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ピサ - Wikipedia

ピサ: Pisa ( 音声おんせいファイル))は、イタリア共和きょうわこくトスカーナしゅうにある都市としであり、人口じんこうやく89,000にん基礎きそ自治体じちたいコムーネ)。

ピサ
Pisa
ピサの風景
ピサの旗 ピサの紋章
はた 紋章もんしょう
行政ぎょうせい
くに イタリアの旗 イタリア
しゅう トスカーナ州の旗 トスカーナ
けん大都市だいとし ピサ
CAP郵便ゆうびん番号ばんごう 56100
市外しがい局番きょくばん 050
ISTATコード 050026
識別しきべつコード G702
分離ぶんり集落しゅうらく #分離ぶんり集落しゅうらく参照さんしょう
隣接りんせつコムーネ #隣接りんせつコムーネ参照さんしょう
公式こうしきサイト リンク
人口じんこう
人口じんこう 89371 にん (2024-01-01 [1])
人口じんこう密度みつど 482.4 にん/km2
文化ぶんか
住民じゅうみん呼称こしょう pisani
守護しゅご聖人せいじん せいラニエリ (San Ranieri di Pisa)[2]
祝祭日しゅくさいじつ 6月17にち[2]
地理ちり
座標ざひょう 北緯ほくい4343ふん 東経とうけい1024ふん / 北緯ほくい43.717 東経とうけい10.400 / 43.717; 10.400座標ざひょう: 北緯ほくい4343ふん 東経とうけい1024ふん / 北緯ほくい43.717 東経とうけい10.400 / 43.717; 10.400
標高ひょうこう 4 (-1 -16) [3] m
面積めんせき 185.27 [4] km2
ピサの位置(イタリア内)
ピサ
ピサの位置いち
ピサ県におけるコムーネの領域
ピサけんにおけるコムーネの領域りょういき 地図
イタリアの旗 ポータル イタリア
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ピサけんけんである。

名称めいしょう

編集へんしゅう

Pisa[ˈpiːza]ピーザ)と発音はつおんされる。

位置いちひろがり

編集へんしゅう

北部ほくぶにはピサーノさんがあり、ヴァルダルノたにせっする。リグリアうみかた地帯ちたい形成けいせいするアルノかわとセルキオがわ合流ごうりゅう地点ちてんにある。

ピサ西部せいぶふくヴィアレッジョリヴォルノあいだ地中海ちちゅうかい沿岸えんがん地域ちいきは、2004ねんユネスコ生物せいぶつけん保護ほご指定していされた[5]

隣接りんせつコムーネ

編集へんしゅう

隣接りんせつするコムーネは以下いかとおり。括弧かっこないのLIはリヴォルノけん所属しょぞくしめす。

気候きこう分類ぶんるい地震じしん分類ぶんるい

編集へんしゅう

ピサにおけるイタリアの気候きこう分類ぶんるい (itおよびは、zona D, 1694 GGである[6]。 また、イタリアの地震じしんリスク階級かいきゅう (itでは、zona 3 (sismicità bassa)分類ぶんるいされる[7]

ピサの起源きげんすう世紀せいきにわたって不明ふめいなままである。ペラスゴイひとギリシャじんエトルリアじんリグーリアじんといった民族みんぞく創立そうりつしゃ候補こうほとなっている。紀元前きげんぜん5世紀せいき考古学こうこがくてき痕跡こんせきは、ピサがギリシャ、ガリア交易こうえきおこなっていた港湾こうわん都市としだったことを立証りっしょうしている。1991ねんアレーナ・ガリバルディ(プロサッカークラブACピサ1909のホームグラウンド・スタジアム)での発掘はっくつ作業さぎょうちゅうにエトルリアのネクロポリス遺跡いせき発見はっけんされ、エトルリアじん主導しゅどうてき地位ちいにあった可能かのうせいたかまった。

古代こだいローマ書物しょもつで、ピサは「古都こと」として記述きじゅつされることがおおい。マウルス・セルウィウ・ホノラトゥスはピセイおう (Pisei) テウティまたはペロペスが紀元前きげんぜん13世紀せいきまちつくったとした。ストラボンはピサの起源きげん神話しんわなかトロイ陥落かんらくのピロスおうネストルにあるとした。ウェルギリウスは『アエネイス』において、ピサはすでおおきく発展はってんした都市としだと記述きじゅつした。エトルリアじん土地とちにできた基礎きそは、アルフェウスかわ流域りゅういき出身しゅっしん移住いじゅうしゃにあるとされていた。

軍船ぐんせん武器ぶきである衝角はピサが起源きげんとされており、ピサの軍港ぐんこうとしての役割やくわりすで古代こだいから、るぎのないものとなっていた。ピサは、当時とうじちいさなむらにすぎなかったジェノヴァからオスティアいた沿岸えんがん唯一ゆいいつ防衛ぼうえい拠点きょてんであった。ピサは、ローマ海軍かいぐんたいリグーリアじんガリアじんカルタゴひと遠征えんせい基地きちとされた。紀元前きげんぜん180ねん、ローマほうした植民しょくみんポルトゥス・ピサヌス (Portus Pisanus) となった。紀元前きげんぜん89ねん、ポルトゥス・ピサヌスはムニキピウムとなった。皇帝こうていアウグストゥスじゅう要港ようこうとして植民しょくみん防衛ぼうえい強化きょうかし、そのをコロニア・ユリア・オブセクエンス (Colonia Iulia obsequens) へ変更へんこうした。313ねん以降いこうキリスト教きりすときょう司教しきょうかれていた。

