(Translated by https://www.hiragana.jp/)
严嵩 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

严嵩

维基百科ひゃっか自由じゆうてき百科ひゃっかぜん
严嵩
《梅成栋题历代功臣像册》之严嵩像,清朝人绘 现藏于天津博物馆
うめしげる栋题历代功臣こうしんぞうさつ严嵩ぞう清朝せいちょうひと
现藏于天津てんしん博物はくぶつ
大明だいめいうち阁首辅吏部なお谨身殿どのだい学士がくし
せき江西えにし袁州ぶんむべ
ぞく汉族
ごう惟中いちゅうごうかいけい
出生しゅっしょうなりじゅうろくねん正月しょうがつじゅうにち
(1480ねん3がつ3にち
江西えにし袁州ぶんむべ
逝世りゅう元年がんねんよんがつじゅういちにち
(1567ねん5がつ29にち,87岁)
江西えにし袁州ぶんむべ
配偶はいぐうおう阳氏(おう阳淑みず
亲属高祖父こうそふ严孟衡曾祖父そうそふ严琏、祖父そふ严廷けんじちち严淮、はは晏氏、おとうと严岳
严世しげる
出身しゅっしん
经历
著作ちょさく
  • 《钤山どうしゅう

严嵩(1480ねん3がつ3にち—1567ねん5がつ29にち),惟中いちゅうごうかいけいまたごうつとむあん江西えにしぶんよろしひと[1]せき福建ふっけん邵武明代あきよよしみやすしとし间权しんかんいたりうち阁首辅吏部なお谨身殿どのだい学士がくし

こうむね弘治こうじじゅうはちねん(1505ねん)进士,あらため翰林院かんりんいん庶吉,授翰林院かんりんいん编修,旋病きゅう归里。严嵩读书はち载,诗文たかし洁,声名せいめいはじめちょたけはじめ正德まさのりじゅういちねん(1516ねん),还朝复官。むねよしみやすしななねん(1528ねん),たてまついのちさいつげ显陵,归而极言祥瑞しょうずいせいそう。几年ないさききさき迁其为吏部みぎさむらいろう,进南京なんきんれいなお,两年きさきあらためにん吏部なおよしみやすしじゅうねん(1536ねん),以贺万寿节至京师。时值廷议じゅうおさむそうふみ》,とげとめきょう以礼なお书兼翰林院かんりんいん学士がくし衔主其事。ぜん伺帝,以まつあお词,取得しゅとく宠信,太子たいしふとしじゅういちねん(1542ねん),はい武英たけひで殿どのだい学士がくしにゅうじきぶん渊阁,仍掌れいごときさきかいごと,专直西にしえんるい进吏なお书,谨身殿どのだい学士がくししょうでんけん太子たいしふとししょう华盖殿どのだい学士がくし

严嵩一意いちいこびじょう,窃权罔利,专擅国政こくせいきんじゅうねん大夫たいふ侧目屏息へいそく不肖ふしょうしゃ奔走ほんそう其门,ぎょう贿者络绎绝。严嵩戕害他人たにん以成やめわたし,并大りょく排除はいじょ异已。还吞ぼつ军饷,废弛边防,招权纳贿,肆行贪污,激化げきかりょうとう时的社会しゃかい矛盾むじゅん晚年ばんねん,以事激怒げきどむね,为世むねしょ疏远,しょう职,两年きさき而殁。ちょゆう《钤山どうしゅう》40かん

生平おいだいら

[编辑]

早年そうねん

[编辑]

なりじゅうろくねん,严嵩せい于分むべ县,とう时严家家いえいえどう中落なかおち,很难维持せい计,经常需要じゅようもたれむすめせっ济。严嵩よう聪颖好学こうがく悟性ごせい很高。[2][3] 其父严淮ひさこう未成みせい自然しぜん一切的希望都放在儿子身上,于是便びん悉心てき栽培さいばいきょう导,五岁开始在严氏祠启蒙。とう严嵩はち岁后,就由于其聪慧才智さいちいたりょうぶんむべ县知县莫立てきじゅう视,莫立はたやすはい进县がく,并免除めんじょりょう所有しょゆうてきがく费。きさきまたゆう江西えにしひさげがく使经过ぶんむべめん试严かさきさきはた严嵩进补为廪ぜんせいじゅう岁时,县试拔擢ばってきちょうぐん弘治こうじじゅういちねん(1498ねん),ちゅうしきつちのえうま江西えにし乡试だいじゅうろくめい举人,时年じゅうきゅう岁。

