ウィリアム・ウィルバーフォース (画 が )ジョージ・リッチモンド
ウィリアム・ウィルバーフォース (英語 えいご : William Wilberforce 、1759年 ねん 8月 がつ 24日 にち - 1833年 ねん 7月 がつ 29日 にち )は、イギリス の政治 せいじ 家 か 、博愛 はくあい 主義 しゅぎ 者 しゃ 、奴隷 どれい 廃止 はいし 主義 しゅぎ 者 もの 。奴隷 どれい 貿易 ぼうえき に反対 はんたい する議会 ぎかい の運動 うんどう のリーダーを務 つと めた。
出生 しゅっしょう 地 ち ハルにあるウィルバーフォース・ハウスの庭 にわ にあるウィルバーフォースの像 ぞう
ウィルバーフォースは、イギリス・ハル にて、祖父 そふ のウィリアム(1690年 ねん - 1776年 ねん )がバルト海 ばるとかい の交易 こうえき で富 とみ を築 きず いた家族 かぞく に、ロバート・ウィルバートフォース (1728年 ねん - 1768年 ねん )の息子 むすこ として生 う まれた。
ウィルバーフォースは、幼 おさな い頃 ころ はハル・グラマースクールに通 かよ っていたが、1768年 ねん に父親 ちちおや を亡 な くすと、ロンドン のセントジェームズプレイスやウィンブルドンにいるおじ・おばとともに暮 く らすようになった。このころ、彼 かれ はパットニー(Putney)の学校 がっこう で学 まな んだ。ジョージ・ホイットフィールド の確 かく たる支持 しじ 者 しゃ であった彼 かれ のおばのハンナが、若 わか いウィルバーフォースにメソジスト教会 きょうかい の教義 きょうぎ に関心 かんしん を向 む けさせたのもこの頃 ころ である。
母 おも や祖母 そぼ は、彼 かれ が福音 ふくいん 主義 しゅぎ に傾倒 けいとう するのを心配 しんぱい して1771年 ねん に彼 かれ をハルに連 つ れ戻 もど した。彼 かれ はそこのポックリントン・スクールで引 ひ き続 つづ き教育 きょういく を受 う けた。
ウィルバーフォースは、1776年 ねん にイギリス のケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく のセント・ジョンズ・カレッジ に進 すす んだ。そこで彼 かれ は学生 がくせい たちの集 あつ まりに没頭 ぼっとう し、学問 がくもん を深刻 しんこく に追求 ついきゅう しようとする意識 いしき はあまり感 かん じなかった。周囲 しゅうい の中 なか でも特 とく に、ウィリアム・ピット と親 した しくなり、彼 かれ との友情 ゆうじょう は一生 いっしょう のものとなった。はじめは自身 じしん の周辺 しゅうへん で起 お こることに衝撃 しょうげき を受 う け、仲間 なかま の学生 がくせい の極端 きょくたん な振舞 ふるま いは不快 ふかい に思 おも いつつも、やがて彼 かれ 自身 じしん も快楽 かいらく 主義 しゅぎ 的 てき な生 い き方 かた を追 お い求 もと めるようになった。彼 かれ は1781年 ねん に学士 がくし 号 ごう を、1788年 ねん に修士 しゅうし 号 ごう を取得 しゅとく した。
ウィルバーフォースはウェストミンスター修道院 しゅうどういん においてピットの隣 となり に葬 ほうむ られている。この像 ぞう は1840年 ねん に建 た てられた。
戻 もど って家族 かぞく での商売 しょうばい に関与 かんよ する気持 きも ちがあまりもてなかったことから、ウィルバーフォースは大学 だいがく に在学 ざいがく 中 ちゅう のうちに、イギリス議会 ぎかい へ立候補 りっこうほ することを決 き めた。このため、1780年 ねん 9月には、21歳 さい にして、ハル選出 せんしゅつ の国会 こっかい 議員 ぎいん となった。独立 どくりつ したトーリー党 とう 員 いん として、彼 かれ は海軍 かいぐん の建 けん 艦 かん や、密輸 みつゆ に関 かん する議論 ぎろん に参加 さんか し、また、将来 しょうらい の首相 しゅしょう であるウィリアム・ピットや、ケンブリッジからのもう一人 ひとり の同 どう 世代 せだい エドワード・エリオット との友情 ゆうじょう を新 あら たなものとした。1783年 ねん の秋 あき に、ピット、ウィルバーフォースそしてエリオットは、一緒 いっしょ にフランス へと旅 たび をした。
