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ガイ・フォークス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ガイ・フォークス
逮捕たいほされるフォークス
生誕せいたん 1570ねん4がつ13にち推定すいてい
ヨーク
死没しぼつ 1606ねん1がつ31にち(35さい
ロンドンウェストミンスター
別名べつめい グイド・フォークス、ジョン・ジョンソン
職業しょくぎょう 兵士へいし
罪名ざいめい 大逆だいぎゃくざい
刑罰けいばつ 首吊くびつり・内臓ないぞうえぐり・よっきのけい
おや エドワード・フォークス、イディース・フォークス
動機どうき 火薬かやく陰謀いんぼう事件じけん
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ガイ・フォークスえい: Guy Fawkes[ˈɡ ˈfɔːks]1570ねん4がつ13にち - 1606ねん1がつ31にち[1][注釈ちゅうしゃく 1])、別名べつめいグイド・フォークスえい: Guido Fawkes[ˈɡwd ])は、1605ねん発覚はっかくした火薬かやく陰謀いんぼう事件じけん実行じっこう責任せきにんしゃとしてられる人物じんぶつである。

イングランドヨークまれそだち、母親ははおや再婚さいこん相手あいて影響えいきょうから、カトリック信奉しんぽうするようになる。青年せいねんにはヨーロッパ大陸たいりくわたりカトリックがわはちじゅうねん戦争せんそう参加さんかした。のちにトマス・ウィンターと出会であい、ロバート・ケイツビー首謀しゅぼうした火薬かやく陰謀いんぼう事件じけんかかわるようになる。1605ねん11月5にち当局とうきょくによる貴族きぞくいん地下ちか捜索そうさくおこなわれ、貯蔵ちょぞうした火薬かやく見張みはっていたフォークスは逮捕たいほされた。偽名ぎめい名乗なの証言しょうげんこばんだフォークスであったが、拷問ごうもんにかけられ計画けいかく全容ぜんよう共謀きょうぼうしゃ名前なまえ白状はくじょうした。1606ねん1がつ31にち、フォークスは絞首刑こうしゅけいだいからりてくびほねんだ。

フォークスは火薬かやく陰謀いんぼう事件じけん首謀しゅぼうしゃではなかったが事件じけんそのものと同義語どうぎごとなり、陰謀いんぼう発覚はっかくしたはイギリスの記念きねんガイ・フォークス・ナイト)となっている。また、英語えいごで「おとこやつ」を意味いみする「ガイ(guy)」は、かれ由来ゆらいする[2]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

少年しょうねん時代じだい[編集へんしゅう]

フォークスはセント・マイケル・ル・ベルフリー教会きょうかい洗礼せんれいけた。

ガイ・フォークスは1570ねんヨークのストーンゲートでまれた。当時とうじは、エリザベス1せい治世ちせいで、「国王こくおう至上しじょうほう」「礼拝れいはい統一とういつほう英語えいごばん」などの法律ほうりつ制定せいていされ、女王じょおう首長しゅちょうとするイングランド国教こっきょうかい体制たいせいづくりがすすめられていった。カトリック教徒きょうとはこれに反発はんぱつし、また政府せいふもカトリック教徒きょうと迫害はくがいしていった。ガイは、教会きょうかい法廷ほうてい弁護人べんごにんであったエドワード・フォークス[注釈ちゅうしゃく 2]とそのつまイーディスのとして、イングランド国教こっきょうかい礼拝れいはいかよ家庭かていまれた。両親りょうしんあいだには4にん子供こどもがいたが、ガイは2番目ばんめだった[注釈ちゅうしゃく 3]。ガイの父方ちちかた祖母そぼ、エレン・ハリントンは1536ねんにヨーク市長しちょうつかえた有力ゆうりょく商人しょうにんむすめであり、ガイの両親りょうしんもイングランド国教こっきょうかい信徒しんとであった[6]。しかし、母親ははおや家系かけい国教こっきょうかい否定ひていてきなカトリックであり、ガイのいとこであるリチャード・カウリングもイエズスかい聖職せいしょくしゃとなっている[7]。ガイという名前なまえはイングランドではめずらしい名前なまえだが、ヨークでは地元じもと有名人ゆうめいじんガイ・フェアファックス英語えいごばん」にあやかってづけられ、一般いっぱんてき名前なまえである[8]

