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唐景崧 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

からけい

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からけい
 だいきよし欽命しょ臺灣たいわんじゅんなでいんけんかんうみ關學かんがくせいあたまひん頂戴ちょうだい台灣たいわんぬのせい使霍伽はるともえ
臺灣たいわん民主みんしゅこくだい總統そうとう
せきぬき廣西ひろせかつらりん灌陽けん
ぞくかんぞくきゃく家人かじん
ごう維卿
出生しゅっしょうみちこうじゅういちねん(1841ねん
 だいきよし廣西ひろせしょうかつらりん灌陽けん
逝世ひかりいとぐちじゅうきゅうねん(1903ねん
 だいきよし廣西ひろせしょうかつらりん
おやぞくちちとうおとうとからけいたかしからけい
出身しゅっしん
  • 咸豐じゅう一年辛酉科廣西鄉試第一名舉人(かいもと
  • どう四年乙丑科進士出身
經歷けいれき
  • 翰林院かんりんいん庶吉(1865ねん-?)[1]
  • 吏部主事しゅじ(1868ねん-?)[2]
  • 福建ふっけん臺灣たいわんどう(1885ねん-1891ねん[3]
  • 按察使(1885ねん-1891ねん[2]
  • 臺灣たいわんぬのせい使(1891ねん-1895ねん[4]
  • しょ臺灣たいわんじゅんなで(1894ねん-1895ねん[5]
  • 臺灣たいわん民主みんしゅこく總統そうとう(1895ねん
著作ちょさく
  • 《請纓日記にっき
  • よせ閑吟かんぎんかんそん
  • 畸》はちかん
  • 外篇がいへんいちかん
  • 棋亭雜劇ざつげき

からけい(1841ねん—1903ねん),維卿またぜんまいきょうごうみなみちゅうみなみちゅうせいまたごう請纓きゃく[6]清朝せいちょう政治せいじ人物じんぶつ廣西ひろせしょうかつらりん灌陽けんひとどう年間ねんかん進士しんしいれりんあらため吏部主事しゅじちゅうほう戰爭せんそう期間きかん,請纓南下なんかこしみなみ,招撫くろはたぐんりゅう永福えいふく,且領ぐんあずかほうぐん激戰げきせん有功ゆうこうれきますみちいんぬのせい使しょ末代まつだい臺灣たいわんじゅんなでひかりいとぐちじゅういちねん(1895ねん臺灣たいわん割讓かつじょう日本にっぽん,曾短暫出にん臺灣たいわん民主みんしゅこくだい总统八天はってんこういん日本にっぽん軍隊ぐんたいしたがえ澳底のぼりりくからけい崧得此消いき便びん攜帶ぎんりょう逃回にげまわ中國ちゅうごく大陸たいりく

生平おいだいら

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はついれつかまつ

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みちこうじゅういちねん(1841ねん),からけい崧生於かつらりん灌陽けんいちしょいえ。其父から懋功,舉人出身しゅっしんただしにゅうつかまつもん,以課かんためぎょうからけい崧幼さかい貧寒ひんかん母親ははおや逝,あずかおとうとからけいたかしからけい三人均刻苦讀書不倦。後來こうらいから懋功かつらりんおうせい富商ふしょう聘爲私塾しじゅく教師きょうし兄弟きょうだいさんにんしたがえどうぜん往。咸豐じゅういちねん(1861ねん),からけい崧中しきからしとり廣西ひろせさとためしだいいちめい舉人(かいもと[7]どうよんねん(1865ねん),かんがえおつうしかぶとだいはちめい進士しんしせん翰林院かんりんいん庶吉かんあらため吏部主事しゅじ多年たねんとくます[8]

請纓こうほう

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ひかりいとぐちはちねん(1882ねん),ほうこくあずかこしみなみ發生はっせい衝突しょうとつかわみなみじょうとう地相ちそうつぎ失陷しっかんからけい主動しゅどう請纓,自薦じせんぜん往越みなみ,招撫天地てんちかい首領しゅりょうりゅう永福えいふく及其くろはたぐんあさ廷降むねれい其聽くも總督そうとく岑毓えい差遣さけんからけい崧先いた廣東かんとん拜謁はいえつ曾國荃いたすけせきつぎねん到達とうたつえつみなみしょう會見かいけんりゅう永福えいふく成功せいこうすすむ其內こうしょうよんひんきょう銜。

