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カナダ太平洋鉄道 - Wikipedia

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう

カナダの貨物かもつ鉄道てつどう会社かいしゃいちきゅう鉄道てつどう

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう(カナダたいへいようてつどう、英語えいご: Canadian Pacific Railway報告ほうこく記号きごうはCPR)、あるいはカナディアン・パシフィック鉄道てつどうは、カナダ存在そんざいした貨物かもつ鉄道てつどう会社かいしゃ一級いっきゅう鉄道てつどう)である。1968ねんから1996ねんまではCP鉄道てつどうCP Rail報告ほうこく記号きごうはCP)という名前なまえであった。

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう
Canadian Pacific Railway

ロゴ

路線地図
現在げんざいのカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう路線ろせんもう
報告ほうこく記号きごう CP
路線ろせん範囲はんい カナダ・アメリカ( シカゴデトロイトミネアポリスニューヨーク
運行うんこう 1881ねん–2023ねん
後継こうけい CPKC(en:CPKC)
軌間きかん 1,435 mm (4 ft 8+12 in)
本社ほんしゃ カナダの旗 カナダ
アルバータ州の旗 アルバータしゅうカルガリー
公式こうしきサイト www.cpr.ca
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ひがしきの貨物かもつ列車れっしゃロジャーズとうげストーニー・クリークきょう英語えいごばんわたる、デイビッド・スペンサーによる1988ねん写真しゃしん
アルバータしゅうバンフえき

2001ねん企業きぎょう再編さいへんにより、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうしゃ(Canadian Pacific Railway Limited, (TSXCPNYSECP)の傘下さんか運営うんえいされるようになっている[1]本社ほんしゃアルバータしゅうカルガリーかれ、およそ14,000マイルやく22,500キロメートル)におよぶ路線ろせんもうをカナダちゅう、そしてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくうちゆう[1]モントリオールからバンクーバーまで、そしてきたエドモントンまでたっしている。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくないのいくつかの主要しゅよう都市としにもたっしており、ミネアポリスミルウォーキーデトロイトシカゴニューヨークなどに路線ろせんびている。

トロント証券しょうけん取引とりひきしょニューヨーク証券しょうけん取引とりひきしょ上場じょうじょうしており、ティッカーシンボルとしてCPが使つかわれている。

概要がいよう

編集へんしゅう

1871ねんブリティッシュコロンビアしゅう自治領じちりょうカナダ英語えいごばん加盟かめいしたさいしゅうがわ要求ようきゅうが、太平洋たいへいようがんのこのしゅうまで鉄道てつどう延伸えんしんすることだった。連邦れんぽう政府せいふ公約こうやく実現じつげんするために、それ以前いぜんからオタワ峡谷きょうこく英語えいごばんジョージアわん地域ちいき建設けんせつされていたいくつかの路線ろせんむすびながら、1881ねんから1885ねんにかけて東部とうぶカナダとブリティッシュコロンビアしゅうあいだ大陸たいりく横断おうだん鉄道てつどう建設けんせつした。西部せいぶカナダの開拓かいたくのための物資ぶっし輸送ゆそうおもであったとはいえ、周辺しゅうへん地域ちいきにとってながあいだ唯一ゆいいつ実用じつようてき長距離ちょうきょり旅客りょかく輸送ゆそう手段しゅだんであった。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはカナダで最大さいだいかつ最強さいきょう国策こくさく企業きぎょうとなり、1975ねんごろまでその地位ちい保持ほじしていた[2]。カナダの象徴しょうちょうの1つであり、またよくはたら性格せいかく会社かいしゃ性質せいしつあらわしているとかんがえられたことから、ビーバー会社かいしゃのロゴマークに採用さいようされている。

道路どうろもう航空こうくう路線ろせん発展はってんけて、1978ねんからVIA鉄道てつどう旅客りょかく輸送ゆそうぎがおこなわれ、1986ねんおも旅客りょかく輸送ゆそう廃止はいしとなった。2009ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくダコタ・ミネソタ・アンド・イースタン鉄道てつどう英語えいごばんアイオワ・シカゴ・アンド・イースタン鉄道てつどう英語えいごばんの2しゃ買収ばいしゅうした。このうち後者こうしゃ路線ろせんはある時期じきにはカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう子会社こがいしゃスー・ライン鉄道てつどうおよびその前身ぜんしんミルウォーキー鉄道てつどう路線ろせんであったことがあった。これら2しゃ路線ろせんもうにより、ノースダコタしゅうサウスダコタしゅうミネソタしゅうウィスコンシンしゅうネブラスカしゅうアイオワしゅう路線ろせんび、さらにみじか路線ろせんミズーリしゅうカンザスシティおよびイリノイしゅうシカゴにもつながり、また当局とうきょくからワイオミングしゅうパウダーかわ盆地ぼんち英語えいごばんへの路線ろせん建設けんせつする許可きょかている。

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう創設そうせつは、もともといくつかの理由りゆうわせにより、保守党ほしゅとう政権せいけんジョン・A・マクドナルド首相しゅしょうによってまれたものであった。ブリティッシュコロンビアは、自治領じちりょうカナダに加盟かめいする条件じょうけんとして東部とうぶむす交通こうつう機関きかん要求ようきゅうした(当初とうしょ馬車ばしゃとお道路どうろもとめていた)[3]。しかし政府せいふは、1871ねん7がつ20日はつかから起算きさんして10ねん以内いないに、太平洋たいへいよう沿岸えんがん東部とうぶもろしゅうむす鉄道てつどう建設けんせつするという提案ていあんおこなった。マクドナルドは、大陸たいりく全体ぜんたいにまたがるカナダを単一たんいつ国家こっかとして成立せいりつさせるためには、鉄道てつどう建設けんせつ不可欠ふかけつなものであるとみなしていた。さらにケベックしゅうオンタリオしゅう製造せいぞうぎょうは、カナダ西部せいぶ原材料げんざいりょう市場いちばへのアクセスを必要ひつようとしていた。

 
ジョン・A・マクドナルド

その建設けんせつたいする最初さいしょ障害しょうがいは、政治せいじてきなものであった。鉄道てつどう建設けんせつする合理ごうりてき経路けいろは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく中西部ちゅうせいぶ、そしてシカゴをとおるものであった。これにくわえて、カナディアン・ロッキー横断おうだんする鉄道てつどう建設けんせつむずかしさがあり、完全かんぜんにカナダ領内りょうないとお経路けいろでは不毛ふもうカナダだてじょうやオンタリオ北部ほくぶ湿地しっちなどけわしい土地とちやく1,600キロメートルにわたって通過つうかする必要ひつようがあった。この経路けいろでの建設けんせつ確実かくじつにするために、政府せいふ西部せいぶにおける膨大ぼうだい土地とち供与きょうよふくめ、莫大ばくだい褒賞ほうしょう提示ていじした[よう出典しゅってん]

1873ねんにマクドナルド首相しゅしょう高位こうい政治せいじたちは、賄賂わいろけて(パシフィック・スキャンダル英語えいごばん)、アメリカのノーザン・パシフィック鉄道てつどうとつながりがあるとられていたデービッド・マクファーソン英語えいごばんのインターオーシャン鉄道てつどう会社かいしゃ (Inter-Ocean Railway Company) ではなく、ヒュー・アラン英語えいごばんのカナダ・パシフィック鉄道てつどう会社かいしゃCanada Pacific Railway Company現在げんざいのカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうとは関係かんけいがない)にたいして政府せいふ契約けいやくあたえた。あたらしく就任しゅうにんした、カナダ自由党じゆうとうアレキサンダー・マッケンジー首相しゅしょうは、サンドフォード・フレミングひきいる公共こうきょう事業じぎょうしょう監督かんとくで、公共こうきょう事業じぎょうとしてこの鉄道てつどうかく区間くかん建設けんせつするようにめいじた。建設けんせつ初期しょきにはこの未踏みとう大地だいちにいくつもの経路けいろ測量そくりょうおこなわれ、つづけて決定けっていされた経路けいろ沿って電信でんしんせん建設けんせつされた[4]スペリオルからウィニペグまでのサンダーベイ区間くかんは1875ねん着工ちゃっこうされた。1880ねんまでに、おも厄介やっかいなカナダだてじょう区間くかんにおよそ700マイル(1,120キロメートル)の線路せんろがほぼ完成かんせいしていたが、このうち300マイル(480キロメートル)の区間くかんのみ列車れっしゃ運行うんこうされていた[5]

 
カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう機関きかんしゃ従業じゅうぎょういん

1878ねん10がつ16にちにマクドナルドが政権せいけんかえくと、さらに積極せっきょくてき建設けんせつ方針ほうしん採用さいようされた。マクドナルドは、ポートムーディ大陸たいりく横断おうだん鉄道てつどう終点しゅうてんとなると確約かくやくし、ポートムーディとカムループスあいだでは、フレーザーがわトンプソンかわ英語えいごばん沿って鉄道てつどう建設けんせつすると表明ひょうめいした。1879ねん連邦れんぽう政府せいふはロンドンで債券さいけん発行はっこうし、ブリティッシュコロンビアしゅうイェール英語えいごばんからカムループス英語えいごばんめんしたサヴォナズフェリー英語えいごばんまでの206キロメートルの区間くかん鉄道てつどう建設けんせつ入札にゅうさつにかけた。アンドリュー・オンダードンク英語えいごばんがこの契約けいやくり、1880ねん5がつ15にち着工ちゃっこうした。この区間くかん完成かんせい、オンダードンクはイェールとポートムーディのあいだ、そしてサヴォナズフェリーとイーグルとうげ英語えいごばんまでの区間くかん発注はっちゅうけた[よう出典しゅってん]

1880ねん10がつ21にち、ヒュー・アランとは無関係むかんけいあたらしい業者ぎょうしゃがマクドナルド政権せいけん契約けいやくむすび、フレミングは解任かいにんされた。かれらは、政府せいふからの2500まんドル(現代げんだいの6おく2500まんカナダドルに相当そうとうする)の信用しんよう供与きょうよと2500まんエーカー(10まん平方へいほうキロメートル)の土地とち供与きょうよえに鉄道てつどう建設けんせつすることで合意ごういした。政府せいふはこのあたらしい会社かいしゃに、政府せいふ所有しょゆうですでに建設けんせつされた鉄道てつどう区間くかん移管いかんしたが、これらの区間くかんにはすでにすくなくとも2500まんドルがついやされていた。しかしロッキー山脈さんみゃく区間くかん推定すいてい建設けんせつだけでも6000まんドルをえていた[6]政府せいふ測量そくりょう費用ひよう負担ふたんしたうえで、会社かいしゃ資産しさんぜい支払しはらいを20年間ねんかん免除めんじょした。このモントリオールを本社ほんしゃとする会社かいしゃ公式こうしきには5にん代表だいひょうしゃ構成こうせいされていた。ジョージ・スティーブン英語えいごばんジェームズ・ジェローム・ヒルダンカン・マッキンタイヤ英語えいごばんリチャード・アンガス英語えいごばんジョン・スチュワート・ケネディ英語えいごばんである。ドナルド・スミス英語えいごばんノーマン・キットソン英語えいごばん2人ふたり非公式ひこうしきかつ暗黙あんもく協力きょうりょくしゃであるが、重要じゅうよう経済けいざいてき利害りがいゆうしていた。1881ねん2がつ15にちにこの契約けいやく承認しょうにんする法律ほうりつ国王こくおう勅許ちょっきょて、翌日よくじつカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう会社かいしゃ公式こうしき設立せつりつされた[7]提案ていあんされていた事業じぎょうたいして政府せいふはあまりにおおきな補助ほじょあたえたと非難ひなんするものもいるが[だれ?]、これは確実かくじつ事業じぎょうおこなうリスクと事業じぎょう後戻あともどりさせない保証ほしょう内包ないほうするためであった。また、鉄道てつどう路線ろせん私的してき事業じぎょうおこなうのであればもっとのち建設けんせつするのが最適さいてきであるのに、予想よそうされる輸送ゆそう需要じゅよう運行うんこう費用ひよう回収かいしゅうできないような直近ちょっきん建設けんせつする必要ひつようがあることを補償ほしょうするためにも、巨大きょだい補助ほじょ必要ひつようであった[8]

1881ねんから1885ねんにかけての鉄道てつどう建設けんせつ

編集へんしゅう
 
したフレイザー峡谷きょうこく英語えいごばん線路せんろ敷設ふせつするカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう従業じゅうぎょういん、1881ねん

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう西にしへの延長えんちょう工事こうじを、以前いぜんはカランダー・ステーションとばれていた、オンタリオしゅうボンフィールド英語えいごばんから開始かいしし、ここで設置せっちされた枕木まくらぎ最初さいしょ犬釘いぬくぎまれた。ボンフィールドは、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう最初さいしょ犬釘いぬくぎたれた地点ちてんとして、2002ねんにカナダ鉄道てつどう殿堂でんどう認定にんていされた。この地点ちてんは、カナダ・セントラル鉄道てつどう英語えいごばん建設けんせつわった場所ばしょであった[9]。カナダ・セントラル鉄道てつどうはダンカン・マッキンタイヤの所有しょゆうで、この会社かいしゃをカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう合併がっぺいさせ、あたらしく設立せつりつされたカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう経営けいえいじん1人ひとりとなった。カナダ・セントラル鉄道てつどうはブロックビルから建設けんせつ開始かいししてペンブロークへ線路せんろばした。そこからオタワがわ沿って西にし線路せんろばし、コブデン、ドゥ=リヴィエールといった場所ばしょとおり、マタワ川たわがわとオタワがわ合流ごうりゅうするマタワへ到達とうたつした。そこから山野さんや横断おうだんしてボンフィールドへと到達とうたつした。マッキンタイヤとその契約けいやくしゃであるジェームズ・ワーシントンがカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう延長えんちょう主導しゅどうした。かれは1ねんほどカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはたらいたが、その会社かいしゃはなれた。マッキンタイヤは、のちにノースベイとなるまちこしたジョン・ファーガソンのおじであり、ファーガソンはのちにこのまちでもっともゆたかな住民じゅうみんとなり、4つづけて市長しちょうつとめることになった[10]

 
カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう測量そくりょうたい、1872ねん

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは、10ねんわた調査ちょうさすえにサンドフォード・フレミングが提案ていあんした、ノースサスカチュワンがわ峡谷きょうこく肥沃ひよく一帯いったいとおりロッキー山脈さんみゃくイエローヘッドとうげ英語えいごばんえる経路けいろるとかんがえられていた。しかしカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはこの計画けいかくをすぐに破棄はきし、もっとみなみ不毛ふもうサスカチュワンしゅうパリサーズ・トライアングル英語えいごばんとおり、キッキングホースとうげ英語えいごばんえてフィールドヒル英語えいごばんロッキー山脈さんみゃく峡谷きょうこく英語えいごばんへとくだっていく経路けいろえらんだ。この経路けいろはより直線ちょくせんてきでアメリカとの国境こっきょうちかく、アメリカがわ鉄道てつどうがカナダの輸送ゆそう市場いちば侵害しんがいしてくるのをふせぎやすかった。しかし、この経路けいろには欠点けってんもいくつかあった[よう出典しゅってん]

この結果けっか、ブリティッシュコロンビアしゅうにおいてセルカーク山脈さんみゃく英語えいごばん横断おうだんする経路けいろ見出みいださなければならなくなったが、この時点じてんではそうした経路けいろ本当ほんとう存在そんざいしているかどうかもられていなかった。この経路けいろ探索たんさく仕事しごとは、アルバート・ロジャーズ英語えいごばん大佐たいさとしてられる測量そくりょうてられた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうかれ報酬ほうしゅうとして5,000ドルの小切手こぎってと、発見はっけんしたとうげかれにちなんで名付なづけることを約束やくそくした。かれ自分じぶん不滅ふめつのものとするべく、経路けいろ発見はっけん強迫きょうはく観念かんねんかんじるようになった。1881ねん4がつとうげ発見はっけん[11][12]前言ぜんげんどおりカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはここをロジャーズとうげ命名めいめいし、かれ小切手こぎってあたえた。しかしかれ当初とうしょ小切手こぎって現金げんきんをせず、自分じぶんはこの仕事しごとかねのためにしたわけではないとって、小切手こぎってがくれてかざっていた。のち記念きねん名前なまえった腕時計うでどけいをもらえるという約束やくそくけて、この小切手こぎって現金げんきんすることになった[よう出典しゅってん]