ピットは1783年 ねん 12月に首相 しゅしょう となり、ウィルバーフォースは彼 かれ の少数 しょうすう 派 は 政権 せいけん の鍵 かぎ となる支援 しえん 者 しゃ となった。1784年 ねん に議会 ぎかい が解散 かいさん されたときには、ウィルバーフォースは、ピットの支持 しじ 者 しゃ で、1784年 ねん イギリス総 そう 選挙 せんきょ の候補者 こうほしゃ としてすぐに注目 ちゅうもく を集 あつ めた。4月6日 にち にはホイッグ党 とう が敗 やぶ れ、彼 かれ は24歳 さい にしてヨークシャー州 しゅう 選出 せんしゅつ の国会 こっかい 議員 ぎいん として議会 ぎかい に戻 もど ってきた。
1785年 ねん 、ウィルバーフォースは、宗教 しゅうきょう 的 てき 転換 てんかん をもたらす経験 けいけん と彼 かれ が表現 ひょうげん する霊的 れいてき な感得 かんとく を経 へ た。彼 かれ は残 のこ りの人生 じんせい をかけて、神 かみ のために奉仕 ほうし することに専念 せんねん することを誓 ちか った。彼 かれ が助言 じょげん を受 う けたひとりは、福音 ふくいん 主義 しゅぎ 的 てき 運動 うんどう の主導 しゅどう 的 てき な立場 たちば にあった英国 えいこく 国教 こっきょう 会 かい の聖職 せいしょく 者 しゃ であるジョン・ニュートン (アメイジング・グレイス 作詞 さくし 者 しゃ )であった。ピットを含 ふく めて彼 かれ がアドバイスを求 もと めた人々 ひとびと は、彼 かれ に政治 せいじ の世界 せかい にとどまるよう助言 じょげん した。1787年 ねん には、ウィルバーフォースは、トーマス・クラークソン や、チャールズ・ミドルトン およびミドルトン夫人 ふじん による奴隷 どれい 貿易 ぼうえき に反対 はんたい する運動 うんどう を行 おこな う成長 せいちょう 中 ちゅう のグループを彼 かれ らのケント のテストンの家 いえ で紹介 しょうかい され、議会 ぎかい における運動 うんどう のリーダーとなるよう説得 せっとく を受 う けた。
そして、同年 どうねん の1787年 ねん にウィルバーフォースの友人 ゆうじん 、グランビル・シャープ が1786年 ねん に設立 せつりつ した奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 廃止 はいし 促進 そくしん 協会 きょうかい にウィルバーフォースも参加 さんか した。これはシャープら奴隷 どれい 廃止 はいし 主義 しゅぎ 者 しゃ が中心 ちゅうしん に設立 せつりつ した、奴隷 どれい を解放 かいほう し「自由 じゆう の国 くに 」をスローガンにアフリカ (シエラレオネ )へ解放 かいほう 奴隷 どれい を移住 いじゅう させる計画 けいかく である。
数 すう か月 げつ を計画 けいかく に費 つい やし、1789年 ねん 5月12日 にち 、ウィルバーフォースは、奴隷 どれい 廃止 はいし を議題 ぎだい とする自身 じしん の最初 さいしょ の主要 しゅよう 演説 えんぜつ を庶民 しょみん 院 いん で行 おこな った。その中 なか で、彼 かれ は、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき は道徳 どうとく 的 てき に非難 ひなん されるべきであり、自然 しぜん な正義 せいぎ の問題 もんだい であると理由 りゆう 付 つ けた。クラークソンの証拠 しょうこ を引用 いんよう しつつ、彼 かれ は西 にし アフリカ から渡 わた ってくる奴隷 どれい 達 たち の中 なか 間 あいだ 航路 こうろ における驚 おどろ くばかりの状況 じょうきょう の詳細 しょうさい を述 の べ、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の廃止 はいし により、西 にし インド諸島 しょとう に既 すで にいる奴隷 どれい 達 たち の状況 じょうきょう の改善 かいぜん も行 おこな うことを主張 しゅちょう した。彼 かれ は廃止 はいし に関 かん する12の提案 ていあん を提起 ていき した。これらは主 おも に、多数 たすう 印刷 いんさつ され広 ひろ く出回 でまわ っていたクラークソンの「アフリカ奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の不 ふ 得策 とくさく に関 かん する小 しょう 論 ろん 」に基 もと づいたものであった。
