「
李 り 太 ふとし 祖 そ 」
重定 しげさだ 向 むかい 至 いたる 此。关于
唐 から 太 ふとし 祖 そ 李 り 虎 とら ,请见「
李 り 虎 とら 」。关于
唐 から 太 ふとし 祖 そ 李 り 克 かつ 用 よう ,请见「
李 り 克 かつ 用 よう 」。关于
朝鮮 ちょうせん 太 たい 祖 そ 李 り 成桂 せいけい ,请见「
李 り 成桂 せいけい 」。
李 り 太 ふとし 祖 そ (越 えつ 南 みなみ 语 :Lý Thái Tổ /李 り 太 ふとし 祖 そ ;974年 ねん 3月 がつ 8日 にち —1028年 ねん 3月 がつ 31日 にち ),諱 いみな 李 り 公 こう 蘊 (越 えつ 南 みなみ 语 :Lý Công Uẩn /李 り 公 こう 蘊 ),是 ぜ 越 こし 南 みなみ 李 り 朝 ちょう 的 てき 開國 かいこく 君主 くんしゅ ,1009年 ねん 至 いたり 1028年 ねん 在位 ざいい 。年號 ねんごう 順 じゅん 天 てん ,廟 びょう 號 ごう 太 ふとし 祖 そ ,諡號 しごう 神武 じんむ 皇帝 こうてい (越 えつ 南 みなみ 语 :Thần Vũ Hoàng Đế /神武 じんむ 皇帝 こうてい ),葬 そう 於壽 ことぶき 陵 りょう 。
生平 おいだいら
來歷 らいれき 之 の 謎 なぞ
根據 こんきょ 《大越 おおこし 史記 しき 全書 ぜんしょ 》等 とう 越 えつ 南 みなみ 史料 しりょう 記載 きさい ,李 り 公 こう 蘊籍貫 ぬき 北江 ほっこう 古 こ 法 ほう 州 しゅう 亭 ちん 榜村 (今 こん 越 えつ 南 みなみ 北 きた 寧 やすし 省 しょう 慈山市 し 亭 ちん 榜坊 ),時 じ 至 いたり 今日 きょう 亭 ちん 榜村中 ちゅう 依然 いぜん 保存 ほぞん 著 ちょ 李 り 氏 し 祖 そ 墳 ふん 和 わ 家 か 祠 ほこら 。但 ただし 是 ぜ ,李 り 公 こう 蘊出生 しゅっしょう 時 じ 的 てき 具體 ぐたい 狀況 じょうきょう 在 ざい 越 えつ 南 みなみ 史 し 書中 しょちゅう 沒 ぼつ 有明 ありあけ 確 かく 的 てき 記載 きさい 。越 えつ 南 みなみ 民間 みんかん 傳說 でんせつ 李 り 公 こう 蘊沒有 ゆう 父親 ちちおや ,其母范氏遊 ゆう 蕉山時 じ ,夢見 ゆめみ 與 あずか 神人 しんじん 交合 こうごう ,隨 ずい 後便 こうびん 生 せい 下 か 了 りょう 李 り 公 こう 蘊。李 り 公 こう 蘊三 さん 歲 さい 的 てき 時候 じこう ,范氏將 はた 其送到 いた 古 こ 法 ほう 寺 てら 的 てき 法師 ほうし 李 り 慶 けい 文 ぶん 處 しょ 當 とう 養子 ようし 。[2] [3]
越 えつ 南 みなみ 的 てき 正史 せいし 《大越 おおこし 史記 しき 全書 ぜんしょ 》則 のり 僅僅 きんきん 記載 きさい 李 り 公 こう 蘊在繼 つぎ 位 い 後 ご 追 つい 封 ふう 生 せい 父 ちち 為 ため 顯 あらわ 慶 けい 王 おう ,並 なみ 沒 ぼつ 有 ゆう 對 たい 其生父 ちち 有 ゆう 更 さら 多 た 的 てき 記載 きさい 。[4]
