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こうはじむあさ

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はじむおもえ誠治せいじてきはじむ

こうはじむあさえつみなみNhà Hậu Lê茹後はじむ),こしみなみてきいち朝代あさよゆかりはじむ於1428ねんてんけいさんねんあきらせんとくさんねん創立そうりつ国号こくごう大越おおこしまたたたえはじむあさ[1][2]すめらぎはじむひとし[3][4][5]こうはじむちょう以分ため前期ぜんき後期こうき兩部りょうぶ份。前期ぜんきあずかうらないじょう對峙たいじいたりょう後期こうき阮主ていぬしぶんよりどころ南北なんぼく對峙たいじはじむちょう皇帝こうてい僅為ていぬしてき傀儡かいらい

份越みなみてき歷史れきし學者がくしゃさきしょう1428ねんいたり1527ねんてき前期ぜんきしょうさくはじむはつあさえつみなみNhà Lê sơ茹黎はつ),こうしょう1533ねんいたり1789ねんてき後期こうきしょうさくはじむ中興ちゅうこうあさえつみなみNhà Lê trung hưng茹黎中興ちゅうこう),以示區別くべつ

歷史れきし

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こうあかり建國けんこく

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はじむ出生しゅっしょう於越みなみちんちょうしんはぶけ,其家族かぞく為當ためとう豪族ごうぞく。1407ねん中國ちゅうごく明朝みょうちょう南下なんか消滅しょうめつえつみなみえびすあさ,併吞えつみなみこおりけん其地,しょうだいおそれあずかあかり戰爭せんそう」。ただしざいやすみなみぞくあかり時期じき中國ちゅうごく官吏かんりむさぼ腐敗ふはい苦役くえき當地とうち百姓ひゃくしょう使つかいとくこしみなみはんあかり衝突しょうとつ不斷ふだん[6][7][8]

1418ねんはじむざいあい山鄉さんごうおこりよしはんあきら自稱じしょう平定へいていおう」,しょうあい山起やまおこしよしはじむ聽從ちょうじゅう少尉しょういはじむせき建議けんぎてき乂安險要けんよう大人おとな眾,……いまむべ先取せんしゅちゃたかしほぼてい乂安,以為りつ腳之」,さき佔領えつ南中なんちゅう地區ちくさい佔領東都とうといまかわ)。1427ねんあきらせんむねせんとくねん),はじむとぎざいささえ棱昌こうこれせん大敗たいはいあかりぐんじん主將しゅしょうやすとおこうやなぎます副將ふくしょうていはくりょうめい(一說いっせつ病死びょうし)、まいりしょうとくちぇ兵部ひょうぶ尚書しょうしょけいひとしまた俘虜ふりょこう尚書しょうしょぶくはじむとぎいのち阮廌せんあずかおうどおりしょ》,以「おっと大廈たいかはたかたぶけ一木之所能支;長堤ちょうていはたつぶせはいこれしょのうさわ」,すすむ成山なりやまこうおうとおる退すさへいなみ告知こくちおうどおり明朝みょうちょう援軍えんぐんやめけいいく覆沒ふくぼつてき事實じじつおびえ「倘若猶豫ゆうよけつわれ將士しょうしつかれ於攻㦸,はい其農くわ決意けついけんおさむ[9]おうどおり最終さいしゅうせりりょうへい退すさかい廣西ひろせはじむぐん最終さいしゅうざいちょうたち十年的抗明戰爭中獲勝,使つかいこしみなみさいつぎ恢復かいふく獨立どくりつ

明朝みょうちょう放棄ほうき直接ちょくせつ管轄かんかつえつみなみあらためふうはじむとぎ於1426ねんしょりつ傀儡かいらい君主くんしゅちんたかし為安ためやす南國なんごくおうはじむはたあかりぐん驅逐くちくのち便びんたいちんたかし不利ふりちんたかし死因しいん眾說まがえ紜,一說是遁逃時被朝廷所獲,便びんいん毒藥どくやく而死;一說いっせつせんかごかいせん而卒」;一說是潛逃時被黎利令人追殺。1428ねんはじむ建立こんりゅうはじむあさじょう東京とうきょうこんかわ內),并頒布はんぷひらだい》。

はじむはつ政局せいきょくあずかりょうさん篡弑

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はじむとぎ於1428いたり1433ねん在位ざいい在位ざいいはつ明朝みんちょう不承認ふしょうにん其地要求ようきゅうりつひねあさ後裔こうえい為安ためやす南國なんごくおう。1431ねんはじむ表明ひょうめいへんひろちょちん朝宗ともむねしつ裔之あるはた們全屠殺とさつ),あかりせんむね妥協だきょうふうはじむ利為としなりけんしょやすみなみ國事こくじ[10][11]はじむ即位そくいそくだいふう追隨ついずいほかあい山起やまおこしよしてき功臣こうしん建立こんりゅうりょう中央ちゅうおう集權しゅうけんてき體制たいせい

はじむ建國けんこく朝廷ちょうてい內部おちいにゅうだてもうかこれそうふん成長せいちょうはじむおもえひとしかず幼子おさなごはじむもとりゅう兩派りょうは最初さいしょはじむ採取さいしゅ折衷せっちゅうてき方式ほうしきしもむねわかおもえひとしかた臨朝聽政,のりもとりゅうかんこくなでぐんいち遵趙そう故事こじ[12],以黎おもえひとしため國王こくおう,以黎もとりゅうため皇太子こうたいし[13]後來こうらいはじむびょう逝前かえこれはじむおもえひとしはい黜,くだためぐんおう[14]はじむもとりゅう正式せいしきていため皇位こうい繼承けいしょうじん

はじむはつめいしん阮廌 (1380ねん—1442ねん)

はじむ死後しご,其子はじむもとりゅう(1433ねん9がつ5にちいたり1442ねん9がつ7にち在位ざいい即位そくいためはじむふとしむね當時とうじはじむふとしそうじゅうさいいん國事こくじみなゆかりはじむ裁決さいけつ。1438ねんはじむ察因濫權而遭處決しょけつはじむおもえひとし也遭到誣衊殺害さつがいはじむふとしそう時期じきたい國家こっかれいせい舉多ゆうかんぜんしょう典章てんしょう文物ぶんぶつつばらしかだい僃」,也是其統治とうち時期じきはじむちょう君主くんしゅ正式せいしき明朝みんちょう正名しょうなためやす南國なんごくおう[15]はじむもとりゅうてき皇后こうごうほんため楊氏賁,はらゆう一子かずこはじむむべみんふうため皇太子こうたいし。楊氏賁被はいはじむふとしそうあらためりつはじむくにもとため皇太子こうたいし,而黎むべみんそくくだためりょう山王さんのううめ後來こうらいはじむむべみん發動はつどうへいへんころせはじむひとし宗之むねゆきいんはじむふとしそう其人ふけこころ酒色しゅしょく,1442ねん強迫きょうはくさむらいたてまつ阮薦てき婢女阮氏ずい伺候しこうひさはじむもとりゅう意外いがい以虐やまし暴斃,阮薦家族かぞくまた遭牽れん

はじむもとりゅう死後しごゆかり其子はじむくにもと(1442いたり1459ねん在位ざいい即位そくいためはじむじんむねはじむじんむねあずか其父一樣是年幼繼位,いん此由其母せん慈太きさき阮氏えい攝政せっしょう國政こくせいそくよし阮氏えい大臣だいじんていえつみなみTrịnh Khảてい?把持はじはじむじんむね在位ざいい初期しょきえつみなみ內部相對そうたい和平わへい繁榮はんえいしょうじゅうなな年間ねんかん天下でんか太平たいへい安居あんきょらくぎょう」,同時どうじはじむちょう開始かいしむかいうらないじょう擴張かくちょう大和やまときゅうねん(1451ねん),せん慈太きさき阮氏えいころせていただし1453ねんひとしそう親政しんせい便びん赦免しゃめんりょうていてき罪名ざいめいなみきゅう其家じんかんじんむね名義めいぎじょう親政しんせいただゆうじゅうさい,阮氏えい仍掌大權たいけんのべやすしろくねん(1459ねん),りょう山王さんのうはじむむべみん勾結指揮しきはじむとくやすし[16]發動はつどうへいへん進入しんにゅう皇宮こうぐうころせじんむねふとしきさき阮氏えいためめんとりこある叛軍はんぐんしょころせ使つかい一僕人將自己殺。

りょう山王さんのうはじむむべみんためじん宗之むねゆきけい,於1459ねん發動はつどうへいへんころせじんむね即位そくいため皇帝こうていひさ大臣だいじん阮熾ちょうれつころせはじむむべみんあらためりつふとしむね四子黎思誠為帝。はじむむべみん在位ざいい僅243てん(1459ねん10がつ7にちいたり1460ねん6がつ6にち)。

