サー ・ウィリアム・ウォレス (英語 えいご : Sir William Wallace 、1270年 ねん 頃 ごろ - 1305年 ねん 8月 がつ 23日 にち )は、スコットランド の愛国 あいこく 者 しゃ 、騎士 きし 、軍事 ぐんじ 指導 しどう 者 しゃ 。
イングランド 王 おう エドワード1世 せい の過酷 かこく なスコットランド支配 しはい に対 たい して、スコットランド民衆 みんしゅう の国民 こくみん 感情 かんじょう を高 たか めて抵抗 ていこう 運動 うんどう を行 おこな い、1297年 ねん のスターリング・ブリッジの戦 たたか い でイングランド軍 ぐん に勝利 しょうり をおさめた。この戦功 せんこう でスコットランド守護 しゅご 官 かん (英語 えいご 版 ばん ) に任 にん じられるも、1298年 ねん のフォルカークの戦 たたか い でイングランド軍 ぐん に敗 やぶ れたため、職 しょく を辞 じ した。その後 ご もエドワードの支配 しはい への抵抗 ていこう 運動 うんどう を継続 けいぞく したが、1305年 ねん にイングランド軍 ぐん に捕 と らえられ、大逆 だいぎゃく 罪 ざい で有罪 ゆうざい となり、残虐 ざんぎゃく 刑 けい で処刑 しょけい された。しかし彼 かれ の刑死 けいし によりスコットランドの国民 こくみん 感情 かんじょう は鼓舞 こぶ され、ついにはエドワードのスコットランド支配 しはい を崩壊 ほうかい させるに至 いた った[1] 。
出自 しゅつじ ・前 ぜん 半生 はんせい など[ 編集 へんしゅう ]
ウォレスの前 ぜん 半生 はんせい についてはほぼ不明 ふめい だが[2] 、レンフルーシャー のエルダズリー (英語 えいご 版 ばん ) の地主 じぬし マルコム・ウォレスの子 こ との伝承 でんしょう がある[3] 。しかし後述 こうじゅつ する「リューベック文書 ぶんしょ 」の印璽 いんじ から見 み られるウォレスの父親 ちちおや の名前 なまえ は「アラン」である。
ウィリアム・ウォレスの伝承 でんしょう の多 おお くは、15世紀 せいき 後半 こうはん の吟遊詩人 ぎんゆうしじん ブラインド・ハリー (英語 えいご 版 ばん ) の詩 し から拾 ひろ い集 あつ められた物 もの であり、その詩 し はウォレスの死後 しご およそ200年 ねん 後 ご に書 か かれた物 もの であるため、確証 かくしょう はできない物 もの が多 おお い。
「ウォレス」というのは「ウェルシュ」がなまったものだが、スコットランド歴史 れきし 家 か ナイジェル・トランター (英語 えいご 版 ばん ) は、これはウェールズ人 じん であることを意味 いみ せず、北方 ほっぽう ゲール系 けい ケルト人 じん でなく、南部 なんぶ キムルー・ストラスクライド系 けい ケルト人 じん だったことを意味 いみ していると主張 しゅちょう している[3] 。
抵抗 ていこう 運動 うんどう の始 はじ まり[ 編集 へんしゅう ]
記録 きろく に出 で てくるなかでは、1296年 ねん 8月 がつ にパースで「William le Waleys」なる盗賊 とうぞく が現 あらわ れたとあるが、これがウィリアムかどうかは確認 かくにん されていない[6] 。
ウィリアム・ウォレスの名 な が歴史 れきし 上 じょう に出 で てくる確 たし かな年代 ねんだい は1297年 ねん 5月で、ラナーク のハイ・シェリフ (英語 えいご 版 ばん ) を務 つと めるイングランド人 じん ウィリアム・ヘッセルリグ(William Heselrig)を殺害 さつがい した事件 じけん がそれである。この殺害 さつがい について、ブラインド・ハリーが伝 つた える伝承 でんしょう ではウォレスの愛人 あいじん マリオン・ブレイドフュートがヘッセルリグの息子 むすこ を振 ふ って殺 ころ され、その復讐 ふくしゅう とされるが、実際 じっさい にはイングランド式 しき の統治 とうち を推 お し進 すす めていたヘッセルリグのアサイズ(巡回 じゅんかい 裁判 さいばん )に反発 はんぱつ したスコットランド人 じん の一団 いちだん がヘッセルリグの殺害 さつがい を計画 けいかく ・実行 じっこう し、この一団 いちだん にウィリアムが関 かか わっていたものと見 み られる[6] 。
