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陳進 (畫家) - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

ちんすすむ (畫家がか)

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ちんすすむ
1937ねん,31さいてきちんすすむ
出生しゅっしょう(1907-11-02)1907ねん11月2にち
にち臺灣たいわんしんたけちょううし埔庄いましん竹市たけいち香山こうざん
逝世1998ねん3がつ27にち(1998さい—03—27)(90さい
臺灣たいわん臺北たいぺい中正ちゅうせいたいだい醫院いいん
国籍こくせき 大日本帝国だいにっぽんていこく(1907ねん-1945ねん
 中華民國ちゅうかみんこく(1945ねん-1998ねん
语言たいにち
职业畫家がか
组织栴檀せんだんしゃ(1930)
たい美術びじゅつ協會きょうかい
みどりすい畫會がかい
配偶はいぐうしょう瓊(1946ねん結婚けっこん[1]
儿女しょう成家なるいえ長子ちょうし
奖项帝國ていこく美術びじゅつ展覽てんらんかい(1934)
台灣たいわん美術びじゅつ展覽てんらんかい
がく
台灣たいわんげんうつしほう及拼おん
漢字かんじちんすすむ
ちゅうおとㄔㄣˊ ㄐいちㄣˋ
たい白話はくわTân Chìn
たいうまTân Tsìn
きゃくCiinˇ Jin
にち假名がなちん しん

ちんすすむ臺灣たいわんばなしTân Tsìn,1907ねん11月2にち—1998ねん3がつ27にち),またちんすすむ[2]つねちんしん署名しょめいにち時期じき台灣たいわんしんたけちょううし埔庄いましん竹市たけいち香山こうざんにんため日本にっぽん時代じだい以及戰後せんご台灣たいわん著名ちょめいてき畫家がか,也是だい一位遠赴日本學畫的台灣女子。

東京とうきょう女子じょし美術びじゅつ學校がっこう日本にっぽん師範しはん留學りゅうがく便びん以學作品さくひん入選にゅうせんだいてん東洋とうよう。畢業かいだいつぎ入選にゅうせんたいてんてん,以及日本にっぽんみかどてん文展ぶんてん擔任たんにんだいてん東洋とうようしん查員、しょうてんひょうしん委員いいん參與さんよ栴檀せんだんしゃたい美術びじゅつ協會きょうかいあおえりかい長流ちょうりゅう畫會がかいとう繪畫かいが團體だんたい出身しゅっしんしんいん此被後世こうせいほまれためねやしゅう畫家がかてき代表だいひょうせい人物じんぶつ」。ふで調しらべぼそ膩,色彩しきさい柔和にゅうわたい於人ぶつころもかざり起居ききょ傢具有精ゆうせい緻描題材だいざい涵括美人びじん兒童じどう佛像ぶつぞう花卉かきらんはなゆう)、風景ふうけいとう

生平おいだいら

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ちんすすむためひねくも如、ちん蔣市夫婦ふうふさんじょちんくも如曾にん香山こうざん區長くちょうしょうちょう,捐出別墅べっしょせい山居さんきょ設立せつりつ香山かやまこう學校がっこう,1916ねんちんすすむまたざい啟蒙けいもう,1922ねんちんすすむ進入しんにゅう台灣たいわん公立こうりつ台北たいぺい女子じょし高等こうとう普通ふつう學校がっこうこん台北たいぺい市立しりつ中山なかやま女子じょし高級こうきゅう中學ちゅうがく)就讀[3]接受せつじゅ美術びじゅつ教師きょうし鄉原ごうはらみつる於繪じょうてき啟蒙けいもう鄉原ごうはらすべまたこうひねくも建議けんぎおくちんすすむ赴日接受せつじゅかんせい繪畫かいが訓練くんれん[4]

