ガイ・フォークス (英 えい : Guy Fawkes 、1570年 ねん 4月 がつ 13日 にち - 1606年 ねん 1月 がつ 31日 にち [1] [注釈 ちゅうしゃく 1] )、別名 べつめい グイド・フォークス (英 えい : Guido Fawkes )は、1605年 ねん に発覚 はっかく した火薬 かやく 陰謀 いんぼう 事件 じけん の実行 じっこう 責任 せきにん 者 しゃ として知 し られる人物 じんぶつ である。
イングランド のヨーク で生 う まれ育 そだ ち、母親 ははおや の再婚 さいこん 相手 あいて の影響 えいきょう から、カトリック を信奉 しんぽう するようになる。青年 せいねん 期 き にはヨーロッパ大陸 たいりく に渡 わた りカトリック側 がわ で八 はち 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう に参加 さんか した。後 のち にトマス・ウィンターと出会 であ い、ロバート・ケイツビー が首謀 しゅぼう した火薬 かやく 陰謀 いんぼう 事件 じけん に関 かか わるようになる。1605年 ねん 11月5日 にち 、当局 とうきょく による貴族 きぞく 院 いん 地下 ちか の捜索 そうさく が行 おこな われ、貯蔵 ちょぞう した火薬 かやく を見張 みは っていたフォークスは逮捕 たいほ された。偽名 ぎめい を名乗 なの り証言 しょうげん を拒 こば んだフォークスであったが、拷問 ごうもん にかけられ計画 けいかく の全容 ぜんよう と共謀 きょうぼう 者 しゃ の名前 なまえ を白状 はくじょう した。1606年 ねん 1月 がつ 31日 にち 、フォークスは絞首刑 こうしゅけい 台 だい から飛 と び降 お りて首 くび の骨 ほね を折 お り死 し んだ。
フォークスは火薬 かやく 陰謀 いんぼう 事件 じけん の首謀 しゅぼう 者 しゃ ではなかったが事件 じけん そのものと同義語 どうぎご となり、陰謀 いんぼう が発覚 はっかく した日 ひ はイギリスの記念 きねん 日 び (ガイ・フォークス・ナイト )となっている。また、英語 えいご で「男 おとこ 、奴 やつ 」を意味 いみ する「ガイ(guy )」は、彼 かれ の名 な に由来 ゆらい する[2] 。
フォークスはセント・マイケル・ル・ベルフリー教会 きょうかい で洗礼 せんれい を受 う けた。
ガイ・フォークスは1570年 ねん にヨーク のストーンゲートで生 う まれた。当時 とうじ は、エリザベス1世 せい の治世 ちせい 下 か で、「国王 こくおう 至上 しじょう 法 ほう 」「礼拝 れいはい 統一 とういつ 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) 」などの法律 ほうりつ も制定 せいてい され、女王 じょおう を首長 しゅちょう とするイングランド国教 こっきょう 会 かい の体制 たいせい 作 づく りが進 すす められていった。カトリック教徒 きょうと はこれに反発 はんぱつ し、また政府 せいふ もカトリック教徒 きょうと を迫害 はくがい していった。ガイは、教会 きょうかい 法廷 ほうてい の弁護人 べんごにん であったエドワード・フォークス[注釈 ちゅうしゃく 2] とその妻 つま イーディスの子 こ として、イングランド国教 こっきょう 会 かい の礼拝 れいはい に通 かよ う家庭 かてい に生 う まれた。両親 りょうしん の間 あいだ には4人 にん の子供 こども がいたが、ガイは2番目 ばんめ の子 こ だった[注釈 ちゅうしゃく 3] 。ガイの父方 ちちかた の祖母 そぼ 、エレン・ハリントンは1536年 ねん にヨーク市長 しちょう に仕 つか えた有力 ゆうりょく な商人 しょうにん の娘 むすめ であり、ガイの両親 りょうしん もイングランド国教 こっきょう 会 かい の信徒 しんと であった[6] 。しかし、母親 ははおや の家系 かけい は国教 こっきょう 会 かい に否定 ひてい 的 てき なカトリックであり、ガイのいとこであるリチャード・カウリングもイエズス会 かい の聖職 せいしょく 者 しゃ となっている[7] 。ガイという名前 なまえ はイングランドでは珍 めずら しい名前 なまえ だが、ヨークでは地元 じもと の有名人 ゆうめいじん 「ガイ・フェアファックス (英語 えいご 版 ばん ) 」にあやかって名 な づけられ、一般 いっぱん 的 てき な名前 なまえ である[8] 。
