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世宗 (朝鮮王) - Wikipedia

むね (朝鮮ちょうせんおう)

朝鮮ちょうせんだい4だい国王こくおう

むね(せいそう[1]、セジョン、せそう、세종、1397ねん5月7にち - 1450ねん3月30にち)は、朝鮮ちょうせんだい4だい国王こくおうである[2]せい(裪はころもへんすえつくり)(とう[1]、ド、)。即位そくいまえちゅうやすし(だい)くん(ちゅうねい(たい)くん、チュンニョン(デ)グン)とばれていた。

そう
ちょう
だい4だい国王こくおう
むね銅像どうぞう
王朝おうちょう ちょう
在位ざいい期間きかん 1418ねん9月9にち - 1450ねん3月30にち
都城みやこのじょう かん
元正がんしょう
諡号しごう そうけん英文えいぶん睿武ひとしひじりあきらこう大王だいおう
びょうごう むね
生年せいねん ひろしたけ30ねん4がつ10日とおか
1397ねん5月7にち
没年ぼつねん けいやすし元年がんねん2がつ17にち
1450ねん3月30にち
ちち ふとしむね三男さんなん
はは もとけいおうきさき閔氏
おうきさきおうはい 昭憲しょうけんおうきさきあおまつ沈氏)
  • れい嬪姜
  • まき嬪金
  • めぐみ嬪楊
  • なおそう
  • よしひめ
子女しじょ 下記かき参照さんしょう
陵墓りょうぼ えいりょうむね大王だいおうりょう
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むね (朝鮮ちょうせんおう)
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 세종 / 이도 / 원정
漢字かんじ むね / 裪 / 元正がんしょう
発音はつおん セジョン / イ・ド / ウォンジョン
日本語にほんごみ: せいそう、せそう / り とう / げんせい
マ字まじ Sejong / I Do / Won Jeong
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生涯しょうがい 編集へんしゅう

即位そくい 編集へんしゅう

1397ねんだい3だい国王こくおうふとしむねだい3王子おうじとしてまれる。ははもとけいおうきさき閔氏。1406ねん成人せいじんするとちゅうやすし大君おおきみ大君おおきみおう嫡出ちゃくしゅつあたえられるしょくかん)にふうじられ、沈(シム、ちん)正妃せいひ昭憲しょうけんおうきさき)と結婚けっこんした。

健康けんこう問題もんだいかかえたちちふとしむねにはなん譲位じょういおこな意向いこうがあったが、外戚がいせきとの確執かくしつ長男ちょうなんゆずるやすし大君おおきみ奔放ほんぽう性格せいかく問題もんだいとなり、なかなかおこなわれなかった。1418ねんふとしむねゆずるやすし大君おおきみから世子せいしおう太子たいし)の資格しかく剥奪はくだつし、三男さんなんむね譲位じょういした。

むね即位そくい当初とうしょの4年間ねんかんは、うえおうとなったふとしむね軍事ぐんじけんをはじめ政治せいじ実権じっけんにぎっていた。1422ねんふとしむねくなると、むね親政しんせいはじまることになる。

内政ないせい 編集へんしゅう

 
ハングル(くんみんせいおと

むね宮中きゅうちゅう学問がくもん研究所けんきゅうじょとしてしゅうけん殿どの設置せっち[3]、ここにわか有望ゆうぼう儒学じゅがくしゃかんやつ外国がいこくじんらを採用さいようしてさまざまな特権とっけんあたえた。しゅうけん殿どのおう政策せいさく諮問しもん機関きかんとして機能きのうし、朝鮮ちょうせん文化ぶんか文治ぶんじ主義しゅぎ発展はってんさせる原動力げんどうりょくになった。むねしゅうけん殿どの学士がくしとともにひろ分野ぶんやおよ編纂へんさん事業じぎょう主導しゅどうし、儒学じゅがくやさまざまな文化ぶんか技術ぎじゅつ振興しんこうした(後述こうじゅつ)。中国ちゅうごく漢字かんじ発音はつおん上手うま出来できないみんのためとし、中国ちゅうごく漢字かんじ発音はつおん正確せいかく表記ひょうきする目的もくてきつくった発音はつおん記号きごうであるハングルくんみんせいおと)の創製そうせいられている[2][4]。1425ねんには朝鮮ちょうせん通宝つうほう鋳造ちゅうぞうし、貨幣かへい経済けいざい浸透しんとうこころみた。また、高麗こうらい以来いらい税法ぜいほうである踏験そんほう廃止はいしし、1436ねんみつげほうしょうじょうしょ設置せっちして朝鮮ちょうせんぜい制度せいどさだめた。1437ねんになるとせいむね自体じたい健康けんこう問題もんだいもあり、ろくちょくけいせい省庁しょうちょうおう直接ちょくせつ統括とうかつする制度せいど)を政府せいふしょごとせいりょうせいみぎせいひだりせいさんせいろく曹と協議きょうぎし、その結果けっか国王こくおう上奏じょうそうする方式ほうしき)に変更へんこうし、おう国事こくじ負担ふたんかるくし、権力けんりょく分散ぶんさんさせた。

