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ぶく

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ぶく
大明だいめいしょう南京なんきん户部なお书参赞南京なんきんつくえ
せきぬき中書ちゅうしょしょうえき都路みやこじ濰州あきら邑縣
ぞく汉族
ごう如錫ごう後樂こうらく
諡號しごうちゅうせん
出生しゅっしょうもといたりただしじゅうねん(1362ねん
中書ちゅうしょしょうえき都路みやこじ濰州あきら邑縣
逝世あきらせいねん(1440ねん
みなみただしおうてん
おやぞくたすくこころざし曾祖父そうそふ)、谷保やほ祖父そふ
ちゅうちち
黃玉おうぎょく钫堂
黃玉おうぎょく钫予
まご
出身しゅっしん
著作ちょさく
  • ちゅうせんしゅう》、《文集ぶんしゅう》、《後樂こうらくどう交藩文集ぶんしゅう》、《後樂こうらくぞくしゅう

ぶく(1362ねん—1440ねん),如錫ごう後樂こうらく中書ちゅうしょしょうえき都路みやこじ濰州あきら邑縣いま山東さんとうしょうあきら邑縣にん明朝みんちょう政治せいじ人物じんぶつぶくためこうなおやすみなみぞくあかり時期じきにん首位しゅい交趾承宣布せんぷせい使ぬのせい使けんひさげけい按察使按察使おくふとしおくりなちゅうせん

生平おいだいら

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ひろしたけけんぶんねん

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あきらひろしたけじゅうななねん福中ふくなか舉人きさきいれふとしがく歷任れきにん金吾きんご前衛ぜんえい經歷けいれき上書うわがきろん國家こっか大事だいじ明太めんたいしゅもとあきら讀後感どくごかんいたおどろきいぶかます其為こうみぎさむらいろう[1]たてあや年間ねんかん明惠あきえみかど倚任ぶくやすしなんやくときしゅせい奸黨じゅうきゅうにんめいたんぶくれつ其中。しゅ棣攻いれ南京なんきんおうてんきさきぶくむかえけいたかし指出さしでぶくため奸黨,ぶく回答かいとうどう:“しんかたおうただしため奸黨,のりしんこころふく。”しゅ棣不ついとい恢復かいふく其官しょくひさしょうにんためこう尚書しょうしょ[2]

えい乐年间

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永樂えいらくさんねんちんあきら彈劾だんがいぶくからだ工匠こうしょう,於是あらためため北京ぺきん行部ゆくべ尚書しょうしょつぎねんいんごと連坐れんざ逮捕たいほいれにしきころもごくきさき為事しごとかんひさ恢復かいふく官職かんしょくいんあかりぐん進攻しんこうやすみなみ,其負せめ總督そうとくぐん[3]

やすみなみ平定へいていきさき明朝みんちょうあらためやすみなみため交趾,しょうやすみなみぞくあかり時期じきしゅ棣命ぶく以尚しょあたま兼任けんにん交趾うけたまわ宣布せんぷせい使ぬのせい使けんひさげけい按察使按察使とう時局じきょくぜいはつじょう戰爭せんそうためどめ,而事務じむ卻更しげるじゅうぶくずいごとせいむべ使つかいとくかくことみなゆう條理じょうり。其上疏請求せいきゅう統一とういつ交趾ぜい,并酌じょうしたがえけい。并請求せいきゅう沿江設置せっちまもるしょかずえき站,以方便びんみぞどおり交流こうりゅう。此外開通かいつう經常けいじょうあずかしおぎょう交易こうえき使つかいとく軍隊ぐんたいもうか備有しょ保證ほしょう。此外以公補充ほじゅう官員かんいん俸祿不足ふそく問題もんだいかえ請求せいきゅう廣州こうしゅうきゅうじゅうまんせき海運かいうん補給ほきゅうひとしいた批准ひじゅん。此外,かえたい交趾地區ちく進行しんこう戶籍こせき編制へんせい、并定ぜい設置せっち學校がっこう并安はい教師きょうし數次すうじあずか當地とうちみん眾宣さとしとく,并嚴謹下ぞく不要ふよう擾民。於是,やす南境みなみざかい內得以穩じょう當時とうじ朝廷ちょうていちゅう貶官いん往往おうおう謫交趾者眾多,ふく以拯恤,并選ゆう賢才けんさい者共ものどもごと,於是いたりしゃ如歸[4]鎮守ちんじゅちゅうかんうまとうひと虐待ぎゃくたい平民へいみんぶく屢次さいそもそもうま騏不ふくそく妄稱ぶく謀反ぼうほんしゅ棣查あかりきさきついとい[5]ぶくざい交趾任官にんかんじゅうきゅうねん離任りにん,交趾みん號泣ごうきゅうしょう扶送べつ[6]

