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ぜんはじむあさ

维基百科ひゃっか自由じゆうてき百科ひゃっかぜん
ぜんはじむあさ
Nhà Tiền Lê
980ねん—1009ねん
前黎朝所在的位置(右上角藍色部分)
ぜんはじむちょう所在しょざいてき位置いちみぎ上角うえすみ藍色あいいろ部分ぶぶん
首都しゅとはな
宗教しゅうきょう
佛教ぶっきょう
政府せいふ君主くんしゅせい
皇帝こうてい 
• 980-1005
はじむ (くび)
• 1005
はじむちゅうむね
• 1005-1009
はじむあさみかど (まつ)
历史 
• はじむ受禪じゅぜん
980ねん
• こう篡位
1009ねん
前身ぜんしん
继承
ひのとあさ
あさ (こしみなみ)

ぜんはじむあさえつみなみNhà Tiền Lê茹前はじむ),ためえつみなみ歷史れきしまと朝代あさしろいちよしはじむ建立こんりゅう立國りっこく期間きかんため980ねん-1009ねん

はじむ桓原ためひのとあさてきじゅうみち將軍しょうぐんざいひのと廢帝はいていつぎどく攬大けん。980ねんはじむ桓受朝臣あそん擁護ようご,篡位建立こんりゅうぜんはじむあさ(疆域やく相當そうとう現時げんじこしみなみ北部ほくぶ)。宋朝そうちょう聞丁あさ篡位派兵はへい南下なんかはじむ桓率ぐんふくげき成功せいこうげきはいそうぐんこれはじむ桓與そうどおりこう獲得かくとく宋朝そうちょうさつふうはじむ桓得こく在國ざいこく內制定律ていりつれい整頓せいとん政務せいむなみ平定へいていすすきぞくためぬしてき內亂。1005ねんはじむ桓逝諸子しょしそうりつはじむちゅうむねとくひさはじむりゅうそくあさ皇帝こうていしょころせりゅう自立じりつせいこう殺戮さつりく,1009ねんなおよう大將たいしょうこう擁立ようりつためみかど建立こんりゅうちょうぜんはじむあさほろび

政局せいきょく發展はってん

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はじむ桓奪けんしょうみかど

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ぜんはじむちょう開國かいこく君主くんしゅはじむ

ぜんはじむちょうてき開國かいこく君主くんしゅはじむあいしゅうひとはらただしひのとあさ將領しょうりょうかんいたりじゅうみち將軍しょうぐん」。[1]979ねんちょうちょう帝位ていいよしねんろくさいてきちょうつぎにんはじむ桓任「ふくおう攝政せっしょうちょうちょう大臣だいじん阮匐ちょうつくだ范盍とう憂慮ゆうりょはじむ桓會たいしょうしゅ不利ふり,乃共どうおこりへい桓。はじむ在朝ざいちょうちゅういたちょうちょうたいきさき楊氏支持しじ出兵しゅっぺい擊破げきは阮匐、ちょうつくだ、范盍とうじん掃除そうじ其掌けん障礙しょうがい[2]

ちょうちょうてき內部鬥爭,引起中國ちゅうごく宋朝そうちょうてき注意ちゅうい。980ねんそうふとしそう皇帝こうてい聽從ちょうじゅう廷臣ていしんやすみなみこしみなみ)內擾,此天ほろびあき朝廷ちょうてい不意ふい用兵ようへい襲擊しゅうげき所謂いわゆるやましかみなり及掩みみてき見解けんかい,於該ねんのうれきなながつほうひとしたからとうりつへい南侵なんしんちょうちょう楊太きさきいのちはじむ桓選勇士ゆうしこばめてきはじむ桓及大將軍だいしょうぐん范巨倆(《えつりゃくさく范巨備)出擊しゅつげき。范巨倆臨ぎょうみとめためこん主上しゅじょうちょう幼弱ようじゃくわが眾雖竭死りょく外侮がいぶだつゆう尺寸しゃくすんこう,其誰知之ともゆき如先さつじゅうどうゆびはじむ桓)ため天子てんししかこう出師すいし可也かなり」,ぐん「咸呼まんさい」,以表贊同さんどう,楊太きさきまたはじむ桓已いた「眾心悅服えっぷく」,於是請黎桓即位そくいはじむ桓便そく皇帝こうていあらため年號ねんごう天福てんぷく」,建立こんりゅうぜんはじむあさ[3]ていはな[4]

對抗たいこうそうぐん

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はじむのぼりはじめためみかど後世こうせいまたしょうためだいくだり皇帝こうてい」),そくちょしゅたいづけ宋朝そうちょう軍隊ぐんたいはじむ桓先おかせようちょう廢帝はいていちょう璿的名義めいぎむかいそうふとしむね上表じょうひょう希望きぼうそう廷「俯憐其過,しのぶざい[5]ざいれい宋朝そうちょう暫緩其兵,ただしはてはじむ桓見外交がいこうみちやめなりこう便びん整頓せいとん備。そう廷亦派出はしゅつほうひとしたからまごぜんきょうとうりつぐん討伐とうばつ翌年よくねん(981ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくねん),そう軍水ぐんすいしん白藤しらふじこうはじむ桓守ぐん撤退てったいそうぐん追擊ついげきいたささえざいこんえつみなみりょうさんはじむ桓遣士卒しそついつわりくだほうひとしたから將之まさゆきさそえころせつぎ出兵しゅっぺいつぶせげきそうぐん[6]

はじむ桓獲しょうしるべちょぜんはじむちょう解除かいじょりょう宋朝そうちょうてきおびえ,「ゆかりうみ內大じょう[4]戰後せんごはじむ桓於982ねんはじむだいくだり天福てんぷくさんねんはるいん顧慮こりょいた宋朝そうちょう野心やしんいき,「おわりぎょう討滅」,しょ以遣使いた中國ちゅうごく上表じょうひょう謝罪しゃざい,且貢かたぶつ[7]そうえつ兩國りょうこくてきせんごととげつげ一段落いちだんらく

