ミャンマー軍 ぐん (ミャンマーぐん、ビルマ語 ご : တပ်မတော် 、慣用 かんよう ラテン文字 もじ 表記 ひょうき : Tatmadaw、ALA-LC翻 こぼし 字 じ 法 ほう : tapʻ ma toʻ、IPA : [taʔmədɔ̀] タッマドー )は、ミャンマー (ビルマ)の国軍 こくぐん 。
国防省 こくぼうしょう (英語 えいご 版 ばん ) の統括 とうかつ の下 した 、ミャンマー陸軍 りくぐん 、ミャンマー海軍 かいぐん (英語 えいご 版 ばん ) 、ミャンマー空軍 くうぐん (英語 えいご 版 ばん ) からなり、総 そう 兵力 へいりょく は陸軍 りくぐん (37.5万 まん 人 にん )、海軍 かいぐん (1.6万 まん 人 にん )、空軍 くうぐん (1.5万 まん 人 にん )合 あ わせて40.6万 まん 人 にん と言 い われている[ 2] 。有事 ゆうじ の際 さい にはミャンマー警察 けいさつ 軍 ぐん や種々 しゅじゅ の民兵 みんぺい 組織 そしき (ピューソーティー民兵 みんぺい )、国境警備隊 こっきょうけいびたい を含 ふく めることもある。ASEAN の国々 くにぐに の中 なか では、ベトナム人民 じんみん 軍 ぐん に次 つ ぐ兵力 へいりょく を誇 ほこ る。陸軍 りくぐん 中心 ちゅうしん で海軍 かいぐん ・空軍 くうぐん の地位 ちい が低 ひく いというのが、国軍 こくぐん の特徴 とくちょう である。
国内 こくない に民族 みんぞく 紛争 ふんそう を抱 かか える事情 じじょう から、対 たい ゲリラ戦 せん 及 およ び山岳 さんがく 戦 せん を主 おも 任務 にんむ とした軽 けい 歩兵 ほへい 部隊 ぶたい を主力 しゅりょく としている。また、旧 きゅう 東西 とうざい 両 りょう 陣営 じんえい と距離 きょり を置 お き、1962年 ねん の軍事 ぐんじ クーデター以降 いこう はいかなる軍事 ぐんじ 同盟 どうめい も結 むす ばなかったため、外国 がいこく から大 だい 規模 きぼ な軍事 ぐんじ 援助 えんじょ も行 おこな われておらず(わずかに米国 べいこく から対 たい 麻薬 まやく 作戦 さくせん 用 よう として限定 げんてい 量 りょう の装備 そうび が供与 きょうよ された)、長年 ながねん 、軍備 ぐんび は貧相 ひんそう なものだった。しかし、1990年代 ねんだい 以降 いこう は、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく や旧 きゅう 東側 ひがしがわ 諸国 しょこく (ウクライナ 、セルビア など)、インド 、イスラエル 、北朝鮮 きたちょうせん 等 ひとし から主力 しゅりょく 戦車 せんしゃ や歩兵 ほへい 戦闘 せんとう 車 しゃ 、自 じ 走 はし 砲 ほう 、地 ち 対空 たいくう ミサイル などを新旧 しんきゅう 問 と わず大量 たいりょう 購入 こうにゅう し、機甲 きこう 部隊 ぶたい や機械 きかい 化 か 歩兵 ほへい 部隊 ぶたい を新設 しんせつ して増強 ぞうきょう している。
同国 どうこく では独立 どくりつ 直後 ちょくご から少数 しょうすう 民族 みんぞく の独立 どくりつ 闘争 とうそう やビルマ共産党 きょうさんとう (CPB)の反乱 はんらん 、さらに国共 こっきょう 内戦 ないせん に敗 やぶ れた中華民国 ちゅうかみんこく 軍 ぐん の侵入 しんにゅう があり、一時 いちじ は国家 こっか 崩壊 ほうかい の危機 きき に陥 おちい ったが、国軍 こくぐん の反転 はんてん 攻勢 こうせい によって平野 へいや 部 ぶ では1960年代 ねんだい に支配 しはい 権 けん を回復 かいふく した。以降 いこう 、少数 しょうすう 民族 みんぞく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく や共産党 きょうさんとう の武装 ぶそう 組織 そしき は山岳 さんがく 地帯 ちたい を根拠地 こんきょち として闘争 とうそう を継続 けいぞく 、国軍 こくぐん も各 かく 少数 しょうすう 民族 みんぞく 地域 ちいき に完全 かんぜん な支配 しはい 権 けん を確立 かくりつ するほどの決定 けってい 力 りょく を持 も っておらず、膠着 こうちゃく 状態 じょうたい が続 つづ いた。しかし1990年代 ねんだい に入 はい り、諸 しょ 事情 じじょう により少数 しょうすう 民族 みんぞく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく が弱体 じゃくたい 化 か 。1990年代 ねんだい から2010年代 ねんだい にかけて国軍 こくぐん と各 かく 少数 しょうすう 民族 みんぞく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく との停戦 ていせん 合意 ごうい が相次 あいつ いだ。しかし2021年 ねん クーデター 後 こう は再 ふたた び戦闘 せんとう が活発 かっぱつ 化 か している。
後述 こうじゅつ するように、1988年 ねん 以降 いこう 、国軍 こくぐん は近代 きんだい 化 か ・増強 ぞうきょう を進 すす めてきた。しかし、それに留 と まらず、国軍 こくぐん は基地 きち 、防衛 ぼうえい 施設 しせつ 、商業 しょうぎょう 企業 きぎょう 、教育 きょういく 機関 きかん 、医療 いりょう センター、研究 けんきゅう 施設 しせつ などの広大 こうだい な人的 じんてき ・物的 ぶってき ネットワークを構築 こうちく して、「国家 こっか 内 ない 国家 こっか 」の様相 ようそう を呈 てい しており、国民 こくみん から独立 どくりつ した存在 そんざい となっている。現在 げんざい 、軍人 ぐんじん とその家族 かぞく 、強 つよ い支持 しじ 者 しゃ を含 ふく めた国軍 こくぐん 関係 かんけい 者 しゃ の人口 じんこう は、約 やく 200万 まん 人 にん 、人口 じんこう の4%を占 し めていると言 い われている。国軍 こくぐん 幹部 かんぶ やクローニー と呼 よ ばれる取 と り巻 ま きの企業 きぎょう 家 か たちは、自分 じぶん たちが特別 とくべつ な責任 せきにん と特別 とくべつ な権利 けんり を持 も つ特権 とっけん 階級 かいきゅう だと考 かんが える傾向 けいこう があるが、その一方 いっぽう で、末端 まったん の兵士 へいし たちの待遇 たいぐう は恵 めぐ まれておらず、慢性 まんせい 的 てき に士気 しき が低 ひく く、脱走 だっそう 兵 へい が多 おお いと伝 つた えられている[ 3] 。
2021年 ねん 3月 がつ 27日 にち 国軍 こくぐん 記念 きねん 日 び のパレード。
「タッマドー(Tatmadaw)」という名称 めいしょう は、ミャンマー語 ご で「王立 おうりつ 軍 ぐん 」を意味 いみ する。現在 げんざい 、ミャンマーには王室 おうしつ はないため、「栄光 えいこう 」という意味 いみ と解 かい されている。2021年 ねん のクーデター 以降 いこう 、この名称 めいしょう は国民 こくみん の間 あいだ では使用 しよう を控 ひか えられており、一般 いっぱん には単 たん に「軍 ぐん 」を意味 いみ する「シッタ(Sit-Tat)」という言葉 ことば が使 つか われている[ 4] 。日本 にっぽん の報道 ほうどう では「ミャンマー軍 ぐん 」「ミャンマー国軍 こくぐん 」あるいは単 たん に「国軍 こくぐん 」と呼 よ ばれることが多 おお い。
アウンサン
ミャンマー人 じん の大半 たいはん が仏教徒 ぶっきょうと であるため、軍人 ぐんじん という職業 しょくぎょう は一般 いっぱん にあまり人気 にんき がない。しかし独立 どくりつ 当初 とうしょ はイギリスや日本 にっぽん から独立 どくりつ を勝 か ち取 と ったということで、国軍 こくぐん は国民 こくみん の尊敬 そんけい の念 ねん を集 あつ めていた。国軍 こくぐん の前身 ぜんしん ・ビルマ独立 どくりつ 義勇軍 ぎゆうぐん (BIA)を率 ひき いていたアウンサン (アウンサンスーチー の父 ちち )以下 いか 、30人 にん の同志 どうし たちは、現在 げんざい でも国民 こくみん の英雄 えいゆう である[ 3] 。
独立 どくりつ 後 ご は、ビルマ共産党 きょうさんとう (CPB)や少数 しょうすう 民族 みんぞく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく などの反乱 はんらん から国土 こくど を守 まも ったということで、国民 こくみん の支持 しじ はいっそう高 たか まった。当時 とうじ 、ネウィンは戦力 せんりょく 不足 ふそく を補 おぎな うために、国内 こくない の有力 ゆうりょく 者 しゃ の協力 きょうりょく の下 した 、兵士 へいし を募 つの ったのだが、国軍 こくぐん への支持 しじ が高 たか かったので、比較的 ひかくてき 円滑 えんかつ に行 おこな われたのだという。1958年 ねん ~1960年 ねん のネウィン選挙 せんきょ 管理 かんり 内 ない 閣 かく の評判 ひょうばん も上々 じょうじょう で、1962年 ねん にネウィンがクーデターを起 お こして政権 せいけん を奪取 だっしゅ した時 とき も、政党 せいとう 政治 せいじ の混乱 こんらん を収 おさ めてくれると歓迎 かんげい する声 こえ が多 おお かったのだという[ 3] 。
しかし、ビルマ式 しき 社会 しゃかい 主義 しゅぎ の下 した 、経済 けいざい 状況 じょうきょう ・生活 せいかつ 環境 かんきょう が悪化 あっか すると、国軍 こくぐん の評価 ひょうか は徐々 じょじょ に低下 ていか していき、国軍 こくぐん の呵責 かしゃく のない攻撃 こうげき ・弾圧 だんあつ を受 う けた、国境 こっきょう 地帯 ちたい に住 す む少数 しょうすう 民族 みんぞく の人々 ひとびと は、国軍 こくぐん に対 たい して憎悪 ぞうお さえたぎらせるようになった。それでも8888民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう までは、国民 こくみん は無能 むのう な軍事 ぐんじ 政権 せいけん と国軍 こくぐん を区別 くべつ しており、国軍 こくぐん は庶民 しょみん にも出世 しゅっせ の機会 きかい を与 あた えてくれる貴重 きちょう な存在 そんざい で、国軍 こくぐん 士官 しかん 学校 がっこう (DSA)への志願 しがん 者 しゃ は引 び きも切 き らず、専門 せんもん 性 せい があり、汚職 おしょく が少 すく なく、団結 だんけつ 心 しん が強 つよ いという評価 ひょうか だった[ 3] 。
しかし、8888民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう の際 さい の国軍 こくぐん による激 はげ しい弾圧 だんあつ は、国民 こくみん の幻滅 げんめつ を生 う み、その後 ご のスーチーや政治 せいじ 犯 はん に対 たい して繰 く り返 かえ された人権 じんけん 侵害 しんがい 、2007年 ねん のサフラン革命 かくめい 時 どき の僧侶 そうりょ に対 たい する暴力 ぼうりょく 、2008年 ねん のサイクロン・ナルギス の際 さい の救助 きゅうじょ の遅 おく れは、さらに国軍 こくぐん の評価 ひょうか を低下 ていか させた。ミャンマー政治 せいじ の専門 せんもん 家 か ・中西 なかにし 嘉宏 よしひろ によると、「そもそも民族 みんぞく 解放 かいほう のために戦 たたか った軍隊 ぐんたい として尊敬 そんけい を集 あつ めていた国軍 こくぐん が、民衆 みんしゅう の抑圧 よくあつ 者 しゃ と認識 にんしき されるようになったことに対 たい する問題 もんだい 意識 いしき は軍 ぐん 内 ない でも広 ひろ がっていた[ 5] 」のだという[ 3] 。
これに対 たい して国軍 こくぐん は歴史 れきし 教育 きょういく において愛国心 あいこくしん を強調 きょうちょう したり、連邦 れんぽう 団結 だんけつ 発展 はってん 協会 きょうかい (USDA)などさまざまな国軍 こくぐん 派 は の社会 しゃかい 団体 だんたい を結成 けっせい したり、全国 ぜんこく 規模 きぼ のプロパガンダキャンペーンを展開 てんかい したりして、国軍 こくぐん の評価 ひょうか 回復 かいふく に努 つと めたが、国民 こくみん 民主 みんしゅ 連盟 れんめい (NLD)が参加 さんか しなかった2010年 ねん 総 そう 選挙 せんきょ を除 のぞ いた、1990年 ねん 総 そう 選挙 せんきょ 、2015年 ねん 総 そう 選挙 せんきょ 、2020年 ねん 総 そう 選挙 せんきょ で国軍 こくぐん 派 は 政党 せいとう が惨敗 ざんぱい したことに鑑 かんが みるに、その効果 こうか は疑 うたが わしい。2021年 ねん のクーデター 以降 いこう は、国軍 こくぐん の評価 ひょうか は最 さい 底辺 ていへん にまで落 お ちこみ、国軍 こくぐん 士官 しかん 学校 がっこう の志願 しがん 者 しゃ も激減 げきげん [ 6] している[ 3] 。
9世紀 せいき から19世紀 せいき までのビルマ王朝 おうちょう の軍隊 ぐんたい を王立 おうりつ 軍 ぐん という。王立 おうりつ 軍 ぐん とは、時 とき 系列 けいれつ 順 じゅん にパガン王朝 おうちょう 、アヴァ王朝 おうちょう 、タウングー王朝 おうちょう 、コンバウン王朝 おうちょう の軍隊 ぐんたい を指 さ す。19世紀 せいき にイギリスに60年 ねん かけて敗 やぶ れるまでの間 あいだ 、王立 おうりつ 軍 ぐん は東南 とうなん アジアでも有数 ゆうすう の軍隊 ぐんたい であった。
王立 おうりつ 軍 ぐん は首都 しゅと と宮殿 きゅうでん を守 まも る数 すう 千 せん 人 にん 規模 きぼ の独立 どくりつ 部隊 ぶたい と、より大 だい 規模 きぼ な徴兵 ちょうへい による戦時 せんじ 軍 ぐん に分 わ かれて組織 そしき される。徴兵 ちょうへい は、戦時 せんじ には地域 ちいき の首長 しゅちょう に管轄 かんかつ 区域 くいき 内 ない の人口 じんこう に基 もと づき予 あらかじ め決 き められた数 かず の兵 へい を提供 ていきょう させる「ahmudan制 せい 」を基盤 きばん としていた。また戦時 せんじ 郡 ぐん には戦 せん 象 ぞう 兵 へい 、騎兵 きへい 、砲兵 ほうへい 、水軍 すいぐん の部隊 ぶたい も含 ふく まれた。
火器 かき は14世紀 せいき に中国 ちゅうごく から初 はじ めて導入 どうにゅう され、何 なん 百 ひゃく 年 ねん もかけて徐々 じょじょ に戦略 せんりゃく へ取 と り入 い れられるようになっていった。ポルトガル製 せい の火縄銃 ひなわじゅう と大砲 たいほう を装備 そうび した最初 さいしょ の特別 とくべつ 部隊 ぶたい は16世紀 せいき に編成 へんせい された。この特別 とくべつ 火器 かき 部隊 ぶたい を除 のぞ けば、通常 つうじょう の徴募 ちょうぼ 兵 へい に対 たい する正式 せいしき な訓練 くんれん はなく、彼 かれ ら徴募 ちょうぼ 兵 へい は自衛 じえい のための基礎 きそ 知識 ちしき と、自前 じまえ の火縄銃 ひなわじゅう の操作 そうさ 習熟 しゅうじゅく を期待 きたい されているだけであった。18世紀 せいき になって欧州 おうしゅう 列強 れっきょう との技術 ぎじゅつ の差 さ が大 おお きくなるにつれ、軍 ぐん は欧州 おうしゅう から売 う り込 こ まれる、より洗練 せんれん された武器 ぶき に依存 いぞん するようになっていった。
王立 おうりつ 軍 ぐん は隣国 りんごく の軍隊 ぐんたい に対 たい する防衛 ぼうえい 力 りょく は保 たも っていたが、より技術 ぎじゅつ 的 てき に進 すす んだ欧州 おうしゅう の軍隊 ぐんたい への対抗 たいこう 力 りょく は劣化 れっか していった。 王立 おうりつ 軍 ぐん は、17世紀 せいき と18世紀 せいき にそれぞれ侵入 しんにゅう したポルトガルとフランスを撃退 げきたい したものの、19世紀 せいき に侵入 しんにゅう した大 だい 英 えい 帝国 ていこく の軍事 ぐんじ 力 りょく には及 およ ばず、第 だい 1次 じ 、第 だい 2 、第 だい 3次 じ 英 えい 緬 はる 戦争 せんそう に敗 やぶ れた。1886年 ねん 1月 がつ 1日 にち 、ビルマ王立 おうりつ 軍 ぐん はイギリス政府 せいふ によって正式 せいしき に解散 かいさん された。
イギリス統治 とうち 下 か のビルマ では、ビルマ植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ は、ビルマ人 じん 兵士 へいし を東 ひがし インド会社 かいしゃ の軍隊 ぐんたい (そして後 ご の英 えい 領 りょう インド陸軍 りくぐん )に採用 さいよう することは避 さ け、代 か わりに既存 きそん のインド人 じん のセポイ とネパール人 じん のグルカ兵 へい に新 あら たな植民 しょくみん 地 ち へ駐屯 ちゅうとん させた。 ビルマ人 じん に対 たい する不信 ふしん 感 かん から、植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ はこの禁令 きんれい を何 なん 十 じゅう 年 ねん も維持 いじ し、代 か わりに先住民 せんじゅうみん のカレン族 ぞく 、カチン族 ぞく 、チン族 ぞく によりに新 あたら しい植民 しょくみん 地 ち 軍 ぐん を編成 へんせい することを模索 もさく した。 1937年 ねん 、植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ は禁令 きんれい を取 と りやめ、ビルマ兵 へい も英 えい 領 りょう インド陸軍 りくぐん に少数 しょうすう で入隊 にゅうたい させるようになった[ 7] 。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の勃発 ぼっぱつ 時 じ 、英 えい 領 りょう インド陸軍 りくぐん で唯一 ゆいいつ のビルマ連隊 れんたい である第 だい 70ビルマライフル連隊 れんたい は、カレン族 ぞく 、カチン族 ぞく 、チン族 ぞく より成 な る3個 こ 大隊 だいたい で構成 こうせい されていた。戦争 せんそう 中 ちゅう 、戦時 せんじ の要請 ようせい により、植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ は禁令 きんれい を緩和 かんわ し、第 だい 70ビルマライフル連隊 れんたい にビルマ大隊 だいたい を、第 だい 85ビルマライフルにビルマ中隊 ちゅうたい を、および7個 こ ビルマ機械 きかい 化 か 輜重 しちょう 中隊 ちゅうたい を編成 へんせい した。更 さら に、ビルマ人 じん を中心 ちゅうしん とした「ビルマ工兵 こうへい (Burma Sappers and Miners)」(戦闘 せんとう 工兵 こうへい )3個 こ 中隊 ちゅうたい と、チン族 ぞく とビルマ人 じん による労働 ろうどう 兵団 へいだん (Royal Pioneer Corps)1個 いっこ 中隊 ちゅうたい も編成 へんせい された。これらの部隊 ぶたい はすべて1917年 ねん に海外 かいがい 任務 にんむ を開始 かいし した。第 だい 70ビルマライフルが警備 けいび 任務 にんむ のためにエジプトで勤務 きんむ する一方 いっぽう 、ビルマ労働 ろうどう 兵団 へいだん はフランスで勤務 きんむ した。ビルマ工兵 こうへい の1個 いっこ 中隊 ちゅうたい は、メソポタミアのティグリス川 がわ の渡河 とか で際立 きわだ った働 はたら きを見 み せた[ 8] [ 9] 。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終 お わると、植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ はビルマ人 じん 兵士 へいし を雇 やと うのをやめ、1個 いっこ 中隊 ちゅうたい だけ残 のこ して他 た は全 すべ て解散 かいさん させ、残 のこ した中隊 ちゅうたい も1925年 ねん までで廃止 はいし された。ビルマ工兵 こうへい の最後 さいご のビルマ中隊 ちゅうたい も1929年 ねん に解散 かいさん した[ 8] 。
代 か わりに、インドの兵士 へいし やその他 た の少数 しょうすう 民族 みんぞく がビルマにおける植民 しょくみん 地 ち 軍 ぐん の主力 しゅりょく として用 もち いられ、その植民 しょくみん 地 ち 軍 ぐん が1930年 ねん から1931年 ねん にかけてサヤー・サン が率 ひき いたようなビルマ民族 みんぞく の反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ するために用 もち いられた。1937年 ねん 4月 がつ 1日 にち 、ビルマは分離 ぶんり された植民 しょくみん 地 ち (イギリス連邦 れんぽう 内 ない の自治領 じちりょう )となり 、ビルマ人 じん にも軍隊 ぐんたい に加 くわ わる資格 しかく が与 あた えられたが、ビルマ人 じん はほとんど入隊 にゅうたい しなかった。 第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が始 はじ まる前 まえ 、イギリス統治 とうち 下 か のビルマ軍 ぐん は、イギリス人 じん の将校 しょうこう 団 だん を除 のぞ くと、カレン族 ぞく (27.8%)、チン族 ぞく (22.6%)、カチン族 ぞく (22.9%)、ビルマ人 じん 12.3%で構成 こうせい されていた[ 10] 。