古代こだい後期こうき中世ちゅうせい初期しょき

編集へんしゅう

マ帝国まていこく末期まっき、イタリアの都市とし衰退すいたいみちあゆんだが、ピサはさほどおとろえなかったといわれている。これは河川かせん水運すいうん規模きぼおおきさと、強力きょうりょく防衛ぼうえいりょくささえられていた。7世紀せいき、ピサはローマ教皇きょうこうグレゴリウス1せいたいし、教皇きょうこうおこなラヴェンナたいひがしマ帝国まていこく軍事ぐんじ遠征えんせいにおいておびただしいかず船舶せんぱく供給きょうきゅうすることで支援しえんした。ピサは、トスカーナ当時とうじはトゥスキア)がみずからの通商つうしょうけんさまたげられた近郊きんこう地域ちいきとともに同化どうかしたことで、たいした抵抗ていこうもなくロンゴバルドぞくおちいちたなか、たったひとのこったひがしマ帝国まていこく中心ちゅうしんであった。ピサはこのやりかたきたティレニアうみしゅ要港ようこうとしてその存在そんざいおもくし、トスカーナ=コルシカとうおよびサルデーニャとうフランススペイン南岸なんがんあいだ主要しゅよう貿易ぼうえき中心ちゅうしんとなった。

カール大帝たいていが、ロンゴバルドおうデジデリウス指揮しきのロンゴバルドぐんを774ねん打破だはしたのち、ピサは危機ききむかえたがすぐに回復かいふくした。政治せいじてきにはルッカ公国こうこく一部いちぶとなった。930ねん、ピサはトゥスキアの辺境へんきょうこうない州都しゅうととなった(この地位ちい神聖しんせいローマ皇帝こうていオットー1せい即位そくいするまで保持ほじされた)。ルッカは首都しゅととなったが、ピサはそれをしのぐさい重要じゅうよう都市としとなった。10世紀せいきなかばのクレモナ司教しきょうリウトプランドは、ピサを『トゥスキアしゅう首都しゅと』(Tusciae provinciae caput) とんだ。そしていち世紀せいき、トゥスキア辺境へんきょうこうピサこう普通ふつうしょうされるようになった。1003ねん、ピサは、ルッカの方針ほうしんはんし、イタリアにおける最初さいしょのコムーネ戦争せんそう主役しゅやくとなった。海軍かいぐん要衝ようしょうとしての観点かんてんから、9世紀せいき以降いこうサラセンじん海賊かいぞく出現しゅつげんをその海軍かいぐんりょく拡大かくだいてることとなった。つづ年月としつき、この海軍かいぐんりょくがピサにさらなる拡大かくだい機会きかいあたえた。828ねん、ピサ艦隊かんたいきたアフリカを猛襲もうしゅうした。871ねん、ピサ艦隊かんたいはサラセンじんからのサレルノ防衛ぼうえい主力しゅりょくとなった。970ねん、ピサ艦隊かんたいは、カラブリア沿岸えんがん前線ぜんせんひがしマ帝国まていこく艦隊かんたいかすという、オットー1せい遠征えんせい強力きょうりょく支援しえんおこなった。

11世紀せいき

編集へんしゅう
 
ピサ共和きょうわこくはたイタリア海軍かいぐんはた構成こうせいする歴史れきしてきなイタリア海洋かいよう共和きょうわ国旗こっきひと

ピサのちから強固きょうこ海運かいうん国家こっかとして成長せいちょうはじめ、歴史れきしてきなイタリアの海洋かいよう国家こっか4つのうち1つ(そのの3つとは、アマルフィ共和きょうわこくジェノヴァ共和きょうわこく、そしてヴェネツィア共和きょうわこく)にかぞえられる伝統でんとうある栄誉えいよ獲得かくとくした、11世紀せいき頂点ちょうてんたっした(レプブリケ・マリナーレ)。

当時とうじ、ピサは非常ひじょう重要じゅうよう貿易ぼうえきであり、突出とっしゅつした地中海ちちゅうかい商人しょうにん艦隊かんたいおよび海軍かいぐんによって管理かんりされていた。1005ねんみなみイタリアのレッジョ・カラブリア略奪りゃくだつによってその勢力せいりょくばした。ピサはなく、サルデーニャやコルシカを基地きちとし、地中海ちちゅうかい手中しゅちゅうこうとするサラセンじん対立たいりつした。1017ねん、サラセンじんおうムガヒドの敗北はいぼくによって、ジェノヴァと同盟どうめいしたピサがサルデーニャを陥落かんらくさせた。この勝利しょうりは、ピサにティレニアうみでの覇権はけんあたえた。ピサがそのサルデーニャからジェノヴァをすと、あらたな対立たいりつ敵対てきたい関係かんけいが2つの海洋かいよう共和きょうわこくあいだまれた。1030ねんから1035ねんあいだ、ピサはシチリアにおいていくつもの敵対てきたいするまちかすのに成功せいこうし、きたアフリカのカルタゴを征服せいふくした。1051ねんから1052ねん提督ていとくヤコポ・チウリーニがジェノヴァからさらなる憤怒ふんぬ挑発ちょうはつして、コルシカとう征服せいふくした。1063ねん提督ていとくジョヴァンニ・オルランドはサラセンじん海賊かいぞくからパレルモうばったノルマンじんルッジェーロ1せい支援しえんかった。パレルモでサラセンじんから黄金おうごん財宝ざいほううばうことをピサじんゆるされた(ピサだい聖堂せいどう有名ゆうめいミラコーリ広場ひろばてるためであった)。

