角屋 かくや (山本 やまもと 忠司 ただし &宮島 みやじま 達男 たつお )1998年 ねん
1997年 ねん 、直島 なおしま でも古 ふる くから存在 そんざい する集落 しゅうらく のひとつである本村 もとむら 地区 ちく に現存 げんそん していた古 こ 民家 みんか を改修 かいしゅう ・改造 かいぞう し、現代 げんだい 美術 びじゅつ 作品 さくひん に変 か えてしまおうという試 こころ みで、ベネッセ の福武 ふくたけ 總一郎 そういちろう の考案 こうあん した直島 なおしま プロジェクトの一環 いっかん として企画 きかく 、立案 りつあん 、実行 じっこう された。本村 もとむら 地区 ちく にはおよそ300年 ねん ほど前 まえ から栄 さか えていた古 ふる い町並 まちな みが残 のこ り、焼杉 やけすぎ 板張 いたば りの黒 くろ ずんだ古 こ 民家 みんか の立 た ち並 なら ぶたたずまいが独自 どくじ の風情 ふぜい をかもし出 だ していた。そこに現代 げんだい 美術 びじゅつ のネットワークを展開 てんかい させたものである。プロジェクトには安藤 あんどう 忠雄 ただお をはじめ、宮島 みやじま 達男 たつお 、内藤 ないとう 礼 あや 、杉本 すぎもと 博司 ひろし 、ジェームズ・タレル などが参加 さんか した。
1986年 ねん 、福武書店 ふくたけしょてん 社長 しゃちょう であった父 ちち の急逝 きゅうせい に遭遇 そうぐう した總一郎 そういちろう は、東京 とうきょう から岡山 おかやま の本社 ほんしゃ へ戻 もど ることになる。大都市 だいとし から地方 ちほう 都市 とし 岡山 おかやま へ戻 もど った總一郎 そういちろう は、当初 とうしょ こそその環境 かんきょう の大 おお きな落差 らくさ に戸惑 とまど うが、数 すう か月 げつ もしないうちに東京 とうきょう にいないことの幸 しあわ せを心底 しんそこ から感 かん じるにいたる。總一郎 そういちろう の目 め には、歴史 れきし もなく自然 しぜん も存在 そんざい しない東京 とうきょう は「人間 にんげん 」の欠 か けた都市 とし と映 うつ り始 はじ めた。岡山 おかやま への帰郷 ききょう は、その数 すう 年 ねん 後 ご に社名 しゃめい を「ベネッセ」(「よく生 い きる」の意味 いみ )に変更 へんこう するほどに、總一郎 そういちろう に大 おお きな影響 えいきょう をもたらせた。
南寺 みなみてら (安藤 あんどう 忠雄 ただお &ジェームズ・タレル )1999年 ねん
そうした中 なか で總一郎 そういちろう が手 て がけたプロジェクトのひとつが、直島 なおしま であった。先代 せんだい が抱 だ いていた夢 ゆめ のひとつに、瀬戸内海 せとないかい に浮 う かぶ小 ちい さな島 しま 「直島 なおしま 」に子供 こども たちのためのキャンプ場 じょう を作 つく りたい、という構想 こうそう があった。遺志 いし を引 ひ き継 つ いだ總一郎 そういちろう は、建築 けんちく 家 か ・安藤 あんどう 忠雄 ただお に出会 であ う。東京 とうきょう の建築 けんちく 家 か には最初 さいしょ から依頼 いらい する意思 いし はなかった。初対面 しょたいめん の居酒屋 いざかや で意気投合 いきとうごう した2人 ふたり は、1989年 ねん 、直島 なおしま 国際 こくさい キャンプ場 じょう をオープンさせる。第 だい 2期 き 工事 こうじ の開始 かいし のころには、總一郎 そういちろう の構想 こうそう はまとまっていく。それが「現代 げんだい 美術 びじゅつ と自然 しぜん と歴史 れきし 」の融合 ゆうごう であった。1992年 ねん にはスイートルームを完備 かんび したホテルと美術館 びじゅつかん を融合 ゆうごう させたベネッセハウス のミュージアムが完成 かんせい する。これは世界 せかい でも例 れい を見 み ない珍 めずら しい試 こころ みであったが、過疎 かそ の島 しま に現代 げんだい 美術 びじゅつ を置 お くのも世界 せかい 初 はつ の出来事 できごと であった。