然 しか 而根據 こんきょ 現代 げんだい 中國 ちゅうごく 學者 がくしゃ 的 てき 考證 こうしょう ,李 り 公 こう 蘊出生 しゅっしょう 於中國 ちゅうごく 泉州 せんしゅう 。在 ざい 北 きた 宋 そう 沈括 寫 うつし 的 てき 《夢 ゆめ 溪 けい 筆談 ひつだん 》中 ちゅう 記載 きさい ,越 えつ 南 みなみ 皇帝 こうてい 李 り 公 こう 蘊是閩南人 じん 。[a] 而在泉州 せんしゅう 晉 すすむ 江 え 縣 けん 安海 あんかい 鎮發現 はつげん 的 てき 一 いち 本名 ほんみょう 叫 さけべ 《李 り 莊 そう 𤆬內李氏 し 房 ぼう 譜 ふ 》的 てき 李 り 氏 し 家 か 譜 ふ 中 ちゅう 則 のり 記載 きさい ,李 り 公 こう 蘊是李 り 淳 あつし 安 やす 的 てき 次子 じし ,字 じ 兆 ちょう 衍,生 なま 於北宋 そう 雍熙 元年 がんねん 正月 しょうがつ 十 じゅう 四 よん 日 にち (984年 ねん 2月 がつ 18日 にち ),卒 そつ 於天聖 ひじり 六 ろく 年 ねん 十 じゅう 月 がつ 十 じゅう 八 はち 日 にち (1028年 ねん 11月7日 にち ),幼年 ようねん 時 じ 隨 したがえ 李 り 淳 あつし 安 やす 前 ぜん 往安南 みなみ 做生意 い ;而長兄 けい 李 り 公 こう 藻 も 則 のり 被 ひ 留 とめ 在 ざい 安海 あんかい 的 てき 李 り 家 か 莊 そう 中 ちゅう 蔡鄉,成 なる 為當 ためとう 地 ち 李 り 姓 せい 始祖 しそ 。華僑 かきょう 大學 だいがく 華人 かじん 研究所 けんきゅうじょ 李 り 天 たかし 錫 すず 教授 きょうじゅ ,結合 けつごう 《宋 そう 史 ふみ 》和 かず 《元 もと 史 し 》考證 こうしょう 後 ご 認 みとめ 為 ため ,李 り 公 こう 蘊和陳 ひね 朝 あさ 的 てき 開國 かいこく 皇帝 こうてい 陳 ちん 煚都 みやこ 是 ただし 來 らい 自 じ 泉州 せんしゅう 安海 あんかい 的 てき 華僑 かきょう 。[5] [6] [7]
此外,也有 やゆう 學者 がくしゃ 認 みとめ 為 ため 李 り 公 こう 蘊是唐 から 太 ふとし 宗 むね 之子 ゆきこ 曹王李 り 明 あきら 之 これ 後裔 こうえい 。[8]
出仕 しゅっし 前 ぜん 黎 はじむ 朝 あさ
李 り 公 こう 蘊聰明 そうめい 好學 こうがく ,而且器 き 宇軒昂 けんこう 。在 ざい 他年 たねん 幼 よう 的 てき 時候 じこう 曾經遊學 ゆうがく 於六 ろく 祖 そ 寺 てら 。僧 そう 人 じん 萬 まん 行 ぎょう 見 み 了 りょう 李 り 公 こう 蘊後,認 みとめ 為 ため 李 り 公 こう 蘊是非凡 ひぼん 之 これ 人 にん ,異 い 日 にち 必然 ひつぜん 是 ぜ 一 いち 位 い 治世 ちせい 明君 めいくん 。[9] [3]
李 り 公 こう 蘊長大 だい 了 りょう 以後 いご 並 なみ 沒 ぼつ 有 ゆう 像 ぞう 別人 べつじん 一樣去種田經商,而是喜 き 歡涉獵 しょうりょう 經 けい 史 し 。後來 こうらい ,李 り 公 こう 蘊出仕 しゅっし 於前 ぜん 黎 はじむ 朝 あさ ,官 かん 拜 はい 殿 しんがり 前 まえ 軍 ぐん ,[10] 並 なみ 娶 めと 黎 はじむ 桓之女 おんな 黎 はじむ 氏 し 佛 ふつ 銀 ぎん 為 ため 妻 つま ,並 なみ 被 ひ 賜 たまもの 姓 せい 黎 はじむ 氏 し 。