(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ヴェーザー演習作戦 - Wikipedia

ヴェーザー演習えんしゅう作戦さくせん

ナチス・ドイツによるノルウェーとデンマークへの侵攻しんこう作戦さくせん。1940ねん実行じっこうした。

ヴェーザー演習えんしゅう作戦さくせん(ヴェーザーえんしゅうさくせん、ドイツ: Unternehmen Weserübung)は、だい世界せかい大戦たいせんなかの1940ねん4がつナチス・ドイツ実行じっこうしたノルウェーデンマークへの侵攻しんこう作戦さくせん

ヴェーザー演習えんしゅう作戦さくせん

戦争せんそうだい世界せかい大戦たいせん西部せいぶ戦線せんせん
年月日ねんがっぴ:1940ねん4がつ9にち - 6がつ10日とおか
場所ばしょ:デンマーク・ノルウェー
結果けっか:ドイツの勝利しょうり・デンマークとノルウェーの占領せんりょう
交戦こうせん勢力せいりょく
ナチス・ドイツの旗 ドイツこく  ノルウェー
 デンマーク
イギリスの旗 イギリス
フランスの旗 フランス共和きょうわこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
ナチス・ドイツの旗 ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト
ナチス・ドイツの旗 レオンハルト・カウピッシュ
ナチス・ドイツの旗 ハンス=フェルディナント・ガイスラー
ナチス・ドイツの旗 アルフレート・ザールヴェヒター
ナチス・ドイツの旗 ギュンター・リュッチェンス
ナチス・ドイツの旗 エデュアルト・ディートル
ノルウェーの旗 クリスチャン・ラーケ
ノルウェーの旗 オットー・ルーゲ
ノルウェーの旗 カール・グスタフ・フライシャー英語えいごばん
デンマークの旗 クリスチャン10せい
デンマークの旗 ウィリアム・ウェイン・プライアー英語えいごばん
イギリスの旗 ウィリアム・ボイル英語えいごばん
戦力せんりょく
120,000 60,000(ノルウェー)
14,500(デンマーク)
35,000(その
損害そんがい
戦死せんし行方ゆくえ不明ふめい
5,636
戦死せんし行方ゆくえ不明ふめい
6,116
だい大戦たいせんヨーロッパ戦線せんせん

概略がいりゃく

編集へんしゅう

1940ねん4がつ9にち(ヴェーザー早朝そうちょうにドイツぐんはデンマークとノルウェーに侵攻しんこうした。侵攻しんこう部隊ぶたいのノルウェー上陸じょうりく予定よてい時刻じこく(ヴェーザー)はドイツ時間じかん515ふん(ノルウェー時間じかん415ふん)とさだめられた。

侵攻しんこう表向おもてむきの理由りゆうは、フランスイギリス両国りょうこく中立ちゅうりつおかして占領せんりょう計画けいかくしていたことにたいする予防よぼうてき措置そちであるとされた。侵攻しんこう、ドイツの大使たいしはデンマークとノルウェー政府せいふたいし、ドイツ国防こくぼうぐんはフランスとイギリスによる侵略しんりゃくから両国りょうこく中立ちゅうりつまもるためにやってきたのだとべた。

デンマークとノルウェーの地理ちり位置いち気候きこうおおきくことなっていたため、実際じっさい軍事ぐんじ作戦さくせんおおきくことなったものとなった。デンマークは侵攻しんこう初日しょにちの4がつ9にちに、クリスチャン10せいとデンマーク政府せいふ条件じょうけんづけ降伏ごうぶくした。5月下旬げじゅんまでノルウェー北部ほくぶではイギリス・フランス・カナダ・ポーランド連合れんごう遠征えんせい部隊ぶたいとノルウェーぐんがドイツぐんたいして戦闘せんとうつづけていたが、フランスではドイツぐんえいふつぐん左翼さよくやぶって英仏海峡えいふつかいきょう到達とうたつする状況じょうきょうで、5月25にちには連合れんごうこく派遣はけんぐんのノルウェーからの撤退てったい決定けっていされた。連合れんごうこく派遣はけんぐん撤退てったいとともに、ノルウェー政府せいふ王家おうけおよび一部いちぶのノルウェーぐんはイギリスに亡命ぼうめいした。撤退てったい作戦さくせんは6がつ8にち完了かんりょうし、国内こくない残留ざんりゅうノルウェーぐんは6がつ10日とおか降伏ごうぶくした。

背景はいけい

編集へんしゅう

えいふつは1939ねん9がつにドイツとの戦争せんそうはじめたが、ドイツ本国ほんごく侵攻しんこうして戦争せんそう終了しゅうりょうさせる計画けいかくはなく、おも経済けいざいてきにドイツをげる方策ほうさく検討けんとうされた。そのなか注目ちゅうもくされたのは、戦争せんそう経済けいざい必要ひつよう資源しげんなかで、ドイツは鉄鉱てっこうせき石油せきゆ完全かんぜん輸入ゆにゅうたよっていることであった。1938ねんにドイツはやく2200まんトンの鉄鉱てっこうせき輸入ゆにゅうしていたが、戦争せんそう勃発ぼっぱつとともに1000まんトンしか輸入ゆにゅうできなくなったが、このほとんどは、スウェーデンさんであった。スウェーデンさん鉄鉱てっこうせきは、夏季かきは、ボスニアわんルーレオみなとからされ、冬季とうきは、その4/5はノルウェーのナルヴィクみなとから、1/5はスウェーデン南部なんぶのオクセレスンド(Oxelösund)みなとからされていた。ナルヴィク経由けいゆ鉄鉱てっこうせき輸送ゆそうはノルウェーの領海りょうかいない航行こうこうするため、ノルウェーの中立ちゅうりつ侵害しんがいしないかぎ妨害ぼうがいすることは出来できなかった。英国えいこくチャーチル終始しゅうし一貫いっかんして鉄鉱てっこうせき輸送ゆそうルートをたたあん熱心ねっしん支持しじしゃであった。