ちゅうほう戰爭せんそう期間きかんてき清朝せいちょう軍隊ぐんたい

ひかりいとぐちじゅうねん(1884ねんちゅうほう戰爭せんそうときからけい崧駐ぐん兴化きたやすしつげきゅう,岑毓えいいのち其與りゅう永福えいふく救援きゅうえん。此後,たてまつちょうほらこれめいじつのいさむいれせき編成へんせいよん營,ごうけいぐん”,むかい戰法せんぽうぐんくじけてきほこさきすすき,岑毓えいしょう識景崧才幹さいかんまたばちはんいさおつぎ滇軍聽其指揮しきからけい崧兵りょく益雄ますおあつし進軍しんぐんさん江口えぐちひさほうぐん進攻しんこうりゅう永福えいふくぐんおおとりのり營,けい崧馳騁援助えんじょだい全勝ぜんしょうしんぐんしん宣光のぶみつ會同かいどうかつらぐんとうおさむじょうすうがつほうぐん拼死抵抗ていこうしんぐんひさおさむしたからけい崧擔しん後援こうえん切斷せつだん,於是退すさへいつぎ朝廷ちょうていむね停戰ていせんからけい崧即たいへいいれせきよしこうしょうはな翎,たまものごう“霍伽はるともえ魯”,ひん秩,にん福建ふっけん臺灣たいわんどう[9]

經略けいりゃく臺灣たいわん

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ひかりいとぐちじゅうさんねん(1887ねん),からけい崧正しきいたたいにんしょく頗好文事ぶんじ,聘請ほどこせひろしおもこううみひがし書院しょいんたい庠生頗為禮遇れいぐうかえおさむ葺道だい官署かんしょ內舊ゆう斐亭,組成そせい「斐亭吟社ぎんしゃ」,あいだひま邀請同僚どうりょうしもぞく舉行詩文しぶんしゅかい

ひかりいとぐちじゅうななねん(1891ねん),からけい崧升にん臺灣たいわんぬのせい使あらためちゅう臺北たいぺいまたとき邀名吟詠ぎんえい於官しょかい曾由海上かいじょううんらいすうじゅうぼん牡丹ぼたんとげめいため牡丹ぼたんしゃ」,また作詩さくしがねひかりいとぐちじゅうきゅうねん(1893ねん),歷年れきねん唱稿,ふんもん編輯へんしゅうろく佳作かさくじゅうかん命名めいめい畸》,ため臺灣たいわんがね選集せんしゅう濫觴らんしょう作品さくひん1301れん律詩りっし68しゅ,另包括ほうかつ宦台及本しょう名士めいし佳作かさく,如施ひろしおか逢甲ひろしはるげんはやしあきらひがし及淡すい舉人そうかなえとう56にん作品さくひんからけい崧在たいみなみ及臺きたたいどう地方ちほうぶんふう有功ゆうこう於詩傳播でんぱ。此後,飭纂《臺灣たいわんどおりこころざし》,自任じにん監督かんとく[10]

からけい崧詠みなみだん水月すいげつあん

ひかりいとぐちじゅうねん(1894ねん),日本にっぽんざい朝鮮ちょうせんひろ釁,與清ともきよちょう開戰かいせんきのえうま戰爭せんそう爆發ばくはつあさ廷以臺灣たいわんため東南とうなん重鎮じゅうちんいのちりゅう永福えいふくりつへいいたりだいぼうもりはちがつからけい崧與到達とうたつてきりゅう永福えいふく商議しょうぎ軍事ぐんじ九月くがつ臺灣たいわんじゅんなで邵友濂辭職じしょくからけい崧署にん臺灣たいわんじゅんなで。一說邵友濂設法請調湖南こなんじゅんなでちょくいた1895ねん5がつ7にちざい正式せいしき批准ひじゅん,這期あいだからけい崧暫だい職務しょくむ[11]うえつとむはじめそくせい軍政ぐんせいいのちりゅう永福えいふく鎮守ちんじゅたいみなみむねぐんすべりょうはやしちょうとう鎮守ちんじゅだいちゅう[12]

