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南洲翁遺訓 - Wikipedia

みなみしまおう遺訓いくん

西郷さいごう隆盛たかもり遺訓いくんしゅう

みなみしまおう遺訓いくん』(なんしゅうおういくん)は西郷さいごう隆盛たかもり遺訓いくんしゅうである。遺訓いくんは41じょう追加ついかの2じょう、その問答もんどう補遺ほいから[1]。「西郷さいごうみなみしまおう遺訓いくん」、「西郷さいごうみなみしゅう遺訓いくん」、「だい西郷さいごう遺訓いくん」などともばれる。

みなみしまおう遺訓いくん
(なんしゅうおういくん)
著者ちょしゃ 西郷さいごう隆盛たかもり
訳者やくしゃ 三矢みつや藤太郎ふじたろう編輯へんしゅうけん発行はっこうじん
発行はっこう 1890ねん明治めいじ23ねん1がつ18にち
発行はっこうもと しげるえいしゃ角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん新学社しんがくしゃPHP研究所けんきゅうじょ岩波書店いわなみしょてんほか
ジャンル 思想しそう
くに 日本の旗 日本にっぽん
公式こうしきサイト www.keiten-aijin.com/ikun.html
コード ISBN 978-4-569-70417-3
ISBN 978-4-04-407201-8
ISBN 4-7868-0061-9
ISBN 4-569-66582-9
ISBN 4-00-331011-X
ISBN 4-00-007265-X
ISBN 978-4-404-03907-1
ISBN 978-4-88474-941-5
ISBN 978-4-89619-499-9 ほか
ウィキポータル 思想しそう
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成立せいりつ

編集へんしゅう

みなみしまおう遺訓いくん』はきゅう出羽でわ庄内しょうないはん関係かんけいしゃ西郷さいごうからいたはなしをまとめたものである。

薩摩さつま藩邸はんてい事件じけん

編集へんしゅう

1867ねん慶応けいおう3ねん12月9にち王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいのちに、西郷さいごうえきまんきゅうすけ伊牟田いむたしょうたいら江戸えど派遣はけんし、しば三田みた薩摩さつまはんやしき浪人ろうにんあつめて、江戸えどちゅう治安ちあん攪乱かくらんさせた。庄内しょうないはんは、江戸えど警備けいび組織そしきしんちょうぐみあずかり、江戸えどちゅう警備けいび担当たんとうしていた。そのため、薩摩さつま藩邸はんてい浪人ろうにん庄内しょうない藩士はんし対立たいりつし、浪人ろうにん庄内しょうない藩邸はんてい発砲はっぽうする事件じけん発生はっせいした。そして、同年どうねん12月25にち庄内しょうないはん中心ちゅうしんとするきゅう幕府ばくふがわ薩摩さつま藩邸はんていちする事件じけん発展はってんした[2]

東北とうほく戦争せんそう

編集へんしゅう

1868ねん慶応けいおう4ねん5月15にち西郷さいごうひきいる薩摩さつまはんへい上野うえの戦争せんそうあきらたいやぶったが、会津あいづはん抗戦こうせんつづけ、東北とうほくしょはん奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいむすんだ。同年どうねん8がつ23にち東北とうほく戦争せんそう官軍かんぐんつるじょう攻撃こうげき開始かいしし、9月22にち会津あいづはん降伏ごうぶくした。一方いっぽう庄内しょうないはん官軍かんぐん撃退げきたいしたが、奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい崩壊ほうかいともな戦闘せんとうつづけられなくなり、9月26にち降伏ごうぶくした。

庄内しょうない藩士はんしは、降伏ごうぶくともない、薩摩さつま藩邸はんてい事件じけん東北とうほく戦争せんそうにおける戦闘せんとうとがめられてきびしい処分しょぶんくだされると予想よそうしていたが、予想よそうがい寛大かんだい処置しょちほどこされた。この寛大かんだい処置しょちは、西郷さいごう指示しじによるものであったことがつたわると、西郷さいごう名声めいせい庄内しょうないひろまった[3]

きゅう庄内しょうない藩士はんし鹿児島かごしま訪問ほうもん

編集へんしゅう

1870ねん明治めいじ3ねん)8がつきゅう庄内しょうない藩主はんしゅ酒井さかい忠篤ただあつ犬塚いぬづかもりたかし長沢ながさわおもんみ鹿児島かごしま派遣はけんし、きゅう薩摩さつま藩主はんしゅ島津しまつ忠義ただよし西郷さいごう書簡しょかんおくった。同年どうねん11月7にち酒井さかい忠篤ただあつきゅう藩士はんしなどからる78めいしたがえて、鹿児島かごしまはいった。また、出羽でわ松山まつやまはんの15にんも、忠篤ただあついちぎょうとはべつ鹿児島かごしまはいった。合計ごうけい93めいは4ヶ月かげつ滞在たいざいして、軍事ぐんじ教練きょうれんけた。

