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严嵩

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いむたかし
严嵩

うめしげるとうだい歷代れきだい功臣こうしんぞうさついむたかしぞう清朝せいちょうひと
げんぞう天津てんしん博物館はくぶつかん

大明だいめいうち阁首辅吏部なお谨身殿どのだい学士がくし
せきぬき 江西えにし袁州ぶんむべけん
ぞく かんぞく
ごう 惟中いちゅうごうかいけい
出生しゅっしょう なりじゅうろくねん正月しょうがつじゅうにち
(1480ねん3がつ3にち
江西えにし袁州ぶんむべ
逝世 りゅうけい元年がんねんよんがつじゅういちにち
(1567ねん5がつ29にち,87さい
江西えにし袁州ぶんむべ
配偶はいぐう おうおう阳淑みず
おやぞく 高祖父こうそふいむはじめ曾祖父そうそふげん璉、祖父そふげん廷獻、ちちげん淮、はは晏氏、おとうといむたけし
いむしげる
出身しゅっしん
經歷けいれき
著作ちょさく
  • 《钤山どうしゅう

いむたかし(1480ねん3がつ3にち—1567ねん5がつ29にち),惟中いちゅうごうかいけいまたごうつとむあん江西えにしぶんよろしひと[1]せき福建ふっけん邵武明代あきよよしみやすしとし间权しんかんいたりうち阁首辅吏部なお谨身殿どのだい学士がくし

こうむね弘治こうじじゅうはちねん(1505ねん)进士,あらため翰林院かんりんいん庶吉,授翰林院かんりんいん编修,旋病きゅう归里。严嵩读书はち载,诗文たかし洁,声名せいめいはじめちょたけはじめ正德まさのりじゅういちねん(1516ねん),还朝复官。むねよしみやすしななねん(1528ねん),たてまついのちさいつげ显陵,归而极言祥瑞しょうずいせいそう。几年ないさききさき迁其为吏部みぎさむらいろう,进南京なんきんれいなお,两年きさきあらためにん吏部なおよしみやすしじゅうねん(1536ねん),以贺万寿节至京师。时值廷议じゅうおさむそうふみ》,とげとめきょう以礼なお书兼翰林院かんりんいん学士がくし衔主其事。ぜん伺帝,以まつあお词,取得しゅとく宠信,太子たいしふとしじゅういちねん(1542ねん),はい武英たけひで殿どのだい学士がくしにゅうじきぶん渊阁,仍掌れいごときさきかいごと,专直西にしえんるい进吏なお书,谨身殿どのだい学士がくししょうでんけん太子たいしふとししょう华盖殿どのだい学士がくし

严嵩一意いちいこびじょう,窃权罔利,专擅国政こくせいきんじゅうねん大夫たいふ侧目屏息へいそく不肖ふしょうしゃ奔走ほんそう其门,ぎょう贿者络绎绝。いむたかし戕害他人たにん以成やめわたし,并大りょく排除はいじょ异已。还吞ぼつ军饷,废弛边防,招权纳贿,肆行贪污,激化げきかりょうとう时的社会しゃかい矛盾むじゅん晚年ばんねん,以事激怒げきどむね,为世むねしょ疏远,しょうしょく兩年りょうねん而歿。ちょゆう《钤山どうしゅう》40かん

生平おいだいら[编辑]

早年そうねん[编辑]

なりじゅうろくねん,严嵩せい于分むべ县,とう时严家家いえいえどう中落なかおち,很难维持せい计,经常需要じゅようもたれむすめせっ济。严嵩ようさとし穎好がく悟性ごせい很高。[2][3] 其父げん淮是ひさこう未成みせい自然しぜん一切的希望都放在兒子身上,於是便びん悉心てき栽培さいばい教導きょうどう,五歲开始在嚴氏祠啟蒙。とう严嵩はち岁后,就由于其聪慧才智さいちいたりょうぶんむべ县知县莫立てきじゅう视,莫立はたやすはい进县がく,并免除めんじょりょう所有しょゆうてきがく费。きさきまたゆう江西えにしひさげがく使经过ぶんむべめん试严かさきさきはた严嵩进补为廪ぜんせいじゅうさい时,けんためし拔擢ばってきちょうぐん弘治こうじじゅういちねん(1498ねん),ちゅうしきつちのえうまこう西鄉さいごうためしだいじゅうろくめい舉人,ねんじゅうきゅうさい

にゅうつかまつ[编辑]

