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ていけい

维基百科ひゃっか自由じゆうてき百科ひゃっかぜん
重定しげさだこう郑经
ていけい
のべたいらおう
前任ぜんにん成功せいこう
つぎにん郑克𡒉监国
鄭經
國家こっか明朝みょうちょう(1642ねん—1644ねん
南明なんめい(1644ねん—1662ねん
あきらてい(1662ねん—1681ねん
時代じだいあきら末清すえきよはつ
主君しゅくんえいれきみかど(1649ねん—1662ねん
成功せいこう(1662ねん
けん元之もとゆき
ごうしきてん
斋名せんえん主人しゅじん
ふうたいらこくおおやけ のべたいらおう
ふうごうのべたいらおう世子せいし
尊號そんごうにしきしゃはん
ぞく閩南みんけい
氏族しぞくてい成功せいこう家族かぞく
せきぬき福建ふっけん泉州せんしゅうみなみやす石井いしいいま福建ふっけんしょうみなみやす石井いしい
別名べつめいていにしきしゅけい
出生しゅっしょう大明だいめいたかしただしじゅうねんじゅうがつはつ
1642ねん10がつ25にち
大明だいめい福建ふっけん泉州せんしゅうすすむこう安平あびらいま福建ふっけんしょうすすむ安海あんかい
逝世あきらていえいれきさんじゅうねんさんがつじゅうなな
1681ねん3がつ17にち(1681さい—03—17)(38さい
あきらていうけたまわてん安平あびらいま台灣たいわんたい南市みなみいち中西なかにし
在位ざいい年代ねんだい1662ねん6がつ29にち-1681ねん3がつ17にち(18ねん261てん
谥号しおぶんおう[1][2]
はかそう成功せいこう
ほこらびょう二王におう
おやぞく
父親ちちおやうしおたけしおうてい成功せいこう
母親ははおやうしおたけし王妃おうひただしとも
正室せいしつぶんとう
側室そくしつむすめちんあきらむすめよりゆきもと、柯氏、馮氏、ちょうちょうりゅう
兄弟きょうだいていさとしていあきらていていさとしていひろしていひろしていあつしていやわらていはつ
姊妹柯良つまあまはじめつまひろしまこと中妻なかつましゅひろしつま
庶子しょしかんこく世子せいしていかつ𡒉のべたいらおうていかつきょう謹侯ていかつていかつひとしていかつていかつしょうていかつていかつはなわ
庶女はじめたかしつまはじめつまちん逢泰つまあまじゅんひとしつまちょうつぎつまてい

ていけい(1642ねん10がつ25にち—1681ねん3がつ17にち),またしゅてい成功せいこうてき長子ちょうし[3]せき福建ふっけん泉州せんしゅうみなみやすいちめいにしきけん元之もとゆきごうしきてん尊称そんしょうにしきしゃ」、“はん”。其作为のべたいらおう期間きかんいちちょくみことたてまつ南明なんめいせいついたちなみ沿用えいれき年號ねんごう自稱じしょう嗣封世子せいし」、「招討大將軍だいしょうぐん世子せいしあるほんはん”,使用しようほんおうとう稱呼しょうこなみ明朝みょうちょう宗室そうしつ禮遇れいぐう有加ゆか。其子郑克塽继位きさきつい谥其为「しおぶんおう[1][2]どう時代じだい英國えいこくたいていけいてき稱呼しょうこゆう「King of Amoy, Tywan and many other territories」(廈門、台灣たいわんとうおうとう[4][5]

ていけいすんで擅長文學ぶんがく詩賦しふちょゆうひがしかべろうしゅう》(1664ねん-1674年間ねんかんしょちょてき古典こてん詩集ししゅう),また擅長騎射きしゃ前期ぜんき積極せっきょく從事じゅうじはんきよし复明活動かつどうただし西進せいしん失敗しっぱい,就耽溺たんでき酒色しゅしょくだる政事せいじ[6]

ていけい在位ざいい期間きかんざい政治せいじじょう重用じゅうよう輔弼ほひつ大臣だいじんちんひさしはなたまもの其官はかさんぐんあずかあずまやすしそうせい以行宰相さいしょうしょくすべりょうろくかんはたかん官制かんせい導入どうにゅう台灣たいわんざい教育きょういく方面ほうめんていけいじょりょうけんぶんびょう祭祀さいし孔子こうしそとさら設立せつりつふとしがくはた漢人かんどこれ四書ししょ五經ごきょう以及制度せいど導入どうにゅう台灣たいわん使つかい台灣たいわん正式せいしきにゅうりょうかん文化ぶんか漢字かんじ文化ぶんかけんてき範圍はんい內。

生平おいだいら

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早年そうねん

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郑经出生しゅっしょうあきらたかしじゅうねんじゅうがつはつにち(1642ねん10がつ25にち[7]ちち亲是成功せいこうはは亲是ただしとも

叔姪そう

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ていけい年少ねんしょうそくやめ頗為好色こうしょくなみ特別とくべつあい中年ちゅうねん妇女,いく乎與胞弟てきごと一名乳母均有私通;てい成功せいこうせいだいまえ留守るすおもえあきらしゅう廈門てきていけいおさめ其中いちにんちんあきらむすめためわらわなみ倍加ばいか寵愛ちょうあい[8]てい成功せいこう得知とくちほんれいちんぎょうとべうみりょうだんただしていけい卻以其駐權勢けんせいつつみひさしちんなみかくれ父親ちちおやちょうたちさんねんひさちゅう廈軍懾於世子せいし權勢けんせい無人むじん敢通知人ちじんざい臺灣たいわんてきてい成功せいこうちんさら恃寵せいおご霸凌ほんやめ長期ちょうき受寵てきていけいげんはいとう滿腹まんぷく冤屈てきとうただ有向ゆうこう於明てい朝廷ちょうていきょ要職ようしょくてき祖父そふからあらわえつもとめすけ[9]

えいれきじゅうろくねん(1662ねんさんがつちんせいていかつ𡒉,ていけい於是こうちちほうしょうため側室そくしつ所出しょしゅつただしかくれ瞞陳份,一時鄭成功大喜過望,滿まんあさ文武ぶんぶ皆賀みながあままごおんな受辱てきとうあらわえつ此時即發そくはつなん上奏じょうそうむかいてい成功せいこう舉報揭破ていけい謊言,事件じけん臺灣たいわん釀成じょうせい嚴重げんじゅう政治せいじ醜聞しゅうぶん[10]