ひろし熙宣とく年間ねんかん

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明仁あきひとむね即位そくいきさきぶく召還しょうかんにんけんかん詹事こと,并輔じょ太子たいししゅ瞻基[7]じんむねくずしきさき,其督こうけんじりょう[8]せんとく元年がんねんうまいんしいたげみん而激おこり交阯みんへん當時とうじちんひろし兵部ひょうぶ尚書しょうしょ代替だいたいぶく管理かんり交趾,其屢上奏じょうそう乞求ぶくかいにんじゅんなで當時とうじ福正ふくしょうたてまつ使つかい南京なんきんせんむねしも敕稱:“きょうめぐみあい交人ましとひさ交人ましとおもえきょう,其為ちんさいくだり。”於是以工尚書しょうしょけん詹事あたま銜,せめ交趾地區ちくうけたまわ宣布せんぷせい使ひさげけい按察使こと[9]。而其つよしいたときやなぎます戰敗せんぱい而亡ぶく逃走とうそうざい到達とうたつ雞陵せきとき當地とうち義兵ぎへい逮捕たいほぶくよく自殺じさつ。交趾叛軍はんぐんはい哭泣どう:“您是交趾てき父母ちちははかん。如果您當時とうじぼつはしわが們這些人也不いたり於走いたいち。”はじむ聽後またしょう:“中國ちゅうごく派遣はけんてき交趾官員かんいん,如果人人ひとびと如黃尚書しょうしょ這樣,わが們又怎會謀反ぼうほん?”於是じん守護しゅご,并贈おく白金はっきん糧食りょうしょくおく其出さかいがい[10]ぶくざい到達とうたつりゅうしゅうきさき所得しょとくたからひとし交公。かいきさき擔任たんにんくだりざいこう尚書しょうしょ[11]

せんとくよんねん,其與平江ひらえはく陈瑄一同いちどう管理かんりこげうん,并商議しょうぎれい各地かくちこげかてうん淮安あずかふりしゅう,兌與まもるしょうたてうん河南かなん大名おおなしょうなだ兌與さえぎようそう海運かいうん山東さんとうそく于濟やすし兌與ぐんうんぐんうん費用ひようよし百姓ひゃくしょううけたまわとう,以免除めんじょ其因こげうん而耽あやまのうせわしせんむね聽後批准ひじゅん該策。明朝みょうちょうこげうんあらためため兑運,此為はじめ[12]つぎねん,其陳げん進行しんこうへいたむろてき重要じゅうようせい,以解決かいけつひだるあらせんむね批准ひじゅん,并命吏部ろうちゅうちょうしんとうひとせめ管理かんり屯田とんでん,而由ぶくにん總裁そうさい。此後あらためためぎょうざい戶部とべ尚書しょうしょ[13]

せんとくななねんせんむねざい宮中きゅうちゅうりゅうらんぶく呈上ていじょうてきこげごと便宜べんぎ疏》,并向楊士しめせもんどう:“ぶくてき言語げんご智慮ちりょ深遠しんえん,六卿中有誰可以媲比的?”楊士こたえどう:“福受ふくじゅ于太正直しょうじきあかりはて一心いっしんため國家こっか永樂えいらく初年しょねん在任ざいにん北京ぺきん行部ゆくべ,其撫恤民ざい交趾したがえかん總裁そうさいはんけん。其所有しょゆう成就じょうじゅ的確てきかく六卿都無法比及的。ぶく現在げんざいやめけいななじゅうさいりょう現在げんざい後進こうしんてきとしけいじんざいおおやけどうさと做事,而黃ぶくよんあさ重臣じゅうしん,卻仍しか朝夕あさゆう奔走ほんそう而勞,這的かく國家こっかゆうろうけいけんみち啊。”せんむね聽後しょう:“如果你說わがかえ不知ふち。”楊士またしょう:“南京なんきんため國家こっか根本ねもとしげる先帝せんてい以儲みやかんこくぶく老成ろうせい忠直ただなお無論むろん緩急かんきゅうひとし倚仗。”せんむね表示ひょうじ同意どういいのちぶくにん南京なんきん戶部とべ尚書しょうしょだいねんけんてのひら南京なんきん兵部ひょうぶごと[14]