ノルウェーは戦争せんそう開始かいしとともに中立ちゅうりつ表明ひょうめいし、ドイツはこれを支持しじしたが、中立ちゅうりつ侵害しんがいされた場合ばあい必要ひつよう措置そちをとると言明げんめいした。この表明ひょうめい中立ちゅうりつこくたいしても同様どうよう表明ひょうめいされたものである。実際じっさいのところ、当初とうしょドイツにはノルウェーに侵攻しんこうする意図いと計画けいかくはなかった。

1939ねん10がつ、ドイツの海軍かいぐんそう司令しれいかんエーリヒ・レーダー元帥げんすいはノルウェーにイギリスの基地きち出来できることによる危険きけんせいや、そうなるまえにドイツぐん占領せんりょう出来できるかどうかということをアドルフ・ヒトラー議論ぎろんした。海軍かいぐんはノルウェーを占領せんりょうすることでその周辺しゅうへん海域かいいき支配しはいけ、将来しょうらいイギリスにたいする作戦さくせんおこな潜水艦せんすいかん基地きちとして利用りようできると主張しゅちょうした。しかし、そのとき陸軍りくぐん空軍くうぐん興味きょうみしめさなかった。ヒトラーも北欧ほくおう諸国しょこく中立ちゅうりつ政策せいさく維持いじしていたこともあり侵攻しんこうすることは当初とうしょかんがえておらず、フランス侵攻しんこう作戦さくせん(Fall Gelb)の準備じゅんび注力ちゅうりょくするよう指示しじしただけであった。

11月下旬げじゅん、イギリス戦時せんじ内閣ないかくあらたに閣僚かくりょうとしてくわわったうみしょうウィンストン・チャーチルがノルウェー領海りょうかいないへの機雷きらい敷設ふせつウィルフレッド作戦さくせん)を提案ていあんした。それはドイツの鉄鉱てっこうせき輸送ゆそうせん沖合おきあいを航行こうこうせざるをないようにすることで、イギリス海軍かいぐんによって、その航行こうこう阻止そしできるようにするというものである。チャーチルのかんがえでは、ウィルフレッド作戦さくせんはノルウェーでのドイツぐん反応はんのうこし、そうなったときは、連合れんごう国軍こくぐんR4計画けいかく実行じっこうしノルウェーの一部いちぶ占領せんりょうする、というものであった。ネヴィル・チェンバレン首相しゅしょうエドワード・ウッド外相がいしょう(ハリファックスきょう)はアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくなど中立ちゅうりつこくあいだ反感はんかんしょうじるおそれがあるとして、チャーチルのこのかんがえに反対はんたいした。

11月にソビエト連邦れんぽうフィンランドとのあいだふゆ戦争せんそう勃発ぼっぱつ外交がいこう状況じょうきょう変化へんかすると、チャーチルはふたた機雷きらい敷設ふせつ計画けいかく提案ていあんしたが、却下きゃっかされた。

12月、イギリスとフランスはふゆ戦争せんそうソ連それんから攻撃こうげきけているフィンランドへ援助えんじょおくることを本気ほんき計画けいかくはじめた。その陸軍りくぐん参謀さんぼうによる計画けいかくは、フィンランド救援きゅうえん口実こうじつにナルヴィクへ部隊ぶたい上陸じょうりくさせ、ナルヴィクとボスニアわん沿岸えんがんスウェーデンのルレオとをむすマルムバナンという鉄道てつどうをコントロールくことをもとめていた。この計画けいかくはチェンバレン首相しゅしょうとエドワード・ウッドも支持しじした。えいふつ両国りょうこくは、ノルウェーとスウェーデンの好意こういてき対応たいおう期待きたいしていたが、ノルウェーとスウェーデンがはっきりと拒絶きょぜつしたため、えいふつでは否定ひていてき意見いけんつよくなった。遠征えんせい計画けいかく準備じゅんび続行ぞっこうされたが、1940ねん3がつふゆ戦争せんそう終結しゅうけつするとそれを正当せいとうする理由りゆうもなくなってしまった。この計画けいかく実施じっしされていたならばえいふつソ連それん戦争せんそうすることになり、だい2世界せかい大戦たいせんのありようは、おおきくわっていただろう。

12月14にちアルフレート・ローゼンベルクとレーダー提督ていとく斡旋あっせんで、ノルウェーのヴィドクン・クヴィスリングはヒトラーと会談かいだんしたが、このなかかれはイギリスがノルウェーの同意どういのもとノルウェーを占領せんりょうする可能かのうせい、ノルウェーないしんえい勢力せいりょくうごき、自分じぶん勢力せいりょくによるクーデター計画けいかくべ、支援しえんうったえた。ヒトラーはクーデター計画けいかく支持しじしなかったが、クヴィスリングに経済けいざいてき援助えんじょ約束やくそくした。