[b] 黎 はじむ 桓死後 ご ,黎 はじむ 中 ちゅう 宗 むね 嗣位,但 ただし 不 ふ 久 ひさ 黎 はじむ 中 ちゅう 宗 むね 就被弟 おとうと 弟 おとうと 黎 はじむ 龍 りゅう 鋌殺害 さつがい 。群臣 ぐんしん 皆 みな 四散 しさん 逃跑,唯 ただ 獨 どく 李 り 公 こう 蘊抱著 ちょ 黎 はじむ 中 ちゅう 宗 むね 的 てき 屍體 したい 痛哭 つうこく 。黎 はじむ 臥 が 朝 あさ 帝 みかど (黎 はじむ 龍 りゅう 鋌)認 みとめ 為 ため 李 り 公 こう 蘊是忠臣 ちゅうしん ,任命 にんめい 李 り 公 こう 蘊為四 よん 廂 ひさし 軍 ぐん 副 ふく 指揮 しき 使 し ,引之為 ため 親 おや 信 しん 。後來 こうらい 又 また 升 ます 為 ため 左 ひだり 親衛 しんえい 殿 どの 前 ぜん 指揮 しき 使 し 。[10]
新 しん 嗣位的 てき 臥 が 朝 あさ 帝 みかど 是 ぜ 一 いち 位 い 暴虐 ぼうぎゃく 的 てき 君主 くんしゅ ,他 た 的 てき 統治 とうち 不 ふ 得 とく 人心 じんしん 。黎 はじむ 龍 りゅう 鋌在位 ざいい 期間 きかん ,古 こ 法 ほう 州 しゅう 延 のぶ 蘊鄉的 てき 一顆木棉樹震裂,該鄉的 てき 百姓在樹根上發現了一行字:「樹 き 根 ね 杳杳,禾刀木落 きおとし 。十 じゅう 八 はち 子 し 成 なり ,東 ひがし 阿 おもね 入地 いりじ ,木 き 異 い 再生 さいせい 。震 ふるえ 宮 みや 見日 けんにち ,兌宮隱 かくれ 星 ぼし 。六 ろく 七 なな 年間 ねんかん ,天下 てんか 太平 たいへい 。」萬 まん 行 ぎょう 認 みとめ 為 ため 「十 じゅう 八 はち 子 し 」就是「李 り 」字 じ ,其讖 寓意 ぐうい 著 ちょ 黎 はじむ 氏 し 當 とう 亡 ほろび 、李 り 氏 し 當 とう 興 きょう 。萬行還私下找到李公蘊,認 みとめ 為 ため 他 た 必然 ひつぜん 成 なり 為 ため 未來 みらい 的 てき 君主 くんしゅ 。李 り 公 こう 蘊害怕被臥 が 朝 あさ 帝 みかど 知道 ともみち ,派遣 はけん 兄 けい 長 ちょう 將 はた 萬 まん 行藏 こうぞう 在 ざい 了 りょう 蕉山。臥 が 朝 あさ 帝 みかど 知道 ともみち 了 りょう 這個讖語,並 なみ 開始 かいし 誅殺 ちゅうさつ 身邊 しんぺん 的 てき 李 り 姓 せい 大臣 だいじん 。但 ただし 臥 が 朝 あさ 帝 みかど 信任 しんにん 李 り 公 こう 蘊,李 り 公 こう 蘊得以倖免 めん 於難。[4]
經過 けいか 了 りょう 這件事後 じご ,李 り 公 こう 蘊起了 りょう 篡奪皇位 こうい 之 の 心 しん ,秘密 ひみつ 培養 ばいよう 自己 じこ 的 てき 黨 とう 羽 わ ,並 なみ 深 ふか 得 え 人心 じんしん 。[4]
平定 へいてい 內亂、建立 こんりゅう 李 すもも 朝 あさ
