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鄭森 (越南) - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

ていもり (こしみなみ)

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ていもり
こうはじむあさていぬし
前任ぜんにんてい
つぎにんてい
鄭森 (越南)
てい家正いえまさちゅうてきていもり畫像がぞう
やすしおう
(1767ねん—1782ねん
國家こっか大越おおこし
時代じだいはじむ中興ちゅうこうあさ
主君しゅくんはじむ顯宗けんそう
ふうごうやすしおう
尊號そんごうもりおう
ていりょう國府こくふ
出生しゅっしょう1739ねん3がつ18にち
えいたすくねんがつはつきゅうにち
逝世1782ねん10がつ19にち(1782さい—10—19)(43さい
けいきょうよんじゅうさんねんきゅうがつじゅうさんにち
庙号せい
はかそう安定あんていけんていぶくしゃ
おやぞく
父親ちちおやてい
母親ははおや阮氏だま
正室せいしつだまかおる
楊氏だま
側室そくしつ鄧氏蕙
兄弟きょうだいてい
姊妹ていだまじゅん
ていだまけい
ていだま
おんなたまうつ公主こうしゅていだま𣡵
たまらん公主こうしゅていだません
嫡子ちゃくしてい
庶子しょしてい
其他おやぞくいもうとおっと
はじむ維禕
ぶん廷(亻恭)
女婿じょせい
裴世とげ
鄧廷麟
1753ねんりつ世子せいし
1758ねん欽差節制せっせいかくしょすいしょ營兼てのひらせいふとしじょう靖國やすくにこうひらきりょう國府こくふ
1767ねんすすむふう元帥げんすいそう國政こくせいやすしおう
1769ねんすすむふう大元帥だいげんすいそう國政こくせいうえやすしおう
1770ねんすすむふう大元帥だいげんすいそう國政こくせいじょうなおちち睿斷ぶんこう武德ぶとくやすしおう

ていもりえつみなみTrịnh Sâmていもり;1739ねん3がつ18にち—1782ねん10がつ19にち[1]これこしみなみこうはじむあさてき重要じゅうよう政治せいじ人物じんぶつ,也是てい政權せいけんてきだいじゅうだい領袖りょうしゅう(1762ねん-1782ねん)。ふうごうやすしおうえつみなみTĩnh Đô vươngやすしおう)。

生平おいだいら

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おう世子せいし期間きかん

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ていもりただしていてき次子じしえいたすくねんがつはつきゅうにち(1739ねん3がつ18にち出生しゅっしょう。《すめらぎはじむ一統いっとうこころざし中稱ちゅうしょうていもりためじんつよしあきら英斷えいだん智慧ちえひとゆう文才ぶんさい武略ぶりゃく博覽はくらんけいこうため詩文しぶん。」

根據こんきょ大越おおこし史記しき全書ぜんしょ續編ぞくへんてき記載きさいていもりかえおう世子せいしてき時候じこう愛好あいこう文學ぶんがく,而且ゆう儒家じゅか修養しゅうよう。而皇太子たいしはじむ維禕也是很有ざいはなてきじんいん此鄭もりてき父親ちちおやてい非常ひじょうじゅうはじむ維禕,はた女兒じょじよめきゅうりょうとう太子たいし[2]てい楹是非常ひじょう重視じゅうし君臣くんしん關係かんけいてきじんみとめため自己じこしん而後はじむちょう皇帝こうていただしくんゆう一次黎維禕與鄭森一起謁見鄭楹,てい楹設えん招待しょうたいはじむ維禕。てい楹的正妃せいひ阮氏だまみとめためおう世子せいしあずか皇太子こうたいしあいだてき君臣くんしん關係かんけい曖昧あいまい不能ふのうざいいちおこりどもめしいん此把ていもり趕了したがえ此以ていもり就與はじむ維禕ゆう很深てき矛盾むじゅん

けいきょうじゅうきゅうねん(1758ねんふゆじゅうがつてい楹加ふうていもりため節制せっせいすいしょぐんふとしじょう靖國やすくにこう,此後てき國家こっかつとむだい委任いにんていもり裁決さいけつ[3]

執政しっせい期間きかん

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けいきょうじゅうはちねん(1767ねん),てい楹病逝,ていもり繼承けいしょうちちぎょうすすむふうため元帥げんすいそう國政こくせいやすしおう[4]ざい嗣位はつ天災てんさいしゅうずみわざわいみん[5][6][7]、併省府縣ふけん以糾ただしかんみん擾」へい[8]改革かいかく宗人むねと敘用ほう和國わこくがくこうほう[9][10],以各種かくしゅ新政しんせいおさむ攏了こく內的人心じんしん