当時とうじ革新かくしんてき視点してんがあり、政策せいさく実施じっしするのにみん賛否さんぴうためにじゅうすうまんにん一種いっしゅ世論せろん調査ちょうさ実施じっししたり、ノビ(奴婢ぬひ)が妊娠にんしんすると、出産しゅっさん休暇きゅうかつまには130にちおっとには30にちあたえるようにめいじた。また能力のうりょくがあればノビ(奴婢ぬひ)出身しゅっしんでも官職かんしょくあたえたが、代表だいひょうてき事例じれい英實ひでみだ。

奴婢ぬひそうみつぎおんなすう拡大かくだいあかりへの事大じだい主義しゅぎ

もちろんむね政策せいさくじょう批判ひはんはある。むね時代じだいには官僚かんりょうであればすえしょくさえ100にん以上いじょう所有しょゆうしたほど奴婢ぬひ身分みぶんものおおかった。そのためむね治世ちせい時期じきまえから王家おうけ貴族きぞく奴婢ぬひを300にん以上いじょう所有しょゆうしてはいけないというほうがあった。しかし、むねは婢と良民りょうみんおとこ結婚けっこんすればあいだ子供こども父親ちちおや身分みぶんしたがって良民りょうみんになれるようにしていた既存きそん法律ほうりつ廃止はいしした。さらにやつ婢従ははほう(노비종모법)というほうにより、ちちりょうはんははやつだった場合ばあい奴婢ぬひになり、やつ(父親ちちおや)の所有しょゆうしゃがその所有しょゆうけんつようにさだめられた。この法律ほうりつちちだれでどの身分みぶんでも、二人ふたりあいだすべての子供こどもはは身分みぶんしたがって奴婢ぬひになるようにした法律ほうりつでもあった。朝鮮ちょうせん少女しょうじょたちをみつぎおんなとして中国ちゅうごく(あきら)にささげるために『すすむけんじしょく』という機構きこう設置せっちしたうえに、処女しょじょしんけんじけるために民衆みんしゅうあいだおさな年齢ねんれい早婚そうこんさせることが流行りゅうこうすると即座そくざ王族おうぞくなど高位こういそうのぞいて民衆みんしゅうのみに早婚そうこん禁止きんし実施じっしした、また中国ちゅうごくから使臣ししんが1〜2かげつかかるみつぎおんなえら期間きかん半島はんとう全土ぜんど婚姻こんいん禁止きんしれいくだされ選抜せんばつ対象たいしょうとなった未婚みこん女性じょせい恐怖きょうふふるえた。ふとしむねは「処女しょじょかくしたものはりやいとほどこしたものかみったりくすりったりしたものとう選抜せんばつからまぬかれようとしたもの」をばっする号令ごうれいし、むね時代じだい存続そんぞくしていた。朝鮮ちょうせん王朝おうちょう実録じつろくには、むね治世ちせいあかりたいする処女しょじょしんけんじ最多さいた記録きろくされている。また、朝鮮ちょうせん独自どくじであったてんささげる祭祀さいしであるてんさいみずか撤廃てっぱいし、中国ちゅうごく王朝おうちょう朝鮮ちょうせん実質じっしつてき従属じゅうぞくさせる事大じだい主義しゅぎ政策せいさく展開てんかいしたことも指摘してきされている[5][6][7][8]。また1431ねんかん婢が良人りょうじん男性だんせいとのあいだんだむすめ妓生こしょう息子むすこかんやつになるほう施行しこうした。そのため、片方かたがた良人りょうじんならせた、奴婢ぬひ身分みぶん子息しそく下層かそう身分みぶん固定こていされた。1437ねんには、国境こっきょう地帯ちたい兵士へいし慰安いあん目的もくてきで、妓生こしょうくように命令めいれいし、妓生こしょうなど下級かきゅう身分みぶんそう人権じんけんよりりょうはんそう便宜べんぎのみを追求ついきゅうした。そのため、ぜん近代きんだいてき君主くんしゅだったとの指摘してきがある[4]

