カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の創設 そうせつ は、もともといくつかの理由 りゆう の組 く み合 あ わせにより、保守党 ほしゅとう 政権 せいけん のジョン・A・マクドナルド 首相 しゅしょう によって取 と り組 く まれたものであった。ブリティッシュコロンビアは、自治領 じちりょう カナダに加盟 かめい する条件 じょうけん として東部 とうぶ と結 むす ぶ交通 こうつう 機関 きかん を要求 ようきゅう した(当初 とうしょ は馬車 ばしゃ の通 とお る道路 どうろ を求 もと めていた)[3] 。しかし政府 せいふ は、1871年 ねん 7月 がつ 20日 はつか から起算 きさん して10年 ねん 以内 いない に、太平洋 たいへいよう 沿岸 えんがん 部 ぶ と東部 とうぶ 諸 もろ 州 しゅう を結 むす ぶ鉄道 てつどう を建設 けんせつ するという提案 ていあん を行 おこな った。マクドナルドは、大陸 たいりく 全体 ぜんたい にまたがるカナダを単一 たんいつ の国家 こっか として成立 せいりつ させるためには、鉄道 てつどう の建設 けんせつ が不可欠 ふかけつ なものであるとみなしていた。さらにケベック州 しゅう やオンタリオ州 しゅう の製造 せいぞう 業 ぎょう は、カナダ西部 せいぶ の原材料 げんざいりょう や市場 いちば へのアクセスを必要 ひつよう としていた。
ジョン・A・マクドナルド
その建設 けんせつ に対 たい する最初 さいしょ の障害 しょうがい は、政治 せいじ 的 てき なものであった。鉄道 てつどう を建設 けんせつ する合理 ごうり 的 てき な経路 けいろ は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 中西部 ちゅうせいぶ 、そしてシカゴを通 とお るものであった。これに加 くわ えて、カナディアン・ロッキー を横断 おうだん する鉄道 てつどう 建設 けんせつ の難 むずか しさがあり、完全 かんぜん にカナダ領内 りょうない を通 とお る経路 けいろ では不毛 ふもう なカナダ楯 だて 状 じょう 地 ち やオンタリオ北部 ほくぶ の湿地 しっち など険 けわ しい土地 とち を約 やく 1,600キロメートルに渡 わた って通過 つうか する必要 ひつよう があった。この経路 けいろ での建設 けんせつ を確実 かくじつ にするために、政府 せいふ は西部 せいぶ における膨大 ぼうだい な土地 とち 供与 きょうよ を含 ふく め、莫大 ばくだい な褒賞 ほうしょう を提示 ていじ した[要 よう 出典 しゅってん ] 。
1873年 ねん にマクドナルド首相 しゅしょう と他 た の高位 こうい の政治 せいじ 家 か たちは、賄賂 わいろ を受 う けて(パシフィック・スキャンダル (英語 えいご 版 ばん ) )、アメリカのノーザン・パシフィック鉄道 てつどう とつながりがあると見 み られていたデービッド・マクファーソン (英語 えいご 版 ばん ) のインターオーシャン鉄道 てつどう 会社 かいしゃ (Inter-Ocean Railway Company ) ではなく、ヒュー・アラン (英語 えいご 版 ばん ) のカナダ・パシフィック鉄道 てつどう 会社 かいしゃ (Canada Pacific Railway Company 、現在 げんざい のカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう とは関係 かんけい がない)に対 たい して政府 せいふ の契約 けいやく を与 あた えた。新 あたら しく就任 しゅうにん した、カナダ自由党 じゆうとう のアレキサンダー・マッケンジー 首相 しゅしょう は、サンドフォード・フレミング 率 ひき いる公共 こうきょう 事業 じぎょう 省 しょう の監督 かんとく 下 か で、公共 こうきょう 事業 じぎょう としてこの鉄道 てつどう の各 かく 区間 くかん を建設 けんせつ するように命 めい じた。建設 けんせつ の初期 しょき にはこの未踏 みとう の大地 だいち にいくつもの経路 けいろ で測量 そくりょう が行 おこな われ、続 つづ けて決定 けってい された経路 けいろ に沿 そ って電信 でんしん 線 せん が建設 けんせつ された[4] 。スペリオル湖 こ からウィニペグ までのサンダーベイ 区間 くかん は1875年 ねん に着工 ちゃっこう された。1880年 ねん までに、主 おも に厄介 やっかい なカナダ楯 だて 状 じょう 地 ち の区間 くかん におよそ700マイル(1,120キロメートル)の線路 せんろ がほぼ完成 かんせい していたが、このうち300マイル(480キロメートル)の区間 くかん のみ列車 れっしゃ が運行 うんこう されていた[5] 。
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の機関 きかん 車 しゃ と従業 じゅうぎょう 員 いん
1878年 ねん 10月 がつ 16日 にち にマクドナルドが政権 せいけん に返 かえ り咲 ざ くと、さらに積極 せっきょく 的 てき な建設 けんせつ 方針 ほうしん が採用 さいよう された。マクドナルドは、ポートムーディ が大陸 たいりく 横断 おうだん 鉄道 てつどう の終点 しゅうてん となると確約 かくやく し、ポートムーディとカムループス の間 あいだ では、フレーザー川 がわ とトンプソン川 かわ (英語 えいご 版 ばん ) に沿 そ って鉄道 てつどう を建設 けんせつ すると表明 ひょうめい した。1879年 ねん に連邦 れんぽう 政府 せいふ はロンドンで債券 さいけん を発行 はっこう し、ブリティッシュコロンビア州 しゅう のイェール (英語 えいご 版 ばん ) からカムループス湖 こ (英語 えいご 版 ばん ) に面 めん したサヴォナズフェリー (英語 えいご 版 ばん ) までの206キロメートルの区間 くかん の鉄道 てつどう 建設 けんせつ を入札 にゅうさつ にかけた。アンドリュー・オンダードンク (英語 えいご 版 ばん ) がこの契約 けいやく を勝 か ち取 と り、1880年 ねん 5月 がつ 15日 にち に着工 ちゃっこう した。この区間 くかん の完成 かんせい 後 ご 、オンダードンクはイェールとポートムーディの間 あいだ 、そしてサヴォナズフェリーとイーグル峠 とうげ (英語 えいご 版 ばん ) までの区間 くかん の発注 はっちゅう も受 う けた[要 よう 出典 しゅってん ] 。
1880年 ねん 10月 がつ 21日 にち 、ヒュー・アランとは無関係 むかんけい の新 あたら しい業者 ぎょうしゃ がマクドナルド政権 せいけん と契約 けいやく を結 むす び、フレミングは解任 かいにん された。彼 かれ らは、政府 せいふ からの2500万 まん ドル(現代 げんだい の6億 おく 2500万 まん カナダドルに相当 そうとう する)の信用 しんよう 供与 きょうよ と2500万 まん エーカー (10万 まん 平方 へいほう キロメートル)の土地 とち 供与 きょうよ と引 ひ き換 か えに鉄道 てつどう を建設 けんせつ することで合意 ごうい した。政府 せいふ はこの新 あたら しい会社 かいしゃ に、政府 せいふ 所有 しょゆう 下 か ですでに建設 けんせつ された鉄道 てつどう の区間 くかん も移管 いかん したが、これらの区間 くかん にはすでに少 すく なくとも2500万 まん ドルが費 つい やされていた。しかしロッキー山脈 さんみゃく の区間 くかん の推定 すいてい 建設 けんせつ 費 ひ だけでも6000万 まん ドルを超 こ えていた[6] 。政府 せいふ は測量 そくりょう 費用 ひよう も負担 ふたん した上 うえ で、会社 かいしゃ の資産 しさん 税 ぜい 支払 しはら いを20年間 ねんかん 免除 めんじょ した。このモントリオールを本社 ほんしゃ とする会社 かいしゃ は公式 こうしき には5人 にん の代表 だいひょう 者 しゃ で構成 こうせい されていた。ジョージ・スティーブン (英語 えいご 版 ばん ) 、ジェームズ・ジェローム・ヒル 、ダンカン・マッキンタイヤ (英語 えいご 版 ばん ) 、リチャード・アンガス (英語 えいご 版 ばん ) 、ジョン・スチュワート・ケネディ (英語 えいご 版 ばん ) である。ドナルド・スミス (英語 えいご 版 ばん ) とノーマン・キットソン (英語 えいご 版 ばん ) の2人 ふたり は非公式 ひこうしき かつ暗黙 あんもく の協力 きょうりょく 者 しゃ であるが、重要 じゅうよう な経済 けいざい 的 てき 利害 りがい を有 ゆう していた。1881年 ねん 2月 がつ 15日 にち にこの契約 けいやく を承認 しょうにん する法律 ほうりつ が国王 こくおう 勅許 ちょっきょ を得 え て、翌日 よくじつ カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 会社 かいしゃ が公式 こうしき に設立 せつりつ された[7] 。提案 ていあん されていた事業 じぎょう に対 たい して政府 せいふ はあまりに大 おお きな補助 ほじょ を与 あた えたと非難 ひなん する者 もの もいるが[誰 だれ ? ] 、これは不 ふ 確実 かくじつ な事業 じぎょう を行 おこな うリスクと事業 じぎょう を後戻 あともど りさせない保証 ほしょう を内包 ないほう するためであった。また、鉄道 てつどう 路線 ろせん を私的 してき 事業 じぎょう で行 おこな うのであればもっと後 のち に建設 けんせつ するのが最適 さいてき であるのに、予想 よそう される輸送 ゆそう 需要 じゅよう が運行 うんこう 費用 ひよう を回収 かいしゅう できないような直近 ちょっきん に建設 けんせつ する必要 ひつよう があることを補償 ほしょう するためにも、巨大 きょだい な補助 ほじょ が必要 ひつよう であった[8] 。
1881年 ねん から1885年 ねん にかけての鉄道 てつどう 建設 けんせつ
編集 へんしゅう
下 した フレイザー峡谷 きょうこく (英語 えいご 版 ばん ) に線路 せんろ を敷設 ふせつ するカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の従業 じゅうぎょう 員 いん 、1881年 ねん
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は西 にし への延長 えんちょう 工事 こうじ を、以前 いぜん はカランダー・ステーションと呼 よ ばれていた、オンタリオ州 しゅう ボンフィールド (英語 えいご 版 ばん ) から開始 かいし し、ここで設置 せっち された枕木 まくらぎ に最初 さいしょ の犬釘 いぬくぎ が打 う ち込 こ まれた。ボンフィールドは、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の最初 さいしょ の犬釘 いぬくぎ が打 う たれた地点 ちてん として、2002年 ねん にカナダ鉄道 てつどう 殿堂 でんどう に認定 にんてい された。この地点 ちてん は、カナダ・セントラル鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) の建設 けんせつ が終 お わった場所 ばしょ であった[9] 。カナダ・セントラル鉄道 てつどう はダンカン・マッキンタイヤの所有 しょゆう で、この会社 かいしゃ をカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう に合併 がっぺい させ、新 あたら しく設立 せつりつ されたカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の経営 けいえい 陣 じん の1人 ひとり となった。カナダ・セントラル鉄道 てつどう はブロックビルから建設 けんせつ を開始 かいし してペンブロークへ線路 せんろ を伸 の ばした。そこからオタワ川 がわ に沿 そ って西 にし へ線路 せんろ を伸 の ばし、コブデン、ドゥ=リヴィエールといった場所 ばしょ を通 とお り、マタワ川 たわがわ とオタワ川 がわ の合流 ごうりゅう するマタワへ到達 とうたつ した。そこから山野 さんや を横断 おうだん してボンフィールドへと到達 とうたつ した。マッキンタイヤとその契約 けいやく 者 しゃ であるジェームズ・ワーシントンがカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の延長 えんちょう を主導 しゅどう した。彼 かれ は1年 ねん ほどカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう で働 はたら いたが、その後 ご 会社 かいしゃ を離 はな れた。マッキンタイヤは、後 のち にノースベイとなる街 まち を起 お こしたジョン・ファーガソンのおじであり、ファーガソンは後 のち にこの町 まち でもっとも豊 ゆた かな住民 じゅうみん となり、4期 き 続 つづ けて市長 しちょう を務 つと めることになった[10] 。
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の測量 そくりょう 隊 たい 、1872年 ねん
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は、10年 ねん に渡 わた る調査 ちょうさ の末 すえ にサンドフォード・フレミングが提案 ていあん した、ノースサスカチュワン川 がわ の峡谷 きょうこく の肥沃 ひよく な一帯 いったい を通 とお りロッキー山脈 さんみゃく をイエローヘッド峠 とうげ (英語 えいご 版 ばん ) で越 こ える経路 けいろ を採 と ると考 かんが えられていた。しかしカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はこの計画 けいかく をすぐに破棄 はき し、もっと南 みなみ の不毛 ふもう なサスカチュワン州 しゅう のパリサーズ・トライアングル (英語 えいご 版 ばん ) を通 とお り、キッキングホース峠 とうげ (英語 えいご 版 ばん ) を越 こ えてフィールドヒル (英語 えいご 版 ばん ) をロッキー山脈 さんみゃく 峡谷 きょうこく (英語 えいご 版 ばん ) へと下 くだ っていく経路 けいろ を選 えら んだ。この経路 けいろ はより直線 ちょくせん 的 てき でアメリカとの国境 こっきょう に近 ちか く、アメリカ側 がわ の鉄道 てつどう がカナダの輸送 ゆそう 市場 いちば を侵害 しんがい してくるのを防 ふせ ぎやすかった。しかし、この経路 けいろ には欠点 けってん もいくつかあった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
この結果 けっか 、ブリティッシュコロンビア州 しゅう においてセルカーク山脈 さんみゃく (英語 えいご 版 ばん ) を横断 おうだん する経路 けいろ を見出 みいだ さなければならなくなったが、この時点 じてん ではそうした経路 けいろ が本当 ほんとう に存在 そんざい しているかどうかも知 し られていなかった。この経路 けいろ 探索 たんさく の仕事 しごと は、アルバート・ロジャーズ (英語 えいご 版 ばん ) 大佐 たいさ として知 し られる測量 そくりょう 士 し に割 わ り当 あ てられた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は彼 かれ に報酬 ほうしゅう として5,000ドルの小切手 こぎって と、発見 はっけん した峠 とうげ を彼 かれ にちなんで名付 なづ けることを約束 やくそく した。彼 かれ は自分 じぶん の名 な を不滅 ふめつ のものとするべく、経路 けいろ の発見 はっけん に強迫 きょうはく 観念 かんねん を感 かん じるようになった。1881年 ねん 4月 がつ に峠 とうげ を発見 はっけん し[11] [12] 、前言 ぜんげん 通 どお りカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はここをロジャーズ峠 とうげ と命名 めいめい し、彼 かれ に小切手 こぎって を与 あた えた。しかし彼 かれ は当初 とうしょ 、小切手 こぎって の現金 げんきん 化 か をせず、自分 じぶん はこの仕事 しごと を金 かね のためにしたわけではないと言 い って、小切手 こぎって を額 がく に入 い れて飾 かざ っていた。後 のち に記念 きねん に名前 なまえ を彫 ほ った腕時計 うでどけい をもらえるという約束 やくそく を受 う けて、この小切手 こぎって を現金 げんきん 化 か することになった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
もう1つの障害 しょうがい であったのが、提案 ていあん された経路 けいろ はアルバータ州 しゅう において、ファースト・ネーション (先住民 せんじゅうみん )であるブラックフット族 ぞく の支配 しはい する土地 とち を通過 つうか しなければならないということである。この問題 もんだい は、宣教師 せんきょうし のアルバート・ラコーム (英語 えいご 版 ばん ) がブラックフット族 ぞく の族長 ぞくちょう クロウフット (英語 えいご 版 ばん ) を、鉄道 てつどう の建設 けんせつ は避 さ けられないと説得 せっとく したことで克服 こくふく された。鉄道 てつどう 建設 けんせつ に同意 どうい した見返 みかえ りとして、クロウフットは生涯 しょうがい カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう に乗車 じょうしゃ できるパスを与 あた えられた。この経路 けいろ を選 えら んださらなる結果 けっか としては、フレミングが提案 ていあん した経路 けいろ と異 こと なり、鉄道 てつどう の沿線 えんせん はあまりに不毛 ふもう で農業 のうぎょう はとても成功 せいこう しそうにないということが証明 しょうめい されたということであった。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は、たまたまとても雨 あめ が多 おお い時期 じき にこのプレーリー を横断 おうだん し、この地方 ちほう はとても肥沃 ひよく であると報告 ほうこく した、博物学 はくぶつがく 者 しゃ のジョン・マカウン をあまりに信頼 しんらい しすぎていたのかもしれなかった[13] 。
この経路 けいろ の最大 さいだい の欠点 けってん は、アルバータ州 しゅう とブリティッシュコロンビア州 しゅう の州 しゅう 境 さかい であり、大陸 たいりく の分水 ぶんすい 界 かい でもあるキッキングホース峠 とうげ であった。峠 とうげ の頂点 ちょうてん の標高 ひょうこう 1,625メートルの地点 ちてん から西 にし へ最初 さいしょ の6キロメートルで、キッキングホース川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) は350メートルも標高 ひょうこう を下 さ げる。資金 しきん の乏 とぼ しいカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は1884年 ねん に峠 とうげ に到達 とうたつ すると、この急 きゅう 勾配 こうばい に際 さい して45パーミル という非常 ひじょう に勾配 こうばい のきつい線路 せんろ を7キロメートルに渡 わた って建設 けんせつ しなければならなかった。これは当時 とうじ の鉄道 てつどう で推奨 すいしょう されていた最大 さいだい 勾配 こうばい の4倍 ばい もきつい勾配 こうばい であり、現代 げんだい の鉄道 てつどう であっても20パーミルを超 こ えることは滅多 めった にない。しかしこの経路 けいろ は、イエローヘッド峠 とうげ 経由 けいゆ よりも直線 ちょくせん 的 てき であり、旅客 りょかく 列車 れっしゃ も貨物 かもつ 列車 れっしゃ も所要 しょよう 時間 じかん を数時間 すうじかん 短縮 たんしゅく できるものであった。ここがビッグヒル (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれる区間 くかん であった。安全 あんぜん のための分岐 ぶんき 器 き が何 なん か所 しょ かに設置 せっち され、峠 とうげ を下 くだ る列車 れっしゃ の速度 そくど 制限 せいげん は10 km/h とされ、特別 とくべつ な機関 きかん 車 しゃ が使用 しよう された。こうした手段 しゅだん を講 こう じたにもかかわらず、工事 こうじ 請負 うけおい 業者 ぎょうしゃ が所有 しょゆう していた最初 さいしょ にこの区間 くかん を通過 つうか した機関 きかん 車 しゃ を含 ふく め、この勾配 こうばい を下 くだ る列車 れっしゃ で何 なん 件 けん かの重大 じゅうだい な暴走 ぼうそう 事故 じこ が起 お きた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の当局 とうきょく 者 しゃ は、これは一時 いちじ 的 てき な急場 きゅうば しのぎであるとしていたが、この状態 じょうたい は20世紀 せいき 初頭 しょとう にスパイラルトンネルが完成 かんせい するまで25年 ねん にわたって続 つづ いた[要 よう 出典 しゅってん ] 。
ウィリアム・ヴァン・ホーン (英語 えいご 版 ばん )