1790年 ねん 1月 がつ には、彼 かれ は議会 ぎかい の審査 しんさ 委員 いいん 会 かい から奴隷 どれい 貿易 ぼうえき につき審議 しんぎ し、彼 かれ が提出 ていしゅつ した膨大 ぼうだい な量 りょう の証拠 しょうこ を審査 しんさ する許可 きょか を得 え ることに成功 せいこう した。
1791年 ねん 4月 がつ 、ウィルバーフォースは、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 廃止 はいし のための最初 さいしょ の議案 ぎあん を提出 ていしゅつ した。この議案 ぎあん は88対 たい 163の票決 ひょうけつ によりあっさりと否決 ひけつ された。ウィルバーフォースは奴隷 どれい 貿易 ぼうえき に関 かん する問題 もんだい を議会 ぎかい に提示 ていじ し続 つづ けるとともに、クラークソンは視察 しさつ し筆 ひつ をとることを続 つづ けた。彼 かれ らの間 あいだ では、クラークソンとウィルバーフォースは、かつてはなかったように世論 せろん を結集 けっしゅう する国民 こくみん 的 てき 運動 うんどう を発生 はっせい させ維持 いじ することが彼 かれ らの責務 せきむ となっていた。
これは長 なが く続 つづ く議会 ぎかい での運動 うんどう の始 はじ まりであった。その間 あいだ 、ウィルバーフォースは各 かく 議会 ぎかい の会期 かいき ごとに廃止 はいし を指示 しじ する動議 どうぎ を提案 ていあん し続 つづ けた。あらゆる利用 りよう できる機会 きかい を捉 とら えて下院 かいん 議員 ぎいん の前 まえ に奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の問題 もんだい を持 も ち出 だ し、1792年 ねん 4月 がつ と1793年 ねん 2月 がつ には廃止 はいし 法案 ほうあん をさらに提出 ていしゅつ した。しかし、議会 ぎかい は法案 ほうあん の成立 せいりつ を拒 こば んだ。
ウィルバーフォースは、問題 もんだい が議論 ぎろん されるように努力 どりょく をさらに続 つづ けており、さらなる動議 どうぎ を1795年 ねん 2月 がつ 、1796年 ねん 2月 がつ そして1807年 ねん 5月に行 い っていたが、1793年 ねん のフランスとの戦争 せんそう の勃発 ぼっぱつ (第 だい 一 いち 次 じ 対 たい 仏 ふつ 大 だい 同盟 どうめい またはフランス革命 かくめい 戦争 せんそう を参照 さんしょう )は、大衆 たいしゅう の気分 きぶん が国家 こっか 的 てき な危機 きき や侵略 しんりゃく の脅威 きょうい に向 む けられ、さらに真剣 しんけん に検討 けんとう されることを大 おお きく妨 さまた げた。1788年 ねん には、大西洋 たいせいよう を横断 おうだん する船 ふね の奴隷 どれい 輸送 ゆそう 容量 ようりょう を制限 せいげん するサー・ウィリアム・ドルベン法 ほう が議会 ぎかい を通過 つうか した。しかし、奴隷 どれい 輸送 ゆそう 船 せん の過密 かみつ 状況 じょうきょう をさらに回避 かいひ する奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 規制 きせい 法 ほう が制定 せいてい されるのは1799年 ねん になってからであった。