1941年 ねん 12月、大日本帝国 だいにっぽんていこく の助力 じょりょく を得 え て、 30人 にん の同志 どうし がビルマ独立 どくりつ 義勇軍 ぎゆうぐん (BIA)を創設 そうせつ した。ビルマ独立 どくりつ 義勇軍 ぎゆうぐん はアウンサンが率 ひき い、大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん 側 がわ に立 た ってビルマの戦 たたか い に参戦 さんせん した。多 おお くの若者 わかもの がその部隊 ぶたい に加 くわ わり、信頼 しんらい できる推定 すいてい によればその数 かず は15,000人 にん から23,000人 にん の範囲 はんい とされている。新兵 しんぺい の大 だい 部分 ぶぶん はビルマ人 じん であったが、少数 しょうすう 民族 みんぞく はほとんどいなかった。新兵 しんぺい の多 おお くは規律 きりつ に欠 か けていた。エーヤワディー川 がわ デルタ地域 ちいき のミャウンミャ ではBIAのビルマ人 じん 兵 へい とカレン族 ぞく の間 あいだ で民族 みんぞく 紛争 ふんそう が勃発 ぼっぱつ し、双方 そうほう が虐殺 ぎゃくさつ 行為 こうい に及 およ んだ。BIAはすぐにビルマ防衛 ぼうえい 軍 ぐん に置 お き換 か えられ、1942年 ねん 8月 がつ 26日 にち に3千 せん 人 にん のBIA古参 こさん 兵 へい により設立 せつりつ された。ビルマが名目 めいもく 上 じょう の独立 どくりつ を達成 たっせい した1943年 ねん 8月 がつ 1日 にち 、軍 ぐん はネウィン を指揮 しき 官 かん とするビルマ国民 こくみん 軍 ぐん となった。1944年 ねん 後半 こうはん には、約 やく 15,000人 にん の兵力 へいりょく があった[ 11] 。その後 ご 、ビルマ国民 こくみん 軍 ぐん は、形勢 けいせい が不利 ふり となった日本 にっぽん との関係 かんけい を断 た ち切 き るために、1945年 ねん 3月 がつ 27日 にち に連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ に加 くわ わった。なお3月 がつ 27日 にち は対 たい 日 にち 蜂起 ほうき を記念 きねん して国軍 こくぐん 記念 きねん 日 び となっている。
1945年 ねん 9月 がつ のアウンサンと連合 れんごう 軍 ぐん との間 あいだ で結 むす ばれたキャンディ 協定 きょうてい に従 したが い、英 えい 領 りょう ビルマ軍 ぐん とビルマ愛国 あいこく 軍 ぐん を統合 とうごう してミャンマー軍 ぐん (以下 いか 、国軍 こくぐん )が編成 へんせい された。その将校 しょうこう 団 だん は、ビルマ愛国 あいこく 軍 ぐん の将校 しょうこう 、英 えい 領 りょう ビルマ軍 ぐん の将校 しょうこう 、およびビルマ予備 よび 軍 ぐん (ABRO)の将校 しょうこう たちであった。また、植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ は、民族 みんぞく 的 てき 背景 はいけい に基 もと づいた「クラス大隊 だいたい 」というものの創設 そうせつ を決 き めた。独立 どくりつ 当時 とうじ は合計 ごうけい 15個 こ ライフル大隊 だいたい があり、そのうち4個 こ はビルマ愛国 あいこく 軍 ぐん 出身 しゅっしん 者 しゃ で構成 こうせい されていた。しかし、元 もと ビルマ愛国 あいこく 軍 ぐん の将校 しょうこう は、軍務 ぐんむ 局 きょく (War Office)や司令 しれい 部 ぶ 内 ない の影響 えいきょう 力 りょく のある役職 やくしょく には全 まった く任命 にんめい されず、工兵 こうへい 、補給 ほきゅう 、輸送 ゆそう 、兵器 へいき 、衛生 えいせい 、海軍 かいぐん 、空軍 くうぐん を含 ふく む全 すべ ての兵科 へいか は、ビルマ予備 よび 軍 ぐん と英 えい 領 りょう ビルマ軍 ぐん の元 もと 将校 しょうこう によって指揮 しき されていた[要 よう 出典 しゅってん ] 。1948年 ねん のミャンマー独立 どくりつ 時 じ 、国軍 こくぐん は弱小 じゃくしょう で結束 けっそく も弱 よわ く、民族 みんぞく 的 てき 背景 はいけい 、政治 せいじ 的 てき 背景 はいけい 、組織 そしき の由来 ゆらい 、兵科 へいか の違 ちが いによって亀裂 きれつ が生 しょう じていた。中 なか でも最 もっと も深刻 しんこく な問題 もんだい は、英 えい 領 りょう ビルマ軍 ぐん からのカレン族 ぞく 将校 しょうこう とビルマ愛国 あいこく 軍 ぐん (PBF)から来 き たビルマ族 ぞく 将校 しょうこう の間 あいだ の緊張 きんちょう であった。[要 よう 出典 しゅってん ]
1948年 ねん のミャンマー軍 ぐん の民族 みんぞく 系統 けいとう と部隊 ぶたい 構成 こうせい [ 12]
大隊 だいたい
民族 みんぞく / 軍隊 ぐんたい 構成 こうせい
第 だい 1ビルマライフル
ビルマ族 ぞく (軍事 ぐんじ 警察 けいさつ +アウンサンのビルマ愛国 あいこく 軍 ぐん と連携 れんけい したタウングー ゲリラ集団 しゅうだん の構成 こうせい 員 いん )
第 だい 2ビルマライフル
2個 こ カレン族 ぞく 中隊 ちゅうたい +1個 いっこ チン族 ぞく 中隊 ちゅうたい +1個 いっこ カチン族 ぞく 中隊 ちゅうたい
第 だい 3ビルマライフル
ビルマ族 ぞく / 元 もと ビルマ愛国 あいこく 軍 ぐん – 指揮 しき 官 かん チョーゾー(Kyaw Zaw )少佐 しょうさ BC-3504
第 だい 4ビルマライフル
ビルマ族 ぞく / 元 もと ビルマ愛国 あいこく 軍 ぐん – 指揮 しき 官 かん ネウィン(Ne Win)中佐 ちゅうさ BC-3502
第 だい 5ビルマライフル
ビルマ族 ぞく / 元 もと ビルマ愛国 あいこく 軍 ぐん – 指揮 しき 官 かん ゼヤ(Zeya)中佐 ちゅうさ BC-3503
第 だい 6ビルマライフル
1947年 ねん 後半 こうはん にアウンサンが暗殺 あんさつ された後 のち に編成 へんせい された。ビルマ族 ぞく / 元 もと ビルマ愛国 あいこく 軍 ぐん – 初代 しょだい 指揮 しき 官 かん はゼヤ(Zeya)中佐 ちゅうさ
第 だい 1カレンライフル
カレン族 ぞく / 元 もと 英 えい 領 りょう ビルマ軍 ぐん と元 もと ビルマ予備 よび 軍 ぐん
第 だい 2カレンライフル
カレン族 ぞく /元 もと 英 えい 領 りょう ビルマ軍 ぐん と元 もと ビルマ予備 よび 軍 ぐん
第 だい 3カレンライフル
カレン族 ぞく /元 もと 英 えい 領 りょう ビルマ軍 ぐん と元 もと ビルマ予備 よび 軍 ぐん
第 だい 1カチンライフル
チンポー族 ぞく /元 もと 英 えい 領 りょう ビルマ軍 ぐん と元 もと ビルマ予備 よび 軍 ぐん
第 だい 2カチンライフル
カチン族 ぞく /元 もと 英 えい 領 りょう ビルマ軍 ぐん と元 もと ビルマ予備 よび 軍 ぐん
第 だい 1チンライフル
チン族 ぞく /元 もと 英 えい 領 りょう ビルマ軍 ぐん と元 もと ビルマ予備 よび 軍 ぐん
第 だい 2チンライフル
チン族 ぞく /元 もと 英 えい 領 りょう ビルマ軍 ぐん と元 もと ビルマ予備 よび 軍 ぐん
第 だい 4ビルマ連隊 れんたい
ビルマグルカ
チン丘陵 きゅうりょう 大隊 だいたい
チン族 ぞく
軍務 ぐんむ 局 きょく の参謀 さんぼう と指揮 しき 官 かん の配置 はいち (1948)[ 13]
官職 かんしょく
氏名 しめい と階級 かいきゅう
民族 みんぞく
総 そう 参謀 さんぼう 長 ちょう
中将 ちゅうじょう スミス・ドン ( Smith Dun) BC 5106
カレン族 ぞく
陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう
准 じゅん 将 はた Saw Kyar Doe BC 5107
カレン族 ぞく
空軍 くうぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう
中佐 ちゅうさ Saw Shi Sho BAF-1020
カレン族 ぞく
海軍 かいぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう
中佐 ちゅうさ Khin Maung Bo
ビルマ族 ぞく
北 きた ビルマ地区 ちく 司令 しれい 官 かん
准 じゅん 将 はた ネウィン( Ne Win) BC 3502
ビルマ族 ぞく
南 みなみ ビルマ地区 ちく 司令 しれい 官 かん
准 じゅん 将 はた Aung Thin BC 5015
ビルマ族 ぞく
第 だい 1歩兵 ほへい 師 し 団長 だんちょう
准 じゅん 将 はた Saw Chit Khin
カレン族 ぞく
軍政 ぐんせい 総監 そうかん
中佐 ちゅうさ Kyaw Win
ビルマ族 ぞく
法務 ほうむ 総監 そうかん
大佐 たいさ Maung Maung BC 4034
ビルマ族 ぞく
主計 しゅけい 総監 そうかん
中佐 ちゅうさ Saw Donny
カレン族 ぞく
独立 どくりつ の英雄 えいゆう として名高 なだか いアウンサン以下 いか いわゆる”30人 にん の同志 どうし ”が、現在 げんざい の国軍 こくぐん の礎 いしずえ を築 きず いたと思 おも われがちだが、新 しん 生国 しょうごく 軍 ぐん に残 のこ ったのはネウィン、チョーゾー(Kyaw Zaw)、ボー・バラ(Bo Bala)の3人 にん だけで、そのチョーゾーにしても1957年 ねん に失脚 しっきゃく 後 ご 、ビルマ共産党 きょうさんとう (CPB)に参加 さんか しており、残 のこ りのメンバーも多 おお くがその後 ご 反 はん 政府 せいふ 運動 うんどう に転 てん じている。ボー・ラ・ヤウン(Bo La Yaung )とボー・タヤ(Bo Taya)はPVOの反乱 はんらん に参加 さんか 、ボー・ゼヤ(Bo Zeya)、ボー・イェトゥット(Bo Ye Htut)、ボー・ヤン・アウン(Bo Yan Aung)はCPBに参加 さんか 、ボー・レット・ヤー(Bo Let Ya)、ボー・ヤン・ナイン、ボー・ムー・アウン(Bo Hmu Aung)、ボー・セキャ(Bo Setkya)はウー・ヌ がタイ国境 こっきょう で結成 けっせい した反 はん 政府 せいふ 武装 ぶそう 組織 そしき ・議会 ぎかい 制 せい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 党 とう (PDP)に参加 さんか した。1988年 ねん 民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう の際 さい には30人 にん の同志 どうし の生 い き残 のこ り11人 にん のうち9人 にん がネウィンを糾弾 きゅうだん し、デモへの参加 さんか を呼 よ びかけた。このようにアウンサンスーチーが「父 ちち の軍隊 ぐんたい 」と呼 よ んだ国軍 こくぐん は、アウンサンが率 ひき いた国軍 こくぐん とはまったく異質 いしつ なものだった[ 14] 。
1948年 ねん 1月 がつ 4日 にち の独立 どくりつ 直後 ちょくご からCPB、カレン族 ぞく 、国軍 こくぐん 内 ない のカレン族 ぞく 兵士 へいし やCPBに同調 どうちょう した勢力 せいりょく などが反乱 はんらん を起 お こし、ミャンマーは内戦 ないせん 状態 じょうたい となった。この状況 じょうきょう でウー・ヌ首相 しゅしょう は。国軍 こくぐん 内 ない のカレン族 ぞく 将校 しょうこう ・兵士 へいし を全員 ぜんいん 解雇 かいこ し、代 か わりにネウィンを陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう に任命 にんめい 。これにて国軍 こくぐん から英 えい 植民 しょくみん 地 ち 軍 ぐん の影響 えいきょう が一掃 いっそう された。
ネウィンが率 ひき いていた第 だい 4ビルマ・ライフル部隊 ぶたい には社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ が多 おお く、”社会 しゃかい 主義 しゅぎ 部隊 ぶたい ”と呼 よ ばれていたが、1948年 ねん から1950年 ねん にかけての反乱 はんらん ・離反 りはん 鎮圧 ちんあつ の際 さい にもほぼ唯一 ゆいいつ 無傷 むきず で残 のこ った部隊 ぶたい となり、国軍 こくぐん の中核 ちゅうかく となっただけでなく、1962年 ねん にクーデターで成立 せいりつ したネウィン軍事 ぐんじ 独裁 どくさい 政権 せいけん でも件 けん の部隊 ぶたい 出身 しゅっしん 者 しゃ が要職 ようしょく を占 し め、ミャンマーの歴史 れきし に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼした。軍事 ぐんじ 独裁 どくさい 政権 せいけん の最高 さいこう 権力 けんりょく 機関 きかん ・革命 かくめい 評議 ひょうぎ 会 かい は”第 だい 4ビルマ・ライフル部隊 ぶたい 政権 せいけん ”と呼 よ ばれたほどである。革命 かくめい 評議 ひょうぎ 会 かい No.2だったアウンジー、ネウィンの片腕 かたうで だったティンペ(Tin Pe)、チャウソー(Kyaw Soe)、1988年 ねん 民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう の最中 さいちゅう 17日間 にちかん だけ大統領 だいとうりょう を務 つと めたセインルイン (Sein Lwin)、1976年 ねん から1985年 ねん まで陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう 、1976年 ねん から1988年 ねん まで国防 こくぼう 相 しょう を務 つと めたチョーティン(Kyaw Htin)、1988年 ねん にビルマ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 計画 けいかく 党 とう (BSPP)から改名 かいめい した国民 こくみん 統一 とういつ 党 とう (NUP)初代 しょだい 党首 とうしゅ ・ウー・タギャウ(U Tha Gyaw)、ネウィンの専用 せんよう コックで、強大 きょうだい な権力 けんりょく を有 ゆう したラジュー(Raju)というインド人 じん 、皆 みな 、第 だい 4ビルマ・ライフル部隊 ぶたい 出身 しゅっしん である[ 14] 。
選挙 せんきょ 管理 かんり 内 ない 閣 かく (1958年 ねん ~1960年 ねん )
編集 へんしゅう
ネウィン
独立 どくりつ 後 ご のミャンマーの政治 せいじ は、反 はん ファシスト人民 じんみん 自由 じゆう 連盟 れんめい (AFPFL)が圧倒的 あっとうてき 多数 たすう 与党 よとう だったが、腐敗 ふはい と権力 けんりょく 闘争 とうそう がひどく、1957年 ねん にはウー・ヌの清廉 せいれん 派 は AFPFLとバー・スエ らビルマ社会党 しゃかいとう のメンバーからなる安定 あんてい 派 は AFPFLに分裂 ぶんれつ 。数 かず 的 てき に劣 おと っていたウー・ヌの清廉 せいれん 派 は は最大 さいだい 野党 やとう の左派 さは 勢力 せいりょく ・民族 みんぞく 党 とう 一 いち 戦線 せんせん (NUF)を取 と り込 こ むために左傾 さけい 化 か し、反 はん 政府 せいふ 武装 ぶそう 勢力 せいりょく に恩赦 おんしゃ 令 れい を出 だ したり、AFPFLの民兵 みんぺい 組織 そしき ・人民 じんみん 義勇軍 ぎゆうぐん (PVO)を合法 ごうほう 化 か したりした。ウー・ヌのこうした態度 たいど に国軍 こくぐん の一部 いちぶ が反発 はんぱつ 、北部 ほくぶ 軍 ぐん 管区 かんく 司令 しれい 部 ぶ がクーデターを計画 けいかく した。南部 なんぶ 軍 ぐん 管区 かんく 司令 しれい 部 ぶ はクーデターに反対 はんたい していたので、これは国軍 こくぐん 分裂 ぶんれつ の危機 きき でもあった。計画 けいかく を事前 じぜん に察知 さっち したマウンマウン やアウンジーなどの国軍 こくぐん 幹部 かんぶ は両者 りょうしゃ の間 あいだ を取 と り持 も つために奔走 ほんそう 。最終 さいしゅう 的 てき に1959年 ねん 4月 がつ 末 まつ までに総 そう 選挙 せんきょ を行 おこな うことを条件 じょうけん にネウィン国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん にに政権 せいけん 移譲 いじょう することで両者 りょうしゃ の合意 ごうい を取 と りつけ、1958年 ねん 10月 がつ 、ネウィン選挙 せんきょ 管理 かんり 内 ない 閣 かく が成立 せいりつ した。件 けん の内閣 ないかく は、武装 ぶそう 勢力 せいりょく 鎮圧 ちんあつ と治安 ちあん 回復 かいふく 、物価 ぶっか の引 ひ き下 さ げ、行政 ぎょうせい 機構 きこう の刷新 さっしん 、ヤンゴンの美化 びか 、シャン州 しゅう ・カレンニー州 しゅう の土 ど 侯 こう の伝統 でんとう 的 てき 世襲 せしゅう 特権 とっけん の廃止 はいし 、中国 ちゅうごく との国境 こっきょう 画定 かくてい などそれなりの実績 じっせき を出 だ しつつ、約束 やくそく どおり1960年 ねん 2月 がつ の総 そう 選挙 せんきょ に勝利 しょうり した清廉 せいれん 派 は に政権 せいけん を返還 へんかん した。この功績 こうせき によりネウィンはアジアにおける社会 しゃかい 貢献 こうけん など傑出 けっしゅつ した功績 こうせき を果 は たした個人 こじん ・団体 だんたい に贈 おく られるマグサイサイ賞 しょう の候補 こうほ に上 あ がった[ 15] 。
しかし、この清廉 せいれん 派 は 内閣 ないかく も安定 あんてい せず、結局 けっきょく 、1962年 ねん 3月 がつ 2日 にち 、ネウィンはクーデターを決行 けっこう 、ウー・ヌ以下 いか 各 かく 閣僚 かくりょう 、ヤンゴンで開催 かいさい されていた連邦 れんぽう セミナーに出席 しゅっせき していたシャン州 しゅう とカレンニー州 しゅう の議員 ぎいん たちを拘束 こうそく した。ネウィンがクーデターを起 お こした理由 りゆう については、シャン州 しゅう の土 ど 侯 こう たちが中心 ちゅうしん になって展開 てんかい していた「真 しん の連邦 れんぽう 制 せい 」を求 もと める運動 うんどう が、連邦 れんぽう 分裂 ぶんれつ をもたらしかねないと危機 きき 感 かん を抱 だ いていたためとも言 い われるが(ミャンマー内戦 ないせん #政界 せいかい の混乱 こんらん と連邦 れんぽう 分裂 ぶんれつ の危機 きき )、中西 なかにし 嘉宏 よしひろ は、件 けん の運動 うんどう は自治 じち 権 けん 拡大 かくだい を主張 しゅちょう する穏健 おんけん なものであり、連邦 れんぽう 分裂 ぶんれつ の危機 きき が迫 せま っていたわけではないとこの説 せつ に否定 ひてい 的 てき である[ 16] 。
ビルマ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 計画 けいかく 党 とう (BSPP)時代 じだい (1962年 ねん ~1988年 ねん )
編集 へんしゅう
初代 しょだい 革命 かくめい 評議 ひょうぎ 会議 かいぎ 員 いん の階級 かいきゅう とポスト[ 17]
役職 やくしょく
名前 なまえ
階級 かいきゅう (軍 ぐん 種 しゅ )
ポスト
議長 ぎちょう
ネウィン
将軍 しょうぐん (陸軍 りくぐん )
国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん
議員 ぎいん
アウンジー
准 じゅん 将 はた (陸軍 りくぐん )
陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう
議員 ぎいん
タンペ
准 じゅん 将 はた (海軍 かいぐん )
海軍 かいぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう
議員 ぎいん
T.クリフ
准 じゅん 将 はた (空軍 くうぐん )
空軍 くうぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう
議員 ぎいん
ティンペ
准 じゅん 将 はた (陸軍 りくぐん )
国軍 こくぐん 司令 しれい 部 ぶ 兵站 へいたん 局長 きょくちょう
議員 ぎいん
タンセイン
大佐 たいさ (陸軍 りくぐん )
国軍 こくぐん 司令 しれい 部 ぶ 陸軍 りくぐん 高級 こうきゅう 参謀 さんぼう
議員 ぎいん
チョーソー
大佐 たいさ (陸軍 りくぐん )
国軍 こくぐん 司令 しれい 部 ぶ 人事 じんじ 局長 きょくちょう
議員 ぎいん
チッミャイン
大佐 たいさ (陸軍 りくぐん )
国軍 こくぐん 司令 しれい 部 ぶ 副 ふく 兵站 へいたん 局長 きょくちょう
議員 ぎいん
キンニョー
大佐 たいさ (陸軍 りくぐん )
国軍 こくぐん 司令 しれい 部 ぶ 訓練 くんれん 局長 きょくちょう
議員 ぎいん
フラハン
大佐 たいさ (陸軍 りくぐん )
国軍 こくぐん 司令 しれい 部 ぶ 医務 いむ 局長 きょくちょう
議員 ぎいん
サンユ
准 じゅん 将 はた (陸軍 りくぐん )
西北 せいほく 軍 ぐん 管区 かんく 司令 しれい 官 かん
議員 ぎいん
セインウィン
准 じゅん 将 はた (陸軍 りくぐん )
中央 ちゅうおう 軍 ぐん 管区 かんく 司令 しれい 官 かん
議員 ぎいん
タウンチー
大佐 たいさ (陸軍 りくぐん )
東南 とうなん 軍 ぐん 管区 かんく 司令 しれい 官 かん
議員 ぎいん
チマウン
大佐 たいさ (陸軍 りくぐん )
西南 せいなん 軍 ぐん 管区 かんく 司令 しれい 官 かん
議員 ぎいん
マウンシュエ
大佐 たいさ (陸軍 りくぐん )
東部 とうぶ 軍 ぐん 管区 かんく 司令 しれい 官 かん
議員 ぎいん
ソーミン
大佐 たいさ (陸軍 りくぐん )
国境 こっきょう 地域 ちいき 行政 ぎょうせい 官 かん
議員 ぎいん
タンユサイン
大佐 たいさ (陸軍 りくぐん )
人民 じんみん 警察 けいさつ 副 ふく 長官 ちょうかん