平定へいてい內亂

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はじむ在位ざいい期間きかんえつ南國なんごく內曾發生はっせいすうみん眾起ごと。這些動亂どうらんよりどころ史家しかちんなかきん分析ぶんせきすすきじんしょほら各州かくしゅうぐんひとはん叛」[8]はじむ桓於致力鎮壓ちんあつ

989ねんはじむだいくだりみかどきょうすべ元年がんねん),かんかぶと官職かんしょくめい楊進祿ろくざい驩州あいしゅうさくみだれはじむ桓率へい征討せいとう殘酷ざんこく鎮壓ちんあつ,「ころせしゅうじん不可ふか勝紀かつのり」。[9]996ねんはじむだいくだりみかどおうてんさんねんのうれきがつはじむ桓親せい擊破げきは麻黃まおう大發だいはつ丹波たんばよんほら。 997ねんはじむだいくだりみかどおうてんよんねんなながつはじむ桓親せいもりほらこうぞく。 999ねんはじむだいくだりみかどおうてんろくねん),はじむ桓親せいなんほらまたたたえなん蠻洞,ざいこんえつみなみきよししょうとうよんじゅうきゅうほられいもろしゅうほらみなりつふく」。1001ねんはじむだいくだりみかどおうてんはちねん),はじむ桓親せい莒隆げきはい當地とうちぞく眾。1003ねんはじむだいくだりみかどおうてんじゅうねん),はじむ桓到驩州くらしゅう一帶いったいざいぶた地區ちく發生はっせい人民じんみん叛變,ただしはじむ桓處,以儆こうゆう[10]

はじむ諸子しょし爭奪そうだつ皇位こうい

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だいくだり皇帝こうていはじむ晚年ばんねん,曾為冊立さくりつ太子たいしてき問題もんだい煩惱ぼんのう。1000ねんはじむだいくだりみかどおうてんななねん),すめらぎ長子ちょうし擎天大王だいおうはじむりゅう[10]はじむ桓遂於1004ねんはじむだいくだりみかどおうてんじゅういちねん打算ださん冊立さくりつだい皇子おうじ開明かいめいおうはじむりゅうため太子たいしただしちょうちゅう官員かんいんみとめため立長りっちょう而立じりつ非禮ひれい也」,いん而立じりつだいさん皇子おうじみなみふうおうはじむりゅうため太子たいしなみふうはじむりゅう鋌為「開明かいめい大王だいおう」。[11]

1005ねんはじむだいくだりみかどおうてんじゅうねんのうれきさんがつだいくだり皇帝こうていはじむ,眾子あいだずい即發そくはつせいだつそうさいさき參與さんよ鬥爭てきゆう太子たいしはじむりゅう鉞、はじむ桓第東城とうじょうおうはじむりゅうすずだいきゅう中國ちゅうごくおうはじむりゅうきょうだい五子開明大王黎龍鋌。そう持續じぞくきゅう個月かげつざい此期あいだ皇位こういかかむなしいた該年じゅうがつはじむりゅうすず太子たいしはじむりゅう鉞擊はい逃亡とうぼううらないばば途中とちゅうかむ石河いしかわしゅうひとしょころせあずか此同はじむ桓第ろく禦北おうはじむりゅうまた加入かにゅう鬥爭,よりどころもり扶蘭寨なみとく份國じん。而在國ざいこくはなはじむりゅう即位そくいただし僅三天即被黎龍鋌所殺。りゅう鋌即皇帝こうていつい謚龍鉞為「ちゅうむね皇帝こうてい」。[12]

はじむりゅう鋌奪後來こうらいいん患有痔疾じしつ,「而視あさ」,またしょうためあさ皇帝こうてい[13]),禦北おうはじむりゅう釿與中國ちゅうごくおうはじむりゅうきょう聯合れんごうざい扶蘭繼續けいぞく對抗たいこうはじむりゅう鋌親せい扶蘭,かこえおさむすうがつはじむりゅう釿知けいきゅうぜいこごめ便びんとりこはじむりゅうきょう投降とうこうはじむりゅう鋌即しょはじむりゅうきょう,而寬恕かんじょはじむりゅう釿。這時,なおゆうはじむ桓第よん禦蠻おうはじむりゅうくぎよりどころもりみねしゅうはじむりゅう鋌旋そくりつへい討平。いたり此,はじむりゅう鋌才ひらいき兄弟きょうだい內鬨,だい致上穩住大局たいきょく,「諸王しょおう盜賊とうぞくみなふく」。[14]

あさ帝政ていせいきょく

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はじむりゅう鋌奪とく帝位ていい繼續けいぞく征討せいとうこく內的反抗はんこう勢力せいりょく降服こうふく扶蘭寨こうひさはじむりゅう鋌到あいしゅう鎮壓ちんあつ莒隆ぞく。1008ねんはじむあさみかどけいみず元年がんねん),はじむりゅう鋌親せいみやこりょうしゅう渭龍しゅう擊破げきは當地とうち蠻人ばんじん部落ぶらくまたせい驩州せんやなぎしゅう等地とうち。1009ねんはじむあさみかどけいみずねん),のうれきなながつはじむりゅう鋌征驩唐しゅう石河いしかわしゅう等地とうちただしいたたまきこう附近ふきん海面かいめんいん如大ふうふね無法むほう行進こうしん而回。

而黎りゅう本身ほんみ也有やゆうしょうきょうざん行為こういざい平定へいていなみしゅう、渭龍しゅうはじむりゅう鋌下れいつえげき俘虜ふりょ,「蠻人ばんじん甚痛,啼號屢犯だいぎょうゆびはじむいみなみかどえつ甚」。平定へいてい驩州、せんやなぎしゅう所得しょとくせん俘,「さく囷納じん其中而焚」。たい臨刑てきざいはんはじむりゅう鋌下れいようちがやくさ捆綁,なみよう火燒ひたきつみはんやきいたり重傷じゅうしょうたてこくいのちじんようがたなかいひらけ捆綁,つみはんなみたてこく致死ちしはじむりゅう鋌則以此取らくよしはじむりゅう鋌的種種しゅじゅ殘酷ざんこく行為こういたいまえはじむ朝政ちょうせいきょく造成ぞうせい不良ふりょう影響えいきょうえつみなみ史家しかれん就將中國ちゅうごく古代こだいてきなつしょうそうみとめため「其促ほろび也豈しょ哉」。[15]

