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「神社仏閣」のブログ記事一覧-小さな旅を愉しむための情報PLUS
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ちいさなたびたのしむための情報じょうほうPLUS

生活せいかつけんでのちいさなたびたのしむために、らしの歴史れきしけた情報じょうほう発信はっしん目指めざします。

諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろ本宮ほんぐう」と「諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃあきみや」の「おもねぞう獅子しし)」と「うんぞう狛犬こまいぬ)」

2024-11-17 19:00:00 | 神社じんじゃ仏閣ぶっかく
▶「諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろ本宮ほんぐうきた参道さんどう大鳥居おおとりいわきには、「諏訪すわぐんえいあきらむら」(現在げんざいの「茅野ちの」)にまれた彫刻ちょうこく矢崎やさき虎夫とらお(やざきとらお)」(1904/明治めいじ37ねん7がつ25にち~1988/昭和しょうわ63ねん9がつ24にち)の制作せいさくによる「おもねぞう獅子しし)」と「うんぞう狛犬こまいぬ)」がかれている。は、「高村たかむら光雲こううん(たかむらこううん)」門下もんかひらくし田中たなか(ひらくしでんちゅう)」に師事しじわたしおうしてキュビスムや黒人こくじん彫刻ちょうこく影響えいきょう独自どくじのスタイルをんだといわれる「オシップ・ザッキン」(1890~1967)に師事しじして、仏典ぶってん歴史れきし取材しゅざいした作品さくひんおおがけたという。

1985(昭和しょうわ60)ねん奉献ほうけんされた「空想くうそうじょう守護しゅごじゅうぞう」は、かってみぎくちひらいているのが「おもね(あ)ぞう」の「獅子しし(しし)」、ひだりくちじているのが「うん(うん)ぞう」の「狛犬こまいぬ(こまいぬ)」だが、現在げんざいは「獅子しし狛犬こまいぬ」という呼称こしょうえて、両者りょうしゃわせてたん魔除まよけけのためにかれるぞうこばめけん(こまいぬ)」から「狛犬こまいぬ」(空想くうそうじょう動物どうぶつで「いぬ」ではない)といういいかた定着ていちゃくしてているという。
起源きげん古代こだいオリエントの「スフィンクス」までさかのぼるといわれるが、ガンダーラを経由けいゆして中国ちゅうごくはいり、遣唐使けんとうし我国わがくにかえって、たい獅子ししぞう寺院じいん山門さんもん仁王におうぞう影響えいきょうけ、平安へいあん時代じだいまでに「獅子しし狛犬こまいぬ」という独自どくじの「阿吽あうん形式けいしきわったのではないかとわれているそうだ。


▶「諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃあきみや」の「神楽かぐら殿どの正面しょうめんりょうわきしたがう「獅子しし狛犬こまいぬぞう」は、諏訪すわぐん原村はらむら出身しゅっしんで「日本にっぽん芸術げいじゅついん会員かいいん」「文化ぶんか功労こうろうしゃ」だった「清水しみず多嘉たかしめせ(しみず たかし)」(1897/明治めいじ30ねん7がつ27にち~1981/昭和しょうわ56ねん5がつ5にち)による1960(昭和しょうわ35)ねん制作せいさく作品さくひんだ。は、近代きんだい彫刻ちょうこくちちといわれる「François-Auguste-René Rodin(フランソワ オーギュスト ルネ ロダン)」(1840ねん11月12にち~1917ねん11月17にち)の助手じょしゅをつとめて後継こうけいしゃされたフランスの彫刻ちょうこく「Antoine Bourdelle(アントワーヌ ブールデル)」(1861ねん10がつ30にち~1929ねん10がつ1にち)に師事しじして、くに戦後せんご具象ぐしょう彫刻ちょうこくをリードした一人ひとりだといわれている。
形式けいしきうにぎず皮相ひそうわれても仕方しかたのない「獅子しし狛犬こまいぬ」がおおあふれるなかで、がここ「諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃあきみや」に奉献ほうけんした「獅子しし狛犬こまいぬぞう」は、どうせいの「おもねぞう」「うんぞう」に生命せいめい気迫きはくをみなぎらせて、まったくべつ次元じげん仕上しあげた作品さくひんとしてかれる。