このころ、奴隷 どれい 制度 せいど や奴隷 どれい 貿易 ぼうえき に関 かん する一般 いっぱん の態度 たいど の変化 へんか が見 み られるようになってきた。19世紀 せいき 初頭 しょとう の数 すう 年 ねん は、奴隷 どれい 制 せい 廃止 はいし に向 む けて大 おお きく展望 てんぼう が開 あ けた年 とし であった。けれども、ウィルバーフォースが法案 ほうあん に進展 しんてん があると本当 ほんとう の希望 きぼう を持 も ったのは1804年 ねん になってからで、庶民 しょみん 院 いん の各 かく 段階 だんかい を全 すべ て実際 じっさい に通過 つうか したのはその年 とし の6月 がつ であった。不運 ふうん なことに、貴族 きぞく 院 いん を通過 つうか させるためには会期 かいき との関係 かんけい で遅 おそ すぎたことから、ウィルバーフォースは1805年 ねん の会期 かいき に再度 さいど 法案 ほうあん 提出 ていしゅつ することを余儀 よぎ なくされ、この会期 かいき では、第 だい 二 に 読会 どっかい において頓挫 とんざ することとなった。
ウィルバーフォースは、ホイッグ党 とう や同 どう 党 とう の廃止 はいし 主義 しゅぎ 者 しゃ との協力 きょうりょく を深 ふか め、ピットの死後 しご 1806年 ねん 2月 がつ からのグレンヴィル ・フォックス政権 せいけん への全面 ぜんめん 的 てき な支援 しえん を与 あた えた。グレンヴィルが貴族 きぞく 院 いん で法案 ほうあん の支持 しじ を得 え るために説得 せっとく の道 みち を探 さぐ るとともに、ウィルバーフォースとチャールズ・フォックスは、庶民 しょみん 院 いん でのキャンペーンを主導 しゅどう した。
海事 かいじ 弁護士 べんごし であるジェームズ・ステファンの助言 じょげん によって戦術 せんじゅつ 変更 へんこう が図 はか られた。その助言 じょげん に基 もと づき、1806年 ねん 初頭 しょとう 、ウィルバーフォースは、イギリスの国民 こくみん に対 たい しフランスの植民 しょくみん 地 ち への奴隷 どれい 貿易 ぼうえき を助 たす けたり、参加 さんか したりすることを禁 きん じる法案 ほうあん を支持 しじ した。これは巧 たく みな方策 ほうさく で、多数 たすう の船 ふね は実際 じっさい そのころ、アメリカ船籍 せんせき でイギリス人 じん の船員 せんいん によりリバプールより出航 しゅっこう していた。この新 あたら しい外国 がいこく 奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 法 ほう はすぐに議会 ぎかい を通過 つうか し、新法 しんぽう はイギリスの奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の3分 ぶん の2をも禁 きん じたことから、戦術 せんじゅつ は成功 せいこう した。
1806年 ねん 9月 がつ のフォックスの死 し は廃止 はいし 主義 しゅぎ 者 しゃ への次 つぎ の打撃 だげき となった。ウィルバーフォースはグレンヴィルが実施 じっし した総 そう 選挙 せんきょ でヨークシャー選出 せんしゅつ 議員 ぎいん としてこのときも再選 さいせん され、その年 とし の後半 こうはん を、20年 ねん 以上 いじょう にわたって自身 じしん とクラークソンが集 あつ めてきた奴隷 どれい 貿易 ぼうえき を批判 ひはん する膨大 ぼうだい な量 りょう の証拠 しょうこ を要約 ようやく した「奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の廃止 はいし に関 かん するレター」と題 だい する擁護 ようご のための文章 ぶんしょう の執筆 しっぴつ に費 つい やした。この文章 ぶんしょう は1807年 ねん 1月 がつ 31日 にち に出版 しゅっぱん され、キャンペーンの最終 さいしゅう 段階 だんかい における基盤 きばん をなした。
