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れんよこ (歷史れきしがく)

维基百科ひゃっか自由じゆうてき百科ひゃっかぜん
れんよこ
てんたてまさどう
ごう慕陶、けんはな
本名ほんみょうじゅうおく
出生しゅっしょう(1878-02-17)1878ねん2がつ17にち
 清朝せいちょう福建ふっけんしょう臺灣たいわん臺灣たいわんけんうま兵營へいえい
逝世1936ねん6がつ28にち(1936さい—06—28)(58さい
 中華民國ちゅうかみんこく上海しゃんはい
死因しいんかんがん
墓地ぼち 臺灣たいわん新北しんきた泰山たいざんあかりこころざしいちだん274ごう[1]
121.432°E 25.05979°N
纪念けんれんまさどう先生せんせい暨夫じんはか
国籍こくせき
别名れんまさどう
语言漢語かんご官話かんわ臺灣たいわんばなし
教育きょういく程度ていど私塾しじゅく
职业學者がくしゃ作家さっか
雇主やといぬしよしらんごうれんとくせい華南かなん銀行ぎんこうはやしくまちょうまさどうしょきょくそう辦人いち
组织みなみしゃ
くぬぎしゃ
つくえ福建ふっけんにちにち新聞しんぶん
たいみなみ新報しんぽう
台灣たいわん新聞しんぶん
知名ちめい作品さくひん臺灣たいわん通史つうし
臺灣たいわんてん
臺灣たいわんじょう
配偶はいぐう沈璈(沈筱くも
儿女れんなつ甸 (おんな)、れん春臺しゅんだいおんな)、れんふるえひがしおとこ)、れんあきかんおんな
父母ちちははれんとくせいりゅうたえむすめ
亲属あにれんじょうあにれんじゅうこくおとうとれんじゅう
汉语名称めいしょう
繁体字はんたいじ れんよこ
简化 连横
汉语拼音 Lián Héng
白話はくわ Liân Hêng

れんよこ(1878ねん2がつ17にち—1936ねん6がつ28にち),幼名ようみょうまことあきらめいじゅうおく小字こあざかみおくてんたていちまさどう[2]ごうたけこう慕陶けんはな[3]ときめいけんはなしつたい南市みなみいち中西なかにしひと[4]せき漳州龍溪りゅうけい今福いまふくけん漳州りゅううみ[5]台灣たいわんにち時期じきてき詩人しじんたいぶんがく台灣たいわん歷史れきしがく。1920ねん著作ちょさく臺灣たいわん通史つうし完成かんせいなみ出版しゅっぱん台灣たいわんじんだい一部いちぶかんむり以「臺灣たいわん通史つうし名稱めいしょうてき版本はんぽん。另著ゆう臺灣たいわんてん》、《臺灣たいわんじょう》、《けんはなしつ詩集ししゅうとう晚年ばんねんいん投稿とうこう鴉片あへん有益ゆうえきろんため吸毒,遭到はやしけんじどうひとしつかまつしんはい擠,うつりきょ上海しゃんはい[6]

1936ねん6がつ28にちれんよこいんかんがんやまい逝於上海しゃんはいこう遷葬臺北たいぺいけん泰山たいざんきょう今日きょう新北しんきた泰山たいざん)。其獨れんふるえひがし(1960ねん曾任內政部長ぶちょう)及其りょうだいたんでん後代こうだい連戰れんせん(1996ねん曾任中華民國ちゅうかみんこくふく總統そうとうひとしため中國ちゅうごく國民黨こくみんとうせき政治せいじ人物じんぶつ

其外まごおんなため文學ぶんがくはやし文月ぶんげつ

れんよこたい南公園みなみこうえんてき銅像どうぞう

生平おいだいら[编辑]

早年そうねん經歷けいれき(1878ねん-1902ねん[编辑]

1878ねん2がつ17にちれんよこ出生しゅっしょう於馬兵營へいえいれん自明じめいまつおこりいたり日本にっぽん統治とうちどめせいきょ於此。よしためだいみなみ當時とうじさかりさん蔗糖しょとう父親ちちおやれんとくせい製糖せいとうためぎょうとうしょうごうよしらん」,いん此經しょう致富,いえゆたかあつし使つかいれん家富いえとみかぶとだいみなみ[7]目前もくぜんざいはらたいみなみ地方ちほうほういんそと牆邊仍保有ほゆううまへい營遺あずか史家しかれんみやび堂馬どうま兵營へいえいゆえ石碑せきひ標記ひょうき這段曾經てき過去かこ[8]

1891ねんれんよこじゅうさんさい父親ちちおやきょう讀《臺灣たいわんこころざしなみつげ誡他:「なんじため臺灣たいわんじん不可ふか不知ふち臺灣たいわんごと。」啟發けいはつれんよこため臺灣たいわんうつし志向しこう

1895ねんあきらうませき條約じょうやく臺灣たいわん割讓かつじょうきゅう日本にっぽん臺灣たいわん地方ちほう官民かんみんそう臺灣たいわん民主みんしゅこくあずか大日本帝國だいにっぽんていこく爆發ばくはつおつ戰爭せんそう。其父ためりゅう永福えいふくてき抗日こうにち軍隊ぐんたい日夜にちや籌措かて餉而るいたおせ同年どうねん8がつびょう逝,當時とうじれんよこ僅17さいにちぐんいれだい接收せっしゅう臺灣たいわんりゅう永福えいふくゆび定連じょうれん世代せだい居住きょじゅうこれだいみなみやすしみなみぼう兵營へいえいぼう作為さくい抗日こうにち軍隊ぐんたいてきちゅう紮地いちれん決定けっていゆずるしか而,日本にっぽん政府せいふ正式せいしき平定へいてい抗日こうにち軍隊ぐんたい強行きょうこう徵收ちょうしゅう兵營へいえいぼう作為さくいほういん建築けんちく用地ようちぜんそう牽,れん厝亦えびすため平地ひらちれんよこしょちょたいみなみ古蹟こせきちゅうまた曾提いたうま兵營へいえいなみとめ海上かいじょうつばめくも涕淚ているいこうはいれいらんかん如何いかうま兵營へいえいがいはなれはなれやなぎゆめ斜陽しゃようにん。」思念しねんきょてき詩作しさくじゅう日本にっぽん政府せいふ徵收ちょうしゅうれんいん此先暫時ざんじ搬到其賴せい親戚しんせきてき住處すみか後來こうらいまた搬到だい南西なんせいきたよんまち居住きょじゅうこれれんざいうま兵營へいえいてき土地とちそくなりため後來こうらいてきだいみなみ地方ちほうほういん[9]

1897ねん,19さいてきれんよこめと同鄉どうきょう沈鴻すぐるてき24さいてき女兒じょじ沈筱くもめいいみな沈璈,しょうくも,筱雲[10]ためつまれん早期そうき經營けいえい製糖せいとう致富,沈筱くもそく出口でぐちとうちゃ樟腦しょうのうみずきょう洋行ようこういんじつ商人しょうにん沈鴻すぐるてき長女ちょうじょ沈鴻すぐるなみためれんよこちょ台灣たいわん通史つうし》“貨殖かしょく列傳れつでんじょうれつめいてき人物じんぶつれんよこあずか沈筱くもひとしため出生しゅっしょう於臺みなみ當地とうちもちぞく當時とうじ雙方そうほう婚姻こんいんいいもんとうたい