3月12にちにフィンランドがソ連それん講和こうわしてしまうと、フィンランドへの援助えんじょ表明ひょうめいしていながらなに出来できなかったえいふつ首脳しゅのう批判ひはん矢面やおもてさらされることになった。フランスでは3がつ20日はつかエドゥアール・ダラディエ首相しゅしょう退陣たいじんし、あらたにポール・レノー首相しゅしょうとなった。チェンバレンは首相しゅしょうのポジションを維持いじできたが、批判ひはんかわため以前いぜん慎重しんちょうであったウィルフレッド作戦さくせんとR4計画けいかく支持しじする立場たちば転換てんかんした。レノー首相しゅしょうはノルウェーでの戦争せんそうには賛成さんせいであった。3月28にちえいふつ合同ごうどう戦争せんそう会議かいぎで、両国りょうこくは4がつ5にちにウィルフレッド作戦さくせん実施じっしすることで合意ごういした。しかし、イギリス海軍かいぐん艦船かんせんのやりくりの都合つごうで、実際じっさい実施じっしはさらにおくれ4がつ7にちとなった。

ドイツぐん侵攻しんこう計画けいかく

編集へんしゅう

えいふつがノルウェーの一部いちぶ占領せんりょうする可能かのうせい懸念けねんしたヒトラーは、1939ねん12月14にちにOKW(国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい)にたいしてノルウェー侵攻しんこう計画けいかく素案そあん策定さくていはじめるようめいじた。OKW作戦さくせん次長じちょうヴァルター・ヴァルリモント大佐たいさした少数しょうすう幕僚ばくりょうによってまとめられたNordという研究けんきゅうあんは、陸軍りくぐん1個いっこ師団しだんのみしか参加さんかしないものであった。1月に、OKWは海軍かいぐんのテオドール・クランケ大佐たいさをチーフとし、三軍さんぐんよりかく分野ぶんや専門せんもんさせて、OKWのした本格ほんかくてき侵攻しんこう計画けいかくることにしたが、秘密ひみつ保持ほじため異例いれいなことにOKH(陸軍りくぐんそう司令しれい)やOKL(空軍くうぐんそう司令しれい)は計画けいかく立案りつあんからは排除はいじょされ、立案りつあんグループは侵攻しんこう計画けいかくをヒトラーに直接ちょくせつ報告ほうこくすることになった。

計画けいかく基本きほんは、ノルウェーぐん動員どういんセンターのある都市とし同時どうじ奇襲きしゅうし、ノルウェーぐん体制たいせいととのまえ圧倒あっとうして、反撃はんげき余地よちあたえないことであった。主要しゅよう攻撃こうげき目標もくひょう以下いか都市としで、海軍かいぐん艦艇かんてい分乗ぶんじょうしたりくへい派遣はけんして、ヴェーザー侵攻しんこう)に上陸じょうりく占拠せんきょする。エゲルサンには、大西洋たいせいようへの海底かいてい電線でんせんのステーションがあり、その占領せんりょう必要ひつようとされた。

1940ねん1がつ27にち最終さいしゅうてき計画けいかくにヴェーザー演習えんしゅう作戦さくせんというコードネームがけられた。

1940ねん2がつ21にちニコラウス・フォン・ファルケンホルスト歩兵ほへい大将たいしょう作戦さくせん司令しれいかんえらばれた。ファルケンホルストはだいいち世界せかい大戦たいせんにおいてフィンランドでたたかっており、極地きょくちでのたたかいに精通せいつうしていた。そのから、ファルケンホルストとXXI軍団ぐんだん司令しれい一部いちぶ参謀さんぼう、クランケ・グループで作戦さくせん計画けいかく見直みなおしがおこなわれた。

3月1にちに、OKWはヒトラーの署名しょめいした総統そうとう指令しれい10a(ヴェーザー演習えんしゅう作戦さくせん)を発令はつれいして、それまで、OKWと作戦さくせん立案りつあんしゃのみであった計画けいかく三軍さんぐん公開こうかいしたが、海軍かいぐん例外れいがいとして、陸軍りくぐん空軍くうぐんからは相当そうとう反発はんぱつがあった。OKHやOKLの意向いこう反映はんえいして、だい7降下こうかりょうへい師団しだんだい22空輸くうゆ歩兵ほへい師団しだんなどの精鋭せいえい師団しだんは、作戦さくせん計画けいかくからとされた。ヒトラーとOKWは統一とういつ司令しれい設置せっちのぞんだものの、ゲーリングがつよ反対はんたいしたので、ファルケンホルストは陸上りくじょう部隊ぶたいたいしてのみ指揮しきけんち、ファルケンホルストの司令しれいは、OKW作戦さくせん海軍かいぐん空軍くうぐんぐことになった。

Uボート作戦さくせん支援しえんにまわすため、大西洋たいせいようでのUボートの作戦さくせんほぼすべてが停止ていしされた。なんせきかの訓練くんれんようのものもふく投入とうにゅう可能かのう潜水せんすいかんはすべて、ヴェーザー演習えんしゅう作戦さくせん支援しえんのハルトムート(Hartmut)作戦さくせん投入とうにゅうされた。