てい成功せいこう得知とくち世子せいし欺騙勃然ぼつぜんだいいかしたれい主管しゅかん廈門てきどうけいていやすし全數ぜんすうしょただしていけいちんあきらむすめあずかていかつ𡒉とうじん[11]ていやすしかたみとめどうどう不倫ふりん舉,ただし也無ほう接受せつじゅどうおとうとざん血脈けちみゃくぞくおや、以及だい規模きぼ肅清しゅくせい宗族そうぞく必然ひつぜん引致いんちぐんこころ動搖どうようてきはておこりはつあずかたてまついのち渡海とかいらい廈的つかさ談判だんぱん打算ださん僅將ちんあきらむすめていかつ𡒉母子ぼし首級しゅきゅうおくかい臺灣たいわん交差こうさりょうごとさい動員どういん大量たいりょうそうちかしためただしていけい母子ぼしもとめじょうてい成功せいこう得知とくちていやすし意見いけんさらため憤怒ふんぬたてそくかい佩劍はいけんれい毓回廈斬殺ざんさつよんにんていやすし無法むほう下手へたただゆうさけべ毓親找鄭けい行刑ぎょうけいただし暗中あんちゅうひさげぜん通報つうほうていけい毓剛いたていけい就被其隨從ずいじゅう包圍ほういかかわ[12]

此時ざい臺灣たいわん犯罪はんざいてきさんぐん蔡鳴かみなりとう奔廈もんなみ警告けいこくせつてい成功せいこうやめれいしゅうちょんあきらりつぐんいたり廈門執行しっこう命令めいれいねがい殺害さつがいむねおやてきていやすしただゆうひろしあさひ建議けんぎ毅然きぜん以堂けい份抗いのちなみれいみず大膽だいたんとう海域かいいきげんじん以待。しゅうちょんあきらつよし接近せっきん廈門そくていけい按黃廷建議けんぎかこえこま繳械なみかかわなみれいあきらおさむへん其部たいてい成功せいこう聽聞ちょうもん廈門こういのち事大じだいためこうさいれいひろしゆうかなえ渡海とかい執行しっこう命令めいれいただひろしこういたり東山ひがしやまとうどきすい守備しゅび森嚴しんげんさい聽聞ちょうもんしゅうちょんあきらてき消息しょうそくそく嚇得敢再ぜんどうかいだい[13]てきちゅうだい將領しょうりょう其後さらいく乎遭ていやすし以謀がい宗室そうしつ罪名ざいめいしょ,僅得ただしため顧全大局たいきょくけいぜんいやりょくたもてかたとくいのち。此舉ちゅうたいていぐんため公然こうぜんこういのちれい其與ちゅう廈軍あいだ開始かいし出現しゅつげんいやすきなりためりょうきしそうてき導火どうかせん。驻厦诸将拥立郑经为“たいらこくおおやけ[14]

えいれきじゅうろくねんがつはつはち(1662ねん6がつ),てい成功せいこうびょう[15]じゅうよんにち(6がつ29にち),厦门诸将推举郑经继承のべたいらおうこれ[16]しょうはん”。じゅういちにち(7がつ6にち),台湾たいわんしょしょう推舉てい成功せいこうおとうとていかさねためまもる」,以定ぐんしんていかさね部下ぶか蔡雲おうきよし曹從りゅうちょうとうよんにんひしげあきらしょう拱宸ひとしちゅうたい將領しょうりょうたてていかさねため東都とうとおも」。

同年どうねんじゅういちがつはついち(11月11にち),ていけいりつ从厦门出发。はつなな(11月17にち中午なかうまいたり澎湖あずかあきらしょう拱宸とうひと協商きょうしょうなりりつぐん東征とうせい東都とうと」(ていけいあらためためあずまやすし」)。じゅうななにち(11月27にち晨,だい雾蔽てんしゅうちょんあきらりょく劝鄭けい趁此つくえかいりつぐんとう陆,郑经同意どうい,于是ざい鹿しかみみもんのぼりりく,而駐ぐん東都とうとてきみぎとらまもるやすまたりつぐんぜん來世らいせていけいかいていけいじんいたり東都とうとうけたまわてん譴責けんせきあきらしょう拱宸にん,以自おのれためのべたいらおう正統せいとう要求ようきゅう臺灣たいわんぐんすけせん[17]あきら聽聞ちょうもん消息しょうそくりつぐんいたりにわたずみみなとあずか世子せいしぐん對戰たいせんおこりさき雖佔優勢ゆうせいただしあきら本人ほんにん中流ちゅうりゅうほろびぜんぐん敗退はいたいあきらしょしょうみなくだ

ていけい嗣位そうとくしょうていけいいれぬし東都とうとあきらきょう安平あびら王城おうじょう」,ていかさねため保全ほぜんせいいのちはた責任せきにんぜん推給いく心腹しんぷく身上しんじょう[18]ずい蔡雲しょう拱宸、ちょう驥、おうきよし以及曹從りゅうとうじんうけたまわてん斬首ざんしゅしめせ眾,ぞくじんながれていかさね遭禁錮於廈門

えいれきじゅうななねん(1663ねん),ていかさねかしこ懼被ころせ半夜はんやりつりょう官吏かんりひゃくじゅうよんにん士卒しそついちひゃくじゅうにんぎんぜにふねせきやりひとしものとうしんぐん[19]

退すさもり台灣たいわん

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えいれきじゅうななねん(1663ねん正月しょうがつていけい發現はつげんていやすしかずきよし暗中あんちゅう聯絡れんらくかず清朝せいちょう談判だんぱんまたゆかりていやすしせめていけい開始かいし懷疑かいぎてき忠誠ちゅうせいとげ監禁かんきんていやすしていやすしてきおとうとおとうととげとうもたれ清朝せいちょうひさかん熙帝拒絕きょぜつりょうていけい條件じょうけん便びんひしげらんじん組成そせいれんぐん對抗たいこうていけいじゅうがつじゅうきゅう(11月18にち),「きよしれんぐん進攻しんこうかねもん廈門ていぐん不敵ふてき而棄もり退すさ銅山どうざん戰後せんご人心じんしん開始かいし不穩ふおんれん大將たいしょうしゅうちょんあきら也降きよしていけいとげ退ずさ往台わん[20]

えいれきじゅうはちねん(1664ねん清康きよやすさんねん),ていけいあらため東都とうとためあずまやすしますてん兴、まんねん县置てんきょうまんねんしゅう。设吏、户、れいへいけいこうろく,并在南北なんぼく两路及澎みずうみ设安抚司。继承ちちこころざし大力だいりき励开あら垦植,ごう人民じんみん种蔗せいとう海水かいすいさらし盐,积极倡办学校がっこう

ざい後來こうらいていけいたいおさめらんあかりたま勸降かんこうしんてきこたえふくちゅう出現しゅつげんりょう建國けんこくあずまやすしいち台北たいぺい教育きょういく大學だいがく筱峰とうみとめため這印しょうりょういち獨立どくりつ王國おうこくてき成立せいりつそくあずまやすし王國おうこく),而廈門大學だいがくちんあなりつしゅう大學だいがくはやし东杰とうそくみとめため該語ゆびてき赓续あかり祚,與清ともきよ對抗たいこうしたがえゆう所謂いわゆるてきあずまやすし王國おうこく[21][22]