赴日留學りゅうがく參與さんよだいてん

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1925ねんこうおんな畢業かんがえ東京とうきょうてき女子じょし美術びじゅつ學校がっこう日本にっぽん師範しはん師事しじ結城ゆうき素明そめい遠藤えんどうきょうさんとうじんずい於1927ねん以〈姿すがた〉、〈けし罌粟げしはな)〉、〈あささんぶく作品さくひん入選にゅうせん台灣たいわん美術びじゅつ展覽てんらんかい東洋とうようあずかはやし玉山ぎょくざんかくゆきりょう台灣たいわん畫家がかあいしょうたいてんさん少年しょうねん」,其餘入選にゅうせんしゃみなためせき畫家がか。此第一屆臺展於台北樺山かばやま小學校しょうがっこう舉行。落選らくせんてきだいせき畫家がかざい臺灣たいわんにちにち新報しんぽうしゃさんろう舉辦「落選らくせんてん」。

1928ねん,〈野分のわけあき大風おおかぜ)〉だいとどけだいてん特選とくせん;〈蜜柑みかん入選にゅうせんゆい擔任たんにんしん查員てき日本にっぽん南畫なんが松林しょうりん桂月けいげつにち松林しょうりん桂月けいげつ透過とうかてきかい紹,投入とうにゅう日本にっぽん市井しせい風俗ふうぞく美人びじん畫家がか鏑木かぶらき清方きよかた門下もんか,受其弟子でし指導しどう,如以美人びじんめいてき伊東いとう深水しんすい,以美じん舞踊ぶよう題材だいざいめいてき山川やまかわ秀峰しゅうほうにち山川やまかわ秀峰しゅうほう

1929ねん女子じょし美術びじゅつ學校がっこう畢業ちんすすむいたにん高等こうとう學校がっこう教師きょうしてき資格しかく。10月作品さくひん秋聲しゅうせいだいさんとどけだいてん特選とくせんかん查;〈たそがれのにわ庭園ていえん暮色ぼしょく)〉[8] かん查。此後いく每年まいとしみなゆう作品さくひんさんてんなりためだいてんてん常客じょうきゃく。1930ねん2がつちんすすむあずか村澤むらさわ節子せつこ大岡おおおかはる濤、蔡品、 はやし玉山ぎょくざん木下きのしたしず村上むらかみ宮田みやた彌太郎やたろう那須なすみやびじょう野間口のまぐちぼくはな國島くにしまみず鄉原ごうはらみつるかくゆきみずうみとう人組にんぐみ成東なるとう洋畫ようが研究けんきゅう團體だんたい栴檀せんだんしゃ」,於台きた神島かみじま裱具てんてん會員かいいん平日へいじつてき創作そうさく,以互しょうかん研究けんきゅう作品さくひんわか青春せいしゅん)〉だいよんとどけだいてん特選とくせんかん查;〈ころ當時とうじ)〉かん查。よししたがえだい二屆臺展以來連續三次獲得特選,れつためめんしん查畫

1932ねんちんすすむあずか廖繼はる西にし洋畫ようが擔任たんにんだい六回臺展審查委員,さんてん作品さくひんしばらんこうかん查(こん原作げんさく佚失,ただとめ精緻せいち小幅こはば草稿そうこう)。此為だいてん聘有だい藉審查員はじめにち時期じき擔任たんにんだいてんひょうしんたい藉畫僅有ちんすすむ、廖繼はるかおすいりゅうちんすすむ1932いたり1934ねんどもにん三屆臺展審查委員)。松林しょうりん桂月けいげつ再度さいどらいだいはいおとずれちんすすむざいしんたけてききょせい山居さんきょ