1881年 ねん の時点 じてん では建設 けんせつ の進捗 しんちょく はあまりに遅 おそ いペースであり、このため経営 けいえい 陣 じん は1882年 ねん に、高 たか い給料 きゅうりょう とこうした難 むずか しい鉄道 てつどう プロジェクトに取 と り組 く む挑戦 ちょうせん という誘因 ゆういん を提示 ていじ して、有名 ゆうめい な鉄道 てつどう 経営 けいえい 者 しゃ のウィリアム・ヴァン・ホーン (英語 えいご 版 ばん ) を雇 やと うことにした。ヴァン・ホーンは、1882年 ねん 中 ちゅう には本線 ほんせん を800キロメートルに渡 わた って建設 けんせつ するだろうと述 の べた。洪水 こうずい のために建設 けんせつ 開始 かいし が遅 おく れたものの、実際 じっさい に672キロメートルの本線 ほんせん に加 くわ えて、数 すう 多 おお くの側線 そくせん や支線 しせん が実際 じっさい にその年 とし に建設 けんせつ された。フォートウィリアム (英語 えいご 版 ばん ) から西 にし へのサンダーベイ支線 しせん が政府 せいふ の鉄道 てつどう ・運河 うんが 省 しょう により1882年 ねん 6月 がつ に完成 かんせい し、1883年 ねん 5月 がつ に会社 かいしゃ に引 ひ き渡 わた され、これによりカナダの歴史 れきし 上 じょう 初 はじ めてカナダ領内 りょうない のみの湖 みずうみ と鉄道 てつどう を乗 の り継 つ いで東部 とうぶ カナダからウィニペグ まで行 い けるようになった。1883年 ねん 末 まつ には、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はロッキー山脈 さんみゃく へ到達 とうたつ し、キッキングホース峠 とうげ の8キロメートル東 ひがし までたどりついた。1884年 ねん と1885年 ねん の建設 けんせつ は、ブリティッシュコロンビア州 しゅう 内 ない の山岳 さんがく 地帯 ちたい とスペリオル湖 こ の北岸 ほくがん に費 つい やされた。
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう のトレッスル橋 きょう
何 なん 千 せん 人 にん ものナヴィ (英語 えいご 版 ばん ) (土木 どぼく 工事 こうじ に携 たずさ わる作業 さぎょう 員 いん )たちが鉄道 てつどう 建設 けんせつ で働 はたら いた。ブリティッシュコロンビア州 しゅう では、政府 せいふ の契約 けいやく 業者 ぎょうしゃ が苦力 くーりー (クーリー)と呼 よ ばれる中国 ちゅうごく からの労働 ろうどう 者 しゃ を雇 やと った。ナヴィは1日 にち 当 あ たり1ドルから2ドル50セント程度 ていど の給与 きゅうよ を受 う け取 と っていたが、食事 しょくじ ・衣服 いふく ・勤務 きんむ 地 ち までの移動 いどう 費用 ひよう ・通信 つうしん ・医療 いりょう などの費用 ひよう は自己 じこ 負担 ふたん であった。2か月 げつ に及 およ ぶ厳 きび しい労働 ろうどう を経 へ ても、実際 じっさい には16ドル程度 ていど にしかならなかった。ブリティッシュコロンビア州 しゅう の中国人 ちゅうごくじん 労働 ろうどう 者 しゃ は1日 にち 当 あ たり75セントから1ドル25セント程度 ていど しか受 う け取 と らず、支出 ししゅつ は別途 べっと 負担 ふたん しなければならなかったが、残 のこ りのものはほとんど郷里 きょうり に送金 そうきん するために残 のこ していた。彼 かれ らは岩盤 がんばん を通 とお してトンネルを建設 けんせつ するために爆発 ばくはつ 物 ぶつ を扱 あつか うなど、もっとも危険 きけん な種類 しゅるい の建設 けんせつ 作業 さぎょう に従事 じゅうじ していた[14] 。建設 けんせつ 作業 さぎょう で亡 な くなった人 ひと の遺族 いぞく には一切 いっさい の補償 ほしょう がないばかりか、死亡 しぼう 通知 つうち すら送 おく られないこともあった。中国人 ちゅうごくじん と契約 けいやく を結 むす んだ業者 ぎょうしゃ は自身 じしん の責任 せきにん として中国 ちゅうごく への帰還 きかん を約束 やくそく していたにもかかわらず、建設 けんせつ 作業 さぎょう を生 い き延 の びた中 なか には中国 ちゅうごく に帰 かえ るのに必要 ひつよう な金 かね を持 も っていない者 もの も多 おお かった[15] 。多 おお くの者 もの たちは人里 ひとざと をかけ離 はな れた土地 とち で、しばしば貧困 ひんこん のうちに年月 としつき を過 す ごさなければならなかった。中国人 ちゅうごくじん たちはとてもよく働 はたら き、鉄道 てつどう の西側 にしがわ の区間 くかん を建設 けんせつ するのに重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たし、わずか12歳 さい の少年 しょうねん すら給仕 きゅうじ として働 はたら いていた。2006年 ねん にカナダ政府 せいふ は、中国 ちゅうごく 系 けい カナダ人 じん たちに対 たい して、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の建設 けんせつ 中 ちゅう および建設 けんせつ 後 ご の中国人 ちゅうごくじん に対 たい する扱 あつか いを公式 こうしき に謝罪 しゃざい した[16] 。
1883年 ねん には鉄道 てつどう の建設 けんせつ は急速 きゅうそく に進 すす んでいたが、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は資金 しきん を使 つか い果 は たしてしまう危機 きき にあった。これに対 たい して政府 せいふ は1884年 ねん 1月 がつ 31日 にち に鉄道 てつどう 救済 きゅうさい 法 ほう を成立 せいりつ させ、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう にさらに2250万 まん ドルを融資 ゆうし した。この法律 ほうりつ は1884年 ねん 3月 がつ 6日 にち に国王 こくおう 裁可 さいか を得 え た[17] 。
後 のち にストラスコーナ男爵 だんしゃく となるドナルド・スミス (英語 えいご 版 ばん ) が1885年 ねん 11月7日 にち にクラゲラチー (英語 えいご 版 ばん ) においてカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の最後 さいご の犬釘 いぬくぎ を打 う ち込 こ んだ。大陸 たいりく 横断 おうだん 鉄道 てつどう の完成 かんせい が、ブリティッシュコロンビア州 しゅう の連邦 れんぽう 加盟 かめい の条件 じょうけん であった
1885年 ねん 3月 がつ に、ノースウェスト準 じゅん 州 しゅう のサスカチュワン地区 ちく (現在 げんざい のサスカチュワン州 しゅう )においてノースウェストの反乱 はんらん (英語 えいご 版 ばん ) が勃発 ぼっぱつ した。当時 とうじ オタワ にいたヴァン・ホーンは、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はサスカチュワン州 しゅう のカペル (英語 えいご 版 ばん ) まで10日 とおか で兵員 へいいん を輸送 ゆそう できると政府 せいふ に提案 ていあん した。線路 せんろ の一部 いちぶ の区間 くかん は未完成 みかんせい であり、あるいはそれ以前 いぜん に使 つか われたことがなかったが、ウィニペグまでの輸送 ゆそう は9日 にち で完了 かんりょう し、反乱 はんらん は速 すみ やかに鎮圧 ちんあつ された。おそらく、政府 せいふ がこの輸送 ゆそう の恩 おん を受 う けたためもあって、結果 けっか 的 てき にカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の負債 ふさい を組 く み直 なお して、さらに500万 まん ドルの融資 ゆうし を行 おこな った。この資金 しきん はカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう にとってどうしても必要 ひつよう とされているものであった。しかし、この政府 せいふ の融資 ゆうし はのちに議論 ぎろん を招 まね くことになる。ヴァン・ホーンによるカペルまでの兵員 へいいん 輸送 ゆそう の貢献 こうけん にもかかわらず、政府 せいふ はカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう への支援 しえん を与 あた えるのをまだ遅 おく らせていた。これはジョン・マクドナルドがジョージ・スティーブンに対 たい して更 さら なる利益 りえき を供与 きょうよ するように圧力 あつりょく をかけていたためであった。ステーブン自身 じしん は後 のち に、1881年 ねん から1886年 ねん までの間 あいだ に政府 せいふ からの支援 しえん を獲得 かくとく するために100万 まん ドルを使 つか ったことを認 みと めている。この資金 しきん はマクドナルド夫人 ふじん に40,000ポンドのネックレスを贈 おく るためなど、政府 せいふ 高官 こうかん への多 おお くの贈与 ぞうよ のために使 つか われた[18] 。
1885年 ねん 11月7日 にち に、当初 とうしょ の約束 やくそく を達成 たっせい して、ブリティッシュコロンビア州 しゅう クラゲラチー (英語 えいご 版 ばん ) において最後 さいご の犬釘 いぬくぎ (英語 えいご 版 ばん ) が打 う ち込 こ まれた。それより4日 にち 前 まえ に、スペリオル湖 こ の区間 くかん の最後 さいご の犬釘 いぬくぎ がジャックフィッシュ (英語 えいご 版 ばん ) のすぐ西側 にしがわ で打 う ち込 こ まれた。鉄道 てつどう は、当初 とうしょ の期限 きげん の1881年 ねん に4年 ねん 遅 おく れて完成 かんせい したが、しかし1881年 ねん にマクドナルドが再 さい 設定 せってい した新 あたら しい1891年 ねん の期限 きげん よりは5年 ねん 早 はや く完成 かんせい した。遅延 ちえん やスキャンダルに見舞 みま われたとはいえ、人口 じんこう が少 すく なく資本 しほん が乏 とぼ しく険 けわ しい地形 ちけい を抱 かか えた国 くに で、こうした大 だい 規模 きぼ プロジェクトを成功裏 せいこうり に完成 かんせい させたのは、印象 いんしょう 的 てき な技術 ぎじゅつ の業績 ぎょうせき と政治 せいじ 的 てき な意思 いし によるものであった。この当時 とうじ としては最大 さいだい 規模 きぼ の鉄道 てつどう であった。五大 ごだい 湖 みずうみ 地帯 ちたい の建設 けんせつ だけで12,000人 にん の労働 ろうどう 者 しゃ と5,000頭 とう の馬 うま が使 つか われた[19] 。
一方 いっぽう で東部 とうぶ カナダでは、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はケベック・シティー からオンタリオ州 しゅう セントトーマス まで到達 とうたつ する路線 ろせん 網 もう を1885年 ねん までに完成 かんせい させており、またターミナル間 あいだ を結 むす ぶために五大 ごだい 湖 みずうみ に船 ふね を就航 しゅうこう させていた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は関連 かんれん するオンタリオ・アンド・ケベック鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) を通 つう じていくつかの鉄道 てつどう を買収 ばいしゅう または長期 ちょうき 借 か り受 う けを行 おこな った。オンタリオ・アンド・ケベック鉄道 てつどう はこれらの取得 しゅとく 路線 ろせん と連絡 れんらく するため、オンタリオ州 しゅう パース からトロント までの路線 ろせん を1884年 ねん 5月 がつ 5日 にち に開通 かいつう させた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は1884年 ねん 1月 がつ 4日 にち にオンタリオ・アンド・ケベック鉄道 てつどう を999年間 ねんかん 借 か り受 う けた。1895年 ねん にはトロント・ハミルトン・アンド・バッファロー鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) の少数 しょうすう 株 かぶ を買 か い取 と り、ニューヨークやアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 北東 ほくとう 部 ぶ へと通 つう じるようになった[20] 。
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の最後 さいご の犬釘 いぬくぎ (英語 えいご 版 ばん ) は、重役 じゅうやく の1人 ひとり であるドナルド・スミスによって1885年 ねん 11月7日 にち に打 う ち込 こ まれたが、経費 けいひ 節減 せつげん のために鉄道 てつどう 建設 けんせつ に際 さい して多 おお くの手 て っ取 と り早 ばや い手段 しゅだん が採用 さいよう されたことから、定期 ていき 的 てき な大陸 たいりく 横断 おうだん 列車 れっしゃ の運行 うんこう を開始 かいし するには、線路 せんろ の改良 かいりょう が完了 かんりょう するまでさらに7か月 げつ を待 ま つ必要 ひつよう があった(これは部分 ぶぶん 的 てき には山岳 さんがく 地帯 ちたい における積雪 せきせつ があり、スノーシェッド が不足 ふそく していて路線 ろせん を開通 かいつう させられなかったということがある)。しかしこうした手 て っ取 と り早 ばや い手段 しゅだん を使 つか っていなければ、鉄道 てつどう が完成 かんせい しないうちにカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう が経営 けいえい 破綻 はたん してしまうということもあり得 え たことであった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
最初 さいしょ の大陸 たいりく 横断 おうだん 旅客 りょかく 列車 れっしゃ は、モントリオールのベリー通 どお りとノートルダム通 どお りにあるダルハウジー駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) を1886年 ねん 6月 がつ 28日 にち 20時 じ に出発 しゅっぱつ し、ポートムーディ には1886年 ねん 7月 がつ 4日 にち の正午 しょうご に到着 とうちゃく した。この列車 れっしゃ は2両 りょう の荷物 にもつ 車 しゃ 、1両 りょう の郵便 ゆうびん 車 しゃ 、1両 りょう の二 に 等 とう 座席 ざせき 車 しゃ 、2両 りょう の移民 いみん 用 よう 寝台 しんだい 車 しゃ 、2両 りょう の一等 いっとう 座席 ざせき 車 しゃ 、2両 りょう の寝台 しんだい 車 しゃ と1両 りょう の食堂 しょくどう 車 しゃ が連結 れんけつ されていた(食堂 しょくどう 車 しゃ は夜間 やかん は切 き り離 はな されており、朝 あさ に別 べつ の食堂 しょくどう 車 しゃ をまた連結 れんけつ したため、行程 こうてい を通 つう じて数 すう 両 りょう の食堂 しょくどう 車 しゃ が使用 しよう された)[要 よう 出典 しゅってん ] 。
最初 さいしょ の大陸 たいりく 横断 おうだん 列車 れっしゃ がオンタリオ州 しゅう ポートアーサーに1886年 ねん 6月 がつ 30日 にち に到着 とうちゃく した
しかしこの時点 じてん までに、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は西側 にしがわ の終点 しゅうてん をポートムーディからグランヴィルに移転 いてん させることを決 き めており、この年 とし の後半 こうはん にこのグランヴィルがバンクーバーへと改名 かいめい された。最初 さいしょ にバンクーバー行 ゆき として公式 こうしき に運転 うんてん された列車 れっしゃ は1887年 ねん 5月 がつ 23日 にち に到着 とうちゃく したが、これ以前 いぜん に非公式 ひこうしき に3か月 げつ ほど列車 れっしゃ が運転 うんてん されていた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はすぐに利益 りえき を生 う み出 だ せるようになり、政府 せいふ からの融資 ゆうし は期限 きげん よりも早 はや く償還 しょうかん された。1888年 ねん に、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう が自身 じしん の運営 うんえい する汽船 きせん やアメリカの鉄道 てつどう 網 もう と接続 せつぞく するスーセントマリー まで、サドバリー からの支線 しせん が開通 かいつう した。同年 どうねん 、オンタリオ州 しゅう ロンドン からアメリカとの国境 こっきょう にあるウィンザー までの路線 ろせん に着工 ちゃっこう し、1890年 ねん 6月 がつ 12日 にち に開通 かいつう した[21] 。
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はまた、1891年 ねん から991年間 ねんかん にわたってニューブランズウィック鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) を借 か り受 う け[22] 、モントリオールとセントジョン を結 むす ぶインターナショナル・レールウェイ・オブ・メイン (英語 えいご 版 ばん ) を1889年 ねん に建設 けんせつ した。大西 おおにし 洋 ひろし に面 めん したセントジョンまで連絡 れんらく したことで、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はカナダで最初 さいしょ に「真 しん の」大陸 たいりく 横断 おうだん 鉄道 てつどう となり、セントローレンス湾 わん の海 うみ 氷 ごおり がモントリオール港 こう を冬期 とうき 間 あいだ 閉 と ざしていても、1年 ねん を通 とお して両 りょう 大洋 たいよう 間 あいだ の貨物 かもつ や旅客 りょかく を輸送 ゆそう できるようになった。1896年 ねん には、グレート・ノーザン鉄道 てつどう との間 あいだ でブリティッシュコロンビア州 しゅう 南部 なんぶ での輸送 ゆそう をめぐって競争 きょうそう になったことから、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は当初 とうしょ の路線 ろせん より南側 みなみがわ にブリティッシュコロンビア州 しゅう を横断 おうだん する2番目 ばんめ の路線 ろせん を敷設 ふせつ せざるを得 え なくなり、当時 とうじ 社長 しゃちょう を務 つと めていたヴァン・ホーンは政府 せいふ の支援 しえん を求 もと めた。政府 せいふ はこれに同意 どうい し、西部 にしべ カナダから出荷 しゅっか される重要 じゅうよう な産物 さんぶつ の貨物 かもつ 運賃 うんちん を永続 えいぞく 的 てき に引 ひ き下 さ げる代 か わりに、アルバータ州 しゅう レスブリッジ からクロウズネスト峠 とうげ (英語 えいご 版 ばん ) を通 とお りクートネイ湖 こ (英語 えいご 版 ばん ) の南岸 なんがん に至 いた る鉄道 てつどう を建設 けんせつ するために約 やく 360万 まん ドルを提供 ていきょう することになった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
この議論 ぎろん を呼 よ ぶ「クロウズネスト峠 とうげ 合意 ごうい 」により、東 ひがし への穀物 こくもつ の運賃 うんちん と西 にし へ向 む かう移民 いみん の資産 しさん の運賃 うんちん は、1897年 ねん の水準 すいじゅん で実質 じっしつ 的 てき に固定 こてい されることになった。このクロウ・レート (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれる運賃 うんちん 水準 すいじゅん は、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう 一時 いちじ 的 てき に中断 ちゅうだん されたものの、穀物 こくもつ 運賃 うんちん を徐々 じょじょ に引 ひ き上 あ げることを認 みと める西部 せいぶ 穀物 こくもつ 運輸 うんゆ 法 ほう が1983年 ねん に制定 せいてい されて置 お き換 か えられるまで有効 ゆうこう であった。クロウズネスト峠 とうげ を通 とお る路線 ろせん は、さらに南部 なんぶ ブリティッシュコロンビア州 しゅう の峡谷 きょうこく や峠 とうげ をいくつも通 とお り、コキハラ峠 とうげ (英語 えいご 版 ばん ) でカスケード山脈 さんみゃく を越 こ えてホープ (英語 えいご 版 ばん ) で元 もと の本線 ほんせん に合流 ごうりゅう する、複雑 ふくざつ な経路 けいろ をたどり、1898年 ねん 6月 がつ 18日 にち に開通 かいつう した[23] 。
この南側 みなみがわ を通 とお る本線 ほんせん は、ブリティッシュコロンビア州 しゅう ではケトル・バレー鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) として一般 いっぱん に知 し られ、南部 なんぶ ブリティッシュコロンビア州 しゅう において発展 はってん しつつあった鉱業 こうぎょう や精錬 せいれん 業 ぎょう の需要 じゅよう に応 おう じて建設 けんせつ され、バンクーバーやその他 た のカナダからよりも隣接 りんせつ するアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の諸 しょ 州 しゅう からの方 ほう が容易 ようい に到達 とうたつ できるという地理 ちり 的 てき な傾向 けいこう は、国家 こっか の安全 あんぜん 保障 ほしょう に対 たい する脅威 きょうい であり、また同 どう 程度 ていど に州 しゅう の自 みずか らの資源 しげん に対 たい する管理 かんり に対 たい する脅威 きょうい であるとみなされていた。地域 ちいき の旅客 りょかく 営業 えいぎょう は新 あたら しい南部 なんぶ の路線 ろせん に経由 けいゆ を変更 へんこう され、地域 ちいき に発展 はってん しつつあった多 おお くの小 ちい さな都市 とし を結 むす んだ。最終 さいしゅう 的 てき にこの経路 けいろ に関連 かんれん してカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう に合併 がっぺい されることになった独立 どくりつ した鉄道 てつどう あるいは子会社 こがいしゃ の鉄道 てつどう としては、シュスワップ・アンド・オカナガン鉄道 てつどう 、カスロ・アンド・スローカン鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) 、コロンビア・アンド・クートネイ鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) 、コロンビア・アンド・ウェスタン鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) などがあった[22] 。