1009年 ねん ,臥 が 朝 あさ 皇帝 こうてい 駕 が 崩 くずし 。皇太子 こうたいし 黎 はじむ 龍 りゅう 乍年方 としかた 十 じゅう 歲 さい ,臥 が 朝 あさ 帝 みかど 的 てき 兩個 りゃんこ 弟 おとうと 弟 おとうと 黎明 れいめい 昶 あきら 、黎明 れいめい 提 ひさげ (黎 はじむ 龍 りゅう 鍉)起 おこり 兵 へい 爭奪 そうだつ 皇位 こうい 。時任 ときとう 左 ひだり 親衛 しんえい 殿 どの 前 ぜん 指揮 しき 使 し 的 てき 李 り 公 こう 蘊與右 みぎ 殿 どの 前 ぜん 指揮 しき 使 し 阮低 各 かく 率 りつ 龍 りゅう 兵 へい 五 ご 百 ひゃく 人 にん ,以保衛 やすえ 宮殿 きゅうでん 為 ため 名 めい 進入 しんにゅう 皇宮 こうぐう 。祗候 しこう 陶 すえ 甘 あま 沐知道 ともみち 李 り 公 こう 蘊 覬覦皇位 こうい 已 やめ 久 ひさし ,勸 すすむ 其受禪 じゅぜん 稱 しょう 帝 みかど 。李 り 公 こう 蘊最初 はつ 懷疑 かいぎ 是 これ 個 こ 陰謀 いんぼう ,威 い 脅 おびえ 要 よう 將 しょう 陶 すえ 甘 あま 沐逮捕 たいほ ;但 ただし 最終 さいしゅう 在 ざい 陶 すえ 甘 あま 沐的勸 すすむ 說 せつ 下 か 決定 けってい 奪取 だっしゅ 皇位 こうい 。在 ざい 陶 すえ 甘 あま 沐和萬 まん 行 ぎょう 的 まと 策 さく 劃下,李 り 公 こう 蘊率兵 へい 殺 ころせ 死 し 了 りょう 黎明 れいめい 昶 あきら 、黎明 れいめい 提 ひさげ ,順 じゅん 利 り 篡奪皇位 こうい ,恢復 かいふく 原 げん 姓 せい 李 り ,建立 こんりゅう 李 り 朝 ちょう 。[9] [b] 次 つぎ 年 ねん 改元 かいげん 順 じゅん 天 てん ,群臣 ぐんしん 上 じょう 尊號 そんごう 奉天 ほうてん 至 いたり 理 り 應 おう 運 うん 自在 じざい 聖 ひじり 明 あきら 龍見 たつみ 睿文英 えい 武 たけ 崇 たかし 仁 ひとし 廣 こう 孝 こう 天下 でんか 太平 たいへい 欽明光 こう 宅 たく 章 あきら 明 あかり 萬邦顯應符感威震藩蠻睿謀神功聖治則天道政皇帝[1] (Phụng Thiên Chí Lý Ứng Vận Tự Tại Thánh Minh Long Hiện Duệ Văn Anh Vũ Sùng Nhân Quảng Hiếu Thiên Hạ Thái Bình Khâm Minh Quảng Trạch Chương Minh Vạn Bang Hiển Ứng Phù Cảm Uy Chấn Phiên Man Duệ Mưu Thần Trợ Thánh Trị Tắc Thiên Đạo Chính Hoàng Đế )。[9] [11] 追 つい 封 ふう 生 せい 父 ちち 為 ため 顯 あらわ 慶 けい 王 おう ,生母 せいぼ 為 ため 明德 めいとく 太 ふとし 后 きさき 。[4]
在位 ざいい 期間 きかん 的 てき 事蹟 じせき
遷都 せんと 昇龍 しょうりゅう
李 り 公 こう 蘊即位 い 後 ご 不 ふ 久 ひさ ,就下令 れい 將 はた 都城 みやこのじょう 從 したがえ 華 はな 閭 遷到了 りょう 大 だい 羅 ら 城 しろ 。根據 こんきょ 《大越 おおこし 史記 しき 全書 ぜんしょ 》的 てき 記載 きさい ,李 り 公 こう 蘊乘龍 りゅう 舟 ぶね 來 らい 到 いた 大 だい 羅 ら 城下 じょうか 之 の 時 とき ,忽 ゆるがせ 然 しか 在 ざい 龍 りゅう 舟 ぶね 旁 つくり 邊 べ 出現 しゅつげん 了 りょう 一 いち 條 じょう 黃 き 龍 りゅう 。