クーデターを起 お こしたネウィンは、国会 こっかい の解散 かいさん 、1947年 ねん 憲法 けんぽう の停止 ていし 、ウー・ヌ以下 いか 主要 しゅよう 閣僚 かくりょう の逮捕 たいほ ・拘束 こうそく を断行 だんこう して、『ビルマ式 しき 社会 しゃかい 主義 しゅぎ への道 みち 』[ 18] を発表 はっぴょう し、ビルマ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 計画 けいかく 党 とう (BSPP)を結成 けっせい して一 いち 党 とう 独裁 どくさい と国有 こくゆう 化 か を特徴 とくちょう とする社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国家 こっか の建設 けんせつ を目指 めざ した。しかし、BSPPが本格 ほんかく 始動 しどう するのは1971年 ねん からであり、それまでは革命 かくめい 評議 ひょうぎ 会 かい という組織 そしき に全 ぜん 権力 けんりょく が集中 しゅうちゅう した。その構成 こうせい は、1962年 ねん 時点 じてん の陸軍 りくぐん 12万 まん 人 にん 、海軍 かいぐん 3000人 にん 、空軍 くうぐん 2500人 にん という兵力 へいりょく を反映 はんえい して、陸軍 りくぐん の圧倒的 あっとうてき 優位 ゆうい だった。
国軍 こくぐん はネウィンの権力 けんりょく の源泉 げんせん であるとともに脅威 きょうい でもあった。ゆえに革命 かくめい 評議 ひょうぎ 会 かい には側近 そっきん とともに、実際 じっさい に戦場 せんじょう で反乱 はんらん 軍 ぐん 鎮圧 ちんあつ に当 あ たっている地方 ちほう 司令 しれい 官 かん を採用 さいよう し、他 ほか にもBSPPや国家 こっか 評議 ひょうぎ 会 かい 、大臣 だいじん 、副 ふく 大臣 だいじん 、人民 じんみん 評議 ひょうぎ 会 かい などの行政 ぎょうせい の要職 ようしょく に国軍 こくぐん 将校 しょうこう を配置 はいち して、その懐柔 かいじゅう を図 はか った[ 19] 。ネウィンはBSPPを真 しん の人民 じんみん 政党 せいとう にすべく、党 とう と国軍 こくぐん の分離 ぶんり を図 はか ったが、結局 けっきょく 、軍務 ぐんむ 組 ぐみ の巻 ま き返 かえ しにあって失敗 しっぱい した(ビルマ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 計画 けいかく 党 とう #1974年 ねん の民政 みんせい 移管 いかん )。また行政 ぎょうせい の要職 ようしょく に国軍 こくぐん 将校 しょうこう を配置 はいち したことにより、英 えい 植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい から連綿 れんめん と続 つづ いてきた官僚 かんりょう 機構 きこう の伝統 でんとう と能力 のうりょく は失 うしな われ、現在 げんざい に至 いた る官僚 かんりょう の人材 じんざい 不足 ふそく に繋 つな がっていると言 い われる[ 20] 。
また国軍 こくぐん は、後述 こうじゅつ する人民 じんみん 戦争 せんそう 理論 りろん にもとづく軍事 ぐんじ ドクトリンの下 した 、人民 じんみん 軍 ぐん としてのイメージが強調 きょうちょう され、プロパガンダでは、軍人 ぐんじん と農民 のうみん 、労働 ろうどう 者 しゃ 、少数 しょうすう 民族 みんぞく 、女性 じょせい との協調 きょうちょう が強調 きょうちょう されていた[ 21] 。この人民 じんみん 軍 ぐん のイメージの下 した 、党 とう による国軍 こくぐん の統制 とうせい が試 こころ みられ、国防省 こくぼうしょう に党 とう 中央 ちゅうおう 委員 いいん からなる国軍 こくぐん 党 とう 委員 いいん 会 かい が設置 せっち された他 ほか 、参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 、軍 ぐん 管区 かんく 司令 しれい 部 ぶ 、師団 しだん 司令 しれい 部 ぶ 、軍 ぐん 地区 ちく 、駐屯 ちゅうとん 基地 きち 、基地 きち 司令 しれい 部 ぶ 、大隊 だいたい 、部隊 ぶたい レベルで党 とう 組織 そしき 化 か 委員 いいん 会 かい が設置 せっち された。しかしこれらの委員 いいん 会 かい は現役 げんえき 将校 しょうこう だけから構成 こうせい され、党 とう から派遣 はけん された政治 せいじ 将校 しょうこう が部隊 ぶたい レベルの意思 いし 決定 けってい に関与 かんよ するコミッサール制 せい は採 と られず、党 とう による国軍 こくぐん の統制 とうせい は限定 げんてい 的 てき なものに留 とど まった。むしろ既 すで に退役 たいえき してBSPP議長 ぎちょう と大統領 だいとうりょう の職 しょく にあったネウィンが、件 けん の制度 せいど を利用 りよう して国軍 こくぐん を統制 とうせい するものとして機能 きのう した[ 22] 。ただただネウィンは個人 こじん 崇拝 すうはい を嫌 きら い、親族 しんぞく を優遇 ゆうぐう することもなかった。この姿勢 しせい はその後 ご のSLORC/SPDC、SACにも引 ひ き継 つ がれている。ミャンマーの軍事 ぐんじ 独裁 どくさい は、個人 こじん 独裁 どくさい と制度 せいど 独裁 どくさい が組 く み合 あ わされたものであり、総 そう じて、ネウィン時代 じだい のミャンマーは、現在 げんざい にも通 つう じる国家 こっか が国軍 こくぐん に従属 じゅうぞく する関係 かんけい が深化 しんか した時代 じだい だった。
1985年 ねん 11月、ソウマウン が国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん に、タンシュエ が陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 長 ちょう に就任 しゅうにん した。2人 ふたり とも士官 しかん 訓練 くんれん 学校 がっこう (OTS)出身 しゅっしん の比較的 ひかくてき 若 わか い世代 せだい であり、世代 せだい 交代 こうたい が進 すす まないBSPP幹部 かんぶ とは対照 たいしょう 的 てき な人事 じんじ だった。そして1988年 ねん 9月 がつ 、8888民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう による混乱 こんらん を機 き に、国軍 こくぐん はクーデターを起 お こし、憲法 けんぽう も議会 ぎかい も停止 ていし して、国軍 こくぐん 幹部 かんぶ 19人 にん からなる国家 こっか 秩序 ちつじょ 回復 かいふく 評議 ひょうぎ 会 かい (SLORC) が設置 せっち され、ソウマウンが議長 ぎちょう の座 ざ に就 つ いた。中西 なかにし 嘉宏 よしひろ は、このクーデターを現役 げんえき 将校 しょうこう による退役 たいえき 将校 しょうこう の追 お い落 お としという側面 そくめん があったと指摘 してき している[ 23] 。
SLORC/SPDC時代 じだい (1988年 ねん ~2010年 ねん )
編集 へんしゅう
タンシュエ
比較的 ひかくてき 若 わか い現役 げんえき 将校 しょうこう ばかりからなるSLORCは、①連邦 れんぽう 分裂 ぶんれつ 阻止 そし ②諸 しょ 民族 みんぞく 分裂 ぶんれつ 阻止 そし ③国家 こっか 主権 しゅけん 堅持 けんじ という3つの国家 こっか 的 てき 大義 たいぎ を掲 かか げ、国名 こくめい も「ビルマ連邦 れんぽう 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 」から「ビルマ連邦 れんぽう 」、そして「ミャンマー連邦 れんぽう 」に変更 へんこう し、経済 けいざい の自由 じゆう 化 か 、少数 しょうすう 民族 みんぞく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく との停戦 ていせん 合意 ごうい 、アウンサンスーチー 率 ひき いる民主 みんしゅ 派 は に対 たい する弾圧 だんあつ と意欲 いよく 的 てき に国家 こっか 体制 たいせい の立 た て直 なお しを図 はか った[ 24] 。1988年 ねん にはSLORCは国家 こっか 平和 へいわ 発展 はってん 評議 ひょうぎ 会 かい (SPDC)に改組 かいそ し、タンシュエが議長 ぎちょう となった。
SLORCもSPDCもメンバーは全員 ぜんいん 国軍 こくぐん 幹部 かんぶ で、SLORC/SPDCの他 ほか に設 もう けられた内閣 ないかく のメンバーもほとんどが現役 げんえき 将校 しょうこう で、退役 たいえき 将校 しょうこう の影 かげ が薄 うす いのはBSPPとの違 ちが いだった[ 24] 。また兼任 けんにん も多 おお く、ソウマウンは国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん 、SLORC議長 ぎちょう 、首相 しゅしょう を兼任 けんにん し、タンシュエも国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん 、SPCD議長 ぎちょう 、首相 しゅしょう を引 ひ き継 つ いでいた。意思 いし 決定 けってい の透明 とうめい 性 せい が低 ひく く、スピードが遅 おそ いのが特徴 とくちょう で、通常 つうじょう 、軍人 ぐんじん がクーデターを起 お こした政権 せいけん を獲 え った後 のち は、徐々 じょじょ に文民 ぶんみん が政権 せいけん 入 い りするケースが多 おお いところ、SLORC/SPDCは軍人 ぐんじん 中心 ちゅうしん の体制 たいせい が20年 ねん 以上 いじょう も続 つづ くという世界 せかい 的 てき にも稀有 けう な例 れい だった[ 25] 。
SLORC/SPDCは「現代 げんだい 的 てき 条件下 じょうけんか での人民 じんみん 戦争 せんそう 理論 りろん 」という新 あたら しい軍事 ぐんじ ドクトリンの下 した 、国軍 こくぐん 改革 かいかく にも乗 の り出 だ した。国防 こくぼう 予算 よさん を拡大 かくだい して、兵力 へいりょく を40万 まん 人 にん まで増強 ぞうきょう 、将校 しょうこう も1期 き 2000人 にん ほどに大幅 おおはば 増強 ぞうきょう 、軍 ぐん の特別 とくべつ 作戦 さくせん 部 ぶ が2から6へ、軍 ぐん 管区 かんく が9から13へ、歩兵 ほへい 師団 しだん が8から10へ、大隊 だいたい は165個 こ 大隊 だいたい から606個 こ 大隊 だいたい まで増加 ぞうか した。また兵器 へいき も増強 ぞうきょう し、中国 ちゅうごく やロシアなどから最新 さいしん 兵器 へいき を導入 どうにゅう 、これまで軽視 けいし してきた海軍 かいぐん ・空軍 くうぐん の軍備 ぐんび も強化 きょうか した。中西 なかにし 嘉宏 よしひろ は、この動 うご きを「叩 たた き上 あ げの軍人 ぐんじん たちによる、1988年 ねん までの国軍 こくぐん 軽視 けいし に対 たい する反動 はんどう 」と評 ひょう している[ 26] 。その甲斐 かい あって、この時期 じき は独立 どくりつ 後 ご のミャンマーでもっとも平和 へいわ な時期 じき となった[ 24] 。ただ2008年 ねん 憲法 けんぽう 第 だい 338条 じょう 「兵器 へいき を保持 ほじ するすべてのミャンマー国内 こくない の武装 ぶそう 組織 そしき は、国軍 こくぐん の指揮 しき 下 か に置 お かなければならない」にもとづいて行 おこな われた、少数 しょうすう 民族 みんぞく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく の国境警備隊 こっきょうけいびたい (BFG)への編入 へんにゅう は、カチン新 しん 民主 みんしゅ 軍 ぐん (NDA-K)、カレンニー民族 みんぞく 人民 じんみん 解放 かいほう 戦線 せんせん (KNPLF)、民主 みんしゅ カレン仏教徒 ぶっきょうと 軍 ぐん (DKBA)を除 のぞ いて失敗 しっぱい した[ 24] 。国軍 こくぐん 将校 しょうこう の天下 あまくだ り先 さき としては、BSPPはなくなってしまったが、行政 ぎょうせい 機関 きかん やミャンマー・エコノミック・ホールディングス(MEHL) (英語 えいご 版 ばん ) やミャンマー経済 けいざい 公社 こうしゃ (MEC) (英語 えいご 版 ばん ) [ 27] などの国軍 こくぐん 系 けい 企業 きぎょう の主要 しゅよう ポストや、民政 みんせい 移管 いかん 時 じ には上下院 じょうかいん 議員 ぎいん や地方 ちほう 議会 ぎかい の軍人 ぐんじん 枠 わく 、USDPの議席 ぎせき を将校 しょうこう に充 あ てがい、人事 じんじ を円滑 えんかつ に進 すす めた[ 24] 。
こうした中 なか でも民政 みんせい 移管 いかん への準備 じゅんび は進 すす められ、2008年 ねん には新 しん 憲法 けんぽう [ 28] の国民 こくみん 信任 しんにん 投票 とうひょう が行 おこな われ、92.45%の賛成 さんせい 票 ひょう を得 え て採択 さいたく された。2010年 ねん 11月7日 にち 、新 しん 憲法 けんぽう にもとづく総 そう 選挙 せんきょ が実施 じっし され、スーチー率 ひき いる国民 こくみん 民主 みんしゅ 連盟 れんめい (NLD)の不参加 ふさんか もあって、国軍 こくぐん の中堅 ちゅうけん 将校 しょうこう が主要 しゅよう メンバーの連邦 れんぽう 団結 だんけつ 発展 はってん 党 とう (USDP)が圧勝 あっしょう し、テインセイン が大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ された(総 そう 選挙 せんきょ 前 まえ に退役 たいえき )。また新 しん 国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん にはミンアウンフライン が任命 にんめい された。これはタンシュエが一 いち 手 て に握 にぎ っていた権力 けんりょく を二 に 分割 ぶんかつ して、ネウィン時代 じだい に目指 めざ されていた党 とう 軍 ぐん 分離 ぶんり ないし政 せい 軍 ぐん 分離 ぶんり が実現 じつげん した格好 かっこう だった。
民政 みんせい 移管 いかん 後 ご (2010年 ねん ~2020年 ねん )
編集 へんしゅう
ミャンマーの国家 こっか 機構 きこう 図 ず (2011年 ねん )
2008年 ねん 憲法 けんぽう は、ミャンマーの憲法 けんぽう 史上 しじょう 初 はじ めて「国軍 こくぐん の章 あきら 」(第 だい 7章 しょう )が設 もう けられ、第 だい 6条 じょう 6項 こう で「国家 こっか が国民 こくみん 政治 せいじ の実現 じつげん を目指 めざ していく際 さい に、国軍 こくぐん の国民 こくみん 政治 せいじ への参画 さんかく を可能 かのう とすること」を国家 こっか 目標 もくひょう の1つに掲 かか げられ、第 だい 17条 じょう 2項 こう で国軍 こくぐん 将校 しょうこう の行政 ぎょうせい 機関 きかん への出向 しゅっこう を認 みと めるなど、大敗 たいはい した挙句 あげく 、選挙 せんきょ 結果 けっか を反故 ほご にして国際 こくさい 的 てき 信用 しんよう を著 いちじる しく落 お とした1990年 ねん 総 そう 選挙 せんきょ の反省 はんせい を踏 ふ まえ、国軍 こくぐん の政治 せいじ 的 てき 関与 かんよ を大幅 おおはば に認 みと めたものだった。
他 ほか にも①連邦 れんぽう 議会 ぎかい の両院 りょういん 議員 ぎいん 、14の地方 ちほう 議会 ぎかい の25%は軍人 ぐんじん 議員 ぎいん と定 さだ められていたり(第 だい 109条 じょう 、第 だい 110条 じょう )、②大統領 だいとうりょう の要件 ようけん として軍事 ぐんじ に精通 せいつう していることが求 もと められたり(第 だい 59条 じょう 4項 こう )、③国防 こくぼう 相 しょう 、治安 ちあん ・内務相 ないむしょう 、国境 こっきょう 相 しょう の任命 にんめい 権 けん が国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん にあるとされたり(第 だい 232条 じょう 2項 こう 《ハ》)、④憲法 けんぽう 改正 かいせい の際 さい には連邦 れんぽう 議会 ぎかい の両院 りょういん 議員 ぎいん の75%を超 こ える賛成 さんせい が必要 ひつよう 、つまり軍人 ぐんじん 議員 ぎいん の賛成 さんせい が必 かなら ず必要 ひつよう とされたり(第 だい 436条 じょう 2項 こう )、⑤非常 ひじょう 事態 じたい 時 じ に強大 きょうだい な権限 けんげん を有 ゆう する国防 こくぼう 治安 ちあん 評議 ひょうぎ 会 かい の定員 ていいん 11人 にん のうち、6人 にん は国軍 こくぐん 関係 かんけい 者 しゃ だったり(第 だい 201条 じょう )、国軍 こくぐん 優位 ゆうい の規定 きてい があった[ 29] 。とはいえ、国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん の兼務 けんむ がなくなったことにより、その人事 じんじ 権 けん はかなりの程度 ていど 縮小 しゅくしょう しており、国軍 こくぐん と歩調 ほちょう を合 あ わせる与党 よとう が存在 そんざい しなければ、大統領 だいとうりょう の選出 せんしゅつ についても立法 りっぽう についても国軍 こくぐん のできることは限定 げんてい 的 てき ではあった。
テインセイン
また政治 せいじ の担 にな い手 て たちに目 め を転 てん じると、連邦 れんぽう 政府 せいふ の閣僚 かくりょう のほとんどが退役 たいえき 軍人 ぐんじん だったが、USDPの議員 ぎいん のうち退役 たいえき 軍人 ぐんじん は、人民 じんみん 院 いん で31人 にん 、民族 みんぞく 院 いん で15人 にん とさほど多 おお くなく、ビジネス関係 かんけい 者 しゃ や元 もと 公務員 こうむいん が多数 たすう 派 は だった。一方 いっぽう 、軍人 ぐんじん 議員 ぎいん は非 ひ 主流 しゅりゅう 派 は の中堅 ちゅうけん 将校 しょうこう が中心 ちゅうしん という構成 こうせい で、両者 りょうしゃ は若干 じゃっかん 色合 いろあ いが違 ちが った。そして大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ されれば、議員 ぎいん も党 とう も辞 や めなければならないと憲法 けんぽう に規定 きてい されていたことからも分 わ かるとおり、この2008年 ねん 憲法 けんぽう 体制 たいせい は、大統領 だいとうりょう 、与党 よとう 、国軍 こくぐん のパワーバランスが図 はか られた政治 せいじ 制度 せいど だった。
とはいえ、国軍 こくぐん 関係 かんけい 者 しゃ 中心 ちゅうしん の構成 こうせい には変 か わりなく、実質 じっしつ 軍政 ぐんせい と変 か わらないとして、当初 とうしょ 、テインセイン政権 せいけん に対 たい する期待 きたい は高 たか くなかった。しかし、予想 よそう されたほど、連邦 れんぽう 政府 せいふ 、USDP、軍人 ぐんじん 議員 ぎいん が一枚岩 いちまいいわ にならなかったこともあり、にわかに議会 ぎかい 活動 かつどう は活性 かっせい 化 か していき、2011年 ねん 7月 がつ 19日 にち 、ネピドーのアウンサンの肖像 しょうぞう 画 が の掛 か かる部屋 へや でテインセインとスーチーの会談 かいだん が実現 じつげん すると、一気 いっき に改革 かいかく が加速 かそく し始 はじ めた。政治 せいじ 犯 はん の釈放 しゃくほう 、表現 ひょうげん ・報道 ほうどう の自由 じゆう 拡大 かくだい 、国民 こくみん 民主 みんしゅ 連盟 れんめい の政党 せいとう 再 さい 登録 とうろく 、住民 じゅうみん の反対 はんたい の声 こえ が強 つよ かった中国 ちゅうごく との共同 きょうどう 事業 じぎょう ・ミッソンダム 建設 けんせつ 計画 けいかく の凍結 とうけつ 、各種 かくしゅ 経済 けいざい 改革 かいかく など矢継 やつ ぎ早 ばや に改革 かいかく が進 すす められ、最 さい 重要 じゅうよう 課題 かだい だった少数 しょうすう 民族 みんぞく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく との和平 わへい 交渉 こうしょう でも進展 しんてん があり、2011年 ねん から2012年 ねん の間 あいだ に多 おお くの少数 しょうすう 民族 みんぞく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく と停戦 ていせん 合意 ごうい を結 むす び、2015年 ねん 10月 がつ 15日 にち には8つの武装 ぶそう 組織 そしき と全国 ぜんこく 停戦 ていせん 合意 ごうい を締結 ていけつ した[ 25] 。
しかし、2015年 ねん 総 そう 選挙 せんきょ でNLDが圧勝 あっしょう したことにより、このパワーバランスが崩 くず れた。スーチーは、外国 がいこく 籍 せき の子供 こども がいるせいで憲法 けんぽう の規定 きてい により大統領 だいとうりょう にはなれなかったはずだったが、国家 こっか 顧問 こもん というポストを創設 そうせつ してその地位 ちい に就 つ き、「大統領 だいとうりょう の上 うえ に立 た つ」と宣言 せんげん したのである。USDPの議員 ぎいん や軍人 ぐんじん 議員 ぎいん はもちろんこの案 あん に反対 はんたい したが、NLDが圧倒的 あっとうてき 多数 たすう を占 し める議会 ぎかい で賛成 さんせい 多数 たすう で可決 かけつ した。さらに国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん ・ミンアウンフラインは国防 こくぼう 治安 ちあん 評議 ひょうぎ 会 かい の開催 かいさい を再三 さいさん 要求 ようきゅう したが、国軍 こくぐん 派 は が過半 かはん を占 し める会議 かいぎ の構成 こうせい を嫌 きら ってか、スーチーは1度 ど もこれに応 おう じず、国軍 こくぐん との関係 かんけい は冷 ひ えきっていった。
