長 勇
Isamu Cho | |
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1895 | |
1945 | |
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1916 - 1945 | |
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経歴
1931
1937
1938
1942
最期 について
八原 博 通 大佐 の証言
米国 国立 公文書 館 の記録
6月25
遺体 の一 つは首 がなかった。略章 をつけた軍服 に白 い手袋 。坂口 中尉 に介錯 の作法 を教 えた萩 之 内 さんは、それが故郷 の先輩 でもある牛島 司令 官 と判断 するのに時間 はかからなかった。もう一方 の遺体 は敷布 2枚 をつなぎあわせた袋 の中 に入 っていた。ズボンは軍服 だが上着 はなく白 い肌着 を着 ているだけだった。その肌着 には墨 で「忠 即 尽 命 尽忠 報国 長 勇 」と書 かれていた。そうした経験 から萩 之 内 さんは、米 陸軍 が撮影 した両 将軍 の自決 現場 の写真 を疑問 視 する。沖縄 戦 はまた多 くの将兵 たちが、自 らの手 で命 を断 った戦争 でもあった。その写真 の現場 がどこであるのかを断定 するには今 となっては困難 だ。[2]
墓所 ・家系
逸話
参謀 経験 が豊富 でありながら豪快 な性格 の猪突猛進 型 の軍人 で、戦時 国際 法 (非 戦闘 員 の保護 )を軽視 した[5]。上記 南京 での約 13万 人 の難民 処刑 命令 のことと思 われるが、田中 隆吉 はその著書 に、長 勇 自身 が「日本 軍 が鎮江に至 ったとき、約 三 十 万 の中国 兵 が投降 してきたので処刑 した」「これで通 州 事件 の復讐 が出来 た」と語 ったことを書 いている[6]。(司令 官 の松井 石 根 は南京 城市 包囲 完了 後 、保養 地 として知 られた湯水 鎮に滞在 し、長 勇 もそこにいた。湯水 鎮は南京 行政 区 の中 だが南京 城市 より鎮江市 に近 い場所 にある。長 勇 自身 が鎮江に行 ったとき、約 13万 人 の兵 ・市民 らを処刑 したの田中 の記憶 違 いか。)尾張 徳川 家 第 19代 当主 である徳川 義親 の晩年 の回想 録 に、南京 攻略 戦 直後 に長 勇 がフィクサーの藤田 勇 に語 った話 として「南京 城 の一方 から揚子江 沿 い沿 いに女 ・子 どもを交 えた市民 の大軍 が怒濤 のように逃 げていく」「そのなかに多数 の中国 兵 が紛 れこんでいる」「そこで機関 銃 をすえている兵士 に撃 てと命 じたが、兵士 は躊躇 して撃 たなかった」「そこで激怒 して『人 を殺 すのはこうするんじゃ』と軍刀 でその兵士 を袈裟懸 けに切 り殺 した」「驚 いたほかの兵隊 が、いっせいに機関 銃 を発射 し、大 殺戮 となった」とあり、「長 は自慢 げにこの話 を藤田 にしたので、藤田 は『長 、その話 だけはだれにもするなよ』と口 どめしたという」との話 が出 て来 る[7]。沖縄 戦 において、第 32軍 高級 参謀 の八原 博 通 大佐 が立案 し、軍 司令 官 の決裁 を得 ていた持久 戦 に徹 する方針 を転換 し、嘉手納 および読谷 飛行場 を奪回 するため散発 的 な突撃 を繰 り返 し実行 させ、第 32軍 の戦力 を大 きく削 ぐ結果 となった[注釈 2]。寝言 をいう癖 があった。寝 ながら「母 ちゃん痛 い!」と幼少 時 の実母 に折檻 されている夢 をみて叫 んだり、「突撃 !突撃 !!」「この分 らず屋 が!」と大 きな声 で怒鳴 る事 もあり、参謀 たちから「寝 ても起 きてもうるさい人 」と陰口 を叩 かれていたといわれる(長 のこの癖 は映画 『激動 の昭和 史 沖縄 決戦 』でも描写 されている)。- 1944