1899ねんれんよこ21さいためだいみなみたい澎日ほうかん文部もんぶぬしへん,此時日本にっぽん政府せいふやめ有效ゆうこう統治とうち臺灣たいわんだい四任臺灣總督兒玉源太郎上任後,檢討けんとうさきぜん日本にっぽん統治とうち政策せいさくため培養ばいよう臺灣たいわん人民じんみんあずか日本にっぽん政府せいふてき情感じょうかん特別とくべつ舉辦りょう4きょうろうてん,以示其能うけたまわぞくかん民族みんぞく道德どうとく教化きょうかてき儒學じゅがく傳統でんとう。其中だい3地點ちてんそくためだいみなみ兒玉こだま源太郎げんたろうなみ向臺むかえだいみなみ地方ちほう名士めいしちょう詩文しぶんだいみなみ地方ちほう著名ちょめい詩人しじん蔡國琳えびす殿どのおおとりちょう鍾麒はやしかおるらんひとしため此作頌德れんよこ作為さくいだい澎日ほうおもへん及臺みなみ當地とうち著名ちょめい詩人しじんまた同時どうじ發表はっぴょう歡迎かんげい兒玉こだまただしけんみなみじゅん頌德[11]。其中內容「干戈かんか疫癘えきれいつぎ凶年きょうねんてんくだわざわい殃無奇偶きぐうわか推而おさめみぞちゅう,萬民溺矣宜援手。」及「俯察輿こしじょうぬのじんふうきょうろうむしろちょう隆壽たかとし耇,ゆういのり恩澤おんたくへん閭閻,たもてわがはじむみんわざわいとがめ。」ひとし顯示けんじれんよこため臺灣たいわん人民じんみん請命及對新任しんにん總督そうとく兒玉こだま源太郎げんたろう新政しんせい期待きたい

早期そうき文學ぶんがく創作そうさく(1902ねん-1914ねん[编辑]

1902ねんれんよこ福建ふっけん參加さんかさき廈門ただしぼっゆうろく

1904ねん4がつ23にちどくれんふるえひがし出生しゅっしょう

1905ねんれんよこ攜眷內渡廈門,あずか友人ゆうじんそう辦「福建ふっけんにちにち新聞しんぶん」,此年也是まごいっせん創立そうりつ同盟どうめいかいてき年代ねんだいれんよこため台灣たいわんじん,淪為ことぞく統治とうち書生しょせい報國ほうこく文字もじうら充滿じゅうまんはい滿まん意識いしき激烈げきれつ言論げんろん鼓吹こすいはい滿まん。此時同盟どうめいかい成員せいいん閱報大喜だいぎりんちく先生せんせい商談しょうだん改組かいそため同盟どうめいかい機關きかんほうこう遭清廷官かた側目そばめ注意ちゅうい暗中あんちゅうじん準備じゅんび逮捕たいほさいわいたくみ有人ゆうじん通風つうふうほうしんじはじめとく避去。後來こうらいきよし廷竟こうちゅう廈門日本にっぽん領事館りょうじかん抗議こうぎほどこせあつ,「福建ふっけんにちにち新聞しんぶんほうしゃせりせき閉,れんよこただこう攜眷かいだい

1905ねん,《福建ふっけんにちにち新聞しんぶんせき閉後,れんよこまた同年どうねんかいいた日本にっぽん統治とうちてき台灣たいわんざいよしたい澎日ほう改版かいはん而成てきたいみなみ新報しんぽう》內擔任たんにん

1906ねんれんよこいんこく愛吟あいぎんあずか友人ゆうじんちょうくもせきしゃ籟軒とう十餘人在台南創みなみしゃ不同ふどう於1909ねんからし革命かくめい時期じき創立そうりつてきてき同名どうめい文學ぶんがく團體だんたいみなみしゃ)。

1908ねんれんよこ舉家遷到たいちゅうにんしょく於台ちゅう發行はっこうてき台灣たいわん新聞しんぶん漢文かんぶん同年どうねんれんよこ開始かいしせんうつし台灣たいわん通史つうし》。

1909ねんれんよこおう友人ゆうじんりんあさ崧之邀加盟かめいためくぬぎしゃ社友しゃゆうあずか社友しゃゆう道德どうとく文章ぶんしょうしょう切磋せっさ[12]。(註:依據いきょでんすず祺櫟しゃ沿革えんかくりゃくくぬぎしゃがかり於1902ねんゆかりきりほうはやしせんしゅんどう)、はやしみなみきょうようはる)、つばめきりだいそうよりゆき悔之(紹堯)三子始結詩社,めい曰「くぬぎ」,れんよこがかり1911年初ねんしょ加盟かめいためくぬぎしゃ社友しゃゆう[13]

1912ねん經由けいゆ日本にっぽん內地再度さいど中國ちゅうごく大陸たいりくたびゆうさき抵達上海しゃんはいさいゆう南京なんきん杭州こうしゅう等地とうちけい日本にっぽん神戶こうべときおう友人ゆうじん邀請いたり福建ふっけん會館かいかん敘舊。這時福建ふっけん省議しょうぎかいはた開會かいかいじょうせん僑商じゅうめい參加さんか國政こくせい東洋とうよう地區ちくおうせんいちめいれんよこおう參加さんか此會,なみ發表はっぴょう演說えんぜつ陳述ちんじゅつとうぜん中國ちゅうごく改革かいかく大勢おおぜい,及此經營けいえい福建ふっけんてき對策たいさくよしえんじこう內容扎實、ゆう見地けんち,贏得眾人佩服。投票とうひょうしゃななじゅうにんれんなりとくじゅうはちひょうちゅうせんただしよしゆう既定きてい行程こうてい,且心中しんちゅうのはやゆう遠大えんだい計畫けいかく所以ゆえん婉辭不能ふのう就任しゅうにん

1914ねんれんよこ中華民國ちゅうかみんこくこれ清史きよしかん館長かんちょうちょうなんじたつみのべ聘為名譽めいよきょうおさむなみ取得しゅとく臺灣たいわん歷史れきし資料しりょう,「ときちょう先生せんせいてのひら清史きよしかんのべ先生せんせい入館にゅうかんどもごといんとくつき閱館ちゅう所藏しょぞうゆうせき臺灣たいわんけんしょう檔案,而經其收にゅう臺灣たいわん通史つうし」。よりどころ2005ねん5がつ1にち臺北たいぺい中國時報ちゅうごくじほうほうみちびけれんよこ曾於そお1914ねん1がつ31にち,「てい北京ぺきん政府せいふ恢復かいふく中國ちゅうごく國籍こくせき」、「這份原始げんし檔案材料ざいりょう仍存於南京なんきん的中てきちゅうこくだい歷史れきし檔案かん[14]

同年どうねんふゆてんれんよこかえしかい故里ふるさと臺灣たいわんたいみなみはた中國ちゅうごく大陸たいりく等地とうち遊歷ゆうれきうつし作成さくせい大陸たいりくゆう》、《大陸たいりく詩草しそうかん於「たいみなみ日報にっぽう」。

中年ちゅうねん經歷けいれき(1914ねん-1931ねん[编辑]

1914ねん冬至とうじ1919ねんれんよこいち方面ほうめん繼續けいぞくざいたいみなみ新報しんぽう工作こうさく,另一方面也利用公餘之暇持續《臺灣たいわん通史つうしてき著述ちょじゅつ工作こうさく經過けいかりょう前後ぜんこうじゅうねんてき時間じかんおわり於在完成かんせい