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう と西部 にしべ カナダへの植民 しょくみん
編集 へんしゅう
実際 じっさい のところ、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう が建設 けんせつ したのは、ほとんど荒野 あらの を走 はし る鉄道 てつどう であった。平原 へいげん 地帯 ちたい の有用 ゆうよう 性 せい は、多 おお くの人 ひと が疑問 ぎもん に思 おも っていることであった。しかしこの平原 へいげん や大 おお きな可能 かのう 性 せい を秘 ひ めているという考 かんが えが広 ひろ まった。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう が鉄道 てつどう を建設 けんせつ するためにカナダ政府 せいふ と結 むす んだ当初 とうしょ の契約 けいやく では、2500万 まん エーカー (約 やく 10万 まん 平方 へいほう キロメートル)の土地 とち を供与 きょうよ されていた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう が既 すで にとても豊 ゆた かな会社 かいしゃ となっていたことを示 しめ すように、カナダへの移民 いみん 誘致 ゆうち キャンペーンを大々的 だいだいてき に開始 かいし した。海外 かいがい の多 おお くの場所 ばしょ で代理 だいり 店 てん が営業 えいぎょう していた。移民 いみん にはしばしば、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の船 ふね での渡航 とこう 、現地 げんち へのカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の列車 れっしゃ での移動 いどう 、そしてカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう が販売 はんばい する土地 とち がパッケージとして販売 はんばい された。土地 とち の値段 ねだん は1エーカー当 あ たり2.5ドル以上 いじょう であったが、開墾 かいこん が必要 ひつよう であった[24] 。
オンタリオ州 しゅう ブロックビル に展示 てんじ されているカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう のカブース
まず鉱山 こうざん 会社 かいしゃ テック を設立 せつりつ 、支配 しはい 。20世紀 せいき 最初 さいしょ の10年間 ねんかん 、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はさらに路線 ろせん の建設 けんせつ を続 つづ けた。1908年 ねん にカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はトロント とサドバリー を結 むす ぶ路線 ろせん を開通 かいつう させた。それ以前 いぜん は、オンタリオ州 しゅう 南部 なんぶ から西 にし へ行 い く列車 れっしゃ は、オンタリオ州 しゅう 東部 とうぶ を通 とお る遠回 とおまわ りな経路 けいろ を通 とお っていた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は1909年 ねん には、2つの技術 ぎじゅつ 上 じょう の大 おお きな偉業 いぎょう を達成 たっせい した。もっとも重要 じゅうよう であったと言 い えるのが、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の本線 ほんせん にとって大 おお きなボトルネックとなっていたビッグ・ヒルをスパイラルトンネルで置 お き換 か えたことで、これにより勾配 こうばい は45パーミルから22パーミルに下 さ がった。このスパイラルトンネルは8月 がつ に開通 かいつう した。1908年 ねん 4月 がつ には、レッドディア川 がわ を渡 わた る古 ふる いカルガリー-エドモントン鉄道 てつどう 橋 きょう の代替 だいたい 工事 こうじ に着手 ちゃくしゅ し、新 あたら しい標準 ひょうじゅん 的 てき で鋼 はがね 製 せい の橋 はし が1909年 ねん 3月 がつ に完成 かんせい した[25] 。
レスブリッジ高 だか 架橋 かきょう
1909年 ねん 11月3日 にち には、アルバータ州 しゅう レスブリッジ でオールドマン川 がわ の峡谷 きょうこく を横断 おうだん するレスブリッジ高 だか 架橋 かきょう (英語 えいご 版 ばん ) が開通 かいつう した。全長 ぜんちょう 1,624メートル(5,328フィート)、最大 さいだい 高 たか さ96メートル(315フィート)で、カナダでも最長 さいちょう の鉄道 てつどう 橋 きょう となった。1916年 ねん には、雪崩 なだれ に弱 よわ く1910年 ねん には62人 にん の死者 ししゃ を出 だ す事故 じこ (英語 えいご 版 ばん ) があったロジャーズ峠 とうげ を通 とお る線路 せんろ を、マクドナルド山 やま (英語 えいご 版 ばん ) の下 した を抜 ぬ ける全長 ぜんちょう 8キロメートルのコンノートトンネル (英語 えいご 版 ばん ) で置 お き換 か えた。これは当時 とうじ 西半球 にしはんきゅう でもっとも長 なが い鉄道 てつどう トンネルであった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の機関 きかん 車 しゃ 、2860号 ごう
1910年 ねん 1月 がつ 21日 にち に、サドバリー近郊 きんこう のオンタリオ州 しゅう ナイルンのスパニッシュ川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) に架 か かる橋 はし で、旅客 りょかく 列車 れっしゃ が脱線 だっせん する事故 じこ (英語 えいご 版 ばん ) があり、少 すく なくとも43人 にん が死亡 しぼう した[26] [27] 。
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は、1912年 ねん にはいくつかの小 ちい さな鉄道 てつどう 会社 かいしゃ を長期 ちょうき リース契約 けいやく により傘下 さんか に収 おさ めた。1912年 ねん 1月 がつ 3日 にち にノバスコシア州 しゅう 西部 せいぶ で運行 うんこう するドミニオン・アトランティック鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) を取得 しゅとく した。これにより大西洋 たいせいよう に面 めん した重要 じゅうよう な港 みなと であるハリファックス への連絡 れんらく ができるようになった。ドミニオン・アトランティック鉄道 てつどう は、他 た のカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の路線 ろせん 網 もう からは孤立 こりつ しており、連絡 れんらく にはカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう を利用 りよう することになった。またドミニオン・アトランティック鉄道 てつどう は、ノバスコシア州 しゅう ディグビー (英語 えいご 版 ばん ) からカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう のあるニューブランズウィック州 しゅう セントジョン との間 あいだ で、ファンディ湾 わん を渡 わた るフェリーを運航 うんこう しており、旅客 りょかく と貨物 かもつ を運 はこ んでいたが、貨車 かしゃ の航 こう 送 おく は行 おこな っていなかった。ドミニオン・アトランティック鉄道 てつどう の船 ふね は、他 ほか にもヤーマス (英語 えいご 版 ばん ) 、ボストン、ニューヨークとの間 あいだ でも旅客 りょかく や貨物 かもつ の輸送 ゆそう を行 おこな っていた。1912年 ねん 7月 がつ 1日 にち には、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう とは鉄道 てつどう 連絡 れんらく 船 せん を通 つう じて接続 せつぞく していたバンクーバー島 とう の鉄道 てつどう 、イスクワイモルト・アンド・ナナイモ鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) を買収 ばいしゅう した。さらにカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は、1912年 ねん 12月14日 にち にケベック・セントラル鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) を買収 ばいしゅう した[22] 。
19世紀 せいき 末 まつ には、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は沿線 えんせん の観光 かんこう 開発 かいはつ の拠点 きょてん とすべく大 だい 規模 きぼ なホテル建設 けんせつ 計画 けいかく を実行 じっこう し、グレーシャー国立 こくりつ 公園 こうえん にグレーシャーハウス、ブリティッシュコロンビア州 しゅう フィールド (英語 えいご 版 ばん ) にマウント・スティーブン・ハウス (英語 えいご 版 ばん ) 、ケベック・シティー にシャトー・フロンテナック 、そしてバンフ国立 こくりつ 公園 こうえん にバンフ・スプリングス・ホテル を建設 けんせつ した。
この頃 ころ から、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は3つの大陸 たいりく 横断 おうだん 鉄道 てつどう と競争 きょうそう するようになったが、どれも損失 そんしつ を計上 けいじょう するばかりであった。1919年 ねん にはこれらの路線 ろせん は合併 がっぺい され、旧 きゅう インターコロニアル鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) の路線 ろせん 網 もう も合 あ わせて、政府 せいふ が所有 しょゆう するカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう となった。また、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 所有 しょゆう の汽船 きせん エンプレス・オブ・アイルランド がノルウェー の石炭 せきたん 船 せん ストールスタッド と衝突 しょうとつ し、会社 かいしゃ の歴史 れきし 上 じょう 最大 さいだい の死者 ししゃ を出 だ すことになった。1914年 ねん 5月 がつ 29日 にち に、カナダ太平洋 たいへいよう 汽船 きせん 会社 かいしゃ (英語 えいご 版 ばん ) が運航 うんこう していたエンプレス・オブ・アイルランドはセントローレンス川 がわ で沈没 ちんぼつ し、1,024人 にん が死亡 しぼう しこのうち840人 にん が乗客 じょうきゃく であった[28] 。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう 、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はその「世界 せかい 最大 さいだい の交通 こうつう システム」と称 しょう するすべての資源 しげん をイギリス が自由 じゆう に使 つか えるようにした。車両 しゃりょう ・線路 せんろ だけでなく、船舶 せんぱく ・工場 こうじょう ・ホテル・電信 でんしん 、そして中 なか でも人員 じんいん であった。戦争 せんそう 努力 どりょく を支援 しえん することは、兵士 へいし を輸送 ゆそう し宿営 しゅくえい させ、武器 ぶき と弾薬 だんやく を製造 せいぞう ・補給 ほきゅう し、船舶 せんぱく を武装 ぶそう させ貸 か し出 だ しあるいは売却 ばいきゃく することであった。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の52隻 せき の船舶 せんぱく が第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう 任務 にんむ に就 つ き、100万 まん 人 にん 以上 いじょう の兵士 へいし と旅客 りょかく と400万 まん トン以上 いじょう の貨物 かもつ を運 はこ んだ。このうち27隻 せき が戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 時点 じてん で残存 ざんそん しており、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう に返却 へんきゃく された。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は、資金 しきん や雇用 こよう の面 めん でも戦争 せんそう 努力 どりょく を支援 しえん した。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は連合 れんごう 国 こく に対 たい して数 すう 億 おく ドルの規模 きぼ の融資 ゆうし または保証 ほしょう を行 おこな った。将来 しょうらい に残 のこ る記念 きねん として、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は戦争 せんそう で戦 たたか い、そして亡 な くなった人 ひと たちの努力 どりょく を記念 きねん して、3つの記念 きねん 碑 ひ と23の銘板 めいばん を作成 さくせい した[29] 。戦後 せんご 、連邦 れんぽう 政府 せいふ は戦争 せんそう 中 ちゅう および戦後 せんご に経営 けいえい 破綻 はたん して政府 せいふ の管理 かんり 下 か に置 お かれたいくつかの鉄道 てつどう 会社 かいしゃ から、カナディアン・ナショナル鉄道 てつどう を創設 そうせつ した。カナディアン・ナショナル鉄道 てつどう は、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう にとって主 おも な競合 きょうごう 者 しゃ となることになる。1923年 ねん にデービッド・ブリス・ハンナ (英語 えいご 版 ばん ) の後 のち を継 つ いでヘンリー・ワース・ソーントン (英語 えいご 版 ばん ) が2代目 だいめ のカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう 社長 しゃちょう に就任 しゅうにん すると、その競争 きょうそう 的 てき な態度 たいど は、初 はじ めてカナダ生 う まれの人間 にんげん としてカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の社長 しゃちょう に就任 しゅうにん したエドワード・ウェントワース・ビーティ (英語 えいご 版 ばん ) を行動 こうどう に駆 か り立 た てることになった[30] 。この時期 じき 、鉄道 てつどう への土地 とち 供与 きょうよ が正式 せいしき に法制 ほうせい 化 か された[31] 。
世界 せかい 恐慌 きょうこう と第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 、1929年 ねん - 1945年 ねん
編集 へんしゅう
失業 しつぎょう 者 しゃ 救済 きゅうさい キャンプでのストライキ参加 さんか 者 しゃ たちが、オタワ行進 こうしん (英語 えいご 版 ばん ) に参加 さんか して有蓋 ゆうがい 車 しゃ の屋根 やね に乗 の りこんでいる様子 ようす 、1935年 ねん
1929年 ねん から1939年 ねん まで続 つづ いた世界 せかい 恐慌 きょうこう は、多 おお くの企業 きぎょう を直撃 ちょくげき した。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう も影響 えいきょう を受 う けたが、ライバルのカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう と違 ちが い債務 さいむ を負 お っていなかったため、同社 どうしゃ ほどの規模 きぼ で影響 えいきょう を受 う けることはなかった。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は一部 いちぶ の旅客 りょかく 列車 れっしゃ と貨物 かもつ 列車 れっしゃ を削減 さくげん し、1932年 ねん 以降 いこう は株主 かぶぬし に配当 はいとう の支払 しはら いを停止 ていし した。困難 こんなん な時期 じき には新 あたら しい政治 せいじ 運動 うんどう が生 う まれるものであり、たとえばカナダ社会 しゃかい 信用 しんよう 運動 うんどう (英語 えいご 版 ばん ) や協同 きょうどう 連邦 れんぽう 党 とう があり、中 なか でも抗議 こうぎ 運動 うんどう の形 かたち で広 ひろ まったものとしてオタワ行進 こうしん (英語 えいご 版 ばん ) がある[32] 。
1930年代 ねんだい 末 まつ の鉄道 てつどう およびカナダにとって1つのハイライトとなったのは、ジョージ6世 せい とその妃 ひ エリザベス・ボーズ=ライアン のカナダ訪問 ほうもん (英語 えいご 版 ばん ) であり、これは在位 ざいい 中 ちゅう の君主 くんしゅ による初 はじ めてのカナダ訪問 ほうもん であった。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう とカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう は、ロイヤルトレインを運転 うんてん する栄光 えいこう を分 わ かち合 あ うことになり、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 側 がわ はケベック・シティーからバンクーバーまでの西 にし 行 い きの列車 れっしゃ を担当 たんとう した。その年 とし の後半 こうはん に、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ した。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の時 とき と同様 どうよう に、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は保有 ほゆう する資源 しげん を戦争 せんそう 努力 どりょく に捧 ささ げた。モントリオールにあるアンガス工場 こうじょう (英語 えいご 版 ばん ) は、改造 かいぞう されてバレンタイン歩兵 ほへい 戦車 せんしゃ やその他 た の装甲 そうこう 車両 しゃりょう を生産 せいさん するようになり、また兵士 へいし や物資 ぶっし を国中 くになか で輸送 ゆそう した。22隻 せき の船 ふね が戦争 せんそう に送 おく られ、このうち「エンプレス・オブ・カナダ 」や「エンプレス・オブ・エイジア 」など12隻 せき が沈没 ちんぼつ した[33] 。
「マルチマーク」ロゴは、1968年 ねん から人気 にんき が無 な くなる1987年 ねん まで使 つか われた。1980年代 ねんだい の人気 にんき テレビゲームからパックマン ロゴとも呼 よ ばれる。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、カナダの運輸 うんゆ 産業 さんぎょう は変 か わった。かつては鉄道 てつどう がほとんどあらゆる場面 ばめん で旅客 りょかく や貨物 かもつ を運 はこ んでいたが、自動車 じどうしゃ ・トラック・航空機 こうくうき が鉄道 てつどう からシェアを奪 うば っていくようになった。これは自然 しぜん とカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の航空 こうくう ・自動車 じどうしゃ 営業 えいぎょう を助 たす けることになり、また鉄道 てつどう の貨物 かもつ 営業 えいぎょう でも資源 しげん やばら積 づ み貨物 かもつ の輸送 ゆそう は引 ひ き続 つづ き盛況 せいきょう であった。しかし旅客 りょかく 輸送 ゆそう は急速 きゅうそく に不 ふ 採算 さいさん なものとなっていった。1950年代 ねんだい には、旅客 りょかく 営業 えいぎょう でも革新 かくしん を実現 じつげん した。1955年 ねん には新 あたら しい豪華 ごうか 大陸 たいりく 横断 おうだん 列車 れっしゃ として「カナディアン 」を運転 うんてん 開始 かいし した。しかし1960年代 ねんだい からは次第 しだい に旅客 りょかく 列車 れっしゃ を削減 さくげん するようになり、多 おお くの支線 しせん では旅客 りょかく 営業 えいぎょう が廃止 はいし となっていった。1966年 ねん には、補完 ほかん 的 てき な大陸 たいりく 横断 おうだん 列車 れっしゃ であった「ザ・ドミニオン (英語 えいご 版 ばん ) 」が廃止 はいし となり、1970年 ねん には「カナディアン」も廃止 はいし を申請 しんせい したが、拒絶 きょぜつ された。その後 ご 8年間 ねんかん 、廃止 はいし を申請 しんせい し続 つづ け、その間 あいだ 「カナディアン」の運行 うんこう は大幅 おおはば に削減 さくげん された。1978年 ねん 10月 がつ 29日 にち にカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は、政府 せいふ が所有 しょゆう するVIA鉄道 てつどう に旅客 りょかく 列車 れっしゃ を移管 いかん し、同社 どうしゃ がカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう およびカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう から移管 いかん されたすべての都市 とし 間 あいだ 旅客 りょかく 列車 れっしゃ の運行 うんこう に責任 せきにん を持 も つことになった。VIA鉄道 てつどう は最終 さいしゅう 的 てき に「カナディアン」を含 ふく め、ほとんどすべての旅客 りょかく 列車 れっしゃ をカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の路線 ろせん から他 た の路線 ろせん に移転 いてん させた[34] 。
