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ミャンマー軍 - Wikipedia

ミャンマーぐん(ミャンマーぐん、ビルマ: တပ်မတော်慣用かんようラテン文字もじ表記ひょうき: Tatmadaw、ALA-LCこぼしほう: tapʻ ma toʻ、IPA: [taʔmədɔ̀] タッマドー)は、ミャンマー(ビルマ)の国軍こくぐん

ミャンマーぐん
တပ်မတော်
派生はせい組織そしき ミャンマー陸軍りくぐん
ミャンマー海軍かいぐん
ミャンマー空軍くうぐん
ミャンマー警察けいさつぐん
指揮しきかん
そう司令しれいかん 上級じょうきゅう大将たいしょう ミン・アウン・フライン
国防こくぼう大臣だいじん 中将ちゅうじょう セイン・ウィン英語えいごばん[1]
参謀さんぼうちょう つぎきゅう大将たいしょう Soe Win
そう人員じんいん
兵役へいえき適齢てきれい 16さい~49さい
徴兵ちょうへい制度せいど あり
適用てきよう年齢ねんれい 18さい~35さい
げんそう人員じんいん 406,000
財政ざいせい
予算よさん 21おくドル(2017ねん推定すいてい[2]
軍費ぐんぴ/GDP 3.15%(IMF推定すいていの2017-2018ねん名目めいもくGDPにたいする比率ひりつ[2]
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国防省こくぼうしょう英語えいごばん統括とうかつしたミャンマー陸軍りくぐんミャンマー海軍かいぐん英語えいごばんミャンマー空軍くうぐん英語えいごばんからなり、そう兵力へいりょく陸軍りくぐん(37.5まんにん)、海軍かいぐん(1.6まんにん)、空軍くうぐん(1.5まんにんわせて40.6まんにんわれている[2]有事ゆうじさいにはミャンマー警察けいさつぐん種々しゅじゅ民兵みんぺい組織そしきピューソーティー民兵みんぺい)、国境警備隊こっきょうけいびたいふくめることもある。ASEAN国々くにぐになかでは、ベトナム人民じんみんぐん兵力へいりょくほこる。陸軍りくぐん中心ちゅうしん海軍かいぐん空軍くうぐん地位ちいひくいというのが、国軍こくぐん特徴とくちょうである。

国内こくない民族みんぞく紛争ふんそうかかえる事情じじょうから、たいゲリラせんおよ山岳さんがくせんおも任務にんむとしたけい歩兵ほへい部隊ぶたい主力しゅりょくとしている。また、きゅう東西とうざいりょう陣営じんえい距離きょりき、1962ねん軍事ぐんじクーデター以降いこうはいかなる軍事ぐんじ同盟どうめいむすばなかったため、外国がいこくからだい規模きぼ軍事ぐんじ援助えんじょおこなわれておらず(わずかに米国べいこくからたい麻薬まやく作戦さくせんようとして限定げんていりょう装備そうび供与きょうよされた)、長年ながねん軍備ぐんび貧相ひんそうなものだった。しかし、1990年代ねんだい以降いこうは、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくきゅう東側ひがしがわ諸国しょこくウクライナセルビアなど)、インドイスラエル北朝鮮きたちょうせんひとしから主力しゅりょく戦車せんしゃ歩兵ほへい戦闘せんとうしゃはしほう対空たいくうミサイルなどを新旧しんきゅうわず大量たいりょう購入こうにゅうし、機甲きこう部隊ぶたい機械きかい歩兵ほへい部隊ぶたい新設しんせつして増強ぞうきょうしている。

同国どうこくでは独立どくりつ直後ちょくごから少数しょうすう民族みんぞく独立どくりつ闘争とうそうビルマ共産党きょうさんとう(CPB)の反乱はんらん、さらに国共こっきょう内戦ないせんやぶれた中華民国ちゅうかみんこくぐん侵入しんにゅうがあり、一時いちじ国家こっか崩壊ほうかい危機ききおちいったが、国軍こくぐん反転はんてん攻勢こうせいによって平野へいやでは1960年代ねんだい支配しはいけん回復かいふくした。以降いこう少数しょうすう民族みんぞく武装ぶそう勢力せいりょく共産党きょうさんとう武装ぶそう組織そしき山岳さんがく地帯ちたい根拠地こんきょちとして闘争とうそう継続けいぞく国軍こくぐんかく少数しょうすう民族みんぞく地域ちいき完全かんぜん支配しはいけん確立かくりつするほどの決定けっていりょくっておらず、膠着こうちゃく状態じょうたいつづいた。しかし1990年代ねんだいはいり、しょ事情じじょうにより少数しょうすう民族みんぞく武装ぶそう勢力せいりょく弱体じゃくたい。1990年代ねんだいから2010年代ねんだいにかけて国軍こくぐんかく少数しょうすう民族みんぞく武装ぶそう勢力せいりょくとの停戦ていせん合意ごうい相次あいついだ。しかし2021ねんクーデターこうふたた戦闘せんとう活発かっぱつしている。

後述こうじゅつするように、1988ねん以降いこう国軍こくぐん近代きんだい増強ぞうきょうすすめてきた。しかし、それにまらず、国軍こくぐん基地きち防衛ぼうえい施設しせつ商業しょうぎょう企業きぎょう教育きょういく機関きかん医療いりょうセンター、研究けんきゅう施設しせつなどの広大こうだい人的じんてき物的ぶってきネットワークを構築こうちくして、「国家こっかない国家こっか」の様相ようそうていしており、国民こくみんから独立どくりつした存在そんざいとなっている。現在げんざい軍人ぐんじんとその家族かぞくつよ支持しじしゃふくめた国軍こくぐん関係かんけいしゃ人口じんこうは、やく200まんにん人口じんこうの4%をめているとわれている。国軍こくぐん幹部かんぶクローニーばれるきの企業きぎょうたちは、自分じぶんたちが特別とくべつ責任せきにん特別とくべつ権利けんり特権とっけん階級かいきゅうだとかんがえる傾向けいこうがあるが、その一方いっぽうで、末端まったん兵士へいしたちの待遇たいぐうめぐまれておらず、慢性まんせいてき士気しきひくく、脱走だっそうへいおおいとつたえられている[3]

名称めいしょう

編集へんしゅう
 
2021ねん3がつ27にち国軍こくぐん記念きねんのパレード。

「タッマドー(Tatmadaw)」という名称めいしょうは、ミャンマーで「王立おうりつぐん」を意味いみする。現在げんざい、ミャンマーには王室おうしつはないため、「栄光えいこう」という意味いみかいされている。2021ねんのクーデター以降いこう、この名称めいしょう国民こくみんあいだでは使用しようひかえられており、一般いっぱんにはたんに「ぐん」を意味いみする「シッタ(Sit-Tat)」という言葉ことば使つかわれている[4]日本にっぽん報道ほうどうでは「ミャンマーぐん」「ミャンマー国軍こくぐん」あるいはたんに「国軍こくぐん」とばれることがおおい。

国民こくみん評判ひょうばん

編集へんしゅう
 
アウンサン

ミャンマーじん大半たいはん仏教徒ぶっきょうとであるため、軍人ぐんじんという職業しょくぎょう一般いっぱんにあまり人気にんきがない。しかし独立どくりつ当初とうしょはイギリスや日本にっぽんから独立どくりつったということで、国軍こくぐん国民こくみん尊敬そんけいねんあつめていた。国軍こくぐん前身ぜんしん・ビルマ独立どくりつ義勇軍ぎゆうぐん(BIA)をひきいていたアウンサン(アウンサンスーチーちち)以下いか、30にん同志どうしたちは、現在げんざいでも国民こくみん英雄えいゆうである[3]

独立どくりつは、ビルマ共産党きょうさんとう(CPB)や少数しょうすう民族みんぞく武装ぶそう勢力せいりょくなどの反乱はんらんから国土こくどまもったということで、国民こくみん支持しじはいっそうたかまった。当時とうじ、ネウィンは戦力せんりょく不足ふそくおぎなうために、国内こくない有力ゆうりょくしゃ協力きょうりょくした兵士へいしつのったのだが、国軍こくぐんへの支持しじたかかったので、比較的ひかくてき円滑えんかつおこなわれたのだという。1958ねん~1960ねんのネウィン選挙せんきょ管理かんりないかく評判ひょうばん上々じょうじょうで、1962ねんにネウィンがクーデターをこして政権せいけん奪取だっしゅしたときも、政党せいとう政治せいじ混乱こんらんおさめてくれると歓迎かんげいするこえおおかったのだという[3]

しかし、ビルマしき社会しゃかい主義しゅぎした経済けいざい状況じょうきょう生活せいかつ環境かんきょう悪化あっかすると、国軍こくぐん評価ひょうか徐々じょじょ低下ていかしていき、国軍こくぐん呵責かしゃくのない攻撃こうげき弾圧だんあつけた、国境こっきょう地帯ちたい少数しょうすう民族みんぞく人々ひとびとは、国軍こくぐんたいして憎悪ぞうおさえたぎらせるようになった。それでも8888民主みんしゅ運動うんどうまでは、国民こくみん無能むのう軍事ぐんじ政権せいけん国軍こくぐん区別くべつしており、国軍こくぐん庶民しょみんにも出世しゅっせ機会きかいあたえてくれる貴重きちょう存在そんざいで、国軍こくぐん士官しかん学校がっこう(DSA)への志願しがんしゃきもらず、専門せんもんせいがあり、汚職おしょくすくなく、団結だんけつしんつよいという評価ひょうかだった[3]

しかし、8888民主みんしゅ運動うんどうさい国軍こくぐんによるはげしい弾圧だんあつは、国民こくみん幻滅げんめつみ、そののスーチーや政治せいじはんたいしてかえされた人権じんけん侵害しんがい、2007ねんサフラン革命かくめいどき僧侶そうりょたいする暴力ぼうりょく、2008ねんサイクロン・ナルギスさい救助きゅうじょおくれは、さらに国軍こくぐん評価ひょうか低下ていかさせた。ミャンマー政治せいじ専門せんもん中西なかにし嘉宏よしひろによると、「そもそも民族みんぞく解放かいほうのためにたたかった軍隊ぐんたいとして尊敬そんけいあつめていた国軍こくぐんが、民衆みんしゅう抑圧よくあつしゃ認識にんしきされるようになったことにたいする問題もんだい意識いしきぐんないでもひろがっていた[5]」のだという[3]

これにたいして国軍こくぐん歴史れきし教育きょういくにおいて愛国心あいこくしん強調きょうちょうしたり、連邦れんぽう団結だんけつ発展はってん協会きょうかい(USDA)などさまざまな国軍こくぐん社会しゃかい団体だんたい結成けっせいしたり、全国ぜんこく規模きぼのプロパガンダキャンペーンを展開てんかいしたりして、国軍こくぐん評価ひょうか回復かいふくつとめたが、国民こくみん民主みんしゅ連盟れんめい(NLD)が参加さんかしなかった2010ねんそう選挙せんきょのぞいた、1990ねんそう選挙せんきょ2015ねんそう選挙せんきょ2020ねんそう選挙せんきょ国軍こくぐん政党せいとう惨敗ざんぱいしたことにかんがみるに、その効果こうかうたがわしい。2021ねんのクーデター以降いこうは、国軍こくぐん評価ひょうかさい底辺ていへんにまでちこみ、国軍こくぐん士官しかん学校がっこう志願しがんしゃ激減げきげん[6]している[3]

ビルマ王朝おうちょう時代じだい

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9世紀せいきから19世紀せいきまでのビルマ王朝おうちょう軍隊ぐんたい王立おうりつぐんという。王立おうりつぐんとは、とき系列けいれつじゅんパガン王朝おうちょうアヴァ王朝おうちょうタウングー王朝おうちょうコンバウン王朝おうちょう軍隊ぐんたいす。19世紀せいきにイギリスに60ねんかけてやぶれるまでのあいだ王立おうりつぐん東南とうなんアジアでも有数ゆうすう軍隊ぐんたいであった。

王立おうりつぐん首都しゅと宮殿きゅうでんまもすうせんにん規模きぼ独立どくりつ部隊ぶたいと、よりだい規模きぼ徴兵ちょうへいによる戦時せんじぐんかれて組織そしきされる。徴兵ちょうへいは、戦時せんじには地域ちいき首長しゅちょう管轄かんかつ区域くいきない人口じんこうもとづきあらかじめられたかずへい提供ていきょうさせる「ahmudanせい」を基盤きばんとしていた。また戦時せんじぐんにはせんぞうへい騎兵きへい砲兵ほうへい水軍すいぐん部隊ぶたいふくまれた。

火器かきは14世紀せいき中国ちゅうごくからはじめて導入どうにゅうされ、なんひゃくねんもかけて徐々じょじょ戦略せんりゃくれられるようになっていった。ポルトガルせい火縄銃ひなわじゅう大砲たいほう装備そうびした最初さいしょ特別とくべつ部隊ぶたいは16世紀せいき編成へんせいされた。この特別とくべつ火器かき部隊ぶたいのぞけば、通常つうじょう徴募ちょうぼへいたいする正式せいしき訓練くんれんはなく、かれ徴募ちょうぼへい自衛じえいのための基礎きそ知識ちしきと、自前じまえ火縄銃ひなわじゅう操作そうさ習熟しゅうじゅく期待きたいされているだけであった。18世紀せいきになって欧州おうしゅう列強れっきょうとの技術ぎじゅつおおきくなるにつれ、ぐん欧州おうしゅうからまれる、より洗練せんれんされた武器ぶき依存いぞんするようになっていった。

王立おうりつぐん隣国りんごく軍隊ぐんたいたいする防衛ぼうえいりょくたもっていたが、より技術ぎじゅつてきすすんだ欧州おうしゅう軍隊ぐんたいへの対抗たいこうりょく劣化れっかしていった。 王立おうりつぐんは、17世紀せいきと18世紀せいきにそれぞれ侵入しんにゅうしたポルトガルとフランスを撃退げきたいしたものの、19世紀せいき侵入しんにゅうしただいえい帝国ていこく軍事ぐんじりょくにはおよばず、だい1だい2だい3えいはる戦争せんそうやぶれた。1886ねん1がつ1にち、ビルマ王立おうりつぐんはイギリス政府せいふによって正式せいしき解散かいさんされた。

えいりょうビルマ(1885~1942)

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イギリス統治とうちのビルマでは、ビルマ植民しょくみん政府せいふは、ビルマじん兵士へいしひがしインド会社かいしゃ軍隊ぐんたい(そしてえいりょうインド陸軍りくぐん)に採用さいようすることはけ、わりに既存きそんのインドじんセポイとネパールじんグルカへいあらたな植民しょくみん駐屯ちゅうとんさせた。 ビルマじんたいする不信ふしんかんから、植民しょくみん政府せいふはこの禁令きんれいなんじゅうねん維持いじし、わりに先住民せんじゅうみんカレンぞくカチンぞくチンぞくによりにあたらしい植民しょくみんぐん編成へんせいすることを模索もさくした。 1937ねん植民しょくみん政府せいふ禁令きんれいりやめ、ビルマへいえいりょうインド陸軍りくぐん少数しょうすう入隊にゅうたいさせるようになった[7]

だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつえいりょうインド陸軍りくぐん唯一ゆいいつのビルマ連隊れんたいであるだい70ビルマライフル連隊れんたいは、カレンぞく、カチンぞく、チンぞくよりる3大隊だいたい構成こうせいされていた。戦争せんそうちゅう戦時せんじ要請ようせいにより、植民しょくみん政府せいふ禁令きんれい緩和かんわし、だい70ビルマライフル連隊れんたいにビルマ大隊だいたいを、だい85ビルマライフルにビルマ中隊ちゅうたいを、および7ビルマ機械きかい輜重しちょう中隊ちゅうたい編成へんせいした。さらに、ビルマじん中心ちゅうしんとした「ビルマ工兵こうへい(Burma Sappers and Miners)」(戦闘せんとう工兵こうへい)3中隊ちゅうたいと、チンぞくとビルマじんによる労働ろうどう兵団へいだん(Royal Pioneer Corps)1個いっこ中隊ちゅうたい編成へんせいされた。これらの部隊ぶたいはすべて1917ねん海外かいがい任務にんむ開始かいしした。だい70ビルマライフルが警備けいび任務にんむのためにエジプトで勤務きんむする一方いっぽう、ビルマ労働ろうどう兵団へいだんはフランスで勤務きんむした。ビルマ工兵こうへい1個いっこ中隊ちゅうたいは、メソポタミアのティグリスがわ渡河とか際立きわだったはたらきをせた[8] [9]

だいいち世界せかい大戦たいせんわると、植民しょくみん政府せいふはビルマじん兵士へいしやとうのをやめ、1個いっこ中隊ちゅうたいだけのこしてすべ解散かいさんさせ、のこした中隊ちゅうたいも1925ねんまでで廃止はいしされた。ビルマ工兵こうへい最後さいごのビルマ中隊ちゅうたいも1929ねん解散かいさんした[8]