1919ねんれんよこうつりきょ台北たいぺい,受僱於華みなみ銀行ぎんこうてき發起人ほっきにんはやしくまちょう,幫忙處理しょりあずか南洋なんよう華僑かきょうまたひがし往返てきぶん牘。1923ねんれんよこあずか夫人ふじんいちおこりどうゆう日本にっぽんれんよこ46さい(1924ねん2がつ),ざい台北たいぺい創立そうりつ發行はっこうてき漢語かんご古典こてん雜誌ざっし台灣たいわん薈」,いちちょくいた1925ねん10がつ赴浙江西えにしやしなえびょう停刊ていかんどめきょう發行はっこう22同年どうねん日本にっぽん常磐ときわ生命せいめい保險ほけん株式會社かぶしきがいしゃきゅう特許とっきょ經營けいえいけん台北たいぺい代理だいりてんせん兒童じどう保險ほけんなみ曾於そお自己じこそう辦的「台灣たいわん薈」雜誌ざっしうえかんとう廣告こうこく。1926ねんれんよこまた舉家うつりきょ杭州こうしゅういちねん理由りゆうやしなえびょう。1927ねんかいいた台北たいぺいあずか友人ゆうじんはんまんごうひらけりょう一家いっか書店しょてん店名てんめいさけべ做雅どうしょきょく。該書てん標榜ひょうぼううれ文書ぶんしょせき文具ぶんぐ。該書てんざい兩年りょうねん就因經營けいえい不善ふぜん而關閉。

1921ねんゆかり蔣渭すいはやしけんじどう所領しょりょうしるべ執行しっこう台灣たいわん文化ぶんか協會きょうかい成立せいりつ,於北ちゅうりょう,舉辦台灣たいわん文化ぶんか講習こうしゅうかいれんよこみこと聘為講師こうしこう授「台灣たいわん通史つうしとう當時とうじ台灣たいわんてき反日はんにち人士じんし組織そしき文化ぶんか協會きょうかい發行はっこう台灣たいわんみんむくいれんよこ也是其中てき重要じゅうよう人士じんしだいみなみてき文人ぶんじん雅士まさしつねざいせき帝廟ていびょうつくりいち家名かめいためけいゆたかてき商店しょうてん聚會,們聚だん詩文しぶんそと,就是討論とうろん時政ときまさ,而連よこ也是さいつねいたじょうてき文人ぶんじんいちいんためれんよこ當時とうじ服務ふくむてきほうしゃ就在附近ふきんよしため反日はんにちてき立場たちば,其備受日本人にっぽんじんてき騷擾そうじょう,這也れんよこ晚年ばんねんはなれだい赴陸避禍てき原因げんいんいち

1929ねんれんよこいん日本にっぽん政府せいふきん其台」,かんじいた憂慮ゆうりょためりょうつきぜん保存ほぞんだいせめ決心けっしんたいたい整理せいりなみ發揚はつよう開始かいしへんうつし臺灣たいわんてん》(原名げんめいたいこうしゃく》),於1933ねん完成かんせいとも5ねんれんよこ於1929ねん11月24にちざい臺灣たいわんみんほうだい288ごうくび發表はっぴょうたい整理せいりあたまいとぐち」:

臺灣たいわんじん也,のうみさお臺灣たいわんこれ,而不能書のうがき臺灣たいわん,且不能ふのうあかりだいよしふか愧!おっと臺灣たいわんこれでん漳、いずみ,而漳いずみかたりでん中國ちゅうごく,其源すんでとお,其流またちょうちょうすめらぎかそけびょう,墜緒ほろ茫,あに南蠻なんばん鴃舌げきぜつおと,而不可ふか以調みやしょう也哉?あまり以治ごとひまほそためけんもとむ,乃知臺灣たいわんこれ高尚こうしょう優雅ゆうがゆういさおぞくこれしょのう,且有於周、はたさいまた今日きょう儒者じゅしゃこれしょのうあきらふか!」

いち禮拜れいはいさいせんたい整理せいり責任せきにんひさげ及:

いま學童がくどうななさい受書うけしょ天真てんしん漓,咿唔はつ誦,而鄉こうやめきん其臺矣;いま青年せいねんきゅうひがしもとめ學問がくもん,十載勤勞而歸來,やめ忘其だい矣;いま搢紳上士じょうし乃至ないしさと小吏しょうり,遨遊かんぜい趨權,趾高あげいのち彥,而交際こうさいあいだやめくずふくだい矣!……あまり以僇みん,躬逢此阨,すんで見臺けんだいにち消滅しょうめつとくおこり整理せいりいち保存ほぞんいちはかりごと發達はったつとげなりだいこうしゃくまたやや以盡厥職矣。」

たい於臺てき字音じおん,其亦嘗謂:「臺灣たいわん文字もじでん中國ちゅうごく,而語げんそく漳泉。顧其ちゅうすんで多古たこまたゆう古音こおん有正ありまさおんゆうへんおんゆうてんおん。昧者察,以為臺灣たいわんゆうおん,此則淺薄せんばくみみおっと所謂いわゆるゆう音無おとなししゃあるためてんせっあるため外來がいらいひゃくふんいちみみ。以ひゃくふんいち,而謂臺灣たいわんゆうおんなに其傎耶?」

晚年ばんねん(1931ねん-1936ねん[编辑]

れんよこ於1931ねんかえしかいだいみなみ。1931-1932ねんれんよこ擔任たんにん臺灣たいわん總督そうとく史蹟しせき名勝めいしょう天然てんねんねんぶつ調ちょう查會委員いいん

1931ねんきゅういちはち事變じへん爆發ばくはつ中日ちゅうにち關係かんけい緊張きんちょうれんよこりょう兩國りょうこくおわりいちせんねがい其子れんふるえひがしとめだいためてき驅使くし,乃遣れんふるえひがしふところ致張溥泉先生せんせい手札しゅさつ南京なんきんとうこう祖國そこくれんよこくさ致黨こく元老げんろう同盟どうめいかいろうともちょうつぎ(溥泉)しょ全文ぜんぶんうん:「溥泉先生せんせい執事しつじさるいち晤,悵惘而歸,へだたうみ迢遙,ひさかけ牋候。いましゃ南北なんぼく統一とういつ,偃武おさむぶんとうこく前途ぜんと發揚はつよう蹈厲。ぞくざい下風かふうのう欣慰!ふるえひがし畢業東京とうきょう慶應大學けいおうだいがく經濟けいざい現在げんざい台灣たいわん從事じゅうじほうつとむおとうと以宗くに建設けんせつ新政しんせい施行しこういのち赴首,奔投門下もんか。如蒙大義たいぎ,矜此孑遺,俾得憑依ひょうい,以供使令しれい,幬載とくかん不朽ふきゅう!且弟僅此まさよく其其ながきょ異域いいきちょうため外之そとゆきじん以託しょ左右さゆうむかし胥在くれよせひとしこく;魯連蹈海,よしみかどしんきょう以軒華冑かちゅう,而為ぞく賤奴,泣血しいしん,其何のう惄?ところみゆき國光こっこうとおめぐみ及海すみ,棄地のこみんまた沾雨のり此有せいこれねんなおゆうふくだんにち也。鍾山ざいもち,淮水長流ちょうりゅう,敢布すん衷,ふく維亮詧!じゅん頌任祺。不備ふび愚弟ぐていれんよこ頓首とんしゅよんがつじゅうにち。」(はらはこよしれんふるえひがしおくぞう國史こくしかんろくじゅうねんはる國史こくしかん館長かんちょうりく以此はこ凡屬國人くにびとみなおう一讀いちどく,而臺胞尤おう一讀いちどく建議けんぎ教育きょういく部長ぶちょう蔣彦將之まさゆきれつため中學ちゅうがく國文こくぶん教材きょうざい),且諭ふるえひがし曰:「よく臺灣たいわん解放かいほう,須先建設けんせつ祖國そこくあまりため保存ほぞん臺灣たいわん文獻ぶんけんとくにんきょ此地;なんじいまやめ畢業,且諳國文こくぶんおうかい祖國そこくこういのちあずかなんじはははたつぎなんじ而往!」該年4がつれんふるえひがしそくたいちょれんまさどうてきはちぎょうしょぜん中國ちゅうごくめんみんこく初年しょねんてき參議院さんぎいん議長ぎちょうちょうつぎ[15][16]同年どうねん6がつ18にちれんふるえひがしざい南京なんきん西にしはなもんてつじょう(1888-1953)しょ謁見えっけんちょうつぎちょうつぎりょうれんよこてきしんじさとし其「真摯しんし沈痛ちんつう大義たいぎ凜然,ふかため感動かんどうれきひさしなんしゃく,於是攜震ひがしいたり北平きたひら,促其學習がくしゅう國語こくご。」[17]