いけやすし山泉やましみずりゅういん😐😐😐境内けいだいさんしょくふじごろをむかえてあまかおりをはなっている

2022-05-01 20:00:00 | 神社じんじゃ仏閣ぶっかく



中央ちゅうおう自動車じどうしゃどう松川まつかわインターチェンジ」からくるまやく15ぶんいけやすし山泉やましみずりゅういん」(長野ながのけん下伊那しもいなぐん豊丘とよおかむら河野こうの境内けいだいさんしょくの「フジ(ふじ)」がごろで、藤棚ふじだなしたはなやかであまかおりとうつくしさが印象いんしょうのこった。


 ❖ いけやすし山泉やましみずりゅういん 
曹洞宗そうとうしゅう」で本尊ほんぞんじゅういちめん観世音菩薩かんぜおんぼさつ」の「いけやすし山泉やましみずりゅういん」は、1438(えいとおる10)ねんに「諏訪すわ大社たいしゃ大祝だいしゅく後裔こうえい知久ともひさためぎょう」「知久ともひささとしはん父子ふし開基かいき、「ものがいせいおう禅師ぜんじ」をまねいて開山かいさんしたとつたえられる。
◇ ◇ ◇
1554(天文てんもん23)ねんの「武田たけだ信濃しなの侵攻しんこうにより「知久ともひさ居城いじろかみみねじょう」は落城らくじょう、「いずみりゅういん」も兵火へいかにより焼失しょうしつしたが、1602(慶長けいちょう6)ねん再建さいけん再興さいこうされたという。
◇ ◇ ◇
江戸えど時代じだい後期こうき楼門ろうもん建築けんちくとして「豊丘とよおかむら指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい」に指定していされているいずみりゅういん山門さんもん」は、1818(文政ぶんせいもとねんだい26せいかいよしえついむ和尚おしょうに、立川たちかわりゅう宮大工みやだいく立川たちかわかず四郎しろう(たてかわ わしろう)」弟子でし小松こまつまつ四郎しろう」が手掛てがけた入母屋いりもやさんあいださんの「はちきゃく楼門ろうもん形式けいしき」で、「はな」「にじはりとうには「ばく」「唐獅子からじし」「りゅう」「鳳凰ほうおう」「麒麟きりん」などの彫刻ちょうこくほどこされている。
◇ ◇ ◇
本堂ほんどう」は1770(明和めいわ7)ねん造営ぞうえいの「入母屋いりもや」「桟瓦葺かわらぶき」「ひらいれ」で、外壁がいへきは「真壁まかべづくり」「しろ漆喰しっくい仕上しあげ」、こしかべは「たて板張いたばり」だ。




新年しんねんおめでとうございます☺️☺️☺️今年ことしもよろしくおねがいいたします

2022-01-01 18:00:00 | 神社じんじゃ仏閣ぶっかく
昨年さくねんまつ初詣はつもうでへの準備じゅんびすすむ「諏訪すわ大社たいしゃよんしゃを、めぐりました。
諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろ本宮ほんぐう ぬさ拝殿はいでん
諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろぜんみや 本殿ほんでん

諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃあきみや 神楽かぐら殿どの
諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃ春宮とうぐう 神楽かぐら殿どの