こう蘊代はじむ

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だいぜんはじむちょう另建ちょうてきこう

1009ねんはじむあさみかどけいみずねんのうれきじゅうがつはじむりゅう鋌去太子たいしねんようはじむりゅう鋌的おとうとおとうとはじむりゅうはじむりゅうおこりへいそうりつただし卻被しゅにぎじゅうへいてきこう時任ときとうひだり親衞しんえい殿どのぜん指揮しき使ところおさむころせ[16]あずか此同祗候しこうすえあますすむこう:「あいだしゃ主上しゅじょうゆび先帝せんていはじむりゅう鋌)昏暴,くだり不義ふぎてんいや其德,どるかつおわりことぶき嗣子ししようおきこらえ多難たなん,庶事はん擾,ひゃくかみ靡懷,したみん嗷嗷,以求しんぬし。」於是,こう蘊獲群臣ぐんしん擁立ようりつためみかど建立こんりゅうちょうぜんはじむちょう滅亡めつぼう[17]

制度せいど

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分封ぶんぽう諸王しょおう

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ぜんはじむちょうざいだいくだり皇帝こうていはじむ時期じき,就分封ぶんぽう諸王しょおう,「諸子しょし以次受封,ふんしゅうぐん[18]。這種鎮守ちんじゅかく重要じゅうよう區域くいきてき分封ぶんぽう制度せいどざいきょう中央ちゅうおう政權せいけんてきひかえせい[19]はじむ桓所分封ぶんぽう諸子しょし情況じょうきょう分列ぶんれつ如下:

其後,あさみかどはじむりゅうとくまた奉行ぶぎょう分封ぶんぽう諸子しょしためおうてき政策せいさくふう長子ちょうしはじむため開封かいふうおう」;紹理ためすわえおう」,きょ於左;紹興しょうこうためかんおう」,きょ於右。[14]

官制かんせい

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はじむ開國かいこく參考さんこうりょう中國ちゅうごくからあさ中央ちゅうおう官制かんせい設立せつりつ官職かんしょくれい如在986ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくななねん),はじむ桓命じょきよしためそうかんせめせんてのひら軍政ぐんせい)、ぐん民事みんじ任命にんめい吴子やす辅国またいのち范巨倆にんふとしじょう[22]ざい地方ちほう官制かんせいじょうはじむ桓沿かさねちょうせいはた全國ぜんこく轄境ぶんためじゅうみち」,まい道下みちしたおけしゅうけんしゃ所有しょゆう官員かんいんひとしよし皇帝こうてい任免にんめん[23]いたはじむ桓的晚期ばんき,1002ねんはじむだいくだりみかどおうてんきゅうねん),またあらためじゅうどうためみちしゅう[10]

いたあさみかどとく,1006ねんはじむあさみかどおうてんじゅうさんねん),たいぶん武臣ぶしん僚及そうどう官制かんせい及朝ふくゆうしょ變更へんこう,「いち遵於そう」。[14]せき當時とうじ仿的宋朝そうちょう官服かんぷくかんむりぼう制度せいど,《欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく記載きさいどう:「そうちょうふくかんむり有三ゆうぞういち曰進けんかんむり一品いっぴんひんふく曰貂蟬冠,しょつかささんひんだいさんひん兩省りょうしょうひんふくさん曰獬豸冠,よんひんいたりろくひんふく公卿くぎょう以上いじょうふくむらさきひん以上いじょうふくしゅななひん以上いじょうふくみどりきゅうひん以上いじょうふくあお。」[24] 卧朝みかど时期,はじむちょう官制かんせい逐渐かん备,文官ぶんかん中出なかいで现“てのひら书记”てき职务,《欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく記載きさいどうあきらあきらあずかてのひら书记なりみやびけんじしろさい于宋。」[25]武官ぶかん现了“みやこただしてき职务,《欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく記載きさいどう:「とく矫行请凿みなと筑道りつ堠」[26],以及“防遏ぼうあつ使”这一统兵职务,《欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく記載きさい:「みかどいたり环江,使つかい防遏ぼうあつ使えびすもりえきりつ军五せんあまりじょ道路どうろ[27]

軍事ぐんじ

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ぜんはじむちょう時期じきてき兵制へいせいしたがえはじむ開始かいし,就承かさねひのとあさはた全國ぜんこくぶんためじゅうみちまいみちじゅうぐんまいぐんじゅうたびまいたびじゅうそつごとそつじゅうまいじゅうにん,十道之首由皇帝黎桓本人擔任,いん此能集中しゅうちゅう權力けんりょく[28]じょじゅうみちぐんがいはじむ桓又於986ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくななねんのうれきはちがつへんせんおやぐん,「せん其驍けんしゃ宿衞しゅくえいいいおやぐん』,みな黥額,涅『天子てんしぐんさん」。[29]

ぜんはじむちょう軍隊ぐんたいてきへいげん史籍しせき所載しょさいためしたがえみん眾中抽選ちゅうせん。986ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくななねんのうれきはちがつはじむ桓「てんみんためへい[30];1002ねんはじむだいくだりみかどおうてんきゅうねんのうれきさんがつ,「揀民ひのとたけし勇者ゆうしゃたかし隊伍たいご」。此外また整頓せいとん軍隊ぐんたい,「ぶん將校しょうこうためりょうはんみやつこかぶと鍪數せんいただき頒賜ろくぐん」。[31]

促進そくしんけい貿

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ぜんはじむちょうはじむ相當そうとう重視じゅうし經濟けいざい發展はってん。987ねんはじむ桓在たいやまいちめいりゅうたいやま)「こうせき」,そくおや下田しもだ工作こうさく,以示勵農ぎょう[32]