茲列しめせこたえふく全文ぜんぶん如下:

ふくあかりたましょ
ぶた聞兵乃不祥之よしゆき,其事こうかえ禍福かふく無常むじょう倚,強弱きょうじゃく無常むじょうぜい;恃德しゃきょう,恃力しゃほろび。曩歲おもえあきらこれやく佞深憫民せいやましにが暴露ばくろ兵革へいかく連年れんねん不休ふきゅうとげぜん而退;とお絕大ぜつだいうみ建國けんこくあずまやすし,於版疆域そとべつたて乾坤けんこん以為きゅうへいいきみんしょうやす無事ぶじ矣。いいかくなお有意ゆういとくわが叛將,再起さいきへいはしあに未聞みもんちん蛇足だそく喻與やしなえよしもとぜんいきこれせつ乎?おっと苻堅寇晉,ちからつよし也;ずいせいりょうこころざしいさみ也。此二ごとかくところあきら知也ともやきょう叛將逃卒,ため先王せんおう撫養むやしゃじゅうねんこん其歸ちょうしゃ必盡忘舊恩きゅうおん而慕新榮しんえい也。はばかなみ濤、こい鄉土きょうどため偷安けいみみ閣下かっかしょ以驅ひがしおかせ而不顧者,また必以才能さいのうためあし恃、こころ迹為信也しんや以若やから叵測,しゅうと使まえ勝負しょうぶふかろんみみこん閣下かっかまちこれ若輩じゃくはいまた習知しゅうち矣。而況だい洋之ひろゆきちゅう晝夜ちゅうや無期むきふうかみなり變態へんたい濤不がわ閣下かっかりょう以來いらいさん舉征,其勞得失とくしつすんでやめあに天意てんいあきらあきらしゃ哉?しょえびすひとしよことうことえびすひとし千古せんこ高義たかよしえきひやそく如田よこさん齊一せいいつ匹夫ひっぷみみなお守義もりよし不屈ふくつ!而況佞世受國おんきょううけたまわ先王せんおうくん乎?倘以あずまやすし受羈縻,のり海外かいがい列國れっこく,如日本にっぽん琉球りゅうきゅうりょそうこうみなみ近接きんせつ浙、粵,あにつき服屬ふくぞくわかおそれ敝哨出沒しゅつぼつじつえんたび臨江,とくふね偵邏。いたり於休へいいきみん,以免生靈いきりょう塗炭とたん;此仁じんげん,敢不佩服?しか衣冠いかんわれしょゆう爵祿しゃくろくまたわれしょゆう;而「じゅう爵厚祿ろくえい世襲せしゅうふうこれ,其可以動海外かいがいしんこころ哉?けい披腹而言,おおせいのりたれかん

てい成功せいこうざいあずからん及其國家こっかてき往來おうらい交涉こうしょうちゅう一貫いっかん自稱じしょうため大明だいめい招討大將軍だいしょうぐんこくせい」,而荷かたそくたたえてい成功せいこうためくにせいじい閣下かっか」,表明ひょうめい們也認定にんていてい成功せいこう隸屬れいぞく于明あさてき官員かんいんてい成功せいこうていけい繼承けいしょうりょう其官しょくあたま銜,しょう招討大將軍だいしょうぐん世子せいし繼續けいぞくたてまつえいれきためただしついたち,「ながれきいたり世子せいしなおたてまつ其正ついたちたたえながれきじゅうななねん。」らん萊頓大學だいがく圖書館としょかん保存ほぞんゆう《嗣封世子せいし劄致らん海王かいおうてきしんじしんちゅうていけい自稱じしょう「嗣封世子せいし」,たたえてい成功せいこうため先王せんおう」,表示ひょうじ願意がんいあずかかた和好かずよし通商つうしょう,「合力ごうりょく禦虜」。[22]陝西せんせい博物館はくぶつかん保存ほぞんちょいちみことながれきさんじゅうさんねん(1679ねんあきらてい铸造てき炮,炮身後部こうぶ铸有3ぎょう隶书与篆书铭文:「钦命招讨大将たいしょう军总统使世子せいしだい明永みょうえい历己仲秋ちゅうしゅうきちだんづくりはんぜんとくづくりもり备曾懋德」,其中「招讨大将たいしょう军总统使世子せいしそく郑经。[23]ていけい死後しごていかつ塽嗣のべひら王位おうい,仍稱招討大將軍だいしょうぐん世子せいし[22]

發展はってん貿易ぼうえき

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えいれきじゅうきゅうねん(1665ねんよんがつきよしれんぐん進攻しんこう澎湖,卻遇いた颱風たいふうこう而返。清朝せいちょういん放棄ほうき進攻しんこう臺灣たいわん恢復かいふくてい王朝おうちょう談判だんぱん

しんぐんおびえ解除かいじょていけい致力於平だい,於1666ねん進攻しんこうもとたかし。雖然ていぐんなみおさむおちいぐんおわりきわむみとめためもとたかしなん以防もり,於1668ねん棄守,らんしたがえ放棄ほうき搶奪臺灣たいわん

兩次りょうじ談判だんぱんちゅうていけい以不接受せつじゅ薙髮ちはつためよし拒絕きょぜつていけい曾寫しんきゅう其舅ただしはんしょう台灣たいわん幅員ふくいんすう千里せんり糧食りょうしょくすうじゅうねんよんえびすこうじゅん百貨ひゃっか流通りゅうつうなま教訓きょうくんあし以自きょうまたなに慕於はんふうなにとも於中哉?」[24]ざい1667ねん7がつ和談わだんちゅうていけいごえしょう台灣たいわんぞく版圖はんとなか」、台灣たいわんひがしれん日本にっぽんみなみりょそう人民じんみん輻輳ふくそう商賈しょうこ流通りゅうつう王侯おうこうとうとかたわれしょゆう,萬世之基已立於不拔」[25]。1669ねん和談わだんちゅうていけいまた強調きょうちょうてい佔據台灣たいわん「於版疆域そとべつりつ乾坤けんこん」,またせつ台灣たいわんとおざい海外かいがいあずか版圖はんとびょうあいわたる[26]

いんため清朝せいちょう實施じっし遷界れい」,採納さいのうちんひさしはなてき提議ていぎ賄賂わいろ清朝せいちょう將領しょうりょう進行しんこうはしわたし[27]よし沿海えんかい流民りゅうみんせめてんうん貨物かもつ[27]當時とうじ臺灣たいわんてき漢人かんどおとこおんなしょう,甚至進行しんこう婦女ふじょてき人口じんこう販賣はんばい[27]流民りゅうみん也負せめがえあきらてい軍隊ぐんたいよりどころもり島嶼とうしょ[27]

