現実げんじつ

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現実げんじつ(げんじつ、えい: Reality, Actuality)は、いままえ事実じじつとしてあらわれているもののこと。あるいは現実げんじつとは、個々ここ主体しゅたいによって体験たいけんされる出来事できごとを、外部がいぶから基本きほんてき制約せいやく規定きていするもの、もしくはそうした出来事できごと基底きていとなるいちてきのことである。現実げんじつ区別くべつされるのは、うそ真実しんじつわせてできたものである。

現象げんしょう現実げんじつ[編集へんしゅう]

個々ここ主体しゅたいによって主観しゅかんてき認識にんしきされた現象げんしょうは、幻想げんそう錯誤さくご虚構きょこうふくまれる可能かのうせいがあるため、あるしゅ普遍ふへんせい必然ひつぜんせい現実げんじつとは同等どうとうではない。とはいえ、もしこのようなそれ自体じたい常識じょうしきてき立場たちばすすめれば、ある現象げんしょう現実げんじつとしてみとめるための根拠こんきょとして、主観しゅかんてき経験けいけんやくにたないということになってしまい、一定いってい困難こんなんしょうじる(たとえばそうの「胡蝶こちょうゆめ」)。また、おなじくする問題もんだいとして、「おな現実げんじつ人々ひとびと共有きょうゆうしている」ことをいかにして保証ほしょうするかが懐疑かいぎ主義しゅぎてき議論ぎろんにおいては問題もんだいとなる(その根拠こんきょけとしてのたとえばカント超越ちょうえつろんてき主観性しゅかんせいもの自体じたい)。

そこで現象げんしょう現実げんじつとして規定きていする主観しゅかんとしての理性りせい悟性ごせい、あるいは複数ふくすう人々ひとびと経験けいけんてき現象げんしょう一致いっちや、経験けいけんてき現象げんしょうそれ自体じたい整合せいごうせい性質せいしつなど、いくつかの基準きじゅん提案ていあんされてきた。とはいえ、この場合ばあい同一どういつ現実げんじつ共有きょうゆうしている」とはどのような事態じたい意味いみするのか、ということにおいても、意見いけん一致いっちられるわけではない。現実げんじつ主観しゅかんてき経験けいけんによって定義ていぎされないとすれば、自己じこ経験けいけんしている主観しゅかんてき現実げんじつや、それについての言語げんごてき報告ほうこく一致いっちによっては、現実げんじつ共有きょうゆう定義ていぎなり保障ほしょうなりすることはむずかしいからである。

仮想かそう現実げんじつ[編集へんしゅう]

仮想かそう現実げんじつにおいては、「上位じょうい」あるいは「より基底きていてき」とされた現実げんじつたいしては、「下位かい」あるいは「派生はせいてき」なシミュレートされた現実げんじつ虚構きょこう側面そくめんゆうすることになる。[注釈ちゅうしゃく 1]これにたいし、バーチャルリアリティ virtual realityという場合ばあい現実げんじつは、機能きのうめんだけを実現じつげんしたvirtual companyがあるように、すくなくともその本質ほんしつ効果こうかにおいては実物じつぶつ同等どうとうの、実質じっしつてき現実げんじつをあらわす。しかしながら、現実げんじつこることもある。

仮想かそう現実げんじつについて西部せいぶ評論ひょうろん)はこうべている。「リアリティ、つまり「現実げんじつせい」という言葉ことばがある。仮想かそうせい現実げんじつせい関係かんけいはどのようなものか。現実げんじつとは、長期ちょうきてき安定あんていしている仮想かそうのこと、つまりかえして再現さいげんされる現象げんしょうのことなのである。つまり、現実げんじつせいとは、このような特殊とくしゅな(というより慣習かんしゅうにもとづいているため極度きょくど安定あんていした)形態けいたい仮想かそうせいなのだ。たとえば、自分じぶんいや子供こども親密しんみつ家族かぞくとみなすのは「仮想かそう現実げんじつ」にすぎない。しかしその仮想かそう現実げんじつ日々ひび反復はんぷくされるなら、家族かぞく人間にんげん関係かんけい自分じぶんまわりにるぎない「現実げんじつ」としてる、とそのひとおもうにいたるだろう[1]。」

虚構きょこう現実げんじつ[編集へんしゅう]

虚構きょこうフィクション)は、現実げんじつではないものとして「表現ひょうげんされた」ものである。

言語げんご現実げんじつ[編集へんしゅう]

言語げんご(あるいは象徴しょうちょう記号きごう)は、事態じたいを、その現実げんじつコンテキストからすことによって独立どくりつ対象たいしょうするものである。しかし、かれた言葉ことばは、オリジナルなコンテキストのしたでただいちだけかたられる言葉ことばとはことなり、べつのコンスキストのしたでもかえして引用いんようされる。

