(Translated by https://www.hiragana.jp/)
長勇 - Wikipedia

ちょう いさむ(ちょう いさむ、1895ねん明治めいじ28ねん1がつ19にち - 1945ねん昭和しょうわ20ねん6月23にち)は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん中将ちゅうじょう

ちょう いさむ
Isamu Cho
生誕せいたん 1895ねん1がつ19にち
日本の旗 日本にっぽん 福岡ふくおかけん
死没しぼつ (1945-06-23) 1945ねん6月23にち(50さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 沖縄おきなわけん
所属しょぞく組織そしき 大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
ぐんれき 1916 - 1945
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん中将ちゅうじょう
テンプレートを表示ひょうじ

経歴けいれき

編集へんしゅう

福岡ふくおかけん糟屋かすやぐん粕屋かすやまち出身しゅっしん農業のうぎょうちょう蒼生そうせい長男ちょうなんとしてまれる。ちゅう学修がくしゅう猷館熊本くまもと陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこうて、1916ねん大正たいしょう5ねん)5がつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう(28)を卒業そつぎょう陸士りくし同期どうき白銀しろがね重二しげじもりたけし中西なかにし良介りょうすけ近藤こんどう新八しんぱち宮崎みやざき周一しゅういち一木いちききよしただしらがいる。同年どうねん12がつ陸軍りくぐん歩兵ほへい少尉しょうい任官にんかん歩兵ほへいだい56連隊れんたいつけとなる。陸士りくし生徒せいとたいづけなどをて、1928ねん昭和しょうわ3ねん)12月、陸軍りくぐんだい学校がっこう(40)を卒業そつぎょうりくだい40には額田ぬかたひろし今井いまい武夫たけお片倉かたくららがいる。

りくだい卒業そつぎょう1929ねん昭和しょうわ4ねん)1がつ歩兵ほへいだい48連隊れんたい中隊ちゅうたいちょういで参謀さんぼう本部ほんぶ勤務きんむささえ)となる。1930ねん昭和しょうわ5ねん)に橋本はしもと欣五郎きんごろうらとさくらかい結成けっせい同年どうねん12がつ参謀さんぼう本部ほんぶ部員ぶいん1931ねん昭和しょうわ6ねん)のさんがつ事件じけんじゅうがつ事件じけん計画けいかく橋本はしもとらと同様どうよう処分しょぶんけるがかる処分しょぶんんでいる。じゅうがつ事件じけんでのちょう役割やくわりは、首相しゅしょう官邸かんてい襲撃しゅうげきぜん閣僚かくりょう殺害さつがいするというもので、ちょう新内しんないかく樹立じゅりつさい警視総監けいしそうかん就任しゅうにんする予定よていであったが保護ほご検束けんそくされている[1]

1931ねん昭和しょうわ6ねん)8がつ陸軍りくぐん歩兵ほへい少佐しょうさ進級しんきゅう1933ねん昭和しょうわ8ねん)8がつ台湾たいわん歩兵ほへいだい1連隊れんたい大隊だいたいちょうだい16師団しだん留守るす参謀さんぼうて、1935ねん昭和しょうわ10ねん)12月、陸軍りくぐん歩兵ほへい中佐ちゅうさ昇進しょうしん参謀さんぼう本部ほんぶ部員ぶいんささえ)となる。けんりくだい教官きょうかん参謀さんぼう本部ほんぶかんこう武官ぶかん)を歴任れきにんする。

1937ねん昭和しょうわ12ねん)8がつだい上海しゃんはい事変じへん勃発ぼっぱつすると、上海しゃんはい派遣はけんぐん参謀さんぼうとして出征しゅっせいちゅうささえ方面ほうめんぐん編成へんせいされるとどう方面ほうめんぐん参謀さんぼう兼務けんむする。同年どうねん12がつ朝香あさかみやばと彦王指揮しき情報じょうほう主任しゅにん参謀さんぼうとして、南京なんきん攻略こうりゃくせん参加さんか南京なんきんじょうがい長江ちょうこう河港かこう地域ちいき難民なんみんやく13まんにん対岸たいがんわたれずのこっているといて、「ヤッチマエ」と処刑しょけいするようにめいじ、それをったなかささえ派遣はけんぐん司令しれいかん松井まついいし大将たいしょうたしなめられ、指示しじすような態度たいどりながら、確認かくにん電話でんわ再度さいど「ヤッチマエ」とめいじた、という逸話いつわがある[注釈ちゅうしゃく 1]