フォークスのまれた不明ふめいであるが、セント・マイケル・ル・ベルフリー教会きょうかいにおいて4がつ16にち洗礼せんれいけている。誕生たんじょう洗礼せんれいあいだ慣習かんしゅうでは3日間にちかんとなっており、そこから4がつ13にちまれたと推定すいていされる[7]。ガイのまれるまえ、1568ねん母親ははおやのイーディスはアンというむすめんだが、同年どうねん11がつに7しゅうくなっている。ガイがまれたのちさらに2人ふたりをもうけており、アン(1572年生ねんせい)、エリザベス(1575年生ねんせい)はそれぞれ1599ねん、1594ねん結婚けっこんしている[8][9]

1579ねん、ガイが8さいとき父親ちちおやくなった。母親ははおやすうねん再婚さいこんしたが、相手あいてはスコットンにむカトリック信者しんじゃのディオニス・ベインブリッジ[注釈ちゅうしゃく 4]であった。スコットンにはカトリックを信奉しんぽうするプーリン、パーシーんでおり、フォークスは継父けいふとプーリン、パーシー影響えいきょうによりカトリックを信奉しんぽうするようになった[12]。フォークスはヨークにあるセント・ピーターズ・スクールにかよっていたが、学校がっこう理事りじ国教こっきょう忌避きひしゃとしてやく20ねん牢獄ろうごく収監しゅうかんされていた。校長こうちょうのジョン・プーリンは、ヨークシャーの国教こっきょう忌避きひしゃとして著名ちょめい一家いっかであるブラッバーハウスのプーリン出身しゅっしんであった。フォークスの同窓生どうそうせいには火薬かやく陰謀いんぼう事件じけんでともに行動こうどうをとることになるジョン・ライト、クリストファー・ライト兄弟きょうだいや、イエズスかいオズワルド・テシモンド、エドワード・オールドコーン神父しんぷなど事件じけんへの関与かんようたがわれた人物じんぶつ陰謀いんぼう事件じけん発覚はっかくまえの1601ねん処刑しょけいされたロバート・ミドルトン神父しんぷなどがいた[13]

学校がっこう卒業そつぎょう初代しょだいモンタギュー子爵ししゃくアンソニー・ブラウンにつかえるも、フォークスは子爵ししゃくうとまれ、短期間たんきかん解雇かいこされてしまった。その、2だいモンタギュー子爵ししゃくアンソニー=マリア・ブラウンにやとわれた[14]。フォークスは結婚けっこんしており、息子むすこがいたという情報じょうほうがあるが、どう時代じだい証拠しょうこ何一なにひとつかっていない[15][注釈ちゅうしゃく 5]

ぐんれき[編集へんしゅう]

1591ねん10がつにフォークスはちちから相続そうぞくしたクリフトンの不動産ふどうさん売却ばいきゃくしている[注釈ちゅうしゃく 6]。そのころ、スペインにたいするプロテスタントの反乱はんらんはちじゅうねん戦争せんそう(オランダ独立どくりつ戦争せんそう)がこっていた。スペインはユグノー戦争せんそうにも介入かいにゅうしており、1595ねんから1598ねんヴェルヴァン条約じょうやく英語えいごばんまでのあいだフランスとも戦争せんそうしていた。フォークスは大陸たいりくわたり、カトリックのスペインがわ参戦さんせんしている。イングランドはスペインと正式せいしき開戦かいせんこそしていなかったもののえい西にし戦争せんそうこっており、アルマダの海戦かいせんからはまだ5ねんほどしかぎていなかった。フォークスは、イングランドのカトリック教徒きょうと、ウィリアム・スタンリーの指揮しきはいった。スタンリーはエリザベス1せい寵愛ちょうあいけていたが、1587ねんデーフェンテルをスペインにゆずわたしたのちかれ軍勢ぐんぜいともども陣営じんえいをスペインに鞍替くらがえしていた。フォークスは下級かきゅう将校しょうこうとして、1596ねんカレー攻囲こういせん英語えいごばん勇敢ゆうかんかつ誠実せいじつそよいたが、1602ねんまで階級かいきゅうがることはなかった[5]。フォークスは1603ねんにスペインにおもむき、イングランドでのカトリックの反乱はんらん支援しえんしてくれるものつのった。フォークスはこのとき、イタリアふう名前なまえ Guido(グイド)を名乗なのるようになった。1603ねんにスコットランドおうジェームズ6せいがイングランドおうジェームズ1せいとして即位そくいし、イングランドとスコットランドは同君どうくん連合れんごう王国おうこく形成けいせいしていた。フォークスはジェームズ1せいのことを「イングランドから教皇きょうこうすべそう」としている「異端いたんしゃ」とメモにのこしている。また、フォークスはスコットランドおうまわりにはべるスコットランド貴族きぞく非難ひなんし、「当分とうぶんあいだ、2つのくに仲良なかよくなることなどないだろう」とべている[17]。フォークスはスペインのフェリペ3せい丁重ていちょうあつかわれたが、スペインはフォークスのもうけるまったくなかった[18]