德川とくがわ幕府ばくふあかり鄭重ていちょうようてき貿易ぼうえきおびただしともなえ台灣たいわん大量たいりょう輸入ゆにゅう日本にっぽんぎんどうなまり盔甲,以支援しえん戰爭せんそうてき需要じゅよう雙方そうほうてき貿易ぼうえきりょうざい1665ねんいた1672ねんたちいた高峰こうほう[28],而為りょうきょうていにちてき貿易ぼうえき關係かんけいていけい允許いんきょ日本にっぽん商人しょうにんじゅうざいもとたかし[28]

英國えいこくひがし印度いんど公司こうし也因ていけいてき邀請ぜんらい台灣たいわん雙方そうほう於1672ねん簽訂通商つうしょう條約じょうやく[29]ていけいいん透過とうか英國えいこく獲得かくとく火藥かやく兵器へいき英國えいこくじん也幫じょていぐん訓練くんれん炮兵ていけいかえ借用しゃくよう英軍えいぐん炮兵作戰さくせん[29][5]

時期じきあきらていため擴充かくじゅうぐんかてそんりょう而於臺灣たいわん大幅おおはば拓殖たくしょくたむろ墾,あきらていたむろ墾軍またいん開墾かいこん耕地こうちあずかだい肚王こくてき原住民げんじゅうみん爆發ばくはつ衝突しょうとつ將領しょうりょうりゅうこくのきりつえびすたいらりょうだい肚社すな轆社ていけい也親せいりゅうがんしゃしょうすな轆社やく」。

ていけいざいながれきじゅうよんあずかじゅうねん(1670ねんあずか1671ねん兩次りょうじじゅん備艦たい征討せいとううまひしげただししたがえそくせっいた大陸たいりく爆發ばくはつさんはんみだれてき消息しょうそくあらためため準備じゅんび西にしせい放棄ほうきけい劃。

西にしただし

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えいれきじゅうはちねん(1674ねん),さんはんみだれ爆發ばくはつていけいひさげまえすうがつりつ艦隊かんたい西にしわたり澎湖,以支援しえん福建ふっけんてき耿精ただしうまひしげ遠征えんせい計畫けいかく也隨擱置。

えいれきじゅうはちねんさんがつじゅうろく(1674ねん4がつ21にち),耿精ただしひびきおうくれさんかつら發起ほっきてきさんはん事變じへん提供ていきょうせんせんきゅうていけいかわ取出とりでへいていけいこたえおう五月ごがつていけいしたがえ臺灣たいわん出發しゅっぱつ,抵達廈門,要求ようきゅう耿精ちゅうしょう漳州泉州せんしゅう交給自己じこ[30]。耿精ちゅう這時やめけいようゆうせい福建ふっけんみとめためていけい兵力へいりょくふとしょうはややめ取消とりけし共同きょうどう作戰さくせん[31]拒絕きょぜつていけいてき要求ようきゅうていけい於是佔領うみきよしどうやす,耿精忠則ただのり斷絕だんぜつていけい貿易ぼうえき作為さくい報復ほうふく[32]雙方そうほう開始かいし交惡。

ただしこれ泉州せんしゅう漳州うしおしゅうりく續投ぞくとうもたれていけい,耿精忠見ただみていけいごえいきおい逐漸だかみなぎむかい交涉こうしょう希望きぼうはた泉州せんしゅう交還,ていけい允許いんきょ。耿精ちゅう決定けっていよう武力ぶりょく奪回だっかい泉州せんしゅうていけいりゅうこくのき於塗みねいまいずみみなとぬりみね擊退げきたい耿軍,せっしるまたためりょう爭奪そうだつ漳浦發生はっせいせん鬥。ちょくいたながれき廿にじゅうきゅうねん(1675ねん正月しょうがつ,耿精ちゅう履行りこうまえてき約定やくじょう提供ていきょう5そうせんせんきゅうていけいなみ以楓ていいま仙遊せんゆうけんかえでていため界線かいせん北方ほっぽうぞく耿精ちゅう南方みなかたぞくていけい雙方そうほうざい停止ていし鬥爭。

ていけい雖於ぜん兩次りょうじ擊退げきたい廣東かんとんてききよしぐん,仍然ゆううしおしゅうてき轄縣服從ふくじゅうあずか耿精ちゅう和解わかいこれていけい打算ださんみなみせいしおしゅうさきりゅうこくのきげきはいなおこれしんじ自己じこりつぐん抵達うみきよし。這時漳州守將しゅしょうよしわたしそこ下和したお清朝せいちょうれん繫,ていけい懷疑かいぎてき忠誠ちゅうせいよう出城でしろかず自己じこめんあるもの派兵はへい一同いちどう進攻しんこう,這兩こう命令めいれいよし服從ふくじゅうなみろくがつ舉兵反抗はんこうていけいおや包圍ほうい漳州,於じゅうがつはつろく(11月22にちはた漳州おさむおちいさこ使つかいよしとう自殺じさつためりょう報復ほうふく破壞はかいていふんていけいくるまきれ梧、よしてき屍體したい[33]よしとめざい漳州てきぞくじんしょ

えいれきさんじゅうねん(1676ねんなおこれしんじさいつぎ遭鄭ぐんげきはいただとく加入かにゅうさんはんはんきよし陣營じんえいなみしょうめぐみしゅう割讓かつじょうきゅうていけい。這時ていけいやめけいようゆう漳州泉州せんしゅううしおしゅうめぐみしゅうよん首府しゅふただし附近ふきん盟友めいゆうぼつゆう清朝せいちょうてき領土りょうどゆずる奪取だっしゅいん容易よういいん領土りょうど爭奪そうだつ盟友めいゆうおこり衝突しょうとつ五月ごがつ耿精ただし打算ださん會合かいごうさんかつら進攻しんこう江南こうなんしるしなぎさしゅうそうへいりゅうおう出師すいしりゅうおう麟不ねがい派兵はへい[34]暗中あんちゅう聯絡れんらくていけい[34]おさむなぎさしゅう

這件ごと造成ぞうせいてい、耿同盟どうめいさいつぎ破裂はれつ,耿精ちゅうめん臨鄭、きよし包圍ほういただこうこう清朝せいちょう投降とうこうしょうりょう耿精ちゅうていけい必須ひっす直接ちょくせつ對抗たいこうしんぐん主力しゅりょくさき3まんにん進攻しんこうふくしゅう,卻於じゅうがつじゅう(11月20にち[35]ざいがらすりゅうこうしんぐんげきはい,其他領地りょうち也相つぎしつもりていけいただ退ずさかい廈門