1938ねん昭和しょうわ13ねん)3がつ朝鮮ちょうせんぐん隷下れいか歩兵ほへいだい74連隊れんたいちょうとなり、同年どうねん7がつ陸軍りくぐん歩兵ほへい大佐たいさ進級しんきゅうちょうほう事件じけん参戦さんせん1939ねん昭和しょうわ14ねん)3がつだい26師団しだん参謀さんぼうちょう台湾たいわんぐん司令しれいづけ印度いんどささえ派遣はけんぐん参謀さんぼうちょうだい25ぐん参謀さんぼう副長ふくちょう陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむきょくづけなどをて、1941ねん昭和しょうわ16ねん)10がつ陸軍りくぐん少将しょうしょう進級しんきゅう同年どうねん11がつ南方なんぽうぐん司令しれいふつしるし機関きかんちょう)となり太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)に出征しゅっせい

1942ねん昭和しょうわ17ねん)7がつけん軍務ぐんむきょくとなり、だい10歩兵ほへい団長だんちょう参謀さんぼう本部ほんぶ歴任れきにん1944ねん昭和しょうわ19ねん)3がつ関東軍かんとうぐんそう司令しれいどう3がつ1にちより機動きどうだいいち旅団りょだんちょう同年どうねん6がつ参謀さんぼう本部ほんぶとなり、同年どうねん7がつ沖縄おきなわ防衛ぼうえい担当たんとうするだい32ぐん参謀さんぼうちょうとなる。1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ陸軍りくぐん中将ちゅうじょう進級しんきゅう沖縄おきなわせんたたかうがアメリカぐんめられ、1945ねん6がつ23にち(22にちとするせつもある)摩文仁まぶにおか洞窟どうくつないだい32ぐん司令しれいで、だい32ぐん司令しれいかん牛島うしじまみつる大将たいしょうとともに割腹かっぷく自決じけつ

最期さいごについて

編集へんしゅう

八原やはらはくどおり大佐たいさ証言しょうげん

編集へんしゅう

沖縄おきなわせんから生還せいかんしただい32ぐん高級こうきゅう参謀さんぼう八原やはらはくどおり大佐たいさは、自決じけつしようとするながから「八原やはら後学こうがくのため最後さいごよ」とわれ、自決じけつ一部始終いちぶしじゅう見届みとどけたとかたっている。(ただ目撃もくげきしゃ証言しょうげんではこのような発言はつげんかったとの証言しょうげんもある。)

米国べいこく国立こくりつ公文書こうぶんしょかん記録きろく

編集へんしゅう

ちょう最期さいごについては、もと沖縄おきなわ県知事けんちじ大田おおた昌秀まさひでが、米国べいこく国立こくりつ公文書こうぶんしょかん発見はっけんしたべいぐん文書ぶんしょちょうのものとされる遺骸いがいうつされた写真しゃしんから、割腹かっぷく自決じけつではく、青酸せいさんカリによる服毒ふくどく自殺じさつだったと主張しゅちょうしている。しかし青酸せいさんカリはかく将兵しょうへい支給しきゅうされていないため、自決じけつ自刃じじん拳銃けんじゅうによるものが大半たいはんである。

6月25にち沖縄おきなわ憲兵けんぺいたい副官ふっかんはぎうち中尉ちゅういべいぐん要請ようせいにより、摩文仁まぶにぐん司令しれいごう牛島うしじま軍司ぐんじれいかんちょう参謀さんぼうちょう遺体いたい確認かくにんした[2]

遺体いたいひとつはくびがなかった。略章りゃくしょうをつけた軍服ぐんぷくしろ手袋てぶくろ坂口さかぐち中尉ちゅうい介錯かいしゃく作法さほうおしえたはぎこれないさんは、それが故郷こきょう先輩せんぱいでもある牛島うしじま司令しれいかん判断はんだんするのに時間じかんはかからなかった。もう一方いっぽう遺体いたい敷布しきふ2まいをつなぎあわせたふくろなかはいっていた。ズボンは軍服ぐんぷくだが上着うわぎはなくしろ肌着はだぎているだけだった。その肌着はだぎにはすみで「ただしそくつきいのち 尽忠じんちゅう報国ほうこく ちょういさむ」とかれていた。そうした経験けいけんからはぎこれないさんは、べい陸軍りくぐん撮影さつえいしたりょう将軍しょうぐん自決じけつ現場げんば写真しゃしん疑問ぎもんする。沖縄おきなわせんはまたおおくの将兵しょうへいたちが、みずからのいのちことわった戦争せんそうでもあった。その写真しゃしん現場げんばがどこであるのかを断定だんていするにはいまとなっては困難こんなんだ。[2]