そして2017年 ねん のロヒンギャ危機 きき で西側 にしがわ 諸国 しょこく の支持 しじ を失 うしな ったスーチーは、徐々 じょじょ に中国 ちゅうごく に接近 せっきん していった。またスーチーは、国軍 こくぐん の利権 りけん 構造 こうぞう を破壊 はかい しにかかっており、まずGADという地域 ちいき 住民 じゅうみん の監視 かんし 、土地 とち の管理 かんり や徴税 ちょうぜい 、住民 じゅうみん 登録 とうろく 、地域 ちいき の苦情 くじょう 処理 しょり という業務 ぎょうむ を担当 たんとう する行政 ぎょうせい 組織 そしき を内務省 ないむしょう 管轄 かんかつ 下 か から大統領 だいとうりょう 直轄 ちょっかつ 下 か に移動 いどう させた。これは国 くに の隅々 すみずみ に張 は り巡 めぐ らした、言 い わば国軍 こくぐん の血脈 けちみゃく を奪 うば う行為 こうい に等 ひと しく、国軍 こくぐん には絶対 ぜったい に受 う け入 い れられないことだった。またスーチーは宝石 ほうせき 法 ほう という法律 ほうりつ を改正 かいせい して取引 とりひき の透明 とうめい 化 か を図 はか り、国軍 こくぐん の利権 りけん に直接 ちょくせつ メスを入 い れ始 はじ めた。そして2020年 ねん には否決 ひけつ 覚悟 かくご とはいえ、国軍 こくぐん の政治 せいじ 関与 かんよ を大幅 おおはば に削減 さくげん する憲法 けんぽう 改正 かいせい 案 あん を議会 ぎかい に提出 ていしゅつ したのだった[ 30] 。
2010年 ねん 3月 がつ 27日 にち 、軍政 ぐんせい 支配 しはい 下 か 最後 さいご の国軍 こくぐん の日 ひ の記念 きねん 式典 しきてん で、タンシュエはこう述 の べていた。
「われわれ(軍 ぐん )は必要 ひつよう とあればいつでも国政 こくせい に関 かか わる」
「選挙 せんきょ に参加 さんか する政党 せいとう は、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ が成熟 せいじゅく するまで自制 じせい 、節度 せつど を示 しめ すべきだ」
「民主 みんしゅ 化 か の誤 あやま ったやり方 かた は無秩序 むちつじょ を招 まね く」
「失敗 しっぱい すると、国 くに と国民 こくみん を危険 きけん にさらしてしまう」
「外国 がいこく からの影響 えいきょう 力 りょく に頼 たよ ることは絶対 ぜったい に避 さ けねばならない」[ 31]
ミンアウンフライン
2020年 ねん 11月8日 にち に実施 じっし された総 そう 選挙 せんきょ で、NLDは前回 ぜんかい を上回 うわまわ る、改選 かいせん 議席 ぎせき の8割 わり 以上 いじょう に当 あ たる396議席 ぎせき を獲得 かくとく し圧勝 あっしょう 、対 たい するUSDPはまたしても惨敗 ざんぱい を喫 きっ した[ 32] 。国軍 こくぐん とUSDPは、総 そう 選挙 せんきょ に不正 ふせい があったとして抗議 こうぎ を行 おこな ったが、NLDは取 と り合 あ わず、両者 りょうしゃ の間 あいだ には緊張 きんちょう が走 はし った[ 33] 。
そして2021年 ねん 2月 がつ 1日 にち 、国軍 こくぐん はウィンミン 大統領 だいとうりょう 、スーチー国家 こっか 顧問 こもん 、NLD幹部 かんぶ 、NLD出身 しゅっしん の地方 ちほう 政府 せいふ トップら45人 にん 以上 いじょう の身柄 みがら を拘束 こうそく して、クーデターを起 お こした。国軍 こくぐん 出身 しゅっしん のミンスエ 第 だい 一 いち 副 ふく 大統領 だいとうりょう が大統領 だいとうりょう 代行 だいこう (暫定 ざんてい 大統領 だいとうりょう )に就任 しゅうにん し、憲法 けんぽう 417条 じょう の規定 きてい に基 もと づいて期限 きげん を1年間 ねんかん とする非常 ひじょう 事態 じたい 宣言 せんげん の発出 はっしゅつ を命 めい じる大統領 だいとうりょう 令 れい に署名 しょめい し、国軍 こくぐん が政権 せいけん を掌握 しょうあく 。国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん のミンアウンフラインに立法 りっぽう 、行政 ぎょうせい 、司法 しほう の三権 さんけん が委譲 いじょう され、国家 こっか 行政 ぎょうせい 評議 ひょうぎ 会 かい (SAC)が設立 せつりつ され、ミンアウンフラインは、SAC議長 ぎちょう と、8月 がつ 1日 にち に組閣 そかく された内閣 ないかく の首相 しゅしょう に就任 しゅうにん した。
革命 かくめい 評議 ひょうぎ 会 かい 、SLORC/SPDCの過去 かこ の軍政 ぐんせい と比較 ひかく すると、SACのメンバーは現役 げんえき 将校 しょうこう が 9人 にん ,文民 ぶんみん が10人 にん と文民 ぶんみん が過半数 かはんすう を占 し めているのが特徴 とくちょう だった。文民 ぶんみん のうち2人 にん は,2010年 ねん 総 そう 選挙 せんきょ への参加 さんか を機 き にNLDを離党 りとう した国民 こくみん 民主 みんしゅ 勢力 せいりょく (NDF)の関係 かんけい 者 しゃ で、残 のこ りの8人 にん はカレン族 ぞく 、ラカイン族 ぞく 、モン族 ぞく など異 こと なる少数 しょうすう 民族 みんぞく の出身 しゅっしん だった。件 けん の人事 じんじ からはさまざまなさまざまな政治 せいじ 勢力 せいりょく や民族 みんぞく に配慮 はいりょ するという国軍 こくぐん の意思 いし が見 み て取 と れたが、彼 かれ らは国民 こくみん の反発 はんぱつ を完全 かんぜん に見 み 誤 あやま っていた。クーデター抗議 こうぎ デモは激化 げきか し、国軍 こくぐん は武力 ぶりょく をもってこれを弾圧 だんあつ 。激 はげ しい国際 こくさい 的 てき 非難 ひなん を浴 あ びた。さらに弾圧 だんあつ を逃 のが れたNLD議員 ぎいん が中心 ちゅうしん となって国民 こくみん 統一 とういつ 政府 せいふ (NUG)を設立 せつりつ 、9月7日 にち には、国軍 こくぐん に対 たい して宣戦 せんせん 布告 ふこく を宣言 せんげん し、各 かく 国民 こくみん 防衛 ぼうえい 隊 たい (PDF)・少数 しょうすう 民族 みんぞく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく に一斉 いっせい 蜂起 ほうき を呼 よ びかけ、以降 いこう 、内戦 ないせん に突入 とつにゅう した。
2023年 ねん 10月 がつ 27日 にち 、三 さん 兄弟 きょうだい 同盟 どうめい (アラカン軍 ぐん ・ミャンマー民族 みんぞく 民主 みんしゅ 同盟 どうめい 軍 ぐん ・タアン民族 みんぞく 解放 かいほう 軍 ぐん )が1027作戦 さくせん を発動 はつどう し、2024年 ねん 1月 がつ 5日 にち にはコーカン 自治 じち 区 く のラウカイを攻略 こうりゃく 。8月3日 にち にはシャン州 しゅう のラーショー を攻略 こうりゃく し(ラーショーの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) )、同地 どうち にある国軍 こくぐん 北東 ほくとう 軍 ぐん 管区 かんく 司令 しれい 部 ぶ が占拠 せんきょ された[ 34] 。国軍 こくぐん の地方 ちほう 司令 しれい 部 ぶ が反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく に占拠 せんきょ されたのは、ミャンマーの内戦 ないせん 史上 しじょう 初 はつ のことだった。2024年 ねん 10月 がつ 現在 げんざい 、国軍 こくぐん は各地 かくち で空爆 くうばく を行 おこな って失地 しっち 回復 かいふく を図 はか っているが、劣勢 れっせい が伝 つた えられている。
独立 どくりつ 初期 しょき の内戦 ないせん 時代 じだい (1948年 ねん ~1958年 ねん )
編集 へんしゅう
最初 さいしょ の軍事 ぐんじ ドクトリンは1950年代 ねんだい 前半 ぜんはん に策定 さくてい された。当時 とうじ は国内 こくない の少数 しょうすう 民族 みんぞく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく の反乱 はんらん が喫緊 きっきん の課題 かだい だったのに関 かか わらず、意外 いがい にもそれは、建国 けんこく されたばかりの中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく を仮想 かそう 敵 てき とした外国 がいこく 勢力 せいりょく 対策 たいさく 重視 じゅうし のものだった。策定 さくてい 者 しゃ は、後 のち に8888民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう の際 さい にBSP議長 ぎちょう となるマウンマウン だったが、彼 かれ の強烈 きょうれつ な反共 はんきょう 主義 しゅぎ と向上心 こうじょうしん が反映 はんえい された格好 かっこう である。
そしてその内容 ないよう は、大 だい 規模 きぼ 師団 しだん 、装甲 そうこう 旅団 りょだん 、戦車 せんしゃ 、機動 きどう 戦 せん による正規 せいき 戦 せん にもとづく防衛 ぼうえい 計画 けいかく で、朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 時 じ に行 おこな われた国連 こくれん 軍 ぐん の警察 けいさつ 活動 かつどう を想定 そうてい して、国連 こくれん 軍 ぐん の到着 とうちゃく を待 ま つ間 あいだ 、侵略 しんりゃく 勢力 せいりょく を国境 こっきょう 地帯 ちたい に2、3ヶ月 かげつ 封 ふう じこめるというものだった。しかしこれを実現 じつげん するためには、適切 てきせつ な後方 こうほう 支援 しえん ・訓練 くんれん 体制 たいせい 、豊富 ほうふ な経済 けいざい 的 てき ・技術 ぎじゅつ 的 てき 資源 しげん 、効率 こうりつ 的 てき な民間 みんかん 防衛 ぼうえい 組織 そしき が不可欠 ふかけつ で、当時 とうじ の国軍 こくぐん にはそのすべが欠 か けていた。1953年 ねん 2月 がつ 、シャン州 しゅう に居座 いすわ った中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう 軍 ぐん に対 たい するナーガー・ナイン(勝利 しょうり の龍 りゅう )作戦 さくせん で、初 はじ めてこのドクトリンが試 ため されたが、結果 けっか は、不利 ふり な地形 ちけい と資源 しげん 不足 ふそく が相 あい まり、国軍 こくぐん にとって屈辱 くつじょく 的 てき な完敗 かんぱい に終 お わった。しかしその後 ご 、1950年代 ねんだい 後半 こうはん の反 はん 国民党 こくみんとう 作戦 さくせん で一定 いってい の成功 せいこう を収 おさ めたとされている。
この最初 さいしょ の軍事 ぐんじ ドクトリンは、各 かく 反乱 はんらん 軍 ぐん を国境 こっきょう 地帯 ちたい に追 お いやり、戦闘 せんとう 形態 けいたい が正規 せいき 戦 せん からゲリラ戦 せん へ移行 いこう するにつれ、次第 しだい に不 ふ 適当 てきとう なものになっていった[ 35] 。
ビルマ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 計画 けいかく 党 とう (BSPP)時代 じだい (1962年 ねん ~1988年 ねん )
編集 へんしゅう
1950年代 ねんだい 後半 こうはん 、国軍 こくぐん は、カレン民族 みんぞく 防衛 ぼうえい 機構 きこう (KNDO)が中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう に兵器 へいき の提供 ていきょう を要請 ようせい したり、CPBが中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう の指示 しじ を受 う けているという情報 じょうほう を入手 にゅうしゅ しており、国内 こくない の反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ しない限 かぎ り、外国 がいこく の侵略 しんりゃく を受 う けるという危機 きき 感 かん を抱 だ いていた。そのため新 あたら しい軍事 ぐんじ ドクトリンの中核 ちゅうかく は、国内 こくない の反乱 はんらん 対策 たいさく となった。そのために国軍 こくぐん は、国民 こくみん の総力 そうりょく を結集 けっしゅう したゲリラ戦略 せんりゃく を取 と る「人民 じんみん 戦争 せんそう 理論 りろん 」の採用 さいよう した。
1964年 ねん 7月 がつ 、後 のち に首相 しゅしょう を務 つと めたトゥンティン(Tun Tin (英語 えいご 版 ばん ) )率 ひき いる調査 ちょうさ 団 だん が、スイス、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、東 ひがし ドイツに派遣 はけん され、人民 じんみん 戦争 せんそう に関 かん する調査 ちょうさ を行 おこな い、同様 どうよう に近隣 きんりん 諸国 しょこく に調査 ちょうさ 団 だん が派遣 はけん された。この頃 ころ 、毛沢東 もうたくとう の一連 いちれん の著作 ちょさく や林 はやし 彪 ぴょう の『人民 じんみん 戦争 せんそう 』、チェ・ゲバラの『ゲリラ戦争 せんそう 』が将校 しょうこう たちの間 あいだ で広 ひろ く読 よ まれたのだという。結果 けっか 、人民 じんみん 戦争 せんそう を遂行 すいこう するためには、平時 へいじ に約 やく 100万 まん 人 にん の正規 せいき 軍 ぐん 、非常時 ひじょうじ にさらに約 やく 500万 まん 人 にん の民兵 みんぺい を動員 どういん する能力 のうりょく が必要 ひつよう とされ、そのための人材 じんざい 育成 いくせい 機関 きかん の設立 せつりつ や2年間 ねんかん の兵役 へいえき 義務 ぎむ 化 か が提言 ていげん された。しかし国内 こくない の反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ する前 まえ に大量 たいりょう の民兵 みんぺい 動員 どういん を行 おこな うことは、むしろ有害 ゆうがい という認識 にんしき が国軍 こくぐん 内 ない で広 ひろ まり、結局 けっきょく 、この大量 たいりょう 動員 どういん は実現 じつげん しなかった。
それでも1965年 ねん までに人民 じんみん 戦争 せんそう 理論 りろん は国軍 こくぐん の正式 せいしき ドクトリンとして受 う け入 い れられ、各種 かくしゅ 国軍 こくぐん 系 けい 出版 しゅっぱん 物 ぶつ を通 とお して人口 じんこう に膾炙 かいしゃ し、1971年 ねん のBSPP第 だい 1回 かい 党 とう 大会 たいかい で正式 せいしき に承認 しょうにん された。また人民 じんみん 戦争 せんそう 理論 りろん は国内 こくない 反乱 はんらん 対策 たいさく においても有効 ゆうこう とされ、各地 かくち で民兵 みんぺい グループ(ピューソーティー民兵 みんぺい )が結成 けっせい された。1974年 ねん までに212郡 ぐん 1831村落 そんらく 、6万 まん 7736人 にん に及 およ び、ライフル、自動 じどう 小銃 しょうじゅう など1万 まん 5227丁 ちょう が配布 はいふ されたのだという。ただ人員 じんいん に比 ひ して兵器 へいき の数 かず が少 すく なく、実際 じっさい の戦闘 せんとう への寄与 きよ 度 ど は低 ひく かったものと思 おも われる[ 36] 。
一方 いっぽう 、人民 じんみん 戦争 せんそう を成功 せいこう させるための国内 こくない の反 はん 政府 せいふ 武装 ぶそう 勢力 せいりょく 対策 たいさく としては、山岳 さんがく 部 ぶ に追 お いやられた各 かく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく がゲリラ戦 せん に転 てん じたことにより、国軍 こくぐん も偵察 ていさつ 、待 ま ち伏 ぶ せ、夜 よる 間 あいだ 戦 せん などの対 たい ゲリラ戦術 せんじゅつ が導入 どうにゅう し、武装 ぶそう 勢力 せいりょく の幹部 かんぶ の逮捕 たいほ ・拘束 こうそく 、正確 せいかく な情報 じょうほう 、敵 てき 軍 ぐん の殲滅 せんめつ (占領 せんりょう ではなく)、小隊 しょうたい レベルの戦術 せんじゅつ 的 てき 独立 どくりつ 性 せい が重要 じゅうよう 視 し された。そしてこれを遂行 すいこう するためには、人民 じんみん 戦争 せんそう 理論 りろん と同様 どうよう に、政治 せいじ 、社会 しゃかい 、経済 けいざい 、軍事 ぐんじ 、公共 こうきょう 管理 かんり という”5つの柱 はしら ”を総動員 そうどういん することが不可欠 ふかけつ とされ、そのためには国民 こくみん との支持 しじ と協力 きょうりょく が重要 じゅうよう ということで、兵士 へいし の規律 きりつ の改善 かいぜん が強調 きょうちょう された。1968年 ねん には、後 のち に首相 しゅしょう を務 つと めたトゥンテインがイギリス留学 りゅうがく から持 も ち帰 かえ った戦略 せんりゃく を元 もと に四 よん 断 だん 作戦 さくせん (four cuts)が策定 さくてい された[ 37] 。これは、反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく の食糧 しょくりょう ・資金 しきん ・情報 じょうほう ・徴兵 ちょうへい を絶 た ったうえで、根拠地 こんきょち を攻撃 こうげき するというものである[ 38] 。国内 こくない 反乱 はんらん 対策 たいさく の優先 ゆうせん 順位 じゅんい は、まずエーヤワディーデルタ地帯 ちたい を確保 かくほ して強化 きょうか した後 のち 、国境 こっきょう 地帯 ちたい に拠点 きょてん を持 も つ武装 ぶそう 勢力 せいりょく に攻撃 こうげき を仕 し かけるというというものだった[ 39] 。
SLORC/SPDC時代 じだい (1988年 ねん ~2010年 ねん )
編集 へんしゅう
8888民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう を経験 けいけん した国軍 こくぐん は、民主 みんしゅ 派 は や少数 しょうすう 民族 みんぞく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく が外国 がいこく 勢力 せいりょく と結 むす びつくのを恐 おそ れ、軍事 ぐんじ ドクトリンを再 ふたた び見直 みなお し、強大 きょうだい な外敵 がいてき にも正規 せいき 戦 せん で対抗 たいこう しうるよう、人民 じんみん 戦争 せんそう 理論 りろん を保持 ほじ しつつ軍備 ぐんび の増強 ぞうきょう を進 すす めた。この新 あたら しい軍事 ぐんじ ドクトリンは、「現代 げんだい 的 てき 条件下 じょうけんか での人民 じんみん 戦争 せんそう 理論 りろん 」と定義 ていぎ づけられている。現代 げんだい 的 てき 条件下 じょうけんか での人民 じんみん 戦争 せんそう 理論 りろん 下 か では、マンパワー、時間 じかん 、空間 くうかん という従来 じゅうらい の3つの要素 ようそ に、「サイバー」という4つ目 め の要素 ようそ が加 くわ わった。若 わか い司令 しれい 官 かん たちは軍事 ぐんじ 革命 かくめい (RMA)に熱心 ねっしん に学 まな び、砂漠 さばく の嵐 あらし 作戦 さくせん 、コソボ紛争 ふんそう 、アフガニスタン紛争 ふんそう などを教材 きょうざい にして電子 でんし 戦 せん や情報 じょうほう 戦 せん を研究 けんきゅう した。さらに国軍 こくぐん 士官 しかん 学校 がっこう にはコンピューター科学 かがく の学位 がくい が導入 どうにゅう され、数 すう 名 めい の将校 しょうこう が電子 でんし 戦 せん と情報 じょうほう 戦 せん の訓練 くんれん のために海外 かいがい に派遣 はけん された[ 40] 。
2016年 ねん 1月 がつ に開催 かいさい された第 だい 1回 かい 連邦 れんぽう 和平 わへい 会議 かいぎ において「標準 ひょうじゅん 的 てき な軍隊 ぐんたい (Standard Army) 」という構想 こうそう が示 しめ された。結局 けっきょく 、軍事 ぐんじ ドクトリンにまでは昇華 しょうか せず、具体 ぐたい 的 てき 内容 ないよう は明 あき らかにされなかったが、国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん ・ミンアウンフラインの指揮 しき の下 した 、様々 さまざま な改革 かいかく が行 おこな われた。国軍 こくぐん の国際 こくさい 的 てき イメージのアップを図 はか る意図 いと があったようだ[ 41] 。
