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速水御舟 - Wikipedia

速水はやみ御舟みふね

1894-1935, 大正たいしょう昭和しょうわ初期しょき日本にっぽん画家がか

速水はやみ 御舟みふね(はやみ ぎょしゅう、1894ねん明治めいじ27ねん8がつ2にち - 1935ねん昭和しょうわ10ねん3がつ20日はつか)は、大正たいしょう昭和しょうわ初期しょき日本にっぽん画家がかである。本名ほんみょう蒔田まきた 栄一えいいち[1](まきた えいいち、のち母方ははかた速水はやみ改姓かいせい)。禾湖・浩然こうぜんのち御舟みふねごうす。オクイシェー・クーロンヌ勲章くんしょう赤十字せきじゅうじとう名誉めいよ勲章くんしょう受章じゅしょう今村いまむら紫紅しこう兄弟子あにでし

速水はやみ 御舟みふね
速水はやみ御舟みふね
本名ほんみょう 蒔田まきた 栄一えいいち
誕生たんじょう (1894-08-02) 1894ねん8がつ2にち
出生しゅっしょう 東京とうきょう東京とうきょう浅草あさくさ
死没しぼつねん (1935-03-20) 1935ねん3がつ20日はつか(40さいぼつ
死没しぼつ 東京とうきょう東京とうきょう渋谷しぶや
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
芸術げいじゅつ分野ぶんや 日本にっぽん
代表だいひょうさくほのおまい
めい椿つばき
活動かつどう期間きかん 1909ねん - 1935ねん
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ほのおまい』1924(大正たいしょう14)ねんやましゅ美術館びじゅつかん

1894ねん明治めいじ27ねん)8がつ2にち東京とうきょう東京とうきょう浅草あさくさまれる。従来じゅうらい日本にっぽんにはなかった徹底てっていした写実しゃじつ細密さいみつ描写びょうしゃからやがて代表だいひょうさくほのおまい』のような象徴しょうちょうてき装飾そうしょくてき表現ひょうげんへとすすんだ。ながくない生涯しょうがいおおくの名作めいさくのこし、『めい椿つばき』(めいじゅちりつばき)[2]昭和しょうわ美術びじゅつひんとして最初さいしょ重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた。1935ねん昭和しょうわ10ねん)3がつ20日はつかちょうチフスにより急逝きゅうせいした。40さいぼつ

生涯しょうがい

編集へんしゅう

1894ねん明治めいじ27ねん)、質屋しちやいとな蒔田まきたりょう三郎さぶろう・いとの次男じなんとして東京とうきょう東京とうきょう浅草あさくさ浅草あさくさかやまち丁目ちょうめ16番地ばんち現在げんざい東京とうきょう台東たいとう浅草橋あさくさばしいち丁目ちょうめ)にまれる。

1905ねん明治めいじ38ねん)、東京とうきょう市立しりつ育英いくえい尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう高等こうとう2ねんに1900ねん入学にゅうがくした私立しりつ篠塚しのづか尋常じんじょう小学校しょうがっこうから編入へんにゅう[1]少年しょうねんから興味きょうみち、1908ねん明治めいじ41ねん)に卒業そつぎょうすると、蒔田まきた近隣きんりん容斎ようさい画家がか松本まつもと楓湖ふうこ主宰しゅさいあんみやびどうじゅく入門にゅうもんした[1]じゅくはいった理由りゆうふね自宅じたくふすまえがいたぐんにわとりかえで執事しつじ神谷かみやこく感心かんしんし、画家がかにしたらどうかと入塾にゅうじゅくすすめたからである[3]そうもといにしえ大和絵やまとえ俵屋たわらや宗達そうたつ尾形おがた光琳こうりんなどの粉本ふんぽん模写もしゃする一方いっぽう同門どうもん仲間なかま団栗どんぐりかい結成けっせい近郊きんこう写生しゃせい散歩さんぽしてまわった。

