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シッキム州 - Wikipedia

シッキムしゅう(シッキムしゅう、英語えいご: Sikkim)は、インド北東ほくとうしゅうのひとつである。中国ちゅうごく漢字かんじ)ではすずきん表記ひょうきし、ヒマラヤみなみふもとネパールブータンあいだ位置いちする。かつてシッキム王国おうこくだった歴史れきしてき経緯けいいにより、インド28しゅうのうち人口じんこう最少さいしょう面積めんせきゴアしゅういで2番目ばんめせまちいさなしゅうとなっている。

シッキムしゅう
ネパール: सिक्किम
中国ちゅうごく: すずきん
チベット འབྲས་ལྗོངས་
インド国内の位置
(インド国内こくない位置いち
基礎きそ情報じょうほう
くに  インド
行政ぎょうせい シッキムしゅう
州都しゅうと ガントク(Gangtok)
面積めんせき 7,096 km²
人口じんこう 2011ねん
 - 合計ごうけい 610,577 にん
 - 人口じんこう密度みつど 86 にん/km2
時間じかんたい インド標準時ひょうじゅんじ(IST)UTC+5:30
公用こうよう ネパール英語えいごシッキムレプチャリンブーネワールグルンマガールシェルパタマンスヌワール
創立そうりつ 1975ねん5月16にち
しゅう知事ちじ ラクシュマン・アチャリヤ英語えいごばん
(Lakshman Acharya)
しゅう首相しゅしょう プレム・シン・タマン英語えいごばん(Prem Singh Tamang)
立法りっぽう機関きかん議席ぎせきすう 一院制いちいんせい(32)
略称りゃくしょうISO IN-SK
しゅう公式こうしきウェブサイト https://www.sikkim.gov.in/

シッキム王国おうこく

編集へんしゅう

シッキムにはもともとレプチャじん居住きょじゅうしていた。しかし、1642ねんチベットチベット仏教ぶっきょうゲルク主導しゅどうする政権せいけんであるガンデンポタンダライ・ラマ政権せいけん)により統一とういつされると、ゲルク対立たいりつしていたチベット仏教ぶっきょうニンマ高僧こうそう同派どうはほうずるチベットじん一部いちぶ(のちのブティヤじん)がシッキムの亡命ぼうめいし、プンツォ・ナムゲル擁立ようりつしてシッキム王国おうこく(ナムゲルあさ)を建国けんこくした。チベットじん亡命ぼうめい政権せいけんだったことからチベットはシッキムを属国ぞっこくとし、チベットを属国ぞっこくとしていた清朝せいちょうもシッキムをみずからの属国ぞっこくとみなすという複雑ふくざつ状況じょうきょうとなっていた。

1706ねんブータンおうカリンポン一帯いったいうばり、現在げんざい地名ちめい変更へんこうした。1780年代ねんだい後半こうはんネパールからグルカぞくダージリンカリンポン侵攻しんこうし、1788ねんまでに一帯いったい支配しはいした。イギリスりょうインド帝国ていこく時代じだいになると、ネパールがイギリスとシッキムにとって共通きょうつうてきとみなされた。イギリスひがしインド会社かいしゃがネパール(ゴルカあさ)に侵攻しんこうしたグルカ戦争せんそう(1814ねん - 1816ねん)でスガウリ条約じょうやくむすばれ、シッキムのおうツグプ・ナムゲルがダージリンとカリンポンの奪還だっかん成功せいこうした。

その一方いっぽうでイギリスはチベットとの交易こうえき模索もさくはじめ、シルクロードのあるシッキムはその中継ちゅうけいてんとして理想りそうてきといえた。それは南下なんかしつつあるロシア帝国ていこくがチベットとの関係かんけいふかめようとすることを牽制けんせいする意味いみがあった。

1840ねん隣国りんごくきよしアヘン戦争せんそうになると、緩衝かんしょう地帯ちたい西にし位置いちするラダック当時とうじあったシク王国おうこくとチベットのあいだきよし・シク戦争せんそう(1841ねん - 1842ねん)がおこなわれた。しかしその直後ちょくご、イギリスとのあいだだいいちシク戦争せんそう(1845ねん - 1846ねんおよだいシク戦争せんそう(1848ねん - 1849ねん)がおこなわれ、シク王国おうこく滅亡めつぼうし、ジャンムー・カシミールはん王国おうこく誕生たんじょうした。