現実げんじつのコンテキストからされることによって対象たいしょうされた言語げんごてき記号きごうてき存在そんざいは、べつのコンテキストにおいても同一どういつのものとして見出みいだされる可能かのうせい獲得かくとくする。すなわち、言語げんごてき存在そんざいは、再認さいにんおよび反復はんぷく可能かのうせいをもつ。この可能かのうせいは、記号きごう指示しじ対象たいしょう十全じゅうぜん指定していしない、いいかえれば情報じょうほうてることによってつものであることに根拠こんきょつ。

しかし、まさにその特質とくしつによって、象徴しょうちょう記号きごう、あるいは言語げんごは、その表現ひょうげん対象たいしょうを、現実げんじつ成立せいりつしうるものだけに限定げんていすることができない。まさしく言語げんご象徴しょうちょうそれ自身じしん効果こうかとして、記号きごうそれ自身じしん、あるいは、文法ぶんぽう内部ないぶには、複数ふくすう記号きごうわせが、「現実げんじつてき」なものかどうかを判断はんだんする基準きじゅんや、制約せいやくも、そもそも、その前提ぜんていとなる情報じょうほうけているからである。(そのためしばしば、このような自由じゆうたない、虚偽きょぎ虚構きょこう表現ひょうげんできない、理想りそうてき人工じんこう言語げんご西欧せいおうにおいては構想こうそうされてきた)

思想しそう[編集へんしゅう]

現実げんじつという概念がいねん元来がんらい現世げんせい来世らいせ対立たいりつ、および現在げんざい過去かこ未来みらいという対立たいりつ、そしてゆめ虚構きょこう現実げんじつとの対立たいりつという、どれも歴史れきしてきには宗教しゅうきょうてき含意がんいをもっていた対立たいりつこう由来ゆらいするとかんがえることができる。東洋とうよういてはしかし、この「げんに」という意味いみ要素ようそが、思想しそうてき着目ちゃくもくされ、げられることはほとんどなかった。

東洋とうよう思想しそう[編集へんしゅう]

仏教ぶっきょうにおいては、一切いっさいつくられたものとしての現実げんじつ存在そんざい自己じこ同一どういつてき本質ほんしつけていることが、諸行無常しょぎょうむじょうとしてかれており、現実げんじつ現象げんしょう仮象かしょうとの対立たいりつ否定ひていされ、すべてが関係かんけいせいのなかにおける現象げんしょうであると規定きていされたため、仏教ぶっきょうてき思惟しいにおいては、そうした純粋じゅんすい関係かんけいせいである縁起えんぎそら逆説ぎゃくせつてき意味いみ現実げんじつにあたるものである。だが、それは否定ひていてき規定きていされたものであるので、現実げんじつせい固有こゆう考察こうさつ対象たいしょうにはならなかった。他方たほうで、ままならない現実げんじつという側面そくめんは、無我むが非我ひが)という概念がいねんでカバーされる。

中国ちゅうごく哲学てつがくにおいては、一般いっぱん唯名論ゆいめいろんてき傾向けいこうつよく、現象げんしょうから現実げんじつ区別くべつされない。むしろ現象げんしょう現実げんじつとの区別くべつ宗教しゅうきょうてき領域りょういき問題もんだいであった。ことにろうそうてき思想しそうにあっては、相対そうたいてき個別こべつ認識にんしきをこえた万物ばんぶつひとしどうというものが提出ていしゅつされるのであるが、この場合ばあい個別こべつ主観しゅかんえた現実げんじつせいというものが想定そうていされているわけではなく、それらの認識にんしきあいだ相対そうたいせい強調きょうちょうされた。それにたいして朱子学しゅしがく知識ちしき完成かんせいのためには実事じつごともとめ現実げんじつ世界せかい対象たいしょうにあたらなければならない、というテーゼが存在そんざいし、主体しゅたい現実げんじつとの対立たいりつ関係かんけい意識いしきされているといえる。

西洋せいよう思想しそう[編集へんしゅう]

古代こだい哲学てつがく[編集へんしゅう]

ギリシア哲学てつがくにおいては、プラトンはこの現象げんしょう世界せかいしん実在じつざいであるイデアさかいかげとして規定きていした。すなわち、ちょうど現実げんじつ虚構きょこうとの関係かんけいのように、経験けいけんされる現象げんしょう世界せかいは、実在じつざいする世界せかいであるイデアかい下位かい現実げんじつであると理解りかいされている。このように、かれは現象げんしょう世界せかいをすでに派生はせいせいをもつ虚構きょこうていた。

アリストテレス可能かのうたいせんぜい) dynamisと現実げんじつ活動かつどうしているげん実態じったい現勢げんせい) energeiaという様相ようそうてき区別くべつかんがえたうえさい高度こうど現実げんじつてきであるものは純粋じゅんすいげん実態じったいであるかみであるとしている。また個物こぶつにおけるだいいち実体じったい普遍ふへんしゃとしてのだい実体じったい区別くべつしている。