2011年 ねん 以降 いこう 、国軍 こくぐん は人権 じんけん 、未成年 みせいねん 者 しゃ 徴用 ちょうよう 、治安 ちあん 部門 ぶもん 改革 かいかく (SSR)、武装 ぶそう 解除 かいじょ ・動員 どういん 解除 かいじょ ・社会 しゃかい 復帰 ふっき (DDR)などがテーマの国際 こくさい 会議 かいぎ やワークショップに参加 さんか したり、国際 こくさい 機関 きかん の仲介 ちゅうかい で国軍 こくぐん 将校 しょうこう をヨーロッパや紛争 ふんそう 後 ご の国家 こっか への研修 けんしゅう に派遣 はけん した[ 41] 。2017年 ねん 5月 がつ にはミンアウンフライン国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん とEU軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい (EUMC)委員 いいん 長 ちょう ・ミハイル・コスタラコスとの会談 かいだん が実現 じつげん [ 42] 。国際 こくさい 労働 ろうどう 機関 きかん (ILO)と協力 きょうりょく して、未成年 みせいねん 者 しゃ 徴用 ちょうよう の問題 もんだい にも取 と り組 く み、2012年 ねん から2018年 ねん の間 あいだ に924人 にん の少年 しょうねん 兵 へい を解放 かいほう した[ 43] [ 44] 。
2013年 ねん 2月 がつ 、タイで行 おこな われる多 た 国籍 こくせき 軍事 ぐんじ 演習 えんしゅう ・コブラ・ゴールド に2名 めい のオブザーバーを派遣 はけん するよう招待 しょうたい され、以来 いらい 、2020年 ねん まで毎年 まいとし 参加 さんか していた[ 45] 。
2013年 ねん 3月 がつ 、テインセイン 大統領 だいとうりょう が訪 おとずれ 豪 えら した際 さい 、オーストラリア政府 せいふ は、1979年 ねん に閉鎖 へいさ されたヤンゴン国防 こくぼう 駐 ちゅう 在官 ざいかん を復活 ふっかつ させると発表 はっぴょう 。 2014年 ねん 以降 いこう 、オーストラリア政府 せいふ は、国軍 こくぐん に対 たい して人道 じんどう 支援 しえん や災害 さいがい 救援 きゅうえん 、国際 こくさい 法 ほう に関 かん するワークショップや訓練 くんれん など数 すう 多 おお くの支援 しえん を行 おこな った。2014年 ねん 3月 がつ に開催 かいさい されたオーストラリア・ミャンマー国防 こくぼう 協力 きょうりょく 協議 きょうぎ では、両国 りょうこく の軍隊 ぐんたい 間 あいだ の連携 れんけい を強化 きょうか することで合意 ごうい した[ 41] 。
2013年 ねん 7月 がつ 、テインセイン大統領 だいとうりょう が訪英 ほうえい した際 さい 、イギリス政府 せいふ はヤンゴンに国防 こくぼう 駐 ちゅう 在官 ざいかん を派遣 はけん すると発表 はっぴょう 。また国軍 こくぐん に対 たい して人権 じんけん 、武力 ぶりょく 紛争 ふんそう 法 ほう 、民主 みんしゅ 的 てき 軍隊 ぐんたい の説明 せつめい 責任 せきにん に関 かん する研修 けんしゅう を提供 ていきょう した。
2014年 ねん 9月 がつ 、ミンアウンフライン国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん が来日 らいにち 。年末 ねんまつ から日本 にっぽん ・ミャンマー将官 しょうかん 級 きゅう 交換 こうかん プログラムが開始 かいし され、日本 にっぽん 財団 ざいだん から毎年 まいとし 10人 にん の将校 しょうこう が奨学 しょうがく 金 きん を得 え て、日本 にっぽん の大学 だいがく で国際 こくさい 関係 かんけい の学位 がくい を取得 しゅとく することになった[ 46] 。2015年 ねん からは日本 にっぽん の防衛大学校 ぼうえいだいがくこう に毎年 まいとし 国軍 こくぐん 将校 しょうこう が2人 ふたり 留学 りゅうがく していた(2023年 ねん に中止 ちゅうし [ 47] )。
2014年 ねん 12月、米 べい 議会 ぎかい で2015年度 ねんど 国防 こくぼう 授権法 ほう が成立 せいりつ 。これにより、これまで人権 じんけん や法 ほう の支配 しはい のレクチャーに限 かぎ られていた米 べい 軍 ぐん の関与 かんよ が、災害 さいがい 救助 きゅうじょ や医療 いりょう 発展 はってん に関 かん する教育 きょういく 訓練 くんれん に拡大 かくだい された[ 46] 。
国防 こくぼう 予算 よさん は、1962年 ねん から1970年代 ねんだい 半 なか ばまで予算 よさん 規模 きぼ が10億 おく ksを超 こ えることはなく、微増 びぞう に留 とど まっていた。海外 かいがい 援助 えんじょ の受 う け入 い れを開始 かいし して政府 せいふ 予算 よさん が拡大 かくだい する1980年代 ねんだい 以降 いこう も、政府 せいふ 支出 ししゅつ 全体 ぜんたい の増加 ぞうか 幅 はば に比 くら べれば国防 こくぼう 予算 よさん のそれは小 ちい さく、政府 せいふ 予算 よさん に占 し める国防 こくぼう 予算 よさん の割合 わりあい はむしろ低下 ていか していた。1969年 ねん まで年 とし に1回 かい 開催 かいさい されていた国軍 こくぐん 大会 たいかい では、各 かく 軍 ぐん 区 く 司令 しれい 部 ぶ からは兵器 へいき ・弾薬 だんやく の不足 ふそく 、通信 つうしん 機器 きき 、輸送 ゆそう 用 よう 車両 しゃりょう の不足 ふそく 、恩給 おんきゅう 制度 せいど の不備 ふび 、給料 きゅうりょう の遅配 ちはい が報告 ほうこく されていた[ 48] 。1950年代 ねんだい 半 なか ばから1960年代 ねんだい 半 なか ばまでは、予算 よさん 不足 ふそく による兵器 へいき ・弾薬 だんやく 不足 ふそく 、訓練 くんれん 不足 ふそく 、それに端 はし を発 はっ する戦闘 せんとう の危険 きけん 性 せい ・困難 こんなん の高 たか まりが原因 げんいん で、毎年 まいとし 2000人 にん 、多 おお い時 とき で5000人 にん 近 ちか くの脱走 だっそう 者 しゃ を出 だ しており、常 つね に人員 じんいん 不足 ふそく の状態 じょうたい にあった。戦死 せんし 者 しゃ も、最大 さいだい の敵 てき ・ビルマ共産党 きょうさんとう (CPB)が弱体 じゃくたい 化 か して、国軍 こくぐん が攻勢 こうせい に出 で 始 はじ めた1980年代 ねんだい 以降 いこう 急増 きゅうぞう し、1982年 ねん から1986年 ねん の年 とし 平均 へいきん 戦死 せんし 者 しゃ 数 すう は888.6人 にん に及 およ び、これは1960年代 ねんだい 後半 こうはん における戦死 せんし 者 しゃ 数 すう の約 やく 2.5倍 ばい だった[ 48] 予算 よさん 制約 せいやく にともなう物的 ぶってき ・人的 じんてき 限界 げんかい は、作戦 さくせん 遂行 すいこう に支障 ししょう をきたすほどだったのだという。1988年 ねん に国家 こっか 法 ほう 秩序 ちつじょ 回復 かいふく 評議 ひょうぎ 会 かい (SLORC)成立 せいりつ した後 のち は、GDPに占 し める割合 わりあい はやはり約 やく 4%程度 ていど に留 とど まっていたものの1990年代 ねんだい と2000年代 ねんだい は国防 こくぼう 予算 よさん の絶対 ぜったい 額 がく は着実 ちゃくじつ に拡大 かくだい し、特 とく に国防 こくぼう 予算 よさん に占 し める資本 しほん 支出 ししゅつ (設備 せつび 投資 とうし など)の割合 わりあい は、1980年代 ねんだい 末 まつ 10%代 だい だったものが、1991年 ねん には30%代 だい に達 たっ し、2009年 ねん 、2010年 ねん には資本 しほん 支出 ししゅつ が経常 けいじょう 支出 ししゅつ を上回 うわまわ るまでになっている。絶対 ぜったい 額 がく も2003年 ねん には1988年 ねん の4倍 ばい になっている。これは国防 こくぼう 予算 よさん 増加 ぞうか 分 ぶん は主 おも に資本 しほん 支出 ししゅつ が占 し めていることを示唆 しさ するもので、軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう 施設 しせつ を含 ふく む国防省 こくぼうしょう 関連 かんれん 施設 しせつ の建設 けんせつ や兵器 へいき ・弾薬 だんやく の購入 こうにゅう に充 あ てられていたものと考 かんが えられる[ 24] 。
ただし、ミャンマーの国防 こくぼう 予算 よさん を計算 けいさん する際 さい には、ミャンマー政府 せいふ の公表 こうひょう されている数字 すうじ は信用 しんよう できないこと、国防省 こくぼうしょう ではなく他 ほか の省庁 しょうちょう からの補助 ほじょ 金 きん が多 おお いこと(例 たと えば国軍 こくぐん はエネルギ えねるぎ ー省 しょう から燃料 ねんりょう の補助 ほじょ を受 う けている)、二 に 重 じゅう レートがあった時代 じだい は外貨 がいか 建 だ ての支出 ししゅつ の一部 いちぶ が、実際 じっさい の為替 かわせ レートより200倍 ばい 以上 いじょう 低 ひく い公式 こうしき 為替 かわせ レートにもとづいて計算 けいさん されていること、軍事 ぐんじ 企業 きぎょう からの支出 ししゅつ もあったこと、海外 かいがい のサプライヤーへの支払 しはら いなど、一部 いちぶ の支出 ししゅつ は物々交換 ぶつぶつこうかん システムの下 した で現物 げんぶつ 支給 しきゅう されていることなど考慮 こうりょ 事項 じこう がいくつかあることに注意 ちゅうい が必要 ひつよう である[ 49] 。
1950年代 ねんだい 初 はじ め、国軍 こくぐん は将校 しょうこう ・兵士 へいし とその家族 かぞく の福利 ふくり 厚生 こうせい を図 はか り、忠誠 ちゅうせい 心 しん を高 たか めるためのビジネスにも乗 の り出 だ した。1951年 ねん に幹部 かんぶ のほとんどを第 だい 4ビルマ・ライフル部隊 ぶたい 出身 しゅっしん 者 しゃ で占 し める非 ひ 営利 えいり 組織 そしき ・国防 こくぼう サービス研究所 けんきゅうじょ (The Defence Service Institute:DSI)を設立 せつりつ 。まずヤンゴンのスーレーパゴダ通 どお りに、軍人 ぐんじん とその家族 かぞく に低 てい 価格 かかく の輸入 ゆにゅう 品 ひん や地産 ちさん 品 ひん を供給 きょうきゅう する雑貨 ざっか 店 てん を開業 かいぎょう して成功 せいこう を収 おさ め、数 すう 年 ねん のうちに全国 ぜんこく 18店舗 てんぽ に拡大 かくだい した。次 つぎ にアバハウス(Ava House)という文房具 ぶんぼうぐ 店 てん 兼 けん 出版 しゅっぱん 社 しゃ を設立 せつりつ 。これは軍人 ぐんじん だけではなく一般 いっぱん にも開放 かいほう され、これも成功 せいこう を収 おさ めた。自信 じしん を付 つ けた国軍 こくぐん はビジネスを巨大 きょだい 化 か 、高 こう 品質 ひんしつ の外国 がいこく 製品 せいひん を一般 いっぱん 消費 しょうひ 者 しゃ に販売 はんばい するデパート・ロウ・アンド・カンパニー(Rowe & Co)、民営 みんえい のA・スコット銀行 ぎんこう を買収 ばいしゅう して改組 かいそ したアバ銀行 ぎんこう 、東 ひがし アジア会社 かいしゃ を買収 ばいしゅう して改組 かいそ したビルマ・アジア会社 かいしゃ 、7隻 せき の船 ふね を保有 ほゆう する貨物 かもつ 船 せん サービス会社 かいしゃ ビルマ・ファイブスター・シッピング・ライン(Burma Five Star Shipping Line)など多数 たすう の企業 きぎょう を設立 せつりつ し、他 ほか にも石炭 せきたん の輸入 ゆにゅう ライセンス取得 しゅとく 、ホテル、水産 すいさん 業 ぎょう 、鶏肉 とりにく 流通 りゅうつう 業 ぎょう 、建設 けんせつ 業 ぎょう 、ラングーンとマンダレーを結 むす ぶバス路線 ろせん 、国内 こくない 最大 さいだい の百貨店 ひゃっかてん チェーンなどを傘下 さんか に収 おさ めた[ 49] 。
ビルマ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 計画 けいかく 党 とう (BSPP)時代 じだい
1960年代 ねんだい 初 はじ め、DSI傘下 さんか の多 おお くの企業 きぎょう は新 あら たに設立 せつりつ されたビルマ経済 けいざい 開発 かいはつ 公社 こうしゃ (Burma Economic Development Corporation:BEDC)の傘下 さんか に置 お かれ、事実 じじつ 上 じょう 国軍 こくぐん の管理 かんり 下 か に置 お かれた。しかし、1962年 ねん にネウィンがクーデターを起 お こして、軍事 ぐんじ 独裁 どくさい 政権 せいけん が成立 せいりつ し、ビルマ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 計画 けいかく 党 とう (BSPP)が掲 かか げる「ビルマ社会 しゃかい 主義 しゅぎ への道 みち 」の下 した 、経済 けいざい の国有 こくゆう 化 か が進 すす むと、DSI・BEDC傘下 さんか の企業 きぎょう も国有 こくゆう 化 か された。
BSPP時代 じだい には、国軍 こくぐん は商業 しょうぎょう 活動 かつどう を行 おこな わないことが義務 ぎむ づけられていた。そのため営利 えいり 目的 もくてき の軍事 ぐんじ 企業 きぎょう は存在 そんざい しなかったが、国軍 こくぐん は基本 きほん 的 てき な生活 せいかつ 必需 ひつじゅ 品 ひん の生産 せいさん に携 たずさ わっており、そのほとんどは軍人 ぐんじん とその家族 かぞく の福利 ふくり のためであり、基本 きほん 的 てき には個々 ここ の部隊 ぶたい 単位 たんい で、規模 きぼ はかなり小 ちい さく、連隊 れんたい 基金 ききん (RF)からの財政 ざいせい 支援 しえん を受 う けていた。例 たと えば大隊 だいたい は、米 べい や野菜 やさい を栽培 さいばい し、鶏 にわとり や魚 さかな を飼育 しいく し、食堂 しょくどう 、酒家 しゅか 、ビデオハウスを経営 けいえい し、ろうそく工場 こうじょう のような家内 かない 工業 こうぎょう を営 いとな んでいたが、これらはすべて連隊 れんたい 基金 ききん から資金 しきん 援助 えんじょ を受 う けていた。
福利 ふくり 厚生 こうせい の面 めん では、軍人 ぐんじん だけの特別 とくべつ な特権 とっけん はなかった。上級 じょうきゅう 将校 しょうこう は他 た の党 とう 幹部 かんぶ と同 おな じように、ヤンゴンにある2つの国営 こくえい 商店 しょうてん で補助 ほじょ 金 きん を受 う けた日 ひ 用品 ようひん を買 か うことができ、上級 じょうきゅう 幹部 かんぶ は国営 こくえい 企業 きぎょう で特定 とくてい の日 ひ 用品 ようひん の購入 こうにゅう 許可 きょか を申請 しんせい することができたが、それは決 けっ して権利 けんり ではなかった。しかし制服 せいふく やその他 た の身 み の回 まわ り品 ひん 、給与 きゅうよ や配給 はいきゅう (水 みず ・乾物 かんぶつ )、住宅 じゅうたく 設備 せつび や手当 てあて 、医療 いりょう サービス(肉親 にくしん の場合 ばあい も)などを受 う ける権利 けんり はあった。一般 いっぱん に予算 よさん 外 がい の福祉 ふくし 補助 ほじょ 金 きん がないにもかかわらず、兵士 へいし は民間 みんかん 人 じん よりも、また一般 いっぱん 市民 しみん よりも多少 たしょう 恵 めぐ まれていた[ 49] 。
SLORC/SPDC時代 じだい 以降 いこう
さらに国軍 こくぐん は軍人 ぐんじん の福利 ふくり 厚生 こうせい を図 はか り、忠誠 ちゅうせい 心 しん を高 たか めるために本格 ほんかく 的 てき にビジネスに参入 さんにゅう 。1990年 ねん にはミャンマー・エコノミック・ホールディングス(MEHL) (英語 えいご 版 ばん ) の前身 ぜんしん ・ミャンマー連邦 れんぽう 経済 けいざい 持株 もちかぶ 会社 かいしゃ (UMEHL)を、1997年 ねん にはミャンマー経済 けいざい 公社 こうしゃ (MEC) (英語 えいご 版 ばん ) [ 27] という国軍 こくぐん 系 けい 企業 きぎょう を設立 せつりつ し、傘下 さんか に鉄鋼 てっこう 、セメント、大理石 だいりせき 、砂糖 さとう 、メタノール、石炭 せきたん 、ビール、貿易 ぼうえき 、金融 きんゆう など多数 たすう の企業 きぎょう を置 お いて莫大 ばくだい な利益 りえき を上 あ げ始 はじ めた。これに加 くわ えてクローニーと呼 よ ばれる企業 きぎょう コングロマリットが10以上 いじょう 存在 そんざい し、国軍 こくぐん 幹部 かんぶ と姻戚 いんせき 関係 かんけい を結 むす んだりして緊密 きんみつ な関係 かんけい を築 きず き、軍 ぐん から許認可 きょにんか や受発注 じゅはっちゅう の便宜 べんぎ を受 う け、急 きゅう 成長 せいちょう し始 はじ めた。
これらの企業 きぎょう 群 ぐん は国防 こくぼう 予算 よさん とは国軍 こくぐん の貴重 きちょう な収入 しゅうにゅう 源 げん となると同時 どうじ に退役 たいえき 軍人 ぐんじん の出向 しゅっこう 先 さき となり、国軍 こくぐん の重要 じゅうよう な利権 りけん となった。すべての将校 しょうこう はMEHLやMECの株式 かぶしき から直接的 ちょくせつてき ・間接 かんせつ 的 てき に利益 りえき を得 え 、家族 かぞく を通 つう じて非合法 ひごうほう ビジネスからの利益 りえき も得 え ている。それより地位 ちい の低 ひく い軍人 ぐんじん たちは主 おも に汚職 おしょく や麻薬 まやく などの闇 やみ 市場 いちば から利益 りえき を得 え ている[ 49] 。
2000年代 ねんだい には新 あら たに発見 はっけん された天然 てんねん ガスが国軍 こくぐん の貴重 きちょう な資金 しきん 源 げん となった[ 50] 。ただし、件 けん の天然 てんねん ガスの採掘 さいくつ 量 りょう は2019年 ねん から激減 げきげん しており、2021年 ねん クーデター以降 いこう は西側 にしがわ 諸国 しょこく からの技術 ぎじゅつ 提供 ていきょう を含 ふく めた投資 とうし も停止 ていし したままであり、枯渇 こかつ 寸前 すんぜん と言 い われている[ 51] 。
ミャンマーには民間 みんかん の兵器 へいき 製造 せいぞう 会社 かいしゃ は存在 そんざい せず、すべて国軍 こくぐん が管理 かんり 運営 うんえい する軍需 ぐんじゅ 工場 こうじょう で生産 せいさん されている。この軍需 ぐんじゅ 工場 こうじょう は、ミャンマー語 ご で「防衛 ぼうえい 産業 さんぎょう 局 きょく (Directorate of Defence Industries:DDI)」を意味 いみ する「Karkweye Pyitsee Setyone」に因 ちな み、「カパサ(Kapasa)」と呼 よ ばれている。軍需 ぐんじゅ 工場 こうじょう を「防衛 ぼうえい 産業 さんぎょう 」施設 しせつ と呼 よ んでいる事実 じじつ は、国軍 こくぐん の軍事 ぐんじ ドクトリンである人民 じんみん 戦争 せんそう 理論 りろん と密接 みっせつ に関連 かんれん しており、外敵 がいてき や内 うち 敵 てき から国家 こっか を守 まも る国軍 こくぐん の役割 やくわり を強調 きょうちょう するものである。2024年 ねん 10月 がつ 現在 げんざい 、カパサの最高 さいこう 責任 せきにん 者 しゃ は国防省 こくぼうしょう 産業 さんぎょう 局長 きょくちょう のカンミンタン(Kan Myint Than[ 52] )中将 ちゅうじょう である[ 53] 。
独立 どくりつ 時 じ 、国軍 こくぐん は主 おも に日本 にっぽん 軍 ぐん やイギリス軍 ぐん が残 のこ した兵器 へいき に依存 いぞん し、他 た にインド、イギリス、イスラエル、ユーゴスラビア、スウェーデンなど様々 さまざま な国 くに から兵器 へいき を調達 ちょうたつ していたが、その軍備 ぐんび は貧弱 ひんじゃく なものだった。グリフィス・アジア研究所 けんきゅうじょ の研究 けんきゅう 員 いん ・アンドリュー・セルス(Andrew Selth)は以下 いか のように述 の べている[ 54] 。
陸軍 りくぐん は基本 きほん 的 てき に対 たい 反乱 はんらん 作戦 さくせん のために組織 そしき され、配備 はいび された軽 けい 装備 そうび の歩兵 ほへい 部隊 ぶたい であった。経験 けいけん 豊富 ほうふ で戦闘 せんとう には慣 な れているが、重 じゅう 装備 そうび は時代遅 じだいおく れで、兵站 へいたん と通信 つうしん システムは非常 ひじょう に弱 よわ く、作戦 さくせん は輸送 ゆそう 、燃料 ねんりょう 、弾薬 だんやく の不足 ふそく によって常 つね に妨 さまた げられていた。海軍 かいぐん と空軍 くうぐん はどちらも非常 ひじょう に小規模 しょうきぼ な部隊 ぶたい で、陸軍 りくぐん を支援 しえん する役割 やくわり に委 ゆだ ねられていた。海軍 かいぐん は沿岸 えんがん と河川 かせん のパトロールしかできず、空軍 くうぐん は地上 ちじょう 支援 しえん にほぼ特 とく 化 か した構成 こうせい だった。どちらも時代遅 じだいおく れの兵器 へいき プラットフォーム、貧弱 ひんじゃく な通信 つうしん 機器 きき 、予備 よび 部品 ぶひん の不足 ふそく 、熟練 じゅくれん した人材 じんざい の不足 ふそく に苦 くる しんでいた[ 54] 。