わりに、インドの兵士へいしやその少数しょうすう民族みんぞくがビルマにおける植民しょくみんぐん主力しゅりょくとしてもちいられ、その植民しょくみんぐんが1930ねんから1931ねんにかけてサヤー・サンひきいたようなビルマ民族みんぞく反乱はんらん鎮圧ちんあつするためにもちいられた。1937ねん4がつ1にち、ビルマは分離ぶんりされた植民しょくみん(イギリス連邦れんぽうない自治領じちりょう)となり 、ビルマじんにも軍隊ぐんたいくわわる資格しかくあたえられたが、ビルマじんはほとんど入隊にゅうたいしなかった。 だい世界せかい大戦たいせんはじまるまえ、イギリス統治とうちのビルマぐんは、イギリスじん将校しょうこうだんのぞくと、カレンぞく(27.8%)、チンぞく(22.6%)、カチンぞく(22.9%)、ビルマじん12.3%で構成こうせいされていた[10]

日本にっぽん占領せんりょう

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1941ねん12月、大日本帝国だいにっぽんていこく助力じょりょくて、 30にん同志どうしビルマ独立どくりつ義勇軍ぎゆうぐん (BIA)を創設そうせつした。ビルマ独立どくりつ義勇軍ぎゆうぐんはアウンサンがひきい、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんがわってビルマのたたか参戦さんせんした。おおくの若者わかものがその部隊ぶたいくわわり、信頼しんらいできる推定すいていによればそのかずは15,000にんから23,000にん範囲はんいとされている。新兵しんぺいだい部分ぶぶんはビルマじんであったが、少数しょうすう民族みんぞくはほとんどいなかった。新兵しんぺいおおくは規律きりつけていた。エーヤワディーがわデルタ地域ちいきミャウンミャではBIAのビルマじんへいとカレンぞくあいだ民族みんぞく紛争ふんそう勃発ぼっぱつし、双方そうほう虐殺ぎゃくさつ行為こういおよんだ。BIAはすぐにビルマ防衛ぼうえいぐんえられ、1942ねん8がつ26にちに3せんにんのBIA古参こさんへいにより設立せつりつされた。ビルマが名目めいもくじょう独立どくりつ達成たっせいした1943ねん8がつ1にちぐんネウィン指揮しきかんとするビルマ国民こくみんぐんとなった。1944ねん後半こうはんには、やく15,000にん兵力へいりょくがあった[11]。その、ビルマ国民こくみんぐんは、形勢けいせい不利ふりとなった日本にっぽんとの関係かんけいるために、1945ねん3がつ27にち連合れんごうぐんがわくわわった。なお3がつ27にちたいにち蜂起ほうき記念きねんして国軍こくぐん記念きねんとなっている。

独立どくりつ(1948ねん~1958ねん

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1945ねん9がつのアウンサンと連合れんごうぐんとのあいだむすばれたキャンディ協定きょうていしたがい、えいりょうビルマぐんとビルマ愛国あいこくぐん統合とうごうしてミャンマーぐん以下いか国軍こくぐん)が編成へんせいされた。その将校しょうこうだんは、ビルマ愛国あいこくぐん将校しょうこうえいりょうビルマぐん将校しょうこう、およびビルマ予備よびぐん(ABRO)の将校しょうこうたちであった。また、植民しょくみん政府せいふは、民族みんぞくてき背景はいけいもとづいた「クラス大隊だいたい」というものの創設そうせつめた。独立どくりつ当時とうじ合計ごうけい15ライフル大隊だいたいがあり、そのうち4はビルマ愛国あいこくぐん出身しゅっしんしゃ構成こうせいされていた。しかし、もとビルマ愛国あいこくぐん将校しょうこうは、軍務ぐんむきょく(War Office)や司令しれいない影響えいきょうりょくのある役職やくしょくにはまった任命にんめいされず、工兵こうへい補給ほきゅう輸送ゆそう兵器へいき衛生えいせい海軍かいぐん空軍くうぐんふくすべての兵科へいかは、ビルマ予備よびぐんえいりょうビルマぐんもと将校しょうこうによって指揮しきされていた[よう出典しゅってん]。1948ねんのミャンマー独立どくりつ国軍こくぐん弱小じゃくしょう結束けっそくよわく、民族みんぞくてき背景はいけい政治せいじてき背景はいけい組織そしき由来ゆらい兵科へいかちがいによって亀裂きれつしょうじていた。なかでももっと深刻しんこく問題もんだいは、えいりょうビルマぐんからのカレンぞく将校しょうこうビルマ愛国あいこくぐん(PBF)からたビルマぞく将校しょうこうあいだ緊張きんちょうであった。[よう出典しゅってん]

1948ねんのミャンマーぐん民族みんぞく系統けいとう部隊ぶたい構成こうせい[12]
大隊だいたい 民族みんぞく / 軍隊ぐんたい構成こうせい
だい1ビルマライフル ビルマぞく (軍事ぐんじ警察けいさつ +アウンサンのビルマ愛国あいこくぐん連携れんけいしたタウングーゲリラ集団しゅうだん構成こうせいいん
だい2ビルマライフル 2カレンぞく中隊ちゅうたい1個いっこチンぞく中隊ちゅうたい1個いっこカチンぞく中隊ちゅうたい
だい3ビルマライフル ビルマぞく / もとビルマ愛国あいこくぐん指揮しきかんチョーゾー(Kyaw Zaw )少佐しょうさBC-3504
だい4ビルマライフル ビルマぞく / もとビルマ愛国あいこくぐん指揮しきかんネウィン(Ne Win)中佐ちゅうさ BC-3502
だい5ビルマライフル ビルマぞく / もとビルマ愛国あいこくぐん指揮しきかんゼヤ(Zeya)中佐ちゅうさBC-3503
だい6ビルマライフル 1947ねん後半こうはんにアウンサンが暗殺あんさつされたのち編成へんせいされた。ビルマぞく / もとビルマ愛国あいこくぐん初代しょだい指揮しきかんはゼヤ(Zeya)中佐ちゅうさ
だい1カレンライフル カレンぞく / もとえいりょうビルマぐんもとビルマ予備よびぐん
だい2カレンライフル カレンぞく /もとえいりょうビルマぐんもとビルマ予備よびぐん
だい3カレンライフル カレンぞく /もとえいりょうビルマぐんもとビルマ予備よびぐん
だい1カチンライフル チンポーぞく /もとえいりょうビルマぐんもとビルマ予備よびぐん
だい2カチンライフル カチンぞく /もとえいりょうビルマぐんもとビルマ予備よびぐん
だい1チンライフル チンぞく /もとえいりょうビルマぐんもとビルマ予備よびぐん
だい2チンライフル チンぞく/もとえいりょうビルマぐんもとビルマ予備よびぐん
だい4ビルマ連隊れんたい ビルマグルカ
チン丘陵きゅうりょう大隊だいたい チンぞく
軍務ぐんむきょく参謀さんぼう指揮しきかん配置はいち(1948)[13]
官職かんしょく 氏名しめい階級かいきゅう 民族みんぞく
そう参謀さんぼうちょう 中将ちゅうじょうスミス・ドン( Smith Dun) BC 5106 カレンぞく
陸軍りくぐん参謀さんぼうちょう じゅんはたSaw Kyar Doe BC 5107 カレンぞく
空軍くうぐん参謀さんぼうちょう 中佐ちゅうさ Saw Shi Sho BAF-1020 カレンぞく
海軍かいぐん参謀さんぼうちょう 中佐ちゅうさ Khin Maung Bo ビルマぞく
きたビルマ地区ちく司令しれいかん じゅんはたネウィン( Ne Win) BC 3502 ビルマぞく
みなみビルマ地区ちく司令しれいかん じゅんはたAung Thin BC 5015 ビルマぞく
だい1歩兵ほへい団長だんちょう じゅんはたSaw Chit Khin カレンぞく
軍政ぐんせい総監そうかん 中佐ちゅうさ Kyaw Win ビルマぞく
法務ほうむ総監そうかん 大佐たいさ Maung Maung BC 4034 ビルマぞく
主計しゅけい総監そうかん 中佐ちゅうさSaw Donny カレンぞく

独立どくりつ英雄えいゆうとして名高なだかいアウンサン以下いかいわゆる”30にん同志どうし”が、現在げんざい国軍こくぐんいしずえきずいたとおもわれがちだが、しん生国しょうごくぐんのこったのはネウィン、チョーゾー(Kyaw Zaw)、ボー・バラ(Bo Bala)の3にんだけで、そのチョーゾーにしても1957ねん失脚しっきゃくビルマ共産党きょうさんとう(CPB)に参加さんかしており、のこりのメンバーもおおくがそのはん政府せいふ運動うんどうてんじている。ボー・ラ・ヤウン(Bo La Yaung )とボー・タヤ(Bo Taya)はPVOの反乱はんらん参加さんか、ボー・ゼヤ(Bo Zeya)、ボー・イェトゥット(Bo Ye Htut)、ボー・ヤン・アウン(Bo Yan Aung)はCPBに参加さんか、ボー・レット・ヤー(Bo Let Ya)、ボー・ヤン・ナイン、ボー・ムー・アウン(Bo Hmu Aung)、ボー・セキャ(Bo Setkya)はウー・ヌがタイ国境こっきょう結成けっせいしたはん政府せいふ武装ぶそう組織そしき議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎとう(PDP)に参加さんかした。1988ねん民主みんしゅ運動うんどうさいには30にん同志どうしのこり11にんのうち9にんがネウィンを糾弾きゅうだんし、デモへの参加さんかびかけた。このようにアウンサンスーチーが「ちち軍隊ぐんたい」とんだ国軍こくぐんは、アウンサンがひきいた国軍こくぐんとはまったく異質いしつなものだった[14]

1948ねん1がつ4にち独立どくりつ直後ちょくごからCPB、カレンぞく国軍こくぐんないのカレンぞく兵士へいしやCPBに同調どうちょうした勢力せいりょくなどが反乱はんらんこし、ミャンマーは内戦ないせん状態じょうたいとなった。この状況じょうきょうでウー・ヌ首相しゅしょうは。国軍こくぐんないのカレンぞく将校しょうこう兵士へいし全員ぜんいん解雇かいこし、わりにネウィンを陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう任命にんめい。これにて国軍こくぐんからえい植民しょくみんぐん影響えいきょう一掃いっそうされた。

ネウィンがひきいていただい4ビルマ・ライフル部隊ぶたいには社会しゃかい主義しゅぎしゃおおく、”社会しゃかい主義しゅぎ部隊ぶたい”とばれていたが、1948ねんから1950ねんにかけての反乱はんらん離反りはん鎮圧ちんあつさいにもほぼ唯一ゆいいつ無傷むきずのこった部隊ぶたいとなり、国軍こくぐん中核ちゅうかくとなっただけでなく、1962ねんにクーデターで成立せいりつしたネウィン軍事ぐんじ独裁どくさい政権せいけんでもけん部隊ぶたい出身しゅっしんしゃ要職ようしょくめ、ミャンマーの歴史れきしおおきな影響えいきょうおよぼした。軍事ぐんじ独裁どくさい政権せいけん最高さいこう権力けんりょく機関きかん革命かくめい評議ひょうぎかいは”だい4ビルマ・ライフル部隊ぶたい政権せいけん”とばれたほどである。革命かくめい評議ひょうぎかいNo.2だったアウンジー、ネウィンの片腕かたうでだったティンペ(Tin Pe)、チャウソー(Kyaw Soe)、1988ねん民主みんしゅ運動うんどう最中さいちゅう17日間にちかんだけ大統領だいとうりょうつとめたセインルイン(Sein Lwin)、1976ねんから1985ねんまで陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう、1976ねんから1988ねんまで国防こくぼうしょうつとめたチョーティン(Kyaw Htin)、1988ねんビルマ社会しゃかい主義しゅぎ計画けいかくとう(BSPP)から改名かいめいした国民こくみん統一とういつとう(NUP)初代しょだい党首とうしゅ・ウー・タギャウ(U Tha Gyaw)、ネウィンの専用せんようコックで、強大きょうだい権力けんりょくゆうしたラジュー(Raju)というインドじんみなだい4ビルマ・ライフル部隊ぶたい出身しゅっしんである[14]

選挙せんきょ管理かんりないかく(1958ねん~1960ねん

編集へんしゅう
 
ネウィン

独立どくりつのミャンマーの政治せいじは、はんファシスト人民じんみん自由じゆう連盟れんめい(AFPFL)が圧倒的あっとうてき多数たすう与党よとうだったが、腐敗ふはい権力けんりょく闘争とうそうがひどく、1957ねんにはウー・ヌの清廉せいれんAFPFLとバー・スエらビルマ社会党しゃかいとうのメンバーからなる安定あんていAFPFLに分裂ぶんれつかずてきおとっていたウー・ヌの清廉せいれん最大さいだい野党やとう左派さは勢力せいりょく民族みんぞくとういち戦線せんせん(NUF)をむために左傾さけいし、はん政府せいふ武装ぶそう勢力せいりょく恩赦おんしゃれいしたり、AFPFLの民兵みんぺい組織そしき人民じんみん義勇軍ぎゆうぐん(PVO)を合法ごうほうしたりした。ウー・ヌのこうした態度たいど国軍こくぐん一部いちぶ反発はんぱつ北部ほくぶぐん管区かんく司令しれいがクーデターを計画けいかくした。南部なんぶぐん管区かんく司令しれいはクーデターに反対はんたいしていたので、これは国軍こくぐん分裂ぶんれつ危機ききでもあった。計画けいかく事前じぜん察知さっちしたマウンマウンやアウンジーなどの国軍こくぐん幹部かんぶ両者りょうしゃあいだつために奔走ほんそう最終さいしゅうてきに1959ねん4がつまつまでにそう選挙せんきょおこなうことを条件じょうけんにネウィン国軍こくぐんそう司令しれいかんにに政権せいけん移譲いじょうすることで両者りょうしゃ合意ごういりつけ、1958ねん10がつ、ネウィン選挙せんきょ管理かんりないかく成立せいりつした。けん内閣ないかくは、武装ぶそう勢力せいりょく鎮圧ちんあつ治安ちあん回復かいふく物価ぶっかげ、行政ぎょうせい機構きこう刷新さっしん、ヤンゴンの美化びか、シャンしゅう・カレンニーしゅうこう伝統でんとうてき世襲せしゅう特権とっけん廃止はいし中国ちゅうごくとの国境こっきょう画定かくていなどそれなりの実績じっせきしつつ、約束やくそくどおり1960ねん2がつそう選挙せんきょ勝利しょうりした清廉せいれん政権せいけん返還へんかんした。この功績こうせきによりネウィンはアジアにおける社会しゃかい貢献こうけんなど傑出けっしゅつした功績こうせきたした個人こじん団体だんたいおくられるマグサイサイしょう候補こうほがった[15]

しかし、この清廉せいれん内閣ないかく安定あんていせず、結局けっきょく、1962ねん3がつ2にち、ネウィンはクーデターを決行けっこう、ウー・ヌ以下いかかく閣僚かくりょう、ヤンゴンで開催かいさいされていた連邦れんぽうセミナーに出席しゅっせきしていたシャンしゅうとカレンニーしゅう議員ぎいんたちを拘束こうそくした。ネウィンがクーデターをこした理由りゆうについては、シャンしゅうこうたちが中心ちゅうしんになって展開てんかいしていた「しん連邦れんぽうせい」をもとめる運動うんどうが、連邦れんぽう分裂ぶんれつをもたらしかねないと危機ききかんいていたためともわれるが(ミャンマー内戦ないせん#政界せいかい混乱こんらん連邦れんぽう分裂ぶんれつ危機きき)、中西なかにし嘉宏よしひろは、けん運動うんどう自治じちけん拡大かくだい主張しゅちょうする穏健おんけんなものであり、連邦れんぽう分裂ぶんれつ危機ききせまっていたわけではないとこのせつ否定ひていてきである[16]

ビルマ社会しゃかい主義しゅぎ計画けいかくとう(BSPP)時代じだい(1962ねん~1988ねん

編集へんしゅう
初代しょだい革命かくめい評議ひょうぎ会議かいぎいん階級かいきゅうとポスト[17]
役職やくしょく 名前なまえ 階級かいきゅうぐんしゅ ポスト
議長ぎちょう ネウィン 将軍しょうぐん陸軍りくぐん 国軍こくぐんそう司令しれいかん
議員ぎいん アウンジー じゅんはた陸軍りくぐん 陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょう
議員ぎいん タンペ じゅんはた海軍かいぐん 海軍かいぐん参謀さんぼう次長じちょう
議員ぎいん T.クリフ じゅんはた空軍くうぐん 空軍くうぐん参謀さんぼう次長じちょう
議員ぎいん ティンペ じゅんはた陸軍りくぐん 国軍こくぐん司令しれい兵站へいたん局長きょくちょう
議員ぎいん タンセイン 大佐たいさ陸軍りくぐん 国軍こくぐん司令しれい陸軍りくぐん高級こうきゅう参謀さんぼう
議員ぎいん チョーソー 大佐たいさ陸軍りくぐん 国軍こくぐん司令しれい人事じんじ局長きょくちょう
議員ぎいん チッミャイン 大佐たいさ陸軍りくぐん 国軍こくぐん司令しれいふく兵站へいたん局長きょくちょう
議員ぎいん キンニョー 大佐たいさ陸軍りくぐん 国軍こくぐん司令しれい訓練くんれん局長きょくちょう
議員ぎいん フラハン 大佐たいさ陸軍りくぐん 国軍こくぐん司令しれい医務いむ局長きょくちょう
議員ぎいん サンユ じゅんはた陸軍りくぐん 西北せいほくぐん管区かんく司令しれいかん
議員ぎいん セインウィン じゅんはた陸軍りくぐん 中央ちゅうおうぐん管区かんく司令しれいかん
議員ぎいん タウンチー 大佐たいさ陸軍りくぐん 東南とうなんぐん管区かんく司令しれいかん
議員ぎいん チマウン 大佐たいさ陸軍りくぐん 西南せいなんぐん管区かんく司令しれいかん
議員ぎいん マウンシュエ 大佐たいさ陸軍りくぐん 東部とうぶぐん管区かんく司令しれいかん
議員ぎいん ソーミン 大佐たいさ陸軍りくぐん 国境こっきょう地域ちいき行政ぎょうせいかん
議員ぎいん タンユサイン 大佐たいさ陸軍りくぐん 人民じんみん警察けいさつふく長官ちょうかん