此外,はじむ改善かいぜん交通こうつうだいきょう建設けんせつとう措施,刺激しげきりょう社會しゃかい生產せいさんりょくてき發展はってん增加ぞうかりょうぜにぬさ鑄造ちゅうぞうてき重要じゅうようせいぜんはじむちょう鑄造ちゅうぞう貨幣かへいはじむ桓在天福てんぷく初年しょねん,曾沿かさねひのとあさ鑄造ちゅうぞう大平おおひらきょうたから」。[33]はじむ於984ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくねんのうれきがつ天福てんぷくぜに[30]。該貨幣かへいため銅錢どうせん直徑ちょっけいやくため24毫米,ぜにあなひろしやく7毫米,あつやく1毫米,じゅうやく2.7かつ[34]它的しきさま沿襲ひのとあさ大平おおひらきょうたから」,ぜにめんあらためこく天福てんぷく鎮寶」よん(「鎮」ざい前後ぜんごてき中國ちゅうごくぜにぬさぼつ出現しゅつげんためぜんはじむちょうくびそう可能かのうよし於越みなみ獨立どくりつ以前いぜん行政ぎょうせい區域くいきいちしょうため「鎮」而衍せい而來,また可能かのうゆう博大はくだい」、「重大じゅうだいとう引申よし),ぜに棄掉ばらさきてきひのとざいあなてき上方かみがたこくいちはじむ,以示區別くべつざい中國ちゅうごく南方なんぽうまた發現はつげんゆう天福てんぷく鎮寶」。[35]

ぜんはじむあさかえ很重あずか中國ちゅうごくてき貿易ぼうえき。1009ねんはじむあさみかどけいみずねん),あさみかどこう宋朝そうちょう提出ていしゅつざい邕州互通貿易ぼうえきてき建議けんぎそうかたそくあらためためざいれんしゅう在中ざいちゅうこく廣東かんとん)、如洪鎮在中ざいちゅうこく廣西ひろせりょうどおり[36]

尊崇そんすう佛教ぶっきょう

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佛教ぶっきょうざいぜんはじむあさ以前いぜんおのれざいこしみなみ流傳りゅうでんいたりはじむ桓時,舉國信奉しんぽうなみれい大興寺だいこうじいんまつびょう佛殿ぶつでん使つかい全國ぜんこくへんぬの佛教ぶっきょうしつらえほどこせこう不斷ふだん佛教ぶっきょう勢力せいりょくいん大盛おおもり高級こうきゅう僧侶そうりょまた皇帝こうていはじむ桓垂あおつつみ入朝にゅうちょう重任じゅうにん。較重要じゅうようてきゆうそうじんまんぎょう,曾在はじむ朝廷ちょうていこう君主くんしゅしん諫並どもしょう國事こくじはじむ桓又留意りゅうい佛教ぶっきょう經典きょうてん重用じゅうよううらないじょうこく人馬じんば父子ふしいのち們翻やく佛經ぶっきょうはじむ桓、あさみかどまた曾派いんいた中國ちゅうごく宋朝そうちょうけい[37]如在1007ねんはじむあさみかどおうてんじゅうよんねん),はじむあさ其弟黎明れいめいあきら攜貢ひんにゅうそう,「乞《大藏經だいぞうきょうぶん」,いた1009ねんはじむあさみかどけいみずねん黎明れいめいあきらとく大藏經だいぞうきょうぶん」而回。[36]

ぜんはじむちょうてきたかしふつまたためいちしゅがえ君主くんしゅ宣傳せんでんてき手段しゅだんはじむ桓得便びんはたひのとあさしゅせい人物じんぶつちょう在國ざいこくはなおさむけんてきひゃくあまり根石ねいしはしら上面うわつらこくゆう佛經ぶっきょう),破壞はかいあらためためはじむ佛經ぶっきょうばしら」(そくはじむすめらぎけいじょう),ためはじむ桓本人傳ひとづてめい[38]

建設けんせつ工程こうてい

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はじむ在位ざいい時期じきだいきょう土木どぼくとうちゅう包括ほうかつきょうおさむ宮室きゅうしつ、以及發展はってん交通こうつう運輸うんゆとう工程こうてい

よりどころえつりゃく所載しょさい,982ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくさんねん),はじむ桓鑑於南侵なんしんうらないじょうとき,「海路かいろ險阻けんそ,艱於去來きょらい」,於是開鑿かいさくみぞどう便利べんりせんせき航行こうこう(《大越おおこし史記しき全書ぜんしょ記載きさい在天ざいてんぶくよんねん,983ねん)。其後,ざい983ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくよんねん),またしたれいおさむけんひゃくたから千歲ちとせ殿どの」於火雲山くもやま一作いっさくだい雲山くもやま),みやつここう華麗かれい,「其柱裹以金銀きんぎんあずまけん風流ふうりゅう殿どの西にしたて榮華えいか殿どのひだりけんよもぎ萊殿,みぎけん極樂ごくらく殿どのつぎ構火くもろう一作いっさくだいくもろう),れんおこり長春ちょうしゅん殿でん,其側おこりりゅう祿ろく殿どの,盖以ぎんかわら」(《大越おおこし史記しき全書ぜんしょ記載きさい在天ざいてんぶくねん,984ねん)。[39]

ぜんはじむちょうてきだいきょう土木どぼく,曾惹起じゃっきみん不滿ふまん反抗はんこう。1003ねんはじむ桓駕こう驩州とき,於ぶた一地進行疏浚工程,以便せんうんただし卻遇いたぶた人的じんてき叛變,最終さいしゅうはじむ桓將鎮壓ちんあつ[10]

后妃こうひ制度せいど

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はじむ在位ざいい初期しょき,於982ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくさんねんたて皇后こうごういちどもめい分別ふんべつため大勝たいしょうあかり皇后こうごう楊氏たてまついぬいいたる皇后こうごうじゅんきよし明道あけみち皇后こうごうていこく皇后こうごう、范皇后こうごう[40]這種きさき制度せいどはじめひのとあさ,「しもいたりはじむまたこう而行」。[41]いたりあさみかどときまたたて皇后こうごうよんにん[42]