けいきょうさんじゅうねん(1769ねんさんがつていもり誣陷皇太子こうたいしはじむ維禕與てい楹的わらわどおりかんさこ使つかいはじむ顯宗けんそうはたはじむ維禕はい黜幽きんあらためりつ親近しんきんていてき顯宗けんそう次子つぎこはじむ維𬓑ため皇太子こうたいし[11][12]同年どうねんはちがつていもりすすむふうため大元帥だいげんすいそう國政こくせいうえやすしおうけいきょうさんじゅういちねん(1770ねん),さいすすむふうため大元帥だいげんすいそう國政こくせいじょうなおちち睿斷ぶんこう武德ぶとくやすしおうけいきょうさんじゅうねん(1771ねん),ていもりまたはたはじむ維禕及其とう殺害さつがいはじむ維禕てき子女しじょみなしゅうきん人稱にんしょう其「しつみこと扶之れい」。

同年どうねん(1771ねん),こしみなみ南方みなかたゆかり權臣けんしんちょうぶくせんせい發生はっせい西山にしやまおこりよし阮氏政權せいけんてき統治とうち地位ちい開始かいし動搖どうよう[13]ていもり阮氏政權せいけんややおとろえ落,聯合れんごう西山にしやまぐんてき阮惠,於景きょうさんじゅうねん(1774ねんじゅういちがつじゅうにちぶくためはた發動はつどうりょう征討せいとう阮主阮福あつしてき戰爭せんそうけいきょうさんじゅうろくねん(1775ねんがつていぐん一舉攻破了阮主的都城とみはるいま順化じゅんか),ていもり授黃五福ごふくためだい鎮撫ちんぶ」并賜ぎんせんりょうろうぐん[14]ただし同年どうねんいんぐんちゅう爆發ばくはつ瘟疫,ていぐん主力しゅりょく撤出ますはな、奠磐りょうため西山にしやまぐん所得しょとく[15],而其あまり順化じゅんかじゅうろく萬畝田地和十二萬六千的人口則屬鄭主政權所有[16]

ちゅう晚年ばんねん

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けいきょうさんじゅうはちねん(1777ねん),阮氏政權せいけん首領しゅりょう阮福あつし阮福暘ざいよしみじょうえいたかし一帶いったい阮惠とりこころせこう南國なんごく政權せいけん覆滅ふくめつていもり意識いしきいた西山にしやまちょうはた未來みらいてい政權せいけんてき最大さいだいおびえ,於是扶持ふち阮福うつためしゆずるじゅうてのひらこうみなみ政權せいけん。此時西山にしやまちょうせいあずか阮主交戰こうせんひま進攻しんこうていていもりざい內平外征がいせいしもこころざし得意とくい滿まんいん而漸せい篡奪こころざしざい同年どうねんふゆじゅうがつ派出はしゅつ使者ししゃぜん清朝せいちょう企圖きと上表じょうひょう以「はじむけん子孫しそんためゆかりけんじまいない請求せいきゅう清朝せいちょうあらためりつていもり為安ためやすみなみおもただし陰謀いんぼうちゅうこうはじむあさてき使臣ししんたけひねくじけはい[17]

ずいちょていもりにちえきねんおい繼承けいしょう人的じんてき問題もんだい也變とく亟待解決かいけついち共有きょうゆう兩個りゃんこいち嫡出ちゃくしゅつてき長子ちょうしてい,另いち庶出しょしゅつてき次子じしていてい棕喜たけ好文よしふみていもり非常ひじょう討厭相反あいはんてい檊是ていもりちょう鄧氏蕙所生しょせい,而且ねんようさとし穎,容貌ようぼう俊美としみ而極とくていもり寵愛ちょうあいてい棕害怕鄭檊日だつけん而在けいきょうよんじゅういちねん(1780ねん)趁鄭もりとくびょう陰謀いんぼう發動はつどう政變せいへんただし卻被ていもり得知とくちはた其廢ため季子としこかそけきんあらためりつてい檊為世子せいしたい阮氏すすむていもりひとしいたてい棕成ねん以後いご其表現在げんざいぎょう廢立はいりつことただしていもり聽,こえたたえやすしねがいていもとぎょうでんきゅう侄兒てい江山えやまかえきゅう伯父おじていゆずりはてき後代こうだい,也不能ふのうりつてい棕這さまてき不肖ふしょう[18]。往後,ていもり痼疾こしつまといいん而居於深みやなか朝政ちょうせい大事だいじちょう鄧氏蕙的家族かぞく大臣だいじん廷寶とうひと主持しゅうもち[19][20]

