔哈あかざいしげるはりてき扶植ふしょく逐渐强大きょうだいはたおんな部落ぶらく逐一ちくいちおさむふく。1593ねんきゅうがつかのう辉发乌拉哈达以上いじょううみ西にしおんなしんてき“扈伦よん”)、锡伯とう九个部落联合攻打努尔哈赤。ざい勒山战努尔哈あか击败きゅう。1603ねんつとむ尔哈あかおさむ哈达。1607年收ねんしゅう辉发,1613年收ねんしゅう乌拉。まん历四じゅうさんねん(1615ねん),しげるはり

まん历四じゅうよんねん(1616ねん),つとむ尔哈あかざい赫图阿ひしげしょう覆育ふいく列国れっこく英明えいめいあせ”,国号こくごう大金たいきん”,しょうきさききんあかりまん历四じゅうろくねん(1618ねん),つとむ尔哈あか以明あさへん袒女しんかのう赫部とう理由りゆう,颁布“ななだい”,おこりへい造反ぞうはん

周旋しゅうせん遼東りゃおとん[编辑]

1616ねん-1636ねん辽东地区ちくがた势图

萬曆末年遼東遭遇凶年,“ながれ离道,饿莩しょうもち”,這是つとむなんじ哈赤おこりへいてき重點じゅうてんいちまんれきよんじゅうろくねん(1618ねん正月しょうがつつとむなんじ哈赤たいしょかい宣布せんぷ:“われやめぎまこんとし必征大明だいめいこく!”,四月十三日以七大恨告天,おこりへいはんあかりつとむなんじ哈赤進攻しんこう抚顺守将しゅしょう永芳ながよし不戰ふせん而降。またかつ清河きよかわころせ守将しゅしょう邹储贤さいせきかぎてきせんごと發生はっせいまん历四じゅうななねん(1619ねんさんがつ爆發ばくはつてき萨尔浒之战つとむなんじ哈赤だい败四あきら军。

1626ねんつとむなんじ哈赤發動はつどうやすしとおこれやく,遭明あさ大將たいしょう袁崇煥げきはいひさいきどお而死,其子すめらぎ太極たいきょくつぎ。1627ねんあきら熹宗,其弟しゅゆかりつぎ

しんへいいれふさが[编辑]

1629ねんすめらぎ太極たいきょくあらためにょうどう長城ちょうじょう以入おかせ北京ぺきんじょうしょうおのれへん,袁崇煥緊急きんきゅうかいあずかすめらぎ太極たいきょくたい峙於北京ぺきんこうみぞもんただしすめらぎ太極たいきょく散布さんぷりょう袁崇煥叛國謠言ようげんあきらおもえそうだいいか,经さん司会しかい审,しのげおそしょりょう袁崇煥。

其後すめらぎ太極たいきょくばん遠征えんせいこうむふるおわり於在ろくねん徹底てっていげきはいはやしまことあせ取得しゅとくりょう元朝がんちょうつて國玉くだま,1636ねんざいもりきょうしょうみかどあらため國號こくごうためだいきよし建立こんりゅう清朝せいちょうなみ且陸ぞく發起ほっき五次經長城入侵明朝ちょく山東さんとうとう地區ちく烧杀劫掠ごうりゃくしょうしんへいいれふさが當時とうじちょく隸連ねんわざわいあら疫疾,みん聊生[まいり⁠ 8]

1639ねんいたり1642ねんあきらおもえむねしゅう结华北明ほくめい军主りょく13まんにん与清ともきよ军主りょく11万人进行总决战——まつ锦之战。此战あかり军全军覆ぼつあきら军防线从锦州退すさ缩至宁远。1643ねんきよし军发动宁远卫之战。虽然宁远总兵吴三桂在宁远城下击退清军,ただしこれ辽西はしろう其余たむろ堡全陷落かんらくいたり此宁远成为明军在东北さいきさきてき孤立こりつ要塞ようさい

いれぬし中原なかはら[编辑]

めつなり[编辑]