1060ねん、ピサはジェノヴァとの最初さいしょたたかいに従事じゅうじしなくてはならなかった。ピサの勝利しょうりが、地中海ちちゅうかいでのその地位ちい堅固けんごにすることとなった。教皇きょうこうグレゴリウス7せいは1077ねんにピサじんによって施行しこうされた『うみ慣習かんしゅうほう』を承認しょうにんした。そして皇帝こうていハインリヒ4せいはピサに、長老ちょうろう会議かいぎ助言じょげんされる独自どくじ執政しっせいかん任命にんめいする権利けんりさづけた。これは単純たんじゅん当時とうじ状況じょうきょう確認かくにんであった。なぜならばそれまでピサこうすで権力けんりょくからされていたからである。1092ねん教皇きょうこうウルバヌス2せいは、ピサをコルシカおよびサルデーニャにおける宗主そうしゅこくとしてみとめ、同時どうじまち地位ちい大司教だいしきょうげた。

1088ねん、ピサはきたアフリカのマフディア(げんチュニジア)を略奪りゃくだつした。4ねん、ピサとジェノヴァの艦隊かんたいは、バレンシア王国おうこくエル・シッドカスティーリャおうアルフォンソ6せい支援しえんした。120せきものピサ艦隊かんたいだい1かい十字軍じゅうじぐんにも参加さんかした。そしてピサじんは1099ねんエルサレム占領せんりょうにおいてたすけとなった。聖地せいちいたるピサの艦隊かんたいは、ひがしマ帝国まていこくりょう島々しまじまをいくつか略奪りゃくだつする機会きかいわすれなかった。ピサじん十字軍じゅうじぐんはピサ大司教だいしきょうダゴベルト(のちにエルサレムそう主教しゅきょうとなる)にひきいられていた。ピサとその海洋かいよう共和きょうわこく十字軍じゅうじぐんで、シリアレバノンパレスチナひがし地中海ちちゅうかい沿岸えんがんしょ都市とし通商つうしょう地点ちてん植民しょくみんをつくった。とくにピサじんアンティオキアヤッファトリポリティルスラタキヤアッコン植民しょくみんをたてた。かれらはエルサレムとカエサリアにもべつ所領しょりょうち、くわえてカイロアレクサンドリアに、よりちいさな自治じちけん植民しょくみんかかえていた。もちろんコンスタンティノープルにも、皇帝こうていアレクシオス1せいコムネノスから特別とくべつ係留けいりゅう許可きょか通商つうしょうけんとをさづけられていた。これらすべての都市としで、ピサじん特権とっけん徴税ちょうぜい免除めんじょけんさづけられていた。しかし都市とし攻撃こうげきされた場合ばあい防衛ぼうえい貢献こうけんしなければならなかった。12世紀せいき、コンスタンティノープル東部とうぶにあるピサじん居住きょじゅう人口じんこう1,000にん成長せいちょうしていた。12世紀せいきすう年間ねんかん、ピサはヴェネツィア共和きょうわこくち、ひがしマ帝国まていこく軍事ぐんじ同盟どうめいむすんだ国家こっかであり、もっと地位ちいるぎない商人しょうにんとなっていた。

12世紀せいき

編集へんしゅう
 
だい聖堂せいどう付属ふぞく洗礼せんれいどう

1113ねん、ピサと教皇きょうこうパスカリス2せいともバルセロナはくとそのプロヴァンスおよびイタリア諸侯しょこう(ジェノヴァをしている)とんでムーアじんからバレアレス諸島しょとう解放かいほうする戦争せんそうはじめた。マジョルカのおう王妃おうひくさりにつながれてローマへ連行れんこうされた。ムラービトあさはすぐに諸島しょとうさい征服せいふくしたのだが、戦利せんりひんはピサじん壮麗そうれい建物たてもの部品ぶひんとするためしていた(とくだい聖堂せいどう建設けんせつのため)。ピサは西にし地中海ちちゅうかいにおける最高さいこうねらえる地位ちいた。

そのすうねん強力きょうりょくなピサ艦隊かんたいは、ピエトロ・モリコーニ大司教だいしきょうひきいられ、残忍ざんにん戦闘せんとうのちにサラセンじんうみんだ。短期間たんきかんではあるが、ピサのこのスペインにおける戦勝せんしょうはジェノヴァとの敵対てきたい関係かんけい悪化あっかさせた。ピサのたいラングドック貿易ぼうえきたいプロヴァンス貿易ぼうえきノーリサヴォーナフレジュスモンペリエ)は、イエールフォスアンティーブマルセイユのような都市としでジェノヴァ勢力せいりょく障害しょうがいとなったのである。

1119ねんにジェノヴァが、母国ぼこくもど途中とちゅうすうせきのピサ船舶せんぱく攻撃こうげきしたことで戦争せんそうはじまり、1133ねんまでつづいた。2都市としたがいに陸海りくかいあらそったが、戦闘せんとう行為こうい海賊かいぞくのような猛攻もうこう略奪りゃくだつかぎられていた。