アート が主張 しゅちょう するのではなく、あくまでも人間 にんげん が主役 しゅやく であり、アートが自然 しぜん や歴史 れきし の持 も っている良 よ さを引 ひ き出 だ すべきとの總一郎 そういちろう のテーゼは、やがて1997年 ねん のこの「家 いえ プロジェクト」に結実 けつじつ する。長 なが い歴史 れきし があるにもかかわらず、歴史 れきし の痕跡 こんせき の薄 うす く、経済 けいざい が目的 もくてき 化 か している日本 にっぽん の文明 ぶんめい 史観 しかん に挑戦 ちょうせん したいとの總一郎 そういちろう の思 おも いから始 はじ まった企画 きかく である。直接 ちょくせつ のきっかけは直島 なおしま 町 まち 役場 やくば からの1本 ほん の電話 でんわ である。本島 ほんとう 地区 ちく の民家 みんか の所有 しょゆう 者 しゃ が家屋 かおく を譲 ゆず りたいが、どうかというものであったが、廃屋 はいおく 利用 りよう の可能 かのう 性 せい のひとつとして現代 げんだい アートとの融合 ゆうごう を考 かんが えた。
2004年 ねん にはクロード・モネ 、ウォルター・デ・マリア 、ジェームズ・タレル の3名 めい の作品 さくひん を収 おさ めた地中 ちちゅう 美術館 びじゅつかん が建設 けんせつ される。
2010年 ねん 、犬島 いぬじま の集落 しゅうらく に「日常 にちじょう の中 なか の美 うつく しい風景 ふうけい や作品 さくひん の向 む こうに広 ひろ がる身近 みぢか な自然 しぜん を感 かん じられるように」とのコンセプトの元 もと 、企画 きかく 展示 てんじ のギャラリーが開館 かいかん 。F邸 てい 」「S邸 てい 」「I邸 てい 」「A邸 てい 」「C邸 てい 」の5つのギャラリーと「石 いし 職人 しょくにん の家 いえ 跡 あと 」に、複数 ふくすう のアーティストの作品 さくひん が展示 てんじ 公開 こうかい されている。アーティスティックディレクターに長谷川 はせがわ 祐子 ゆうこ 、建築 けんちく 家 か に妹島 いもうとじま 和世 かずよ が抜擢 ばってき された。長谷川 はせがわ は、犬島 いぬじま の風景 ふうけい を見 み ながら島 しま の各所 かくしょ に点在 てんざい する作品 さくひん を巡 めぐ る体験 たいけん を「桃源郷 とうげんきょう 」をテーマにした一連 いちれん の物語 ものがたり になぞらえており、ギャラリーは、かつて建 た っていた民家 みんか の瓦 かわら 屋根 やね や古 こ 材 ざい に加 くわ え、現代 げんだい 的 てき な素材 そざい である透明 とうめい なアクリル を初 はじ め、周囲 しゅうい の風景 ふうけい を映 うつ すアルミニウム など多種 たしゅ 多様 たよう な素材 そざい が使 つか われている[2] 。
直島 なおしま 家 か プロジェクトは、以下 いか の7軒 けん の建築 けんちく およびそれを利用 りよう したインスタレーション 作品 さくひん 群 ぐん により構成 こうせい される。
護 まもる 王 おう 神社 じんじゃ (直島 なおしま )
石橋 いしばし (直島 なおしま ) (千住 せんじゅ 博 ひろし 、秋元 あきもと 雄 つよし 史 し )2006年 ねん 、2009年 ねん
碁 ご 会 かい 所 しょ (直島 なおしま )
はいしゃ 正面 しょうめん (大竹 おおたけ 伸 しん 朗 ろう )2006年 ねん
家 いえ プロジェクトの第 だい 1弾 だん 。200年 ねん ほど経過 けいか した家屋 かおく を、焼 しょう 板 いた 、漆喰 しっくい 、本瓦 ほんかわら を使用 しよう し復元 ふくげん 。山本 やまもと 忠司 ただし が建築 けんちく を担当 たんとう 。屋内 おくない には宮島 みやじま 達男 たつお の3つの作品 さくひん が置 お かれる。暗 くら い内部 ないぶ に張 は られた浅 あさ い池 いけ の底 そこ からカウンターで発行 はっこう するLED のさまざまな色 いろ の朧 おぼろ な光 ひかり が浮 う かび上 あ がる作品 さくひん 、「時 じ の海 うみ '98」(「Sea of Time '98」)- この作品 さくひん の制作 せいさく には町 まち の人々 ひとびと も参加 さんか している。土間 どま の壁 かべ には液晶 えきしょう ガラスに透明 とうめい な数字 すうじ がランダムに変化 へんか していく「ナオシマ・カウンター・ウィンドウ」(「Naoshima's Counter Window」1998年 ねん )が、さらに蔵 くら の奥 おく には山水 さんすい 画 が の上 うえ に彩色 さいしき を施 ほどこ したいおぽ作品 さくひん 「チェンジ・ランドスケープ」(「Changing Landscape」1999年 ねん )がある[3] 。