ウォレスは、イングランドの過酷 かこく な統治 とうち に反発 はんぱつ するスコットランド下級 かきゅう 貴族 きぞく ・中間 なかま 層 そう ・下層 かそう 民 みん の間 あいだ で急速 きゅうそく に支持 しじ を広 ひろ げた[2] [8] 。分散 ぶんさん 的 てき だったスコットランド人 じん の抵抗 ていこう 運動 うんどう はウォレスの指導 しどう 下 か にナショナルなゲリラ的 てき 抵抗 ていこう の形 かたち をもって統一 とういつ されていった[8] 。一方 いっぽう スコットランド大 だい 貴族 きぞく は親 おや イングランド的 てき だったうえ、ウォレスを身分 みぶん の低 ひく い者 もの と軽蔑 けいべつ していたので、積極 せっきょく 的 てき な協力 きょうりょく はしなかった[2] [9] 。
スターリング・ブリッジの戦 たたか い [ 編集 へんしゅう ]
スターリング・ブリッジの戦 たたか い を描 えが いた絵画 かいが
スコットランド北部 ほくぶ で抵抗 ていこう 運動 うんどう を行 おこな うアンドルー・モレー (英語 えいご 版 ばん ) の軍 ぐん と合流 ごうりゅう し、1297年 ねん 9月11日 にち にはスターリング・ブリッジ において、スコットランド総督 そうとく でイングランド貴族 きぞく の第 だい 6代 だい サリー伯爵 はくしゃく ジョン・ド・ワーレン 率 ひき いるイングランド軍 ぐん と戦 たたか った(スターリング・ブリッジの戦 たたか い )[8] 。
兵力 へいりょく はイングランド軍 ぐん の方 ほう が優勢 ゆうせい であり[2] 、またイングランド軍 ぐん は騎兵隊 きへいたい やウェールズ弓 ゆみ 隊 たい を擁 よう していた[8] 。しかしウォレスはフォース川 がわ の架橋 かきょう 地点 ちてん とその先 さき の湿地 しっち 帯 たい が一本 いっぽん 道 どう になっているという地 ち の利 り を生 い かしてイングランド軍 ぐん の騎兵隊 きへいたい の機動 きどう 力 りょく を奪 うば い、勝利 しょうり を収 おさ めることに成功 せいこう した[9] 。
イングランド王 おう エドワード1世 せい が前月 ぜんげつ 8月 がつ からフランス出兵 しゅっぺい でイングランドを不在 ふざい にしており、直接 ちょくせつ 指揮 しき をとっていなかったとはいえ、この勝利 しょうり はスコットランド人 じん の自信 じしん を大 おお いに高 たか めた[9] 。
スコットランド守護 しゅご 官 かん [ 編集 へんしゅう ]
スターリング・ブリッジの戦 たたか い後 ご 、セルカーク (英語 えいご 版 ばん ) における会議 かいぎ で[10] 、モレーとともにスコットランド守護 しゅご 官 かん (英語 えいご 版 ばん ) に任 にん じられた。1296年 ねん にスコットランド王 おう ジョン・ベイリャル がイングランド王 おう エドワード1世 せい に敗 やぶ れて退位 たいい のうえイングランドに連行 れんこう されて以来 いらい 、スコットランドは王位 おうい が不在 ふざい となっており、スコットランド王権 おうけん はエドワード1世 せい が接収 せっしゅう していた[12] 。ウォレスのスコットランド守護 しゅご 官 かん への就任 しゅうにん はそれを認 みと めず、ロンドン塔 とう で幽閉 ゆうへい されているジョン・ベイリャルを真 しん のスコットランド王 おう に見立 みた てて、ジョン王 おう のスコットランド王国 おうこく を守護 しゅご するという立場 たちば を示 しめ すものだった[2]