れんよこ知道ともみちれんふるえひがしいたちょうつぎてき愛護あいござい1931ねん7がつ26にちきゅうれんふるえひがしてき書中しょちゅういい,「なんじとうざい〔溥泉〕先生せんせい左右さゆうきょう其使いのち學習がくしゅう事務じむ忍苦にんくたいろうつくり讀史どくししょゆい良友りょうゆうさんねんとうゆう成績せいせき。」(れんよこ,1992a:6)這一兩年りょうねん內,每次まいじ輾轉てんてんよせ書信しょしん教誨きょうかい訓誡くんかいこと於而ひさげめんいのちときだい而至於立身りっしん報國ほうこくようはしほそ而至於讀書どくしょがくもんみち叮嚀ていねいきりしょくただおそれしゅう天下てんか父母ちちははしんじょう乎辭,おどしか紙上しじょう,俱足かんじん肺腑はいふ如,「つとむもとめそく就,勿尚虛名きょめいしるまこと做去,步步ほほ穩健おんけん,必能こう成業せいぎょう就也。」。れんふるえひがしざいきた平時へいじきょうよう東北とうほく要人ようじんため將來しょうらいどうことじょ」;はりままし可能かのうよう赴粵きょうなんじとうざい左右さゆう,如欲赴粵,隨行ずいこう,以資閱歷」;抗日こうにち戰爭せんそう爆發ばくはつ國府こくふ遷移せんいこれのりちょう先生せんせい如入辦事,なんじ請之隨行ずいこうぶたいん政府せいふはつうつり人員じんいん必少,なんじ於此如能とくいち位置いち,且在艱危なか將來しょうらい較有あつもち。」後來こうらいれんふるえひがしずいはりまましいた西安しーあんれんよこまた告訴こくそれんふるえひがしなんじざい西安しーあん位置いち甚好,つとむ謹辦ごと,以資閱歷,將來しょうらい〔溥泉〕先生せんせい如任行政ぎょうせい院長いんちょう,必能調ちょうらい中央ちゅうおうのりちょちょ進行しんこう,以慰あまりこれもちだい青年せいねん以無しんみちただゆう煩悶はんもん、怨憤、妒、詈罵,以墜於失敗しっぱいふち而已,つう憫!」またきょう讀書どくしょひま,須臨ほしあずか人士じんししょう往來おうらい尺牘せきとくこれしょ,必求精美せいび,而後致貽笑也えみや。」

れんよこうつしきゅうれんふるえひがしてき書中しょちゅうまた感嘆かんたん當時とうじ在日ざいにちほん統治とうちてき臺灣たいわん現況げんきょう:「日本にっぽん經濟けいざいつかれこま臺灣たいわんゆう甚,ひゃくぎょう蕭條しょうじょう物價ぶっかいよいよ賤,臺灣たいわんじつゆう不可ふか久居ひさいいきおい」、「きょ此間甚厭,よんひゃくまんにんちゅういくいちだん生計せいけいすんで絀,信義のぶよしぜんつう憫。」、「われよくなんじれんふるえひがしため臺灣たいわんじんゆうよく如為いち平凡へいぼんこれにん,此間青年せいねん毫無生氣せいき所謂いわゆる大學生だいがくせいしゃめとつま生子おいご前途ぜんとやめぜっ,其活動かつどうしゃのりよび群集ぐんしゅうとう飲酒いんしゅぱいとべまい而已,墜落ついらく如此,可憐かれん憫!」,訓誡くんかいれんふるえひがしきり不可ふかあずか此間朋友ほうゆうどおり訊」,甚至明示めいじ:「此間朋友ほうゆうゆう詢汝住所じゅうしょしゃみな不言ふげん」,也訓誡已よめざい上海しゃんはいてき長女ちょうじょなつ不可ふかかい臺灣たいわん

れんよこ晚年ばんねん好學こうがくふつ,其遊臺北たいぺい觀音山かんのんやまため其深とく佛家ぶっけ妙諦みょうてい曰:「我家わがやざいしろかげ觀音かんのんただたいもんわがらい此山ちゅう觀音かんのんさび無言むごん色相しきそう雖可さん妙法みょうほうとく聞。たとえ如掬水月すいげつみず去月きょげつあとまた如觸はなはなしゃなんそん我身わがみ非我ひがゆう萬物ばんぶつどう其源。萬物ばんぶつ非我ひがゆう天地てんちぶん其跟。天氣てんき非我ひがゆう大造たいぞう闡其もと大造たいぞう非我ひがゆう佛法ぶっぽうてん其輪。うえきゅうおくまんこうしもいたりおくまんまごただ佛心ほとけごころかしこただほとけいたどくみことたたえしか自在じざいいちあらい眾生やかまし。」[18]

1933ねん7がつ11にちれんよこ舉家うつりきょ上海しゃんはい[19]

1936ねん6がつ28にちれんよこいんかんがんやまい逝於上海しゃんはいとくねん58さいとめ32さいどくれんふるえひがし。此期あいだれんふるえひがし跟隨ちょちょうつぎいた西安しーあんにんしょく西京にしぎょう籌備委員いいんかいじゅうざい西安しーあん新城しんじょう北門きたもんがい同年どうねん8がつ27にちどく連戰れんせん於西やす出生しゅっしょうれん橫死おうしぜんわたるとめうつしきゅうれんふるえひがし這麼いちだんばなし:「こん寇焰はさまじん中日ちゅうにち终必いちせんひかりふく台灣たいわんそく其時也。なんじ其勉!」[20]またせつ:「媳即しょう生產せいさん,如果せいおとこてき,就取めいためせんぐう其克てき制勝せいしょうつよいきおさむふく故國ここくじゅうせいえん」。死後しご遷葬かえしだいはかえん於今新北しんきた泰山たいざんだいいちおおやけ

1939ねん3がつ1にちれんよこつま沈筱くも逝世於西やすそう於西やす當時とうじ連戰れんせんかえ不滿ふまん3さい

論述ろんじゅつあずか著作ちょさく[编辑]

れんよこ

台灣たいわん通史つうし[编辑]