ただし反論はんろんがわでは現代げんだい観点かんてんかられば残念ざんねんてんはあるが、当時とうじ観点かんてんからるとたりまえだった身分みぶんせいあかりたいする事代ことしろあさおおやけ貿易ぼうえきでむしろ安保あんぽ経済けいざいてき利益りえき現実げんじつてき時代じだい状況じょうきょう勘案かんあんしていない主張しゅちょうという反論はんろんもする。政策せいさくてき物足ものたりなさはあるかもしれないが、むねほか言行げんこうると身分みぶんせい事代ことしろ自体じたい絶対ぜったいする君主くんしゅではなかった。つまり、一般いっぱんてき君主くんしゅならあまりあつかわない問題もんだいでも、むねがこれだけ欠点けってん君主くんしゅであるだけ尊敬そんけいされれば、一種いっしゅ反発はんぱつ心理しんりでこのような反応はんのうると推定すいていすることもある。これはどの国王こくおうでも普遍ふへんてき人権じんけん概念がいねん説得せっとくされるきん現代げんだい時代じだいでない以上いじょうくわしくげれば指摘してきされるしかない問題もんだいだろう。

対外たいがい関係かんけい 編集へんしゅう

日本にっぽん関連かんれん

前期ぜんきやまと寇の武力ぶりょく政策せいさく後期こうきには室町むろまち幕府ばくふ修好しゅうこうするなど友好ゆうこうさくをとった[2]日本にっぽんとの関係かんけいかんしては、当時とうじ朝鮮ちょうせん沿岸えんがんらしまわっていたやまとまり問題もんだいでの対立たいりつがねとなって、即位そくい翌年よくねん1419ねん対馬つしま攻撃こうげきした(おうなが外寇がいこう)(この外征がいせい当時とうじまだうえおうとして実権じっけんにぎっていたふとしむね意向いこう反映はんえいしていたものであった)[2]。その外交がいこうてき解決かいけつおもきをくようになり、むね在位ざいいちゅうには1428ねん1439ねん1443ねん通信使つうしんし派遣はけんされた。室町むろまち幕府ばくふとの修好しゅうこうがなされ、富山とやまうらなど3つの開港かいこう三浦みうら)をもうけて、やまと寇禁あつ要請ようせいおこなわれた[2]通信使つうしんし日本にっぽん国情こくじょう偵察ていさつねており、使節しせつ同行どうこうしたさる叔舟による日本にっぽん社会しゃかい観察かんさつは、のちに『うみひがし諸国しょこく』としてまとめられた。1438ねんえいとおる10ねん)ころにはぶん引制採用さいようし、1443ねん嘉吉よしきち3ねん)には日本にっぽんがわ事実じじつじょう出先でさき機関きかんとなった対馬つしまそうとのあいだ嘉吉よしきち条約じょうやくむすんだ。

中国ちゅうごく,大陸たいりく関連かんれん

みつぎおんな増加ぞうか朝鮮ちょうせんしき儀典ぎてん廃止はいしなど、中国ちゅうごく明王みょうおうあさ朝鮮ちょうせん実質じっしつてき従属じゅうぞくさせる事大じだい主義しゅぎ政策せいさく展開てんかいしていた。あかりふとしむねせいむねとき2人ふたりいもうとみつぎおんなとしておくったかんかく(ハン・ファク、1403ねん-1456ねん)はひだりせいみぎせいとも現在げんざいふく首相しゅしょうクラス)などの要職ようしょく歴任れきにんし、かんかくあかり密通みっつうおよんだ事実じじつ発覚はっかくしたさいも、むねは「ばっせられない人物じんぶつ」だとして黙認もくにんした。あきらへのみつぎおんな献上けんじょうについては「国内こくない利害りがいのみならず、外国がいこくにも関係かんけいすることなので、ただ(あきら皇帝こうていの)命令めいれいしたがうのみ」とかたっているため、「かのそうさえも恥辱ちじょく例外れいがいではない」と報道ほうどうされた[4][9][8]