フォークスの生 う まれた日 ひ は不明 ふめい であるが、セント・マイケル・ル・ベルフリー教会 きょうかい において4月 がつ 16日 にち に洗礼 せんれい を受 う けている。誕生 たんじょう 日 び と洗礼 せんれい の間 あいだ は慣習 かんしゅう では3日間 にちかん となっており、そこから4月 がつ 13日 にち に生 う まれたと推定 すいてい される[7] 。ガイの生 う まれる前 まえ 、1568年 ねん に母親 ははおや のイーディスはアンという娘 むすめ を産 う んだが、同年 どうねん 11月 がつ に7週 しゅう 目 め で亡 な くなっている。ガイが生 う まれた後 のち さらに2人 ふたり の子 こ をもうけており、アン(1572年生 ねんせい )、エリザベス(1575年生 ねんせい )はそれぞれ1599年 ねん 、1594年 ねん に結婚 けっこん している[8] 。
1579年 ねん 、ガイが8歳 さい の時 とき に父親 ちちおや が亡 な くなった。母親 ははおや は数 すう 年 ねん 後 ご に再婚 さいこん したが、相手 あいて はスコットンに住 す むカトリック信者 しんじゃ のディオニス・ベインブリッジ[注釈 ちゅうしゃく 4] であった。スコットンにはカトリックを信奉 しんぽう するプーリン家 か 、パーシー家 か が住 す んでおり、フォークスは継父 けいふ とプーリン家 か 、パーシー家 か の影響 えいきょう によりカトリックを信奉 しんぽう するようになった。フォークスはヨークにあるセント・ピーターズ・スクールに通 かよ っていたが、学校 がっこう 理事 りじ は国教 こっきょう 忌避 きひ 者 しゃ として約 やく 20年 ねん 牢獄 ろうごく に収監 しゅうかん されていた。校長 こうちょう のジョン・プーリンは、ヨークシャーの国教 こっきょう 忌避 きひ 者 しゃ として著名 ちょめい な一家 いっか であるブラッバーハウスのプーリン家 か 出身 しゅっしん であった。フォークスの同窓生 どうそうせい には火薬 かやく 陰謀 いんぼう 事件 じけん でともに行動 こうどう をとることになるジョン・ライト、クリストファー・ライト兄弟 きょうだい や、イエズス会 かい 士 し オズワルド・テシモンド、エドワード・オールドコーン神父 しんぷ など事件 じけん への関与 かんよ が疑 うたが われた人物 じんぶつ 、陰謀 いんぼう 事件 じけん 発覚 はっかく 前 まえ の1601年 ねん に処刑 しょけい されたロバート・ミドルトン神父 しんぷ などがいた。
学校 がっこう を卒業 そつぎょう 後 ご 、初代 しょだい モンタギュー子爵 ししゃく アンソニー・ブラウンに仕 つか えるも、フォークスは子爵 ししゃく に疎 うと まれ、短期間 たんきかん で解雇 かいこ されてしまった。その後 ご 、2代 だい モンタギュー子爵 ししゃく アンソニー=マリア・ブラウンに雇 やと われた。フォークスは結婚 けっこん しており、息子 むすこ がいたという情報 じょうほう があるが、同 どう 時代 じだい の証拠 しょうこ は何一 なにひと つ見 み つかっていない[15] [注釈 ちゅうしゃく 5] 。
1591年 ねん 10月 がつ にフォークスは父 ちち から相続 そうぞく したクリフトンの不動産 ふどうさん を売却 ばいきゃく している[注釈 ちゅうしゃく 6] 。その頃 ころ 、スペインに対 たい するプロテスタントの反乱 はんらん 、八 はち 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう (オランダ独立 どくりつ 戦争 せんそう )が起 お こっていた。スペインはユグノー戦争 せんそう にも介入 かいにゅう しており、1595年 ねん から1598年 ねん のヴェルヴァン条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) までの間 あいだ フランスとも戦争 せんそう していた。フォークスは大陸 たいりく に渡 わた り、カトリックのスペイン側 がわ で参戦 さんせん している。イングランドはスペインと正式 せいしき な開戦 かいせん こそしていなかったものの英 えい 西 にし 戦争 せんそう が起 お こっており、アルマダの海戦 かいせん からはまだ5年 ねん ほどしか過 す ぎていなかった。