もう1つの障害しょうがいであったのが、提案ていあんされた経路けいろはアルバータしゅうにおいて、ファースト・ネーション先住民せんじゅうみん)であるブラックフットぞく支配しはいする土地とち通過つうかしなければならないということである。この問題もんだいは、宣教師せんきょうしアルバート・ラコーム英語えいごばんがブラックフットぞく族長ぞくちょうクロウフット英語えいごばんを、鉄道てつどう建設けんせつけられないと説得せっとくしたことで克服こくふくされた。鉄道てつどう建設けんせつ同意どういした見返みかえりとして、クロウフットは生涯しょうがいカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう乗車じょうしゃできるパスをあたえられた。この経路けいろえらんださらなる結果けっかとしては、フレミングが提案ていあんした経路けいろことなり、鉄道てつどう沿線えんせんはあまりに不毛ふもう農業のうぎょうはとても成功せいこうしそうにないということが証明しょうめいされたということであった。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは、たまたまとてもあめおお時期じきにこのプレーリー横断おうだんし、この地方ちほうはとても肥沃ひよくであると報告ほうこくした、博物学はくぶつがくしゃジョン・マカウンをあまりに信頼しんらいしすぎていたのかもしれなかった[13]

この経路けいろ最大さいだい欠点けってんは、アルバータしゅうとブリティッシュコロンビアしゅうしゅうさかいであり、大陸たいりく分水ぶんすいかいでもあるキッキングホースとうげであった。とうげ頂点ちょうてん標高ひょうこう1,625メートルの地点ちてんから西にし最初さいしょの6キロメートルで、キッキングホースがわ英語えいごばんは350メートルも標高ひょうこうげる。資金しきんとぼしいカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは1884ねんとうげ到達とうたつすると、このきゅう勾配こうばいさいして45パーミルという非常ひじょう勾配こうばいのきつい線路せんろを7キロメートルにわたって建設けんせつしなければならなかった。これは当時とうじ鉄道てつどう推奨すいしょうされていた最大さいだい勾配こうばいの4ばいもきつい勾配こうばいであり、現代げんだい鉄道てつどうであっても20パーミルをえることは滅多めったにない。しかしこの経路けいろは、イエローヘッドとうげ経由けいゆよりも直線ちょくせんてきであり、旅客りょかく列車れっしゃ貨物かもつ列車れっしゃ所要しょよう時間じかん数時間すうじかん短縮たんしゅくできるものであった。ここがビッグヒル英語えいごばんばれる区間くかんであった。安全あんぜんのための分岐ぶんきなんしょかに設置せっちされ、とうげくだ列車れっしゃ速度そくど制限せいげんは10 km/hとされ、特別とくべつ機関きかんしゃ使用しようされた。こうした手段しゅだんこうじたにもかかわらず、工事こうじ請負うけおい業者ぎょうしゃ所有しょゆうしていた最初さいしょにこの区間くかん通過つうかした機関きかんしゃふくめ、この勾配こうばいくだ列車れっしゃなんけんかの重大じゅうだい暴走ぼうそう事故じこきた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう当局とうきょくしゃは、これは一時いちじてき急場きゅうばしのぎであるとしていたが、この状態じょうたいは20世紀せいき初頭しょとうにスパイラルトンネルが完成かんせいするまで25ねんにわたってつづいた[よう出典しゅってん]

 
ウィリアム・ヴァン・ホーン英語えいごばん

1881ねん時点じてんでは建設けんせつ進捗しんちょくはあまりにおそいペースであり、このため経営けいえいじんは1882ねんに、たか給料きゅうりょうとこうしたむずかしい鉄道てつどうプロジェクトに挑戦ちょうせんという誘因ゆういん提示ていじして、有名ゆうめい鉄道てつどう経営けいえいしゃウィリアム・ヴァン・ホーン英語えいごばんやとうことにした。ヴァン・ホーンは、1882ねんちゅうには本線ほんせんを800キロメートルにわたって建設けんせつするだろうとべた。洪水こうずいのために建設けんせつ開始かいしおくれたものの、実際じっさいに672キロメートルの本線ほんせんくわえて、すうおおくの側線そくせん支線しせん実際じっさいにそのとし建設けんせつされた。フォートウィリアム英語えいごばんから西にしへのサンダーベイ支線しせん政府せいふ鉄道てつどう運河うんがしょうにより1882ねん6がつ完成かんせいし、1883ねん5がつ会社かいしゃわたされ、これによりカナダの歴史れきしじょうはじめてカナダ領内りょうないのみのみずうみ鉄道てつどういで東部とうぶカナダからウィニペグまでけるようになった。1883ねんまつには、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはロッキー山脈さんみゃく到達とうたつし、キッキングホースとうげの8キロメートルひがしまでたどりついた。1884ねんと1885ねん建設けんせつは、ブリティッシュコロンビアしゅうない山岳さんがく地帯ちたいスペリオル北岸ほくがんついやされた。

 
カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうのトレッスルきょう

なんせんにんものナヴィ英語えいごばん土木どぼく工事こうじたずさわる作業さぎょういん)たちが鉄道てつどう建設けんせつはたらいた。ブリティッシュコロンビアしゅうでは、政府せいふ契約けいやく業者ぎょうしゃ苦力くーりー(クーリー)とばれる中国ちゅうごくからの労働ろうどうしゃやとった。ナヴィは1にちたり1ドルから2ドル50セント程度ていど給与きゅうよっていたが、食事しょくじ衣服いふく勤務きんむまでの移動いどう費用ひよう通信つうしん医療いりょうなどの費用ひよう自己じこ負担ふたんであった。2かげつおよきびしい労働ろうどうても、実際じっさいには16ドル程度ていどにしかならなかった。ブリティッシュコロンビアしゅう中国人ちゅうごくじん労働ろうどうしゃは1にちたり75セントから1ドル25セント程度ていどしからず、支出ししゅつ別途べっと負担ふたんしなければならなかったが、のこりのものはほとんど郷里きょうり送金そうきんするためにのこしていた。かれらは岩盤がんばんとおしてトンネルを建設けんせつするために爆発ばくはつぶつあつかうなど、もっとも危険きけん種類しゅるい建設けんせつ作業さぎょう従事じゅうじしていた[14]建設けんせつ作業さぎょうくなったひと遺族いぞくには一切いっさい補償ほしょうがないばかりか、死亡しぼう通知つうちすらおくられないこともあった。中国人ちゅうごくじん契約けいやくむすんだ業者ぎょうしゃ自身じしん責任せきにんとして中国ちゅうごくへの帰還きかん約束やくそくしていたにもかかわらず、建設けんせつ作業さぎょうびたなかには中国ちゅうごくかえるのに必要ひつようかねっていないものおおかった[15]おおくのものたちは人里ひとざとをかけはなれた土地とちで、しばしば貧困ひんこんのうちに年月としつきごさなければならなかった。中国人ちゅうごくじんたちはとてもよくはたらき、鉄道てつどう西側にしがわ区間くかん建設けんせつするのに重要じゅうよう役割やくわりたし、わずか12さい少年しょうねんすら給仕きゅうじとしてはたらいていた。2006ねんにカナダ政府せいふは、中国ちゅうごくけいカナダじんたちにたいして、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう建設けんせつちゅうおよび建設けんせつ中国人ちゅうごくじんたいするあつかいを公式こうしき謝罪しゃざいした[16]

1883ねんには鉄道てつどう建設けんせつ急速きゅうそくすすんでいたが、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう資金しきん使つかたしてしまう危機ききにあった。これにたいして政府せいふは1884ねん1がつ31にち鉄道てつどう救済きゅうさいほう成立せいりつさせ、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうにさらに2250まんドルを融資ゆうしした。この法律ほうりつは1884ねん3がつ6にち国王こくおう裁可さいか[17]

 
のちにストラスコーナ男爵だんしゃくとなるドナルド・スミス英語えいごばんが1885ねん11月7にちクラゲラチー英語えいごばんにおいてカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう最後さいご犬釘いぬくぎんだ。大陸たいりく横断おうだん鉄道てつどう完成かんせいが、ブリティッシュコロンビアしゅう連邦れんぽう加盟かめい条件じょうけんであった

1885ねん3がつに、ノースウェストじゅんしゅうのサスカチュワン地区ちく現在げんざいサスカチュワンしゅう)においてノースウェストの反乱はんらん英語えいごばん勃発ぼっぱつした。当時とうじオタワにいたヴァン・ホーンは、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはサスカチュワンしゅうカペル英語えいごばんまで10日とおか兵員へいいん輸送ゆそうできると政府せいふ提案ていあんした。線路せんろ一部いちぶ区間くかん未完成みかんせいであり、あるいはそれ以前いぜん使つかわれたことがなかったが、ウィニペグまでの輸送ゆそうは9にち完了かんりょうし、反乱はんらんすみやかに鎮圧ちんあつされた。おそらく、政府せいふがこの輸送ゆそうおんけたためもあって、結果けっかてきにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう負債ふさいなおして、さらに500まんドルの融資ゆうしおこなった。この資金しきんはカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうにとってどうしても必要ひつようとされているものであった。しかし、この政府せいふ融資ゆうしはのちに議論ぎろんまねくことになる。ヴァン・ホーンによるカペルまでの兵員へいいん輸送ゆそう貢献こうけんにもかかわらず、政府せいふはカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうへの支援しえんあたえるのをまだおくらせていた。これはジョン・マクドナルドがジョージ・スティーブンにたいしてさらなる利益りえき供与きょうよするように圧力あつりょくをかけていたためであった。ステーブン自身じしんのちに、1881ねんから1886ねんまでのあいだ政府せいふからの支援しえん獲得かくとくするために100まんドルを使つかったことをみとめている。この資金しきんはマクドナルド夫人ふじんに40,000ポンドのネックレスをおくるためなど、政府せいふ高官こうかんへのおおくの贈与ぞうよのために使つかわれた[18]

1885ねん11月7にちに、当初とうしょ約束やくそく達成たっせいして、ブリティッシュコロンビアしゅうクラゲラチー英語えいごばんにおいて最後さいご犬釘いぬくぎ英語えいごばんまれた。それより4にちまえに、スペリオル区間くかん最後さいご犬釘いぬくぎジャックフィッシュ英語えいごばんのすぐ西側にしがわまれた。鉄道てつどうは、当初とうしょ期限きげんの1881ねんに4ねんおくれて完成かんせいしたが、しかし1881ねんにマクドナルドがさい設定せっていしたあたらしい1891ねん期限きげんよりは5ねんはや完成かんせいした。遅延ちえんやスキャンダルに見舞みまわれたとはいえ、人口じんこうすくなく資本しほんとぼしくけわしい地形ちけいかかえたくにで、こうしただい規模きぼプロジェクトを成功裏せいこうり完成かんせいさせたのは、印象いんしょうてき技術ぎじゅつ業績ぎょうせき政治せいじてき意思いしによるものであった。この当時とうじとしては最大さいだい規模きぼ鉄道てつどうであった。五大ごだいみずうみ地帯ちたい建設けんせつだけで12,000にん労働ろうどうしゃと5,000とううま使つかわれた[19]

一方いっぽう東部とうぶカナダでは、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうケベック・シティーからオンタリオしゅうセントトーマスまで到達とうたつする路線ろせんもうを1885ねんまでに完成かんせいさせており、またターミナルあいだむすぶために五大ごだいみずうみふね就航しゅうこうさせていた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう関連かんれんするオンタリオ・アンド・ケベック鉄道てつどう英語えいごばんつうじていくつかの鉄道てつどう買収ばいしゅうまたは長期ちょうきけをおこなった。オンタリオ・アンド・ケベック鉄道てつどうはこれらの取得しゅとく路線ろせん連絡れんらくするため、オンタリオしゅうパースからトロントまでの路線ろせんを1884ねん5がつ5にち開通かいつうさせた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは1884ねん1がつ4にちにオンタリオ・アンド・ケベック鉄道てつどうを999年間ねんかんけた。1895ねんにはトロント・ハミルトン・アンド・バッファロー鉄道てつどう英語えいごばん少数しょうすうかぶり、ニューヨークやアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく北東ほくとうへとつうじるようになった[20]

1886ねんから1900ねん

編集へんしゅう

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう最後さいご犬釘いぬくぎ英語えいごばんは、重役じゅうやく1人ひとりであるドナルド・スミスによって1885ねん11月7にちまれたが、経費けいひ節減せつげんのために鉄道てつどう建設けんせつさいしておおくのばや手段しゅだん採用さいようされたことから、定期ていきてき大陸たいりく横断おうだん列車れっしゃ運行うんこう開始かいしするには、線路せんろ改良かいりょう完了かんりょうするまでさらに7かげつ必要ひつようがあった(これは部分ぶぶんてきには山岳さんがく地帯ちたいにおける積雪せきせつがあり、スノーシェッド不足ふそくしていて路線ろせん開通かいつうさせられなかったということがある)。しかしこうしたばや手段しゅだん使つかっていなければ、鉄道てつどう完成かんせいしないうちにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう経営けいえい破綻はたんしてしまうということもありたことであった[よう出典しゅってん]

最初さいしょ大陸たいりく横断おうだん旅客りょかく列車れっしゃは、モントリオールのベリーどおりとノートルダムどおりにあるダルハウジーえき英語えいごばんを1886ねん6がつ28にち20出発しゅっぱつし、ポートムーディには1886ねん7がつ4にち正午しょうご到着とうちゃくした。この列車れっしゃは2りょう荷物にもつしゃ、1りょう郵便ゆうびんしゃ、1りょうとう座席ざせきしゃ、2りょう移民いみんよう寝台しんだいしゃ、2りょう一等いっとう座席ざせきしゃ、2りょう寝台しんだいしゃと1りょう食堂しょくどうしゃ連結れんけつされていた(食堂しょくどうしゃ夜間やかんはなされており、あさべつ食堂しょくどうしゃをまた連結れんけつしたため、行程こうていつうじてすうりょう食堂しょくどうしゃ使用しようされた)[よう出典しゅってん]

 
最初さいしょ大陸たいりく横断おうだん列車れっしゃがオンタリオしゅうポートアーサーに1886ねん6がつ30にち到着とうちゃくした

しかしこの時点じてんまでに、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう西側にしがわ終点しゅうてんをポートムーディからグランヴィルに移転いてんさせることをめており、このとし後半こうはんにこのグランヴィルがバンクーバーへと改名かいめいされた。最初さいしょにバンクーバーゆきとして公式こうしき運転うんてんされた列車れっしゃは1887ねん5がつ23にち到着とうちゃくしたが、これ以前いぜん非公式ひこうしきに3かげつほど列車れっしゃ運転うんてんされていた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはすぐに利益りえきせるようになり、政府せいふからの融資ゆうし期限きげんよりもはや償還しょうかんされた。1888ねんに、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう自身じしん運営うんえいする汽船きせんやアメリカの鉄道てつどうもう接続せつぞくするスーセントマリーまで、サドバリーからの支線しせん開通かいつうした。同年どうねん、オンタリオしゅうロンドンからアメリカとの国境こっきょうにあるウィンザーまでの路線ろせん着工ちゃっこうし、1890ねん6がつ12にち開通かいつうした[21]