高麗こうらい時代じだいからつづいたおんなしんぞく侵入しんにゅうそなえ、きむ宗瑞そうずいちぇじゅんとくらにめいじてろくよんぐん設置せっちし、国境こっきょう地帯ちたい守備しゅびかためた。いわゆるよんぐんろく開拓かいたくで、今日きょう南北朝鮮なんぼくちょうせん半島はんとう国家こっか領土りょうどをほぼ確定かくていしたのもむねだいのことだ。今日きょう文化ぶんか科学かがくてき隆盛りゅうせいしていた時代じだいという認識にんしきがあるが、いざむねというはかごう領土りょうどひろげた君主くんしゅによくあたえる呼称こしょうということを勘案かんあんすれば面白おもしろい。

ハングルの創製そうせい 編集へんしゅう

韓国かんこくもっとられる功績こうせきが、くんみんせいおとのちにハングルとばれるようになる)の創製そうせいである。

当時とうじ朝鮮ちょうせん漢字かんじ文化ぶんかけんであり、漢字かんじ以外いがい文字もじはなかった。はな言葉ことば以外いがい意思いしつたえるじゅつたず、漢字かんじきが出来できない民衆みんしゅうあわれにおもったむねは、1446ねん表音ひょうおん文字もじであるくんみんせいおと制定せいていした。しかし、漢字かんじこそ文字もじであり唯一ゆいいつ表意ひょうい方法ほうほうであるとする重臣じゅうしんたちはこれに反対はんたいした。保守ほしゅあきら中国ちゅうごく)の一部いちぶであるからこそ一流いちりゅう文化ぶんかられると主張しゅちょうし、独自どくじ民族みんぞく文字もじもっ中国ちゅうごく文化ぶんかけんからはなれれば、モンゴルじん・チベットじん満州まんしゅうじん日本人にっぽんじんらのように野蛮やばんじんがるとうったえた。また、側近そっきんなかには「どうしてもとうのなら、自分じぶんころして文字もじ制定せいていしてください」とかたくなにはばものもあり、漢字かんじによる知識ちしき独占どくせんしたいりょうはん(ヤンバン)の反発はんぱつけた。さらにこのこと宗主そうしゅこくであるあかりにもつたわり、朝鮮ちょうせん反逆はんぎゃくくわだてているといかりをったともわれている。

こうした反対はんたい勢力せいりょくたいし、むねは「これ(ハングル)は文字もじではなく漢字かんじ素養そようみん発音はつおんおしえるための記号きごうぎない」と反逆はんぎゃく意思いしがないこと強調きょうちょうし、保守ほしゅ反対はんたいをよそにハングルの制定せいてい断行だんこうした。制定せいていにつき勅書ちょくしょ序文じょぶんには「愚民ぐみんたちいたいことがあってもあらわせずにわることがおおい。れをあわれにおもい、あらたに28文字もじ制定せいていした。みん簡単かんたんまねべまた日々ひびよう便利べんりにさせることをねがってのことである」としるされている。

文化ぶんか技術ぎじゅつ 編集へんしゅう

仏教ぶっきょうたいしてははいふつ政策せいさくをおこなった。むね仏教ぶっきょう宗派しゅうはぜんきょうの2宗派しゅうは統合とうごうし、18ヶてらのぞいてすべてやぶ却するなどした。高麗こうらい時代じだいまで国家こっか保護ほごけて繁栄はんえいした仏教ぶっきょう勢力せいりょくは、高麗こうらい末期まっきくと腐敗ふはいさと落におちいり、みんはらせいったため、儒教じゅきょう国家こっか夢見ゆめみ朝鮮ちょうせんでは高麗こうらい滅亡めつぼう原因げんいんひとつとして仏教ぶっきょうげるほどだった。仏教ぶっきょう勢力せいりょくはこの時期じきいちじるしく衰退すいたいし、山間さんかんなどで細々こまごまつづくのみとなった(朝鮮ちょうせん仏教ぶっきょう参照さんしょう)。ただ当時とうじ朝鮮ちょうせん王室おうしつでも仏教ぶっきょうしんじる信者しんじゃたちは製法せいほうがあったので、むね一部いちぶ神下こうか反対はんたいにもかかわらず仏教ぶっきょうしょ刊行かんこうしたりもした。むねだい編纂へんさんされた仏教ぶっきょうしょには、創製そうせいまもないハングルでかれた『しゃくしょうぶし』がある[2]