クランケ・グループによるオリジナルあんではノルウェーには侵攻しんこうするとともに外交がいこう手段しゅだんでデンマークの飛行場ひこうじょう確保かくほする計画けいかくであった。しかし、ファルケンホルストによる見直みなおしでは、空軍くうぐん意向いこう反映はんえいして外交がいこう交渉こうしょうによる確実かくじつせい排除はいじょするために、デンマークへも軍事ぐんじ侵攻しんこうすることになった。デンマーク侵攻しんこうのため、2歩兵ほへい師団しだんだい11装甲そうこう擲弾へい旅団りょだんからなるXVI軍団ぐんだん編成へんせいされた。また、やく1,000からなるX航空こうくう軍団ぐんだんぜん作戦さくせん支援しえんおこな予定よていであった。

日照ひでり時間じかん関係かんけいから、作戦さくせん可能かのうなのは、4がつ15にちまでで、それ以降いこうは、ナルヴィクやトロンハイムなどでは、よるみじかすぎて奇襲きしゅう要素ようそ期待きたいできないとされていた。

ノルウェーぐん配備はいびじょうきょう

編集へんしゅう

ノルウェーは、だいいち世界せかい大戦たいせん歴代れきだい政権せいけん軍備ぐんびおこたっていたため質量しつりょうともに危険きけん状態じょうたいにあった。陸軍りくぐんは6師団しだんゆうしており、平時へいじでは19000にん定数ていすうであった。総動員そうどういんはその5ばい兵力へいりょく、それぞれ、1 - ハルデン、2 - オスロ、3 - クリスチアンサン、4 - ベルゲン、5 - トロンハイム、6 - ハーシュタに司令しれいいていた。1939ねん11月のフィンランド=ソ連それんあいだふゆ戦争せんそう勃発ぼっぱつともない、北部ほくぶだい6師団しだんと2独立どくりつ歩兵ほへい大隊だいたいのみじゅん動員どういん状態じょうたいであり、7100にん兵力へいりょくっていたが、そのおおくはフィンランド、ソ連それん国境こっきょうちかくに配置はいちされていた。のこりの5師団しだんは8220にん兵力へいりょくであった。戦車せんしゃ対戦たいせんしゃ兵器へいき保有ほゆうしていなかった。またノルウェーには空軍くうぐんく、陸軍りくぐん航空こうくうたい海軍かいぐん航空こうくうたい存在そんざいしていた。陸軍りくぐん航空こうくうたいは41作戦さくせん保有ほゆうしていた。空軍くうぐんりょく増強ぞうきょうためアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく戦闘せんとう発注はっちゅうされていたが、これらの配備はいびはドイツぐん侵攻しんこうにはわなかった。4月9にちには、オスロ、ベルゲン、クリスチャンサン、トロンハイムの沿岸えんがん砲台ほうだい戦時せんじ定数ていすうの1/3の人員じんいん配置はいちされていた。[1]

開戦かいせんまで

編集へんしゅう
 
ドイツせんアルトマルクからはこされるドイツじん遺体いたい

2がつ16にち、イギリス駆逐くちくかんコサックがノルウェー領海りょうかいないでドイツの補給ほきゅうかんアルトマルクへの臨検りんけんおこない、アルトマルクから捕虜ほりょとなっていた商船しょうせん乗組のりくみいん救出きゅうしゅつした(アルトマルクごう事件じけん)。それは明白めいはくなノルウェーの中立ちゅうりつ侵害しんがいする行為こういであった。この事件じけん以降いこう、イギリスによるノルウェーの中立ちゅうりつ侵犯しんぱん続発ぞくはつするようになった。この事件じけんで、ヒトラーはイギリスにノルウェーの中立ちゅうりつ尊重そんちょうするはなく、ノルウェーの中立ちゅうりつ維持いじてにならないということを確信かくしんし、侵攻しんこう必要ひつようであるとかんがえた。

3月12にち、イギリスはノルウェーへの遠征えんせいぐん派遣はけん決定けっていし、遠征えんせい部隊ぶたいは3がつ13にち乗船じょうせん開始かいしした。しかし、ふゆ戦争せんそう終結しゅうけつによりフィンランドへの支援しえん必要ひつようせいがなくなり作戦さくせん中止ちゅうしとなった。

3月28にちえいふつ合同ごうどう戦争せんそう会議かいぎはノルウェー領海りょうかいないへの機雷きらい敷設ふせつ(ウィルフレッド作戦さくせん)を実施じっしし、それにつづいてトロンハイム、ナルヴィクへ兵員へいいん上陸じょうりくさせること(R4計画けいかく)をめた。

4がつ3にち、ノルウェー侵攻しんこう参加さんかする最初さいしょのドイツぐん侵攻しんこう部隊ぶたい艦船かんせんがドイツを出港しゅっこうした。

4がつ3にち、ドイツ国防こくぼうぐん情報じょうほうきょく(Abwehr)のハンス・オスター大佐たいさは、デンマークとノルウェー侵攻しんこう翌週よくしゅうであることをヴァチカンの情報じょうほう仲介ちゅうかいしゃとオランダのベルリン駐在ちゅうざい武官ぶかんにリークし、デンマーク、ノルウェー、イギリスにつたえるよう依頼いらいした。しかし、この情報じょうほうは、ただしい人物じんぶつつたわらなかったり、情報じょうほう評価ひょうかあやまったりで、これらさんこく政府せいふうごきに影響えいきょうあたえることはなかった[2]