きよし灭大顺之战主要しゅよう戰場せんじょうざい陝西せんせい河南かなん。1644ねんだい顺军逼近北京ぺきん,吴三桂放弃宁远入关勤王。4月25にちさんがつじゅうきゅうにちきのえさるへん闖王なりいれぬし北京ぺきんけんだいじゅん明朝みんちょう滅亡めつぼう。此时さんかつらなお未到みとう北京ぺきん,于是撤军かえしかい山海さんかい闭关もりよし于与なり矛盾むじゅん激化げきか,吴三桂引清军进入山海關,於遼西にし一片いっぺんせきたたかえごうへいげきはいなりてきだい顺军,なり退すさもり陝西せんせい,1644ねん6がつ6にちきよし順治じゅんじみかどざい北京ぺきんのぼりはじめおもねすみかくさんかつらあずかあな有德うとくぶん陝北河南かなん二路攻擊李自成,なりみなみ逃至湖北こほくきゅう宫山戰死せんし

こう[编辑]

南明なんめいざい江北こうほくよん(淮安、あげしゅういおりしゅう、泗州)部署ぶしょ兵力へいりょくおもんみ各自かくじため營,ひとしおさむおちい。1645ねん5がつきよし军围おさむ長江ちょうこう北岸ほくがん最後さいご一道いちどうぼうせん扬州ふみほう死守ししゅ,5がつ20日はつかよんがつじゅうにちしろやぶのちほふしろじゅうてんしょう扬州じゅうにち”。

6月1にちがつはつはちりょう晨,きよし军自あげしゅうふりしゅう渡江とのえ镇江めぐ杨文骢かず鎮江そうへい郑鸿逵戰敗せんぱいみなみ逃,しんぐんだつ镇江。6月3にち南明なんめい弘光ひろみつみかどしたがえ南京なんきん安徽あんき。6月8にちがつじゅうにち),きよし军入南京なんきんこくおおやけじょたねこくおおやけしゅこく、灵璧こう汤国祚てい远侯邓文いく,及尚书钱谦えきだい学士がくしおうからとうひと剃髮ていはつくだきよし

いれせき戰爭せんそう屠殺とさつ事件じけん频发,ざい江南えな一帶いったいゆう甚,如扬しゅうじゅうにちよしみていさんほふこう阴之ほふ大同だいどうほふかのえとらこうほふしょく、广州ほふひとし[まいり⁠ 9][まいり⁠ 10][まいり⁠ 11]

南明なんめいきょうおとろえ[编辑]

あかりおもえむねてきどうけいぶくおうしゅゆかりしょうみかどそく弘光ひろみつみかど南明なんめい成立せいりつしか而弘こうあさいんため黨爭とうそうあずか宦官かんがんみだれ分裂ぶんれつ[まいり⁠ 12]南京なんきん失陷しっかん弘光ひろみつみかど逃至かぶらみずうみかつ捉后おくいた北京ぺきん,1646ねんかむしょ

弘光ひろみつみかどしつ败後,魯王しゅ以海於浙こう紹興しょうこうかんこく,而唐おうしゅ聿鍵ざい武裝ぶそううみしょう集團しゅうだん首領しゅりょうていしばりゅうひとし人的じんてき擁立ようりつ,於福建ふっけんふくしゅうしょうみかどそくりゅうたけしみかどしか而這兩個りゃんこ南明なんめい主要しゅよう勢力せいりょく互不承認しょうにん彼此ひし地位ちい而互しょうおさむ。1651ねんざい舟山ふなやま淪陷,魯王しゅ以海ざいちょう名振なぶりちょう煌言陪同,赴廈門もたれ郑芝りゅう之子ゆきこてい成功せいこう,1662ねん病死びょうしざいかねもん

りゅうたけしみかど屢議出師すいしきたしか而得いたていしばりゅうてき支持しじ而終しょなり。1646ねんしんぐん分別ふんべつ占領せんりょう浙江せっこうあずか福建ふっけん,魯王しゅ以海逃亡とうぼう海上かいじょうりゅうたけしみかどなぎさしゅう逃往江西えにし俘而ていしばりゅうむかいきよしぐん投降とうこうゆかり於其てい成功せいこうおこりへいはんきよし而被きよし廷囚きんしゅ聿鍵死後しご,其弟しゅ𨮁ざい廣州こうしゅうさむらいろうかんせい及廣ひがしはんつかさ顧元きょう擁立ようりつしょうみかどそく紹武みかど,於同年年ねんねんそこせいすすむしげるとうおさむめつかつらおうしゅゆかり榔於廣東かんとんはじめけいしょうみかどそくえいれきみかど[まいり⁠ 9]