1135ねん6がつクレルヴォーのベルナルドゥスがピサ会議かいぎ主導しゅどうしゃとなり、かれは1130ねん選出せんしゅつされた教皇きょうこうアナクレトゥス2せい対抗たいこうしてインノケンティウス2せい権利けんり援護えんごした。アナクレトゥス2せいはノルマンじん支持しじ教皇きょうこう選出せんしゅつされたが、ローマのそとでは正式せいしき教皇きょうこうみとめられていなかった。インノケンティウス2せいはジェノヴァとの対立たいりつ解消かいしょうすべく、ピサとジェノヴァそれぞれの領域りょういきめた。 ピサは決定けっていにならったが、ジェノヴァによってさまたげられた。シチリアおうルッジェーロ2せいとインノケンティウス2せい対立たいりつ関係かんけいしていたためである。海洋かいよう共和きょうわこくひとアマルフィ共和きょうわこく(ノルマン支配しはいわってからすで衰退すいたいはじめていた)を、ピサが1136ねん8がつ6にち征服せいふくした。ピサはみなと停泊ていはくする船舶せんぱく破壊はかいし、周辺しゅうへん地域ちいき複数ふくすうしろ略奪りゃくだつ、そしてアヴェルサからルッジェーロ2せいおくんだぐん後退こうたいさせた。この勝利しょうりがピサをその権力けんりょく頂点ちょうてんみちびき、ヴェネツィアと対等たいとう位置いちへとげた。2ねん、ピサへいがサレルノを略奪りゃくだつした。

つづすうねん、ピサはギベリン(皇帝こうてい)の忠実ちゅうじつ支持しじしゃひとつであった。これが皇帝こうていフリードリヒ1せいによってさらに評価ひょうかされた。かれは1162ねんと1165ねんに2つの重要じゅうよう公文書こうぶんしょと、以下いか特権とっけんさづけた。『ピサの田園でんえん地帯ちたいにおける司法しほうけんから帝国ていこくくこと、ピサじん神聖しんせいマ帝国まていこく全土ぜんどチヴィタヴェッキアポルトヴェーネレパレルモ半分はんぶんメッシーナ、サレルノ、ナポリ、ガーエタ全体ぜんたいマーザラ・デル・ヴァッロトラーパニなど沿岸えんがん都市とし貿易ぼうえき自由じゆうさづけられること、シチリア王国おうこくすべての都市としでピサ商人しょうにんいえとおりにてられること』。これらの特権とっけん一部いちぶのちハインリヒ6せいオットー2せいフリードリヒ2せいらによって追認ついにんされた。これらはピサの権力けんりょく最高潮さいこうちょうしるしていた。しかし、ルッカ、マッサヴォルテッラフィレンツェといった都市としのピサへの敵意てきいにも拍車はくしゃがかかった。これらしょ都市としうみかって横切よこぎ自国じこくちから拡大かくだいするもくろみがあった。ルッカとの衝突しょうとつも、モンティノーゾじょう所有しょゆうと、フランチジェナ街道かいどう(ローマ=フランスあいだ主要しゅよう交易こうえきどう)の掌握しょうあくというねらいに関係かんけいしていた。ピサの突然とつぜん権力けんりょく拡大かくだいは、ジェノヴァとのべつたたかいへみちびくことになっただけだった。

ジェノヴァはみなみフランスの市場いちば広範囲こうはんい優勢ゆうせい地位ちい獲得かくとくしていた。戦争せんそうは1165ねんローヌがわで、ピサの通商つうしょう中心ちゅうしん護送ごそうしていたピサせんを、ジェノヴァと同盟どうめいしゃであるトゥールーズはく攻撃こうげきしたことではじまった。これは失敗しっぱいした。ピサは他方たほうでプロヴァンスはくとも同盟どうめいしていたのである。戦争せんそうは1175ねんまで決定的けっていてき勝利しょうりのないままつづけられた。摩擦まさつべつ局面きょくめんは、ピサ、ジェノヴァともハインリヒ6せいによって特権とっけんさづけられていたシチリアできた。1192ねん、ピサはメッシーナ征服せいふくげた。この挿話そうわは、1204ねんのジェノヴァのシラクーザ占領せんりょうという全盛ぜんせいきわめたたたかいによって、つづいてきた。、シチリアの貿易ぼうえき地点ちてんしん教皇きょうこうインノケンティウス3せい即位そくいしたことでうしなわれた。かれ前任ぜんにんしゃケレスティヌス3せい(フィレンツェひきいるトスカーナのゲルフ同盟どうめい同盟どうめいしていた)によってピサが破門はもんされた見解けんかい排除はいじょしたにもかかわらずである。すぐにかれはジェノヴァとの条約じょうやく明文化めいぶんかし、みなみイタリアでのピサの存在そんざいがさらによわまることになった。

みなみティレニアうみでジェノヴァが優勢ゆうせいであるのと反対はんたいに、ピサはスペイン・フランスの伝統でんとうてき基盤きばんとの協力きょうりょく関係かんけい強化きょうかしていた(マルセイユナルボンヌバルセロナなど)。そしてアドリア海あどりあかいおさめるヴェネツィアへいどもうとしていた。1180ねん、ピサとジェノヴァはティレニアうみおよびアドリア海あどりあかいでの集団しゅうだんてき条約じょうやく同意どういした。しかしコンスタンティノープルの皇帝こうていマヌエル1せいコムネノスんだことで状況じょうきょう変化へんかした。すぐにヴェネツィアの護送ごそう船団せんだんひがしローマで攻撃こうげきされたのである。ピサはアンコーナプーラザダルスプリト、そしてブリンディジとの貿易ぼうえき政治せいじてき法令ほうれい署名しょめいした。1195ねん、ピサの船隊せんたいはヴェネツィアからの独立どくりつまもるプーラへ到着とうちゃくしたが、セレニッシマ(ヴェネツィア共和きょうわこく別称べっしょう)はすぐ反乱はんらんこした海港かいこうさい平定へいていげたのである。