1968年 ねん には、企業 きぎょう 再 さい 構築 こうちく の一環 いっかん として、鉄道 てつどう 営業 えいぎょう を含 ふく めて主 おも な事業 じぎょう 活動 かつどう はそれぞれ独立 どくりつ した子会社 こがいしゃ に再編 さいへん された。鉄道 てつどう の名前 なまえ はCP鉄道 てつどう に変更 へんこう され、親会社 おやがいしゃ の名前 なまえ はカナダ太平洋 たいへいよう リミテッド (英語 えいご 版 ばん ) に1971年 ねん に変更 へんこう された。その航空 こうくう ・宅配 たくはい ・電話 でんわ ・ホテル・不動産 ふどうさん 部門 ぶもん は分離 ぶんり され、これらの所有 しょゆう 権 けん はカナダ太平洋 たいへいよう インベストメンツに移管 いかん された。ビーバーのロゴは廃止 はいし され、新 あたら しいマルチマークロゴが採用 さいよう されたが、事業 じぎょう 部門 ぶもん によって異 こと なる色 いろ とされた[35] 。
1979年 ねん 11月 がつ 10日 とおか にオンタリオ州 しゅう ミシサガ で脱線 だっせん 事故 じこ (英語 えいご 版 ばん ) が起 お こり、20万 まん 人 にん の人々 ひとびと が避難 ひなん したが、死者 ししゃ は出 で なかった[36] [37] 。
1984年 ねん にCP鉄道 てつどう は、セルカーク山脈 さんみゃく のコンノートトンネルの輸送 ゆそう 力 りょく 増強 ぞうきょう のために、マウント・マクドナルドトンネル (英語 えいご 版 ばん ) に着工 ちゃっこう した。最初 さいしょ の営業 えいぎょう 列車 れっしゃ はこのトンネルを1988年 ねん に通過 つうか した。全長 ぜんちょう 14.7キロメートルで、アメリカ大陸 あめりかたいりく において最長 さいちょう のトンネルである。1980年代 ねんだい を通 つう じて、CP鉄道 てつどう が支配 しはい 権 けん を握 にぎ るスー・ライン鉄道 てつどう はいくつかの変革 へんかく を行 おこな った。1982年 ねん にミネアポリス・ノースフィールド・アンド・サザン鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) を買収 ばいしゅう した。続 つづ いて1985年 ねん 2月 がつ 21日 にち には、スー・ライン鉄道 てつどう はミルウォーキー鉄道 てつどう の支配 しはい 権 けん を握 にぎ り、1986年 ねん 1月 がつ 1日 にち に自社 じしゃ の路線 ろせん 網 もう に組 く み込 こ んだ。また、1980年 ねん にはカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はコンレール からトロント・ハミルトン・アンド・バッファロー鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) を買収 ばいしゅう し、同社 どうしゃ は1985年 ねん に清算 せいさん された。1987年 ねん には、五大 ごだい 湖 みずうみ 地区 ちく のほとんどの路線 ろせん 網 もう は元 もと のスー・ライン鉄道 てつどう のものを含 ふく めて分割 ぶんかつ され、ウィスコンシン・セントラル が発足 ほっそく し、結果 けっか 的 てき にこの会社 かいしゃ は後 のち にカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう に買収 ばいしゅう された。アメリカとカナダの間 あいだ の貿易 ぼうえき を自由 じゆう 化 か した1989年 ねん の米 べい 加 か 自由 じゆう 貿易 ぼうえき 協定 きょうてい の影響 えいきょう を受 う けて、1990年代 ねんだい 初頭 しょとう にもカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はさらに拡大 かくだい を続 つづ けた。CP鉄道 てつどう は1990年 ねん にスー・ライン鉄道 てつどう を完全 かんぜん に支配 しはい 下 か に収 おさ め、1991年 ねん にはデラウェア・アンド・ハドソン鉄道 てつどう を買収 ばいしゅう した。これらの買収 ばいしゅう により、CP鉄道 てつどう はアメリカの主要 しゅよう 都市 とし であるシカゴ(スー・ライン鉄道 てつどう 経由 けいゆ )とニューヨーク(デラウェア・アンド・ハドソン鉄道 てつどう 経由 けいゆ )に到達 とうたつ できるようになった[38] 。
その後 ご 数 すう 年 ねん に渡 わた り、CP鉄道 てつどう は路線 ろせん の整理 せいり を進 すす め、カナダのいくつかの支線 しせん や副次的 ふくじてき な本線 ほんせん までも地方 ちほう 鉄道 てつどう に売却 ばいきゃく してしまうか廃止 はいし した。しかしこの合理 ごうり 化 か はかなり高 たか くつき、十分 じゅうぶん 広 ひろ い範囲 はんい に穀物 こくもつ を出荷 しゅっか することができなくなったために、カナダの穀倉 こくそう 地帯 ちたい として知 し られていた地域 ちいき において多 おお くのカントリーエレベーター が廃止 はいし された。モントリオールより東 ひがし のすべての路線 ろせん もこの際 さい に整理 せいり され、メイン州 しゅう やニューブランズウィック州 しゅう を通 とお ってセントジョンの港 みなと へ通 つう じるカナディアン・アトランティック鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) として営業 えいぎょう していた路線 ろせん も売却 ばいきゃく されるか廃止 はいし され、これによりCP鉄道 てつどう はカナダにおいて大陸 たいりく 横断 おうだん 鉄道 てつどう としての地位 ちい を失 うしな うことになった。1950年代 ねんだい 末 まつ にセントローレンス海路 かいろ が開通 かいつう し、税金 ぜいきん の補助 ほじょ を受 う けた砕氷 さいひょう 活動 かつどう が行 おこな われたこともあいまって、セントジョンはカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう にとって余剰 よじょう の存在 そんざい となっていた[要 よう 説明 せつめい ] [要 よう 出典 しゅってん ] 。
1990年代 ねんだい を通 つう じて、CP鉄道 てつどう もカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう も、さらなる合理 ごうり 化 か を進 すす める目的 もくてき で、互 たが いに相手 あいて の東部 とうぶ 地方 ちほう の路線 ろせん 網 もう を買収 ばいしゅう しようと試 こころ みたが、うまくいかなかった。1996年 ねん にCP鉄道 てつどう は本社 ほんしゃ をモントリオールのウィンザー駅 えき からアルバータ州 しゅう カルガリーのガルフ・カナダ広場 ひろば に移 うつ した。CP鉄道 てつどう はカナダにおける列車 れっしゃ の運行 うんこう 管理 かんり のほとんどを新 あたら しい本社 ほんしゃ に統合 とうごう し、ネットワーク管理 かんり センター (NMC: Network Management Centre ) を発足 ほっそく させた。このネットワーク管理 かんり センターからは、バンクーバー港 こう からオンタリオ州 しゅう 北部 ほくぶ のマクティアまでの列車 れっしゃ の動 うご きを管理 かんり している。マクティアからモントリオール港 こう までの列車 れっしゃ の動 うご きを管理 かんり する小 ちい さなセンターがウィンザー駅 えき に残 のこ されている[要 よう 出典 しゅってん ] 。
1996年 ねん にCP鉄道 てつどう は本社 ほんしゃ をカルガリーからモントリオールに戻 もど し、名前 なまえ もカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう へ戻 もど した。新 あたら しい子会社 こがいしゃ としてセントローレンス・アンド・ハドソン鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) が設立 せつりつ され、北 きた アメリカ東部 とうぶ のケベック、オンタリオ州 しゅう 南部 なんぶ および東部 とうぶ 、シカゴへの線路 せんろ 使用 しよう 権 けん 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 北東 ほくとう 部 ぶ のデラウェア・アンド・ハドソン鉄道 てつどう といった損失 そんしつ を出 だ していた路線 ろせん が移管 いかん された。しかしこの子会社 こがいしゃ は、売却 ばいきゃく される危機 きき にさらされ、また自由 じゆう に改革 かいかく をできる立場 たちば を与 あた えられたこともあり、損失 そんしつ を出 だ していた路線 ろせん をすぐに地域 ちいき 鉄道 てつどう に分離 ぶんり し、定期 ていき 貨物 かもつ 列車 れっしゃ の運行 うんこう を開始 かいし し、予期 よき しないほど利益 りえき 率 りつ を改善 かいぜん した。2001年 ねん 1月 がつ 1日 にち にセントローレンス・アンド・ハドソン鉄道 てつどう はカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう に正式 せいしき に併合 へいごう された[要 よう 出典 しゅってん ] 。
2001年 ねん に親会社 おやがいしゃ のカナダ太平洋 たいへいよう リミテッドは、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう を含 ふく む5つの子会社 こがいしゃ を分割 ぶんかつ して独立 どくりつ した企業 きぎょう とした。分割 ぶんかつ の時点 じてん での大半 たいはん の非 ひ 鉄道 てつどう 事業 じぎょう は別 べつ のカナダ太平洋 たいへいよう リミテッドと称 しょう する子会社 こがいしゃ により運営 うんえい されていた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は法的 ほうてき には別 べつ として、営業 えいぎょう 上 じょう の柔軟 じゅうなん 性 せい を示 しめ すために2007年 ねん 初 はじ めに「鉄道 てつどう 」の語 かたり を名称 めいしょう から外 はず し、公式 こうしき にカナディアン・パシフィックと称 しょう するようになった。名称 めいしょう 変更 へんこう の少 すこ し後 ご には、バンクーバーオリンピック の主要 しゅよう スポンサーおよび物流 ぶつりゅう 提供 ていきょう パートナーとなったことが発表 はっぴょう された[39] 。
2004年 ねん 12月、テック・コミンコ (Teck Cominco ) は、古 ふる い鉱山 こうざん 跡地 あとち における金属 きんぞく 汚染 おせん に関 かん して自分 じぶん の権利 けんり を守 まも る目的 もくてき でカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう を提訴 ていそ した。2006年 ねん 10月 がつ 10日 とおか には、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はアメリカホンダ自動車 じどうしゃ (英語 えいご 版 ばん ) から"Rail Origin of the Year"の賞 しょう を受 う けた[40] 。2007年 ねん 9月 がつ 4日 にち 、ロンドンに本拠 ほんきょ を置 お くエレクトラ・プライベート・エクイティ (英語 えいご 版 ばん ) からダコタ・ミネソタ・アンド・イースタン鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) を買収 ばいしゅう すると発表 はっぴょう した[41] 。この取引 とりひき により、末端 まったん から末端 まったん までの統合 とうごう を実現 じつげん し、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう がアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 内 ない の農産 のうさん 品 ひん ・エタノール・石炭 せきたん などの荷主 にぬし にアクセスできるようになる。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はこの買収 ばいしゅう を、ワイオミング州 しゅう のパウダー川 かわ 盆地 ぼんち (英語 えいご 版 ばん ) にある豊 ゆた かな炭田 たんでん 地帯 ちたい へのアクセスに用 もち いるという意図 いと を表明 ひょうめい した。購入 こうにゅう 価格 かかく は14億 おく 8000万 まん 米 あめりか ドルで、このうち10億 おく 米 あめりか ドル以上 いじょう はパウダー川 かわ までの鉄道 てつどう 路線 ろせん 延長 えんちょう に着工 ちゃっこう し、パウダー川 かわ 盆地 ぼんち から一定 いってい の数量 すうりょう の石炭 せきたん が出荷 しゅっか された条件 じょうけん での将来 しょうらい の支払 しはら いとされた。この取引 とりひき はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の陸上 りくじょう 運輸 うんゆ 委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) の承認 しょうにん 待 ま ちで、1年 ねん ほどかかるとされた。2007年 ねん 10月 がつ 4日 にち にカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は買収 ばいしゅう に必要 ひつよう な財務 ざいむ 上 じょう の取引 とりひき を完了 かんりょう したと発表 はっぴょう し、ダコタ・ミネソタ・アンド・イースタン鉄道 てつどう とアイオワ・シカゴ・アンド・イースタン鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) をリチャード・ハムリンを信託 しんたく 人 じん とする議決 ぎけつ 権 けん 信託 しんたく に預 あづ けた[42] 。合併 がっぺい は2008年 ねん 10月 がつ 31日 にち に完了 かんりょう した[43] 。
2011年 ねん 10月 がつ 28日 にち に、証券 しょうけん 取引 とりひき 委員 いいん 会 かい への13D申告 しんこく において、アメリカのヘッジファンド であるパーシング・スクエア・キャピタル・マネジメント (PSCM) がカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の株 かぶ の12.2パーセントを所有 しょゆう していると申告 しんこく した[44] [45] 。PSCMは2011年 ねん にカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の株 かぶ を買 か い始 はじ めた。最終 さいしゅう 的 てき に持 も ち株 かぶ は14.2パーセントまで増加 ぞうか し、PSCMがカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の最大 さいだい 株主 かぶぬし となった。この月 つき に開 ひら かれた会社 かいしゃ 側 がわ との打 う ち合 あ わせにおいて、PSCMの責任 せきにん 者 しゃ のビル・アックマン (英語 えいご 版 ばん ) は、最高 さいこう 経営 けいえい 者 しゃ のフレッド・グリーンの交代 こうたい を求 もと めた。2012年 ねん 5月 がつ 17日 にち 木曜日 もくようび の年次 ねんじ 株主 かぶぬし 総会 そうかい の数時間 すうじかん 前 まえ に、グリーンと会長 かいちょう のジョン・クレッグホーンを含 ふく む他 ほか の5人 にん の取締役 とりしまりやく が辞任 じにん した。アックマン自身 じしん とそのパートナーであるパウル・ヒラルを含 ふく めた7人 にん が新 あら たな取締役 とりしまりやく に選任 せんにん された。再編 さいへん された取締役 とりしまりやく 会 かい は、ノーフォーク・サザン鉄道 てつどう の前 まえ の副 ふく 会長 かいちょう 兼 けん 最高 さいこう 執行 しっこう 責任 せきにん 者 しゃ であったスティーブン・トービアスを暫定 ざんてい CEOに指名 しめい して、新 あたら しいCEOの探 さが し始 はじ め、最終 さいしゅう 的 てき にカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう の前 まえ の社長 しゃちょう であったハンター・ハリソン (英語 えいご 版 ばん ) を2012年 ねん 6月 がつ 29日 にち に任命 にんめい した[46] [47] 。
2012年 ねん 5月 がつ 23日 にち に、4,800人 にん の機関 きかん 士 し ・車掌 しゃしょう ・運行 うんこう 指令 しれい 員 いん が職場 しょくば を放棄 ほうき して9日間 にちかん のストライキに入 はい り、貨物 かもつ 列車 れっしゃ が止 と まって経済 けいざい に8000万 まん カナダドル規模 きぼ の損害 そんがい を与 あた えたが、6月1日 にち に運行 うんこう を再開 さいかい した。このストライキは、政府 せいふ が職務 しょくむ 復帰 ふっき 法案 ほうあん を持 も ち出 だ して双方 そうほう を拘束 こうそく 力 りょく のある合意 ごうい に至 いた らせたことで終結 しゅうけつ した[48] [49] 。
2013年 ねん 7月 がつ 6日 にち に、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう が地方 ちほう 鉄道 てつどう のモントリオール・メイン・アンド・アトランティック鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) に請 う け負 お わせていた原油 げんゆ のユニットトレイン がラック・メガンティックで脱線 だっせん し、47人 にん が死亡 しぼう した[50] 。2013年 ねん 8月 がつ 14日 にち に、ケベック州 しゅう 政府 せいふ はカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう と、賃借 ちんしゃく 人 じん のワールド・フュエル・サービシズ (英語 えいご 版 ばん ) をともに、事故 じこ 現場 げんば の環境 かんきょう 回復 かいふく 作業 さぎょう の費用 ひよう を負担 ふたん させる企業 きぎょう のリストに追加 ついか した[50] 。7月15日 にち に、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は裁判所 さいばんしょ の法的 ほうてき 手続 てつづ きを求 もと めたと報 ほう じられた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう のスポークスマン、エド・グリーンバーグは、「カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は通知 つうち を検討 けんとう した。実際 じっさい のところ、法的 ほうてき には、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は環境 かんきょう 回復 かいふく 作業 さぎょう に責任 せきにん を負 お っていない」と述 の べた[51] 。2014年 ねん 2月 がつ にハリソンは、脱線 だっせん 事故 じこ の際 さい に危険 きけん 性 せい が大 おお きいことで知 し られる、DOT-111型 がた タンク車 しゃ (英語 えいご 版 ばん ) の運行 うんこう を終了 しゅうりょう させるために直 ただ ちに行動 こうどう に移 うつ すように求 もと めた[52] 。
2021年 ねん 、カナディアン・ナショナル鉄道 てつどう によるカンザス・シティ・サザン鉄道 てつどう 買収 ばいしゅう 話 ばなし に横 よこ やりを入 い れる形 かたち で買収 ばいしゅう 提案 ていあん を行 おこな ったが[53] 敗 やぶ れた[54] 。
2023年 ねん 4月 がつ 14日 にち をもって、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はカンザス・シティ・サザン鉄道 てつどう と合併 がっぺい してカナダ太平洋 たいへいよう カンザスシティ鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) となった。
オンタリオ州 しゅう サンダーベイ を行 い くSA90MAC 型 かた 機関 きかん 車 しゃ
ウィスコンシン州 しゅう ウィスコンシンデルズ (英語 えいご 版 ばん ) で列車 れっしゃ を牽引 けんいん するスー・ライン鉄道 てつどう 6022号 ごう 機関 きかん 車 しゃ (EMD SD60 )、2004年 ねん 6月 がつ 20日 はつか
