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山下知彦 - Wikipedia

山下やました 知彦ともひこ(やました ともひこ、1891ねん明治めいじ24ねん6月23にち - 1959ねん昭和しょうわ34ねん5月2にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん華族かぞく山下やました源太郎げんたろう養嗣子ようしし艦隊かんたい一員いちいんである海軍かいぐん大佐たいさ男爵だんしゃくである。

山下やました 知彦ともひこ
生誕せいたん 1891ねん6月23にち
日本の旗 日本にっぽん 高知こうちけん
死没しぼつ (1959-05-02) 1959ねん5月2にち(67さいぼつ
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1913ねん - 1936ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん大佐たいさ
除隊じょたい 内務ないむ大臣だいじん秘書官ひしょかん
墓所はかしょ 青山あおやま霊園れいえん立山たてやま墓地ぼち
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人物じんぶつ来歴らいれき

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略歴りゃくれき

高知こうちまれる。米沢よねざわ医師いし水野みずの廉平れんぺい次男じなん山本やまもと五十六いそろく夫人ふじん礼子あやこ従妹じゅうまい山下やました源太郎げんたろう長女ちょうじょ千鶴子ちづこ結婚けっこん山下やました養嗣子ようししとなる[1]米沢よねざわ中学ちゅうがく海軍兵学校かいぐんへいがっこう40卒業そつぎょう席次せきじは144めいちゅう30ばん山口やまぐち多聞たもん大西おおにしたき治郎じろう宇垣うがきまといらが同期生どうきせいである。1913ねん大正たいしょう2ねん)12月に少尉しょうい任官にんかん

だいいち世界せかい大戦たいせんでは「周防すおう乗組のりくみとして出征しゅっせいし、青島ちんたお攻略こうりゃくせん陸戦りくせんたい指揮しきしてこうきゅうじょせられた[2]山下やました砲術ほうじゅつ学校がっこう高等こうとう、および同校どうこう教官きょうかん養成ようせい課程かていである[3]専攻せんこう修了しゅうりょうした砲術ほうじゅつ専攻せんこう士官しかんで、同校どうこう教官きょうかんけい巡洋艦じゅんようかん球磨くま砲術ほうじゅつちょうなどをつとめた。1924ねん大正たいしょう13ねん)12月少佐しょうさ進級しんきゅうし、海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅ24すすむ。はら忠一ただかずくさ鹿しか龍之介りゅうのすけ山口やまぐち多聞たもんらが同期どうきであった。かんせい本部ほんぶいん軍事ぐんじ普及ふきゅう部員ぶいん造兵ぞうへい監督かんとくかんとして英国えいこく出張しゅっちょうとどこおえいちゅう当地とうち開催かいさいされたロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく会議かいぎ参加さんかしている。

1931ねん昭和しょうわ6ねん)2がつ帰朝きちょうし、予備よびかんとなっていたけい巡洋艦じゅんようかん那珂なか副長ふくちょう就任しゅうにん。8月には養父ようふ死去しきょともな襲爵しゅうしゃくした。かんせい本部ほんぶいん海軍かいぐん工廠こうしょう総務そうむ部員ぶいんて、1933ねん昭和しょうわ8ねん)5がつ大佐たいさ進級しんきゅう。この進級しんきゅう海兵かいへい同期生どうきせいのうち、首席しゅせき岡新おかしん山口やまぐち宇垣うがきより半年はんとしおくれたが、福留ふくとめしげる鈴木すずきよし多田ただ武雄たけおらのちに海軍かいぐん中央ちゅうおう要職ようしょくつとめるものよりもはやかった[4]給油きゅうゆかん剣崎けんざき艤装ぎそう委員いいんちょう[2]横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょう総務そうむ部長ぶちょう在任ざいにんちゅう1936ねん昭和しょうわ11ねん)、二・二六事件ににろくじけん勃発ぼっぱつ同年どうねん3がつ予備よびやく編入へんにゅうとなる。その1937ねん昭和しょうわ12ねん)12月から1939ねん昭和しょうわ14ねん)1がつまで内務ないむ大臣だいじん秘書官ひしょかんつとめた。

艦隊かんたい

山下やました陸軍りくぐんすめらぎどうちか人物じんぶつで、ロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくをめぐって分裂ぶんれつした海軍かいぐんにおいて艦隊かんたい一員いちいんとして活動かつどうした。ロンドン会議かいぎちゅう全権ぜんけん財部たからべあや不満ふまんいだき、随員ずいいん山口やまぐち多聞たもん財部たからべ刺殺しさつ協議きょうぎしている[5][6]山下やましたはこの協議きょうぎなかで、財部たからべ個人こじんではなく日本にっぽん全体ぜんたい問題もんだいであることにおもいたり、国家こっか革新かくしんかんがえるようになったという[6]帰国きこく山下やましたは、条約じょうやく将官しょうかん追放ついほう人事じんじ大角おおすみ人事じんじ)につき南雲なぐも忠一ただかずらと、ロンドン会議かいぎ首席しゅせき随員ずいいん左近さこん司政しせいさん辞職じしょくせま[7]条約じょうやく将官しょうかんについても加藤かとう寛治かんじ末次すえつぐ信正のぶまさ小林こばやし省三郎しょうさぶろう石川いしかわ信吾しんご加来かくとめおとこらと同調どうちょうして、追放ついほううごいたとかたっている[8][6]いち事件じけん被告ひこくには同情どうじょうてきで、横須賀よこすか工廠こうしょう総務そうむ部長ぶちょう時代じだい山下やました官舎かんしゃでは、しゅう1かい程度ていど若手わかて士官しかん会合かいごうたれ[9]小園こぞのやすしめいれられて参加さんかした大井おおいあつしによれば、いち事件じけん意義いぎ肯定こうていてきかたられていた[10]。またどう事件じけん関与かんよしたはやし正義まさよし裁判さいばん終了しゅうりょう山下やました面会めんかいし、そのかた内容ないよう感激かんげきおぼえている[6]二・二六事件ににろくじけん直後ちょくごすめらぎどう関係かんけいがあった、小林こばやし省三郎しょうさぶろう真崎まさき勝次かつじらとともに予備よびやく編入へんにゅうされた[11]が、縁戚えんせき関係かんけいにある山本やまもと五十六いそろく山下やました予備よびやく編入へんにゅう阻止そししようとうごく。しかし山下やました小林こばやし省三郎しょうさぶろうとのあいだわした文書ぶんしょであった[12]だいいち近衛このえないかく秘書官ひしょかんとして補佐ほさした内務ないむ大臣だいじんは、艦隊かんたい中心ちゅうしん人物じんぶつ一人ひとり末次すえつぐ信正のぶまさである。