諏訪すわ上社かみやしろ本宮もとみや(かみしゃ ほんみや)」と茅野ちの上社かみやしろぜんみや(かみしゃ まえみや)」、下諏訪しもすわまち下社しもしゃあきみや(しもしゃ あきみや)」、下諏訪しもすわまち下社しもしゃ春宮とうぐう(しもしゃ はるみや)」のよんヶ所かしょ境内けいだいをもち、軍神ぐんしん農耕のうこうしん狩猟しゅりょうしん「お諏訪すわさま/諏訪すわ大明神だいみょうじん」として信仰しんこうされる「諏訪すわ大社たいしゃ(すわたいしゃ)」は、全国ぜんこくいちまんしゃえるという「諏訪すわ神社じんじゃ」のそう本社ほんしゃだ。けん御名ぎょめいかたしん(たけみなかたのかみ)」とそのしん八坂はっさかがたなうれしん(やさかとめのかみ)」を主祭しゅさいしんとし、きゅう社格しゃかくかんぬさ大社たいしゃ」で神社じんじゃ本庁ほんちょうの「別表べっぴょう神社じんじゃ」だが、記録きろくしめされる「上社かみやしろ」「下社しもしゃ」の区分くわけは、1180(うけたまわ4)ねん初出しょしゅつだという。
◇ ◇ ◇
けん御名ぎょめいかたしん」は、「高天原たかまがはら(たかまがはら)」けい大和やまと朝廷ちょうていかみ々「天津てんしんしん(あまつかみ)」の主宰しゅさいしんてんあきら大神おおがみ(あまてらすおおみかみ)」にたいし、くに古称こしょう葦原よしわら中国ちゅうごく(あしはらのなかつくに)」けい土着どちゃくかみ々「国津くにつしん(くにつかみ)」の代表だいひょうてきかみ大国たいこく主神しゅしん(おおくにぬしのかみ)」の次子じしで、「高天原たかまがはら」から派遣はけんされて「くにゆずり」を承諾しょうだくさせた「たて雷神らいじん(たけみかづちのかみ)/たてかみなり男神おかみ(たけみかづちのおのかみ)」への抵抗ていこう発端ほったんに「しゅううみ(すわのうみ)」にのがれることになったとされる。
◇ ◇ ◇
一方いっぽうたて雷神らいじんたてかみなり男神おかみ」にすぐに服従ふくじゅうしたとわれるあにしん八重やえ事代ことしろ主神しゅしん(やえことしろぬしのかみ)」は「下社しもしゃ」で合祀ごうしされるが、大和やまと朝廷ちょうていとのえんふかく、むすめひめ蹈鞴たたら五十鈴いすずひめ(ひめたたらいすずひめ)」(「古事記こじき」では「うり多多たたりょう伊須いすあまりうり(ひめたたらいすけよりひめ)」)が初代しょだい皇后こうごう神武じんむ天皇てんのう岳父がくふとなり、皇室こうしつ守護神しゅごじんとしてまつられているという出雲いずも系譜けいふかみだ。
◇ ◇ ◇
国津くにつしん」の主宰しゅさいしん大国たいこく主神しゅしん次子じしけん御名ぎょめいかたしん」は、「たてかみなり男神おかみ」との「ちからくらべ」にやぶれて、「しゅううみ」にのがれたが、進出しんしゅつによる狩猟しゅりょうけい先住民せんじゅうみんぞくとのあらそいに勝利しょうりし、出雲いずもけい稲作いなさく民族みんぞくひきいるけん御名ぎょめいかたしん子孫しそん諏訪すわのちに『諏方すわ』)」が、「諏訪すわ大明神だいみょうじん」の「だい(よりしろ)」として現人神あらひとがみ地位ちい大祝だいしゅく(おおほうり)」にいて諏訪すわ地方ちほう君臨くんりんしたとされる。世襲せしゅうは1871(明治めいじ4)ねんの「太政官だじょうかん布告ふこく」による神職しんしょく世襲せしゅう制度せいど廃止はいしされるまでつづいたという。
◇ ◇ ◇
下社しもしゃ神官しんかん最高さいこう大祝だいしゅく」は、皇族こうぞく祖先そせんとする氏族しぞくすめらぎべつ(こうべつ)」の「国造くにのみやつこ(しなぬのくにのみやつこ)」後裔こうえいわれる「金刺かなざし(かなさし)」がつとめたが、「上社かみやしろ」と「下社しもしゃ」の対立たいりつつづき、戦国せんごく時代じだいの1518(えいただし15)ねん上社かみやしろだいしゅく」の「諏訪すわよりゆきまん(すわ よりみつ)」(1473/文明ぶんめい5ねん~1540/天文てんもん8ねん)によって、断絶だんぜついたったとつたわる。
◇ ◇ ◇
諏訪すわ大社たいしゃ」は「上社かみやしろぜんみや以外いがい神霊しんれい安置あんちする社殿しゃでん本殿ほんでん(ほんでん)」がなく、「ぬさ拝殿はいでん」と「かた拝殿はいでん」のみで、社殿しゃでん四隅よすみに「はしら」がつ「諏訪すわづくり」という独自どくじ様式ようしきで、「上社かみやしろ本宮ほんぐう」は「守屋山もりやさん」を神体しんたい、「下社しもしゃあきみや」は「くぬぎ」、「下社しもしゃ春宮とうぐう」は「すぎ」を神木しんぼくとしている。「本殿ほんでん」にあたる社殿しゃでんといわれるふたつの「宝殿ほうでん」の一方いっぽうおさめられた「神輿しんよ(みこし/しんよ)」は、6ねんごとに遷座せんざするという。
◇ ◇ ◇
なお、下社しもしゃ」の祭神さいじん半年はんとしごと遷座せんざされる。「あきみや」から「春宮とうぐう」へ遷座せんざする「遷座せんざさい(せんざさい)」は2がつ1にちに、「春宮とうぐう」から「あきみや」へ遷座せんざする「御舟みふねさい(おふねまつり)」は8がつ1にちおこなわれる。
諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろ本宮ほんぐう 勅願ちょくがん殿どの
諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろ本宮ほんぐう はいしょ
諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろ本宮ほんぐう ぬさ拝殿はいでん
 ❖ 諏訪すわ大社たいしゃ 上社かみやしろ本宮もとみや 
上社かみやしろ本宮ほんぐう」は守屋山もりやさん(もりやさん)」を神体しんたいとし、「ぬさ拝殿はいでん」と「かた拝殿はいでん」のみで「本殿ほんでん」がなく、社殿しゃでん四隅よすみに「はしら」がつ「諏訪すわづくり」という独自どくじ様式ようしきだが、1964(昭和しょうわ39)ねん指定していけた「長野ながのけん天然記念物てんねんきねんぶつ」の落葉樹らくようじゅ自然しぜんりんしゃくさむら」に相応ふさわしい質実しつじつ森厳しんげんおもむきをもって、その姿すがたせてくれる。
◇ ◇ ◇
はいしょ」は、1983(昭和しょうわ58)ねん12月26にちに、くにの「重要じゅうよう文化財ぶんかざい」に指定していされているが、一般いっぱん参詣さんけいしゃすすむことのできる最終さいしゅう社殿しゃでんで、ここから恒例こうれい祭典さいてん重要じゅうよう神事しんじである「ぬさ拝殿はいでん」への参拝さんぱいをおこなう
◇ ◇ ◇
現在げんざいの「ぬさ拝殿はいでん」は、1835(天保てんぽう6)ねん左右さゆうかた拝殿はいでん」「わきかた拝殿はいでん」とともに、宮大工みやだいく代目だいめ立川たちかわ四郎しろうとみあきら(たてかわ わしろう とみまさ)」(1782/天明てんめい2ねん~1856/安政あんせい3ねん)と地元じもと宮大工みやだいくげん左衛門さえもんしんなり」によって上棟じょうとうされたという。1983(昭和しょうわ58)ねん12月26にちに、くにの「重要じゅうよう文化財ぶんかざい」に指定していされている。
◇ ◇ ◇
神体しんたい守屋山もりやさん」にかっててられた「勅願ちょくがん殿どの(ちょくがんでん)」は、1690(元禄げんろく3)ねん建立こんりゅうとも、1847(ひろし4)ねん再建さいけんともいわれるが、2016(平成へいせい28)ねんくにの「重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい」をけた社殿しゃでんだ。「勅願ちょくがん」とは「勅命ちょくめいによる祈願きがん」「天皇てんのう祈願きがん」が本来ほんらい意味いみだが、ここ「諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろ本宮ほんぐう」では、ふるく「祈祷きとうしょ」としるされた祈祷きとうをおこなう場所ばしょで、「ぬさ拝殿はいでん」が「諏訪すわ大社たいしゃ」の恒例こうれい祭典さいてん重要じゅうよう神事しんじいわいおこなう場所ばしょであるのにたいし、「勅願ちょくがん殿どの」は個人こじん私事しじ祈祷きとうをおこなう場所ばしょだったという。
諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろぜんみや 御神燈ごしんとう
諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろぜんみや 拝殿はいでん
諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろぜんみや 拝殿はいでん
諏訪すわ大社たいしゃ上社かみやしろぜんみや ない御玉おたま殿どの
 ❖ 諏訪すわ大社たいしゃ 上社かみやしろぜんみや 
諏訪すわ大社たいしゃ 上社かみやしろぜんみや」は、主祭しゅさいしんの「けん御名ぎょめいかたしん」とそのしん八坂はっさかがたなうれしん」が、最初さいしょきょかまえた「『本宮ほんぐう以前いぜんにあったみや」で、諏訪すわ信仰しんこう発祥はっしょうつたえられている。
◇ ◇ ◇
 「諏訪すわ大社たいしゃ」のなか唯一ゆいいつ上社かみやしろぜんみや」だけがつ「本殿ほんでん」は、主祭しゅさいしんけん御名ぎょめいかたしん」とそのしん八坂はっさかがたなうれしん」がしずまりましますとつたえられる「かみりょう」をおくひかえる。「拝殿はいでん(はいでん)」は、1932(昭和しょうわ7)ねんに「伊勢神宮いせじんぐう」から下賜かしされたざい造営ぞうえいされたというが、質実しつじつ端厳たんげんな「上社かみやしろぜんみや」の社殿しゃでんにあって、いささかのはなかんじさせる社殿しゃでんだ。
◇ ◇ ◇