フォークスは、イングランドのカトリック教徒 きょうと 、ウィリアム・スタンリーの指揮 しき 下 か に入 はい った。スタンリーはエリザベス1世 せい の寵愛 ちょうあい を受 う けていたが、1587年 ねん にデーフェンテル をスペインに譲 ゆず り渡 わた した後 のち は彼 かれ の軍勢 ぐんぜい ともども陣営 じんえい をスペインに鞍替 くらが えしていた。フォークスは下級 かきゅう 将校 しょうこう として、1596年 ねん のカレー攻囲 こうい 戦 せん (英語 えいご 版 ばん ) を勇敢 ゆうかん かつ誠実 せいじつ に戦 そよ い抜 ぬ いたが、1602年 ねん まで階級 かいきゅう が上 あ がることはなかった[5] 。フォークスは1603年 ねん にスペインに赴 おもむ き、イングランドでのカトリックの反乱 はんらん を支援 しえん してくれる者 もの を募 つの った。フォークスはこの時 とき 、イタリア風 ふう の名前 なまえ Guido (グイド)を名乗 なの るようになった。1603年 ねん にスコットランド王 おう ジェームズ6世 せい がイングランド王 おう ジェームズ1世 せい として即位 そくい し、イングランドとスコットランドは同君 どうくん 連合 れんごう 王国 おうこく を形成 けいせい していた。フォークスはジェームズ1世 せい のことを「イングランドから教皇 きょうこう 派 は を全 すべ て追 お い出 だ そう」としている「異端 いたん 者 しゃ 」とメモに残 のこ している。また、フォークスはスコットランド と王 おう の周 まわ りに侍 はべ るスコットランド貴族 きぞく を非難 ひなん し、「当分 とうぶん の間 あいだ 、2つの国 くに が仲良 なかよ くなることなどないだろう」と述 の べている。フォークスはスペインのフェリペ3世 せい に丁重 ていちょう に扱 あつか われたが、スペインはフォークスの申 もう し出 で を受 う ける気 き は全 まった くなかった。
火薬 かやく 陰謀 いんぼう 事件 じけん [ 編集 へんしゅう ]
クリスペイン・デ・パッセ (英語 えいご 版 ばん ) による同 どう 時代 じだい に描 えが かれた版画 はんが 。陰謀 いんぼう に加担 かたん した13人 にん のうち8人 にん が描 えが かれ、フォークスは右 みぎ から3番目 ばんめ の人物 じんぶつ である。
1604年 ねん にフォークスはロバート・ケイツビー 率 ひき いるイングランドのカトリックグループに参加 さんか するようになる。ケイツビーはプロテスタントのジェームズ1世 せい を暗殺 あんさつ し、王位 おうい 継承 けいしょう 資格 しかく 第 だい 3位 い の王女 おうじょ 、エリザベス・ステュアート を王位 おうい に就 つ けようと企 たくら んでいた。
1604年 ねん 5月 がつ 20日 はつか に5人 にん の中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ が、ロンドンのストランド地区 ちく にある Duck and Drake という宿 やど に集 あつ まって会合 かいごう が行 おこな われた[注釈 ちゅうしゃく 7] 。ウェストミンスター宮殿 きゅうでん 内 うち の議事堂 ぎじどう を爆破 ばくは して王 おう と政府 せいふ の要人 ようじん を殺害 さつがい する計画 けいかく を、ケイツビーはトマス・ウィンターとジョン・ライトに事前 じぜん に提案 ていあん していた。ウィンターは最初 さいしょ のうちは計画 けいかく に反対 はんたい していたがケイツビーに説得 せっとく され、支援 しえん 者 しゃ を探 さが す目的 もくてき で大陸 たいりく に赴 おもむ いた。ウィンターはカスティーリャ の元帥 げんすい やウェールズのスパイ、ヒュー・オーウェン、ウィリアム・スタンリーと出会 であ ったが、スペインからの協力 きょうりょく は得 え られそうにないということだった。しかし、オーウェンはフォークスを紹介 しょうかい し[5] 、1604年 ねん 4月 がつ 2人 にん はイングランドに帰還 きかん した[21] 。