グレンヴィルは貴族 きぞく 院 いん に廃止 はいし 法案 ほうあん を提出 ていしゅつ し、熱 ねつ のこもった演説 えんぜつ を行 おこな った。その中 なか でグレンヴィルは、同僚 どうりょう 議員 ぎいん を「長 なが い間 あいだ 奴隷 どれい 貿易 ぼうえき を廃止 はいし しなかったこと」について批判 ひはん し、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき は「正義 まさよし ・博愛 はくあい ・健全 けんぜん な政策 せいさく の原理 げんり に反 はん する」と主張 しゅちょう した。採決 さいけつ が行 おこな われ、法案 ほうあん は貴族 きぞく 院 いん を予測 よそく しなかった41対 たい 20という大 おお きな差 さ をつけて通過 つうか した。長 なが らく期待 きたい されていた突破 とっぱ がついになされたものと感 かん じて、グレイ伯 はく (ホーウィック子爵 ししゃく )は、2月 がつ 23日 にち に庶民 しょみん 院 いん の第 だい 2読会 どっかい に法案 ほうあん を提出 ていしゅつ した。それまで20年間 ねんかん にわたって尽力 じんりょく してきたウィルバーフォースへの賛辞 さんじ がなされる中 なか 、法案 ほうあん は283対 たい 16で可決 かけつ され、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 法 ほう は1807年 ねん 3月 がつ に国王 こくおう の裁可 さいか を受 う け成立 せいりつ した。
ウィルバーフォースは、1807年 ねん 以降 いこう も活動 かつどう を続 つづ け、奴隷 どれい 制度 せいど に対 たい する彼 かれ の関心 かんしん は、西 にし インド諸島 しょとう における奴隷 どれい たちの状況 じょうきょう の改善 かいぜん を目指 めざ すアフリカン・インスティテューションの設立 せつりつ に繋 つな がった。彼 かれ はまた、西 にし アフリカにキリスト教 きりすときょう を広 ひろ めるシエラレオネ・プロジェクトにも貢献 こうけん した。ウィルバーフォースの議会 ぎかい の唱道 しょうどう 者 しゃ としての立場 たちば は広 ひろ く認識 にんしき され、その頃 ころ までに義理 ぎり の兄弟 きょうだい であるヘンリー・ソーントンやエドワード・エリオットとともに属 ぞく するグループの第一人者 だいいちにんしゃ としての立場 たちば にあった。
1820年 ねん までに病気 びょうき やそれに伴 ともな う公的 こうてき 活動 かつどう の制限 せいげん を経 へ て、ウィルバーフォースはなお、全 すべ ての奴隷 どれい の最終 さいしゅう 的 てき な解放 かいほう を目指 めざ した活動 かつどう を続 つづ けた。1821年 ねん にはトーマス・ファウエル・バクストンと庶民 しょみん 院 いん での活動 かつどう のリーダーシップを継承 けいしょう するように依頼 いらい した。ウィルバーフォースは、1823年 ねん 初頭 しょとう に「西 にし インド諸島 しょとう の黒人 こくじん 奴隷 どれい のための、英 えい 帝国 ていこく 住人 じゅうにん の宗教 しゅうきょう ・正義 まさよし ・人道 じんどう へのアピール」を公表 こうひょう した。その中 なか でウィルバーフォースは、奴隷 どれい たちの道徳 どうとく 的 てき ・精神 せいしん 的 てき 状況 じょうきょう は、奴隷 どれい 制 せい から生 しょう じているのであり、全面 ぜんめん 的 てき な解放 かいほう が、道徳 どうとく 的 てき ・倫理 りんり 的 てき に正当 せいとう 化 か され、神 かみ の前 まえ の国家 こっか 的 てき 義務 ぎむ である、と主張 しゅちょう した。
1823年 ねん には、奴隷 どれい 制 せい 緩和 かんわ ・段階 だんかい 的 てき 廃止 はいし 協会 きょうかい が設立 せつりつ された(後 ご の反 はん 奴隷 どれい 制 せい 協会 きょうかい )。5月15日 にち には、バクストンは奴隷 どれい 制 せい に反対 はんたい する議会 ぎかい の決議 けつぎ を提案 ていあん した。討論 とうろん の中 なか でウィルバーフォースは積極 せっきょく 的 てき な役割 やくわり を担 にな った。討論 とうろん は3月 がつ 16日 にち 、6月11日 にち に行 おこな われ、その中 なか でウィルバーフォースは、庶民 しょみん 院 いん での最後 さいご のスピーチを行 おこな った。