群臣 ぐんしん 認 みとめ 為 ため 是 ぜ 大吉 だいきち 之 の 兆 ちょう ,李 り 公 こう 蘊遂將 はた 大 だい 羅 ら 城 しろ 改名 かいめい 為 ため 昇龍 しょうりゅう 城 しろ ,大 だい 規模 きぼ 修 おさむ 建 けん 宮殿 きゅうでん 。又 また 改 あらため 古 いにしえ 法 ほう 州 しゅう 為 ため 天德 てんとく 府 ふ ,北江 ほっこう 為 ため 天 てん 德江 とくえ ,華 はな 閭為長安 ながやす 府 ふ 。又 また 在 ざい 天德 てんとく 府 ふ 修 おさむ 建 けん 宗廟 そうびょう ,是 ぜ 為 ため 李 り 八 はち 帝廟 ていびょう 。[11]
內政改革 かいかく
前 ぜん 黎 はじむ 朝 ちょう 施行 しこう 暴虐 ぼうぎゃく 的 てき 軍事 ぐんじ 統治 とうち ,嚴刑 げんけい 酷 こく 法 ほう ,致使民 みん 眾十 じゅう 分 ふん 不滿 ふまん 。李 り 公 こう 蘊即位 い 後 ご 一改前朝皇帝的作風,即位 そくい 當年 とうねん 即 そく 下 か 令 れい 焚毀前 ぜん 黎 はじむ 朝 ちょう 的 てき 殘酷 ざんこく 刑 けい 具 ぐ ,此舉使 し 他 た 得 え 到 いた 了 りょう 民心 みんしん 。[11]
在 ざい 稅收 ぜいしゅう 問題 もんだい 上 じょう ,李 り 公 こう 蘊於1013年 ねん 制定 せいてい 了 りょう 潭池田土 たど 之 の 稅 ぜい 、桑 くわ 洲 しゅう 錢 ぜに 谷之 やの 稅 ぜい 、山 やま 源 げん 藩 はん 鎮產物 ぶつ 之 の 稅 ぜい 、關 せき 隘譏察鹼鹽 しお 之 の 稅 ぜい 、蠻獠犀 さい 象 ぞう 香料 こうりょう 之 の 稅 ぜい 、源 みなもと 頭 あたま 木 き 條 じょう 花 はな 果 はて 之 の 稅 ぜい 。由 ゆかり 各 かく 公主 こうしゅ 掌 てのひら 管 かん 徵收 ちょうしゅう 這些稅收 ぜいしゅう 。[2] [12]
外交 がいこう 政策 せいさく
李 り 公 こう 蘊即位 そくい 之 の 初 はつ ,一反前黎朝的主動侵略政策,在 ざい 對外 たいがい 政策 せいさく 上 じょう 主張 しゅちょう 和平 わへい 。李 り 公 こう 蘊在剛 つよし 即位 そくい 後 ご 不 ふ 久 ひさ 便 びん 釋放 しゃくほう 了 りょう 被 ひ 黎 はじむ 臥 が 朝 あさ 帝 みかど 俘虜 ふりょ 的 てき 芒 すすき 族 ぞく 人 ひと ,厚 あつ 賜 たまもの 他 た 們並且放回 かい 故鄉 こきょう 。[11] 然 しか 而在此之後 ご 安 やす 南 みなみ 又 また 開始 かいし 轉入 てんにゅう 攻勢 こうせい 。
李 り 公 こう 蘊在1010年 ねん 派遣 はけん 使者 ししゃ 向 むこう 北 きた 宋 そう 請求 せいきゅう 冊 さつ 封 ふう ,被 ひ 宋 そう 真宗 しんしゅう 冊 さつ 封 ふう 為 ため 交趾郡 ぐん 王 おう 領 りょう 靜海 しずみ 節度 せつど 使 し 。 [11] 此後,李 り 公 こう 蘊又多 た 次 つぎ 遣 や 使 つかい 出 で 使 し 北 きた 宋 そう 。1016年 ねん ,李 り 公 こう 蘊又被 ひ 宋朝 そうちょう 加 か 封 ふう 為 ため 南平 なべら 王 おう 。[13]
1022年 ねん ,李 り 公 こう 蘊命令 めいれい 其子翊聖王 おう 討伐 とうばつ 大元 おおもと 曆 れき 。[14]
軍事 ぐんじ 政策 せいさく
