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みなもとのぞみよし

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みなもとのぞみよし
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき
生誕せいたん 仁平にだいら2ねん1152ねん[1]
死没しぼつ うけたまわ4ねん1180ねん)または
寿ことぶきひさし元年がんねん9月25にち1182ねん10月24にち
別名べつめい 土佐とさ冠者かんじゃ鎌田かまた冠者かんじゃ気良けら冠者かんじゃ
戒名かいみょう 西にしようてら殿どのえんあきらだい禅定ぜんじょうもん
墓所はかしょ 高知こうちけん高知こうち介良けら西にしよう寺跡てらあとぬいとう
官位かんい 無官むかん
氏族しぞく 清和せいわはじめためよしながれ河内かわうちはじめ
父母ちちはは ちち源義朝みなもとのよしともはは由良ゆら御前ごぜん
兄弟きょうだい 義平よしひら朝長ともなが頼朝よりとももんまれよしはんよりゆき
ちょんしげる義円ぎえん義経よしつね坊門ぼうもんひめ女子じょし
つま 平田ひらたつぎとおむすめ?
隆盛りゅうせい希望きぼう?[注釈ちゅうしゃく 1]
貞義さだよしくだりえんみちえんちょうゆかりえんのう[注釈ちゅうしゃく 2]
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みなもと のぞみよし(みなもと の まれよし)は、平安へいあん時代じだい末期まっき河内かわうちはじめ武将ぶしょう源義朝みなもとのよしともなんみなもと頼朝よりとも同母どうぼおとうとで、同母どうぼ姉妹しまい一条いちじょうのうしつ坊門ぼうもんひめがいる。

生涯しょうがい

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平安へいあん時代じだいまつ日記にっきもちいた『きよし獬眼しょう』の記事きじに、えいれき元年がんねん1160ねん流刑りゅうけいまれが「としきゅう」とある[1]計算けいさんすると生年せいねん仁平にだいら2ねん1152ねん)になる。

平治へいじ元年がんねん1159ねん)の平治へいじらん父兄ふけい死亡しぼうしたのち駿河するがこくこうつらぬけげん 静岡しずおかけん沼津ぬまづこうぬきまち)にて母方ははかた伯父おじ藤原ふじわら範忠のりただによって朝廷ちょうていされた[注釈ちゅうしゃく 3]らん処分しょぶんえいれき元年がんねん1160ねん)3がつ11にち土佐とさ流罪るざいめられた[1][注釈ちゅうしゃく 4]

土佐とさこくでは介良けらそう(けらのしょう)に配流はいるされ、土佐とさ冠者かんじゃ(とさのかじゃ)とばれた[2]現在げんざい高知こうちけん高知こうち介良けらにあたる。

みなもとのぞみ義戦ぎせん伝承でんしょう
南国なんこく東崎とうざきとんび中学校ちゅうがっこう

うけたまわ4ねん1180ねん)8がつあに頼朝よりとも挙兵きょへいけて、まれ合力ごうりょくうたがいがあるとして平家ひらかによりまれ追討ついとうれいされたとき、土佐とさこくでは平重盛たいらのしげもり家人かじんである蓮池はすいけ家綱いえつな平田ひらたしゅんとおまれとうとした[2]まれは、かねてから夜須やすこうむね約束やくそくわしており、その根拠地こんきょちである夜須やすそうかったが、吾川あがわぐんとし越山こえやまいつかれ、ころされた[2]救援きゅうえんせつけようとした夜須やすこうむねわなかった[2]介良けら高知こうち平野へいやのほぼ中央ちゅうおうにあり、夜須やすはそこからひがし吾川あがわぐん西にしにある。そして、当時とうじ吾川あがわぐんいきとし越山こしやまにあたる地名ちめいはない。『みなみこころざし』は吾川あがわぐん鳥越山とりごえやまげん 高知こうち春野はるのまち弘岡中ひろおかなか)に比定ひていするが、『土佐とさかそけこう』は介良けらそう夜須やすそう中間ちゅうかんにあたる長岡ながおかぐんさか折山おりやまげん 南国なんごく市坂いちさかおり)と推定すいていした[3]後免ごめんえききたにあるちいさなおかである。

