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不条理ふじょうり

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不条理ふじょうり(ふじょうり)は、合理ごうりであること、あるいは常識じょうしきはんしていることをす。英語えいごの absurd、フランス語ふらんすごの absurde、ドイツの Absurdität のわけ。これらはいずれもラテン語らてんごの absurdus を語源ごげんとする。このラテン語らてんご意味いみは「協和きょうわな」(cf. Cicero, De Oratore, III, 41)。

文学ぶんがくにおける不条理ふじょうり[編集へんしゅう]

不条理ふじょうりによってナンセンス効果こうかがもたらされるため、あるしゅ文学ぶんがく作品さくひんではしばしば不条理ふじょうりてき展開てんかいもちいられる。代表だいひょうてき不条理ふじょうり文学ぶんがくとしては、カミュ小説しょうせつペスト』や『邦人ほうじん』、セリーヌの『よるてへのたび』、カフカの『変身へんしん』や『審判しんぱん』などがある。

不条理ふじょうり文学ぶんがくだい世界せかい大戦たいせんまれ、おおくの場合ばあい不条理ふじょうり演劇えんげきによって表現ひょうげんされた。代表だいひょうてき作家さっかとしてはウジェーヌ・イヨネスコサミュエル・ベケットフェルナンド・アラバル英語えいごばんなど。現代げんだい中国ちゅうごく文学ぶんがくにおいては高行たかゆきけん集中しゅうちゅうてきんでいる。 げき作家さっか別役べつやくみのる日本にっぽんにおける不条理ふじょうりげき確立かくりつしたとされている。

哲学てつがくにおける不条理ふじょうり[編集へんしゅう]

哲学てつがくてき意味いみにおける不条理ふじょうりは、世界せかい意味いみいだそうとする人間にんげん努力どりょく最終さいしゅうてき失敗しっぱいせざるをえないということを主張しゅちょうする。そのような意味いみすくなくとも人間にんげんにとっては存在そんざいしないからである。この意味いみでの不条理ふじょうりは、論理ろんりてき不可能ふかのうというよりも人間にんげんにとって不可能ふかのうということである。

2世紀せいきキリスト教きりすときょう神学しんがくしゃテルトゥリアヌスげんとされる「不条理ふじょうりなるがゆえわがしんじず (credo quia absurdum) 」という言葉ことばは、キリストきょう信仰しんこう理性りせいによる解釈かいしゃく拒絶きょぜつしたものといえる。理性りせいによって不可能ふかのう判断はんだんされるイエス復活ふっかつは、まさにそれゆえにこそ確実かくじつなのだとテルトゥリアヌスはかんがえた。

19世紀せいき不条理ふじょうり観念かんねん注目ちゅうもくしたのがデンマークの哲学てつがくしゃキルケゴールである。キルケゴールは『おそれとおののき』のなかで、旧約きゅうやく聖書せいしょ物語ものがたられるアブラハム逸話いつわ解釈かいしゃくしながら、あらゆる倫理りんりてき義務ぎむはんしてアブラハムがかみささげるため息子むすこころそうとし、その結果けっか信仰しんこう確証かくしょうされるという物語ものがたり不条理ふじょうりっている。

20世紀せいきなかばにふたた不条理ふじょうり意識いしき注目ちゅうもくしたのが実存じつぞん主義しゅぎである。とりわけフランスで、 カミュやサルトルらによって不条理ふじょうり倫理りんりてき美学びがくてき次元じげん探求たんきゅうされた。実存じつぞん主義しゅぎにおいて「不条理ふじょうりてき」という形容けいようは、既存きそん意味いみすべてをられたものにたいしてもちいられる。「不条理ふじょうり」という言葉ことばもちいられるとき世界せかい根本こんぽんてき不条理ふじょうりであること、人間にんげん条件じょうけんはそもそも不条理ふじょうりであって、根拠こんきょであることが喚起かんきされている。

カミュは『シジフォスの神話しんわ』のなかで、不条理ふじょうり英雄えいゆうとしてシーシュポスえがいている。つまり、かみ々をおこらせることになるのをかいさずせいへの情熱じょうねつ貫徹かんてつするからである。ちなみに、けっして頂上ちょうじょうにとどまることのいわを、ころちるごとになおはこつづけざるをないシーシュポスの苦役くえきかみ々からの処罰しょばつのためなのだが、そんなものはておけという意味いみでカミュは、シーシュポスをそのやまふもとにとどめようとする。