前 ぜん 黎 はじむ 朝 ちょう 時期 じき ,安 やす 南 みなみ 全國 ぜんこく 分 ぶん 為 ため 十 じゅう 道 みち ,各 かく 道 みち 都 みやこ 由 ゆかり 武將 ぶしょう 管理 かんり 。這使地方 ちほう 的 てき 勢力 せいりょく 非常 ひじょう 大 だい ,各 かく 道 みち 的 てき 將軍 しょうぐん 擁 よう 兵 へい 自重 じちょう 。李 り 公 こう 蘊即位 い 後 ご ,將 はた 全國 ぜんこく 分 ぶん 為 ため 二 に 十 じゅう 四 よん 個 こ 路 ろ ,路 みち 之 の 下 しも 設置 せっち 州 しゅう 、府 ふ 、鄉 さと 、社 しゃ 等 とう 行政 ぎょうせい 機構 きこう 。他 た 還 かえ 模 も 仿中國 ちゅうごく 的 てき 地方 ちほう 行政 ぎょうせい 制度 せいど ,將 はた 各個 かっこ 路 ろ 的 てき 長官 ちょうかん 稱 しょう 為 ため 知 ち 府 ふ ,由 ゆかり 朝廷 ちょうてい 委 い 派 は 的 てき 文官 ぶんかん 擔任 たんにん 。而對於芒族 ぞく 聚居地 ち 的 てき 愛 あい 州 しゅう 、驩州 ,李 り 公 こう 蘊在那 な 裡 うら 設置 せっち 寨 ,施行 しこう 與 あずか 內地完全 かんぜん 不同 ふどう 的 てき 軍事 ぐんじ 統治 とうち ,[9] 這是因 いん 為 ため 芒 すすき 族 ぞく 經常 けいじょう 反對 はんたい 朝廷 ちょうてい 統治 とうち 的 てき 緣故 えんこ 。李 り 公 こう 蘊對於國內的芒 すすき 族 ぞく 叛亂 はんらん 毫不手 しゅ 軟。1011年 ねん ,李 り 公 こう 蘊率兵 へい 平定 へいてい 了 りょう 莒隆的 てき 芒 すすき 族 ぞく 叛亂 はんらん ,俘獲其首領 りょう 並 なみ 焚毀其部落 ぶらく 的 てき 駐 ちゅう 地 ち 。[11]
與 あずか 此同時 じ ,李 り 公 こう 蘊冊封 ふう 其諸子 しょし 為 ため 王 おう ,並 なみ 讓 ゆずる 他 た 們長期 き 帶 たい 兵 へい 出征 しゅっせい 。[2]
宗教 しゅうきょう 政策 せいさく
由 よし 於李公 こう 蘊是僧 そう 人 じん 出身 しゅっしん ,極 ごく 為 ため 篤信 とくしん 佛教 ぶっきょう ,因 いん 此在其在位 ざいい 期間 きかん 極力 きょくりょく 推行佛教 ぶっきょう 。佛教 ぶっきょう 僧侶 そうりょ 在 ざい 當時 とうじ 擁 よう 有 ゆう 非常 ひじょう 高 だか 的 てき 社會 しゃかい 地位 ちい 。擁立 ようりつ 李 り 公 こう 蘊有功 ゆうこう 的 てき 僧 そう 人 じん 萬 まん 行 ぎょう 被 ひ 冊 さつ 封 ふう 為 ため 國師 こくし ,執 と 掌 てのひら 朝政 ちょうせい 。此後,不 ふ 少 しょう 參與 さんよ 朝政 ちょうせい 的 てき 僧 そう 人 じん 獲得 かくとく 了 りょう 大量 たいりょう 的 てき 封地 ほうち 。[9]