ていけい戰敗せんぱいためし堅守けんしゅ廈門派出はしゅつ將領しょうりょうぼうもり福建ふっけんひがしみなみ沿海えんかいてき島嶼とうしょ[36],穩定ぐんしんとういたりゅうこくのきかえしかい廈門,ていけい任命にんめい統帥とうすい大軍たいぐん準備じゅんび反攻はんこう閩南。1677ねん和談わだんちゅう清朝せいちょうやすし親王しんのうすぐるしょむかいていけい許諾きょだく,如果ていぐん撤離大陸たいりく沿海えんかい島嶼とうしょ退すさもり台灣たいわん,就答おう台灣たいわんへん為藩ためはんぞくあずか台灣たいわん通商つうしょう貿易ぼうえきえいいや猜」[37]

えいれきさんじゅうねんがつじゅうはちにち(1678ねん3がつ10日とおかていけい派遣はけんりゅうこくのき先攻せんこう虎渡とらときょう切斷せつだん漳州泉州せんしゅうてきれん繫,經過けいかやく3個月かげつてき包圍ほうい,於ろくがつはつじゅう(7がつ28にちおさむおちいうみきよしただしせっらいざい漳州泉州せんしゅう一帶いったいてきせん鬥,ぼつ取得しゅとく決定けっていせいてき勝利しょうり戰況せんきょう出現しゅつげん僵局。ねんてき和談わだんちゅう清朝せいちょう將領しょうりょうよりゆきとうきゅうていけいしんじたたえ,如果ていぐん肯退もり台灣たいわんのり本朝ほんちょうなん海外かいがいいち彈丸だんがん」,ていながよりどころ台灣たいわん,「したがえ此不必登がん剃髮ていはつ必易衣冠いかんしょうしんおさめみつぎ可也かなりしょうしん不納ふのうみつぎまた可也かなり。以台灣たいわんためこれ朝鮮ちょうせんためじょぶくこれ日本にっぽん」。[38]

十二月じゅうにがつ[39](1679ねん),きよし再度さいど恢復かいふく遷界れいきたしたがえふくしゅうみなみいたみことのりやすてき沿海えんかい設立せつりつ要塞ようさい[40]なみ且蓋かこえ牆當さく界線かいせん[40]使つかいとくあきらていてき商業しょうぎょう活動かつどうだい受打げき無法むほうさい透過とうか賄賂わいろきよはた進行しんこう交易こうえき[40]經過けいか多年たねんてき征戰せいせんあきらていてき財務ざいむやめけい嚴重げんじゅうとおるささえ[40]軍隊ぐんたいまた缺乏けつぼう補給ほきゅう[41]ていけいただとく放棄ほうき中國ちゅうごく本部ほんぶ東南とうなん沿海えんかいてき所有しょゆう據點きょてん,於永れきさんじゅうよんねんさんがつじゅうにち(1680ねん4がつ10日とおか退すさかい臺灣たいわんなみはた國事こくじ交給ていかつ𡒉處理しょり

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えいれきさんじゅうよんねん(1680ねん),ていけい於台みなみ建造けんぞうえんてい北園きたぞの別館べっかん」,ため其在台灣たいわんてきぎょうかん,以及やす養母ようぼおやただしおうふとしこれしょ,1960ねんあらためけんためうみかいてら」,またたい南開みなみびらき元寺もとてらいたりいまやめゆうはたきんさんひゃくねんてき歷史れきしれきけいいくおさむけんざい建築けんちく風格ふうかくじょう保有ほゆう伽藍がらんかくきょく」,ため典型てんけい佛寺ぶつじてきかたちせいため中華民國ちゅうかみんこく國家こっかきゅう古蹟こせき

えいれきさんじゅうねん正月しょうがつじゅうはちにち(1681ねん3がつ17にち),てい享年きょうねん40きょていけい於夏琳《うみ輯要》ためあきらさくひさしれきさんじゅうねんはる正月しょうがつみずのえうまあきらのべたいらおう招討大將軍だいしょうぐん世子せいし薨」[42]ざい阮錫閔《海上かいじょう見聞けんぶんろくのりため正月しょうがつじゅうはちにちせいはん殂於承てんあるきだい[43]死因しいんてき記載きさいこうにちのぼり台灣たいわんがいうん:「けいいんたてよく過度かどかさ暴脹,大腸だいちょう緊閉,無效むこう……じょ而脹つうなんこらえさけべ喊遂そつ……」[44]姚啟きよしそう書中しょちゅうそくしょう:「また本年ほんねんよんがつじゅうよんにちよりどころ漳州龍溪りゅうけいけんおくいたにせかん廖康かた稟稱……にせはん正月しょうがつじゅうにち夜中よなかふうかたりいたりじゅうはちうし……」ひとし不同ふどう說法せっぽう[45]

詩作しさく

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  • 滿まん酋使らいゆうとうがん不易ふえきふくせついきどお而賦
おう中原ちゅうげんつき衣冠いかん海外かいがいとめ
雄圖ゆうとおわりやめにちゆうせいほこほこ
  • だいひがしかべろうけい敘》
西にしかく樓臺ろうだいきん水濱みずはま青山あおやま白雲しらくもしょうあずか鄰。
試問しもんかくちゅうだれ隱者いんじゃ昔日せきじつさきあさいちかんしん
  • 《悲中原なかはらふく
えびすとりこなまぐさちりあまね九州きゅうしゅう忠臣ちゅうしん義士ぎしふところ悲愁ひしゅう
すんではくなみ子房しぼうげき,須效中流ちゅうりゅう逖舟。
故國ここく山河さんがつき變色へんしょくきゅうきょうみや化成かせいおか
復仇ふっきゅうゆきはじなんにちろうらんちかい不休ふきゅう
  • 《聞西かたはん正喜まさよしえいとくまこと
ぐん胡亂うろん宇宙うちゅうひゃくおりもり丹誠たんせい
海島うみしま鸞信,鄉關きょうかんだん雞聲。
きょうとげ岫,たけし撼長くじら
はた旆荊じょうかたなへい月明げつめい
いち聞因しょくどう滿喜まきまたしんおどろき
はら掃腥羶幕,悉恢つばめ鎬京。
さらひらけ朝貢ちょうこう再築さいちく受降じょう
  • ちゅう澎島除夜じょやさく
舳艫じくろれんとおかんはた旆蔽長江ちょうこう
帆影ほかげかけ山路やまじなみごえせき矼。
人家じんかてんとおうら,葓草かくれ艭。
はた動亂どうらんくもしょくざつすい淙。
淒淒さむよる寂寂せきせき客船きゃくせんまど
つき更新こうしんれいはるあきらあきら萬邦ばんぽう