不条理ふじょうり主義しゅぎしゃ哲学てつがくなかでは、不条理ふじょうりひとによる世界せかい意味いみ追究ついきゅう世界せかいあきらかな意味いみのなさの基本きほんてき調和ちょうわによってしょうじるとされる。意味いみたない世界せかい意味いみさがす。ひとはこのジレンマを解決かいけつするみっつの方法ほうほうっている。キルケゴールとカミュはその解決かいけつほう著書ちょしょなかいている。『いたやまい』と『シーシュポスの神話しんわ』である。

  • 自殺じさつ:まずシンプルなひとつの方法ほうほうとして人生じんせいわらすということ。キルケゴールとカミュはこの方法ほうほう現実げんじつてきであるとして退しりぞけている。
  • 盲信もうしん不条理ふじょうりえたなにか、れられず実験じっけんてき存在そんざい証明しょうめいされていないものをしんじること。しかしそれをするには理性りせいしつくす必要ひつようがある(すなわち盲信もうしん)、とキルケゴールはっている。カミュはこれを哲学てつがくてき自殺じさつとしてかんがえている。
  • 不条理ふじょうりれる:不条理ふじょうりれてきる。カミュはこの方法ほうほう推奨すいしょうしているが、キルケゴールはこれを「悪魔あくまかれた狂気きょうき」として、自殺じさつこす可能かのうせいろんじて批判ひはんしている[1]

セーレン・キェルケゴール[編集へんしゅう]

カミュがあらわれるまえ、19世紀せいきにデンマークの哲学てつがくしゃキルケゴールが不条理ふじょうりについていている。

不条理ふじょうりとはなにか?それはおそらく容易ようい理解りかいできるだろう。それはわたし意味いみってなす行動こうどうわたし自身じしんわたし意志いしみちびいた結果けっかることができるだろう。くんはあることをのことと同様どうようによくできるだろう。すなわちわたしがこれをうと、わたしのようにはきみはできないだろうと。不条理ふじょうり信条しんじょうによってなされる行為こういである。わたし行動こうどうする、しかし結果けっかはすでにまっており、わたしはそのひとつの可能かのうせいをつかみってう、これがわたしのやったことで、のことはできなかった。これがわたし意志いしがつかみった結果けっかであるから」
キルケゴール,ジャーナル,1849

不条理ふじょうりひとつのれいは、「おそれとおののき」のなかることができる。アブラハムはかみに、息子むすこのイザークをころせとめいじられる。アブラハムはすべての道徳どうとく倫理りんり反抗はんこうし、ただかみしたが息子むすこころした。結果けっかてき息子むすこかみからアブラハムのもとかえされることで、アブラハムはかみへの信仰しんこうさい確認かくにんする。キルケゴールは、このかみしんじて殺人さつじんおこなったアブラハムに、不条理ふじょうり美徳びとく見出みいだした。この物語ものがたりは"沈黙ちんもくのヨハネス"という偽名ぎめいかれている。

べつれいでは『いたやまい』に不条理ふじょうりることができる。このときの偽名ぎめいは"Anti-Climacus"である。絶望ぜつぼうたいする挑戦ちょうせんとしてこのほんられている。このほんはじまりで、「不条理ふじょうり直面ちょくめんしたひとが、どうそれに対処たいしょするか」をいている。このテーマはカミュものちにいている。自殺じさつ、すなわち不条理ふじょうり拒絶きょぜつである。かれ自伝じでんによれば、かれ使つかったペンネームにたいした意味いみはない。かれ活動かつどうは、不条理ふじょうりをテーマとした、おおくのもののバックグラウンドとなっている。

アルベール・カミュ[編集へんしゅう]