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはまた、1891ねんから991年間ねんかんにわたってニューブランズウィック鉄道てつどう英語えいごばん[22]、モントリオールとセントジョンむすインターナショナル・レールウェイ・オブ・メイン英語えいごばんを1889ねん建設けんせつした。大西おおにしひろしめんしたセントジョンまで連絡れんらくしたことで、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはカナダで最初さいしょに「しんの」大陸たいりく横断おうだん鉄道てつどうとなり、セントローレンスわんうみごおりがモントリオールこう冬期とうきあいだざしていても、1ねんとおしてりょう大洋たいようあいだ貨物かもつ旅客りょかく輸送ゆそうできるようになった。1896ねんには、グレート・ノーザン鉄道てつどうとのあいだでブリティッシュコロンビアしゅう南部なんぶでの輸送ゆそうをめぐって競争きょうそうになったことから、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう当初とうしょ路線ろせんより南側みなみがわにブリティッシュコロンビアしゅう横断おうだんする2番目ばんめ路線ろせん敷設ふせつせざるをなくなり、当時とうじ社長しゃちょうつとめていたヴァン・ホーンは政府せいふ支援しえんもとめた。政府せいふはこれに同意どういし、西部にしべカナダから出荷しゅっかされる重要じゅうよう産物さんぶつ貨物かもつ運賃うんちん永続えいぞくてきげるわりに、アルバータしゅうレスブリッジからクロウズネストとうげ英語えいごばんとおクートネイ英語えいごばん南岸なんがんいた鉄道てつどう建設けんせつするためにやく360まんドルを提供ていきょうすることになった[よう出典しゅってん]

この議論ぎろんぶ「クロウズネストとうげ合意ごうい」により、ひがしへの穀物こくもつ運賃うんちん西にしかう移民いみん資産しさん運賃うんちんは、1897ねん水準すいじゅん実質じっしつてき固定こていされることになった。このクロウ・レート英語えいごばんばれる運賃うんちん水準すいじゅんは、だいいち世界せかい大戦たいせんちゅう一時いちじてき中断ちゅうだんされたものの、穀物こくもつ運賃うんちん徐々じょじょげることをみとめる西部せいぶ穀物こくもつ運輸うんゆほうが1983ねん制定せいていされてえられるまで有効ゆうこうであった。クロウズネストとうげとお路線ろせんは、さらに南部なんぶブリティッシュコロンビアしゅう峡谷きょうこくとうげをいくつもとおり、コキハラとうげ英語えいごばんカスケード山脈さんみゃくえてホープ英語えいごばんもと本線ほんせん合流ごうりゅうする、複雑ふくざつ経路けいろをたどり、1898ねん6がつ18にち開通かいつうした[23]

この南側みなみがわとお本線ほんせんは、ブリティッシュコロンビアしゅうではケトル・バレー鉄道てつどう英語えいごばんとして一般いっぱんられ、南部なんぶブリティッシュコロンビアしゅうにおいて発展はってんしつつあった鉱業こうぎょう精錬せいれんぎょう需要じゅようおうじて建設けんせつされ、バンクーバーやそののカナダからよりも隣接りんせつするアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくしょしゅうからのほう容易ようい到達とうたつできるという地理ちりてき傾向けいこうは、国家こっか安全あんぜん保障ほしょうたいする脅威きょういであり、またどう程度ていどしゅうみずからの資源しげんたいする管理かんりたいする脅威きょういであるとみなされていた。地域ちいき旅客りょかく営業えいぎょうあたらしい南部なんぶ路線ろせん経由けいゆ変更へんこうされ、地域ちいき発展はってんしつつあったおおくのちいさな都市としむすんだ。最終さいしゅうてきにこの経路けいろ関連かんれんしてカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう合併がっぺいされることになった独立どくりつした鉄道てつどうあるいは子会社こがいしゃ鉄道てつどうとしては、シュスワップ・アンド・オカナガン鉄道てつどうカスロ・アンド・スローカン鉄道てつどう英語えいごばんコロンビア・アンド・クートネイ鉄道てつどう英語えいごばんコロンビア・アンド・ウェスタン鉄道てつどう英語えいごばんなどがあった[22]

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう西部にしべカナダへの植民しょくみん

編集へんしゅう

実際じっさいのところ、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう建設けんせつしたのは、ほとんど荒野あらのはし鉄道てつどうであった。平原へいげん地帯ちたい有用ゆうようせいは、おおくのひと疑問ぎもんおもっていることであった。しかしこの平原へいげんおおきな可能かのうせいめているというかんがえがひろまった。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう鉄道てつどう建設けんせつするためにカナダ政府せいふむすんだ当初とうしょ契約けいやくでは、2500まんエーカーやく10まん平方へいほうキロメートル)の土地とち供与きょうよされていた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうすでにとてもゆたかな会社かいしゃとなっていたことをしめすように、カナダへの移民いみん誘致ゆうちキャンペーンを大々的だいだいてき開始かいしした。海外かいがいおおくの場所ばしょ代理だいりてん営業えいぎょうしていた。移民いみんにはしばしば、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうふねでの渡航とこう現地げんちへのカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう列車れっしゃでの移動いどう、そしてカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう販売はんばいする土地とちがパッケージとして販売はんばいされた。土地とち値段ねだんは1エーカーたり2.5ドル以上いじょうであったが、開墾かいこん必要ひつようであった[24]

1901ねん - 1928ねん

編集へんしゅう
 
オンタリオしゅうブロックビル展示てんじされているカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうカブース

まず鉱山こうざん会社かいしゃテック設立せつりつ支配しはい。20世紀せいき最初さいしょの10年間ねんかん、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはさらに路線ろせん建設けんせつつづけた。1908ねんにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうトロントサドバリーむす路線ろせん開通かいつうさせた。それ以前いぜんは、オンタリオしゅう南部なんぶから西にし列車れっしゃは、オンタリオしゅう東部とうぶとお遠回とおまわりな経路けいろとおっていた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは1909ねんには、2つの技術ぎじゅつじょうおおきな偉業いぎょう達成たっせいした。もっとも重要じゅうようであったとえるのが、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう本線ほんせんにとっておおきなボトルネックとなっていたビッグ・ヒルをスパイラルトンネルでえたことで、これにより勾配こうばいは45パーミルから22パーミルにがった。このスパイラルトンネルは8がつ開通かいつうした。1908ねん4がつには、レッドディアがわわたふるいカルガリー-エドモントン鉄道てつどうきょう代替だいたい工事こうじ着手ちゃくしゅし、あたらしい標準ひょうじゅんてきはがねせいはしが1909ねん3がつ完成かんせいした[25]

 
レスブリッジだか架橋かきょう

1909ねん11月3にちには、アルバータしゅうレスブリッジオールドマンがわ峡谷きょうこく横断おうだんするレスブリッジだか架橋かきょう英語えいごばん開通かいつうした。全長ぜんちょう1,624メートル(5,328フィート)、最大さいだいたかさ96メートル(315フィート)で、カナダでも最長さいちょう鉄道てつどうきょうとなった。1916ねんには、雪崩なだれよわ1910ねんには62にん死者ししゃ事故じこ英語えいごばんがあったロジャーズとうげとお線路せんろを、マクドナルドやま英語えいごばんしたける全長ぜんちょう8キロメートルのコンノートトンネル英語えいごばんえた。これは当時とうじ西半球にしはんきゅうでもっともなが鉄道てつどうトンネルであった[よう出典しゅってん]

 
カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう機関きかんしゃ、2860ごう

1910ねん1がつ21にちに、サドバリー近郊きんこうのオンタリオしゅうナイルンのスパニッシュがわ英語えいごばんかるはしで、旅客りょかく列車れっしゃ脱線だっせんする事故じこ英語えいごばんがあり、すくなくとも43にん死亡しぼうした[26][27]

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは、1912ねんにはいくつかのちいさな鉄道てつどう会社かいしゃ長期ちょうきリース契約けいやくにより傘下さんかおさめた。1912ねん1がつ3にちノバスコシアしゅう西部せいぶ運行うんこうするドミニオン・アトランティック鉄道てつどう英語えいごばん取得しゅとくした。これにより大西洋たいせいようめんした重要じゅうようみなとであるハリファックスへの連絡れんらくができるようになった。ドミニオン・アトランティック鉄道てつどうは、のカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう路線ろせんもうからは孤立こりつしており、連絡れんらくにはカナディアン・ナショナル鉄道てつどう利用りようすることになった。またドミニオン・アトランティック鉄道てつどうは、ノバスコシアしゅうディグビー英語えいごばんからカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうのあるニューブランズウィックしゅうセントジョンとのあいだで、ファンディわんわたるフェリーを運航うんこうしており、旅客りょかく貨物かもつはこんでいたが、貨車かしゃこうおくおこなっていなかった。ドミニオン・アトランティック鉄道てつどうふねは、ほかにもヤーマス英語えいごばん、ボストン、ニューヨークとのあいだでも旅客りょかく貨物かもつ輸送ゆそうおこなっていた。1912ねん7がつ1にちには、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうとは鉄道てつどう連絡れんらくせんつうじて接続せつぞくしていたバンクーバーとう鉄道てつどうイスクワイモルト・アンド・ナナイモ鉄道てつどう英語えいごばん買収ばいしゅうした。さらにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは、1912ねん12月14にちケベック・セントラル鉄道てつどう英語えいごばん買収ばいしゅうした[22]

19世紀せいきまつには、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう沿線えんせん観光かんこう開発かいはつ拠点きょてんとすべくだい規模きぼなホテル建設けんせつ計画けいかく実行じっこうし、グレーシャー国立こくりつ公園こうえんにグレーシャーハウス、ブリティッシュコロンビアしゅうフィールド英語えいごばんマウント・スティーブン・ハウス英語えいごばんケベック・シティーシャトー・フロンテナック、そしてバンフ国立こくりつ公園こうえんバンフ・スプリングス・ホテル建設けんせつした。

このころから、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは3つの大陸たいりく横断おうだん鉄道てつどう競争きょうそうするようになったが、どれも損失そんしつ計上けいじょうするばかりであった。1919ねんにはこれらの路線ろせん合併がっぺいされ、きゅうインターコロニアル鉄道てつどう英語えいごばん路線ろせんもうわせて、政府せいふ所有しょゆうするカナディアン・ナショナル鉄道てつどうとなった。また、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう所有しょゆう汽船きせんエンプレス・オブ・アイルランドノルウェー石炭せきたんせんストールスタッド衝突しょうとつし、会社かいしゃ歴史れきしじょう最大さいだい死者ししゃすことになった。1914ねん5がつ29にちに、カナダ太平洋たいへいよう汽船きせん会社かいしゃ英語えいごばん運航うんこうしていたエンプレス・オブ・アイルランドはセントローレンスがわ沈没ちんぼつし、1,024にん死亡しぼうしこのうち840にん乗客じょうきゃくであった[28]

だいいち世界せかい大戦たいせん

編集へんしゅう

だいいち世界せかい大戦たいせんちゅう、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはその「世界せかい最大さいだい交通こうつうシステム」としょうするすべての資源しげんイギリス自由じゆう使つかえるようにした。車両しゃりょう線路せんろだけでなく、船舶せんぱく工場こうじょう・ホテル・電信でんしん、そしてなかでも人員じんいんであった。戦争せんそう努力どりょく支援しえんすることは、兵士へいし輸送ゆそう宿営しゅくえいさせ、武器ぶき弾薬だんやく製造せいぞう補給ほきゅうし、船舶せんぱく武装ぶそうさせしあるいは売却ばいきゃくすることであった。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうの52せき船舶せんぱくだいいち世界せかい大戦たいせんちゅう任務にんむき、100まんにん以上いじょう兵士へいし旅客りょかくと400まんトン以上いじょう貨物かもつはこんだ。このうち27せき戦争せんそう終結しゅうけつ時点じてん残存ざんそんしており、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう返却へんきゃくされた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは、資金しきん雇用こようめんでも戦争せんそう努力どりょく支援しえんした。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう連合れんごうこくたいしてすうおくドルの規模きぼ融資ゆうしまたは保証ほしょうおこなった。将来しょうらいのこ記念きねんとして、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう戦争せんそうたたかい、そしてくなったひとたちの努力どりょく記念きねんして、3つの記念きねんと23の銘板めいばん作成さくせいした[29]戦後せんご連邦れんぽう政府せいふ戦争せんそうちゅうおよび戦後せんご経営けいえい破綻はたんして政府せいふ管理かんりかれたいくつかの鉄道てつどう会社かいしゃから、カナディアン・ナショナル鉄道てつどう創設そうせつした。カナディアン・ナショナル鉄道てつどうは、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうにとっておも競合きょうごうしゃとなることになる。1923ねんデービッド・ブリス・ハンナ英語えいごばんのちいでヘンリー・ワース・ソーントン英語えいごばんが2代目だいめのカナディアン・ナショナル鉄道てつどう社長しゃちょう就任しゅうにんすると、その競争きょうそうてき態度たいどは、はじめてカナダまれの人間にんげんとしてカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう社長しゃちょう就任しゅうにんしたエドワード・ウェントワース・ビーティ英語えいごばん行動こうどうてることになった[30]。この時期じき鉄道てつどうへの土地とち供与きょうよ正式せいしき法制ほうせいされた[31]

世界せかい恐慌きょうこうだい世界せかい大戦たいせん、1929ねん - 1945ねん

編集へんしゅう
 
失業しつぎょうしゃ救済きゅうさいキャンプでのストライキ参加さんかしゃたちが、オタワ行進こうしん英語えいごばん参加さんかして有蓋ゆうがいしゃ屋根やねりこんでいる様子ようす、1935ねん

1929ねんから1939ねんまでつづいた世界せかい恐慌きょうこうは、おおくの企業きぎょう直撃ちょくげきした。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう影響えいきょうけたが、ライバルのカナディアン・ナショナル鉄道てつどうちが債務さいむっていなかったため、同社どうしゃほどの規模きぼ影響えいきょうけることはなかった。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう一部いちぶ旅客りょかく列車れっしゃ貨物かもつ列車れっしゃ削減さくげんし、1932ねん以降いこう株主かぶぬし配当はいとう支払しはらいを停止ていしした。困難こんなん時期じきにはあたらしい政治せいじ運動うんどうまれるものであり、たとえばカナダ社会しゃかい信用しんよう運動うんどう英語えいごばん協同きょうどう連邦れんぽうとうがあり、なかでも抗議こうぎ運動うんどうかたちひろまったものとしてオタワ行進こうしん英語えいごばんがある[32]

1930年代ねんだいまつ鉄道てつどうおよびカナダにとって1つのハイライトとなったのは、ジョージ6せいとそのエリザベス・ボーズ=ライアンカナダ訪問ほうもん英語えいごばんであり、これは在位ざいいちゅう君主くんしゅによるはじめてのカナダ訪問ほうもんであった。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうとカナディアン・ナショナル鉄道てつどうは、ロイヤルトレインを運転うんてんする栄光えいこうかちうことになり、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうがわはケベック・シティーからバンクーバーまでの西にしきの列車れっしゃ担当たんとうした。そのとし後半こうはんに、だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつした。だいいち世界せかい大戦たいせんとき同様どうように、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう保有ほゆうする資源しげん戦争せんそう努力どりょくささげた。モントリオールにあるアンガス工場こうじょう英語えいごばんは、改造かいぞうされてバレンタイン歩兵ほへい戦車せんしゃやその装甲そうこう車両しゃりょう生産せいさんするようになり、また兵士へいし物資ぶっし国中くになか輸送ゆそうした。22せきふね戦争せんそうおくられ、このうち「エンプレス・オブ・カナダ」や「エンプレス・オブ・エイジア」など12せき沈没ちんぼつした[33]