火薬かやく陰謀いんぼう事件じけん[編集へんしゅう]

17世紀の服装をした8名の男性が描かれたモノクロの版画。描かれた人物は全てあごひげを生やしており、会合を開いている。
クリスペイン・デ・パッセ英語えいごばんによるどう時代じだいえがかれた版画はんが陰謀いんぼう加担かたんした13にんのうち8にんえがかれ、フォークスはみぎから3番目ばんめ人物じんぶつである。

1604ねんにフォークスはロバート・ケイツビーひきいるイングランドのカトリックグループに参加さんかするようになる。ケイツビーはプロテスタントのジェームズ1せい暗殺あんさつし、王位おうい継承けいしょう資格しかくだい3王女おうじょエリザベス・ステュアート王位おういけようとたくらんでいた[19][20]

1604ねん5がつ20日はつかに5にん中心ちゅうしん人物じんぶつが、ロンドンのストランド地区ちくにある Duck and Drake という宿やどあつまって会合かいごうおこなわれた[注釈ちゅうしゃく 7]ウェストミンスター宮殿きゅうでんうち議事堂ぎじどう爆破ばくはしておう政府せいふ要人ようじん殺害さつがいする計画けいかくを、ケイツビーはトマス・ウィンターとジョン・ライトに事前じぜん提案ていあんしていた。ウィンターは最初さいしょのうちは計画けいかく反対はんたいしていたがケイツビーに説得せっとくされ、支援しえんしゃさが目的もくてき大陸たいりくおもむいた。ウィンターはカスティーリャ元帥げんすいやウェールズのスパイ、ヒュー・オーウェン[22]、ウィリアム・スタンリーと出会であったが、スペインからの協力きょうりょくられそうにないということだった。しかし、オーウェンはフォークスを紹介しょうかい[5]、1604ねん4がつ2にんはイングランドに帰還きかんした[21]

計画けいかくたずさわっていたトマス・パーシーは、ノーサンバランドはく親戚しんせきであった。パーシーは1604ねん6がつつえ衛士えじにんじられロンドンにちいさないえりた。フォークスはジョン・ジョンソンと偽名ぎめい使つかい、パーシーの召使めしつかいとしてそこにんだ[23]。トマス・ウィンターの自供じきょう[24]では、そこから議事堂ぎじどうまでトンネルをりすすめ、1604ねん12月にトンネルの上方かみがたからおとこえてきたところで作業さぎょうをやめた。フォークスが調査ちょうさのためおくされ、そこは議事堂ぎじどうのすぐとなりにあった地下ちかしつであった[5][25]使用しようきたな部屋へやであったが、火薬かやく貯蔵ちょぞうしておくには理想りそうかく場所ばしょであるとおもわれ、陰謀いんぼう計画けいかくしゃたちは地下ちかしつれた[26]。フォークスがかたったところによると、最初さいしょに20たる火薬かやくはこまれ、ついで7がつ20日はつかに16たるはこまれた[27]

伝記でんき作家さっかアントニア・フレーザーは、このトンネルの証言しょうげんについて政府せいふによる捏造ねつぞううたがっている。トンネルが存在そんざいした証拠しょうこはどこにもつかっていないし、フォークスは拷問ごうもんけていたにもかかわらず5かい審問しんもんまでたいして重要じゅうようでないトンネルのことをみとめておらず、そのもトンネルの場所ばしょしめすことができなかった[28]