クーデターをこしたネウィンは、国会こっかい解散かいさん、1947ねん憲法けんぽう停止ていし、ウー・ヌ以下いか主要しゅよう閣僚かくりょう逮捕たいほ拘束こうそく断行だんこうして、『ビルマしき社会しゃかい主義しゅぎへのみち[18]発表はっぴょうし、ビルマ社会しゃかい主義しゅぎ計画けいかくとう(BSPP)を結成けっせいしていちとう独裁どくさい国有こくゆう特徴とくちょうとする社会しゃかい主義しゅぎ国家こっか建設けんせつ目指めざした。しかし、BSPPが本格ほんかく始動しどうするのは1971ねんからであり、それまでは革命かくめい評議ひょうぎかいという組織そしきぜん権力けんりょく集中しゅうちゅうした。その構成こうせいは、1962ねん時点じてん陸軍りくぐん12まんにん海軍かいぐん3000にん空軍くうぐん2500にんという兵力へいりょく反映はんえいして、陸軍りくぐん圧倒的あっとうてき優位ゆういだった。

国軍こくぐんはネウィンの権力けんりょく源泉げんせんであるとともに脅威きょういでもあった。ゆえに革命かくめい評議ひょうぎかいには側近そっきんとともに、実際じっさい戦場せんじょう反乱はんらんぐん鎮圧ちんあつたっている地方ちほう司令しれいかん採用さいようし、ほかにもBSPPや国家こっか評議ひょうぎかい大臣だいじんふく大臣だいじん人民じんみん評議ひょうぎかいなどの行政ぎょうせい要職ようしょく国軍こくぐん将校しょうこう配置はいちして、その懐柔かいじゅうはかった[19]。ネウィンはBSPPをしん人民じんみん政党せいとうにすべく、とう国軍こくぐん分離ぶんりはかったが、結局けっきょく軍務ぐんむぐみかえしにあって失敗しっぱいした(ビルマ社会しゃかい主義しゅぎ計画けいかくとう#1974ねん民政みんせい移管いかん)。また行政ぎょうせい要職ようしょく国軍こくぐん将校しょうこう配置はいちしたことにより、えい植民しょくみん時代じだいから連綿れんめんつづいてきた官僚かんりょう機構きこう伝統でんとう能力のうりょくうしなわれ、現在げんざいいた官僚かんりょう人材じんざい不足ふそくつながっているとわれる[20]

また国軍こくぐんは、後述こうじゅつする人民じんみん戦争せんそう理論りろんにもとづく軍事ぐんじドクトリンのした人民じんみんぐんとしてのイメージが強調きょうちょうされ、プロパガンダでは、軍人ぐんじん農民のうみん労働ろうどうしゃ少数しょうすう民族みんぞく女性じょせいとの協調きょうちょう強調きょうちょうされていた[21]。この人民じんみんぐんのイメージのしたとうによる国軍こくぐん統制とうせいこころみられ、国防省こくぼうしょうとう中央ちゅうおう委員いいんからなる国軍こくぐんとう委員いいんかい設置せっちされたほか参謀さんぼう本部ほんぶぐん管区かんく司令しれい師団しだん司令しれいぐん地区ちく駐屯ちゅうとん基地きち基地きち司令しれい大隊だいたい部隊ぶたいレベルでとう組織そしき委員いいんかい設置せっちされた。しかしこれらの委員いいんかい現役げんえき将校しょうこうだけから構成こうせいされ、とうから派遣はけんされた政治せいじ将校しょうこう部隊ぶたいレベルの意思いし決定けってい関与かんよするコミッサールせいられず、とうによる国軍こくぐん統制とうせい限定げんていてきなものにとどまった。むしろすで退役たいえきしてBSPP議長ぎちょう大統領だいとうりょうしょくにあったネウィンが、けん制度せいど利用りようして国軍こくぐん統制とうせいするものとして機能きのうした[22]。ただただネウィンは個人こじん崇拝すうはいきらい、親族しんぞく優遇ゆうぐうすることもなかった。この姿勢しせいはそののSLORC/SPDC、SACにもがれている。ミャンマーの軍事ぐんじ独裁どくさいは、個人こじん独裁どくさい制度せいど独裁どくさいわされたものであり、そうじて、ネウィン時代じだいのミャンマーは、現在げんざいにもつうじる国家こっか国軍こくぐん従属じゅうぞくする関係かんけい深化しんかした時代じだいだった。

1985ねん11月、ソウマウン国軍こくぐんそう司令しれいかんに、タンシュエ陸軍りくぐん参謀さんぼうちょう就任しゅうにんした。2人ふたりとも士官しかん訓練くんれん学校がっこう(OTS)出身しゅっしん比較的ひかくてきわか世代せだいであり、世代せだい交代こうたいすすまないBSPP幹部かんぶとは対照たいしょうてき人事じんじだった。そして1988ねん9がつ8888民主みんしゅ運動うんどうによる混乱こんらんに、国軍こくぐんはクーデターをこし、憲法けんぽう議会ぎかい停止ていしして、国軍こくぐん幹部かんぶ19にんからなる国家こっか秩序ちつじょ回復かいふく評議ひょうぎかい(SLORC)設置せっちされ、ソウマウンが議長ぎちょういた。中西なかにし嘉宏よしひろは、このクーデターを現役げんえき将校しょうこうによる退役たいえき将校しょうこうとしという側面そくめんがあったと指摘してきしている[23]

SLORC/SPDC時代じだい(1988ねん~2010ねん

編集へんしゅう
 
タンシュエ

比較的ひかくてきわか現役げんえき将校しょうこうばかりからなるSLORCは、①連邦れんぽう分裂ぶんれつ阻止そししょ民族みんぞく分裂ぶんれつ阻止そし国家こっか主権しゅけん堅持けんじという3つの国家こっかてき大義たいぎかかげ、国名こくめいも「ビルマ連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく」から「ビルマ連邦れんぽう」、そして「ミャンマー連邦れんぽう」に変更へんこうし、経済けいざい自由じゆう少数しょうすう民族みんぞく武装ぶそう勢力せいりょくとの停戦ていせん合意ごういアウンサンスーチーひきいる民主みんしゅたいする弾圧だんあつ意欲いよくてき国家こっか体制たいせいなおしをはかった[24]。1988ねんにはSLORCは国家こっか平和へいわ発展はってん評議ひょうぎかい(SPDC)に改組かいそし、タンシュエが議長ぎちょうとなった。

SLORCもSPDCもメンバーは全員ぜんいん国軍こくぐん幹部かんぶで、SLORC/SPDCのほかもうけられた内閣ないかくのメンバーもほとんどが現役げんえき将校しょうこうで、退役たいえき将校しょうこうかげうすいのはBSPPとのちがいだった[24]。また兼任けんにんおおく、ソウマウンは国軍こくぐんそう司令しれいかん、SLORC議長ぎちょう首相しゅしょう兼任けんにんし、タンシュエも国軍こくぐんそう司令しれいかん、SPCD議長ぎちょう首相しゅしょういでいた。意思いし決定けってい透明とうめいせいひくく、スピードがおそいのが特徴とくちょうで、通常つうじょう軍人ぐんじんがクーデターをこした政権せいけんったのちは、徐々じょじょ文民ぶんみん政権せいけんりするケースがおおいところ、SLORC/SPDCは軍人ぐんじん中心ちゅうしん体制たいせいが20ねん以上いじょうつづくという世界せかいてきにも稀有けうれいだった[25]

SLORC/SPDCは「現代げんだいてき条件下じょうけんかでの人民じんみん戦争せんそう理論りろん」というあたらしい軍事ぐんじドクトリンのした国軍こくぐん改革かいかくにもした。国防こくぼう予算よさん拡大かくだいして、兵力へいりょくを40まんにんまで増強ぞうきょう将校しょうこうも12000にんほどに大幅おおはば増強ぞうきょうぐん特別とくべつ作戦さくせんが2から6へ、ぐん管区かんくが9から13へ、歩兵ほへい師団しだんが8から10へ、大隊だいたいは165大隊だいたいから606大隊だいたいまで増加ぞうかした。また兵器へいき増強ぞうきょうし、中国ちゅうごくやロシアなどから最新さいしん兵器へいき導入どうにゅう、これまで軽視けいししてきた海軍かいぐん空軍くうぐん軍備ぐんび強化きょうかした。中西なかにし嘉宏よしひろは、このうごきを「たたげの軍人ぐんじんたちによる、1988ねんまでの国軍こくぐん軽視けいしたいする反動はんどう」とひょうしている[26]。その甲斐かいあって、この時期じき独立どくりつのミャンマーでもっとも平和へいわ時期じきとなった[24]。ただ2008ねん憲法けんぽうだい338じょう兵器へいき保持ほじするすべてのミャンマー国内こくない武装ぶそう組織そしきは、国軍こくぐん指揮しきかなければならない」にもとづいておこなわれた、少数しょうすう民族みんぞく武装ぶそう勢力せいりょく国境警備隊こっきょうけいびたい(BFG)への編入へんにゅうは、カチンしん民主みんしゅぐん(NDA-K)、カレンニー民族みんぞく人民じんみん解放かいほう戦線せんせん(KNPLF)、民主みんしゅカレン仏教徒ぶっきょうとぐん(DKBA)をのぞいて失敗しっぱいした[24]国軍こくぐん将校しょうこう天下あまくださきとしては、BSPPはなくなってしまったが、行政ぎょうせい機関きかんミャンマー・エコノミック・ホールディングス(MEHL)英語えいごばんミャンマー経済けいざい公社こうしゃ(MEC)英語えいごばん[27]などの国軍こくぐんけい企業きぎょう主要しゅようポストや、民政みんせい移管いかんには上下院じょうかいん議員ぎいん地方ちほう議会ぎかい軍人ぐんじんわく、USDPの議席ぎせき将校しょうこうてがい、人事じんじ円滑えんかつすすめた[24]

こうしたなかでも民政みんせい移管いかんへの準備じゅんびすすめられ、2008ねんにはしん憲法けんぽう[28]国民こくみん信任しんにん投票とうひょうおこなわれ、92.45%の賛成さんせいひょう採択さいたくされた。2010ねん11月7にちしん憲法けんぽうにもとづくそう選挙せんきょ実施じっしされ、スーチーひきいる国民こくみん民主みんしゅ連盟れんめい(NLD)の不参加ふさんかもあって、国軍こくぐん中堅ちゅうけん将校しょうこう主要しゅようメンバーの連邦れんぽう団結だんけつ発展はってんとう(USDP)が圧勝あっしょうし、テインセイン大統領だいとうりょう選出せんしゅつされた(そう選挙せんきょまえ退役たいえき)。またしん国軍こくぐんそう司令しれいかんにはミンアウンフライン任命にんめいされた。これはタンシュエがいちにぎっていた権力けんりょく分割ぶんかつして、ネウィン時代じだい目指めざされていたとうぐん分離ぶんりないしせいぐん分離ぶんり実現じつげんした格好かっこうだった。

民政みんせい移管いかん(2010ねん~2020ねん

編集へんしゅう
 
ミャンマーの国家こっか機構きこう(2011ねん

2008ねん憲法けんぽうは、ミャンマーの憲法けんぽう史上しじょうはじめて「国軍こくぐんあきら」(だい7しょう)がもうけられ、だい6じょう6こうで「国家こっか国民こくみん政治せいじ実現じつげん目指めざしていくさいに、国軍こくぐん国民こくみん政治せいじへの参画さんかく可能かのうとすること」を国家こっか目標もくひょうの1つにかかげられ、だい17じょう2こう国軍こくぐん将校しょうこう行政ぎょうせい機関きかんへの出向しゅっこうみとめるなど、大敗たいはいした挙句あげく選挙せんきょ結果けっか反故ほごにして国際こくさいてき信用しんよういちじるしくとした1990ねんそう選挙せんきょ反省はんせいまえ、国軍こくぐん政治せいじてき関与かんよ大幅おおはばみとめたものだった。

ほかにも①連邦れんぽう議会ぎかい両院りょういん議員ぎいん、14の地方ちほう議会ぎかいの25%は軍人ぐんじん議員ぎいんさだめられていたり(だい109じょうだい110じょう)、②大統領だいとうりょう要件ようけんとして軍事ぐんじ精通せいつうしていることがもとめられたり(だい59じょう4こう)、③国防こくぼうしょう治安ちあん内務相ないむしょう国境こっきょうしょう任命にんめいけん国軍こくぐんそう司令しれいかんにあるとされたり(だい232じょう2こう《ハ》)、④憲法けんぽう改正かいせいさいには連邦れんぽう議会ぎかい両院りょういん議員ぎいんの75%をえる賛成さんせい必要ひつよう、つまり軍人ぐんじん議員ぎいん賛成さんせいかなら必要ひつようとされたり(だい436じょう2こう)、⑤非常ひじょう事態じたい強大きょうだい権限けんげんゆうする国防こくぼう治安ちあん評議ひょうぎかい定員ていいん11にんのうち、6にん国軍こくぐん関係かんけいしゃだったり(だい201じょう)、国軍こくぐん優位ゆうい規定きていがあった[29]。とはいえ、国軍こくぐんそう司令しれいかん兼務けんむがなくなったことにより、その人事じんじけんはかなりの程度ていど縮小しゅくしょうしており、国軍こくぐん歩調ほちょうわせる与党よとう存在そんざいしなければ、大統領だいとうりょう選出せんしゅつについても立法りっぽうについても国軍こくぐんのできることは限定げんていてきではあった。

 
テインセイン

また政治せいじになたちにてんじると、連邦れんぽう政府せいふ閣僚かくりょうのほとんどが退役たいえき軍人ぐんじんだったが、USDPの議員ぎいんのうち退役たいえき軍人ぐんじんは、人民じんみんいんで31にん民族みんぞくいんで15にんとさほどおおくなく、ビジネス関係かんけいしゃもと公務員こうむいん多数たすうだった。一方いっぽう軍人ぐんじん議員ぎいん主流しゅりゅう中堅ちゅうけん将校しょうこう中心ちゅうしんという構成こうせいで、両者りょうしゃ若干じゃっかん色合いろあいがちがった。そして大統領だいとうりょう選出せんしゅつされれば、議員ぎいんとうめなければならないと憲法けんぽう規定きていされていたことからもかるとおり、この2008ねん憲法けんぽう体制たいせいは、大統領だいとうりょう与党よとう国軍こくぐんのパワーバランスがはかられた政治せいじ制度せいどだった。

とはいえ、国軍こくぐん関係かんけいしゃ中心ちゅうしん構成こうせいにはわりなく、実質じっしつ軍政ぐんせいわらないとして、当初とうしょ、テインセイン政権せいけんたいする期待きたいたかくなかった。しかし、予想よそうされたほど、連邦れんぽう政府せいふ、USDP、軍人ぐんじん議員ぎいん一枚岩いちまいいわにならなかったこともあり、にわかに議会ぎかい活動かつどう活性かっせいしていき、2011ねん7がつ19にち、ネピドーのアウンサンの肖像しょうぞうかる部屋へやでテインセインとスーチーの会談かいだん実現じつげんすると、一気いっき改革かいかく加速かそくはじめた。政治せいじはん釈放しゃくほう表現ひょうげん報道ほうどう自由じゆう拡大かくだい国民こくみん民主みんしゅ連盟れんめい政党せいとうさい登録とうろく住民じゅうみん反対はんたいこえつよかった中国ちゅうごくとの共同きょうどう事業じぎょうミッソンダム建設けんせつ計画けいかく凍結とうけつ各種かくしゅ経済けいざい改革かいかくなど矢継やつばや改革かいかくすすめられ、さい重要じゅうよう課題かだいだった少数しょうすう民族みんぞく武装ぶそう勢力せいりょくとの和平わへい交渉こうしょうでも進展しんてんがあり、2011ねんから2012ねんあいだおおくの少数しょうすう民族みんぞく武装ぶそう勢力せいりょく停戦ていせん合意ごういむすび、2015ねん10がつ15にちには8つの武装ぶそう組織そしき全国ぜんこく停戦ていせん合意ごうい締結ていけつした[25]

しかし、2015ねんそう選挙せんきょでNLDが圧勝あっしょうしたことにより、このパワーバランスがくずれた。スーチーは、外国がいこくせき子供こどもがいるせいで憲法けんぽう規定きていにより大統領だいとうりょうにはなれなかったはずだったが、国家こっか顧問こもんというポストを創設そうせつしてその地位ちいき、「大統領だいとうりょううえつ」と宣言せんげんしたのである。USDPの議員ぎいん軍人ぐんじん議員ぎいんはもちろんこのあん反対はんたいしたが、NLDが圧倒的あっとうてき多数たすうめる議会ぎかい賛成さんせい多数たすう可決かけつした。さらに国軍こくぐんそう司令しれいかん・ミンアウンフラインは国防こくぼう治安ちあん評議ひょうぎかい開催かいさい再三さいさん要求ようきゅうしたが、国軍こくぐん過半かはんめる会議かいぎ構成こうせいきらってか、スーチーは1もこれにおうじず、国軍こくぐんとの関係かんけいえきっていった。