1849ねん、シッキムは南部なんぶのダージリン地方ちほう当時とうじの35,000ルピーでイギリスへ割譲かつじょうさせられた。チベットは、イギリスと隣接りんせつする領域りょういき西部せいぶだけでなく東部とうぶにもできることに脅威きょういかん反発はんぱつしたが、イギリスぐんがチベットぐん撃退げきたい1861ねんには清朝せいちょうとのあいだでシッキムをイギリスの保護ほごこくとすることがさだめられた。1866ねんフランスによる雲南うんなんしょう経由けいゆ通商つうしょう調査ちょうさがきっかけとなって、雲南うんなん問題もんだいられるイギリス、フランス、中国ちゅうごくあいだ紛争ふんそうはじまると、イギリスのおも関心かんしんはよりゆたかな雲南うんなん方面ほうめんへとうつっていき、この地域ちいきもとめられる役割やくわりはインド総督そうとく避暑ひしょとなった。しかし1888ねんシッキム遠征えんせい英語えいごばんはじめてチベットぐん戦闘せんとうになり、イギリスのチベット遠征えんせい前哨ぜんしょうせんとなった。この時期じきちゃ栽培さいばいのためにネパールじん[注釈ちゅうしゃく 1]労働ろうどうりょくとして大量たいりょう移住いじゅうし、ブティヤじんしの人口じんこうようするようになった。

シッキム王国おうこく時代じだい基礎きそ情報じょうほう

編集へんしゅう

1975ねんのシッキム王国おうこく基礎きそ情報じょうほう[1]

人口じんこう 194,000にん 面積めんせき 7,107km² 首都しゅと ガントク(12,000にん
民族みんぞく構成こうせい ネパールじん(75%)、レプチャじん、ブティヤじん 言語げんご ネパールレプチャヒンディー文盲もんもうりつ 84%) 宗教しゅうきょう ヒンドゥーきょう(60%)、仏教ぶっきょう など
国民総生産こくみんそうせいさん (GNP) 1200まんドル 一人ひとりたりの国民こくみん所得しょとく 60ドル ビザ 必要ひつよう
当時とうじ国王こくおう  パルデン・トンドゥプ・ナムゲル 当時とうじ首相しゅしょう I.S.チョプラ 当時とうじ立法りっぽう 任命にんめいせいの6にん選挙せんきょえらばれた18にんけい24にん国家こっか評議ひょうぎかい担当たんとう

インド編入へんにゅうとシッキムしゅう誕生たんじょう

編集へんしゅう

1947ねんインド連邦れんぽう独立どくりつすると、シッキムにおけるイギリスの地位ちいはインドが継承けいしょうすることとなった。1950ねんにシッキムはインド・シッキム条約じょうやくむすび、外交がいこう防衛ぼうえい通信つうしんをインドにゆだねる保護ほごこくになった。またどう条約じょうやくもとづき、シッキム王国おうこく民主みんしゅすすめることが規定きていされ、参事院さんじいん(State Council、立法府りっぽうふ相当そうとう)と行政ぎょうせい参事さんじかい(Executive Council、内閣ないかく相当そうとう)の設立せつりつ決定けっていした。

しかし王国おうこく支持しじするブティヤ・レプチャ・チベットけい人口じんこうが25%にたいし、労働ろうどうりょくとして流入りゅうにゅうしていたネパールけいが75%をめる人口じんこう比率ひりつでは、民主みんしゅ実現じつげんした場合ばあいはネパールけい主導しゅどうけん掌握しょうあくすることが王国おうこくない危惧きぐされたことから、シッキム王国おうこく政府せいふ参事院さんじいん議席ぎせきのコミュナルべつ割当わりあて実施じっしした。すなわちぜん17議席ぎせきのうち6議席ぎせきを「ブティヤ・レプチャけい」に、6議席ぎせきを「ネパールけい」に分配ぶんぱいしてこれを選挙せんきょ議席ぎせきとし、のこる5議席ぎせき国王こくおうによる親任しんにんさだめた。ネパールけい住民じゅうみん主体しゅたいとする政党せいとう不平等ふびょうどう選挙せんきょ制度せいど不満ふまんいたが、だい11だい国王こくおうタシ・ナムゲルしんインド姿勢しせいをとっていたため、インドもかれ治世ちせいにおいてはコミュナル選挙せんきょ制度せいど支持しじしていた。