しか而,ひかりいとぐちじゅういちねんはるにちぐんおさむやぶ澎湖守將しゅしょうしゅうくにせん逃。しんぐん節節ふしぶし敗退はいたいいのち鴻章こうしう赴日[13]三月さんがつじゅうさんにち(1895ねん4がつ17にち),鴻章こうしうあずか日本にっぽん首相しゅしょう伊藤いとう博文ひろぶみ簽訂《うませき條約じょうやく》,割讓かつじょう臺灣たいわんみん激憤げきふん上書うわがきけい崧:

萬民ばんみんちかい不服ふふくやまとわりまたこばめまたやすしさき於亂みんねがい於倭人手ひとで。”

五月ごがつはつ(5がつ25にち),しんおか逢甲とう擁立ようりつからけい崧爲臺灣たいわん民主みんしゅこく總統そうとうからけい崧身ちょあさふく而出,「遙拜ようはいみや方向ほうこう謝罪しゃざいしかこう北面ほくめん受任じゅにんだい哭而いれ」,就任しゅうにん總統そうとうりゅう永福えいふくため大將軍だいしょうぐんねんごうえいきよし”(代表だいひょうちょ永遠えいえんこうちゅう清朝せいちょう[14][15]

五月ごがつはつじゅう(6がつ2にち),きよし廷割だい特使とくし鴻章こうしう之子ゆきこ經芳つねよしざい臺灣たいわんもとたかし外海そとめてき日本にっぽんぐん艦上かんじょう正式せいしきあずか日本にっぽん海軍かいぐん大將たいしょう樺山かばやま辦理交割ごとむべつぎにちぐんおさむおちいもと隆之たかゆきからけい崧逃いたり滬尾こん淡水たんすいてきとくしょうとく洋行ようこう(Douglas Lapraik & Co),後來こうらいあずかちんどうとく國籍こくせきせんかもごう(Arthur)棄職逃亡とうぼういたり廈門。[16]

晚年ばんねん

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からけい崧內わたし中國ちゅうごく本部ほんぶきよし廷念其舊こう而並くだつみ,僅命其休致返きょう[17]ただし聲望せいぼうしたがえ此一落千たけからけい崧回かつらりんじゅうひろえ早年そうねんたいおどけ劇的げきてきあい創出そうしゅつ廣西ひろせてきかつらげき[18]ひかりいとぐちじゅうきゅうねん(1903ねん),そつ於桂りん享年きょうねん63さい

家族かぞく

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からけいこれちちから懋功教子きょうこゆうかたどういたりこういとぐち初年しょねんからけいけいたかしけい三兄弟相繼考中進士,且都せんいれ翰林院かんりんいん,以“同胞どうほうさん翰林かんりんほまれ榮耀えいよういち

からけい崧有うん溥(しゅう)、うん涵(佩馴)、うんふかすすむはし)、うんさわ葆厚)よん

からけい崧孫おんなうんさわ長女ちょうじょから史學しがくちんとらつとむこれつま

佚事

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  • 雖然からけい崧、けいたかしけいれんとしだいから懋功本人ほんにん卻屢おうかいためしだい憤懣ふんまんやめよし於翰りん經常けいじょうにんかいためしこうかんまい逢考くだいたりから懋功都會とかいすわざい家門かもんまえもと們前往,以免ぶんいた閱卷任務にんむしるべ自己じこ作為さくいこうかん親父おやじ需要じゅよう迴避而喪失そうしつおうこう機會きかいひさ朝廷ちょうてい以其ためかん下達かたつふう誥。按規定きていさかえ膺封誥者,したがえ此便とくさい赴科舉。から懋功いん此怒不可ふか遏,手持てもちだい棍追さんからけい兄弟きょうだい倉皇そうこう逃出家門かもんまた請鄉じん再三さいさんすすむ慰,から懋功かたざいさくやめ[19]
南天なんてん民主みんしゅこくかいくびいちきずしん
くろとらいまなんざいりゅうまたやめひね
いくえだ用筆ようひつはん有心うしんじん
畢竟ひっきょうてんなんおぎなえ滔滔とうとうよんじゅうはる