4がつ5にち、イギリス海軍かいぐんのウィルフレッド作戦さくせん実行じっこううつされ、めぐよう戦艦せんかんレナウンふく艦隊かんたいスコットランドから出港しゅっこうした。

4がつ6にちから4がつ8にちあいだに、多数たすう随伴ずいはんかんともなった強力きょうりょくなドイツの水上すいじょう部隊ぶたいがスカゲラク水道すいどうとカテガット水道すいどう通過つうかするのをスウェーデンとデンマークに観測かんそくされた。また、バルト海ばるとかい沿岸えんがんのドイツしょみなとでのあわただしいうごきや、デンマーク・ドイツ国境こっきょうでの不穏ふおんうごきも観測かんそくされた。ベルリン駐在ちゅうざいスウエーデン大使たいしはドイツ外務省がいむしょう照会しょうかいをおこなった。[2]

4がつ8にち未明みめいにイギリス海軍かいぐんによるベストフィヨルド南方なんぽうへの機雷きらい敷設ふせつ完了かんりょうしたが、海中かいちゅう転落てんらくした乗員じょういん捜索そうさくおこなっていた駆逐くちくかんグローウォームがドイツ海軍かいぐん捕捉ほそくされ、じゅう巡洋艦じゅんようかんアドミラル・ヒッパーおよび駆逐くちくかん2せきとの戦闘せんとううしなわれた。

4がつ8にち、1115にノルウェー南岸なんがんおき国際こくさい海域かいいきでポーランド潜水せんすいかんオジェウによりドイツの輸送ゆそうせんリオ・デ・ジャネイロが撃沈げきちんされ、やく100めいほどがノルウェー艦艇かんてい漁船ぎょせん救助きゅうじょされたが、生存せいぞんしゃ制服せいふく着用ちゃくようのドイツのりくへいだった。ノルウェーでの訊問じんもん生存せいぞんしゃは、ノルウェーの要請ようせいにもとづいてベルゲンへ予定よていだったと証言しょうげんした。[2]

4がつ8にち、イギリスとフランスのノルウェー駐在ちゅうざい海軍かいぐん武官ぶかんは、ノルウェー海軍かいぐんに(中立ちゅうりつ無視むしして)ノルウェー領海りょうかいない機雷きらい敷設ふせつおこなったこと通知つうちした。

デンマーク侵攻しんこう

編集へんしゅう
 
ドイツぐんIごう戦車せんしゃ。デンマークのオベンローにて、1940ねん4がつ9にち

戦略せんりゃくじょう、ドイツにとってのデンマークの重要じゅうようせいは、ノルウェーでの作戦さくせん足場あしばとしてであった。そしてもちろんなんらかの方法ほうほう支配しはいにおく必要ひつようがある隣国りんごくとしてでもあった。バルト海ばるとかいとの関係かんけいでデンマークの位置いちれば、ドイツやソ連それんへの航路こうろ支配しはいというてんでも重要じゅうようであった。

せま比較的ひかくてき平坦へいたんなデンマークの国土こくどは、ドイツ陸軍りくぐん作戦さくせんにおいて理想りそうてきなものであった。そして、デンマークの小規模しょうきぼ陸軍りくぐんには希望きぼうはほとんどなかった。だが、あさはや少数しょうすうのデンマークぐんがドイツぐん交戦こうせんし、16めい死者ししゃと20めい負傷ふしょうしゃした。ドイツがわ死傷ししょうしゃすう不明ふめいであるが、12りょう装甲車そうこうしゃなどが破壊はかいされ、戦車せんしゃ4りょう損傷そんしょうした。また、ドイツのばくげき1損傷そんしょうした。[3]短時間たんじかん戦闘せんとうあいだ二人ふたりのドイツへい一時いちじてきにデンマークがわとらえられた[4]

1940ねん4がつ9にち最初さいしょのドイツぐんのデンマーク侵攻しんこう直前ちょくぜん、ドイツのちゅうデンマーク大使たいしセシル・フォン・レンテ=フィンクde:Cécil von Renthe-Fink (Diplomat))はデンマークの外務がいむ大臣だいじんen:Peter Rochegune Munch電話でんわをし、会談かいだんもとめた。20ぶん会談かいだん、レンテ=フィンクは、フランスとイギリスの攻撃こうげきからこのくにまもるため現在げんざいドイツぐんはデンマークにかっているとべた。そしてレンテ=フィンクは、デンマークは抵抗ていこうをすぐにめ、デンマーク当局とうきょくとドイツぐんとのあいだ連絡れんらくるよう要求ようきゅうし、もし要求ようきゅうれられないときはドイツ空軍くうぐん首都しゅとコペンハーゲン空襲くうしゅうするであろうとべた。[4]

 
ドイツぐん装甲車そうこうしゃSd. Kfz. 223Sd. Kfz. 222ユトランド半島はんとうにて。

ドイツの要求ようきゅう伝達でんたつされたときだい1じんのドイツぐんすで進軍しんぐん開始かいししており、415ふんにGedserにフェリーで上陸じょうりくした部隊ぶたいきたかっていた。降下こうかりょうへい抵抗ていこうけることなくオールボーふたつの飛行場ひこうじょうやStorstrømきょう、Masnedøの要塞ようさい占領せんりょうした。[4]

