ふくしゅう (开元)

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重定しげさだこう泉山いずみやまへい
ふくしゅう(957ねん

ふくしゅうざいいま福建ふっけんしょう境内けいだい设立てきいちしゅう

とう开元じゅうさんねん(725ねん),あらため闽州おけしょざい闽县今福いまふくけんしょうふくしゅう)。为ぶく州都しゅうととくぶく州都しゅうととくはじめかんさんしゅうふくしゅうけんしゅう丰州みなみやすぐんあらため);继而かんしゅうふくしゅうけんしゅう泉州せんしゅう(丰州あらため即今そっこん泉州せんしゅう)、なぎさしゅう漳州,五州之下设三十五县(きさきまた并为じゅうよん县)[1]。《元和げんなぐん县志》载:ふくしゅういんしゅう西北にしきた福山ふくやま为名”。ふくしゅう辖境しょう当今とうこん福建ふっけんしょうゆうけいきたゆうけいこう镇以东的闽江流域りゅういき古田ふるたへいみなみぶくやすぶくかなえとう县以东地区ちく

开元じゅうさんねん(725ねん),おけぶく州都しゅうととく

开元じゅうきゅうねん(731ねん),ふくしゅうおけ泉山いずみやまへいひだり卫营、みぎ卫营,きょう1200にん[2]

天宝てんぽう元年がんねん(742ねん),あらため长乐ぐんいぬいはじめ元年がんねん(758ねん),复为ふくしゅううえもと元年がんねん(760ねん),ぶく州都しゅうととくかず福建ふっけん防御ぼうぎょ使ごう并,しょうおけふくしゅう节度使だいろくねん(771ねん),罢福しゅう节度使おけ福建ふっけん团练观察处置使(简称福建ふっけん观察使)。きさきはり开平さんねん(909ねん),きさきりょうふとししゅあつしふうおう审知为中书令、闽王ますふくしゅうふくしゅうだいとくさく闽国くに。闽龙启元年がんねん(933ねん),あらためふくしゅうだいとく长乐。闽天德てんとくさんねん(945ねん),闽国灭亡,长乐废,恢复ふくしゅうけんおけひとしたん暂割すえ(945ねん—947ねん)时,恢复威武いぶあずかふくしゅう并存。きさきいぬいゆう元年がんねん(948ねん),吴越しょうひとし达的わりすえ势力。きさきしゅう广顺元年がんねん(951ねん),吴越あらため威武いぶぐん为彰たけぐんきたそう太平たいへい兴国ねん(977ねん),あらためあきらたけぐん威武いぶぐん太平たいへい兴国さんねん(978ねん),吴越くだきたそう同年どうねん威武いぶ军改为两浙西南せいなんふくしゅう隶之。

だいきさき辖境缩小。宋朝そうちょう时为福建ふっけんみなみそうけいえん元年がんねん(1276ねん),はしむね即位そくい于此,あらためぶくやすさくくだりざいもといたりもとじゅうよんねん(1277ねん),复为ふくしゅうじゅうねん(1278ねん),ますふくしゅうそうもと以来いらいうみ舶前往东南亚各地かくちつねよし此出うみ

からちょうふくしゅう辖县
725ねん 闽县[3]长乐县[4]连江县[5]まんやす[6]ほうかん[7]ゆたかあさ[8]
741ねん 闽县长乐县连江县まんやすほうかんゆたかあさしんぞう古田ふるた[9]ゆうけい[10]
742ねん 闽县长乐县连江县[11]まんやす改名かいめいぶくから)、ほうかんゆたかあさ改名かいめい长溪县)、古田ふるたゆうけい
760ねん 闽县长乐县[12]连江县ぶくからほうかん长溪县古田ふるたゆうけい
766ねん 闽县长乐县连江县ぶくからほうかん长溪县古田ふるたゆうけいしんぞうえいやすし[13]
808ねん 闽县连江县ぶくから长溪县古田ふるたゆうけいえいやすし(废除ほうかん长乐县
810ねん 闽县连江县ぶくから长溪县古田ふるたゆうけいえいやすし(复设ほうかん[14]长乐县
861ねん 闽县连江县ぶくから长溪县古田ふるたゆうけいえいやすしほうかん长乐县しんぞう梅溪ばいけい[15]
からちょうふくしゅう刺史しし

参考さんこう文献ぶんけんちゅう[编辑]