計画 けいかく に携 たずさ わっていたトマス・パーシーは、ノーサンバランド伯 はく と親戚 しんせき であった。パーシーは1604年 ねん 6月 がつ に儀 ぎ 杖 つえ 衛士 えじ に任 にん じられロンドンに小 ちい さな家 いえ を借 か りた。フォークスはジョン・ジョンソンと偽名 ぎめい を使 つか い、パーシーの召使 めしつか いとしてそこに住 す み込 こ んだ。トマス・ウィンターの自供 じきょう [24] では、そこから議事堂 ぎじどう までトンネルを掘 ほ りすすめ、1604年 ねん 12月にトンネルの上方 かみがた から音 おと が聞 き こえてきたところで作業 さぎょう をやめた。フォークスが調査 ちょうさ のため送 おく り出 だ され、そこは議事堂 ぎじどう のすぐ隣 となり にあった地下 ちか 室 しつ であった[5] 。未 み 使用 しよう で汚 きたな い部屋 へや であったが、火薬 かやく を貯蔵 ちょぞう しておくには理想 りそう の隠 かく し場所 ばしょ であると思 おも われ、陰謀 いんぼう 計画 けいかく 者 しゃ たちは地下 ちか 室 しつ を借 か り入 い れた。フォークスが語 かた ったところによると、最初 さいしょ に20樽 たる の火薬 かやく が運 はこ び込 こ まれ、ついで7月 がつ 20日 はつか に16樽 たる が運 はこ び込 こ まれた[27] 。
伝記 でんき 作家 さっか のアントニア・フレーザー は、このトンネルの証言 しょうげん について政府 せいふ による捏造 ねつぞう を疑 うたが っている。トンネルが存在 そんざい した証拠 しょうこ はどこにも見 み つかっていないし、フォークスは拷問 ごうもん を受 う けていたにも拘 かかわ らず5回 かい 目 め の審問 しんもん まで大 たい して重要 じゅうよう でないトンネルのことを認 みと めておらず、その後 ご もトンネルの場所 ばしょ を指 さ し示 しめ すことができなかった。
7月 がつ 28日 にち 、首都 しゅと における疫病 えきびょう の蔓延 まんえん を理由 りゆう に、政府 せいふ は議会 ぎかい の開催 かいさい を11月5日 にち に延期 えんき した。
海外 かいがい の動向 どうこう [ 編集 へんしゅう ]
再度 さいど 海外 かいがい からの支援 しえん を取 と り付 つ けるため、1605年 ねん 5月 がつ にフォークスは大陸 たいりく に渡 わた りヒュー・オーウェンに計画 けいかく を語 かた った。同 おな じ頃 ごろ 、ロバート・セシル はフォークスの名前 なまえ を、ヨーロッパに張 は り巡 めぐ らしたスパイ網 もう によって知 し ることになる。ウィリアム・ターナーは、そういったスパイの一人 ひとり であったが、大抵 たいてい の報告 ほうこく は漠然 ばくぜん とした侵攻 しんこう の可能 かのう 性 せい を超 こ えるものではなく、陰謀 いんぼう 計画 けいかく に関 かん する情報 じょうほう も含 ふく まれていなかった。しかし、4月 がつ 21日 にち の報告 ほうこく では、フランドルの有名 ゆうめい な傭兵 ようへい であるフォークスがテシモンドによってイングランドに送 おく られたこと、そして「ミスター・ケイツビー」と「高貴 こうき な武装 ぶそう および騎乗 きじょう を準備 じゅんび している友人 ゆうじん たち」に紹介 しょうかい されるだろうと報告 ほうこく している。しかし、フォークスはイングランドではジョン・ジョンソンの偽名 ぎめい を使 つか っていたことにより、ターナーの報告 ほうこく 書 しょ は気 き に留 と められなかった。セシルは陰謀 いんぼう 事件 じけん 発覚 はっかく 後 ご の11月の終 お わりまで、この件 けん に気 き づくことはなかった[5] 。
正確 せいかく な日付 ひづけ は不明 ふめい だが、フォークスは1605年 ねん 8月 がつ の終 お わりにはイングランドに戻 もど った。フォークスとウィンターは地下 ちか 室 しつ に貯蔵 ちょぞう してあった火薬 かやく が変質 へんしつ してしまっていることに気 き づいた。新 あたら しく火薬 かやく とそれを隠 かく すための薪 たきぎ が地下 ちか 室 しつ に運 はこ び込 こ まれた。10月の会合 かいごう で決定 けってい されたフォークスの役割 やくわり は、火薬 かやく に点火 てんか しテムズ川 がわ に逃 に げ込 こ むことだった。同時 どうじ にミッドランドで反乱 はんらん を起 お こし、エリザベス王女 おうじょ を奪取 だっしゅ するというものだった。王 おう 殺 ごろ しは非難 ひなん を浴 あ びるため、フォークスは大陸 たいりく に赴 おもむ きカトリックの権力 けんりょく 者 しゃ に、王 おう とその供回 ともまわ りを殺 ころ すことが聖 せい なる義務 ぎむ であることを説 と いて回 まわ った[34] 。