ひじりはじめあずかけんそう治世ちせい

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はじむひじりはじめ (1460ねん—1497ねん在位ざいい)

はじむおもえまこと(1460いたり1497ねん在位ざいい一個深受儒教影響的人,はじむひとしそう年間ねんかんふうため平原へいげんおうあらためふうためよしみおう。勛臣們廢立はいりつはじむむべみんこう便びん以「よしみおうあきら睿雄りゃく諸王しょおう人心じんしん咸屬,天意てんい可知かち」,擁立ようりつはじむおもえまことためみかどためはじむせいむねはじむせいむね即位そくい,以中國ちゅうごく宋朝そうちょう理學りがく為樣しざまほんちょしゅ改變かいへんえつみなみ改革かいかくりょう官制かんせい行政ぎょうせい區劃くかく[17]。此外,みとめため政務せいむおうゆかりゆう學問がくもんひんとくてきじん而非出身しゅっしんごうもんてきじんらいしゅてのひら當時とうじえつみなみ僅斷斷續だんぞくぞく舉行,ためりょう使さらごうもん外的がいてきじんいれつかまつきよし宗重むねしげけいりょう制度せいどじょうせいためかいためしさんねんいちひじりはじめ也在各地かくち進行しんこう查,ざい各省かくしょうこうしつらえぶんびょう以尊儒教じゅきょう停止ていしきょうけんしんてき佛教ぶっきょう道教どうきょう寺院じいんなみげんせい僧侶そうりょ購置しんてきさん同時どうじはじむひじりはじめまた頒布はんぷりょうひろしとく法典ほうてん》(1483ねん),并下れいれんへんうつしてき大越おおこし史記しき全書ぜんしょなりためかんかた史書ししょひじりはじめ本人ほんにん也喜こう詩書ししょざい宮中きゅうちゅう闢有「きゅううた瓊苑」,つねあずか文人ぶんじん唱和しょうわ,其擅ちょうよう喃字創作そうさく,也擅ちょう漢文かんぶん本人ほんにん也著ゆう許多きょた作品さくひん

はじむひじりはじめてき治世ちせいえつ南極なんきょくもりてき時期じきしょうよんえびすまろうどふくはちきょくかたぶけふうさんじゅうはちねん天下てんか安治やすじ」。こうはじむちょう先後せんご對外たいがい討伐とうばつりょう北方きたかたさんえびす琉球りゅうきゅうかいぬすめあいろう、瀾滄以及うらないじょうとうこく[18]。1469ねんえつみなみ佔領ぼん (こんろうはじめはん),しつらえ鎮寧。1471ねんえつみなみ佔領うらないじょうてき首都しゅと毘闍耶(Vijaya),俘虜ふりょうらないじょう國王こくおう槃羅ちゃぜん(Bàn La Trà ToànあるPau Kubah),うらないじょう人民じんみんだい批向柬埔寨うま六甲ろっこう移民いみん此占じょう北部ほくぶおもねなみ(Amaravati)、中部ちゅうぶ毘闍耶ひとしえつみなみ佔領 (えつみなみしつらえためこうみなみうけたまわせんどう),こしみなみざい這些しん征服せいふくてき土地とちうえゆずる軍人ぐんじん農民のうみん屯田とんでん,而占じょう僅剩南部なんぶまろうどわらわりゅう(Panduranga)保有ほゆう部分ぶぶん獨立どくりつなりためえつみなみてき保護ほごこく。1477ねんおかせ佔明あさうんみなみおさめさらやま以南いなん地區ちくしつらえ廣陵こうりょうしゅう。1479ねんこしみなみまたおさむ瀾滄王國おうこくいまりょうこく)。こしみなみおさむおちい瀾滄首都しゅと琅勃ひしげくにころせ國王こくおうがたないたみやび此使とく瀾滄こうえつみなみ朝貢ちょうこうはじむせいむね征伐せいばつよんかつこころざし得意とくい滿まん,甚至繼續けいぞくこう西にし征討せいとうりょうらんおさめ王國おうこく(いまたいきた地區ちく),ただしげきはいそんへいおりはたじょうざいろう撾的快速かいそく擴張かくちょう使とくはじむちょう勝重かつしげまけ最終さいしゅうはじむせいむね決定けってい引兵回國かいこく

はじむせいむね死後しご,其子はじむ即位そくいためはじむけんそう在位ざいい時間じかんため1497いたり1504ねんけんそうためじん仁慈じんじ溫和おんわそんしん,屢行善政ぜんせい[19]政事せいじあきらふとし及聖宗之むねゆきれい而無甚更ちょうただし其於農業のうぎょう民政みんせいじょう特別とくべつせきちゅう[20]だいおさむ堤防ていぼう水車みずぐるま以備すいひでり[21]けんむね在位ざいい期間きかんこく內無ゆう盜賊とうぞくさくみだれ國外こくがいまたせんごとおさむえつみなみしょ於太ひら時期じき

はじむうんちゅうおとろえ

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けんむね死後しご,其子はじむたかしはじめ即位そくいためはじむ肅宗。はじむ肅宗ぬしせいてん現出げんしゅつ賢君けんくん形象けいしょう[22]乎他就要はじむひじりはじめはじむけんむねてき事業じぎょう發揚はつようこうだいただしりょう在位ざいいろく個月かげつ(1504ねん便びん暴斃而亡。這一意外使得黎憲宗生前認為「不德ふとくてき皇子おうじはじむ繼承けいしょう皇位こうい[23]

肅宗死後しご,肅宗あにはじむ即位そくいためきよしみかど在位ざいい時間じかんため1505いたり1509ねんきよしみかどこう酒色しゅしょくぎょう暴政ぼうせい專用せんよう外戚がいせき[24]猜好ころせ使つかいとく許多きょたはじむ朝宗ともむねしんみなゆうはん[25]明朝みんちょう使臣ししんもとてんすずあずかきよしみかどめん作詩さくし以「やすみなみよんひゃくうんゆうちょう天意てんい如何いかくだ鬼王おにお形容けいよう其人。きよしみかどやといゆう一批侍衛保護自己,其中一便是後來篡位建立莫朝的登庸とうようあずかきよしみかど非常ひじょう親近しんきんなみますいたりょう天武てんむまもる指揮しき使くらい最終さいしゅう逐漸すわだいきよしみかどてきどうおとうと簡修こうはじむはららいきよしみかどせき於獄ちゅう後來こうらい賄賂わいろ守衛しゅえいとく以脫逃,ずい後便こうびんあずか其他大臣だいじん一起舉兵推翻威穆帝。きよしみかどてき死因しいん說法せっぽう不一ふいつ大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ所載しょさい說法せっぽうゆう,一說被黎瀠所俘後飲酖自殺,一說いっせつ逃亡とうぼうころせあかり外國がいこくでん二則說阮種逼黎濬自殺後立其弟阮伯勝為帝,はじむこう誅阮はくしょうさいだてはじむ晭為みかど

簡修こうはじむ大臣だいじん廢立はいりつきよしみかどためじょうつばさみかど在位ざいい時間じかんため1509いたり1516ねん即位そくいはつじょうつばさみかど銳意えいい「恢太りつごくこれひろしひじりはじめ覿文」,ただしひらけけいけいむしろまた頒治ひらたからはんじゅうじょう於國內,じききょうまきばっ乎要ゆうしょ作為さくいただし在位ざいいひさ本性ほんしょうつきゆうゆう不斷ふだん[26]だいきょう土木どぼく[27]しょうさらちくこれ年年ねんねん無窮むきゅう」,頻繁ひんぱんてき工程こうてい使とくみん眾困士卒しそつ疲勞ひろうじょうつばさみかどさら明朝みんちょう使臣ししんはんのぞみあざけ以「貌美而身かたぶけせいこういん,乃猪おう也,らんほろびひさ矣」 。

ひろしじゅんはちねん(1516)ねん國中くになかみんへんえき頻繁ひんぱんじょうつばさみかどさきおやせい平定へいていひねこうやすしとうまたちん造反ぞうはんじょうつばさみかどさいつぎおやせいりょうひね暠擊はいかんへい死傷ししょうむごおも大臣だいじんていおもんみ以往いおうすすむ諫襄つばさみかど而被ばつ廷杖,こころふところ不滿ふまん,於是あずかはじむこうほどこころざしもりとうじんどうはかりごと廢立はいりつりょうへいにゅうみやざいふとしがくもん弒殺じょうつばさみかど[28]

莫氏だいはじむ

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てい維㦃ころせじょうつばさみかどだてはじむ光治こうじためみかど。僅さんてんまたたて錦江きんこうおうはじむてき長子ちょうしはじむためみかど改元かいげんひかり」,ためはじむあきらむねひねいちおさむにゅう首都しゅとあきらそうたん暫出逃,てい維㦃おさむふく首都しゅとあきらむね復位ふくいこれてい維岱ころせはじむ光治こうじあきらむね在位ざいいてき時期じき權臣けんしん互鬥,せいおのれ一派いっぱため登庸とうよう,另一派則是鄭氏與阮氏兩個有權勢的家族。