またこれ以降 いこう ウォレスは「サー ・ウィリアム・ウォレス」と呼 よ ばれるようになっており、守護 しゅご 官 かん に任 にん じられると同時 どうじ に勲爵 くんしゃく 位 い が与 あた えられたと見 み られる。誰 だれ がウォレスに勲爵 くんしゃく 位 い を与 あた えたかは判然 はんぜん としない。理論 りろん 上 じょう では騎士 きし であればだれでも別 べつ の騎士 きし を任命 にんめい することは可能 かのう だったが、イングランドの年代 ねんだい 記 き には「逆賊 ぎゃくぞく がスコットランドの大 だい 伯爵 はくしゃく の手 て で騎士 きし に叙 じょ された」と記 しる されている[10] 。この記述 きじゅつ からナイジェル・トランターはキャリック伯爵 はくしゃく ロバート・ブルース (後 ご のスコットランド王 おう ロバート1世 せい )がウォレスに勲爵 くんしゃく 位 い を与 あた えたと主張 しゅちょう している。当時 とうじ の12人 にん のスコットランド伯爵 はくしゃく の中 なか で、ある者 もの は未成年 みせいねん 、ある者 もの はイングランド側 がわ 、ある者 もの は闘争 とうそう から遠 とお く離 はな れて生 い きていたなどの消去 しょうきょ 法 ほう によって出 だ された結論 けつろん である。ただ新 あら たなる文書 ぶんしょ による裏付 うらづ けができない限 かぎ り、これも確定 かくてい することはできない[注釈 ちゅうしゃく 1] 。
守護 しゅご 官 かん となって実質 じっしつ 的 てき にスコットランドの国政 こくせい を任 まか されたウォレスはスコットランドのかつての交易 こうえき ・外交 がいこう 関係 かんけい を取 と り戻 もど すべく、ヨーロッパと接触 せっしょく を図 はか ったと見 み られ、1297年 ねん 10月 がつ にはドイツ のリューベック とハンブルク に宛 あ てて「リューベックとハンブルク、2つの町 まち の商人 しょうにん は今 いま やスコットランド王国 おうこく の全 すべ ての地域 ちいき に自由 じゆう に出入 でい りできる。その自由 じゆう は、神 かみ の恩顧 おんこ によって、戦争 せんそう によって、イングランド人 じん の権限 けんげん から取 と り戻 もど されたものである」という内容 ないよう のラテン語 らてんご の手紙 てがみ をモレーとの共同 きょうどう 署名 しょめい で送 おく っている。この文書 ぶんしょ は「リューベック文書 ぶんしょ (The Lübeck letter)」と呼 よ ばれるが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 末 すえ にソ連 それん 軍 ぐん が東側 ひがしがわ へ持 も っていたために行方 ゆくえ 不明 ふめい となり、大戦 たいせん 中 ちゅう のリューベック空襲 くうしゅう (ドイツ語 ご 版 ばん ) で焼失 しょうしつ したと考 かんが えられていたが、1970年代 ねんだい にソ連 それん の文書 ぶんしょ 館 かん で発見 はっけん され、1990年 ねん に交渉 こうしょう の結果 けっか リューベック市 し に返還 へんかん された[17] 。この文書 ぶんしょ は印璽 いんじ からウォレスの父親 ちちおや の名前 なまえ は「アラン」だったと伝 つた えている。
ウォレス軍 ぐん は勢 いきお いに乗 の ってイングランド北部 ほくぶ ノーサンバーランド やカンバーランド に進攻 しんこう した[8] 。しかしモレーはスターリング・ブリッジの戦 たたか いで負傷 ふしょう していたため同道 どうどう しなかった(彼 かれ は負傷 ふしょう が原因 げんいん で1297年 ねん 終 お わりごろに死去 しきょ している)。
1298年 ねん 3月 がつ 29日 にち 付 づ けでウォレスとスコットランド議会 ぎかい の名義 めいぎ でスコットランド軍 ぐん 世襲 せしゅう の旗手 きしゅ アレクサンダー・ル・スクリムジャー (英語 えいご 版 ばん ) に書簡 しょかん が送 おく られているのが確認 かくにん できる[19] 。
ウォレスの破竹 はちく の勢 いきお いも長 なが くは続 つづ かなかった。彼 かれ は貴族 きぞく 階級 かいきゅう から軽蔑 けいべつ され続 つづ け、またベイリオル家 か の名 な のもとで戦 たたか ったため、ブルース家 か から支持 しじ を得 え られなかった[20] 。またフランスにいたエドワード1世 せい は、ウォレス軍 ぐん の勝利 しょうり の報告 ほうこく を受 う けて、1298年 ねん 1月 がつ に急遽 きゅうきょ フランス王 おう フィリップ4世 せい と講和 こうわ し、イングランドに舞 ま い戻 もど ってきた[20] 。