1909ねん明治めいじ42ねん)1がつかえでから禾湖(かこ)のごうさずかる[1]楓湖ふうこ自称じしょう「なげやり教育きょういく」というユニークな教育きょういく方法ほうほうすうひゃくにんわれる門人もんじん輩出はいしゅつした卓越たくえつした教育きょういくしゃだったが、御舟みふねざいをいちはや見抜みぬき、門人もんじんうつさせる粉本ふんぽん御舟みふねには特別とくべついものをあたえるよう指示しじしていたという。同年どうねん同月どうげつ母方ははかた祖母そぼである速水はやみキクの養子ようしとなるが、ひきつづ蒔田まきたせい名乗なの[1]1910ねん明治めいじ43ねん)3がつたつみ画会がかいてんはじめての展覧てんらんかい出品しゅっぴんとなる『小春こはる』を、5月の烏合うごうかいてんには『楽人がくじん』を蒔田まきた禾湖出品しゅっぴん[1]

1911ねん明治めいじ44ねん)、たつみ画会がかいてんに『むろ寿ひさしうたげ』(むろほぎのえん)を出品しゅっぴんし、一等いっとう褒状ほうじょうみや内省ないせいげとなる[4]同年どうねん同門どうもん兄弟子あにでし今村いまむら紫紅しこうしたがべにかい入会にゅうかい。そのふね紫紅しこうから多大ただい影響えいきょうけた。

1912ねん明治めいじ45ねん)、ごうみずか浩然こうぜん(こうねん)とあらためる[4]

1913ねん大正たいしょう2ねん)、べにかい解散かいさんする。その再興さいこう日本にっぽん美術びじゅつ院展いんてん院展いんてん)に活躍かつやくうつす。前年ぜんねん文展ぶんてん落選らくせんさく加筆かひつしてたつみ画会がかいてん出品しゅっぴんした『萌芽ほうが』(東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんぞう)を、美術家びじゅつかのパトロン・コレクターとしてもられる実業じつぎょうはら富太郎とみたろう三渓さんけい)が購入こうにゅうした[5]。これを契機けいきとしてはらから援助えんじょけるようになり、はら以後いご御舟みふね最大さいだい後援こうえんしゃとなる[5]

1914ねん大正たいしょう3ねん)1がつごう御舟みふねあらため、このころから速水はやみせい名乗なの[4]同年どうねん今村いまむら紫紅しこう中心ちゅうしんとした美術びじゅつ団体だんたいあか曜会結成けっせい。その1916ねん大正たいしょう5ねん)に今村いまむら死去しきょするまで活動かつどうつづける。1917ねん大正たいしょう6ねん)9がつだい4かい院展いんてんに『洛外らくがいろくだい』を出品しゅっぴんし、横山よこやま大観たいかん下村しもむら観山かんざんらに激賞げきしょうされ、川端かわばた龍子りゅうことも日本にっぽん美術びじゅついん同人どうじん推挙すいきょされた[6]

1919ねん大正たいしょう8ねん)、浅草あさくさ駒形こまがた線路せんろ下駄げたはさまり市電しでんかれ左足ひだりあし切断せつだん災禍さいか見舞みまわれる[7]。しかしふねたいする熱意ねついにはまった影響えいきょうせず、その精力せいりょくてき活動かつどうつづけた。

1921ねん大正たいしょう10ねん)、年長ねんちょう友人ゆうじん援助えんじょしゃでもあった資産しさん芸術げいじゅつ愛好あいこうしゃ吉田よしだ幸三郎こうざぶろう[8]いもうと結婚けっこんする。このころ洋画ようが岸田きしだ劉生りゅうせい影響えいきょうけ、写実しゃじつてき様式ようしき静物せいぶつえがいた。陶磁器とうじき果物くだものなどを材質ざいしつかんそなえた迫真はくしん写実しゃじつえがいた作品さくひんは、従来じゅうらい日本にっぽんにはみられないものであった[9]

1925ねん大正たいしょう14ねんなつ軽井沢かるいざわ別荘べっそうりて一家いっか滞在たいざいちゅう代表だいひょうさくの1つである『ほのおまい』を完成かんせいさせる[10]