ひかりななねん(1522ねん),はじむあきらそうえつはばか登庸とうようけんじゅう,於是あずか大臣だいじんこうけんじ、范恕とう密謀みつぼう,趁內らん逃離首都しゅととうもたれ郑绥,莫登庸とうようそく以「ひかり紹皇じょう奸人おびえ遷于がいためゆかりあらためりつあきら宗之むねゆきおとうとはじむ椿つばき即位そくい改元かいげんすべもと」,ためはじむきょうすめらぎはじむあきらそう雖然成功せいこう逃出,ただし其號召的勤王きんのう勢力せいりょく旋即登庸とうようげきはいあきらそうまた淪為郑绥はさみせいみつるもとよんねん(1525ねん),莫登庸とうようげき败郑绥於清華せいか (こんえつみなみきよししょう),とりこはじむあきらむねねん杀之。みつるもとろくねん(1527ねん),莫登庸とうようふう為安ためやすきょうおうきゅうすずすうがつ後便こうびんはさま使はじむきょうすめらぎぜん于自おのれまた逼恭すめらぎ母子ぼし[29]

はじむ再興さいこう

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ていぬしだいいちだい領袖りょうしゅうていけんてき畫像がぞう

登庸とうよう篡黎はじむ宗室そうしつかずただし於黎てききゅうくん功臣こうしん屢有おこりよし[30]れい如莫大正たいしょう元年がんねん(1530ねん),はじむおこりごと清華せいか (こんえつみなみきよししょう)[31],甚至兩度りょうど大破たいは莫軍,ぐんごえだいただしはじむ最終さいしゅういんへいかちこころおご莫國楨突かさねとりこ,而其はじむきゅう一些留在清華繼續對抗莫朝,另一些則轉投在あいろうまと安清やすきよこう阮淦莫大ばくだいせいさんねん(1532),阮淦扶持ふちあきらそう之子ゆきこはじむやすし (ゆう争議そうぎ一說いっせつためおかせたかし明朝みょうちょうまたゆう質疑しつぎ[32]) 復位ふくい改元かいげん元和がんわ」,ためはじむそうむね[33]此黎再興さいこう,莫朝佔據ちょべにかわさんかくしゅう,而黎そく佔據ちょ清華せいか(こんえつみなみきよししょう) 以南いなんあずか莫南きた對峙たいじしょうはじむ中興ちゅうこうあさ

はじむそうむね復位ふくい,曾經つぎ大臣だいじん北上ほくじょう明朝みょうちょう請求せいきゅう明世あきよむね出兵しゅっぺい討伐とうばつ篡位てき登庸とうよう[34][35]明世あきよむね一度いちど打算ださん討伐とうばつ登庸とうようただし最終さいしゅう考慮こうりょいたえきへい继饷,必举天下でんか全力ぜんりょく」、「登庸とうよう父子ふし悔罪かわしん」、「しゃなお以黎ためうたぐとう[36][37]最終さいしゅうてん決定けってい接受せつじゅ登庸とうようてき請降,ただし也革おうごうたださつふう登庸とうようためしたがえひんてきやす南都なんとすべ使」,這時期じきはじむ政權せいけん并不いた中國ちゅうごくてき承認しょうにん

ていしゅ政權せいけん軍隊ぐんたいてき畫像がぞう

元和がんわじゅうさんねん(1545ねん),阮淦意外いがい莫朝くだはた楊執いち毒殺どくさつ,其婿ていけん繼承けいしょう其權がらにんたいりょうこくおおやけ節制せっせいかくしょすいしょ營,繼續けいぞく扶黎めつ莫,ためていぬしこれはじめはじむえいむね正治しょうじねん(1559ねん),ていけん成功せいこうおさむふくふとはらりょうやまとうだいかた領地りょうち正治しょうじじゅうさんねん(1570ねん),ていけん,其子ていひのき繼承けいしょう其位,ただしひさ後便こうびんていまつだいていまつざいはじむむね光興みつおきじゅうねん(1592ねん)成功せいこうおさむふく東都とうといまかわ),使つかいはじむ天子てんしとく以還きょうひかり復舊ふっきゅうぶつ,并取だい莫朝明朝みょうちょうさつふうためやす南都なんとすべ使[38]中興ちゅうこうはじむあさ名義めいぎじょうおもしん統一とういつえつみなみ,而莫朝就拒もり高平たかひら一隅いちぐう

時期じきぜんふとし阮淦てき次子じし阮潢いんためていけん猜疑さいぎ,阮潢請教阮秉けん怎麼辦,阮秉けん回答かいとう橫山よこやま一帶いったい萬代ばんだいひろし」,いん而阮潢決定けってい請出鎮南かたとくいたていけんてき允許いんきょ。這時期じき阮潢仍向後こうごはじむちょう朝廷ちょうていこうちゅう每年まいとしこう朝廷ちょうていじょう白銀はくぎん400きんいと帛500ひき,并屢出兵しゅっぺい支援しえんてい進攻しんこう莫朝ただし後來こうらい阮主逐漸割據かっきょゆうなりためていぬし政權せいけんてき大患たいかん

はじむすめらぎていぬし

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てい阮紛そう於1650ねんてき形勢けいせいこな紅色こうしょくため莫朝こな紫色むらさきいろためていぬし黃色きいろため阮主綠色みどりいろためうらないばば

權臣けんしんていまつ其父ていけんさら專權せんけん跋扈ばっこ[39]先後せんご廢立はいりつはじむえいむねはじむけいむね,并能隨意ずいいあずか皇嗣こうし繼承けいしょうざいおさむふく東都とうといまかわていまつ便びん其黨推舉ため平安へいあんおう」,しょう國家こっかごとけんみなたっざいへいみん悉歸おう」,在世ざいせいはじむむねはじむけいむねはじむかみはじめ傀儡かいらい天子てんしただはし拱受あさ謁而やめ」。這時期じきてい儘管掌握しょうあく國家こっか實際じっさいてき核心かくしん權力けんりょく[40]ただし其面臨著高平たかひら莫朝かず宣光のぶみつ裒主てきおびえこうみなみ阮主てき崛起あずか中國ちゅうごく潛在せんざい干涉かんしょう可能かのうていぬし并未ぞう登庸とうようくだり篡位こと使つかいとく當時とうじえつみなみてき政局せいきょく形成けいせいいちしゅ微妙びみょうてき平衡へいこう出現しゅつげんはじむためすめらぎてい執政しっせいてきげんかくきょく[41]

ざい時期じきはじむちょう皇室こうしつてき手中しゅちゅう財力ざいりょく僅夠日常にちじょうひらけささえきんぐん宿衛しゅくえい也全ていゆびはじむむね以降いこうてき全部ぜんぶはじむちょう皇帝こうていただ作為さくいいち象徵しょうちょうしきてき虛位きょい元首げんしゅ[42],其除りょう祭祀さいし外交がいこう舉、礼節れいせつせい活動かつどうがい并無存在そんざいかん[43]ていまつ以後いごてき歷代れきだいていぬし逐漸かんぜんいちしゅはじむすめらぎていぬしてきかくきょくていしゅしつらえ於黎あさ皇帝こうていつくりあたり穿ほじ紫色むらさきいろりゅうほう,臨政こと[44]朝廷ちょうていだい事由じゆうていしゅ決斷けつだん庶務しょむよしえつみなみPhủ chúa Trịnhせめ僚以「ろくばん虛化ホロウかりょう朝廷ちょうていてきろく職能しょくのう

ざい名義めいぎ統一とういつえつみなみこうみなみてき阮主逐漸すわだいまた允許いんきょ葡萄ぶどうきば商人しょうにん建立こんりゅう商業しょうぎょう港口こうこうぶく(Faifo,いまかいやす),雖然其名義めいぎじょう仍奉はじむためぬし使用しよう中興ちゅうこうはじむあさ年號ねんごうただし已然いぜんなりためおびえてい政權せいけんてき存在そんざいていまつ之子ゆきこ清都きよとおうてい非常ひじょうはばか阮福げん,於是便びんざいえいきゅうねん(1627ねん)要求ようきゅう阮福げん入朝にゅうちょう拜謁はいえつ[45]ただし阮福げん拒絕きょぜつてい梉因而決定けっていみなみせい阮主此開けいりょうてい阮紛そうてき時代じだい。這時期じきていしゅ雖然ようゆうべにかわさんかくしゅうてき富裕ふゆう領土りょうどさら龐大てき人口じんこうただし阮主おさむけんちょういくるいしばるい任用にんようとう維慈阮有鎰とう名將めいしょうこう衡,てい阮兩對戰たいせん不休ふきゅう最終さいしゅう雙方そうほうてき分界ぶんかいせんだい致定ざいいま廣平ひろへいしょうてき𤅷こううえ