1ねん、2都市としはピサにとってこのましい結果けっかとなった和平わへい条約じょうやく署名しょめいした。しかし1199ねん、ピサじんプッリャにあるブリンディジこう封鎖ふうさするという乱暴らんぼうをジェノヴァにたいしてはたらいた。つづ海戦かいせんではピサはヴェネツィア艦隊かんたいやぶられた。1206ねんわった戦争せんそうで、ピサはアドリア海あどりあかいへの拡大かくだい野望やぼうすべてあきらめる条約じょうやくむすんだ(アドリア海あどりあかいでのすでにある貿易ぼうえき地点ちてん保持ほじされた)。ピサ=ヴェネツィア共闘きょうとうにおける観点かんてんから、ジェノヴァの台頭たいとう対抗たいこうして団結だんけつし、ときにはたいコンスタンティノープル貿易ぼうえきによる恩恵おんけい増大ぞうだいむすんだのだった。

13世紀せいき

編集へんしゅう

1209ねんと1217ねんレーリチでジェノヴァとの敵対てきたい関係かんけい最終さいしゅう解決かいけつのため2会議かいぎひらかれ、20年間ねんかん和平わへい条約じょうやくむすばれた。しかし1220ねん、フリードリヒ2せいがチヴィタヴェッキアからポルトヴェーネレまでのティレニアうみ沿岸えんがん自分じぶん宗主そうしゅけんおよ地域ちいき確認かくにんした。はんピサを旗印はたじるしかかげたジェノヴァとトスカーナの反感はんかんさいねっしたのである。そのすう年間ねんかんのピサは、ガルファニャーナでルッカと激突げきとつし、カステル・デル・ボルコでフィレンツェぐんによって敗退はいたいさせられた。ピサの強力きょうりょく皇帝こうてい支持しじとしての位置いちが、神聖しんせいローマ皇帝こうてい格闘かくとうしていた教皇きょうこうたいしてこのまちまったせい反対はんたいにしてしまっていた。そしてついに教皇きょうこうきたサルデーニャにあるピサの所領しょりょうまちうばろうとした。

1238ねんグレゴリウス9せいはん皇帝こうていであるジェノヴァ=ヴェネツィアあいだ同盟どうめい関係かんけい樹立じゅりつさせ、結果けっかとしてその同盟どうめいはんピサ同盟どうめいにもなった。いちねん、グレゴリウス9せい皇帝こうていフリードリヒ2せい破門はもんし、1241ねんにはローマではん皇帝こうてい会議かいぎ招集しょうしゅうされた。1241ねん5月3にちに、皇帝こうてい息子むすこであるエンツォがひきいるピサの連合れんごう艦隊かんたいとシチリア船団せんだんが、きたイタリアとフランス、トスカーナのまえにあるイーゾラ・デル・ジーリオからはこんできた高位こうい聖職せいしょくしゃせたジェノヴァの護衛ごえいせん攻撃こうげき仕掛しかけた。ジェノヴァは25せきふねとおよそ1000にん船乗ふなのりがうしなわれ、2人ふたり枢機卿すうききょう1人ひとり司教しきょう身代金みのしろきんのため捕虜ほりょとしてられた。この目立めだった勝利しょうりのち、ローマでの会議かいぎ失敗しっぱいした。しかし、ピサは破門はもんされた。この極端きょくたん処置しょちは1257ねんのぞかれただけだった。いずれにしろ、トスカーナしょ都市としはコルシカの都市としアレーリア征服せいふくするのにこのましい位置いちにあり、その利用りようしようとしていた。1243ねんにはトスカーナしょ都市としがジェノヴァを包囲ほういしようと準備じゅんびさえした。

リグーリアにあるジェノヴァ共和きょうわこくはしかし、このいちげきから素早すばやなおり、すうねんまえにピサが征服せいふくしていたレーリチを、1256ねんうばかえした。

地中海ちちゅうかいでのおおきな拡張かくちょう商人しょうにん階級かいきゅう突出とっしゅつは、慣習かんしゅうにおける修正しゅうせい勧告かんこくした。施政しせいかんのいるシステムは1230ねん廃止はいしされ、あらたな統治とうちしゃせいぐん指導しどうしゃとして市民しみん隊長たいちょう (Capitano del Popolo) と名付なづけられた。これらの改正かいせいにもかかわらず、征服せいふく共和きょうわこく本国ほんごくは、デッラ・ゲラルデスカとヴィスコンティ競争きょうそう関係かんけいにある2貴族きぞくによってなやまされた。1237ねん大司教だいしきょう皇帝こうていフリードリヒ2せいがライバル関係かんけいの2いえ和解わかいさせようと仲介ちゅうかいしたが、緊張きんちょうまなかった。1254ねん市民しみん暴動ぼうどうこし、コムーネにおけるかれらの政治せいじ代表だいひょうとして12にんのアンツィアーニ・デル・ポポロ(Anziani del Popolo市民しみん長老ちょうろう)をしつけた。かれらも立法りっぽうけんのある評議ひょうぎ委員いいん貴族きぞくからなる)を補足ほそくし、あらたな市民しみん評議ひょうぎ委員いいんとともに、主要しゅようギルド市民しみん会社かいしゃ長老ちょうろうによって構成こうせいされていた。これらは、主要しゅよう全体ぜんたい議会ぎかい立法りっぽう機関きかん法律ほうりつ批准ひじゅんする権力けんりょくっていた。