1929ねん昭和しょうわ4ねん)、だい16かい院展いんてんに『めい椿つばき』を出品しゅっぴん[11]よく1930ねん昭和しょうわ5ねん)1がつには、イタリア政府せいふ主催しゅさい大倉おおくら喜七郎きしちろう男爵だんしゃく後援こうえんのローマ日本にっぽん美術びじゅつ展覧てんらんかい美術びじゅつ使節しせつとして横山よこやま大観たいかん夫妻ふさい大智たいちかちかんらととも横浜よこはまこうよりふねわたりおうし、ヨーロッパ各地かくちおよびエジプトめぐり、10月に帰国きこく[12]。この展覧てんらんかいに『めい椿つばき』を出品しゅっぴんし、イタリア政府せいふよりオクイシェー・クーロンヌ勲章くんしょう受章じゅしょうした[12]わたりおうちゅうジョットエル・グレコせられた。1931ねん昭和しょうわ6ねん)には、ドイツベルリン日本にっぽん現代げんだい画展がてん開催かいさいされ、出品しゅっぴん作品さくひん好評こうひょうはくしたため、ベルリン国立こくりつ美術館びじゅつかん寄贈きぞうし、ドイツ政府せいふより赤十字せきじゅうじとう名誉めいよ勲章くんしょう受章じゅしょうした[13]

日本にっぽん帰国きこく日本にっぽんあたらしい表現ひょうげん方法ほうほう模索もさくつづけ、数々かずかず名作めいさく発表はっぴょうする。御舟みふね画業がぎょうは、初期しょきにはしん南画なんがわれた今村いまむら紫紅しこう影響えいきょうけ、琳派の装飾そうしょくてき画面がめん構成こうせい西洋せいよう写実しゃじつ技法ぎほうれつつも、1つの様式ようしきにとどまることなく、生涯しょうがいつうじて画風がふうえ、写実しゃじつ装飾そうしょくせい象徴しょうちょうせい加味かみした独自どくじ画境がきょうひらいた。そのためおおくの美術家びじゅつかから日本にっぽん将来しょうらいになとして嘱望しょくぼうされていた。1935ねん昭和しょうわ10ねん)2がつ発病はつびょうし、3月16にちちょうチフス判明はんめいして日本にっぽん赤十字せきじゅうじ病院びょういん入院にゅういん3がつ20日はつか急逝きゅうせいした[14]。40さいぼつ。3月26にち世田谷せたがや北烏山きたからすやまみょうだかてらほうむられ、1940ねん昭和しょうわ15ねん)には御舟みふねはか隣接りんせつして今村いまむら紫紅しこうはかうつされた[14]

ごう由来ゆらい

編集へんしゅう

御舟みふね」のごう由来ゆらいは、俵屋たわらや宗達そうたつの『源氏物語げんじものがたり澪標みおつくし関屋せきや屏風びょうぶ』(ろくきょく一双いっそう国宝こくほう)の見事みごとさに感心かんしんし、その屏風びょうぶえがかれた金銀きんぎんなみじょうかぶ「御舟みふね」(貴人きじんふね)からとったもの。また、はやみずふねぎょともとれる。

  • 1918ねん大正たいしょう7ねんごろ作品さくひんには、あお基調きちょうとした作品さくひんおおい。ふねはこのころ自分じぶんを「群青ぐんじょう中毒ちゅうどくにかかった」という言葉ことば表現ひょうげんしている。
  • 関東大震災かんとうだいしんさいではおおくの美術びじゅつひん犠牲ぎせいになったが、御舟みふね作品さくひん例外れいがいではない。横山よこやま大観たいかんらに激賞げきしょうされた『洛外らくがいろくだい』をはじめ、初期しょき傑作けっさくおおくが関東大震災かんとうだいしんさいによって遺失いしつした。
  • 御舟みふね早世そうせいおおくの美術家びじゅつかしまれ、横山よこやま大観たいかんは「速水はやみくんは、日本にっぽんためおおきな損失そんしつである」とべている。
  • ふね画商がしょうからかねまれても自分じぶんにモチベーションがないかぎり、えがかなかった。そんなふね画商がしょうは「ありいちひきでもいいからえがいてくれ」と必死ひっしたのみ、やむなくふねおおきなキャンバスにちいさいありえがいた。
  • 御舟みふね落款らっかん中国ちゅうごくきたそう皇帝こうてい徽宗やせきんからだならったとされる。北大路魯山人きたおおじろさんじんふねに「きみはうまいが下手へただ」とった[15]
  • 義弟ぎていいもうと輝子てるこおっと)は、陶磁器とうじき目利めききとしてられる北原きたはら大輔だいすけ(1889ねん − 1951ねん[7]