遺跡いせき

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からけい崧故きょからけい崧故きょ於今かつらりん灌陽けんしんまち江口えぐちむらきょためしんだい磚木穿ほじしき建築けんちくうらない面積めんせきやく410平方へいほうまいりょう、枋、もんとう雕刻精美せいびげんため灌陽けん县级文物ぶんぶつ护单きん年来ねんらいいた部分ぶぶんおさむ[21]からけい崧五美堂别墅遗址からけい崧五美堂别墅遗址在今桂林市榕湖旁,遗址なおそんいちめん墙,上面うわつらてき雕刻极其精美せいび。遗址つくり边立ゆうてき塑像そぞうゆういち石刻せっこくうえ书“からけい崧(1841-1903),かつらりん灌阳じんきよしどうよんねん(1865ねん)进士,精通せいつう诗文音律おんりつ。历任吏部こう主事しゅじ台湾たいわんぬのせい使台湾たいわんじゅん抚。中日ちゅうにちかぶとうま战争ばく发后,きよし政府せいふせり签订《马关じょう约》わり让台わんからけい崧组织台湾たいわん军民抵抗ていこう军侵だいたかししつもりきさきかいいたかつらりんざい此建五美堂别墅,ないゆう戏台、书房、ぞう书楼、はな园。からけい崧晚ねん于此潜心せんしん研究けんきゅう戏剧,组织かつら剧社团“かつらりんはるはん”,课徙授艺,亲自编写、おさむあらため剧本,あらため编了かつら剧剧40ちょゆう棋亭杂剧》,きょう戏班演出えんしゅつかつら剧史じょうだい一位剧作家和奠基人之一。かつら剧由此逐はしこう成熟せいじゅく,经后じん不断ふだん改革かいかく发展,なり为广西にし代表だいひょうせい剧种,并进にゅう中国ちゅうごくじゅうだい剧种行列ぎょうれつ。”五美堂别墅遗址的不远处,就是五美いつみ