現地げんち時間じかん420ふんにドイツぐん歩兵ほへい1000めい機雷きらい敷設ふせつかんHansestadt Danzigからコペンハーゲンこう上陸じょうりくし、抵抗ていこうわずにthe Citadelのデンマークぐん駐屯ちゅうとん素早すばや占領せんりょうした。またデンマーク王族おうぞく拘束こうそくのためドイツぐんみなとからアマリエンボー宮殿きゅうでんかった。ドイツぐん到着とうちゃくしたとき、デンマークの近衛このえたいすで警戒けいかい態勢たいせいにあり、べつ増援ぞうえん部隊ぶたいかっている最中さいちゅうであった。アマリエンボー宮殿きゅうでんたいするドイツぐん最初さいしょ攻撃こうげき撃退げきたいされ、国王こくおうクリスチャン10せい大臣だいじんたち陸軍りくぐん司令しれい長官ちょうかんウィリアム・ウェイン・プライアーと協議きょうぎするときあいだられた。議論ぎろんちゅうHe111Do 17編隊へんたいいくつかまち上空じょうくう飛行ひこうしビラを投下とうかした。コペンハーゲン市民しみんたいするばくげきおそれ直面ちょくめんし、戦闘せんとう継続けいぞく賛成さんせいなのはPrior将軍しょうぐんだけであり、834ふん国内こくないのことについての政治せいじてき独立どくりつ保持ほじ条件じょうけんにクリスチャン10せいとデンマーク政府せいふはすべて降伏ごうぶくした。[4]

545ふん、ドイツぐんBf 110シェランとうVærløseの飛行場ひこうじょう攻撃こうげきした。デンマークぐん対空たいくう砲火ほうかにもかかわらず、ドイツぐんは11航空機こうくうき破壊はかいし、14大破たいはさせた。[4]

デンマークのたたかいは6あいだ未満みまんわった。デンマークが素早すばや降伏ごうぶくしたことで、しばらくのあいだ独特どくとく寛大かんだい占領せんりょう政策せいさくがとられることになった。

ノルウェー侵攻しんこう

編集へんしゅう

戦闘せんとう序列じょれつ

編集へんしゅう

ノルウェー侵攻しんこうおこなうのはニコラウス・フォン・ファルケンホルスト歩兵ほへい大将たいしょう指揮しきのXXI軍団ぐんだんで、以下いか部隊ぶたいから構成こうせいされていた。

  • XXI軍団ぐんだん 指揮しきかん:ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト歩兵ほへい大将たいしょう
    • だい163歩兵ほへい師団しだん
    • だい69歩兵ほへい師団しだん
    • だい196歩兵ほへい師団しだん
    • だい181歩兵ほへい師団しだん
    • だい214歩兵ほへい師団しだん
    • だい3山岳さんがくへい師団しだん

最初さいしょ侵攻しんこう部隊ぶたい海軍かいぐん艦艇かんていはこばれた。参加さんかしたおも艦船かんせんつぎとおりである。

 
ドイツぐん上陸じょうりく場所ばしょ

ドイツぐん作戦さくせんとノルウェー政府せいふ対応たいおう

編集へんしゅう

ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト歩兵ほへい大将たいしょうのXXI軍団ぐんだん傘下さんか部隊ぶたい海軍かいぐん空軍くうぐん援護えんごのもとにナルヴィクトロンハイムベルゲンスタパンゲルクリスチャンサンオスロ上陸じょうりくさせ、一気いっきにノルウェーを制圧せいあつするというものだった。4月6にちから8にちあいだリューベックキールヴィルヘルムスハーフェン出港しゅっこうしたりくへいせたドイツ海軍かいぐん部隊ぶたいは、4がつ7にちと8にちよるにデンマーク=スウェーデンあいだ水道すいどう通過つうかしたが、このうごきは両国りょうこく観測かんそくされており、その情報じょうほうはノルウェー政府せいふにもつたえられた。ドイツぐん計画けいかくは、可能かのうであれば平和へいわてき進駐しんちゅうすることであり、ファルケンホルストは最初さいしょ一発いっぱつはドイツがわからってはならないと陸軍りくぐん部隊ぶたい指示しじしていた。また、レーダー元帥げんすい同様どうよう海軍かいぐん部隊ぶたいたいして、最初さいしょ発砲はっぽうしてはならず、ノルウェーぐん警告けいこく射撃しゃげき応射おうしゃする理由りゆうにはならない、と指令しれいしていた。

4がつ8にち未明みめいからあきらかに危機ききしめおおくの情報じょうほうせられていたにもかかわらず、ノルウェー政府せいふ迅速じんそく対応たいおう出来できなかった。ようやく4がつ8にちわるころにノルウェー南部なんぶ限定げんていした部分ぶぶんてき動員どういんれいすことをめたが、総動員そうどういんれいがラジオ放送ほうそうふくむあらゆる手段しゅだんをもちいて伝達でんたつするのにたいして、部分ぶぶんてき動員どういんれい郵便ゆうびん伝達でんたつすることになっていた。動員どういんれい初日しょにちは4がつ11にちになっていた[5]

ノルウェー政府せいふは、ぐんからのドイツぐんかく地域ちいき侵攻しんこうはじめているという報告ほうこくけ、4がつ9にち2ごろイギリス大使たいし即時そくじ軍事ぐんじ支援しえん要請ようせいするとともに、どのような支援しえん可能かのう午後ごご6までに回答かいとうするよう要請ようせいした[5]