年 、沖縄 県 に配備 された兵 による強姦 事件 が発生 した際 、県 当局 の抗議 に対 し、第 32軍 参謀 長 の長 は「こうした騒 ぎが起 きるのは慰安 所 がないからである」として、慰安 所 の設置 を提案 した[8]。しかし沖縄 県知事 の泉 守 紀 が「ここは満 洲 や南方 ではない。少 なくとも皇 土 の一部 である。皇 土 の中 にそのような施設 を作 ることはできない」と拒否 したことが、軍 への非 協力 的 態度 とみなされ泉 が沖縄 戦 直前 に転任 させられる一因 になったという[8]が、実際 の沖縄 戦 直前 の転任 は泉 自身 の転任 工作 によるものである。泉 は沖縄 県知事 の仕事 に嫌気 が差 しており、在任 中 の約 1年 半 超 の内 の約 3分 の1の期間 を出張 などの名目 で沖縄 を留守 にしていた。また、大蔵省 の幹部 を務 めていた実兄 ら親族 や近 しい知人 幹部 らに密 かに転任 工作 を依頼 しており、沖縄 戦 が始 まる2ヶ月 前 の1945年 1月 に香川 県知事 として異動 した。このため、「命 惜 しさに県民 を見捨 てて逃亡 した卑怯 者 」と蔑視 されることもある。 第 32軍 司令 部 ・管理 部 付 衛兵 司令 の濱川 昌也 軍曹 (沖縄 出身 )の証言 によると、6月21日 、米 軍 迫 る摩文仁 の司令 部 壕 で、隣 にいる軍 司令 官 牛島 満 に声 をかけた長 は、「なあー閣 下 、「沖縄 の住民 は実 によくやってくれた。日本 国 のどこが戦場 になっても、これほど住民 が協力 してくれなかっただろう。伊平屋島 に天 の岩戸 があるとの事 だが、この沖縄 こそ、まさに高天原 の国 だ。大和 の国 発祥 の地 で生涯 を終 えるとは幸 せだ」と話 していたという[9]。
長 勇 を演 じた人物
重臣 と青年 将校 陸海 軍 流血 史 (1958年 、新 東宝 ) -杉山 弘太郎 激動 の昭和 史 沖縄 決戦 (1971年 、東宝 ) -丹波 哲郎 報道 ドラマ生 きろ 〜戦場 に残 した伝言 〜(2013年 、TBS) -田中 要 次 島守 の塔 (2022年 、ポニーキャニオンエンタープライズ) -成田 浬
脚注
注釈
出典
- ^ 『
昭和 史 の軍人 たち』「長 勇 」 - ^ a b “[125 32
軍 司令 部 壕 (10)]牛島 中将 の遺体 確認 ”.琉球新報 (2010年 1月 27日 ). 2016年 4月 5日 時点 のオリジナルよりアーカイブ。2018年 8月 23日 閲覧 。 - ^ “NTT
労働 組合 西日本 本部 »長 勇 (ちょういさむ)の墓 ”. NTT労働 組合 西日本 本部 (2017年 3月 7日 ). 2018年 8月 23日 時点 のオリジナルよりアーカイブ。2018年 8月 23日 閲覧 。 - ^
本郷 2015, pp. 124–126,第 6章 前田 はなぜ100万 石 なのか-「北陸 の関ヶ原 」 - ^
読谷 村 史 「日 中 戦争 」 - ^ 『
裁 かれる歴史 』新風 社 、1948年 。 - ^ 『
最後 の殿様 -徳川 義親 自伝 』講談社 、1973年 、173頁 。 - ^ a b
野里 洋 『汚名 第 二 十 六 代 沖縄 県知事 泉 守 紀 』1993年 講談社 - ^
濱川 昌也 『私 の沖縄 戦記 第 三 十 二 軍 司令 部 秘話 』P204