エドワード1世 せい は破壊 はかい 的 てき な報復 ほうふく を開始 かいし し、ウォレスはゲリラ戦 せん でこれに抵抗 ていこう したが、徐々 じょじょ に追 お い詰 つ められていき、1298年 ねん 7月 がつ 22日 にち にウォレス軍 ぐん はエドワード1世 せい 率 ひき いるイングランド軍 ぐん とフォルカーク での野戦 やせん を余儀 よぎ なくされた(フォルカークの戦 たたか い )[21] 。ウォレス軍 ぐん は数 かず に勝 まさ るイングランド軍 ぐん を相手 あいて によく奮戦 ふんせん したが、戦闘 せんとう 中 ちゅう 、バデノッホ卿 きょう (英語 えいご 版 ばん ) ジョン・カミン 率 ひき いる主 あるじ として貴族 きぞく から成 な る騎兵隊 きへいたい が一 いち 戦 せん も交 まじ えずにウォレスを見捨 みす てて撤退 てったい したため、ウォレスは騎兵 きへい 無 な しで戦 たたか うことになり、決戦 けっせん に持 も ち込 こ めないまま、撤退 てったい を余儀 よぎ なくされた[2] [22] 。
フランスやローマで交渉 こうしょう [ 編集 へんしゅう ]
この戦 たたか いで多 おお くの兵 へい を失 うしな ったため、ウォレスは1298年 ねん 7月 がつ にトーフィカンにおいて開 ひら いたスコットランド議会 ぎかい で、責任 せきにん を取 と る形 かたち で「スコットランドの守護 しゅご 官 かん 」の職 しょく を辞 じ した[2] 。完全 かんぜん にはウォレスを支持 しじ していなかった貴族 きぞく たちに引 ひ きずり降 お ろされたのか、嫌気 いやけ がさして辞 や めたのは不明 ふめい である。ウォレスの退任 たいにん 後 ご はブルースとジョン・コミンが同職 どうしょく に就任 しゅうにん した[25] 。
この後 のち の1298年 ねん から1303年 ねん にかけてのウォレスの動向 どうこう はよく分 わ かっていないが、フランス やローマ を訪問 ほうもん してエドワード1世 せい への抵抗 ていこう 運動 うんどう の援助 えんじょ を求 もと める交渉 こうしょう にあたったことはいくつかの資料 しりょう から判明 はんめい している。ローマへはセント・アンドリューズ司教 しきょう (英語 えいご 版 ばん ) ウィリアム・ド・ランバートン (英語 えいご 版 ばん ) と共 とも に行 い き、ローマ教皇 きょうこう ボニファティウス8世 せい はランバートンの訴 うった えを聞 き いて、1299年 ねん にイングランド軍 ぐん のスコットランド侵攻 しんこう を批判 ひはん し「スコットランドはローマ教皇 きょうこう の権威 けんい の支配 しはい 下 か にある」「スコットランドとイングランド間 あいだ のいかなる論争 ろんそう も、ローマ教皇 きょうこう 自身 じしん によってしか修正 しゅうせい されることはない」とする宣言 せんげん を出 だ すとともに、エドワード1世 せい にジョン・ベイリャルの釈放 しゃくほう とその身柄 みがら をローマ教皇 きょうこう の権威 けんい に引 ひ き渡 わた すことを命 めい じた。フランス王 おう フィリップ4世 せい からは金銭 きんせん 的 てき な手当 てあ てといくつかの称号 しょうごう と地所 じしょ を与 あた えられたというが、ウォレスの愛国心 あいこくしん は強 つよ く、1303年 ねん にはスコットランドへ帰国 きこく した[28] 。
一方 いっぽう フォルカークの戦 たたか いに勝利 しょうり したエドワード1世 せい は、1300年 ねん からスコットランド侵攻 しんこう を繰 く り返 かえ し、とうとう1303年 ねん 5月に制圧 せいあつ に成功 せいこう した[20] 。
大逆 だいぎゃく 罪 ざい によりウェストミンスター・ホール の法廷 ほうてい で裁判 さいばん にかけられるウォレスを描 えが いた絵画 かいが (ダニエル・マクリース (英語 えいご 版 ばん ) 画 が )
ウォレスはスコットランドに帰国 きこく したが、エドワード1世 せい から執拗 しつよう な追撃 ついげき を受 う けた[28] 。エドワード1世 せい は「大逆 だいぎゃく 者 しゃ 」ウォレスを捕 と らえようと血眼 ちまなこ になり、賄賂 わいろ と脅迫 きょうはく によってウォレスの部下 ぶか たちにウォレスに対 たい する裏切 うらぎ りを仕向 しむ けた[22] 。