そこで国軍 こくぐん は、1957年 ねん 頃 ごろ から、西 にし ドイツの国営 こくえい 兵器 へいき 製造 せいぞう 会社 かいしゃ ・フリッツ・ヴェルナー(Fritz Werner)と提携 ていけい して、自動 じどう 小銃 しょうじゅう 、機関 きかん 銃 じゅう 、手榴弾 しゅりゅうだん 、迫撃 はくげき 砲 ほう 、小 しょう 火器 かき 弾薬 だんやく などを製造 せいぞう しるカパサを建設 けんせつ し始 はじ めた。さらにイタリアも加 くわ わり、最初 さいしょ に製造 せいぞう された小 しょう 火器 かき はBA-52または "Ne Win Sten "として知 し られる、イタリア製 せい 9mmTZ-45 サブマシンガンのコピーだった。設計 せっけい は粗 あら く、性能 せいのう もいまいちだったが、1980年代 ねんだい 半 なか ばまでは歩兵 ほへい の、1990年代 ねんだい 初 はじ めまでは支援 しえん 大隊 だいたい の標準 ひょうじゅん 的 てき なサブマシンガンであり続 つづ けた。同時 どうじ にアメリカ、イギリス、西 にし ドイツ、ユーゴスラビア、イスラエルからの兵器 へいき の輸入 ゆにゅう も続 つづ けられた。国軍 こくぐん の主要 しゅよう な兵器 へいき 調達 ちょうたつ のほとんどは、1950年代 ねんだい と1960年代 ねんだい 初 はじ めに行 おこな われ、その後 ご 1990年代 ねんだい に入 はい るまでほとんど更新 こうしん されず、兵器 へいき の近代 きんだい 化 か は大幅 おおはば に遅 おく れていた[ 55] 。
2024年 ねん 10月 がつ 現在 げんざい 、カパサは全国 ぜんこく に25あり、国軍 こくぐん の火力 かりょく の半分 はんぶん を供給 きょうきゅう していると言 い われている[ 56] 。1950年代 ねんだい から建設 けんせつ が始 はじ まった初期 しょき のカパサは、そのほとんどがヤンゴンとその周辺 しゅうへん 、エーヤワディー川 がわ の西岸 せいがん 、バゴー地方 ちほう 域 いき のピイ 周辺 しゅうへん 、マグウェ地方 ちほう 域 いき にあったが、現在 げんざい 、大半 たいはん はマグウェ地方 ちほう 域 いき にあり、残 のこ りはバゴー にある(CDM参加 さんか 軍人 ぐんじん によると、2024年 ねん 10月 がつ 現在 げんざい 、マグウェ地方 ちほう 域 いき に15、バゴー地方 ちほう 域 いき に7、ヤンゴン地方 ちほう 域 いき に1、ネピドーに2[ 56] )。カパサがこの2つの地域 ちいき に集中 しゅうちゅう している理由 りゆう は、(1)マグウェとバゴーは歴史 れきし 的 てき に国軍 こくぐん 支配 しはい 地域 ちいき に位置 いち していた(2)マグウェとバゴーは、辺鄙 へんぴ な場所 ばしょ にあり、人口 じんこう もまばらで、ビルマ族 ぞく 仏教徒 ぶっきょうと が多 おお く、安全 あんぜん 性 せい が確保 かくほ されている(3)工場 こうじょう の多 おお くはエーヤワディー川 がわ の西岸 せいがん 沿 ぞ いに建設 けんせつ され、兵器 へいき の生産 せいさん に必要 ひつよう な原材料 げんざいりょう 、部品 ぶひん 、アイテム、機器 きき 、および弾薬 だんやく などの既製 きせい 品 ひん をさまざまな部隊 ぶたい に輸送 ゆそう するために交通 こうつう の便 びん の良 よ い場所 ばしょ にあるなどである。カパサは、この2つの地域 ちいき の中 なか でも人里 ひとざと 離 はな れた谷間 たにま に建設 けんせつ されることが多 おお く、自然 しぜん の隠 かく れ家 が になっているが、洪水 こうずい の被害 ひがい に見舞 みま われることも多 おお い。施設 しせつ はフェンスで囲 かこ まれ、労働 ろうどう 者 しゃ のための住宅 じゅうたく や高官 こうかん が訪 おとず れる時 とき のためのヘリポートが備 そな わっており、これらの地域 ちいき では珍 めずら しい舗装 ほそう された幹線 かんせん 道路 どうろ が通 かよ っている。1つの工場 こうじょう に3000人 にん ~5000人 にん の労働 ろうどう 者 しゃ がいて、国防 こくぼう 技術 ぎじゅつ 学校 がっこう (DSTA)の職員 しょくいん が監督 かんとく しているのだという[ 53] 。
8888民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう 後 ご 、西側 にしがわ 諸国 しょこく からの兵器 へいき 全面 ぜんめん 禁輸 きんゆ に直面 ちょくめん した国軍 こくぐん は、中国 ちゅうごく に活路 かつろ を求 もと めた。1989年 ねん 、当 とう 陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう だったタンシュエが中国 ちゅうごく を訪問 ほうもん して14億 おく ドルの兵器 へいき 取引 とりひき 契約 けいやく を結 むす び、1987年 ねん から1997年 ねん の間 あいだ にミャンマーが輸入 ゆにゅう した13億 おく 8000万 まん ドルの兵器 へいき のうち、実 じつ に80%が中国 ちゅうごく 製 せい だった[ 24] 。1989年 ねん の天安門 てんあんもん 事件 じけん で国際 こくさい 的 てき に孤立 こりつ していた中国 ちゅうごく が、同 おな じく国際 こくさい 的 てき に孤立 こりつ していたミャンマーに、経済 けいざい 協力 きょうりょく と合 あ わせて接近 せっきん を図 はか った格好 かっこう だった[ 57] 。他 ほか にもイスラエル、北朝鮮 きたちょうせん 、パキスタン、ポーランド、ロシア、シンガポール、ユーゴスラビアから兵器 へいき を輸入 ゆにゅう し、その内容 ないよう も弾薬 だんやく 、軽 けい 火器 かき 、重 じゅう 携行 けいこう 火器 かき 、輸送 ゆそう 用 よう 装備 そうび などの戦力 せんりょく 維持 いじ 目的 もくてき とするものに留 と まらず、装甲 そうこう 兵員 へいいん 輸送 ゆそう 車 しゃ 、大砲 たいほう 、対空 たいくう (AA)兵器 へいき 、ヘリコプター、軽 けい 攻撃 こうげき 機 き などの正規 せいき 戦 せん を想定 そうてい した戦力 せんりょく 増強 ぞうきょう 、高度 こうど 化 か を意図 いと するもの、コルベット、フリゲート、ミサイル装備 そうび の巡視 じゅんし 艇 てい 、武装 ぶそう ヘリコプター、超 ちょう 音速 おんそく 戦闘 せんとう 機 き 、多連装 たれんそう ロケット発射 はっしゃ などの新 しん 兵器 へいき と多岐 たき に渡 わた り、これまで軽視 けいし されてきた海 うみ 空軍 くうぐん の強化 きょうか も図 はか った。2001年 ねん と2009年 ねん にはロシアからミグ29 を、ぞれぞれ12、20機 き 購入 こうにゅう している[ 58] 。また北朝鮮 きたちょうせん の支援 しえん を受 う けたトンネル建設 けんせつ や核兵器 かくへいき 開発 かいはつ 疑惑 ぎわく が持 も ち上 あ がったこともある。
2000年代 ねんだい に入 はい ると、国軍 こくぐん は主要 しゅよう な兵器 へいき 輸入 ゆにゅう 先 さき を中国 ちゅうごく からロシアに切 き り替 か え、その後 ご もインドや韓国 かんこく など輸入 ゆにゅう 先 さき の多角 たかく 化 か を図 はか っている[ 59] 。2017年 ねん から2021年 ねん の国軍 こくぐん の兵器 へいき 輸入 ゆにゅう 先 さき は、中国 ちゅうごく が36%、ロシアが27%、インドが17%となっている。
2021年 ねん クーデター以降 いこう 、ロシアとの関係 かんけい はますます緊密 きんみつ になり、ユソフ・イサーク研究所 けんきゅうじょ (ISEAS) (英語 えいご 版 ばん ) のレポートによると、2021年 ねん から2022年 ねん の間 あいだ にミャンマー軍 ぐん に2億 おく 7600万 まん $相当 そうとう の物資 ぶっし を供給 きょうきゅう したのに対 たい し、中国 ちゅうごく からは1億 おく 5600万 まん $相当 そうとう 、国連 こくれん の報告 ほうこく 書 しょ によると、同 おな じ期間 きかん にロシアの団体 だんたい はミャンマーに4億 おく 600万 まん $相当 そうとう の防衛 ぼうえい 物資 ぶっし を移転 いてん し、中国 ちゅうごく は2億 おく 6700万 まん $で2位 い だった。他 ほか にも、ロシアの軍事 ぐんじ 技術 ぎじゅつ 者 しゃ が、ミャンマー空軍 くうぐん でロシア製 せい 航空機 こうくうき の整備 せいび を手伝 てつだ っていたり、ラカイン州 しゅう でのドローン戦争 せんそう で国軍 こくぐん を支援 しえん している者 もの がおり、他 た の戦闘 せんとう 地域 ちいき でも同様 どうよう のことが行 おこな われている可能 かのう 性 せい があると言 い われている [ 60] 。
ミャンマー内戦 ないせん においては、反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく が市販 しはん のドローンと3Dプリンターで作 つく った部品 ぶひん を組 く み合 あ わせた自家製 じかせい ドローンを生産 せいさん ・使用 しよう して、戦果 せんか を上 あ げていた。しかし、2023年 ねん 10月 がつ から2024年 ねん 1月 がつ にかけての1027作戦 さくせん で手痛 ていた い敗北 はいぼく を喫 きっ した後 のち は、国軍 こくぐん も無人 むじん 航空機 こうくうき (ドローン)の重要 じゅうよう 性 せい に気 き づき、ドローン専 せん 門 もん の部隊 ぶたい を新 あら たに編成 へんせい し、徴集 ちょうしゅう 兵 へい の基礎 きそ 訓練 くんれん にドローン戦術 せんじゅつ を導入 どうにゅう し、数 すう 百 ひゃく 機 き のドローンを兵器 へいき 化 か した。ロシアや中国 ちゅうごく からドローンやドローンの部品 ぶひん を輸入 ゆにゅう し、非常 ひじょう に高 こう 品質 ひんしつ のドローン用 よう の弾薬 だんやく を積 つ んでいるのだという[ 61] 。
「ミャンマー陸軍 りくぐん の装備 そうび 品 ひん 一覧 いちらん 」を参照 さんしょう
「ミャンマー海軍 かいぐん 艦艇 かんてい 一覧 いちらん 」も参照 さんしょう
ミャンマー国軍 こくぐん 機構 きこう 図 ず (1988)。中西 なかにし 嘉宏 よしひろ 著 ちょ 『軍政 ぐんせい ビルマの権力 けんりょく 構造 こうぞう 』P243
国軍 こくぐん は、国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん の下 した に陸 りく ・海 うみ ・空軍 くうぐん それぞれの参謀 さんぼう 次長 じちょう が置 お かれ、各 かく 軍 ぐん を統括 とうかつ している。1962年 ねん 以降 いこう は国防 こくぼう 大臣 だいじん を国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん が兼任 けんにん したため、実質 じっしつ 的 てき な国軍 こくぐん の最高 さいこう 責任 せきにん 者 しゃ は国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん で、次 つぎ が陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう だった。陸 りく ・海 うみ ・空軍 くうぐん のうち陸軍 りくぐん が圧倒的 あっとうてき に大 おお きいので、陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう がNo.2になるのである。他 た に国防省 こくぼうしょう と陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ の内局 ないきょく 全般 ぜんぱん を統括 とうかつ する国防省 こくぼうしょう の兵站 へいたん 局長 きょくちょう と軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう 、陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ を統括 とうかつ する陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 大佐 たいさ 、陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 内 ない に設 もう けられた情報 じょうほう 局 きょく が重要 じゅうよう だった[ 63] 。
人事 じんじ に関 かん しては、国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん や陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう の最 さい 重要 じゅうよう 職 しょく にはネウィンが信頼 しんらい する人物 じんぶつ が長期間 ちょうきかん 務 つと める傾向 けいこう があったのに対 たい し、その他 た の職 しょく はパターン化 か した昇進 しょうしん システムを採用 さいよう し、昇進 しょうしん から外 はず れた者 もの は、前述 ぜんじゅつ したように速 すみ やかにBSPP、人民 じんみん 議会 ぎかい 、行政 ぎょうせい 機関 きかん に出向 しゅっこう させてその懐柔 かいじゅう を図 はか り、分断 ぶんだん 人事 じんじ や諜報 ちょうほう 機関 きかん の監視 かんし によって彼 かれ らの不満 ふまん を抑制 よくせい した[ 64] 。1990年代 ねんだい 以降 いこう は数々 かずかず の経済 けいざい 特権 とっけん もそれに加 くわ わる。ネウィン時代 じだい は許容 きょよう されていなかったが、現在 げんざい は地位 ちい を利用 りよう して金銭 きんせん 的 てき 利益 りえき を得 え ることは黙認 もくにん される傾向 けいこう が強 つよ いのだという[ 65] 。
国軍 こくぐん の中心 ちゅうしん である陸軍 りくぐん の基礎 きそ となる部隊 ぶたい の単位 たんい は歩兵 ほへい 大隊 だいたい であり、歩兵 ほへい 大隊 だいたい は4個 こ 中隊 ちゅうたい からなる将校 しょうこう ・兵士 へいし 合 あ わせて800人 にん の部隊 ぶたい だった。1961年 ねん までは北部 ほくぶ 、南部 なんぶ の2軍 ぐん 管区 かんく の下 した 、数個 すうこ 大隊 だいたい ごとに第 だい 1旅団 りょだん から第 だい 13旅団 りょだん までの旅団 りょだん 制 せい が採 と られていたが、1961年 ねん に軍 ぐん 管区 かんく 制 せい が敷 し かれ、当初 とうしょ は東南 とうなん 、西南 せいなん 、中央 ちゅうおう 、西北 せいほく 、東部 とうぶ の5軍 ぐん 管区 かんく 制 せい だったが、1972年 ねん にはこれにヤンゴン、北部 ほくぶ 、東北 とうほく 、西部 せいぶ の4軍 ぐん 管区 かんく を加 くわ えた9軍 ぐん 管区 かんく 制 せい となり、さらに1966年 ねん には1個 いっこ 師団 しだん 約 やく 10個 こ の大隊 だいたい で構成 こうせい される陸軍 りくぐん の直轄 ちょっかつ の歩兵 ほへい 師団 しだん が設立 せつりつ され、兵力 へいりょく も10万 まん 人 にん から1980年代 ねんだい 末 まつ には20万 まん 人 にん に拡大 かくだい した[ 63] 。さらに2010年 ねん までに陸軍 りくぐん の特別 とくべつ 作戦 さくせん 部 ぶ が2から6へ、軍 ぐん 管区 かんく が9から13へ、歩兵 ほへい 師団 しだん が8から10へ拡大 かくだい 、兵力 へいりょく も1992年 ねん には27万 まん 人 にん 、2007年 ねん には40万 まん 人 にん に拡大 かくだい した[ 24] 。兵士 へいし の供給 きょうきゅう 源 げん となっているのは、ドライゾーンと呼 よ ばれるミャンマー中央 ちゅうおう 部 ぶ の貧困 ひんこん 地域 ちいき で、口減 くちべ らし目的 もくてき で国軍 こくぐん に入隊 にゅうたい したり、あるいは強制 きょうせい 的 てき に入隊 にゅうたい させられていたのだという[ 26] 。
歴代 れきだい 国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん [ 66]
氏名 しめい
在任 ざいにん 期間 きかん
前 ぜん 職 しょく
備考 びこう
アウンサン少将 しょうしょう
1945年 ねん - 1947年 ねん 7月 がつ 19日 にち
ボーレッヤ准 じゅん 将 しょう
1947年 ねん - 1948年 ねん
スミス・ドゥン中将 ちゅうじょう
1948年 ねん 1月 がつ 4日 にち - 1949年 ねん 1月 がつ 31日 にち
カレン族 ぞく
ネウィン大将 たいしょう
1949年 ねん 2月 がつ 1日 にち - 1972年 ねん 4月 がつ 20日 はつか
サンユ 大将 たいしょう
1972年 ねん 4月 がつ 20日 はつか - 1974年 ねん 3月 がつ 1日 にち
陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう
1981年 ねん 大統領 だいとうりょう
ティンウー 大将 たいしょう
1974年 ねん 3月 がつ 1日 にち - 1976年 ねん 3月 がつ 6日 にち
ビルマ国防 こくぼう 次官 じかん 兼 けん 陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう
日本 にっぽん 軍政 ぐんせい 期 き 士官 しかん 学校 がっこう 第 だい 3期生 きせい
国民 こくみん 民主 みんしゅ 連盟 れんめい (NLD)副 ふく 議長 ぎちょう
チョーティン大将 たいしょう
1976年 ねん 3月 がつ 6日 にち - 1985年 ねん 11月3日 にち
陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう
第 だい 4ビルマ・ライフル部隊 ぶたい 出身 しゅっしん
ソウマウン 上級 じょうきゅう 大将 たいしょう
1985年 ねん 11月4日 にち - 1992年 ねん 4月 がつ 22日 にち
陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう
士官 しかん 訓練 くんれん 学校 がっこう (OTS)第 だい 6期生 きせい
タンシュエ 上級 じょうきゅう 大将 たいしょう
1992年 ねん 4月 がつ 22日 にち - 2011年 ねん 3月 がつ 30日 にち
陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 次長 じちょう
士官 しかん 訓練 くんれん 学校 がっこう (OTS)第 だい 9期生 きせい
ミンアウンフライン 上級 じょうきゅう 大将 たいしょう
2011年 ねん 3月 がつ 30日 にち -
陸海空 りくかいくう 軍 ぐん 統合 とうごう 参謀 さんぼう 長 ちょう
国軍 こくぐん 士官 しかん 学校 がっこう (DSA)第 だい 19期生 きせい
2021年 ねん のクーデター で三権 さんけん を掌握 しょうあく
1962年 ねん にクーデターで政権 せいけん を奪取 だっしゅ したネウィンは、機能 きのう 不全 ふぜん に陥 おちい っていた軍 ぐん 情報 じょうほう 局 きょく (Military Intelligence Service:MIS)の改革 かいかく に乗 の り出 だ した。改革 かいかく を担 にな ったのは、ネウィンが若 わか い頃 ころ から目 め をかけていた、モン族 ぞく のティンウー(Tin Oo)だった(1974年 ねん から1976年 ねん まで国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん を務 つと め、NLD副 ふく 議長 ぎちょう も務 つと めたティンウーとは別人 べつじん )[ 67] 。ネウィンは日本 にっぽん 軍 ぐん の指揮 しき 下 か にあった時 とき 、憲兵 けんぺい 隊 たい 仕込 しこ みの諜報 ちょうほう 術 じゅつ を習得 しゅうとく したと言 い われており、それをティンウーに授 さづ けた[ 68] 。その後 ご 、1957年 ねん にサイパン島 とう に派遣 はけん されてCIAの訓練 くんれん を受 う け、さらにイギリスの王立 おうりつ 憲兵 けんぺい 隊 たい (RMP)でも訓練 くんれん を受 う けた。1962年 ねん のクーデターの際 さい には元 もと 大統領 だいとうりょう のウィンマウン や元 もと 首相 しゅしょう のウー・ヌの世話 せわ 役 やく を担 にな った[ 67] 。
MISの監視 かんし の対象 たいしょう になっていたのは、国内 こくない の反 はん 政府 せいふ 武装 ぶそう 勢力 せいりょく 、反 はん 体制 たいせい 活動 かつどう 家 か 、麻薬 まやく 組織 そしき などだった。当時 とうじ 、シャン州 しゅう を占拠 せんきょ していた中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう 軍 ぐん はCIAから、ビルマ共産党 きょうさんとう (CPB)は中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう からの支援 しえん を受 う けていた。MISはスパイを炙 あぶ り出 だ すだけではなく、軍事 ぐんじ 作戦 さくせん 遂行 すいこう に必要 ひつよう な情報 じょうほう を戦場 せんじょう にいる司令 しれい 官 かん たちに提供 ていきょう して、MISの監視 かんし の目 め は、海外 かいがい 亡命 ぼうめい 者 しゃ や外国 がいこく の使節 しせつ 団 だん 、一般 いっぱん 市民 しみん にも及 およ び、日常 にちじょう 的 てき に無線 むせん 通信 つうしん を傍受 ぼうじゅ し、国内外 こくないがい の電話 でんわ を盗聴 とうちょう し、私的 してき な会話 かいわ を録音 ろくおん し、郵便 ゆうびん 物 ぶつ を開封 かいふう していた[ 69] 。またMISには独自 どくじ の刑務所 けいむしょ と拷問 ごうもん センターがあり、多 おお くの政治 せいじ 犯 はん が取 と り調 しら べ中 ちゅう に拷問 ごうもん を受 う けて死亡 しぼう したと伝 つた えられている。
MISは軍人 ぐんじん も監視 かんし の対象 たいしょう として、その告発 こくはつ を恐 おそ れ、軍人 ぐんじん が国軍 こくぐん の忠実 ちゅうじつ であろうとするインセンティブになっていると言 い われていた。軍人 ぐんじん が失脚 しっきゃく する際 さい は、大抵 たいてい 、MISが入手 にゅうしゅ した情報 じょうほう にもとづく収賄 しゅうわい その他 た の経済 けいざい 犯罪 はんざい であることが多 おお かった。