7がつ28にち首都しゅとにおける疫病えきびょう蔓延まんえん理由りゆうに、政府せいふ議会ぎかい開催かいさいを11月5にち延期えんきした[29]

海外かいがい動向どうこう[編集へんしゅう]

再度さいど海外かいがいからの支援しえんけるため、1605ねん5がつにフォークスは大陸たいりくわたりヒュー・オーウェンに計画けいかくかたった[30]おなごろロバート・セシルはフォークスの名前なまえを、ヨーロッパにめぐらしたスパイもうによってることになる。ウィリアム・ターナーは、そういったスパイの一人ひとりであったが、大抵たいてい報告ほうこく漠然ばくぜんとした侵攻しんこう可能かのうせいえるものではなく、陰謀いんぼう計画けいかくかんする情報じょうほうふくまれていなかった。しかし、4がつ21にち報告ほうこくでは、フランドルの有名ゆうめい傭兵ようへいであるフォークスがテシモンドによってイングランドにおくられたこと、そして「ミスター・ケイツビー」と「高貴こうき武装ぶそうおよび騎乗きじょう準備じゅんびしている友人ゆうじんたち」に紹介しょうかいされるだろうと報告ほうこくしている[31]。しかし、フォークスはイングランドではジョン・ジョンソンの偽名ぎめい使つかっていたことにより、ターナーの報告ほうこくしょめられなかった。セシルは陰謀いんぼう事件じけん発覚はっかくの11月のわりまで、このけんづくことはなかった[5][32]

正確せいかく日付ひづけ不明ふめいだが、フォークスは1605ねん8がつわりにはイングランドにもどった。フォークスとウィンターは地下ちかしつ貯蔵ちょぞうしてあった火薬かやく変質へんしつしてしまっていることにづいた。あたらしく火薬かやくとそれをかくすためのたきぎ地下ちかしつはこまれた[33]。10月の会合かいごう決定けっていされたフォークスの役割やくわりは、火薬かやく点火てんかテムズがわむことだった。同時どうじにミッドランドで反乱はんらんこし、エリザベス王女おうじょ奪取だっしゅするというものだった。おうごろしは非難ひなんびるため、フォークスは大陸たいりくおもむきカトリックの権力けんりょくしゃに、おうとその供回ともまわりをころすことがせいなる義務ぎむであることをいてまわった[34]

発見はっけん[編集へんしゅう]

In a stone-walled room, several armed men physically restrain another man, who is drawing his sword.
Discovery of the Gunpowder Plot 、1823ねんごろ、ヘンリー・ペロネ・ブリッグス

陰謀いんぼう加担かたんしたもののなかには、カトリック教徒きょうとまれることについて懸念けねんしめすものもいた[35]。10月26にちよる、モンティーグルきょうした匿名とくめいの1つう手紙てがみとどいた。手紙てがみには議事堂ぎじどう爆破ばくはされること、危険きけんだからちかづかないことがしるされていた[36]。モンティーグルきょう従者じゅうしゃからもたらされた情報じょうほうにより、手紙てがみけんはすぐに計画けいかくしゃたちのるところになったが、「にせ情報じょうほうとしてあつかうにちがいない」といった理由りゆう計画けいかく続行ぞっこうされた[37]。フォークスは10月30にち地下ちかしつをチェックし、問題もんだいのないことを報告ほうこくしている[38]不安ふあんおもったモンティーグルきょうはジェームズ1せいもと手紙てがみおくり、おうトマス・ナイヴェット議事堂ぎじどう地下ちか捜索そうさくするようめいじた。捜索そうさくは11月5にち早朝そうちょう開始かいしされた。フォークスはパーシーからわたされた時計とけいと、導火どうかせん前日ぜんじつよるおそくに地下ちかしつについていた[5]深夜しんやはいってフォークスは地下ちかしつ発見はっけん逮捕たいほされた。同時どうじたきぎ石炭せきたんかくしてあった火薬かやく発見はっけんされた[39]

拷問ごうもん[編集へんしゅう]