1933ねんあずか廖繼はる西にし洋畫ようが擔任たんにんだい七回臺展審查委員,さんてん作品さくひんため〈含笑はな〉 ,1934ねん9がつ3にち-10月3にち入選にゅうせん日本にっぽん美術びじゅついんだいじゅういちかいてん。10月,以大あねひねしんためとくしょせいてき合奏がっそう入選にゅうせん日本にっぽんだいじゅうかい帝國ていこく美術びじゅつ展覽てんらんかいあきらけん皇太后こうたいごう頒石すずり一方いっぽうなりためだいいち入選にゅうせんみかどてんいくわ台灣たいわん東洋とうよう畫家がか。一同入選第十五回帝展的有廖繼春〈子供こどもにん兩個りゃんこしょう孩)〉、ちんきよしなみ西湖さいこ春色しゅんしょく〉、いしきこり畫室がしつにて畫室がしつ內)〉、鮫島さめしまたい解禁かいきんあさ〉,以及どうため鏑木かぶらき清方きよかた門下もんか弟子でしてきぜんやから榎木えのき千花ちかしゅんにち榎本えのもと千花ちかしゅん作品さくひんにわ[5]同月どうげつあずかかおすいりゅう西にし洋畫ようが)、廖繼はる西にし洋畫ようが擔任たんにんだい八回臺展審查委員,さんてん作品さくひん野邊のべ野地やち)〉。1934ねん11月12にちたい美術びじゅつ協會きょうかい成立せいりつ大會たいかい鐵道てつどう旅館りょかん舉行(ちんすすむため1940ねんだい6とどけ加入かにゅう會員かいいん[9][失效しっこう連結れんけつ]

往返だい及任きょう

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1934ねん11月20にちいたり1937ねんちんすすむかえしだいなみにんきょう高雄たかお州立しゅうりつへいひがし高等こうとう女子じょし學校がっこうこん國立こくりつへいひがし女子じょし高級こうきゅう中學ちゅうがく),首位しゅいだいせき女性じょせいだかおんな教師きょうし。受時にん校長こうちょう大森おおもりたけじょ禮遇れいぐうまい年度ねんど一學期擔任屏東高女教員,於山地さんちもんはいわんぞく部落ぶらく寫生しゃせいなりため原住民げんじゅうみん生活せいかつ題材だいざい作品さくひんてき繪畫かいが溫床おんしょう。如1936ねん入選にゅうせん日本にっぽん文部省もんぶしょうてんてきサンティモンしゃおんな山地さんちもんしゃおんな)〉(ゆかり東京とうきょう目黑めぐろみやび敘園創設そうせつしゃ細川ほそかわ力藏りきぞう收藏しゅうぞうこんぞう福岡ふくおかしゅう美術館びじゅつかんにち福岡ふくおかアジア美術館びじゅつかん)、1938だいいちかいてんかん作品さくひんきねうたきね)〉、1939だいかいてん推選すいせん作品さくひんくわくわはて)〉、1950年代ねんだい水墨すいぼく創作そうさくてき山中さんちゅう人物じんぶつ[6]ひとし

1935ねんだいきゅうかいたいてんさんてん作品さくひんためアコ-デオン手風琴てふうきん)〉;完成かんせいまた以大あねひねしんためとくてき妝〉,入選にゅうせんだいじゅうとどけみかどてんてき合奏がっそうどうため家居かきょ題材だいざい日常にちじょう家居かきょ系列けいれつてき表現ひょうげんまた香蘭こうらん〉(1940)、〈ある〉(1942)、〈ほらぼう〉(1955)とう。1936ねん2がつ25にち-3月25にち,以〈妝〉入選にゅうせん日本にっぽん春季しゅんきみかどてん一同いちどう入選にゅうせんてきゆういしきこり〈楊肇よしみ家族かぞくぞう〉。日本にっぽん都立とりつ美術館びじゅつかん對面たいめん德川とくがわ家康いえやすまとてらじょうせいサンティモンしゃおんな山地さんちもんしゃおんな)〉[7]鄉原ごうはらみつるかえし,「栴檀せんだんしゃ活動かつどう也告一段落いちだんらく

1937ねん10がつちんすすむ以〈サンティモンしゃおんな山地さんちもんしゃおんな)〉,あずか石川いしかわ欽一きんいちろうてき河畔かはん〉、 廖繼はる窓際まどぎわまど)〉入選にゅうせんしん文展ぶんてんずい於1938ねんじょう日本にっぽん東京とうきょうわたるたになみ作品さくひんきねうたきね)〉(1932)參加さんかだいいちかいてん。1939ねん,〈くわくわはて)〉さんてんだいかいてん。〈姊妹〉參加さんか日本にっぽんあおえりかいだいいちかい展覽てんらんかいあおえりかいため1939ねん12がつゆかり 伊東いとう深水しんすい山川やまかわ秀峰しゅうほうにち山川やまかわ秀峰しゅうほう門下もんか弟子でし組成そせい[8]宗旨しゅうしため推展「しん人物じんぶつ[9])。