MISは1965年 ねん と1976年 ねん の2度 ど 、軍人 ぐんじん によるネウィン暗殺 あんさつ 計画 けいかく を阻止 そし している。1965年 ねん 、チャウズワミン(Kyaw Zwa Myint)というイギリス人 じん とビルマ族 ぞく との混血 こんけつ で、キリスト教徒 きりすときょうと である陸軍 りくぐん 大尉 たいい が、ネウィン暗殺 あんさつ を計画 けいかく したとして指名 しめい 手配 てはい された。暗殺 あんさつ の理由 りゆう は「ビルマ社会 しゃかい 主義 しゅぎ への道 みち 」が国家 こっか 経済 けいざい を破滅 はめつ に導 みちび くことに気 き づいたからとも、国内 こくない のキリスト教徒 きりすときょうと 弾圧 だんあつ に憤 いきどお りを覚 おぼ えたからとも、ネウィンの妻 つま ・キンメイザンに近 ちか づきすぎたからとも言 い われる。チャウズワミンはタイへ逃亡 とうぼう し、バンコクのレストランで食事 しょくじ 中 ちゅう にネウィンが送 おく った刺客 しかく に刺 さ され、危 あや うく死 し にかけたが、なんとかオーストラリアまで逃 に げのび、その後 ご も暗殺 あんさつ を恐 おそ れて同郷 どうきょう のミャンマー人 じん たちとの交際 こうさい を一切 いっさい 絶 た ったまま、1981年 ねん に49歳 さい で亡 な くなった。残 のこ された彼 かれ の家族 かぞく は全員 ぜんいん 逮捕 たいほ され、国軍 こくぐん にいたイギリス人 じん との混血 こんけつ の兵士 へいし たちは、ほとんど解雇 かいこ された。インド人 じん とユダヤ人 じん の血 ち を引 ひ き、カソリックで、後年 こうねん 、国家 こっか 秩序 ちつじょ 回復 かいふく 評議 ひょうぎ 会 かい (SLORC)で経済 けいざい 閣僚 かくりょう を歴任 れきにん したデヴィッド・アベル(David Abel)は数少 かずすく ない例外 れいがい だった[ 70] 。1976年 ねん には、前年 ぜんねん のティンウー国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん が更迭 こうてつ に不満 ふまん を抱 だ いていたオーチョーミン(Ohn Kyaw Myint (英語 えいご 版 ばん ) )陸軍 りくぐん 大尉 たいい 以下 いか 若 わか い陸軍 りくぐん 将校 しょうこう のグループが、ネウィン大統領 だいとうりょう 、サンユBSPP書記 しょき 長 ちょう 、そしてティンウー国家 こっか 情報 じょうほう 局長 きょくちょう の暗殺 あんさつ を計画 けいかく した。暗殺 あんさつ は3月 がつ 27日 にち ヤンゴンの大統領 だいとうりょう 官邸 かんてい で開催 かいさい された国軍 こくぐん 記念 きねん 日 び の晩餐 ばんさん 会 かい で決行 けっこう する予定 よてい だったが、グループの連携 れんけい が上手 うま くいかず失敗 しっぱい 。後日 ごじつ 、再 さい 決行 けっこう する予定 よてい だったが、その前 まえ に情報 じょうほう が漏 も れた。4月2日 にち 、オーチョーミンはアメリカ大使館 あめりかたいしかん に赴 おもむ き政治 せいじ 亡命 ぼうめい を求 もと めた。しかし、当時 とうじ のアメリカ政府 せいふ はミャンマー政府 せいふ と良好 りょうこう な関係 かんけい を保 たも ちたいと考 かんが えていたので、これを拒否 きょひ 。結局 けっきょく 、裏切 うらぎ り者 もの が出 で てオーチョーミン以下 いか 計画 けいかく の首謀 しゅぼう 者 しゃ 13名 めい が逮捕 たいほ され、裁判 さいばん にかけられた後 のち 、オーチョーミンには死刑 しけい 判決 はんけつ が下 くだ され、1979年 ねん 執行 しっこう された。裁判 さいばん ではビルマ式 しき 社会 しゃかい 主義 しゅぎ に否定 ひてい 的 てき な国軍 こくぐん の首脳 しゅのう 部 ぶ ののかなりの数 かず が事前 じぜん に計画 けいかく を知 し っていたという事実 じじつ が明 あき らかにされ、ティンウー元 もと 国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん も暗殺 あんさつ 計画 けいかく に関 かか わったとして7年 ねん の懲役 ちょうえき 刑 けい を受 う けた。もう一人 ひとり チャウゾー(Kyaw Zaw)准 じゅん 将 しょう が計画 けいかく への関与 かんよ を疑 うたが われたが、逮捕 たいほ 直前 ちょくぜん にヤンゴンを脱出 だっしゅつ して、CPBに合流 ごうりゅう し、CPBの司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん した。後 のち に彼 かれ はクーデター後 ご からCPBに内通 ないつう しており、ヤンゴンでのテロ工作 こうさく に関与 かんよ していたことが明 あき らかにされた[ 71] [ 70] 。
MISの名前 なまえ は、“エムアイ”と文盲 もんもう の国民 こくみん の間 あいだ でさえ知 し れわたり、ティンウーは”MIティンウー”と呼 よ ばれ、恐 おそ れ、憎 にく まれていた[ 68] 。その一方 いっぽう でネウィンの絶大 ぜつだい な信頼 しんらい を得 え 、1974年 ねん の民政 みんせい 移管 いかん の際 さい には、大統領 だいとうりょう となったネウィンの特別 とくべつ 軍事 ぐんじ 顧問 こもん となり、1981年 ねん にネウィンが大統領 だいとうりょう を辞職 じしょく した後 のち は、BBSPの中央 ちゅうおう 執行 しっこう 委員 いいん 、国家 こっか 評議 ひょうぎ 会 かい のメンバー、そしてBSPP副 ふく 書記 しょき 長 ちょう となって党内 とうない No.3にまで出世 しゅっせ した。しかし、1983年 ねん 7月 がつ 、ティンウーは突然 とつぜん 、中央 ちゅうおう 執行 しっこう 委員 いいん と副 ふく 書記 しょき 長 ちょう を解任 かいにん され、11月、公共 こうきょう 財産 ざいさん 不正 ふせい 利用 りよう の罪 つみ で5回 かい の終身 しゅうしん 刑 けい を受 う けた。政敵 せいてき に疎 うと まれ、謀略 ぼうりゃく にあったというのが、もっぱらの噂 うわさ だった[ 72] 。ティンウーは8888民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう の後 のち 、恩赦 おんしゃ を受 う けて釈放 しゃくほう され、その後 ご 瞑想 めいそう に拭 ふ ける生活 せいかつ を送 おく った後 のち 、ネウィンの秘密 ひみつ を暴露 ばくろ することもなく、1998年 ねん に亡 な くなった[ 73] 。
国防省 こくぼうしょう 情報 じょうほう 局 きょく (DDSI)
編集 へんしゅう
キンニュン
ティンウー失脚 しっきゃく 後 ご 、 アウンコー(Aung Koe) 大佐 たいさ という人物 じんぶつ がMISのトップになったが、1984年 ねん 、彼 かれ はラングーン事件 じけん を引 ひ き起 お こしてすぐに失脚 しっきゃく した。事件 じけん 当時 とうじ 、ゴルフをやっていたことがネウィンの怒 いか りを買 か ったのだという。代 か わりにトップに就 つ いたのが、ヤンゴン大学 だいがく 出身 しゅっしん で、当時 とうじ 、カレン州 しゅう の第 だい 44歩兵 ほへい 師団 しだん に所属 しょぞく していたキンニュン で、シンガポールの首相 しゅしょう だったリー・クアンユー が「もっとも聡明 そうめい な人物 じんぶつ 」と評 ひょう したほど、頭 あたま の切 き れる人物 じんぶつ だった[ 74] 。MISは国防省 こくぼうしょう 情報 じょうほう 局 きょく ( Directorate of the Defense Services Intelligence:DDSI)に改組 かいそ された。組織 そしき 図 ず としては、国家 こっか 情報 じょうほう 局 きょく (National Intelligence Bureau:NIB)の下 した にDDSIがあり、外務省 がいむしょう 、内務省 ないむしょう の情報 じょうほう 関係 かんけい 部局 ぶきょく 、国家 こっか 開発 かいはつ 経済 けいざい 省 しょう の関税 かんぜい 部局 ぶきょく 、入国 にゅうこく 管理 かんり ・人口 じんこう 省 しょう の入国 にゅうこく 管理 かんり 局 きょく を統括 とうかつ した[ 75] 。
1988年 ねん のクーデターの後 のち 設立 せつりつ された国家 こっか 秩序 ちつじょ 回復 かいふく 評議 ひょうぎ 会 かい (SLORC)では、キンニュンは第 だい 1書記 しょき 長 ちょう を務 つと めた。翌 よく 1989年 ねん 、兵士 へいし の反乱 はんらん によってCPBが崩壊 ほうかい すると、彼 かれ はすぐさま現地 げんち に飛 と んで、CPBの残留 ざんりゅう 勢力 せいりょく であるワ州 しゅう 連合 れんごう 軍 ぐん (UWSA)、ミャンマー民族 みんぞく 民主 みんしゅ 同盟 どうめい 軍 ぐん (MNDAA)、民族 みんぞく 民主 みんしゅ 同盟 どうめい 軍 ぐん (NDAA)、カチン新 しん 民主 みんしゅ 軍 ぐん (NDA-K)と停戦 ていせん 合意 ごうい を結 むす んだ。なおキンニュンは、ノンフィクション作家 さっか の高野 たかの 秀行 ひでゆき のワ州 しゅう 滞在 たいざい 記 き 『ビルマ・アヘン王国 おうこく 潜入 せんにゅう 記 き 』を英訳 えいやく させて、熟読 じゅくどく していたのだという[ 76] 。この後 のち 、キンニュン主導 しゅどう で国軍 こくぐん は多 おお くの少数 しょうすう 民族 みんぞく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく と停戦 ていせん 合意 ごうい を結 むす んでいった。
SLORC/SPDC下 か でDDSIは拡大 かくだい され、1991年 ねん までに9つの新 しん 部隊 ぶたい が設立 せつりつ され、19の拷問 ごうもん センターを運営 うんえい しており、そのうち7つはヤンゴンにあり、中 なか でもYay Kyi Aing(「澄 す んだ池 いけ 」という意 い )は 悪名 あくめい 高 たか い[ 41] 。 1990年代 ねんだい 半 なか ばからは、ネットの監視 かんし を始 はじ め、E いー メールやSNSのチェックを行 おこな っていたが、2001年 ねん の段階 だんかい でミャンマーの電話 でんわ 加入 かにゅう 者 しゃ はわずか29万 まん 5千 せん 人 にん 、ネットユーザーは1000人 にん しかいなかったので、その諜報 ちょうほう 活動 かつどう も低 ひく いレベルに留 とど まっていた。DDSIは、8888民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう の際 さい に多 おお くの民主 みんしゅ 化 か 活動 かつどう 家 か が逃亡 とうぼう したタイでも諜報 ちょうほう 活動 かつどう を行 おこな っていた。キンニュンの右腕 うわん と言 い われていたテインスエ(Thein Swe)大佐 たいさ は、バンコクの国防 こくぼう 武官 ぶかん 時代 じだい に、タイの外交 がいこう 官 かん 、諜報 ちょうほう 員 いん 、情報 じょうほう 提供 ていきょう 者 しゃ 、一部 いちぶ メディアの間 あいだ に広範 こうはん なネットワークを構築 こうちく し[ 68] 、少数 しょうすう 民族 みんぞく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく の関係 かんけい 者 しゃ 、闇 やみ 商人 しょうにん 、麻薬 まやく ・人身 じんしん 売買 ばいばい 業者 ぎょうしゃ 、反 はん 体制 たいせい 政治 せいじ 活動 かつどう 家 か 、亡命 ぼうめい 者 しゃ 、難民 なんみん 、さらには外国 がいこく 人 じん ジャーナリストや学者 がくしゃ 、活動 かつどう 家 か などを監視 かんし し、ブラックリストを作成 さくせい していた。また中国 ちゅうごく 、インド、ASEAN諸国 しょこく 、イスラエルなどの諜報 ちょうほう 機関 きかん とも協力 きょうりょく 関係 かんけい を築 きず いていた[ 69] 。この時期 じき の国軍 こくぐん 最大 さいだい の敵 てき はNLD関係 かんけい 者 しゃ だったが、ミャンマー特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし を務 つと めた宮本 みやもと 雄二 ゆうじ によれば、NLDの会議 かいぎ の内容 ないよう は国軍 こくぐん に全部 ぜんぶ 筒抜 つつぬ けだったのだという[ 77] 。1993年 ねん には、元 もと NLD議員 ぎいん で、ビルマ連邦 れんぽう 国民 こくみん 連合 れんごう 政府 せいふ (NCGUB)の閣僚 かくりょう だった者 もの が2人 ふたり 、それぞれバンコクと昆 こん 明 あきら で暗殺 あんさつ されている[ 70] 。この時期 じき に形成 けいせい された諜報 ちょうほう 員 いん のネットワークは現在 げんざい でも生 い きていて、チェンマイ やメーソート など民主 みんしゅ 化 か 活動 かつどう 家 か やカレン民族 みんぞく 同盟 どうめい (KNU)の関係 かんけい 者 しゃ が多 おお い地域 ちいき では、国軍 こくぐん の諜報 ちょうほう 員 いん が活動 かつどう していると言 い われている[ 68] 。
2001年 ねん 、DDSIは戦略 せんりゃく 研究所 けんきゅうじょ (Office of Strategic Studies:OSS)と合併 がっぺい して軍 ぐん 情報 じょうほう 総局 そうきょく (Office of the Chief of Military Intelligence:OCMI)となり、2003年 ねん 、キンニュンは首相 しゅしょう に任命 にんめい された。しかし2004年 ねん 10月 がつ 19日 にち 、キンニュンは突然 とつぜん 、自宅 じたく で拘束 こうそく され、22日 にち にはOCMIは解体 かいたい され、政府 せいふ 高官 こうかん 27人 にん を含 ふく むOCMIの幹部 かんぶ 約 やく 300人 にん も逮捕 たいほ され、約 やく 3000人 にん の職員 しょくいん が退職 たいしょく ・配転 はいてん となった。その後 ご 、キンニュンは44年 ねん の禁固刑 きんこけい を受 う け、自宅 じたく 軟禁 なんきん 下 か に置 お かれた。形式 けいしき 的 てき には、キンニュン失脚 しっきゃく の約 やく 2週間 しゅうかん 前 まえ にOCMI局員 きょくいん 100人 にん が国境 こっきょう 検問 けんもん 所 しょ における税金 ぜいきん 着服 ちゃくふく の罪 つみ で摘発 てきはつ された責任 せきにん を問 と われたということだったが、より本義 ほんぎ 的 てき には、OCMI局長 きょくちょう と首相 しゅしょう を兼 か ね、ミャンマーの体外 たいがい 的 てき な顔役 かおやく となり、「政府 せいふ 内 ない 政府 せいふ 」「経済 けいざい 内 ない 経済 けいざい 」とまで言 い われるほど強大 きょうだい 化 か したキンニュンをタンシュエSPCD議長 ぎちょう 、マウンエイ 副 ふく 議長 ぎちょう が脅威 きょうい と見 み なしたことが原因 げんいん と言 い われている。前年 ぜんねん の2003年 ねん 5月 がつ には、タンシュエ主導 しゅどう でスーチー一行 いっこう を襲撃 しゅうげき するディペイン事件 じけん が起 お きたが、キンニュンは何 なに も知 し らされておらず、非常 ひじょう な不快 ふかい 感 かん を示 しめ していたのだという[ 75] 。
軍 ぐん 保安 ほあん 局長 きょくちょう 事務所 じむしょ (OCMSA)
編集 へんしゅう
OCMI解体 かいたい 後 ご 、軍 ぐん 保安 ほあん 局長 きょくちょう 事務所 じむしょ (OCMSA)が設立 せつりつ されたが、強大 きょうだい 化 か したOCMIの二 に の轍 わだち を踏 ふ まないように、その活動 かつどう は軍事 ぐんじ 問題 もんだい に限定 げんてい されているとも伝 つた えられている。他 た にミャンマーで諜報 ちょうほう 活動 かつどう に携 たずさ わる組織 そしき は、ミャンマー警察 けいさつ (Myanmar Police Force (英語 えいご 版 ばん ) :MPF)傘下 さんか の政治 せいじ 問題 もんだい を捜査 そうさ する特別 とくべつ 情報 じょうほう 部 ぶ (Special Intelligence Branch:SB)と犯罪 はんざい 捜査 そうさ 部 ぶ (the Criminal Investigation Department:CID)、そして汚職 おしょく 、金融 きんゆう 犯罪 はんざい 、マネーロンダリングなどを捜査 そうさ する特別 とくべつ 捜査 そうさ 局 きょく (Bureau of Special Investigation (英語 えいご 版 ばん ) :BSI)などがある[ 69] 。
OCMSAの現在 げんざい のトップはイェウィンウー(Ye Win Oo (英語 えいご 版 ばん ) )中将 ちゅうじょう で、驚 おどろ くべきことにOCMSAの局員 きょくいん には、ミンアウンフラインの国軍 こくぐん 士官 しかん 学校 がっこう (DSA)の同期 どうき ・ングエ・トゥン(Ngwe Tun)大佐 たいさ 、8888民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう の際 さい にスーチー中傷 ちゅうしょう ビラを配布 はいふ する責任 せきにん 者 しゃ だったニャンリン(Nyan Linn)中佐 ちゅうさ 、そしてテインスエなど2004年 ねん の粛清 しゅくせい 劇 げき の際 さい に追放 ついほう された人物 じんぶつ が含 ふく まれており、またテインセイン政権 せいけん 下 か で、少数 しょうすう 民族 みんぞく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく との和平 わへい 交渉 こうしょう において重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たした人々 ひとびと が情報 じょうほう 提供 ていきょう 者 しゃ として活動 かつどう しているのだという[ 68] 。
2021年 ねん クーデター直後 ちょくご の2月 がつ 9日 にち 、すべての諜報 ちょうほう 機関 きかん を統括 とうかつ する国家 こっか 保安 ほあん 局 きょく (National Security Bureau:NSB)が設置 せっち され[ 78] 、イスラエルからスパイウェア ・システム、中国 ちゅうごく からCCTVを導入 どうにゅう してプライバシー規制 きせい を強化 きょうか しているとも伝 つた えられている。
またOCMSAの諜報 ちょうほう 員 いん が、破壊 はかい 活動 かつどう 、反 はん 政府 せいふ 抵勢力 せいりょく への二 に 重 じゅう スパイの配置 はいち 、偽 にせ PDFの結成 けっせい などさまざまな諜報 ちょうほう 活動 かつどう に携 たずさ わっているとも伝 つた えられている[ 79] 。
国軍 こくぐん は、独立 どくりつ 直前 ちょくぜん の1946年 ねん に士官 しかん 訓練 くんれん 学校 がっこう (Officers Training School:OTS)を設立 せつりつ していたが、訓練 くんれん 期間 きかん も訓練 くんれん マニュアルも訓練 くんれん 用 よう 兵器 へいき も不足 ふそく しており、兵士 へいし の質 しつ は低 ひく かった。1950年代 ねんだい 後半 こうはん には年間 ねんかん 2000人 にん から4000人 にん の脱走 だっそう 兵 へい がいたのだという[ 24] 。また将校 しょうこう についても、イギリス、インド、パキスタンなどの国々 くにぐに の訓練 くんれん 学校 がっこう に派遣 はけん して養成 ようせい していたが、それも不十分 ふじゅうぶん だった。当時 とうじ 、国軍 こくぐん No.2だったアウンジーは以下 いか のように述 の べている。
軍事 ぐんじ 科学 かがく や軍事 ぐんじ 思想 しそう を理解 りかい しておらず、軍事 ぐんじ 史 し の知識 ちしき もなく、ゲリラ戦 せん 以上 いじょう の軍事 ぐんじ 経験 けいけん もない将校 しょうこう が大半 たいはん を占 し める国軍 こくぐん の質 しつ は非常 ひじょう に低 ひく いことを受 う け入 い れなければならない。
2021年 ねん 3月 がつ 27日 にち 国軍 こくぐん 記念 きねん 日 び 。旧 きゅう 日本 にっぽん 軍 ぐん 風 ふう の軍服 ぐんぷく を着 き て行進 こうしん する国軍 こくぐん 兵士 へいし たち。
こうした状態 じょうたい を憂慮 ゆうりょ した国軍 こくぐん は、軍事 ぐんじ 訓練 くんれん プログラムと訓練 くんれん 方針 ほうしん を学 まな ばせるために、多 おお くの軍事 ぐんじ 代表 だいひょう 団 だん をインド、パキスタン、イスラエル、ユーゴスラビア、東 ひがし ドイツ、英国 えいこく 、アメリカ、ソビエト連邦 れんぽう などに派遣 はけん した。1950年代 ねんだい に国軍 こくぐん 士官 しかん 学校 がっこう (Defence Services Academy:DSA)、国防 こくぼう 大学 だいがく (National Defence College:NDC)(1958年 ねん )などの教育 きょういく 施設 しせつ を設立 せつりつ 。入隊 にゅうたい 前 ぜん 教育 きょういく ・訓練 くんれん の双璧 そうへき はOSTとDSAで、両校 りょうこう の出身 しゅっしん 者 しゃ の間 あいだ には確執 かくしつ があるとも言 い われている。ネウィン時代 じだい は、昇進 しょうしん 人事 じんじ を円滑 えんかつ に行 おこな うために将校 しょうこう の数 かず は意図 いと 的 てき に低 ひく く抑 おさ えられていたが、タンシュエ時代 じだい には将校 しょうこう 団 だん の規模 きぼ が増大 ぞうだい し、国軍 こくぐん 士官 しかん 学校 がっこう (DSA)の卒業生 そつぎょうせい は1990年代 ねんだい 初期 しょき は100人 にん 台 だい だったものが、後期 こうき には200人 にん 台 だい となり、2000年代 ねんだい には2000人 にん 台 だい と激増 げきぞう した[ 24] 。