ドイツ公使こうしブラウアーは、作戦さくせん計画けいかく指示しじされていたとおりの時刻じこくである4がつ9にち0430にノルウェー外務省がいむしょう図書としょしつにて、ノルウェー外相がいしょうコートにドイツの最後さいご通牒つうちょうわたした。その文書ぶんしょには、ノルウェーが自身じしん中立ちゅうりつをイギリスからまもれないため、やむをずドイツぐん戦争せんそうあいだだけノルウェーの一部いちぶ占領せんりょうする。ドイツ当局とうきょくもとでノルウェーの領土りょうど主権しゅけん尊重そんちょうされるが、ノルウェー政府せいふ放送ほうそう国民こくみん抵抗ていこう停止ていし指示しじし、軍備ぐんびをドイツぐんわたしドイツ当局とうきょく協力きょうりょくしなければならない。抵抗ていこうたいしてはあらゆる手段しゅだんをもって対抗たいこうする、といてあった。ノルウェー政府せいふ閣僚かくりょう外務省がいむしょう閣議かくぎちゅうだったが、最後さいご通牒つうちょう検討けんとうした結果けっか即座そくざ全員ぜんいん一致いっちでドイツの要求ようきゅう拒否きょひした。ノルウェー政府せいふ王家おうけは、そのあさオスロより130kmきたハーマル移転いてんすることになった[5]

イギリス・フランスの対応たいおう

編集へんしゅう

4がつ8にちにドイツ海軍かいぐんうごきを一部いちぶ検知けんちしたイギリス海軍かいぐんは、艦艇かんてい対応たいおうさせるためにすで乗船じょうせんずみりくへい下船げせんさせR4計画けいかく中止ちゅうしとなった。4月9にちにノルウェーからの緊急きんきゅう軍事ぐんじ支援しえん要請ようせいったものの、ノルウェー政府せいふぐんからの具体ぐたいてき要求ようきゅうはなく、ノルウェー政府せいふおよびえいふつのオスロ駐在ちゅうざい大使たいしはドイツぐんからのがれるため移動いどうちゅう連絡れんらくれなかった。ノルウェーからは確認かくにん断片だんぺんてき情報じょうほうつたわるのみで、えいふつ政府せいふはどう対応たいおうするか議論ぎろんつづいたが、4がつ11にちわりにまずはだい24警護けいご旅団りょだんだい146歩兵ほへい旅団りょだんの6大隊だいたい相当そうとうをナルヴィクへおくことまった。一方いっぽう、フランスの発案はつあんでスウェーデンに連合れんごうこくがわ参戦さんせんするようストックホルムを訪問ほうもんしたえいふつ連合れんごう使節しせつだんは、スウェーデン当局とうきょくしゃから絶対ぜったい中立ちゅうりつ維持いじ回答かいとうけたが、ノルウェーをすくうにはトロンハイムの奪還だっかん一番いちばん効果こうかてきであるという助言じょげんた。4月12にちには避難ひなんしていたオスロ駐在ちゅうざいイギリス大使たいしとも連絡れんらくき、ノルウェーぐん司令しれいかんルーゲがもとめているのはやはりトロンハイムの奪還だっかんであることがあきらかになった。トロンハイムの重要じゅうようせいえいふつがわでも認識にんしきされたが、すで計画けいかくされていたナルヴィク派兵はへいだいいちじんは4がつ12にちにスコットランドを出港しゅっこうしていた。4月13にちだいナルヴィク海戦かいせん結果けっかつたわると、ナルヴィクの奪還だっかん容易よういそうにかんがえられたので、イギリスの戦時せんじ内閣ないかく方針ほうしん変更へんこうしてだい146歩兵ほへい旅団りょだんをナムソス(トロンハイムのきた北東ほくとうやく90km)に上陸じょうりくさせることにした。4月14にちだい24警護けいご旅団りょだんはナルヴィクの北西ほくせいやく40kmのハーシュタに上陸じょうりくした。これらのりくへい極地きょくちでの訓練くんれん装備そうびいており、また、R4計画けいかく中止ちゅうし急遽きゅうきょ下船げせんさせられた為重ためしげ装備そうびいていた[5]

グループ1は途中とちゅうまでグループ2ととも航行こうこうした。途中とちゅう、イギリス海軍かいぐんGきゅう駆逐くちくかんグローウォーム撃沈げきちん。4月9にち未明みめいにグループ1はナルヴィクのあるオフォトフィヨルドはいり、ナルヴィクなどに兵員へいいん上陸じょうりくさせた。また、ナルヴィクこうではノルウェー海軍かいぐんノルゲきゅう海防かいぼう戦艦せんかんエイスヴォルノルゲ投降とうこう要求ようきゅうおうじなかったので撃沈げきちんした。4月9にち午前ごぜんにナルヴィク地区ちく防衛ぼうえい司令しれいかんサンドロ大佐たいさは、市民しみん犠牲ぎせいけるため降伏ごうぶくし、ナルヴィク市街しがい重要じゅうよう武器ぶき弾薬だんやく貯蔵庫ちょぞうこのあるElvegårdsmoenは無血むけつでドイツぐんちた。イギリス海軍かいぐんは、オフォトフィヨルドに侵入しんにゅうして4がつ10にち未明みめいだいいちナルヴィク海戦かいせん、4がつ13にちだいナルヴィク海戦かいせん発生はっせいした。この2海戦かいせんでグループ1のドイツぐん駆逐くちくかん全滅ぜんめつした。4月14にちにイギリスぐんはナルヴィクの北西ほくせい40kmのハーシュタに上陸じょうりくし、6月8にちまでイギリス・フランス・ポーランド・ノルウェー連合れんごうぐんとドイツぐんあいだでナルヴィク周辺しゅうへん戦闘せんとうつづいた。ドイツぐんはナルヴィクを占領せんりょうしたが孤立こりつしており、すうてきには連合れんごうぐんは6ばいちか優勢ゆうせいだったが、防衛ぼうえいぐん有利ゆうり地形ちけい利用りようして防戦ぼうせんつとめた。5月28にち連合れんごうぐんはナルヴィクを奪回だっかいしたが、フランスでの大敗たいはいによりイギリスは5月24にち撤退てったい決定けっていずみだった。連合れんごうぐんは6がつ8にち撤退てったいし、ドイツぐんふたたびナルヴィクを占領せんりょうした。