Discovery of the Gunpowder Plot 、1823年 ねん ごろ、ヘンリー・ペロネ・ブリッグス 画 が
陰謀 いんぼう に加担 かたん したものの中 なか には、カトリック教徒 きょうと が巻 ま き込 こ まれることについて懸念 けねん を示 しめ すものもいた。10月26日 にち の夜 よる 、モンティーグル卿 きょう の下 した に匿名 とくめい の1通 つう の手紙 てがみ が届 とど いた。手紙 てがみ には議事堂 ぎじどう が爆破 ばくは されること、危険 きけん だから近 ちか づかないことが記 しる されていた。モンティーグル卿 きょう の従者 じゅうしゃ からもたらされた情報 じょうほう により、手紙 てがみ の件 けん はすぐに計画 けいかく 者 しゃ たちの知 し るところになったが、「偽 にせ 情報 じょうほう として扱 あつか うに違 ちが いない」といった理由 りゆう で計画 けいかく は続行 ぞっこう された。フォークスは10月30日 にち に地下 ちか 室 しつ をチェックし、問題 もんだい のないことを報告 ほうこく している。不安 ふあん に思 おも ったモンティーグル卿 きょう はジェームズ1世 せい の元 もと に手紙 てがみ を送 おく り、王 おう はトマス・ナイヴェット に議事堂 ぎじどう の地下 ちか を捜索 そうさく するよう命 めい じた。捜索 そうさく は11月5日 にち の早朝 そうちょう に開始 かいし された。フォークスはパーシーから渡 わた された時計 とけい と、導火 どうか 線 せん を手 て に前日 ぜんじつ 夜 よる 遅 おそ くに地下 ちか 室 しつ の持 も ち場 ば についていた[5] 。深夜 しんや に入 はい ってフォークスは地下 ちか 室 しつ で発見 はっけん 、逮捕 たいほ された。同時 どうじ に薪 たきぎ と石炭 せきたん で隠 かく してあった火薬 かやく も発見 はっけん された。
フォークスは最初 さいしょ の取調 とりしら べではジョン・ジョンソンと名乗 なの り、強気 つよき に振舞 ふるま った[40] 。多量 たりょう の火薬 かやく と共 とも にいたことについて聞 き かれると、「スコットランドの乞食 こじき どもを祖国 そこく の山 やま に送 おく り返 かえ してやるためだ」と返 かえ した。フォークスは議事堂 ぎじどう を吹 ふ き飛 と ばす予定 よてい であったことを認 みと め、失敗 しっぱい を残念 ざんねん に思 おも うと述 の べた。フォークスの堂々 どうどう とした態度 たいど はジェームズ1世 せい の歓心 かんしん を買 か い、まるでローマ人 じん のようだと賞賛 しょうさん した。
王 おう の賞賛 しょうさん は得 え たが、「ジョン・ジョンソン」は仲間 なかま の名前 なまえ を白状 はくじょう させるため11月 がつ 6日 にち に拷問 ごうもん にかけられることになった。王 おう は手枷 てかせ を使 つか うような緩 ゆる い拷問 ごうもん から始 はじ めることを指示 しじ し、もし必要 ひつよう なら拷問 ごうもん 台 だい のようなもっときついものを使 つか うことも認 みと めた[40] 。フォークスはロンドン塔 とう に移送 いそう された。「君 きみ は何者 なにもの か?まだ君 きみ を知 し る者 もの はいない」「どこでいつフランス語 ふらんすご を習 なら ったのか?」「カトリック教徒 きょうと だとすると、誰 だれ が教 おし えたのか?」などの質問 しつもん が下 くだ された。フォークスが尋問 じんもん された部屋 へや はガイ・フォークス・ルームとして知 し られるようになる[46] 。
拷問 ごうもん 直後 ちょくご に書 か かれた Guido の署名 しょめい (上 うえ )は、8日 にち 後 ご のもの(下 した )と比 くら べて、ほとんど文字 もじ の体 からだ をなしていない。