うち御玉おたま殿どの(うちみたまでん)」は、1932(昭和しょうわ7)ねん現在げんざい社殿しゃでん改築かいちくされるまで1585(天正てんしょう13)ねん造営ぞうえい社殿しゃでんで、諏訪すわ大明神だいみょうじん」のれいがやどるとする「神宝しんぽう」が安置あんちされていた上社かみやしろ」ではもっとふる建物たてものだったという。中世ちゅうせいまでつよ大力だいりき権力けんりょく君臨くんりん諏訪すわ地方ちほう支配しはいした神職しんしょく大祝だいしゅく」が、神事しんじにあたり「うち御玉おたま殿どの」をひらいて、神宝しんぽう弥栄やさかすず(やさかのすず)」「眞澄ますみかがみ(ますみのかがみ)」「くらくつわ(みくらくつわ)」を人々ひとびとしめし、現身うつせみの「諏訪すわ明神みょうじん」そのものとして神威しんい示威じいして、諏訪すわ明神みょうじん神体しんたいなくだいしゅくをもって神体しんたいをなす」とわしめたつたえられている。
諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃあきみや さざれせき
諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃあきみや 神楽かぐら殿どの
諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃあきみや 神楽かぐら殿どの
諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃあきみや ぬさ拝殿はいでん
諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃあきみや ぬさ拝殿はいでん
 ❖ 諏訪すわ大社たいしゃ 下社しもしゃあきみや春宮とうぐう 
JR中央ちゅうおう本線ほんせん下諏訪しもすわえき」から徒歩とほやく15ふん、「長野ながのけん下諏訪しもすわまち」のきゅう中山道なかせんどう」ときゅう甲州こうしゅう街道かいどう分岐ぶんきに、「下社しもしゃあきみや」はしずまりましましている。
◇ ◇ ◇
下社しもしゃあきみや」から徒歩とほやく20ふん西にしに「砥川とがわ(とがわ)」がながれる「下諏訪しもすわまち大門おおもん」で、「下社しもしゃ最初さいしょ遷座せんざとされるしずまるのが「下社しもしゃ春宮とうぐう」だ。
◇ ◇ ◇
神楽かぐら殿どの(かぐらでん)」はその名称めいしょうのとおり雅楽ががくまい奉納ほうのうするほか祈願きがんおこな建物たてものだ。「下社しもしゃあきみや」の「神楽かぐら殿どの」は、宮大工みやだいく立川たちかわかず四郎しろう代目だいめとみあきら」によって、1835(天保てんぽう6)ねん上棟じょうとうされ、1983(昭和しょうわ58)ねんくにの「重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していけている。一方いっぽう、「下社しもしゃ春宮とうぐう」の「神楽かぐら殿どの」は、天和てんわ年間ねんかん(1681~1684)の造営ぞうえいといわれるが、そのおさむ改築かいちくかえされ、1936(昭和しょうわ11)ねんだい改修かいしゅうされて現在げんざいいたっているという。同一どういつ図面ずめん建築けんちくされたというが、「下社しもしゃあきみや」よりぶりの建物たてもので、ほどこされている彫刻ちょうこくことなっている。
◇ ◇ ◇
ぬさ拝殿はいでんは、地元じもと宮大工みやだいく立川たちかわりゅう初代しょだい立川たちかわかず四郎しろう(たてかわわしろう)とみとう(とみむね)」(1744/のべとおる元年がんねん~1807/文化ぶんか4ねん)が「あきみや」を、大隅おおすみりゅう柴宮しばみや伊藤いとうちょう左衛門さえもんのりじゅう(のりしげ)」(1747/のべとおる4ねん~1800/寛政かんせい12ねん)が「春宮とうぐう」を、おな図面ずめんって、わざきそったといわれる。
◇ ◇ ◇
その「ぬさ拝殿はいでん」は、参詣さんけいしゃ神前しんぜん奉献ほうけんする「幣帛へいはく(へいはく)」をささげる社殿しゃでんぬさ殿どの(へいでん)」と、拝礼はいれいおこなうための社殿しゃでん拝殿はいでん」が、一棟ひとむね楼門ろうもん形式けいしきじゅう楼門ろうもんづくり」になった「ぬさ拝殿はいでん」を中央ちゅうおうに、「みぎへん拝殿はいでん」「ひだりへん拝殿はいでん」をならべた祭祀さいし拝礼はいれいのための「下社しもしゃ独自どくじ様式ようしき建物たてものだ。「下社しもしゃあきみや」と「下社しもしゃ春宮とうぐう」の「ぬさ拝殿はいでん」は、いずれも1983(昭和しょうわ58)ねんに、くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。
諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃ春宮とうぐう 大鳥居おおとりい
諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃ春宮とうぐう 神楽かぐら殿どの
諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃ春宮とうぐう ぬさ拝殿はいでん
諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃ春宮とうぐう ぬさ拝殿はいでん