仏教ぶっきょう書籍しょせきほか忠臣ちゅうしん孝子こうし逸話いつわあつめた『さんもう行実ぎょうじつ』などを出版しゅっぱんして儒教じゅきょうてき道徳どうとくひろめていった[2]高麗こうらい時代じだい歴史れきししょである『高麗こうらい』や朝鮮ちょうせん王朝おうちょう建国けんこく神話しんわである『りゅうてん』、朝鮮ちょうせん地理ちりしょである『新撰しんせん八道はちどう地理ちりこころざし』などを出版しゅっぱんさせて政治せいじ姿勢しせい明確めいかくにした[2]

また、つぎのような実学じつがく技術ぎじゅつ発展はってんしたとされている。

 
蔣英によって制作せいさくされた渾天
 
蔣英自動じどう水時計みずどけい再現さいげんしたもの

このほか、むねだい編纂へんさんされた書籍しょせきとして、医学いがくしょ医方いほう類聚るいじゅう』などがある。

陵墓りょうぼ死後しご 編集へんしゅう

晩年ばんねん病気びょうきがちとなり、それまで抑圧よくあつしていた仏教ぶっきょうにすがるようになった。1450ねん、53さい薨去こうきょした。さきぼっしていた昭憲しょうけんおうきさきとともに、ふとしむね陵墓りょうぼであるけんじりょう現在げんざいソウル特別とくべつみずくさ)にごうそうされた。1469ねん昭憲しょうけんおうきさきとともに京畿けいきどう驪州ぐんえいりょう通称つうしょうせいそう大王だいおうりょう)にうつりそうされている。

文字もじめなかった国民こくみんあわれんで、ハングルくんみんせいおと)の創製そうせいおこなったことでられている。死後しご韓国かんこく国内こくない一般いっぱんてきたたえられている。儒教じゅきょう理想りそうとする王道おうどう政治せいじ展開てんかいしたとして、朝鮮ちょうせん王朝おうちょうにおける最高さいこうきよしくん評価ひょうかされている。韓国かんこくでは子供こどもから老人ろうじんまで幅広はばひろそう尊敬そんけいされている国民こくみんてき英雄えいゆうである。後年こうねんうみひがししゅん」(うみひがし朝鮮ちょうせん別名べつめい)としょうされた[2]。このためびょうごうむねであるが、朝鮮ちょうせんでは朝鮮ちょうせん歴代れきだい国王こくおうなかきよしくん最高さいこう名君めいくん)と尊敬そんけいされている意味いみむね大王だいおう세종대왕、セジョンデワン、せそうだいおう)ともわれる。

家系かけい 編集へんしゅう

后妃こうひ 編集へんしゅう

・14だいせん以降いこう国王こくおうさだ懿公ぬしいている。せん生母せいぼ河東かとうだい夫人ふじんていは、さだ懿公ぬし次男じなんやす温泉おんせんまごたるためである。またせん継室けいしつじんきよしおうきさききんさだ懿公ぬしいている。(さだ懿公ぬし長男ちょうなんやす如獺の玄孫げんそんたるため)

後宮こうきゅう 編集へんしゅう

  玄孫げんそんが14だいせん最初さいしょ正室せいしつ懿仁おうきさきである。

その 編集へんしゅう

肖像しょうぞう銅像どうぞう 編集へんしゅう

 
大韓民国だいかんみんこく10000ウォン紙幣しへい肖像しょうぞうとしてむねえがかれている。
 
なんじ矣島の石像せきぞう

むねにちなむ命名めいめい 編集へんしゅう

ハングルを制定せいていし、朝鮮ちょうせん正書法せいしょほう基礎きそ確立かくりつした業績ぎょうせきから、韓国かんこくでは「国民こくみんてき英雄えいゆう」として不動ふどう地位ちいている。そのため国家こっかてきプロジェクトや文化ぶんか科学かがく技術ぎじゅつ関係かんけい施設しせつ事業じぎょうなど「国家こっか民族みんぞく威信いしんをかけたここぞという場面ばめん」にむね使つかわれることがある。