1946ねん – 1978ねん

編集へんしゅう
 
「マルチマーク」ロゴは、1968ねんから人気にんきくなる1987ねんまで使つかわれた。1980年代ねんだい人気にんきテレビゲームからパックマンロゴともばれる。

だい世界せかい大戦たいせん、カナダの運輸うんゆ産業さんぎょうわった。かつては鉄道てつどうがほとんどあらゆる場面ばめん旅客りょかく貨物かもつはこんでいたが、自動車じどうしゃ・トラック・航空機こうくうき鉄道てつどうからシェアをうばっていくようになった。これは自然しぜんとカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう航空こうくう自動車じどうしゃ営業えいぎょうたすけることになり、また鉄道てつどう貨物かもつ営業えいぎょうでも資源しげんやばら貨物かもつ輸送ゆそうつづ盛況せいきょうであった。しかし旅客りょかく輸送ゆそう急速きゅうそく採算さいさんなものとなっていった。1950年代ねんだいには、旅客りょかく営業えいぎょうでも革新かくしん実現じつげんした。1955ねんにはあたらしい豪華ごうか大陸たいりく横断おうだん列車れっしゃとして「カナディアン」を運転うんてん開始かいしした。しかし1960年代ねんだいからは次第しだい旅客りょかく列車れっしゃ削減さくげんするようになり、おおくの支線しせんでは旅客りょかく営業えいぎょう廃止はいしとなっていった。1966ねんには、補完ほかんてき大陸たいりく横断おうだん列車れっしゃであった「ザ・ドミニオン英語えいごばん」が廃止はいしとなり、1970ねんには「カナディアン」も廃止はいし申請しんせいしたが、拒絶きょぜつされた。その8年間ねんかん廃止はいし申請しんせいつづけ、そのあいだ「カナディアン」の運行うんこう大幅おおはば削減さくげんされた。1978ねん10がつ29にちにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは、政府せいふ所有しょゆうするVIA鉄道てつどう旅客りょかく列車れっしゃ移管いかんし、同社どうしゃがカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうおよびカナディアン・ナショナル鉄道てつどうから移管いかんされたすべての都市としあいだ旅客りょかく列車れっしゃ運行うんこう責任せきにんつことになった。VIA鉄道てつどう最終さいしゅうてきに「カナディアン」をふくめ、ほとんどすべての旅客りょかく列車れっしゃをカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう路線ろせんから路線ろせん移転いてんさせた[34]

1968ねんには、企業きぎょうさい構築こうちく一環いっかんとして、鉄道てつどう営業えいぎょうふくめておも事業じぎょう活動かつどうはそれぞれ独立どくりつした子会社こがいしゃ再編さいへんされた。鉄道てつどう名前なまえはCP鉄道てつどう変更へんこうされ、親会社おやがいしゃ名前なまえカナダ太平洋たいへいようリミテッド英語えいごばんに1971ねん変更へんこうされた。その航空こうくう宅配たくはい電話でんわ・ホテル・不動産ふどうさん部門ぶもん分離ぶんりされ、これらの所有しょゆうけんはカナダ太平洋たいへいようインベストメンツに移管いかんされた。ビーバーのロゴは廃止はいしされ、あたらしいマルチマークロゴが採用さいようされたが、事業じぎょう部門ぶもんによってことなるいろとされた[35]

1979ねん – 2001ねん

編集へんしゅう

1979ねん11がつ10日とおかにオンタリオしゅうミシサガ脱線だっせん事故じこ英語えいごばんこり、20まんにん人々ひとびと避難ひなんしたが、死者ししゃなかった[36][37]

1984ねんにCP鉄道てつどうは、セルカーク山脈さんみゃくのコンノートトンネルの輸送ゆそうりょく増強ぞうきょうのために、マウント・マクドナルドトンネル英語えいごばん着工ちゃっこうした。最初さいしょ営業えいぎょう列車れっしゃはこのトンネルを1988ねん通過つうかした。全長ぜんちょう14.7キロメートルで、アメリカ大陸あめりかたいりくにおいて最長さいちょうのトンネルである。1980年代ねんだいつうじて、CP鉄道てつどう支配しはいけんにぎスー・ライン鉄道てつどうはいくつかの変革へんかくおこなった。1982ねんミネアポリス・ノースフィールド・アンド・サザン鉄道てつどう英語えいごばん買収ばいしゅうした。つづいて1985ねん2がつ21にちには、スー・ライン鉄道てつどうミルウォーキー鉄道てつどう支配しはいけんにぎり、1986ねん1がつ1にち自社じしゃ路線ろせんもうんだ。また、1980ねんにはカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうコンレールからトロント・ハミルトン・アンド・バッファロー鉄道てつどう英語えいごばん買収ばいしゅうし、同社どうしゃは1985ねん清算せいさんされた。1987ねんには、五大ごだいみずうみ地区ちくのほとんどの路線ろせんもうもとのスー・ライン鉄道てつどうのものをふくめて分割ぶんかつされ、ウィスコンシン・セントラル発足ほっそくし、結果けっかてきにこの会社かいしゃのちにカナディアン・ナショナル鉄道てつどう買収ばいしゅうされた。アメリカとカナダのあいだ貿易ぼうえき自由じゆうした1989ねんべい自由じゆう貿易ぼうえき協定きょうてい影響えいきょうけて、1990年代ねんだい初頭しょとうにもカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはさらに拡大かくだいつづけた。CP鉄道てつどうは1990ねんにスー・ライン鉄道てつどう完全かんぜん支配しはいおさめ、1991ねんにはデラウェア・アンド・ハドソン鉄道てつどう買収ばいしゅうした。これらの買収ばいしゅうにより、CP鉄道てつどうはアメリカの主要しゅよう都市としであるシカゴ(スー・ライン鉄道てつどう経由けいゆ)とニューヨーク(デラウェア・アンド・ハドソン鉄道てつどう経由けいゆ)に到達とうたつできるようになった[38]

そのすうねんわたり、CP鉄道てつどう路線ろせん整理せいりすすめ、カナダのいくつかの支線しせん副次的ふくじてき本線ほんせんまでも地方ちほう鉄道てつどう売却ばいきゃくしてしまうか廃止はいしした。しかしこの合理ごうりはかなりたかくつき、十分じゅうぶんひろ範囲はんい穀物こくもつ出荷しゅっかすることができなくなったために、カナダの穀倉こくそう地帯ちたいとしてられていた地域ちいきにおいておおくのカントリーエレベーター廃止はいしされた。モントリオールよりひがしのすべての路線ろせんもこのさい整理せいりされ、メインしゅうやニューブランズウィックしゅうとおってセントジョンのみなとつうじるカナディアン・アトランティック鉄道てつどう英語えいごばんとして営業えいぎょうしていた路線ろせん売却ばいきゃくされるか廃止はいしされ、これによりCP鉄道てつどうはカナダにおいて大陸たいりく横断おうだん鉄道てつどうとしての地位ちいうしなうことになった。1950年代ねんだいまつセントローレンス海路かいろ開通かいつうし、税金ぜいきん補助ほじょけた砕氷さいひょう活動かつどうおこなわれたこともあいまって、セントジョンはカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうにとって余剰よじょう存在そんざいとなっていた[よう説明せつめい][よう出典しゅってん]

1990年代ねんだいつうじて、CP鉄道てつどうもカナディアン・ナショナル鉄道てつどうも、さらなる合理ごうりすすめる目的もくてきで、たがいに相手あいて東部とうぶ地方ちほう路線ろせんもう買収ばいしゅうしようとこころみたが、うまくいかなかった。1996ねんにCP鉄道てつどう本社ほんしゃをモントリオールのウィンザーえきからアルバータしゅうカルガリーのガルフ・カナダ広場ひろばうつした。CP鉄道てつどうはカナダにおける列車れっしゃ運行うんこう管理かんりのほとんどをあたらしい本社ほんしゃ統合とうごうし、ネットワーク管理かんりセンター (NMC: Network Management Centre) を発足ほっそくさせた。このネットワーク管理かんりセンターからは、バンクーバーこうからオンタリオしゅう北部ほくぶのマクティアまでの列車れっしゃうごきを管理かんりしている。マクティアからモントリオールこうまでの列車れっしゃうごきを管理かんりするちいさなセンターがウィンザーえきのこされている[よう出典しゅってん]

1996ねんにCP鉄道てつどう本社ほんしゃをカルガリーからモントリオールにもどし、名前なまえもカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうもどした。あたらしい子会社こがいしゃとしてセントローレンス・アンド・ハドソン鉄道てつどう英語えいごばん設立せつりつされ、きたアメリカ東部とうぶのケベック、オンタリオしゅう南部なんぶおよび東部とうぶ、シカゴへの線路せんろ使用しようけんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく北東ほくとうのデラウェア・アンド・ハドソン鉄道てつどうといった損失そんしつしていた路線ろせん移管いかんされた。しかしこの子会社こがいしゃは、売却ばいきゃくされる危機ききにさらされ、また自由じゆう改革かいかくをできる立場たちばあたえられたこともあり、損失そんしつしていた路線ろせんをすぐに地域ちいき鉄道てつどう分離ぶんりし、定期ていき貨物かもつ列車れっしゃ運行うんこう開始かいしし、予期よきしないほど利益りえきりつ改善かいぜんした。2001ねん1がつ1にちにセントローレンス・アンド・ハドソン鉄道てつどうはカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう正式せいしき併合へいごうされた[よう出典しゅってん]

2001ねんから現在げんざい

編集へんしゅう

2001ねん親会社おやがいしゃのカナダ太平洋たいへいようリミテッドは、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうふくむ5つの子会社こがいしゃ分割ぶんかつして独立どくりつした企業きぎょうとした。分割ぶんかつ時点じてんでの大半たいはん鉄道てつどう事業じぎょうべつのカナダ太平洋たいへいようリミテッドとしょうする子会社こがいしゃにより運営うんえいされていた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう法的ほうてきにはべつとして、営業えいぎょうじょう柔軟じゅうなんせいしめすために2007ねんはじめに「鉄道てつどう」のかたり名称めいしょうからはずし、公式こうしきにカナディアン・パシフィックとしょうするようになった。名称めいしょう変更へんこうすこには、バンクーバーオリンピック主要しゅようスポンサーおよび物流ぶつりゅう提供ていきょうパートナーとなったことが発表はっぴょうされた[39]

2004ねん12月、テック・コミンコ (Teck Cominco) は、ふる鉱山こうざん跡地あとちにおける金属きんぞく汚染おせんかんして自分じぶん権利けんりまも目的もくてきでカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう提訴ていそした。2006ねん10がつ10日とおかには、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうアメリカホンダ自動車じどうしゃ英語えいごばんから"Rail Origin of the Year"のしょうけた[40]。2007ねん9がつ4にち、ロンドンに本拠ほんきょエレクトラ・プライベート・エクイティ英語えいごばんからダコタ・ミネソタ・アンド・イースタン鉄道てつどう英語えいごばん買収ばいしゅうすると発表はっぴょうした[41]。この取引とりひきにより、末端まったんから末端まったんまでの統合とうごう実現じつげんし、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくない農産のうさんひん・エタノール・石炭せきたんなどの荷主にぬしにアクセスできるようになる。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはこの買収ばいしゅうを、ワイオミングしゅうパウダーかわ盆地ぼんち英語えいごばんにあるゆたかな炭田たんでん地帯ちたいへのアクセスにもちいるという意図いと表明ひょうめいした。購入こうにゅう価格かかくは14おく8000まんあめりかドルで、このうち10おくあめりかドル以上いじょうはパウダーかわまでの鉄道てつどう路線ろせん延長えんちょう着工ちゃっこうし、パウダーかわ盆地ぼんちから一定いってい数量すうりょう石炭せきたん出荷しゅっかされた条件じょうけんでの将来しょうらい支払しはらいとされた。この取引とりひきアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく陸上りくじょう運輸うんゆ委員いいんかい英語えいごばん承認しょうにんちで、1ねんほどかかるとされた。2007ねん10がつ4にちにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう買収ばいしゅう必要ひつよう財務ざいむじょう取引とりひき完了かんりょうしたと発表はっぴょうし、ダコタ・ミネソタ・アンド・イースタン鉄道てつどうアイオワ・シカゴ・アンド・イースタン鉄道てつどう英語えいごばんをリチャード・ハムリンを信託しんたくじんとする議決ぎけつけん信託しんたくあづけた[42]合併がっぺいは2008ねん10がつ31にち完了かんりょうした[43]

2011ねん10がつ28にちに、証券しょうけん取引とりひき委員いいんかいへの13D申告しんこくにおいて、アメリカのヘッジファンドであるパーシング・スクエア・キャピタル・マネジメント (PSCM) がカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうかぶの12.2パーセントを所有しょゆうしていると申告しんこくした[44][45]。PSCMは2011ねんにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうかぶはじめた。最終さいしゅうてきかぶは14.2パーセントまで増加ぞうかし、PSCMがカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう最大さいだい株主かぶぬしとなった。このつきひらかれた会社かいしゃがわとのわせにおいて、PSCMの責任せきにんしゃビル・アックマン英語えいごばんは、最高さいこう経営けいえいしゃのフレッド・グリーンの交代こうたいもとめた。2012ねん5がつ17にち木曜日もくようび年次ねんじ株主かぶぬし総会そうかい数時間すうじかんまえに、グリーンと会長かいちょうのジョン・クレッグホーンをふくほかの5にん取締役とりしまりやく辞任じにんした。アックマン自身じしんとそのパートナーであるパウル・ヒラルをふくめた7にんあらたな取締役とりしまりやく選任せんにんされた。再編さいへんされた取締役とりしまりやくかいは、ノーフォーク・サザン鉄道てつどうまえふく会長かいちょうけん最高さいこう執行しっこう責任せきにんしゃであったスティーブン・トービアスを暫定ざんていCEOに指名しめいして、あたらしいCEOのさがはじめ、最終さいしゅうてきにカナディアン・ナショナル鉄道てつどうまえ社長しゃちょうであったハンター・ハリソン英語えいごばんを2012ねん6がつ29にち任命にんめいした[46][47]

2012ねん5がつ23にちに、4,800にん機関きかん車掌しゃしょう運行うんこう指令しれいいん職場しょくば放棄ほうきして9日間にちかんのストライキにはいり、貨物かもつ列車れっしゃまって経済けいざいに8000まんカナダドル規模きぼ損害そんがいあたえたが、6月1にち運行うんこう再開さいかいした。このストライキは、政府せいふ職務しょくむ復帰ふっき法案ほうあんして双方そうほう拘束こうそくりょくのある合意ごういいたらせたことで終結しゅうけつした[48][49]

2013ねん7がつ6にちに、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう地方ちほう鉄道てつどうモントリオール・メイン・アンド・アトランティック鉄道てつどう英語えいごばんわせていた原油げんゆユニットトレインラック・メガンティックで脱線だっせんし、47にん死亡しぼうした[50]。2013ねん8がつ14にちに、ケベックしゅう政府せいふはカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうと、賃借ちんしゃくじんワールド・フュエル・サービシズ英語えいごばんをともに、事故じこ現場げんば環境かんきょう回復かいふく作業さぎょう費用ひよう負担ふたんさせる企業きぎょうのリストに追加ついかした[50]。7月15にちに、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう裁判所さいばんしょ法的ほうてき手続てつづきをもとめたとほうじられた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうのスポークスマン、エド・グリーンバーグは、「カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう通知つうち検討けんとうした。実際じっさいのところ、法的ほうてきには、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう環境かんきょう回復かいふく作業さぎょう責任せきにんっていない」とべた[51]。2014ねん2がつにハリソンは、脱線だっせん事故じこさい危険きけんせいおおきいことでられる、DOT-111がたタンクしゃ英語えいごばん運行うんこう終了しゅうりょうさせるためにただちに行動こうどううつすようにもとめた[52]

2021ねんカナディアン・ナショナル鉄道てつどうによるカンザス・シティ・サザン鉄道てつどう買収ばいしゅうばなしよこやりをれるかたち買収ばいしゅう提案ていあんおこなったが[53]やぶれた[54]。 2023ねん4がつ14にちをもって、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはカンザス・シティ・サザン鉄道てつどう合併がっぺいしてカナダ太平洋たいへいようカンザスシティ鉄道てつどう英語えいごばんとなった。