れんよこ13さい,其父れんとくせい授以《ぞくおさむ臺灣たいわんこころざし》,つとむ:「なんじため台灣たいわんじん不可ふか不知ふち臺灣たいわんごと。」讀後どくご卻見きゅうこころざしかけあやま甚多。もと於先人家じんかきょう啟蒙けいもうあずか台灣たいわんため日本にっぽんしょうらないてきそうじゅう動機どうき1908ねんいたり1918ねんちょしゅせんうつし台灣たいわん通史つうし》,體裁ていさい仿效司馬しば遷《史記しきからだれい而成,おこりずい煬帝大業おおわざ元年がんねん(605ねん),おわり割讓かつじょう(1895ねん)。全書ぜんしょども36かんふんため4、こころざし24、つて60,ども88へんやくゆう60まん,另附ひょう101こう。這是臺灣たいわんじんだい一次完成且第一部冠以「臺灣たいわん通史つうし名稱めいしょうてき著作ちょさく

這本しょてき初版しょはんどもぶんなり3さつゆかりれんよこ自己じこ籌設てき台灣たいわん通史つうししゃ出版しゅっぱんうえさつ於1920ねん11月出版しゅっぱんちゅうさつ同年どうねん12がつ初版しょはんしもさつそく於1921ねん4がつ出版しゅっぱん。這本しょ後來こうらいゆう種種しゅじゅ不同ふどうてき版本はんぽん台灣たいわん銀行ぎんこう經濟けいざい研究けんきゅうしつ於1962ねん以「台灣たいわん文獻ぶんけんくさむらかんだい128ごうためめい出版しゅっぱんてき版本はんぽんとも6さつ),ざい學術がくじゅつかいさいつね採用さいよう3

はらまきよんため獨立どくりつ〉, ただしよし日本人にっぽんじんしょはさま而改ため過渡かと〉。れんよこ卻於だいしょ小字こあざ:「此篇原名げんめい獨立どくりつ嗣以字義じぎ妥故えき」,のり設計せっけい巧妙こうみょうゆうよくぶたわたるあきら效果こうかすんでたがえじん,且反而凸あきら其原そのはらむね

そう評論ひょうろん[编辑]

台灣たいわん通史つうし完成かんせい於1920及1921ねんだい一部以中文書寫的台灣通史,までいまかんしるし10多種たしゅ不同ふどう版本はんぽん影響えいきょう非常ひじょうこう泛。台灣たいわん通史つうしただ局限きょくげん歷史れきしかえ包含ほうがん地理ちり教育きょういく軍事ぐんじ外交がいこう農業のうぎょう財政ざいせい經濟けいざい醫院いいん宗教しゅうきょう典禮てんれい風俗ふうぞく交通こうつうこうしょう文藝ぶんげい及人ぶつ列傳れつでんとう,內容鉅細靡遺,いい一部以台灣為主體的百科全書 。

中華民國ちゅうかみんこくぜん教育きょういく部長ぶちょうちょう其昀曾評價ひょうか台灣たいわん通史つうし:「臺灣たいわん通史つうしいちしょつとむざい發揮はっき民族みんぞく精神せいしん分析ぶんせきごとまた包含ほうがんよんてん便びん移民いみん精神せいしん革命かくめい精神せいしん創業そうぎょう精神せいしん海國かいこく精神せいしん綜括そうかつおこりらいしょうため臺灣たいわん精神せいしん。」またうん:「一部いちぶ臺灣たいわん通史つうし,其勢力せいりょく超過ちょうか日本にっぽん全部ぜんぶ陸海空りくかいくうぐんいんため日本にっぽん軍隊ぐんたいただのう占領せんりょう臺灣たいわんてき土地とち,而不能ふのう征服せいふく臺灣たいわんてき人心じんしんまさどう先生せんせいてき大著たいちょ發揚はつよう愛國あいこく思想しそう,喚醒民族みんぞく靈魂れいこんあきらてい以來いらいひゃく多年たねん反抗はんこうことぞくそう自由じゆうてき光榮こうえい歷史れきしさく系統けいとうてき記載きさい使つかい革命かくめいてき炬火きょかてる煌照耀著。」

中華民國ちゅうかみんこくぜん參議院さんぎいん院長いんちょうちょうつぎ評價ひょうか臺灣たいわん通史つうし:「以子ちょう司馬しば遷)、はじめけんはんかた識,ため船山ふなやまおうおっと)、ちんりん(顧炎ぶん,敘述ずいだい以至かぶとうません年間ねんかんごとつな目張めばる,鉅細靡遺,且包藏ほうぞう人類じんるい生存せいぞんため歷史れきし進化しんか重心じゅうしん奧義おうぎまことため近代きんだい中國ちゅうごく史學しがくえらさく也。」

史學しがく及革いのちあきらたいえん先生せんせい評價ひょうか台灣たいわん通史つうしため:「民族みんぞく精神せいしんこれしょさんため必傳さく」,なみため台灣たいわん通史つうしうつし臺灣たいわん通史つうし題辭だいじ節錄せつろく):「はじめいたり臺灣たいわんもとめ所謂いわゆるのこみんきゅうとくしゃ千萬せんまん不可ふかとくいちいまかんみやびどう有作ゆうさく也,庶幾しょき其人歟?豪傑ごうけつ無文むもんおう而興しゃてい也。豪傑ごうけつこん可知かち。雖然,披荊とげたてしろ邑於さんひゃくねんうえ使つかい後世こうせいなおのう興起こうき而誦せつこれしゃ,其烈ぶたゆるがせ乎哉?まさどうこれしょまた於是ため臺灣たいわん重也しげや!」

台灣たいわん中央ちゅうおう研究けんきゅういん台灣たいわん研究所けんきゅうじょ所長しょちょう富三とみぞう這樣評價ひょうか這本著作ちょさく:「《台灣たいわん通史つうし以說だい一部把台灣當作一個個體來處理的史學著作,具有ぐゆう先鋒せんぽう性的せいてきかくしょく。如果せつ台灣たいわんこうなりため一門いちもん獨立どくりつてき學問がくもんてきばなしうたぐてき台灣たいわん通史つうしてき貢獻こうけん很大てき。」[21]

也有やゆう台灣たいわんてき研究けんきゅうしゃたい於《台灣たいわん通史つうし提出ていしゅつ不同ふどうほう如說,ざいおうけいおんとうひとせき台灣たいわん通史つうしるい著作ちょさくてき分析ぶんせき檔,們就みとめため事實じじつじょうれん歷史れきし敘述ゆう錯誤さくごただし根據こんきょおうけいおととう(1992,37)てき整理せいり當時とうじめんじょう流通りゅうつうてき臺灣たいわん通史つうしたち11しゅ版本はんぽん排除はいじょ有人ゆうじん另外おさむあらためてき可能かのうせい

れんよこざい臺灣たいわん通史つうし》曾說自身じしん家族かぞく有德うとくせいため民族みんぞく尊嚴そんげん不參加ふさんかきよし廷科舉[22]れんよこてきあにちょうれんじょう就是秀才しゅうさい自己じこ24さい(1902ねん)也曾赴福建ふっけん參加さんか當時とうじれんよこさき廈門さいいたふくしゅうおうさとためしただしだいたい於這けん事情じじょうてきれんふるえひがし解釋かいしゃくれんよこ不知ふち以其思想しそうしん雋至なんとくおうためし便びん,赴閩調ちょうやしなえ身體しんたい也。」[19]