1940ねんたい美術びじゅつ協會きょうかい新設しんせつ東洋とうようちんすすむあずかかくゆきはやし玉山ぎょくざんりょてつしゅうちんたかしてる村上むらかみ加入かにゅう隔年かくねん以〈早春そうしゅん郊外こうがいさんてんだいななとどけだいてん。7月25-27にちちんすすむ參加さんかはなおや善美ぜんびてん於廈もん貿易ぼうえきかん。10月16にちいたり11がつ20日はつか,〈台灣たいわんはな台灣たいわんはな)〉入選にゅうせん日本にっぽんだいよんとどけしん文展ぶんてん。其他入選にゅうせん包括ほうかつちん永森ながもり鹿しかえん〉、 石川いしかわ欽一きんいちろうおく信濃しなの〉、 小早川こばやかわあつし四郎しろうはた淮涼ふう〉、 楢原ならはらえきふとしせんだんのはなころ〉、 西尾にしお善積よしづみしろ隍祭のむすめ〉、 別府べっぷぬき一郎いちろう海邊うみべあさ〉、 佐伯さえきひさ松林しょうりん小徑こみち〉、 富田とみた民治たみじたいみなみいえ〉、ちんなつ裸婦らふ立像りつぞう〉、鮫島さめしまたい閑居かんきょ〉。 11月,〈散步さんぽ入選にゅうせんだいよんかいてん作品さくひんある參加さんかあおえりかいだいさんかい展覽てんらんかいかくちゅう女子じょしせい閱讀1941ねん12月26にちてき朝日新聞あさひしんぶんあたまじょうそくぜん一天いってんにちぐん佔領香港ほんこんてき新聞しんぶん

1942ねん10がつ,〈香蘭こうらん入選にゅうせん日本にっぽんだいとどけしん文展ぶんてん。〈かぶら參加さんかあおえりかいだいよんかい展覽てんらん。1943ねん5がつ5にち台灣たいわん美術びじゅつ奉公ほうこうかい成立せいりつちんすすむ擔任たんにん理事りじいち。10月16にちいたり11がつ4にちちんすすむ更衣ころもがえさんてんだいろくかいしん文展ぶんてん

戰後せんご

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1945ねんちんすすむかえしだいたいてん於1945-1947ねんいんせんこととまさんずい於1946ねんあずかしょう瓊結褵擔任たんにんだい一屆台灣省全省美術展覽會審查委員。1950年生ねんせい長子ちょうしめい成家なりいえ」,さく嬰兒えいじいちかく。1955ねん,以〈ほらぼう入選にゅうせん日本にっぽんだいじゅうとどけ全國ぜんこくてん

1958ねんしゅ中山なかやまどう舉辦個展こてんけい62けん作品さくひんてんいんやましひらきがたなじゅういん。1960ねんちんすすむくび赴美,1967ねん完成かんせい台北たいぺい法光寺ほうこうじ委託いたくせいてき釋迦しゃかゆきよしみ系列けいれつじゅうぶくそん大雄たいゆう寶殿ほうでん四壁しへき:〈釋迦しゃかふつ誕生たんじょう〉、〈しゅうゆきなな〉、〈釋尊しゃくそん幼年ようねん〉、〈釋尊しゃくそん少年しょうねん〉、〈悉達太子たいしはなれじょう〉、〈太子たいし修習しゅうしゅう苦行くぎょう〉、〈最初さいしょ說法せっぽう〉、〈佛陀ぶっだため其授沙彌さや十戒じっかい〉、〈佛陀ぶっだ教化きょうか農夫のうふ〉、〈佛陀ぶっだはちだい涅槃ねはん〉。(よんろくぶく於1999ねんしつ[10])1968ねん8がつあずか先生せんせい再度さいどおとずれちょうたちさん個月かげつはしおとずれ包括ほうかつ西にしみやびしばひもやくとう美國びくにとう

