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三月事件 - Wikipedia

さんがつ事件じけん

1931ねん日本にっぽん陸軍りくぐん幹部かんぶによって計画けいかくされたクーデター未遂みすい事件じけん

さんがつ事件じけん(さんがつじけん)とは、1931ねん昭和しょうわ6ねん3がつ20日はつか金曜日きんようび)をして、日本にっぽん陸軍りくぐん中堅ちゅうけん幹部かんぶによって計画けいかくされた、クーデター未遂みすい事件じけんである。橋本はしもと欣五郎きんごろう陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶロシアはん班長はんちょうら「さくらかい」のメンバーが、民間みんかん右翼うよく大川おおかわ周明しゅうめい清水しみずこうこれすけらと計画けいかく立案りつあんした。だが、最終さいしゅうてきには宇垣うがき同意どういられず未遂みすいわった[1]。この計画けいかくには参謀さんぼう本部ほんぶだい2部長ぶちょう建川たてかわ少将しょうしょう二宮にのみやおさむじゅう参謀さんぼう次長じちょう小磯こいそ國昭くにあき軍務ぐんむ局長きょくちょう賛同さんどうしていたとみられる。

清水しみず主催しゅさいする右翼うよく団体だんたいだいくだりしゃ警視庁けいしちょう襲撃しゅうげき東京とうきょう各所かくしょなずらえ砲弾ほうだん炸裂さくれつさせて騒擾そうじょうこし、社会しゃかい民衆みんしゅうとう亀井かめい貫一かんいちろう赤松あかまつ克麿かつまろらが大衆たいしゅう動員どういんしてだい59かい帝国ていこく議会ぎかいにおける労働ろうどう法案ほうあんじょうひさげ予定よていである3がつ20日はつか開催かいさいちゅう議会ぎかい群衆ぐんしゅうしかけさせ、陸軍りくぐん将校しょうこう議会ぎかい封鎖ふうさして議会ぎかい保護ほご理由りゆう濱口はまぐち内閣ないかく濱口はまぐち襲撃しゅうげき事件じけん重傷じゅうしょうい、ぬさはら喜重郎きじゅうろう代理だいりつとめていた)を辞任じにんさせ、宇垣うがき一成いっせい陸相りくしょう首班しゅはん指名しめいさせる計画けいかくだった。

計画けいかく永田ながた鉄山てつざん軍事ぐんじ課長かちょう岡村おかむらやすし補任ほにん課長かちょうにもつたわったが、岡村おかむら日記にっきによれば、永田ながたらは当初とうしょから「慎重しんちょう勧告かんこく」し、「最初さいしょよりぐん最高さいこう首脳しゅのう同意どういせざるべきを判断はんだんしていましめ」たという。なお、のちに流布るふされた『所謂いわゆるじゅうがつ事件じけんかんする手記しゅき』では、さんがつ事件じけんのさい橋本はしもとロシア班長はんちょう二宮にのみや参謀さんぼう次長じちょうより情報じょうほうとして、宇垣うがきしに賛成さんせいしている軍部ぐんぶ首脳しゅのう一人ひとり永田ながた名前なまえげられている。このてんについて、実際じっさい永田ながた一時いちじ賛成さんせいしたのか、あるいは橋本はしもと虚報きょほうによるものか、真偽しんぎ確認かくにんできない[2]

背景はいけい

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1930ねん昭和しょうわ5ねん)に橋本はしもと欣五郎きんごろう中佐ちゅうさちょういさむ少佐しょうさ田中たなかきよし少佐しょうさささえ課長かちょう重藤しげとう千秋せんしゅう大佐たいさらは、政治せいじ結社けっしゃさくらかい」を結成けっせいした[3]