明治 めいじ 時代 じだい まで「南寺 みなみてら 」という寺院 じいん が実在 じつざい していた場所 ばしょ に安藤 あんどう 忠雄 ただお が設計 せっけい を担当 たんとう し、新 あら たに建 た てられた建物 たてもの 。内部 ないぶ のジェームズ・タレル の作品 さくひん のサイズにあわせ設計 せっけい されている[4] 。
展示 てんじ 作品 さくひん :ジェームズ・タレル
「バックサイド・オブ・ザ・ムーン」1999年 ねん
築 ちく 百 ひゃく 数 すう 10年 ねん の小 ちい さな家屋 かおく を屋根 やね 、柱 はしら などの構造 こうぞう 体 たい には手 て を加 くわ えずに、家屋 かおく それ自体 じたい 、外壁 がいへき も含 ふく め作品 さくひん 化 か したもの。内部 ないぶ には内藤 ないとう 礼 あや の作品 さくひん 「このことを」がある。内覧 ないらん は完全 かんぜん 予約 よやく 制 せい で、1名 めい ずつ内部 ないぶ に入 はい り鑑賞 かんしょう する。開館 かいかん 日 び は金曜日 きんようび 、土曜日 どようび 、日曜日 にちようび 、祝日 しゅくじつ のみである[5] 。
海 うみ を見下 みお ろす高台 たかだい にある江戸 えど 時代 じだい から祀 まつ られる神社 じんじゃ 。改築 かいちく の際 さい に、新 あら たな社殿 しゃでん を杉本 すぎもと 博司 ひろし が設計 せっけい 。本殿 ほんでん および拝殿 はいでん は、伊勢神宮 いせじんぐう などの神社 じんじゃ 建築 けんちく の初期 しょき 様式 ようしき を参考 さんこう にしているが、作家 さっか 独自 どくじ の美意識 びいしき が反映 はんえい されている。真 ま っ白 しろ な敷石 しきいし とガラスの階段 かいだん が特徴 とくちょう 的 てき 。本殿 ほんでん と石室 いしむろ とはガラスの階段 かいだん で結 むす ばれ、地下 ちか と地上 ちじょう とを一体化 いったいか している[6] 。
「アプロプリエイト・プロポーション」2002年 ねん
明治 めいじ 時代 じだい に製塩 せいえん 業 ごう で栄 さか えた石橋 いしばし 家 か 住宅 じゅうたく 。特 とく に新 あたら しく装 よそ われることはなく、家 いえ そのものの再建 さいけん に重点 じゅうてん がおかれている[7] 。
展示 てんじ 作品 さくひん :千住 せんじゅ 博 ひろし
「ザ・フォールズ」2006年 ねん
「空 そら の庭 にわ 」2009年 ねん
建築 けんちく ・空間 くうかん 設計 せっけい :千住 せんじゅ 博 ひろし 、秋元 あきもと 雄 つよし 史 し
この名称 めいしょう は、昔 むかし 、碁 ご を打 う つ場所 ばしょ として島民 とうみん が集 あつ まっていたことに由来 ゆらい する。須田 すだ 悦 えつ 弘 ひろし により、建物 たてもの 全体 ぜんたい を作品 さくひん 空間 くうかん として制作 せいさく ・復元 ふくげん され、建物 たてもの 内部 ないぶ には速水 はやみ 御舟 みふね の「名 めい 樹 き 散 ち 椿 つばき 」からヒントを得 え て創作 そうさく された作品 さくひん 「椿 つばき 」が展示 てんじ される。庭 にわ には実物 じつぶつ の五色 ごしき 椿 つばき が植 う えられる。2006年 ねん の作品 さくひん [8] 。
かつて実際 じっさい に歯科 しか 医院 いいん 兼 けん 住居 じゅうきょ であった建物 たてもの を、大竹 おおたけ 伸 しん 朗 ろう が作品 さくひん 化 か したもの。廃屋 はいおく 的 てき な風情 ふぜい を強調 きょうちょう した建物 たてもの 内部 ないぶ には、自由 じゆう の女神 めがみ のオマージュ 作品 さくひん などが置 お かれる。作品 さくひん 名 めい 「舌 した 上 じょう 夢 ゆめ / ボッコン覗」(2006年 ねん )。修復 しゅうふく 監修 かんしゅう は秋元 あきもと 雄 つよし 史 し [9] 。