參考さんこう文獻ぶんけん

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注釋ちゅうしゃく

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  1. ^ きよしだいしょくかん年表ねんぴょうだい4さつ
  2. ^ 2.0 2.1 きよし代官だいかんいん履歷りれき檔案全編ぜんぺんだい5さつ,398-399ぺーじ
  3. ^ きよしだいしょくかん年表ねんぴょうだい3さつ,1951ぺーじ
  4. ^ きよしだいしょくかん年表ねんぴょうだい3さつ,1951-1954ぺーじ
  5. ^ きよしだいしょくかん年表ねんぴょうだい2さつ,1734-1735ぺーじ
  6. ^ からけい崧 - 國立こくりつ台灣たいわん文學ぶんがくかん. [2019-08-19]. (原始げんし内容ないようそん档于2020-04-18). 
  7. ^ きよしじゅつ聞續·まきろく
  8. ^ 臺灣たいわん通史つうし·まきさんじゅうろく》:からけい崧,維卿,廣西ひろせ灌陽じん。以編修へんしゅうてんせいごう爽,饮酒赋诗,遨游公卿くぎょう间。
  9. ^ 清史きよし稿こう·列傳れつでんひゃくじゅう》:からけい崧,維卿,廣西ひろせ灌陽じんどうよんねん進士しんしせん庶吉あらため吏部主事しゅじひかりいとぐちはちねんほうえつごとおこり請出せき招致しょうちりゅう永福えいふく,廷旨交岑毓英じょけい崧先いたり粵,謁曾こく荃,韙其資之すけゆきにゅうえつ明年みょうねん,抵保しょう見永みながぶくためひねさんさくいい:「よりどころかちじゅうしゅうつてげき而定しょはぶけ,請命中國ちゅうごくかり以名ごうことなりそくおう,此上さく也;次則つぎのりひさげぜんげきかわ內,中國ちゅうごく必助餉;わかすわもりしょうことはい而投中國ちゅうごくさくしも也。」永福えいふくしたがえちゅうさくせんきょうてきつぶせためさく檄文げきぶん布告ふこく內外,げき遠近えんきんそうひびきおうえつ嗣君ためほうおびえ,莫能けい崧乘あいだすすむ內附。永福えいふく猶豫ゆうよけい崧曰:「のう存亡そんぼうつぎぜっそく所以ゆえんほう故主こしゅ也。且阮ぶくやめ薨,ぬしいや。」永福えいふくややどう,於是こう招戎まくはかりごとだい舉。うえねんけい崧勞,しょうよんひん銜。
    けい上書うわがきごと:「えつ南半みなみはんこれ內,さんえき國王こくおうよくやすしらんげん,莫如遣直入なおいり順化じゅんか扶翼ふよく其君,以定人心じんしんわか不為ふため籓服けいさまたげちょくためわがゆうめんほうだついやのり首鼠しゅそ兩端りょうたんゆう敗者はいしゃ也。」じゅうねんちゅうきょうかいきたやすしつげきゅう,毓英れいけい崧導永福えいふく往援。はつかつらぐんかつららんとうかたもりきたやすしりゅうだんこま山西さんせい坐視ざしすくえ永福えいふく憾之ふかいたりけい崧力かいはじめ往;なみすすむかつららんはなれじょう隘而もりどる聽。けい崧輕いれりょうさんあずかじょのべあさひりょうせんもりてき扶良警,請還犒劉ぐんぎょう至郎しろうかぶと,涌球おちい,阻弗たちかいりょういいのべあさひ曰:「寇深矣!亟宜おさむつぶせそつてい人心じんしん,備糗かてしゅうぐん械,ふんへいもりけわし,以保茲土。」於是れい綜前てき營務,扼巴塘嶺。てきさいいたりさい卻之,こうぐんやや
    かいはりほられい其募いさむいれせき,乃編りつよん營,ごうけいぐんためぶんまわしこしひろぐんいち朝廷ちょうていしょうひんきょうけい崧遂みちまきぎょうせんひゃく,箐壑ふかそわ瘴厲,人馬じんば顛隕不可ふかしょうけいすんでいたりすうくじけてきほこさき。毓英だか其能,ふく以潘とくつぎ滇軍ぞく兵力へいりょく乃益あつしんとみさん江口えぐち。逾月,法人ほうじんおさむりゅうぐんおおとりのり營,けい崧率だんけいとくはせすくえ大捷たいしょうてきすんで退すさとげさきうすき宣光のぶみつしろ外地がいちあらふく,乃督ぐん開山かいさんみちしゅりゅうしゅう,訖館創設そうせつだい站,滇桂どうはじめたちやめ而軍其南もんてきひらきかべ盪,やましげき,逼城而壘,やり彈雨だんう坌,おさむえきりょくてん霪雨,うん饋絕,吏士無人むじんしょく。逾歲,滇軍ひのとえんじゅおさむじょうかつらぐん雖飢つかれしかなおよりどころやま巔轟げき法人ほうじんこと不可ふかはい。毓英おもんばか其斷後援こうえんれい勿拚ちゅう,於是退すさひたすらまきゆうむねやめせんとげいれせきろん宣光のぶみつ勝功かつのりしょうはな翎,たまものごう霍伽はるともえ魯,すすむひん秩,のぞき福建ふっけん臺灣たいわんどう