にゅうつかまつ

[编辑]

严嵩ざいじゅう岁时,终于完成かんせいちち亲的こころすなお,于弘治こうじじゅうはちねん(1505ねんこうちゅうおつうし进士全国ぜんこくだいめいにゅう翰林院かんりんいん庶吉,授编おさむ[4]とうせい怀着たけし志雄しおしん,严嵩いんはは丧又とくりょういち场大びょうさこ使つかい退官たいかんかいせきざい严嵩退官たいかんてきはちねん间,せい宦官かんがん刘瑾权倾天下でんか时。

こうます

[编辑]

刘瑾あずか其党灭后,たけはじめ正德まさのりじゅういちねん(1516ねん),经杨廷举荐,严嵩北上ほくじょう顺天正式せいしき复官。ざい此后てきじゅう年内ねんない,严嵩さききさきざい北京ぺきんあずか南京なんきんてき翰林院かんりんいんにん职。历任翰林院かんりんいんさむらい讲,しょ南京なんきん翰林院かんりんいんごとよしみやすしよんねん(1525ねん)召为国子くにこ监祭しゅよしみやすしななねん(1528ねん),にんれいみぎさむらいろう。迁吏部ひだりさむらいろうよしみやすしじゅういちねん(1532ねん)进南京なんきんれいなお书,あらため吏部。严嵩ざい南京なんきん任官にんかんねんよしみやすしじゅうねん(1536ねんいん贺万寿节返回北京。とう时,あきら廷要じゅうおさむそう》,辅臣请求让严かさみつとむれいなお书兼翰林かんりん学士がくし

とう明世あきよむね沉迷道教どうきょうこのみ长生不老ふろうこれ术,对政事せいじばく关心,ちょうちゅうごと务皆交由朝臣あそん处理。れいなおなつげんいたむねてき宠信,また严嵩てきどう乡,于是严嵩拼命讨好なつごと

一日严嵩在家中设宴,并邀请夏ごとただしなつ言辞げんじ赴宴,于是严嵩跑到なつげん门前,撩起ころもほう,跪在なつまえなつげんこう意思いし再三さいさん谢绝,便びんいた严嵩家中いえじゅう赴宴。此以きさき,严嵩なり为了なつげんてき知己ちきなつげんこうおおかた推荐严嵩。ゆうりょうなつげんてき引荐,严嵩此步だかます,并深とくむね爱。よしみやすしじゅうねん(1536ねん),なつげんますにんない阁首辅,严嵩ますにんれいなお书。きさき太子たいしふとし

なつげん视甚だか,渐不为明世あきよむねしょ。一日世宗将沉香水叶冠赐予夏言、严嵩とう大臣だいじんなつげん并不戴上;ただし严嵩每次まいじあさ都会とかい戴此かんむり,还特よう轻纱笼住以示郑重。むね见状,えつ严嵩而嫌なつごと

严嵩すすむます太子たいしふとしでん羽翼うよくやめ丰,开始おさむ击夏ごとまた怂恿むね罢黜なつごとなつげん罢官きさき,严嵩为所よく为,よしみやすしじゅうねん(1543ねん),吏部なお许赞れいなお张璧あずか严嵩一同いちどう参与さんよつくえ务,ただしむねぐうごとただ召严かさよしみやすしじゅうよんねん(1545ねんじゅうがつ,许赞以老やめ职,张璧去せいむね再度さいど起用きようなつごと。这时なつごと知道ともみち严嵩てき为人,处处小心しょうしんぼう范。严嵩表面ひょうめんじょう对夏げん谦恭,ただし怀恨ざいしんにちきさき严嵩さい以青词夺かいむねてき信任しんにん

きさきらい,严嵩にぎちゃく鞑靼にゅうおかせ中原なかはらてきつくえかい迫害はくがいなつごとよしみやすしじゅうさんねん(1544ねん),鞑靼いれおかせかわこん宁夏ないこうむ境内けいだい贺兰やま以东,おおかみやま和大かずひろ青山あおやま以南いなん),陕西总督曾铣发兵夺回かわ套,并上ていそう疏,けん议从府谷ふのたにはじめいたてい边修筑いちだん边墙,さいみず陆并进,逼鞑靼退へい[5],此举いたなつげんてき支持しじなつげんこう朝廷ちょうてい举荐曾铣,并与しょう讨计划。