フォークスは最初さいしょ取調とりしらべではジョン・ジョンソンと名乗なのり、強気つよき振舞ふるまった[40]多量たりょう火薬かやくともにいたことについてかれると、「スコットランドの乞食こじきどもを祖国そこくやまおくかえしてやるためだ」とかえした[41]。フォークスは議事堂ぎじどうばす予定よていであったことをみとめ、失敗しっぱい残念ざんねんおもうとべた。フォークスの堂々どうどうとした態度たいどはジェームズ1せい歓心かんしんい、まるでローマじんのようだと賞賛しょうさんした[42]

おう賞賛しょうさんたが、「ジョン・ジョンソン」は仲間なかま名前なまえ白状はくじょうさせるため11がつ6にち拷問ごうもんにかけられることになった[43]おう手枷てかせ使つかうようなゆる拷問ごうもんからはじめることを指示しじし、もし必要ひつようなら拷問ごうもんだいのようなもっときついものを使つかうこともみとめた[40][44]。フォークスはロンドンとう移送いそうされた。「きみ何者なにものか?まだきみものはいない」「どこでいつフランス語ふらんすごならったのか?」「カトリック教徒きょうとだとすると、だれおしえたのか?」などの質問しつもんくだされた[45]。フォークスが尋問じんもんされた部屋へやはガイ・フォークス・ルームとしてられるようになる[46]

Two signatures
拷問ごうもん直後ちょくごかれた Guido の署名しょめいうえ)は、8にちのもの(した)とくらべて、ほとんど文字もじからだをなしていない。

ロンドンとう長官ちょうかん代理だいりであるウィリアム・ワードが拷問ごうもん監督かんとくすることになった[40]。ワードはフォークスのポケットからガイ・フォークスての手紙てがみつけたが、「ジョンソン」はだまったままで計画けいかくかんすることや差出人さしだしにんについては何一なにひとかそうとしなかった[47]。11月6にちよる、ワードはソールズベリーはくてに報告ほうこくしょおくり「かれ(ジョンソン)はこの行動こうどうこしてから毎日まいにちしんいのりをささげ、計画けいかく成功せいこうとカトリック信仰しんこう勝利しょうりかれたましいすくうことをねがっている」としるしている。ワードによればフォークスはやすみたがっていたが、ワードはフォークスが秘密ひみつにしている計画けいかく共犯きょうはんしゃについてかすまで尋問じんもんつづけるつもりだった[48]翌日よくじつのある時点じてんからフォークスは余裕よゆううしなっていった[49]

立会たちあいじんのエドワード・ホビーは「ジョンソンはロンドンとうてから英語えいごはなすようになっている」ことにづいた。フォークスは11月7にち本名ほんみょうかし、おう暗殺あんさつ計画けいかく加担かたんしたのは5めいであるとげた。11月8にちには共犯きょうはんしゃ名前なまえやエリザベス王女おうじょ玉座ぎょくざける計画けいかくだったことをかした。

フォークスが拷問ごうもんだいにかけられたかはさだかでないが、拷問ごうもんはげしさは文字もじからだをなしていないかれ署名しょめいれる[50]

裁判さいばん処刑しょけい[編集へんしゅう]

1606ねん1がつ27にち陰謀いんぼう加担かたんしたもの8めい裁判さいばんはじまった。フォークスはの6めいとともにロンドンとうからウェストミンスター宮殿きゅうでんおくられた[注釈ちゅうしゃく 8]かれらの罪状ざいじょうげられ、そこではフォークスのは「グイド・フォークス」または「グイド・ジョンソン」とされていた。フォークスは火薬かやく一緒いっしょにいたところを逮捕たいほされたにもかかわらず、無罪むざい主張しゅちょうした[52]