  10. ^ 臺灣たいわん通史つうし·まきさんじゅうろく》:たいためかい中奧なかおく人材じんざい蔚起,けい崧雅こう文學ぶんがく,聘進ほどこせひろしぬしこううみひがし書院しょいん,庠序れい甚優。みちしょきゅうゆう斐亭,葺而しんひま輒邀僚屬ためぶんしゅこれかいまたけんまんかんどう藏書ぞうしょとみ太夫たゆうじんのうまいいちだいなりしゅひょう甲乙こうおつ,一時臺人士競為詩學。じゅうななねんますぬのせい使ちゅう臺北たいぺい臺北たいぺい新建しんたけしょうかいゆう宦寓こうかんざしえい畢至。けい崧又以時勛之,けん牡丹ぼたんしゃ,飭纂どおりこころざしため監督かんとく未成みせい而遭わりだいこれやく
  11. ^ 扭曲てき臺灣たいわん:1684~1972ばちひらけさんひゃくねんてき歷史れきし迷霧めいむ. ひろし客來きゃくらい: 92–95. [2019-02-09]. (原始げんし内容ないようそん于2019-02-09). 
  12. ^ 臺灣たいわん通史つうし·まきさんじゅうろく》:じゅうねんはる日本にっぽん朝鮮ちょうせんしんへいかんじょう布告ふこく開戰かいせんきよし廷以臺灣たいわんため東南とうなん重鎮じゅうちんいのち永福えいふくりつぼうもり,幫辦軍務ぐんむ六月ろくがついたりだいみなみ巡視じゅんし沿海えんかいちゅうはたはちがつうえしょうあずかけい崧議えびす。……きゅうがつ,邵友濂奏請そうせい辭職じしょく,以景崧署じゅんなですんで受事,せい軍政ぐんせい,以永福守ふくもりだいみなみむねぐんすべりょうはやしちょうとうもりだいちゅう,而福建水けんすい提督ていとく楊歧めずらしまたりつぐんちゅうきたきゃく新舊しんきゅうさんひゃくすうじゅう營,まいさんひゃくろくじゅうにん,需餉あなきょつま請協ずみ。旋奉ばちじゅうまんりょう南洋なんよう大臣だいじんはりほらもとじょいちひゃくまんりょう,以次劃匯,而戰もりきゅう矣。
  13. ^ 臺灣たいわん通史つうし·まきさんじゅうろく》:じゅういちねんはるがつにちぐんやぶ澎湖,守將しゅしょうしゅうくに逃,たてまつしょうまたぐんはいかんくだみことのり以北いほくよう大臣だいじん鴻章こうしうため全權ぜんけんにち廷索わり台灣たいわん
  14. ^ からけい崧致きよし政府せいふ電文でんぶん:“たいみん聞割だい,冀有轉機てんき妄動もうどういまやめ絕望ぜつぼうおおやけ自立じりつため民主みんしゅくに,於五月初二日齊集衙署,ささげおくしるしまえらいしるしぶん曰:「臺灣たいわん民主みんしゅこく總統そうとうしるしはたためあい地黃じおうとらつよしん留保りゅうほみん理事りじしんけんふくおもえ倭人わじん不日ふじついただいだいみん必拒;わか炮臺仍用りゅうひらき仗,こわため倭人わじん藉口しゃこう,牽涉中國ちゅうごくとくやめ暫允ごとはたはた發給はっきゅうかく炮臺暫換,しるし暫收そんせんため交涉こうしょう各國かっこくこれよういちめん布告ふこく各國かっこくなみしょうゆいがい援,嗣後臺灣たいわん總統そうとうひとしよしみん舉,遵奉じゅんぽうせいついたちはるかつくるへいはん。俟事ややじょうしんのうだつそく奔赴宮門きゅうもんせきわら請罪。
  15. ^ 臺灣たいわん通史つうし·まきさんじゅうろく》:よんがつけむりだいかわやくみことのり飭守かん撤回てっかい。歧珍りつ所部ところぶ廈門,けい崧電詢永ぶく去就きょしゅうふく曰:「あずかたい存亡そんぼう。」而自ぬしなり五月ごがつはつにち紳士しんし邱逢かぶとりつ人民じんみんとうおおやけ上大かみおお總統そうとうあきら,受之,たてもとえいきよしげきつげ中外ちゅうがいけい崧亦ぶんでん各省かくしょうだい吏曰:「日本にっぽんさくわり台灣たいわんだいみん不服ふふく,屢經でんかなでまこと割讓かつじょうのう挽回ばんかいたいみん忠義ちゅうぎちかい服從ふくじゅう。崧奉むね內渡,はじめざい摒擋さいゆるがせ於光いとぐちじゅういちねんがつはつにちはたしるしはたおくいたりなでしょぶん台灣たいわん民主みんしゅこく總統そうとうしるしはたようあい地黃じおうとらとくやめまこと暫主總統そうとうよしみんおおやけ舉,仍奉ただしついたちはるかつくるへいはんしょうゆいがい援,以圖善後ぜんごことおこりくら猝,さこ不自由ふじゆうやめでんかなでなみ布告ふこく各國かっこく能否のうひ持久じきゅうなおなんあずかりょうただもち憫而すけ。」翌日よくじつまた以大總統そうとう告示こくじだいみん曰:「日本にっぽん欺凌中國ちゅうごくだい要求ようきゅう,此次せき款,賠償ばいしょうへいふくさく台灣たいわんたいみん忠義ちゅうぎちかい服從ふくじゅう,屢次でんそうめんわりほん總統そうとうまたつぎりょくそう。而中國ちゅうごくよくあきら大信たいしんまことあらためやくぜんたい士民しみんかち悲憤ひふんとう此無てん吁,無主むしゅだいみんおおやけ自主じしゅため民主みんしゅくに。