1305年 ねん 8月 がつ 5日 にち 、ウォレスはかつての部下 ぶか だったダンバートン 総督 そうとく ジョン・ド・メンティス (英語 えいご 版 ばん ) の裏切 うらぎ りにあってイングランドに引 ひ き渡 わた された[28] [22] [注釈 ちゅうしゃく 2] 。
その後 ご 17日間 にちかん かけてカーライル城 じょう を経 へ てロンドンへ移送 いそう された。その道中 どうちゅう の様々 さまざま な町 まち や村 むら で市中 しちゅう 引 ひ き回 まわ しにされた。エドワード1世 せい の勝利 しょうり を印象 いんしょう 付 つ けようという狙 ねら いだった。
8月 がつ 22日 にち にロンドンへ到着 とうちゃく したウォレスは、ロンドン塔 とう へ送 おく られる予定 よてい だったが、ウォレス捕縛 ほばく を一目 いちもく 見 み ようと雑多 ざった な群衆 ぐんしゅう が集 あつ まってきてロンドン塔 とう までの道 みち が塞 ふさ がれたため、フェンチャーチ通 どお りにある市 し 参事 さんじ 会員 かいいん の館 かん に預 あづ けられ、そこで一 いち 晩 ばん 監禁 かんきん された。
翌日 よくじつ 、ウェストミンスター宮殿 きゅうでん のウェストミンスター・ホール へ連行 れんこう され、そこに召集 しょうしゅう された法廷 ほうてい の裁判 さいばん にかけられた。審理 しんり 中 ちゅう 、月桂樹 げっけいじゅ の王冠 おうかん を被 かぶ らされて嬲 なぶ り者 しゃ にされた。裁判官 さいばんかん のサー・ピーター・マロリー(Sir Peter Mallorie)によりエドワード1世 せい への大逆 だいぎゃく 罪 ざい を問 と われたが、裁判 さいばん でウォレスは「自分 じぶん はイングランド王 おう に忠誠 ちゅうせい を誓 ちか ったことはなく、彼 かれ の臣民 しんみん ではないので大逆 だいぎゃく 罪 ざい など犯 おか していない」と主張 しゅちょう した[30] 。
しかし有罪 ゆうざい 判決 はんけつ が下 くだ り、判決 はんけつ 後 ご には2頭 とう の馬 うま の尻尾 しっぽ に結 ゆ わえられ、平民 へいみん 用 よう 処刑 しょけい 地 ち のあるスミスフィールド までの8キロメートルの道 みち を引 ひ きずられた。引 ひ きずられながら石 いし やゴミを投 な げつけられた。処刑 しょけい 場 じょう 到着 とうちゃく 後 ご 、首吊 くびつ り・内臓 ないぞう 抉 えぐ り・四 よっ つ裂 さ きの刑 けい という残虐 ざんぎゃく 刑 けい で処刑 しょけい された[28] [25] 。遺体 いたい の首 くび はロンドン橋 きょう に串刺 くしざ しとなり、4つに引 ひ き裂 さ かれた胴体 どうたい はイングランドとスコットランドの4箇所 かしょ (ニューカッスル 、ベリック 、パース 、アバディーン )で晒 さら し物 ぶつ とされた[28] 。
エドワード1世 せい としてはウォレスに残虐 ざんぎゃく 刑 けい を課 か すことでスコットランドの抵抗 ていこう 運動 うんどう を恐怖 きょうふ で抑 おさ えつけようという意図 いと であったが、それは成功 せいこう しなかった[22] [28] 。逆 ぎゃく にスコットランド国民 こくみん 感情 かんじょう を鼓舞 こぶ する結果 けっか となり、幾 いく 月 がつ もたたぬうちにエドワード1世 せい のスコットランド支配 しはい は崩 くず れ去 さ ることになる[28] 。
人物 じんぶつ ・評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
当時 とうじ スコットランドに国民 こくみん や国家 こっか のような概念 がいねん がほとんどない中 なか で、スコットランド人 じん を愛国 あいこく 精神 せいしん で立 た ち上 あ がらせることに成功 せいこう した人物 じんぶつ である点 てん が特筆 とくひつ される[31] [32] 。