墓所はかしょ家系かけい

編集へんしゅう
  • 参謀さんぼう経験けいけん豊富ほうふでありながら豪快ごうかい性格せいかく猪突猛進ちょとつもうしんがた軍人ぐんじんで、戦時せんじ国際こくさいほう戦闘せんとういん保護ほご)を軽視けいしした[5]
  • 上記じょうき南京なんきんでのやく13まんにん難民なんみん処刑しょけい命令めいれいのこととおもわれるが、田中たなか隆吉りゅうきちはその著書ちょしょに、ちょういさむ自身じしんが「日本にっぽんぐんが鎮江にいたったとき、やくさんじゅうまん中国ちゅうごくへい投降とうこうしてきたので処刑しょけいした」「これでとおりしゅう事件じけん復讐ふくしゅう出来できた」とかたったことをいている[6]。(司令しれいかん松井まついいし南京なんきん城市じょうし包囲ほうい完了かんりょう保養ほようとしてられた湯水ゆみず鎮に滞在たいざいし、ちょういさむもそこにいた。湯水ゆみず鎮は南京なんきん行政ぎょうせいなかだが南京なんきん城市じょうしより鎮江ちか場所ばしょにある。ちょういさむ自身じしんが鎮江にったとき、やく13まんにんへい市民しみんらを処刑しょけいしたの田中たなか記憶きおくちがいか。)
  • 尾張おわり徳川とくがわだい19だい当主とうしゅである徳川とくがわ義親よしちか晩年ばんねん回想かいそうろくに、南京なんきん攻略こうりゃくせん直後ちょくごちょういさむフィクサー藤田ふじたいさむかたったはなしとして「南京なんきんじょう一方いっぽうから揚子江ようすこう沿沿いにおんなどもをまじえた市民しみん大軍たいぐん怒濤どとうのようにげていく」「そのなかに多数たすう中国ちゅうごくへいまぎれこんでいる」「そこで機関きかんじゅうをすえている兵士へいしてとめいじたが、兵士へいし躊躇ちゅうちょしてたなかった」「そこで激怒げきどして『ひところすのはこうするんじゃ』と軍刀ぐんとうでその兵士へいし袈裟懸けさがけにころした」「おどろいたほかの兵隊へいたいが、いっせいに機関きかんじゅう発射はっしゃし、だい殺戮さつりくとなった」とあり、「ちょう自慢じまんげにこのはなし藤田ふじたにしたので、藤田ふじたは『ちょう、そのはなしだけはだれにもするなよ』とくちどめしたという」とのはなし[7]
  • 沖縄おきなわせんにおいて、だい32ぐん高級こうきゅう参謀さんぼう八原やはらはくどおり大佐たいさ立案りつあんし、ぐん司令しれいかん決裁けっさいていた持久じきゅうせんてっする方針ほうしん転換てんかんし、嘉手納かでなおよび読谷よみたん飛行場ひこうじょう奪回だっかいするため散発さんぱつてき突撃とつげきかえ実行じっこうさせ、だい32ぐん戦力せんりょくおおきく結果けっかとなった[注釈ちゅうしゃく 2]
  • 寝言ねごとをいうくせがあった。ながら「かあちゃんいたい!」と幼少ようしょう実母じつぼ折檻せっかんされているゆめをみてさけんだり、「突撃とつげき突撃とつげき!!」「このわからずが!」とおおきなこえ怒鳴どなこともあり、参謀さんぼうたちから「てもきてもうるさいひと」と陰口かげぐちたたかれていたといわれる(ちょうのこのくせ映画えいが激動げきどう昭和しょうわ 沖縄おきなわ決戦けっせん』でも描写びょうしゃされている)。
  • 1944ねん沖縄おきなわけん配備はいびされたへいによる強姦ごうかん事件じけん発生はっせいしたさいけん当局とうきょく抗議こうぎたいし、だい32ぐん参謀さんぼうちょうちょうは「こうしたさわぎがきるのは慰安いあんしょがないからである」として、慰安いあんしょ設置せっち提案ていあんした[8]。しかし沖縄おきなわ県知事けんちじいずみまもるが「ここはまんしゅう南方なんぽうではない。すくなくともすめらぎ一部いちぶである。すめらぎなかにそのような施設しせつつくることはできない」と拒否きょひしたことが、ぐんへの協力きょうりょくてき態度たいどとみなされいずみ沖縄おきなわせん直前ちょくぜん転任てんにんさせられる一因いちいんになったという[8]が、実際じっさい沖縄おきなわせん直前ちょくぜん転任てんにんいずみ自身じしん転任てんにん工作こうさくによるものである。いずみ沖縄おきなわ県知事けんちじ仕事しごと嫌気いやけしており、在任ざいにんちゅうやく1ねんはんちょううちやく3ぶんの1の期間きかん出張しゅっちょうなどの名目めいもく沖縄おきなわ留守るすにしていた。また、大蔵省おおくらしょう幹部かんぶつとめていた実兄じっけい親族しんぞくちかしい知人ちじん幹部かんぶらにひそかに転任てんにん工作こうさく依頼いらいしており、沖縄おきなわせんはじまる2ヶ月かげつまえの1945ねん1がつ香川かがわ県知事けんちじとして異動いどうした。このため、「いのちしさに県民けんみん見捨みすてて逃亡とうぼうした卑怯ひきょうしゃ」と蔑視べっしされることもある。
  • だい32ぐん司令しれい管理かんりづけ衛兵えいへい司令しれい濱川はまがわ昌也まさや軍曹ぐんそう沖縄おきなわ出身しゅっしん)の証言しょうげんによると、6月21にちべいぐんせま摩文仁まぶに司令しれいごうで、となりにいるぐん司令しれいかん牛島うしじまみつるこえをかけたちょうは、「なあーかく、「沖縄おきなわ住民じゅうみんじつによくやってくれた。日本にっぽんこくのどこが戦場せんじょうになっても、これほど住民じゅうみん協力きょうりょくしてくれなかっただろう。伊平屋島いへやじまてん岩戸いわとがあるとのことだが、この沖縄おきなわこそ、まさに高天原たかまがはらくにだ。大和やまとくに発祥はっしょう生涯しょうがいえるとはしあわせだ」とはなしていたという[9]