严嵩ざいじゅうさいおわり完成かんせい父親ちちおやてき心願しんがん,於弘治こうじじゅうはちねん(1505ねんこうちゅうおつうし進士しんし全國ぜんこくだいめい入選にゅうせん翰林院かんりんいん庶吉,授編修へんしゅう[4]とうせいふところちょたけし志雄しおしんいむたかしいんははまたとくりょう一場いちじょう大病たいびょうさこ使つかい退官たいかんかいせきざいいむたかし退官たいかんてきはち年間ねんかんせい宦官かんがんりゅうけんかたぶけ天下でんかとき

こうます[编辑]

りゅうあずか其黨滅後めつごたけはじめ正德まさのりじゅういちねん(1516ねん),けい楊廷舉薦,いむたかし北上ほくじょう顺天正式せいしきふくかんざい此後てきじゅう多年たねん內,いむたかし先後せんござい北京ぺきんあずか南京なんきんてき翰林院かんりんいんにん职。历任翰林院かんりんいんさむらい讲,しょ南京なんきん翰林院かんりんいんごとよしみやすしよんねん(1525ねん)召为国子くにこ监祭しゅよしみやすしななねん(1528ねん),にんれいみぎさむらいろう。迁吏部ひだりさむらいろうよしみやすしじゅういちねん(1532ねん)进南京なんきんれいなお书,あらため吏部。严嵩ざい南京なんきん任官にんかんねんよしみやすしじゅうねん(1536ねんいん贺万寿节返回北京。とう时,あきら廷要じゅうおさむそう》,辅臣请求让严かさみつとむれいなお书兼翰林かんりん学士がくし

とう明世あきよむね沉迷道教どうきょうこのみ長生ちょうせい不老ふろうこれじゅつたい政事せいじばく關心かんしんちょうちゅう事務じむみな交由朝臣あそん處理しょりれい尚書しょうしょなつげんいたむねてきちょうしんじまたいむたかしてき同鄉どうきょう,於是いむたかし拼命討好なつごと

一日嚴嵩在家中設宴,なみ邀請なつごとただしなつ言辭げんじ赴宴,於是いむたかし跑到なつげん家門かもんまえ,撩起ころもほう,跪在なつまえなつげんこう意思いし再三さいさん謝絕しゃぜつ便びんいたいむたかし家中かちゅう赴宴。此以いむかさみしげるためりょうなつげんてき知己ちきなつげんこうおおかた推薦すいせんいむたかしゆうりょうなつげんてき引薦,いむたかし此步だかますなみふかむねあいよしみやすしじゅうねん(1536ねん),なつげんますにんない阁首辅,いむたかしますにんれい尚書しょうしょきさき太子たいしふとし

なつげん甚高,やや不為ふため明世あきよむねしょ。一日世宗將沉香水葉冠赐予夏言、严嵩とう大臣だいじんなつげんなみ戴上;ただしいむたかし每次まいじあさ都會とかい戴此かんむり,还特よう轻纱笼住以示郑重。むね见状,えつ严嵩而嫌なつごと

いむかさみすすむます太子たいしふとしでん羽翼うよくやめゆたか開始かいし攻擊こうげきなつごとまた慫恿むねやめ黜夏ごとなつげんやめかんいむたかし為所しどころほしためよしみやすしじゅうねん(1543ねん),吏部なお许赞れいなお张璧あずか严嵩一同いちどう参与さんよつくえ务,ただしむねぐうごとただ召严かさよしみやすしじゅうよんねん(1545ねんじゅうがつ,许赞以老やめ职,张璧去せいむね再度さいど起用きようなつごと。這時なつごと知道ともみちいむたかしてきためじん處處しょしょ小心しょうしんぼうはんいむたかし表面ひょうめんじょう对夏げん谦恭,ただしふところ恨在しんにちいむたかしさい以青奪回だっかいむねてき信任しんにん

後來こうらいいむたかしにぎしる韃靼だったんにゅうおかせ中原なかはらてき機會きかい迫害はくがいなつごとよしみやすしじゅうさんねん(1544ねん),韃靼だったんいれおかせかわこん宁夏ないこうむ境内けいだい贺兰やま以东,おおかみやま和大かずひろ青山あおやま以南いなん),陝西せんせい總督そうとく曾銑はつへい奪回だっかいかわ套,なみじょうていそう疏,けん议从府谷ふのたにはじめいたてい边修筑いちだん边墙,さいみず陆并进,逼韃靼退へい[5],此舉いたなつげんてき支持しじなつげんこう朝廷ちょうてい舉薦曾銑,なみあずかこれしょう討計劃。