貨物かもつ列車れっしゃ

編集へんしゅう
 
オンタリオしゅうサンダーベイSA90MACかた機関きかんしゃ
 
ウィスコンシンしゅうウィスコンシンデルズ英語えいごばん列車れっしゃ牽引けんいんするスー・ライン鉄道てつどう6022ごう機関きかんしゃEMD SD60)、2004ねん6がつ20日はつか

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう貨物かもつ輸送ゆそう半分はんぶん以上いじょう石炭せきたん穀物こくもつおよびインターモーダル輸送ゆそうであり、利益りえき大半たいはんはカナダ西部せいぶからされている。貿易ぼうえき大西洋たいせいようがわから太平洋たいへいようがわおおきくうつったことで、サンダーベイからの小麦こむぎ出荷しゅっかおおきくむことになった。その自動車じどうしゃ部品ぶひん自動車じどうしゃ硫黄いおう肥料ひりょう、その化学かがく薬品やくひんはやし産品さんぴん、その雑貨ざっかなどがはこばれている。鉄道てつどうもうなかでもっとも過密かみつなのは、カルガリーとバンクーバーのあいだ本線ほんせんである。1970ねん以来いらい、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう輸送ゆそう主力しゅりょく石炭せきたんとなっている。石炭せきたん山岳さんがく地帯ちたい炭鉱たんこう、もっとも有名ゆうめいなものとしてはスパーウッド英語えいごばんからロバーツバンク英語えいごばんノースバンクーバーのターミナルにはこばれ、そこから日本にっぽん出荷しゅっかされる。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう毎年まいとし西海岸にしかいがんすうひゃくまんトンの石炭せきたんはこんでいる[よう出典しゅってん]

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはこ穀物こくもつは、平原ひらはら地帯ちたいからサンダーベイ(かつてはフォートウィリアム英語えいごばんポートアーサー英語えいごばんばれていた)やケベックシティー、バンクーバーなどにはこばれ、そこから国外こくがい輸出ゆしゅつされる。セントローレンスがわこおりざされている冬期とうきには、伝統でんとうてきにニューブランズウィックしゅうのウェストセントジョンから輸出ゆしゅつされる。穀物こくもつはカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうにとってつね重要じゅうよう輸送ゆそう品目ひんもくであった。1905ねんから1909ねんにかけて、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう穀物こくもつ出荷しゅっか利用りようするためにフォートウィリアムとウィニペグあいだ複線ふくせんした。この区間くかんなんじゅうねんにもわたって、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうにとって都市とし以外いがいなが複線ふくせん区間くかんゆうする唯一ゆいいつ場所ばしょであった。こんにち、サンダーベイとウィニペグのあいだ単線たんせんもどされてしまったが、地方ちほうつうじるなが複線ふくせん本線ほんせんとして、ケント英語えいごばんからバンクーバーまでコースト山脈さんみゃく英語えいごばんなかフレーザーがわ沿区間くかんと、オンタリオしゅうスミスフォールズ英語えいごばんからモントリオール中心ちゅうしんまで、田舎いなか農村のうそん地帯ちたいはしるウィンチェスター地区ちくの100マイル(やく160キロメートル)の路線ろせんがある。またゴールデン英語えいごばんカムループスあいだや、ウィニペグ-サンダーベイあいだもと複線ふくせん区間くかんのうち20マイルほどのケノーラとキーウェティンのあいだなどが依然いぜんとして複線ふくせんである[よう出典しゅってん]

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは1952ねんに、きたアメリカの鉄道てつどうとしてははじめてピギーバック輸送ゆそう導入どうにゅうし、道路どうろのトレーラーを貨車かしゃんで輸送ゆそうするようになった。のちに、コンテナ輸送ゆそうがほとんどのピギーバック輸送ゆそう代替だいたいするようになった。1996ねんにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは、モントリオールとウェストトロントのあいだで、やく専用せんよう定期ていき短距離たんきょりインターモーダル輸送ゆそうとして「アイアンハイウェイ」という列車れっしゃ運行うんこうするようになり、特殊とくしゅ設備せつび使用しようしていたが、1999ねん在来ざいらいがたのピギーバック輸送ゆそう車両しゃりょうえられ、名前なまえも「エクスプレスウェイ」に変更へんこうされた。この列車れっしゃはデトロイトまで延長えんちょうされ、さらにシカゴへ延長えんちょうする計画けいかくもあるが、適切てきせつなターミナルをつけることができていない[よう出典しゅってん]

旅客りょかく列車れっしゃ

編集へんしゅう
 
かつてのアンガス工場こうじょう建物たてものケベックアルコール会社かいしゃ英語えいごばん酒類しゅるい販売はんばいてん転用てんようされている

1960年代ねんだいまで、カナダでは列車れっしゃ長距離ちょうきょりしゅたる移動いどう手段しゅだんであった。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう列車れっしゃったひとたちとして、平原ひらはら地帯ちたいあらたにうつ移民いみんたち、兵士へいしとくに2かい世界せかい大戦たいせんさいに)、上級じょうきゅう旅行りょこうしゃなどがいる。社内しゃないアンガス工場こうじょう英語えいごばんでは、そうした上級じょうきゅう旅行りょこうしゃ要求ようきゅうこたえて、特別とくべつ旅客りょかくしゃ多数たすう製作せいさくした。

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうでは、大陸たいりく横断おうだん輸送ゆそうもう統合とうごうされた五大ごだいみずうみ船舶せんぱく運航うんこうおこなっていた。1885ねんから1912ねんまで、ジョージアわんのオーウェンサウンドとフォートウィリアムのあいだむすんでふね運航うんこうされていた。カントリーエレベーターを焼失しょうしつした1911ねん12月の大火たいかのち、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう建設けんせつしたあたらしくてよりおおきなマクニッコールのみなと移転いてんし、1912ねん5がつ開業かいぎょうした。5せきふね毎日まいにち運航うんこうしており、そのなかには「アッシニボイア」(Assiniboia)、「キーワティン」(Keewatin) という1908ねん建造けんぞう航路こうろ廃止はいしまで運航うんこうしたふねもあった。利用りようしゃ列車れっしゃでトロントからジョージアわんみなとまでき、そこからふねって対岸たいがんわたって、べつ列車れっしゃ接続せつぞくした。だい世界せかい大戦たいせんは、列車れっしゃふね旅客りょかくだけでなく自動車じどうしゃはこぶようになった。この列車れっしゃは、きたアメリカでは最後さいごとなるボート・トレインであった。「スチーム・ボート」という高速こうそく直通ちょくつう列車れっしゃがトロントとマクニッコールこうむすんでいた。旅客りょかく輸送ゆそうは1965ねんのシーズンかぎりで廃止はいしとなり、「キーワティン」1せきのみがその2年間ねんかん貨物かもつ輸送ゆそう継続けいぞくした。このふねのちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおいて海洋かいよう博物館はくぶつかんとなり[どこ?]、2013ねんにカナダにもどされた[55]

だい世界せかい大戦たいせん自動車じどうしゃ航空機こうくうき普及ふきゅうするにつれて鉄道てつどう旅客りょかく輸送ゆそうんでいったが、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうでは旅客りょかくすうばしつづけようとこころみて様々さまざま変革へんかくおこなつづけた。1953ねん11月9にちから、バッドせいディーゼルカーおおくの路線ろせん投入とうにゅうした。この車両しゃりょうをカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう当局とうきょくでは公式こうしきにはデイライナーとんでいたが、職員しょくいんたちはつねにバッドカーとんでいた。所要しょよう時間じかん大幅おおはば短縮たんしゅくし、費用ひよう節減せつげんしたことで、おおくの路線ろせんでの旅客りょかく営業えいぎょう長年ながねんにわたって維持いじすることに貢献こうけんした。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうでは、バッドカーの購入こうにゅうつづけて最終さいしゅうてきにバッドカーの2番目ばんめおおきな所有しょゆうしゃとなる52りょうゆうするようになり、これ以上いじょうかず保有ほゆうしていたのはボストン・アンド・メイン鉄道てつどう英語えいごばんだけであった。またカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうめずらしいRDC-4がたゆうしていた。この車両しゃりょういちはし郵便ゆうびんしつを、もう一端いったん荷物にもつしつそなえ、旅客りょかくしつそなえていない形式けいしきであった。1955ねん4がつ24にちに、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうあたらしい豪華ごうか大陸たいりく横断おうだん列車れっしゃカナディアン」を運行うんこう開始かいしした。この列車れっしゃはバンクーバーとトロントもしくはモントリオールをむすび、サドバリー以東いとうでは2ほん分割ぶんかつして運転うんてんされていた。この高速こうそく列車れっしゃは、ディーゼル機関きかんしゃ牽引けんいんし、展望てんぼうドームしゃの「パーク・カー」などのあたらしいながれ線形せんけいステンレスこうせい客車きゃくしゃ使用しようしていた[56]

しかし、1960年代ねんだいからは旅客りょかく列車れっしゃ大半たいはんとく支線しせんにおけるものを廃止はいしするようになっていった。たとえば、南部なんぶブリティッシュコロンビアしゅうとクロウネストとうげ旅客りょかく列車れっしゃは1964ねん1がつに、ケベック・セントラル鉄道てつどう英語えいごばん旅客りょかく列車れっしゃは1967ねん4がつに、そして大陸たいりく横断おうだん列車れっしゃの「ドミニオン」は1966ねん1がつ廃止はいしされた。1978ねん10がつ29にちにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう旅客りょかく列車れっしゃを、あたらしく設立せつりつされた国有こくゆう企業きぎょうであるVIA鉄道てつどう移管いかんし、ここがカナダにおける都市としあいだ旅客りょかく輸送ゆそう責任せきにんうことになった。のちブライアン・マルルーニー首相しゅしょうは、1990ねん1がつ15にちにVIA鉄道てつどう旅客りょかく列車れっしゃ大幅おおはば削減さくげん実行じっこうした。これによりカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう線路せんろじょうでは「カナディアン」の運行うんこう終了しゅうりょうし、かつての「スーパー・コンチネンタル」のカナディアン・ナショナル鉄道てつどうとお経路けいろ名前なまえ変更へんこうせずにうつることになった。1990ねん1がつ15にち運行うんこう削減さくげん以前いぜんは、どちらの列車れっしゃ毎日まいにち運転うんてんであったのにたいして、のこされた「カナディアン」はしゅうに3かい運行うんこうとなった。2012ねん10がつには「カナディアン」はとしに6かげつのオフシーズンにはしゅう2かい運行うんこう削減さくげんされ、しゅう3かい運行うんこうのこりの6かげつのみとなった。都市としあいだ列車れっしゃほかに、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはモントリオールにおける通勤つうきん輸送ゆそう提供ていきょうしていた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはここで、1970ねんにカナダで最初さいしょ2かいけん車両しゃりょう導入どうにゅうした。1982ねん10がつ1にちに、モントリオール都市としけん交通こうつう委員いいんかいがカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうから通勤つうきん輸送ゆそう責任せきにんいだ。この輸送ゆそうモントリオール大都市だいとしけん交通こうつうきょく傘下さんか継続けいぞくされている[よう出典しゅってん]

 
バンクーバーのウォーターフロントえき停車ていしゃちゅうのウェストコーストエクスプレス

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう現在げんざい、2かしょ通勤つうきん輸送ゆそう契約けいやくによりっている。GOトランジットとの契約けいやくで、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはオンタリオしゅうにおいてミルトンとトロント市街地しがいちあいだで6往復おうふく運行うんこうおこなっている。モントリオールでは、モントリオール大都市だいとしけん交通こうつうきょくもとで、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう路線ろせんルシアン・ラリエールえきから3方面ほうめんへ1にち59ほん通勤つうきん列車れっしゃ運行うんこうしている。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはバンクーバーでは、地域ちいき交通こうつう当局とうきょくであるトランスリンク契約けいやくしてのウエストコーストエクスプレス運行うんこうはもうっていない。ボンバルディア・トランスポーテーションが2014ねん5がつ5にちから列車れっしゃ運行うんこういでいる[57]

寝台しんだいしゃ食堂しょくどうしゃ・パーラーカー部門ぶもん

編集へんしゅう

寝台しんだいしゃおよび食堂しょくどうしゃ、パーラーカーは独立どくりつした部門ぶもん運営うんえいされており、そのまま「寝台しんだいしゃ食堂しょくどうしゃ・パーラーカー部門ぶもん」と名付なづけられていた。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく鉄道てつどう会社かいしゃでは、車両しゃりょう製造せいぞうから提供ていきょうおよびポーター派遣はけんいたるまで、寝台しんだいしゃ営業えいぎょうせんもん独立どくりつ企業きぎょう依存いぞんしていたが、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうでは当初とうしょから自前じまえ寝台しんだいしゃ営業えいぎょうおこなうと決定けっていしていた。プルマン寝台しんだいしゃ営業えいぎょうではながらく有名ゆうめいであり、プルマンのポーターは伝説でんせつとなっている。寝台しんだいしゃ営業えいぎょうおこな企業きぎょうとしてはワグナー英語えいごばん会社かいしゃなどがあった。自身じしん大男おおおとこであったカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうのゼネラルマネージャー、ウィリアム・ヴァン・ホーン英語えいごばん指示しじにより、大型おおがた寝台しんだいとより快適かいてき環境かんきょうととのえられていた。自社じしゃ寝台しんだいしゃ営業えいぎょうをすべておこなうことで、提供ていきょうするサービスをより適切てきせつ管理かんりでき、また代金だいきんすべてを自社じしゃ収入しゅうにゅうとすることができたが、旅客りょかく食事しょくじ提供ていきょうすること自体じたい直接ちょくせつ利益りえきむわけではなかった。むしろ、長距離ちょうきょり旅行りょこうすることができるような人々ひとびとがそうした設備せつびのぞみ、かれらの好意こういてき意見いけん結果けっかてきにカナダにさらに観光かんこうきゃくきつけ、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう列車れっしゃることになる、ということをつうじて利益りえきむものであった[58]

宅配たくはい事業じぎょう

編集へんしゅう

ヴァン・ホーンは非常ひじょう初期しょきから、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはできるだけおおくの事業じぎょうから収益しゅうえきると決断けつだんしていた。これにより宅配たくはい電信でんしん寝台しんだいしゃなどの事業じぎょう運営うんえいし、必要ひつようおうじて独立どくりつした部門ぶもんあるいは会社かいしゃ設立せつりつすることになった。まだ設立せつりつされたばかりの鉄道てつどう会社かいしゃにとっては、られる収入しゅうにゅうなんでも獲得かくとくしておく必要ひつようがあったからであり、これにくわえて宅配たくはい電信でんしんなどこうした関連かんれん事業じぎょう非常ひじょう利益りえきると見込みこんでいたこともあった。その寝台しんだいしゃ食堂しょくどうしゃなどの事業じぎょうは、旅客りょかく提供ていきょうするサービスの品質ひんしつをより確実かくじつ管理かんりするために自社じしゃ傘下さんかかれていた。ホテル事業じぎょうもまた、旅行りょこうきゃくあつめることでカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう成長せいちょうにとって重要じゅうようであった[よう出典しゅってん]