正統せいとう年間ねんかん

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あきらえいむね即位そくいきさきためしょうこれさんさん南京なんきん守備しゅびじょうじょうはくたかしつとむこれ南京なんきんぶんしんさんつとむてき慣例かんれいゆかりぶくはじめたかし多用たようぶく建言けんげん使つかいとく南京なんきんせい肅民やす正統せいとうねん正月しょうがつぶく於任じょうとしななじゅうはちさい[15]

ぶくためじん禮儀れいぎ修整しゅうせい妄言ぼうげんわらい。其為ろくあさ官員かんいんゆうけんじゅためじん正直しょうじき清廉せいれん寬恕かんじょ他人たにん,做官不為ふため赫名而行事ぎょうじほそ謹。此外,ぶくたてまつ節約せつやく家人かじん僅給衣食いしょく所得しょとく俸祿,卻只ようらい解決かいけつ賓客ひんきゃく親戚しんせきてききゅうこま當初とうしょ明成めいせいうつし大臣だいじんじゅうにんてき名字みょうじいのちかい評價ひょうかただゆうぶくどく“秉心えきじき確乎かっこゆうもり”而無にんなん貶詞[16]ぶくさんさん南京なんきん,曾經すわ隆一りゅういちがわ。楊士得知とくちきさきしょう:“怎麼ゆずる重臣じゅうしんすわざいいちつくり?”ぶくそくしょう:“哪讓しょうたもてまいりさん守備しゅびまた怎麼せつ?”於是さい改變かいへん當時とうじたかしたいまちぶく非常ひじょう恭敬きょうけいたかし退すさしもきさきそく推黃ぶくため上座かみざぶくまた[17]。楊士ざいしょうみちきむりょう聽聞ちょうもんぶくとくびょうきさき趕往もちぶくそくおどろきしょう:“您輔佐ほさ幼主ようしゅいちにち不可ふかはなれひらき左右さゆう奈何いかん跑到這麼とおしょ?”楊士聽後ふかおもて嘆服[18]當時とうじ兵部ひょうぶさむらいろうじょ使やすみなみかいあさ福與ふくよ其在南京なんきんせき城門じょうもん外相がいしょうじょ琦指ちょぶくといやすみなみらい使つかいどう:“你認識にんしき這位大人おとな么?”其答どう:“交趾てき草木くさき知道ともみち大人おとなわがまた怎會識?”[19] ぶくきさきおく謚一ちょくぼつゆう群臣ぐんしん紛紛ふんぷん議論ぎろん不平ふへいちょくいたなり初年しょねんさいおくふとし,謚ちゅうせん[20]