評價ひょうか

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  • むね〈赐姓始末しまつ〉:“郑氏以一旅存故国衣冠于海岛,しょう其正ついたち。”
  • りゅうけんじ《广阳杂记》:“赐姓ひさげいちたび师,しんだい义于天下でんか台湾たいわん有明ありあけせいついたち海外かいがいしゃはたよんじゅうねん。”
  • 廈門大學だいがく學者がくしゃひねあなりつていけい作為さくいてい成功せいこう之子ゆきこ同樣どうよう繼承けいしょうりょう其父てき志向しこうていけい台灣たいわんため基地きち繼續けいぞく堅持けんじこうきよしちょうたち20ねんひさ,其間かえ一度いちど出兵しゅっぺい大陸たいりくため南明なんめいおさむふくだいかた地區ちくてい成功せいこう及其子孫しそん始終しじゅう明朝みょうちょうてき臣子しんし始終しじゅうこうちゅう於明あさ南明なんめい皇帝こうてい,其政權せいけんぞく中國ちゅうごくてき獨立どくりつ政權せいけん[22]
  • 美國びくに學者がくしゃたん·(Denny Roy):ていけいざい台灣たいわん雖然仅稱のべたいらおうたてまつあきら为正统,ただし當時とうじ明朝みょうちょう实际じょうはややめ经灭ほろび,而清朝せいちょうまたなお統治とうち台湾たいわんいん此实际上台灣たいわん独立どくりつせい[46]

家庭かてい關聯かんれん

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父母ちちはは

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おとうと

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はんてい公子きみこはかため少數しょうすう清朝せいちょう遷回中國ちゅうごく大陸たいりくてきあかりていはか
  • ていさとしあきらじゅんごう怡堂。かんじゅうねん,授さんひんしょく
  • ていあきらあきら熙,ごう熙之。かんじゅうねん,授よんひんしょく
  • てい睿,あきらせいごうひじりはやそつあずかていはつごうそう於今於臺南市みなみいちみなみてきはんてい公子きみこはか
  • ていさとしあきらすずごうすずかんじゅうねん,授よんひんしょく
  • ていひろしあきらせきごうせきこれ不知ふちしょおわり
  • ていひろしあきらえきごうえきかんじゅうねん,授よんひんしょく
  • ていあつしあきらねんごうねんときかんじゅうねん,授よんひんしょく
  • ていやわらあきらのうごうのうかんじゅうねん,授よんひんしょく
  • ていはつあきら奮,ごう奮之。はやそつあずかてい睿合そう於今於臺南市みなみいちみなみてきはんてい公子きみこはか

妻妾さいしょう

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  • ぶんとう正室せいしつ
  • ちんあきらむすめていけいようおとうと乳母うばあずかていけい私通しつう生子おいご後納こうのうためわらわ
  • はやし
  • よりゆき
  • むすめていけい側室そくしつ

子女しじょ

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王子おうじ

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はいぎょう ふうごう 生年せいねん そつねん 生母せいぼ 配偶はいぐう 備註
1 世子せいし监国 ていかつ𡒉 1664ねん 1681ねん ちんあきらむすめ 世子せいしちん あずまやすしへん
2 のべたいらおう ていかつ 1670ねん 1707ねん むすめ 王妃おうひ馮氏 あずまやすしへんこうとうもと
3 きょう謹侯 ていかつ 未知みち 夫人ふじんもと ゆういちていやすし畿。
4 ていかつひとし 未知みち 柯氏 ゆういちていやすし甸。
5 ていかつ 未知みち 馮氏 以姪かつ塽之ていやすし祿ろくため嗣。
6 ていかつ𡍬 未知みち ちょう 以姪かつ塽之てい安康あんこうため嗣。
7 ていかつ 未知みち ちょう 以姪まごかつはなわまごてい咸陞ため嗣。
8 ていかつはなわ 未知みち りゅう ゆういちてい安德あんとく

王女おうじょ

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はいぎょう ふうごう 生年せいねん そつねん 生母せいぼ 配偶はいぐう 備註
1 てい てきはじめたかし
2 てい てきはじめ
3 てい てきちん逢泰
4 てい てきあまじゅんひとし
5 てい てきちょうつぎ
6 てい

後裔こうえい

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あきらてい滅亡めつぼうこれてきやすしさんじゅうねん(1693ねん),かん皇帝こうていはたていかつ塽與其兄弟子でしめいだい部分ぶぶんぞくじんとうしたがえ福建ふっけん遷往北京ぺきんなみ編入へんにゅうせい黃旗きはたまたふうじていけいさんていかつひとしためりょうきゅう俸祿;雍正年間ねんかんてい一族いちぞくあらためせいべにはた[47]有清ありきよいちだいていけいてきまえななてき直系ちょっけい後代こうだい先後せんご斷絕だんぜつただゆうだい八子鄭克塙留下後裔;ざい清朝せいちょうちゅう後期こうきざい北京ぺきんてきていぞくじんゆう跟隨滿まんぞく姓氏せいし習俗しゅうぞく稱名しょうみょうしょうせい。而鄭りょうれきけいじゅうさんにん傳承でんしょうちょくいた清朝せいちょう滅亡めつぼう[48][49]

过继
ていひょう
ていしばりゅうていしばとらていひろしていしばひょう
のべたいらおう
てい成功せいこう田川たがわなな左衛門さえもんていわたるていおんていかげていかさねていだまていやすしていなおていだんていていていきょうていやすしていあきらていたびていたち
ていけいていさとしていあきらていていさとしていひろしていひろしていあつしていやわらていはつていつなていていぬきていていてい纘武てい纘維てい纘綸てい纘續てい扈英
りょう
ていかつ𡒉ていかつていかつていかつひとしていかつていかつ𡍬ていかつていかつはなわていかつひろしていかつていかつつちかえていかつたかしていかつしょうてい秉謨ていかつけいてい秉誠てい秉訓ていかつていあやていたからていあずかていこんていていなか
てい安福やすふくていやすし祿ろくてい安康あんこうていやすしていやすしてい安德あんとくていていていていやすしていやすしけいていあんさちてい安國やすくにていあんさかえていやすしはな遐齡ひゃくよわいしゅんよわいえいよわいちょうよわいけいよわい
ていしゅんてい咸吉てい咸陞ていていていていていてい𩡓ていあきらていみずほていほしていあきらていよしみていかんていひんていていていのりていていあきら
ていあきらていさとしていたかしていたかしていかつらていまつていかしわていかじていくにていくにみずていくにやすしていぶんさきがけていぶんていあやえいていぶんかおるてい文光ぶんこうてい文忠ふみただていぶんいずみてい文武ふみたけていぶんれんてい文敏ふみとしていぶん
ていつぎむねていうけたまわむねていうけたまわおんていうけたまわ耀ていうけたまわていうけたまわぞくろくぬのけい祿ろく慶福けいふくけいひろしけいさちそうじょうけいけいしげるえいぜん慶喜よしのぶ
みずやまやま德山とくやま榮山さかえやまとくしるしとくだままつかい德壽とくじゅちょうおんおんとみおんかさみやすし
玉房たまぶさたまかいたまおんさかえおんぶくおん祿ろくおんあつおんおんれんきょうもりたまたまなり玉山たまやまたまぶくたまかいたまたまりょうじゅんいずみ
ていていさわたかしつづけしかやすし
ていつぎあきら舒譄舒說舒䛃