計画けいかく端緒たんしょ

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計画けいかく端緒たんしょについては2せつあり[4]橋本はしもと手記しゅき[5]では、橋本はしもと当時とうじ宇垣うがき一成いっせい陸相りくしょう首班しゅはんとする軍事ぐんじ政権せいけん樹立じゅりつのためのクーデターの実行じっこう決意けついして、参謀さんぼう本部ほんぶだい2部長ぶちょう建川たてかわ少将しょうしょうつうじて参謀さんぼう次長じちょう二宮にのみやおさむじゅう中将ちゅうじょう陸軍りくぐん次官じかん杉山すぎやまはじめ少将しょうしょう軍務ぐんむ局長きょくちょう小磯こいそ國昭くにあき少将しょうしょう宇垣うがきちか将官しょうかん賛同さんどう計画けいかく実行じっこうのために作戦さくせん課長かちょう山脇やまわき正隆まさたか大佐たいさ新聞しんぶん班長はんちょう根本ねもとひろし中佐ちゅうさ鈴木すずき貞一さだいち中佐ちゅうさ重藤しげとう大佐たいさ佐官さかんクラスの将校しょうこうまじえて協議きょうぎかさねた、とされている[4][6]

他方たほうで、1931ねん昭和しょうわ6ねん1がつ13にちに、宇垣うがき陸相りくしょう官邸かんていで、杉山すぎやま二宮にのみや小磯こいそ建川たてかわ山脇やまわき永田ながた当日とうじつ代理だいり鈴木すずき貞一さだいち出席しゅっせき)、橋本はしもと根本こんぽん国内こくない改造かいぞうのための方法ほうほう手段しゅだん協議きょうぎ[よう出典しゅってん]同月どうげつ宇垣うがきんだ二宮にのみや橋本はしもとんで、宇垣うがき政権せいけん奪取だっしゅするための計画けいかく立案りつあん指示しじし、橋本はしもとさくらかい仲間なかま計画けいかく立案りつあん着手ちゃくしゅした、ともいわれている[4]

破壊はかい計画けいかく

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破壊はかい計画けいかく大川おおかわ周明しゅうめいてた[7]

これに永田ながた鉄山てつざん軍事ぐんじ課長かちょう岡村おかむらやすし補任ほにん課長かちょう当時とうじ陸軍りくぐん上層じょうそう社会しゃかい民衆みんしゅうとう赤松あかまつ克麿かつまろ亀井かめい貫一かんいちろう右翼うよく思想家しそうか大川おおかわ周明しゅうめい右翼うよく活動かつどう清水しみずこうこれすけらも参画さんかく[3]

2がつ7にち重藤しげとうささえ課長かちょうたくで、坂田さかた中佐ちゅうさ根本ねもと中佐ちゅうさ田中たなかきよし大尉たいいの4めい行動こうどう計画けいかくあん協議きょうぎした。計画けいかくでは、3月20にちごろ大川おおかわ亀井かめいらが1まんにん大衆たいしゅう動員どういんして議会ぎかい包囲ほうい。また政友せいゆうかい民政みんせいとう本部ほんぶ首相しゅしょう官邸かんてい爆撃ばくげきする。混乱こんらんじょうじ、だい1師団しだん軍隊ぐんたい出動しゅつどうさせて戒厳かいげんれいき、議場ぎじょう突入とつにゅうして濱口はまぐち内閣ないかくそう辞職じしょく要求ようきゅうわって宇垣うがき一成いっせい陸相りくしょう首班しゅはんとする軍事ぐんじ政権せいけん樹立じゅりつさせるという計画けいかくだった。

1がつ-2がつごろ大川おおかわ宇垣うがき真意しんい確認かくにんするために宇垣うがきい、婉曲えんきょくに「東京とうきょう暴動ぼうどうおこって、首相しゅしょうへの出馬しゅつば要請ようせいされたらどうするか」とたずねると、宇垣うがきは、「国家こっか有事ゆうじがあれば身命しんめいててす」とこたえたため、大川おおかわ宇垣うがき計画けいかく賛成さんせいしたと判断はんだんしたとされる[8][9]

計画けいかく資金しきんとして、参謀さんぼう本部ほんぶ機密きみつ清水しみずこうこれすけ徳川とくがわ義親よしちかからりた資金しきん20まんえんてることが計画けいかくされた[10][11]

予行よこう演習えんしゅう

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2がつ社会しゃかい民衆みんしゅうとう労農ろうのうとう全国ぜんこく大衆たいしゅうとう無産むさん3は、事件じけん予行よこう演習えんしゅうとして、日比谷ひびや内閣ないかく糾弾きゅうだん演説えんぜつかいひらき、議会ぎかいけてデモをおこなったが、動員どういん規模きぼ予想よそうよりもはるかに小規模しょうきぼで、大川おおかわのいう「1まんにんデモ」は実現じつげん見込みこみがひくいことがかり、さくらかいなかでも計画けいかく中止ちゅうし意見いけんるようになった[12]

永田ながた鉄山てつざん軍事ぐんじ課長かちょう岡村おかむらやすし補任ほにん課長かちょうらが時期じき尚早しょうそうろんとなえて反対はんたいし、浜口はまぐち首相しゅしょう辞職じしょくによる大命たいめい降下こうか可能かのうせいもあったので、宇垣うがき躊躇ちゅうちょした[13]のち永田ながた鉄山てつざん軍事ぐんじ課長かちょうのメモを根拠こんきょ計画けいかくしょ作成さくせいしたとして陸軍りくぐんない問題もんだいになったが、岡村おかむらやすし日記にっきによれば永田ながた鉄山てつざん軍事ぐんじ課長かちょう最初さいしょから慎重しんちょうろんとなえており、小磯こいそ軍務ぐんむ局長きょくちょう証言しょうげんによれば、絶対ぜったい反対はんたいとなえていたという[7]


まただい1師団しだんちょう真崎まさきは、3月15にち永田ながた士官しかん学校がっこう同期どうきである師団しだん参謀さんぼうちょう磯谷いそがいれんかいから、クーデターの計画けいかくき、磯谷いそがいをして永田ながた警告けいこくさせた。さらに、警備けいび司令しれいかんたいして、「もし左様さよう場合ばあいには、自分じぶんだいいち師団しだんちょうとして、警備けいび司令しれいかん指揮しき命令めいれいほうじない。あるいは大臣だいじんでも次官じかんでも、ぎゃく自分じぶん征伐せいばつするかもしれんから、左様さよう了承りょうしょうを」と通告つうこくした。それで計画けいかくはガタガタにくずれた。

この計画けいかくけっして綿密めんみつとはいえないものであった。1まんにん大衆たいしゅう動員どういん計画けいかく実現じつげんせいいたものであり、また橋本はしもと大川おおかわらの証言しょうげんによると、計画けいかく最終さいしゅう段階だんかいいたって宇垣うがきがクーデターに反対はんたい非合法ひごうほうてき手段しゅだんによらずに首相しゅしょう就任しゅうにんする見通みとおしがったためとのせつがある)、小磯こいそ徳川とくがわ計画けいかく中止ちゅうしするよううごいたという。宇垣うがき自身じしん事件じけんへの関与かんよ全面ぜんめん否定ひていしているが、宇垣うがき主張しゅちょうには信憑しんぴょうせいがないとする研究けんきゅうおお[14][15]

日本にっぽん学者がくしゃ伊藤いとうゆうは、宇垣うがき事前じぜん情報じょうほうっていたが、にはらさなかった、としている[16]

3月6にち大川おおかわ宇垣うがきに「混乱こんらんした現在げんざい日本にっぽんすくものはあなたしかいない。(…)政党せいとうからも出馬しゅつばねがうだろうが、腐敗ふはいした政党せいとうなどにかつがれるな。」という意味いみ書簡しょかんおくった[8]