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ あかり》(まき154):“ぶく如錫,あきら邑人。ひろし武中たけなかゆかりふとし學生がくせいれき金吾きんご前衛ぜんえい經歷けいれき上書うわがきろん國家こっか大計たいけいふとしちょうはいこうみぎさむらいろう。”
  2. ^ あかり》(まき154):“けんぶん深見ふかみ倚任。なりれつ奸黨じゅうきゅうにん福與ふくよ焉。なり入京にゅうきょうぶくむかえけいたかしゆびぶく奸黨,ぶく曰:“しんかたおうただしため奸黨,のりしんこころふく。”みかどおけ不問ふもんふく其官。いくはいこう尚書しょうしょ。”
  3. ^ あかり》(まき154):“永樂えいらくさんねんちんあきら劾福工匠こうしょうあらため北京ぺきん行部ゆくべ尚書しょうしょ明年みょうねんすわこと,逮下みことのりごく,謫充為事しごとかんやめ復職ふくしょくとくやすみなみぐん餉。”
  4. ^ あかり》(まき154):“やすみなみすんでひらめこおりけん其地,いのちぶく以尚しょてのひらぬのせい、按察つかさごととき遠方えんぽうはつじょう軍旅ぐんりょいき庶務しょむ繁劇はんげきぶくずいごとせいむべ,鹹有條理じょうりうえ疏言:“交阯ぜい輕重けいちょう不一ふいつ,請酌じょうつとむしたがえけいしょう。”また請:“循瀘江北こうほくきしいたる欽州,しつらえまもるしょおけえき站,以便往來おうらいひらきちゅうせきしお使つかい商賈しょうこ輸粟,以廣ぐんもうか官吏かんり俸廩,くらあわ不足ふそくそくきゅう以公でん。”またげん:“廣西ひろせみん饋運,陸路りくろ艱險,むべれい廣東かんとん海運かいうんじゅうまんせき以給。”みなほう。於是へん氓籍,ていぜいきょう學校がっこうおけかんかず召父ろうせんさとしとく,戒屬吏毋苛擾。一切いっさい鎮之以靜,上下じょうげじょうしかとき群臣ぐんしん以細謫交阯者眾,ぶく鹹加拯恤,甄其賢者けんじゃあずかきょうことゆかりいたりしゃ如歸。”
  5. ^ あかり》(まき154):“鎮守ちんじゅちゅうかん騏怙ちょうしいたげみんぶくすうさいそもそも。騏誣ぶくゆうことみかど察其妄,不問ふもん。”
  6. ^ あかり》(まき154):“ぶくざい交阯凡じゅうきゅうねん。及還,交人ましと扶攜はしおく號泣ごうきゅうにんべつ。”
  7. ^ あかり》(まき154):“ひとしむね即位そくい召還しょうかんいのちけん詹事,輔太。”
  8. ^ あかり》(まき154):“ひとしそうくずしとくけんじりょうこう。”
  9. ^ あかり》(まき154):“せんとく元年がんねんうま騏激交阯ふく叛。ときちんひろし以兵尚書しょうしょだいぶくるいそう乞福かえなで交阯。かいぶくたてまつ使つかい南京なんきん,召赴闕,敕曰:“きょうめぐみあい交人ましとひさ交人ましとおもえきょう,其為ちんさいくだり。”仍以こう尚書しょうしょけん詹事,りょうつかさごと。”
  10. ^ あかり》(まき154):“いたりやなぎますはいぶくはしかえいたり雞陵せきためぞくしょよく自殺じさつぞくはい泣曰:“おおやけ,交民父母ちちはは也,おおやけわが曹不いたり此。”力持ちからもちはじむとぎ聞之曰:“中國ちゅうごく官吏かんり交阯,使つかい人人ひとびと如黃尚書しょうしょわがあにはん哉!”ひとはせ守護しゅご,饋白きん、餱糧,かた輿こし送出そうしゅつさかい。”
  11. ^ あかり》(まき154):“いたりりゅうしゅうつきところのこかんかえためぎょうざいこう尚書しょうしょ。”
  12. ^ あかり》(まき154):“四年與平江伯董漕事,れい江西えにしみずうみひろ浙江せっこう及江南北なんぼくしょぐんみんりょう遠近えんきんてんあわ於淮、じょ、臨清,而令ぐんせっうんいたり北京ぺきんみんだいしょう便びん。”