韓国かんこく政府せいふ2006ねん12月21にち韓国かんこく中部ちゅうぶ建設けんせつするしん行政ぎょうせい中心ちゅうしんふくあい都市とし名称めいしょうを「むね」と決定けっていした。2012ねんから大韓民国だいかんみんこく企画きかく財政ざいせいなど49の政府せいふ機関きかんしん都市としへの移転いてん開始かいしする。

師匠ししょう 編集へんしゅう

1964ねん忠清ただきよ南道みなみどう青少年せいしょうねん赤十字せきじゅうじ中央ちゅうおう生徒せいとかいが5月26にち制定せいていした師匠ししょうが、1965ねん誕生たんじょう旧暦きゅうれき4がつ10日とおかグレゴリオれき換算かんさんした5月15にち変更へんこうされた。1973ねん国民こくみん教育きょういく憲章けんしょう宣言せんげん記念きねん統合とうごうされたが、1982ねん復活ふっかつし、法定ほうてい記念きねんとして認定にんていされた[15]。1994ねんユネスコ制定せいていした世界せかい教師きょうしデーとはことなる。

むね登場とうじょうする作品さくひん 編集へんしゅう

映画えいが
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

  1. ^ a b むね”. デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus. 2022ねん9がつ12にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i j 木村きむらまことほか 1995, p.101
  3. ^ 世界せかい各国かっこく17朝鮮ちょうせん武田たけだ幸男ゆきお 145ぺーじ
  4. ^ a b c みんあいしたおう?「きよしくんむね裏返うらがえす : 東亜日報とうあにっぽう”. archive.vn (2021ねん3がつ28にち). 2021ねん3がつ28にち閲覧えつらん
  5. ^ 金井かない孝利たかとし 韓国かんこく時代じだいげき歴史れきし用語ようご事典じてん: かんりゅうコンパクトシリーズ
  6. ^ 이영훈 서울대 교수 역사 강의 ‘환상의 나라’ 시리즈 인기몰이
  7. ^ こううらら朝鮮ちょうせん王朝おうちょう時代じだいの「みつぎおんな」の実態じったいとは(した)高麗こうらい時代じだいから朝鮮ちょうせん王朝おうちょう時代じだいまでつづいた「恥辱ちじょく朝鮮日報ちょうせんにっぽう
  8. ^ a b こううらら朝鮮ちょうせん王朝おうちょう時代じだいの「みつぎおんな」の実態じったいとは(うえ高麗こうらい時代じだいから朝鮮ちょうせん王朝おうちょう時代じだいまでつづいた「恥辱ちじょく朝鮮日報ちょうせんにっぽう
  9. ^ こううらら朝鮮ちょうせん王朝おうちょう時代じだいの「みつぎおんな」の実態じったいとは(した高麗こうらい時代じだいから朝鮮ちょうせん王朝おうちょう時代じだいまでつづいた「恥辱ちじょく朝鮮日報ちょうせんにっぽう
  10. ^ 朝鮮ちょうせん王朝おうちょうがわかる』57ぺーじ六反田ろくたんだゆたか
  11. ^ [1]
  12. ^ “마지막 황손 이석, 세종대왕 상? 내얼굴+효령대군 동상!”. THE FACT. (2014ねん9がつ5にち). http://news.tf.co.kr/read/entertain/1407101.htm 2019ねん3がつ19にち閲覧えつらん 
  13. ^ “마지막 황손 이석 "첫 광고서 세종대왕 역, 뭉클했다"”. OSBニュース. (2014ねん9がつ5にち). http://www.obsnews.co.kr/news/articleView.html?idxno=833064 2019ねん3がつ19にち閲覧えつらん 
  14. ^ “마지막 황손 이석, 출생의 비밀은? “아버지 의친왕, 어머니는 19세“”. (2014ねん9がつ4にち). http://star.mk.co.kr/v2/view.php?sc=40100044&year=2014&no=1170235 2019ねん3がつ19にち閲覧えつらん 
  15. ^ 스승의날소개大韓たいかん赤十字せきじゅうじしゃ

参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

  • 木村きむらまことほか へん朝鮮ちょうせん人物じんぶつ事典じてん大和やまと書房しょぼう、1995ねんISBN 4479840354 

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

外部がいぶリンク 編集へんしゅう

先代せんだい:
ふとしむね
朝鮮ちょうせん国王こくおう
だい4だい:1418ねん - 1450ねん
次代じだい:
ぶんむね