中世ちゅうせい哲学てつがく[編集へんしゅう]

この区別くべつは、現実げんじつ存在そんざい(existentia)と本質ほんしつ存在そんざい(essentia)との区別くべつとして継承けいしょうされていくこととなり、中世ちゅうせい哲学てつがくにおいては、普遍ふへん論争ろんそうでの唯名論ゆいめいろん(nominalism)とじつねんろん(realism)との対立たいりつとしてあらわれている。るいてき概念がいねん実在じつざいせい肯定こうていするじつねんろんでは、アダムのおかしたつみすべての人間にんげんうという原罪げんざい問題もんだい解決かいけつされる。これにたいして唯名論ゆいめいろんでは、るいてき概念がいねん実在じつざいせい否定ひていされた。この立場たちばは、のちにイギリス経験けいけんろんなどに継承けいしょうされていくことになる。

近代きんだい哲学てつがく[編集へんしゅう]

ライプニッツは、かくモナド観点かんてんからことなった世界せかいは、じつは唯一ゆいいつ現実げんじつ世界せかい反映はんえいならないとしている。これにたいヴォルテールは、現実げんじつ世界せかい可能かのう世界せかいのうちの最善さいぜん世界せかいであるとする楽天らくてん主義しゅぎとなえるパングロス博士はかせ創作そうさくして(カンディード)、ライプニッツを揶揄やゆしている。

ドイツ観念論かんねんろんにおいては、唯名論ゆいめいろん継承けいしょうしたイギリス経験けいけんろんたいして、イマヌエル・カントは、さまざまな認識にんしきによってことなったように構成こうせいされうる現象げんしょう背後はいご要請ようせいされるもの自体じたいという概念がいねんかんがえた。また判断はんだんひょうにおいては様相ようそう判断はんだんとしての実然じつねんせい現実げんじつせい)を蓋然性がいぜんせい可能かのうせい)と区別くべつしたうえ様相ようそう判断はんだん対象たいしょう概念がいねんにはなにものもくわえず、現実げんじつてきな100ターレル可能かのうてきな100ターレルとは概念がいねん内容ないよう同一どういつではあるが、ただし我々われわれたいしてはことなった意味いみゆうするとした(純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん)。

このようなカントの議論ぎろんたいして、ヘーゲルは、カントが可能かのうせい現実げんじつせい必然ひつぜんせい様態ようたいとしたことを批判ひはんしたうえ偶然ぐうぜんせいにすぎない可能かのうせいとは対置たいちされるところの、現実げんじつせいとしてのイデアをしめすものとして、アリストテレスのげん実態じったい energeiaの思想しそう評価ひょうかしている。また「現実げんじつてきなものは理性りせいてきであり理性りせいてきなものは現実げんじつてきである」という言葉ことばのこしており、理念りねん抽象ちゅうしょうにすぎないsollenにとどまって現実げんじつてきでないほど無力むりょくなものではないとして、理念りねん現実げんじつとをはな思想しそう退しりぞけた。この立場たちばにおいては偶然ぐうぜんてきでしかない存在そんざい現象げんしょう)は、現存げんそんざいexistenzをもってはいるが、現実げんじつWirklichkeitのにはあたいしないものとされる(しょう論理ろんりがく)。

これにたいし、後期こうきシェリングの「実存じつぞん哲学てつがくexistenzial philosophie」を批判ひはんてき継承けいしょうしたキルケゴールでは、むしろ「現実げんじつてきなものは個別こべつてきであり個別こべつてきなものは現実げんじつてきである」ととらえられ、本質ほんしつ存在そんざいたいする現実げんじつ存在そんざい実存じつぞん existenz)の優位ゆういかれる。

現代げんだい思想しそう[編集へんしゅう]

可能かのう世界せかいろんにおいては、現実げんじつ世界せかいとはおおくの可能かのう世界せかいのなかでわたし存在そんざいする世界せかいであるとする可能かのう主義しゅぎ(ルイス)と、可能かのう世界せかいとは現実げんじつ世界せかいでのわれわれが想像そうぞうした世界せかいであるという現実げんじつ主義しゅぎクリプキ)との対立たいりつがある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ なお、「うえ」「した」という表現ひょうげんについては、より「現実げんじつ」のがわのものは、優先ゆうせん制約せいやくせい着目ちゃくもくしたときは「上位じょういの」と表現ひょうげんされるのにたいし(決定けっていのオーダーにおける上位じょういというイメージである)、基底きていせいなど、「したささえる」というてん着目ちゃくもくしたときは「下位かいの」という表現ひょうげんえらばれる傾向けいこうがあり(マルクス主義まるくすしゅぎの「下部かぶ構造こうぞう」など)、一定いっていまぎらわしさが存在そんざいする

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 西部せいぶ邁『虚無きょむ構造こうぞう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、2013ねん、172ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]