そして2017ねんロヒンギャ危機きき西側にしがわ諸国しょこく支持しじうしなったスーチーは、徐々じょじょ中国ちゅうごく接近せっきんしていった。またスーチーは、国軍こくぐん利権りけん構造こうぞう破壊はかいしにかかっており、まずGADという地域ちいき住民じゅうみん監視かんし土地とち管理かんり徴税ちょうぜい住民じゅうみん登録とうろく地域ちいき苦情くじょう処理しょりという業務ぎょうむ担当たんとうする行政ぎょうせい組織そしき内務省ないむしょう管轄かんかつから大統領だいとうりょう直轄ちょっかつ移動いどうさせた。これはくに隅々すみずみめぐらした、わば国軍こくぐん血脈けちみゃくうば行為こういひとしく、国軍こくぐんには絶対ぜったいれられないことだった。またスーチーは宝石ほうせきほうという法律ほうりつ改正かいせいして取引とりひき透明とうめいはかり、国軍こくぐん利権りけん直接ちょくせつメスをはじめた。そして2020ねんには否決ひけつ覚悟かくごとはいえ、国軍こくぐん政治せいじ関与かんよ大幅おおはば削減さくげんする憲法けんぽう改正かいせいあん議会ぎかい提出ていしゅつしたのだった[30]

2010ねん3がつ27にち軍政ぐんせい支配しはい最後さいご国軍こくぐん記念きねん式典しきてんで、タンシュエはこうべていた。

「われわれ(ぐん)は必要ひつようとあればいつでも国政こくせいかかわる」

選挙せんきょ参加さんかする政党せいとうは、民主みんしゅ主義しゅぎ成熟せいじゅくするまで自制じせい節度せつどしめすべきだ」

民主みんしゅあやまったやりかた無秩序むちつじょまねく」

失敗しっぱいすると、くに国民こくみん危険きけんにさらしてしまう」

外国がいこくからの影響えいきょうりょくたよることは絶対ぜったいけねばならない」[31]

2021ねんクーデター

編集へんしゅう
 
ミンアウンフライン

2020ねん11月8にち実施じっしされたそう選挙せんきょで、NLDは前回ぜんかい上回うわまわる、改選かいせん議席ぎせきの8わり以上いじょうたる396議席ぎせき獲得かくとく圧勝あっしょうたいするUSDPはまたしても惨敗ざんぱいきっした[32]国軍こくぐんとUSDPは、そう選挙せんきょ不正ふせいがあったとして抗議こうぎおこなったが、NLDはわず、両者りょうしゃあいだには緊張きんちょうはしった[33]

そして2021ねん2がつ1にち国軍こくぐんウィンミン大統領だいとうりょう、スーチー国家こっか顧問こもん、NLD幹部かんぶ、NLD出身しゅっしん地方ちほう政府せいふトップら45にん以上いじょう身柄みがら拘束こうそくして、クーデターをこした。国軍こくぐん出身しゅっしんミンスエだいいちふく大統領だいとうりょう大統領だいとうりょう代行だいこう暫定ざんてい大統領だいとうりょう)に就任しゅうにんし、憲法けんぽう417じょう規定きていもとづいて期限きげんを1年間ねんかんとする非常ひじょう事態じたい宣言せんげん発出はっしゅつめいじる大統領だいとうりょうれい署名しょめいし、国軍こくぐん政権せいけん掌握しょうあく国軍こくぐんそう司令しれいかんのミンアウンフラインに立法りっぽう行政ぎょうせい司法しほう三権さんけん委譲いじょうされ、国家こっか行政ぎょうせい評議ひょうぎかい(SAC)が設立せつりつされ、ミンアウンフラインは、SAC議長ぎちょうと、8がつ1にち組閣そかくされた内閣ないかく首相しゅしょう就任しゅうにんした。

革命かくめい評議ひょうぎかい、SLORC/SPDCの過去かこ軍政ぐんせい比較ひかくすると、SACのメンバーは現役げんえき将校しょうこうが 9にん文民ぶんみんが10にん文民ぶんみん過半数かはんすうめているのが特徴とくちょうだった。文民ぶんみんのうち2にんは,2010ねんそう選挙せんきょへの参加さんかにNLDを離党りとうした国民こくみん民主みんしゅ勢力せいりょく(NDF)の関係かんけいしゃで、のこりの8にんはカレンぞく、ラカインぞく、モンぞくなどことなる少数しょうすう民族みんぞく出身しゅっしんだった。けん人事じんじからはさまざまなさまざまな政治せいじ勢力せいりょく民族みんぞく配慮はいりょするという国軍こくぐん意思いしれたが、かれらは国民こくみん反発はんぱつ完全かんぜんあやまっていた。クーデター抗議こうぎデモは激化げきかし、国軍こくぐん武力ぶりょくをもってこれを弾圧だんあつはげしい国際こくさいてき非難ひなんびた。さらに弾圧だんあつのがれたNLD議員ぎいん中心ちゅうしんとなって国民こくみん統一とういつ政府せいふ(NUG)を設立せつりつ、9月7にちには、国軍こくぐんたいして宣戦せんせん布告ふこく宣言せんげんし、かく国民こくみん防衛ぼうえいたい(PDF)・少数しょうすう民族みんぞく武装ぶそう勢力せいりょく一斉いっせい蜂起ほうきびかけ、以降いこう内戦ないせん突入とつにゅうした。

2023ねん10がつ27にちさん兄弟きょうだい同盟どうめいアラカンぐんミャンマー民族みんぞく民主みんしゅ同盟どうめいぐんタアン民族みんぞく解放かいほうぐん)が1027作戦さくせん発動はつどうし、2024ねん1がつ5にちにはコーカン自治じちのラウカイを攻略こうりゃく。8月3にちにはシャンしゅうラーショー攻略こうりゃくし(ラーショーのたたか英語えいごばん)、同地どうちにある国軍こくぐん北東ほくとうぐん管区かんく司令しれい占拠せんきょされた[34]国軍こくぐん地方ちほう司令しれいはん政府せいふ勢力せいりょく占拠せんきょされたのは、ミャンマーの内戦ないせん史上しじょうはつのことだった。2024ねん10がつ現在げんざい国軍こくぐん各地かくち空爆くうばくおこなって失地しっち回復かいふくはかっているが、劣勢れっせいつたえられている。

軍事ぐんじドクトリン

編集へんしゅう

独立どくりつ初期しょき内戦ないせん時代じだい(1948ねん~1958ねん

編集へんしゅう

最初さいしょ軍事ぐんじドクトリンは1950年代ねんだい前半ぜんはん策定さくていされた。当時とうじ国内こくない少数しょうすう民族みんぞく武装ぶそう勢力せいりょく反乱はんらん喫緊きっきん課題かだいだったのにかかわらず、意外いがいにもそれは、建国けんこくされたばかりの中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく仮想かそうてきとした外国がいこく勢力せいりょく対策たいさく重視じゅうしのものだった。策定さくていしゃは、のちに8888民主みんしゅ運動うんどうさいにBSP議長ぎちょうとなるマウンマウンだったが、かれ強烈きょうれつ反共はんきょう主義しゅぎ向上心こうじょうしん反映はんえいされた格好かっこうである。

そしてその内容ないようは、だい規模きぼ師団しだん装甲そうこう旅団りょだん戦車せんしゃ機動きどうせんによる正規せいきせんにもとづく防衛ぼうえい計画けいかくで、朝鮮ちょうせん戦争せんそうおこなわれた国連こくれんぐん警察けいさつ活動かつどう想定そうていして、国連こくれんぐん到着とうちゃくあいだ侵略しんりゃく勢力せいりょく国境こっきょう地帯ちたいに2、3ヶ月かげつふうじこめるというものだった。しかしこれを実現じつげんするためには、適切てきせつ後方こうほう支援しえん訓練くんれん体制たいせい豊富ほうふ経済けいざいてき技術ぎじゅつてき資源しげん効率こうりつてき民間みんかん防衛ぼうえい組織そしき不可欠ふかけつで、当時とうじ国軍こくぐんにはそのすべがけていた。1953ねん2がつシャンしゅう居座いすわった中国ちゅうごく国民党こくみんとうぐんたいするナーガー・ナイン(勝利しょうりりゅう作戦さくせんで、はじめてこのドクトリンがためされたが、結果けっかは、不利ふり地形ちけい資源しげん不足ふそくあいまり、国軍こくぐんにとって屈辱くつじょくてき完敗かんぱいわった。しかしその、1950年代ねんだい後半こうはんはん国民党こくみんとう作戦さくせん一定いってい成功せいこうおさめたとされている。

この最初さいしょ軍事ぐんじドクトリンは、かく反乱はんらんぐん国境こっきょう地帯ちたいいやり、戦闘せんとう形態けいたい正規せいきせんからゲリラせん移行いこうするにつれ、次第しだい適当てきとうなものになっていった[35]

ビルマ社会しゃかい主義しゅぎ計画けいかくとう(BSPP)時代じだい(1962ねん~1988ねん

編集へんしゅう

1950年代ねんだい後半こうはん国軍こくぐんは、カレン民族みんぞく防衛ぼうえい機構きこう(KNDO)が中国ちゅうごく国民党こくみんとう兵器へいき提供ていきょう要請ようせいしたり、CPBが中国共産党ちゅうごくきょうさんとう指示しじけているという情報じょうほう入手にゅうしゅしており、国内こくない反乱はんらん鎮圧ちんあつしないかぎり、外国がいこく侵略しんりゃくけるという危機ききかんいていた。そのためあたらしい軍事ぐんじドクトリンの中核ちゅうかくは、国内こくない反乱はんらん対策たいさくとなった。そのために国軍こくぐんは、国民こくみん総力そうりょく結集けっしゅうしたゲリラ戦略せんりゃくる「人民じんみん戦争せんそう理論りろん」の採用さいようした。

1964ねん7がつのち首相しゅしょうつとめたトゥンティン(Tun Tin英語えいごばんひきいる調査ちょうさだんが、スイス、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、ひがしドイツに派遣はけんされ、人民じんみん戦争せんそうかんする調査ちょうさおこない、同様どうよう近隣きんりん諸国しょこく調査ちょうさだん派遣はけんされた。このころ毛沢東もうたくとう一連いちれん著作ちょさくはやしぴょうの『人民じんみん戦争せんそう』、チェ・ゲバラの『ゲリラ戦争せんそう』が将校しょうこうたちのあいだひろまれたのだという。結果けっか人民じんみん戦争せんそう遂行すいこうするためには、平時へいじやく100まんにん正規せいきぐん非常時ひじょうじにさらにやく500まんにん民兵みんぺい動員どういんする能力のうりょく必要ひつようとされ、そのための人材じんざい育成いくせい機関きかん設立せつりつや2年間ねんかん兵役へいえき義務ぎむ提言ていげんされた。しかし国内こくない反乱はんらん鎮圧ちんあつするまえ大量たいりょう民兵みんぺい動員どういんおこなうことは、むしろ有害ゆうがいという認識にんしき国軍こくぐんないひろまり、結局けっきょく、この大量たいりょう動員どういん実現じつげんしなかった。

それでも1965ねんまでに人民じんみん戦争せんそう理論りろん国軍こくぐん正式せいしきドクトリンとしてれられ、各種かくしゅ国軍こくぐんけい出版しゅっぱんぶつとおして人口じんこう膾炙かいしゃし、1971ねんのBSPPだい1かいとう大会たいかい正式せいしき承認しょうにんされた。また人民じんみん戦争せんそう理論りろん国内こくない反乱はんらん対策たいさくにおいても有効ゆうこうとされ、各地かくち民兵みんぺいグループ(ピューソーティー民兵みんぺい)が結成けっせいされた。1974ねんまでに212ぐん1831村落そんらく、6まん7736にんおよび、ライフル、自動じどう小銃しょうじゅうなど1まん5227ちょう配布はいふされたのだという。ただ人員じんいんして兵器へいきかずすくなく、実際じっさい戦闘せんとうへの寄与きよひくかったものとおもわれる[36]

一方いっぽう人民じんみん戦争せんそう成功せいこうさせるための国内こくないはん政府せいふ武装ぶそう勢力せいりょく対策たいさくとしては、山岳さんがくいやられたかく武装ぶそう勢力せいりょくがゲリラせんてんじたことにより、国軍こくぐん偵察ていさつせ、よるあいだせんなどのたいゲリラ戦術せんじゅつ導入どうにゅうし、武装ぶそう勢力せいりょく幹部かんぶ逮捕たいほ拘束こうそく正確せいかく情報じょうほうてきぐん殲滅せんめつ占領せんりょうではなく)、小隊しょうたいレベルの戦術せんじゅつてき独立どくりつせい重要じゅうようされた。そしてこれを遂行すいこうするためには、人民じんみん戦争せんそう理論りろん同様どうように、政治せいじ社会しゃかい経済けいざい軍事ぐんじ公共こうきょう管理かんりという”5つのはしら”を総動員そうどういんすることが不可欠ふかけつとされ、そのためには国民こくみんとの支持しじ協力きょうりょく重要じゅうようということで、兵士へいし規律きりつ改善かいぜん強調きょうちょうされた。1968ねんには、のち首相しゅしょうつとめたトゥンテインがイギリス留学りゅうがくからかえった戦略せんりゃくもとよんだん作戦さくせん(four cuts)が策定さくていされた[37]。これは、はん政府せいふ勢力せいりょく食糧しょくりょう資金しきん情報じょうほう徴兵ちょうへいったうえで、根拠地こんきょち攻撃こうげきするというものである[38]国内こくない反乱はんらん対策たいさく優先ゆうせん順位じゅんいは、まずエーヤワディーデルタ地帯ちたい確保かくほして強化きょうかしたのち国境こっきょう地帯ちたい拠点きょてん武装ぶそう勢力せいりょく攻撃こうげきかけるというというものだった[39]

SLORC/SPDC時代じだい(1988ねん~2010ねん

編集へんしゅう

8888民主みんしゅ運動うんどう経験けいけんした国軍こくぐんは、民主みんしゅ少数しょうすう民族みんぞく武装ぶそう勢力せいりょく外国がいこく勢力せいりょくむすびつくのをおそれ、軍事ぐんじドクトリンをふたた見直みなおし、強大きょうだい外敵がいてきにも正規せいきせん対抗たいこうしうるよう、人民じんみん戦争せんそう理論りろん保持ほじしつつ軍備ぐんび増強ぞうきょうすすめた。このあたらしい軍事ぐんじドクトリンは、「現代げんだいてき条件下じょうけんかでの人民じんみん戦争せんそう理論りろん」と定義ていぎづけられている。現代げんだいてき条件下じょうけんかでの人民じんみん戦争せんそう理論りろんでは、マンパワー、時間じかん空間くうかんという従来じゅうらいの3つの要素ようそに、「サイバー」という4つ要素ようそくわわった。わか司令しれいかんたちは軍事ぐんじ革命かくめい(RMA)に熱心ねっしんまなび、砂漠さばくあらし作戦さくせんコソボ紛争ふんそうアフガニスタン紛争ふんそうなどを教材きょうざいにして電子でんしせん情報じょうほうせん研究けんきゅうした。さらに国軍こくぐん士官しかん学校がっこうにはコンピューター科学かがく学位がくい導入どうにゅうされ、すうめい将校しょうこう電子でんしせん情報じょうほうせん訓練くんれんのために海外かいがい派遣はけんされた[40]

民政みんせい移管いかん(2010ねん~)

編集へんしゅう

2016ねん1がつ開催かいさいされただい1かい連邦れんぽう和平わへい会議かいぎにおいて「標準ひょうじゅんてき軍隊ぐんたい(Standard Army)」という構想こうそうしめされた。結局けっきょく軍事ぐんじドクトリンにまでは昇華しょうかせず、具体ぐたいてき内容ないようあきらかにされなかったが、国軍こくぐんそう司令しれいかん・ミンアウンフラインの指揮しきした様々さまざま改革かいかくおこなわれた。国軍こくぐん国際こくさいてきイメージのアップをはか意図いとがあったようだ[41]

2011ねん以降いこう国軍こくぐん人権じんけん未成年みせいねんしゃ徴用ちょうよう治安ちあん部門ぶもん改革かいかく(SSR)、武装ぶそう解除かいじょ動員どういん解除かいじょ社会しゃかい復帰ふっき(DDR)などがテーマの国際こくさい会議かいぎやワークショップに参加さんかしたり、国際こくさい機関きかん仲介ちゅうかい国軍こくぐん将校しょうこうをヨーロッパや紛争ふんそう国家こっかへの研修けんしゅう派遣はけんした[41]。2017ねん5がつにはミンアウンフライン国軍こくぐんそう司令しれいかんとEU軍事ぐんじ委員いいんかい(EUMC)委員いいんちょう・ミハイル・コスタラコスとの会談かいだん実現じつげん[42]国際こくさい労働ろうどう機関きかん(ILO)と協力きょうりょくして、未成年みせいねんしゃ徴用ちょうよう問題もんだいにもみ、2012ねんから2018ねんあいだに924にん少年しょうねんへい解放かいほうした[43][44]