ちょういさむえんじた人物じんぶつ

編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ 松井まついいし専属せんぞく副官ふっかんだったすみ良晴よしはる少佐しょうさ証言しょうげんより。(『偕行』シリーズ(14))
  2. ^ ただしこの作戦さくせんちょう独断どくだんではなく、大本営だいほんえい指示しじぐん参謀さんぼうちょうとして斟酌しんしゃくしたものである。戸部とべ良一りょういちひとし失敗しっぱい本質ほんしつだいいちしょう6「沖縄おきなわせん参照さんしょう

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ 昭和しょうわ軍人ぐんじんたち』「ちょういさむ
  2. ^ a b [125 32ぐん司令しれいごう(10)]牛島うしじま中将ちゅうじょう遺体いたい確認かくにん”. 琉球新報りゅうきゅうしんぽう (2010ねん1がつ27にち). 2016ねん4がつ5にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん8がつ23にち閲覧えつらん
  3. ^ NTT労働ろうどう組合くみあい 西日本にしにほん本部ほんぶ  » ちょういさむ(ちょういさむ)のはか”. NTT労働ろうどう組合くみあい西日本にしにほん本部ほんぶ (2017ねん3がつ7にち). 2018ねん8がつ23にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん8がつ23にち閲覧えつらん
  4. ^ 本郷ほんごう 2015, pp. 124–126, だい6しょう 前田まえだはなぜ100まんせきなのか-「北陸ほくりく関ヶ原せきがはら
  5. ^ 読谷よみたんむらにちちゅう戦争せんそう
  6. ^ さばかれる歴史れきし新風しんぷうしゃ、1948ねん 
  7. ^ 最後さいご殿様とのさま徳川とくがわ義親よしちか自伝じでん講談社こうだんしゃ、1973ねん、173ぺーじ 
  8. ^ a b 野里のざとひろし汚名おめい だいじゅうろくだい沖縄おきなわ県知事けんちじ いずみまもる』1993ねん 講談社こうだんしゃ
  9. ^ 濱川はまがわ昌也まさやわたし沖縄おきなわ戦記せんき だいさんじゅうぐん司令しれい秘話ひわ』P204

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう