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ハレム - Wikipedia

ハレム

イスラム社会しゃかいにおける女性じょせい居室きょしつ
ハーレムから転送てんそう

ハレムトルコ: harem)とは、イスラム社会しゃかいにおける女性じょせい居室きょしつのことである。

トプカプ宮殿きゅうでんのハレム
現在げんざいのトプカプ宮殿きゅうでんのハレム(おな部屋へやではない)

現在げんざい日本語にほんごとして定着ていちゃくしたハーレム語源ごげん

名称めいしょう

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「ハレム」と名称めいしょうは、トルコからイスラム世界せかい外側そとがわしょ外国がいこくひろまったもので、アラビアではハリーム(حريم harīm)とばれている。

トルコのハレムは、アラビアのハリーム、ないしはアラビアではもっぱら聖地せいちかたりであるハラーム(حرم ḥarām)の転訛てんかである。ハリーム、ハラームとも原義げんぎは「きんじられた(場所ばしょ)」という意味いみで、ハレムとは、男性だんせいはその場所ばしょにいる女性じょせいおっと親族しんぞく以外いがいりがきんじられていたことからまれた名称めいしょうである[1]歴史れきしてきには、10世紀せいき以降いこう、イスラム国家こっか宮廷きゅうていにおいて後宮こうきゅう発達はったついちじるしくすすんだことにともない、この呼称こしょう定着ていちゃくするようになったといわれる[1]

日本語にほんごではハーレムぶこともあるが、学術がくじゅつてきにはトルコ発音はつおんちかい「ハレム」が一般いっぱんてきである。英語えいごでは/hɛrəm/(ヘレム)もしくは、まれに/hɑːriːm/(ハーリーム)である。

ハレムの文化ぶんかてき背景はいけい

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男子だんし禁制きんせいむねとするハレムの文化ぶんかてき背景はいけいには、イスラームイスラームきょう)のうち保守ほしゅてき厳格げんかく主義しゅぎてきかんがかたものによって強調きょうちょうされてきた「性的せいてき倫理りんり逸脱いつだつ未然みぜん保護ほごするためには男女だんじょ節理せつりある隔離かくりおこなわなければならない」とのせい倫理りんり存在そんざいするとわれる。

イスラームの聖典せいてんであるクルアーン(コーラン)には、マディーナ預言よげんしゃムハンマド自宅じたく頻繁ひんぱん出入でいりする信徒しんとたちと預言よげんしゃ家族かぞく居室きょしつあいだ厳密げんみつ区切くぎり、両者りょうしゃ無闇むやみ会話かいわいましめた規定きていがみられる。またクルアーンのべつ箇所かしょでは、ムスリム(イスラーム教徒きょうと)の女性じょせいたるものは貞節ていせつかたまもるべきとのいましめがかれている。後世こうせいムスリムたちは、この預言よげんしゃ家族かぞくかんする規定きてい女性じょせい貞潔ていけつ義務ぎむ規定きてい厳密げんみつ遵守じゅんしゅ適用てきようするための配慮はいりょとして、家屋かおくなかにハリーム(حريم)の領域りょういき、すなわち訪問ほうもんしゃりがきんじられた空間くうかんくようになった。この意味いみでは、ハレムは女性じょせい外出がいしゅつ着用ちゃくようすることとされているヴェールなどとおな発想はっそうもとづいている。

ところが、ハレムの習慣しゅうかんはイスラーム特有とくゆう文化ぶんかというわけではなく、古代こだい地中海ちちゅうかい世界せかいにおいて、富裕ふゆう階層かいそう倫理りんりてき文化ぶんかてき経済けいざいてき理由りゆうにおいて女性じょせい居室きょしつ隔離かくりした風習ふうしゅうがそもそもの起源きげんであるともかんがえられており、かならずしも宗教しゅうきょうてき理由りゆうにのみもとづく習慣しゅうかんであるとはれないてんでも、ヴェールの風習ふうしゅう類似るいじする。

また、ハレムはイスラーム社会しゃかいにおける男女だんじょ隔離かくり推奨すいしょうもとづいているとはいえ、下層かそう人々ひとびと農村のうそん社会しゃかい遊牧民ゆうぼくみんなど、男女だんじょ屋内おくないがい共働ともばたらきすることが前提ぜんていとなっている社会しゃかい階層かいそうでは経済けいざいてき合理ごうりせいくため、このような社会しゃかい階層かいそうぞくする家庭かていやこのような階層かいそう多数たすうめる地域ちいきにおいては、ハレムの制度せいど事実じじつじょうりたない。

ハレムの習慣しゅうかんはヴェールとおなじように、近代きんだいてき価値かちかん普及ふきゅうとともにイスラームにおける一夫多妻いっぷたさいせい規定きていむすけられ、性的せいてき搾取さくしゅないし女性じょせい差別さべつ象徴しょうちょうあるいはイスラーム世界せかい後進こうしんせい実例じつれいとして批判ひはんされてきた。イスラーム社会しゃかい内部ないぶでも20世紀せいき後半こうはん以降いこう女性じょせい社会しゃかい進出しんしゅつにともなって厳格げんかく適用てきようこのまれなくなり、おおくの国々くにぐに衰退すいたいかっている。

宮廷きゅうていのハレム

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ハレムを厳密げんみつ運用うんようするには、おおくの夫人ふじんかか女性じょせい労働ろうどうりょくとせずに、家庭かていないいておくことが可能かのう経済けいざいりょく前提ぜんていであった。これは、裏返うらがえしてえば、イスラム世界せかいもっと富裕ふゆう存在そんざいである王侯おうこう貴族きぞく宮廷きゅうていにおいてハレムが厳密げんみつかつだい規模きぼいとなまれていたということを意味いみする。たしかに、イスラム教主きょうしゅであるカリフ権威けんい絶頂ぜっちょうたっしたアッバースあさにおいては、『せん一夜いちや物語ものがたり』になか伝説でんせつしてかたられたような非常ひじょうだい規模きぼなハレムがいとなまれていた。

『クルアーン』は預言よげんしゃつまたちがかおせてよいのは、同性どうせい女性じょせいたちと自分じぶん家族かぞく親族しんぞく男性だんせいのぞくと、彼女かのじょらの所有しょゆうする奴隷どれいのみであるとかたっているため、ハレムでは奴隷どれい身分みぶんもの労働ろうどう使つかわれることとなったが、カリフのような富裕ふゆう王侯おうこう貴族きぞくのもとでは、このような奴隷どれい去勢きょせいされて宦官かんがんとされていた。宦官かんがん使つかわれたというてんでは古代こだいオリエント中国ちゅうごく後宮こうきゅうおなじである。また、ハレムにまう夫人ふじんたちの身辺しんぺんには奴隷どれい身分みぶん侍女じじょたちもかれたが、イスラムほうではじょ奴隷どれいんだちち認知にんちすれば自由じゆうじんとしてみとめられることができるとさだめられていたため、彼女かのじょたちおんな奴隷どれいはハレムの夫人ふじんたちのおっと子供こども私生児しせいじではなく嫡出ちゃくしゅつとして可能かのうせいがあった。したがって、おんな奴隷どれいとは側室そくしつ候補こうほでもあり、おっとめば奴隷どれい身分みぶんから解放かいほうされ、一躍いちやく王侯おうこう貴族きぞく夫人ふじんとして尊敬そんけいされるになることもめずらしくなかったことは、江戸城えどじょう大奥おおおく侍女じじょともている[注釈ちゅうしゃく 1]

マムルークあさ初代しょだいスルターンとなったシャジャル・アッ=ドゥッル奴隷どれい身分みぶんから君主くんしゅんで解放かいほうされ、おうへと身分みぶん上昇じょうしょうさせた女性じょせい典型てんけいてきれいである。

オスマン帝国ていこくのハレム

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アッバースあさ衰亡すいぼうアラブじんにかわってイスラム世界せかい屈指くっしだい帝国ていこくきずいたオスマン帝国ていこくにおいてもハレムはきわめてだい規模きぼなものが存在そんざいした。

オスマン帝国ていこく君主くんしゅは4だいバヤズィト1せい以来いらいキリスト教徒きりすときょうと出身しゅっしんおんな奴隷どれいははとしてまれたものがおおく、そもそも君主くんしゅけん絶頂ぜっちょうして有力ゆうりょくしゃとの婚姻こんいん不要ふようとなった15世紀せいき以降いこうには、ほとんど正規せいき結婚けっこんおこな君主くんしゅはいなかった。オスマン帝国ていこくのハレムには、美人びじんとして有名ゆうめいカフカス出身しゅっしん(とりわけ、チェルケスじん)の女性じょせい中心ちゅうしんとするおおくのおんな奴隷どれいあつめられ、そのかず最盛さいせいには1,000にんえたとされる。女性じょせいたちのほか、イスラムほうによりムスリムであるヨーロッパ出身しゅっしん白人はくじん宦官かんがん、およびアフリカ出身しゅっしん黒人こくじん宦官かんがんがハレムでつかえた。

女性じょせいたちは、様々さまざま過程かていてハレムのなかはいった。たとえば、戦争せんそう捕虜ほりょ略奪りゃくだつ行為こういアキンジによる売却ばいきゃく貧困ひんこん家庭かていからの売却ばいきゃくによって奴隷どれい身分みぶんとなった。彼女かのじょらは、イスタンブール購入こうにゅうされると、イスタンブール各所かくしょかれた君主くんしゅ宮廷きゅうてい直接ちょくせつ下賜かしされるものかぎらず、政府せいふ高官こうかんによってわれかれらの屋敷やしきのハレムにはいったものもいた。直接ちょくせつ君主くんしゅ宮廷きゅうていはいったものたちは、黒人こくじん宦官かんがんによって生活せいかつ監督かんとくされながら歌舞かぶ音曲おんぎょくのみならず、礼儀れいぎ作法さほう料理りょうり裁縫さいほう、さらにアラビア文字もじきからなどの文学ぶんがくいたるまで様々さまざま教養きょうようにつけさせられた。また、政府せいふ高官こうかんわれた女性じょせいたちも同様どうよう様々さまざま技量ぎりょうにつけ、侍女じじょとして皇帝こうていまうトプカプ宮殿きゅうでんのハレムに下賜かしされた。ムラト3せい治世ちせいではほんだけ絶対ぜったいむことができなかった[2]

ジャーリヤ(おんな奴隷どれい単数たんすう:jariya、複数ふくすう:jawari)とばれる彼女かのじょらのなかから君主くんしゅの「おつき」になったものはイクバル(İkbal幸運こううんもの)、ギョズデ(Gözde、おをかけられたもの)としょうされ、私室ししつあたえられて側室そくしつかくとなる。やがて寵愛ちょうあいたかめたものはハセキ(Haseki寵姫ちょうき)、カドゥン(Kadın夫人ふじん)などの尊称そんしょうあたえられ、もっともたか地位ちいにあるものはバシュ・カドゥン(Baş Kadın主席しゅせき夫人ふじん)の称号しょうごうをもった。さらに後継こうけいしゃとなりうる男子だんしめばハセキ・スルタントルコばんばれるが、皇帝こうてい原則げんそくとして彼女かのじょらと法的ほうてき婚姻こんいんむすぶことはなく、建前たてまえじょう君主くんしゅ奴隷どれい身分みぶんのままであった。スレイマン1せい夫人ふじんヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)はもとキリスト教徒きりすときょうと奴隷どれいから皇帝こうてい正式せいしきつまにまでてられた稀有けうれいである。

一方いっぽう皇帝こうていははになれなかった側室そくしつたちや、皇帝こうていむこともなくしつちょうした側室そくしつたち、また「幸運こううん」にめぐまれず寵愛ちょうあいけられなかった侍女じじょたちは、ときには皇帝こうていから重臣じゅうしん下賜かしされることもあったが、おおくの場合ばあい皇帝こうてい死去しきょともない、「なみだいえ」とばれるきゅう宮殿きゅうでんうつされ、年金ねんきんあたえられてしずかに余生よせいおく運命うんめいであった。また、15世紀せいき以降いこうのオスマン帝国ていこくでは、ぜん君主くんしゅ死後しご即位そくいした王子おうじは、王位おういあらそいの対抗たいこうしゃとなった兄弟きょうだいたちを処刑しょけいする「兄弟きょうだいごろし」の慣行かんこう(のちに宮廷きゅうてい一角いっかくもうけられた幽閉ゆうへいしょ黄金おうごんとりかご)への軟禁なんきん変更へんこう)があったことがられているが、サフィエ・スルタン時代じだいにもおなじようにぜん君主くんしゅ余計よけい子孫しそんのこさないために、ぜん皇帝こうてい側室そくしつのうち妊娠にんしんしているものは、きたままふくろめられ、ボスフォラス海峡かいきょうしずめられたといわれている。

このように、きびしく、その立場たちば不安定ふあんていきわまりなかったオスマン帝国ていこくのハレムの女性じょせいたちあいだでは、権力けんりょく闘争とうそうはげしくならざるをなかった。しかし、ひとたび自身じしんんだ息子むすこ皇帝こうてい即位そくいすることとなればヴァーリデ・スルタントルコばん母后ぼこうValide Sultan)とばれてハレムのおんな主人しゅじんとして敬意けいいはらわれる身分みぶんとなる。16世紀せいき後半こうはんから17世紀せいきにかけてのオスマン帝国ていこくは、皇帝こうてい独裁どくさいたもたれ政治せいじ中心ちゅうしん宮廷きゅうていかれたままであったにもかかわらず幼弱ようじゃく皇帝こうてい相次あいついだため、ヌールバヌー・スルタンキョセム・スルタンなど著名ちょめい母后ぼこうたちが権勢けんせいるった(女人にょにん政治せいじトルコばん、「女人にょにん天下てんかDevr-i Sultanat」とも)。

18世紀せいきからは西にし欧化おうかなみがハレムにせ、西欧せいおう熱心ねっしんだっただい31だいアブデュルメジト1せい在位ざいい1839ねん1861ねん)は、皇帝こうていまいを1853ねんにトプカプ宮殿きゅうでんから西洋せいようふうドルマバフチェ宮殿きゅうでんへとうつし、1856ねん余剰よじょうのジャーリヤを解放かいほうした。しかし、近代きんだいオスマン帝国ていこく王宮おうきゅうであったドルマバフチェ宮殿きゅうでんユルドゥズ宮殿きゅうでんトルコばんにも小規模しょうきぼながら女官にょかん宦官かんがんむハレムは維持いじされ、その1909ねんにオスマン帝国ていこく宮廷きゅうていのハレムは解散かいさんされた。

現代げんだいイスラム社会しゃかい

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厳格げんかく男女だんじょ分離ぶんり政策せいさくおこなっているサウジアラビアでは、結婚けっこん理想りそうてき住居じゅうきょれいとして、おっとよう客間きゃくまとはべつ男子だんし禁制きんせいつま専用せんよう客間きゃくまもうけるとされており、このつま専用せんよう客間きゃくまをハレムとんでいる。つま友人ゆうじん女性じょせいおとこ友達ともだちというものはありえない)が来客らいきゃくした場合ばあいにはハレム(つま専用せんよう客間きゃくま)に案内あんないして、ハレムのなかではアバヤって自由じゆう服装ふくそうでくつろぐことができる。ハレムはつまのプライベート空間くうかんであり、イスラム価値かちかんてきにはおっとであってもむやみに干渉かんしょうすることはわるいこととされている。

王族おうぞくなど資産しさん場合ばあいにはへいかこった広大こうだいなエリアや体育館たいいくかん室内しつないプールのようなおおきな建物たてものをハレムとすることで、ハレムのなかでイスラムてきにはゆるされない水着みずぎレオタードのような服装ふくそうをして、女性じょせいだけがあつまってスポーツなどの競技きょうぎかい開催かいさいされることがある。女性じょせい権利けんり制限せいげんきびしいイスラム原理げんり主義しゅぎ社会しゃかいであってもハレムのなかだけは女性じょせい自由じゆうになることができる。

イスラーム世界せかいにおけるイメージのなかのハレム

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ドミニク・アングルさくトルコ風呂とるこぶろ』 1862ねん ルーヴル美術館びじゅつかんぞう。 おびただしいかずはだか美女びじょたち。オスマン帝国ていこくのハレムではこのような光景こうけいはない。この作品さくひんはヨーロッパじん空想くうそうした「官能かんのう」「倦怠けんたい」の東方とうほう世界せかいのイメージをうつしている。