臺灣たいわんてん[编辑]

原名げんめいたいこうしゃく[23]ため臺灣たいわん文學ぶんがくれんよこしょちょ著作ちょさく時間じかん1929年始ねんしいたり1933ねん完成かんせい全書ぜんしょどもぶん4かんけいおさむ語彙ごい1182じょうまきいちため單音たんおんかんさんよんためそうおと

台灣たいわんてんだい一部考釋台語詞源的開山之作。よし時代じだいてききりせいゆう部分ぶぶん觀念かんねん及考ていてき缺點けってんただし整體せいたい而言仍是一部極具歷史意義的巨著。自序じじょへん強調きょうちょうたいたい逐漸しつ落的焦慮しょうりょあずかこころざし保存ほぞんなみ研究けんきゅう發揚はつようだいてきひろしねがい,值得今日きょう台灣たいわん所有しょゆうてきみんかがみ三思さんし

自序じじょいち

れんよこ曰:臺灣たいわんじん也,のうみさお臺灣たいわんこれ而不能書のうがきだい、且不能ふのうあかりだいよしふか愧。おっと臺灣たいわんこれでん漳、いずみ;而漳、いずみこれでん中國ちゅうごく。其源すんでとお、其流またちょうちょう惶幽びょう、墜緒ほろ茫,あに南蠻なんばん鴃舌げきぜつおと不可ふか以調みやしょう也哉! あまり以治ごとひまほそため研究けんきゅう,乃知臺灣たいわんこれ高尚こうしょう優雅ゆうがゆういさおぞくこれしょのう;且有於周しんさいまた今日きょう儒者じゅしゃこれしょのうあきらふかためし舉其れい:泔也、はん也,めいれい》;だいこれ孺能ごと,而中國之くにゆきおっと不能ふのうごとおっと中國ちゅうごく雅言がげん舊稱きゅうしょう官話かんわ,乃不曰泔而曰めし曰潘 而曰淅米すいわか以臺較之,あにあきらはじめあずか褐衣、しろ璧之あずかつばめせき也哉!またたいいいこくどう曰尻がわげん甚鄙,而名甚古。しり出自しゅつじすわえ》、かわ於《山海さんかいけい》,此又あに俗儒ぞくじゅのうあかつき乎!いたり於累ゆう典雅てんが糊口ここう於《ひだりでん》、搰力於《みなみはな》、こじれ蠻之於《しゅうあや》、とまこまこれ於《漢書かんしょ》,其載於六げいきゅうりゅうちょうしょみやびゆびかちこごめしかのりだいみなもと遠流おんるちょうやすし不足ふそく以自ほこ乎! あまりひろ其頭いとぐちほしため整理せいり,而事有難ありがたしゃなに也?臺灣たいわんこれ既出きしゅつ中國ちゅうごく,而有為ゆうい中國ちゅうごく今日きょうしょしゃ,苟非けんもとむ文字もじがく音韻おんいんがく方言ほうげんがくのりとく以得其真。なに以言たいいい曰兜;かぶとかこえ也,引申ため聚。いい曰護;也,引申ためすけ。訬,訬擾也,而號狂人きょうじん出入でいり也,而以ろんあかりろくしょ轉注てんちゅう假借かしゃくのり不能ふのう其義,其難一也かずやたいいいかもつよしためかもがた,《》《ひつじへん》:於陵はんあずかふけきそえくずし同韻どういんまた正月しょうがつへん》:ゆうあずかりょう、懲同韻どういんふく如查はじめよび查晡、だい大家たいかよびだいしゅうとあきらいん轉變てんぺんのり不能ふのう讀其おん,其難也。たいいい曰毛,於河ついたちいいおどけ曰遙,於沅すいいい拏曰扐,於關ちゅうあかり方言ほうげん傳播でんぱのり不能ふのうゆび其字,其難三也みつやしか而余臺灣たいわんじん也,雖知其難而未敢以ためなんはやよる以思飲食いんしょく以思、寐寤以思,偶有ぐうゆう所得しょとく,輒記於楮;いちがつあいだ舉名ひゃく,而余こころ乃自慰矣。 嗟乎!またなに敢自慰也。懼夫臺灣たいわんこれ消滅しょうめつ民族みんぞく精神せいしん萎靡いびのりあまりせめ乃婁だい也。

自序じじょ

すんで整理せいりだいふく懼其消滅しょうめつ悠然ゆうぜん以思、惕然以儆、愴然以言。嗚呼ああ余聞よぶん先哲せんてつ矣,めつじんくに,必先其史;隳人枋、はいじん綱紀こうき,必先其史;ぜっじんざいけむりふさがひときょう,必先其史。また聞之きゅうふみ矣,さんなえ猾夏、獯鬻憑陵、えびす俶擾、りょうきん西にしなつ割據かっきょあいしんさとし盛衰せいすい,其祀ゆるがせほろび,其言ぜっ;其不ぜっしゃ,僅存ひゃくいち於故藉之ちゅう,以供後人こうじんかんがえさく嗚呼ああわれおもえこれわれじゅうおもえこれわれのう懼其消滅しょうめつ哉!今日きょう學童がくどうななさい受書うけしょ天真てんしん漓,吚唔はつ誦,而鄉こうやめきん其臺矣。いま青年せいねんきゅうひがしもとめ學問がくもん;十載勤勞而歸來,やめ忘其だい矣。いま搢紳上士じょうし乃至ないしさと小吏しょうり,遨遊かんぜい趨權,趾高扬,いのち彥;而交際こうさいあいだやめくずふくだい矣。かお推之ゆうごと:“今時いまどき子弟していただしのうみさお鮮卑たま琵琶びわ以事貴人きじん富貴ふうき”。噫!なに其言婉而戚也! あまり以僇みん躬逢此阨,すんで見臺けんだいにち消滅しょうめつとくおこり整理せいりいち保存ほぞんいちはかりごと發達はったつとげなりたいこうしゃく》,またやや以盡厥職矣。曩者あまり文獻ぶんけんほろび撰述せんじゅつ臺灣たいわん通史つうし》;こん復刻ふっこく此書,雖不足ふそく以資貢獻こうけん,苟從此以整理せいり演繹えんえき發揚はつよう民族みんぞく精神せいしんよりゆき以不墜:すなわち此書也,其猶玉山たまやまいちくもきのえけいいちみず歟!

