盛もり允まこと(?—?),字じ伯はく世よ[1],东汉时期人物じんぶつ,梁はり国こく虞おそれ縣人けんじん。[1]
盛もり允まこと官かん至いたり大だい鸿胪。汉桓帝みかど延のべ熹二に年ねん(159年ねん)八はち月がつ,权臣梁りょう冀被ひ诛杀,太ふとし尉じょう胡えびす广、司つかさ徒と韓かん縯和司かずし空そら孫まご朗ろう因いん为依附ふ梁はり冀被贬为庶人,汉桓帝みかど以黄き琼为太ふとし尉じょう,祝しゅく恬为司徒と,盛もり允まこと为司つかさ空そら。延のべ熹三さん年ねん(160年ねん)六ろく月がつ,祝しゅく恬卒,七なな月がつ,盛もり允まこと继任司つかさ徒と。延のべ熹四よん年ねん(161年ねん)二に月がつ,因いん为南宫嘉德よしのり殿どの火ひ灾,司つかさ徒と盛もり允まこと免めん职,种暠继任司つかさ徒と。盛もり允まこと后きさき在家ざいけ中ちゅう去さ世よ。