對外たいがい關係かんけい

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あずか中國ちゅうごく宋朝そうちょう關係かんけい

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981ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくねんそうはじむこれせん結束けっそく宋朝そうちょうざい一段時期內仍覬覦越南。982ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくさんねんのうれきさんがつ,「みねみなみうたてうん使もとなかせんすんで分遣ぶんけんみなみこれ,乃草げきさとし交州(ゆびえつみなみ),あかりこく威信いしん必再舉」。はじむ憂慮ゆうりょ宋朝そうちょうおわりぎょう討滅」,於是ようまえあさ皇帝こうていちょうてき名義めいぎ上表じょうひょう謝罪しゃざい,且貢かたぶつ」。[7]

此後,兩國りょうこく恢復かいふくそうはん關係かんけい使節しせつ往還おうかんみつきり。983ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくよんねんはるはじむ桓遣使どおりこう於宋,致送金銀きんぎんさいぞうとうぶつ。985ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくろくねん),そう廷與はじむ桓互使節しせつはじむ桓「もとめりょうふし」,そう廷即授與じゅよはじむ桓「やす南都なんとまもるたかし靜海しずみぐん節度せつどとうあたま銜。988ねんはじむだいくだり天福てんぷくきゅうねん)、990ねんはじむだいくだりみかどきょうすべねん雙方そうほうまた使節しせつ互訪。993ねんはじむだいくだりきょうすべねんさんがつそう廷冊ふうはじむ桓為「交趾ぐんおう」。[43]

995ねんはじむだいくだりみかどおう天元てんげんねん),そうはじむ關係かんけいいち出現しゅつげんきれこんよりどころ大越おおこし史記しき全書ぜんしょ所載しょさいはじむ桓看いたそうはばか於征やく」,乃乘山海さんかいけわしかたややたてみん侵掠しんりゃくそうさかい」。[21]該年春季しゅんき中國ちゅうごく廣西ひろせ地區ちく官員かんいん察覺いたはじむ桓有しょ舉動,こうそう報告ほうこくゆう交州せんせんひゃくそう,寇如洪鎮かすめきょみんこう廪食而去」。該年夏季かきはじむ桓從其治てきしげるしゅう出兵しゅっぺい入寇にゅうこう中國ちゅうごく邕州そうぐん擊退げきたいこうそうふとしそう皇帝こうていこころざしざいなでやすしあらふくよく問罪もんざい」。[44]

996ねんえつ南境みなみざかい內有殺人さつじんはん逃到宋朝そうちょうさかい內的如昔鎮在中ざいちゅうこく廣東かんとん),はじむ桓派官員かんいんおいただし遭當鎮將拒絕きょぜつかえしはじむかた官員かんいん就「ひょうげかすめ而去」。ひさしんうえにんてき廣西ひろせてんうん使ちん堯叟いた如昔鎮查あかり實情じつじょうそくはた犯人はんにんかええつみなみはじむ桓深ひょう感謝かんしゃこう宋朝そうちょう保證ほしょうやく勒溪峝不ふく騷動そうどう」。そう廷派わかつたなため使いたえつみなみ訪問ほうもんはじむ桓,はじむ桓卻「慢不為ふためれい」,こえごとぜん劫掠ごうりゃく如洪鎮的,そとさかい蠻賊」所為しょいあずかおのれ無關むせきわかつたな便びん指出さしで,如果はじむ桓面たいぞく寇時「ちから不能ふのうどくせい」,そう廷可以「はつ勁卒すうまん」,南下なんかえつみなみ,「かい交(こしみなみへい以剪めつ使つかい交、こう後患こうかん」。於是はじむ桓「頓首とんしゅしゃ」。[45]

997ねんはじむだいくだりみかどおうてんよんねん),そうふとしむねそう真宗しんしゅうつぎふうはじむ桓為「南平なべらおう」。ざい此之まえ宋朝そうちょう朝廷ちょうてい派出はしゅつてき使節しせつつね以「みつぎ鹹」ためゆかりざいえつみなみ聚斂。そうしんそう得知とくち,就令邊疆へんきょう官員かんいんせめ使さいしたがえ朝廷ちょうてい派出はしゅつせん使[46]

そう真宗しんしゅう仍與ぜんはじむちょう保持ほじみつきりせき往。998ねんはじむだいくだりみかどおうてんねんきゅうがつはじむ桓遣使にゅうそうけんじぞう。1001ねんはじむだいくだりみかどおうてんはちねん),そう廷加授黎桓「功臣こうしんしょう銜,はじむ入貢にゅうこうれいひん致謝。1002ねんはじむだいくだりみかどおうてんきゅうねんじゅういちがつそう廷加授黎桓「俸節功臣こうしんしょう銜。1004ねんはじむ桓派だいじゅういち黎明れいめいひさげ以「驩州刺史ししてき名義めいぎ使中國ちゅうごくそう廷對待遇たいぐう甚厚。[47]はじむ桓死あさみかどころせけい自立じりつ兄弟きょうだい內戰,宋朝そうちょう廣州こうしゅう知事ちじしのげさく乃於1006ねんはじむあさみかどおうだいじゅうさんねんろくがつこうそう真宗しんしゅう建議けんぎ「乞糧出兵しゅっぺい平定へいてい交州」,ただそう真宗しんしゅうみとめためはじむ桓既おさむみつげまた遺子いしにゅう覲,海陽かいようやすし謐,しつ忠順ただまさ」,なみ強調きょうちょうなに必勞みんどう眾,むさぼ無用むよう」。而因本國ほんごく戰亂せんらん滯留たいりゅう中國ちゅうごく廣州こうしゅうてき黎明れいめいひっさげのりそう廷安とみしかこうたまものぜにかえし[48]1007ねんはじむあさみかどおうてんじゅうよんねんなながつはじむりゅう鋌遣おとうと黎明れいめいあきらひとしにゅうそうもとめ大藏經だいぞうきょう》,そう廷又於八月封黎龍鋌為「交趾ぐんおう」,たまものめいいたりちゅう」。1009ねんはじむあさみかどけいみずねん),はじむりゅう鋌遣使にゅうそう進貢しんこうなみ要求ようきゅうざいそうさかい邕州互市ごしそう真宗しんしゅうみとめためあたりすみひかえ扼之いまあるちょく趨內こと頗不便びん」,とめもとれんしゅう如洪鎮互市ごし[49]