クーデター計画けいかくは、決行けっこう予定よてい直前ちょくぜん3月17にち[だれ?]撤回てっかいされた。

評価ひょうか影響えいきょう

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満蒙まもうでの陰謀いんぼう計画けいかく

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統制とうせい幕僚ばくりょうファッショ陰謀いんぼう計画けいかくは、さんがつ事件じけん断行だんこうし、軍事ぐんじ政権せいけんえたうえで、満蒙まもう問題もんだい着手ちゃくしゅする予定よていであったが、すめらぎどう正論せいろん圧倒あっとうされて失敗しっぱいわると、満蒙まもうことこして国内こくない改革かいかくおこなおうとした。

クーデター計画けいかく常態じょうたい

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本件ほんけんは、本来ほんらいならば軍紀ぐんきらして厳正げんせい処分しょぶんがなされるべき事件じけんであったにもかかわらず、陸軍りくぐん首脳しゅのう計画けいかく関与かんよしていたことから、首謀しゅぼうしゃたいしてなにらの処分しょぶんおこなわれず、陸軍りくぐん緘口かんこうれいいて事件じけん隠匿いんとくした。

この事件じけんは、じゅうがつ事件じけん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう事件じけん二・二六事件ににろくじけんなど、のちに頻発ひんぱつする軍部ぐんぶによるクーデター計画けいかく嚆矢こうしであるとともに、政界せいかい上層じょうそう右翼うよく国家こっか社会しゃかい主義しゅぎしゃをもんだだい規模きぼ策謀さくぼうであった。

宇垣うがき信用しんよう失墜しっつい

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なお、宇垣うがき事件じけん陸相りくしょうして、朝鮮ちょうせん総督そうとく就任しゅうにん1937ねん昭和しょうわ12ねん)には組閣そかく大命たいめいけるにいたるが、ほん事件じけんや「宇垣うがき軍縮ぐんしゅく」がわざわいし、軍部ぐんぶ大臣だいじん現役げんえき武官ぶかんせいたてにとった陸軍りくぐん強硬きょうこう反対はんたい頓挫とんざ。そのたびたび首相しゅしょう候補こうほとしてつらねるが、ついに首相しゅしょう椅子いすすわることはなかった。

永田ながた鉄山てつざん斬殺ざんさつ事件じけん

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クーデター資金しきん行方ゆくえ

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さくらかい会合かいごう毎月まいつき偕行社かいこうしゃおこなわれ、さんがつ事件じけん当時とうじ料亭りょうてい利用りようしても散財さんざいはしていなかったが[17]満州まんしゅう事変じへんじゅうがつ事件じけんころ資金しきん豊富ほうふになってからは、新橋しんばし桝田ますだ芸妓げいぎはべらせて会合かいごうおこなったりしたため、のちの青年せいねん将校しょうこうから“宴会えんかい”と非難ひなんされた[18]

戦後せんご清水しみずこうこれすけから徳川とくがわ義親よしちか返還へんかんされた50まんえん社会党しゃかいとう創立そうりつ資金しきんになったとされる[19]

事件じけん記録きろく

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田中たなかきよし手記しゅき

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さくらかい所属しょぞくして事件じけん関与かんよした田中たなかきよし大尉たいいは、事件じけん、かつての上司じょうし石丸いしまるしむらすり退役たいえき少将しょうしょう依頼いらいけて計画けいかく内情ないじょう手記しゅきにまとめた。この文書ぶんしょ石丸いしまるからすめらぎどうすめらぎどうから東京とうきょう憲兵けんぺいたいわたり、「粛軍しゅくぐんかんする意見いけんしょ」の付録ふろくとして印刷いんさつ配布はいふされたため、ぐん内部ないぶ問題もんだいとなった[20]

橋本はしもと欣五郎きんごろう手記しゅき

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クーデターの首謀しゅぼうしゃとされる橋本はしもと欣五郎きんごろうは「昭和しょうわ源泉げんせん」とだいした手記しゅきをまとめ、さくらかい同志どうし複写ふくしゃ保存ほぞんしていたが、いずれも消滅しょうめつしたとされていたところ、橋本はしもとらがアジトとしていた下宿げしゅくさきむすめ内田うちだ絹子きぬこ家中いえじゅう保管ほかんしていた複写ふくしゃ戦後せんご発見はっけんされ、中野なかの (1963)によって内容ないよう紹介しょうかいされた[21]