1646ねんえいれきみかど獲得かくとく瞿式耜ちょうけんじちゅう餘部あまるべ定國さだくにまごもちとう勢力せいりょく以及福建ふっけんてい成功せいこう勢力せいりょくてき支援しえんしも展開てんかい反攻はんこう同時どうじ各地かくちくだきよしてきはらあきらぐん將領しょうりょう先後せんごはんせい。1648ねん江西えにしかねごえ廣東かんとんしげるとう廣西ひろせ耿獻ただしあずか楊有こうりつはんせい,一時之間南明收服華南各省。しか而於同年どうねんせいすすむなおりつぐん再度さいどいれおかせ先後せんご占領せんりょう湖南こなん廣東かんとんとう。1650ねんきよし军再うらない广州

1652ねん定國さだくにまごもち發動はつどうだい反攻はんこうざいかつらりん逼死ていみなみおうあな有德うとくまた衡州斩杀けい谨亲おうあまこらえ。1659ねんてい成功せいこういち包圍ほうい南京なんきんしか而,かくみちあかりぐんいんため距離きょり互相なん以照おう,內部また發生はっせいまごもちとう人的じんてき叛變,だい二次反攻以節節敗退告終。1661ねんしんぐんさんおさむいれうんみなみながれきみかど流亡りゅうぼう缅甸首都しゅと曼德勒缅甸おう莽達おさむとめこう吴三かつらおさむにゅう缅甸,莽達おとうと莽白つくえ发动せい变,杀死其兄。8月12にち,莽白發動はつどう咒水,杀盡ながれきみかど侍從じじゅう近衛このえ[まいり⁠ 13]。1662ねんながれきみかど最後さいご繳給吴三かつら其以弓弦ゆづるしぼ定国さだくに闻讯きさきまた病死びょうし南明なんめい灭亡[まいり⁠ 9]

此時はんきよし勢力せいりょくただあま夔東じゅうさんいえぐんあずかざい台灣たいわんてきあきらていなり余部あまるべざい湖南こなんこうきよし失敗しっぱい轉移てんいいたかわ、鄂山進行しんこう活動かつどうざい夔州以東いとう地區ちく繼續けいぞくこうきよししょうため夔東じゅうさんいえぐん。1662ねんきよしぐん開始かいしおさむいた1664ねん首領しゅりょうらいとおるころせ而亡。

明朝みんちょうあまりいとぐち[编辑]

さんはんみだれ[编辑]

しんはつゆかり滿まんしゅう力量りきりょう不足ふそくいん此「以漢せいかん」,以漢人かんどくだはた管理かんり華南かなん

1673ねんかん熙帝打算ださん撤銷さんはん,吴三桂率先举兵反叛,以はんきよし复明为号召,自称じしょう“总统天下でんかすい陆大もと帅、兴明讨虏大将たいしょう军”,ふんへいおさむおちい湖南こなん四川しせん耿精ただし(耿继茂之しげゆき)、ひらみなみおうなお之子ゆきこなおこれしんじおこりへいやめ黜其ちち而即),さききさき响应于福建ふっけん广东广西まごのべよわい陕西王輔臣おうほしんまたはん台灣たいわんたてまつあかりついたちてきのべ平郡へごおりおうていけい也率大軍たいぐんじゅうまんとうりく福建ふっけんくれ三桂急派其得力大將左都督おうへいはん出兵しゅっぺいかん中前ちゅうぜん支援しえん郑蛟麟あずかおう辅臣ざい陕西ひら阳关围歼せいすすむ莫洛ところりつじゅうまん余人よにん,莫洛じんほろび西にしせん戰場せんじょう形勢けいせい趨於いむたかしかんじゅうよんねん(1675ねん),吴三かつら之子ゆきこ吴应ぐまあずか孙子吴世霖处死。