明世あきよむね決心けっしん奪回だっかいかわ套,なみ褒揚曾銑。此時いむたかしかいどおり皇帝こうていきんまちしょう其“けいけい釁”,なみゆび使あたりはたかたき誣稱曾銑掩敗むくい,剋扣ぐん餉,賄賂わいろくび輔夏ごといむたかしさら在世ざいせいむねめん前說ぜんせつ兩人りょうにん奪回だっかいかわ套別ゆう用意よういせいむね果然かぜんあいしん

よしみやすしじゅうななねん(1548ねんさんがつ,曾铣杀,妻子さいしりゅう千里せんりなつげん下獄げごく後來こうらいいむたかし利用りよう傳言でんごん使つかいむね得知とくちなつげん毀謗自己じこ同年どうねんじゅうがつなつげん斬首ざんしゅなつげんてきおやしんじある貶或ばつ

けんかたぶけ[编辑]

なつげん死後しごいむたかしどく攬大けん,而明そう一心いっしん修道しゅうどう無心むしん處理しょり政務せいむ所有しょゆう政事せいじ悉由いむたかし裁決さいけつ。此時じょりょういむたかし道士どうし左右さゆう近侍きんじがい無人むじんのう見世みせ宗一そういちめん

よしみやすしじゅうななねん(1548ねんいむかさみしげるため內閣くび繼續けいぞく小心しょうしんさむらいたてまつむね,“みかど以剛,かさみ以柔。みかど以驕,かさみ以謹。みかど以英察,かさみ以樸まこと”,せいそうたまもの忠勤ちゅうきんさとたちぎんしるし後來こうらいいむたかしねんおいつつみ拔其いむしげるきょうじょてのひらけんいむしげるなりためこうさむらいろういむしげるおさむかいむね左右さゆう宦官かんがん,滙報皇帝こうていてき日常にちじょう生活せいかつ起居ききょ飲食いんしょく大臣だいじんためだい丞相じょうしょうあずかしょう丞相じょうしょう”。ゆう大臣だいじんそししょうすめらぎじょう不能ふのうぼつゆういむたかしいむたかし不能ふのうぼつゆう。”

严嵩父子ふしけんかたぶけ天下でんかじゅうねん天下てんか怨恨えんこんいむしげる甚至ざい家中かちゅう寶庫ほうこ內大わらいせつ朝廷ちょうてい無我むがとみ!”眾多大臣だいじん彈劾だんがい[6]みなよりゆきむねつつみひさし

末路まつろ[编辑]

よしみやすしよんじゅういちねんゆうやま道士どうしあい道行みちゆき以善於扶乩聞名於つばめきょうじょかいはたあい道行みちゆきかい紹給むねいちにちあい道行みちゆきざい扶乩ときたたえ今日きょうゆう奸臣かんしんそうごと”,つよしこういむたかしむねたいいむたかし父子ふし久生ひさおいや[7]いむたかししつぜいいむしげる彈劾だんがい而流刑部おさかべ尚書しょうしょこうます及大てらきょうちょうまもるただしひとしよう彈劾だんがいいむはんがい楊繼もり沈鍊じょかいはた此條刪去,避免よしみやすし皇帝こうてい疑心ぎしん大臣だいじん們在せめかい皇帝こうていただしじょかいさいりょうころせしゅ鐧,彈劾だんがいげんはん南通みなみとおりやまと頭目とうもくひろしただし北通きたとおりこうむふる意圖いと叛變。いむしげる一得知此捏造之罪名,哭喊:「必死ひっし矣」,最終さいしゅうはん斬首ざんしゅ。而嚴かさそく沒收ぼっしゅう家產かさん[8]そぎかんかえさといえいおり而活,なみ於兩ねんびょうそつ

歷史れきし爭議そうぎ[编辑]

あかり严嵩れつにゅう奸臣かんしんでん,说他无他才略さいりゃく,“おもんみ一意いちいこびじょう,窃权罔利”[9]透過とうか戲曲ぎきょくかず其他文藝ぶんげい作品さくひんいむたかしてき奸臣かんしん形象けいしょうやめ深入ふかいり民間みんかんしか而多年來ねんらいせき於嚴かさみただしいやためだい奸臣かんしん,仍然爭議そうぎ不休ふきゅう,這些爭議そうぎ主要しゅよう圍繞いじょうちょせんこく擅政,[10]逼害忠良ただよし[11]あずか及鉅むさぼあくとみてきゆびひかえ[12]