廟宇びょうう

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こん臺灣たいわんたい南市みなみいちえいやすしゆう二王におうびょう主神しゅしんてい二王爺據說即是鄭經。

かげ形象けいしょう

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でんげき

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とし 地區ちく 作品さくひん えんじいん
2001ねん 中國ちゅうごく かん熙王あさ りゅうだいしるし
2009ねん 中國ちゅうごく 民族みんぞく英雄えいゆうてい成功せいこう しゅんかさ

でんかげ

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とし 地區ちく 作品さくひん えんじいん
2001ねん 中國ちゅうごく日本にっぽん 英雄えいゆうてい成功せいこう おさむこうむ

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 1.0 1.1 なつ闽海纪要まき:「(からしとりかんじゅうねんあきらえいれきさんじゅうねんよんがつていかつうえ招討大將軍だいしょうぐんのべたいらおうすすむしおおうくにせい成功せいこうおくりな,曰武;嗣位世子せいしけいおくりな,曰文。はつながれきふう成功せいこうためのべたいらおうひろすすむしおおう成功せいこうゆず敢當,終身しゅうしん祗稱大將軍だいしょうぐんいたりかつ塽拜ひょう,請諡ためたけおうなみ世子せいしおくりなためぶんおう。」
  2. ^ 2.0 2.1 じゅうおさむ台湾たいわんしょうどおりこころざしまききゅう 人物じんぶつこころざし》,台湾たいわんしょう文献ぶんけん员会,1998ねんだい80-81页:「これがつえいさんじゅうねんよんがつ),うえおう成功せいこうおくりな曰潮たけおうまつくらい世子せいし经为ぶんおう。」
  3. ^ せい史紀ふみのりごと本末ほんまつ/まききゅう》:“じゅうさんねんはるさんがつあきら嗣延平郡へごおりおうしゅけい出師すいしいずみ、漳、しおさんぐんさき嗣靖みなみおう耿精ちゅうよりどころ福建ふっけんはんせい,乞援於臺灣たいわんもと以漳、いずみむくいこれけい乃親りつ渡海とかい而西,あずかせいちゅうごうへいおさむ廣東かんとんつぎ而精ちゅうやくけいいかとげいずみ漳、しお。”
  4. ^ Robert K. Batchelor. London: The Selden Map and the Making of a Global City, 1549-1689. しば哥大がく出版しゅっぱんしゃ. January 2014. Josiah Child to the King of Amoy and Taiwan [Zheng Jing], August 12, 1681 
  5. ^ 5.0 5.1 よりゆきえいさち. 臺灣たいわんていあずか英國えいこくてき通商つうしょう關係かんけい (PDF). 《臺灣たいわん文獻ぶんけん》. 1965ねん. (原始げんし内容ないよう (PDF)そん档于2020-04-02). 
  6. ^ うみ輯要まきさん》:「世子せいしいみなけいけんこう詩賦しふぜん弓馬きゅうば,推誠待人まちびとれい敬明もりあきしつのこむね。嗣王じゅうきゅうねん,雖得ななよりどころ一方いっぽう,而終身しゅうしんしょう世子せいしたてまつ明正あきまささくしょうへん輿論よろんしょう。惜性やわら懦,だる政事せいじ廈門はいおぼれ於酒しょくふく西にし,而あずまやすしこれぎょうとげおとろえいたり,殂於うけたまわてんくだりだいどきねんよんじゅうため正月しょうがつじゅうはちにちさむらいまもる將軍しょうぐん馮錫はんあずか公子こうしどもはいかんこくかつ𡒉,縊殺。」
  7. ^ 先王せんおうちちこころざし. [2023-03-25]. (原始げんし内容ないようそん于2023-07-20). 
  8. ^ 裨海ゆう·にせてい逸事いつじ·ひね烈婦れっぷでん》:「ていけいよう好漁こうりょうしょくきん中年ちゅうねん婦人ふじんみんためけいしょおとうと乳母うばしゃけいみなどおり焉。ゆうあきらむすめしゃとげおさめためわらわゆうちょう。」
  9. ^ 裨海ゆう·にせてい逸事いつじ》:長子ちょうしにしきしゃあずかおとうとひろししゃ乳母うば某氏ぼうしどおり成功せいこう知之ともゆきいのち以某沈海,にしきしゃまたわたし匿之,やめ逾三敢為かんい成功せいこうげんしゃ某氏ぼうし怙寵,頗凌にしきしゃ不能ふのうこらえ,以告其祖ちちからぼうごうまいしんしゃため致書成功せいこう
  10. ^ 臺灣たいわんてい始末しまつまき:「はつ世子せいし尚書しょうしょからあらわえつおんなまごためあいわたし於其おとうとにゅうおうなちんなまおとこ,詭謂さむらい妾出しょうしゅつしゃつげ成功せいこう諸王しょおう及邑大夫たいふ皆賀みなが,而顯えつせめ成功せいこうしょいい:『れいゆうはちはは乳母うばきょいち世子せいしあずか狎,とうなんざい』?
  11. ^ 臺灣たいわんてい始末しまつまき:「成功せいこう暴怒,そくれい毓與しょうでんやすしけい及陳おうな及所せいおとこ,并斬夫人ふじんただし,以理內不しょく也。」
  12. ^ 臺灣たいわんてい始末しまつまき:「しょしょうだい駭莫敢諫,しょうでんあずか毓議ころせひねおうな及所せいおとこ,而諸おう以下いかごうひょうため夫人ふじん世子せいし請,とげ以兩きゅうづけ毓報成功せいこう成功せいこういよいよいかかいしょ佩劍はいけん促毓まいしょうでんしょうでんれいとげけいけいかかわ毓與眾議未決みけつ。」
  13. ^ 臺灣たいわんてい始末しまつまき:「さんぐん蔡鳴かみなりざいだいぎょうおお不法ふほうおそれ誅,奔訴けいしょやめみつさとしちょんあきらとうはたいたり矣,れい必盡誅乃やめひろしあさひ曰:『世子せいし不可ふか以拒ちちしょしょう不可ふか以拒くんただしょうでんあに以拒おとうと』。とげつげしょうでん趨林じゅんみつるふねもりだい擔。かいちょんあきらせいひね霸還,廷勸世子せいし不意ふいこれ使つかいあきら其軍。成功せいこう聞諸はたこばめいのちいきどお甚,ひろしゆうかなえはせさとしちょんあきらゆうかなえいたる銅山どうざん,聞全あきら敢前。」