內政

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はじむはつあさ

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はじむ時期じき沿習りょうひねあさ舊制きゅうせい明朝みんちょう體制たいせい[46]あさちゅうしつらえ左右さゆう相國しょうこく、內閣みついん中書ちゅうしょ黃門こうもんさんしょう門下もんかとう大力だいりき強化きょうかりょう中央ちゅうおう集權しゅうけん[47]地方ちほうじょうはじむ全國ぜんこくぶんためみち」,西道さいどう三江みえ宣光のぶみつきょうよしみきょうとう鎭;東道とうどう轄洪しゅうみなみさくあんくにとうまもる;北道ほくどう轄北こうりょうこうふとしはらひとし鎭;南道みなみどう轄快しゅうのぞきじん新興しんこうたてあきらてん長等ながら;うみ西道さいどう轄淸、乂安、新平にっぺい順化じゅんかとうまもるまいみちしつらえまもるぐん」、「くだり」,まいまもるおけそうかん」、「みやこそうかん」、「どうそうかんとうしょく[48]

りょう山王さんのうはじむむべみんとき,仿傚明朝みょうちょうしつらえろく六科むじなとう官職かんしょくひとししたがえあかりせいはじむひじりはじめときまた增設ぞうせつろくてら,并改「みちためうけたまわせんじゅうさんみち」,みちてき民政みんせいよしうけたまわせい管理かんり軍事ぐんじよしみやこそうへいりょうみちびけ刑罰けいばつよしけん察」主持しゅうもち中央ちゅうおう另設「監察かんさつ使つかいらいとく察各どう事務じむ[49]少數しょうすう民族みんぞく地區ちくそく設立せつりつだんねり」、「まもり」、「しゅう」、「大知たいちしゅうとう職位しょくいよし酋長しゅうちょう擔任たんにん[50]

はじむはつあさ時期じきてき官員かんいん一品至三品著紅衣、よんひんみどりころもちょあおころも[51],俱用がらすしゃえんりょう官服かんぷくそくしょくじゅうほうぞうおおやけほうはく、駙馬なみ文武ぶんぶせいひん畫一かくいつしたがえひんかぜけんどう上司じょうしいちふんくもかわやまみず、葩木しょさましげるころせかかわ。以五彩彰施於五色絺繡金線,聽各したがえよろし」。

はじむひじりはじめ時期じきてき行政ぎょうせい區劃くかく

中興ちゅうこうはじむあさ

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中興ちゅうこうはじむあさ時期じき朝廷ちょうていてき軍政ぐんせい財政ざいせい、內政つき世襲せしゅうてきていぬしたっ决,ていてきおもなりためえつみなみてき最高さいこう權力けんりょく中心ちゅうしんはじむちょう天子てんしただいち虛位きょい元首げんしゅあずか朝鮮半島ちょうせんはんとう歷史れきしじょうてき武人ぶじん政權せいけん日本にっぽんれき史上しじょうてき幕府ばくふ相似そうじ最初さいしょ中興ちゅうこうはじむちょう官制かんせい參照さんしょうはじむはつあさ設立せつりつ宰相さいしょう官職かんしょくゆうひだりしょうみぎしょうたいらあきらとう後來こうらいてい廢除はいじょ宰相さいしょうあらためしつらえまいりしたがええつみなみTham tụng”、“陪從ばいじゅうえつみなみBồi tụng”、“僚官”とう宰相さいしょう機構きこう輔佐ほさていしゅ施政しせい[52]またゆうたまものきゅうねんろうしゃ國老こくろうてき顧問こもん職位しょくいづくり相互そうご牵制てきぐんしょうせい」。ていしゅまた以吏,れいへいけいこうためろくばん」,行使こうしだいはららい朝廷ちょうていろくてき核心かくしん職權しょっけん[53]

地方ちほうじょういんおう當時とうじ南北なんぼく對峙たいじてき長期ちょうき戰爭せんそう環境かんきょうていはたはじむはつあさ地方ちほう行政ぎょうせい區劃くかくてきみちあらためため「鎮」。鎮設鎮司,あらため高級こうきゅう武官ぶかん鎮守ちんじゅまたしつらえとくどう」(よんひん)、とく(さんよんひん)、めぐもりとう管理かんり地方ちほう事務じむかく鎮又ゆう文官ぶんかんせめてきうけたまわつかさ」、「憲司けんじ」,地方ちほう俱低於武かん主持しゅうもちてき鎮司。「うけたまわつかさおもかん左右さゆううけたまわせいまたしつらえ参政さんせいまいり议等せめ民政みんせい,「憲司けんじのりしつらえゆううけたまわせん按察使、按察づけ使つかいとうせめ考課こうか訟。地方ちほう在府ざいふしゅう縣下けんかしつらえゆうしゃてき基層きそう行政ぎょうせい司法しほう機構きこうまいしゃゆうしゃ长、しゃ吏、しゃ胥等しょくきょうじょ地方ちほうかずおさむ纳租いさおゆかり村民そんみん自己じこ推舉,ぜん國有こくゆう八千到一萬餘个大小不等的社,大社たいしゃ有一ゆういちひゃくくちじん小社しょうしゃただゆういくじゅうにん[54]

外交がいこう

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明朝みょうちょうざいおうとおる撤軍并朝議ちょうぎ放棄ほうきやすみなみ[55]明朝みんちょうはじむちょう關係かんけい仍然緊張きんちょうはじむ通過つうか頻繁ひんぱん朝貢ちょうこうかえ俘虜ふりょてき明朝みんちょう軍民ぐんみん1まん3587にん使つかいとく中越なかこし關係かんけい逐漸正常せいじょう最終さいしゅうあかりせんむね決定けってい放棄ほうきはじむ歸還きかん兵器へいき擁立ようりつひねあさ後裔こうえいてき要求ようきゅううたて而冊ふうはじむ利為としなりけんしょやすみなみ國事こくじ」,正式せいしき結束けっそくりょうちょうたちじゅうねん的中てきちゅうえつ敵對てきたい狀態じょうたい[56]

此後,はじむちょう基本きほんじょう明朝みんちょう維持いじりょう相對そうたい穩定かずともぜんてきむねはん關係かんけい[57][58]こうはじむちょうぜんさんだい君王くんのうまた以「國王こくおうきょ而不しょう帝國ていこく[59],以免刺激しげき明朝みんちょうちょくいたり正統せいとう元年がんねん(1436ねん)きゅうがつあきらえいむねざい正式せいしきさつふうはじむ利之としゆきはじむもとりゅう (たいあかりしょうためはじむ麟)ためやす南國なんごくおう[60]たまもの以駝ひもぬり金銀きんぎんしるし[61]。這時期じき中越なかこし文化ぶんか交流こうりゅう頻繁ひんぱんはじむちょうてき使者ししゃりょう如鵠したがえ中國ちゅうごく引進雕版こくしょ技術ぎじゅつたい於越みなみ文化ぶんか出版しゅっぱんさんせい重大じゅうだい影響えいきょう[62]

後來こうらいざいはじむひじりはじめてきとう其時はじむあさ自負じふ國富こくふへいきょう,輒坐だい[63]積極せっきょく侵略しんりゃくうらないばばろう撾,并越境えっきょう廣西ひろせ欽州、安平あびらしゅう等地とうちあずか明朝みょうちょう爭訟そうしょうやめ[64]はじむひじりはじめ本人ほんにんまたざいひかりじゅんはちねん(1467ねん十二月じゅうにがつ恢復かいふくそとおう內帝」,せい皇帝こうてい受命じゅめいたから,并對外たいがい採取さいしゅきた和南わなみせいてき策略さくりゃく一邊いっぺん修好しゅうこう明朝みょうちょう一邊いっぺんこうみなみ擴張かくちょう。其又仿傚中國ちゅうごく朝貢ちょうこう制度せいど要求ようきゅう周邊しゅうへん小國しょうこく朝貢ちょうこうはじむあさ[65][66][67]ゆずるはじむちょうなりため中南なかみなみ半島はんとうてきしょう天朝てんちょう[68]

按照中國ちゅうごく禮法れいほう,以小事大じだいしゃ必須ひっす使用しよう真名まな[69]ただしこうはじむちょう沿用ちょうてき做法,はじむ以降いこうひとし以偽めいそうほう明朝みょうちょう,較朝鮮ちょうせんなお琉球りゅうきゅうとう其他中國ちゅうごくはんぞくためことえつみなみ史料しりょう中也ちゅうや往往おうおうむかいあきら朝貢ちょうこう形容けいようためほう聘」、「如明」、「交鄰」とう[70][71],而不ぞう朝鮮ちょうせん採用さいようあさてんとうむねはん意味いみ比較ひかく強的ごうてき[72]日本にっぽん學者がくしゃ山本やまもと達郎たつおみとめため這是いんため中國ちゅうごくれいせいたい「內帝がいおうてきえつみなみ君主くんしゅ而言巨大きょだいてき恥辱ちじょくいん此越みなみ以偽めい朝貢ちょうこうてき另類方式ほうしきらいつき可能かのう傷害しょうがい對等たいとう形式けいしき[73]