外來がいらいいむたかし故鄉こきょうぶんよろしてき學者がくしゃ包括ほうかつげん曰文、いむしょう平等びょうどうじん卻對いむたかしてき評價ひょうか截然せつぜん不同ふどうてき觀點かんてん[a]またゆうみとめため具有ぐゆう忠君ちゅうくんあいみん知人ちじん善用ぜんようてきいちめん,而且せい績卓ちょ。如嚴かさ重用じゅうようえびすむねひら东南沿海えんかいやまと患,取得しゅとくりょうあかり显的なりこう[13]いむたかしあずか夫人ふじんおうしょうけい如賓,一生いっしょう蓄姬さむらいざい故鄉こきょうゆうらくこうほどこせ口碑こうひ相當そうとう錯。[14]

评价[编辑]

きよし纪昀编撰《よん库总提要ていよう·しゅう·别集类存》时,ひょう严嵩诗集《钤山どうしゅう》:“かさ虽怙宠擅权,其诗ざいりゅう辈之ちゅう,乃独为迥おう贞《乐府变うん:‘孔雀くじゃく有毒ゆうどく不能ふのう文章ぶんしょう。’またおおやけ论也。しか迹其しょ为,きわむ文士ぶんしゆうざい无行以节取しゃぎん咏虽こう,仅存其目,以昭あきら瘅之义焉。”きよしはんいさお养一斋诗话まきいちうん:“おう元美もとみうん:‘孔雀くじゃく有毒ゆうどく掩其文章ぶんしょう。’ 谓严かさ也。”

きよし张廷だま於《あかり》说严かさ“无他才略さいりゃくおもんみ一意いちいこびじょう,窃权罔利”てきどう时,也不とく不承ぶしょう认他“为诗、文辞ぶんじ,颇著せいほまれ”。ざいとう时文眼中がんちゅう,严嵩颇有儒雅ほんしょくなにりょうしゅん说:“严介ろう诗,しゅう丽清警,近代きんだい名家めいか有能ゆうのう其右しゃ作文さくぶんまた典雅てんが严重,乌可以人而废。且怜ざい下士かしまた爱。”[15]

史学しがく曹国庆みとめため严嵩ざい书法上成うえなしめいはついれ翰林院かんりんいんてき时候。明代あきよてき翰林院かんりんいん网罗りょう天下でんかてき人才じんさい相当そうとう中央ちゅうおうてきさとし囊团书记处。严嵩てき经义文章ぶんしょう每每まいまいれつ为首选,てき诗词唱酬さく也常ざいうたげ集中しゅうちゅうりょく拔头筹,于是,にん们在欣赏てき文章ぶんしょうてきどう时,また领略りょうてき书法わざ艺,观其ぶん便びん获双じゅう享受きょうじゅ。此后,ゆかり翰林院かんりんいん而及其他にんじょうゆかりきょう而及地方ちほうりんちゅう便びんゆう以得其墨たから为荣しゃ。钤山归隐てきはちねん间,严嵩またせいけんりょう许多书法贴,书法づくり诣精たたえいたりこんざい北京ぺきん还留ゆうてき书法遗迹“ろく必居とう题额10[16]山海さんかいてき天下てんかだいいち关”(ただしじんみないみなげんいむたかしせつしょうあらわところだい)、やまきょくてき“圣府”、杭州こうしゅう西湖さいこたけ飞庙てき“满江红”(ただし落款らっかんあらためためなつげん[17]同調どうちょう词等全国ぜんこく知名ちめいけいてん20处还保留ほりゅうりょうてき书法遗迹[18]いむしげるじょよめ衍聖こうあないたりこんとめゆういむかさみもとむじょうざい此坐ひやばん凳的“閣老かくろう凳”。

家庭かてい[编辑]

軼事いつじ[编辑]

明世あきよむねこのみときうつりきょ西にしえん內閣輔臣さらとくはん陪祀。よしみやすしじゅうきゅうねん(1540ねんがつじゅうにちせいこういたいむたかし陪祀,とめ宿やど西にしえん內舍,ゆるがせしかいちとうだいぞう破門はもん而入,かこえ遶嚴かさてきゆか咆哮ほうこう跺腳、徘徊はいかいまえ情況じょうきょうじゅうふん危急ききゅう,嚇得いむたかしただのうすわざい床上ゆかうえなみ心裡しんりだまねんちょほどてきわたり漢江かんこうことりょう很久,やしなえぞうてきじん趕來だいぞう牽走,いむたかしざいとく以平いたいらやす無事ぶじ,於是便びんうつしぞう入室にゅうしつごといち[19]