代表だいひょうさく

編集へんしゅう
 
きょう舞妓まいこ』1920(大正たいしょう9)ねん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん

ふねは40さいわかさでぼっしたことにくわえ、もともと寡作かさく作家さっかであった。さらに関東大震災かんとうだいしんさいおおくの作品さくひん焼失しょうしつしたこと、ふね自分じぶんらない画稿がこう下絵したえてたことなどにより、現存げんそん作品さくひんは600てんほどといわれる。うちやく120てんやましゅ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうする。どう美術館びじゅつかん御舟みふね作品さくひん大半たいはんは、きゅう安宅あたかコレクション由来ゆらいするものである[16]

きょう舞妓まいこ』(1920ねん大正たいしょう9ねん)、東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんくら
絹本けんぽんちょしょくじくそう、152.3×101.8センチ。だい7かい院展いんてん出品しゅっぴん舞妓まいこ衣装いしょうこまかい文様もんようからたたみひとつひとつまで克明こくめい描写びょうしゃした写実しゃじつせい特色とくしょく作品さくひんである。発表はっぴょうはその細密さいみつすぎる描写びょうしゃ話題わだいとなり賛否さんぴ両論りょうろんまねいた。横山よこやま大観たいかんはこの作品さくひん日本にっぽん伝統でんとうからはずれた「あく写実しゃじつ」と酷評こくひょうし、ふね院展いんてんから除名じょめいすべしとまで主張しゅちょうした[17]。そのためかふねはこの作品さくひん以降いこう人物じんぶつから長年ながねんにわたりとおざかる。
ほのおまい』(1925ねん大正たいしょう14ねん)、やましゅ美術館びじゅつかんぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
絹本けんぽんちょしょくがくそう(もとじくそう)、120.4×53.7センチ。ほのおせられているかのようにう、緻密ちみつ写実しゃじつ幻想げんそう融合ゆうごうした作品さくひん背景はいけいやみくろしゅぜ、礬水どうさ(どうさ)をかずに絵具えのぐきぬめんににじむようにしてえがいたもので、たんなるくろではないふかやみ表現ひょうげんしている[18]ふねはこの背景はいけいについて「もう一度いちどけとわれても二度にどとはせないいろ」だと、義兄ぎけい吉田よしだ幸三郎こうざぶろうかたった[19]えがかれている滞在たいざいさき軽井沢かるいざわ写生しゃせいしたもので、いずれの真正面ましょうめんきにえがかれているにもかかわらず、きてんでいるかんじを表現ひょうげんしている[20]ほのお描写びょうしゃには、日本にっぽん伝統でんとうてき絵巻物えまきもの仏画ぶつがほのお描写びょうしゃ影響えいきょう指摘してきされている[19]生物せいぶつ造詣ぞうけいふか昭和しょうわ天皇てんのうは、このて「きているね」とったという。ふねえがいた作品さくひんとして、『粧蛾まいおどけ』という作品さくひんがある(「昆虫こんちゅうだい」とだいする双幅そうふく作品さくひんひだりはばみぎはばは「かげ魔手ましゅ」というだい蜘蛛くもえがいた作品さくひん)。三島みしま由紀夫ゆきお小説しょうせつ金閣寺きんかくじ』の新潮しんちょう文庫ぶんこはんのカバーのデザインに起用きようされている。
 
みどりこけみどりしば』1928(昭和しょうわ3)ねんやましゅ美術館びじゅつかん
みどりこけみどりしば』(1928ねん昭和しょうわ3ねん)、やましゅ美術館びじゅつかんぞう
かみ本金ほんきんちょしょくよんきょく屏風びょうぶ一双いっそうかく172.6×362.4センチ。ひだりせきはアジサイと白兎しろうさぎみぎせき琵琶びわ青桐あおぎりくろねこえがく。装飾そうしょくてき構成こうせい単純たんじゅんされたモチーフの形態けいたいには琳派や西洋せいよう影響えいきょう指摘してきされる。
めい椿つばき』(1929ねん昭和しょうわ4ねん)、やましゅ美術館びじゅつかんぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
かみ本金ほんきんちょしょくきょく屏風びょうぶ一双いっそうかく167.9×169.6センチ。京都きょうときたにある地蔵じぞういん椿つばき老木ろうぼくえがいた作品さくひん日本にっぽん写実しゃじつてき部分ぶぶんに、大胆だいたんにもキュビズムにも表現ひょうげんれた意欲いよくさく背景はいけい金地きんじ金箔きんぱくでも金泥きんでいでもなく、「きつぶし」という技法ぎほうによるもので、金砂子きんすなごかねほそ)をいちめんらしたものである。これによって光沢こうたくおさえたフラットな金地きんじ実現じつげんしている[18]1977ねん昭和しょうわ52ねん)に『ほのおまい』ととも重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされ、昭和しょうわ美術びじゅつ作品さくひんとしてはじめての指定していとなった。
 