1824年 ねん 、ウィルバーフォースは重 じゅう 篤 あつし な病気 びょうき にかかり、翌年 よくねん 早 はや くに議員 ぎいん を辞職 じしょく した。彼 かれ は1826年 ねん にロンドンの北 きた にあるミル・ヒルの小 ちい さな土地 とち に移 うつ った。これはいくらか彼 かれ の健康 けんこう 状態 じょうたい の改善 かいぜん に繋 つな がった。辞職 じしょく 後 ご も、彼 かれ はその生涯 しょうがい を費 つい やした奴隷 どれい 制 せい 反対 はんたい の主張 しゅちょう に情熱 じょうねつ 的 てき な信念 しんねん を持 も ち続 つづ け、多 おお くの仲間 なかま 達 たち との活発 かっぱつ なやり取 と りを続 つづ け、その中 なか の多 おお くの者 もの を訪 たず ねた。
1833年 ねん までに彼 かれ の健康 けんこう 状態 じょうたい は低下 ていか し、インフルエンザの重 おも い症状 しょうじょう に見舞 みま われてからは、完全 かんぜん に快癒 かいゆ することはなかった。1833年 ねん 7月 がつ 26日 にち 、彼 かれ は奴隷 どれい 制 せい 廃止 はいし 法案 ほうあん がようやく庶民 しょみん 院 いん の第 だい 3読会 どっかい を通過 つうか したことを聞 き いて大変 たいへん 喜 よろこ んだ。その翌日 よくじつ 、彼 かれ はさらに衰弱 すいじゃく し、7月 がつ 29日 にち 早朝 そうちょう 死亡 しぼう した。1か月 げつ 後 ご 、グレイ伯 はく の政権 せいけん 下 か で議会 ぎかい は英 えい 帝国 ていこく にいる全 すべ ての奴隷 どれい に自由 じゆう を与 あた える奴隷 どれい 制 せい 廃止 はいし 法 ほう を成立 せいりつ させた[1] 。
ウィリアム・ウィルバーフォースは1833年 ねん 8月 がつ 3日 にち 、ウェストミンスター大 だい 修道院 しゅうどういん に埋葬 まいそう された。葬儀 そうぎ には、一般 いっぱん の多 おお くの参列 さんれつ 者 しゃ に加 くわ え、議会 ぎかい の両院 りょういん のメンバーの多数 たすう が出席 しゅっせき した。棺 かん は大 だい 法官 ほうかん とグロスター公 おおやけ らが担 かつ いだ。
イギリスの偉大 いだい な議員 ぎいん の1人 ひとり を記念 きねん する像 ぞう がウェストミンスター大 だい 修道院 しゅうどういん に1840年 ねん に、記念 きねん 碑 ひ がハルに1834年 ねん にそれぞれ建 た てられた。
1797年 ねん 4月 がつ にウィルバーフォースは著書 ちょしょ "A Practical View of the Prevailing religious system of professed Christians in the Higher and Middle Classes of this Country Contrasted with Real Christianity" を完成 かんせい させた。これは彼 かれ が1793年 ねん から取 と り組 く んでいた作品 さくひん で、彼 かれ 自身 じしん が国家 こっか の道徳 どうとく 律 りつ であるべきものと考 かんが えていた新約 しんやく 聖書 せいしょ の教義 きょうぎ を解説 かいせつ し、キリスト教 きょう の復興 ふっこう を教 おし え呼 よ び覚 さ ますものである。この著作 ちょさく は非常 ひじょう に影響 えいきょう 力 りょく のあったもので、彼 かれ の個人 こじん 的 てき な信仰 しんこう 告白 こくはく や彼 かれ を突 とっ き動 うご かした見解 けんかい を他 た の著書 ちょしょ よりもはるかによく例示 れいじ するものである。