ロンドン塔 とう 長官 ちょうかん 代理 だいり であるウィリアム・ワードが拷問 ごうもん を監督 かんとく することになった[40] 。ワードはフォークスのポケットからガイ・フォークス宛 あ ての手紙 てがみ を見 み つけたが、「ジョンソン」は黙 だま ったままで計画 けいかく に関 かん することや差出人 さしだしにん については何一 なにひと つ明 あ かそうとしなかった。11月6日 にち の夜 よる 、ワードはソールズベリー伯 はく 宛 あ てに報告 ほうこく 書 しょ を送 おく り「彼 かれ (ジョンソン)はこの行動 こうどう を起 お こしてから毎日 まいにち 神 しん に祈 いの りを捧 ささ げ、計画 けいかく の成功 せいこう とカトリック信仰 しんこう が勝利 しょうり を得 え 、彼 かれ の魂 たましい を救 すく うことを願 ねが っている」と記 しる している。ワードによればフォークスは休 やす みたがっていたが、ワードはフォークスが秘密 ひみつ にしている計画 けいかく や共犯 きょうはん 者 しゃ について明 あ かすまで尋問 じんもん を続 つづ けるつもりだった。翌日 よくじつ のある時点 じてん からフォークスは余裕 よゆう を失 うしな っていった。
立会 たちあい 人 じん のエドワード・ホビーは「ジョンソンはロンドン塔 とう に来 き てから英語 えいご を話 はな すようになっている」ことに気 き づいた。フォークスは11月7日 にち に本名 ほんみょう を明 あ かし、王 おう 暗殺 あんさつ 計画 けいかく に加担 かたん したのは5名 めい であると告 つ げた。11月8日 にち には共犯 きょうはん 者 しゃ の名前 なまえ やエリザベス王女 おうじょ を玉座 ぎょくざ に就 つ ける計画 けいかく だったことを明 あ かした。
フォークスが拷問 ごうもん 台 だい にかけられたかは定 さだ かでないが、拷問 ごうもん の激 はげ しさは文字 もじ の体 からだ をなしていない彼 かれ の署名 しょめい に見 み て取 と れる。
裁判 さいばん と処刑 しょけい [ 編集 へんしゅう ]
1606年 ねん 1月 がつ 27日 にち に陰謀 いんぼう に加担 かたん した者 もの 8名 めい の裁判 さいばん が始 はじ まった。フォークスは他 た の6名 めい とともにロンドン塔 とう からウェストミンスター宮殿 きゅうでん に送 おく られた[注釈 ちゅうしゃく 8] 。彼 かれ らの罪状 ざいじょう が読 よ み上 あ げられ、そこではフォークスの名 な は「グイド・フォークス」または「グイド・ジョンソン」とされていた。フォークスは火薬 かやく と一緒 いっしょ にいたところを逮捕 たいほ されたにも拘 かかわ らず、無罪 むざい を主張 しゅちょう した。
フォークスの処刑 しょけい を描 えが いた1606年 ねん の版画 はんが
陪審 ばいしん 員 いん は全 すべ ての被告 ひこく に対 たい し有罪 ゆうざい を認 みと め、首席 しゅせき 判事 はんじ のジョン・ポファムは大逆 だいぎゃく 罪 ざい を宣告 せんこく した。法務 ほうむ 総裁 そうさい のエドワード・コーク は、「被告 ひこく は馬 うま に引 ひ き回 まわ され、性器 せいき は切断 せつだん されて目 め の前 まえ で焼 や かれ、腸 ちょう や心臓 しんぞう は抜 ぬ き取 と られるだろう。その後 ご 断頭 だんとう され、体 からだ をバラバラにして晒 さら され、いずれ鳥 とり の餌 えさ になるだろう。」と述 の べた[54] 。フォークスとトレシャムのスペインでの陰謀 いんぼう 計画 けいかく も同様 どうよう に明 あか るみに出 で た。フォークスとウィンターが収監 しゅうかん 中 ちゅう に交 か わした会話 かいわ も証拠 しょうこ として取 と り上 あ げられた。2人 ふたり は誰 だれ にも聞 き かれていないと思 おも っていたが、会話 かいわ は政府 せいふ のスパイに盗聴 とうちょう されていた。フォークスは起訴 きそ 事実 じじつ の一部 いちぶ については関与 かんよ していないとして自分 じぶん の無罪 むざい を説明 せつめい していた。
1606年 ねん 1月 がつ 31日 にち 、ガイ・フォークス、トマス・ウィンター、アンブローズ・ルークウッド、ロバート・キーズの4名 めい は、編 あ み垣 かき (en:hurdle )に乗 の せられ、ロンドン塔 とう からウェストミンスターのオールド・パレス・ヤードまで引 ひ き回 まわ された。フォークスの仲間 なかま は首吊 くびつ り・内臓 ないぞう 抉 えぐ り・四 よっ つ裂 さ きの刑 けい に処 しょ され、フォークスの処刑 しょけい は最後 さいご であった。フォークスは拷問 ごうもん により衰弱 すいじゃく しており、死刑 しけい 執行 しっこう 人 じん の手 て を借 か りねば絞首 こうしゅ 台 だい にも登 のぼ れないほどであったという。フォークスは首吊 くびつ りの後 のち に続 つづ く、生 い きながら切 き り刻 きざ まれる責 せ め苦 く から逃 に げるべく