1971ねん11月,ちんすすむ發起ほっき組織そしき長流ちょうりゅう畫會がかいなみざい1972ねん5がつあずかもとふかしゅう鷗波林之助りんのすけはやし玉山ぎょくざんちんとしひつじさるとうひと於省りつ博物館はくぶつかん舉行くびてん。1977ねん再度さいど於龍もん畫廊がろうあずか其他畫家がか舉辦にかわいろどりれんてん[11]

晚年ばんねん

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1986ねん6がつ台北たいぺい市立しりつ美術館びじゅつかん舉辦「當代とうだい名家めいかてん ちんすすむはちじゅう回顧かいこてん」(6/28~9/24),ちんすすむのりてんはちじゅうけん作品さくひん。1987ねんあずかはやし玉山ぎょくざんかくゆきざい東之ひがしの畫廊がろう舉行「たいてんさん少年しょうねんとくてん」。1989ねん6がつおう國立こくりつ歷史れきし博物館はくぶつかん邀請,ちんすすむあずかはやし玉山ぎょくざんちんとしひつじさる舉辦さんにんれんてん。1996ねん頒「行政ぎょうせいいん文化ぶんか獎」,ため此獎成立せいりつ以來いらいてきだいいち女性じょせい藝術げいじゅつ[12]

1997ねん,捐出「行政ぎょうせいいん文化ぶんか獎」獎金60萬元及個人積蓄40まんげん合計ごうけい100まんげんため獎學基金ききん設立せつりつちんすすむ藝術げいじゅつ文化ぶんか獎」,以基金ききん孳息所得しょとく每年まいとしはつ獎助がくきんつづみにかわいろどり創作そうさく

1998ねん3がつ27にち中午なかうま1215ふんちんすすむびょう逝於たいだい醫院いいんとおる耆壽きゅうじゅういちさい

作品さくひん

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日本にっぽん時代じだい

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山地さんちもんしゃおんな〉(福岡ふくおかしゅう美術館びじゅつかんにち福岡ふくおかアジア美術館びじゅつかんぞう入選にゅうせん昭和しょうわじゅういちねん(1936ねん文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覽てんらんかい
  • 姿すがた〉(1927)、〈罌粟げし〉(1927)及〈あさ〉(1927)入選にゅうせんだいいちかい臺灣たいわん美術びじゅつ展覽てんらんかい
  • 野分のわけだいかいだいてん東洋とうよう特選とくせん
  • だいさんかいだいてん入選にゅうせん秋聲しゅうせい〉(1929)(特選とくせんかん查)、〈庭園ていえん暮色ぼしょく〉(1929)(かん查)
  • だいよんかいだいてん入選にゅうせんわか〉(1930)(特選とくせんかん查)、〈其〉(1930)(かん查)
  • だいかいだいてん入選にゅうせんゆくはる(逝春)〉(1931)(かん查)
  • だいろくかいだいてん入選にゅうせんしばらんこう〉(1932)(かん查)
  • きね〉(1932,參加さんか1938ねんだいいちかいてん。)、
  • だいななかいだいてん作品さくひん〈含笑はな〉(1933)
  • だいはちかいだいてん作品さくひん野邊のべ野地やち)〉(1934);〈合奏がっそう〉(1934,入選にゅうせん帝國ていこく美術びじゅつ展覽てんらんかいためだいいち入選にゅうせんてき台灣たいわんおんな畫家がか)。
  • だいきゅうかいだいてん作品さくひんアコ-デオン手風琴てふうきん)〉(1935)[13];〈ゆうあいだ〉(1935)、〈化粧けしょう〉(1935,入選にゅうせん日本にっぽん春季しゅんきみかどてん)。
  • だいじゅうかいだいてん作品さくひん樂譜がくふ〉(1936)
  • 山地さんちもんしゃおんな〉(1936,入選にゅうせん文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覽てんらんかい。147.7 x 199.1 cm,絹本けんぽんにかわいろどり福岡ふくおかしゅう美術館びじゅつかんてんぞう[14]
  • ようらん〉(1937)
  • だいいちかいてん作品さくひんきねうたきね)〉(1938)(かん查)
  • だいかいてん推選すいせん作品さくひんくわくわはて)〉(1939)
  • 香蘭こうらん〉(1940,だい五屆文部省美術展覽會展出。)
  • だいよんかいてん作品さくひん散步さんぽ〉(1941)