臺灣たいわんじょう[编辑]

ため臺灣たいわんにち時期じき(1921 ねんゆかりれんよこところ編纂へんさんてき一部いちぶ古典こてん詩集ししゅう收錄しゅうろく 200 臺灣たいわん詩人しじんてき 1000 くび詩作しさくほん詩集ししゅうため臺灣たいわん通史つうしてき附屬ふぞく作品さくひん編纂へんさんむね むねためそくそく」,希望きぼう藉由這些不同ふどう時期じきてき文學ぶんがく詩作しさくてい現出げんしゅつ臺灣たいわん各個かっこ時代じだい てき歷史れきし風光ふうこういたり於編はいじょうのり按時あいだ前後ぜんこう順序じゅんじょ

けんはなしつ詩集ししゅう[编辑]

臺北たいぺいはち和平わへいねん公園こうえんけんはなていちゅうてきれんまさどう半身はんしん銅像どうぞう

古典こてん詩集ししゅうれんよこちょ臺北たいぺいがくかぶと出版しゅっぱんしゃ 1954 ねん 10 がつ初版しょはん臺灣たいわん銀行ぎんこう經濟けいざい研究けんきゅうしつ 1960 ねん 11 がつじゅうしるしれつため臺灣たいわん文獻ぶんけんくさむらかんだい 94 しゅ。此書よし大陸たいりく詩草しそうやすしみなみ詩草しそうけんはな室外しつがいしゅう3 稿こうごうへん而成,きょう收錄しゅうろく 907 しゅなみ附錄ふろく早期そうきさく 4 しゅ收錄しゅうろく時間じかん範圍はんい縱貫じゅうかん作者さくしゃ一生いっしょういん此可觀察かんさつ詩人しじん不同ふどう時期じき作品さくひん風格ふうかく特色とくしょく及心 歷程れきてい,如少年期ねんきてきあお浪漫ろうまんぜん青年せいねんてきごうじょうたけしこころざしこう青年せいねん感懷かんかいきず嘆、壯年そうねんてき 成熟せいじゅく穩健おんけんあずかろう年期ねんきてき心願しんがんとくつぐなえ。綜而ごと詩集ししゅうちゅう富有ふゆう強烈きょうれつてきかんぞく情感じょうかん無論むろんたい 時局じきょくこくぞくてきせきなつけある自我じが生命せいめいてきかんさとるていげん知識ちしき分子ぶんししょじん統治とうちてき心境しんきょうはつれんため臺灣たいわんにち時代じだいさんだい詩人しじんいちなみひさげ臺灣たいわんかい革新かくしんろん此詩しゅうまた ざい臺灣たいわんかん文學ぶんがくちゅう具有ぐゆう經典きょうてんせい地位ちい[24]

鴉片あへん有益ゆうえきろん[编辑]

鴉片あへん有益ゆうえきろん》,またたたえ臺灣たいわん阿片あへん特許とっきょ問題もんだいよりどころせつれんよこためてん稿こううつしさく此文,ためこび,遭受抨擊,僅被逐出だいちゅうしゃくぬぎしゃ」,台灣たいわんつかまつしん也不ねがいあずかこれ交流こうりゅう隔年かくねんれんよこ便びんうつりきょ於中こくさいよんねんびょう上海しゃんはいれんよこ一生いっしょう投身とうしん著作ちょさくただし鴉片あへん有益ゆうえきろん》一文猶如一生的污點。[25]

注釋ちゅうしゃく[编辑]

  1. 根據こんきょおうけいおととう(1992,37)てき整理せいり當時とうじめんじょう流通りゅうつうてき台灣たいわん通史つうしたち11しゅ版本はんぽん

家族かぞく[编辑]

れんよこためれんとくせいだいさんめいれんおもおくゆうけいれんじょう(连重ひろし)、连重こくおとうと连重廷。よりどころ《马崎连氏ぞく谱》てきたいみなみ马兵营连けい图〉記載きさいただゆうれんよこゆう後代こうだい[26]

れんよこあずかあんけい樟腦しょうのう鉅子沈鴻すぐるこれおんな沈璈せいさんじょいちなん分別ふんべつため長女ちょうじょなつ甸(よめきゅう銀行ぎんこうはやしはくそう,其女はやし文月ぶんげつ)、次女じじょ春臺しゅんだい長子ちょうしふるえひがしさんじょあきかん

れんよこ,沈璈とうもたれみんこく28ねん3がつ1にち歿於西安しーあんとおることぶき66さいそう西安しーあん南郊なんこう清涼寺せいりょうじつくり,「とくのこかおるぱいろう[10]

かずれんよこ相關そうかんてき史料しりょうあずか研究けんきゅう[编辑]

(按照作者さくしゃ姓氏せいし漢語かんご拼音順序じゅんじょ排列はいれつ

  • 國立こくりつ政治せいじ大學だいがく文學ぶんがくいんへん,1997,中國ちゅうごく近代きんだい文化ぶんかてきかい構與じゅうけんれんよこだい二屆中國近代文化問題學術研討會論文集。台北たいぺいひねひゃくねん先生せんせい學術がくじゅつ基金ききんかい
  • はやし玉体ぎょくたい,1997,「台灣たいわんじん也」:ろんれんまさどう先生せんせい鄉土きょうどみとめどう大學だいがくほう:人文じんぶんあずか社會しゃかい科學かがくるい 42:1-12。
  • じょ千惠ちえ,2002,にち時期じきだいじんたび外遊がいゆう析論:以春生はるおれんよこはやしけんじどう濁流だくりゅうゆうため分析ぶんせきじょういき國立こくりつ臺灣たいわん師範しはん大學だいがく國文こくぶん研究所けんきゅうじょせき論文ろんぶん
  • ちょうしず茹,2003,以林せんれんまさどうひろし棄生、しゅうじょうやまてき上海しゃんはい經驗けいけんろん其身ぶんみとめどうてきついひろ國立こくりつ台灣たいわん師範しはん大學だいがく國文學こくぶんがくけい博士はかせ論文ろんぶん
  • てい喜夫よしお,1978,台灣たいわん先賢せんけんさきれつせん輯(だいいち輯):れんまさどうでんたいちゅう台灣たいわんしょう文獻ぶんけん委員いいんかい
  • 美玲みれい,2000,れんまさどう文學ぶんがく研究けんきゅう台北たいぺい文津ふみつ出版しゅっぱんしゃ
  • おうきよしほう,1994/9,〈試論しろんれんまさどうてきすみかん及其相關そうかん問題もんだい〉,《臺灣たいわん文獻ぶんけんだい45かんだい3
  • 台湾たいわん瑰宝—台湾たいわん历史がく连横页面そん档备份そん互联网档あん
  • れんよこ,1920-1921,台灣たいわんどおりさんさつ)。台北たいぺい台灣たいわん通史つうししゃ
  • 台灣たいわん銀行ぎんこう經濟けいざい研究けんきゅうしつ編輯へんしゅう,1962,台灣たいわんどおりろくさつ)。台北たいぺい台灣たいわん銀行ぎんこう經濟けいざい研究けんきゅうしつ
  • れんよこ,1963,台灣たいわんてん よんかん台灣たいわん銀行ぎんこう經濟けいざい研究けんきゅうしつ編輯へんしゅう台北たいぺい台灣たいわん銀行ぎんこう經濟けいざい研究けんきゅうしつ
  • 台灣たいわんしょう文獻ぶんけん委員いいんかい,1992,れんまさどう先生せんせい全集ぜんしゅうみなみとう台灣たいわんしょう文獻ぶんけん委員いいんかい

評價ひょうか[编辑]

2021ねん3がつ27にち 连横《台湾たいわん通史つうし》转译しろ话文项目启动 两岸学者がくしゃ加盟かめい

やめ學者がくしゃとき曾評ため卓越たくえつてき史學しがくけん文學ぶんがく[27]