すでべたようにハレムというかたりがトルコから西欧せいおうしょ言語げんごれられたことからわかるように、西欧せいおうじんがハレムの存在そんざいを「発見はっけん」したのは、オスマン帝国ていこくにおいてであった。

オスマン帝国ていこくのハレムは、その規模きぼ神秘しんぴせいからヨーロッパからイスタンブールにやってきたおおくの観察かんさつしゃたちの注意ちゅういをひきつけた。ヨーロッパでは、とく宮廷きゅうていのハレムにまう女性じょせいたちは、「君主くんしゅ居室きょしつ」を意味いみするトルコハス・オダルク(Has Odalık)からなまってオダリスク(Odalisque)ともばれてきた。ヨーロッパの人々ひとびとは、オスマン帝国ていこく社会しゃかいにみられるハレム、オダリスクを東洋とうようてき異質いしつなものととらえ、またこれらにはヨーロッパじんになる旅行りょこう絵画かいがつうじて官能かんのうてきなイメージをあたえられたが、こうしたハレムにたいするイメージの生産せいさん受容じゅようエドワード・サイード批判ひはんしたいわゆるオリエンタリズムいちしゅということができる。官能かんのうてきなハレムのイメージはオスマン帝国ていこく滅亡めつぼうさい生産せいさん増幅ぞうふく21世紀せいきいたるまでかえされてきた。

さらに、イスラームけん文脈ぶんみゃく後宮こうきゅう概念がいねんはなれ、ひろく、男性だんせいおおくの性的せいてきパートナー(それがどんな法的ほうてき地位ちいであれ)を状態じょうたいを、いささか不道徳ふどうとくなニュアンスととも意味いみすることもある。生物せいぶつがくでは、ゾウアザラシアシカなどの一夫多妻いっぷたさいせいコロニー意味いみするようになった。

こうした風潮ふうちょうは、イスラーム文化ぶんか根付ねついておらず、西欧せいおうじんにより解釈かいしゃくされた「オリエント」の一部いちぶとしての「官能かんのうてきなハーレム」のイメージのみが普及ふきゅうすることになった日本にっぽん社会しゃかいにおいても例外れいがいではなく、「サルタン君臨くんりんするハーレム」のイメージは日本にっぽんにおいてもさい生産せいさんされてきた。この結果けっか現在げんざいでは「ハーレム」のかたり西にしアジアにおける元々もともと用法ようほうとはまったことなる意味いみびた外来がいらいとして日本語にほんご定着ていちゃくした。

日本語にほんごとしてのハレム

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一般いっぱんてきには男女だんじょ関係かんけいせい風俗ふうぞくにおいて少数しょうすう男性だんせい同時どうじ多数たすう女性じょせい相手あいてにしながら性行為せいこういおこな状況じょうきょうほか、よりかるいニュアンスで女性じょせいばかりが数多かずおおくいるなか少数しょうすう男性だんせい存在そんざいするような状況じょうきょうたいして「ハーレム」という言葉ことば使つかわれる場合ばあい存在そんざいする。アニメゲームなどの分野ぶんやではいわゆる「ハーレムもの」を意味いみし、この概念がいねん欧米おうべいぎゃく輸入ゆにゅうもされている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、大奥おおおく侍女じじょ奴隷どれい身分みぶんではなかった。

出典しゅってん

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  1. ^ a b 『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん』「しょう項目こうもく事典じてん[ようページ番号ばんごう]
  2. ^ 「ハーレムは女性じょせい学校がっこう」、トルコ大統領だいとうりょう夫人ふじん称賛しょうさんAFPBB、2016ねん8がつ10日とおか閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • アレヴ・リトル・クルーティエ『ハーレム ヴェールにかくされた世界せかい河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1991ねん
  • N. M. ペンザー『トプカプ宮殿きゅうでんひかりかげ法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく、1992ねん
  • 小笠原おがさわら弘幸ひろゆき『ハレム』新潮しんちょう選書せんしょ、2022ねん

関連かんれん項目こうもく

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