1397年、第3代国王太宗の第3王子として生まれる。母は元敬王后閔氏。1406年に成人すると忠寧大君(大君は王の嫡出子に与えられる職官)に封じられ、沈(シム、ちん)氏(後の正妃・昭憲王后)と結婚した。
健康問題を抱えた父の太宗には何度か譲位を行う意向があったが、外戚との確執や長男の譲寧大君の奔放な性格が問題となり、なかなか行われなかった。1418年、太宗は譲寧大君から世子(王太子)の資格を剥奪し、三男の世宗に譲位した。
世宗即位当初の4年間は、上王となった太宗が軍事権をはじめ政治の実権を握っていた。1422年に太宗が亡くなると、世宗の親政が始まることになる。
世宗は宮中に学問研究所として集賢殿を設置し[3]、ここに若く有望な儒学者や官奴、外国人らを採用してさまざまな特権を与えた。集賢殿は王の政策諮問機関として機能し、朝鮮の文化と文治主義を発展させる原動力になった。世宗は集賢殿の学士とともに広い分野に及ぶ編纂事業を主導し、儒学やさまざまな文化・技術を振興した(後述)。中国漢字の発音を上手く出来ない民のためとし、中国漢字の発音を正確に表記する目的で作った発音記号であるハングル(訓民正音)の創製が知られている[2][4]。1425年には朝鮮通宝を鋳造し、貨幣経済の浸透を試みた。また、高麗以来の税法である踏験損実法を廃止し、1436年に貢法詳定所を設置して朝鮮の田税制度を定めた。1437年になると世宗自体の健康問題もあり、六曹直啓制(省庁を王が直接統括する制度)を議政府署事制(領議政・右議政・左議政の三議政が六曹と協議し、その結果を国王に上奏する方式)に変更し、王の国事の負担を軽くし、権力を分散させた。
当時は革新的な視点があり、政策を実施するのに民の賛否を問うために十数万人に一種の世論調査を実施したり、ノビ(奴婢)が妊娠すると、出産休暇を妻には130日、夫には30日を与えるように命じた。また能力があればノビ(奴婢)出身でも官職を与えたが、代表的な事例が蔣英實だ。
奴婢層と貢女数の拡大・明への事大主義
もちろん世宗も政策上批判はある。世宗の時代には官僚であれば末職さえ100人以上所有したほど奴婢の身分の者が多かった。そのため世宗の治世時期前から李王家と貴族は奴婢を300人以上所有してはいけないという法があった。しかし、世宗は婢と良民の男が結婚すれば間の子供は父親の身分に従って良民になれるようにしていた既存の法律を廃止した。さらに奴婢従母法(노비종모법)という法により、父が両班で母が奴だった場合は子も奴婢になり、奴(父親)の所有者がその子の所有権を持つように定められた。この法律は父が誰でどの身分でも、二人の間の全ての子供は母の身分に従って奴婢になるようにした法律でもあった。朝鮮の少女たちを貢女として中国(明)に捧げるために『進献色』という機構を設置した上に、処女進献を避けるために民衆の間が幼い年齢で早婚させることが流行すると即座に王族など高位層を除いて民衆のみに早婚禁止を実施した、また中国から来た使臣が1〜2か月かかる貢女を選び出す期間は半島全土に婚姻禁止令が下され選抜対象となった未婚女性は恐怖に震えた。太宗は「処女を隠した者、針灸を施した者、髪を切ったり薬を塗ったりした者等選抜から免れようとした者」を罰する号令も出し、世宗の時代も存続していた。朝鮮王朝実録には、世宗の治世が明に対する処女進献が最多と記録されている。また、朝鮮独自であった天に捧げる祭祀である天祭を自ら撤廃し、中国王朝に朝鮮を実質的に従属させる事大主義政策を展開したことも指摘されている[5][6][7][8]。また1431年、官婢が良人の男性との間で産んだ娘は妓生、息子は官奴になる法を施行した。そのため、片方が良人なら抜け出せた、奴婢身分の子息は下層身分に固定された。1437年には、国境地帯の兵士を慰安目的で、妓生を置くように命令し、妓生など下級身分層の人権より両班層の便宜のみを追求した。そのため、前近代的君主だったとの指摘がある[4]。
ただし反論側では現代の観点から見れば残念な点はあるが、当時の観点から見ると当たり前だった身分制と明に対する事代、朝公貿易でむしろ安保、経済的利益を見た現実的な時代状況を勘案していない主張という反論もする。政策的物足りなさはあるかもしれないが、世宗の他の言行を見ると身分制や事代自体を絶対視する君主ではなかった。つまり、一般的な君主ならあまり扱わない問題でも、世宗がこれだけ無欠点君主であるだけ尊敬されれば、一種の反発心理でこのような反応も出ると推定することもある。これはどの国王でも普遍的人権概念が説得される近現代時代でない以上詳しく掘り下げれば指摘されるしかない問題だろう。
日本関連