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の貨物 かもつ 輸送 ゆそう の半分 はんぶん 以上 いじょう は石炭 せきたん ・穀物 こくもつ およびインターモーダル輸送 ゆそう であり、利益 りえき の大半 たいはん はカナダ西部 せいぶ から生 う み出 だ されている。貿易 ぼうえき が大西洋 たいせいよう 側 がわ から太平洋 たいへいよう 側 がわ に大 おお きく移 うつ ったことで、サンダーベイからの小麦 こむぎ の出荷 しゅっか は大 おお きく落 お ち込 こ むことになった。その他 た に自動車 じどうしゃ 部品 ぶひん 、組 く み立 た て済 ず み自動車 じどうしゃ 、硫黄 いおう 、肥料 ひりょう 、その他 た の化学 かがく 薬品 やくひん 、林 はやし 産品 さんぴん 、その他 た の雑貨 ざっか などが運 はこ ばれている。鉄道 てつどう 網 もう の中 なか でもっとも過密 かみつ なのは、カルガリーとバンクーバーの間 あいだ の本線 ほんせん である。1970年 ねん 以来 いらい 、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の輸送 ゆそう の主力 しゅりょく は石炭 せきたん となっている。石炭 せきたん は山岳 さんがく 地帯 ちたい の炭鉱 たんこう 、もっとも有名 ゆうめい なものとしてはスパーウッド (英語 えいご 版 ばん ) からロバーツバンク (英語 えいご 版 ばん ) やノースバンクーバー のターミナルに運 はこ ばれ、そこから日本 にっぽん へ出荷 しゅっか される。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は毎年 まいとし 西海岸 にしかいがん へ数 すう 百 ひゃく 万 まん トンの石炭 せきたん を運 はこ んでいる[要 よう 出典 しゅってん ] 。
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう が運 はこ ぶ穀物 こくもつ は、平原 ひらはら 地帯 ちたい からサンダーベイ(かつてはフォートウィリアム (英語 えいご 版 ばん ) やポートアーサー (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれていた)やケベックシティー、バンクーバーなどに運 はこ ばれ、そこから国外 こくがい へ輸出 ゆしゅつ される。セントローレンス川 がわ が氷 こおり で閉 と ざされている冬期 とうき には、伝統 でんとう 的 てき にニューブランズウィック州 しゅう のウェストセントジョンから輸出 ゆしゅつ される。穀物 こくもつ はカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう にとって常 つね に重要 じゅうよう な輸送 ゆそう 品目 ひんもく であった。1905年 ねん から1909年 ねん にかけて、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は穀物 こくもつ の出荷 しゅっか に利用 りよう するためにフォートウィリアムとウィニペグ の間 あいだ を複線 ふくせん 化 か した。この区間 くかん は何 なん 十 じゅう 年 ねん にもわたって、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう にとって都市 とし 部 ぶ 以外 いがい で長 なが い複線 ふくせん 区間 くかん を有 ゆう する唯一 ゆいいつ の場所 ばしょ であった。こんにち、サンダーベイとウィニペグの間 あいだ は単線 たんせん に戻 もど されてしまったが、他 た に地方 ちほう 部 ぶ に通 つう じる長 なが い複線 ふくせん の本線 ほんせん として、ケント (英語 えいご 版 ばん ) からバンクーバーまでコースト山脈 さんみゃく (英語 えいご 版 ばん ) 中 なか をフレーザー川 がわ に沿 そ う区間 くかん と、オンタリオ州 しゅう スミスフォールズ (英語 えいご 版 ばん ) からモントリオール中心 ちゅうしん 部 ぶ まで、田舎 いなか の農村 のうそん 地帯 ちたい を走 はし るウィンチェスター地区 ちく の100マイル(約 やく 160キロメートル)の路線 ろせん がある。またゴールデン (英語 えいご 版 ばん ) とカムループス の間 あいだ や、ウィニペグ-サンダーベイ間 あいだ の元 もと の複線 ふくせん 区間 くかん のうち20マイルほどのケノーラ とキーウェティンの間 あいだ などが依然 いぜん として複線 ふくせん である[要 よう 出典 しゅってん ] 。
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は1952年 ねん に、北 きた アメリカの鉄道 てつどう としては初 はじ めてピギーバック輸送 ゆそう を導入 どうにゅう し、道路 どうろ のトレーラーを貨車 かしゃ に積 つ んで輸送 ゆそう するようになった。後 のち に、コンテナ 輸送 ゆそう がほとんどのピギーバック輸送 ゆそう を代替 だいたい するようになった。1996年 ねん にカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は、モントリオールとウェストトロントの間 あいだ で、予 よ 約 やく 専用 せんよう の定期 ていき 短距離 たんきょり インターモーダル輸送 ゆそう として「アイアンハイウェイ」という列車 れっしゃ を運行 うんこう するようになり、特殊 とくしゅ な設備 せつび を使用 しよう していたが、1999年 ねん に在来 ざいらい 型 がた のピギーバック輸送 ゆそう 車両 しゃりょう に置 お き換 か えられ、名前 なまえ も「エクスプレスウェイ」に変更 へんこう された。この列車 れっしゃ はデトロイトまで延長 えんちょう され、さらにシカゴへ延長 えんちょう する計画 けいかく もあるが、適切 てきせつ なターミナルを見 み つけることができていない[要 よう 出典 しゅってん ] 。
かつてのアンガス工場 こうじょう の建物 たてもの 、ケベックアルコール会社 かいしゃ (英語 えいご 版 ばん ) の酒類 しゅるい 販売 はんばい 店 てん に転用 てんよう されている
1960年代 ねんだい まで、カナダでは列車 れっしゃ が長距離 ちょうきょり の主 しゅ たる移動 いどう 手段 しゅだん であった。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の列車 れっしゃ に乗 の った人 ひと たちとして、平原 ひらはら 地帯 ちたい に新 あら たに移 うつ り住 す む移民 いみん たち、兵士 へいし (特 とく に2回 かい の世界 せかい 大戦 たいせん の際 さい に)、上級 じょうきゅう の旅行 りょこう 者 しゃ などがいる。社内 しゃない のアンガス工場 こうじょう (英語 えいご 版 ばん ) では、そうした上級 じょうきゅう 旅行 りょこう 者 しゃ の要求 ようきゅう に応 こた えて、特別 とくべつ な旅客 りょかく 車 しゃ を多数 たすう 製作 せいさく した。
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう では、大陸 たいりく 横断 おうだん 輸送 ゆそう 網 もう と統合 とうごう された五大 ごだい 湖 みずうみ の船舶 せんぱく の運航 うんこう も行 おこな っていた。1885年 ねん から1912年 ねん まで、ジョージア湾 わん のオーウェンサウンドとフォートウィリアムの間 あいだ を結 むす んで船 ふね が運航 うんこう されていた。カントリーエレベーターを焼失 しょうしつ した1911年 ねん 12月の大火 たいか の後 のち 、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう が建設 けんせつ した新 あたら しくてより大 おお きなマクニッコールの港 みなと に移転 いてん し、1912年 ねん 5月 がつ に開業 かいぎょう した。5隻 せき の船 ふね で毎日 まいにち 運航 うんこう しており、その中 なか には「アッシニボイア」(Assiniboia )、「キーワティン」(Keewatin ) という1908年 ねん 建造 けんぞう で航路 こうろ の廃止 はいし まで運航 うんこう した船 ふね もあった。利用 りよう 者 しゃ は列車 れっしゃ でトロントからジョージア湾 わん の港 みなと まで行 い き、そこから船 ふね に乗 の って対岸 たいがん に渡 わた って、別 べつ の列車 れっしゃ に接続 せつぞく した。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご は、列車 れっしゃ も船 ふね も旅客 りょかく だけでなく自動車 じどうしゃ も運 はこ ぶようになった。この列車 れっしゃ は、北 きた アメリカでは最後 さいご となるボート・トレイン であった。「スチーム・ボート」という名 な の高速 こうそく 直通 ちょくつう 列車 れっしゃ がトロントとマクニッコール港 こう を結 むす んでいた。旅客 りょかく 輸送 ゆそう は1965年 ねん のシーズン限 かぎ りで廃止 はいし となり、「キーワティン」1隻 せき のみがその後 ご 2年間 ねんかん 貨物 かもつ 輸送 ゆそう を継続 けいぞく した。この船 ふね は後 のち にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく において海洋 かいよう 博物館 はくぶつかん となり[どこ? ] 、2013年 ねん にカナダに戻 もど された[55] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、自動車 じどうしゃ と航空機 こうくうき が普及 ふきゅう するにつれて鉄道 てつどう の旅客 りょかく 輸送 ゆそう は落 お ち込 こ んでいったが、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう では旅客 りょかく 数 すう を伸 の ばし続 つづ けようと試 こころ みて様々 さまざま な変革 へんかく を行 おこな い続 つづ けた。1953年 ねん 11月9日 にち から、バッド 製 せい のディーゼルカー を多 おお くの路線 ろせん に投入 とうにゅう した。この車両 しゃりょう をカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 当局 とうきょく では公式 こうしき にはデイライナーと呼 よ んでいたが、職員 しょくいん たちは常 つね にバッドカーと呼 よ んでいた。所要 しょよう 時間 じかん を大幅 おおはば に短縮 たんしゅく し、費用 ひよう も節減 せつげん したことで、多 おお くの路線 ろせん での旅客 りょかく 営業 えいぎょう を長年 ながねん にわたって維持 いじ することに貢献 こうけん した。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう では、バッドカーの購入 こうにゅう を続 つづ けて最終 さいしゅう 的 てき にバッドカーの2番目 ばんめ に大 おお きな所有 しょゆう 者 しゃ となる52両 りょう を有 ゆう するようになり、これ以上 いじょう の数 かず を保有 ほゆう していたのはボストン・アンド・メイン鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) だけであった。またカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は珍 めずら しいRDC-4型 がた を有 ゆう していた。この車両 しゃりょう は一 いち 端 はし に郵便 ゆうびん 室 しつ を、もう一端 いったん に荷物 にもつ 室 しつ を備 そな え、旅客 りょかく 室 しつ を備 そな えていない形式 けいしき であった。1955年 ねん 4月 がつ 24日 にち に、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は新 あたら しい豪華 ごうか 大陸 たいりく 横断 おうだん 列車 れっしゃ 「カナディアン 」を運行 うんこう 開始 かいし した。この列車 れっしゃ はバンクーバーとトロントもしくはモントリオールを結 むす び、サドバリー以東 いとう では2本 ほん に分割 ぶんかつ して運転 うんてん されていた。この高速 こうそく 列車 れっしゃ は、ディーゼル機関 きかん 車 しゃ が牽引 けんいん し、展望 てんぼう ドーム車 しゃ の「パーク・カー 」などの新 あたら しい流 ながれ 線形 せんけい のステンレス鋼 こう 製 せい の客車 きゃくしゃ を使用 しよう していた[56] 。
しかし、1960年代 ねんだい からは旅客 りょかく 列車 れっしゃ の大半 たいはん 、特 とく に支線 しせん におけるものを廃止 はいし するようになっていった。たとえば、南部 なんぶ ブリティッシュコロンビア州 しゅう とクロウネスト峠 とうげ の旅客 りょかく 列車 れっしゃ は1964年 ねん 1月 がつ に、ケベック・セントラル鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) の旅客 りょかく 列車 れっしゃ は1967年 ねん 4月 がつ に、そして大陸 たいりく 横断 おうだん 列車 れっしゃ の「ドミニオン」は1966年 ねん 1月 がつ に廃止 はいし された。1978年 ねん 10月 がつ 29日 にち にカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は旅客 りょかく 列車 れっしゃ を、新 あたら しく設立 せつりつ された国有 こくゆう 企業 きぎょう であるVIA鉄道 てつどう に移管 いかん し、ここがカナダにおける都市 とし 間 あいだ 旅客 りょかく 輸送 ゆそう に責任 せきにん を負 お うことになった。後 のち にブライアン・マルルーニー 首相 しゅしょう は、1990年 ねん 1月 がつ 15日 にち にVIA鉄道 てつどう の旅客 りょかく 列車 れっしゃ の大幅 おおはば 削減 さくげん を実行 じっこう した。これによりカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の線路 せんろ 上 じょう では「カナディアン」の運行 うんこう が終了 しゅうりょう し、かつての「スーパー・コンチネンタル」のカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう を通 とお る経路 けいろ に名前 なまえ を変更 へんこう せずに移 うつ ることになった。1990年 ねん 1月 がつ 15日 にち の運行 うんこう 削減 さくげん 以前 いぜん は、どちらの列車 れっしゃ も毎日 まいにち 運転 うんてん であったのに対 たい して、残 のこ された「カナディアン」は週 しゅう に3回 かい の運行 うんこう となった。2012年 ねん 10月 がつ には「カナディアン」は年 とし に6か月 げつ のオフシーズンには週 しゅう 2回 かい の運行 うんこう に削減 さくげん され、週 しゅう 3回 かい の運行 うんこう は残 のこ りの6か月 げつ のみとなった。都市 とし 間 あいだ 列車 れっしゃ の他 ほか に、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はモントリオールにおける通勤 つうきん 輸送 ゆそう も提供 ていきょう していた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はここで、1970年 ねん にカナダで最初 さいしょ の2階 かい 建 けん 車両 しゃりょう を導入 どうにゅう した。1982年 ねん 10月 がつ 1日 にち に、モントリオール都市 とし 圏 けん 交通 こうつう 委員 いいん 会 かい がカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう から通勤 つうきん 輸送 ゆそう の責任 せきにん を引 ひ き継 つ いだ。この輸送 ゆそう はモントリオール大都市 だいとし 圏 けん 交通 こうつう 局 きょく の傘下 さんか で継続 けいぞく されている[要 よう 出典 しゅってん ] 。
バンクーバーのウォーターフロント駅 えき に停車 ていしゃ 中 ちゅう のウェストコーストエクスプレス
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は現在 げんざい 、2か所 しょ の通勤 つうきん 輸送 ゆそう を契約 けいやく により請 う け負 お っている。GOトランジット との契約 けいやく で、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はオンタリオ州 しゅう においてミルトンとトロント市街地 しがいち の間 あいだ で6往復 おうふく の運行 うんこう を行 おこな っている。モントリオールでは、モントリオール大都市 だいとし 圏 けん 交通 こうつう 局 きょく の下 もと で、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の路線 ろせん にルシアン・ラリエール駅 えき から3方面 ほうめん へ1日 にち 59本 ほん の通勤 つうきん 列車 れっしゃ を運行 うんこう している。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はバンクーバーでは、地域 ちいき の交通 こうつう 当局 とうきょく であるトランスリンク と契約 けいやく してのウエストコーストエクスプレス の運行 うんこう はもう行 い っていない。ボンバルディア・トランスポーテーション が2014年 ねん 5月 がつ 5日 にち から列車 れっしゃ 運行 うんこう を引 ひ き継 つ いでいる[57] 。
寝台 しんだい 車 しゃ ・食堂 しょくどう 車 しゃ ・パーラーカー部門 ぶもん
編集 へんしゅう
寝台 しんだい 車 しゃ および食堂 しょくどう 車 しゃ 、パーラーカーは独立 どくりつ した部門 ぶもん で運営 うんえい されており、そのまま「寝台 しんだい 車 しゃ ・食堂 しょくどう 車 しゃ ・パーラーカー部門 ぶもん 」と名付 なづ けられていた。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の鉄道 てつどう 会社 かいしゃ では、車両 しゃりょう の製造 せいぞう から提供 ていきょう およびポーター の派遣 はけん に至 いた るまで、寝台 しんだい 車 しゃ の営業 えいぎょう を専 せん 門 もん の独立 どくりつ 企業 きぎょう に依存 いぞん していたが、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう では当初 とうしょ から自前 じまえ で寝台 しんだい 車 しゃ の営業 えいぎょう を行 おこな うと決定 けってい していた。プルマン は寝台 しんだい 車 しゃ 営業 えいぎょう では長 なが らく有名 ゆうめい であり、プルマンのポーターは伝説 でんせつ となっている。他 た に寝台 しんだい 車 しゃ の営業 えいぎょう を行 おこな う企業 きぎょう としてはワグナー (英語 えいご 版 ばん ) の会社 かいしゃ などがあった。自身 じしん が大男 おおおとこ であったカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう のゼネラルマネージャー、ウィリアム・ヴァン・ホーン (英語 えいご 版 ばん ) の指示 しじ により、大型 おおがた の寝台 しんだい とより快適 かいてき な環境 かんきょう が整 ととの えられていた。自社 じしゃ で寝台 しんだい 車 しゃ の営業 えいぎょう をすべて行 おこな うことで、提供 ていきょう するサービスをより適切 てきせつ に管理 かんり でき、また受 う け取 と る代金 だいきん すべてを自社 じしゃ の収入 しゅうにゅう とすることができたが、旅客 りょかく に食事 しょくじ を提供 ていきょう すること自体 じたい が直接 ちょくせつ 利益 りえき を生 う むわけではなかった。むしろ、長距離 ちょうきょり を旅行 りょこう することができるような人々 ひとびと がそうした設備 せつび を望 のぞ み、彼 かれ らの好意 こうい 的 てき な意見 いけん が結果 けっか 的 てき にカナダにさらに観光 かんこう 客 きゃく を惹 ひ きつけ、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の列車 れっしゃ に乗 の ることになる、ということを通 つう じて利益 りえき を生 う むものであった[58] 。
ヴァン・ホーンは非常 ひじょう に初期 しょき から、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はできるだけ多 おお くの事業 じぎょう から収益 しゅうえき を得 え ると決断 けつだん していた。これにより宅配 たくはい ・電信 でんしん ・寝台 しんだい 車 しゃ などの事業 じぎょう を運営 うんえい し、必要 ひつよう に応 おう じて独立 どくりつ した部門 ぶもん あるいは会社 かいしゃ を設立 せつりつ することになった。まだ設立 せつりつ されたばかりの鉄道 てつどう 会社 かいしゃ にとっては、得 え られる収入 しゅうにゅう は何 なん でも獲得 かくとく しておく必要 ひつよう があったからであり、これに加 くわ えて宅配 たくはい や電信 でんしん などこうした関連 かんれん 事業 じぎょう は非常 ひじょう に利益 りえき が出 で ると見込 みこ んでいたこともあった。その他 た の寝台 しんだい 車 しゃ や食堂 しょくどう 車 しゃ などの事業 じぎょう は、旅客 りょかく へ提供 ていきょう するサービスの品質 ひんしつ をより確実 かくじつ に管理 かんり するために自社 じしゃ の傘下 さんか に置 お かれていた。ホテル事業 じぎょう もまた、旅行 りょこう 客 きゃく を集 あつ めることでカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の成長 せいちょう にとって重要 じゅうよう であった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