戰後せんご台灣たいわん

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  • 婦女ふじょ〉(1945)、〈もちはな少女しょうじょ〉(1947)、〈小男こおとこ孩〉(1954)、〈ほらぼう〉(1955)
  • はて〉(1961)、〈おもえ〉(1965)、〈春秋しゅんじゅうかく〉(1965)、〈釋迦しゃかゆきよしみ系列けいれつ(1965-1967,どもじゅうはり)、〈香蘭こうらん〉(1968)[10][失效しっこう連結れんけつ]
  • くに〉(1971)、〈王者おうじゃ〉(1971)、〈月下美人げっかびじん〉(1971)、〈鳳仙花ほうせんか〉(1973)
  • きよし安東あんどうゆうかわ〉(1980)、〈ははあい〉(1984)

展覽てんらん歷程れきてい

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  • 1958ねんくび個展こてん,於中山なかやまどう舉辦。
  • 1977ねん2がつにかわいろどりれんてんりゅうもん畫廊がろう
  • 1981ねん行政ぎょうせいいん文化ぶんか建設けんせつ委員いいんかい臺灣たいわん地區ちく美術びじゅつ發展はってん回顧かいこてん 」,くにたい美術館びじゅつかん
  • 1986ねん阿波あわ畫廊がろうはちしゅうねんとくてんじゅうがつ花香はなか畫展がてん阿波あわ畫廊がろう
  • 1986ねん:「當代とうだい名家めいかてん ちんすすむはちじゅう回顧かいこてん」,台北たいぺい市立しりつ美術館びじゅつかん
  • 1987ねん:「さん少年しょうねんとくてん」,東之ひがしの畫廊がろう
  • 1987ねん:「にかわいろどりだいてん」,阿波あわ畫廊がろう
  • 1987ねん11月:「さん少年しょうねんとくてん」,東之ひがしの畫廊がろう
  • 1989ねんちんすすむはやし玉山ぎょくざんちんとしひつじさるさんにんれんてん國立こくりつ歷史れきし博物館はくぶつかん
  • 1990ねん:「ちんすすむにかわいろどり作品さくひんとくてん東之ひがしの畫廊がろう
  • 1993ねん:「たいてんさん少年しょうねんれんてん」,東之ひがしの畫廊がろう
  • 1996ねん:「ちんすすむきゅうじゅう回顧かいこてん」,國立こくりつ歷史れきし博物館はくぶつかん
  • 2003ねん:「ゆうあいだ靜思せいしちんすすむつかまつおんなよし」,國立こくりつ歷史れきし博物館はくぶつかんてん作品さくひん32けん
  • 2006ねん:「ちんすすむひゃくさいねんてん – 赴日じゅん迴前てん」,台北たいぺい市立しりつ美術館びじゅつかん
  • 2006ねん:「うらら島名しまな畫家がかちんすすむひゃくさいねんてん」,東京とうきょう澀谷區立くりつ松濤しょうとう美術館びじゅつかん兵庫ひょうご縣立けんりつ美術館びじゅつかん福岡ふくおかしゅう美術館びじゅつかんにち福岡ふくおかアジア美術館びじゅつかん日本にっぽん
  • 2012ねん8がつ:「ちんすすむ藝術げいじゅつ文化ぶんか獎歷とどけとくぬしれんてん」,國立こくりつ歷史れきし博物館はくぶつかん。邀請到12とく獎者共同きょうどうてん35ぶく作品さくひんあずかちんすすむてき6ぶく作品さくひんれんてん[15]
  • 2015ねん5がつ:「台灣たいわん製造せいぞう製造せいぞう台灣たいわん臺北たいぺい市立しりつ美術館びじゅつかんてんぞうてん」,台北たいぺい市立しりつ美術館びじゅつかんくびてん1934ねんだいはちかいだいてん入選にゅうせんてき作品さくひん野邊のべ〉。
  • 2015ねん8がつ:「粧摩とう──ちんすすむとくてん」,國立こくりつ歷史れきし博物館はくぶつかんてんあずか93けん作品さくひん
  • 2020ねん4がつ:「たいてんさん少年しょうねん はやし玉山ぎょくざんちんすすむかくゆきみずうみ れんてん」,長流ちょうりゅう美術館びじゅつかん臺北たいぺいかん
  • 2020ねん台北たいぺい國際こくさい藝術げいじゅつ博覽はくらんかい阿波あわ畫廊がろうてん
  • 2020ねん10がつ:「不朽ふきゅうてき青春せいしゅん」,きた美術館びじゅつかんてん山中さんちゅう人物じんぶつ〉。
  • 2020ねん11月:「經典きょうてん再現さいげんうてなてん現存げんそん作品さくひんとくてん」,國立こくりつ臺灣たいわん美術館びじゅつかん
  • 2021ねん:「海外かいがいそんちんじゅんてん美術館びじゅつかんぞうひん歸鄉ききょうてん國立こくりつ臺灣たいわん美術館びじゅつかん
  • 2021ねん10がつ:「きむちぎりらんゆい中日ちゅうにち書畫しょが文化ぶんか交流こうりゅうてん」,はなおか博物館はくぶつかんてん歷史れきし博物館はくぶつかんぞう春蘭しゅんらん〉。