1950ねん3がつ25にち蔣介せきあきられい褒揚」台灣たいわんやめ史學しがくれんまさどう[28]:309

曾任中華民國ちゅうかみんこく教育きょういく部長ぶちょう中國ちゅうごく國民黨こくみんとう秘書ひしょちょう中華民國ちゅうかみんこく總統そうとうせいとう要職ようしょくまたため中國ちゅうごく文化ぶんか大學だいがく臺北たいぺい私立しりつはなおか藝術げいじゅつ學校がっこうそう辦人ちょう其昀たい於連よこゆう這樣てき評價ひょうか:「まさどう著書ちょしょゆういち中心ちゅうしん觀念かんねん,這就儒家じゅかてきじんほん哲學てつがくざい通史つうし自序じじょうらせつどう:「おもんみじんおもんみこう義勇ぎゆう奉公ほうこう,以發揚はつようしゅせい,此則侫之のぼり也。」まさどう以「おもんみじんおもんみこう義勇ぎゆう奉公ほうこう」八個字來表章臺灣精神;臺灣たいわんじん中華ちゅうか民族みんぞくてき精華せいか臺灣たいわん精神せいしん也就わが民族みんぞく精神せいしんてき結晶けっしょうじん就是古人こじん所謂いわゆるじんみんあいぶつ」、「みん胞物あずか」,也就まさどう先生せんせい所謂いわゆる愛國あいこくしゅてき意思いしこう就是こう於民ぞく,也就古人こじん所謂いわゆる創業そうぎょうたれすべつぎ往開らいてき意思いし義勇ぎゆう就是「義勇ぎゆうためてき意思いし以生いさむ,,いさむ以成勇者ゆうしゃ不可ふか以言よししゃ不可ふか以語いさみおもんみ義勇ぎゆうはじめのう獻身けんしん報國ほうこくころせ身成みなりじん,以弘あつしとく確保かくほ國家こっかてき人格じんかくあずか民族みんぞくてき生命せいめい。邱逢かぶとうん:「古人こじん義士ぎしとうじん」,誠哉せいや斯言。おおやけ就是れいうん大同だいどうへん天下てんかためこう大義たいぎ使つかいようゆう所長しょちょうたけしゆう所用しょようろうゆうしょやしなえ。」「貨惡其棄於地也,必藏しょおのれりょくあく其不於身也,必為おのれ。」這些たからくん便びん奉公ほうこうてき精義せいぎ,也是わが歷代れきだい建國けんこくてき理想りそうまさどう提出ていしゅつはち以說就是まさどうてき歷史れきし哲學てつがく,值得わが深切しんせつおもえ維的。」(はらななじゅうななねんさんがつ中外ちゅうがい雜誌ざっしさんごう

2015ねん2がつ21にちたい南公園みなみこうえん內的れんよこ銅像どうぞう發現はつげん四面均遭人噴漆ぬりからす。其中正面しょうめんうつしちょ阿片あへん有益ゆうえき健康けんこう」;がわ身上しんじょううつしちょ子孫しそん不肖ふしょう」、「先人せんじんこび後人こうじんこびともとう,另一面及背面被寫上「一流いちりゅう葯頭三流さんりゅう史家しか」。あきらかたざいもう路上ろじょう引起話題わだい,甚至ゆうもうみん諷其「ちゅう肯」。[29][30]

相關そうかん條目じょうもく[编辑]

參考さんこう資料しりょう[编辑]

  1. ^ れんまさどう先生せんせい暨夫じんはか 互联网档あんてきそんそん档日2014-07-14.
  2. ^ またさくまさ,《みん國連こくれんまさどう先生せんせいよこ年譜ねんぷ》:「まご中山ちゅうざんわがれんよこ便びんさけべ做武こうぶん一武いちぶかくざい南北なんぼく。」
  3. ^ えびす殿どのおおとりみなみ溟隨ひつ》:「先生せんせい嘗蓄いちけんゆうごう。」
  4. ^ にち台灣たいわん·れんよこ,《まさどう文集ぶんしゅう》(まき2):“やすしみなみもん內有兵營へいえいしゃていちゅうぶし也。じょう而居,さかいぜっかそけしずか自我じが始祖しそそくしょ於是,及余やめななせい矣。”
  5. ^ 台灣たいわんびょうこう連戰れんせん傳奇でんき页面そん档备份そん互联网档あん)》いちしょ
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  7. ^ つばめひらめあやか琳,れん橫家よこやあずか家風かふう華僑かきょう大學だいがくがくほう哲學てつがく社會しゃかい科學かがくばん)2020ねん2,2020ねん4がつぺーじ80
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  11. ^ ちょうえんけん筱峯、そうえいあきら. 《臺灣たいわん近代きんだい名人めいじん》. 臺灣たいわん: 自立じりつばんほう. 1987. ISBN 9789575960865 ちゅうぶん臺灣たいわん)). 
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  21. ^ みん新聞しんぶんもう》,nd,〈台灣たいわん通史つうし作者さくしゃれんまさどう出生しゅっしょう〉 [online]。台北たいぺい民間みんかんぜんみんでん公司こうし。[引用いんよう於 2005ねん5がつ2にち]。ぜんたま訊網もうそん副本ふくほん. [2005-05-02]. (原始げんし内容ないようそん档于2005-03-11). 
  22. ^ れんよこ臺灣たいわん通史つうし》:「わが始祖しそきょう公生きみお於永れきさんじゅうゆうねんえつ,而明ついたちほろび矣。しょう遭憫きょうちょうふところかくれ遯,とげ龍溪りゅうけいとおうつり鯤海,しょ於鄭るい,迨余やめななせい矣。まもり璞抱さだだいゆうせんとく稽古けいこ讀書どくしょおうこころみぶたなおゆう左衽さじんやめ也。」
  23. ^ 字源じげんあずか流俗りゅうぞくげんてき迷思—したがえ臺灣たいわんてんだい漢字かんじてき規範きはん道路どうろ〉,姚榮まつ台灣たいわん大國たいこく文系ぶんけい
  24. ^ けんはなしつ詩集ししゅう. https://db.nmtl.gov.tw. [2022-03-03]. (原始げんし内容ないようそん档于2022-03-03).  外部がいぶ链接存在そんざい|website= (帮助)
  25. ^ こび日成いるそん一生いっしょうてき污點 れんよこ鴉片あへん有益ゆうえきろん全文ぜんぶん. さんたて新聞しんぶんもう. 2014-11-19 [2019-09-12]. (原始げんし内容ないようそん于2020-03-02) ちゅうぶん臺灣たいわん)). 
  26. ^ 龙海马崎连氏ぞく谱编纂小组. 《马崎连氏ぞく谱》. 中國ちゅうごく: 龙海马崎连氏ぞく谱编纂小组. 2006 ちゅうぶん中国ちゅうごくだい陆)). 
  27. ^ 台灣たいわん大學だいがく教授きょうじゅときかたり,引自ちんやわら,1999ねん
  28. ^ ちょうすぐるひとし. 《20世紀せいき臺灣たいわんぜんろく》. 台北たいぺい: にしき出版しゅっぱんしゃ. 1991. 
  29. ^ れんよこ銅像どうぞう噴漆「子孫しそん不肖ふしょうもうとも諷:ちゅう页面そん档备份そん互联网档あん),自由時報じゆうじほう
  30. ^ れんよこ銅像どうぞう遭塗からす 警方つい查噴うるししゃ页面そん档备份そん互联网档あん),自由時報じゆうじほう

書籍しょせき[编辑]

  • てい喜夫よしお. れんまさどう先生せんせい年譜ねんぷ. 臺灣たいわんしょう文獻ぶんけん委員いいんかい. 1992 [2022-07-25]. (原始げんし内容ないようそん档于2022-05-17). 
  • れんよこ. 《まさどう先生せんせいしょ》. 《れんまさどう先生せんせい全集ぜんしゅう》. みなみとう: 臺灣たいわんしょう文獻ぶんけん委員いいんかい. 1992. 

外部がいぶ連結れんけつ[编辑]