經濟けいざい

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文化ぶんか

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歷代れきだい君主くんしゅ

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はじむはつあさ

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はじむはつあさ君主くんしゅあずか年号ねんごう  编辑
びょうごう 諡號しごう 姓名せいめい 在世ざいせい 在位ざいい時間じかん 年號ねんごう使用しよう時間じかん りょうごう
高上たかうえ
はじむちょう朝廷ちょうていついみこと
あかり皇帝こうてい
はじむちょう朝廷ちょうていついおくりな
はじむ とし-?ねん
あらわ
(1428ねんふとしはじむついみこと
昭德あきのりいたりひとしさわ皇帝こうてい
歷代れきだいるいおくりな
はじむなぎさ とし-?ねん らい聞陵
せん
(1428ねんふとしはじむついみこと
けんぶん睿哲ぶく皇帝こうてい
歷代れきだいるいおくりな
はじむ とし-?ねん ふつすめらぎりょう
ふとし
(1433ねんふとしむねはじむもとりゅうみことじょう
すべ天啟てんけいうん聖德せいとく神功しんこう睿文えいたけ寬明ひろあきいさむ智弘ともひろいたり明大めいだいこうだか皇帝こうてい[74]
歷代れきだいるいおくりな
はじむ 1385ねん-1433ねん 1428ねん-1433ねん じゅんてん 1428ねん-1433ねん えいりょう
ふとしむね
(1442ねんひとしむねはじむくにもとみことじょう
つぎ天體てんたいどう顯德けんとくひじりいさお欽明ぶんおもええい睿仁あきら昭憲しょうけんけんちゅうぶん皇帝こうてい
歷代れきだいるいおくりな
はじむもとりゅう
はじむ麟)
1423ねん-1442ねん 1433ねん-1442ねん 紹平 1433ねん-1439ねん ゆうりょう
大寶たいほう 1440ねん-1442ねん
じんむね
(1460ねんひじりはじめはじむおもえまことみことじょう
欽文仁孝にんこう宣明のぶあきさとし睿宣皇帝こうてい
歷代れきだいるいおくりな
はじむくにもと
はじむ濬)
1441ねん-1459ねん 1442ねん-1459ねん 大和やまと 1443ねん-1453ねん きよしりょう
のべやすし 1454ねん-1459ねん
- 厲德こう
(1460ねんひじりはじめはじむおもえまことじょう
はじむむべみん
はじむ琮)
1439ねん-1460ねん 1459ねん-1460ねん てん 1459ねん-1460ねん
ひじりはじめ
(1497ねんけんむねはじむみことじょう
たかしてんこううんだか明光めいこうせい至德しとく大功たいこうせいぶん神武じんむたちこうじゅん皇帝こうてい
歷代れきだいるいおくりな
はじむおもえまこと
はじむ灝)
1442ねん-1497ねん 1460ねん-1497ねん ひかりじゅん 1460ねん-1469ねん あきらりょう
ひろしとく 1470ねん-1497ねん
けんむね
(1504ねん肅宗はじむたかしはじめみことじょう
からだてんしこりどう懋德いたりじん昭文あきふみ紹武せんあきら欽聖あきらこう皇帝こうてい
歷代れきだいるいおくりな
はじむ
はじむあきら
1461ねん-1504ねん 1497ねん-1504ねん けいみつる 1498ねん-1504ねん ひろしりょう
肅宗
(1505ねんきよしみかどはじむみことじょう
昭義あきよしあきらじんぬるきょうふちだまあつし孝允たかよしきょう皇帝こうてい
歷代れきだいるいおくりな
はじむたかしはじめ
はじむ㵮)
1488ねん-1504ねん 1504ねん やすしさだ 1504ねん けいりょう
- 愍厲こう
(1510ねんじょうつばさみかどはじむじょう
はじむ
はじむ諠)
1488ねん-1509ねん 1504ねん-1509ねん はしけい 1505ねん-1509ねん やすりょう
きよしみかど
(1517ねんあきらむねはじむおくりな
とくむね
(1517ねんあきらむねはじむついみこと
はいてんひろしせい温良おんりょうこう明文あきふみあきら寛弘かんこうあきらしん綏休むつみこうけん皇帝こうてい
歷代れきだいるいおくりな
はじむ 1466ねん-1502ねん 受節りょう
- れいかくれおう
(1516ねんていおもんみじょう
はじむ
はじむ晭)
1495ねん-1516ねん 1509ねん-1516ねん ひろしじゅん 1509ねん-1516ねん もとりょう
じょうつばさみかど
(1517ねんあきらむねはじむおくりな
- - はじむ光治こうじ 1509ねん-1516ねん 1516ねん ひろしじゅん 1516ねん
あかりむね
(1517ねんあきらむねはじむついみこと
あきら皇帝こうてい
(1517ねんあきらむねはじむついおくりな
はじむ とし-1509ねん かんりょう
- 陀陽おう
(1523ねん登庸とうようじょう
はじむ
はじむ譓)
1506ねん-1527ねん 1516ねん-1522ねん ひかり 1516ねん-1522ねん 永興りょうごりょう
あきらむね
はじむちょう朝廷ちょうていみことじょう
かみ皇帝こうてい
はじむちょう朝廷ちょうていおくりな
- きょうおう
(1527ねん登庸とうようじょう
はじむ椿つばき
はじむ懬)
1507ねん-1527ねん 1522ねん-1527ねん すべもと 1522ねん-1527ねん 華陽かようりょう
きょう皇帝こうてい
はじむちょう朝廷ちょうていおくりな