其他[编辑]

北京ぺきんいたり聖堂せいどうてきだい匾,相傳そうでんいむたかしだいうつし

でんかげじゅうそういむたかし》(1952)よしめいうま薛覺さきうららめずらし主演しゅえん後來こうらいめい靚次はく也於同名どうめいげき主演しゅえんいむたかし聞名。

平生ひらお报国おもんみちゅうあか从人说是非ぜひ”——严嵩遗言

ちゅう[编辑]

  1. ^ 參看さんかん毓慶どう

参考さんこう文献ぶんけん[编辑]

引用いんよう[编辑]

  1. ^ あかりれつ传第いちきゅうろく·严嵩:“严嵩惟中いちゅうぶんむべひと
  2. ^ 名山めいざんぞうまききゅうじゅうさん·严嵩:“わらわげん宿やどせい颖悟绝人”
  3. ^ "ざいはな橫溢おういつ 奈何いかんため奸臣かんしん" 2009ねん08がつ12にち 中國ちゅうごくにちほう
  4. ^ あかりれつ传第いちきゅうろく·严嵩:“举弘じゅう八年进士改庶吉士授编修”
  5. ^ あかり·そうほん纪二》
  6. ^ 南京なんきんおう宗茂むねしげうえ彈劾だんがいいむたかしひさ持國もちくにがらさくぶくさくうすうみ內外,罔不怨恨えんこん。如吏、へいまいせん請屬じゅうにんにんさくまかないすうひゃくきんにん善地ぜんち,致文武將ぶしょう吏盡其門”。“往歲おうさい遭人ろん劾,せん輸家みなみかえし,輦載珍寶ちんぽう不可ふかかちけい金銀きんぎん人物じんぶつだかさんしゃくしゃしもいたりおぼれまた金銀きんぎん為之ためゆき。”“ひろ良田よしだへん于江西にしすうぐんまた于府きさきせきせきためだい坎,じつ金銀きんぎんちん玩,ため子孫しそんひゃくせいけい。”(《あかり·おう宗茂むねしげでん》)刑部おさかべ主事しゅじちょううえ疏說:“戶部とべとしはつあたり餉,ほん以贍ぐんかさ輔政,ちょうささえこれもんくれにゅう奸臣かんしん。輸邊しゃよん,饋嵩しゃろくしんごと長安ながやすがいかさ門下もんかあたり鎮使じん未見みけん其父,さき饋其未見みけん其子,さき饋家じん家人かじんげんねんとみやめ逾數じゅうまんかさ可知かち私藏しぞう充溢じゅういつはんぞくぐんもうかあたりそつこお餒,朝夕ちょうせき。”(《あかり·ちょう翀傳》)
  7. ^ あきら史紀ふみのりごとだいじゅうかんそうたかし道教どうきょう
  8. ^ しょうきよしたんへんため天水てんすい冰山ろく
  9. ^ あかり·まきさんひゃくはち·れつ传第いちひゃくきゅうじゅうろく》严嵩传
  10. ^ くに榷》まきろくじゅうよん維楨げん:“(むねとききょすうじゅうねん迴天於掌じょう中外ちゅうがい儼然げんぜん如臨。”また范守おのれげん:“しん于徐しょう师阶处,盖捧读世庙谕さつ及改定旨さだむねくさうんじん尝谓辅臣拟旨,几于擅国がら,乃大しか。见其しょ拟,みかど一一省览窜定,ゆうとめ数字すうじしゃ。虽全とうみかどしんまた必更えき数字すうじしめせ明断めいだんゆう,则驳使さい拟,さい,则谯让随矣。阁臣无不惴惴惧者。”《明世あきよむね实录》まきろくろくよしみやすし四十五年十二月辛丑載嘉靖皇帝醉心于西苑修仙斋醮,ちょくいたさいきさき死去しきょ,却一ちょく“虽深きょ渊穆而威がらうつり”,虽数じゅうねん朝臣あそん,仍能做到“だい张弛、だいふうはいだい诛赏,みな独断どくだんいたり不可ふか测度。”
  11. ^ 谈迁ざいくにちゅう认为,“贵溪(なつげん不死ふし于败而死于谗,また严氏だい为之受螫也。”见严かさみただしりょうくろ锅的。