ドミニオン宅配 たくはい 会社 かいしゃ (Dominion Express Company ) はカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 自身 じしん より早 はや い、1873年 ねん に独立 どくりつ 企業 きぎょう として設立 せつりつ されたが、1882年 ねん 夏 なつ まで列車 れっしゃ の運行 うんこう が開始 かいし されることはなく、この時点 じてん では300マイル(約 やく 480キロメートル)ほどの距離 きょり をオンタリオ州 しゅう ラットポーテッジ(キーノラ)から西 にし へマニトバ州 しゅう ウィニペグまで運行 うんこう されていた。ドミニオン宅配 たくはい 会社 かいしゃ はすぐにカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう に吸収 きゅうしゅう され、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の路線 ろせん が開業 かいぎょう した場所 ばしょ へはどこへでも営業 えいぎょう するようになった。1926年 ねん 9月 がつ 1日 にち にカナダ宅配 たくはい 会社 かいしゃ (Canadian Express Company ) へと改称 かいしょう され、本社 ほんしゃ をウィニペグからトロントへ移転 いてん した。会社 かいしゃ は鉄道 てつどう とは独立 どくりつ した会社 かいしゃ として営業 えいぎょう され、列車 れっしゃ に宅配 たくはい 荷物 にもつ を搭載 とうさい する車両 しゃりょう を連結 れんけつ して運行 うんこう するために鉄道 てつどう 会社 かいしゃ が費用 ひよう を請求 せいきゅう していた。荷物 にもつ は旅客 りょかく 列車 れっしゃ の先頭 せんとう に連結 れんけつ された専用 せんよう の荷物 にもつ 車 しゃ で、場合 ばあい によっては車 くるま 上 じょう に乗務 じょうむ している係員 かかりいん によって取 と り扱 あつか われ、高速 こうそく で定時 ていじ 性 せい の高 たか い輸送 ゆそう を提供 ていきょう することで、遅 おく れがよく生 しょう じる少量 しょうりょう の貨物 かもつ 輸送 ゆそう より高 たか い運賃 うんちん を請求 せいきゅう していた。あらゆる種類 しゅるい の事業 じぎょう 向 む けに少量 しょうりょう 輸送 ゆそう を行 おこな い、クリーム、バター、鶏肉 とりにく 、卵 たまご などが扱 あつか われ、これに加 くわ えて独立 どくりつ した冷蔵 れいぞう 車 しゃ で生花 せいか 、魚 さかな 、その他 た の魚介 ぎょかい 類 るい なども運 はこ んでいた。馬 うま やその他 た の家畜 かちく 、鳥 とり 、小 しょう 動物 どうぶつ や展示 てんじ 会 かい に出 だ される動物 どうぶつ なども、動物 どうぶつ の世話 せわ をする飼育 しいく 員 いん が乗 の る場所 ばしょ を備 そな えた特別 とくべつ な家畜 かちく 車 しゃ で運 はこ ばれていた[要 よう 出典 しゅってん ] 。
個人 こじん 用 よう の自動車 じどうしゃ も締切 しめきり の有蓋 ゆうがい 車 しゃ を使 つか って宅配 たくはい 扱 あつか いで運 はこ ばれた。金 かね や銀 ぎん の延 の べ棒 ぼう 、それに現金 げんきん も、造幣 ぞうへい 所 しょ と銀行 ぎんこう の間 あいだ で大量 たいりょう に運 はこ ばれ、安全 あんぜん 上 じょう の理由 りゆう で宅配 たくはい 担当 たんとう 者 しゃ は武装 ぶそう していた。小 しょう 事業 じぎょう 用 よう の現金 げんきん や宝石 ほうせき などの貴重 きちょう 品 ひん も小 ちい さな容器 ようき に入 い れて定期 ていき 的 てき に取 と り扱 あつか われていた。郵便 ゆうびん 為替 かわせ やトラベラーズチェック の扱 あつか いは、クレジットカードが使 つか われるようになる前 まえ の時代 じだい には宅配 たくはい 会社 かいしゃ の重要 じゅうよう な事業 じぎょう で、世界中 せかいじゅう で使 つか われていた。カナダ宅配 たくはい 集配 しゅうはい 局 きょく (Canadian Express Cartage Department ) が1937年 ねん 3月 がつ に設立 せつりつ され、少量 しょうりょう 貨物 かもつ を含 ふく めた多 おお くの宅配 たくはい 物品 ぶっぴん の収集 しゅうしゅう と配達 はいたつ を取 と り扱 あつか うようになった。通常 つうじょう の宅配 たくはい 会社 かいしゃ の車両 しゃりょう が明 あか るい赤 あか に塗装 とそう されていたのに対 たい し、この部門 ぶもん のトラックは濃 こ い緑 みどり に塗 ぬ られていた。高速 こうそく 道路 どうろ のトラックを利用 りよう した宅配 たくはい 路線 ろせん は1945年 ねん 11月にオンタリオ州 しゅう およびアルバータ州 しゅう 南部 なんぶ で始 はじ まり、鉄道 てつどう と道路 どうろ の輸送 ゆそう を協調 きょうちょう させることで、特 とく に支線 しせん 上 じょう にある小 ちい さな目的 もくてき 地 ち にはよりよい輸送 ゆそう を提供 ていきょう できるようになった。トラック営業 えいぎょう はカナダ全体 ぜんたい へと広 ひろ がって行 い き、少量 しょうりょう 輸送 ゆそう に関 かん しては重要 じゅうよう な交通 こうつう 手段 しゅだん となった。しかし1980年代 ねんだい の規制 きせい 緩和 かんわ によりすべてが変 か わり、何 なん 度 ど も時流 じりゅう に沿 そ った変革 へんかく 努力 どりょく を行 おこな ったものの、トラック輸送 ゆそう は終了 しゅうりょう した[要 よう 出典 しゅってん ] 。
1890年代 ねんだい から1933年 ねん まで、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう では東 ひがし アジアから出荷 しゅっか された絹 きぬ をバンクーバーからニューヨークやニュージャージーにある絹 きぬ 製品 せいひん 工場 こうじょう まで運 はこ んでいた。1本 ほん の絹 きぬ 輸送 ゆそう 列車 れっしゃ では数 すう 百 ひゃく 万 まん ドル相当 そうとう の絹 きぬ が運 はこ ばれ、武装 ぶそう した護衛 ごえい が専用 せんよう に乗務 じょうむ していた。列車 れっしゃ 強盗 ごうとう の危険 きけん を避 さ け、保険 ほけん 費用 ひよう を節約 せつやく するために、絹 きぬ 輸送 ゆそう 列車 れっしゃ はできるだけ速 はや く走行 そうこう し、機関 きかん 車 しゃ と乗務 じょうむ 員 いん の交代 こうたい のためだけに停車 ていしゃ し、停車 ていしゃ 時間 じかん も5分 ふん 以下 いか であった。絹 きぬ 輸送 ゆそう 列車 れっしゃ は他 た のあらゆる列車 れっしゃ に対 たい して優先 ゆうせん 権 けん を持 も っており、絹 きぬ 輸送 ゆそう 列車 れっしゃ を速 はや く通 とお すために、旅客 りょかく 列車 れっしゃ でさえ側線 そくせん に待避 たいひ させられていた。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 末 まつ には、ナイロン が発明 はつめい されて絹 きぬ が重要 じゅうよう 品 ひん ではなくなったこともあり、絹 きぬ 輸送 ゆそう 列車 れっしゃ も廃止 はいし された[59] 。
カナダの首相 しゅしょう を務 つと めたジョン・A・マクドナルド の葬送 そうそう 列車 れっしゃ
葬送 そうそう 列車 れっしゃ (英語 えいご 版 ばん ) では、首相 しゅしょう のような重要 じゅうよう 人物 じんぶつ の遺体 いたい の輸送 ゆそう を行 おこな った。葬送 そうそう 列車 れっしゃ が進行 しんこう する際 さい には、会葬 かいそう 者 しゃ は所定 しょてい の位置 いち に立 た って弔意 ちょうい を表 あらわ した。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の葬送 そうそう 列車 れっしゃ としては、2本 ほん が特 とく に有名 ゆうめい である。1891年 ねん 6月 がつ 10日 とおか にカナダの首相 しゅしょう を務 つと めたジョン・A・マクドナルド の葬送 そうそう 列車 れっしゃ がオタワからオンタリオ州 しゅう キングストン まで運転 うんてん された。この列車 れっしゃ は布 ぬの を垂 た らされた5両 りょう の客車 きゃくしゃ で構成 こうせい されており、283号 ごう 機関 きかん 車 しゃ によって牽引 けんいん されていた。1915年 ねん 9月 がつ 14日 にち には、かつてカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 社長 しゃちょう を務 つと めたウィリアム・ヴァン・ホーンの葬送 そうそう 列車 れっしゃ がモントリオールからイリノイ州 しゅう ジョリエット まで運転 うんてん され、2213号 ごう 機関 きかん 車 しゃ が牽引 けんいん した[要 よう 出典 しゅってん ] 。
ジョージ6世 せい とエリザベス・ボーズ=ライアン 、ブリティッシュコロンビア州 しゅう ホープにて
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう では、王室 おうしつ の人 ひと がカナダを訪 おとず れた際 さい には、多 おお くのロイヤルトレインを運転 うんてん している。人々 ひとびと が賓客 ひんきゃく に拝謁 はいえつ し挨拶 あいさつ できるよう、賓客 ひんきゃく をカナダの風景 ふうけい 、森林 しんりん 、小 ちい さな町 まち などに連 つ れて行 い った。こうしたロイヤルトレインは優雅 ゆうが に装飾 そうしょく されており、郵便 ゆうびん 局 きょく や理容 りよう 室 しつ などを備 そな えていることもあった。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう でもっとも有名 ゆうめい なロイヤルトレインは1939年 ねん のものである。1939年 ねん にカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう とカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう の双方 そうほう は、ジョージ6世 せい とエリザベス・ボーズ=ライアン の2人 ふたり にケベックシティーからバンクーバーまで鉄道 てつどう での移動 いどう を提供 ていきょう する栄誉 えいよ を得 え た。これは在位 ざいい 中 ちゅう の君主 くんしゅ がカナダを訪問 ほうもん する初 はじ めての機会 きかい であった。牽引 けんいん に使 つか われた蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ は、1938年 ねん モントリオール・ロコモティブ・ワークス 製 せい ハドソン型 がた のカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 2850号 ごう 、ノーザン型 がた のカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう 6400号 ごう 、マウンテン型 がた のカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう 6028号 ごう などである。塗装 とそう されなかったカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう 6028号 ごう 以外 いがい は、特別 とくべつ にロイヤルブルーで塗装 とそう され、列車 れっしゃ 全体 ぜんたい に銀 ぎん の帯 おび が巻 ま かれた。機関 きかん 車 しゃ はカナダ全体 ぜんたい を5,189キロメートル走行 そうこう し、途中 とちゅう で25回 かい 乗務 じょうむ 員 いん が交代 こうたい し、機関 きかん 車 しゃ が故障 こしょう することはなかった。いくぶんの鉄道 てつどう ファン であったジョージ6世 せい は、可能 かのう であれば機関 きかん 車 しゃ の運転 うんてん 台 だい に乗 の っていた。旅行 りょこう の終了 しゅうりょう 後 ご 、ジョージ6世 せい はカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう に対 たい して、機関 きかん 車 しゃ に「ロイヤル・ハドソン」の名前 なまえ を付 つ けて、そのランボードに王冠 おうかん を描 えが くことを許可 きょか した。これは、標準 ひょうじゅん のハドソン型 がた (2800号 ごう から2819号 ごう )ではなく、準 じゅん 流 りゅう 線形 せんけい 型 がた の2820号 ごう から2864号 ごう にのみ適用 てきよう された[60] 。
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう では、「農業 のうぎょう 改良 かいりょう 列車 れっしゃ 」という最新 さいしん の農業 のうぎょう 研究 けんきゅう に関 かん する情報 じょうほう を広 ひろ めるための列車 れっしゃ を1914年 ねん から1922年 ねん にかけてサスカチュワン州 しゅう の地方 ちほう 部 ぶ で運転 うんてん していた。サスカチュワン大学 だいがく から要員 よういん が派遣 はけん され、費用 ひよう は農業 のうぎょう 省 しょう が負担 ふたん した[61] 。
1926年 ねん から1960年代 ねんだい 初期 しょき まで、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう では学校 がっこう から遠 とお いオンタリオ州 しゅう 北部 ほくぶ に住 す む人々 ひとびと のために学校 がっこう 列車 れっしゃ を運転 うんてん していた。特別 とくべつ に設計 せっけい された車両 しゃりょう に乗 の って先生 せんせい が出 で かけ、1か所 しょ で2日 にち から3日 にち 程度 ていど 滞在 たいざい して教 おし え、再 ふたた び他 た の場所 ばしょ へ移動 いどう していた。車両 しゃりょう には黒板 こくばん と机 つくえ ・椅子 いす が搭載 とうさい されていた。またミニ図書館 としょかん があり、先生 せんせい の滞在 たいざい 設備 せつび もあった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
ロサンゼルスからシカゴまでの大陸 たいりく 横断 おうだん 列車 れっしゃ の中 なか で殺人 さつじん 事件 じけん が起 お きる話 はなし を描 えが いた1976年 ねん の映画 えいが 「大陸 たいりく 横断 おうだん 超 ちょう 特急 とっきゅう 」(原題 げんだい シルバー・ストリーク Silver Streak )では、大掛 おおが かりな映画 えいが 撮影 さつえい がカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう を使 つか って行 おこな われ、主 おも にアルバータ州 しゅう 内 ない と駅 えき のシーンはトロントのユニオン駅 えき で撮影 さつえい された。列車 れっしゃ は架空 かくう のAMRoadという鉄道 てつどう 会社 かいしゃ のものとして偽装 ぎそう されていたが、偽装 ぎそう の程度 ていど が甘 うま かったこともあり機関 きかん 車 しゃ も客車 きゃくしゃ も元 もと の番号 ばんごう がそのままであり、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の赤 あか いストライプの塗装 とそう を容易 ようい に確認 かくにん できた。この時 とき の車両 しゃりょう のほとんどはVIA鉄道 てつどう でなお営業 えいぎょう 運転 うんてん に使 つか われており、先頭 せんとう の機関 きかん 車 しゃ の4070号 ごう と2両 りょう 目 め の4067号 ごう はそれぞれVIA鉄道 てつどう とCTCUMに売却 ばいきゃく されている[62] 。
2009年 ねん 11月に運転 うんてん されたホリデートレイン、モントリオールにて
ホリデートレインで繰 く り広 ひろ げられるショーを見 み る人 ひと たち
1999年 ねん から、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう では11月から12月 がつ にかけて「ホリデートレイン」を本線 ほんせん 沿 ぞ いに運行 うんこう している。このホリデートレインは、ホリデーシーズンを祝 いわ うとともに、地域 ちいき のフードバンク や飢餓 きが 救済 きゅうさい のための寄附 きふ を集 あつ めている。また、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう とその荷主 にぬし の宣伝 せんでん も行 おこな っている。各 かく 列車 れっしゃ には、列車 れっしゃ で移動 いどう する芸人 げいにん を乗 の せ、そのためのステージを有蓋 ゆうがい 車 しゃ に備 そな えている[63] 。
この列車 れっしゃ は貨物 かもつ 列車 れっしゃ ではあるが、古 ふる い客車 きゃくしゃ も牽引 けんいん しており、乗務 じょうむ 員 いん や芸人 げいにん の移動 いどう と宿泊 しゅくはく に利用 りよう される。職員 しょくいん とその家族 かぞく をある停車 ていしゃ 点 てん から次 つぎ の停車 ていしゃ 点 てん まで運 はこ ぶ以外 いがい は、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の従業 じゅうぎょう 員 いん と芸人 げいにん のみがこの列車 れっしゃ に乗 の ることができる。1999年 ねん の開始 かいし 以来 いらい 、ホリデートレインは950万 まん カナダドルほどの寄付 きふ 金 きん を集 あつ め、330万 まん ポンドの食品 しょくひん を北 きた アメリカフードバンクに提供 ていきょう した。ある自治体 じちたい で集 あつ められた寄附 きふ は、その自治体 じちたい 内 ない での配布 はいふ に用 もち いられている[64] 。
カナダ、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 北東 ほくとう 部 ぶ および中西部 ちゅうせいぶ で150か所 しょ を周 しゅう る2本 ほん のホリデートレインが運転 うんてん されている[65] 。列車 れっしゃ は約 やく 1000フィート(約 やく 300メートル)の長 なが さで、飾 かざ り付 つ けられた客 きゃく 貨車 かしゃ で構成 こうせい され、その中 なか には芸人 げいにん 向 む けの移動 いどう ステージに転換 てんかん できる改造 かいぞう された有蓋 ゆうがい 車 しゃ も連結 れんけつ されている。数 かず 十 じゅう 万 まん 個 こ のLEDクリスマスイルミネーションで飾 かざ られている。2013年 ねん には15周年 しゅうねん を祝 いわ って、貧困 ひんこん 問題 もんだい への関心 かんしん をさらに高 たか めることを狙 ねら い、オンタリオ州 しゅう ハミルトン 、アルバータ州 しゅう カルガリー、ミネソタ州 しゅう コテージグローブ で記念 きねん イベントが開催 かいさい された[要 よう 出典 しゅってん ] 。
6月 がつ から9月 がつ にかけて運行 うんこう される豪華 ごうか 観光 かんこう 列車 れっしゃ のロイヤル・カナディアン・パシフィック (英語 えいご 版 ばん ) の運転 うんてん が、2000年 ねん 6月 がつ 7日 にち から開始 かいし された。この列車 れっしゃ はカルガリーからブリティッシュコロンビア州 しゅう のコロンビア峡谷 きょうこく (英語 えいご 版 ばん ) を通 とお り、クロウネスト峠 とうげ を通 とお ってカルガリーへ戻 もど ってくる1,050キロメートルの距離 きょり を運転 うんてん する。5泊 はく 6日 にち の旅 たび である。1916年 ねん から1931年 ねん にかけて製造 せいぞう された最大 さいだい 8両 りょう の豪華 ごうか 客車 きゃくしゃ を連結 れんけつ し、最初 さいしょ 期 き のディーゼル機関 きかん 車 しゃ (FP9 )が牽引 けんいん している[66] 。
ウィスコンシン州 しゅう スタートエヴァントを通 とお るカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 2816号 ごう 機関 きかん 車 しゃ 「エンプレス」、2007年 ねん 9月 がつ 1日 にち
蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ の時代 じだい が終 お わってから長 なが く経 た った1964年 ねん 1月 がつ に売却 ばいきゃく されて以後 いご 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 内 ない で保存 ほぞん 展示 てんじ されていたかつての旅客 りょかく 用 よう 蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ を、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は1998年 ねん に買戻 かいもど した。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう のハドソン型 がた 2816号 ごう は、100万 まん ドル以上 いじょう の費用 ひよう をかけ、30か月 げつ の時間 じかん をかけて修復 しゅうふく され、改 あらた めて「エンプレス」と名付 なづ けられた。その後 ご 、広告 こうこく 宣伝 せんでん 目的 もくてき で運転 うんてん に復帰 ふっき した。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 内 ない の路線 ろせん を含 ふく めて、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の路線 ろせん 網 もう 内 ない のほとんどすべてを周 まわ り、慈善 じぜん 活動 かつどう の目的 もくてき に使 つか われた。集 あつ められた寄付 きふ 金 きん はすべて全国 ぜんこく 的 てき な慈善 じぜん 活動 かつどう である「学習 がくしゅう のために朝食 ちょうしょく を」キャンペーンに贈 おく られ、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう が運行 うんこう 経費 けいひ のすべてを負担 ふたん した。2816号 ごう は、2001年 ねん のIMAX 映画 えいが で、バンクーバーを出発 しゅっぱつ して東 ひがし へ向 む かう機関 きかん 車 しゃ を取 と り上 あ げ、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の建設 けんせつ の歴史 れきし を語 かた る「ロッキー・マウンテン・エクスプレス (英語 えいご 版 ばん ) 」のテーマとなった[67] 。