めい椿つばき』1929(昭和しょうわ4)ねんやましゅ美術館びじゅつかん

著作ちょさく

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速水はやみふね記念きねん切手きって発行はっこうされた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f やま﨑妙 2016, p. 162.
  2. ^ 速水はやみふね全貌ぜんぼう 日本にっぽん破壊はかい創造そうぞうやましゅ美術館びじゅつかん、「作品さくひん解説かいせつ」152ぺーじ
  3. ^ 別冊べっさつ太陽たいよう 日本にっぽんのこころ』161、p.129
  4. ^ a b c やま﨑妙 2016, p. 163.
  5. ^ a b 高橋たかはし美奈子みなこ 2016, pp. 138–141.
  6. ^ やま﨑妙 2016, p. 164.
  7. ^ a b 研究けんきゅう小話こばなし目利めききの系譜けいふII―下駄げたはなし―」谷内たにうちかつさとし群馬ぐんまもり美術館びじゅつかんニュース170ごう群馬ぐんま県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかん、2017ねん10がつ1にち、p3
  8. ^ 吉田よしだ幸三郎こうざぶろう独立どくりつ行政ぎょうせい法人ほうじん 国立こくりつ文化財ぶんかざい機構きこう 東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ
  9. ^ やま﨑妙速水はやみふね岸田きしだ劉生りゅうせい」『別冊べっさつ太陽たいよう 日本にっぽんのこころ』161、pp.50 - 52
  10. ^ やま﨑妙 2016, p. 167.
  11. ^ やま﨑妙 2016, p. 168.
  12. ^ a b やま﨑妙 2016, pp. 168–169.
  13. ^ やま﨑妙 2016, p. 169.
  14. ^ a b やま﨑妙 2016, p. 172.
  15. ^ 別冊べっさつ太陽たいよう 日本にっぽんのこころ』161、p.122
  16. ^ 櫛淵くしぶち豊子とよこ散逸さんいつをまぬがれた一大いちだいコレクション」『別冊べっさつ太陽たいよう 日本にっぽんのこころ』161、pp.126 - 127
  17. ^ 別冊べっさつ太陽たいよう 日本にっぽんのこころ』161、pp.133 - 134
  18. ^ a b みやまわり正明まさあき御舟みふね表現ひょうげん技法ぎほう」『別冊べっさつ太陽たいよう 日本にっぽんのこころ』161、pp.114 - 115
  19. ^ a b 別冊べっさつ太陽たいよう 日本にっぽんのこころ』161、p.62
  20. ^ 別冊べっさつ太陽たいよう 日本にっぽんのこころ』161、pp.120 - 121

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 現代げんだい日本にっぽん美術びじゅつ(14)速水はやみふね』 座右ざゆうたから刊行かんこうかいへん集英社しゅうえいしゃ
  • 速水はやみ御舟みふね 日本にっぽんを「破壊はかい」する」『別冊べっさつ太陽たいよう 日本にっぽんのこころ』161、平凡社へいぼんしゃ、2009ねん9がつ
  • 『もっとりたい速水はやみ御舟みふね 生涯しょうがい作品さくひん』<アート・ビギナーズ・コレクション>尾崎おざき正明まさあき監修かんしゅう東京とうきょう美術びじゅつ、2009ねん10がつ
  • やま﨑妙 (やましゅ美術館びじゅつかん館長かんちょう)、山下やました裕二ゆうじ (監修かんしゅう)高橋たかはし美奈子みなこ (やましゅ美術館びじゅつかん学芸がくげい部長ぶちょう)『速水はやみふね全貌ぜんぼう 日本にっぽん破壊はかい創造そうぞうやましゅ美術館びじゅつかん、2016ねん10がつ8にちISBN 978-4-907492-12-0国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID:027726660 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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