以為事しごとせき軍國ぐんこく必須ひっす有人ゆうじん主持しゅうもち,乃於よんがつじゅうにちおおやけしゅうほん衙門遞呈,請余暫統政事せいじ再三さいさん推讓,ふくよんがつじゅう七日相率環吁,五月初二日公上印信,ぶん臺灣たいわん民主みんしゅこく總統そうとうしるしかわよう國旗こっきあい地黃じおうとら。竊見眾志やめけんぐんじょうなんはらえためみんけい,俯如しょ請,まこと暫視ごと即日そくじつ議定ぎていあらため臺灣たいわんため民主みんしゅくに國中くになか一切いっさい新政しんせいおうそく先立さきだて議院ぎいんおおやけ議員ぎいんしょう定律ていりつれい章程しょうていつとむ簡易かんいただ臺灣たいわん疆土,だいきよし經營けいえいしめづくりひゃくねんこん自立じりつ為國ためくにかんねん舊恩きゅうおん,仍奉ただしついたちはるかつくるへいはん氣脈きみゃくしょうどおり中土なかつちあきらつねげん備,不可ふか疏虞。民間みんかん如有假立かりだち名號みょうごう,聚眾しげるごとはしかたきころせしゃあきら匪類ざいしたがえ此清內政,ゆいがい援,こうげんじょ陋習,鐵路てつろ兵船へいせん次第しだい籌辦,富強ふうきょう致。峙東みなみ嘗非だいみん幸也ゆきや。」
  16. ^ 清史きよし稿こう·列傳れつでんひゃくじゅう》:じゅうななねん,遷布せい使じゅうねんだい邵友濂為じゅんなで
    臺灣たいわんしつらえめぐなでしゅにんりゅうめいでんだいななねん,頗有建設けんせつしょうめいでんでんめいでんとも濂繼たけきよしあらためそくけいちょう,迭平ばんみだれたてはじめたかし砲臺ほうだい。及景崧蒞にんにちかんあきら釁,亟起籌防。永福えいふくぶん鎮南澳。けい崧自あずか永福えいふくどもごとせき相能あいのう,乃徙永福えいふくぐんだいみなみ,而自任じにんもり臺北たいぺいいく而李ぶん奎變さくぶん奎故ちょく隸匪,したがえ淮軍わたりだいきょけい崧麾ためそつゆう副將ふくしょうあまりせいしゃえんごとさいかわぶん奎忿甚,そくなでしょまえ其頭,まもるいさむ內應,そうはつやりはたにゅうころせけい崧。けい崧出,叛卒而怖,斂刃りつなみつげ無事ぶじけい崧慰こぼしれいぶん奎充營官,ちゅうもとたかし。於是將領しょうりょうはなれしんへいひたおご不可ふかせい
    わりだいおこり主事しゅじ邱逢かぶと建議けんぎ自主じしゅだいみんそうさん。乃建「みんこく」,しつらえ議院ぎいん,推景崧為總統そうとう和議わぎなりこう疏援贖遼先例せんれい,請免わりむくいいのち內渡。たいみんいきどお,乃決自主じしゅせいあいうえ印綬いんじゅ於景崧,鼓吹こすいまえみちびけしんみんすうせんにんまいなでしょけい崧朝ふくもち謝罪しゃざい,旋北めん受任じゅにんだい哭而いれでんつげ中外ちゅうがいゆうはるかたてまつせいついたち永作ながさくへい籓」おけ內部、外部がいぶ軍部ぐんぶ以下いかかく大臣だいじんいのちひねどうかい法人ほうじんもとめ各國かっこく承認しょうにんおうしゃなんにちぐんおさむもとたかしふんすべ文忠ふみただはいつぶせけい崧命義德よしのりとみはち,遽馳,詭言獅球みねやめしつはち不能ふのうぐん,且日じんかかかねろくじゅうまん總統そうとうあたまかえぼう內亂,けい崧不敢詰也。よる義德よしのり所部ところぶ譁變。ひらだんにちぐんはてうらない獅球みねつぶせへいそう入城にゅうじょう城中じょうちゅうだいおどろき擾亂じょうらんきゃくいさむいさむ互仇ころせかばねへん總統そうとうはつけい崧微ふく挈子遁,えいいたり廈門,立國りっこくかたななにち也。じゅうはちねんそつ
  17. ^ 清史きよし稿こう·とくむね本紀ほんぎ》:(ひかりいとぐちじゅういちねんなつよんがつちょうしげる,召唐けい崧來きょう。……かのえからけい崧休致。
  18. ^ 扭曲てき臺灣たいわん:1684~1972ばちひらけさんひゃくねんてき歷史れきし迷霧めいむ. ひろし客來きゃくらい: 183. [2019-02-09]. (原始げんし内容ないようそん于2019-02-09). 
  19. ^ きよしひえるい鈔·門閥もんばつるい》:兄弟きょうだい翰林かんりん:灌陽とうぜんまいきょうめいけい崧,ぶん簡公めいけいたかし,禹卿めいけい崶,とうどうあさどうふところこん先後せんごにゅう翰林かんりん。其封おう懋功なおおうれいためし屢下だい,輒憤懣ふんまんやめまい考試こうしためしふうおきなしつらえ几於もん而坐焉,尼公にこうやから毋許赴試,おそれ其分こうかい闈,親父おやじ須迴避也。いくぐう覃恩,膺誥いのちふうおきなそくもりいか凡膺ふう誥者,毋得きょうかいためしさくだいつえつえさんふとし,亟走避,なみ浼鄉人數にんずうやからため再三さいさんなる頰,廑乃とくめん
  20. ^ まなぶあきらてき《聽楊絳談往事おうじ》212ぺーじ也提いたえびすてき曾寫這首おくきゅうぜに鍾書,這張卡片いちちょく保留ほりゅういた文化ぶんかだい革命かくめいぜんゆう
  21. ^ からけい崧故きょ[永久えいきゅう失效しっこう連結れんけつ] かつらりんたびゆうもう