はじむ中興ちゅうこうあさ

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はじむ中興ちゅうこうあさ君主くんしゅあずか年号ねんごう  编辑
びょうごう 諡號しごう 姓名せいめい 在世ざいせい 在位ざいい時間じかん 年號ねんごう使用しよう時間じかん りょうごう
そうむね
(1548ねんちゅうむねはじむみことじょう
ひろし皇帝こうてい
(1548ねんちゅうむねはじむおくりな
はじむやすし
はじむ㫬)
とし-1548ねん 1533ねん-1548ねん 元和がんわ 1533ねん-1548ねん けいりょう
ちゅうむね
(1556ねんえいむねはじむ維邦みことじょう
たけ皇帝こうてい
(1556ねんえいむねはじむ維邦おくりな
はじむ
はじむちょう
1535ねん-1556ねん 1548ねん-1556ねん 順平じゅんぺい 1549ねん-1556ねん のべりょう
こうむね
はじむちょう朝廷ちょうていついみこと
じん皇帝こうてい
はじむちょう朝廷ちょうていついおくりな
はじむ維絖 とし-?ねん はな岳陵がくりょう
えいむね
(1573ねんむねはじむ維潭みことじょう
たかし皇帝こうてい
(1573ねんむねはじむ維潭おくりな
はじむ維邦 1532ねん-1573ねん 1556ねん-1573ねん 天祐てんゆう 1557ねん ぬのまもるりょう[75]
正治しょうじ 1558ねん-1571ねん
ひろしぶく 1572ねん
むね
はじむちょう朝廷ちょうていみことじょう
せきじゅんつよしせいいさみはてあつし皇帝こうてい
はじむちょう朝廷ちょうていおくりな[76]
はじむ維潭 1567ねん-1599ねん 1573ねん-1599ねん よしみやすし 1573ねん-1577ねん はな岳陵がくりょう[77]
光興みつおき 1578ねん-1599ねん
- 簡輝みかど
(1619ねんていまつはつおくりな[78]
はじむ維新いしん 1588ねん-1619ねん 1599ねん-1619ねん まきいさお 1600ねん はな巒陵[79]
けいむね
(1632ねんかみはじめはじむ維祺みことじょう
あらわじんひろしけい綏福めぐみ皇帝こうてい
(1632ねんかみはじめはじむ維祺あらためおくりな
ひろじょう 1600ねん-1619ねん
かみはじめ
はじむちょう朝廷ちょうていみことじょう
ふち皇帝こうてい
はじむちょう朝廷ちょうていおくりな
はじむ維祺 1607ねん-1662ねん 1619ねん-1643ねん えい 1619ねん-1629ねん ぐんだまりょう
とくたかし 1629ねん-1635ねん
1635ねん-1643ねん
1649ねん-1662ねん 慶德けいとく 1649ねん-1653ねん
盛德せいとく 1653ねん-1658ねん
永壽ながとし 1658ねん-1662ねん
まんけい 1662ねん
真宗しんしゅう
はじむちょう朝廷ちょうていみことじょう
じゅん皇帝こうてい
はじむちょう朝廷ちょうていおくりな
はじむ維祐
はじむ維禔)
1630ねん-1649ねん 1643ねん-1649ねん ぶくやすし 1643ねん-1649ねん 花浦はなうらりょう[80]
げんむね
(1671ねんよしみむねはじむ維禬みことじょう
豁達睿聰剛毅ごうき中正ちゅうせい溫柔おんじゅう和樂わらく欽明ぶんおもえまこときょうかつゆずるきよし皇帝こうてい
(1671ねんよしみむねはじむ維禬おくりな
はじむ維䄔
はじむ維禧)
1654ねん-1671ねん 1662ねん-1671ねん けい 1663ねん-1671ねん はてもりりょう
よしみむね
(1675ねん熙宗はじむ維祫みことじょう
ひろし明敏めいびんたちえいはて徽柔克仁かつひとあつし義美よしみ皇帝こうてい
(1675ねん熙宗はじむ維祫おくりな
はじむ維禬
はじむ𬓆
1661ねん-1675ねん 1671ねん-1675ねん とく 1672ねん-1674ねん ぶくやすりょう
德元とくもと 1674ねん-1675ねん
熙宗
(1716ねんひろしむねはじむ維禟みことじょう
さと敏英としひではてあつし豁寬ひろしえらたび徽恭あきら皇帝こうてい
(1716ねんひろしむねはじむ維禟おくりな
はじむ維祫
はじむ維禛)
1663ねん-1716ねん 1675ねん-1705ねん 永治えいじ 1676ねん-1680ねん とみやすしりょう
正和しょうわ 1680ねん-1705ねん
ひろしむね
(1731ねん昏德こうはじむ維祊みことじょう
純正じゅんせい徽柔ゆたか簡慈さち寬惠ひろえへりくだ敏和としかず皇帝こうてい
(1731ねん昏德こうはじむ維祊おくりな
はじむ維禟
はじむ維祹)
1680ねん-1731ねん 1705ねん-1729ねん えいもり 1705ねん-1720ねん 金石かねいしりょう[81]
やすし 1720ねん-1729ねん
- 昏德こう
(1732ねんじゅんむねはじむ維祥じょう
はじむ維祊 1709ねん-1735ねん 1729ねん-1732ねん えいけい 1729ねん-1732ねん 青池あおいけけんきむ縷社
えいけいみかど
阮朝改定かいてい[82]
じゅんむね
(1735ねん懿宗はじむ維祳みことじょう
寬和ひろかずあつしさとやわへりくだ謹恪沈潛ちんせんひろしえき皇帝こうてい
(1735ねん懿宗はじむ維祳おくりな
はじむ維祥
はじむ維祜)
1699ねん-1735ねん 1732ねん-1735ねん りゅういさお 1732ねん-1735ねん ひらくれりょう
懿宗
(1759ねん顯宗けんそうはじむ維祧みことじょう
ぬるよしみそう肅愷悌通敏寬としひろひろしふち睿徽皇帝こうてい
(1759ねん顯宗けんそうはじむ維祧おくりな
はじむ維祳
はじむ維禕)
1719ねん-1759ねん 1735ねん-1740ねん えいたすく 1735ねん-1740ねん 扶黎りょう
顯宗けんそう
(1786ねん愍帝はじむ維祁みことじょう
えい皇帝こうてい
(1786ねん愍帝はじむ維祁おくりな
はじむ維祧
はじむ維𥚻)
1717ねん-1786ねん 1740ねん-1786ねん けいきょう 1740ねん-1786ねん 盤石ばんじゃくりょう
たすくむね
(1786ねん愍帝はじむ維祁ついみこと
皇帝こうてい
(1786ねん愍帝はじむ維祁ついおくりな
はじむ維禕 とし-1771ねん どうりょう
- 皇帝こうてい
(1884ねん阮朝朝廷ちょうていついおくりな
はじむ維祁
はじむ缺字图片
1765ねん-1793ねん 1786ねん-1789ねん あきら 1787ねん-1789ねん 盤石ばんじゃくりょう