2013ねん2がつ、タイでおこなわれる国籍こくせき軍事ぐんじ演習えんしゅうコブラ・ゴールドに2めいのオブザーバーを派遣はけんするよう招待しょうたいされ、以来いらい、2020ねんまで毎年まいとし参加さんかしていた[45]

2013ねん3がつテインセイン大統領だいとうりょうおとずれえらしたさい、オーストラリア政府せいふは、1979ねん閉鎖へいさされたヤンゴン国防こくぼうちゅう在官ざいかん復活ふっかつさせると発表はっぴょう。 2014ねん以降いこう、オーストラリア政府せいふは、国軍こくぐんたいして人道じんどう支援しえん災害さいがい救援きゅうえん国際こくさいほうかんするワークショップや訓練くんれんなどすうおおくの支援しえんおこなった。2014ねん3がつ開催かいさいされたオーストラリア・ミャンマー国防こくぼう協力きょうりょく協議きょうぎでは、両国りょうこく軍隊ぐんたいあいだ連携れんけい強化きょうかすることで合意ごういした[41]

2013ねん7がつ、テインセイン大統領だいとうりょう訪英ほうえいしたさい、イギリス政府せいふはヤンゴンに国防こくぼうちゅう在官ざいかん派遣はけんすると発表はっぴょう。また国軍こくぐんたいして人権じんけん武力ぶりょく紛争ふんそうほう民主みんしゅてき軍隊ぐんたい説明せつめい責任せきにんかんする研修けんしゅう提供ていきょうした。

2014ねん9がつ、ミンアウンフライン国軍こくぐんそう司令しれいかん来日らいにち年末ねんまつから日本にっぽん・ミャンマー将官しょうかんきゅう交換こうかんプログラムが開始かいしされ、日本にっぽん財団ざいだんから毎年まいとし10にん将校しょうこう奨学しょうがくきんて、日本にっぽん大学だいがく国際こくさい関係かんけい学位がくい取得しゅとくすることになった[46]。2015ねんからは日本にっぽん防衛大学校ぼうえいだいがくこう毎年まいとし国軍こくぐん将校しょうこう2人ふたり留学りゅうがくしていた(2023ねん中止ちゅうし[47])。

2014ねん12月、べい議会ぎかいで2015年度ねんど国防こくぼう授権ほう成立せいりつ。これにより、これまで人権じんけんほう支配しはいのレクチャーにかぎられていたべいぐん関与かんよが、災害さいがい救助きゅうじょ医療いりょう発展はってんかんする教育きょういく訓練くんれん拡大かくだいされた[46]

国防こくぼう予算よさん

編集へんしゅう

国防こくぼう予算よさんは、1962ねんから1970年代ねんだいなかばまで予算よさん規模きぼが10おくksをえることはなく、微増びぞうとどまっていた。海外かいがい援助えんじょれを開始かいしして政府せいふ予算よさん拡大かくだいする1980年代ねんだい以降いこうも、政府せいふ支出ししゅつ全体ぜんたい増加ぞうかはばくらべれば国防こくぼう予算よさんのそれはちいさく、政府せいふ予算よさんめる国防こくぼう予算よさん割合わりあいはむしろ低下ていかしていた。1969ねんまでとしに1かい開催かいさいされていた国軍こくぐん大会たいかいでは、かくぐん司令しれいからは兵器へいき弾薬だんやく不足ふそく通信つうしん機器きき輸送ゆそうよう車両しゃりょう不足ふそく恩給おんきゅう制度せいど不備ふび給料きゅうりょう遅配ちはい報告ほうこくされていた[48]。1950年代ねんだいなかばから1960年代ねんだいなかばまでは、予算よさん不足ふそくによる兵器へいき弾薬だんやく不足ふそく訓練くんれん不足ふそく、それにはしはっする戦闘せんとう危険きけんせい困難こんなんたかまりが原因げんいんで、毎年まいとし2000にんおおときで5000にんちかくの脱走だっそうしゃしており、つね人員じんいん不足ふそく状態じょうたいにあった。戦死せんししゃも、最大さいだいてきビルマ共産党きょうさんとう(CPB)が弱体じゃくたいして、国軍こくぐん攻勢こうせいはじめた1980年代ねんだい以降いこう急増きゅうぞうし、1982ねんから1986ねんとし平均へいきん戦死せんししゃすうは888.6にんおよび、これは1960年代ねんだい後半こうはんにおける戦死せんししゃすうやく2.5ばいだった[48]予算よさん制約せいやくにともなう物的ぶってき人的じんてき限界げんかいは、作戦さくせん遂行すいこう支障ししょうをきたすほどだったのだという。1988ねん国家こっかほう秩序ちつじょ回復かいふく評議ひょうぎかい(SLORC)成立せいりつしたのちは、GDPにめる割合わりあいはやはりやく4%程度ていどとどまっていたものの1990年代ねんだいと2000年代ねんだい国防こくぼう予算よさん絶対ぜったいがく着実ちゃくじつ拡大かくだいし、とく国防こくぼう予算よさんめる資本しほん支出ししゅつ設備せつび投資とうしなど)の割合わりあいは、1980年代ねんだいまつ10%だいだったものが、1991ねんには30%だいたっし、2009ねん、2010ねんには資本しほん支出ししゅつ経常けいじょう支出ししゅつ上回うわまわるまでになっている。絶対ぜったいがくも2003ねんには1988ねんの4ばいになっている。これは国防こくぼう予算よさん増加ぞうかぶんおも資本しほん支出ししゅつめていることを示唆しさするもので、軍需ぐんじゅ産業さんぎょう施設しせつふく国防省こくぼうしょう関連かんれん施設しせつ建設けんせつ兵器へいき弾薬だんやく購入こうにゅうてられていたものとかんがえられる[24]

ただし、ミャンマーの国防こくぼう予算よさん計算けいさんするさいには、ミャンマー政府せいふ公表こうひょうされている数字すうじ信用しんようできないこと、国防省こくぼうしょうではなくほか省庁しょうちょうからの補助ほじょきんおおいこと(たとえば国軍こくぐんエネルギえねるぎしょうから燃料ねんりょう補助ほじょけている)、じゅうレートがあった時代じだい外貨がいかての支出ししゅつ一部いちぶが、実際じっさい為替かわせレートより200ばい以上いじょうひく公式こうしき為替かわせレートにもとづいて計算けいさんされていること、軍事ぐんじ企業きぎょうからの支出ししゅつもあったこと、海外かいがいのサプライヤーへの支払しはらいなど、一部いちぶ支出ししゅつ物々交換ぶつぶつこうかんシステムのした現物げんぶつ支給しきゅうされていることなど考慮こうりょ事項じこうがいくつかあることに注意ちゅうい必要ひつようである[49]

経済けいざい活動かつどう

編集へんしゅう

独立どくりつ初期しょき

編集へんしゅう

1950年代ねんだいはじめ、国軍こくぐん将校しょうこう兵士へいしとその家族かぞく福利ふくり厚生こうせいはかり、忠誠ちゅうせいしんたかめるためのビジネスにもした。1951ねん幹部かんぶのほとんどをだい4ビルマ・ライフル部隊ぶたい出身しゅっしんしゃめる営利えいり組織そしき国防こくぼうサービス研究所けんきゅうじょ(The Defence Service Institute:DSI)を設立せつりつ。まずヤンゴンのスーレーパゴダどおりに、軍人ぐんじんとその家族かぞくてい価格かかく輸入ゆにゅうひん地産ちさんひん供給きょうきゅうする雑貨ざっかてん開業かいぎょうして成功せいこうおさめ、すうねんのうちに全国ぜんこく18店舗てんぽ拡大かくだいした。つぎにアバハウス(Ava House)という文房具ぶんぼうぐてんけん出版しゅっぱんしゃ設立せつりつ。これは軍人ぐんじんだけではなく一般いっぱんにも開放かいほうされ、これも成功せいこうおさめた。自信じしんけた国軍こくぐんはビジネスを巨大きょだいこう品質ひんしつ外国がいこく製品せいひん一般いっぱん消費しょうひしゃ販売はんばいするデパート・ロウ・アンド・カンパニー(Rowe & Co)、民営みんえいのA・スコット銀行ぎんこう買収ばいしゅうして改組かいそしたアバ銀行ぎんこうひがしアジア会社かいしゃ買収ばいしゅうして改組かいそしたビルマ・アジア会社かいしゃ、7せきふね保有ほゆうする貨物かもつせんサービス会社かいしゃビルマ・ファイブスター・シッピング・ライン(Burma Five Star Shipping Line)など多数たすう企業きぎょう設立せつりつし、ほかにも石炭せきたん輸入ゆにゅうライセンス取得しゅとく、ホテル、水産すいさんぎょう鶏肉とりにく流通りゅうつうぎょう建設けんせつぎょう、ラングーンとマンダレーをむすぶバス路線ろせん国内こくない最大さいだい百貨店ひゃっかてんチェーンなどを傘下さんかおさめた[49]

ビルマ社会しゃかい主義しゅぎ計画けいかくとう(BSPP)時代じだい

1960年代ねんだいはじめ、DSI傘下さんかおおくの企業きぎょうあらたに設立せつりつされたビルマ経済けいざい開発かいはつ公社こうしゃ(Burma Economic Development Corporation:BEDC)の傘下さんかかれ、事実じじつじょう国軍こくぐん管理かんりかれた。しかし、1962ねんにネウィンがクーデターをこして、軍事ぐんじ独裁どくさい政権せいけん成立せいりつし、ビルマ社会しゃかい主義しゅぎ計画けいかくとう(BSPP)がかかげる「ビルマ社会しゃかい主義しゅぎへのみち」のした経済けいざい国有こくゆうすすむと、DSI・BEDC傘下さんか企業きぎょう国有こくゆうされた。

BSPP時代じだいには、国軍こくぐん商業しょうぎょう活動かつどうおこなわないことが義務ぎむづけられていた。そのため営利えいり目的もくてき軍事ぐんじ企業きぎょう存在そんざいしなかったが、国軍こくぐん基本きほんてき生活せいかつ必需ひつじゅひん生産せいさんたずさわっており、そのほとんどは軍人ぐんじんとその家族かぞく福利ふくりのためであり、基本きほんてきには個々ここ部隊ぶたい単位たんいで、規模きぼはかなりちいさく、連隊れんたい基金ききん(RF)からの財政ざいせい支援しえんけていた。たとえば大隊だいたいは、べい野菜やさい栽培さいばいし、にわとりさかな飼育しいくし、食堂しょくどう酒家しゅか、ビデオハウスを経営けいえいし、ろうそく工場こうじょうのような家内かない工業こうぎょういとなんでいたが、これらはすべて連隊れんたい基金ききんから資金しきん援助えんじょけていた。

福利ふくり厚生こうせいめんでは、軍人ぐんじんだけの特別とくべつ特権とっけんはなかった。上級じょうきゅう将校しょうこうとう幹部かんぶおなじように、ヤンゴンにある2つの国営こくえい商店しょうてん補助ほじょきんけた用品ようひんうことができ、上級じょうきゅう幹部かんぶ国営こくえい企業きぎょう特定とくてい用品ようひん購入こうにゅう許可きょか申請しんせいすることができたが、それはけっして権利けんりではなかった。しかし制服せいふくやそのまわひん給与きゅうよ配給はいきゅうみず乾物かんぶつ)、住宅じゅうたく設備せつび手当てあて医療いりょうサービス(肉親にくしん場合ばあいも)などをける権利けんりはあった。一般いっぱん予算よさんがい福祉ふくし補助ほじょきんがないにもかかわらず、兵士へいし民間みんかんじんよりも、また一般いっぱん市民しみんよりも多少たしょうめぐまれていた[49]

SLORC/SPDC時代じだい以降いこう

さらに国軍こくぐん軍人ぐんじん福利ふくり厚生こうせいはかり、忠誠ちゅうせいしんたかめるために本格ほんかくてきにビジネスに参入さんにゅう。1990ねんにはミャンマー・エコノミック・ホールディングス(MEHL)英語えいごばん前身ぜんしん・ミャンマー連邦れんぽう経済けいざい持株もちかぶ会社かいしゃ(UMEHL)を、1997ねんにはミャンマー経済けいざい公社こうしゃ(MEC)英語えいごばん[27]という国軍こくぐんけい企業きぎょう設立せつりつし、傘下さんか鉄鋼てっこう、セメント、大理石だいりせき砂糖さとう、メタノール、石炭せきたん、ビール、貿易ぼうえき金融きんゆうなど多数たすう企業きぎょういて莫大ばくだい利益りえきはじめた。これにくわえてクローニーとばれる企業きぎょうコングロマリットが10以上いじょう存在そんざいし、国軍こくぐん幹部かんぶ姻戚いんせき関係かんけいむすんだりして緊密きんみつ関係かんけいきずき、ぐんから許認可きょにんか受発注じゅはっちゅう便宜べんぎけ、きゅう成長せいちょうはじめた。

これらの企業きぎょうぐん国防こくぼう予算よさんとは国軍こくぐん貴重きちょう収入しゅうにゅうげんとなると同時どうじ退役たいえき軍人ぐんじん出向しゅっこうさきとなり、国軍こくぐん重要じゅうよう利権りけんとなった。すべての将校しょうこうはMEHLやMECの株式かぶしきから直接的ちょくせつてき間接かんせつてき利益りえき家族かぞくつうじて非合法ひごうほうビジネスからの利益りえきている。それより地位ちいひく軍人ぐんじんたちはおも汚職おしょく麻薬まやくなどのやみ市場いちばから利益りえきている[49]

2000年代ねんだいにはあらたに発見はっけんされた天然てんねんガスが国軍こくぐん貴重きちょう資金しきんげんとなった[50]。ただし、けん天然てんねんガスの採掘さいくつりょうは2019ねんから激減げきげんしており、2021ねんクーデター以降いこう西側にしがわ諸国しょこくからの技術ぎじゅつ提供ていきょうふくめた投資とうし停止ていししたままであり、枯渇こかつ寸前すんぜんわれている[51]

ミャンマーには民間みんかん兵器へいき製造せいぞう会社かいしゃ存在そんざいせず、すべて国軍こくぐん管理かんり運営うんえいする軍需ぐんじゅ工場こうじょう生産せいさんされている。この軍需ぐんじゅ工場こうじょうは、ミャンマーで「防衛ぼうえい産業さんぎょうきょく(Directorate of Defence Industries:DDI)」を意味いみする「Karkweye Pyitsee Setyone」にちなみ、「カパサ(Kapasa)」とばれている。軍需ぐんじゅ工場こうじょうを「防衛ぼうえい産業さんぎょう施設しせつんでいる事実じじつは、国軍こくぐん軍事ぐんじドクトリンである人民じんみん戦争せんそう理論りろん密接みっせつ関連かんれんしており、外敵がいてきうちてきから国家こっかまも国軍こくぐん役割やくわり強調きょうちょうするものである。2024ねん10がつ現在げんざい、カパサの最高さいこう責任せきにんしゃ国防省こくぼうしょう産業さんぎょう局長きょくちょうのカンミンタン(Kan Myint Than[52]中将ちゅうじょうである[53]

独立どくりつ国軍こくぐんおも日本にっぽんぐんやイギリスぐんのこした兵器へいき依存いぞんし、にインド、イギリス、イスラエル、ユーゴスラビア、スウェーデンなど様々さまざまくにから兵器へいき調達ちょうたつしていたが、その軍備ぐんび貧弱ひんじゃくなものだった。グリフィス・アジア研究所けんきゅうじょ研究けんきゅういん・アンドリュー・セルス(Andrew Selth)は以下いかのようにべている[54]

陸軍りくぐん基本きほんてきたい反乱はんらん作戦さくせんのために組織そしきされ、配備はいびされたけい装備そうび歩兵ほへい部隊ぶたいであった。経験けいけん豊富ほうふ戦闘せんとうにはれているが、じゅう装備そうび時代遅じだいおくれで、兵站へいたん通信つうしんシステムは非常ひじょうよわく、作戦さくせん輸送ゆそう燃料ねんりょう弾薬だんやく不足ふそくによってつねさまたげられていた。海軍かいぐん空軍くうぐんはどちらも非常ひじょう小規模しょうきぼ部隊ぶたいで、陸軍りくぐん支援しえんする役割やくわりゆだねられていた。海軍かいぐん沿岸えんがん河川かせんのパトロールしかできず、空軍くうぐん地上ちじょう支援しえんにほぼとくした構成こうせいだった。どちらも時代遅じだいおくれの兵器へいきプラットフォーム、貧弱ひんじゃく通信つうしん機器きき予備よび部品ぶひん不足ふそく熟練じゅくれんした人材じんざい不足ふそくくるしんでいた[54]

そこで国軍こくぐんは、1957ねんごろから、西にしドイツの国営こくえい兵器へいき製造せいぞう会社かいしゃ・フリッツ・ヴェルナー(Fritz Werner)と提携ていけいして、自動じどう小銃しょうじゅう機関きかんじゅう手榴弾しゅりゅうだん迫撃はくげきほうしょう火器かき弾薬だんやくなどを製造せいぞうしるカパサを建設けんせつはじめた。さらにイタリアもくわわり、最初さいしょ製造せいぞうされたしょう火器かきはBA-52または "Ne Win Sten "としてられる、イタリアせい9mmTZ-45サブマシンガンのコピーだった。設計せっけいあらく、性能せいのうもいまいちだったが、1980年代ねんだいなかばまでは歩兵ほへいの、1990年代ねんだいはじめまでは支援しえん大隊だいたい標準ひょうじゅんてきなサブマシンガンでありつづけた。同時どうじにアメリカ、イギリス、西にしドイツ、ユーゴスラビア、イスラエルからの兵器へいき輸入ゆにゅうつづけられた。国軍こくぐん主要しゅよう兵器へいき調達ちょうたつのほとんどは、1950年代ねんだいと1960年代ねんだいはじめにおこなわれ、その1990年代ねんだいはいるまでほとんど更新こうしんされず、兵器へいき近代きんだい大幅おおはばおくれていた[55]