李 り 公 こう 蘊在建造 けんぞう 昇龍 しょうりゅう 城 しろ 的 てき 時候 じこう ,在 ざい 城 しろ 外 がい 修 おさむ 建 たて 了 りょう 許多 きょた 寺院 じいん 。[11] 還 かえ 發 はつ 放 ひ 官 かん 府 ふ 的 てき 銀 ぎん 兩 りょう 給 きゅう 寺院 じいん 鑄造 ちゅうぞう 大鐘 おおがね 。[11] 他 た 多 た 次 つぎ 親 おや 自 じ 為 ため 僧 そう 人 じん 剃 そ 度 たび ,1019年 ねん ,李 り 公 こう 蘊甚至 いたり 下達 かたつ 全國 ぜんこく 百姓剃度為僧的詔書。[13] 每次 まいじ 遣 や 使 つかい 出 で 使 し 北 きた 宋 そう ,都 みやこ 要 かなめ 從 したがえ 北 きた 宋 そう 帶 たい 回 かい 大量 たいりょう 的 てき 三藏 さんぞう 經 けい 。[9]
逝世
1028年 ねん ,李 り 公 こう 蘊在昇龍 しょうりゅう 的 てき 龍 りゅう 安 やすし 殿 どの 逝世。群臣 ぐんしん 來 らい 到 いた 皇太子 こうたいし 李 り 佛 ふつ 瑪居住 きょじゅう 的 てき 龍 りゅう 德 いさお 宮 みや ,準備 じゅんび 根據 こんきょ 遺 のこ 詔 みことのり 讓 ゆずる 李 り 佛 ふつ 瑪即位 そくい 。李 り 公 こう 蘊的其他三 さん 個 こ 兒 じ 子 こ 東征 とうせい 王 おう 、翊聖王 おう 、武德 ぶとく 王 おう 聽說此事後 ご ,各 かく 率 りつ 家 か 兵 へい 入 にゅう 禁城 きんじょう ,埋伏 まいふく 於慶福 けいふく 門 もん 內,準備 じゅんび 在 ざい 李 り 佛 ふつ 瑪經過 けいか 的 てき 時候 じこう 將 はた 其刺殺 しさつ 。但 ただし 李 り 佛 ふつ 瑪卻從 したがえ 祥 さち 符 ふ 門 もん 入 にゅう 宮 みや ,幸運 こううん 地 ち 躲過了 りょう 這一劫 こう 。隨 ずい 即 そく 李 り 佛 ふつ 瑪發現 はつげん 了 りょう 三 さん 王 おう 的 てき 陰謀 いんぼう ,派遣 はけん 黎 はじむ 奉 たてまつ 曉 あかつき 前 まえ 去 さ 征討 せいとう ,殺 ころせ 武德 ぶとく 王 おう ,擒 とりこ 東征 とうせい 王 おう 、翊聖王 おう 。李 り 佛 ふつ 瑪順利 り 繼承 けいしょう 了 りょう 皇位 こうい ,是 ぜ 為 ため 李 り 太 ふとし 宗 むね 。[15]
家族 かぞく
皇后 こうごう
子女 しじょ
開 ひらき 天王 てんのう 皇太子 こうたいし 李 り 太 ふとし 宗 むね 李 り 佛 ふつ 瑪 (又 また 名 めい 李 り 德政 とくせい ,黎 はじむ 氏 し 佛 ふつ 銀 ぎん 所生 しょせい ,後 ご 為 ため 李 り 朝 ちょう 第 だい 二 に 代 だい 皇帝 こうてい )[12]
開國 かいこく 王 おう 李 り 菩[12]
東征 とうせい 王 おう 李 り 力 つとむ [13] [c]
翊聖王 おう [c]
武德 ぶとく 王 おう [c]
威 い 明王 みょうおう 李 り 晃 あきら (李 り 日 にち 㫕,黎 はじむ 氏 し 佛 ふつ 銀 ぎん 所生 しょせい ,《粵甸幽靈 ゆうれい 集 しゅう 》中有 ちゅうう 其事蹟 じせき 的 てき 傳說 でんせつ )
安國 やすくに 公主 こうしゅ (嫁 よめ 義信 よしのぶ 侯 こう 陶 すえ 甘 あま 沐 )[16]
(其餘的 てき 稱號 しょうごう 不 ふ 詳 しょう 與 あずか 失 しつ 名 めい )
後 こう 世紀 せいき 念 ねん
影 かげ 視 し 形象 けいしょう
注 ちゅう 释
^ 《夢 ゆめ 溪 けい 筆談 ひつだん ·卷 まき 二 に 十 じゅう 五 ご ·雜誌 ざっし 二 に 》:「桓死,安 やす 南 みなみ 大亂 たいらん ,久 ひさし 無 む 酋長 しゅうちょう 。其後國人 くにびと 共立 きょうりつ 閩人李 り 公 こう 蘊為主 ぬし 。」