これについてナイジェル・トランター (英語 えいご 版 ばん ) はウォレスを「スコットランド愛国 あいこく 精神 せいしん の発明 はつめい 者 しゃ 」と評価 ひょうか している[32] 。一方 いっぽう ジョージ・トレヴェリアン は、明確 めいかく に発露 はつろ したり自覚 じかく したりすることこそなかったものの、当時 とうじ スコットランド国民 こくみん にはすでに国民 こくみん 的 てき 感情 かんじょう や民主 みんしゅ 的 てき 感情 かんじょう があり、ウォレスは行動 こうどう に移 うつ すことを呼 よ びかけた人物 じんぶつ であると評価 ひょうか している[33] 。
ビュート侯爵 こうしゃく は「サー・ウィリアム・ウォレスは少 すく なくとも3か国 こく 語 ご を読 よ み書 か きできた。自国 じこく 語 ご 、ラテン語 らてんご 、フランス語 ふらんすご である。さらにゲール語 ご も少 すこ し知 し っていたように窺 うかが える。古代 こだい の歴史 れきし 、同 どう 時代 じだい の歴史 れきし 、同 どう 時代 じだい の共通 きょうつう の単純 たんじゅん な数学 すうがく や科学 かがく にも造詣 ぞうけい があった。『教会 きょうかい 』に対 たい して不朽 ふきゅう の崇拝 すうはい の念 ねん を綿々 めんめん と抱 いだ き、生涯 しょうがい にわたって『詩篇 しへん 』を手沢 しゅたく 本 ほん として愛 あい した。サー・ウィリアム・ウォレスの願 ねが いに応 おう じて、暗 くら くなってゆく目 め の前 まえ で、司祭 しさい が『詩篇 しへん 』の頁 ぺーじ を開 あ けたまま持 も ち、それは死 し を迎 むか えるまで続 つづ いた」と記 しる している。
15世紀 せいき の吟遊詩人 ぎんゆうしじん ブラインド・ハリーは「平和 へいわ の時 とき には、サー・ウィリアム・ウォレスは乙女 おとめ のごとく柔和 にゅうわ であった。戦争 せんそう が近 ちか づくと正 ただ しい暴慢 ぼうまん 漢 かん だった。スコットランド人 じん に大 おお きな信用 しんよう を与 あた えてくれた。名高 なだか い敵 てき は、サー・ウィリアム・ウォレスを瞞着 まんちゃく することはできなかった」と記 しる している。
スコットランドでは現在 げんざい に至 いた るまで英雄 えいゆう として崇拝 すうはい されている[32] 。「スコットランドのオリヴァー・クロムウェル 」とも渾名 あだな されている[20] 。
1995年 ねん 公開 こうかい のアメリカ映画 えいが 『ブレイブハート 』で主人公 しゅじんこう として描 えが かれた。映画 えいが ではメル・ギブソン が演 えん じている[36] 。
ウォレスが捕 と らえられた際 さい にダンバートン城 じょう に残 のこ されたとされるウォレスの剣 けん が、スターリング に近 ちか いナショナル・ウォレス・モニュメント で展示 てんじ されている。刀身 とうしん 1.7メートルにも及 およ ぶ巨大 きょだい な剣 けん である。
^ ナイジェル・トランターは、当時 とうじ イングランドに対 たい して蜂起 ほうき していたスコットランド伯爵 はくしゃく はレノックス伯爵 はくしゃく (英語 えいご 版 ばん ) メオル1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) とキャリック伯爵 はくしゃく ロバート・ブルース の2人 ふたり だけであり、この2人 ふたり のどちらかのはずだが、レノックス伯 はく はスターリングブリッジの戦 たたか い以前 いぜん はイングランド派 は だった人物 じんぶつ で、戦 たたか いの後 のち にスコットランド派 は に寝返 ねがえ った日和見 ひよりみ 的 てき な貴族 きぞく なので、ウォレスが彼 かれ に好感 こうかん を持 も っていたとは思 おも えないとして、ブルースがウォレスを騎士 きし に叙 じょ したのであろうと推測 すいそく している[10] 。
^ このためジョン・ド・メンティスは「不実 ふじつ なるメンティス」と呼 よ ばれ、今日 きょう に至 いた るまでスコットランド人 じん から忌 い み嫌 きら われている[22] 。しかしナイジェル・トランターは直接 ちょくせつ ウォレスを裏切 うらぎ って捕 と らえたラルフ・ド・ハリバートンが最 もっと も罪 つみ が重 おも く、メンティスの罪 つみ は副次的 ふくじてき であるとしている[22] 。
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