明世あきよむね决心夺回かわ套,并褒扬曾铣。此时严嵩买通皇帝こうていきんまちしょう其“轻启边衅”,并指使边将かたき诬称曾铣掩败报,かつ扣军饷,贿赂くび辅夏ごと。严嵩さら在世ざいせいむね面前めんぜん说两じん夺回かわ套别ゆう用意よういせいむね果然かぜんあいしん

よしみやすしじゅうななねん(1548ねんさんがつ,曾铣杀,妻子さいしりゅう千里せんりなつ言下ごんか狱,きさきらい严嵩利用りよう传言,使つかいむね得知とくちなつげん毁谤自己じこ同年どうねんじゅうがつなつげん斩首なつげんてき亲信ある贬或罚。

权倾

[编辑]

なつげんきさき,严嵩どく揽大权,而明そう一心いっしん修道しゅうどう,无心处理せい务,所有しょゆう政事せいじ悉由严嵩さい决。此时じょりょう严嵩、道士どうし左右さゆう近侍きんじがい,无人のう见世むねいちめん

よしみやすしじゅうななねん(1548ねん)严嵩なりうち阁首辅きさき,继续小心しょうしんさむらいたてまつむね,“みかど以刚,かさみ以柔。みかど以骄,かさみ以谨。みかど以英察,かさみ以朴诚”,せいそう赐“忠勤ちゅうきんさと达”银印。きさきらい,严嵩ねんおいつつみ拔其严世しげる协助てのひら权,严世しげるなりこうさむらいろう。严世しげるおさむ买世むね左右さゆう宦官かんがん,汇报皇帝こうていてき日常にちじょう生活せいかつ起居ききょ饮食。大臣だいじん视为“だい丞相じょうしょうあずかしょう丞相じょうしょう”。ゆう大臣だいじん讥称“すめらぎじょう不能ふのうぼつゆう严嵩,严嵩不能ふのうぼつゆう儿子。”

严嵩父子ふし权倾天下でんかじゅうねん天下てんか怨恨えんこん。严世しげる甚至ざい家中かちゅうたから库内だいわらい说“朝廷ちょうてい无我とみ!”众多大臣だいじん以弹劾[6]みな赖世むねつつみひさし

末路まつろ

[编辑]

よしみやすしよんじゅういちねんゆうやま道士どうし蓝道ぎょう以善于扶乩闻名于つばめきょうじょはた道行みちゆきかい绍给むねいちにち蓝道ぎょうざい扶乩时称“今日きょうゆう奸臣かんしんそうごと”,刚好严嵩过。むね对严かさ父子ふし久生ひさお[7]。严嵩しつ势后,严世しげる弹劾而流刑部おさかべしょうこうます及大てらきょう张守じきひとしよう弹劾严世しげるがい杨继もり沈炼じょ阶将此条删去,避免よしみやすし皇帝こうてい疑心ぎしん大臣だいじん们在责怪皇帝こうていただしじょ阶祭りょう杀手锏,弹劾严世はん南通みなみとおりやまと头目ひろしただし北通きたとおりこうむふる图叛变。严世しげる一得知此捏造之罪名,哭喊:“必死ひっし矣”,さい终被ばん斩首。而严かさ则被没收ぼっしゅう[8]そぎかん还乡,无家归,庐而かつ,并于两年きさきびょうそつ

历史そう

[编辑]

あかり严嵩れつにゅう奸臣かんしん传,说他无他才略さいりゃく,“おもんみ一意いちいこびじょう,窃权罔利”[9]とおる戏曲かず其他ぶん作品さくひん,严嵩てき奸臣かんしん形象けいしょうやめ深入ふかいりみん间。しか而多年来ねんらい,关于严嵩为大奸臣かんしん,仍然そう不休ふきゅう,这些そう议主よう围绕专国擅政,[10]逼害忠良ただよし[11]あずか及钜贪恶とみてきゆびひかえ[12]