Etching
フォークスの処刑しょけいえがいた1606ねん版画はんが

陪審ばいしんいんすべての被告ひこくたい有罪ゆうざいみとめ、首席しゅせき判事はんじのジョン・ポファムは大逆だいぎゃくざい宣告せんこくした[53]法務ほうむ総裁そうさいエドワード・コークは、「被告ひこくうままわされ、性器せいき切断せつだんされてまえかれ、ちょう心臓しんぞうられるだろう。その断頭だんとうされ、からだをバラバラにしてさらされ、いずれとりえさになるだろう。」とべた[54]。フォークスとトレシャムのスペインでの陰謀いんぼう計画けいかく同様どうようあかるみにた。フォークスとウィンターが収監しゅうかんちゅうわした会話かいわ証拠しょうことしてげられた。2人ふたりだれにもかれていないとおもっていたが、会話かいわ政府せいふのスパイに盗聴とうちょうされていた。フォークスは起訴きそ事実じじつ一部いちぶについては関与かんよしていないとして自分じぶん無罪むざい説明せつめいしていた[55]

1606ねん1がつ31にち、ガイ・フォークス、トマス・ウィンター、アンブローズ・ルークウッド、ロバート・キーズの4めいは、かきen:hurdle)にせられ、ロンドンとうからウェストミンスターのオールド・パレス・ヤードまでまわされた[56]。フォークスの仲間なかま首吊くびつり・内臓ないぞうえぐり・よっきのけいしょされ、フォークスの処刑しょけい最後さいごであった。フォークスは拷問ごうもんにより衰弱すいじゃくしており、死刑しけい執行しっこうじんりねば絞首こうしゅだいにものぼれないほどであったという。フォークスは首吊くびつりののちつづく、きながらきざまれるからげるべく 絞首刑こうしゅけいだいからりたが、ロープのながさが適当てきとうであったため、くびほねってんだ[40][57][58]んでなお、からだよっきにされ[59]慣例かんれいのっと[60]、「王国おうこくの4箇所かしょ」にさらされた[61]

影響えいきょう[編集へんしゅう]

Sketch of a group of children escorting an effigy
Procession of a Guy (1864)
2008ねん2がつ、ロサンゼルスにて。アノニマスとしておおやけあらわれた人々ひとびとコミックおよび映画えいがVフォー・ヴェンデッタ有名ゆうめいになったガイ・フォークス・マスクこうむっている。

1605ねん11月5にち、ロンドン市民しみんおう無事ぶじであったことをいわい、かがりいた[5]。1606ねん可決かけつしたほうにより、毎年まいとし11がつ5にちおうたすかったことを感謝かんしゃする指定していされた。これは1859ねんまでつづいた[62]。フォークスは陰謀いんぼう加担かたんしゃ13めいのうちの1人ひとりぎないが、いまでは事件じけん代名詞だいめいしとでもうべき人物じんぶつとしてられる[63]

イギリスでは11月5にちガイ・フォークス・ナイト、ガイ・フォークス・デイ、プロット・ナイト[64]、ボンファイア・ナイト[65]などとばれる。ボンファイア・ナイトは1605ねん11月5にち祝祭しゅくさい直接的ちょくせつてき起源きげんである[66]。1650年代ねんだい以降いこうはかがりだけでなく花火はなびげられるようになった。ヨークこうジェームズのカトリック信仰しんこうあきらかになった1673ねん以降いこう人形にんぎょう大抵たいてい教皇きょうこうしたもの)をくことも慣例かんれいとなった[5]次第しだい国民こくみんいかりの対象たいしょう人形にんぎょうとするようになり、ポール・クリューガーマーガレット・サッチャーなどの人形にんぎょうがかがりかれた[67]、もちろん現代げんだいでもフォークスの人形にんぎょうかれている[62]。フォークスをかたどった「ガイ」は通常つうじょうどもたちによって古着ふるぎ新聞しんぶん仮面かめんなどをもちいてつくられる[62]。19世紀せいきちゅうは guy は奇妙きみょう服装ふくそうをした人物じんぶつ意味いみしていたが、アメリカ英語えいごでは軽蔑けいべつてき意味合いみあいはうしなわれ、男性だんせい一般いっぱん言葉ことばとなっている[62][68]