^ 2.0 2.1 《續 ぞく 資 し 治 ち 通 どおり 鑑 かん 長編 ちょうへん ·卷 まき 七 なな 十 じゅう 三 さん 》:「廣西 ひろせ 轉 てん 運 うん 使 し 何 なん 亮 あきら 言 げん :『交州黎 はじむ 至 いたり 忠 ちゅう ,苛虐不法 ふほう ,眾心離叛 りはん 。其卒也,一 いち 子 し 纔十 じゅう 歲 さい ,弟 おとうと 明 あかり 提 ひっさげ 、明 あきら 昶 あきら 用兵 ようへい 爭 そう 立 りつ ,大 だい 校 こう 李 り 公 こう 蘊率土人 どじん 逐而殺 ころせ 之 これ 。公 おおやけ 蘊年始 ねんし 二 に 十 じゅう 六 ろく ,至 いたり 忠 ただし 最 さい 所 ところ 親任 しんにん ,常 つね 令 れい 以黎為 ため 姓 せい ,既 すんで 而自領 りょう 州 しゅう 事 ごと ,稱 しょう 安 やす 南 みなみ 靜 せい 海軍 かいぐん 權 けん 留 とめ 後 ご 。且移文言 もんごん 見 み 率 りつ 方 かた 物 ぶつ 奉 たてまつ 貢 みつげ ,請降制 せい 命 いのち 。』上 じょう 曰:『至 いたり 忠 ちゅう 不義 ふぎ 而得,公 おおやけ 蘊尤而效之 の ,益 えき 可 か 惡 あく 也。』即 そく 詔 みことのり 亮 あきら 安 やす 撫 なで 邊 べ 民 みん ,察視機 き 事 ごと 以聞。先 さき 是 ぜ ,至 いたり 忠 ちゅう 遣 や 使 つかい 貢 みつげ 奉 たてまつ ,猶 なお 在京 ざいきょう 師 し ,上 うえ 令 れい 以其狀 じょう 諭 さとし 之 の ,如欲行 ぎょう 服 ふく 亦 また 聽,使 つかい 人 じん 聞之,掩泣而已。(黎 はじむ 至 いたり 忠 ちゅう 卒 そつ ,李 り 公 こう 蘊殺其二 そのじ 弟 おとうと ,遂 とげ 據 よりどころ 交州。至 いたり 忠 ただし 未 み 嘗被殺 ころせ 也。國史 こくし 云 うん 公 こう 蘊遂圖 ず 至 いたり 忠 ちゅう ,又 また 云 うん 至 いたり 忠 ちゅう 年 ねん 纔二 に 十 じゅう 六 ろく ,皆 みな 誤 あやま ,今 いま 但 ただし 從 したがえ 實錄 じつろく 、會 かい 要 よう 及稽古 けいこ 錄 ろく 。)」然 しか 而李公 こう 蘊被賜 たまもの 黎 はじむ 姓 せい 的 てき 說法 せっぽう 僅見於當時 とうじ 的 てき 中國 ちゅうごく 史料 しりょう ,在 ざい 越 えつ 南 みなみ 史書 ししょ 上 じょう 沒 ぼつ 有 ゆう 任 にん 何 なん 記載 きさい 。
^ 3.0 3.1 3.2 根據 こんきょ 《大越 おおごえ 史記 しき 全書 ぜんしょ 》記載 きさい ,東征 とうせい 王 おう 、翊聖王 おう 、武德 ぶとく 王 おう 叛亂 はんらん 之 の 時 とき ,李 り 太 ふとし 宗 むね 稱 たたえ 他 た 們為「兄弟 きょうだい 」。由 よし 此可知 かち 他 た 們都是 ぜ 李 り 公 こう 蘊的兒 じ 子 こ 。( → 《大越 おおごえ 史記 しき 全書 ぜんしょ 》216頁 ぺーじ )
参考 さんこう 文献 ぶんけん
引用 いんよう
书目
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