  13. ^ あかり》(まき154):“五年陳足兵食省役之要。其言あししょくいい:“永樂えいらくあいだ雖營けん北京ぺきんみなみ討交阯,きたせい沙漠さばくよう嘗乏。比國ひこくだい,而歲よう僅給。そく不幸ふこう有水ありみずひでりせい調ちょうはたなに以濟?請役みさお營繕えいぜんぐんじゅうまんにん,於濟やすし以北いほくまもるてるてい以東いとうえんかわたむろしゅ初年しょねんしょくねんじんおさむせきさん年收ねんしゅうばいすんでしょうきょうくら口糧こうりょうろくじゅうまんせきまたしょうもとまもるがつかてひゃくじゅうまんせきさいとくひゃくはちじゅうまんせき。”みかど善之よしゆきしたぎょうざいへいかく張本ちょうほんごと:“えんかわ屯田とんでん便びん,請先以五萬頃ばんけいためりつはつ附近ふきんきょみんまんにん墾之。ただし山東さんとう近年きんねんひでりひだるりゅう徙初ふくまもるそつちからやくむべ先遣せんけんかんぎょう以俟開墾かいこん。”みかどしたがえこれいのち吏部ろうちゅうちょうしんとう經理けいり屯田とんでんぶくそう其事。すんで而有げん軍民ぐんみんかくゆうつねぎょうわかふく分田ぶんだやくえきろう擾,こと竟不ぎょうあらため戶部とべ尚書しょうしょ。”
  14. ^ あかり》(まき154):“ななねんみかど於宮ちゅうらんぶくこげごと便宜べんぎ疏》,以示楊士曰:“ぶくげん智慮ちりょ深遠しんえんろくきょうちゅうだれりんしゃ?”たい曰:“福受ふくじゅふとし正直しょうじきあかりはていち國家こっか永樂えいらくはじめけん北京ぺきん行部ゆくべ,綏輯雕瘵,及使交阯,そうはんけん具有ぐゆう成績せいせきまことろくきょうしょ及。ぶくねんななじゅう矣,しょ後進こうしん少年しょうねんだかすわおおやけどう政事せいじぶくよんあさ舊人きゅうじん,乃朝くれ奔走ほんそうろうせがれこと國家こっかゆうろうけいけんみち。”みかど曰:“なんじ聞此ごと。”また曰:“南京なんきん根本こんぽんじゅう先帝せんてい以儲みやかんこくぶく老成ろうせい忠直ただなお緩急かんきゅう倚。”みかど曰:“しか。”明日あしたあらためぶくかん南京なんきん明年みょうねんけんてのひら南京なんきん兵部ひょうぶ。”
  15. ^ あかり》(まき154):“えいむね即位そくいしょうたもてまいりさん南京なんきん守備しゅびじょうじょうはくたかしつとむとめぶんしんさんつとむぶくはじめたかしようぶくごとせい肅民やす正統せいとうねん正月しょうがつそつねんななじゅうはち。”
  16. ^ あかり》(まき154):“福豐ふくとよ修整しゅうせい妄言ぼうげんわらいれきごとろくあさしょ建白けんぱく公正こうせいかどじょもとまこと於人。とうかん不為ふため赫赫かくかくめいこと微細びさい謹。憂國ゆうこく忘家,ろう而彌あつたてまつ甚約,妻子さいし僅給衣食いしょく所得しょとく俸祿,おもんみまち賓客ひんきゃくしゅう匱乏而已。はつなりしゅ大臣だいじんじゅうにんいのちかい縉評おもんみ於福おふく曰:“秉心えきじき確乎かっこゆうもり。”しょう貶。”
  17. ^ あかり》(まき154):“ぶくさんさん南京なんきん,嘗坐たかしがわよせごえ曰: “あにゆうきょう而旁すわしゃ?”ぶく曰:“焉有しょう而贊守備しゅびしゃよこしま?”そつ不變ふへんしかたかしまちぶく甚恭。おおやけ退すさそく推福じょうすわぶくまた。”
  18. ^ あかり》(まき154):“はぶけはか也,みち南京なんきん,聞福やまし,往候ぶくおどろき曰:“おおやけ輔幼ぬしいちにち不可ふか左右さゆう奈何いかん遠出とおで?”ふかふく其言。”
  19. ^ あかり》(まき154):“兵部ひょうぶさむらいろうじょ琦使やすみなみかい福與ふくよしょう石城せきじょう門外もんがいあるゆびぶくといやすみなみ來者らいしゃ曰:“なんじ識此大人おとな?”たい曰: “みなみ草木くさきまたおおやけめいやす識?””
  20. ^ あかり》(まき154):“ぶくそつおく謚不及,ろん不平ふへいなりはつはじめおくふとたもて,謚忠せん。”
かん
前任ぜんにん
ていたまものいむしんただし
明朝みょうちょうこう尚書しょうしょ
1402ねん—1405ねん
つぎにん
そうあや
前任ぜんにん
明朝みょうちょう交趾ぬのせい使けん按察使
1407ねん—1424ねん
つぎにん
ちんひろし