しょうてん經歷けいれき

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  • くにしん委員いいん:1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、15、16、17とどけ評議ひょうぎ委員いいん:29、30、31、32、33、34、44とどけ
  • くにしん委員いいん:18、19、20、21、22、23、24、25、26、27とどけ評議ひょうぎ委員いいん:35、36とどけ
  • にかわいろどり評議ひょうぎ委員いいん:37、38、39、40、41、42、43、45、46とどけ顧問こもん:47、48、49、50、51、52とどけ[16]

かげ作品さくひん

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相關そうかんねん

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2022ねん11月2にちGoogleぬりからす發布はっぷねんちんすすむ115さいめい誕的插畫そうがざい台灣たいわんりゅうらんてきGoogleくびぺーじじょういた作品さくひん[17]

まいり

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參考さんこう資料しりょう

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註釋ちゅうしゃく
らいみなもと
  1. ^ ぜんやからおんな畫家がか ちんすすむ页面そん档备份そん互联网档あん),畫壇がだん風雲ふううん人物じんぶつせん輯。
  2. ^ 臺灣たいわん人士じんしかん. 臺灣たいわんしんみんほうしゃ. 1937. 
  3. ^ 參考さんこうりんあきらん整理せいり,〈たいてんてんしょうてん---ろう畫家がかだん今昔こんじゃく〉,獅圖しょまた份有げん公司こうし,63ぺーじ86,ちんすすむじゅつ進入しんにゅうだいきただいだかおんな
  4. ^ 參考さんこう台灣たいわん美術びじゅつ全集ぜんしゅう):ちんすすむ》,台北たいぺい藝術げいじゅつ出版しゅっぱんしゃ,1992。
  5. ^ 參考さんこうせきもりけん,〈人世じんせい美的びてき記錄きろくしゃちんすすむ畫業がぎょう研究けんきゅう〉,《臺灣たいわん美術びじゅつ全集ぜんしゅう だい2かん ちんすすむ》(台北たいぺい : 藝術げいじゅつ出版しゅっぱんしゃ,1992),ぺーじ20、21。
  6. ^ [1],〈山中さんちゅう人物じんぶつ〉,44.0 x 51.0cm,あやぼくかみ、1950s。參考さんこうきた美術館びじゅつかん不朽ふきゅうてき青春せいしゅんてん
  7. ^ 獅圖しょまた份有げん公司こうし,《台灣たいわん近代きんだい美術びじゅつ大事だいじ年表ねんぴょう》,ぺーじ159,1936ねん10がつ16-11月3にち石川いしかわ欽一きんいちろう河畔かはん〉、 いしきこり〈楊肇よしみ家族かぞくぞう〉、 ちんすすむサンティモンしゃおんな〉、 廖繼はる窓際まどぎわ〉、 しみうら三郎さぶろう〈{{lang|ja|マンドバオンの親子おやこ〉、 いんでんしげるはまいこいしげる〉、 松本まつもと光治こうじ池畔ちはん秋色しゅうしょく〉、 佐伯さえきひさなつあさ〉、 まつ本宮もとみや太郎たろう台灣たいわん村里むらざと入選にゅうせんしん文展ぶんてん