さらに留学 りゅうがく にも力 ちから を入 い れ、サンドハースト王立 おうりつ 陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう 等 とう イギリス、アメリカ、オーストラリアの名門 めいもん 士官 しかん 学校 がっこう に多数 たすう の将校 しょうこう を留学 りゅうがく させ、人材 じんざい 育成 いくせい に力 ちから を注 そそ いだ。ちなみにミャンマーの訓練 くんれん 学校 がっこう のマニュアルはイギリスのもの、教官 きょうかん は日本 にっぽん 軍 ぐん の下 した で訓練 くんれん を受 う けた者 もの が多 おお かったので、国軍 こくぐん は「日本 にっぽん 的 てき な心 しん を持 も った英国 えいこく 的 てき な組織 そしき 」とも言 い われているのだという。しかし軍事 ぐんじ 独裁 どくさい 政権 せいけん となった1962年 ねん 以降 いこう は、海外 かいがい 留学 りゅうがく は激減 げきげん 。1959年 ねん に106人 にん いた留学 りゅうがく 者 しゃ は、1970年代 ねんだい には1桁 けた 台 だい に落 お ちこみ、1980年代 ねんだい には2桁 けた 台 だい に回復 かいふく したものの、それでも1987年 ねん に36人 にん が留学 りゅうがく するだけだった[ 80] 。しかし、国家 こっか 法 ほう 秩序 ちつじょ 回復 かいふく 評議 ひょうぎ 会 かい (SLORC)成立 せいりつ 後 ご は、西側 にしがわ 諸国 しょこく からは制裁 せいさい を受 う けていたものの、再 ふたた び留学 りゅうがく が盛 さか んとなり、中国 ちゅうごく 、ロシア、マレーシア、シンガポール、インド、パキスタンなどの国々 くにぐに に多数 たすう の軍人 ぐんじん を派遣 はけん した。また戦力 せんりょく の近代 きんだい 化 か と拡大 かくだい 計画 けいかく の下 もと で、多 おお くの新 あたら しい訓練 くんれん 学校 がっこう を設立 せつりつ した[ 81] 。
国軍 こくぐん の海外 かいがい 経験 けいけん 不足 ふそく を捉 とら えて、その視野 しや の狭 せま さを指摘 してき する声 こえ もあるが、藤川 ふじかわ 大樹 だいき 、大橋 おおはし 洋一郎 よういちろう 共著 きょうちょ 『ミャンマー権 けん 力闘 りきとう 争 そう アウンサンスーチー、新 しん 政権 せいけん の攻防 こうぼう 』では以下 いか のように述 の べられている。
西側 にしがわ 諸国 しょこく には、ミャンマー国軍 こくぐん を「ならず者 もの 集団 しゅうだん 」と見 み なす向 む きがあるが、それは間違 まちが いだ。軍事 ぐんじ 政権 せいけん の支配 しはい が長引 ながび く中 なか 、優秀 ゆうしゅう な若者 わかもの たちは国軍 こくぐん を目指 めざ し、政治 せいじ ・経済 けいざい を牛耳 ぎゅうじ ってきた。今 いま も、国軍 こくぐん は国会 こっかい で一定 いってい の議席 ぎせき 数 すう を占 し め、天下 あまくだ りなどを通 つう じて主要 しゅよう 企業 きぎょう の多 おお くをコントロールしている。企業 きぎょう 経営 けいえい や金融 きんゆう など経済 けいざい 発展 はってん に必要 ひつよう なノウハウは国軍 こくぐん が握 にぎ っている[ 82] 。
また8888民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう を受 う けて、愛国 あいこく 教育 きょういく に力 ちから を入 い れた宿営 しゅくえい 地 ち 学校 がっこう (Cantonment School)と呼 よ ばれる学校 がっこう を全国 ぜんこく に約 やく 20校 こう 設立 せつりつ 。小学校 しょうがっこう から高校 こうこう まであり、校長 こうちょう は陸軍 りくぐん 心理 しんり 局 きょく 所属 しょぞく の大学院 だいがくいん 卒 そつ の軍人 ぐんじん で、教師 きょうし は大卒 だいそつ 以上 いじょう の軍人 ぐんじん の妻 つま が多 おお く、進歩 しんぽ 状 じょう 況 きょう も教育 きょういく 省 しょう ではなく陸軍 りくぐん 心理 しんり 局 きょく へ報告 ほうこく することになっている 。生徒 せいと の80%は軍人 ぐんじん 家庭 かてい 。残 のこ りは公務員 こうむいん 家庭 かてい で、生徒 せいと の成績 せいせき はおしなべて優秀 ゆうしゅう なのだという[ 83] 。
2021年 ねん クーデター後 ご は、国軍 こくぐん は仏教 ぶっきょう 教育 きょういく に力点 りきてん を置 お いたダンマ(Dhamma)・スクールを各地 かくち に設立 せつりつ している。教育 きょういく を担 にな っているのはミャンマー愛国 あいこく 協会 きょうかい (マバタ)やビルマ仏教 ぶっきょう 青年 せいねん 会 かい (YMBA) (英語 えいご 版 ばん ) などの国軍 こくぐん 系 けい の僧侶 そうりょ なのだという[ 84] 。
入隊 にゅうたい 前 ぜん 教育 きょういく ・訓練 くんれん [ 81]
名称 めいしょう
設立 せつりつ
場所 ばしょ
備考 びこう
国防 こくぼう (陸軍 りくぐん )士官 しかん 訓練 くんれん 学校 がっこう (DSOTS)
1946年 ねん
バトゥー(Ba Htoo)
1946年 ねん 、士官 しかん 訓練 くんれん 学校 がっこう (OTS)として設立 せつりつ 。将校 しょうこう 養成 ようせい 機関 きかん 。大卒 だいそつ 、高卒 こうそつ 、中卒 ちゅうそつ それぞれの学歴 がくれき に応 おう じた養成 ようせい コースがある。
国軍 こくぐん 士官 しかん 学校 がっこう (DSA)
1955年 ねん
ピン・ウー・ルウィン
将校 しょうこう 養成 ようせい 機関 きかん 。16歳 さい から19歳 さい までの高卒 こうそつ を入学 にゅうがく させ、4年間 ねんかん の訓練 くんれん を受 う ける。卒業 そつぎょう した士官 しかん 候補 こうほ 生 せい には学士 がくし 号 ごう か理 り 学士 がくし 号 ごう が授与 じゅよ され、国軍 こくぐん の3つの軍 ぐん のどこかに配属 はいぞく される。現在 げんざい 、コンピューター・サイエンスの学位 がくい コースも導入 どうにゅう しているが、コースの大 だい 部分 ぶぶん は軍事 ぐんじ 科学 かがく に充 あ てられている。
テザ(国軍 こくぐん 士官 しかん コース《OTC》)
1971年 ねん ~2002年 ねん
将校 しょうこう 養成 ようせい コース。2000年 ねん 、国軍 こくぐん はテザ将校 しょうこう の募集 ぼしゅう を停止 ていし 。2002年 ねん までに計 けい 30期 き 、合計 ごうけい 4,958人 にん のテザ将校 しょうこう が国軍 こくぐん に入隊 にゅうたい した。
国防 こくぼう 医学 いがく 学校 がっこう (DSMA)
1993年 ねん
ヤンゴン
国軍 こくぐん 唯一 ゆいいつ の医 い 官 かん 養成 ようせい 機関 きかん 。1950年代 ねんだい 初 はじ めから、医学部 いがくぶ 卒業 そつぎょう 者 しゃ を対象 たいしょう とした国家 こっか 公務員 こうむいん 制度 せいど を実施 じっし してきたが、1990年代 ねんだい になると採用 さいよう が難 むずか しくなり、1993年 ねん 、国防 こくぼう 医学 いがく 研究所 けんきゅうじょ ( DSIM)として設立 せつりつ され、その後 ご 改称 かいしょう 。
国防 こくぼう 技術 ぎじゅつ 学校 がっこう (DSTA)
1994年 ねん
ピン・ウー・ルウィン
1994年 ねん 、国防 こくぼう 技術 ぎじゅつ 大学 だいがく ( DSIT)として設立 せつりつ 。1999年 ねん 改称 かいしょう 。技官 ぎかん 養成 ようせい 機関 きかん 。機械 きかい 工学 こうがく 、土木 どぼく 工学 こうがく 、電力 でんりょく 工学 こうがく 、電子 でんし 工学 こうがく 、防衛 ぼうえい 産業 さんぎょう 工学 こうがく 、化学 かがく 工学 こうがく 、海洋 かいよう 工学 こうがく 、航空 こうくう 工学 こうがく 、冶金 やきん 工学 こうがく の学位 がくい を取得 しゅとく できる。2006年 ねん には海軍 かいぐん 建築 けんちく 、海洋 かいよう 電気 でんき システム・エレクトロニクス、航空 こうくう 宇宙 うちゅう ・航空 こうくう 工学 こうがく 、航空 こうくう 宇宙 うちゅう 推進 すいしん ・飛行 ひこう 体 たい 、メカトロニクスの5つのカテゴリーが追加 ついか された。DSTAは国軍 こくぐん 将校 しょうこう のための大学院 だいがくいん コースも提供 ていきょう している。
国防 こくぼう 看護 かんご ・医療 いりょう 従事 じゅうじ 者 しゃ 科学 かがく 研究所 けんきゅうじょ (DSINPS)
2000年 ねん
ヤンゴン
2000年 ねん 、国防 こくぼう 看護 かんご 大学 だいがく (DSIN)として設立 せつりつ 。2002年 ねん 改称 かいしょう 。看護 かんご 士官 しかん 訓練 くんれん センター。卒業生 そつぎょうせい は国軍 こくぐん に徴用 ちょうよう されず、在学 ざいがく 中 ちゅう に少尉 しょうい から中佐 ちゅうさ までの官職 かんしょく に任命 にんめい される。看護 かんご 学 がく や、薬学 やくがく 、放射線 ほうしゃせん 学 がく 、理学 りがく 療法 りょうほう 、医療 いりょう 技術 ぎじゅつ などの医療 いりょう 従事 じゅうじ 者 しゃ 科学 かがく の4年 ねん 制 せい の学位 がくい プログラムでは、男性 だんせい 候補者 こうほしゃ のみを募集 ぼしゅう 。
入隊 にゅうたい 後 ご 教育 きょういく ・訓練 くんれん [ 81]
名称 めいしょう
設立 せつりつ
場所 ばしょ
備考 びこう
指揮 しき 幕僚 ばくりょう 大学 だいがく (CGSC)
1948年 ねん
カロー
1948年 ねん 、ビルマ陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 学校 がっこう (BASC)として設立 せつりつ 。1996年 ねん 改称 かいしょう 。毎年 まいとし 、陸海空 りくかいくう 軍 ぐん から少佐 しょうさ と中佐 ちゅうさ の下級 かきゅう 将校 しょうこう と警察官 けいさつかん 数 すう 名 めい が大佐 たいさ への昇進 しょうしん のために選抜 せんばつ され、約 やく 12ヶ月 かげつ 間 あいだ の訓練 くんれん を受 う ける。訓練 くんれん 生 せい のほとんどは陸軍 りくぐん 出身 しゅっしん で、空軍 くうぐん 、海軍 かいぐん 、警察 けいさつ 出身 しゅっしん の将校 しょうこう はわずか。その教育 きょういく の趣旨 しゅし は(1)歩兵 ほへい 師団 しだん を指揮 しき できる将校 しょうこう の育成 いくせい と地方 ちほう 司令 しれい 部 ぶ のスタッフ業務 ぎょうむ の遂行 すいこう (2)国防 こくぼう 政策 せいさく 、軍事 ぐんじ ドクトリン、国際 こくさい 政治 せいじ 、地域 ちいき 政治 せいじ 、軍事 ぐんじ 科学 かがく 、地政学 ちせいがく 、ミャンマーの現在 げんざい の政治 せいじ ・社会 しゃかい 経済 けいざい 状況 じょうきょう との相関 そうかん 関係 かんけい の枠組 わくぐ みの中 なか で、軍事 ぐんじ 問題 もんだい に対 たい する迅速 じんそく かつ正 ただ しい解決 かいけつ 策 さく を見出 みいだ すことができるような将校 しょうこう の養成 ようせい である。指揮 しき 、軍事 ぐんじ 指導 しどう 、幕僚 ばくりょう 任務 にんむ 、ジャングル戦 せん の特殊 とくしゅ 戦術 せんじゅつ 、河川 かせん 横断 おうだん 戦 せん 、山脈 さんみゃく 戦 せん 、低地 ていち 戦 せん 、トンネル戦 せん 、ゲリラ戦 せん 、コマンド、ABC(原子 げんし ・生物 せいぶつ ・化学 かがく )戦 せん 、合同 ごうどう 作戦 さくせん 、人民 じんみん 戦争 せんそう 戦略 せんりゃく 、情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう 技術 ぎじゅつ 、支援 しえん 部隊 ぶたい などのコースがある。
国防 こくぼう 情報 じょうほう センター(DSIC)
1950年 ねん
1950年 ねん 、軍事 ぐんじ 情報 じょうほう 訓練 くんれん センター(MITC)として設立 せつりつ 。1958年 ねん 改称 かいしょう 。情報 じょうほう 将校 しょうこう のためのコースを提供 ていきょう 。尋問 じんもん 、情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう と分析 ぶんせき 、特別 とくべつ 警備 けいび 作戦 さくせん 、その他 た の専門 せんもん 科目 かもく の訓練 くんれん を受 う ける。
国防 こくぼう 信号 しんごう 電気 でんき 学校 がっこう (DSSES)
1951年 ねん
1951年 ねん 、ビルマ信号 しんごう 訓練 くんれん 連隊 れんたい (BSTR)として設立 せつりつ 。1997年 ねん 改称 かいしょう 。戦闘 せんとう レベルの信号 しんごう 運用 うんよう に関 かん する基本 きほん 的 てき な知識 ちしき を得 え る。信号 しんごう 部隊 ぶたい の将校 しょうこう は、信号 しんごう 小隊 しょうたい 、信号 しんごう 中隊 ちゅうたい 、信号 しんごう (電子 でんし )工学 こうがく のためのコースを受講 じゅこう しなければならない。これらのコースには、無線 むせん 操作 そうさ 、信号 しんごう 情報 じょうほう 、傍受 ぼうじゅ 、暗号 あんごう 作成 さくせい と解読 かいどく 、電子 でんし 戦 せん などが含 ふく まれる。 電子 でんし ・情報 じょうほう 技術 ぎじゅつ の発展 はってん に追 お いつくため、歩兵 ほへい 将校 しょうこう のための新 あたら しいコースが数多 かずおお く開講 かいこう されており、これには C4 I(指揮 しき 、統制 とうせい 、通信 つうしん 、コンピュータ、情報 じょうほう )戦 せん の基礎 きそ コースもある。
国防 こくぼう 工兵 こうへい 学校 がっこう (DSES)
1952年 ねん
ピン・ウー・ルウィン
1952年 ねん 、ビルマ陸軍 りくぐん 工兵 こうへい 隊 たい センター(BAECC)として設立 せつりつ 。1997年 ねん 改称 かいしょう 。工兵 こうへい 部隊 ぶたい の将校 しょうこう その他 た の階級 かいきゅう の軍人 ぐんじん を対象 たいしょう 。将校 しょうこう 向 む けには地雷 じらい 作業 さぎょう 、野外 やがい 工学 こうがく 、トンネル戦 せん 、土木 どぼく 工学 こうがく のコースがある。
国防 こくぼう (陸軍 りくぐん )戦闘 せんとう 部隊 ぶたい 学校 がっこう (DSCFS)
1955年 ねん
バインナウン(Bayinnaung)
1952年 ねん 、ビルマ陸軍 りくぐん 中央 ちゅうおう 学校 がっこう (BACS)として設立 せつりつ 。2000年 ねん に新設 しんせつ された。陸軍 りくぐん 士官 しかん の訓練 くんれん 所 しょ 。3ヶ月 かげつ ~5ヶ月 かげつ 間 あいだ 、軍事 ぐんじ 指導 しどう 、幕僚 ばくりょう 任務 にんむ 、軍事 ぐんじ 戦略 せんりゃく ・戦術 せんじゅつ 、軍事 ぐんじ 法規 ほうき 、戦史 せんし 、戦争 せんそう 原理 げんり 、対 たい 反乱 はんらん 戦 せん などを学 まな ぶ。
国防 こくぼう 大学 だいがく (NDC)
1958年 ねん
ヤンゴン
上級 じょうきゅう 士官 しかん を対象 たいしょう 。ほとんどが大佐 たいさ 。1998年 ねん に修士 しゅうし コースを導入 どうにゅう 。(1)国家 こっか の独立 どくりつ と主権 しゅけん 、国民 こくみん の連帯 れんたい 、ミャンマー連邦 れんぽう の発展 はってん と進歩 しんぽ を永続 えいぞく させるために、適切 てきせつ な軍事 ぐんじ ドクトリンと公共 こうきょう 政策 せいさく を研究 けんきゅう ・開発 かいはつ できる(2) 国家 こっか の安全 あんぜん 保障 ほしょう に密接 みっせつ に関 かか わる軍事 ぐんじ 問題 もんだい 、国内 こくない 政治 せいじ 、経済 けいざい 問題 もんだい 、国家 こっか 政策 せいさく の目的 もくてき を理解 りかい できる。(3)近代 きんだい 先進 せんしん 国 こく 建設 けんせつ のための国際 こくさい ・国内 こくない 政策 せいさく を決定 けってい するうえで、相互 そうご に関連 かんれん し重要 じゅうよう な軍事 ぐんじ 的 てき 、政治 せいじ 的 てき 、後方 こうほう 支援 しえん 的 てき 、経営 けいえい 的 てき 、心理 しんり 的 てき 要因 よういん を分析 ぶんせき し、効率 こうりつ 的 てき に活用 かつよう することができる(4)国家 こっか の防衛 ぼうえい ・安全 あんぜん 保障 ほしょう 目標 もくひょう と国家 こっか 政策 せいさく の目的 もくてき を分析 ぶんせき し、国家 こっか 目標 もくひょう を支援 しえん するために、平和 へいわ と戦争 せんそう の両方 りょうほう において、将来 しょうらい の国家 こっか 大 だい 戦略 せんりゃく を策定 さくてい することができる人材 じんざい を育成 いくせい 。演習 えんしゅう の一環 いっかん として国家 こっか 安全 あんぜん 保障 ほしょう 計画 けいかく の立案 りつあん も義務付 ぎむづ けられている。卒業生 そつぎょうせい は、准 じゅん 将 はた 以上 いじょう への昇進 しょうしん が検討 けんとう され、司令 しれい 官 かん と幕僚 ばくりょう の両方 りょうほう の役職 やくしょく に就 つ くことができる。
陸 りく 空戦 くうせん ・空挺 くうてい 部隊 ぶたい 学校 がっこう (LAWPS)
1958年 ねん
1958年 ねん 、陸 りく 空戦 くうせん 学校 がっこう (LAWS)として設立 せつりつ 。1963年 ねん 、落下傘 らっかさん 部隊 ぶたい 学校 がっこう と合併 がっぺい して改称 かいしょう 。空挺 くうてい 作戦 さくせん を学 まな ぶ。
国防 こくぼう 行政 ぎょうせい 学校 がっこう (DSAS)
1964年 ねん
ピン・ウー・ルウィン
1964年 ねん 、ビルマ陸軍 りくぐん 行政 ぎょうせい 支援 しえん 訓練 くんれん 学校 がっこう (BAASTS)として設立 せつりつ 。1997年 ねん 改称 かいしょう 。将校 しょうこう コースは、優秀 ゆうしゅう な准尉 じゅんい 将校 しょうこう や準 じゅん 士官 しかん 、司法 しほう 将校 しょうこう を育成 いくせい することを目的 もくてき としている。ほとんどすべての下級 かきゅう 将校 しょうこう はDSASのコースを受講 じゅこう することが義務付 ぎむづ けられている。
装甲 そうこう ・砲兵 ほうへい 訓練 くんれん 学校 がっこう (AAS)
1990年 ねん
ピン・ウー・ルウィン
1994年 ねん 、国防 こくぼう 技術 ぎじゅつ 大学 だいがく ( DSIT)として設立 せつりつ 。1999年 ねん 改称 かいしょう 。砲兵 ほうへい 、装甲 そうこう 、防空 ぼうくう 大隊 だいたい に勤務 きんむ する将校 しょうこう その他 た の階級 かいきゅう の軍人 ぐんじん が対象 たいしょう 。多 おお くの下士官 かしかん 、主 おも に任官 にんかん 直後 ちょくご の将校 しょうこう が、砲兵 ほうへい 訓練 くんれん のためにAASに行 い く。
国防 こくぼう 機械 きかい ・電気 でんき 工学 こうがく 学校 がっこう (DSMEES)
1990年 ねん
ピン・ウー・ルウィン
将校 しょうこう を対象 たいしょう に小隊 しょうたい レベルおよび中隊 ちゅうたい レベルのコースを提供 ていきょう 。その内容 ないよう は、兵器 へいき システムの整備 せいび と修理 しゅうり 、レーダー検査 けんさ 、ミサイル整備 せいび 、電子 でんし 機器 きき 整備 せいび などである。
特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい 訓練 くんれん センター
空軍 くうぐん と海軍 かいぐん の士官 しかん を対象 たいしょう 。空軍 くうぐん 向 む けには、基本 きほん 飛行 ひこう 、航法 こうほう 、航空 こうくう 交通 こうつう 、管制塔 かんせいとう の操作 そうさ 、輸送 ゆそう 機 き の飛行 ひこう 、ヘリコプターの飛行 ひこう 、防空 ぼうくう システムなどのコースがある。海軍 かいぐん 向 む けは、電子 でんし 情報 じょうほう 、水雷 すいらい ・魚雷 ぎょらい 作戦 さくせん 、水雷 すいらい 掃海 そうかい 、航海 こうかい 、測量 そくりょう 、海軍 かいぐん コマンド、海軍 かいぐん 砲兵 ほうへい などのコースがある。
戦闘 せんとう 関連 かんれん 組織 そしき 活動 かつどう 訓練 くんれん センター(CROATC)
ビルマ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 計画 けいかく 党 とう (BSPP)のイデオロギー教育 きょういく センターで、地方 ちほう 司令 しれい 部 ぶ でイデオロギー教育 きょういく センターを運営 うんえい していて、廃止 はいし された中央 ちゅうおう 政治 せいじ 学院 がくいん の代 か わりの教育 きょういく 機関 きかん 。すべての軍人 ぐんじん はCROATCで3ヶ月 かげつ のコースを受講 じゅこう しなければならない。
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