けい

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参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ えびす楊《大越おおこしはじむちょう帝王ていおう中興ちゅうこう功業こうぎょう實錄じつろく
  2. ^ 大越おおこし史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅうろく):「たまたから生子いくこていまつ才德さいとくちょうぐん英雄えいゆう蓋世がいせいのうぞくちちこころざし賛成さんせいみかどぎょうはじむあさ中興ちゅうこうこう實基さねもと於此。」
  3. ^ 阮儼《けいきょうじゅう七年丙戌科進士題名記》:「けいこんいわ奠炎たいひらき文運ぶんうん。欽惟すめらぎじょうにぎいぬいさるたつみいのち...すめらぎはじむけいきょうじゅうななねん嘉平かへいふしりつ。」
  4. ^ すめらぎはじむ一統いっとうこころざし》:「はなしせつすめらぎはじむあさそうそうひろし皇帝こうてい中興ちゅうこう於馬うるしこう時世じせいあきらやすしふとしおうていけんため輔,誅耡ぎゃく莫,かえ於故。」
  5. ^ すめらぎはじむそもそもときしょうおおやけのこしゅう
  6. ^ あかり》(列傳れつでんだいひゃくきゅう):「ちゅうかん騏以採辦至,だいさくさかい珍寶ちんぽう人情にんじょう騷動そうどう,桀黠しゃあふこれ大軍たいぐんはじめかえそくなみおこりためらんりく阮貞,じゅんしゅうはじむかくはんつよしあずかかんどうひねろん判官ほうがん阮昭、千戶せんどひね忷、みなみれいしゅう判官ほうがん阮擬、ひだりひらけん范伯だかけんすすむたけよろず、百戶陳已律等一時並反。あきらみなはた討滅,而反しゃなおとめ。」
  7. ^ あかり》(列傳れつでんだいよんじゅう):「交人ましと中國ちゅうごく約束やくそくまたかずため吏卒おかせ擾,往往おうおうおこりぞく,乍服乍叛,將帥しょうすいえき玩寇。」
  8. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへんまきじゅうさん):「あきらあきら奏請そうせい戶部とべ頒給交州じょうしゅうけんおさむてい賦役ふえきさつさとちょうきのえくび周年しゅうねん圖樣ずようだいりつごといちひゃくいちじゅうためいち每年まいとしさとちょういちにんきのえくびじゅうにんおうやくしゅう而復はじめとうさとかぶとしゃむち箠不しょう其苦。」
  9. ^ そもそもときしゅう敘傳》
  10. ^ 大越おおこし史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅう):「ふゆじゅういちがつはついちにちあかり使あきらたかしじょ琦來いたりきょう,賫印いのちみかどけんしょやすみなみ國事こくじ二十日はつかたかし琦等かえみかどしんけいいん副使ふくし阮絢,ちゅうすすむ阮宗にえずいたかしとう如明謝恩しゃおん,并觧としみつぎきんまんりょう,乞依ひろしさん年貢ねんぐれいつねみつぎぜっあかりみかどたまものぶんあやとう鈔幣かえ。」
  11. ^ そもそもときしゅう》(しゃさつふうひょう):「やすみなみけんしょ國事こくじしんはじむぼうまこと云云うんぬん謹上きんじょうげんせんとく五年十月十一日伏睹欽差天使右侍郎張敝,つうせい使じょ琦橐ささげ詔書しょうしょ一道いちどう印章いんしょういち顆,いのちしんけんしょやすみなみ國事こくじ
  12. ^ そもそもときしゅう》(れいおもえひとしことみことのり)
  13. ^ 大越おおこし史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅう):「ななにち入内じゅだい檢校けんぎょうたいらあきらごとはじむとい入内じゅだいだい司馬しばはじむぎん入内じゅだいしょうでんはじむぶんれい賫金册立さくりつみぎしょうこくひらきぐんおおやけおもえひとしため國王こくおうあるき國事こくじ入内じゅだい㓂黎察、つかさそらはじむじん澍入ない司馬しばはじむ入内じゅだい少尉しょういはじむこくきょう賫金冊立さくりつやなぐんおおやけもとりゅうため皇太子こうたいし。」
  14. ^ そもそもときしゅう》(めいじおもえひとしためぐんおう次子つぎこもとりゅううけたまわみつるみことのり):「みずのとうしろくねんはちがつくだおもえひとしためぐんおう...」
  15. ^ そもそもときしゅう》(しゃさつふう國王こくおうひょう):「やすみなみけんしょ國事こくじしんはじむぼう謹上きんじょうごと正統せいとうねん正月しょうがつじゅうさんにちふく睹欽天使てんしいくとおるぶし橐捧詔勅しょうちょくきんしるしふうしんためやす南國なんごくおう。」
  16. ^ 大越おおこし史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅういち):「はじむとくやすし以都むね揮典きんへい當直とうちょく不能ふのう率先そっせんまもるしゃ,乃擁へいじょぎゃくむべみんとく僣位ごう,而文武臣ぶしん僚飲恨茹つう四方しほう百姓ひゃくしょう如䘮考妣こうひ。」
  17. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく正編せいへんまきじゅうきゅう ひかりじゅんろくねんさんがつ
  18. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅうよん):「しかしん窃見前年ぜんねんせいさんえびすうらないじょう琉球りゅうきゅうろう撾之しんせん效力こうりょくかくまもる軍旗ぐんきゆう膂力りょりょくしゃ先登せんとうとくくびじょようつき及被せん汰,退すさたかし五府軍與無得馘同,ゆう分別ふんべつ。」
  19. ^ 大越おおこし史記しき全書ぜんしょ》(まきじゅうよん):「使つかい四方しほうついかん貧乏びんぼう老弱ろうじゃくざいぐんしゃにょう汰之,賦役ふえき工程こうてい偏重へんちょうしゃ輕減けいげん眚災,しん冤屈,ろく失職しっしょく,褒有功ゆうこうかえり逋負,ひろし刑罰けいばつ,旌節義せつぎにぎわいひん,擢廉濴,しん賢才けんさい中外ちゅうがいだいえつみかどざい東宮とうぐうさんじゅうろくねんとくぎょう日進にっしん仁孝にんこう聞於天下でんかはつせいしげる有可ゆかかん。」
  20. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきじゅうよん):「みかど農事のうじ,敕承、けんけんかん巡行じゅんこうすすむちく堤防ていぼう,濬𤱶澮,立田たったかい,以備すいひでりまいしゃおけ社長しゃちょういちにんせんとくのうくわ。凡外かん以事赴京及朝使ゆうがいいたりしゃ,必召といねんこくゆたか歉,百姓ひゃくしょうらく。其軍たくみ上番じょうばんしゃかく分遣ぶんけん歸農きのう。」
  21. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきじゅうよん):「はる正月しょうがつひでり。敕備水車みずぐるま以衛のう。」
  22. ^ 大越おおこし史記しき全書ぜんしょ》(まきじゅうよん):「これがつはつはちにちみかどどるはつみかど卽位そくい囚人しゅうじんみやおんなとま不急ふきゅうつとむげん偏重へんちょうやくそもそも貢獻こうけん省力しょうりょくやくにんくんきゅう,攬威けんそもそも戒外かいげ戚,ともあつし親藩しんぱん,凡經綸けいりんだいけい建立こんりゅう大本おおもとしょ不用ふよう其極。天下てんか臣民しんみんみなぬぐえ以觀はつせい,以爲成康なりやすぶんけいふく於今。」
  23. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》 (正編せいへんまきじゅうよん) けいすべねん十二月じゅうにがつ
  24. ^ 大越おおこし史記しき全書ぜんしょ》(まきじゅうよん):「みかど斥逐皇宗こうそう功臣こうしんかい淸華せいか地方ちほう,幷殺女史じょし,內臣,うらないじんとき外戚がいせききょう种,阮伯かちとう擅作ぶくけんかたぶけ中外ちゅうがい...」
  25. ^ 大越おおこし史記しき全書ぜんしょ》(まきじゅうよん):「みかど卽位そくいこれ毎夜まいよあずか宮人みやびとたけなわしゅ無量むりょうよいそくころせこれどきけん外戚がいせきひがしそくはなりょう養父ようふきょう西にしそくひとしむつみみかどきょうきたそく扶較,みかどははきょうみな擅怙權勢けんせい,沉溺しん僚,ゆう私意しい而屠戮生みんゆう以密たい誅求ちゅうきゅうぜに貨,凡民あいだろく畜生ちくしょうはなとうぶつ一切いっさいかすめ,及民ゆうざい奇貨きかしめぎこれ萬民ばんみん嗟怨,而帝どる悛。またこころふところ猜忌さいき,凡前日ぜんじつ臣下しんかだておのれしゃ往往おうおう誅之。また密使みっし內人阮廷往體察諸叔父おじ兄弟きょうだいじゅうろくおう,而荆おう叔父おじ逃遁,不知ふちしょどく簡脩こう以叔はく之子ゆきこ,繫獄とくぬげゆかり人人ひとびと危,えきおもえさくらん。」
  26. ^ 大越おおこし史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅう):「みかど光治こうじ殿どのかんぞうたたかえとら。」
  27. ^ 大越おおこし史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅう):「みかどたかしきょう土木どぼくちくこうしろ大数たいすうせんたけ包圍ほういさちひかり殿どのかんきむせんはなてら...使つかい畫工がこう畫圖えずいのち女史じょし裸身らしんざお於西みかどあずかこれゆう...たくみじんたけ如蘇さくだい棧殿ひゃくあまり,罄竭こくちゅう財力ざいりょく...」
  28. ^ 大越おおこし史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅう):「ていおもんみ㦃弑みかど于太がくもんさきおもんみ㦃以すう諫帝忤旨つえおもんみ㦃乃與はじむこうほどこころざしもりひとしどうはかりごと廢立はいりつせい飭船そう器械きかいざい太極たいきょくこえげん討賊。はつろくにちよるさらはた金吾きんご護衛ごえいさんせん餘人よにん入北にゅうほくたつもんみかど聞之,うたぐゆうぞくいたり,乃出こうたからけい門外もんがい七日なのか昧爽まいそうゆううけたまわむね阮瑀したがえみかどあいだぎょうふとしがくもんいたりあおみぞぼう朱雀すざくみかどぐうおもんみ㦃,もん曰:「ぞくざい何方どなた。」おもんみ㦃不こたえ,顧他だいわらいみかど揮馬而西,おもんみ㦃使武士ぶしめいこうしゃよこ箝剌みかど墜馬弑之,阮瑀またはたみかどかばね於北使かん,以寘ころも火葬かそう
  29. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへんまきじゅうなな):「登庸とうようはい椿つばき爲恭ためちかおうあずか皇太后こうたいごうていかそけ于西ないすうがつ,逼令自盡じじん。」
  30. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへんまきじゅうなな):「たつ登庸とうよう僭逆,はかりごともとめ功臣こうしん子孫しそん,以官爵餌あおけいほうこうふち功臣こうしんまご忿不こごめ,乃與阮我、阮壽長等ながらはかりごとおこりへいおさむ朱雀すざくもんかつ走入はしりしん招集しょうしゅう人民じんみんたてしょしょう。」
  31. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへんまきじゅうなな) 莫登瀛大せい元年がんねん