  8. ^ あおえりかい页面そん档备份そん互联网档あん),東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ-「あおえりかい條目じょうもく
  9. ^ いしもりけん,〈人世じんせい美的びてき記錄きろくしゃちんすすむ畫業がぎょう研究けんきゅう〉,《臺灣たいわん美術びじゅつ全集ぜんしゅう だい2かん ちんすすむ》(新北しんきた : 藝術げいじゅつ出版しゅっぱんしゃ,1992),ぺーじ31,ちゅう9。
  10. ^ [2]页面そん档备份そん互联网档あん),見世みせかい佛教ぶっきょう美術びじゅつ圖說ずせつだい辭典じてん-〈釋迦しゃかゆきよしみ〉。
  11. ^ [3]页面そん档备份そん互联网档あん),參考さんこう台灣たいわん畫廊がろう產業さんぎょう史料しりょう
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  16. ^ [7]页面そん档备份そん互联网档あん),參考さんこう台灣たいわん美術びじゅつ知識ちしき-台灣たいわんてん-藝術げいじゅつ-ちんすすむ
  17. ^ ちんすすむ 115 さいめい. Google Doodle作品さくひん資料しりょう. Google. 2022-11-02 [2022-11-02]. (原始げんし内容ないようそん于2022-11-06). 

相關そうかんろんちょ

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書籍しょせき

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  • かんしげる蓉編,《當代とうだい名家めいかてん ちんすすむはちじゅう回顧かいこてん》,台北たいぺい台北たいぺい市立しりつ美術館びじゅつかん,1986。
  • うららきょう,《ねやしゅう時代じだいちんすすむ》,台北たいぺい獅圖しょまた份有げん公司こうし,1993。
  • かお娟英,《台灣たいわん近代きんだい美術びじゅつ大事だいじ年表ねんぴょう》,台北たいぺい獅圖しょまた份有げん公司こうし,1998。
  • こうぶん瑜,《山地さんちもんおんな臺灣たいわんだい一位女畫家陳進和她的女弟子》,台北たいぺい聯合れんごう文學ぶんがく,2001。
  • はやしいくじゅんぬしへん,《ちんすすむひゃくさいねんてん:赴日じゅん迴前てん》,台北たいぺい台北たいぺい市立しりつ美術館びじゅつかん2003。
  • 國立こくりつ歷史れきし博物館はくぶつかん編輯へんしゅう委員いいんかい編輯へんしゅうだかだまちんぬしへんしゃえいおうとしちんへん,《粧摩とうちんすすむ作品さくひんしゅう》,台北たいぺい史博ふみひろかん,2015。
  • 國立こくりつ歷史れきし博物館はくぶつかん編輯へんしゅう委員いいんかい編輯へんしゅうほこおもえ明主めいしゅへんだか以璇、しゅう妙齡みょうれいてい婷婷執へん,《歷史れきし文物ぶんぶつ月刊げっかんまき25だい9.No.266(2015.09)

外部がいぶ連結れんけつ

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