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戒壇 - Wikipedia

戒壇かいだん

仏教ぶっきょうで、戒律かいりつさづけるための場所ばしょ
授戒じゅかいから転送てんそう

戒壇かいだん(かいだん)とは、仏教ぶっきょう用語ようごで、戒律かいりつさづける(授戒じゅかい)ための場所ばしょす。

戒壇かいだん戒律かいりつけるための結界けっかいつねととのった場所ばしょであり、授戒じゅかいけることで出家しゅっけもの正式せいしきそうあまとしてみとめられることになる。

日本にっぽん仏教ぶっきょうつたわったのは538ねんであるが、そのさいつたわった戒律かいりつは、不完全ふかんぜんなものであった。当時とうじ出家しゅっけぜい免除めんじょされていたため、ぜいのがれるために出家しゅっけして得度とくどけないやからわたしそう)がおおく、出家しゅっけといえど修行しゅぎょうもせず堕落だらくしたそうおおかった[1]。そのため、とうより鑑真がんじんまねかれ、戒律かいりつつたえられた。この戒律かいりつまもれるものだけがそうとしてみとめられることとなった。その結果けっか仏教ぶっきょうかい規律きりつまもられるようになった。鑑真がんじん754ねん東大寺とうだいじ戒壇かいだんきずき、同年どうねん4がつ聖武天皇しょうむてんのうをはじめ430にん授戒じゅかいおこなった。これが最初さいしょ戒壇かいだんである。その東大寺とうだいじ戒壇かいだんいん建立こんりゅうし、筑紫つくし大宰府だざいふ観世音寺かんぜおんじ下野げやこく現在げんざい栃木とちぎけん)の薬師寺やくしじ戒壇かいだんきずいた(天下てんかさん戒壇かいだん[2]

これ以降いこうそうになるためには、いずれかの戒壇かいだん授戒じゅかいして戒牒けることが必須ひっすとなり、くに国分寺こくぶんじ)がそう管理かんりすることになった。しかし、822ねん最澄さいちょう死後しご延暦寺えんりゃくじたいして戒壇かいだん勅許ちょっきょくだされ、戒壇かいだん建立こんりゅうされた。大乗だいじょう戒壇かいだんばれることもある。当時とうじは、中国ちゅうごく仏教ぶっきょうかい延暦寺えんりゃくじ大乗だいじょう戒壇かいだんを、戒壇かいだんとしてはみとめておらず、ここで受戒じゅかいしたそうは、道元どうげん禅師ぜんじれいにもあるように中国ちゅうごくでは僧侶そうりょとしてみとめられなかった。また、官立かんりつ寺院じいんかんてら)ではない延暦寺えんりゃくじ山内さんない戒壇かいだん設置せっちみとめられたことに、東大寺とうだいじをはじめとする南都なんと奈良なら)の寺院じいん反発はんぱついだき、両者りょうしゃ対立たいりつ原因げんいんひとつとなった[3]

大乗だいじょう戒壇かいだん権力けんりょく闘争とうそう原因げんいんともなり、天台宗てんだいしゅう山門さんもん寺門てらかどあらそいは有名ゆうめいである。また、戒壇かいだん授戒じゅかいけた僧侶そうりょなかにも修行しゅぎょうもせず堕落だらくした僧侶そうりょおおくなった。鎌倉かまくら時代ときよ叡尊えいぞん元々もともと真言しんごんそうであったが、のち鑑真がんじんつたえたりつむねまなんで両者りょうしゃ統合とうごうした真言しんごんりつむねこし、さん戒壇かいだん延暦寺えんりゃくじ戒壇かいだん実態じったいうしなって授戒じゅかいおこなうにあたいしないと批判ひはんして、戒律かいりつのっとって結界けっかいきずただしい手順てじゅんしたがって儀式ぎしきおこなえば授戒じゅかい成立せいりつするととなえ、みずか仲間なかまとともに東大寺とうだいじにおいてあらためて授戒じゅかいおこない、さら西大寺さいだいじ独自どくじ戒壇かいだん創設そうせつした[4]つづいて、延暦寺えんりゃくじ僧侶そうりょであったえんかん比叡山ひえいざんはなれて独自どくじ戒壇かいだんいた。以後いご南都なんと延暦寺えんりゃくじ対立たいりつするかたち成立せいりつした鎌倉かまくら仏教ぶっきょう独自どくじ得度とくど授戒じゅかい儀式ぎしきおこなうようになっていった。その一方いっぽうで、東大寺とうだいじ延暦寺えんりゃくじ戒壇かいだん由緒ゆいしょあるものとして尊重そんちょうされ[5]江戸えど時代じだいわりまで授戒じゅかいおこなわれていた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ただし、当時とうじ得度とくど人数にんずうきびしく制限せいげんされていたために、わたしそうのまま修行しゅぎょうおこなそうすくなからずいたこともあきらかにされている。
  2. ^ ただし、当時とうじさん戒壇かいだんでは女子じょし授戒じゅかいみとめておらず、延暦寺えんりゃくじもこれにならったために、鎌倉かまくら時代じだい諸派しょは独自どくじ授戒じゅかいおこなうまであま正式せいしき僧侶そうりょとして否認ひにんされていた時代じだいながつづくことになる。
  3. ^ 奈良なら東大寺とうだいじやその影響えいきょうけたさん戒壇かいだんなどを小乗しょうじょう戒壇かいだん呼称こしょうする場合ばあいもあるが、「小乗しょうじょう」には「大乗だいじょう偉大いだいおしえ)」に反対はんたいするおとったかんがえという意味合いみあいもふくまれているため、適切てきせつ呼称こしょうではない。一説いっせつには延暦寺えんりゃくじ戒壇かいだんみとめようとしない南都なんと寺院じいんたいする延暦寺えんりゃくじがわ反感はんかんからまれた呼称こしょうとする。
  4. ^ 叡尊えいそんてんきみこう嵯峨さが上皇じょうこう執権しっけん北条ほうじょうよりゆき帰依きえけていたことから、西大寺さいだいじ戒壇かいだん事実じじつじょう黙認もくにんされた。また、法華寺ほっけじあま戒壇かいだんもうけてあまへの授戒じゅかい復興ふっこうした。
  5. ^ 各地かくち戒壇かいだん成立せいりつしたあとも朝廷ちょうてい公式こうしきではさん戒壇かいだん延暦寺えんりゃくじでの授戒じゅかいしゃのみしか参列さんれつゆるされなかった。このため、室町むろまち幕府ばくふそうろくなどににんじられた臨済宗りんざいしゅう五山ごさん禅僧ぜんそう禅僧ぜんそうとしての授戒じゅかいほか延暦寺えんりゃくじ東大寺とうだいじでも授戒じゅかいけている。これにたいして西大寺さいだいじ以下いか国家こっか公認こうにん戒壇かいだん出身しゅっしんしゃおも社会しゃかいへの布教ふきょう活動かつどう従事じゅうじしていくことになる。


参考さんこう文献ぶんけん

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  • 松尾まつおつよし勧進かんじん破戒はかい中世ちゅうせい 中世ちゅうせい仏教ぶっきょう実像じつぞう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1995ねんISBN 4642027505

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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