  32. ^ 《议处やすみなみごとむべ》:「いたりわかはじむ宁虽自称じしょう为黎利子りし孙,しかしんとう节据诸司查勘踪迹,てき难明。郑惟憭一向潜住该国上、しもろう石林いしばやししゅう峒寨附近ふきん。广西土せいどかん地方ちほうはじむ面貌めんぼうはつあい识,あるたたえはじむ宁,あるたたえはじむ宪,あるしょうこう绍,あるしょう元和がんわあるまた以为阮涂之子ゆきこあるまた以为郑氏诈称。而近すえうんみなみぬの政司せいじ开报,かい审夷じん郑垣こう词,しょううるし马江峒虽ゆうはじむ宁,而来历宗不可ふかとく详。ところれつ事情じじょうとし貌,またあずか郑惟憭原报互异,俱难もたれすえ。」
  33. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへんまきじゅうなな) 〉〉そうそうひろし皇帝こうてい元和げんな元年がんねん
  34. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅうろく) :「みかどのこていおもんみ僚如あきらそうたたえ,莫登庸とうようせんみだれ,竊據こくじょう,阻絕道路どうろ,以致ひさはいしょくみつぎ。」
  35. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅうろく) :「みかどていかき如明,備陳莫氏篡弑,及帝播遷于淸はな事由じゆう。」
  36. ^ しょやすみなみごとむべ
  37. ^ やすみなみそう
  38. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅうなな):「さき使臣ししん馮克ひろしとうとき貢物みつぎもの及代きんじん沉香象牙ぞうげいたりつばめきょう上表じょうひょう乞脩しょくみつぎあかりみかどひょうだいえつふくみことのりふうみかど爲安ためやす南都なんとすべ使つかさみつる使管轄かんかつ南國なんごく土地とち人民じんみん,及賜やす南都なんとすべ使ぎんしるしいち顆,使つかい馮克ひろしとうとき勑書回國かいこく。」
  39. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへんまきじゅうきゅう):「けん雖擅けん,而惡甚著。まつそく莽、みさお也。」
  40. ^ 大明神だいみょうじんむねあらわ皇帝こうてい實錄じつろくまきひゃくきゅうじゅうはち》:「やすみなみこと,雖一切移文稱名黎維潭,而其じつ權臣けんしんていまつぬし。」
  41. ^ ちょうぶんあきらえつみなみはじむちょう後期こうきてきはじむすめらぎていぬし體制たいせい
  42. ^ はん辉注 《历朝宪章类志》(まきじゅう)「とう也,天子てんし盖特為寄ためよりきみしゃ。」
  43. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへんまきさんじゅういち):「はじむ中興ちゅうこう以後いごふとおもねたおせしたりょうじょうかえ,厥有君臣くんしんれいとろけしか矣。おもんみみなみ郊祀てん尊卑そんぴぶん尙在。」
  44. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきさんじゅうさん):「西にしおう(てい)なら入朝にゅうちょうはいあきらそうしつらえ於御ひだり
  45. ^ 大越おおこし史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅうはち) えいきゅうねんはる
  46. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへんまきじゅう) :「ふとししつらえかんいんひねえびす舊制きゅうせいさんよう明典あきのり
  47. ^ ちんなか金的きんてきえつ南通みなみとおりぺーじ443
  48. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへんまきじゅう) じゅん天元てんげんねんさんがつ
  49. ^ ちんなか金的きんてきえつ南通みなみとおりぺーじ441
  50. ^ ちんなか金的きんてきえつ南通みなみとおりぺーじ442
  51. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅう):「ろくがつてい文武ぶんぶふくしょく一品至三品著紅衣、よんひんみどりころもちょあおころも。」
  52. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきさんじゅうさん):「まいりしたがえ陪從ばいじゅうぜんはじむゆう中興ちゅうこうせいかえりていはじめしつらえこれ,以參陪政府せいふかみはじめたつていなら以禮尚書しょうしょ范公ちょ、吏部尚書しょうしょ楊致さわなみさんしたがえさんしたがえためくび輔,而陪從ばいじゅう。」
  53. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(まきさんじゅう):「ていきゅうしつらえへいあずかみずさんばんいたり增置ぞうち吏、れいけいこうあずかへいためろくばんまた徵收ちょうしゅう各號かくごうふんためろくみや。凡屬みや租庸簿せきろくばん以本しょく分掌ぶんしょうしょ鎭財へいみんせいなみぞく焉。れいぶんしんばん,內監あずかぶんぞくたかしふく僉〈かんめい〉,ぞくろくじゅうにん政權せいけんつきろくばん,而部てらためきょしゃ矣。」
  54. ^ ちょうぶんあきらえつみなみはじむちょう後期こうきてきはじむすめらぎていぬし體制たいせいぺーじ24-26」
  55. ^ あかり列傳れつでんだいひゃくきゅう》:「みことのりいたりつうやめ棄交阯,よし陸路りくろかえ廣西ひろせちゅうかんやまことぶきうま騏及さんつかさもりれいゆかり水路すいろかえ欽州。凡得かえしゃとめはちまんろくせんにんためぞくしょころせ拘留こうりゅうしゃ不可ふかかちけい。」
  56. ^ ちんぶんげん明朝みんちょうあずかやすみなみ關係かんけい研究けんきゅう
  57. ^ ふるえさわしゅう》(まき11):「むかしざいせんむねはじめいのちやすみなみ為國ためくに,而安みなみたてまつせいついたちえきけんあいだとしそくみつげつぎそく請」
  58. ^ ほふかん僖公文集ぶんしゅう》(まき5):「(やすみなみ)すうじゅう年來ねんらいしょくみつぎ必修ひっしゅうつて必請,君命くんめい臨必かしこ天使てんしはずかしめ必敬,また敢踵そう元之もとゆき辙。」
  59. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(まきじゅういち):「凡詔みなしょう大王だいおうのりふとし辰之たつゆきしょうみかどやめあかりいたり如太むねひとしそう稱號しょうごう,雖無明文めいぶんしかひじりはじめ卽位そくいいたりはちねん矣,羣臣はじめ上帝じょうていごうのりふとそうひとしむね以前いぜんみなしょうおうごう知也ともや。」
  60. ^ あきらえいむね皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅう》:「ちん祗膺天命てんめい統御とうぎょみんくつがえこれあいだ,咸圖かんやすしはぎなんじやすみなみみつ疆場。其權しょやすみなみ國事こくじはじむ利子りし繼承けいしょう以來いらいかつつとむかつまきことじょうなで,罔有だるたがえこんとくふう為安ためやす南國なんごくおう,授以印章いんしょう,俾永綏爾いち國之くにゆきじん,以副ちん一視同仁いっしどうじん。」
  61. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅういち):「しるしじゅうひゃく两,紉象駱駝らくだ,以金為之ためゆき
  62. ^ りょう大王だいおう抄本しょうほんこしみなみかん喃院かんぞうへんごう VHv.1845,ぺーじ 2
  63. ^ あかり列傳れつでんだいひゃくきゅう》(外國がいこく やすみなみ):「灝雄桀,自負じふ國富こくふへいきょう,輒坐だい。」
  64. ^ ちんぶんげん明朝みんちょうあずかやすみなみ關係かんけい研究けんきゅうぺーじ59-75
  65. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅう):「はつななにちたまかんきんうらら來朝らいちょう進貢しんこうかたぶつぶた倣古しゃかただけれい。」
  66. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ》(/本紀ほんぎまきじゅうさん):「あいろうみつげかたぶつ。」
  67. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへんまきじゅう):「みかどすんでひらうらないじょうふるえ絕域ぜついき西方にしかたしょ酋莫りつふくあいろう使臣ししんろう儷齎かたぶつらいけんじ。鎭寧かんきんこう順平じゅんぺいしゅうかんどう及其おとうとどうわらわ、攸樸峒知しゅうどうおもんばかかく以雄ぞうかたぶつ來貢らいこう。」
  68. ^ ちんぶんげん明朝みんちょうあずかやすみなみ關係かんけい研究けんきゅうぺーじ60-61
  69. ^ 《议处やすみなみごとむべ》:「はじむ龙伪めい浚,はじむ口口くちぐち牵伪めいけいはじむ璇伪めい谊,はじむ滢伪めい晭,はじむ掎伪めい譓。まとめい以事神祇じんぎ,伪名以事中国ちゅうごく,习相もと谬,致成らん阶,竟至微弱びじゃく。」
  70. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅう):「じゅういちがつ使つかい如明、楊文旦ぶんたん、范鑑、じんとうとしみつぎ。」
  71. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ》(本紀ほんぎまきじゅう):「きゅうがつじゅういちにち陪臣ばいしんちょうらん、阮復、阮德輶等如明そうごと
  72. ^ ちょう實錄じつろくなりむね實錄じつろく》:「しん嘗聞きょうのぞみはじめちょうてん而還,はせいたよししゅう夜半やはんなお閉城もん...」
  73. ^ ちんぶんげん明朝みんちょうあずかやすみなみ關係かんけい研究けんきゅうぺーじ149
  74. ^ はじむあつしてき大越おおこし通史つうしちゅう,“いたりあきらさくいたりじん”。
  75. ^ えいそうただしはじむじょ後人こうじんつぎまえ家族かぞくていきょ東山ひがしやまけんぬのまもるしゃえいむね開始かいしはじむちょう皇帝こうていさいそうざいあいさん,而是そうざいぬのまもるしゃ及其附近ふきん
  76. ^ 引《はじむちょう帝王ていおう事業じぎょう》·例祭れいさいたてまつこと·あらわこう殿どの
  77. ^ はな岳陵がくりょうざい東山ひがしやまけんぬのまもるしゃ,阮朝明あさけいのち年間ねんかんしょ立石たていししょうためはなたかしりょう”。
  78. ^ えつ續編ぞくへんまきじゅう<たかしそうめぐみ皇帝こうてい>:“……(ていまつつぎはや召諸しん曰:‘天變てんぺんきょせい不意ふい今日きょう乃見此事,とう如之なに?’しょしんみな曰:‘聖上せいじょう至德しとくみかどぎょうみちぜっ于天。葬祭そうさいれいよろしげんそぎ。’おう曰:‘わがしんにん。’いのち仍用天子てんしれい。廷議不當ふとうにゅうびょうたて別殿べつでんとおるまつおくりなため簡輝みかどそうぬのまもるりょう。”
  79. ^ はな巒陵ざい東山ひがしやまけんぬのまもるしゃまたたたえぬのまもるりょう”,阮朝明あさけいのち年間ねんかんしょ立石たていししょうためはな蠻陵”。
  80. ^ 花浦はなうらりょうざい東山ひがしやまけんぬのまもるしゃとみこくむらまたたたえとみこくりょう”,阮朝明あさけいのち年間ねんかんしょ立石たていししょうため華浦かほりょう”。
  81. ^ はらそう古都ことりょう遷至金石かねいしりょう
  82. ^ 諡號しごう,仿中こくあかりしょう明惠あきえそうしゅまこと炆為「けんぶんみかど」、明代あきよそうしゅ祁鈺ためけいたいみかどてきれいざいはじむ時事じじりゃく中稱ちゅうしょうえいけいみかど」。