外来がいらい严嵩ぶんよろしてき学者がくしゃ包括ほうかつ严曰ぶん、严小平等びょうどうじん却对严嵩てき评价さい截然せつぜん不同ふどうてき观点[a]またゆう认为具有ぐゆう忠君ちゅうくん爱民,知人ちじん善用ぜんようてきいちめん,而且せい绩卓ちょ。如严かさ重用じゅうようえびすむねひら东南沿海えんかいやまと患,取得しゅとくりょうあかり显的なりこう[13]严嵩あずか夫人ふじんおう阳氏しょうけい如宾,一生いっしょう蓄姬さむらいざい乡尤乐善こうほどこせ口碑こうひ相当そうとう错。[14]

评价

[编辑]

きよし纪昀编撰《よん库总提要ていよう·しゅう·别集类存》时,评严かさ诗集《钤山どうしゅう》:“かさ虽怙宠擅权,其诗ざいりゅう辈之ちゅう,乃独为迥おう贞《乐府变うん:‘孔雀くじゃく有毒ゆうどく不能ふのう文章ぶんしょう。’またおおやけ论也。しか迹其しょ为,きわむ文士ぶんしゆうざい无行以节取しゃぎん咏虽こう,仅存其目,以昭あきら瘅之义焉。”きよしはんいさお养一斋诗话まきいちうん:“おう元美もとみうん:‘孔雀くじゃく有毒ゆうどく掩其文章ぶんしょう。’ 谓严かさ也。”

きよし张廷だま于《あかり》说严かさ“无他才略さいりゃくおもんみ一意いちいこびじょう,窃权罔利”てきどう时,也不とく不承ぶしょう认他“为诗、文辞ぶんじ,颇著せいほまれ”。ざいとう时文眼中がんちゅう,严嵩颇有儒雅ほんしょくなにりょうしゅん说:“严介ろう诗,しゅう丽清警,近代きんだい名家めいか有能ゆうのう其右しゃ作文さくぶんまた典雅てんが严重,乌可以人而废。且怜ざい下士かしまた爱。”[15]

史学しがく曹国庆认为严嵩ざい书法上成うえなしめいはついれ翰林院かんりんいんてき时候。明代あきよてき翰林院かんりんいん网罗りょう天下でんかてき人才じんさい相当そうとう中央ちゅうおうてきさとし囊团书记处。严嵩てき经义文章ぶんしょう每每まいまいれつ为首选,てき诗词唱酬さく也常ざいうたげ集中しゅうちゅうりょく拔头筹,于是,にん们在欣赏てき文章ぶんしょうてきどう时,また领略りょうてき书法わざ艺,观其ぶん便びん获双じゅう享受きょうじゅ。此后,ゆかり翰林院かんりんいん而及其他にんじょうゆかりきょう而及地方ちほうりんちゅう便びんゆう以得其墨たから为荣しゃ。钤山归隐てきはちねん间,严嵩またせいけんりょう许多书法贴,书法づくり诣精たたえいたりこんざい北京ぺきん还留ゆうてき书法遗迹“ろく必居とう题额10[16]山海さんかいてき天下てんかだいいち关”(ただしじんみな讳言严嵩,说是萧显ところ题)、やまきょくてき“圣府”、杭州こうしゅう西湖さいこたけ飞庙てき“满江红”(ただし落款らっかんきさきあらためなつげん[17]どう调词とう全国ぜんこく知名ちめいけいてん20处还保留ほりゅうりょうてき书法遗迹[18]。严世しげるじょよめ衍圣こうあないたりこんとめゆう严嵩もとめじょうざい此坐ひやばん凳的“阁老凳”。

家庭かてい

[编辑]
  • 高祖父こうそふ严孟衡曾祖父そうそふ严琏、祖父そふ严廷けんじちち严淮。
  • つまおう阳氏

轶事

[编辑]

明世あきよむねこのみ斋醮うつりきょ西にしえんきさきうち阁辅しんさらとく轮班陪祀。よしみやすしじゅうきゅうねん(1540ねんがつじゅうにちせいこう轮到严嵩陪祀,とめ宿やど西にしえんないしゃゆるがせしかいちだいぞうやぶ门而いれ,围绕严嵩てきゆか咆哮ほうこう跺脚、徘徊はいかいまえじょうじゅうふん危急ききゅう,吓得严嵩ただのうすわざい床上ゆかうえ,并且こころさとだまねんちょほどてきわたり汉江こと。过了很久,养象てきじん赶来だいぞう牵走,严嵩ざいとく以平いたいらやす无事,于是便びんうつし《记象入室にゅうしつごといち[19]