しかし1963ねんにタシ・ナムゲルが崩御ほうぎょし、皇太子こうたいしパルデン・トンドゥプ・ナムゲル以下いか、「パルデン・トンドゥプ」とりゃくす)が即位そくいすると情勢じょうせい変化へんかする。パルデン・トンドゥプはインドの保護ほごかれるシッキムの現状げんじょう不満ふまんいだき、王室おうしつ支持しじするブティヤ・レプチャけいシッキム国民党こくみんとう(SNP)を支援しえんし、タシ・ナムゲルおうしんインド路線ろせんはんインド、シッキム独立どくりつ政治せいじ路線ろせんへと転換てんかんした。このためにインドは、しんインドでネパールけい政党せいとうシッキム国民こくみん会議かいぎ(SNC、1960ねん結成けっせい)などを支持しじするようになった。参事院さんじいん選挙せんきょ制度せいどなん改正かいせいされたが、コミュナル選挙せんきょ制度せいど原則げんそくわらなかった。そしてついには、はんしるし運動うんどうがりやとう足並あしなみのみだれをかたちで、1973ねん参事院さんじいん選挙せんきょでSNPが選挙せんきょ議席ぎせき18議席ぎせきちゅう11議席ぎせきめる勝利しょうりおさめる。しかし、この勝利しょうりはもちろんコミュナル選挙せんきょ制度せいど恩恵おんけいによるものであり、SNCなどのネパールけい政党せいとうが「不正ふせい選挙せんきょ」と糾弾きゅうだんしたことでデモや武装ぶそう蜂起ほうき全国ぜんこく規模きぼ発生はっせいした。混乱こんらん収拾しゅうしゅうするちからかったパルデン・トンドゥプはインドの保護ほごもとめて事態じたいったものの、この結果けっか、シッキムは従前じゅうぜん以上いじょうのインド属国ぞっこく強化きょうかする協定きょうていにSNCなどの政党せいとうとも署名しょめいさせられたのである(インド・シッキムさんしゃ協定きょうてい)。

さんしゃ協定きょうていもとづいて参事院さんじいんわりシッキム立法りっぽう議会ぎかい英語えいごばん選挙せんきょ議席ぎせき30)が創設そうせつされ、1974ねん選挙せんきょ実施じっしされることになった。すでにさんしゃ協定きょうてい成立せいりつ直後ちょくごには、SNCなどしんしるしのネパールけい政党せいとう合併がっぺいしてシッキム会議かいぎ(SC)を結成けっせいしている。インドがた単純たんじゅんしょう選挙せんきょせいあらたな制度せいどとして導入どうにゅうされたこともあり、人口じんこう構成こうせい優位ゆういなSCが29議席ぎせきめる圧勝あっしょうおさめ、SNPはわずか1議席ぎせきへと転落てんらくした。あらたに首相しゅしょう就任しゅうにんしたSC総裁そうさいでブティヤ・レプチャけいカジ・レンドゥプ・ドルジはインドのけて国王こくおう権限けんげん大幅おおはば制限せいげんするしん憲法けんぽう(1974ねんシッキム統治とうちほう)を制定せいていした。

1975ねん4がつ9にち、パルデン・トンドゥプの退位たいいもとめるデモたい宮廷きゅうてい親衛隊しんえいたい発砲はっぽうして混乱こんらん収拾しゅうしゅうがつかないと、カジ・レンドゥプ・ドルジ首相しゅしょうからのインドぐん派兵はへい要請ようせいもとづき、混乱こんらん収束しゅうそくさせるためインドぐん介入かいにゅう王宮おうきゅうぐん武装ぶそう解除かいじょされ、パルデン・トンドゥップは幽閉ゆうへいされた。翌日よくじつ立法りっぽう議会ぎかい王政おうせい廃止はいしとインドへの編入へんにゅう全会ぜんかい一致いっち議決ぎけつ、14にちおこなわれた国民こくみん投票とうひょうでもインドへの編入へんにゅう賛成さんせい多数たすう承認しょうにんされた。15にちにはシッキムをインドのだい22番目ばんめしゅうとする憲法けんぽう改正かいせいあんインドの国会こっかい提出ていしゅつされ、26にち両院りょういん通過つうかした。同年どうねん5がつ16にち大統領だいとうりょう憲法けんぽう改正かいせいあん認証にんしょうし、ここにシッキム王国おうこく滅亡めつぼう、シッキムしゅうとしてインドに編入へんにゅうされた。

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくによるインド主権しゅけん承認しょうにん

編集へんしゅう

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく政府せいふは、シッキムがきよし保護ほごこくであったチベットの属国ぞっこくであったという歴史れきしてき経緯けいいから、インドによるシッキムの併合へいごうみとめていなかった(中印なかいん国境こっきょう紛争ふんそう)。このため、中国ちゅうごく発行はっこうされる地図ちずにはながあいだシッキムが独立どくりつ国家こっかとしてえがかれていた。2003ねん中国ちゅうごくゆたか家宝かほう首相しゅしょうがインドのアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー首相しゅしょう会談かいだんしたさい両国りょうこく辺境へんきょう問題もんだい(インドが中国ちゅうごくのチベット支配しはいを、中国ちゅうごくがインドのシッキム支配しはいをそれぞれみとめていないこと)について議論ぎろんされた。[2]この結果けっか、インドと中国ちゅうごくはチベットにおける中国ちゅうごく主権しゅけんとシッキムにおけるインドの主権しゅけん相互そうご承認しょうにんし、中国ちゅうごく出版しゅっぱんされる地図ちずでシッキムは独立どくりつ国家こっかとしてはえがかれなくなった。[3]2005ねん中印なかいん両国りょうこくは、チベット・シッキムあいだナトゥ・ラとうげ (Nathu La) とジェレプ・ラとうげ (Jelep La) について、その開放かいほう提案ていあんした。