2024ねん10がつ現在げんざい、カパサは全国ぜんこくに25あり、国軍こくぐん火力かりょく半分はんぶん供給きょうきゅうしているとわれている[56]。1950年代ねんだいから建設けんせつはじまった初期しょきのカパサは、そのほとんどがヤンゴンとその周辺しゅうへんエーヤワディーがわ西岸せいがんバゴー地方ちほういきピイ周辺しゅうへんマグウェ地方ちほういきにあったが、現在げんざい大半たいはんはマグウェ地方ちほういきにあり、のこりはバゴーにある(CDM参加さんか軍人ぐんじんによると、2024ねん10がつ現在げんざい、マグウェ地方ちほういきに15、バゴー地方ちほういきに7、ヤンゴン地方ちほういきに1、ネピドーに2[56])。カパサがこの2つの地域ちいき集中しゅうちゅうしている理由りゆうは、(1)マグウェとバゴーは歴史れきしてき国軍こくぐん支配しはい地域ちいき位置いちしていた(2)マグウェとバゴーは、辺鄙へんぴ場所ばしょにあり、人口じんこうもまばらで、ビルマぞく仏教徒ぶっきょうとおおく、安全あんぜんせい確保かくほされている(3)工場こうじょうおおくはエーヤワディーがわ西岸せいがん沿いに建設けんせつされ、兵器へいき生産せいさん必要ひつよう原材料げんざいりょう部品ぶひん、アイテム、機器きき、および弾薬だんやくなどの既製きせいひんをさまざまな部隊ぶたい輸送ゆそうするために交通こうつう便びん場所ばしょにあるなどである。カパサは、この2つの地域ちいきなかでも人里ひとざとはなれた谷間たにま建設けんせつされることがおおく、自然しぜんかくになっているが、洪水こうずい被害ひがい見舞みまわれることもおおい。施設しせつはフェンスでかこまれ、労働ろうどうしゃのための住宅じゅうたく高官こうかんおとずれるときのためのヘリポートがそなわっており、これらの地域ちいきではめずらしい舗装ほそうされた幹線かんせん道路どうろかよっている。1つの工場こうじょうに3000にん~5000にん労働ろうどうしゃがいて、国防こくぼう技術ぎじゅつ学校がっこう(DSTA)の職員しょくいん監督かんとくしているのだという[53]

8888民主みんしゅ運動うんどう西側にしがわ諸国しょこくからの兵器へいき全面ぜんめん禁輸きんゆ直面ちょくめんした国軍こくぐんは、中国ちゅうごく活路かつろもとめた。1989ねんとう陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょうだったタンシュエが中国ちゅうごく訪問ほうもんして14おくドルの兵器へいき取引とりひき契約けいやくむすび、1987ねんから1997ねんあいだにミャンマーが輸入ゆにゅうした13おく8000まんドルの兵器へいきのうち、じつに80%が中国ちゅうごくせいだった[24]。1989ねん天安門てんあんもん事件じけん国際こくさいてき孤立こりつしていた中国ちゅうごくが、おなじく国際こくさいてき孤立こりつしていたミャンマーに、経済けいざい協力きょうりょくわせて接近せっきんはかった格好かっこうだった[57]ほかにもイスラエル、北朝鮮きたちょうせん、パキスタン、ポーランド、ロシア、シンガポール、ユーゴスラビアから兵器へいき輸入ゆにゅうし、その内容ないよう弾薬だんやくけい火器かきじゅう携行けいこう火器かき輸送ゆそうよう装備そうびなどの戦力せんりょく維持いじ目的もくてきとするものにまらず、装甲そうこう兵員へいいん輸送ゆそうしゃ大砲たいほう対空たいくう(AA)兵器へいき、ヘリコプター、けい攻撃こうげきなどの正規せいきせん想定そうていした戦力せんりょく増強ぞうきょう高度こうど意図いとするもの、コルベット、フリゲート、ミサイル装備そうび巡視じゅんしてい武装ぶそうヘリコプター、ちょう音速おんそく戦闘せんとう多連装たれんそうロケット発射はっしゃなどのしん兵器へいき多岐たきわたり、これまで軽視けいしされてきたうみ空軍くうぐん強化きょうかはかった。2001ねんと2009ねんにはロシアからミグ29を、ぞれぞれ12、20購入こうにゅうしている[58]。また北朝鮮きたちょうせん支援しえんけたトンネル建設けんせつ核兵器かくへいき開発かいはつ疑惑ぎわくがったこともある。

2000年代ねんだいはいると、国軍こくぐん主要しゅよう兵器へいき輸入ゆにゅうさき中国ちゅうごくからロシアにえ、そのもインドや韓国かんこくなど輸入ゆにゅうさき多角たかくはかっている[59]。2017ねんから2021ねん国軍こくぐん兵器へいき輸入ゆにゅうさきは、中国ちゅうごくが36%、ロシアが27%、インドが17%となっている。

2021ねんクーデター以降いこう、ロシアとの関係かんけいはますます緊密きんみつになり、ユソフ・イサーク研究所けんきゅうじょ(ISEAS)英語えいごばんのレポートによると、2021ねんから2022ねんあいだにミャンマーぐんに2おく7600まん相当そうとう物資ぶっし供給きょうきゅうしたのにたいし、中国ちゅうごくからは1おく5600まん相当そうとう国連こくれん報告ほうこくしょによると、おな期間きかんにロシアの団体だんたいはミャンマーに4おく600まん相当そうとう防衛ぼうえい物資ぶっし移転いてんし、中国ちゅうごくは2おく6700まん$で2だった。ほかにも、ロシアの軍事ぐんじ技術ぎじゅつしゃが、ミャンマー空軍くうぐんロシアせい航空機こうくうき整備せいび手伝てつだっていたり、ラカインしゅうでのドローン戦争せんそう国軍こくぐん支援しえんしているものがおり、戦闘せんとう地域ちいきでも同様どうようのことがおこなわれている可能かのうせいがあるとわれている[60]

ミャンマー内戦ないせんにおいては、はん政府せいふ勢力せいりょく市販しはんのドローンと3Dプリンターでつくった部品ぶひんわせた自家製じかせいドローンを生産せいさん使用しようして、戦果せんかげていた。しかし、2023ねん10がつから2024ねん1がつにかけての1027作戦さくせん手痛ていた敗北はいぼくきっしたのちは、国軍こくぐん無人むじん航空機こうくうき(ドローン)の重要じゅうようせいづき、ドローンせんもん部隊ぶたいあらたに編成へんせいし、徴集ちょうしゅうへい基礎きそ訓練くんれんにドローン戦術せんじゅつ導入どうにゅうし、すうひゃくのドローンを兵器へいきした。ロシアや中国ちゅうごくからドローンやドローンの部品ぶひん輸入ゆにゅうし、非常ひじょうこう品質ひんしつのドローンよう弾薬だんやくんでいるのだという[61]

陸軍りくぐん

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ミャンマー陸軍りくぐん装備そうびひん一覧いちらん」を参照さんしょう

海軍かいぐん

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ミャンマー海軍かいぐん艦艇かんてい一覧いちらん」も参照さんしょう

潜水せんすいかん(2せき[62]

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フリゲート(5せき[62]

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コルベット(3せき[62]

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ミサイルてい(13せき[62]

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高速艇こうそくてい(9せき[62]

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哨戒しょうかいかん(1せき[62]

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哨戒しょうかいてい(69せき[62]

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ドックがた輸送ゆそう揚陸ようりくかん(1せき[62]

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揚陸ようりくてい(43せき[62]

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支援しえんかん(3せき[62]

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輸送ゆそうかん(5せき[62]

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しつらえしるべかん(1せき[62]

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給油きゅうゆかん(1せき

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国家こっか元首げんしゅヨット(1せき[62]

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空軍くうぐん

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ミャンマー国軍こくぐん機構きこう(1988)。中西なかにし嘉宏よしひろちょ軍政ぐんせいビルマの権力けんりょく構造こうぞう』P243

国軍こくぐんは、国軍こくぐんそう司令しれいかんしたりくうみ空軍くうぐんそれぞれの参謀さんぼう次長じちょうかれ、かくぐん統括とうかつしている。1962ねん以降いこう国防こくぼう大臣だいじん国軍こくぐんそう司令しれいかん兼任けんにんしたため、実質じっしつてき国軍こくぐん最高さいこう責任せきにんしゃ国軍こくぐんそう司令しれいかんで、つぎ陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょうだった。りくうみ空軍くうぐんのうち陸軍りくぐん圧倒的あっとうてきおおきいので、陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょうがNo.2になるのである。国防省こくぼうしょう陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ内局ないきょく全般ぜんぱん統括とうかつする国防省こくぼうしょう兵站へいたん局長きょくちょう軍務ぐんむ局長きょくちょう陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ統括とうかつする陸軍りくぐん参謀さんぼう大佐たいさ陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶないもうけられた情報じょうほうきょく重要じゅうようだった[63]

人事じんじかんしては、国軍こくぐんそう司令しれいかん陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょうさい重要じゅうようしょくにはネウィンが信頼しんらいする人物じんぶつ長期間ちょうきかんつとめる傾向けいこうがあったのにたいし、そのしょくはパターンした昇進しょうしんシステムを採用さいようし、昇進しょうしんからはずれたものは、前述ぜんじゅつしたようにすみやかにBSPP、人民じんみん議会ぎかい行政ぎょうせい機関きかん出向しゅっこうさせてその懐柔かいじゅうはかり、分断ぶんだん人事じんじ諜報ちょうほう機関きかん監視かんしによってかれらの不満ふまん抑制よくせいした[64]。1990年代ねんだい以降いこう数々かずかず経済けいざい特権とっけんもそれにくわわる。ネウィン時代じだい許容きょようされていなかったが、現在げんざい地位ちい利用りようして金銭きんせんてき利益りえきることは黙認もくにんされる傾向けいこうつよいのだという[65]

国軍こくぐん中心ちゅうしんである陸軍りくぐん基礎きそとなる部隊ぶたい単位たんい歩兵ほへい大隊だいたいであり、歩兵ほへい大隊だいたいは4中隊ちゅうたいからなる将校しょうこう兵士へいしわせて800にん部隊ぶたいだった。1961ねんまでは北部ほくぶ南部なんぶの2ぐん管区かんくした数個すうこ大隊だいたいごとにだい1旅団りょだんからだい13旅団りょだんまでの旅団りょだんせいられていたが、1961ねんぐん管区かんくせいかれ、当初とうしょ東南とうなん西南せいなん中央ちゅうおう西北せいほく東部とうぶの5ぐん管区かんくせいだったが、1972ねんにはこれにヤンゴン、北部ほくぶ東北とうほく西部せいぶの4ぐん管区かんくくわえた9ぐん管区かんくせいとなり、さらに1966ねんには1個いっこ師団しだんやく10大隊だいたい構成こうせいされる陸軍りくぐん直轄ちょっかつ歩兵ほへい師団しだん設立せつりつされ、兵力へいりょくも10まんにんから1980年代ねんだいまつには20まんにん拡大かくだいした[63]。さらに2010ねんまでに陸軍りくぐん特別とくべつ作戦さくせんが2から6へ、ぐん管区かんくが9から13へ、歩兵ほへい師団しだんが8から10へ拡大かくだい兵力へいりょくも1992ねんには27まんにん、2007ねんには40まんにん拡大かくだいした[24]兵士へいし供給きょうきゅうげんとなっているのは、ドライゾーンとばれるミャンマー中央ちゅうおう貧困ひんこん地域ちいきで、口減くちべらし目的もくてき国軍こくぐん入隊にゅうたいしたり、あるいは強制きょうせいてき入隊にゅうたいさせられていたのだという[26]

歴代れきだい国軍こくぐんそう司令しれいかん [66]
氏名しめい 在任ざいにん期間きかん ぜんしょく 備考びこう
アウンサン少将しょうしょう 1945ねん - 1947ねん7がつ19にち
ボーレッヤじゅんしょう 1947ねん - 1948ねん
スミス・ドゥン中将ちゅうじょう 1948ねん1がつ4にち - 1949ねん1がつ31にち カレンぞく
ネウィン大将たいしょう 1949ねん2がつ1にち - 1972ねん4がつ20日はつか
サンユ大将たいしょう 1972ねん4がつ20日はつか - 1974ねん3がつ1にち 陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょう 1981ねん大統領だいとうりょう
ティンウー大将たいしょう 1974ねん3がつ1にち - 1976ねん3がつ6にち ビルマ国防こくぼう次官じかんけん陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょう 日本にっぽん軍政ぐんせい士官しかん学校がっこうだい3期生きせい

国民こくみん民主みんしゅ連盟れんめい(NLD)ふく議長ぎちょう

チョーティン大将たいしょう 1976ねん3がつ6にち - 1985ねん11月3にち 陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょう だい4ビルマ・ライフル部隊ぶたい出身しゅっしん
ソウマウン上級じょうきゅう大将たいしょう 1985ねん11月4にち - 1992ねん4がつ22にち 陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょう 士官しかん訓練くんれん学校がっこう(OTS)だい6期生きせい
タンシュエ上級じょうきゅう大将たいしょう 1992ねん4がつ22にち - 2011ねん3がつ30にち 陸軍りくぐん参謀さんぼう次長じちょう 士官しかん訓練くんれん学校がっこう(OTS)だい9期生きせい
ミンアウンフライン上級じょうきゅう大将たいしょう 2011ねん3がつ30にち - 陸海空りくかいくうぐん統合とうごう参謀さんぼうちょう 国軍こくぐん士官しかん学校がっこう(DSA)だい19期生きせい

2021ねんのクーデター三権さんけん掌握しょうあく

ぐん諜報ちょうほう機関きかん

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ぐん情報じょうほうきょく(MIS)

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1962ねんにクーデターで政権せいけん奪取だっしゅしたネウィンは、機能きのう不全ふぜんおちいっていたぐん情報じょうほうきょく(Military Intelligence Service:MIS)の改革かいかくした。改革かいかくになったのは、ネウィンがわかころからをかけていた、モンぞくのティンウー(Tin Oo)だった(1974ねんから1976ねんまで国軍こくぐんそう司令しれいかんつとめ、NLDふく議長ぎちょうつとめたティンウーとは別人べつじん[67]。ネウィンは日本にっぽんぐん指揮しきにあったとき憲兵けんぺいたい仕込しこみの諜報ちょうほうじゅつ習得しゅうとくしたとわれており、それをティンウーにさづけた[68]。その、1957ねんにサイパンとう派遣はけんされてCIAの訓練くんれんけ、さらにイギリスの王立おうりつ憲兵けんぺいたい(RMP)でも訓練くんれんけた。1962ねんのクーデターのさいにはもと大統領だいとうりょうウィンマウンもと首相しゅしょうのウー・ヌの世話せわやくになった[67]

MISの監視かんし対象たいしょうになっていたのは、国内こくないはん政府せいふ武装ぶそう勢力せいりょくはん体制たいせい活動かつどう麻薬まやく組織そしきなどだった。当時とうじ、シャンしゅう占拠せんきょしていた中国ちゅうごく国民党こくみんとうぐんはCIAから、ビルマ共産党きょうさんとう(CPB)は中国共産党ちゅうごくきょうさんとうからの支援しえんけていた。MISはスパイをあぶすだけではなく、軍事ぐんじ作戦さくせん遂行すいこう必要ひつよう情報じょうほう戦場せんじょうにいる司令しれいかんたちに提供ていきょうして、MISの監視かんしは、海外かいがい亡命ぼうめいしゃ外国がいこく使節しせつだん一般いっぱん市民しみんにもおよび、日常にちじょうてき無線むせん通信つうしん傍受ぼうじゅし、国内外こくないがい電話でんわ盗聴とうちょうし、私的してき会話かいわ録音ろくおんし、郵便ゆうびんぶつ開封かいふうしていた[69]。またMISには独自どくじ刑務所けいむしょ拷問ごうもんセンターがあり、おおくの政治せいじはん調しらちゅう拷問ごうもんけて死亡しぼうしたとつたえられている。

MISは軍人ぐんじん監視かんし対象たいしょうとして、その告発こくはつおそれ、軍人ぐんじん国軍こくぐん忠実ちゅうじつであろうとするインセンティブになっているとわれていた。軍人ぐんじん失脚しっきゃくするさいは、大抵たいてい、MISが入手にゅうしゅした情報じょうほうにもとづく収賄しゅうわいその経済けいざい犯罪はんざいであることがおおかった。