あずかうらないばばこく關係かんけい

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うらないばばこくまたたたえうらないじょう國土こくど大約たいやく相當そうとう於現いまこしみなみなか南部なんぶためぜんはじむちょうみなみ鄰,雙方そうほうつね發生はっせい衝突しょうとつはじむ開國かいこく,曾派使節しせついたうらないばばただし卻被うらないじん拘禁こうきんはじむ桓對此懷恨在しん便びん裝備そうび好戰こうせんせんへいかぶと,於982ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくさんねんおやせいうらないばば獲得かくとく大勝たいしょう,「浮獲士卒しそつ不可ふかかちけいみやひゃくにん,及天竺てんじくそういちにん,遷其重器じゅうきおさむきん銀寶ぎんぽ貨以まんすうえびす其城,毁其宗廟そうびょう」。[40]983ねんはじむ桓率へい征討せいとういん海路かいろ險阻けんそ,於是開鑿かいさくみぞどうれいこうどう通行つうこう[50]うらないばば國王こくおういん陀羅ばつよんせい中國ちゅうごく文獻ぶんけんさくほどこせ陀盤くれ歡」)たい於越人的じんてきれんばんいれおかせ,甚為不滿ふまん便びん於985ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくろくねん),むかい宋朝そうちょう要求ようきゅう交涉こうしょうそうふとしむねこたえくつがええつうらない雙方そうほうおうこくむつみ鄰」。[51]

いん陀羅ばつよんせい死後しご當地とうちてきえつみなみじんりゅうつぎむね自立じりつためうらないばばおうたいうらないばばみん實施じっし暴虐ぼうぎゃく統治とうちりゅうつぎむね死後しごうらないばばじんりついん陀羅ばつせいためおうえつみなみ文獻ぶんけんさくこおりおうある「俱尸叮呷はいあさ」,中國ちゅうごく文獻ぶんけんさく「楊陁はい」)。990ねんはじむだいくだりみかどきょうすべねん),はじむ桓乘うらないばばせきじゃく出兵しゅっぺい入寇にゅうこう奪取だっしゅまいるしゅうざいこんえつみなみ廣平ひろへいしょう等地とうち,俘獲甚多。[52]うらないばばおうさいつぎこうそう廷投訴「ため交州(ゆびえつみなみところおさむ國中くになか人民じんみん財寶ざいほうみな為所しどころりゃく」,そうふとしむね便びんつつみ醒黎桓,「かくれいさかい」。[53]992ねんはじむだいくだりみかどきょうすべよんねん),はじむ桓將在地ざいちまいるしゅうしょ擄獲てきさんひゃくろくじゅうじん,以及がらすさとしゅういま順化じゅんか歸還きかんうらないばば[20]994ねんはじむだいくだりみかどおう天元てんげんねん),うらないばば國王こくおうてき赴越使節しせついん禮節れいせつ問題もんだいれいはじむ不快ふかいいん而派おうまごせい入朝にゅうちょうぜんはじむあさ[21]

995ねんはじむだいくだりみかどおうてんねんいたり997ねんはじむだいくだりみかどおうてんよんねん),うらないばばれんばん出擊しゅつげきえつみなみ邊境へんきょう[54]はじむ桓便ざい997ねん擊退げきたいうらないばば軍隊ぐんたいこうそう廷投訴「本道ほんどうさかいせっうらないじょういち年間ねんかん,鄰部騷動そうどうかすめ近鄉きんごうぜいおかせ邊境へんきょう馴良,るいはつ兵戈へいかかれ捍禦,致稽朝貢ちょうこうふか憲章けんしょう」,そう廷「ゆうみことのりこたえ」,表示ひょうじ尊重そんちょうなみたまものきゅうたいかぶと[55]

うらないばば國王こくおう毗闍耶中國ちゅうごく文獻ぶんけんさく「楊普俱毗茶室ちゃしつはなれある「楊普俱毗ちゃいっほどこせはなれ」)在位ざいい時期じきかん於國いん陀羅ぜんはじむちょう軍隊ぐんたい破壞はかい便びん遷都せんとふつ(毗闍耶、ふつ逝都「Vijaya」譯名やくめい)。[56]1004ねんはじむだいくだりみかどおうてんじゅういちねん),はじむ桓派黎明れいめい提出ていしゅつ使宋朝そうちょうそう真宗しんしゅうとくやすはい於次ねん(1005ねんはじむだいくだりみかどおうてんじゅうねん正月しょうがつうえもとふし,請黎明れいめいひっさげあずかうらないばば大食たいしょくこく使節しせつ一同いちどうかんとうえんいん[57]此後,未見みけんぜんはじむあさあずかうらないばば雙方そうほう再起さいき交爭。

自然しぜん災害さいがい

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  • 982ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくさんねん),てんひだる[30]
  • 987ねんはじむだいくだりみかど天福てんぷくはちねん),農作物のうさくもつだいじゅく[9]
  • 993ねんはじむだいくだりみかどきょうすべ元年がんねんのうれきがつおのれついたち日食にっしょく[20]
  • 997ねんはじむだいくだりみかどおうてんよんねん),大水おおみず[46]
  • 998ねんはじむだいくだりみかどおうてんねんさんがつ地震じしんさんにち五月ごがつつちのえうまついたち日食にっしょく五月ごがつろくがつ份不,「みんじんびょうせき牛馬ぎゅうば」。じゅうがつへいいぬついたち日食にっしょく[9]