2008年 ねん にカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は、2010年 ねん のバンクーバーオリンピック の公式 こうしき パートナーとなり、あちこちの停車駅 ていしゃえき でオリンピックをテーマにしたイベントを開 ひら く「スピリットレイン」を運転 うんてん した。コリン・ジェームズ (英語 えいご 版 ばん ) が主 おも なショーを提供 ていきょう した[68] 。しかし何 なん か所 しょ かでは、オリンピックは先住民 せんじゅうみん から奪 うば われた土地 とち で開催 かいさい されると主張 しゅちょう する活動 かつどう 家 か の抗議 こうぎ に見舞 みま われることになった[69] [70] [71] 。
歴史 れきし 的 てき に、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はいくつもの非 ひ 鉄道 てつどう 事業 じぎょう を運営 うんえい してきた。1971年 ねん にこうした事業 じぎょう はカナディアン・パシフィック・リミテッドという独立 どくりつ 企業 きぎょう に分割 ぶんかつ され、2001年 ねん にさらにこの会社 かいしゃ が5つの会社 かいしゃ に分割 ぶんかつ された。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はこれらの事業 じぎょう を既 すで に運営 うんえい していない[要 よう 出典 しゅってん ] 。
1881年 ねん にカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう に与 あた えられた当初 とうしょ の特許 とっきょ では、電信 でんしん および電話 でんわ 事業 じぎょう を設立 せつりつ してその事業 じぎょう で料金 りょうきん を徴収 ちょうしゅう する権利 けんり を認 みと めていた。当時 とうじ 、電話 でんわ はまだほとんど発明 はつめい されたばかりであったが、電信 でんしん は既 すで に長距離 ちょうきょり で素早 すばや く情報 じょうほう を送 おく る手段 しゅだん として確立 かくりつ されていた。こうした事業 じぎょう で料金 りょうきん を徴収 ちょうしゅう することを認 みと められたことにより、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は主 おも に自社 じしゃ の列車 れっしゃ の運行 うんこう 管理 かんり に用 もち いるために、線路 せんろ に沿 そ って膨大 ぼうだい な距離 きょり の電信 でんしん 線 せん を敷設 ふせつ し維持 いじ する費用 ひよう の一部 いちぶ を賄 まかな うことができた。この電信 でんしん 事業 じぎょう は、独立 どくりつ した電信 でんしん 部門 ぶもん により1882年 ねん に開始 かいし された。さらに、大西洋 たいせいよう 横断 おうだん 電信 でんしん ケーブル や太平洋 たいへいよう 横断 おうだん 電信 でんしん ケーブルが完成 かんせい すると、これらの間 あいだ をつなぐ役割 やくわり も果 は たすようになった。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の電信 でんしん 事業 じぎょう が開始 かいし される前 まえ は、カナダ西部 せいぶ への情報 じょうほう の伝送 でんそう はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 内 ない を経由 けいゆ して送 おく らなければならなかった[72] 。
1語 ご ごとに課金 かきん される電信 でんしん は、高価 こうか な情報 じょうほう 伝達 でんたつ 手段 しゅだん であったが、事業 じぎょう にとっては不可欠 ふかけつ なものであった。死亡 しぼう 通知 つうち 以外 いがい の個人 こじん 的 てき な電報 でんぽう を受 う け取 と る人 ひと は、それだけで重要 じゅうよう な人物 じんぶつ であると見 み られるものであった。自転車 じてんしゃ に乗 の ったメッセンジャーが街 まち 中 ちゅう へ電報 でんぽう を配達 はいたつ にでかけ、それへの返事 へんじ を受 う け取 と っていた。小 ちい さな町 まち では、駅員 えきいん が委託 いたく を受 う けて電報 でんぽう の取 と り扱 あつか いを行 おこな っていた。処理 しょり を高速 こうそく 化 か するため、末端 まったん では情報 じょうほう をまず電話 でんわ で送 おく ることもあった。電信 でんしん 部門 ぶもん は1931年 ねん に、電話 でんわ や通信 つうしん 社 しゃ 、株式 かぶしき 市場 いちば の動向 どうこう を伝 つた えるストックティッカー 、そして最終 さいしゅう 的 てき にはテレタイプ端末 たんまつ と多様 たよう 化 か して拡大 かくだい するサービスに対応 たいおう して、通信 つうしん 部門 ぶもん となった。どれも手紙 てがみ より速 はや く、事業 じぎょう にとってとても重要 じゅうよう であり、携帯 けいたい 電話 でんわ やコンピューターが出現 しゅつげん するまで何 なん 十 じゅう 年 ねん にもわたって愛用 あいよう された。競争 きょうそう ではなく合併 がっぺい によって効率 こうりつ を改善 かいぜん しようとして、1967年 ねん にCNCP電気 でんき 通信 つうしん (英語 えいご 版 ばん ) が設立 せつりつ されたが、それでもなおこうした新 あたら しい技術 ぎじゅつ 、特 とく に携帯 けいたい 電話 でんわ の出現 しゅつげん によって、最終 さいしゅう 的 てき にこうした事業 じぎょう は終焉 しゅうえん を迎 むか えることになった。1980年代 ねんだい の規制 きせい 緩和 かんわ により、他社 たしゃ と合併 がっぺい し残 のこ った事業 じぎょう や設備 せつび は売却 ばいきゃく されることになった[73] 。
カナディアン・ナショナル鉄道 てつどう が開設 かいせつ したCNRラジオ (英語 えいご 版 ばん ) に対抗 たいこう して、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は1930年 ねん 1月 がつ 17日 にち に自前 じまえ のラジオ網 もう を整備 せいび するために大西洋 たいせいよう 岸 がん から太平洋 たいへいよう 岸 がん までの間 あいだ の11都市 とし にラジオ局 きょく を運営 うんえい する免許 めんきょ を申請 しんせい した。カナディアン・ナショナル鉄道 てつどう は、自社 じしゃ の宣伝 せんでん と旅行 りょこう 中 ちゅう の旅客 りょかく に娯楽 ごらく を提供 ていきょう する目的 もくてき でラジオ網 もう を整備 せいび していた。世界 せかい 恐慌 きょうこう が始 はじ まって、カナディアン・ナショナル鉄道 てつどう のラジオ網 もう に対抗 たいこう する計画 けいかく の予算 よさん に影響 えいきょう があり、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は4月 がつ にトロント、モントリオール、ウィニペグを除 のぞ くすべてのラジオ局 きょく の申請 しんせい を取 と り下 さ げた。この申請 しんせい に固執 こしつ するのではなく、トロントではCanadian Pacific Royal York を略 りゃく したCPRY として知 し られる放送 ほうそう 局 きょく を、他 た 局 きょく の設備 せつび を借 か りて運営 うんえい するようになった[74] 。これはカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう のロイヤルヨークホテル のスタジオから放送 ほうそう されており、CFRB (英語 えいご 版 ばん ) あるいはCBLA (英語 えいご 版 ばん ) の放送 ほうそう 時間 じかん を借 か りて送信 そうしん されていた[75] 。1930年代 ねんだい 前半 ぜんはん には、その支局 しきょく 網 もう もカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう のラジオ放送 ほうそう を行 おこな っていたが、CNRラジオを引 ひ き継 つ いで新 あたら しくカナダラジオ放送 ほうそう 委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) が発足 ほっそく したことで、カナディアン・ナショナル鉄道 てつどう へ対抗 たいこう するという目的 もくてき でラジオ放送 ほうそう 網 もう を持 も つ必要 ひつよう 性 せい がなくなり、1935年 ねん にカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう のラジオ放送 ほうそう は終了 しゅうりょう した。
汽船 きせん 事業 じぎょう は、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の創始 そうし 期 き から重要 じゅうよう な部分 ぶぶん を構成 こうせい してきた。政府 せいふ 契約 けいやく 者 しゃ からカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう が引 ひ き継 つ ぐ以前 いぜん の、ブリティッシュコロンビア州 しゅう における路線 ろせん 建設 けんせつ 中 ちゅう であっても、船 ふね を使 つか って建設 けんせつ 現場 げんば への補給 ほきゅう が行 おこな われていた。同様 どうよう に、北部 ほくぶ オンタリオ州 しゅう においても、隔絶 かくぜつ した土地 とち にある建設 けんせつ 現場 げんば へ補給 ほきゅう 物資 ぶっし を運 はこ ぶために船 ふね が使 つか われた。この作業 さぎょう が行 おこな われている間 あいだ にも、既 すで に西 にし への定期 ていき 旅客 りょかく 輸送 ゆそう が行 おこな われていた。トロントからの列車 れっしゃ はオーウェンサウンドまで運転 うんてん され、そこからカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の汽船 きせん がフォートウィリアムまでを結 むす び、そこからウィニペグまでの列車 れっしゃ が運転 うんてん されていた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう が開通 かいつう するまでは、西部 せいぶ へ行 い く唯一 ゆいいつ の手段 しゅだん はセントポールあるいはウィニペグを通 とお ってアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 経由 けいゆ で行 い くことだった。五大 ごだい 湖 みずうみ における汽船 きせん の運航 うんこう は、鉄道 てつどう の代替 だいたい 手段 しゅだん として長年 ながねん の間 あいだ 鉄道 てつどう 会社 かいしゃ によって続 つづ けられてきた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の五大 ごだい 湖 みずうみ における旅客 りょかく 輸送 ゆそう は1965年 ねん に終了 しゅうりょう した[76] 。
1884年 ねん に、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は五大 ごだい 湖 みずうみ において、建設 けんせつ 現場 げんば への物資 ぶっし 輸送 ゆそう の目的 もくてき で帆船 はんせん の購入 こうにゅう を始 はじ めた。長 なが い間 あいだ に、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は五大 ごだい 湖 みずうみ 、太平洋 たいへいよう 横断 おうだん 、太平洋 たいへいよう 沿岸 えんがん 、ブリティッシュコロンビア州 しゅう の湖沼 こしょう および河川 かせん 、大西洋 たいせいよう 横断 おうだん 、ファンディ湾 わん フェリーなど、広範 こうはん な船舶 せんぱく 運営 うんえい を行 おこな う鉄道 てつどう 会社 かいしゃ となっていった。20世紀 せいき には、カナダをヨーロッパやアジアと結 むす ぶ2本 ほん の大洋 たいよう 横断 おうだん 航路 こうろ を運営 うんえい する大陸 たいりく 間 あいだ 鉄道 てつどう 会社 かいしゃ へと成長 せいちょう した。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の運営 うんえい 範囲 はんい は、統合 とうごう された計画 けいかく を反映 はんえい したものであった[77] 。
ブリティッシュコロンビア州 しゅう まで鉄道 てつどう が完成 かんせい すると、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は旅客船 りょかくせん を借 か り受 う け、間 ま もなく自前 じまえ で購入 こうにゅう した。これらの汽船 きせん は最新 さいしん の設計 せっけい のもので、東洋 とうよう へのつながりから「エンプレス」を頭 あたま に付 つ けた名前 なまえ を与 あた えられていた。東洋 とうよう との航海 こうかい では、郵便 ゆうびん 輸送 ゆそう 契約 けいやく にも支 ささ えられながら、輸入 ゆにゅう する茶 ちゃ と絹 きぬ が特 とく に重要 じゅうよう な収入 しゅうにゅう 源 げん となっていた。これは大 だい 英 えい 帝国 ていこく を結 むす ぶ「オールレッドルート」の重要 じゅうよう な部分 ぶぶん を構成 こうせい していた。もう一方 いっぽう の大洋 たいよう 横断 おうだん 航路 こうろ がイングランドと結 むす ぶ大西洋 たいせいよう 航路 こうろ で、これはエルダー・デンプスター所有 しょゆう のビーバー・ラインとアラン・ラインズの2つの航路 こうろ を買収 ばいしゅう したことから始 はじ まっている。これら2本 ほん の大洋 たいよう 横断 おうだん 航路 こうろ は、カナダ太平洋 たいへいよう 大洋 たいよう 航路 こうろ (後 のち にカナダ太平洋 たいへいよう 汽船 きせん )の営業 えいぎょう となり、カナダ国内 こくない の湖 みずうみ で営業 えいぎょう していた鉄道 てつどう と直結 ちょっけつ した船 ふね とは独立 どくりつ して運営 うんえい された。こうした大洋 たいよう 横断 おうだん 航路 こうろ を使 つか えば、イギリスから香港 ほんこん まで、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の船舶 せんぱく ・鉄道 てつどう ・ホテルだけを利用 りよう して行 い くことができた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の「エンプレス」シリーズの船 ふね は、その豪華 ごうか さとスピードで世界 せかい 的 てき に有名 ゆうめい となった[要 よう 出典 しゅってん ] 。またこうした船 ふね は、広大 こうだい な平原 へいげん 地帯 ちたい に植民 しょくみん する移民 いみん たちをヨーロッパから運 はこ ぶという実用 じつよう 的 てき な役割 やくわり も持 も っていた。またこうした船舶 せんぱく は2回 かい の世界 せかい 大戦 たいせん でも重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たし、エンプレス・オブ・ブリテン (英語 えいご 版 ばん ) の例 れい のように敵 てき の攻撃 こうげき で多 おお くが失 うしな われることになった[76] 。
また、多 おお くの鉄道 てつどう 連絡 れんらく 船 せん も運営 うんえい しており、オンタリオ州 しゅう ウィンザーとミシガン州 しゅう デトロイトの間 あいだ では1890年 ねん から1915年 ねん まで運航 うんこう していた。これは16両 りょう を搭載 とうさい できる外輪船 がいりんせん 2隻 せき から始 はじ まり、貨車 かしゃ だけでなく客車 きゃくしゃ も運 はこ んでいた。1910年 ねん に開通 かいつう したミシガン・セントラル鉄道 てつどう トンネル を使 つか う契約 けいやく をミシガン・セントラル鉄道 てつどう と結 むす んだことにより、1915年 ねん に連絡 れんらく 船 せん は廃止 はいし となった。1906年 ねん には、ペンシルバニア鉄道 てつどう と共同 きょうどう でペンシルバニア-オンタリオ運輸 うんゆ 会社 かいしゃ を設立 せつりつ し、エリー湖 こ においてオハイオ州 しゅう アシュタビューラ とオンタリオ州 しゅう ポートバーウェル (英語 えいご 版 ばん ) の間 あいだ で貨車 かしゃ を航 こう 送 おく する連絡 れんらく 船 せん を運航 うんこう した。主 おも に石炭 せきたん を運 はこ び、そのほとんどはカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ の燃料 ねんりょう となっていた。アシュタビューラという名前 なまえ の巨大 きょだい な船 ふね が1隻 せき のみ運航 うんこう され、最終 さいしゅう 的 てき にアシュタビューラの港 みなと で1958年 ねん 9月 がつ 18日 にち に起 お きた衝突 しょうとつ 事故 じこ で沈没 ちんぼつ し、この航路 こうろ は廃止 はいし となった[76] 。
他社 たしゃ の資本 しほん によるものであったが、カナダ太平洋 たいへいよう 車両 しゃりょう ・旅客 りょかく 輸送 ゆそう 会社 かいしゃ (Canadian Pacific Car and Passenger Transfer Company ) が1888年 ねん に設立 せつりつ され、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう のオンタリオ州 しゅう プレスコットとニューヨーク・セントラル鉄道 てつどう のニューヨーク州 しゅう オグデンズバーグの間 あいだ を結 むす んだ。この航路 こうろ の運航 うんこう は実際 じっさい にはブロックビルからのものと同様 どうよう に非常 ひじょう に早 はや く、1854年 ねん には始 はじ まっていた。1958年 ねん に橋 はし が完成 かんせい して旅客 りょかく 輸送 ゆそう は終了 しゅうりょう したが、貨物 かもつ 輸送 ゆそう は1970年 ねん 9月 がつ 25日 にち の火災 かさい でオグデンズバーグの桟橋 さんばし が焼 や けてしまうまで続 つづ けられた。この会社 かいしゃ は、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう が所有 しょゆう したことは一 いち 度 ど もなかった。ファンディ湾 わん フェリーはノバスコシア州 しゅう ディグビーとニューブランズウィック州 しゅう セントジョンの間 あいだ で長年 ながねん 旅客 りょかく と貨物 かもつ の輸送 ゆそう を行 おこな ってきた。最終 さいしゅう 的 てき に、開業 かいぎょう から78年 ねん 後 ご に定期 ていき 旅客 りょかく 輸送 ゆそう は終了 しゅうりょう した。貨物 かもつ 輸送 ゆそう についてはコンテナ輸送 ゆそう に変化 へんか しながらも続 つづ けられている。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は、特 とく に陸上 りくじょう においてはインターモーダル輸送 ゆそう の創始 そうし 者 しゃ であり、よりよいサービスを提供 ていきょう するために道路 どうろ と鉄道 てつどう を組 く み合 あ わせた事業 じぎょう を行 おこな っている。カナダ太平洋 たいへいよう 汽船 きせん は2001年 ねん に分割 ぶんかつ されてカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の傘下 さんか を離 はな れ、2005年 ねん にハパックロイド と合併 がっぺい した[78] 。
ブリティッシュコロンビア州 しゅう 沿岸 えんがん 航路 こうろ
編集 へんしゅう
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 沿岸 えんがん 航路 こうろ (ブリティッシュコロンビア州 しゅう 沿岸 えんがん 汽船 きせん 、BCCS)は、1901年 ねん にカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう とは関係 かんけい のないカナダ太平洋 たいへいよう 汽船 きせん 会社 かいしゃ (英語 えいご 版 ばん ) を買収 ばいしゅう したことで設立 せつりつ され、大 だい 規模 きぼ な船隊 せんたい によりバンクーバー島 とう を含 ふく むブリティッシュコロンビア州 しゅう の沿岸 えんがん の72の港 みなと で運航 うんこう していた。航路 こうろ には、バンクーバー - ビクトリア - シアトル三角 さんかく 航路 こうろ 、ガルフ島 とう 、パウエル川 かわ 、バンクーバー - アラスカ航路 こうろ などがあった。大洋 たいよう を行 い く船 ふね が「エンプレス」シリーズであったのに対 たい して、その小型 こがた 版 ばん として「プリンセス」シリーズの14隻 せき の旅客船 りょかくせん を運航 うんこう しており、この他 ほか に貨物 かもつ 船 せん 、3隻 せき のタグボート、5隻 せき の車両 しゃりょう 艀 はしけ などを保有 ほゆう していた。旅行 りょこう 者 しゃ には人気 にんき があり、こうした「プリンセス」シリーズの旅客船 りょかくせん は有名 ゆうめい で、特 とく に「プリンセス・マーガレット(2代 だい )」は1949年 ねん から1985年 ねん まで運航 うんこう された、最後 さいご の沿岸 えんがん 旅客船 りょかくせん であった。「プリンセス・ソフィア (英語 えいご 版 ばん ) 」は、1918年 ねん 10月 がつ にアラスカのリン湾 わん (英語 えいご 版 ばん ) においてヴァンダービルト岩礁 がんしょう (英語 えいご 版 ばん ) に衝突 しょうとつ して沈没 ちんぼつ し、全員 ぜんいん が亡 な くなった。これはこの地域 ちいき の歴史 れきし で最大 さいだい の海難 かいなん 事故 じこ となっている。こうした運航 うんこう は、1950年代 ねんだい 末 まつ に状況 じょうきょう が変 か わって衰退 すいたい し始 はじ め、最終 さいしゅう 的 てき に1974年 ねん に廃止 はいし となるまで続 つづ けられた。プリンセス・マーガレットは州 しゅう が保有 ほゆう するブリティッシュコロンビア汽船 きせん に買収 ばいしゅう されて、さらにしばらくの間 あいだ 運航 うんこう を続 つづ けた。法的 ほうてき にはブリティッシュコロンビア州 しゅう 沿岸 えんがん 汽船 きせん が正式 せいしき な名前 なまえ であったものの、1977年 ねん にコースタル・マリン・オペレーションズというブランド名 めい を採用 さいよう した。1998年 ねん にこの会社 かいしゃ はワシントン・マリングループによって買収 ばいしゅう され、買収 ばいしゅう 後 ご シースパン・コースタル・インターモーダルカンパニーへと改称 かいしょう され、さらに2011年 ねん にシースパン・フェリーズ・コーポレーションとなった。旅客 りょかく 営業 えいぎょう は1981年 ねん に廃止 はいし されている[79] 。