其他

[编辑]

北京ぺきんいたり圣堂てきだい匾,そう传是严嵩题写。

电影《じゅうそう严嵩》(1952)よしめい马师曾薛觉さき丽珍主演しゅえんきさきめい靓次はく也于同名どうめい剧目主演しゅえん严嵩闻名。

平生ひらお报国おもんみちゅうあか从人说是非ぜひ”——严嵩遗言

ちゅう

[编辑]
  1. ^ 参看さんかん毓庆どう

参考さんこう文献ぶんけん

[编辑]

引用いんよう

[编辑]
  1. ^ あかりれつ传第いちきゅうろく·严嵩:“严嵩惟中いちゅうぶんむべひと
  2. ^ 名山めいざんぞうまききゅうじゅうさん·严嵩:“わらわげん宿やどせい颖悟绝人”
  3. ^ 见 "ざい横溢おういつ 奈何いかん奸臣かんしん" 2009ねん08がつ12にち 载于 中国ちゅうごくにち
  4. ^ あかりれつ传第いちきゅうろく·严嵩:“举弘じゅう八年进士改庶吉士授编修”
  5. ^ あかり·そうほん纪二》
  6. ^ 南京なんきんおう宗茂むねしげうえ疏弹劾严かさひさ持国もちくにがらさくぶくさくうす海内かいだいがい,罔不怨恨えんこん。如吏、へいまい选请ぞくじゅうにんにんさく贿数ひゃくきんにん择善,致文武将ぶしょう吏尽其门”。“往岁遭人论劾,せん输家资南かえし,辇载珍宝ちんぽう不可ふか胜计,きむ银人ぶつだかさんしゃくしゃしもいたりおぼれまたきむ银为。”“广市良田よしだへん于江西にしすうぐんまた于府きさき积石为大坎,实以きん银珍玩,为子孙ひゃくせい计。”(《あかり·おう宗茂むねしげ传》)刑部おさかべ主事しゅじ张翀うえ疏说:“户部岁发边饷,ほん以赡军,かさ辅政,ちょうささえ门,くれにゅう奸臣かんしん。输边しゃよん,馈嵩しゃろくしんごと过长やすがい,见嵩门下无非边镇使じん见其ちちさき馈其见其さき馈家じん家人かじん严年,とみやめ逾数じゅうまんかさ可知かち私藏しぞう充溢じゅういつはんぞく军储。边卒冻馁,朝夕ちょうせき。”(《あかり·张翀传》)
  7. ^ あかり纪事》だいじゅうかんそうたかし道教どうきょう
  8. ^ しょうきよし单编为《天水てんすい冰山录
  9. ^ 见《あかり·まきさんひゃくはち·れつ传第いちひゃくきゅうじゅうろく》严嵩传
  10. ^ くに榷》まきろくじゅうよん维桢げん:“(むね)斋居すうじゅうねん,图回天下でんか于掌じょう中外ちゅうがい俨然如临。”また范守おのれげん:“しん于徐しょう师阶处,盖捧读世庙谕さつ及改定旨さだむねくさうんじん尝谓辅臣拟旨,几于擅国がら,乃大しか。见其しょ拟,みかど一一省览窜定,ゆうとめ数字すうじしゃ。虽全とうみかどしんまた必更えき数字すうじしめせ明断めいだんゆう,则驳使さい拟,さい,则谯让随矣。阁臣无不惴惴惧者。”《明世あきよむね实录》まきろくろくよしみやすし四十五年十二月辛丑载嘉靖皇帝醉心于西苑修仙斋醮,ちょくいたさいきさき死去しきょ,却一ちょく“虽深きょ渊穆而威がらうつり”,虽数じゅうねん朝臣あそん,仍能做到“だい张弛、だいふうはいだい诛赏,みな独断どくだんいたり不可ふか测度。”
  11. ^ 谈迁ざいくにちゅう认为,“贵溪(なつげん不死ふし于败而死于谗,また严氏だい为之受螫也。”见严かさみただしりょうくろ锅的。