ドミニオン宅配たくはい会社かいしゃ (Dominion Express Company) はカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう自身じしんよりはやい、1873ねん独立どくりつ企業きぎょうとして設立せつりつされたが、1882ねんなつまで列車れっしゃ運行うんこう開始かいしされることはなく、この時点じてんでは300マイル(やく480キロメートル)ほどの距離きょりをオンタリオしゅうラットポーテッジ(キーノラ)から西にしへマニトバしゅうウィニペグまで運行うんこうされていた。ドミニオン宅配たくはい会社かいしゃはすぐにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう吸収きゅうしゅうされ、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう路線ろせん開業かいぎょうした場所ばしょへはどこへでも営業えいぎょうするようになった。1926ねん9がつ1にちカナダ宅配たくはい会社かいしゃ (Canadian Express Company) へと改称かいしょうされ、本社ほんしゃをウィニペグからトロントへ移転いてんした。会社かいしゃ鉄道てつどうとは独立どくりつした会社かいしゃとして営業えいぎょうされ、列車れっしゃ宅配たくはい荷物にもつ搭載とうさいする車両しゃりょう連結れんけつして運行うんこうするために鉄道てつどう会社かいしゃ費用ひよう請求せいきゅうしていた。荷物にもつ旅客りょかく列車れっしゃ先頭せんとう連結れんけつされた専用せんよう荷物にもつしゃで、場合ばあいによってはくるまじょう乗務じょうむしている係員かかりいんによってあつかわれ、高速こうそく定時ていじせいたか輸送ゆそう提供ていきょうすることで、おくれがよくしょうじる少量しょうりょう貨物かもつ輸送ゆそうよりたか運賃うんちん請求せいきゅうしていた。あらゆる種類しゅるい事業じぎょうけに少量しょうりょう輸送ゆそうおこない、クリーム、バター、鶏肉とりにくたまごなどがあつかわれ、これにくわえて独立どくりつした冷蔵れいぞうしゃ生花せいかさかな、その魚介ぎょかいるいなどもはこんでいた。うまやその家畜かちくとりしょう動物どうぶつ展示てんじかいされる動物どうぶつなども、動物どうぶつ世話せわをする飼育しいくいん場所ばしょそなえた特別とくべつ家畜かちくしゃはこばれていた[よう出典しゅってん]

個人こじんよう自動車じどうしゃ締切しめきり有蓋ゆうがいしゃ使つかって宅配たくはいあつかいではこばれた。かねぎんぼう、それに現金げんきんも、造幣ぞうへいしょ銀行ぎんこうあいだ大量たいりょうはこばれ、安全あんぜんじょう理由りゆう宅配たくはい担当たんとうしゃ武装ぶそうしていた。しょう事業じぎょうよう現金げんきん宝石ほうせきなどの貴重きちょうひんちいさな容器ようきれて定期ていきてきあつかわれていた。郵便ゆうびん為替かわせトラベラーズチェックあつかいは、クレジットカードが使つかわれるようになるまえ時代じだいには宅配たくはい会社かいしゃ重要じゅうよう事業じぎょうで、世界中せかいじゅう使つかわれていた。カナダ宅配たくはい集配しゅうはいきょく (Canadian Express Cartage Department) が1937ねん3がつ設立せつりつされ、少量しょうりょう貨物かもつふくめたおおくの宅配たくはい物品ぶっぴん収集しゅうしゅう配達はいたつあつかうようになった。通常つうじょう宅配たくはい会社かいしゃ車両しゃりょうあかるいあか塗装とそうされていたのにたいし、この部門ぶもんのトラックはみどりられていた。高速こうそく道路どうろのトラックを利用りようした宅配たくはい路線ろせんは1945ねん11月にオンタリオしゅうおよびアルバータしゅう南部なんぶはじまり、鉄道てつどう道路どうろ輸送ゆそう協調きょうちょうさせることで、とく支線しせんじょうにあるちいさな目的もくてきにはよりよい輸送ゆそう提供ていきょうできるようになった。トラック営業えいぎょうはカナダ全体ぜんたいへとひろがってき、少量しょうりょう輸送ゆそうかんしては重要じゅうよう交通こうつう手段しゅだんとなった。しかし1980年代ねんだい規制きせい緩和かんわによりすべてがわり、なん時流じりゅう沿った変革へんかく努力どりょくおこなったものの、トラック輸送ゆそう終了しゅうりょうした[よう出典しゅってん]

特別とくべつ列車れっしゃ

編集へんしゅう

きぬ輸送ゆそう列車れっしゃ

編集へんしゅう

1890年代ねんだいから1933ねんまで、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうではひがしアジアから出荷しゅっかされたきぬをバンクーバーからニューヨークやニュージャージーにあるきぬ製品せいひん工場こうじょうまではこんでいた。1ほんきぬ輸送ゆそう列車れっしゃではすうひゃくまんドル相当そうとうきぬはこばれ、武装ぶそうした護衛ごえい専用せんよう乗務じょうむしていた。列車れっしゃ強盗ごうとう危険きけんけ、保険ほけん費用ひよう節約せつやくするために、きぬ輸送ゆそう列車れっしゃはできるだけはや走行そうこうし、機関きかんしゃ乗務じょうむいん交代こうたいのためだけに停車ていしゃし、停車ていしゃ時間じかんも5ふん以下いかであった。きぬ輸送ゆそう列車れっしゃのあらゆる列車れっしゃたいして優先ゆうせんけんっており、きぬ輸送ゆそう列車れっしゃはやとおすために、旅客りょかく列車れっしゃでさえ側線そくせん待避たいひさせられていた。だい世界せかい大戦たいせんまつには、ナイロン発明はつめいされてきぬ重要じゅうようひんではなくなったこともあり、きぬ輸送ゆそう列車れっしゃ廃止はいしされた[59]

葬送そうそう列車れっしゃ

編集へんしゅう
 
カナダの首相しゅしょうつとめたジョン・A・マクドナルド葬送そうそう列車れっしゃ

葬送そうそう列車れっしゃ英語えいごばんでは、首相しゅしょうのような重要じゅうよう人物じんぶつ遺体いたい輸送ゆそうおこなった。葬送そうそう列車れっしゃ進行しんこうするさいには、会葬かいそうしゃ所定しょてい位置いちって弔意ちょういあらわした。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう葬送そうそう列車れっしゃとしては、2ほんとく有名ゆうめいである。1891ねん6がつ10日とおかにカナダの首相しゅしょうつとめたジョン・A・マクドナルド葬送そうそう列車れっしゃがオタワからオンタリオしゅうキングストンまで運転うんてんされた。この列車れっしゃぬのらされた5りょう客車きゃくしゃ構成こうせいされており、283ごう機関きかんしゃによって牽引けんいんされていた。1915ねん9がつ14にちには、かつてカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう社長しゃちょうつとめたウィリアム・ヴァン・ホーンの葬送そうそう列車れっしゃがモントリオールからイリノイしゅうジョリエットまで運転うんてんされ、2213ごう機関きかんしゃ牽引けんいんした[よう出典しゅってん]

ロイヤルトレイン

編集へんしゅう
 
ジョージ6せいエリザベス・ボーズ=ライアン、ブリティッシュコロンビアしゅうホープにて

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうでは、王室おうしつひとがカナダをおとずれたさいには、おおくのロイヤルトレインを運転うんてんしている。人々ひとびと賓客ひんきゃく拝謁はいえつ挨拶あいさつできるよう、賓客ひんきゃくをカナダの風景ふうけい森林しんりんちいさなまちなどにれてった。こうしたロイヤルトレインは優雅ゆうが装飾そうしょくされており、郵便ゆうびんきょく理容りようしつなどをそなえていることもあった。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうでもっとも有名ゆうめいなロイヤルトレインは1939ねんのものである。1939ねんにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうとカナディアン・ナショナル鉄道てつどう双方そうほうは、ジョージ6せいエリザベス・ボーズ=ライアン2人ふたりにケベックシティーからバンクーバーまで鉄道てつどうでの移動いどう提供ていきょうする栄誉えいよた。これは在位ざいいちゅう君主くんしゅがカナダを訪問ほうもんするはじめての機会きかいであった。牽引けんいん使つかわれた蒸気じょうき機関きかんしゃは、1938ねんモントリオール・ロコモティブ・ワークスせいハドソンがたのカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう2850ごう、ノーザンがたのカナディアン・ナショナル鉄道てつどう6400ごう、マウンテンがたのカナディアン・ナショナル鉄道てつどう6028ごうなどである。塗装とそうされなかったカナディアン・ナショナル鉄道てつどう6028ごう以外いがいは、特別とくべつにロイヤルブルーで塗装とそうされ、列車れっしゃ全体ぜんたいぎんおびかれた。機関きかんしゃはカナダ全体ぜんたいを5,189キロメートル走行そうこうし、途中とちゅうで25かい乗務じょうむいん交代こうたいし、機関きかんしゃ故障こしょうすることはなかった。いくぶんの鉄道てつどうファンであったジョージ6せいは、可能かのうであれば機関きかんしゃ運転うんてんだいっていた。旅行りょこう終了しゅうりょう、ジョージ6せいはカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうたいして、機関きかんしゃに「ロイヤル・ハドソン」の名前なまえけて、そのランボードに王冠おうかんえがくことを許可きょかした。これは、標準ひょうじゅんのハドソンがた(2800ごうから2819ごう)ではなく、じゅんりゅう線形せんけいがたの2820ごうから2864ごうにのみ適用てきようされた[60]

農業のうぎょう改良かいりょう列車れっしゃ

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カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうでは、「農業のうぎょう改良かいりょう列車れっしゃ」という最新さいしん農業のうぎょう研究けんきゅうかんする情報じょうほうひろめるための列車れっしゃを1914ねんから1922ねんにかけてサスカチュワンしゅう地方ちほう運転うんてんしていた。サスカチュワン大学だいがくから要員よういん派遣はけんされ、費用ひよう農業のうぎょうしょう負担ふたんした[61]

学校がっこう列車れっしゃ

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1926ねんから1960年代ねんだい初期しょきまで、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうでは学校がっこうからとおいオンタリオしゅう北部ほくぶ人々ひとびとのために学校がっこう列車れっしゃ運転うんてんしていた。特別とくべつ設計せっけいされた車両しゃりょうって先生せんせいかけ、1かしょで2にちから3にち程度ていど滞在たいざいしておしえ、ふたた場所ばしょ移動いどうしていた。車両しゃりょうには黒板こくばんつくえ椅子いす搭載とうさいされていた。またミニ図書館としょかんがあり、先生せんせい滞在たいざい設備せつびもあった[よう出典しゅってん]

大陸たいりく横断おうだんちょう特急とっきゅう

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ロサンゼルスからシカゴまでの大陸たいりく横断おうだん列車れっしゃなか殺人さつじん事件じけんきるはなしえがいた1976ねん映画えいが大陸たいりく横断おうだんちょう特急とっきゅう」(原題げんだいシルバー・ストリーク Silver Streak)では、大掛おおがかりな映画えいが撮影さつえいがカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう使つかっておこなわれ、おもにアルバータしゅうないえきのシーンはトロントのユニオンえき撮影さつえいされた。列車れっしゃ架空かくうのAMRoadという鉄道てつどう会社かいしゃのものとして偽装ぎそうされていたが、偽装ぎそう程度ていどうまかったこともあり機関きかんしゃ客車きゃくしゃもと番号ばんごうがそのままであり、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうあかいストライプの塗装とそう容易ようい確認かくにんできた。このとき車両しゃりょうのほとんどはVIA鉄道てつどうでなお営業えいぎょう運転うんてん使つかわれており、先頭せんとう機関きかんしゃの4070ごうと2りょうの4067ごうはそれぞれVIA鉄道てつどうとCTCUMに売却ばいきゃくされている[62]

ホリデートレイン

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2009ねん11月に運転うんてんされたホリデートレイン、モントリオールにて
 
ホリデートレインでひろげられるショーをひとたち

1999ねんから、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうでは11月から12がつにかけて「ホリデートレイン」を本線ほんせん沿いに運行うんこうしている。このホリデートレインは、ホリデーシーズンをいわうとともに、地域ちいきフードバンク飢餓きが救済きゅうさいのための寄附きふあつめている。また、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうとその荷主にぬし宣伝せんでんおこなっている。かく列車れっしゃには、列車れっしゃ移動いどうする芸人げいにんせ、そのためのステージを有蓋ゆうがいしゃそなえている[63]

この列車れっしゃ貨物かもつ列車れっしゃではあるが、ふる客車きゃくしゃ牽引けんいんしており、乗務じょうむいん芸人げいにん移動いどう宿泊しゅくはく利用りようされる。職員しょくいんとその家族かぞくをある停車ていしゃてんからつぎ停車ていしゃてんまではこ以外いがいは、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう従業じゅうぎょういん芸人げいにんのみがこの列車れっしゃることができる。1999ねん開始かいし以来いらい、ホリデートレインは950まんカナダドルほどの寄付きふきんあつめ、330まんポンドの食品しょくひんきたアメリカフードバンクに提供ていきょうした。ある自治体じちたいあつめられた寄附きふは、その自治体じちたいないでの配布はいふもちいられている[64]

カナダ、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく北東ほくとうおよび中西部ちゅうせいぶで150かしょしゅうる2ほんのホリデートレインが運転うんてんされている[65]列車れっしゃやく1000フィート(やく300メートル)のながさで、かざけられたきゃく貨車かしゃ構成こうせいされ、そのなかには芸人げいにんけの移動いどうステージに転換てんかんできる改造かいぞうされた有蓋ゆうがいしゃ連結れんけつされている。かずじゅうまんのLEDクリスマスイルミネーションでかざられている。2013ねんには15周年しゅうねんいわって、貧困ひんこん問題もんだいへの関心かんしんをさらにたかめることをねらい、オンタリオしゅうハミルトン、アルバータしゅうカルガリー、ミネソタしゅうコテージグローブ記念きねんイベントが開催かいさいされた[よう出典しゅってん]

ロイヤル・カナディアン・パシフィック

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6がつから9がつにかけて運行うんこうされる豪華ごうか観光かんこう列車れっしゃロイヤル・カナディアン・パシフィック英語えいごばん運転うんてんが、2000ねん6がつ7にちから開始かいしされた。この列車れっしゃはカルガリーからブリティッシュコロンビアしゅうコロンビア峡谷きょうこく英語えいごばんとおり、クロウネストとうげとおってカルガリーへもどってくる1,050キロメートルの距離きょり運転うんてんする。5はく6にちたびである。1916ねんから1931ねんにかけて製造せいぞうされた最大さいだい8りょう豪華ごうか客車きゃくしゃ連結れんけつし、最初さいしょのディーゼル機関きかんしゃ(FP9)が牽引けんいんしている[66]

蒸気じょうき機関きかんしゃ列車れっしゃ

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ウィスコンシンしゅうスタートエヴァントをとおるカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう2816ごう機関きかんしゃ「エンプレス」、2007ねん9がつ1にち

蒸気じょうき機関きかんしゃ時代じだいわってからながった1964ねん1がつ売却ばいきゃくされて以後いごアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくない保存ほぞん展示てんじされていたかつての旅客りょかくよう蒸気じょうき機関きかんしゃを、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは1998ねん買戻かいもどした。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうのハドソンがた2816ごうは、100まんドル以上いじょう費用ひようをかけ、30かげつ時間じかんをかけて修復しゅうふくされ、あらためて「エンプレス」と名付なづけられた。その広告こうこく宣伝せんでん目的もくてき運転うんてん復帰ふっきした。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくない路線ろせんふくめて、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう路線ろせんもうないのほとんどすべてをまわり、慈善じぜん活動かつどう目的もくてき使つかわれた。あつめられた寄付きふきんはすべて全国ぜんこくてき慈善じぜん活動かつどうである「学習がくしゅうのために朝食ちょうしょくを」キャンペーンにおくられ、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう運行うんこう経費けいひのすべてを負担ふたんした。2816ごうは、2001ねんIMAX映画えいがで、バンクーバーを出発しゅっぱつしてひがしかう機関きかんしゃげ、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう建設けんせつ歴史れきしかたる「ロッキー・マウンテン・エクスプレス英語えいごばん」のテーマとなった[67]

スピリットトレイン

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2008ねんにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは、2010ねんバンクーバーオリンピック公式こうしきパートナーとなり、あちこちの停車駅ていしゃえきでオリンピックをテーマにしたイベントをひらく「スピリットレイン」を運転うんてんした。コリン・ジェームズ英語えいごばんおもなショーを提供ていきょうした[68]。しかしなんしょかでは、オリンピックは先住民せんじゅうみんからうばわれた土地とち開催かいさいされると主張しゅちょうする活動かつどう抗議こうぎ見舞みまわれることになった[69][70][71]