あたま御社おんしゃ宮司ぐうじ総社そうしゃ🙂😐😐いし樹木じゅもくだいとする「ミシャクジ(ひだりこうしん御社おんしゃ宮司ぐうじかみ」をまつしゃ

2021-12-31 16:00:00 | 神社じんじゃ仏閣ぶっかく
しずかに新年しんねん年末ねんまつの「あたま御社おんしゃ宮司ぐうじ総社そうしゃ」をたずねた。


 ❖ あたま御社おんしゃ宮司ぐうじ総社そうじゃ 
茅野ちの宮川みやがわの「かみ長官ちょうかん(じんちょうかん)屋敷やしき西南せいなん上段じょうだん位置いちし、しずかに新年しんねんつ「あたま御社おんしゃ宮司ぐうじ総社そうしゃ」は、茅野ちの指定してい天然記念物てんねんきねんぶつの「しゃくさむら」にかこまれて、「ミシャクジ(ひだりこうしん御社おんしゃ宮司ぐうじかみ」をまつしゃだ。
◇ ◇ ◇
「ミシャクジしん」はいし樹木じゅもくを、神霊しんれいあらわれるとき宿やどる「だい(よりしろ)」とするかみで、やがてへび姿すがたをするかみにもなったとわれているが、縄文じょうもん時代じだい遺跡いせきから「ミシャクジしん」の神体しんたいだいとされるものが出土しゅつどすることから、信仰しんこう縄文じょうもん時代じだいから存在そんざいし、ご当地とうちでも先住民せんじゅうみんぞく信仰しんこうかみだとかんがえられている。
◇ ◇ ◇
近接きんせつ諏訪すわ大社たいしゃ」は、「けん御名ぎょめいかたしん(たけみなかたのかみ)」を祭神さいじんとするが、本来ほんらいまつかみ土着どちゃくしん「ミシャクジしん」だとも、「ミシャクジしん」とのちから進出しんしゅつした出雲いずもけい稲作いなさく民族みんぞくの「けん御名ぎょめいかたしん」が習合しゅうごうして同一どういつされるようになったともわれている
◇ ◇ ◇
共棲きょうせいみちえらんだ先住せんじゅう矢神やがみ(もりやのかみ/もりやしん)子孫しそんの「守矢もりや」は、「けん御名ぎょめいかたしん子孫しそん諏訪すわのちに『諏方すわ』)」の「大祝だいしゅく(おおほうり)」につかえる「神長かみながのちに『かみ長官ちょうかん』)」として祭祀さいし仕切しきったが、その中核ちゅうかくに「ミシャクジしゃ」が存在そんざいしてたという。
◇ ◇ ◇
このしゃくさむらかこまれたしゃかい時間じかんは、宗教しゅうきょう権力けんりょくとして人々ひとびと支配しはいする以前いぜん原始げんし信仰しんこう神韻しんいんかんるよい機会きかいになる。