けいきょうよんじゅうさんねんきゅうがつじゅうさんにち(1782ねん10がつ19にち),ていもりびょう逝,遺命いめいゆずる自己じこ次子じしてい檊繼ゆかり廷寶とうななにん輔政。びょうごうせいえつみなみThánh Tổせい),みことふうためもりおうえつみなみThịnh Vươngもりおう),該尊ごうていもり生前せいぜん指定していてき歷代れきだい累加るいかため紹天きょううん制治せいじひらき疆洪りょうえい猷正まこと仁孝にんこうもりおう[1]ただしひささんぐん就在昇龍しょうりゅう發動はつどう叛亂はんらんてい檊被ていもりてき長子ちょうしてい棕推こぼし

えつみなみてき小說しょうせつすめらぎはじむ一統いっとうこころざしちゅう,一方面肯定鄭森整頓國政朝綱和攻滅こうみなみ阮主てき功績こうせき。另一方面則把鄭森後期倦勤驕侈、肆意しい娛樂ごらくはいちょうたてよう廢嫡はいちゃくりつ庶的行為こういさくてい政權せいけん滅亡めつぼうてき開始かいし

家族かぞく

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  • 兄弟きょうだいあねいもうと
    • あにさとしとしおおやけてい[1]
    • おとうと:紹郡こうてい[22]
    • いもうと長上ちょうじょうせんはな公主こうしゅていだまじゅんよめ太子たいしはじむ維禕[23][1]
    • いもうとぐんぬしていだま𣞶(よめあきらたけこうたけ廷明[1]
    • いもうとぐんぬしていだまけいよめてんこおりこう廷寶[1]
    • いもうとぐんぬしていだま棪(よめきょうたけこう阮廷きょう[1]