鉄道てつどう事業じぎょう

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歴史れきしてきに、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはいくつもの鉄道てつどう事業じぎょう運営うんえいしてきた。1971ねんにこうした事業じぎょうはカナディアン・パシフィック・リミテッドという独立どくりつ企業きぎょう分割ぶんかつされ、2001ねんにさらにこの会社かいしゃが5つの会社かいしゃ分割ぶんかつされた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはこれらの事業じぎょうすで運営うんえいしていない[よう出典しゅってん]

電信でんしん

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1881ねんにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうあたえられた当初とうしょ特許とっきょでは、電信でんしんおよび電話でんわ事業じぎょう設立せつりつしてその事業じぎょう料金りょうきん徴収ちょうしゅうする権利けんりみとめていた。当時とうじ電話でんわはまだほとんど発明はつめいされたばかりであったが、電信でんしんすで長距離ちょうきょり素早すばや情報じょうほうおく手段しゅだんとして確立かくりつされていた。こうした事業じぎょう料金りょうきん徴収ちょうしゅうすることをみとめられたことにより、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうおも自社じしゃ列車れっしゃ運行うんこう管理かんりもちいるために、線路せんろ沿って膨大ぼうだい距離きょり電信でんしんせん敷設ふせつ維持いじする費用ひよう一部いちぶまかなうことができた。この電信でんしん事業じぎょうは、独立どくりつした電信でんしん部門ぶもんにより1882ねん開始かいしされた。さらに、大西洋たいせいよう横断おうだん電信でんしんケーブル太平洋たいへいよう横断おうだん電信でんしんケーブルが完成かんせいすると、これらのあいだをつなぐ役割やくわりたすようになった。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう電信でんしん事業じぎょう開始かいしされるまえは、カナダ西部せいぶへの情報じょうほう伝送でんそうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくない経由けいゆしておくらなければならなかった[72]

1ごとに課金かきんされる電信でんしんは、高価こうか情報じょうほう伝達でんたつ手段しゅだんであったが、事業じぎょうにとっては不可欠ふかけつなものであった。死亡しぼう通知つうち以外いがい個人こじんてき電報でんぽうひとは、それだけで重要じゅうよう人物じんぶつであるとられるものであった。自転車じてんしゃったメッセンジャーがまちちゅう電報でんぽう配達はいたつにでかけ、それへの返事へんじっていた。ちいさなまちでは、駅員えきいん委託いたくけて電報でんぽうあつかいをおこなっていた。処理しょり高速こうそくするため、末端まったんでは情報じょうほうをまず電話でんわおくることもあった。電信でんしん部門ぶもんは1931ねんに、電話でんわ通信つうしんしゃ株式かぶしき市場いちば動向どうこうつたえるストックティッカー、そして最終さいしゅうてきにはテレタイプ端末たんまつ多様たようして拡大かくだいするサービスに対応たいおうして、通信つうしん部門ぶもんとなった。どれも手紙てがみよりはやく、事業じぎょうにとってとても重要じゅうようであり、携帯けいたい電話でんわやコンピューターが出現しゅつげんするまでなんじゅうねんにもわたって愛用あいようされた。競争きょうそうではなく合併がっぺいによって効率こうりつ改善かいぜんしようとして、1967ねんCNCP電気でんき通信つうしん英語えいごばん設立せつりつされたが、それでもなおこうしたあたらしい技術ぎじゅつとく携帯けいたい電話でんわ出現しゅつげんによって、最終さいしゅうてきにこうした事業じぎょう終焉しゅうえんむかえることになった。1980年代ねんだい規制きせい緩和かんわにより、他社たしゃ合併がっぺいのこった事業じぎょう設備せつび売却ばいきゃくされることになった[73]

カナディアン・ナショナル鉄道てつどう開設かいせつしたCNRラジオ英語えいごばん対抗たいこうして、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは1930ねん1がつ17にち自前じまえのラジオもう整備せいびするために大西洋たいせいようがんから太平洋たいへいようがんまでのあいだの11都市としにラジオきょく運営うんえいする免許めんきょ申請しんせいした。カナディアン・ナショナル鉄道てつどうは、自社じしゃ宣伝せんでん旅行りょこうちゅう旅客りょかく娯楽ごらく提供ていきょうする目的もくてきでラジオもう整備せいびしていた。世界せかい恐慌きょうこうはじまって、カナディアン・ナショナル鉄道てつどうのラジオもう対抗たいこうする計画けいかく予算よさん影響えいきょうがあり、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは4がつにトロント、モントリオール、ウィニペグをのぞくすべてのラジオきょく申請しんせいげた。この申請しんせい固執こしつするのではなく、トロントではCanadian Pacific Royal YorkりゃくしたCPRYとしてられる放送ほうそうきょくを、きょく設備せつびりて運営うんえいするようになった[74]。これはカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうロイヤルヨークホテルのスタジオから放送ほうそうされており、CFRB英語えいごばんあるいはCBLA英語えいごばん放送ほうそう時間じかんりて送信そうしんされていた[75]。1930年代ねんだい前半ぜんはんには、その支局しきょくもうもカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうのラジオ放送ほうそうおこなっていたが、CNRラジオをいであたらしくカナダラジオ放送ほうそう委員いいんかい英語えいごばん発足ほっそくしたことで、カナディアン・ナショナル鉄道てつどう対抗たいこうするという目的もくてきでラジオ放送ほうそうもう必要ひつようせいがなくなり、1935ねんにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうのラジオ放送ほうそう終了しゅうりょうした。

汽船きせん事業じぎょうは、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう創始そうしから重要じゅうよう部分ぶぶん構成こうせいしてきた。政府せいふ契約けいやくしゃからカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう以前いぜんの、ブリティッシュコロンビアしゅうにおける路線ろせん建設けんせつちゅうであっても、ふね使つかって建設けんせつ現場げんばへの補給ほきゅうおこなわれていた。同様どうように、北部ほくぶオンタリオしゅうにおいても、隔絶かくぜつした土地とちにある建設けんせつ現場げんば補給ほきゅう物資ぶっしはこぶためにふね使つかわれた。この作業さぎょうおこなわれているあいだにも、すで西にしへの定期ていき旅客りょかく輸送ゆそうおこなわれていた。トロントからの列車れっしゃはオーウェンサウンドまで運転うんてんされ、そこからカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう汽船きせんがフォートウィリアムまでをむすび、そこからウィニペグまでの列車れっしゃ運転うんてんされていた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう開通かいつうするまでは、西部せいぶ唯一ゆいいつ手段しゅだんはセントポールあるいはウィニペグをとおってアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく経由けいゆくことだった。五大ごだいみずうみにおける汽船きせん運航うんこうは、鉄道てつどう代替だいたい手段しゅだんとして長年ながねんあいだ鉄道てつどう会社かいしゃによってつづけられてきた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう五大ごだいみずうみにおける旅客りょかく輸送ゆそうは1965ねん終了しゅうりょうした[76]

1884ねんに、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう五大ごだいみずうみにおいて、建設けんせつ現場げんばへの物資ぶっし輸送ゆそう目的もくてき帆船はんせん購入こうにゅうはじめた。ながあいだに、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう五大ごだいみずうみ太平洋たいへいよう横断おうだん太平洋たいへいよう沿岸えんがん、ブリティッシュコロンビアしゅう湖沼こしょうおよび河川かせん大西洋たいせいよう横断おうだん、ファンディわんフェリーなど、広範こうはん船舶せんぱく運営うんえいおこな鉄道てつどう会社かいしゃとなっていった。20世紀せいきには、カナダをヨーロッパやアジアとむすぶ2ほん大洋たいよう横断おうだん航路こうろ運営うんえいする大陸たいりくあいだ鉄道てつどう会社かいしゃへと成長せいちょうした。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう運営うんえい範囲はんいは、統合とうごうされた計画けいかく反映はんえいしたものであった[77]

ブリティッシュコロンビアしゅうまで鉄道てつどう完成かんせいすると、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう旅客船りょかくせんけ、もなく自前じまえ購入こうにゅうした。これらの汽船きせん最新さいしん設計せっけいのもので、東洋とうようへのつながりから「エンプレス」をあたまけた名前なまえあたえられていた。東洋とうようとの航海こうかいでは、郵便ゆうびん輸送ゆそう契約けいやくにもささえられながら、輸入ゆにゅうするちゃきぬとく重要じゅうよう収入しゅうにゅうげんとなっていた。これはだいえい帝国ていこくむすぶ「オールレッドルート」の重要じゅうよう部分ぶぶん構成こうせいしていた。もう一方いっぽう大洋たいよう横断おうだん航路こうろがイングランドとむす大西洋たいせいよう航路こうろで、これはエルダー・デンプスター所有しょゆうのビーバー・ラインとアラン・ラインズの2つの航路こうろ買収ばいしゅうしたことからはじまっている。これら2ほん大洋たいよう横断おうだん航路こうろは、カナダ太平洋たいへいよう大洋たいよう航路こうろのちにカナダ太平洋たいへいよう汽船きせん)の営業えいぎょうとなり、カナダ国内こくないみずうみ営業えいぎょうしていた鉄道てつどう直結ちょっけつしたふねとは独立どくりつして運営うんえいされた。こうした大洋たいよう横断おうだん航路こうろ使つかえば、イギリスから香港ほんこんまで、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう船舶せんぱく鉄道てつどう・ホテルだけを利用りようしてくことができた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうの「エンプレス」シリーズのふねは、その豪華ごうかさとスピードで世界せかいてき有名ゆうめいとなった[よう出典しゅってん]。またこうしたふねは、広大こうだい平原へいげん地帯ちたい植民しょくみんする移民いみんたちをヨーロッパからはこぶという実用じつようてき役割やくわりっていた。またこうした船舶せんぱくは2かい世界せかい大戦たいせんでも重要じゅうよう役割やくわりたし、エンプレス・オブ・ブリテン英語えいごばんれいのようにてき攻撃こうげきおおくがうしなわれることになった[76]

また、おおくの鉄道てつどう連絡れんらくせん運営うんえいしており、オンタリオしゅうウィンザーとミシガンしゅうデトロイトのあいだでは1890ねんから1915ねんまで運航うんこうしていた。これは16りょう搭載とうさいできる外輪船がいりんせん2せきからはじまり、貨車かしゃだけでなく客車きゃくしゃはこんでいた。1910ねん開通かいつうしたミシガン・セントラル鉄道てつどうトンネル使つか契約けいやくをミシガン・セントラル鉄道てつどうむすんだことにより、1915ねん連絡れんらくせん廃止はいしとなった。1906ねんには、ペンシルバニア鉄道てつどう共同きょうどうでペンシルバニア-オンタリオ運輸うんゆ会社かいしゃ設立せつりつし、エリーにおいてオハイオしゅうアシュタビューラとオンタリオしゅうポートバーウェル英語えいごばんあいだ貨車かしゃこうおくする連絡れんらくせん運航うんこうした。おも石炭せきたんはこび、そのほとんどはカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう蒸気じょうき機関きかんしゃ燃料ねんりょうとなっていた。アシュタビューラという名前なまえ巨大きょだいふねが1せきのみ運航うんこうされ、最終さいしゅうてきにアシュタビューラのみなとで1958ねん9がつ18にちきた衝突しょうとつ事故じこ沈没ちんぼつし、この航路こうろ廃止はいしとなった[76]

他社たしゃ資本しほんによるものであったが、カナダ太平洋たいへいよう車両しゃりょう旅客りょかく輸送ゆそう会社かいしゃ (Canadian Pacific Car and Passenger Transfer Company) が1888ねん設立せつりつされ、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうのオンタリオしゅうプレスコットとニューヨーク・セントラル鉄道てつどうのニューヨークしゅうオグデンズバーグのあいだむすんだ。この航路こうろ運航うんこう実際じっさいにはブロックビルからのものと同様どうよう非常ひじょうはやく、1854ねんにははじまっていた。1958ねんはし完成かんせいして旅客りょかく輸送ゆそう終了しゅうりょうしたが、貨物かもつ輸送ゆそうは1970ねん9がつ25にち火災かさいでオグデンズバーグの桟橋さんばしけてしまうまでつづけられた。この会社かいしゃは、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう所有しょゆうしたことはいちもなかった。ファンディわんフェリーはノバスコシアしゅうディグビーとニューブランズウィックしゅうセントジョンのあいだ長年ながねん旅客りょかく貨物かもつ輸送ゆそうおこなってきた。最終さいしゅうてきに、開業かいぎょうから78ねん定期ていき旅客りょかく輸送ゆそう終了しゅうりょうした。貨物かもつ輸送ゆそうについてはコンテナ輸送ゆそう変化へんかしながらもつづけられている。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは、とく陸上りくじょうにおいてはインターモーダル輸送ゆそう創始そうししゃであり、よりよいサービスを提供ていきょうするために道路どうろ鉄道てつどうわせた事業じぎょうおこなっている。カナダ太平洋たいへいよう汽船きせんは2001ねん分割ぶんかつされてカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう傘下さんかはなれ、2005ねんハパックロイド合併がっぺいした[78]

ブリティッシュコロンビアしゅう沿岸えんがん航路こうろ

編集へんしゅう

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう沿岸えんがん航路こうろ(ブリティッシュコロンビアしゅう沿岸えんがん汽船きせん、BCCS)は、1901ねんにカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうとは関係かんけいのないカナダ太平洋たいへいよう汽船きせん会社かいしゃ英語えいごばん買収ばいしゅうしたことで設立せつりつされ、だい規模きぼ船隊せんたいによりバンクーバーとうふくむブリティッシュコロンビアしゅう沿岸えんがんの72のみなと運航うんこうしていた。航路こうろには、バンクーバー - ビクトリア - シアトル三角さんかく航路こうろ、ガルフとう、パウエルかわ、バンクーバー - アラスカ航路こうろなどがあった。大洋たいようふねが「エンプレス」シリーズであったのにたいして、その小型こがたばんとして「プリンセス」シリーズの14せき旅客船りょかくせん運航うんこうしており、このほか貨物かもつせん、3せきのタグボート、5せき車両しゃりょうはしけなどを保有ほゆうしていた。旅行りょこうしゃには人気にんきがあり、こうした「プリンセス」シリーズの旅客船りょかくせん有名ゆうめいで、とくに「プリンセス・マーガレット(2だい)」は1949ねんから1985ねんまで運航うんこうされた、最後さいご沿岸えんがん旅客船りょかくせんであった。「プリンセス・ソフィア英語えいごばん」は、1918ねん10がつにアラスカのリンわん英語えいごばんにおいてヴァンダービルト岩礁がんしょう英語えいごばん衝突しょうとつして沈没ちんぼつし、全員ぜんいんくなった。これはこの地域ちいき歴史れきし最大さいだい海難かいなん事故じことなっている。こうした運航うんこうは、1950年代ねんだいまつ状況じょうきょうわって衰退すいたいはじめ、最終さいしゅうてきに1974ねん廃止はいしとなるまでつづけられた。プリンセス・マーガレットはしゅう保有ほゆうするブリティッシュコロンビア汽船きせん買収ばいしゅうされて、さらにしばらくのあいだ運航うんこうつづけた。法的ほうてきにはブリティッシュコロンビアしゅう沿岸えんがん汽船きせん正式せいしき名前なまえであったものの、1977ねんにコースタル・マリン・オペレーションズというブランドめい採用さいようした。1998ねんにこの会社かいしゃはワシントン・マリングループによって買収ばいしゅうされ、買収ばいしゅうシースパン・コースタル・インターモーダルカンパニーへと改称かいしょうされ、さらに2011ねんにシースパン・フェリーズ・コーポレーションとなった。旅客りょかく営業えいぎょうは1981ねん廃止はいしされている[79]