衰退すいたい

編集へんしゅう

アルベルティーノ・モロシーニ指揮しきするピサ最高さいこう艦隊かんたいが、1284ねん8がつ6にちメローリアの海戦かいせんイタリアばん英語えいごばんで、ベネデット・ザッカリーアオベルト・ドーリアひきいるジェノヴァ艦隊かんたいかがやかしい高等こうとう戦術せんじゅつ大敗たいはいきっしたとき、ピサの衰退すいたいはじまった。この敗北はいぼくでピサの海運かいうんりょくわり、共和きょうわこく二度にど以前いぜんのようなちからもどすことはなかった。1290ねん、ジェノヴァはピサのしゅ要港ようこうであるピサーノこう破壊はかいした。そして、スキピオ・アエミリアヌスカルタゴにしたように、しおおおったのである。ピサ周辺しゅうへん地域ちいきは、メローリア海戦かいせんによってすうせんにん船員せんいんうしなった痛手いたでから復活ふっかつするのをピサにゆるさなかった。一方いっぽうでリグーリア地方ちほうがジェノヴァへ十分じゅうぶん船員せんいん補償ほしょうしたのである。品質ひんしつおとったけれども品物しなもの貿易ぼうえきつづけたが、アルノかわがそのながれをはじめたとき終焉しゅうえんがやってきた。かわからがってみなとはいガレーせんさまたげるようになったのである。そして近郊きんこうマラリア流行りゅうこうがみられるようになった。1324ねんのうちに、サルデーニャ全体ぜんたいアラゴン王国おうこくうばわれた。

つね皇帝こうていであったピサは、14世紀せいき過程かていで、コンドッティエーレであるウグッチョーネ・デッラ・ファッジュオーラ指揮しきのピサぐんモンテカティーニのたたかフィレンツェ共和きょうわこく敗退はいたいさせさえし、ピサはふたた軍事ぐんじりょくつくげようとした。しかしそのすぐ、ピサは共和きょうわ国内こくない内部ないぶ闘争とうそうによって二分にぶんされ、ちからうしなったことで弱体じゃくたいし、1406ねんにフィレンツェに占領せんりょうされた。1409ねん、ピサはだいシスマ解消かいしょう目的もくてきとしたピサおおやけ会議かいぎとなった。さらに15世紀せいきみなと堆積たいせきされうみからはなされたことで、うみへのがさらに困難こんなんになった。1494ねんにフランスおうシャルル8せいはナポリ王位おうい請求せいきゅうしてイタリア諸国しょこく侵攻しんこう、フィレンツェ共和きょうわこく敗退はいたいし、ピサはだいピサ共和きょうわこくとして自治じちけん再生さいせいする機会きかいをいきなりつかんだ。

しかしあらたな自由じゆうながくなかった。15年間ねんかん戦争せんそう包囲ほういせんのち、ピサは1509ねんアントーニオ・ダ・フィリカヤイタリアばん、アヴェラルド・サルヴィアーティ、ニッコロ・カッポーニひきいるフィレンツェぐんさい征服せいふくされたのである。トスカーナだい1のみなと地位ちいリヴォルノうばわれた。ピサはしゅとしてだい2の地位ちいあまんじ、1343ねん創立そうりつピサ大学だいがく存在そんざいによって文化ぶんかてき役割やくわりてられた。その衰退すいたいぶりは人口じんこうあきらかにられ、中世ちゅうせい以後いごほぼ不変ふへんであった。

ピサは科学かがくしゃガリレオ・ガリレイ生誕せいたんである。いまだ大司教だいしきょうがとどまっている。

 
ピサだい聖堂せいどうはすとう

だい世界せかい大戦たいせんなかかえ爆撃ばくげきけたが、戦後せんごには工業こうぎょう中心地ちゅうしんちおよび鉄道てつどうのハブとなっている。

 
ピサのはすとう
 
ミラコリ広場ひろばにあるカンポサント
 
サンタ・マリア・デッラ・スピナ教会きょうかいのファサード
 
サン・フランチェスコ教会きょうかい
 
パラッツォ・デッラ・カロヴァーナ
 
チッタデッラ

かわまたいできゅう市街しがい北側きたがわには、ミラコリ広場ひろば(「ピサのドゥオモ広場ひろば」として世界せかい遺産いさん登録とうろく)にはピサだい聖堂せいどう、ピサ洗礼せんれいどう墓所はかしょ(カンポサント)などの史跡しせき建築けんちくぶつがあり、ピサのはすとうもその1つである。

  • カヴァリエーリ広場ひろば (Piazza dei Cavalieri) - だい広場ひろば。かつてせいステファノ騎士きしだん本部ほんぶかれていたことからこのがついた。中世ちゅうせいピサの政治せいじ中心ちゅうしんであった。
  • サント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会きょうかい (Chiesa di Santo Stefano dei Cavalieri) - ジョルジョ・ヴァサーリ設計せっけい原型げんけい本堂ほんどう1つであったが、17世紀せいきにさらに2つがくわえられた。ドナテッロさく胸像きょうぞうとヴァサーリ、アレッサンドロ・フェイ、ヤコポ・リゴッツィ、ヤコポ・キメンティの絵画かいが所蔵しょぞう。16世紀せいきから18世紀せいき騎士きしだんとトルコのおおくの海戦かいせんからの略奪りゃくだつひんふくまれる。
  • サン・シスト教会きょうかい (Chiesa di San Sisto) - 教皇きょうこうシクストゥス2せいけんじどう。1133ねんきよし以前いぜん長老ちょうろう会議かいぎおこなわれたこともある。市内しない有数ゆうすう保存ほぞん状態じょうたい初期しょきロマネスク様式ようしき建築けんちく
  • サン・フランチェスコ教会きょうかい (Chiesa di San Francesco) - 1276ねん以後いご建設けんせつ。ジョヴァンニ・ディ・シモーネ設計せっけい。1343ねんあたらしい礼拝れいはいどうくわえられた。ひとつの本堂ほんどう有名ゆうめい鐘楼しゅろう、15世紀せいき回廊かいろうられる。ゲラルデスカ礼拝れいはいどうにはウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ息子むすこたちを埋葬まいそうしている。
  • サン・フレディアーノ教会きょうかい (Chiesa di San Frediano) - 1061ねん建設けんせつ。3つのがわろうのあるバシリカの内装ないそう、12世紀せいきからのキリストはりつけぞうがある。16世紀せいきえがかれたヴェントゥラ・サリンベーニ、ドメニコ・パッシニャーノ、アウレリーオ・ロミ、ルティリオ・マネッティの絵画かいが修繕しゅうぜんあいだくわえられた。
  • サン・ニコラ教会きょうかい (Chiesa di San Nicola) - 1097ねん建設けんせつ。1297ねんから1313ねんまでアウグスチノかいによって拡大かくだいされた。ジョヴァンニ・ピサーノ設計せっけいとされる。8角形かくがた鐘楼しゅろうは13世紀せいきなかばからのもの。
  • サンタ・マリア・デッラ・スピナ教会きょうかい (Chiesa di Santa Maria della Spina) - 1230ねん、ルポ・ディ・フランチェスコによるものとされるゴシック建築けんちく
  • サン・パオロ・ア・リパ・ダルノ教会きょうかい (Chiesa di San Paolo a Ripa d'Arno) - 952ねんごろ創立そうりつ。12世紀せいきなかばに拡大かくだい。ピサだい聖堂せいどうている。奇妙きみょうなピラミッドがた先端せんたんのある、ロマネスク様式ようしきのサンターガタ礼拝れいはいどうともなう。
  • ボルゴ・ストレット (Borgo Stretto) - アルノかわ沿いのルニャルノ大通おおどおりと、中世ちゅうせいのアーケードをぶらつくことのできる近辺きんぺん。ゴシックとロマネスクの折衷せっちゅうされたサン・ミケーレ・イン・ボルゴ教会きょうかい(990ねん)をふくむ。そこにはすくなくとも2つのことなるたいそうなはすとうがあり、ひとつは中央ちゅうおうのサンタ・マリアどおりの南端なんたんに、もう一方いっぽうかわ沿いの歩道ほどうピアッジェをとおける中途ちゅうとにある。
  • メディチ宮殿きゅうでん - かつて、1392ねんから1398ねんまでピサを支配しはいしたアッピアーノ所有しょゆう。1400ねんにメディチ獲得かくとくし、ロレンツォ・デ・メディチ滞在たいざいした。
  • ピサ植物しょくぶつえん (Orto botanico di Pisa) - ヨーロッパ最古さいこ大学だいがく付属ふぞく植物しょくぶつえん
  • パラッツォ・レアーレ (Palazzo Reale) - かつてローマ貴族きぞくカエターニんだ。ここでガリレオ・ガリレイは、自分じぶん天体てんたい望遠鏡ぼうえんきょう発見はっけんした惑星わくせいトスカーナ大公たいこうせた。宮殿きゅうでんコジモ1せい・デ・メディチのため1559ねんバッチョ・バンディネッリてた。のち宮殿きゅうでんふく拡大かくだいされた。
  • パラッツォ・ガンバコルティ (Palazzo Gambacorti) - 14世紀せいきのゴシック様式ようしき現在げんざい市役所しやくしょはいっている。内部ないぶでは、ピサの海上かいじょう勝利しょうりあらわしたフレスコられる。
  • パラッツォ・アゴスティーニ (Palazzo Agostini) - パラッツォ・デッルッゼーロ (Palazzo dell'Ussero) のでもられるゴシック様式ようしき建物たてもの。15世紀せいきのファサード、1155ねん以前いぜんからという古代こだい城壁じょうへきつ。建物たてものは、1775ねん9がつ1にちにできた歴史れきしある会合かいごう場所ばしょカッフェ・デッルッゼーロ (Caffè dell’Ussero) にちなむ。
  • トゥットモンドの壁画へきが - キース・ヘリング最後さいごった公共こうきょう作品さくひん。サンタントーニオ教会きょうかい背面はいめんかべに1989ねん6がつえがかれた。
  • ムゼオ・デッロペラ・デル・ドゥオモ (Museo dell'Opera del Duomo) - ニコラ・ピサノジョヴァンニ・ピサノ彫刻ちょうこく作品さくひん原作げんさく展示てんじだい聖堂せいどう至宝しほう展示てんじ
  • シノピエ美術館びじゅつかん (Museo delle Sinopie) - カンポサントから出土しゅつどひん展示てんじ
  • 国立こくりつサン・マッテオ美術館びじゅつかん (Museo Nazionale di S. Matteo) - 12世紀せいきから15世紀せいき彫刻ちょうこく絵画かいが展示てんじ
  • 国立こくりつパラッツォ・レアーレ美術館びじゅつかん (Museo Nazionale di Palazzo Reale) - パラッツォ・レアーレにらした貴族きぞくらの所有しょゆうぶつ展示てんじ
  • ムゼオ・ナツィオナーレ・デッリ・ストルメンティ・ペル・イル・カルコーロ (Museo Nazionale degli Strumenti per il Calcolo) - 科学かがく分野ぶんやもちいられた器具きぐ収集しゅうしゅうひん展示てんじピーテル・ファン・ミュッセンブルーク圧縮あっしゅく、おそらくガリレイ所有しょゆうとされているコンパスなど
  • ピサ大学だいがく自然しぜん博物館はくぶつかん (Museo di storia naturale e del territorio dell'Università di Pisa) - 郊外こうがいのチェルトーザ・ディ・ピサにある。ヨーロッパ有数ゆうすうおおきさのクジラ骨格こっかく展示てんじ