MISは1965ねんと1976ねんの2軍人ぐんじんによるネウィン暗殺あんさつ計画けいかく阻止そししている。1965ねん、チャウズワミン(Kyaw Zwa Myint)というイギリスじんとビルマぞくとの混血こんけつで、キリスト教徒きりすときょうとである陸軍りくぐん大尉たいいが、ネウィン暗殺あんさつ計画けいかくしたとして指名しめい手配てはいされた。暗殺あんさつ理由りゆうは「ビルマ社会しゃかい主義しゅぎへのみち」が国家こっか経済けいざい破滅はめつみちびくことにづいたからとも、国内こくないキリスト教徒きりすときょうと弾圧だんあついきどおりをおぼえたからとも、ネウィンのつま・キンメイザンにちかづきすぎたからともわれる。チャウズワミンはタイへ逃亡とうぼうし、バンコクのレストランで食事しょくじちゅうにネウィンがおくった刺客しかくされ、あやうくにかけたが、なんとかオーストラリアまでげのび、その暗殺あんさつおそれて同郷どうきょうのミャンマーじんたちとの交際こうさい一切いっさいったまま、1981ねんに49さいくなった。のこされたかれ家族かぞく全員ぜんいん逮捕たいほされ、国軍こくぐんにいたイギリスじんとの混血こんけつ兵士へいしたちは、ほとんど解雇かいこされた。インドじんとユダヤじんき、カソリックで、後年こうねん国家こっか秩序ちつじょ回復かいふく評議ひょうぎかい(SLORC)で経済けいざい閣僚かくりょう歴任れきにんしたデヴィッド・アベル(David Abel)は数少かずすくない例外れいがいだった[70]。1976ねんには、前年ぜんねんのティンウー国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかん更迭こうてつ不満ふまんいていたオーチョーミン(Ohn Kyaw Myint英語えいごばん陸軍りくぐん大尉たいい以下いかわか陸軍りくぐん将校しょうこうのグループが、ネウィン大統領だいとうりょう、サンユBSPP書記しょきちょう、そしてティンウー国家こっか情報じょうほう局長きょくちょう暗殺あんさつ計画けいかくした。暗殺あんさつは3がつ27にちヤンゴンの大統領だいとうりょう官邸かんてい開催かいさいされた国軍こくぐん記念きねん晩餐ばんさんかい決行けっこうする予定よていだったが、グループの連携れんけい上手うまくいかず失敗しっぱい後日ごじつさい決行けっこうする予定よていだったが、そのまえ情報じょうほうれた。4月2にち、オーチョーミンはアメリカ大使館あめりかたいしかんおもむ政治せいじ亡命ぼうめいもとめた。しかし、当時とうじのアメリカ政府せいふはミャンマー政府せいふ良好りょうこう関係かんけいたもちたいとかんがえていたので、これを拒否きょひ結局けっきょく裏切うらぎものてオーチョーミン以下いか計画けいかく首謀しゅぼうしゃ13めい逮捕たいほされ、裁判さいばんにかけられたのち、オーチョーミンには死刑しけい判決はんけつくだされ、1979ねん執行しっこうされた。裁判さいばんではビルマしき社会しゃかい主義しゅぎ否定ひていてき国軍こくぐん首脳しゅのうののかなりのかず事前じぜん計画けいかくっていたという事実じじつあきらかにされ、ティンウーもと国軍こくぐんそう司令しれいかん暗殺あんさつ計画けいかくかかわったとして7ねん懲役ちょうえきけいけた。もう一人ひとりチャウゾー(Kyaw Zaw)じゅんしょう計画けいかくへの関与かんようたがわれたが、逮捕たいほ直前ちょくぜんにヤンゴンを脱出だっしゅつして、CPBに合流ごうりゅうし、CPBの司令しれいかん就任しゅうにんした。のちかれはクーデターからCPBに内通ないつうしており、ヤンゴンでのテロ工作こうさく関与かんよしていたことがあきらかにされた[71][70]

MISの名前なまえは、“エムアイ”と文盲もんもう国民こくみんあいだでさえれわたり、ティンウーは”MIティンウー”とばれ、おそれ、にくまれていた[68]。その一方いっぽうでネウィンの絶大ぜつだい信頼しんらい、1974ねん民政みんせい移管いかんさいには、大統領だいとうりょうとなったネウィンの特別とくべつ軍事ぐんじ顧問こもんとなり、1981ねんにネウィンが大統領だいとうりょう辞職じしょくしたのちは、BBSPの中央ちゅうおう執行しっこう委員いいん国家こっか評議ひょうぎかいのメンバー、そしてBSPPふく書記しょきちょうとなって党内とうないNo.3にまで出世しゅっせした。しかし、1983ねん7がつ、ティンウーは突然とつぜん中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんふく書記しょきちょう解任かいにんされ、11月、公共こうきょう財産ざいさん不正ふせい利用りようつみで5かい終身しゅうしんけいけた。政敵せいてきうとまれ、謀略ぼうりゃくにあったというのが、もっぱらのうわさだった[72]。ティンウーは8888民主みんしゅ運動うんどうのち恩赦おんしゃけて釈放しゃくほうされ、その瞑想めいそうける生活せいかつおくったのち、ネウィンの秘密ひみつ暴露ばくろすることもなく、1998ねんくなった[73]

国防省こくぼうしょう情報じょうほうきょく(DDSI)

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キンニュン

ティンウー失脚しっきゃく、 アウンコー(Aung Koe) 大佐たいさという人物じんぶつがMISのトップになったが、1984ねんかれラングーン事件じけんこしてすぐに失脚しっきゃくした。事件じけん当時とうじ、ゴルフをやっていたことがネウィンのいかりをったのだという。わりにトップにいたのが、ヤンゴン大学だいがく出身しゅっしんで、当時とうじ、カレンしゅうだい44歩兵ほへい師団しだん所属しょぞくしていたキンニュンで、シンガポールの首相しゅしょうだったリー・クアンユーが「もっとも聡明そうめい人物じんぶつ」とひょうしたほど、あたまれる人物じんぶつだった[74]。MISは国防省こくぼうしょう情報じょうほうきょく( Directorate of the Defense Services Intelligence:DDSI)に改組かいそされた。組織そしきとしては、国家こっか情報じょうほうきょく(National Intelligence Bureau:NIB)のしたにDDSIがあり、外務省がいむしょう内務省ないむしょう情報じょうほう関係かんけい部局ぶきょく国家こっか開発かいはつ経済けいざいしょう関税かんぜい部局ぶきょく入国にゅうこく管理かんり人口じんこうしょう入国にゅうこく管理かんりきょく統括とうかつした[75]

1988ねんのクーデターののち設立せつりつされた国家こっか秩序ちつじょ回復かいふく評議ひょうぎかい(SLORC)では、キンニュンはだい1書記しょきちょうつとめた。よく1989ねん兵士へいし反乱はんらんによってCPBが崩壊ほうかいすると、かれはすぐさま現地げんちんで、CPBの残留ざんりゅう勢力せいりょくであるしゅう連合れんごうぐん(UWSA)、ミャンマー民族みんぞく民主みんしゅ同盟どうめいぐん(MNDAA)、民族みんぞく民主みんしゅ同盟どうめいぐん(NDAA)、カチンしん民主みんしゅぐん(NDA-K)と停戦ていせん合意ごういむすんだ。なおキンニュンは、ノンフィクション作家さっか高野たかの秀行ひでゆきしゅう滞在たいざい『ビルマ・アヘン王国おうこく潜入せんにゅう』を英訳えいやくさせて、熟読じゅくどくしていたのだという[76]。こののち、キンニュン主導しゅどう国軍こくぐんおおくの少数しょうすう民族みんぞく武装ぶそう勢力せいりょく停戦ていせん合意ごういむすんでいった。

SLORC/SPDCでDDSIは拡大かくだいされ、1991ねんまでに9つのしん部隊ぶたい設立せつりつされ、19の拷問ごうもんセンターを運営うんえいしており、そのうち7つはヤンゴンにあり、なかでもYay Kyi Aing(「んだいけ」という悪名あくめいたか[41]。 1990年代ねんだいなかばからは、ネットの監視かんしはじめ、EいーメールやSNSのチェックをおこなっていたが、2001ねん段階だんかいでミャンマーの電話でんわ加入かにゅうしゃはわずか29まん5せんにん、ネットユーザーは1000にんしかいなかったので、その諜報ちょうほう活動かつどうひくいレベルにとどまっていた。DDSIは、8888民主みんしゅ運動うんどうさいおおくの民主みんしゅ活動かつどう逃亡とうぼうしたタイでも諜報ちょうほう活動かつどうおこなっていた。キンニュンの右腕うわんわれていたテインスエ(Thein Swe)大佐たいさは、バンコクの国防こくぼう武官ぶかん時代じだいに、タイの外交がいこうかん諜報ちょうほういん情報じょうほう提供ていきょうしゃ一部いちぶメディアのあいだ広範こうはんなネットワークを構築こうちく[68]少数しょうすう民族みんぞく武装ぶそう勢力せいりょく関係かんけいしゃやみ商人しょうにん麻薬まやく人身じんしん売買ばいばい業者ぎょうしゃはん体制たいせい政治せいじ活動かつどう亡命ぼうめいしゃ難民なんみん、さらには外国がいこくじんジャーナリストや学者がくしゃ活動かつどうなどを監視かんしし、ブラックリストを作成さくせいしていた。また中国ちゅうごく、インド、ASEAN諸国しょこく、イスラエルなどの諜報ちょうほう機関きかんとも協力きょうりょく関係かんけいきずいていた[69]。この時期じき国軍こくぐん最大さいだいてきはNLD関係かんけいしゃだったが、ミャンマー特命とくめい全権ぜんけん大使たいしつとめた宮本みやもと雄二ゆうじによれば、NLDの会議かいぎ内容ないよう国軍こくぐん全部ぜんぶ筒抜つつぬけだったのだという[77]。1993ねんには、もとNLD議員ぎいんで、ビルマ連邦れんぽう国民こくみん連合れんごう政府せいふ(NCGUB)の閣僚かくりょうだったもの2人ふたり、それぞれバンコクとこんあきら暗殺あんさつされている[70]。この時期じき形成けいせいされた諜報ちょうほういんのネットワークは現在げんざいでもきていて、チェンマイメーソートなど民主みんしゅ活動かつどうカレン民族みんぞく同盟どうめい(KNU)の関係かんけいしゃおお地域ちいきでは、国軍こくぐん諜報ちょうほういん活動かつどうしているとわれている[68]

2001ねん、DDSIは戦略せんりゃく研究所けんきゅうじょ(Office of Strategic Studies:OSS)と合併がっぺいしてぐん情報じょうほう総局そうきょく(Office of the Chief of Military Intelligence:OCMI)となり、2003ねん、キンニュンは首相しゅしょう任命にんめいされた。しかし2004ねん10がつ19にち、キンニュンは突然とつぜん自宅じたく拘束こうそくされ、22にちにはOCMIは解体かいたいされ、政府せいふ高官こうかん27にんふくむOCMIの幹部かんぶやく300にん逮捕たいほされ、やく3000にん職員しょくいん退職たいしょく配転はいてんとなった。その、キンニュンは44ねん禁固刑きんこけいけ、自宅じたく軟禁なんきんかれた。形式けいしきてきには、キンニュン失脚しっきゃくやく2週間しゅうかんまえにOCMI局員きょくいん100にん国境こっきょう検問けんもんしょにおける税金ぜいきん着服ちゃくふくつみ摘発てきはつされた責任せきにんわれたということだったが、より本義ほんぎてきには、OCMI局長きょくちょう首相しゅしょうね、ミャンマーの体外たいがいてき顔役かおやくとなり、「政府せいふない政府せいふ」「経済けいざいない経済けいざい」とまでわれるほど強大きょうだいしたキンニュンをタンシュエSPCD議長ぎちょうマウンエイふく議長ぎちょう脅威きょういなしたことが原因げんいんわれている。前年ぜんねんの2003ねん5がつには、タンシュエ主導しゅどうでスーチー一行いっこう襲撃しゅうげきするディペイン事件じけんきたが、キンニュンはなにらされておらず、非常ひじょう不快ふかいかんしめしていたのだという[75]

ぐん保安ほあん局長きょくちょう事務所じむしょ(OCMSA)

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OCMI解体かいたいぐん保安ほあん局長きょくちょう事務所じむしょ(OCMSA)が設立せつりつされたが、強大きょうだいしたOCMIのわだちまないように、その活動かつどう軍事ぐんじ問題もんだい限定げんていされているともつたえられている。にミャンマーで諜報ちょうほう活動かつどうたずさわる組織そしきは、ミャンマー警察けいさつMyanmar Police Force英語えいごばん:MPF)傘下さんか政治せいじ問題もんだい捜査そうさする特別とくべつ情報じょうほう(Special Intelligence Branch:SB)と犯罪はんざい捜査そうさ(the Criminal Investigation Department:CID)、そして汚職おしょく金融きんゆう犯罪はんざい、マネーロンダリングなどを捜査そうさする特別とくべつ捜査そうさきょくBureau of Special Investigation英語えいごばん:BSI)などがある[69]

OCMSAの現在げんざいのトップはイェウィンウー(Ye Win Oo英語えいごばん中将ちゅうじょうで、おどろくべきことにOCMSAの局員きょくいんには、ミンアウンフラインの国軍こくぐん士官しかん学校がっこう(DSA)の同期どうき・ングエ・トゥン(Ngwe Tun)大佐たいさ、8888民主みんしゅ運動うんどうさいにスーチー中傷ちゅうしょうビラを配布はいふする責任せきにんしゃだったニャンリン(Nyan Linn)中佐ちゅうさ、そしてテインスエなど2004ねん粛清しゅくせいげきさい追放ついほうされた人物じんぶつふくまれており、またテインセイン政権せいけんで、少数しょうすう民族みんぞく武装ぶそう勢力せいりょくとの和平わへい交渉こうしょうにおいて重要じゅうよう役割やくわりたした人々ひとびと情報じょうほう提供ていきょうしゃとして活動かつどうしているのだという[68]

2021ねんクーデター直後ちょくごの2がつ9にち、すべての諜報ちょうほう機関きかん統括とうかつする国家こっか保安ほあんきょく(National Security Bureau:NSB)が設置せっちされ[78]、イスラエルからスパイウェア・システム、中国ちゅうごくからCCTVを導入どうにゅうしてプライバシー規制きせい強化きょうかしているともつたえられている。

またOCMSAの諜報ちょうほういんが、破壊はかい活動かつどうはん政府せいふ勢力せいりょくへのじゅうスパイの配置はいちにせPDFの結成けっせいなどさまざまな諜報ちょうほう活動かつどうたずさわっているともつたえられている[79]

教育きょういく機関きかん

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人材じんざい育成いくせい

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国軍こくぐんは、独立どくりつ直前ちょくぜんの1946ねん士官しかん訓練くんれん学校がっこう(Officers Training School:OTS)を設立せつりつしていたが、訓練くんれん期間きかん訓練くんれんマニュアルも訓練くんれんよう兵器へいき不足ふそくしており、兵士へいししつひくかった。1950年代ねんだい後半こうはんには年間ねんかん2000にんから4000にん脱走だっそうへいがいたのだという[24]。また将校しょうこうについても、イギリス、インド、パキスタンなどの国々くにぐに訓練くんれん学校がっこう派遣はけんして養成ようせいしていたが、それも不十分ふじゅうぶんだった。当時とうじ国軍こくぐんNo.2だったアウンジーは以下いかのようにべている。

軍事ぐんじ科学かがく軍事ぐんじ思想しそう理解りかいしておらず、軍事ぐんじ知識ちしきもなく、ゲリラせん以上いじょう軍事ぐんじ経験けいけんもない将校しょうこう大半たいはんめる国軍こくぐんしつ非常ひじょうひくいことをれなければならない。

 
2021ねん3がつ27にち国軍こくぐん記念きねんきゅう日本にっぽんぐんふう軍服ぐんぷく行進こうしんする国軍こくぐん兵士へいしたち。

こうした状態じょうたい憂慮ゆうりょした国軍こくぐんは、軍事ぐんじ訓練くんれんプログラムと訓練くんれん方針ほうしんまなばせるために、おおくの軍事ぐんじ代表だいひょうだんをインド、パキスタン、イスラエル、ユーゴスラビア、ひがしドイツ、英国えいこく、アメリカ、ソビエト連邦れんぽうなどに派遣はけんした。1950年代ねんだい国軍こくぐん士官しかん学校がっこう(Defence Services Academy:DSA)、国防こくぼう大学だいがく(National Defence College:NDC)(1958ねん)などの教育きょういく施設しせつ設立せつりつ入隊にゅうたいぜん教育きょういく訓練くんれん双璧そうへきはOSTとDSAで、両校りょうこう出身しゅっしんしゃあいだには確執かくしつがあるともわれている。ネウィン時代じだいは、昇進しょうしん人事じんじ円滑えんかつおこなうために将校しょうこうかず意図いとてきひくおさえられていたが、タンシュエ時代じだいには将校しょうこうだん規模きぼ増大ぞうだいし、国軍こくぐん士官しかん学校がっこう(DSA)の卒業生そつぎょうせいは1990年代ねんだい初期しょきは100にんだいだったものが、後期こうきには200にんだいとなり、2000年代ねんだいには2000にんだい激増げきぞうした[24]