書目しょもく

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  • きよしだいしょくかん年表ねんぴょう
  • きよし代官だいかんいん履歷りれき檔案全編ぜんぺん
  • きよし法式ほうしきぜんひとし,《きよしじゅつさんしゅ》,中華ちゅうかしょきょくしんだい史料しりょう筆記ひっきくさむらかんISBN 7101017428
  • ちょうなんじたつみひとし,《清史きよし稿こう
  • れんよこ,《臺灣たいわん通史つうし
  • からけい崧〉,おうきよしみね,《台灣たいわん文學ぶんがく辭典じてん
  • きよしひえるい鈔》

延伸えんしん阅读

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[ざい维基すうすえ]

维基文库中的相关文本:清史きよし稿こう·まき463》,出自しゅつじちょうなんじたつみ清史きよし稿こう
ざい维基どもとおる资源阅览影像えいぞう

外部がいぶ連結れんけつ

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まいり

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かん
前任ぜんにん
ひねこころざし
按察使銜分じゅん台灣たいわん兵備へいびどう
ひかりいとぐちじゅうさんねん(1887ねんうえつとむ
つぎにん
ほどおこりみさご
前任ぜんにん
沈應奎
福建ふっけん臺灣たいわんぬのせい使
ひかりいとぐちじゅうななねん(1891ねんうえつとむ
つぎにん
顧肇熙
前任ぜんにん
邵友濂
福建ふっけん臺灣たいわんじゅんなで
ひかりいとぐちじゅうねん(1894ねんしょにん
台湾たいわんわり
しんあたま 臺灣たいわん民主みんしゅこくだい總統そうとう
えいきよし元年がんねんひかりいとぐちじゅういちねん,1895ねん)5がつ2にち-6月4にち
つぎにん
りゅう永福えいふく