絞首刑 こうしゅけい 台 だい から飛 と び降 お りたが、ロープの長 なが さが不 ふ 適当 てきとう であったため、首 くび の骨 ほね を折 お って死 し んだ[40] 。死 し んでなお、体 からだ は四 よっ つ裂 さ きにされ、慣例 かんれい に則 のっと り、「王国 おうこく の4箇所 かしょ 」に晒 さら された[61] 。
Procession of a Guy (1864)
2008年 ねん 2月 がつ 、ロサンゼルスにて。アノニマス として公 おおやけ の場 ば に現 あらわ れた人々 ひとびと 。コミック および映画 えいが Vフォー・ヴェンデッタ で有名 ゆうめい になったガイ・フォークス・マスク を被 こうむ っている。
1605年 ねん 11月5日 にち 、ロンドン市民 しみん は王 おう が無事 ぶじ であったことを祝 いわ い、かがり火 び を焚 た いた[5] 。1606年 ねん に可決 かけつ した法 ほう により、毎年 まいとし 11月 がつ 5日 にち は王 おう が助 たす かったことを感謝 かんしゃ する日 ひ に指定 してい された。これは1859年 ねん まで続 つづ いた[62] 。フォークスは陰謀 いんぼう 加担 かたん 者 しゃ 13名 めい のうちの1人 ひとり に過 す ぎないが、今 いま では事件 じけん の代名詞 だいめいし とでも言 い うべき人物 じんぶつ として知 し られる。
イギリスでは11月5日 にち はガイ・フォークス・ナイト 、ガイ・フォークス・デイ、プロット・ナイト、ボンファイア・ナイト[65] などと呼 よ ばれる。ボンファイア・ナイトは1605年 ねん 11月5日 にち の祝祭 しゅくさい が直接的 ちょくせつてき な起源 きげん である。1650年代 ねんだい 以降 いこう はかがり火 び だけでなく花火 はなび も打 う ち上 あ げられるようになった。ヨーク公 こう ジェームズ のカトリック信仰 しんこう が明 あき らかになった1673年 ねん 以降 いこう は人形 にんぎょう (大抵 たいてい は教皇 きょうこう を模 も したもの)を焼 や くことも慣例 かんれい となった[5] 。次第 しだい に国民 こくみん の怒 いか りの対象 たいしょう を人形 にんぎょう とするようになり、ポール・クリューガー やマーガレット・サッチャー などの人形 にんぎょう がかがり火 び で焼 や かれた、もちろん現代 げんだい でもフォークスの人形 にんぎょう も焼 や かれている[62] 。フォークスを象 かたど った「ガイ」は通常 つうじょう 子 こ どもたちによって古着 ふるぎ や新聞 しんぶん 、仮面 かめん などを用 もち いて作 つく られる[62] 。19世紀 せいき 中 ちゅう は guy は奇妙 きみょう な服装 ふくそう をした人物 じんぶつ を意味 いみ していたが、アメリカ英語 えいご では軽蔑 けいべつ 的 てき な意味合 いみあ いは失 うしな われ、男性 だんせい 一般 いっぱん を指 さ す言葉 ことば となっている[62] [68] 。
ウィリアム・ハリソン・エインズワースの1841年 ねん の歴史 れきし ロマンス小説 しょうせつ 『Guy Fawkes; or, The Gunpowder Treason[69] 』では、フォークスは共感 きょうかん を呼 よ ぶ人物 じんぶつ として描 えが かれ大衆 たいしゅう に受 う け入 い れられた。フォークスは児童 じどう 書 しょ やペニー・ドレッドフル のような大衆 たいしゅう 小説 しょうせつ では「アクション・ヒーロー」となっていった[70] 。歴史 れきし 家 か のルイス・コールは、「フォークスは現代 げんだい の政治 せいじ 文化 ぶんか における重要 じゅうよう な象徴 しょうちょう となっている」と延 の べ、フォークスの顔 かお は20世紀 せいき 中 ちゅう には「ポストモダン・アナーキズムを促進 そくしん する強力 きょうりょく な道具 どうぐ となった」と記 しる した。コールが例 れい として挙 あ げたVフォー・ヴェンデッタ では、全体 ぜんたい 主義 しゅぎ 国家 こっか のイギリスと戦 たたか う V は、フォークスのマスク(ガイ・フォークス・マスク )をつけている[71] 。その後 ご アノニマス 、ウィキリークス のジュリアン・アサンジ 、世界 せかい 各国 かっこく の「ウォ うぉ ール街 るがい を占拠 せんきょ せよ (Occupy Wall Street)」の活動 かつどう にも用 もち いられ、ガイ・フォークスの名 な と共 とも に「抵抗 ていこう と匿名 とくめい の国際 こくさい 的 てき シンボル」と認知 にんち されるようになった[72] 。