西郷さいごうは、1873ねん明治めいじ6ねん)のせいかん論争ろんそうやぶ下野げやし、同年どうねん11月10にち鹿児島かごしまかえった。きゅう庄内しょうない藩士はんし酒井さかいりょうつね伊藤いとうたかしつぎ栗田くりたもととともに鹿児島かごしまおとずれて、西郷さいごうからせいかんろんかんするはなしいた。また、赤沢あかざわけいげん三矢みつや藤太郎ふじたろう鹿児島かごしまおとずれて、西郷さいごうからはなしいている。1875ねん明治めいじ8ねん)5がつには、庄内しょうないからかんみのるしゅう石川いしかわしずただしとう8にん鹿児島かごしまおとずれた[4]

1889ねん明治めいじ22ねん2がつ11にち大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう公布こうふされると、西南せいなん戦争せんそう剥奪はくだつされた官位かんい西郷さいごうもどされ名誉めいよ回復かいふくされた。この機会きかいに、上野公園うえのこうえん西郷さいごう銅像どうぞうてられることになり、酒井さかい忠篤ただあつ発起人ほっきにん1人ひとりとなった。かんみのるしゅう赤沢あかざわけいごと三矢みつや藤太郎ふじたろうめいじて、西郷さいごう生前せいぜん言葉ことばおしえをあつめて遺訓いくん発行はっこうすることになった[4]

三矢みつやほん

編集へんしゅう

1890ねん明治めいじ23ねん1がつ18にちに、山形やまがたけん三矢みつや藤太郎ふじたろう編輯へんしゅうけん発行はっこうじんとし、東京とうきょう小林こばやししん太郎たろう印刷いんさつじんとし、しげるえいしゃ印刷いんさつされたほんである。『みなみしまおう遺訓いくん』とだいして、やく1000発行はっこうされた[5]

かた淵本ふちもと

編集へんしゅう

1896ねん明治めいじ29ねん)に佐賀さが片淵かたふちみがく東京とうきょうで『西郷さいごうみなみしゅう先生せんせい遺訓いくん』とだいして発行はっこうしたほんである[6]

内容ないよう

編集へんしゅう

大阪大学おおさかだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ猪飼いかい隆明たかあきみなみしまおう遺訓いくんつぎのようなむっつのグループに分類ぶんるいしている[7]

みなみしまおう遺訓いくん』の構成こうせい
グループ とお番号ばんごう 内容ないよう
1 一条いちじょうななじょうじょう 為政者いせいしゃ基本きほんてき姿勢しせい人材じんざい登用とうよう
2 はちじょういちじょう 為政者いせいしゃがすすめる開化かいか政策せいさく
3 いちさんじょういちじょう くに財政ざいせい会計かいけい
4 いちろくじょういちはちじょう 外国がいこく交際こうさい
5 いちじょうきゅうじょう追加ついかじょう てんひととしてむべきみち
6 さんじょうよんいちじょう追加ついかいちじょう 聖賢せいけん大夫たいふあるいは君子くんし

※ただし、いちきゅうじょうはどこにも分類ぶんるいされていないので、だい5グループにれた。

以下いか原著げんちょ[8]より原文げんぶん引用いんようする。先頭せんとう数字すうじとお番号ばんごうである。原文げんぶん現代げんだいやくおよび解説かいせつ参考さんこう文献ぶんけん参照さんしょう

為政者いせいしゃ基本きほんてき姿勢しせい人材じんざい登用とうよう

編集へんしゅう
いち
廟堂びょうどうびようどうちて大政たいせいたいせいすは天道てんとうくだりふものなれば、ちつともわたしはさみはさみてはまぬもの也。いかにもしん公平こうへいみさおり、正道せいどうみ、ひろ賢人けんじん選挙せんきょし、のうしょくにんふるひとげてせいがららしむるは、すなわ天意てんい也。おっとゆえしん賢人けんじんみとめ以上いじょうは、じかしょくゆずほどならではかのうかなはぬものぞ。ゆえ何程なにほど国家こっかくんろうるとも、しょくにんへぬひと官職かんしょくもっしょうするはからぬことのだい一也かずやかんひとえらびてこれれをさづけ、こうものには俸禄をもっしょうし、これれをあいめでくものぞともうさるるにづけしからば『尚書しょうしょなかちゆうきこれこうに「とくさかんなるはかんを懋んにし、こう懋んなるはしょうを懋んにする」とこれり、とくかんあいはいし、こうしょうあいたいするは此のにてこうひしやと請問せいもんせしに、おう欣然きんぜんきんぜんとして、とおりぞともうされき。
賢人けんじん百官ひゃっかんそうべ、政権せいけん一途いっとかえし、いちかく国体こくたいじょうせいければ縦令たといたとい人材じんざい登用とうようし、げんひらき、しゅうせつようるるとも、取捨しゅしゃ方向ほうこうく、事業じぎょう雑駁ざっぱくざつぱくにして成功せいこうるべからず。さく日出にっしゅつでし命令めいれいの、今日きょうたちまえきふるとうんさまなるも、みな統轄とうかつするところいちならずして、施政しせい方針ほうしん一定いっていせざるのいたところ也。
さん
せい大体だいたいは、ぶんおこし、たけひ、のうはげますのみっつにり。百般ひゃっぱん事務じむみな此のみっつのものすけたすくるの也。此のみっつのものなかおいて、ときしたがえぜいり、施行しこう先後せんご順序じゅんじょれど、此のみっつのもののちにしてさきにするはさらし。
よん
万民ばんみんうえくらいするものおのれつつしみ、品行ひんこうただしくし驕奢きょうしゃきようしやいましめ、節倹せっけんつとめ、しょくごと勤労きんろうして人民じんみん標準ひょうじゅんとなり、したみん勤労きんろうどくおもようならでは、政令せいれいこうはれがたし。しかるに草創そうそうそうそうはじめはじめちながら、家屋かおくかざり、衣服いふくぶんかざり、わらわびしようだきへ、蓄財ちくざいはかりなば、維新いしん功業こうぎょうげられあいだじきまじき也。いまとなりては、つちのえたつ義戦ぎせんへんひとへにわたしいとなみたる姿すがたき、天下てんかたい戦死せんししゃたいして面目めんぼくきぞとて、しきしきりになみだもよおされける。
あるときいくれき辛酸しんさんこころざしはじめけん丈夫じょうぶ玉砕ぎょくさい愧甎ぜん。一家遺事人知否。不為ふためまごかい美田びでん。」とのななぜっしめされて、し此のげんたがえひなば、西郷さいごう言行げんこうはんしたりとて見限みかぎられよともうされける。
ろく
人材じんざい採用さいようするに、君子くんし小人こどもべんこくぐるは却てがいおこすもの也。ゆえは、開闢かいびゃく以来いらい世上せじょう一般いっぱんじゅうななはち小人こどもなれば、のう小人こどもじょうさっし、長所ちょうしょこれれを小職しょうしょくもちいゐ、ざいげいつくさしむる也。東湖とうこ先生せんせいもうされしは「小人こどもほど才芸さいげいりて用便ようべんなれば、ようゐざればならぬもの也。りとて長官ちょうかん重職じゅうしょくを授くれば、かなら邦家ほうかくつがえすものゆゑ、けっしてうえにはてられぬものぞ」と也。
なな
事大じだいしょうく、正道せいどう至誠しせいし、一時いちじいつわりはかりごともちいからず。ひとおおくはことゆびささえさしつかふるときのぞみ、さくりゃくもちい一旦いったんゆびささえとおせば、あと時宜じぎ次第しだい工夫くふう出来できようおもへども、さくりゃくはん屹度きつとしょうじ、ことかならはいるるものぞ。正道せいどうもっこれれをくだりへば、目前もくぜんには迂遠うえんなるようなれども、さききにけば成功せいこうはやきもの也。
何程なにほど制度せいど方法ほうほうろんずるとも、ひとざればくだりはれがたし。ひとりてこう方法ほうほうくだりはるるものなれば、ひとだいいちたからにして、おのれひとるの心懸こころが肝要かんようなり。

為政者いせいしゃがすすめる開化かいか政策せいさく

編集へんしゅう
はち
ひろ各国かっこく制度せいど開明かいめいすすまんとならば、さきくに本体ほんたいきょ風教ふうきょうり、しかしてのちじょしずかにかれ長所ちょうしょ斟酌しんしゃくするものぞ。いやしからずしてみだりにかれれに倣ひなば、国体こくたい衰頽すいたいし、風教ふうきょう萎靡いびいびしてただしすくいきようきゆうからず、ついかれせいを受くるにいたらんとす。
きゅう
忠孝ちゅうこう仁愛じんあい教化きょうかみち政事せいじ大本おおもとにして、万世ばんせいわた宇宙うちゅうわたるわたえきからざるのよう道也みちやみち天地てんち自然しぜんものなれば、西洋せいようと雖もけっしてべつし。
いち
人智じんち開発かいはつするとは、愛国あいこく忠孝ちゅうこうしんひらくなり。くにつくきんむるのみちかならば、百般ひゃっぱん事業じぎょうしたがえ進歩しんぽし。あるあるい耳目じもく開発かいはつせんとて、電信でんしんけ、鉄道てつどうき、蒸気じょうき仕掛しかけの器械きかい造立ぞうりゅうし、ひと耳目じもく聳動しょうどうしようどうすれども、何故なぜ電信でんしん鉄道てつどうくてかのうはぬぞくべからざるものぞとうんしょそそがず、みだりに外国がいこく盛大せいだいうらやみ、利害りがい得失とくしつろんぜず、家屋かおく構造こうぞうより玩弄がんろうぶついたまでいちいち外国がいこくあおぎ、奢侈しゃしかぜながじ、財用ざいよう浪費ろうひせば、国力こくりょく疲弊ひへいし、人心じんしん浮薄ふはくながれ、結局けっきょく日本にっぽん身代しんだいかぎりのそとあいだじき也。
いちいち
文明ぶんめいとはみちひろしあまねぎょうはるるをさんたたえせるげんにして、宮室きゅうしつ荘厳しょうごん衣服いふく美麗びれい外観がいかん浮華ふかげんふにはず。世人せじんの唱ふるところなに文明ぶんめいやら、なに野蛮やばんやらともわからぬぞ。かつあるひとあるひと議論ぎろんせしことり、「西洋せいよう野蛮やばんじや」とうんひしかば、「いや文明ぶんめいぞ」とそうふ。「野蛮やばんぢや」とたたみかけしに、「なにとておっとほどもうすにや」とせしゆゑ、「じつ文明ぶんめいならば、未開みかいくにたいしなば、慈愛じあいほんとし、こんこん説諭せつゆして開明かいめいみちびきに、ひだりくして未開みかい蒙昧もうまいくにたいするほどむごく残忍ざんにんこといたおのれれをするは野蛮やばんぢや」ともうせしかば、人口じんこうつぼみつぼめてげんかりきとてわらいはれける。
いち
西洋せいよう刑法けいほうもっぱ懲戒ちょうかいしゅとして苛酷かこくいましめ、ひと善良ぜんりょうみちびくに注意ちゅういふかし。ゆえしゅう獄中ごくちゅう罪人ざいにんをも、如何いかにもなるるやかにしてかんまこととなる書籍しょせきあずかへ、ことりては親族しんぞく朋友ほうゆう面会めんかいをもゆるすとけり。もっと聖人せいじんけいもうけられしも、忠孝ちゅうこう仁愛じんあいしんより鰥寡かんか孤独こどくあわれみ、ひとつみおちいいるをうれきゅうひしはふかけれども、実地じっちしゅとどけきたるいま西洋せいようごとりしにや、書籍しょせきうえにはわたらず、じつ文明ぶんめいぢやとかんずる也。

くに財政ざいせい会計かいけい

編集へんしゅう
いちさん
租税そぜいうすくしてみんひろしゆたかにするは、すなわ国力こくりょく養成ようせいする也。ゆえ国家こっか多端たたんにして財用ざいようらざるをむとも、租税そぜいじょうせいかくもりし、うえそんじてしたしいたげしいたげぬもの也。のう古今ここん事跡じせきよ。みちかならざるにして、財用ざいよう不足ふそくは、かならきょくしょうとしきよくちしようけい俗吏ぞくりもちいたくみに聚斂しゆうれんして一時いちじ欠乏けつぼうきゅうするを、ざいちょうぜるりょうしんとなし、手段しゅだんもっ苛酷かこくみんしいたげたげるゆゑ、人民じんみん苦悩くのうね、聚斂を逃んと、自然しぜん譎詐狡猾こうかつきつさこうかつおもむき、上下じょうげかたみあざむき、官民かんみんてきてきしゆうり、ついぶんくずしはなれぶんぽうりせきいたるにあらずや。
いちよん
会計かいけい出納すいとう制度せいどゆかりよつところろ、百般ひゃっぱん事業じぎょうみなれよりしょうじ、経綸けいりんけいりんなか枢要すうようすうようなれば、つつしまずはならぬ也。大体だいたいもうさば、はいるをはかりてるをせいするのそとさら術数じゅっすうし。いちさいはいるをもっ百般ひゃっぱん制限せいげんさだめ、会計かいけい総理そうりするものもっせいまもり、じょうせいちょうすごせしむからず。いやしからずして時勢じせいせいせられ、制限せいげんみだりにし、るをはいるをはかりなば、みん膏血こうけつこうけつしぼるのそとあいだじきまじき也。しからば仮令たといたとい事業じぎょう一旦いったん進歩しんぽするごとゆるとも、国力こくりょく疲弊ひへいしてすみすくえからず。
いち
常備じょうびへいすうも、また会計かいけい制限せいげんる、けっして無限むげん虚勢きょせいからず。へい鼓舞こぶして精兵せいびょう仕立したてなば、へいすうすくなくとも、折衝せっしょう禦侮ぎよぶとも事欠ことかあいだじき也。

外国がいこく交際こうさい

編集へんしゅう
いちろく
節義せつぎ廉恥れんちれんちうしなひて、くに維持いじするのどうけっしてらず、西洋せいよう各国かっこく同然どうぜんなり。うえもののぞみてそうを忘るるときは、しもみなれにならひ、人心じんしんゆるがせたちまざいはしり、卑吝ひりんじょう日長ひながじ、節義せつぎ廉恥れんち志操しそうしそううしなひ、父子ふし兄弟きょうだいあいだぜにざいそうひ、あい讐視しゆうしするにいたる也。かくごとかば、なにもっ国家こっか維持いじきぞ。徳川とくがわ将士しょうしもうごころころせぎておさめしかども、いま昔時せきじ戦国せんごくもうもうしよりなお一層いっそうたけしたけごころおこさずば、万国ばんこく対峙たいじたいじあいだじき也。ひろしふつせんふつこくさんじゅうまんへいさんヶ月かげつ糧食りょうしょくりようしよくゆう降伏ごうぶくせしは、あま算盤そろばんそろばんせいくわしきなりとてわらいはれき。
いちなな
正道せいどうこくもったおるるの精神せいしんくば、外国がいこく交際こうさいちょんまつたかるからず。かれ強大きょうだい畏縮いしゅくし、円滑えんかつしゅとして、げてかれじゅんしたがえするときは、軽侮けいぶまねき、こうおやかえつやぶれ、ついかれせいを受るにいたらん。
いちはち
だん国事こくじおよびしとき慨然がいぜんがいぜんとしてもうされけるは、くに陵辱りょうじょくりようじよくせらるるにあたりては縦令たといたといくにもったおるるとも、正道せいどうみ、つくすは政府せいふ本務ほんむ也。しかるに平日へいじつきむこくきんこく理財りざいことするをけば、如何いかなる英雄えいゆう豪傑ごうけつかとゆれども、ことのぞめば、あたまいちしょあつめ、ただ目前もくぜん苟安こうあんはかりごとはかるのみ、せんいちおそれ、政府せいふ本務ほんむおとしなば、商法しょうほう支配しはいしょもうすものにてさら政府せいふにはざる也。

てんひととしてむべきみち

編集へんしゅう
いちきゅう
いにしえより君臣くんしんどもおのれれをれりとするに、こうちこうのぼりたるはあらず。自分じぶんれりとせざるより、下下しもじもげんもききいるるもの也。おのれれをれりとすれば、ひとおのれれのげんへばゆるがせたちまおこるゆゑ、賢人けんじん君子くんしこれたすけぬなり。
いち
みち天地てんち自然しぜんみちなるゆゑ、こうがくみち敬天けいてん愛人あいじん目的もくてきとし、しゅうするに克己こっきこつきもっ終始しゅうしせよ。おのれれにかつつのごくいさおきよくごうは「毋意毋必毋固毋我いなしひつなしこなしがなし」とうんへり。そうじてひとおのれれにつをもっり、みずかあいするをもっはいるるぞ。のう古今ここん人物じんぶつよ。事業じぎょうそうおこするにんこと大抵たいていじゅうななはちまでのうれども、のこふたつをおわまでひとまれれなるは、はじめのうおのれれをつつしごとをもけいするゆえこうめいあらわあらはるるなり。こうめいあらわはるるにしたがえひ、いつしかみずかあいするしんおこり、恐懼きょうくきようく戒慎かいしんたゆゆるみ、おごきようきようややようやちょうじ、たる事業じぎょうまけたのみ、いやしくことつかまつとげとげんとてまづき仕事しごとおちいいり、おわりついはいるるものにて、みなみずかまねく也。ゆえおのれれにちて、かざるところ戒慎かいしんするもの也。
おのれつに、事事物物じじぶつぶつのぞみてようにてはられぬなり。けんかね気象きしょうきしようもっれよと也。
二三にさん
がくこころざもの規模きぼ宏大こうだいにせずばあるからず。りとてただここにのみ偏倚へんいへんいすれば、あるいしゅうするにうとおろそかくゆゑ、終始しゅうしおのれれにちてしゅうする也。規模きぼ宏大こうだいにしておのれれにち、男子だんしひとれ、ひとれられてはまぬものとおもへよと、古語こごしょさづけらる。

恢宏其志しゃひと患。莫大ばくだい乎自わたししわやす卑俗ひぞく。而不以古じん

古人こじんするの請問せいもんせしに、たかししゅんもっ手本てほんとし、あな夫子ふうし教師きょうしとせよとぞ。
よん
みち天地てんち自然しぜんものにして、ひとこれれをくだりふものなれば、てんけいするを目的もくてきとす。てんひと同一どういつあいきゅうふゆゑ、あいするしんもっひとあいする也。
ひと相手あいてにせず、てん相手あいてにせよ。てん相手あいてにして、おのれれをつきひととがめず、まことらざるをひろし。
ろく
おのれれをあいするはからぬことのだい一也かずや修業しゅうぎょう出来できぬも、ことらぬも、あらたむることの出来できぬも、こうほこおごきようまんしょうずるも、みなみずかあいするがためなれば、けっしておのれれをあいせぬもの也。
なな
あやまちをあらたむるに、みずかあやまつたとさへおもづけかば、おっとれにてし、ことをばかえりみず、じかいちし。くやしくおもひ、つくろえはんとて心配しんぱいするは、たとへば茶碗ちゃわんり、けをあつあわるもどうにて、かいもなきこと也。
はち
みちくだりふには尊卑そんぴ賤の差別さべつし。んでげんへば、たかししゅん天下てんかおうとしてまん政事せいじきゅうへども、しょくとするところ教師きょうし也。あな夫子ふうし魯国はじめ、何方どなたへももちいゐられず、屡々しばしばこまやくに逢ひ、匹夫ひっぷにておわりきゅうひしかども、さんせんみなみちくだりひし也。
きゅう
みちくだりしゃは、もとよりこまやくこんやくに逢ふものなれば、如何いかなる艱難かんなんつとも、こと成否せいひ死生しせいなどに、すこしも関係かんけいせぬもの也。ことには上手じょうず下手へたり、ものには出来できひと出来できざるひとるより、自然しぜんしんどうじんれども、ひとみちくだりふものゆゑ、みちむには上手じょうず下手へたく、出来できざるひとし。ゆえ只管ひたすらひたすどうくだりどうたのしみ、艱難かんなんに逢ふてこれれをしのがんとならば、わたるわたるいよいよみちくだりどうたのしし。壮年そうねんより艱難かんなんうん艱難かんなんかかりしゆゑ、いまはどんなこと出会であいふとも、動揺どうよういたすまじ、おっとれだけは仕合しあわせ也。
追加ついか
漢学かんがくなりせるものは、わたる漢籍かんせきに就てみちまなぶべし。みち天地てんち自然しぜんもの東西とうざいべつなし、いやしく当時とうじ万国ばんこく対峙たいじ形勢けいせいらんとほっせば、春秋しゅんじゅうひだりでん熟読じゅくどくし、たすくるに孫子まごこもってすべし。当時とうじ形勢けいせいほぼ大差たいさなかるべし。

聖賢せいけん大夫たいふあるいは君子くんし

編集へんしゅう
さん
いのちちもいらず、もいらず、官位かんいかねもいらぬひとは、つかまつ抹にこまるもの也。此のつかまつ抹にこまひとならでは、艱難かんなんともにして国家こっか大業おおわざられぬなり。れども、个様かようひとは、凡俗ぼんぞくにはられぬぞともうさるるにき、孟子もうしに、「天下てんかこうきょり、天下てんかせいち、天下てんか大道だいどうくだりふ、こころざしればみんこれれにり、こころざしざればひとみちくだりふ、富貴ふうきいんすることのうはず、ひん賤もうつすことのうはず、威武いぶくっすることのうはず」とうんひしは、いまおおせられしごときの人物じんぶつにやととえひしかば、いかにもとおり、みちちたるひとならではかれ気象きしょうぬ也。
さんいち
みちくだりしゃは、天下てんかきょそしるもらざるとせず、天下てんかきょほまれるもれりとせざるは、みずかしんずるのあつきが也。工夫くふうは、かんぶんこうはくえびすの頌を熟読じゅくどくして会得えとくせよ。
さん
みちこころざものは、偉業いぎょうたっとばぬもの也。司馬しばあつしおおやけねやちゅうけいちゆうにてかたりしげんも、ひとたいしてげんふべからざることしともうされたり。どくつつしむのがくおしし。ひと意表いひょう一時いちじ快適かいてきこのむは、未熟みじゅくことなり、戒むし。
さんさん
平日へいじつみちを蹈まざるひとは、ことのぞみて狼狽ろうばいし、処分しょぶん出来できぬもの也。たとへば近隣きんりん出火しゅっからんに、平生ひらお処分しょぶんもの動揺どうようせずして、つかまつ抺ものう出来できるなり。平日へいじつ処分しょぶんしゃは、ただ狼狽ろうばいして、なかなかつかまつ抺どころにはこれきぞ。おっとれもおなじにて、平生ひらおみちを蹈みものれば、ことのぞみてさく出来できぬもの也。先年せんねん出陣しゅつじん兵士へいしこうひ、が備へのせい不整ふせいを、ただ味方みかたもっず、てきしんりてひとつ衝てよ、おっとれはだいいちの備ぞともうせしとぞ。
さんよん
さくりゃく平日へいじついたさぬものぞ。さくりゃくもってやりたることは、あとればからざること判然はんぜんにして、かならる也。ただせんのぞみてさくりゃくくばあるべからず。併し平日へいじつさくりゃくもちいれば、せんのぞみてさくりゃく出来できぬものぞ。孔明こうめい平日へいじつさくりゃくいたさぬゆゑ、あのとお奇計きけいくだりはれたるぞ。かつ東京とうきょうきしときおとうとこうひ、是迄これまですこしもさくりゃくをやりたることらぬゆゑ、あといささにごるまじ、おっとたけけはれともうせしとぞ。
三五さんご
ひと籠絡ろうらくしてかげことたばかものは、このまことるとも、慧眼けいがんよりこれれをれば、醜状しゅうじょうちょるしきぞ。ひとすに公平こうへい至誠しせいもってせよ。公平こうへいならざれば英雄えいゆうしんけっして攬られぬもの也。
さんろく
聖賢せいけんらんとほっするこころざしく、古人こじん事跡じせきとてくわだておよばぬとうんさまなるしんならば、せんのぞみて逃るよりなお卑怯ひきょうなり。朱子しゅし白刃はくじんて逃るものはどうもならぬとうんはれたり。誠意せいいもっ聖賢せいけんしょみ、処分しょぶんせられたるしんたいしんけんする修業しゅうぎょういたさず、ただ个様かようげん个様のことうんふのみをりたるとも、なん詮無せんなきもの也。今日きょうじんろんくに、何程なにほどもっともにろんずるとも、処分しょぶんこころわたらず、ただ口舌こうぜつうえのみならば、すこしもかんずるしんし。しん処分しょぶんひとれば、じつかんる也。聖賢せいけんしょむなしむのみならば、たとへばひと剣術けんじゅつ傍観ぼうかんするもおなじにて、すこしも自分じぶん得心とくしん出来できず。自分じぶん得心とくしん出来できずば、まんいちあいへともうされしとき逃るよりがいあいだじき也。
さんなな
天下てんか後世こうせいまで信仰しんこう悦服えっぷくせらるるものは、ただこれいち箇の真誠しんせい也。いにしえへよりちちかたきちしひとうららきょかずかたなかに、ひと曽我そが兄弟きょうだいのみ、いまいたりて児童じどう婦女子ふじょしまでらざるものらざるは、しゅうひいでて、まことあつ也。まことならずしてほまれらるるは、僥倖ぎょうこうほまれ也。まことあつければ、縦令たとい当時とうじひとくとも、後世こうせいかなら知己ちきるもの也。
さんはち
世人せじんの唱ふる機会きかいとは、おおくは僥倖ぎょうこうつかまつてたるをげんふ。しん機会きかいは、つくしてくだりひ、いきおいつまびらかにしてうごくとうんふにり。平日へいじつこく天下でんかうれふる誠心せいしんあつからずして、ただのはづみにじょうじてたる事業じぎょうは、けっして永続えいぞくせぬものぞ。
さんきゅう
いまひと才識さいしきれば事業じぎょうこころ次第しだいさるるものとおもへども、ざいまかせてことは、くしてられぬものぞ。からだりてこそもちいこうはるるなり。肥後ひご長岡ながおか先生せんせいごと君子くんしは、いまたるにんをもることならぬようになりたりとて嘆息たんそくなされ、古語こごしょさづけらる。

おっと天下でんかまこと不動ふどう非才ひさい不治ふち誠之せいしいたりしゃ。其動也速。ざいしゅうしゃ。其治也広。ざいあずかまことあいしか後事こうじなり

よん
おうしたがえいぬうさぎついひ、山谷さんや跋渉ばっしょうして終日しゅうじつりょうくらし、いち投宿とうしゅくし、よくおわりてこころしんいと爽快そうかいえさせきゅうひ、悠然ゆうぜんとしてもうされけるは、君子くんししんつねに斯のごとくにこそらんとおもふなりと。
よんいち
しゅうおのれれをただして、君子くんしからだふるとも、処分しょぶん出来できひとならば、木偶でくじん同然どうぜんなり。たとへばすうじゅうにんきゃく不意ふいはいんに、仮令たとい何程なにほど饗応きょうおうしたくおもふとも、かね器具きぐ調度ちょうどの備ければ、ただ心配しんぱいするのみにて、まかないさま有間あんまじきぞ。つねに備あれば、いくにんなりとも、かずおうじてまかないはるる也。おっと平日へいじつ用意ようい肝腎かんじんぞとて、古語こごしょたまわりき。

ぶん鉛槧えんざん也。必有しょごとざいたけけんだて也。必有りょうてきさとし才智さいち所在しょざいいち焉而

追加ついかいち
ことあた思慮しりょとぼしきをうれふること勿れ。およ思慮しりょ平生へいぜい黙坐もくざ靜思せいしさいおいてすべし。有事ゆうじときいたり、じゅうはちきゅう履行りこうせらるるものなり。ことあた卒爾そつじ思慮しりょすることは、たとへば臥床がしょう夢寐むびむびなか奇策きさく妙案みょうあんるがごときも、明朝みんちょう起床きしょうときいたれば、無用むよう妄想もうそうるいすることおおし。

書誌しょし情報じょうほう

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はつ版本はんぽん

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山形やまがたけん致道博物館はくぶつかんさん谷本たにもとはつ版本はんぽん所蔵しょぞうしている[9]三谷みたにほんはつ版本はんぽんには、巻頭かんとう副島そえじま種臣たねおみしるした序文じょぶん[10]と、赤沢あかざわけいげん起草きそうかんみのるしゅう検討けんとうして作成さくせいした序文じょぶん跋文ばつぶん掲載けいさいされている[11]

近代きんだいデジタルライブラリー所蔵しょぞう書籍しょせき

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  • 西郷さいごう隆盛たかもり ちょ楢崎ならさきたかしそん へんみなみしゅう遺稿いこう北尾きたお三郎さぶろう大阪おおさか、1877ねん12月。NDLJP:894346  - 西郷さいごう漢詩かんし収録しゅうろく
  • 西郷さいごう隆盛たかもり ちょ土居どい十郎じゅうろう へんみなみしまおう遺訓いくん阪本さかもと武雄たけお広島ひろしま、1891ねん4がつNDLJP:781425 
  • みなみしまおう遺訓いくん安江やすえ国太郎くにたろう島根しまねけん大森おおもりむら、1893ねん10がつNDLJP:781424 
  • 片淵かたふちみがく へん西郷さいごうみなみしゅう遺訓いくん木内きうち天民てんみん しょけん学会がっかい東京とうきょう、1896ねん2がつNDLJP:781415 
  • 西郷さいごう隆盛たかもり (みなみしゅう) 手抄しゅしょう臼田うすだ石楠せきなん じゅつげんこころざしろく講話こうわ 附録ふろく 西郷さいごうみなみしまおう遺訓いくん東亜とうあどう東京とうきょう、1910ねん8がつNDLJP:756229/123 
  • 中根なかね卓弥たくや へん『ポケットみなみしまおう遺訓いくん中根なかね卓弥たくや東京とうきょう、1910ねん11月。NDLJP:757972 
  • 西郷さいごう隆盛たかもり ちょ珍書ちんしょ頒布はんぷかい へんあずかひとやくあいだきり横目よこめやく大体だいたい みなみしまおう遺訓いくん珍書ちんしょ頒布はんぷかい鹿児島かごしま、1916ねん9がつNDLJP:1183086 
  • 浜田はまだ正夫まさお へん西郷さいごうみなみしゅう先生せんせい遺訓いくん浜田はまだ正夫まさお大阪おおさか、1926ねん9がつ22にちNDLJP:925300 
  • 西郷さいごうみなみしまおう遺訓いくん遺文いぶん西郷さいごうみなみしゅう先生せんせいじゅうねん記念きねんかい長崎ながさき、1926ねん9がつ24にちNDLJP:921183 

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 遺訓いくん43じょうとその問答もんどう補遺ほいとは、収録しゅうろくされた経緯けいいことなる。三矢みつやほん問答もんどう補遺ほい収録しゅうろくしているが、片淵かたふちほん収録しゅうろくである。そのため、問答もんどう補遺ほい遺訓いくんふくめないことがある。山田やまだ(1939)、105-106ぺーじ参照さんしょう
  2. ^ 猪飼いかい(2007)、173-175ぺーじ
  3. ^ 猪飼いかい(2007)、177-179ぺーじ
  4. ^ a b 猪飼いかい(2007)、179-187ぺーじ
  5. ^ 猪飼いかい(2007)、171ぺーじ
  6. ^ 山田やまだ(1939)、105ぺーじ
  7. ^ 猪飼いかい(2007)、202-203ぺーじ
  8. ^ 猪飼いかい(2007)
  9. ^ 猪飼いかい(2007)、185ぺーじ
  10. ^ 猪飼いかい(2007)、171-172ぺーじ
  11. ^ 猪飼いかい(2007)、187-196ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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