米沢よねざわ

米沢よねざわ中学ちゅうがく海兵かいへい進学しんがくしゃをコンスタントに輩出はいしゅつしていたが、42から44進学しんがくしゃがいなかった。45山森やまもり亀之助かめのすけ(のち少将しょうしょう)は海兵かいへい在校ざいこうちゅう山下やました当時とうじ水野みずの)の指示しじ母校ぼこう手紙てがみき、これが校内こうないされたという。山森やまもりからこのはなしいた山下やました破顔一笑はがんいっしょうした。46からは海兵かいへい進学しんがくしゃつづき、山森やまもりはこの手紙てがみ海兵かいへい志願しがんしゃ奮起ふんきうながしたと回想かいそうしている。なお艦隊かんたい山下やました南雲なぐも忠一ただかず条約じょうやく左近さこん司政しせいさん小林こばやしひとし米沢よねざわ海軍かいぐん武官ぶかんかい会員かいいんである。

栄典えいてん

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出典しゅってん

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  1. ^ 大衆たいしゅう人事じんじろく 東京とうきょうへん』「山下やました知彦ともひこ
  2. ^ a b とお潮騒しおさい』p.79
  3. ^ 日本にっぽん海軍かいぐん戦略せんりゃく発想はっそう』p.18
  4. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 海軍かいぐんへん』「海兵かいへい40
  5. ^ 昭和しょうわ縦走じゅうそうする』p.58
  6. ^ a b c d 『5・15事件じけん』p.206
  7. ^ うみ白髪はくはつなれど』pp.73-74
  8. ^ 昭和しょうわ縦走じゅうそうする』p.61
  9. ^ 井上いのうえ成美まさみ』p.177
  10. ^ 提督ていとく 新見にいみ政一まさかず』p.151
  11. ^ 自伝じでんてき日本にっぽん海軍かいぐん始末しまつ』p.115
  12. ^ 海軍かいぐん昭和しょうわ』p.80
  13. ^ 官報かんぽうだい451ごう叙任じょにん及辞れい」1914ねん1がつ31にち
  14. ^ 官報かんぽうだい1040ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん1がつ22にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 井上いのうえ成美まさみ伝記でんき刊行かんこうかい へん井上いのうえ成美まさみ井上いのうえ成美まさみ伝記でんき刊行かんこうかい、1987ねん 
  • 杉本すぎもとけん海軍かいぐん昭和しょうわ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1982ねん 
  • 外山とやまみさおへん陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 海軍かいぐんへん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1981ねんISBN 4-8295-0003-4 
  • 高木たかぎそうきち自伝じでんてき日本にっぽん海軍かいぐん始末しまつ光人みつひとしゃ、1971ねん 
  • 千早ちはや正隆まさたか日本にっぽん海軍かいぐん戦略せんりゃく発想はっそう中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1995ねんISBN 4-12-202372-6 
  • 提督ていとく新見にいみ政一まさかず刊行かんこうかい提督ていとく新見にいみ政一まさかず 自伝じでん追想ついそうはら書房しょぼう、1995ねんISBN 4-562-02696-0 
  • はたいく昭和しょうわ縦走じゅうそうする』グラフしゃ、1984ねんISBN 4-7662-0068-3 
  • はたいく彦編『日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい
  • はやし正義まさよし『5・15事件じけんいち海軍かいぐん士官しかん青春せいしゅん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1974ねん 
  • 松野まつのりょうとらとお潮騒しおさい 米沢よねざわ海軍かいぐん系譜けいふ追憶ついおく米沢よねざわ海軍かいぐん武官ぶかんかい、1980ねん 
  • 松野まつのりょうとらうみ白髪はくはつなれど 奥羽おうう海軍かいぐん博文ひろぶみかんしんしゃ、1992ねんISBN 4-89177-945-4 
  • 明治めいじひゃくねん叢書そうしょだい74かん海軍兵学校かいぐんへいがっこう沿革えんかくはら書房しょぼう
  • 帝国ていこく秘密ひみつ探偵たんていしゃ大衆たいしゅう人事じんじろく 東京とうきょうへん』、1939ねん
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
山下やました源太郎げんたろう
男爵だんしゃく
山下やました源太郎げんたろうだい2だい
1931ねん - 1947ねん
次代じだい
華族かぞく制度せいど廃止はいし