腳註

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  1. ^ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 南風みなみかぜごうかんだい廿にじゅうかん·だいいちひゃくじゅう·〈ていつづけ)〉
  2. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅう):「〈きのえさるじゅうねんきよしいぬいたかしじゅうきゅうねんはる正月しょうがつ立子たつこ維禕ため皇太子こうたいし。維禕,みかど長子ちょうし也,あきら睿好がくてい楹甚れい重之しげゆきいたりたてため太子たいし。」
  3. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅう):「ふゆじゅうがつてい楹以其子もりため節制せっせいすいしょぐんふとしじょう靖國やすくにこうもりすんでしんふうじひらくあきら國府こくふ國家こっかつとむ,悉委裁決さいけつ。」
  4. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅう):「てい楹卒,其子もり自立じりつため元帥げんすいやすしおう。」
  5. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅうさん):「もりはつかさねよくこうめぐみ以悅百姓ひゃくしょうたつ淫雨いんうとめれいめんきよし乂本ねん租庸、四鎭加租十之五、そと租庸調そようちょうじゅうまた赦積ねん逋欠及贖ばつとうぜに。」
  6. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅうさん):「これがつけいしゅんあめていもりちかし禱于敬天けいてんろうれい內外かくうえふうごと。阮伯璘上ごと:「人君じんくん政事せいじあずかてんしょうためかんどおりこんはつせいむべたかし寬厚かんこう,乞敍ろくあつしはん漌,以振ひさこごめひろし贖罰,すくい流亡りゅうぼう,以蘇みん瘼。庶可おさむ人心じんしん,而答天譴てんけん。」もり以爲しかふくあつしためさむらいしょせいろくひん〉、漌爲きゅうごとちゅうしたがえはちひん〉。ひろいのちもろちょうなでかくうえ所轄しょかつひん漂疾じょうけん往勘,かん民閒みんかんこう稼者,及訪しょ在民ざいみんかくれ以聞。またりょう赦諸損失そんしつ四分以上正租加租錢一萬四千餘緡,あわさんせんあまり簍。以前いぜん逋税,みな蠲免。」
  7. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅうさん):「乂安及京きた山西さんせい山南さんなんしょ鎭,米價べいか騰貴とうき人民じんみん饑饉ききんひゃくぜにきょういち飽。ていもり以爲ゆう,召輔しん救荒きゅうこうせいれい乂安鎭官,あかつきしめせしょ部民ぶみんにゅうあわ授職,いん以所にゅうにぎわい貧民ひんみんしょ鎭憲おとずれ民閒みんかんやましにがきんしょじゅんわたりよこせい。於是商賈しょうこ貿遷壅,米價べいかややげんまたいのちきよしはな富民とみんにゅうあわ,貯乂安倉あぐらりょう官職かんしょくゆう。」
  8. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅうさん):「倂省府縣ふけんていもり以百姓彫耗,かんみん擾,おもえかわ其弊。れいぎょう倂省,凡よんじゅう九州きゅうしゅうけんなみれいざいきん府縣ふけんずい便びんけん。」
  9. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅうさん):「もり定宗さだむねじんじょ用法ようほういのち宗人むねとしん閱其じん以臨民治たみじことしゃおく銓部,さい毋過にん功臣こうしんげん授實しょくれいしゃつきやからよし倖冒へいやややから矣。」
  10. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅうさん):「ていもりいいしょしん曰:「學校がっこうそだてざい帝王ていおう莫不以是ためさき國家こっか列聖れっせい相承そうしょう敎法きょうほうだい備,せんけん舉德,とく人爲じんい。邇來文體ぶんたいややへん,摛繪なり習。いまおもえかわ夙弊,すすむそだて成就じょうじゅ,以收得しゅうとくじんこう。」乃令さいしゅつかさぎょう就太がくかいしょせいこうけいがつ以朔もち肄習,さい以四なかこう閱,いちためしほうゆう學問がくもんゆうちょう文章ぶんしょう淹貫しゃ,以名聞みょうもん,擢授官職かんしょくがい,以承提督ていとくがくせいこうかん教諭きょうゆかんよんなか考課こうか國學こくがくこうほうこうかん勤怠きんたいため陞黜。よし儒風やや焉。」
  11. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅうさん):「さんがつもりはい皇太子こうたいし維禕,かそけこれ...さきただし殿どの後山あとやま井中いなかゆるがせゆうごえ如雷,太子たいし懼必及難,げん於帝,みかどごと爲之ためゆきいのり禱。いたり太子たいしなんさく入居にゅうきょみかど寢殿しんでんてるじょう先入せんにゅう東宮とうぐうへん覔不とく。乃直にゅう殿中でんちゅうすう其罪じょう,且曰:「聞太子たいし匿陛寢殿しんでん,請捕おくあずかしん。」みかどだき太子たいし久之ひさゆきにん别。てるじょうちょう跪廷太子たいしめん,泣拜みかどまえ,趨出就縛しゅうばくおくいたりていてるじょうれい太子たいしだつかんむりまちざい太子たいし肯,曰:「廢立はいりつ弑逆しいぎゃくなんじ慣事,わがなにざい焉?やめゆう千秋せんしゅう靑史せいしざい。」もりかりみかどいのちはいため庶人,かそけこれごく。」
  12. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅうさん):「維𬓑,みかどだいよん也。太子たいし維禕すんではい,維𬓑出入でいりていこともりははたい阮氏甚謹,もり奏請そうせいりつ。」
  13. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅうよん):「もりきょう、鎭寧すんでひらめ,狃勝こう,冀圖非望ひぼう。聞我順化じゅんかゆう權臣けんしんちょうぶく專恣せんし苛虐,ためみんしょ怨。またゆう西山にしやま阮文だけとうしょうらん于歸ひとしよくじょう釁以取大利おおとし。」