ウィリアム・ハリソン・エインズワースの1841ねん歴史れきしロマンス小説しょうせつ『Guy Fawkes; or, The Gunpowder Treason[69]』では、フォークスは共感きょうかん人物じんぶつとしてえがかれ大衆たいしゅうれられた。フォークスは児童じどうしょペニー・ドレッドフルのような大衆たいしゅう小説しょうせつでは「アクション・ヒーロー」となっていった[70]歴史れきしのルイス・コールは、「フォークスは現代げんだい政治せいじ文化ぶんかにおける重要じゅうよう象徴しょうちょうとなっている」とべ、フォークスのかおは20世紀せいきちゅうには「ポストモダン・アナーキズムを促進そくしんする強力きょうりょく道具どうぐとなった」としるした。コールがれいとしてげたVフォー・ヴェンデッタでは、全体ぜんたい主義しゅぎ国家こっかのイギリスとたたかう V は、フォークスのマスク(ガイ・フォークス・マスク)をつけている[71]。そのアノニマスウィキリークスジュリアン・アサンジ世界せかい各国かっこくの「ウォうぉル街るがい占拠せんきょせよ(Occupy Wall Street)」の活動かつどうにももちいられ、ガイ・フォークスのともに「抵抗ていこう匿名とくめい国際こくさいてきシンボル」と認知にんちされるようになった[72]

人物じんぶつぞう[編集へんしゅう]

旧友きゅうゆうのイエズスかい、オズワルド・テシモンドはフォークスを「会話かいわいがたのしく、喧嘩けんかごとけ、友達ともだち誠実せいじつである」と評価ひょうかしている。また、「軍事ぐんじについて精通せいつうしている」ともしており、敬愛けいあいされる性格せいかくたか技術ぎじゅつりょく陰謀いんぼうかかわったほかのものをきつけるものだった[5]伝記でんき作家さっかアントニア・フレーザーはフォークスの外見がいけんめんについて「たかくがっちりとしたおとこで、赤毛あかげかみ当時とうじ流行りゅうこうはちくちひげといあごひげをたくわえていた」としるし、内面ないめんについて「行動こうどうてきおとこ……知的ちてき会話かいわもこなし、肉体にくたいめにも抵抗ていこうし、すくなからずてきおどろかせた」としる[7]

フォークスは「国会こっかい議事堂ぎじどう登院とういんした人物じんぶつのうち、誠意せいいある行動こうどうをした唯一ゆいいつ人物じんぶつ」と冗談じょうだんわれることもある[73]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ほん記事きじではすべての日付ひづけについて当時とうじのイングランドで採用さいようされていたユリウスれき記載きさいする。
  2. ^ だい主教しゅきょう特権とっけん裁判所さいばんしょ記録きろくがかりであったとするものもある[3]
  3. ^ 母親ははおや旧姓きゅうせいはイーディス・ブレークとするものと[4]、イーディス・ジャクソンとするものがある[5]
  4. ^ Dionis BaynbriggeまたはDenis Bainbridge(デニス・ベインブリッジ)。Dionysus[10]や Dionysius[11]表記ひょうき見受みうけられる。
  5. ^ モルモン教会きょうかいによって運営うんえいされている系図けいず集積しゅうせきしたInternational Genealogical Indexでは、フォークスはマリア・プーリン(1569年生ねんせい)という女性じょせいと1590ねんにスコットンで結婚けっこんし、1591ねん2がつ6にちにトマスという息子むすこをもうけている[16]。ただし、これらの情報じょうほう教区きょうくにあるいち資料しりょうによるものではなく、資料しりょうによるものとおもわれる[15]
  6. ^ Oxford Dictionary of National Biographyによれば1592ねんとなっているが、複数ふくすう情報じょうほうげんでは1591ねんとしている。Peter Bealの『A Dictionary of English Manuscript Terminology, 1450 to 2000』(OUP Oxford, 2010) には、1591ねん10がつ14にち日付ひづけはいった不動産ふどうさん署名しょめい売買ばいばい契約けいやくしょしるされている(pp. 198-199)。
  7. ^ 出席しゅっせきしゃはジョン・ライト、トマス・パーシー、トマス・ウィンターとケイツビー、フォークスである[21]
  8. ^ トマス・ベイツは身分みぶんひくいという理由りゆうでゲートハウス監獄かんごく収監しゅうかんされた[51]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ The Gunpowder Plot Brockham Bonfire Brockham Bonfire's website
  2. ^ Guy”. Merriam-Webster Dictionary. 2015ねん2がつ22にち閲覧えつらん
  3. ^ Haynes 2005, pp. 28–29
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]