ぜんはじむちょうてき歷史れきし意義いぎ

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ぜんはじむちょうたい對外たいがいてき發展はってんひとしゆうしょ成就じょうじゅこしみなみ史家しかはじむかさ就指重要じゅうようせい:「はじむだいくだりようじゅう道之みちゆきけんぎょうこれごとしゅしょうくに危,じょう受命じゅめい,誅うらないじょうおも,以雪使つかいはじ。摧ちょうそう,以挫必勝ひっしょうはかりごと」,またこうせき於龍たいしるし處士しょし於象さんせんよう賢良けんりょう創立そうりつ學校がっこうゆう帝王ていおう大略たいりゃく」。ただしはじむかさまたみとめためぜんはじむちょうしょみかどてき若干じゃっかん舉動,ゆうたがえ道德どうとく標準ひょうじゅんいん此趨於速ほろび,如黎桓時「土木どぼくしげるきょう,以金だま而飭其宮しつ干戈かんか屢起,以草あくた而視其人民じんみん」,なみ且「うえふけちょうきさきのり夫婦ふうふみち」。而黎あさみかどそく「弒兄しいたげ眾」、「おぼれらん女色じょしょくせいきずせい」,いん此「雖欲ほろび,其可とく乎」。[58]

中國ちゅうごく學者がくしゃかくちょうえみうめみとめためぜんはじむちょうざいえつみなみ封建ほうけん時期じきじつ中央ちゅうおう集權しゅうけん君主くんしゅせいてき里程りてい,「ひのとあさ立國りっこくたん暫,くに封建ほうけん使つかいくんてき殘餘ざんよ勢力せいりょくゆう反抗はんこうなみ受其節制せっせい實權じっけん掌握しょうあくざい地方ちほう豪族ごうぞく手中しゅちゅうひのとあさしたがえだいだいおこり王權おうけん軍事ぐんじ貴族きぞくしょ左右さゆうちょうじつためはじむ桓的傀儡かいらい,凡事ひとし於黎くち王權おうけんごくため衰微すいび。而前はじむちょう卻與相反あいはんすめらぎけん至上しじょう所有しょゆう臣民しんみんひとし受黎制約せいやく中央ちゅうおう地方ちほう官員かんいんひとしゆかりはじむ任免にんめん國有こくゆう土地とちせい開始かいし建立こんりゅうおこりらいはじむ桓是中央ちゅうおうきんぐん地方ちほうぐんてき最高さいこう指揮しきしゃわかゆうにんなんはん叛之舉,みな斬首ざんしゅ」。此外,ぜんはじむあさまた使つかいえつみなみてき對外たいがい關係かんけい出現しゅつげん轉變てんぺん,「はじむ桓即僅發へい侵略しんりゃく中國ちゅうごく邊土へんど,而且派兵はへい南侵なんしんうらないじょう企圖きと實現じつげんしょう霸於半島はんとうまとゆめ」。[59]

歷代れきだい君主くんしゅ

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ぜんはじむあさ君主くんしゅあずか年号ねんごう  编辑
稱號しょうごう 姓名せいめい 在世ざいせい 在位ざいい時間じかん 年號ねんごう使用しよう时间
ちょうきょうおう
(980ねんはじむついおくりな
はじむ とし-?ねん
だいくだり皇帝こうてい はじむ 941ねん-1005ねん 980ねん-1005ねん 天福てんぷく 980ねん-988ねん
兴统 989ねん-993ねん
おうてん 994ねん-1005ねん
ちゅうむね皇帝こうてい はじむりゅう 983ねん-1005ねん 1005ねん 1005ねん
あさ皇帝こうてい はじむりゅう
はじむいたりちゅう
986ねん-1009ねん 1005ねん-1009ねん 1005ねん-1007ねん
けいみず 1008ねん-1009ねん