かんじゅうねん(1676ねんおこり,战场がた势开はじめ有利ゆうり于清军,陝西せんせいてき王輔臣おうほしん與清ともきよ對峙たいじさんねんこれおわり於接受康熙的招撫。耿精ちゅう势穷乞降,なおこれしんじ也继而降きよし。吴三かつらうらない湖南こなんきさき王輔臣おうほしんひびきおう溯江そこう北上ほくじょうすわしつ战机,而清军则贯注全力ぜんりょくおさむ复湖南大みなみおおへん土地とちかんじゅうななねん(1678ねん),吴三桂在称帝后病死,其孙吴世璠继位,かんじゅうはちねん(1679ねん),しんへいれんかつ常德じょうとく、衡州等地とうち。吴军退すえたけ岗、たつりゅうせきはちがつたけ乐、喇布とうおさむやぶたけ岗。大將軍だいしょうぐんやす親王しんのうたけたのしかつちょうすな大將軍だいしょうぐん簡親おう喇布おさむふく衡州,でんひろしれつとうおさむかつらりん陝甘しんぐんおさむふくかんちゅう重慶たーちん成都せいとかんじゅうきゅうねん(1680ねん),たつりゅうせきやぶ退すさかいこんあきらいたりしょくかつらとうしょうきよし军次だいおさむ复。かんじゅうねん(1681ねん),くも總督そうとく蔡毓さかえひら寇大將軍しょうぐんあきらやすしよりゆきとうとうしたがえしょくかつらさんかこえこんあきらじゅうがつちょうりょうとう绿营やぶこんあきら,吴世璠[まいり⁠ 14]

あきらてい政權せいけん[编辑]

てい成功せいこうざい南京なんきんたたかえ失敗しっぱい後退こうたいかいきんもん、廈門,於1662ねんりつぐんおさむいれらんひがし印度いんど公司こうしうらないすえてき台灣たいわんていうけたまわてんこん台灣たいわんたいみなみ),しょうあきらてい王朝おうちょうひさてい成功せいこうざい厦门病死びょうし。其弟ていかさねあずか其子ていけい發生はっせい內鬨,ばくはつりょう嗣位そうていけいかち即位そくいていけい參與さんよさんはんみだれりつぐん反攻はんこう大陸たいりくしつ。1681ねんていけい逝世,權臣けんしん馮錫はんあずか宗室そうしつていさとし發動はつどうあずまやすしへんころせかんこくていかつ𡒉あらためりつていかつ嗣位,あきらてい國勢こくせいだいおとろえ。1683ねん清朝せいちょうかん熙帝いのちほどこせためみず提督ていとく進攻しんこう台灣たいわん。郑克塽投降とうこうあきらてい灭亡[まいり⁠ 9]

かげ[编辑]

あかりまつねずみあずかひでりわざわいざい中國ちゅうごく盛行せいこうちょく一望いちぼうきょく田地たじ荒涼こうりょう」,河南かなん滿目まんもくはしばみあらにんちょう稀少きしょう」。四川しせん战爭兵火へいかさらはしばみはしばみ莽莽,如天はつ辟」。顺治ねん刘明あきらしょう:“ねん以来いらい,烽烟やすし赤地あかじ千里せんりゆかり畿南以及やま东,比比ひひみなしか。”[まいり⁠ 15]顺治はちねんはしじゅう亲王形容けいよう山西さんせい:“田地たじはしばみ芜,なま齿雕耗,……其侥こう如故しゃじゅういち”。湖北こほくよこ亩皆こげ,……むらつき逃亡とうぼう[まいり⁠ 16]。顺治はちねん江西えにしめぐなついちしょう:“あぶら腴上亩,结水枯,极目秋原あきばる草深くさぶかすうしゃく[まいり⁠ 17]

あきら末清すえきよはつ际经ねずみてきだいばく发和长年ひでり饥荒さいじょうずいきさきてき长期战争,包括ほうかつあかりまつだい规模みんかずきよし军入关,いたりきよしはつせい個中こちゅうこく南北なんぼくみななり廢墟はいきょ。长年てき战争ちょくいた顺治すえかん初年しょねんざい基本きほん平定へいていらいかん熙帝亲政きさきかわじょ弊政へいせい,并开はじめさい一系列与民休息的政策,社会しゃかい经济逐渐恢复,为后らいてきかん雍乾もりしたりょうもと础。

あきらしんえきだいしょ爆發ばくはつてきいれせき戰爭せんそう清朝せいちょう以12まんてき兵力へいりょくいれせき[註⁠ 5]かさねめくせい华北华南清人きよひとちょうれつぶん表示ひょうじ:“くにはつ创业ふとしえき,诛戮ふとおも所以ゆえんゆう天下でんかしゃふとしたくみ天道てんとう难知,ぜん恶不しょう掩,きさきくんとく泽,あし恃也。”

ちゅう[编辑]

    註:

  1. ^ 明朝みんちょう北京ぺきん沦陷きさき在江あるえみなみ建立こんりゅうてき南明なんめい诸政权和みんへん军余聯合れんごうこうきよし。详见条目じょうもく联明こうきよし”、“联寇こうきよし条目じょうもく
  2. ^ けんしゅうさんまもる共有きょうゆうけんしゅうまもる(1403ねん成立せいりつ)、けんしゅうひだりまもる明朝みんちょう永樂えいらく年間ねんかんあずかけんしゅうみぎまもる(1442ねん成立せいりつ[まいり⁠ 4]
  3. ^ 明朝みょうちょう後期こうきてきおんなしんぞくぶんなりよりどころ守舊しゅきゅうけんしゅうおんな勢力せいりょくてきけんしゅうおんなしんあずかちょうしろ山女やまめしんよりどころ守舊しゅきゅう野人やじんおんな勢力せいりょくてき東海とうかいおんなしん;以及最強さいきょうもりよりどころ守舊しゅきゅううみ西にしおんなしんてき扈倫おんなしん,而建しゅうてきてき就屬於扈りんおんなしんてき一部いちぶ[まいり⁠ 4]
  4. ^ つとむなんじ哈赤てき死因しいんあずか袁崇煥的べにころもだい炮沒ゆう直接ちょくせつ關係かんけいやすしどお戰役せんえき於農れき正月しょうがつつちのえうま結束けっそくつとむなんじ哈赤於はちがつ逝世,期間きかんつとむなんじ哈赤かえおさむ喀爾喀蒙いにしえさつ封土ほうどしゃあせとうごと[まいり⁠ 6]
  5. ^ 8まん满洲はちはたきん2まんこうむはちはた、2まん汉军はちはた包括ほうかつあな有德うとくとう统率てきてん祜兵天助てんじょへいじょうあさ军合计12まん

参考さんこう文献ぶんけん[编辑]

引用いんよう[编辑]

    まいり:

  1. ^ みちぐう、滕澤:《中國ちゅうごく人口じんこう通史つうしだいかん》, 山東さんとう人民じんみん出版しゅっぱんしゃ, p. 669.
  2. ^ 顧誠:《あきらまつ農民のうみん戰爭せんそう》, 光明日報こうみょうにっぽう出版しゅっぱんしゃ, pp. 197-198.
  3. ^ かやみずほせい. 东夷こうりゃく. 明朝みんちょう. 16せい [2020-04-20]. (原始げんし内容ないようそん于2020-04-25). 
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 きょうこう韜. 《中國ちゅうごく通史つうし あきら清史きよし》〈だいしょう あきら清之きよゆきぎわ〉. : だい76ぺーじだい82ぺーじ. 
  5. ^ むね羲《けんえびすこう》记载:“せい统时,けんしゅう卫指挥董さんあふ诱北虏入寇にゅうこう,杀掠绝。けいたいちゅうじゅん抚王,使つかい招谕。やや归所かすめ。复款关。 ”
  6. ^ ちょうなんじたつみ. 《清史きよし稿こう本紀ほんぎいちふと本紀ほんぎ》:「じゅう一年丙寅春正月戊午,上起かみおこしへいあきらやすしとお。....城上じょうかみ西洋せいよう炮,頗傷士卒しそつ,乃罷おさむ。....がつみずのえうまうえかえ瀋陽しんようかたりしょかい勒曰:「ちん用兵ようへい以來いらいゆうこうかお行者ぎょうじゃ。袁崇煥何人なんにん,乃能なんじ耶!」....はちがつ丙午ひのえうま上大かみおおやや乘舟のりぶねかいかのえいぬいたりあい雞堡,うえくずれにゅうみやはつ。」. 
  7. ^ だん遷. 《くに榷‧まきだいきゅうじゅうなな》:「きゅうふさが精銳せいえい中國ちゅうごくかて芻,つきづけ一擲いってき,竟莫のうぞく,而廟しゃ以墟矣!」. : だい5905ぺーじ. 
  8. ^ だきせい. まきろくひさげいた. 《きのえさるあさこと小計しょうけい》. たかしただしじゅうろくねんがつ北京ぺきん,“だい疫,にんおに錯雜さくざつ薄暮はくぼじんへいくだり貿易ぼうえきしゃとくぜにおけすいとうゆうこえそくぜに無聲むせいそく。甚至はく日成いるそんじん,牆上及屋脊行はし揶揄やゆきょじん每夜まいよのり痛哭つうこく咆哮ほうこう,聞有ごえ而逐ゆうかげ”。たにおうやすしあきら史紀ふみのりごと本末ほんまつまきななじゅうはちちゅうせつ「“京師けいし內外じょう堞凡じゅうまんよんせんゆうきょう營兵疫,其精銳せいえいまたふとしかんえらべとう陴訣羸弱るいじゃくろくまんにん,內閹すうせんにんまもり陴不たかし”。 
  9. ^ 9.0 9.1 9.2 9.3 きょうこう韜. だいしょう あきら清之きよゆきさい. 《中國ちゅうごく通史つうし あきら清史きよし》. : だい73ぺーじだい93ぺーじ. 
  10. ^ あきらみなみりゃく》:「がつななにちきのえうま),あげしゅうしんおうでんりゅうそう:『ひがししょうぎゃく河北かわきた悉為ぞくゆう,淮、あげじんためもり不意ふいぞく警未いたり,而高へいさきらんすぐる渡河とかかすめじょいたり泗、いたりあげ,四廂之民何啻百萬;殺人さつじんそくせきかばねみつる、汙淫そくはずかしめ及幼おんな新舊しんきゅうじょうたまきかこえぜっかてやめけい月余げつよなに恢已しつしゅう邑而ころせゆう良民りょうみん也』!じゅうろくにちみずのと),すぐるたむろへいあげしゅう城下じょうか。淮撫みず漫無主張しゅちょう守道もち騄晝よるとくみんもりじょうしゅう議事ぎじ進士しんしていもと勛與すぐるぜんおやまいこう營解まがえとげ入城にゅうじょうすすむみずこうへい入城にゅうじょう便びんじょうしかいいすぐる有福ありふくおう劄,いのちちゅうあげしゅうむべぜん禦之,毋攖其暴らん士民しみん嘩曰:『城下じょうか殺人さつじん如是にょぜもと勛不耶』?もと勛強ためすぐるべん,眾怒ゆびためすぐるとう;且曰:『ころせもと勛,しろ不可ふかもり』。とげすんこれじょうろう疾走しっそうたいしゅうすぐる恨;おさむえきりょくほう以義喻解はじめ移駐いちゅうふりしゅう。及設よん鎮,すぐるそつちゅうあげさわきよしちゅう淮,りょうちゅうおおとり、泗,とくこうちゅういおりとくこうしんうすいんひさげへいそう淮、あげあずかすぐるせんかち朝廷ちょうてい聞之,ますまんげんよしふとしぼくしょうきょうかん江北こうほくぐんかいはじめかくやめへい。隸傑於史ほうしるべため前部ぜんぶそうへいかん。「甲乙こうおつくも五月ごがつじゅうはちにちおつ),ばん元吉もとよしげん:『しんたてまついのち犒師,沿途へいげん構禍,すんみな阻;あげ州民しゅうみんゆう甚,閉城とう陴已じゅうにち。乃兵あずかみん相殺そうさいみんまたあずかへい相殺そうさいなりなん紀律きりつころせっすい營將はりごと:「寇奔清河きよかわかんへいげきしょうぞく舡殆つきわかだかりゅうはたせん以濟,いち殲之,そくしょう中興ちゅうこうだいいちこう也」』。はつとくこう分地ぶんちあげしゅうこうすぐるりゅうさわきよし以繁とみそうたてへいいんかすめあげじんだい哄。とくこうへいいたりてんちょうすぐるさわきよしよくこばめまた值李棲鳳、高文たかふみあきらへいいたり,眾心洶洶。元吉もとよしうつりとくこうしょども戮力王室おうしつとくこう自明じめいよく聯絡れんらくかく鎮鼓いさみころせぞく元吉もとよし以得こうしょはせしめせすぐるとうはじめ肯相戢。しかすぐる悍,おわり自製じせい
  11. ^ らくひがし聖教せいきょう入川にゅうがわ》,四川しせん人民じんみん出版しゅっぱんしゃだい32ぺーじ
  12. ^ ふみけいついひろ現代げんだい中國ちゅうごく最後さいごてき王朝おうちょう
  13. ^ 刘健《にわ闻录》记:“なながつじゅうきゅうにち,缅酋つき杀永历从しん。”
  14. ^ 平定へいていさんぎゃく方略ほうりゃく》,かん50,6页。
  15. ^ きよし实录》まき14
  16. ^ あきらしん史料しりょうへい编,户部题本
  17. ^ 顺治はちねんろくがつじゅうろくにち江西えにしじゅんなついち题奏,《户部しょう档-ひのと题本》。

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