  12. ^ 杨继もり《请诛贼臣疏》れい举严かさじゅう大罪だいざいじょうだいじゅうじょう便びん其坏“风俗”:“わがあさ风俗,あつしあつ近古きんこぎゃく用事ようじはじめ为少变。すめらぎじょう继位以来いらい躬行きゅうこう古道ふるみち风俗还古。及嵩为辅しん,谄谀以欺乎上,贪污以率其下。つう贿殷つとむしゃ,虽贪如盗跖而また荐用;奔竞疏拙しゃ,虽廉如夷齐而また罢黜。一人ひとり贪戾,天下てんかなり风。まもり法度はっとしゃ,以为かた执;たくみわたる缝者,以为ゆうざい;励廉かいしゃ,以为矫激;ぜん奔走ほんそうしゃ,以为练事;卑污なり套,ろう不可ふかやぶ。虽英雄えいゆうごう杰,またにゅう套中。从古风俗坏,ゆう甚于此时しゃきわむ其本げんかささきこう,此天所以ゆえんみななお乎贪;かささきこう谀,此天所以ゆえんみななお乎谄。みなもと洁,りゅうなん以清;风俗不正ふせい,而欲望よくぼう天下でんかとく乎?”
  13. ^ かやひつじさる说:“苟欲按论えびすこうつみはいしゅ踯躅,豪宕ごうとう大略たいりゃく汉之列侯れっこうはた军、とうはん镇节使者ししゃ是也これや;其所为声しょく嬖、かんむり亵,众所とく而庇しゃしかいたり于长ざい大略たいりゃく雄心ゆうしんもうさとし、临敌じょうたけし、转变为功,また众所とく而掩しゃりつ于庄これぎょう,则世あるあずか;课之以捍こく勋,则不可ふか无。”《ちがや鹿しか先生せんせい文集ぶんしゅうまきさん,《うえ袁元ほうしょうおおやけ书》)
  14. ^ すめらぎ明大めいだいこと·いむたかし:“かさつまおう甚賢,ゆうほう,馭世しげるゆうげんかさまたあいけい如賓,つくりひめさむらい。”沈德《萬曆野獲篇·內閣·きょかんきょきょう不同ふどう》:“げんぶんむべさくしょう,受世だいあか,而為とく於鄉甚厚,其夫じんおうゆうこうほどこせいたりこん袁人なお誦說。”
  15. ^ 《四友斋丛说》まき二六にろく
  16. ^ 蒋芷侪所ちょ门识しょう录》うん:“ちゅう名人めいじんしょ书市招匾时,かのえこぶしみだれ,毁于兵燹へいせん,而严かさしょ书之‘ろく必居’,严世しげるしょ书之‘鹤年どうさん巍然ぎぜんどくそん”。
  17. ^ きよし严元あきら蕙榜杂记じゅつ录严かさみかず满江红》词刻せき时说:“词既慷慨こうがい,书亦瘦劲观,まつ题可观,まつ华盖殿どのだい学士がくしきさきじんみがけ姓名せいめいあらため题‘なつげん’。虽属わらいしかまたあし以惩奸矣。”
  18. ^ 《众说纷纭论严かさ》101页,中国ちゅうごくぶん出版しゅっぱんしゃ,2005ねん10がつ,严小平こだいらぬし
  19. ^ あきら·いむたかし,《鈐山どうしゅう》(まき14):“仲春ちゅうしゅうもちゆう,陪祀宿やど內舍,ゆるがせふうぞうおり突入とつにゅう,𥃨內號呌,躑躅つつじ甚危あく黙坐もくざねんほど伊川いがわわたる漢江かんこうごと良久よしひさぞうじんらい,拽之以出,こう以無恙,いん於此。”

らいみなもと[编辑]

かん文章ぶんしょう
书籍
  • ゆうよしくん:《名分めいぶんれい秩與すめらぎけんじゅう塑:大禮たいれいあずかよしみやすし政治せいじ文化ぶんか》。高雄たかお復文ふくぶん出版しゅっぱんしゃ(2006ねん6がつ
かん
前任ぜんにん
なつげん
あかり朝禮ちょうれい尚書しょうしょ
1536ねん-1543ねん
つぎにん
张璧
前任ぜんにん
翟鑾
明朝みんちょうないくび
1544ねん-1545ねん
つぎにん
なつげん
前任ぜんにん
なつげん
明朝みんちょうないくび
1548ねん-1562ねん
つぎにん
じょ