平治へいじ物語ものがたり』における死没しぼつ記事きじは『吾妻あづまきょう』とは多少たしょうことなり、うけたまわ4ねん頼朝よりとも挙兵きょへいほうけた平家へいけかた勢力せいりょくによって包囲ほういされたまれちちあさため仏事ぶつじおこなってから自害じがいした、となっている。また、うけたまわ4ねんごろまれ熊野くまのなどの海上かいじょう勢力せいりょく提携ていけいして南海なんかい独自どくじはん平家へいけ勢力せいりょくけん構築こうちくするうごきをっていたとせつもある[4]

まれ師僧しそうであった土佐とさこくの琳猷上人しょうにん(りんゆうしょうにん)は、平家へいけおそれて葬儀そうぎもされずうちてられていたまれ死体したいって供養くようしたという。文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)3がつ27にち上人しょうにんまれびんかみくびにかけて鎌倉かまくらおとずれ、頼朝よりとも対面たいめんした。頼朝よりともは「上人しょうにんがおいでになったことは、まれたましいふたたたずねてきたことのようです」と賛辞さんじくしたとつたえられる。

同母どうぼけいである頼朝よりともはそのをいたくかなしみ、大軍たいぐん派遣はけんして蓮池はすいけ平田ひらたらを殲滅せんめつしたのちまれ墓所はかしょとして介良けらそう西にしようてら建立こんりゅうして菩提ぼだいとむらった。てらめいまれ法名ほうみょう西にしようてら殿どのえんあきらだい禅定ぜんじょうもん」に由来ゆらいする。

没年ぼつねんについて

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まれ没年ぼつねんかんする記載きさいは、文献ぶんけんによってつぎのようにことなる。

墓所はかしょ

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でんみなもとのぞみはかとう高知こうち介良けら

墓所はかしょとして建立こんりゅうされた西にしようてら近世きんせいにはてらうんおとろえ、明治めいじ時代じだい廃仏毀釈はいぶつきしゃく廃寺はいじとなって現在げんざい跡地あとち高知こうちけん高知こうち介良けら北緯ほくい3333ふん23.8びょう 東経とうけい13336ふん25.3びょう)としてのこっている。西にしようてら跡地あとちにはぬいとう高知こうち指定してい文化財ぶんかざい)がつが、地元じもとではこれをまれはかとしてつたえている[5]。このはかでは、1995ねん鎌倉かまくらみなもと頼朝よりともはかいし交換こうかんして兄弟きょうだい再会さいかいたすもよおしがおこなわれた。また、はかうえにはまれまつまれ神社じんじゃっている。

このほか、高知こうちけん高知こうち横浜東よこはまひがしまちにはまれまつったせい神社じんじゃがある。

後裔こうえい氏族しぞく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』には隆盛りゅうせいえるのみで、希望きぼう記載きさいはない。
  2. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』はこのめい隆盛りゅうせい子息しそくまれまご)として記載きさいするが、『分脈ぶんみゃくわき沢本さわもと前田まえだほん内閣ないかく文庫本ぶんこぼんにおいては隆盛りゅうせいえず、わってこのめいまれ子息しそくとする。
  3. ^ 平治へいじ物語ものがたり』(岩波書店いわなみしょてんしん古典こてん大系たいけい所収しょしゅう)に「おじの朝忠ちょうちゅうからめとられ」とある。しん古典こてん大系たいけい注釈ちゅうしゃく朝忠ちょうちゅう範忠のりただとある。
  4. ^ 平治へいじ物語ものがたり』(岩波書店いわなみしょてんしん古典こてん大系たいけい所収しょしゅう)には、まだ正式せいしきな「めい」はかったが名乗なのりがないと流刑りゅうけいにはできないので、流刑りゅうけいにするさいまれ」というあたえられた、としるされている。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c きよし獬眼しょうえいれき元年がんねんさんがつじゅういちにちじょう
  2. ^ a b c d 吾妻あづまきょう寿ことぶきひさし元年がんねん9がつ25にちじょう。『現代げんだいやく吾妻あづまきょうだい1かん114 - 115ぺーじ
  3. ^ 春野はるのまち』98ぺーじ
  4. ^ 河内かわうちさち頼朝よりとも時代じだい : いちいちはち年代ねんだい内乱ないらん』(平凡社へいぼんしゃ、1990ねん
  5. ^ 西にしよう寺跡てらあとぬいとう高知こうちホームページ)。

参考さんこう文献ぶんけん

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