関連かんれん作品さくひん

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映画えいが

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 川田かわた 2014, p. 105.
  2. ^ 川田かわた 2014, p. 107.
  3. ^ a b 川田かわた 2011, p. 32.
  4. ^ a b c 田中たなか 1978, pp. 4–5.
  5. ^ 中野なかの 1963.
  6. ^ 中野なかの 1963, pp. 47–48, 50–51.
  7. ^ a b 川田かわた 2011, p. 33.
  8. ^ a b 田中たなか 1978, p. 6.
  9. ^ 中野なかの 1963, pp. 58–59.
  10. ^ 田中たなか (1978, p. 6)。参謀さんぼう本部ほんぶ機密きみつ実際じっさいにはなかった(どう)。
  11. ^ 大塚おおつか 1995, p. 153.
  12. ^ 田中たなか 1978, pp. 5, 7.
  13. ^ 大塚おおつか 1995, p. 154.
  14. ^ 田中たなか 1978, p. 11.
  15. ^ 中野なかの 1963, pp. 56–59.
  16. ^ 伊藤いとうゆう (2016). 元老げんろう近代きんだい日本にっぽんしん指導しどうしゃたち』. 中公新書ちゅうこうしんしょ. p. 238 
  17. ^ 中野なかの 1963, p. 24,93.
  18. ^ 中野なかの 1963, pp. 90, 93–94.
  19. ^ 岡田おかだ 1975, p. ようぺーじ番号ばんごう.
  20. ^ 田中たなか 1978, pp. 9–10.
  21. ^ 田中たなか, p. 10.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 川田かわた, みのる昭和しょうわ陸軍りくぐんぜん1』講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2014ねんISBN 978-4062882729 

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 小林こばやし, 道彦みちひこちょ)、日本にっぽん歴史れきし学会がっかいへん)「さんがつ事件じけん再考さいこう宇垣うがき一成いっせい永田ながた鉄山てつざん」『日本にっぽん歴史れきしだい713ごう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねん10がつ、1-19ぺーじISSN 0386-9164 
  • ほり, 真清まきよ ちょさんがつ事件じけん」、ほり真清まきよ へん宇垣うがき一成いっせいとその時代じだい大正たいしょう昭和しょうわ前期ぜんき軍部ぐんぶ政党せいとう官僚かんりょう』11ごうしん評論ひょうろん早稲田大学わせだだいがく現代げんだい政治せいじ経済けいざい研究所けんきゅうじょ研究けんきゅう叢書そうしょ〉、1999ねん、55-122ぺーじISBN 4794804350 
  • 岡田おかだ, 益吉ますきち軍閥ぐんばつ重臣じゅうしん新聞しんぶん記者きしゃのみた昭和しょうわ秘史ひし読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1975ねん全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:73011441 
  • 田中たなか, きよし「『所謂いわゆるじゅうがつ事件じけんかんする手記しゅき』について」『現代げんだい資料しりょう』 5かん国家こっか主義しゅぎ運動うんどう だい2、みすず書房しょぼう、1964ねん、829-838ぺーじNDLJP:3005229/0443  
  • 前田まえだ, 治美はるみ昭和しょうわ叛乱はんらん日本にっぽん週報しゅうほうしゃ、1964ねんNDLJP:2982782  
  • 田中たなか, きよし所謂いわゆるじゅうがつ事件じけんかんする手記しゅき」『現代げんだい資料しりょう』 4かん国家こっか主義しゅぎ運動うんどう だい1、みすず書房しょぼう、1963ねん、650-670ぺーじNDLJP:3005228/0360  
  • 岩淵いわぶち, 辰雄たつお軍閥ぐんばつ系譜けいふ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1948ねんNDLJP:1044921NDLJP:1153516