1806年 ねん にフォックスが死去 しきょ すると、ウィルバーフォースはその年 とし の後半 こうはん を費 つい やして『奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の廃止 はいし に関 かん する書簡 しょかん 』 ("A Letter on the Abolition of the Slave Trade" ) を執筆 しっぴつ した。これは、彼 かれ とクラークソンが20年 ねん にわたって集 あつ めた貿易 ぼうえき 反対 はんたい 運動 うんどう に関 かん する膨大 ぼうだい な証拠 しょうこ を要約 ようやく した、運動 うんどう 擁護 ようご のためのエッセイである。本書 ほんしょ は1807年 ねん 1月 がつ 31日 にち に刊行 かんこう され、廃止 はいし 運動 うんどう の最終 さいしゅう 段階 だんかい の基盤 きばん となった。
ウィルバーフォースは1823年 ねん の初頭 しょとう に『西 にし インド諸島 しょとう の黒人 こくじん 奴隷 どれい のための、大 だい 英 えい 帝国 ていこく 臣民 しんみん の宗教 しゅうきょう 、正義 まさよし 、人間 にんげん 性 せい への訴求 そきゅう 』 ("Appeal to the Religion, Justice and Humanity of the Inhabitants of the British Empire in Behalf of the Negro Slaves in the West Indies" ) を発表 はっぴょう した。本書 ほんしょ においてウィルバーフォースは、奴隷 どれい の道徳 どうとく と精神 せいしん の状態 じょうたい は、まさに彼 かれ らの奴隷 どれい という身分 みぶん から生 しょう ずるものであり、完全 かんぜん な解放 かいほう こそが道徳 どうとく 的 てき ・倫理 りんり 的 てき にも正当 せいとう なことであり、神 かみ の前 まえ での国家 こっか の義務 ぎむ であると説 と いた。
ウィルバーフォースは、1797年 ねん 4月 がつ 15日 にち にウォリックシャーの銀行 ぎんこう 家 か アイザック・スプーナーの長女 ちょうじょ バーバラ・アン(1777年 ねん - 1847年 ねん )と知 し り合 あ い、最初 さいしょ の出会 であ いから2週間 しゅうかん もたたぬうちに求婚 きゅうこん した。2人 ふたり は1797年 ねん 5月 がつ 30日 にち にサマセット州 しゅう バース で結婚 けっこん した。子 こ どもには、ウィリアム(1798年生 ねんせい )、バーバラ(1799年生 ねんせい )、エリザベス(1801年生 ねんせい )、ロバート・アイザック・ウィルバーフォース(1802年生 ねんせい )、サミュエル・ウィルバーフォース(1805年生 ねんせい )、ヘンリー・ウィリアム・ウィルバーフォース(1807年生 ねんせい )らがいる。
彼 かれ が生 う まれたキングストン・アポン・ハル の17世紀 せいき の邸宅 ていたく は今日 きょう 「ウィルバーフォース・ハウス」 (Wilberforce House ) という名 な の博物館 はくぶつかん となっている。
ウィルバーフォースの生涯 しょうがい と奴隷 どれい 制度 せいど との戦 たたか いを描 えが いた映画 えいが 『アメイジング・グレイス 』がマイケル・アプテッド監督 かんとく 、ヨアン・グリフィズ(ウィルバーフォース役 やく )主演 しゅえん で制作 せいさく され、イギリス議会 ぎかい がイギリス国民 こくみん による奴隷 どれい 輸入 ゆにゅう の禁止 きんし を可決 かけつ してから200周年 しゅうねん を記念 きねん して2007年 ねん 3月 がつ 23日 にち に公開 こうかい された。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく オハイオ州 しゅう ウィルバーフォースのウィルバーフォース大学 だいがく の名 な はウィリアム・ウィルバーフォースにちなんだものである。この大学 だいがく はアフリカ系 けい アメリカ人 じん が所有 しょゆう した最初 さいしょ の大学 だいがく であり、歴史 れきし 的 てき 黒人 こくじん 大学 だいがく (HBCUs ) の1つである。
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