 ❖ かみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかん 
かみ長官ちょうかん守矢もりや史料しりょうかん」は「かみ長官ちょうかん守矢もりや敷地しきちないち、鎌倉かまくら時代じだいから守矢もりやつたえてきたけんたから155てんふくむ1618てん古文書こもんじょ守矢もりや文書ぶんしょ」を保管ほかん公開こうかいしている。
◇ ◇ ◇
守矢もりや」の由緒ゆいしょについては、「古事記こじき説話せつわくにゆずり(くにゆずり)」までさかのぼる。「大国たいこく主神しゅしん(おおくにぬしのかみ)」次子じしけん御名ぎょめいかたしん(たけみなかたのかみ)」ひきいる出雲いずもけい稲作いなさく民族みんぞく諏訪すわへの進出しんしゅつで、「諏訪すわ大社たいしゃ」ははじまったとつたえられるが、狩猟しゅりょうけい先住民せんじゅうみんぞく矢神やがみ子孫しそん守矢もりや」は共棲きょうせい選択せんたくして、現人神あらひとがみ地位ちい大祝だいしゅく(おおほうり)」にいて君臨くんりんした「けん御名ぎょめいかたしん子孫しそん諏訪すわのちに『諏方すわ』)」につかえたという。
◇ ◇ ◇
縄文じょうもん時代じだいから諏訪すわ地方ちほう根付ねついていた信仰しんこうにおける精霊せいれい「ミシャクジ(ひだりこうしん御社おんしゃ宮司ぐうじかみ」を中心ちゅうしんとした祭祀さいし仕切しきって、1871(明治めいじ4)ねん太政官だじょうかん布告ふこく」による神職しんしょく世襲せしゅう制度せいど廃止はいしされるまで、「かみ長官ちょうかん筆頭ひっとう神官しんかん)」として世襲せしゅうつづけたといわれる。

宝積ほうしゃくやま どういん こうぜんてら🙂😐😐はる鼓動こどうがようやくはじまった信州しんしゅう山寺やまでら

2021-03-21 16:31:01 | 神社じんじゃ仏閣ぶっかく


はるおそく、いまうめ開花かいかのない信州しんしゅう山寺やまでら宝積ほうしゃくやま(ほうしゃくざん)どういん こうぜんてら」に、ようやくはる鼓動こどうはじまった。

森々しんしんとして聳立しょうりつするすぎ古木ふるきかこまれ、高遠こうえん石工せっこう守屋もりや貞治さだはる(1765/明和めいわ2ねん~1832/天保てんぽう3ねん)」が文化ぶんか年間ねんかん(1804~1818)に制作せいさくしたという坐高ざこう1.38mのしん地蔵じぞうと、その周辺しゅうへんならさんじゅうたい地蔵じぞう、そしてげられた小石こいしによって、現世げんせいのなおてぬパトスがおさまる空間くうかんとなって存在そんざいする「さい河原かわら」にも、まもなくはるがやってくる。