前期に倭寇の武力政策、後期には室町幕府と修好するなど友好策をとった[2]。日本との関係に関しては、当時朝鮮の沿岸を荒らし回っていた倭寇の取り締まり問題での対立が引き金となって、即位翌年の1419年に対馬を攻撃した(応永の外寇)(この外征は当時まだ上王として実権を握っていた太宗の意向が反映していたものであった)[2]。その後、外交的解決に重きを置くようになり、世宗在位中には1428年・1439年・1443年に通信使が派遣された。室町幕府との修好がなされ、富山浦など3つの開港場(三浦)を設けて、倭寇禁圧の要請が行われた[2]。通信使は日本の国情偵察も兼ねており、使節に同行した申叔舟による日本社会の観察は、のちに『海東諸国紀』としてまとめられた。1438年(永享10年)ころには文引制を採用し、1443年(嘉吉3年)には日本側の事実上の出先機関となった対馬の宗氏との間に嘉吉条約を結んだ。
中国,大陸関連
貢女増加や朝鮮式の儀典廃止など、中国の明王朝に朝鮮を実質的に従属させる事大主義政策を展開していた。明へ太宗・世宗の時に2人の妹を貢女として送った韓確(ハン・ファク、1403年-1456年)は左議政や右議政(共に現在の副首相クラス)などの要職を歴任し、韓確が明と密通に及んだ事実が発覚した際も、世宗は「罰せられない人物」だとして黙認した。明への貢女の献上については「国内の利害のみならず、外国にも関係することなので、ただ(明皇帝の)命令に従うのみ」と語っているため、「かの世宗さえも恥辱の例外ではない」と報道された[4][9][8]。
高麗時代から続いた女真族の侵入に備え、金宗瑞、崔潤德らに銘じて六鎮四郡を設置し、国境地帯の守備を固めた。いわゆる四郡六鎭開拓で、今日南北朝鮮半島国家の領土をほぼ確定したのも世宗大のことだ。今日は文化と科学的に隆盛していた時代という認識があるが、いざ世宗という墓号は領土を広げた君主によく与える呼称ということを勘案すれば面白い。
韓国で最も知られる功績が、訓民正音(後にハングルと呼ばれるようになる)の創製である。
当時朝鮮は漢字文化圏であり、漢字以外に文字はなかった。話し言葉以外に意思を伝える術を持たず、漢字の読み書きが出来ない民衆を哀れに思った世宗は、1446年に表音文字である訓民正音を制定した。しかし、漢字こそ文字であり唯一の表意方法であるとする重臣達はこれに反対した。保守派は明(中国)の一部であるからこそ一流の文化を得られると主張し、独自の民族文字を以て中国の文化圏から離れれば、モンゴル人・チベット人・満州人・日本人らのように野蛮人に成り下がると訴えた。また、側近の中には「どうしてもと言うのなら、自分を殺して文字を制定して下さい」と頑なに阻む者もあり、漢字による知識を独占したい両班(ヤンバン)の反発も受けた。さらにこの事が宗主国である明にも伝わり、朝鮮が反逆を企てていると怒りを買ったとも言われている。
こうした反対勢力に対し、世宗は「これ(ハングル)は文字ではなく漢字の素養が無い民に発音を教えるための記号に過ぎない」と言い反逆の意思がない事を強調し、保守派の反対をよそにハングルの制定を断行した。制定につき勅書の序文には「愚民達は言いたい事があっても書き表せずに終わることが多い。予は其れを哀れに思い、新たに28文字を制定した。民が簡単に学べまた日々の用に便利にさせることを願っての事である」と記されている。
仏教に対しては廃仏政策をおこなった。世宗は仏教の宗派を禅教の2宗派に統合し、18ヶ寺を除いてすべて破却するなどした。高麗時代まで国家の保護を受けて繁栄した仏教勢力は、高麗末期に行くと腐敗と郷落に陥り、民の原性を買ったため、儒教国家を夢見た朝鮮では高麗滅亡の原因の一つとして仏教を挙げるほどだった。仏教勢力はこの時期に著しく衰退し、山間などで細々と続くのみとなった(朝鮮の仏教参照)。ただ当時、朝鮮王室でも仏教を信じる信者たちは製法があったので、世宗も一部の神下の反対にもかかわらず仏教書を刊行したりもした。世宗代に編纂された仏教書には、創製まもないハングルで書かれた『釈譜詳節』がある[2]。
仏教書籍の他、忠臣や孝子の逸話を集めた『三網行実図』などを出版して儒教的な道徳を広めていった[2]。高麗時代の歴史書である『高麗史』や朝鮮王朝の建国神話である『竜飛御天歌』、朝鮮の地理書である『新撰八道地理志』などを出版させて政治姿勢を明確にした[2]。
また、次のような実学や技術が発展したとされている。
このほか、世宗代に編纂された書籍として、医学書『医方類聚』などがある。
晩年は病気がちとなり、それまで抑圧していた仏教にすがるようになった。1450年、53歳で薨去した。先に没していた昭憲王后とともに、太宗の陵墓である献陵(現在のソウル特別市瑞草区)に合葬された。1469年、昭憲王后とともに京畿道驪州郡の英陵(通称・世宗大王陵)に移葬されている。
文字の読めなかった国民を哀れんで、ハングル(訓民正音)の創製を行ったことで知られている。死後も韓国国内で一般的に讃えられている。儒教の理想とする王道政治を展開したとして、朝鮮王朝における最高の聖君と評価されている。韓国では子供から老人まで幅広い層に尊敬されている国民的英雄である。後年「海東の堯舜」(海東は朝鮮の別名)と称された[2]。このため廟号は世宗であるが、朝鮮史では李氏朝鮮の歴代国王の中で聖君(最高の名君)と尊敬されている意味で世宗大王(세종대왕、セジョンデワン、せそうだいおう)とも言われる。