中華民国ちゅうかみんこくのかつての立場たちば

編集へんしゅう

チベットをふく中国ちゅうごく本土ほんど全域ぜんいき領土りょうど主張しゅちょうする台湾たいわん中華民国ちゅうかみんこく政府せいふは、かつてインドによるシッキム支配しはい公式こうしきにはみとめていなかった。このため、台湾たいわん出版しゅっぱんされる地図ちずにはシッキムが独立どくりつ国家こっかとしてえがかれたことがある。

 
段々畑だんだんばたけ稲作いなさく

ヒマラヤ山脈ひまらやさんみゃくかこまれ、高度こうど280m以上いじょうで、カンチェンジュンガ (標高ひょうこう8586m)はインド最高峰さいこうほう世界せかいだい3である。土地とちだい部分ぶぶん岩石がんせきおお斜面しゃめん農耕のうこう不適ふてきだが、一部いちぶ段々畑だんだんばたけができている。1/3は森林しんりんである。人口じんこう集中しゅうちゅうする高度こうどひく南部なんぶのぞ山地さんちには80もの氷河ひょうが、100以上いじょうかわながれる。温泉おんせんも5つあり、硫黄いおうぶんおおく、湯治とうじじょうとしてられる。チベット、ブータン、ネパールへつうじるみちがある。

気候きこう亜熱帯あねったいから寒帯かんたいにわたり、北部ほくぶでは1ねんのうち4かげつゆきおおわれる。おおくは28Cをえない温暖おんだん地域ちいきむ。6月から8がつモンスーンぶしである。

住民じゅうみん

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ラチュンてらでの伝統でんとうおど

75%がネパールじんで、イギリス保護ほごこく時代じだい移民いみんである。15%がブティヤじん(チベットけい)、7%がレプチャじん

 
シッキム・マニパル大学だいがく

宗教しゅうきょう

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ネパールじん宗教しゅうきょうヒンドゥーきょうしゅう最大さいだい宗教しゅうきょうだが、ブティヤじんとレプチャじん宗教しゅうきょうおもチベット仏教ぶっきょうである。レプチャじんにはキリスト教徒きりすときょうとおおい。

公用こうよう

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1977ねんにはしゅう公用こうようネパールシッキム(ブティヤ)、レプチャの3言語げんごであった。1997ねんにはリンブータマン、ライキランティ諸語しょご英語えいごばん一部いちぶ)、ネパール・バサ(ネワール)、マガールスヌワールシェルパグルンくわえた11言語げんごになった[4]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ネパールけいブータンじん同様どうよう問題もんだいであるが、シッキムではぎゃくにネパールじんかずにものをいわせて強引ごういん民主みんしゅ成功せいこうさせ、レプチャじんとブティヤじん権力けんりょくうしなわれ、一時いちじはネパールに併合へいごうされかけたが、インドの介入かいにゅうでインド併合へいごうとどまった。

出典しゅってん

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  1. ^ 最新さいしん世界せかい便覧びんらん 1975ねん発行はっこうばん 講談社こうだんしゃ 訳者やくしゃ野間のま省一しょういち より。
  2. ^ “2003ねん6がつ24にち外交がいこう发言じんざい记者招待しょうたいかいじょうこたえ记者问” (中国ちゅうごく). ちゅう人民じんみん共和きょうわこく外交がいこう. (2003ねん6がつ25にち). http://test.fmprc.gov.cn/chn/xwfw/fyrth/1032/t23483.htm 2008ねん2がつ12にち閲覧えつらん 
  3. ^ 双方そうほうざい边界问题じょう互作调整” (中国ちゅうごく). くに际先驱导报. (2005ねん4がつ18にち). http://news.xinhuanet.com/herald/2005-04/18/content_2844918.htm 2008ねん2がつ12にち閲覧えつらん 
  4. ^ Subba, J. R (2008). History, Culture and Customs of Sikkim. Gyan Publishing House. p. 171 

関連かんれん項目こうもく

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  • グルカランド - シッキム王国おうこく一部いちぶだったがブータン占領せんりょうされ、ネパールのグルカぞく占領せんりょうされ、インド併合へいごうには一旦いったん西にしベンガルしゅうまれたのち自治じちけんた。

外部がいぶリンク

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