  12. ^ 杨继もり《请诛贼臣疏》れい举严かさじゅう大罪だいざいじょうだいじゅうじょう便びん其坏“风俗”:“わがあさ风俗,あつしあつ近古きんこぎゃく用事ようじはじめ为少变。すめらぎじょう继位以来いらい躬行きゅうこう古道ふるみち风俗还古。及嵩为辅しん,谄谀以欺乎上,贪污以率其下。つう贿殷つとむしゃ,虽贪如盗跖而また荐用;奔竞疏拙しゃ,虽廉如夷齐而また罢黜。一人ひとり贪戾,天下てんかなり风。まもり法度はっとしゃ,以为かた执;たくみわたる缝者,以为ゆうざい;励廉かいしゃ,以为矫激;ぜん奔走ほんそうしゃ,以为练事;卑污なり套,ろう不可ふかやぶ。虽英雄えいゆうごう杰,またにゅう套中。从古风俗坏,ゆう甚于此时しゃきわむ其本げんかささきこう,此天所以ゆえんみななお乎贪;かささきこう谀,此天所以ゆえんみななお乎谄。みなもと洁,りゅうなん以清;风俗不正ふせい,而欲望よくぼう天下でんかとく乎?”
  13. ^ かやひつじさる说:“苟欲按论えびすこうつみはいしゅ踯躅,豪宕ごうとう大略たいりゃく汉之列侯れっこうはた军、とうはん镇节使者ししゃ是也これや;其所为声しょく嬖、かんむり亵,众所とく而庇しゃしかいたり于长ざい大略たいりゃく雄心ゆうしんもうさとし、临敌じょうたけし、转变为功,また众所とく而掩しゃりつ于庄これぎょう,则世あるあずか;课之以捍こく勋,则不可ふか无。”《ちがや鹿しか先生せんせい文集ぶんしゅうまきさん,《うえ袁元ほうしょうおおやけ书》)
  14. ^ すめらぎ明大めいだいごと记·严嵩》载:“かさつまおう阳氏甚贤,ゆうほう,驭世しげるゆう严,かさまたあいけい如宾,つくり无姬さむらい。”沈德まん历野获篇·ない阁·きょかんきょ不同ふどう》:“严分むべさくしょう,受世だいあか,而为とく于乡甚厚,其夫じんおう阳氏,ゆうこうほどこせいたりこん袁人犹诵说之。”
  15. ^ 《四友斋丛说》まき二六にろく
  16. ^ 蒋芷侪所ちょ门识しょう录》うん:“ちゅう名人めいじんしょ书市招匾时,かのえこぶしみだれ,毁于兵燹へいせん,而严かさしょ书之‘ろく必居’,严世しげるしょ书之‘鹤年どうさん巍然ぎぜんどくそん”。
  17. ^ きよし严元あきら蕙榜杂记じゅつ录严かさみかず满江红》词刻せき时说:“词既慷慨こうがい,书亦瘦劲观,まつ题可观,まつ华盖殿どのだい学士がくしきさきじんみがけ姓名せいめいあらため题‘なつげん’。虽属わらいしかまたあし以惩奸矣。”
  18. ^ 《众说纷纭论严かさ》101页,中国ちゅうごくぶん出版しゅっぱんしゃ,2005ねん10がつ,严小平こだいらぬし
  19. ^ あきら·严嵩,《钤山どうしゅう》(まき14):“仲春ちゅうしゅうもちゆう,陪祀宿やどないしゃゆるがせ风象おり突入とつにゅう,𥃨うちごうさけべ,踯躅甚危恶,黙坐もくざねんほど伊川いがわわたる汉江ごと良久よしひさぞうじんらい,拽之以出,こう以无恙,いん记于此。”

らいみなもと

[编辑]
かん文章ぶんしょう
书籍
  • ゆうよしくん:《名分めいぶんれい秩与すめらぎ权重塑:大礼たいれい议与よしみやすし政治せいじ文化ぶんか》。高雄たかお复文出版しゅっぱんしゃ(2006ねん6がつ
かん
前任ぜんにん
なつげん
あかり朝礼ちょうれいなお
1536ねん-1543ねん
继任:
张璧
前任ぜんにん
翟銮
明朝みんちょうないくび
1544ねん-1545ねん
继任:
なつげん
前任ぜんにん
なつげん
明朝みんちょうないくび
1548ねん-1562ねん
继任:
じょ