不条理ふじょうりかれいた著作ちょさくなかることができるが、「シーシュポスの神話しんわ」が不条理ふじょうりをテーマにしたかれさい重要じゅうよう著作ちょさくである。そのなか不条理ふじょうり理想りそうとのあいだしょうじる対立たいりつ葛藤かっとう分裂ぶんれつであるとした。とくに、不条理ふじょうり直面ちょくめんした状態じょうたいを、意味いみもとめるときにしょうじた矛盾むじゅんとの対立たいりつであるとし、理性りせいをもつしゅである人間にんげん直面ちょくめんする問題もんだいとした。不条理ふじょうりさとったりづくことは個人こじんみっつの選択せんたくをもたらす。自殺じさつ宗教しゅうきょうなどへの盲信もうしん不条理ふじょうり認識にんしきである。かれ不条理ふじょうりれることがつづける唯一ゆいいつ方法ほうほうとしている。

カミュにとって自殺じさつは「人生じんせいきるにあたいしない」という懺悔ざんげであり、自殺じさつすることはあんに「もう十分じゅうぶんきた」とうようなことだとしている。自殺じさつもっと単純たんじゅん不条理ふじょうり解決かいけつほうで、この世界せかいでの自己じこわりである。

不条理ふじょうり克服こくふくするには、宗教しゅうきょうなどを盲信もうしんするというもある。これはキルケゴールが『沈黙ちんもくのヨハネス』というれている。カミュ自身じしんはこれを理性りせいてる行為こういであるとし、不条理ふじょうりではないとした。この盲信もうしんを"哲学てつがくてき自殺じさつ"とし、肉体にくたいてき自殺じさつとともに不条理ふじょうり解決かいけつほうから排除はいじょした。

カミュは不条理ふじょうりれることができるものであるとした。理由りゆうは、人生じんせい意味いみ不条理ふじょうりえたところにあるからである。もし不条理ふじょうりづくことができれば、この世界せかい意味いみたないことにづく。ということはとしての我々われわれしん自由じゆうであり、世界せかい客観きゃっかんてきではなく主観しゅかんてきとらえることができるとした。個々ここ意味いみさがもとめて自分じぶんなりの解釈かいしゃくていくことでしあわせになれるのである。

『シーシュポスの神話しんわ』でカミュは、「不条理ふじょうりから3つの結果けっかた。反抗はんこう自由じゆう情熱じょうねつだ。わたし自分じぶん意志いし人生じんせいかまえるれ、自殺じさつ拒絶きょぜつした」とっている。

なま意味いみ[編集へんしゅう]

不条理ふじょうり主義しゅぎによれば、ひときる意味いみもとめる。この意味いみ追究ついきゅうには2つのみちがある。1つは人生じんせい意味いみがないという現実げんじつてき結論けつろんからのかんがえ、もう1つはかみのような超越ちょうえつしゃ仮定かていしたかんがえである。しかしかみのようなものを仮定かていするとまた疑問ぎもんしょうじる。「かみ意志いしなにか?」キルケゴールによればかみ目的もくてきはなく、かみしんじることは不条理ふじょうりだとしている。一方いっぽうでカミュはかみしんじることを、ひと世界せかい対立たいりつ否定ひていすることで哲学てつがくてき自殺じさつとしてる。だがカミュもキルケゴールも、不条理ふじょうりかみ存在そんざいへの手掛てがかりではないとし、カミュは「かみがいないとはっていない、それはまだ議論ぎろん余地よちがある」としている。

自殺じさつきる意味いみうしなったときもっとはや解決かいけつさくである。カミュは『シーシュポスの神話しんわ』のなかで、「自殺じさつ価値かちはない。もし本当ほんとう人生じんせいがばかげていても、あらがうことがばかげていても。むしろきる意味いみあたえられていないからよりきようとおもえる」としている。

カミュは「あきらめなしに不条理ふじょうりれる方法ほうほう」を紹介しょうかいしている。「魅力みりょくなしにきられるか」をい、「意識いしきてき反抗はんこう」を、不条理ふじょうり拒絶きょぜつする世界せかい明示めいじしていくことである。先天的せんてんてき意味いみ死後しごのさばきのない世界せかいで、ひと完全かんぜん自由じゆうる。この自由じゆうによってひとえないものにすがることも、不条理ふじょうり英雄えいゆうとしてきることもできる。これより不条理ふじょうり英雄えいゆうつ、拒絶きょぜつする意志いし情熱じょうねつとともにきるかれ唯一ゆいいつ能力のうりょくとなるのである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ いたやまい』,キルケゴール,絶望ぜつぼうして自己じこ自身じしんであろうとほっする絶望ぜつぼう反抗はんこう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]