トロンハイム

編集へんしゅう

クリスチャンサン、アーレンダール

編集へんしゅう
 
オスロフィヨルド

4がつ8にちよる、グループ5はオスロフィヨルドくち到着とうちゃくした。そこでアルバトロスがノルウェーの哨戒しょうかいていポル3を撃破げきはした。オスロフィヨルドないはいったグループ5は4つにわかれ、オスロ、ホルテンラウエイとうボレルネとう攻略こうりゃくかった。オスロへはブリュッヒャー、リュッツォウ、エムデンなどがかったが、途中とちゅうドレーバク水道すいどうでノルウェーぐん要塞ようさいから攻撃こうげきけブリュッヒャーが撃沈げきちんされリュッツォウも損傷そんしょうしたためかえした。これによりオスロ占領せんりょうおくれ、ノルウェー政府せいふ王族おうぞく脱出だっしゅつゆる結果けっかとなった。

ホルテンではノルウェーの機雷きらい敷設ふせつかんオーラヴ・トリュグヴァソン抵抗ていこうし、R17がうしなわれた。

夜明よあ、ドイツ空軍くうぐん攻撃こうげき開始かいしし、空路くうろはこばれた部隊ぶたいによってフォルネブ飛行場ひこうじょう確保かくほされた。各地かくちのノルウェーぐん順次じゅんじ降伏ごうぶくした。

4がつ11にち、オスロから帰投きとう途中とちゅうのリュッツォウがイギリス潜水せんすいかん雷撃らいげきされ損傷そんしょうした。

そのほかの場所ばしょ

編集へんしゅう

ドイツぐん侵攻しんこう連合れんごう国軍こくぐんナムソスやÅndalsnes、ナルヴィクに上陸じょうりくし、ノルウェーぐんともにドイツぐんたたかった。しかし、4がつ29にちにはノルウェーの国王こくおう内閣ないかくとがモルデからトロムソ脱出だっしゅつし、5月1にちのÅndalsnesからの連合れんごう国軍こくぐん撤退てったいをもってノルウェー中部ちゅうぶでの抵抗ていこう終了しゅうりょうした。

ホーコン7せいオーラヴ王子おうじ内閣ないかくは6がつ7にちにイギリスじゅう巡洋艦じゅんようかんデヴォンシャーでトロムソをはなれ、イギリスへかった。

北部ほくぶでは5月28にちにイギリス・フランス・ポーランド・ノルウェー連合れんごうぐんがナルヴィクを奪回だっかいしたが、フランスでの戦況せんきょう悪化あっかにより連合れんごう国軍こくぐん撤退てったいアルファベット作戦さくせん)した。

関連かんれん作品さくひん

編集へんしゅう

ヒトラーにくっしなかった国王こくおうエリック・ポッペ監督かんとく、2016ねん

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • Dildy, Douglas C. Denmark and Norway, 1940: Hitler's Boldest Operation; Osprey Campaign Series #183; ISBN 9781846031175. Osprey Publishing, 2007
  • Hooton, E.R (2007). Luftwaffe at War; Blitzkrieg in the West: Volume 2. London: Chervron/Ian Allen. ISBN 978-1-85780-272-6.
  • Ziemke, Earl F. (2000 (reissue from 1960)). “The German Decision to Invade Norway and Denmark”. In Kent Roberts Greenfield. Command Decisions. United States Army Center of Military History. CMH Pub 70-7. http://www.history.army.mil/books/70-7_02.htm 
  • Lunde, Henrik O. (2009). Hitler's Pre-Emptive War - The Battle for Norway, 1940. Casemate. ISBN 978-1-935149-33-0 
  • Ziemke, Earl F. (1960). The German northern theater of operations, 1940-1945. Washington: Headquarters, Department of the US Army 

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ Ziemke 1960, §4 - Operation in Southern and Central Norway.
  2. ^ a b c Lunde 2009, §3 Ignored Warnings:Ships Passing in the Night.
  3. ^ Hooton 2007, p. 31.
  4. ^ a b c d e Gert Laursen: The German occupation of Denmark Archived 2013ねん10がつ15にち, at the Wayback Machine.
  5. ^ a b c d Lunde 2009, §7 Confusion and Disarray.

外部がいぶリンク

編集へんしゅう