  14. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅう):「もり河中かわなか使阮<かけ>賚賜五福ごふく黃金おうごんひゃくりょうしょつげ曰:「こん順化じゅんかすんでひらめこうみなみとう以次じょう元老げんろうとう其責しゃ。凡調ばちなで諸事しょじむべなみ便宜べんぎ行事ぎょうじ。」またたまもの將士しょうしぎんせんりょうとげ畱五ぶくりょうだい鎭撫ちんぶもり引還。」
  15. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅうよん):「五福久次珠塢,疫作,ぐん士多した密計みっけいかえ。阮儼,阮令まろうどみなよく畱兵こうみなみしつらえかん鎭守ちんじゅ五福ごふくしたがえはせしょ請回順化じゅんか,畱廣みなみ以爲後圖こうともりもと。於是ます、奠二府復爲文岳所據。」
  16. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅう):「順化じゅんかけんはちしゅういちこうちゃ富榮とみえい廣田ひろたうみりょうのぼりあきら五縣隸肇豐府;ゆたか祿ろくきゅうやすし祿ろく〉、麗水れいすいあきられいあずかみなみぬのせいしゅう隸廣たいら各項かくこう人數にんずうじゅうまんろくせんはちひゃくじゅうゆうなな公私こうし田土たどうねすうじゅうろくまんせんひゃくゆうななじょはやしふもと墓地ぼちえんたく、潭池、かんてら及枯燥畱あらがいじつちょううねすうじゅうまんさんせんいちひゃくはちじゅうゆういち。」
  17. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅう):「ふゆじゅうがつ吏部ひだりさむらいろうたけひね紹等如淸。もりすすむゆう篡立こころざしねんさいみつげもりひそかおもて于淸,ことはじむけん子孫しそんしょくひね紹以ごとにゅうそう,而使內監〈めいせいかけあずかこれぎょうけんじまいないもとめふうひね紹行いたりほらにわたくびょうよるたい使つかい部將ぶしょうひょう焚之,いんおおせやくそつこう追贈ついぞう尚書しょうしょ。」
  18. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅう):「〈からしうしよんじゅうねんきよしいぬいたかしよんじゅうろくねんふゆじゅうがつもりたて少子しょうし檊爲世子せいし。檊初ざい襁褓おしめとくやまし肢體したい羸削,調しらべ累年るいねんこう楷得ざいやまいややひろし,疹痘又順へきじゅんもり以爲中外ちゅうがいしょうみなすすむもりはやたてため嗣,以いちにんしんもりしたがえこれもりははていふとし阮氏げん於森曰:「楷、檊皆まご也。楷年ちょう而檊ねんようまただき恙,ねがいおう以廟しゃ爲重ためしげ,且虛其位,庶幾しょき楷有悛心。しかまち檊長なりばん也。」もり曰:「國家こっか大事だいじただよう付託ふたくとくじん使つかい檊疾おわりおこりやすしたて槰以還はく正系せいけいやすしたく不肖ふしょう也。」ゆかりたいふくごともり乃奏請立檊爲世子せいしたつねんさい,以暉ぐんおおやけ廷寶ため阿保あぼもりとくびょう深居ふかい不出ふしゅつ,鄧氏居中きょちゅう用事ようじとうかくよりどころ要地ようち,檊又以冲ねんため嗣,にんみな危之。」
  19. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅう):「もりすうねん以來いらい,夙疾屢發,さいおびえふうあつつねきょふかみやひる日傳にちでんしょく大朝おおあさかいつねいたりやましうたてげき;鄧氏日夜にちやざいがわ大臣だいじんおもんみ廷寶、めいたれ、廷珠とうすうにんとく出入でいり。」
  20. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきよんじゅう):「もり以承平日へいじつひさし禁令きんれいたゆしょつかさあるゆう肆行ほうれい奉天ほうてんいん巡行じゅんこう畿內しょ鎭,憲司けんじ巡行じゅんこう所轄しょかつ,查有かりかりしるし一切いっさい勾差、冗擾、りょうわきしょ事情じじょうまちひと訴,たてそく逮治。わかかしこ避淹畱,ことはつかくしたがえ輕重けいちょう貶罷。しか內則鄧氏,そとそく廷寶,表裏ひょうり交締,凡勢ようわたるいえ門下もんか有事ゆうじいたかん所司しょししょう,推托吞聲而已。
  21. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ續編ぞくへん》1154ぺーじ
  22. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ續編ぞくへん》1165ぺーじ腳註
  23. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ續編ぞくへん》1147ぺーじ
  24. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ續編ぞくへん》1170ぺーじ
  25. ^ 25.0 25.1 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ續編ぞくへん》1153ぺーじ
  26. ^ 26.0 26.1 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ續編ぞくへんちゅう王妃おうひさく「楊氏歡」、おさむようさく「鄧氏」;而在《すめらぎはじむ一統いっとうこころざしてきだいいちかいちゅう王妃おうひさく「楊氏だま歡」、おさむようさく「鄧氏蕙」。
  27. ^ 27.0 27.1 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ續編ぞくへん》1189ぺーじ
  28. ^ 28.0 28.1 すめらぎはじむ一統いっとうこころざし·だいいちかい
  29. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ續編ぞくへん》1194ぺーじ

參考さんこう資料しりょう

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ていもり
前任ぜんにん
てい
えつみなみはじむちょうていぬし
1767ねん-1782ねん
つぎにん
てい