ピサは、ピサ大学だいがく所在地しょざいちである。ピサ大学だいがくはメインキャンパスをたずピサ市内しない講義こうぎとう点在てんざいしていることが特徴とくちょうてきである。とく物理ぶつりがく数学すうがく工学こうがく、コンピューター科学かがくかく分野ぶんや名高なだかい。サンターナ大学院だいがくいん大学だいがくピサ高等こうとう師範しはん学校がっこうは、イタリアの学問がくもん研究けんきゅうのエリート養成ようせい機関きかんで、しゅとして大学院生だいがくいんせい教育きょういく研究けんきゅうおこなう。そのほか、イタリア学術がくじゅつ会議かいぎ (CNR) 所属しょぞく有機ゆうき金属きんぞく化学かがく研究所けんきゅうじょ (ICCOM) 拠点きょてんがあり、計算けいさん科学かがく情報じょうほう科学かがくなどの研究けんきゅうさかんである。

東側ひがしがわ地中海ちちゅうかいめんした高級こうきゅう住宅じゅうたくがいマリーナ・ディ・ピサ (en) は、年金ねんきん生活せいかつしゃおおらすなつのリゾートである。

つき 1がつ 2がつ 3がつ 4がつ 5月 6がつ 7がつ 8がつ 9月 10月 11月 12月 年間ねんかん
最高さいこう気温きおん (°C) 10 11 15 18 22 26 30 29 26 21 16 11 19.6
最低さいてい気温きおん (°C) 2 3 4 7 10 14 18 17 14 11 6 2 9
降水こうすいりょう (mm) 69 71 72 85 56 48 28 52 93 112 135 80 901

行政ぎょうせい

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分離ぶんり集落しゅうらく

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ピサには、以下いか分離ぶんり集落しゅうらく(フラツィオーネ)がある。

  • Calambrone, Coltano, Marina di Pisa, San Piero a Grado-La Vettola, San Rossore, Tirrenia

交通こうつう

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ピエル・パオロ・パゾリーニの『王妃おうひメディア』、だい30かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいパルムドール受賞じゅしょうした『ちち パードレ・パドローネ』、だい69かいアカデミーしょう作品さくひんしょう受賞じゅしょうした『イングリッシュ・ペイシェント』が、ピサで撮影さつえいされた。

出身しゅっしん著名ちょめいじん

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姉妹しまい都市とし

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Popolazione residente per sesso, età e stato civile al 1° gennaio 2024” (イタリア). 国立こくりつ統計とうけい研究所けんきゅうじょ(ISTAT). 2024ねん5がつ4にち閲覧えつらんメニューでVista per singola areaを選択せんたく。Anno:2024, Ripartizione:Centro, Regione:Toscana, Provincia:Pisa, Comune:Pisa を選択せんたく
  2. ^ a b Database di informazioni sui comuni italiani”. 2024ねん5がつ4にち閲覧えつらん
  3. ^ 国立こくりつ統計とうけい研究所けんきゅうじょ(ISTAT). “Tavola: Popolazione residente - Pisa (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.” (イタリア). 2013ねん11月11にち閲覧えつらん
  4. ^ 国立こくりつ統計とうけい研究所けんきゅうじょ(ISTAT). “Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Pisa (dettaglio comunale) - Censimento 2001.” (イタリア). 2013ねん11月11にち閲覧えつらん
  5. ^ Selve Costiere di Toscana Biosphere Reserve, Italy” (英語えいご). UNESCO (2019ねん4がつ2にち). 2023ねん3がつ30にち閲覧えつらん
  6. ^ Tabella dei gradi/giorno dei Comuni italiani raggruppati per Regione e Provincia”. しん技術ぎじゅつエネルギー環境かんきょうきょく(ENEA) (2011ねん3がつ1にち). 2017ねん1がつ1にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2020ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  7. ^ classificazione sismica aggiornata al aprile 2023” (xls). https://rischi.protezionecivile.gov.it/it/sismico/attivita/classificazione-sismica/. イタリア市民しみん保護ほごきょく. 2023ねん12月16にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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