  14. ^ 有春ありはる读史】“明朝みんちょう郑”あずか台湾たいわん
  15. ^ 臺灣たいわんがいまき12:「成功せいこう偶感ぐうかんふうかん……嘆曰:『われゆうなんめん目見まみ先帝せんてい於地也!』以兩しゅつめ其面而逝。」
  16. ^ 鸿寿. 清史きよし纪事本末ほんまつ/まききゅう. 1915ねん [2024-02-26]. (原始げんし内容ないようそん于2024-02-26). じゅうさんねんはるさんがつあきら嗣延平郡へごおりおうしゅ经出师,いずみ、漳、しおさんぐん 
  17. ^ 臺灣たいわんがいまき12:「叔姪いたりおや並無ならびなあいだごとよししょうぞく陰謀いんぼう不軌ふきじょう先王せんおうまろうどてんとげしたがえちゅう構釁,かりみやつこ遺言ゆいごん離間りかん骨肉こつにくあふ惑軍しんしかしょ將士しょうし悉受先王せんおうすうじゅうねんこぶしやしなえあにゆうしょうしたがえさく此背ぎゃくあかりがかりおびえ逼之あまりとうしょうりょう。亟宜悔過たおせほこなまとりこぞくきょう扶王しつめいたれ竹帛ちくはく。」
  18. ^ 臺灣たいわんがいまき12:「いくため奸人離間りかん。」
  19. ^ てい關係かんけい文書ぶんしょ》,ぺーじ1-8。以及《製作せいさくぶくなんじすな》,ぺーじ202
  20. ^ うみ緝要》,ぺーじ35
  21. ^ たけ怀让. 成功せいこう“东宁王朝おうちょうてき开国君王くんのう学者がくしゃ:警惕“中国ちゅうごく”倾向. 澎湃ほうはい新聞しんぶん. 2022ねん1がつ13にち [2023ねん12月2にち]. (原始げんし内容ないようそん于2023ねん12月2にち). 
  22. ^ 22.0 22.1 22.2 22.3 ちんあなりつ. 剖析台灣たいわんどく曲解きょっかいてい成功せいこう歷史れきしてき學理がくり謬誤. 中時なかとき新聞しんぶんもう. 2022ねん12月4にち [2023ねん12月2にち]. (原始げんし内容ないようそん于2023ねん12月2にち). 
  23. ^ 廈門博物館はくぶつかん. “钦命招讨大将たいしょう军总统使世子せいし”款识铜炮. 廈門博物館はくぶつかん. [2023-12-02]. (原始げんし内容ないようそん于2024-01-14). 
  24. ^ かん熙統一台灣檔案史料選輯》ぺーじ69
  25. ^ 同上どうじょうぺーじ70
  26. ^ 台灣たいわんがいまきじゅう
  27. ^ 27.0 27.1 27.2 27.3 臺灣たいわん》,ぺーじ182-183
  28. ^ 28.0 28.1 臺灣たいわん政治せいじ》,ぺーじ62-63
  29. ^ 29.0 29.1 臺灣たいわん》,ぺーじ204-205
  30. ^ てい成功せいこうでん》,ぺーじ36
  31. ^ うみ緝要》,ぺーじ40
  32. ^ やすしうみこころざし》,ぺーじ75
  33. ^ 臺灣たいわんがい》,ぺーじ298。以及《せいきよし實錄じつろくせん輯》,ぺーじ55
  34. ^ 34.0 34.1 うみ緝要》,ぺーじ50
  35. ^ せん鬥日及鄭ぐん人數にんずうまいり:《せいきよし實錄じつろくせん輯》,ぺーじ63
  36. ^ やすしうみこころざし》,ぺーじ82
  37. ^ 台灣たいわんがいまきじゅう
  38. ^ げんひじりたけしまきはち
  39. ^ 換算かんさんなり陽曆ようれきやめけい1679ねん1がついた2がつ
  40. ^ 40.0 40.1 40.2 40.3 臺灣たいわん》,ぺーじ184
  41. ^ やすしうみこころざし》,ぺーじ91
  42. ^ うみ輯要. なつ琳. : まきぺーじ63. 
  43. ^ 阮錫閔. 海上かいじょう見聞けんぶんろく. : まきぺーじ59. 
  44. ^ こうにちのぼり. 台灣たいわんがい. 
  45. ^ 台灣たいわん史料しりょう集成しゅうせい編輯へんしゅう委員いいんかい. 臺灣たいわん史料しりょう集成しゅうせいあきらしん臺灣たいわん檔案彙編」だいはちさつ. : 365. 
  46. ^ Denny Roy《臺灣たいわん政治せいじ》,ぺーじ65-66
  47. ^ そん副本ふくほん. [2020-01-15]. (原始げんし内容ないようそん于2020-01-14). 
  48. ^ てい喜夫よしお維基すう據所よりどころれつQ117185000. ていのべ平之ひらのけい與井よいこうてい人物じんぶつざつじゅつ. 臺灣たいわん文獻ぶんけん季刊きかん. 1990, 43 (3): 243–245. 
  49. ^ 正恆まさつね. はたあずかみんしんだいてい家族かぞくあずか泉州せんしゅうてい宗族そうぞくはつさがせ. ふうしゅう研究けんきゅう. 2016, 2 (1): 115–151. 

书籍

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以上いじょうみな收錄しゅうろく中央ちゅうおう研究けんきゅういん計算けいさん中心ちゅうしん漢籍かんせき電子でんし文獻ぶんけん

  • 臺灣たいわんしょう文獻ぶんけん委員いいんかいへん,《臺灣たいわん》,台北たいぺい:眾文圖書としょ,1990ねん
  • 戴寶むら,《臺灣たいわん政治せいじ》,台北たいぺいみなみ圖書としょ,2006ねん
  • てい維中,《製作せいさくぶくなんじすなついひろ西洋せいよう古書こしょちゅうてき臺灣たいわんかげ》,台北たいぺい:如果出版しゅっぱんしゃだいかり文化ぶんか發行はっこう,2006ねん

文章ぶんしょう

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ていけい
前任ぜんにん
てい成功せいこう
南明なんめいのべたいらおう
1662ねん6がつ29にち-1681ねん3がつ17にち
つぎにん
ていかつ
前任ぜんにん
ていかさね
台湾たいわん统治しゃ
1662ねん11月27にち-1681ねん3がつ17にち
つぎにん
ていかつ𡒉