注釋ちゅうしゃく

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  1. ^ れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·だいぎょう皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,187─188ぺーじ
  2. ^ れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·ちょうおさむ·廢帝はいてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,184ぺーじ
  3. ^ えつりゃくまきじょう收錄しゅうろく於《欽定きんていよん全書ぜんしょ·》(だい466さつ),上海しゃんはいせき出版しゅっぱんしゃ,574ぺーじくれれんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·ちょうおさむ·廢帝はいてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,185ぺーじ
  4. ^ 4.0 4.1 れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·ちょうおさむ·廢帝はいてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,188ぺーじ
  5. ^ はじむ崱《やすみなみこころざしりゃくまきだいろくそう太平たへい興國こうこくねん交趾ひのと璉薨おとうと璿立だいこうはじむ桓篡ふとそう舉兵桓詐璿上ひょう》,北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,155ぺーじ
  6. ^ はじむ崱《やすみなみこころざしりゃくまきだいよん北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,100ぺーじくれれんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·ちょうおさむ·廢帝はいてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,188ぺーじ
  7. ^ 7.0 7.1 燾《ぞくどおりかん長編ちょうへんまきじゅうさん北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,515ぺーじ
  8. ^ ちんなかきんえつみなみりゃくだいさんかんだいさんしょう北京ぺきん商務しょうむしるししょかん,63ぺーじ
  9. ^ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·だいぎょう皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,192ぺーじ
  10. ^ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·だいぎょう皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,196ぺーじ
  11. ^ 11.0 11.1 れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·だいぎょう皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,197ぺーじ
  12. ^ れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·ちゅうむね皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,197ぺーじ
  13. ^ れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·あさ皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,201ぺーじ
  14. ^ 14.0 14.1 14.2 れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·あさ皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,199ぺーじ
  15. ^ れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·あさ皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,199─201ぺーじ
  16. ^ じょまつそうかいよう輯稿·蕃夷ばんいよん》(だいいちひゃくきゅうじゅうななさつ),大中おおなかさちさんねんがつじょう北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,7728ぺーじ
  17. ^ れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·あさ皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,201─203ぺーじ
  18. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく正編せいへんまきいちはじむだいくだりきょうすべよんねん正月しょうがつじょう
  19. ^ えつみなみ社會しゃかい科學かがく委員いいんかいえつみなみ歷史れきし》,北京ぺきん人民じんみん出版しゅっぱんしゃ,160ぺーじ
  20. ^ 20.0 20.1 20.2 20.3 20.4 20.5 20.6 20.7 れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·だいぎょう皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,193ぺーじ
  21. ^ 21.0 21.1 21.2 21.3 21.4 れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·だいぎょう皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,194ぺーじ
  22. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく正編せいへんまきいちはじむだいくだり天福てんぷくななねんじゅうがつじょう
  23. ^ かく鐸、ちょうえみうめえつ南通みなみとおり》,中國ちゅうごく人民じんみん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ,257ぺーじ
  24. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく正編せいへんまきいちはじむみかどりゅう鋌應てんじゅうさんねんがつ改定かいてい官制かんせいあさふくじょう
  25. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく正編せいへんまきいちはじむみかどりゅう鋌應てんじゅうよんねんはるおとうとあきらあきら如宋じょう
  26. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく正編せいへんまきいちはじむみかどりゅう鋌景みずねん,凿爱しゅうみなとじょう
  27. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく正編せいへんまきいちはじむみかどりゅう鋌景みずねんなながつみかど亲征驩唐石河いしかわ诸州じょう
  28. ^ かく鐸、ちょうえみうめえつ南通みなみとおり》,中國ちゅうごく人民じんみん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ,256─257ぺーじ
  29. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく正編せいへんまきいちはじむだいくだり天福てんぷくななねんはちがつじょう
  30. ^ 30.0 30.1 30.2 れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·だいぎょう皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,190ぺーじ
  31. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく正編せいへんまきいちはじむだいくだりおうてんきゅうねんさんがつじょう
  32. ^ れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·だいぎょう皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,191ぺーじ
  33. ^ えつみなみ歷史れきし貨幣かへい》,中國ちゅうごく金融きんゆう出版しゅっぱんしゃ,114ぺーじ
  34. ^ えつみなみ歷史れきし貨幣かへい》,中國ちゅうごく金融きんゆう出版しゅっぱんしゃ,115ぺーじ
  35. ^ えつみなみ歷史れきし貨幣かへい》,中國ちゅうごく金融きんゆう出版しゅっぱんしゃ,17─18ぺーじ
  36. ^ 36.0 36.1 れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·あさ皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,200ぺーじ
  37. ^ かく鐸、ちょうえみうめえつ南通みなみとおり》,中國ちゅうごく人民じんみん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ,257─258ぺーじ
  38. ^ かく鐸、ちょうえみうめえつ南通みなみとおり》,中國ちゅうごく人民じんみん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ,258ぺーじ
  39. ^ えつりゃくまきじょう收錄しゅうろく於《欽定きんていよん全書ぜんしょ·》(だい466さつ),上海しゃんはいせき出版しゅっぱんしゃ,574ぺーじくれれんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·だいぎょう皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,190ぺーじ
  40. ^ 40.0 40.1 れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·だいぎょう皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,189ぺーじ
  41. ^ れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·ちょうおさむ·さき皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,180ぺーじ
  42. ^ れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·あさ皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,198ぺーじ
  43. ^ はじむ崱《やすみなみこころざしりゃくまきだいじゅういち北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,284─285ぺーじくれれんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·あさ皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,190─193ぺーじ
  44. ^ はじむ崱《やすみなみこころざしりゃくまきだいじゅういち北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,285ぺーじくれれんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·あさ皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,194ぺーじ
  45. ^ だつだっとうそう·外國がいこく列傳れつでんよん·交阯》,北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,14063ぺーじくれれんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·あさ皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,195ぺーじ
  46. ^ 46.0 46.1 れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·あさ皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,195ぺーじ
  47. ^ はじむ崱《やすみなみこころざしりゃくまきだいじゅういち北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,287ぺーじくれれんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·あさ皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,195─197ぺーじ
  48. ^ はじむ崱《やすみなみこころざしりゃくまきだいじゅういち北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,289─290ぺーじ
  49. ^ はじむ崱《やすみなみこころざしりゃくまきだいじゅういち北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,290─291ぺーじくれれんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·はじむ·あさ皇帝こうてい》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,200─201ぺーじ
  50. ^ えつりゃくまきじょう收錄しゅうろく於《欽定きんていよん全書ぜんしょ·》(だい466さつ),上海しゃんはいせき出版しゅっぱんしゃ,574ぺーじ
  51. ^ じょまつそうかいよう輯稿·蕃夷ばんいよん》(だいいちひゃくきゅうじゅうななさつ),雍熙ねんがつじょう北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,7745ぺーじ
  52. ^ 馬司まつかさつちかえうらないばばだいしょう臺灣たいわん商務しょうむしるししょかん,56─57ぺーじ
  53. ^ じょまつそうかいよう輯稿·蕃夷ばんいよん》(だいいちひゃくきゅうじゅうななさつ),じゅん元年がんねんじゅうがつじょう北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,7746ぺーじ
  54. ^ 馬司まつかさつちかえうらないばばだいしょう臺灣たいわん商務しょうむしるししょかん,58ぺーじ
  55. ^ はじむ崱《やすみなみこころざしりゃくまきだいじゅういち北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,286─287ぺーじ
  56. ^ 馬司まつかさつちかえうらないばばだいしょう臺灣たいわん商務しょうむしるししょかん,59ぺーじ
  57. ^ はじむ崱《やすみなみこころざしりゃくまきだいじゅういち北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく, 287ぺーじ
  58. ^ 大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ卷首かんしゅはじむかさこしあきらどおりこう總論そうろん》),東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,87─88ぺーじ
  59. ^ かく鐸、ちょうえみうめえつ南通みなみとおり》,中國ちゅうごく人民じんみん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ,255ぺーじ

參考さんこう文獻ぶんけん

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參考さんこうもうぺーじ

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相關そうかん條目じょうもく

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