さらに留学りゅうがくにもちかられ、サンドハースト王立おうりつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうとうイギリス、アメリカ、オーストラリアの名門めいもん士官しかん学校がっこう多数たすう将校しょうこう留学りゅうがくさせ、人材じんざい育成いくせいちからそそいだ。ちなみにミャンマーの訓練くんれん学校がっこうのマニュアルはイギリスのもの、教官きょうかん日本にっぽんぐんした訓練くんれんけたものおおかったので、国軍こくぐんは「日本にっぽんてきしんった英国えいこくてき組織そしき」ともわれているのだという。しかし軍事ぐんじ独裁どくさい政権せいけんとなった1962ねん以降いこうは、海外かいがい留学りゅうがく激減げきげん。1959ねんに106にんいた留学りゅうがくしゃは、1970年代ねんだいには1けただいちこみ、1980年代ねんだいには2けただい回復かいふくしたものの、それでも1987ねんに36にん留学りゅうがくするだけだった[80]。しかし、国家こっかほう秩序ちつじょ回復かいふく評議ひょうぎかい(SLORC)成立せいりつは、西側にしがわ諸国しょこくからは制裁せいさいけていたものの、ふたた留学りゅうがくさかんとなり、中国ちゅうごく、ロシア、マレーシア、シンガポール、インド、パキスタンなどの国々くにぐに多数たすう軍人ぐんじん派遣はけんした。また戦力せんりょく近代きんだい拡大かくだい計画けいかくもとで、おおくのあたらしい訓練くんれん学校がっこう設立せつりつした[81]

国軍こくぐん海外かいがい経験けいけん不足ふそくとらえて、その視野しやせまさを指摘してきするこえもあるが、藤川ふじかわ大樹だいき大橋おおはし洋一郎よういちろう共著きょうちょ『ミャンマーけん力闘りきとうそう アウンサンスーチー、しん政権せいけん攻防こうぼう』では以下いかのようにべられている。

西側にしがわ諸国しょこくには、ミャンマー国軍こくぐんを「ならずもの集団しゅうだん」となすきがあるが、それは間違まちがいだ。軍事ぐんじ政権せいけん支配しはい長引ながびなか優秀ゆうしゅう若者わかものたちは国軍こくぐん目指めざし、政治せいじ経済けいざい牛耳ぎゅうじってきた。いまも、国軍こくぐん国会こっかい一定いってい議席ぎせきすうめ、天下あまくだりなどをつうじて主要しゅよう企業きぎょうおおくをコントロールしている。企業きぎょう経営けいえい金融きんゆうなど経済けいざい発展はってん必要ひつようなノウハウは国軍こくぐんにぎっている[82]

初等しょとう教育きょういく

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また8888民主みんしゅ運動うんどうけて、愛国あいこく教育きょういくちかられた宿営しゅくえい学校がっこう(Cantonment School)とばれる学校がっこう全国ぜんこくやく20こう設立せつりつ小学校しょうがっこうから高校こうこうまであり、校長こうちょう陸軍りくぐん心理しんりきょく所属しょぞく大学院だいがくいんそつ軍人ぐんじん で、教師きょうし大卒だいそつ以上いじょう軍人ぐんじんつまおおく、進歩しんぽじょうきょう教育きょういくしょうではなく陸軍りくぐん心理しんりきょく報告ほうこくすることになっている 。生徒せいとの80%は軍人ぐんじん家庭かていのこりは公務員こうむいん家庭かていで、生徒せいと成績せいせきはおしなべて優秀ゆうしゅうなのだという[83]

2021ねんクーデターは、国軍こくぐん仏教ぶっきょう教育きょういく力点りきてんいたダンマ(Dhamma)・スクールを各地かくち設立せつりつしている。教育きょういくになっているのはミャンマー愛国あいこく協会きょうかい(マバタ)やビルマ仏教ぶっきょう青年せいねんかい(YMBA)英語えいごばんなどの国軍こくぐんけい僧侶そうりょなのだという[84]

兵役へいえき

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入隊にゅうたいぜん教育きょういく訓練くんれん[81]
名称めいしょう 設立せつりつ 場所ばしょ 備考びこう
国防こくぼう陸軍りくぐん士官しかん訓練くんれん学校がっこう(DSOTS) 1946ねん バトゥー(Ba Htoo) 1946ねん士官しかん訓練くんれん学校がっこう(OTS)として設立せつりつ将校しょうこう養成ようせい機関きかん大卒だいそつ高卒こうそつ中卒ちゅうそつそれぞれの学歴がくれきおうじた養成ようせいコースがある。
国軍こくぐん士官しかん学校がっこう(DSA) 1955ねん ピン・ウー・ルウィン 将校しょうこう養成ようせい機関きかん。16さいから19さいまでの高卒こうそつ入学にゅうがくさせ、4年間ねんかん訓練くんれんける。卒業そつぎょうした士官しかん候補こうほせいには学士がくしごう学士がくしごう授与じゅよされ、国軍こくぐんの3つのぐんのどこかに配属はいぞくされる。現在げんざい、コンピューター・サイエンスの学位がくいコースも導入どうにゅうしているが、コースのだい部分ぶぶん軍事ぐんじ科学かがくてられている。
テザ(国軍こくぐん士官しかんコース《OTC》) 1971ねん~2002ねん 将校しょうこう養成ようせいコース。2000ねん国軍こくぐんはテザ将校しょうこう募集ぼしゅう停止ていし。2002ねんまでにけい30合計ごうけい4,958にんのテザ将校しょうこう国軍こくぐん入隊にゅうたいした。
国防こくぼう医学いがく学校がっこう(DSMA) 1993ねん ヤンゴン 国軍こくぐん唯一ゆいいつかん養成ようせい機関きかん。1950年代ねんだいはじめから、医学部いがくぶ卒業そつぎょうしゃ対象たいしょうとした国家こっか公務員こうむいん制度せいど実施じっししてきたが、1990年代ねんだいになると採用さいようむずかしくなり、1993ねん国防こくぼう医学いがく研究所けんきゅうじょ( DSIM)として設立せつりつされ、その改称かいしょう
国防こくぼう技術ぎじゅつ学校がっこう(DSTA) 1994ねん ピン・ウー・ルウィン 1994ねん国防こくぼう技術ぎじゅつ大学だいがく( DSIT)として設立せつりつ。1999ねん改称かいしょう技官ぎかん養成ようせい機関きかん機械きかい工学こうがく土木どぼく工学こうがく電力でんりょく工学こうがく電子でんし工学こうがく防衛ぼうえい産業さんぎょう工学こうがく化学かがく工学こうがく海洋かいよう工学こうがく航空こうくう工学こうがく冶金やきん工学こうがく学位がくい取得しゅとくできる。2006ねんには海軍かいぐん建築けんちく海洋かいよう電気でんきシステム・エレクトロニクス、航空こうくう宇宙うちゅう航空こうくう工学こうがく航空こうくう宇宙うちゅう推進すいしん飛行ひこうたい、メカトロニクスの5つのカテゴリーが追加ついかされた。DSTAは国軍こくぐん将校しょうこうのための大学院だいがくいんコースも提供ていきょうしている。
国防こくぼう看護かんご医療いりょう従事じゅうじしゃ科学かがく研究所けんきゅうじょ(DSINPS) 2000ねん ヤンゴン 2000ねん国防こくぼう看護かんご大学だいがく(DSIN)として設立せつりつ。2002ねん改称かいしょう看護かんご士官しかん訓練くんれんセンター。卒業生そつぎょうせい国軍こくぐん徴用ちょうようされず、在学ざいがくちゅう少尉しょういから中佐ちゅうさまでの官職かんしょく任命にんめいされる。看護かんごがくや、薬学やくがく放射線ほうしゃせんがく理学りがく療法りょうほう医療いりょう技術ぎじゅつなどの医療いりょう従事じゅうじしゃ科学かがくの4ねんせい学位がくいプログラムでは、男性だんせい候補者こうほしゃのみを募集ぼしゅう
入隊にゅうたい教育きょういく訓練くんれん[81]
名称めいしょう 設立せつりつ 場所ばしょ 備考びこう
指揮しき幕僚ばくりょう大学だいがく(CGSC) 1948ねん カロー 1948ねん、ビルマ陸軍りくぐん参謀さんぼう学校がっこう(BASC)として設立せつりつ。1996ねん改称かいしょう毎年まいとし陸海空りくかいくうぐんから少佐しょうさ中佐ちゅうさ下級かきゅう将校しょうこう警察官けいさつかんすうめい大佐たいさへの昇進しょうしんのために選抜せんばつされ、やく12ヶ月かげつあいだ訓練くんれんける。訓練くんれんせいのほとんどは陸軍りくぐん出身しゅっしんで、空軍くうぐん海軍かいぐん警察けいさつ出身しゅっしん将校しょうこうはわずか。その教育きょういく趣旨しゅしは(1)歩兵ほへい師団しだん指揮しきできる将校しょうこう育成いくせい地方ちほう司令しれいのスタッフ業務ぎょうむ遂行すいこう(2)国防こくぼう政策せいさく軍事ぐんじドクトリン、国際こくさい政治せいじ地域ちいき政治せいじ軍事ぐんじ科学かがく地政学ちせいがく、ミャンマーの現在げんざい政治せいじ社会しゃかい経済けいざい状況じょうきょうとの相関そうかん関係かんけい枠組わくぐみのなかで、軍事ぐんじ問題もんだいたいする迅速じんそくかつただしい解決かいけつさく見出みいだすことができるような将校しょうこう養成ようせいである。指揮しき軍事ぐんじ指導しどう幕僚ばくりょう任務にんむ、ジャングルせん特殊とくしゅ戦術せんじゅつ河川かせん横断おうだんせん山脈さんみゃくせん低地ていちせん、トンネルせん、ゲリラせん、コマンド、ABC(原子げんし生物せいぶつ化学かがくせん合同ごうどう作戦さくせん人民じんみん戦争せんそう戦略せんりゃく情報じょうほう収集しゅうしゅう技術ぎじゅつ支援しえん部隊ぶたいなどのコースがある。
国防こくぼう情報じょうほうセンター(DSIC) 1950ねん 1950ねん軍事ぐんじ情報じょうほう訓練くんれんセンター(MITC)として設立せつりつ。1958ねん改称かいしょう情報じょうほう将校しょうこうのためのコースを提供ていきょう尋問じんもん情報じょうほう収集しゅうしゅう分析ぶんせき特別とくべつ警備けいび作戦さくせん、その専門せんもん科目かもく訓練くんれんける。
国防こくぼう信号しんごう電気でんき学校がっこう(DSSES) 1951ねん 1951ねん、ビルマ信号しんごう訓練くんれん連隊れんたい(BSTR)として設立せつりつ。1997ねん改称かいしょう戦闘せんとうレベルの信号しんごう運用うんようかんする基本きほんてき知識ちしきる。信号しんごう部隊ぶたい将校しょうこうは、信号しんごう小隊しょうたい信号しんごう中隊ちゅうたい信号しんごう電子でんし工学こうがくのためのコースを受講じゅこうしなければならない。これらのコースには、無線むせん操作そうさ信号しんごう情報じょうほう傍受ぼうじゅ暗号あんごう作成さくせい解読かいどく電子でんしせんなどがふくまれる。 電子でんし情報じょうほう技術ぎじゅつ発展はってんいつくため、歩兵ほへい将校しょうこうのためのあたらしいコースが数多かずおお開講かいこうされており、これには C4 I(指揮しき統制とうせい通信つうしん、コンピュータ、情報じょうほうせん基礎きそコースもある。
国防こくぼう工兵こうへい学校がっこう(DSES) 1952ねん ピン・ウー・ルウィン 1952ねん、ビルマ陸軍りくぐん工兵こうへいたいセンター(BAECC)として設立せつりつ。1997ねん改称かいしょう工兵こうへい部隊ぶたい将校しょうこうその階級かいきゅう軍人ぐんじん対象たいしょう将校しょうこうけには地雷じらい作業さぎょう野外やがい工学こうがく、トンネルせん土木どぼく工学こうがくのコースがある。
国防こくぼう陸軍りくぐん戦闘せんとう部隊ぶたい学校がっこう(DSCFS) 1955ねん バインナウン(Bayinnaung) 1952ねん、ビルマ陸軍りくぐん中央ちゅうおう学校がっこう(BACS)として設立せつりつ。2000ねん新設しんせつされた。陸軍りくぐん士官しかん訓練くんれんしょ。3ヶ月かげつ~5ヶ月かげつあいだ軍事ぐんじ指導しどう幕僚ばくりょう任務にんむ軍事ぐんじ戦略せんりゃく戦術せんじゅつ軍事ぐんじ法規ほうき戦史せんし戦争せんそう原理げんりたい反乱はんらんせんなどをまなぶ。
国防こくぼう大学だいがく(NDC) 1958ねん ヤンゴン 上級じょうきゅう士官しかん対象たいしょう。ほとんどが大佐たいさ。1998ねん修士しゅうしコースを導入どうにゅう。(1)国家こっか独立どくりつ主権しゅけん国民こくみん連帯れんたい、ミャンマー連邦れんぽう発展はってん進歩しんぽ永続えいぞくさせるために、適切てきせつ軍事ぐんじドクトリンと公共こうきょう政策せいさく研究けんきゅう開発かいはつできる(2) 国家こっか安全あんぜん保障ほしょう密接みっせつかかわる軍事ぐんじ問題もんだい国内こくない政治せいじ経済けいざい問題もんだい国家こっか政策せいさく目的もくてき理解りかいできる。(3)近代きんだい先進せんしんこく建設けんせつのための国際こくさい国内こくない政策せいさく決定けっていするうえで、相互そうご関連かんれん重要じゅうよう軍事ぐんじてき政治せいじてき後方こうほう支援しえんてき経営けいえいてき心理しんりてき要因よういん分析ぶんせきし、効率こうりつてき活用かつようすることができる(4)国家こっか防衛ぼうえい安全あんぜん保障ほしょう目標もくひょう国家こっか政策せいさく目的もくてき分析ぶんせきし、国家こっか目標もくひょう支援しえんするために、平和へいわ戦争せんそう両方りょうほうにおいて、将来しょうらい国家こっかだい戦略せんりゃく策定さくていすることができる人材じんざい育成いくせい演習えんしゅう一環いっかんとして国家こっか安全あんぜん保障ほしょう計画けいかく立案りつあん義務付ぎむづけられている。卒業生そつぎょうせいは、じゅんはた以上いじょうへの昇進しょうしん検討けんとうされ、司令しれいかん幕僚ばくりょう両方りょうほう役職やくしょくくことができる。
りく空戦くうせん空挺くうてい部隊ぶたい学校がっこう(LAWPS) 1958ねん 1958ねんりく空戦くうせん学校がっこう(LAWS)として設立せつりつ。1963ねん落下傘らっかさん部隊ぶたい学校がっこう合併がっぺいして改称かいしょう空挺くうてい作戦さくせんまなぶ。
国防こくぼう行政ぎょうせい学校がっこう(DSAS) 1964ねん ピン・ウー・ルウィン 1964ねん、ビルマ陸軍りくぐん行政ぎょうせい支援しえん訓練くんれん学校がっこう(BAASTS)として設立せつりつ。1997ねん改称かいしょう将校しょうこうコースは、優秀ゆうしゅう准尉じゅんい将校しょうこうじゅん士官しかん司法しほう将校しょうこう育成いくせいすることを目的もくてきとしている。ほとんどすべての下級かきゅう将校しょうこうはDSASのコースを受講じゅこうすることが義務付ぎむづけられている。
装甲そうこう砲兵ほうへい訓練くんれん学校がっこう(AAS) 1990ねん ピン・ウー・ルウィン 1994ねん国防こくぼう技術ぎじゅつ大学だいがく( DSIT)として設立せつりつ。1999ねん改称かいしょう砲兵ほうへい装甲そうこう防空ぼうくう大隊だいたい勤務きんむする将校しょうこうその階級かいきゅう軍人ぐんじん対象たいしょうおおくの下士官かしかんおも任官にんかん直後ちょくご将校しょうこうが、砲兵ほうへい訓練くんれんのためにAASにく。
国防こくぼう機械きかい電気でんき工学こうがく学校がっこう(DSMEES) 1990ねん ピン・ウー・ルウィン 将校しょうこう対象たいしょう小隊しょうたいレベルおよび中隊ちゅうたいレベルのコースを提供ていきょう。その内容ないようは、兵器へいきシステムの整備せいび修理しゅうり、レーダー検査けんさ、ミサイル整備せいび電子でんし機器きき整備せいびなどである。
特殊とくしゅ部隊ぶたい訓練くんれんセンター 空軍くうぐん海軍かいぐん士官しかん対象たいしょう空軍くうぐんけには、基本きほん飛行ひこう航法こうほう航空こうくう交通こうつう管制塔かんせいとう操作そうさ輸送ゆそう飛行ひこう、ヘリコプターの飛行ひこう防空ぼうくうシステムなどのコースがある。海軍かいぐんけは、電子でんし情報じょうほう水雷すいらい魚雷ぎょらい作戦さくせん水雷すいらい掃海そうかい航海こうかい測量そくりょう海軍かいぐんコマンド、海軍かいぐん砲兵ほうへいなどのコースがある。
戦闘せんとう関連かんれん組織そしき活動かつどう訓練くんれんセンター(CROATC) ビルマ社会しゃかい主義しゅぎ計画けいかくとう(BSPP)のイデオロギー教育きょういくセンターで、地方ちほう司令しれいでイデオロギー教育きょういくセンターを運営うんえいしていて、廃止はいしされた中央ちゅうおう政治せいじ学院がくいんわりの教育きょういく機関きかん。すべての軍人ぐんじんはCROATCで3ヶ月かげつのコースを受講じゅこうしなければならない。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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