ブリティッシュコロンビア州 しゅう 湖沼 こしょう ・河川 かせん 航路 こうろ
編集 へんしゅう
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう のブリティッシュコロンビア州 しゅう 湖沼 こしょう ・河川 かせん 航路 こうろ は、当初 とうしょ はゆっくり発達 はったつ したが、後 のち に急速 きゅうそく に発展 はってん した。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は、アロー湖 こ (英語 えいご 版 ばん ) おいて汽船 きせん や艀 はしけ を運行 うんこう していたコロンビア・アント・クートネイ汽船 きせん 会社 かいしゃ を1897年 ねん に買収 ばいしゅう して、ブリティッシュコロンビア州 しゅう 南部 なんぶ のクートネイ地方 ちほう における長 なが い運航 うんこう の歴史 れきし が始 はじ まった。この会社 かいしゃ はカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう と合併 がっぺい してカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 湖沼 こしょう ・河川 かせん 航路 こうろ となり、アロー湖 みずうみ やコロンビア川 がわ 、クートネイ湖 こ 、クートネイ川 がわ 、オカナガン湖 こ 、スクハ湖 こ (英語 えいご 版 ばん ) 、スローカン湖 こ (英語 えいご 版 ばん ) 、トラウト湖 こ (英語 えいご 版 ばん ) 、シューシュワープ湖 こ (英語 えいご 版 ばん ) 、トンプソン川 かわ (英語 えいご 版 ばん ) 、カムループス湖 こ (英語 えいご 版 ばん ) などでも運航 うんこう した[76] 。
こうした湖沼 こしょう 群 ぐん での運航 うんこう に共通 きょうつう することとして、喫水 きっすい を浅 あさ くする必要 ひつよう から船尾 せんび 外輪船 がいりんせん を採用 さいよう していたことが挙 あ げられる。タグボートと艀 はしけ を使 つか って鉄道 てつどう 車両 しゃりょう を運 はこ ぶことがあり、機関 きかん 車 しゃ からカブースまで列車 れっしゃ のすべての車両 しゃりょう を運 はこ ぶこともあった。こうした運航 うんこう は次第 しだい に衰退 すいたい し、1975年 ねん にスローカン湖 こ での貨物 かもつ 輸送 ゆそう 艀 はしけ を除 のぞ いて廃止 はいし された。ここは、孤立 こりつ した線路 せんろ に列車 れっしゃ 全体 ぜんたい を渡 わた すために艀 はしけ が用 もち いられている区間 くかん であった。1988年 ねん 12月 がつ 末 まつ に最後 さいご の列車 れっしゃ が運航 うんこう されるまで、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう との契約 けいやく の下 した にアイリスGというタグボートと艀 はしけ が運航 うんこう されていた。1898年 ねん から1957年 ねん までクートネイ湖 こ で運航 うんこう されていたモイー (英語 えいご 版 ばん ) が、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう のブリティッシュコロンビア州 しゅう 湖沼 こしょう ・河川 かせん 航路 こうろ で最後 さいご に運航 うんこう された旅客船 りょかくせん であった。後 のち に、オカナガン湖 こ におけるシカマウスやナラマタと同 おな じく、陸 ろく に揚 あ げられて歴史 れきし 展示 てんじ 物 ぶつ となっている[80] [81] 。
観光 かんこう を発展 はってん させ乗客 じょうきゃく 数 すう を伸 の ばすために、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は第 だい 一 いち 級 きゅう のホテル群 ぐん を設立 せつりつ した。こうしたホテル群 ぐん は、それ自体 じたい が有名 ゆうめい なランドマークとなっていった。ケベック・シティー にシャトー・フロンテナック 、トロントにロイヤルヨークホテル 、バンクーバーにホテル・バンクーバー (英語 えいご 版 ばん ) 、ビクトリア にエンプレスホテル 、カナディアン・ロッキーにバンフ・スプリングス・ホテル 、シャトー・レイク・ルイーズ (英語 えいご 版 ばん ) などである。ジャスパー・パーク・ロッジなど、いくつかの特徴 とくちょう 的 てき なホテルは競合 きょうごう するカナディアン・ナショナル鉄道 てつどう から1980年代 ねんだい に買収 ばいしゅう したものである。こうしたホテル群 ぐん は、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 時代 じだい の遺産 いさん を残 のこ しているものの、もはや鉄道 てつどう 会社 かいしゃ の運営 うんえい ではなくなっている。1998年 ねん にカナダ太平洋 たいへいよう ホテル (英語 えいご 版 ばん ) はアメリカのフェアモント・ホテルズを買収 ばいしゅう し、フェアモント・ホテルズ・アンド・リゾーツ となった。この合併 がっぺい した会社 かいしゃ は元 もと からのカナダのホテル群 ぐん とフェアモントのアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 内 ない のホテル群 ぐん を運営 うんえい していたが、2006年 ねん にラッフルズ・ホテルズ・アンド・リゾーツとスイスオテルと合併 がっぺい した[82] 。
カナディアン航空 こうくう は、1942年 ねん から1987年 ねん まで営業 えいぎょう し、政府 せいふ が所有 しょゆう していたエア・カナダ と競合 きょうごう していた。バンクーバー国際 こくさい 空港 くうこう を本拠地 ほんきょち とし、カナダ国内 こくない の路線 ろせん や国際線 こくさいせん の運営 うんえい を行 おこな っていたが、パシフィック・ウエスタン航空 こうくう (英語 えいご 版 ばん ) により買収 ばいしゅう されて合併 がっぺい してカナディアン航空 こうくう となった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
カウンテス・オブ・ダファリン (英語 えいご 版 ばん )
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の初期 しょき には、アメリカにおいて標準 ひょうじゅん 的 てき であった車軸 しゃじく 配置 はいち 4-4-0の機関 きかん 車 しゃ を広範 こうはん に使用 しよう し、たとえばカウンテス・オブ・ダファリン (英語 えいご 版 ばん ) などの例 れい がある。後 のち に、旅客 りょかく 用 よう には車軸 しゃじく 配置 はいち 4-6-0が、貨物 かもつ 用 よう には車軸 しゃじく 配置 はいち 2-8-0が広 ひろ く使 つか われた。20世紀 せいき に入 はい ると、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は数 すう 百 ひゃく 両 りょう におよぶテンホイラー(車軸 しゃじく 配置 はいち 4-6-0)を旅客 りょかく 用 よう および貨物 かもつ 用 よう に購入 こうにゅう あるいは製造 せいぞう し、また車軸 しゃじく 配置 はいち 2-8-0や2-10-2を貨物 かもつ 用 よう に製作 せいさく した。山岳 さんがく 地帯 ちたい では、2-10-2は旅客 りょかく 用 よう にも用 もち いられた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は1906年 ねん から1948年 ねん にかけて数 すう 百 ひゃく 両 りょう のパシフィック(車軸 しゃじく 配置 はいち 4-6-2)を購入 こうにゅう し、このうち後半 こうはん のものは旅客 りょかく 用 よう と高速 こうそく 貨物 かもつ 用 よう の両用 りょうよう となっていた[83] 。
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 2317号 ごう 機関 きかん 車 しゃ 、アンガス工場 こうじょう で1923年 ねん に製作 せいさく されたG-3-c型 がた のパシフィック
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はモントリオールにある自社 じしゃ 工場 こうじょう で多 おお くの機関 きかん 車 しゃ を製造 せいぞう していた。最初 さいしょ は、一般 いっぱん 的 てき にはデロリマー工場 こうじょう と呼 よ ばれていたニュー工場 こうじょう で製作 せいさく し、1904年 ねん に巨大 きょだい なアンガス工場 こうじょう に移転 いてん した。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の機関 きかん 車 しゃ でもよく知 し られたものとして、車軸 しゃじく 配置 はいち 4-6-4のハドソン型 がた がある。1929年 ねん に製作 せいさく が始 はじ まり、頻繁 ひんぱん に機関 きかん 車 しゃ 交換 こうかん する必要 ひつよう 性 せい をなくして、大陸 たいりく 横断 おうだん 旅客 りょかく 列車 れっしゃ の運転 うんてん 方法 ほうほう を変 か え、現代 げんだい 機関 きかん 車 しゃ の新 あたら しい時代 じだい を築 きず いた。モントリオールからバンクーバーまで2,883マイル(約 やく 4,640キロメートル)に、1886年 ねん には車軸 しゃじく 配置 はいち 4-4-0の機関 きかん 車 しゃ を24回 かい 交換 こうかん していた(山岳 さんがく 地帯 ちたい では車軸 しゃじく 配置 はいち 2-8-0のものが2両 りょう )が、これを8回 かい の交換 こうかん で済 す むようにした[要 よう 出典 しゅってん ] 。ハドソン型 がた の2800型 がた は、トロントからフォートウィリアムまでの811マイル(約 やく 1,305キロメートル)を走 はし り、やはり長 なが い機関 きかん 車 しゃ の走行 そうこう 区間 くかん としてウィニペグからカルガリーまでの832マイル(約 やく 1,339キロメートル)がある。中 なか でも特 とく に著名 ちょめい なものが、準 じゅん 流 ながれ 線形 せんけい 車両 しゃりょう のH1クラス「ロイヤル・ハドソン」で、1939年 ねん にジョージ6世 せい とエリザベス・ボーズ=ライアンがカナダを訪問 ほうもん した際 さい にロイヤルトレインを牽引 けんいん し、1回 かい も機関 きかん 車 しゃ 交換 こうかん や故障 こしょう を発生 はっせい させなかったことかにちなんで名前 なまえ を与 あた えられた。この2850号 ごう 機関 きかん 車 しゃ は、ケベックのカナダ鉄道 てつどう 博物館 はくぶつかん (英語 えいご 版 ばん ) のエキスポレール展示 てんじ 館 かん で保存 ほぞん されている。この型 かた の2860号 ごう はブリティッシュコロンビア州 しゅう 政府 せいふ によって復元 ふくげん され、1974年 ねん から1999年 ねん までブリティッシュコロンビア鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) で観光 かんこう 列車 れっしゃ の運転 うんてん に使 つか われていた[要 よう 出典 しゅってん ] 。
1929年 ねん には、カナダおよび大 だい 英 えい 帝国 ていこく で運行 うんこう された蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ としては最大 さいだい となる、車軸 しゃじく 配置 はいち 2-10-4のセルカーク型 がた 蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ の最初 さいしょ の1両 りょう の納入 のうにゅう を受 う けた。この機関 きかん 車 しゃ は投入 とうにゅう 先 さき のセルカーク山脈 さんみゃく にちなんで名 な づけられ、急 きゅう 勾配 こうばい に適 てき するように設計 せっけい されていた。旅客 りょかく ・貨物 かもつ ともに定期 ていき 運用 うんよう されていた。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう ではこの型 かた の機関 きかん 車 しゃ を37両 りょう 保有 ほゆう し、その中 なか には実験 じっけん 的 てき に高 こう 圧 あつ ボイラーを搭載 とうさい した8000号 ごう 機関 きかん 車 しゃ もあった。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう に最後 さいご に納入 のうにゅう された蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ は、このセルカーク型 がた の5930号 ごう から5935号 ごう までで、1949年 ねん のことであった。
カルガリーへ向 む けて走 はし る、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の東 ひがし 行 い き旅客 りょかく 列車 れっしゃ 、1973年 ねん 頃 ごろ
1937年 ねん に、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は初 はじ めての電気 でんき 式 しき ディーゼル機関 きかん 車 しゃ として、7000号 ごう と番号 ばんごう を付 つ けられた特別 とくべつ 注文 ちゅうもん の入 にゅう 換 かわ 機関 きかん 車 しゃ を購入 こうにゅう した。この機関 きかん 車 しゃ は不 ふ 成功 せいこう に終 お わり、これ以上 いじょう 生産 せいさん されなかった。量産 りょうさん 型 がた のディーゼル機関 きかん 車 しゃ としては、アメリカン・ロコモティブ から1943年 ねん に輸入 ゆにゅう したS-2 (英語 えいご 版 ばん ) 型 かた の入 にゅう 換 かわ 機関 きかん 車 しゃ 5両 りょう で、以降 いこう さらに継続 けいぞく 発注 はっちゅう が行 おこな われた。1949年 ねん にバーモント州 しゅう における路線 ろせん の運行 うんこう がアルコFA のAユニット 8両 りょう とBユニット 4両 りょう 、RS-2 型 かた 5両 りょう 、S-2型 がた 3両 りょう 、EMD E8 (英語 えいご 版 ばん ) 型 かた 3両 りょう でディーゼル化 か された。1948年 ねん にモントリオール・ロコモティブ・ワークス がアルコの設計 せっけい による機関 きかん 車 しゃ の生産 せいさん を始 はじ めた[84] 。
1949年 ねん には、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう はボールドウィン・ロコモティブ・ワークス が設計 せっけい しカナディアン・ロコモティブ・カンパニー で製造 せいぞう された13両 りょう の機関 きかん 車 しゃ を、孤立 こりつ したバンクーバー島 とう の路線 ろせん 網 もう 用 よう に購入 こうにゅう し、バンクーバー島 とう はすぐにディーゼル化 か が完了 かんりょう した。この成功 せいこう を受 う けて、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は本線 ほんせん 網 もう におけるディーゼル化 か を開始 かいし し、11年 ねん 後 ご に完了 かんりょう した。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう で最後 さいご の蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ の運転 うんてん は、1960年 ねん 11月6日 にち のことであった。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう の第 だい 1世代 せだい のディーゼル機関 きかん 車 しゃ はほとんどがゼネラルモーターズ・ディーゼル とモントリオール・ロコモティブ・ワークス(アメリカン・ロコモティブの設計 せっけい による)の製造 せいぞう で、一部 いちぶ はボールドウィンおよびフェアバンクス・モース の設計 せっけい に基 もと づいてカナディアン・ロコモティブ・カンパニーで製造 せいぞう されたものもあった。カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は1984年 ねん に北 きた アメリカで最初 さいしょ に交流 こうりゅう 電動 でんどう 機 き を使 つか った電気 でんき 式 しき ディーゼル機関 きかん 車 しゃ を使用 しよう することになった。1995年 ねん からカナダでの最初 さいしょ の量産 りょうさん 交流 こうりゅう 電動 でんどう 機 き ディーゼル機関 きかん 車 しゃ をGEトランスポーテーション・システム から導入 どうにゅう し、現在 げんざい では北 きた アメリカの一級 いっきゅう 鉄道 てつどう 事業 じぎょう 者 しゃ としてもっとも高 たか い比率 ひりつ の交流 こうりゅう 電動 でんどう 機 き 機関 きかん 車 しゃ を運用 うんよう している。
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう リミテッド (TSX : CP NYSE : CP ) は、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう を運営 うんえい しているカナダの鉄道 てつどう 会社 かいしゃ である。以前 いぜん の親会社 おやがいしゃ であったカナダ太平洋 たいへいよう リミテッドが2001年 ねん に鉄道 てつどう 事業 じぎょう を分割 ぶんかつ したことで発足 ほっそく した。2001年 ねん 10月 がつ 3日 にち からニューヨーク証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ およびトロント証券 しょうけん 取引 とりひき 所 しょ で、記号 きごう CPで株式 かぶしき の取引 とりひき が始 はじ まった。2003年 ねん には貨物 かもつ 事業 じぎょう で35億 おく カナダドルの収入 しゅうにゅう があった。2008年 ねん 10月 がつ に、カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう リミテッドはメディアコープ・カナダによる「カナダの雇用 こよう 主 ぬし 上位 じょうい 100社 しゃ 」の1社 しゃ に選定 せんてい され、週刊 しゅうかん 誌 し マクリーンで特集 とくしゅう を組 く まれた。また、アルバータ州 しゅう の雇用 こよう 主 ぬし 上位 じょうい にも位置 いち づけられ、カルガリー・ヘラルド (英語 えいご 版 ばん ) およびエドモントン・ジャーナル (英語 えいご 版 ばん ) で報 ほう じられた[85] 。
この
節 ふし の
加筆 かひつ が
望 のぞ まれています。
(2008年 ねん 6月 がつ )
カナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう は鉄道 てつどう 網 もう 全体 ぜんたい に渡 わた って操車 そうしゃ 場 じょう や修理 しゅうり 工場 こうじょう を保有 ほゆう しており、インターモーダルターミナルや組成 そせい ヤードなど多 おお くの業務 ぎょうむ に用 もち いられている。以下 いか に一部 いちぶ を示 しめ す。
組成 そせい ヤードでは、ハンプと呼 よ ばれる小 ちい さな丘 おか から貨車 かしゃ を走 はし らせ、行 い き先 さき 別 べつ に分類 ぶんるい して列車 れっしゃ を出発 しゅっぱつ できる形 かたち に組成 そせい する。こうした多 おお くの組成 そせい ヤードは、ハリソンが社長 しゃちょう に就任 しゅうにん してからの全社 ぜんしゃ 的 てき 改革 かいかく により2012年 ねん から2013年 ねん にかけて廃止 はいし され、セントポール操車 そうしゃ 場 じょう のハンプのみが残 のこ されている[要 よう 出典 しゅってん ] 。
アルバータ州 しゅう カルガリー - アリス操車 そうしゃ 場 じょう 、168エーカー(約 やく 0.68平方 へいほう キロメートル)、1日 にち 2200車 しゃ 取 と り扱 あつか い(廃止 はいし )
イリノイ州 しゅう シカゴ - ベンセンビル操車 そうしゃ 場 じょう (廃止 はいし )
ケベック州 しゅう モントリオール - サンリック操車 そうしゃ 場 じょう 、1950年 ねん から使 つか われ、1980年代 ねんだい からは平面 へいめん 式 しき 操車 そうしゃ 場 じょう であった(廃止 はいし )
ミネソタ州 しゅう セントポール - ピッグスアイ操車 そうしゃ 場 じょう /セントポール操車 そうしゃ 場 じょう [86]
オンタリオ州 しゅう トロント - トロント操車 そうしゃ 場 じょう (トロント貨物 かもつ ヤード、あるいはアギンコート操車 そうしゃ 場 じょう とも)、1964年 ねん 開設 かいせつ (廃止 はいし )
マニトバ州 しゅう ウィニペグ - ラグビー操車 そうしゃ 場 じょう (ウェストン操車 そうしゃ 場 じょう とも)(廃止 はいし )
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