旧友 きゅうゆう のイエズス会 かい 士 し 、オズワルド・テシモンドはフォークスを「会話 かいわ や振 ふ る舞 ま いが楽 たの しく、喧嘩 けんか や揉 も め事 ごと を避 さ け、友達 ともだち に誠実 せいじつ である」と評価 ひょうか している。また、「軍事 ぐんじ について精通 せいつう している」ともしており、敬愛 けいあい される性格 せいかく と高 たか い技術 ぎじゅつ 力 りょく は陰謀 いんぼう に関 かか わった他 ほか のものを惹 ひ きつけるものだった[5] 。伝記 でんき 作家 さっか アントニア・フレーザー はフォークスの外見 がいけん 面 めん について「背 せ が高 たか くがっちりとした男 おとこ で、赤毛 あかげ の髪 かみ に当時 とうじ 流行 りゅうこう の八 はち の字 じ の口 くち ひげと濃 こ いあごひげを蓄 たくわ えていた」と記 しる し、内面 ないめん について「行動 こうどう 的 てき な男 おとこ ……知的 ちてき な会話 かいわ もこなし、肉体 にくたい の責 ぜ めにも抵抗 ていこう し、少 すく なからず敵 てき を驚 おどろ かせた」と記 しる す[7] 。
フォークスは「国会 こっかい 議事堂 ぎじどう に登院 とういん した人物 じんぶつ のうち、誠意 せいい ある行動 こうどう をした唯一 ゆいいつ の人物 じんぶつ 」と冗談 じょうだん で言 い われることもある。
^ 本 ほん 記事 きじ では全 すべ ての日付 ひづけ について当時 とうじ のイングランドで採用 さいよう されていたユリウス暦 れき で記載 きさい する。
^ 大 だい 主教 しゅきょう 特権 とっけん 裁判所 さいばんしょ の記録 きろく 係 がかり であったとするものもある。
^ 母親 ははおや の旧姓 きゅうせい はイーディス・ブレークとするものと[4] 、イーディス・ジャクソンとするものがある[5] 。
^ Dionis BaynbriggeまたはDenis Bainbridge(デニス・ベインブリッジ)。Dionysus[10] や Dionysius[11] 表記 ひょうき も見受 みう けられる。
^ モルモン教会 きょうかい によって運営 うんえい されている系図 けいず を集積 しゅうせき したInternational Genealogical Indexでは、フォークスはマリア・プーリン(1569年生 ねんせい )という女性 じょせい と1590年 ねん にスコットンで結婚 けっこん し、1591年 ねん 2月 がつ 6日 にち にトマスという息子 むすこ をもうけている[16] 。ただし、これらの情報 じょうほう は教区 きょうく にある一 いち 次 じ 資料 しりょう によるものではなく、二 に 次 じ 資料 しりょう によるものと思 おも われる[15] 。
^ Oxford Dictionary of National Biographyによれば1592年 ねん となっているが、他 た の複数 ふくすう の情報 じょうほう 源 げん では1591年 ねん としている。Peter Bealの『A Dictionary of English Manuscript Terminology, 1450 to 2000』(OUP Oxford, 2010) には、1591年 ねん 10月 がつ 14日 にち の日付 ひづけ が入 はい った不動産 ふどうさん の署名 しょめい 入 い り売買 ばいばい 契約 けいやく 書 しょ が記 しる されている(pp. 198-199)。
^ 出席 しゅっせき 者 しゃ はジョン・ライト、トマス・パーシー、トマス・ウィンターとケイツビー、フォークスである[21] 。
^ トマス・ベイツは身分 みぶん が低 ひく いという理由 りゆう でゲートハウス監獄 かんごく に収監 しゅうかん された。
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