ブリティッシュコロンビアしゅう湖沼こしょう河川かせん航路こうろ

編集へんしゅう

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうのブリティッシュコロンビアしゅう湖沼こしょう河川かせん航路こうろは、当初とうしょはゆっくり発達はったつしたが、のち急速きゅうそく発展はってんした。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは、アロー英語えいごばんおいて汽船きせんはしけ運行うんこうしていたコロンビア・アント・クートネイ汽船きせん会社かいしゃを1897ねん買収ばいしゅうして、ブリティッシュコロンビアしゅう南部なんぶのクートネイ地方ちほうにおけるなが運航うんこう歴史れきしはじまった。この会社かいしゃはカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう合併がっぺいしてカナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう湖沼こしょう河川かせん航路こうろとなり、アローみずうみやコロンビアがわ、クートネイ、クートネイがわオカナガンスクハ英語えいごばんスローカン英語えいごばんトラウト英語えいごばんシューシュワープ英語えいごばんトンプソンかわ英語えいごばんカムループス英語えいごばんなどでも運航うんこうした[76]

こうした湖沼こしょうぐんでの運航うんこう共通きょうつうすることとして、喫水きっすいあさくする必要ひつようから船尾せんび外輪船がいりんせん採用さいようしていたことがげられる。タグボートとはしけ使つかって鉄道てつどう車両しゃりょうはこぶことがあり、機関きかんしゃからカブースまで列車れっしゃのすべての車両しゃりょうはこぶこともあった。こうした運航うんこう次第しだい衰退すいたいし、1975ねんにスローカンでの貨物かもつ輸送ゆそうはしけのぞいて廃止はいしされた。ここは、孤立こりつした線路せんろ列車れっしゃ全体ぜんたいわたすためにはしけもちいられている区間くかんであった。1988ねん12がつまつ最後さいご列車れっしゃ運航うんこうされるまで、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうとの契約けいやくしたにアイリスGというタグボートとはしけ運航うんこうされていた。1898ねんから1957ねんまでクートネイ運航うんこうされていたモイー英語えいごばんが、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうのブリティッシュコロンビアしゅう湖沼こしょう河川かせん航路こうろ最後さいご運航うんこうされた旅客船りょかくせんであった。のちに、オカナガンにおけるシカマウスやナラマタとおなじく、ろくげられて歴史れきし展示てんじぶつとなっている[80][81]

観光かんこう発展はってんさせ乗客じょうきゃくすうばすために、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうだいいちきゅうのホテルぐん設立せつりつした。こうしたホテルぐんは、それ自体じたい有名ゆうめいなランドマークとなっていった。ケベック・シティーシャトー・フロンテナック、トロントにロイヤルヨークホテル、バンクーバーにホテル・バンクーバー英語えいごばんビクトリアエンプレスホテル、カナディアン・ロッキーにバンフ・スプリングス・ホテルシャトー・レイク・ルイーズ英語えいごばんなどである。ジャスパー・パーク・ロッジなど、いくつかの特徴とくちょうてきなホテルは競合きょうごうするカナディアン・ナショナル鉄道てつどうから1980年代ねんだい買収ばいしゅうしたものである。こうしたホテルぐんは、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう時代じだい遺産いさんのこしているものの、もはや鉄道てつどう会社かいしゃ運営うんえいではなくなっている。1998ねんカナダ太平洋たいへいようホテル英語えいごばんはアメリカのフェアモント・ホテルズを買収ばいしゅうし、フェアモント・ホテルズ・アンド・リゾーツとなった。この合併がっぺいした会社かいしゃもとからのカナダのホテルぐんとフェアモントのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくないのホテルぐん運営うんえいしていたが、2006ねんにラッフルズ・ホテルズ・アンド・リゾーツとスイスオテルと合併がっぺいした[82]

航空こうくう

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カナディアン航空こうくうは、1942ねんから1987ねんまで営業えいぎょうし、政府せいふ所有しょゆうしていたエア・カナダ競合きょうごうしていた。バンクーバー国際こくさい空港くうこう本拠地ほんきょちとし、カナダ国内こくない路線ろせん国際線こくさいせん運営うんえいおこなっていたが、パシフィック・ウエスタン航空こうくう英語えいごばんにより買収ばいしゅうされて合併がっぺいしてカナディアン航空こうくうとなった[よう出典しゅってん]

機関きかんしゃ

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蒸気じょうき機関きかんしゃ

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カウンテス・オブ・ダファリン英語えいごばん

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう初期しょきには、アメリカにおいて標準ひょうじゅんてきであった車軸しゃじく配置はいち4-4-0の機関きかんしゃ広範こうはん使用しようし、たとえばカウンテス・オブ・ダファリン英語えいごばんなどのれいがある。のちに、旅客りょかくようには車軸しゃじく配置はいち4-6-0が、貨物かもつようには車軸しゃじく配置はいち2-8-0がひろ使つかわれた。20世紀せいきはいると、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうすうひゃくりょうにおよぶテンホイラー(車軸しゃじく配置はいち4-6-0)を旅客りょかくようおよび貨物かもつよう購入こうにゅうあるいは製造せいぞうし、また車軸しゃじく配置はいち2-8-0や2-10-2を貨物かもつよう製作せいさくした。山岳さんがく地帯ちたいでは、2-10-2は旅客りょかくようにももちいられた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは1906ねんから1948ねんにかけてすうひゃくりょうのパシフィック(車軸しゃじく配置はいち4-6-2)を購入こうにゅうし、このうち後半こうはんのものは旅客りょかくよう高速こうそく貨物かもつよう両用りょうようとなっていた[83]

 
カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう2317ごう機関きかんしゃ、アンガス工場こうじょうで1923ねん製作せいさくされたG-3-cがたのパシフィック

カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはモントリオールにある自社じしゃ工場こうじょうおおくの機関きかんしゃ製造せいぞうしていた。最初さいしょは、一般いっぱんてきにはデロリマー工場こうじょうばれていたニュー工場こうじょう製作せいさくし、1904ねん巨大きょだいなアンガス工場こうじょう移転いてんした。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう機関きかんしゃでもよくられたものとして、車軸しゃじく配置はいち4-6-4のハドソンがたがある。1929ねん製作せいさくはじまり、頻繁ひんぱん機関きかんしゃ交換こうかんする必要ひつようせいをなくして、大陸たいりく横断おうだん旅客りょかく列車れっしゃ運転うんてん方法ほうほうえ、現代げんだい機関きかんしゃあたらしい時代じだいきずいた。モントリオールからバンクーバーまで2,883マイル(やく4,640キロメートル)に、1886ねんには車軸しゃじく配置はいち4-4-0の機関きかんしゃを24かい交換こうかんしていた(山岳さんがく地帯ちたいでは車軸しゃじく配置はいち2-8-0のものが2りょう)が、これを8かい交換こうかんむようにした[よう出典しゅってん]。ハドソンがたの2800がたは、トロントからフォートウィリアムまでの811マイル(やく1,305キロメートル)をはしり、やはりなが機関きかんしゃ走行そうこう区間くかんとしてウィニペグからカルガリーまでの832マイル(やく1,339キロメートル)がある。なかでもとく著名ちょめいなものが、じゅんながれ線形せんけい車両しゃりょうのH1クラス「ロイヤル・ハドソン」で、1939ねんにジョージ6せいとエリザベス・ボーズ=ライアンがカナダを訪問ほうもんしたさいにロイヤルトレインを牽引けんいんし、1かい機関きかんしゃ交換こうかん故障こしょう発生はっせいさせなかったことかにちなんで名前なまえあたえられた。この2850ごう機関きかんしゃは、ケベックのカナダ鉄道てつどう博物館はくぶつかん英語えいごばんのエキスポレール展示てんじかん保存ほぞんされている。このかたの2860ごうはブリティッシュコロンビアしゅう政府せいふによって復元ふくげんされ、1974ねんから1999ねんまでブリティッシュコロンビア鉄道てつどう英語えいごばん観光かんこう列車れっしゃ運転うんてん使つかわれていた[よう出典しゅってん]

1929ねんには、カナダおよびだいえい帝国ていこく運行うんこうされた蒸気じょうき機関きかんしゃとしては最大さいだいとなる、車軸しゃじく配置はいち2-10-4のセルカークがた蒸気じょうき機関きかんしゃ最初さいしょの1りょう納入のうにゅうけた。この機関きかんしゃ投入とうにゅうさきのセルカーク山脈さんみゃくにちなんでづけられ、きゅう勾配こうばいてきするように設計せっけいされていた。旅客りょかく貨物かもつともに定期ていき運用うんようされていた。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうではこのかた機関きかんしゃを37りょう保有ほゆうし、そのなかには実験じっけんてきこうあつボイラーを搭載とうさいした8000ごう機関きかんしゃもあった。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう最後さいご納入のうにゅうされた蒸気じょうき機関きかんしゃは、このセルカークがたの5930ごうから5935ごうまでで、1949ねんのことであった。

ディーゼル機関きかんしゃ

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カルガリーへけてはしる、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうひがし旅客りょかく列車れっしゃ、1973ねんごろ

1937ねんに、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうはじめての電気でんきしきディーゼル機関きかんしゃとして、7000ごう番号ばんごうけられた特別とくべつ注文ちゅうもんにゅうかわ機関きかんしゃ購入こうにゅうした。この機関きかんしゃ成功せいこうわり、これ以上いじょう生産せいさんされなかった。量産りょうさんがたのディーゼル機関きかんしゃとしては、アメリカン・ロコモティブから1943ねん輸入ゆにゅうしたS-2英語えいごばんかたにゅうかわ機関きかんしゃ5りょうで、以降いこうさらに継続けいぞく発注はっちゅうおこなわれた。1949ねんバーモントしゅうにおける路線ろせん運行うんこうアルコFAAユニット8りょうBユニット4りょうRS-2かた5りょう、S-2がた3りょうEMD E8英語えいごばんかた3りょうでディーゼルされた。1948ねんモントリオール・ロコモティブ・ワークスがアルコの設計せっけいによる機関きかんしゃ生産せいさんはじめた[84]

1949ねんには、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうボールドウィン・ロコモティブ・ワークス設計せっけいカナディアン・ロコモティブ・カンパニー製造せいぞうされた13りょう機関きかんしゃを、孤立こりつしたバンクーバーとう路線ろせんもうよう購入こうにゅうし、バンクーバーとうはすぐにディーゼル完了かんりょうした。この成功せいこうけて、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう本線ほんせんもうにおけるディーゼル開始かいしし、11ねん完了かんりょうした。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう最後さいご蒸気じょうき機関きかんしゃ運転うんてんは、1960ねん11月6にちのことであった。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうだい1世代せだいのディーゼル機関きかんしゃはほとんどがゼネラルモーターズ・ディーゼルとモントリオール・ロコモティブ・ワークス(アメリカン・ロコモティブの設計せっけいによる)の製造せいぞうで、一部いちぶはボールドウィンおよびフェアバンクス・モース設計せっけいもとづいてカナディアン・ロコモティブ・カンパニーで製造せいぞうされたものもあった。カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうは1984ねんきたアメリカで最初さいしょ交流こうりゅう電動でんどう使つかった電気でんきしきディーゼル機関きかんしゃ使用しようすることになった。1995ねんからカナダでの最初さいしょ量産りょうさん交流こうりゅう電動でんどうディーゼル機関きかんしゃGEトランスポーテーション・システムから導入どうにゅうし、現在げんざいではきたアメリカの一級いっきゅう鉄道てつどう事業じぎょうしゃとしてもっともたか比率ひりつ交流こうりゅう電動でんどう機関きかんしゃ運用うんようしている。

会社かいしゃ組織そしき

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カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうリミテッド (TSXCP NYSECP) は、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう運営うんえいしているカナダの鉄道てつどう会社かいしゃである。以前いぜん親会社おやがいしゃであったカナダ太平洋たいへいようリミテッドが2001ねん鉄道てつどう事業じぎょう分割ぶんかつしたことで発足ほっそくした。2001ねん10がつ3にちからニューヨーク証券しょうけん取引とりひきしょおよびトロント証券しょうけん取引とりひきしょで、記号きごうCPで株式かぶしき取引とりひきはじまった。2003ねんには貨物かもつ事業じぎょうで35おくカナダドルの収入しゅうにゅうがあった。2008ねん10がつに、カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどうリミテッドはメディアコープ・カナダによる「カナダの雇用こようぬし上位じょうい100しゃ」の1しゃ選定せんていされ、週刊しゅうかんマクリーンで特集とくしゅうまれた。また、アルバータしゅう雇用こようぬし上位じょういにも位置いちづけられ、カルガリー・ヘラルド英語えいごばんおよびエドモントン・ジャーナル英語えいごばんほうじられた[85]

社長しゃちょう

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在任ざいにん期間きかん 氏名しめい
1881ねん – 1888ねん ジョージ・スティーブン英語えいごばん   イギリス/  カナダ
1889ねん – 1899ねん ウィリアム・ヴァン・ホーン英語えいごばん   アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく/  カナダ
1899ねん – 1918ねん トーマス・ショーネッシー英語えいごばん   アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく/  カナダ
1918ねん – 1942ねん エドワード・ウェントワース・ビーティ英語えいごばん   カナダ
1942ねん – 1947ねん ダルトン・コーリー・コールマン英語えいごばん   カナダ
1947ねん – 1948ねん ウィリアム・ニール英語えいごばん   カナダ
1948ねん – 1955ねん ウィリアム・アレン・マザー   カナダ
1955ねん – 1964ねん、1966ねん バック・クランプ英語えいごばん   カナダ
1964ねん – 1966ねん ロバート・A・「ボブ」・エマーソン   カナダ
1966ねん – 1972ねん イアン・デービッド・シンクレア英語えいごばん   カナダ
1972ねん – 1981ねん フレッド・バービッジ   カナダ
1981ねん – 1990ねん ウィリアム・スティンソン英語えいごばん   カナダ
1990ねん – 2006ねん ロバート・リッチー英語えいごばん   カナダ
2005ねん – 2012ねん フレッド・グリーン   カナダ
2012ねん スティーブン・トービアス(暫定ざんてい  アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
2012ねん現在げんざい ハンター・ハリソン英語えいごばん   アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく

主要しゅよう施設しせつ

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カナダ太平洋たいへいよう鉄道てつどう鉄道てつどうもう全体ぜんたいわたって操車そうしゃじょう修理しゅうり工場こうじょう保有ほゆうしており、インターモーダルターミナルや組成そせいヤードなどおおくの業務ぎょうむもちいられている。以下いか一部いちぶしめす。

組成そせいヤードでは、ハンプとばれるちいさなおかから貨車かしゃはしらせ、さきべつ分類ぶんるいして列車れっしゃ出発しゅっぱつできるかたち組成そせいする。こうしたおおくの組成そせいヤードは、ハリソンが社長しゃちょう就任しゅうにんしてからの全社ぜんしゃてき改革かいかくにより2012ねんから2013ねんにかけて廃止はいしされ、セントポール操車そうしゃじょうのハンプのみがのこされている[よう出典しゅってん]

  • アルバータしゅうカルガリー - アリス操車そうしゃじょう、168エーカー(やく0.68平方へいほうキロメートル)、1にち2200しゃあつかい(廃止はいし
  • イリノイしゅうシカゴ - ベンセンビル操車そうしゃじょう廃止はいし
  • ケベックしゅうモントリオール - サンリック操車そうしゃじょう、1950ねんから使つかわれ、1980年代ねんだいからは平面へいめんしき操車そうしゃじょうであった(廃止はいし
  • ミネソタしゅうセントポール - ピッグスアイ操車そうしゃじょう/セントポール操車そうしゃじょう[86]
  • オンタリオしゅうトロント - トロント操車そうしゃじょう(トロント貨物かもつヤード、あるいはアギンコート操車そうしゃじょうとも)、1964ねん開設かいせつ廃止はいし
  • マニトバしゅうウィニペグ - ラグビー操車そうしゃじょう(ウェストン操車そうしゃじょうとも)(廃止はいし

出典しゅってん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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