王おう受(?—1683年ねん),南明なんめい永えい曆れき年間ねんかん將領しょうりょう,延のべ平たいら王おう鄭てい成功せいこう部將ぶしょう,官かん至いたり「右みぎ提督ていとく後ご鎮」。
王おう受效命いのち於明あきら鄭てい東あずま寧やすし政權せいけん,永なが曆れき三さん十じゅう七なな年ねん(1683年ねん)6月がつ22日にち,清朝せいちょう水みず師し於施ほどこせ琅指揮しき下か於澎湖同どう鄭てい軍ぐん海戰かいせん,王おう受奉命いのち與あずか諸しょ將しょう合力ごうりょく抗こう擊げき清きよし兵へい來らい犯おかせ,然しか而鄭軍ぐん於戰事ごと中ちゅう潰つぶせ敗はい,劉りゅう國こく軒のき乘の小しょう快かい船ふね逃逸,王おう受所在しょざい的てき戰せん船せん亦また為ため清きよし軍ぐん炮火擊げき沉,因いん而身殞殉難なん,全ぜん役やく損そん兵へい一いち萬まん二に千せん有ゆう奇き、沉失大小だいしょう師し船せん一いち百ひゃく九きゅう十じゅう四よん艘そう。[1][2]